海の日の連休惨歌2009年07月18日

 せっかくの海の日の3連休も悪天候で台なしとなった。 
 白山釈迦から七倉山辺りをほっつき歩いてみたかったのだが・・・・。
 登山計画は中止。しかし、他の連中は富士山、会津駒ヶ岳と出かけた。つわものである。関東方面はそんなに悪くないようだ。中々戦略的である。高速は結構渋滞している。しかし、当方もじっと沈没して居れないので20日に晴れそうな期待で三方岩岳辺りでも行ってみるかと思う。
 雲の平から赤牛岳縦走計画の詰めを行う。続いて上の廊下の文献を読む。『日本登山体系』5剣岳・黒部・立山によるとあっさり書いてあるが大変な困難なルートに違いない。泳ぎ、へつり、高巻と1級の沢登り技術に体力、沢での生活技術などが要る。そういうことを踏まえたうえで書いてある訳である。
 地元に住む知人にアドバイスを貰ったら5級のレベルという。岩の友人にどの程度か聞いたらかなりな程度の高さと脅された。おまけに沢靴で攀じ、ザイル、生活道具、食料などを担いで溯るのだ。持たなくていいのは水くらいだろう。
 9月末といえば雨量も減り、好条件であるが高い所では雪が降る。かつて同時期に中央アルプスの沢の1700m付近でビバークした際も沢靴が凍結した。尾瀬では雪が降っていた。レベルよりも何よりも総合力であり、気象条件の見極めが大切なんだと思った。

梅雨明けの白山北縦走路・三方岩岳を歩く2009年07月20日

 20日の梅雨明けを見込んで19日の夕方出発。いつもより早いので庄川ICで降りて白川のしらみずの湯に入湯した。テントサイトを探すためにR156から大窪を廻るが濡れた草地で先行者がいた。目当ての東屋も先住者がいてパス。鳩ヶ谷に下り、道の駅に落ち着いた。裏のPも路面は濡れていたので軒先でシュラフだけで仮眠した。
 朝早く起きてゆっくり食事を済ます。朝霧が空に蒸散するような現象を見るとやっぱり梅雨は明けたかな、と思う。スーパー林道の開通は午前7時なのでジャストで行く。走っていくと霧の上に出た感じがした。つまり雲海を突き抜けたのである。久し振りに真っ青な空を仰いだ。稜線には笈ヶ岳、大笠山などが見えてきた。1445mの三方岩岳Pに着いた。閑散としている。尾張小牧No、石川ナンバーなど3台ほど。
 支度中にもドンドン増えてきた。我々も支度を終えて7:50出発。登山道は広めで歩きやすい。ニッコウキスゲ、ギボウシ、ゴゼンタチバナなども見る。三方岩岳頂上へは8:33着。笈ヶ岳の写真は何枚も撮ったし、遠く剣岳から乗鞍岳までの北アルプスが勢ぞろいした壮観な眺めは何時みても感動する。
 一休み後、野谷荘司へ出発。登山道脇のササユリが美しい。毎年草刈がなされるが正に今日からやっている。遠くからチエーンソーの音が聞こえてくる。ササユリだけは残そう、との心遣いなのである。地図には馬狩荘司の名前があるがピーク感はない。激しいアップダウンを繰り返しながら鶴平新道の分岐に着いた。10分弱で野谷荘司の山頂であった。
 白山の残雪がかなり多そうである。そのためか今年は涼しい気がする。昨年も同時期に登ったがみなバテてしまい、S君は野谷荘司で待機し他は空身で妙法山を往復した。そんなことを思い出して野谷ならぬ野垂れ荘司だなあ、なんて馬鹿な冗談を交わした。               その中に若い連中が登ってきて山頂を占拠してしまったので我々は下山した。三方岩岳まで戻るとパトロール2名とS君が歓談している。聞けば飛騨山岳会の人らで、白山の飛騨側のパトロール中であった。さすがにプロだけによく知っていた。
 スーパー林道に戻ると満車状態であった。期間限定で2500円の通行料が適用されている効果であろうか。
 鳩ヶ谷に戻るとS君がまだ通過した事がないという天生峠越えをやった。R360である。羊腸の道を河合村の山里にでた。あとはひたすらR41へでるためにR360を走ったが素晴らしい道路が開通していた。一部、旧道のままの所もあったが意外な速さでR41に出た。猪谷の交差点からは茂住(もずみ)間で走り、今回で3回目の句碑探索を試みた。2箇所ある大きな山崩れを乗り越え、4箇所の小さな山抜け跡をたどること10分強で念願の句碑に着いた。前回は手前で引き返した。傘を手に長靴で30分も歩いたが中途で諦めた。今回は登山靴で行ったから足元がしっかりして歩きやすい。岩崩れの堆石の跡はアルプス級の山道ならよく経験するがたかが句碑で本格的に足元を固めるなんて・・・と思う。
 句碑は大きな自然石の面に彫られた。江戸時代のものと伝えられる。これをアルピニストで日本山岳会初代会長の小島烏水が訪ね、山岳俳人の前田普羅も訪ねたものである。それにしては岐阜県も神岡町も整備もせずに放置したままなのが気になった。
 往復1時間を覚悟で行ったが実際は30分で済んだ。17時過ぎ、ようやく名古屋に向って走った。今回は高速を使わずR41を通して帰名した。下呂温泉の風呂に久々に使った。たまのR41ドライブもいいじゃないか。

