おちょぼさんへ行く2021年02月28日

 今日は春霞の1日となった。三密を回避するために有名寺社の初詣も自粛していた。そろそろ商売の方も巻き返す時期がきたので海津のおちょぼさんことお千代保稲荷へ参拝に行った。東名阪道からの鈴鹿山脈は全山雲の中に隠れていた。
 待機すること30分くらいで無料駐車場に停めることができたからそんなに人手はないのだろう。ただし、参道に出ると閑散ではない。結構な人手がある。特に子供連れが多かった。
 油揚げとロウソクを買って本殿にお参りを済ませる。ここは行列ができていた。参拝後は隣の古堂にも名刺とお賽銭を投げた。税理士さんの名刺が多い。ここは税理士さんら自営業者のメッカなのである。
 2010年の開業以来何年か続けていたが確かにご利益はあった。コンスタントに売上があり、大金が必要な時には必ず手助けがあり、一等地である丸の内の一角に自己保有の事務所を構えることができたのもおちょぼさんのおかげである。ここしばらく、3年くらい参拝をさぼったせいで、2019年から業績不振が続いた。2021年から巻き返すぞ、と祈願した。
 参拝後には必ず買うのが、白菜のお漬物である。スーパーのは飽きて食べ残しが出るがここのは旨いので完食する。他に粘り強く生きようと、「伊勢芋」を買った。伊勢芋は野生的なほど粘り強い。スーパーでは中々見かけない。道の駅、田舎の農協などでチエックするが無いことが多い。
 というわけで春爛漫の半日を春浅き濃尾平野に過ごした。

東濃・田代山を歩く2021年02月07日

 笹平登山口から黒の田湿地を経由して田代山へ登った。フキノトウやフクジュソウにでも出会えないか、と思った。40年くらい前に一等三角点研究会に入り、一等からしらみつぶしに登り始めた。
 屏風山は初期に登った。あの頃は地図からは分からず、ガイドブックと同志の情報交換が頼りだった。だから入会する理由があったわけだが、今では全国の一覧がネットで知ることができる。それでもマニアックな山は研究会の情報が貴重である。黒の田湿地も初めてではないと思うがもう歩いた記憶はない。先日の雪が少しだけあり、春は未だしの感がある。フキノトウすら会えなかった。
 田代山へは湿地から良い道が上がっている。旧牧場からくる道との合流地点前はやや不明瞭である。田代山の南西のコブは約829mあり、これを越えて登り返すと山頂だ。
 田代山は古い記録では819mであるが今は820.0mになった。3等三角点が埋まるが樹林の中で展望は皆無である。
 帰路は合流地点まで戻り、直進すると田代山高原牧場の廃墟へ下ってゆく。途中に牛の水飲み場跡があった。さらに下ると左へ電波塔への舗装路に出会う。電波塔へは行かず、そのまま下ると右手に牛舎の廃墟があった。廃墟の裏の819mのコブへは踏み跡がある。猪の罠が仕掛けてあるところで終点。そこから植林の中の尾根を辿るが、踏み跡はない。GPSで確認しながら下ると荒れているが深い踏み跡が出て来た。古い杣道だろう。尾根を忠実にたどる。地形が複雑で行きつ戻りして688mの4等三角点(笹平)を確認して、道の無い尾根を下って笹平の山里に出た。読図力がためされる。GPSが必須だった。
 笹平は中山間地域で圃場整理が行き届いた美しい山里だった。Pへ戻る際に媼に挨拶した。94歳というから亡母と同じだ。母は若くして死んだが存命なこんな風に生きているんだろう。孤絶された山里で一人生きることはできまい。嫁が気を使って声をかけてくれるという。言葉はしっかりしており、世の中のことも見ている。
 狭いたんぼを圃場整理されたはいいが、田植え機、耕運機など機械の購入と修理代が大変かさむと嘆く。年金をつぎ込んでいるんだともいう。今の農業は農協の管理下にあり、イネも苗で買うし、種も買うのである。昭和30年代の私の実家ではトウモロコシやなすびの種をいつも保存していたものだった。その上に肥料や機械類もみなカネがかかるのだ。嘆かわしい話を打ち切ってPへ戻った。
 時間が早かったので恵那駅前の「あまから本店」に行き、だんごタイプの五平餅を食べに行った。検索すると恵那市は多数の店がヒットするので山へ行くたびに食べ比べしてみたい。特徴は三河のわらじ形の味噌だれではなく、だんご形で醤油ベースのクルミだれである。クルミのコクとゴマの風味がうまい一品だった。店内で食していると次々に客が来て10本、20本と買っていく。たかがご飯をだんごにして串に刺し、炭火で焼いただけなのに愛されているんだと思った。瑞浪市他にも支店をだすほどの繁盛ぶりである。

