疲労回復 ― 2024年12月30日
昨日のスキー行の疲れでぐっすり眠れた。天然温泉のお陰もあって筋肉痛は少ない。好きなことを気の合った仲間同士で楽しんだことでコロナ禍の間に溜まったストレスも解消できた気分がある。
今日は年内最後のゴミ出しの日。朝8時には起きて可燃ごみと資源ごみビン、缶を出しに出た。管理組合の小屋も12/31から1/6までは施錠するという。不心得者が居るからだ。
昼間は今年最後の株式相場を見た。386円安の39894円で終わった。それでも年間の終値としては「6430円値上がりした。2年連続で前年を上回り、年末の株価としては、バブル期の1989年に付けた3万8915円を超え、35年ぶりに史上最高値を更新した。」と記事にある。
夕方には新聞代の集金人が来た。新聞を取ろうか止めようか迷うが取ることにした。夜になってから買い物に出かけた。ついでに喫茶店に寄る。520円に値上げ後は行かなかった。久々に入ったら500円に戻っていた。さすがに高いと見て客足が遠のいたのだろう。
今日は年内最後のゴミ出しの日。朝8時には起きて可燃ごみと資源ごみビン、缶を出しに出た。管理組合の小屋も12/31から1/6までは施錠するという。不心得者が居るからだ。
昼間は今年最後の株式相場を見た。386円安の39894円で終わった。それでも年間の終値としては「6430円値上がりした。2年連続で前年を上回り、年末の株価としては、バブル期の1989年に付けた3万8915円を超え、35年ぶりに史上最高値を更新した。」と記事にある。
夕方には新聞代の集金人が来た。新聞を取ろうか止めようか迷うが取ることにした。夜になってから買い物に出かけた。ついでに喫茶店に寄る。520円に値上げ後は行かなかった。久々に入ったら500円に戻っていた。さすがに高いと見て客足が遠のいたのだろう。
パッキング ― 2024年08月12日
明日のミニハイキングのパッキングを整えた。暑いのでペットボトルに水を半分強入れて冷凍を4本仕込んだ。明日の朝はこれを取り出してクーラーボックスに入れるとお茶の冷温を保つのに良い。他に足の痙攣に備えてシャクヤクカンゾウトウ、虫除けスプレー、携帯用蚊取り線香、麦わら帽子の少し破れかかった部分をビニールテープで補修した。また下山後の着替えのTシャツ、半ズボン、タオルなども準備した。
道の駅木曽福島で車中泊 ― 2024年07月05日
埼玉県の中古車販売業者のQに実車を見に行くことになった。100万円以上の大きな買い物をするのにインターネット上の写真や情報だけで判断するには心もとない。
メールでのやり取りで7/6の午後1時に訪問の予定を告げた。片道約400kmあるので覚悟がいる。せっかくだから埼玉県皆野町も訪問したい。俳人金子兜太のふるさとである。インターネットで見ると約350kmある。皆野町から埼玉県の業者まえでは約65kmあるから合計で415kmある。逆算すると前夜発で出発する必要がある。
午後10時半に出発。スマホのナビは瀬戸市上品野町を経由する。かつて荷馬に塩を載せて運んだ塩の道であり、中馬街道である。山岳道路をひたすら走って恵那でR19号に合流。午前2になり御岳山への入り口の手前にある道の駅で車中泊とした。ここも標高が高い割には少し暑いのでバックドアに棒を挟んで隙間を確保した。幸い蚊は居ないので仮眠は安らかだ。7/6の午前4時に再度出発。
メールでのやり取りで7/6の午後1時に訪問の予定を告げた。片道約400kmあるので覚悟がいる。せっかくだから埼玉県皆野町も訪問したい。俳人金子兜太のふるさとである。インターネットで見ると約350kmある。皆野町から埼玉県の業者まえでは約65kmあるから合計で415kmある。逆算すると前夜発で出発する必要がある。
午後10時半に出発。スマホのナビは瀬戸市上品野町を経由する。かつて荷馬に塩を載せて運んだ塩の道であり、中馬街道である。山岳道路をひたすら走って恵那でR19号に合流。午前2になり御岳山への入り口の手前にある道の駅で車中泊とした。ここも標高が高い割には少し暑いのでバックドアに棒を挟んで隙間を確保した。幸い蚊は居ないので仮眠は安らかだ。7/6の午前4時に再度出発。
