山岳古道⑩2021年04月10日

 17時30分から、JACの古道調査事業のZOOMミーティングが始まった。東京本部、全国から関係者が59人に参加して、PTリーダーから説明、質疑応答などインターネットを介して会議をした。たった今、18時45分ごろ終了した。
 全部で200以上の古道が提案された。それから120を選定して記録として残す。2年余りあるがあっという間に過ぎるのでさっそく取り掛かることになる。
 どうしても関西周辺、東海周辺、中部山岳に偏在することになる。中国、四国、九州は少なく、長崎県、佐賀県がゼロ、和歌山県が1つしかないことに懸念が示された。しかし他県の会員でも良いので推薦することはできる。もっと集まると思う。
 調査にはGPSログを残すことが必須という方針が示された。ここが現代的です。アバウトではなく、明細に調べることになる。

悠々とユーラシアの夢九山忌 拙作2021年03月21日

 九山は深田久弥の俳号。

雑学ねた帳には「昭和時代の小説家・登山家である深田久弥(ふかだ きゅうや)の1971年(昭和46年)の忌日。

「九山忌(きゅうざんき)」の名称は、山をこよなく愛した深田の俳号「九山」に由来する。
 深田久弥について
1903年(明治36年)3月11日、石川県江沼郡大聖寺町(現:加賀市)に長男として生まれる。東京帝国大学文学部哲学科を中退。

在学中は改造社に勤務し、1930年(昭和5年)に『オロッコの娘』などの小説を発表。これらの作品が好評を得て、同年に大学を中退して作家生活に入る。その一方で各地の山を登山する。

1933年(昭和8年)に小林秀雄らと「文学界」を創刊。1935年(昭和10年)に日本山岳会に入会。小説『鎌倉夫人』(1937年)、『知と愛』『贋修道院』(1939年)、『親友』(1943年)などを刊行。

1944年(昭和19年)に応召し、中国各地を転戦。復員後は越後湯沢、金沢などを転々とし、のち東京に転居。山岳随筆やヒマラヤ研究に力を注ぐ。1965年(昭和39年)に『日本百名山』で第16回読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞。

1968年(昭和43年)に日本山岳会副会長に就任。1971年(昭和46年)、登山中の茅ヶ岳(山梨県)頂上近くにて、脳卒中で急逝。68歳。その場所には「深田久弥先生終焉の地」と表記された石碑が建てられている。
著書には随筆紀行集『山岳展望』(1937年)、『山頂山麓』(1942年)、『わが山々』(1948年)、ヒマラヤ紀行文『ヒマラヤ 山と人』(1956年)、『雲の上の道 わがヒマラヤ紀行』(1959年)、『ヒマラヤの高峰』(全5巻と別巻 1964~1966年)など。没後に『山の文学全集』(全12巻 1974~1975年)、『九山句集』(1978年)などが刊行された。」

と解説があった。

群馬県嬬恋村スキー行珍道中②2021年01月30日

1/25 つま恋の丘から浅間山が見える。「嬬恋の宿 あいさい」に着く
・・・以前に見たことがあるが雪山はまた別です。宿は欧風の建物で吹き抜けが大胆。温泉も2階にあり移動は少なくて済む。料理はフランス料理風で多種で少量の御馳走をいただく。

1/26 晴天のパルコールつまごいスキー場で滑りまくる
・・・朝9時に宿を出て1日スキー場で遊べた。ホントに久々のゲレンデスキー三昧。夕食はやはり地物の野菜、魚、肉が少量づつ出されて上品な味わいだった。

1/27 荒天のスキー場で午後は打ち切り
・・・天気が持ったのは午前中だけであった。ゴンドラで上がってもゆらゆら揺れたから低気圧が通過中と聞いた。ゴンドラもリフトも横風に弱い。夕食は今日で3回目だが同じものは出さない。メニューの工夫が大変だな。

1/28 「嬬恋の宿 あいさい」を去る
・・・スキー宿が快適で良かった。ゲレンデは1日半だけは楽しめた。参加メンバーも多くは入れ替わった。常連だった会員も高齢には勝てない。自分もそうなる。9時過ぎに宿を出発。