久々に鶏飯をつくる2021年02月06日

 久々に鶏飯を食べたくなった。親鳥が入荷しておれば作ろうとスーパーへ出かける。外は寒いがものすごくいい天気である。ホントは山行きだったが深夜遅くまで読書で朝起きられなかったのである。
 親鳥はあった。ごぼう、にんじんを下ごしらえする。フライパンでそれらの具材を炒める。脂は別に買った鳥皮を炒めてとった。火が通ったところで砂糖と醤油で調味する。別に炊いてある白飯に混ぜ込んでかき回すと出来上がる。ごはんはいつもより水を減らしたからぱりっとした炊き上がりになった。親鳥の肉のコクがしみ込んで美味しい。ごぼうの香りもしっかり。人参の色どりもカロチンの栄養価が高い。
 加えて、店頭でワカメの新物をみたので買いおく。量的には多めなので刻んで、一人分づつ、ポリ袋に小分けして、今日の分は別にして残りは冷凍した。前に買ったあさり汁に入れた。食べると体から悪いものが発散していくような気がする。
 栄養は「食物繊維(乾燥重量の約40%)、脂質、ミネラル」のほか、「アルギン酸は整腸作用やコレステロール低下作用が有名で、その確かな効果から、アルギン酸を添加した特定保健用食品も販売されています。フコイダンは、がん細胞の増殖を抑制する作用などが知られています。」というから侮れない。
 実は干しワカメも塩蔵品も備蓄はあるのだが、ワカメの旬は「わかめを採取する時期は大体2月頃から始まり、五月頃最盛期を迎えます。 寒中に生えてくる新芽を生で食べるのが、もっとももおいしいといわれています。」というわけで今である。

群馬県嬬恋村スキー行珍道中②2021年01月30日

1/25 つま恋の丘から浅間山が見える。「嬬恋の宿 あいさい」に着く
・・・以前に見たことがあるが雪山はまた別です。宿は欧風の建物で吹き抜けが大胆。温泉も2階にあり移動は少なくて済む。料理はフランス料理風で多種で少量の御馳走をいただく。

1/26 晴天のパルコールつまごいスキー場で滑りまくる
・・・朝9時に宿を出て1日スキー場で遊べた。ホントに久々のゲレンデスキー三昧。夕食はやはり地物の野菜、魚、肉が少量づつ出されて上品な味わいだった。

1/27 荒天のスキー場で午後は打ち切り
・・・天気が持ったのは午前中だけであった。ゴンドラで上がってもゆらゆら揺れたから低気圧が通過中と聞いた。ゴンドラもリフトも横風に弱い。夕食は今日で3回目だが同じものは出さない。メニューの工夫が大変だな。

1/28 「嬬恋の宿 あいさい」を去る
・・・スキー宿が快適で良かった。ゲレンデは1日半だけは楽しめた。参加メンバーも多くは入れ替わった。常連だった会員も高齢には勝てない。自分もそうなる。9時過ぎに宿を出発。

群馬県嬬恋村スキー行珍道中(五平餅の道)①2021年01月29日

 1/25から1/28までは群馬県嬬恋村に宿をとり、15人ばかりが関東や関西から集まってスキー懇親会を楽しんだ。とはいえ、このご時勢であるから山岳会は関与せず、個人の任意の集会ということになった。当初は20人程度が5人減ったという。
 名古屋は朝6時に出発。最初はR153で伊那へ周り北上する予定が、スマホのナビはどういうわけか豊田市でR419へ行け、と案内する。治部坂峠経由の計画はナビに負けて岐阜県へ迂回し、岐阜県の山間部沿いの県道を走って恵那市へ出た。道の駅や売店の五平餅の看板が気になった。