梅雨明け2009年07月21日

  草刈やササユリだけは刈り残す

  梅雨明けて突き抜けるごと青い空

  雲海やことに目を引く剣岳

  白山に雪渓の筋あまた見ぬ

  遠目にもニッコウキスゲ色したり

加藤歩簫の文字書岩を訪ねて2009年07月21日

 加藤歩簫の文字書岩は高原川左岸の西茂住にある。東茂住側を走るR41から橋を渡ると神岡鉄道の茂住駅であるが2006年に廃線となった。今は廃駅である。赤錆の鉄路が引退を拒否するかのように頑張っている。
 句碑へは駅から左折して細い道を走る。道と線路の間に山家が建っている。道路は山家を離れて一旦高まり、また下って登り返すと新猪谷ダムの堰堤で終点になっている。その先は歩道である。右山、左ダム湖で急斜面に作られた北陸電力の鉄塔巡視路として整備されている。
 新猪谷ダム堰堤の北電巡視路入口から徒歩約10分強のところにあった。途中、岩崩れの大規模な箇所2箇所と小規模な4箇所が難儀といえるが登山経験者なら大した危険を感じることはない。むしろダム湖への転落の危険の方が大きいだろう。
 待望の文字書岩の岩陰には神岡町の立てた案内板が置いてあった。以前は立っていただろうが雪で倒れて岩陰に入れたのだろう。そこにはこう書いてある。
「 県 指 定
  史   跡   加藤歩簫文字書岩
              (凡兆岩)
        