『山・自然との対話』 日本山岳写真協会東海支部 創設40周年記念写真展を見学2020年11月17日

 愛知県美術館8Fで今日から開催された山岳写真展を見学してきました。いずれ劣らぬ大作、力作、傑作、佳作揃いでした。入場無料。11月23日まで。Kさん、Sさんらが対応に大わらわでした。Hさん(女性)にもお会いしました。こんなイベントでもないと中々会えません。
 Kさんの話ではFさん(女性)が9月に亡くなられたと知りました。山岳写真が大好きな88歳くらいだったと思います。それもそのはずで、父親は登山家で毎日新聞の有名なカメラマンでした。名古屋生まれの富豪で山岳映画の嚆矢として冬の黒部の山岳景観を映画化した伊藤孝一の映画フィルムを発掘したことで知られています。

『山と溪谷』誌11月号2020年10月21日

 10/15に発売した「山と溪谷」誌11月号の売れ行きはどうかと、ジュンク堂栄地下店へ見に行った。発売時5冊以上は在ったが、1週間後の今は2冊残っていた。山岳書コーナーにまわって1冊あった『分県登山ガイド 愛知県の山』の在庫が無いことが分かった。相乗効果で売れたみたいです。やっぱり地元の山が取り上げられると、一度は登った山であっても買われるみたいだ。

トレラン遭難・・・行方不明になると2020年10月17日

 10/11に白山の楽々新道をたどるトレランのトレーニングに出かけたまま帰宅しない登山者がいる。10/14に警察の捜索は打ち切りになり今は家族が民間に切り替えた。現在はヤマレコで家族の中の娘さんが情報収集に懸命である。
 当会のブログにも掲載して拡散する協力をした。ささやかだが1人の人間の人脈は未知から未知へとつながって膨大な人数に拡散されてゆく。しかもインターネットは今や日常になった。多数の人が少しでも知れば拡散される。
 有益な情報がなくても捜索ボランティアに名乗りを上げる人も出てくるだろう。今はプロが2人、元捜索隊員だった人などが続々加わっているらしい。降雪期の初めでまだ少しは助かった。
 高い山ではもう降雪である。当然白山も降っている。トレランは装備を極端に切り詰めるからもしもの際は無防備で発見されても悲しい結果になるかも知れない。
 50歳代なので家族もあり、養育費もかかる年代だ。行方不明のままだと、職場は解雇、退職金はスズメの涙、給料は不明日以降は支給されず、相続はできない。金融機関の口座は遺産分割協議ができるまでは解約も凍結される。相続手続きは家裁に失踪宣告を申し立てて7年後になる。特例はあるのだろうか。
 行方不明は余りにも高い代償を払うことになる。

オイル交換も世相を反映している2020年10月15日

 マイカーのエンジン音が大きくなってきた。今日はオートバックスでオイル交換を頼んだ。エンジン音はコンディションを伝えてくる。もう換えておくれよ、との合図である。
 思えば、今年2月以来4800km走行していた。大体4000km前後でやるが、4月から今まで遠方へのドライブはしてこなかった。月平均800kmだから1日では26kmくらいになる。丸の内の事務所を往復するとそれくらいにはなる。事務所へも散発的に行っただけだった。買い物と通勤がほとんどであった。
 6月までは感染予防で地下鉄、バスの利用はせず、マイカーと自転車のみだった。名城公園に路駐してそこから丸の内に通ったが駐車違反を取られた。痛かったがコロナに冒されるよりは安くあがっただろう。その自転車も前輪が暑さでパンクしたのでタイヤ毎交換したばかり。おカネは出て行くばかりだが何事もメンテナンスは大切。
 皆が外出自粛していた4月から5月は軽油代も100円割れしていたが最近は107円から112円と上がり始めている。それだけ需要があり経済が活発化の兆しを見せているのだろう。
 何か明るい話は無いものか。
 そういえば、「山と溪谷」誌11月号が先日届いた。ちょっとだけ日帰り登山の企画に関与させてもらった。この企画もコロナ禍があったればこそ発想された。小屋泊まりの登山はどこも前年比2割から3割だったらしい。その分低山に行く。低山では遭難が激増中である。何にしても自分の名前が掲載されると良いものです。これは明るい話です。

原稿書き進む2020年09月14日

 あれだけあった原稿の空白がほぼ埋まってきた。完全に埋まれば今度は推敲ということになる。後2から3日はかかりそうだ。気温が朝夕で25℃くらいまで下がってきた。夕方はもう薄暗いから日没は確実に早まった。その分気温が下がるのは道理である。そして体温と同程度だった気温が25℃まで下がると脳細胞も活性化するのか。仕事が進む。
 疲労感はない。夏バテというほどでもないがシャキッとしない。倦怠感を解消するために先週からどくだみ茶を飲み始めた。これまでの水出しのお茶から日常的に飲むお茶を変えたら早速反応があり、便通が良くなってきた。これも後押ししているのだろう。