沢始め・旧坂内村の沢を歩く① ― 2024年05月25日
25日夕方発。奥美濃の山も久しぶりのことだ。旧坂内村の中心地の手前の坂本を左折。白川に沿う県道を走る。かつては揖斐高原スキー場へ走った道である。諸家で新穂谷に行くと新穂峠を越えて近江に行ける。言わば山岳古道であった。通りで路傍に石仏があったはずだ。
今日はその手前の323m付近で白川をまたぐ橋を渡って殿又林道に入った。
殿又林道で突然野生のシカが横切る。一応最終的なテンア場を探すために堰堤まで行って見たが少し戻って空き地に幕営。久々にテントで仮眠。
今日はその手前の323m付近で白川をまたぐ橋を渡って殿又林道に入った。
殿又林道で突然野生のシカが横切る。一応最終的なテンア場を探すために堰堤まで行って見たが少し戻って空き地に幕営。久々にテントで仮眠。
八草駅から猿投山へ縦走 ― 2024年01月04日
電車とバスで山々を跋渉したい。日照時間の短い時期なので猿投山の縦走を企てて見た。三角点「西広見」を経由して物見山に行き、猿投山へ縦走する計画である。
リニモ終点の八草駅を8時40分ごろ下車。8時50分、身支度して駅から愛工大の南をなぞると椀貸池に着く。日本のあちこちにある椀貸伝説の池である。今は水を抜いて池さらえの最中。俳句歳時記に池普請という冬の季語がある。
胸形神社への参道を登ると終点に本殿があった。道迷いも含めて約1時間ちょっとかかった。せっかくなので参拝させてもらった。
右端にトイレがあり、脇から尾根に取り付く。ヤブこぎというほどの密植ではない。尾根の分岐には篤志家の付けたテープがある。あるかないかの踏み跡をたどるとやがて二等三角点「西広見」に着く。瀬戸市と豊田市の市界には破線があり微かな踏み跡が続く。
里山の常で小さなコブには四方に枝道がありどれにもテープがある。その度にヤマップで方向を確認。しかし時には濃厚なテープにだまされてしまい、下がり過ぎて戻ること2回あった。海上の森からの道と合流するとハイカーに出会った。さすがに海上の森である。高速道路のようにアクセルを踏むだけで何の迷いもなく、快適に移動できる。最初のピークである物見山に登頂。麓や山中で迷ったのでロスタイムがあり予定より1時間遅れになった。
先が長いので12時に出発。この先の道も昔は難路だった記憶がある。今は快適な高速道路である。猿投方面から続々ハイカーやトレランのランナーが丸腰か軽装で走ってくる。小休止しておにぎり1個とお茶を飲む。赤猿峠がエスケープルート選択の分岐点になる。延々続く稜線の道をたどってようやく赤猿峠に着いた。ここでアンパンを半分、ミルクでエネルギーを補給。時計を見ると15時前なので1時間で着けば日没の16時50分までに猿投神社に下れる。
13時50分赤猿峠着、14時過ぎ出発。猿投山へは14時45分に着いた。単独のハイカーが一人居ただけだった。冠雪した伊吹山、能郷白山、白山、御嶽山と名峰が並ぶ。カメラに収めるとまた4人組の若者らが来た。入れ替わるように多数のハイカーが遅めの登頂を目指す。東の宮の入り口で15時40分になった。日没を考慮して車道コースを下った。16時53分に日没。猿投神社には17時ジャスト。薄暗い中、結構多くの善男全女が居る。おみくじには行列していた。私も参拝を済ませた。参道にはたこ焼きなどの多数の露店が並ぶ。そこをを通って山門を出た先にバス停がある。17時10分にバス停を見ると17時34分のバスがあった。たこ焼きを食べながら時間を過ごす。バスに乗ると西の空が赤く焼けて見える。名鉄豊田線上豊田南バス停を降りるともう真っ暗だった。道行くおばさんに駅を聴くと今から行くというのでついて行った。いわゆる駅前らしくない田舎駅だった。地下鉄の階段を下りるような感じである。18時11分の上小田井行に乗車すると植田駅までは意外に近かった。