              昭和三十五年三月三十日指定

     芭蕉十哲の一人、凡兆(加賀の生れ)が元禄のはじめ

    越中から飛騨に入ろうとして道を中街道にとった

    この街道は昔から難所として知られており、ようやく

    この地まで来たが先に進むことができず、そのとき

    夕暮れ迫る渓谷の絶景に感動して

       「わしの巣の樟のかれ枝に日は入ぬ」  

    の句を残して引き返したと伝えられる。

     一八一六年(文化十三年)飛騨高山の国学者で俳人

    でもあった加藤歩簫が船津の俳人北沢桃逕を

    伴ってこの地を探り、山肌に露出した自然の

    大岩石に大書し彫刻させたものである。

       平成四年十一月

                  神岡町教育委員会        」

小島烏水と凡兆岩2009年07月21日

 小島烏水『アルピニストの手記』(平凡社ライブラリー951)の目次には「飛騨山中にある凡兆の句碑」とある。
 P178に「だが、飛騨山中における凡兆の「鷲の巣」ぐらい、四囲の自然と情景が融合しているとおもわれるものは、おそらくないであろう。」と述べている。すると本人が見に来たかのような書き方であるが「しかるに、さも見てきたように、岩の所在地や、四囲の状況を、ここにしるすことを得たのは、一に小峰大羽氏の示教による」と書いている。
 いかにも小島らしい文献の用い方である。明治三十三年以来乗鞍岳に登山するために初めて越中から飛騨入りしていらい、数回に及んだという。「私は山に夢中になって「鷲の巣」の詞書にある籠の渡しの旧跡を、通行しながらほど遠からぬところに「文字書き岩」のあることを知りもせず素通りしてしまった。中略。本文は自然その懺悔のために書かれる。とまあ、大上段に構えたものです。
 県指定とはなったがかつて地誌『飛騨山川』(明治44年発刊)に「西漆山のところに、俳人凡兆が俳句を刻せる字書き岩というものあれど、今は訪う人もまれなり」とあるそうだ。当時でも人気はなかったから今はもうすっかり忘れられた句碑になった。
 登山家の烏水がなぜこんな句碑に興味を抱いたのか。高山市図書館のサイトからコピーさせてもらうと
「医師にして郷土史研究家の岡村利平が明治44年に住伊書店から出した『飛騨山川』は、飛騨の気候風土、名所旧跡、物産などを紹介したもので、小島烏水や垣内松三が序を寄せるなど、発行以来、地誌として評価の高かったものである。この中で利平は、それぞれの地にゆかりのある史書や文人達の詩歌、地理に関する所見などを取り上げており、文学的、博物学的にも大変興趣のある内容となっています。」
とあるので登山家というよりは旅行家の一面があり、それなら見逃すことは悔しかったとは思う。

「黒部川 上の廊下」の研究2009年07月25日

◎関根幸次、中庄谷直、岩崎元郎編『日本百名谷』白山書房(昭和58年)68番目P144-145に記載。
遡行ガイド 
第1日目黒四ダム~平の渡し場7時間又は針の木峠経由10時間東沢出合
第2日目東沢出合 4時間 上の黒ビンガ 4時間 岩苔小谷出合
第3日目岩苔小谷出合 5時間 薬師沢出合 4時間 祖父平
第4日目祖父平 3時間 三俣山荘 10時間 葛温泉
標高差1500m 水平距離15km
登攀的要素は少ない
水量、天候の状況判断、徒渉技術、RFなどの総合的な登山技術を要する
ザイル 7m/mX20mのロープで可
三つ道具は余り必要とされない
8月上旬から9月中旬
◎白山書房編『関東周辺の沢』(平成元年6月)P300-301
4級上 4泊5日
ザイル40m
標高差1300m 水平距離24km
◎岳人554号(1993年8月号)盛夏特集「涼!!黒部源流を行く」
目で見る黒部上ノ廊下溯行君もチャレンジ!!P43-45
・豪雨があれば命を懸けた敗退行となる
・増水で黒ビンガで敗退2回
・ようやく溯行した時は天気が悪く、途中から水量が増し、脱出するのが精一杯・・・・
・入渓前の気象状況の把握が成功の鍵
・奥黒部ヒュッテで状況を伺う
・水量が少ない時でもいきなり股下くらいの徒渉で始まる
・黒ビンガ   昔は半日も大高巻きしたが    水線沿いに腰から胸まで浸かり、へつり、時に淵を泳いで行けば突破できる
・ライフジャケットは今や必携の道具
・事故は優しいところで起き易い
・天候の見通しが立たないときは潔く諦めること。甘い見込みから事故が多発している。
・ザイル操作に習熟した気力、体力充実した上級者のみに許される谷である
・予備日を1~2日設ける