 後はR19をひた走る。国道沿いの吉野家で朝食をとる。
 次は塩尻の手前の洗馬駅付近からR19を出よ、とのガイダンスがあり不思議に思いながら走った。すると最初は川沿いの道やごちゃごちゃした市街地を走ったが、次第に田園地帯へ誘導された。どこをどう走ったかは記憶にないが梓川にぶつかり、倭橋南という信号で梓川右岸へ右折したことは覚えている。
 地図で見ると松本空港の西側を走ったようだ。洗馬から奈良井川を渡り、アルプスグリーンロードをたどり、道の駅「今井恵みの里」にも寄ったことを思い出した。買うものはなかったが地物野菜がたっぷりあった。その後は梓川沿いにはしりR254へ誘導されて、上田市へ。R254から県道176へ、再びR152へと。大屋でR18を突っ切り、県道176で田園地帯を迂回しながら真田でR144(幸村街道)に入ると後は鳥居峠を越えて群馬県へ行く。真田付近からは以前の記憶があるのでスムーズだった。
 菅平への分岐からすぐのところにある「峠のおやき なかざわ」の看板に「五平餅」があるのが気になった。(有)ナカザワ商店の出店で本店は上田市市街にある。写真で見ると三河のそれと同じ形である。

 「上田市 五平餅」でググると
「五平もちは長野県の木曽地方や伊那地方に伝わる郷土料理で、炊いたうるち米を潰したものに、タレをつけて串焼きにしたもの。かつては豊作への願いと、その感謝を込めて、神前に供えられたといわれており、今でも長野ではハレの日や大切なもてなしの席に欠かせないものだ。扁平な楕円形が一般的だが、円形のものや円盤型を複数刺したもの、団子状のものなど、地域によって形が異なり、タレもすりつぶしたくるみが入った味噌味や、くるみとゴマをすりつぶしてあわせた醤油味、ゆずや山椒を入れて風味を出したものなど、様々なものがある。」

 南信州ナビHPの五平餅は「飯田の五平餅の特徴
https://msnav.com/navi/tokusan/food/goheimochi
 「五平もちには地域によって餅や串の形、付けるタレなど何種類かあります。一般的には、団子型もしくはわらじ型に整形し、串に刺して焼き、味噌や醤油をベースにし胡桃や胡麻、山椒の芽などを加えたタレを付けて作ります。現在飯田で作られている五平もちには、主に眼鏡型とわらじ型があるほか、御幣を模した波形をした五平もちもあります。こうした様々な形の五平もちを、ひとつの地域で味わえるのは南信州だけです。」という。
 どうやら南信州が本場だったみたいですね。飯田市のHPには味の文化財とまで書いています。
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/goheimochi.html

豊田五平餅学会まであるらしい。
http://www.toyota-go-hey.jp/history/kigen.html

塩の道は五平餅の道
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/1955?page=3

五平餅わが食ふ手つき可笑しとて皆が打ち笑ふわらわば笑へ 依田秋圃2021年01月19日

鳳来寺山 おかめ茶屋の五平餅
 五平餅を口いっぱいにほおばるのは楽しい。

奥三河の山と人を愛した林業技術者にして歌人の依田秋圃に

  ”五平餅わが食ふ手つき可笑しとて
         皆が打ち笑ふわらわば笑へ”

(「歌集 山野」から明治44年)という歌がある。明治44年は1911年なので110年前の歌である。
 たぶん、五平餅の大きさは大人の手のひらくらいはあるから口の周りに味噌だれがついてしまう。それを笑われたのである。なるだけ付けないように持ち方を変える。そこをまた笑われるというのだろう。

鳳来寺山を歩く2021年01月16日

 鳳来寺山の歴史は古い。ネットで断片的な情報を集めてみた。

  鳳来寺は、歴史ある「真言宗五智教団」の寺院。703年「利修仙人」が祈祷により天皇の御病気を治し、そのお礼として創建されたと伝わるお寺です。1648年には、鳳来寺を家康誕生ゆかりの地として崇める徳川家光によって、日本三大東照宮とも言われる鳳来寺山東照宮が建設されました。(ヤマハックのHPから)