休日出勤2020年09月13日

 日曜日だが、今日も原稿書きを進めた。朝からマイカーで行く。日曜はコインパーキングも駐禁も解除されるので至近距離で利用できる。本文は1山のみ残して何とか書けた。データなど付随の項目はガイドブックの転記でも良いので気楽だ。

飛騨の山と「高校三年生」の歌詞のハルニレ2020年09月12日

 猪臥山の原稿を書いているとき、不図思い出したのが、下山路で見た「ハルニレ」の木だった。これは中学2年か3年のころ大ヒットした「高校三年生」の歌詞の2節目に出てくる♯ニレの木陰に♪のニレであると知った。それで『東海・北陸の200秀山』を読むと何と私が書いていた。そしてニレのことも書いているではないか。
 今度の原稿にも是非書いておかねばなるまい。作詞したのは丘灯至夫(1917年2月8日 - 2009年11月24日)で、福島県田村郡小野新町(現小野町)の出身なので、ニレが普通に生えているのだろう。
 小野町ではきちんと「丘灯至夫記念館」とホームページを設けて顕彰している。
 略歴をコピペさせてもらう。
大正 6年 0歳 2月8日福島県田村郡小野新町(現小野町)に西田屋旅館(現存)に西山亀太郎、モトの六男として生まれる
昭和 4年 12歳 福島県郡山市金透小学校尋常科を卒業
昭和 7年 15歳 福島県郡山市立郡山商工学校(現・福島県立郡山商業高等学校)商業科を卒業
昭和10年 18歳 詩人・西條八十に師事 詩、歌謡、童謡などの作詞の道に入る
昭和16年 24歳 日本放送協会(NHK)郡山放送局に入局 17年退社
昭和17年 25歳 毎日新聞社(東京)に入社 福島支局記者として勤務
昭和24年 32歳 日本コロムビア株式会社専属作詞家となる
昭和38年 46歳 「高校三年生」(舟木一夫・歌)他の作詞により日本レコード大賞作詞賞を受賞
昭和39年 47歳 童謡「ワン・ツー・スリー・ゴー」(交通安全の歌)補作により日本レコード大賞童謡賞を受賞
昭和47年 55歳 毎日新聞社を定年退職 出版局特別嘱託となる(終身名誉職員)
昭和57年 65歳 地方自治功労により福島県田村郡小野町特別功労表彰を受ける
昭和63年 71歳 芸術文化功労により勲四等瑞宝章受賞
平成 2年 74歳 県外在住功労者知事表彰を受ける
平成13年 85歳 福島県小野町 名誉町民第1号
平成21年 92歳 11月24日永眠
以上
 次はハルニレです。
 国土交通省北海道開発局のHPには
「ハルニレは北海道を代表する木のひとつで、「エルム」ともよばれる落葉樹。川沿いなどの湿った土地によく育ちます。豊頃町を流れる十勝川河川敷に立つハルニレは、樹齢が130年以上にもなり、まちのシンボルとなっています。紅葉も終わり、すっかり葉を落としたハルニレは、どこかホッとしているように見えました。」とありました。
 どうやら北の木なんですね。

 木の情報発信基地には
「ニレ科ニレ属。落葉高木。北海道、本州、四国、九州さらにサハリン、朝 鮮、中国などに分布する。高さ20-25m、直径50-60cmになる。大きなものは高さ30m、直径100cmに達する。ハルニレは、アイヌのユーカラ神話では、美しい女神とされていて、それにみとれた雷神が足をすべらせ、その上に落ち、女神は身ごもり、人の祖先であるアイヌラックが生まれたとされている。
 また、別名アカダモとも呼ばれ、元来東北地方から入った方言名である。ヤチダモあるいはアオダモの類ではと勘違いしかねないが、まったく関係はない。葉は互生、長さ3-12cm、葉縁に二重きょ歯がある。花は早春に黄緑色の小さい花を葉に先立って古枝の先に咲かせる。翼果は長さ10-16mmの膜質の倒卵形で、種子は翼上部にある。年輪が明瞭な環孔材。心材は暗褐色、辺材は褐色をおびた灰白色である。木理がはっきりしているので、コブや根に近い箇所にはとくに美しい杢が出る。重く硬い。切削・加工はやや困難であるが、曲げに強いので、曲木には適している。耐朽・保存性は高くない。用途として、家具、器具、車輌、単板などがある。淡泊な木材が好まれる場合には、ムクの木材として、また天然木化粧単板の材料としても使われる。」