沢登り経験の棚卸し
①最大最長の沢登り:中央アルプス・細尾沢から木曽駒に登る。宝剣を経て三の沢岳への鞍部から伊奈川を下降する。ここで沢中2泊初体験。技術的困難はなかった。
②最高度の沢登り:中央アルプス・三の沢左又遡行。沢中1泊で4級程度の壁も登攀。上部では厳しかった。又宝剣沢も本岳沢の分岐付近で4級程度の登攀を強いられる。岩登りの要素あり。
③難易度の高さ:奥美濃・銚子洞。1度は増水とRFの失敗で敗退。死亡事故も当山域では最高に多い。悪絶さを以って奥美濃の黒部と評される。沢中1泊。
④泳ぎの多い沢:奥美濃・西ヶ洞。入渓してしばらくで深い淵を泳ぐ。へつりも多い。最後は大高巻を強いられた。滝は余りなくてイメージでは上の廊下に近い感じである。沢中1泊。
⑤泳ぎ、へつり、高巻、河原歩き:鈴鹿・愛知川遡行。東海では変化に富んだ沢登りのメッカ。
⑥徒渉の多い沢:南アルプス・小渋川。赤石岳に登るためのアプローチとして長い川の徒渉が昔から有名でw・ウエストンも通過している。時に腰まで浸かる。流れの急な箇所もあった。

結局、上ノ廊下でも沢中2泊であること、泳ぎ、徒渉、懸垂下降、高巻を繰り返すことなどから天気や水量、気温さえクリアできれば何とかなる気がする。
 もっとも不安なのは9月後半は降雪の恐れが充分にあることだ。中央アルプスの御所平(標高1800M前後)でも同時期に2泊したが2日目の朝はフエルトシューズが凍結していた。尾瀬では雪とのことだった。北アルプスのど真ん中なら雪であろう。

北海道の山の遭難事故の反省点2009年07月25日

 トムラウシ山周辺で起きた10名もの山岳遭難の報道も沈静化してきた。落ち着いて考えると全員が遭難死したわけではない。生死を分けたものは何だったのか。
 概要はトムラウシ山のパーティーはアミューズトラベルを通じて参加した男性5人、女性10人と、男性ガイド3人の計18人。年齢は32~70歳。客15人は愛知県5人、広島県4人、静岡県2人のほか、宮城、岐阜、岡山、山口の各県から1人ずつ参加。内5人が自力下山。女性7名、男性1名が死亡。

 ①雨具の下にフリースを着込むなどして風と寒さに自ら対応した。
 ②リーダーが当事者能力を失ったことを知ってパーティーから離脱し、自力下山を強行した。
 ③死亡した人は若いリーダーを信じてついて行ったが体力が続かず凍死した。

 登山では「自己責任」がよく言われる。山での事故と弁当は自分持ちというわけだ。山岳会でも入会時に誓約書を書かせるなどで対応している所もある。
 今回でも旅行の形をとるが自分の生命を賭して行く山旅では自己責任が再確認されるだろう。幼い子供を引率する学校登山ではこうは言って居れないので学校にすべての責任が課される。その結果今や学校登山は姿を消したのではないか。
 ツアー会社を利用するに当ってもコース研究、自分の体力に合うかどうか、適切な装備のチエック、気象判断などは必要である。厳しいがお客様として甘えは許されない。A社でガイドを務めたことがある仲間の話では必要な水さえ持参しないお客が居るようだ。そんな不心得なお客のために余分な水も持参するのがガイドの実態のようだ。またある仲間はお客として焼岳に参加したが雨でも登らされたそうである。
 ある意味で山岳会より厳しく、きつい、危険なのがツアー登山であろう。その背景にはもちろん一つでも多く百名山を踏破したいという思いが強くある。大多数のお客が望むなら雨でも強行登山するのだ。
 だから体力といっても晴れた日にコースを標準時間で踏破できるレベルでなく、いざアクシデントがあればビバークにも耐えられる体力が必要であろう。それは残念ながら加齢するほどに弱くなる。登山歴何十年でも関係はない。自分を知って山を知って危険を回避する知恵こそベテラン登山者のありようだろう。
 今回の事態を観察すると山の危険を知らずに参加するお客と百名山ブームに便乗するツアー会社の弱点も浮ぶ。もっとガイドに権限を持たせること、お客への登山教育も必要と感じた。
 以前から感じたことはこのような百名山踏破の目標を持った登山は依然として危ないことであった。あといくつで満願達成とか、あといくつでもう止めるからその前に何としても、この登山が終ったら引退するとか、70歳までに登っておきたいとか過去にそんなことで死んだ友人知人が多かった。目標があると冷静になれないのである。
 ある人は至仏山だけを残して登り終えたという。こんな余裕と茶目っ気が欲しいものである。