・・・愛知県のうちの三河の三霊山は猿投山、六所山、三河本宮山である。「三河国三霊山とは、三河国、今の愛知県豊田市・豊川市にある三つの山の総称で、古来より御神体あるいはそれに準じる神聖な山として、信仰の対象になってきた山々。本宮山・猿投山・六所山の三つで、それぞれの山頂や山麓には砥鹿神社・猿投神社・六所神社が鎮座する。
 三河国なので当然ではあるが、松平氏、徳川氏との関わりが深く、徳川家康などが崇敬した、あるいは参拝したことでも知られる古社となっている。」以下に列挙すると。

1 猿投山
 『日本書紀』には、大碓命は景行天皇に東征を命じられたが、これを恐れて逃亡したため美濃国に封じられたとある。宝亀10年(779年)に編纂された縁起書によれば、大碓命は景行天皇52年に猿投山中で蛇毒のために42歳で死去し、山上に葬られたという。猿投山西峯にある西宮の背後に大碓命の墓がある。社伝によれば、仲哀天皇元年に勅願により現在地に創建。

2 六所山
 六所山は古来より猿投山・本宮山と共に三河国三霊山のひとつとされ、山自体が神体とされて大山積神(オオヤマツミ)など6柱の祭神が奉祀されていた。現在でも字金姓の小台地にたたずむ一の鳥居は、六所山を遙拝するのに最も適した場所にあり、古代、この地に最初期の遙拝所が建てられたものとも推察し得る。後に社殿の築造という仏教文化に由来する概念が国内に浸透し、六所山山頂にも社殿が築かれることになるのは遅くとも平安時代末期頃。

3 三河本宮山
 砥鹿神社は,文武天皇(もんむてんのう)の時代,701年(大宝元)天皇の使者としてこの地に来た草鹿砥公宣卿(くさかどきんのぶきょう)が本宮山の山中で不思議な老人に会い,その指示で創建されたものと伝わっている。本宮山頂には砥鹿神社の奥宮がまつられている。その神は大己貴命(おおなむちのみこと)でいつのころからか三河国の一宮とされ,10世紀初頭に書かれた延喜式(えんぎしき)の中にも記載されている。

・・・今回登った鳳来寺山は703年とあり、三河三霊山に入るべき歴史がある。立松和平『百霊峰巡礼』(東京新聞出版局)には本宮山と鳳来寺山は入っているが猿投山と六所山は除外された。

4 鳳来寺山
 文武天皇が病にかかられたときには、鳳凰に乗って都に行き、祈祷によって天皇のご病気を治したため、大宝3年(703年)に天皇からお礼に寺を立てられ、この寺を鳳来寺と命名し鳳来寺が誕生したとされています。 大宝3年(703年)、理趣(利修)仙人によって開かれた真言宗の古刹。
 ウィキペディアでは「寺伝では大宝2年(702年)に利修仙人が開山したと伝える。利修は霊木の杉から本尊・薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、四天王を彫刻したとも伝わる。文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承があり、鳳来寺という寺名及び山名の由来となっている。利修の17日間の加持祈祷が功を奏したか、天皇は快癒。この功によって伽藍が建立されたという。」
 鳳来寺山のメインコースとなる表参道の特徴は、なんと言っても1425段もの石段を越えていくところ。そのため標高は低いですが、登りごたえは十分です。山中では霊山らしい史跡や寺社をはじめ松尾芭蕉や若山牧水の句碑や歌碑も多く点在。見どころが多いので、登山客を飽きさせることのないコースになっています。
以上