リニモ終点の八草駅を8時40分ごろ下車。8時50分、身支度して駅から愛工大の南をなぞると椀貸池に着く。日本のあちこちにある椀貸伝説の池である。今は水を抜いて池さらえの最中。俳句歳時記に池普請という冬の季語がある。
胸形神社への参道を登ると終点に本殿があった。道迷いも含めて約1時間ちょっとかかった。せっかくなので参拝させてもらった。
右端にトイレがあり、脇から尾根に取り付く。ヤブこぎというほどの密植ではない。尾根の分岐には篤志家の付けたテープがある。あるかないかの踏み跡をたどるとやがて二等三角点「西広見」に着く。瀬戸市と豊田市の市界には破線があり微かな踏み跡が続く。
里山の常で小さなコブには四方に枝道がありどれにもテープがある。その度にヤマップで方向を確認。しかし時には濃厚なテープにだまされてしまい、下がり過ぎて戻ること2回あった。海上の森からの道と合流するとハイカーに出会った。さすがに海上の森である。高速道路のようにアクセルを踏むだけで何の迷いもなく、快適に移動できる。最初のピークである物見山に登頂。麓や山中で迷ったのでロスタイムがあり予定より1時間遅れになった。
先が長いので12時に出発。この先の道も昔は難路だった記憶がある。今は快適な高速道路である。猿投方面から続々ハイカーやトレランのランナーが丸腰か軽装で走ってくる。小休止しておにぎり1個とお茶を飲む。赤猿峠がエスケープルート選択の分岐点になる。延々続く稜線の道をたどってようやく赤猿峠に着いた。ここでアンパンを半分、ミルクでエネルギーを補給。時計を見ると15時前なので1時間で着けば日没の16時50分までに猿投神社に下れる。
13時50分赤猿峠着、14時過ぎ出発。猿投山へは14時45分に着いた。単独のハイカーが一人居ただけだった。冠雪した伊吹山、能郷白山、白山、御嶽山と名峰が並ぶ。カメラに収めるとまた4人組の若者らが来た。入れ替わるように多数のハイカーが遅めの登頂を目指す。東の宮の入り口で15時40分になった。日没を考慮して車道コースを下った。16時53分に日没。猿投神社には17時ジャスト。薄暗い中、結構多くの善男全女が居る。おみくじには行列していた。私も参拝を済ませた。参道にはたこ焼きなどの多数の露店が並ぶ。そこをを通って山門を出た先にバス停がある。17時10分にバス停を見ると17時34分のバスがあった。たこ焼きを食べながら時間を過ごす。バスに乗ると西の空が赤く焼けて見える。名鉄豊田線上豊田南バス停を降りるともう真っ暗だった。道行くおばさんに駅を聴くと今から行くというのでついて行った。いわゆる駅前らしくない田舎駅だった。地下鉄の階段を下りるような感じである。18時11分の上小田井行に乗車すると植田駅までは意外に近かった。
90歳の三浦雄一郎さん、車いす使い富士山登頂「素晴らしい情景は生涯忘れない」 ― 2023年09月03日
プロスキーヤーで冒険家の三浦雄一郎さん(90)が31日朝、富士山(3776メートル)の登頂を果たした。病気で手足にしびれが残り自力で長い距離を歩けない中、山岳用車いすを使って自身のスキー学校の関係者や家族らに支えられながら達成した。
登山隊約40人は29日に静岡県富士宮市の富士宮口5合目を出発。7合目と9合目で宿泊し、31日午前7時半頃、山頂に到着した。三浦さんは「何回登っても感動する。孫や仲間たちと見たこの素晴らしい情景は生涯忘れない」と話した。
・・・・・山岳用車いすで仲間に引っ張ってもらって富士山に登った。賛否両論はあるが、ベッドで寝た切りよりはずっと健全です。あやかりたいニュースでした。
登山隊約40人は29日に静岡県富士宮市の富士宮口5合目を出発。7合目と9合目で宿泊し、31日午前7時半頃、山頂に到着した。三浦さんは「何回登っても感動する。孫や仲間たちと見たこの素晴らしい情景は生涯忘れない」と話した。
・・・・・山岳用車いすで仲間に引っ張ってもらって富士山に登った。賛否両論はあるが、ベッドで寝た切りよりはずっと健全です。あやかりたいニュースでした。
熊鈴を注文 ― 2023年07月27日