続・「黒部川上ノ廊下」の研究2009年07月26日

◎岳人721号(2007年7月号)第1特集「日本の溪スタンダード10」でP16-17に収録。本図一統氏が執筆。
・渡船は1日5回出船時間を確認する(重要:水との戦いの前にスムースな入渓が時間ロスをなくし、余裕ある遡行を可能にする)
・遡行は急流との戦いに終始する
・奥黒部ヒュッテの主人から平水より10cm水位が高いという情報を得ている(重要:山のことは山を良く知る人に聞く)
・岳人531号(1991年9月号)のブッシュ山の会の女9人で上の廊下の遡行に入る前にここで「雨も少ないので大丈夫」との情報を得て成功。
・本図パーティは下ノ黒ビンガは泳ぎで突破。口元のタル沢出合い上のゴルジュは急流に数回押し流されて左岸を巻いた。
・雨による増水のために停滞している(重要:この谷の遡行では予備日は形だけのものではない)
・4日目も増水による困難を押して進むも渓流シューズが破損。高天ヶ原にエスケープした。(重要:岩苔小谷に入り、最初の10mの滝手前の右岸から入る枝沢を登るとペンキ印があり、そこから踏み跡を辿れば高天ヶ原に出られる)
・本図氏らはアクシデントもあって完全に遡行はしていないがかえって参考にはなった。水位が高いと彼らでさえ困難だった。おまけに遡行中に雨による増水のために停滞まで余儀なくされている。計画に当っては是非織り込みたい。
・高巻となると地元の知人の話では5級のレベルのクライミング技術が要求されるとか。とにかく上へ上へと追い上げられないようにしたい。
参考:知人のY氏から寄せられたコメント
ブログの「黒部上の廊下」遡行…8月下旬から9月までが水量が少なく最適です。でも、条件が悪いと岩場五級の力が必要で大変です。
どんなルートでも○Xさんなら大丈夫!山は山を知っている人の味方です。山は逃げないので、天候を確認してゆっくりゆっくり…ですよね。
辛夷主宰であった中島杏子先生はこの周辺を全て踏破されています。流石、山岳史研究の第一人者ですね。
・岳人のバックナンバーにはこの他にもクライマーファミリーで挑んだケース、水遊び専門のパーティが沢やとは違った技術で挑んだケースなど成功例はあるがこの位にしておこう。成功の陰に隠された失敗例も多々あるに違いない。
教訓の整理をしておこう
1、渡船の時刻チエック
2、奥黒部ヒュッテで水位の確認ー水位の高低が成否を決める。高巻か泳ぐかでは時間ロスが違う。大雨、台風の直後は計画を見直す。
3、入渓前の天気情報のチエックー甘い見通しは失敗する。行けるところまで行く、といった溪ではない。引き返すにも時間がかかる。
4、体調のチエック
5、冷たい水に対応できる着衣、ライフジャケットの着用ーこれは新調しなければならない。自分は同行者よりも高齢であることを考慮すると冷たい水温に対応する力は弱いだろう。ネオプレン系の着衣が出回っているので購入したい。
6、沢での登攀技術、生活技術、装備の総点検
7、計画には予備日の設定が必須ー中高年であることを考慮するとこれまでの記録どおりには行かない気がする。登攀技術、体力、泳ぎなどどこをとっても普段から充分なトレーニングを重ねている訳ではない。
8、エスケープルートの地図上でのチエック
9、以上を勘案した緻密な計画書の作成