・・・どの山もいずれ劣らぬ古い歴史を誇る。中でも本宮山は標高も高く、山麓から見えることが信仰を集める大きな要素であろう。三河富士の秀麗な山容も大きい。猿投山も三河の山とはいえ、尾張からランドマークのようによく見える。名古屋のテレビ塔のような存在に等しい。しかしながら鳳来寺山は今でこそドライブウェイで簡単に行けるが往時は深山の趣があったであろう。4座の中では一番険路である。六所山は存在感が一番希薄である。
1本宮山789m
2鳳来寺山684m
3猿投山630m
4六所山611m
と標高でも歴史でも見劣りする。何で霊山と崇められたか、といえば徳川(松平)発祥の地ということが大きいだろう。つまり政治的なバックアップがあったのでしょう。
 この四霊山の中で門前町を構えたほどの盛り上がりがあったのは鳳来寺山だけだった。本宮山は何ら痕跡はない。猿投山もない。六所山もない。そしてドライブウェイが出来たのも鳳来寺山と本宮山だけだった。
 しかし、禍福は糾える縄のごとし、たくさんの参拝客が増えたので東照宮や鳳来寺はお賽銭が増えただろう。社屋の改築も車道で楽にできるようになった。ところが1971年(昭和46年)の鳳来寺パークウェイの開通と同時に門前町は寂れてゆくことになった。
 1969年(昭和44年)というから開通する2年前に作家の深田久弥が登っている。『山頂の憩い』という本の中に鳳来寺山の紀行がある。1425段の石段を登り切って、鳳来寺の新設の堂を見ている。
 ウィキには「大正3年(1914年)に本堂を焼失したが、昭和49年(1974年)に再建」とある。5年ほどのずれがある。パークウェイの建設と本堂の再建は同時進行していた気がする。まず物資を運ぶ道路を建設させて堂を建設にかかる。作業員も通いやすい。道路を作業のためにだけではもったいないから観光道路化しようというアイデアかも知れん。
 歴史的には徳川のバックアップで東照宮も作られた。その管理は鳳来寺の住職らが担っていた。ところが明治維新でいきなり廃仏毀釈の洗礼を浴びる。鳳来寺は廃れ、東照宮は延命する。石段の途中には数多くの僧坊跡があったが衰退の一途をたどったのである。
 門前町の入り口にあたる「三の門」の駐車場は実は田口鉄道の鳳来寺駅跡だったのである。今も名残りをとどめるのは角にある「おかめ茶屋」さんである。

遠州・小笠山を歩く2021年01月09日

 朝5時起きし、出発。大高町の丸の内の交差点で県道59号からR23に左折するところをうっかり直進してしまったので戻って入り直す。早朝というのに大型トラックがひっきりなしに疾走してゆく。文字通り日本の大動脈である。ここはスマホのナビに留意しながら右寄りに行く。知多道路、名二環、伊勢湾岸道、最後は豊明でR1に分かれるとR23のみとなる。蒲郡で一旦R247に出て再びR23に合流。豊橋市の外れで豊橋バイパスの高架に入ると豊橋市の南の工業地帯、農村地帯を大きく迂回し静岡県の境で再びR1と合流。小高い丘からは黒い富士山が見える。
 後は静岡県になるとR1を走り潮見坂を経由しながら東進。浜名湖の今切口をまたいぐ浜名バイパスを行く。天竜川に沿って大きく左旋回すると浜松市に入る。天竜川を渡ると磐田バイパス、袋井バイパスと続く。適当な出口で出て、袋井市街地を目指すと吉野家があったので温かい朝食をと思ったが、7時開店なのに7時30分でも開店していない。8時まででもまだ準備中だった。別の牛丼屋へ行った。スマホを法多山に指示して向かう。
 参道の入り口付近は有料駐車場があって手招きで誘う。ハイキングで半日くらいは止めさせてくれるか、と聞くと皆ノーであった。参道に近いところのPで、半日止めても良いか、というとOKを出してくれた。一番奥へと案内された。もう正月は過ぎたというのにひっきりなしに参拝客が押し寄せてくる。

  こんな寒い日でも山麓の法多山尊永寺は多くの参拝者で賑わっていた。参道の入り口で自動で体温チエックし、マスク着用で参道を歩き、参拝しました。途中で団子売りばへ立ち寄った。登山前なので荷物になるものは買えないので後にした。
 本堂の屋根が蒼穹の空に映えて美しい。1300年の歴史を誇るだけのことはある。
 その後登山道を探すために本堂の裏にも回ったが分からない。地形図をよく見ると墓地の間を抜けるようだ。入り口が分かりにくいが奥ではよく踏まれた道になりました。小笠山は尊永寺から北の尾根に取り付き、172mのコブに上がった。ここには宮標石がある。また愛野駅からの道標もありこちらがメインルートと思われる。
 樹齢のある常緑樹のかぶさる登山道を行くと三ッ峯への分岐になり往復。後は小刻みなアップダウンを繰り返す。腹擦峠で一休みした。登り返すと221mに到達。東経138度展望台は富士山を眺められる。浜松市から島田市まで東西の展望が良い。掛川駅からのハイキングルートと合流。小笠山はすぐだった。樹林に囲まれて展望はない。400m下ると小笠神社に行く。戻って、地蔵尾根(中尾根)を下山した。162mとの鞍部から北へ急坂を下る。滑落しそうなくらい滑りやすい。県道へ出て法多山へ登り返すと無事周回登山を果たして下山しました。Pの叔父さんにお礼を述べて帰った。
 後は名物の団子を買うのだが、車では境内に入れさせてもらえず、おじさんに聞くとPから下ると製造元があるからそこで買えるよと教えてくれた。首尾よく買えてほっとした。600円。賞味期限は1/10で日持ちしないのが玉に瑕。
 ヤマップの累積標高は830m、5時間50分で11.1km歩きました。