予備に熊鈴を注文した。塩の道の古道は山里に隣り合うことが多いが、平谷村最奥の靭の奥は人家もなく、熊の生息域と思われる。ので常に熊鈴を鳴らしながら歩く。紛失しやすいのでもう一個持つことにした。
夏の夜や同窓集う暑気払い 拙作 ― 2023年07月25日
大学の同窓会の恒例行事の暑気払いが復活した。地下鉄伏見駅と名駅の中間で堀川沿いのビルの13階だった。美味しい料理とビールで交歓した。Nさんとは富山市で行う山の行事に参加する旨話すことができた。司法書士のY君には協力してもらった相続の仕事が一段落することで謝礼をのべておいた。
三信塩の道調査行 ― 2023年07月16日
昨日は夜8時に治部坂峠に着いて新しいテントを張ってみた。テント自体は快適だったがいかんせん国道沿いのPでは往来が結構あってうるさい。おまけに大川入山の登山口でもあって未明から到着した登山者のクルマが多かった。こちらもぐっすりとは眠れなかったのである。
5時に起きて朝ごはん用の弁当を食べてテントを片付けて出発。治部坂峠登山口に自転車をデポする予定だったが、黒雲にすっぽり覆われた山にモチベーションが萎えるので取りやめた。古道調査に切り替えた。とりあえず、アララギスキー場跡でも行って見るかとなった。
まず下り坂のカーブの橋の手前で林道のような草の道が目に付いた。車を停めて見てみると正しく中馬街道の跡であった。奥まで歩くと阿智村の石碑」「史跡 中馬街道」も建っていた。是が第一の発見だった。帰りがけに入り口を探したが何も目印はない。
次は深沢の関所跡の破線路と国道との接点を探した。すると2軒の家に挟まれた空き地の奥にやはり「史跡 中馬街道」が建っていた。車で流すだけだと見落とす。階段を下ると橋が架かっていて関所跡に続く道があった。途中で引き返した。
浪合トンネルをくぐってその先は何も発見はない。寒原峠を左折、恩田川に沿ってしばらくでスキー場に左折。スキー場跡に着いたがかつての駐車場は3箇所あるが物置に再利用、センターハウスの駐車場に入る手前でチエーンがあっては入れなかった。右に林道があるので徒歩で入って見た。登山口まで約400m位なので歩いても良かったが、これだけ閑散とした様子に登山道も荒れているだろう、笹が伸びているだろうと思うとモチベ―ションは上がらず、引き返す。
とりあえず、中野まで下って大野まで戻る。草刈りの村民に塩の道の情報を聴く。地形図の実線の道まで下って右折。民家を抜けると林道のような地道になった。民家の傍に車を置いて歩いたら早速路傍の石仏が安置されていてここが塩の道と確認できた。更に奥に行くと大沢川と同じ高さになった。地形図通り終点になった。作業小屋が建っている。地図にない木の橋が右岸渡れるように掛かっているが中馬街道かどうかは不明。洪水で消失したものか。
帰りに899m地点を探ると簡易舗装の道が下っている。下に下ると傍にはミツバチの飼育箱が捨ててある。蜂が飛び回っていたのですぐに退散した。想像では左岸に塩の道があったが二岐の下流の堰堤工事で埋まった可能性が高い。
日の入峠への道を右に見送り、大沢川沿いの塩の道を行くと大沢集落に着いてすぐに石仏群があった。すぐ下には塩の道の案内板も建っている。中央道の高架橋をくぐって左岸のR153に合流。しかしこの時、阿智川の橋の手前で右折して曽山を走るべきだった。中央道と並行する長い実線が気になる。阿智村役場に着いてUターン。途中では899m地点をチエック。
R153を治部坂峠まで戻った後平谷村の気になっていた1163mをチエック。徒歩で別荘地を下ってみた。両側に別荘が建っていてほぼ直線の車道が下っている。行きついた際には何と高圧電線の保守路が下からあがってきている。その先へも刈払いが続くが馬の通る道ではない。引き返して峠付近を見てみる。平坦地は一部あるが道らしい連続性がない。