9年ぶりの東海豪雨再来か2009年07月27日

 振り返れば9年単位で豪雨(異常気象)があるのでしょうか。91年、00年、09年と変な夏の再来です。
 1991年に豪雨があり天白区野並地区が水没しました。元々天白川の河原を堤防で区切り、出来た土地です。
 想像するといわゆる池袋形であっただろうと思われる。天白川本流は広い河原で蛇行を繰り返し、今の勤務先のある辺りまでは河原だったと思われる。実際周辺はすべて砂地である。池袋の部分が洪水を防ぐ役目をしていたと思う。溢れた水の一時待機箇所だったわけだ。
 そんな自然の地形を人工的に狭めてしまった。河原だった辺りを埋め立ててしまえばいいがそのままだから水が溜まりやすい。そこでポンプ場を設けて排水をする体制でいた。ところが豪雨はポンプ場の燃料タンクを水没させてしまい、エンジンが止まると排水が出来ず、水は溜まる一方である。これは後に改良された。この時は音聞橋が壊れた。これも後に新設された。
 2000年9月に東海地方を未曾有の豪雨が襲った。これが東海豪雨である。この時も野並は水没した。10年を待たずに2度も水没した。このときもポンプ場までの道路が水没したかで作業員が入れず、排水が出来なかったようだ。再び野並は広大な池になり、小船で往来する姿を何度も目撃した。後に名古屋市に対して訴訟が起こされたが原告は敗訴となる。水害は予測できないのだ。
 2回ともマンションの12階から川の流れを見ると堤防すれすれまで来ていた。堤防と地面の高さの違いはここから始まるので溢れたら大規模な水害が発生するだろう。
 堤防で囲い込んでいくと長年の土砂の堆積で天井川化して行く。水位は上がる一方である。一戸建ての住宅では2階辺りを川が流れている感じである。溢れたら一階部分は水没するだろう。大変なことになる。
 今日までの降り方をみていると2回の豪雨時を思い出させる。車を高台に引越ししようかと真剣に考えたものだ。
 かつてなかったことが何故起きるのか。推測では日進市や上流地域の市街地化の促進であろう。かつては水田の水利に用いられた溜め池も今は埋まり,新しく住宅地となった。雑木林も切開かれて造成されて住宅地になった。日進町から日進市に昇格したのも人口増であり、住宅、ビル、コンクリートの道路などが新設されてゆく。
 野並より高い場所の住宅地化も見逃せない。大規模団地がかなり建っている。周辺には大小の池がまだ残る。埋めた池もあるだろう。住宅地では降った雨はコンクリートの側溝から直ちに排水し、河川に流れ込む。おまけに本流に流れ込んだ雨水は狭くなった川幅を猛烈な勢いで海に流れていく。
 もし、満潮で豪雨となれば伊勢湾台風並みの被害の再来もありうる。自然の林、水田、ため池も減った現代では都市は危険になっていく気がする。治山治水は永遠の課題であるが治街治水も重要な課題となった。治水対策として野並に近い公園の下に大規模な貯水池を建設していたが機能するだろうか。

七月の俳句2009年07月28日

   定年の語に一夏の深まりぬ

   明け易し定年の特集を読む

   レース編むてう懐かしき歌を聴く

   梅雨明けぬまま七月の雲り勝ち

   七月やエルニーニョに押されがち

   湾の波かぶさるごとき夕立かな(鍋田干拓)

   安眠を打ち破るごとき蝉時雨