若狭・庄部谷山を歩く①2020年11月29日

粟柄越関所跡の碑
 朝4時30分起床、名古屋ICは5時30分、養老SAでトイレタイムの際に下着を1枚着こんだ。余りに寒い。若狭美浜ICは7時30分通過、R27を走り、新庄へ左折した。耳川に沿う県道213号はほぼ直線路である。沖積平野に広がる田には稲刈り後の切り株に青い穂が生え、ひつじ田と呼んでいる。これも枯れてしまう。
 新庄まで走るとまたちょっと谷間の村が広がる。野坂岳と庄部谷山の水を集めた横谷川が押し出した沖積平野である。村の中央を走る県道の中央には雪解け用の湧水装置が埋めてあり雪深い地区と分かる。増永廸男『福井の山150』は山スキーを履き、新庄の発電所の先から尾根に取り付いている。804mを経由して登頂している。スキーが使えるほどの雪が降るのである。
 新庄を過ぎると県道は狭隘な感じで寂しい。この先にまだ人の住む山里があるかしらんといつも電線と電話線を探している。あるあると行くと松屋に着いた。
 地名はこの村の生活史、自然史を語る。まったくの想像であるが一定の標高以下はおそらく薪炭林であっただろう。炭焼きの山だったのだ。炭焼きにちょうど良い太さで伐採する。後はまた生えるに任せる。落葉も薪や畑の肥料に持ち帰る。地味がやせてくると松を植える。松もまた有用な樹種である。
 松田、松井、松川、松本、松山、松岡、松尾、松坂などは松を利用した結果の地名であろう。松は腐りにくいから水に強いので田んぼを造成する際は焼いて、地中に打ち込み水平に土砂を均した。奥三河には焼松という三角点があり、山間の谷間に棚田を作る際に使われた。後年甫場整理で拡張すると古い焼松が出てくるという。
 松屋からは左折して舗装された林道を走る。384mへ直登する印はないかと探りながら走ったがない。粟柄越の関所跡という立派な石碑があり何となくそこをPにした。すぐ先に三差路があり、左折すると東尾根にをからむ林道の入り口であった。

鯖寿司を食う2020年11月23日

 11月22日は若狭駒ヶ岳に登山後、旧朽木村の中心だった高島市朽木市場に行った。朽木温泉に入湯するためだ。
 R367は若狭小浜から続くいわゆる鯖街道である。市場までは狭隘な山岳路が一気に広がる。南から流れてきた安曇川がここで東に直角に曲がる。しかも狭いので市場は氾濫河原となって土砂が堆積したであろう。水が引けば利用しやすい平地だから、人々は洪水を恐れながらも住み着いた。
 こんな山間部で信号待ち、渋滞とは。目指す温泉は蛇谷ヶ峰901、5m の北麓にあった。Pは満車。マスクを着け、検温されて入館。温泉は温まりゆったりした。
 入湯後、折角だからと道の駅の売店で鯖寿司を買った。鯖街道に来たからにはこれだ。栃餅も買ってしまった。またR367を戻った。R161の今津から木之本までは大渋滞になった。名神も渋滞なのでほとんど地道で帰名。
 一晩冷蔵庫には入れずに置いて、23日の遅い朝食と早めの昼食の時間帯に食べた。旨かった。鯖は余り厚みはないが、酸っぱさがなく、よくなれた感じ。すし飯が多くて大変だが醤油をつけると美味しい。下味に昆布をつかっているのだろうか。