そこで『平谷村誌』のP347に示された地図を地形図に落とす。1163mの3の部分の沢は峠川とある。治部坂峠への旧道につながる沢は清水沢とある。もう一つ西に栄太沢がある。清水沢と栄太沢に挟まれた緩斜面とはいえ、結構急な別荘地になっている。村誌の記述を読み直すと「まず治部坂峠を南へ越して清水という地籍へ出る。ここから峠川と呼ばれる小川が南へ流れ、この川に沿って中馬街道がある。小下りに曲折した道が峠川の西沿いに現在もところどころ残っている。
約1k下るとやや平坦な南面した原野がある。ここが「中の土山」で江戸時代から明治六年までは、旅籠とお茶屋のあった所で、この旅籠のことは伊賀良村誌にも記されている。また吉川英治『隠密七生記』の椿茶屋のあった所でもあり、近くの岩の上に二基の馬頭観音の石像があって、中馬時代の面影を残している」
地図では清水沢とルビがふってあるが実は峠川だった。すると、別荘地から下りきった歩道をもう少し先へ進めば街道の痕跡に出会えたかも知れません。先述したように峠のスノーシェルター近くまで歩いて右へ上がる踏み跡を探して1mほど登った。そこで見た平坦な道形ももっと丁寧に下流まで下れば得られただろう。そして峠川だけは国道の橋の下をくぐって行ける。先には峠道がある。
一方で栄太沢、清水沢は橋はないからトンネルで水を流しているのか。栄太沢の方は山側に古い橋の痕跡が見えたが、地形図の櫛型の記号で示すように工事で原形を失ったのだろう。
次の機会には旧国道(廃道)を下って「中の土山」を探りたい。そして別荘地の下部に上がってくる道を下から登って見る。今度は奥まで進み、渡渉して1163mの3を目指して登ればある程度の発見は見込める。
峠付近の探索後は柳川橋の手前から旧道に右折。Pには湧き水もありテント場に良い。靭へ下り、2軒の旅館の廃屋を撮影しておく。R153へ戻り道の駅へ行って休憩。売店でトウモロコシとトマトを購入。根羽村の信玄塚を拝観。稲武では道の駅パスして、喫茶店で昼食。小田木へ下って痕跡を探すが無し。R153に戻り足助町へ。明川町の舞台などもパスして萩野の旧道を通るが痕跡はない。足助町の資料館によると学芸員に相談して文献3冊を紹介してくれた。その後、牛馬水飲み場や馬頭観音も見れた。街場ではなく右岸側の道があったとは知らなかった。追分からは力石峠を走った。ここは東海自然歩道も通過している。これですべて完了した。
5時に起きて朝ごはん用の弁当を食べてテントを片付けて出発。治部坂峠登山口に自転車をデポする予定だったが、黒雲にすっぽり覆われた山にモチベーションが萎えるので取りやめた。古道調査に切り替えた。とりあえず、アララギスキー場跡でも行って見るかとなった。
まず下り坂のカーブの橋の手前で林道のような草の道が目に付いた。車を停めて見てみると正しく中馬街道の跡であった。奥まで歩くと阿智村の石碑」「史跡 中馬街道」も建っていた。是が第一の発見だった。帰りがけに入り口を探したが何も目印はない。
次は深沢の関所跡の破線路と国道との接点を探した。すると2軒の家に挟まれた空き地の奥にやはり「史跡 中馬街道」が建っていた。車で流すだけだと見落とす。階段を下ると橋が架かっていて関所跡に続く道があった。途中で引き返した。
浪合トンネルをくぐってその先は何も発見はない。寒原峠を左折、恩田川に沿ってしばらくでスキー場に左折。スキー場跡に着いたがかつての駐車場は3箇所あるが物置に再利用、センターハウスの駐車場に入る手前でチエーンがあっては入れなかった。右に林道があるので徒歩で入って見た。登山口まで約400m位なので歩いても良かったが、これだけ閑散とした様子に登山道も荒れているだろう、笹が伸びているだろうと思うとモチベ―ションは上がらず、引き返す。
とりあえず、中野まで下って大野まで戻る。草刈りの村民に塩の道の情報を聴く。地形図の実線の道まで下って右折。民家を抜けると林道のような地道になった。民家の傍に車を置いて歩いたら早速路傍の石仏が安置されていてここが塩の道と確認できた。更に奥に行くと大沢川と同じ高さになった。地形図通り終点になった。作業小屋が建っている。地図にない木の橋が右岸渡れるように掛かっているが中馬街道かどうかは不明。洪水で消失したものか。
帰りに899m地点を探ると簡易舗装の道が下っている。下に下ると傍にはミツバチの飼育箱が捨ててある。蜂が飛び回っていたのですぐに退散した。想像では左岸に塩の道があったが二岐の下流の堰堤工事で埋まった可能性が高い。
日の入峠への道を右に見送り、大沢川沿いの塩の道を行くと大沢集落に着いてすぐに石仏群があった。すぐ下には塩の道の案内板も建っている。中央道の高架橋をくぐって左岸のR153に合流。しかしこの時、阿智川の橋の手前で右折して曽山を走るべきだった。中央道と並行する長い実線が気になる。阿智村役場に着いてUターン。途中では899m地点をチエック。
R153を治部坂峠まで戻った後平谷村の気になっていた1163mをチエック。徒歩で別荘地を下ってみた。両側に別荘が建っていてほぼ直線の車道が下っている。行きついた際には何と高圧電線の保守路が下からあがってきている。その先へも刈払いが続くが馬の通る道ではない。引き返して峠付近を見てみる。平坦地は一部あるが道らしい連続性がない。
そこで『平谷村誌』のP347に示された地図を地形図に落とす。1163mの3の部分の沢は峠川とある。治部坂峠への旧道につながる沢は清水沢とある。もう一つ西に栄太沢がある。清水沢と栄太沢に挟まれた緩斜面とはいえ、結構急な別荘地になっている。村誌の記述を読み直すと「まず治部坂峠を南へ越して清水という地籍へ出る。ここから峠川と呼ばれる小川が南へ流れ、この川に沿って中馬街道がある。小下りに曲折した道が峠川の西沿いに現在もところどころ残っている。
約1k下るとやや平坦な南面した原野がある。ここが「中の土山」で江戸時代から明治六年までは、旅籠とお茶屋のあった所で、この旅籠のことは伊賀良村誌にも記されている。また吉川英治『隠密七生記』の椿茶屋のあった所でもあり、近くの岩の上に二基の馬頭観音の石像があって、中馬時代の面影を残している」
地図では清水沢とルビがふってあるが実は峠川だった。すると、別荘地から下りきった歩道をもう少し先へ進めば街道の痕跡に出会えたかも知れません。先述したように峠のスノーシェルター近くまで歩いて右へ上がる踏み跡を探して1mほど登った。そこで見た平坦な道形ももっと丁寧に下流まで下れば得られただろう。そして峠川だけは国道の橋の下をくぐって行ける。先には峠道がある。
一方で栄太沢、清水沢は橋はないからトンネルで水を流しているのか。栄太沢の方は山側に古い橋の痕跡が見えたが、地形図の櫛型の記号で示すように工事で原形を失ったのだろう。
次の機会には旧国道(廃道)を下って「中の土山」を探りたい。そして別荘地の下部に上がってくる道を下から登って見る。今度は奥まで進み、渡渉して1163mの3を目指して登ればある程度の発見は見込める。
峠付近の探索後は柳川橋の手前から旧道に右折。Pには湧き水もありテント場に良い。靭へ下り、2軒の旅館の廃屋を撮影しておく。R153へ戻り道の駅へ行って休憩。売店でトウモロコシとトマトを購入。根羽村の信玄塚を拝観。稲武では道の駅パスして、喫茶店で昼食。小田木へ下って痕跡を探すが無し。R153に戻り足助町へ。明川町の舞台などもパスして萩野の旧道を通るが痕跡はない。足助町の資料館によると学芸員に相談して文献3冊を紹介してくれた。その後、牛馬水飲み場や馬頭観音も見れた。街場ではなく右岸側の道があったとは知らなかった。追分からは力石峠を走った。ここは東海自然歩道も通過している。これですべて完了した。
1人用自立式テントを購入 ― 2023年07月02日
アルペンマウンテンズ一社店に行ってニーモのテントを購入。前にララポート東郷のアルペンの店で実物を見ると同時にアプリを登録しておいた。7/1~7/3の限定で割引セールの広報がタイムラインに流れて来た。40000円以上は10000円の値引きがあったので47300円のニーモの自立式1~2人用テントが37300円で買えた。これでいつでも長旅に出かけられる。とりあえず中級山岳にテント泊で登山を試みたい。
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