また同じ隣の人ぞ忘年会2017年12月13日

 今年初の忘年会に出席した。会場は名古屋国際ホテル。母校の同窓が数十名集結。来賓としてはK学長、D同窓会会長やW市議らに加えて日舞の舞踊も加わり華やぎを添えた。
 さて、席は自由だが隣に昨年と同じ人が偶然に座られた。猿投温泉の支配人のH氏だった。配布された封筒の中に入湯券もあって嬉しいプレゼントだ。
 入湯券で思い出した。月末に再度、猿投山で行方不明の人を捜索する段取りになっていると話した。あの説明会にも同温泉の入湯券が配布されたのでどんなつながりか、不思議だった。何と、キーマンのSさんとは知り合いだと言うのだ。
 帰りに寄りますね、と約した。そんなわけで世間は狭いと感じた。

うらをみせおもてを見せてちるもみじ 良寛2017年11月07日

 裏木曽の山に遊んだ際、紅葉、黄葉も盛りでした。全体が針葉樹林ですから殺風景な山を装う役目を果たしています。男性ばかりの集団に少数の着飾った女性が紛れ込んでいる風景です。

 さて、掲載の句は紅葉且つ散る、という季語をうまく織り込んでいます。全部落葉するのではなく一部が散りながら全体は多くが枝にとどまっているイメージです。そんな中でひらひらと散るのですが、裏を見せ、表を見せて散るという表現が秀逸です。
 良寛といえば、歌人とばかり思っていたのですが、こんな俳句も残していたんだ、と目を開かれた思いがします。この句の句碑が倉敷市にあるそうです。

 そのブログ「歴史・文化の町<倉敷>周辺の隠された魅力
地元倉敷に住み 倉敷を愛する「倉敷王子」が見た<倉敷周辺>を紹介してゆきます」から
https://blogs.yahoo.co.jp/kurashiki_prince/18941259.html

 「倉敷の玉島円通寺で若い頃修行した良寛は,住職の国仙和上から印可の偈(げ)を受け取ると,生まれ故障の越後に帰り,そこで晩年を迎える。

 円通寺には,良寛の辞世の句と言われている句碑がある。

 説明看板には,下記の説明が載っている。
 

      うらをみせ おもてを見せて ちるもみじ


 これは良寛の辞世の句である。出家雲水の生活に入って
     
 実相の世界に住んだ良寛の,最後に到達した名句である。

 自然に観入したこの句は,また人生の真実を詠んで含蓄深い。

 この句碑が若き日の良寛ゆかりの円通寺に建てられたことは

 誠に灌漑(ママ 注:感慨)深いところである。

 すでに当山に建てられた良寛の漢詩や和歌のそれぞれの

 碑と合わせて この句碑は 浄土の世界に遊んだ良寛の心を

 窺い知るこの上ないよすがとなることであろう。

                       平成元年五月吉日
                       玉島文化協会

 越後で雲水の僧として各寺を訪れていたが,やがて五合庵という小さな板敷の庵で清貧に甘んじた生活を送る様になったことが知られている。

 雪深い越後の地で,食べるものが無くなると托鉢の為に山を降り,囲炉裏で燃やすものが無くなると山に枯れ枝を求め暖をとっていた。

 しかし良寛にも,<老い>は確実に訪れ,特に雪深い冬には水の様な粥をすすって飢えに耐えていた.恐らく死を覚悟したことは一度ならずあったことであろう。

 これを見かねた良寛の支援者である木村家が自分の蔵に良寛を住まわせ,ここが良寛の終焉の地となった。
  
     <木村家の良寛を見ずして良寛を語る勿れ>とまで
     言われたほど,能登屋木村家には100点を超える
     良寛及び関係者の遺墨が保管されている

 この場所に移ってから暫くして,良寛が70歳の時,若い尼僧である貞心尼と出会った.貞心尼は色白の美人と言われ,良寛と出会った時は30歳であった。
 その後の二人が交わした歌を追ってゆくと,その出会いは運命的と思わずにはおれない。

 二人が交わした歌が多く遺されている。

 人目を憚らず,手を携えて野で花を摘み,満月の夜,月を眺めながら語り明かし,,子供の様に二人で手毬をついて戯れる姿が,その歌から読み取れる。

 二人の年齢差は40歳もあるが,歌に込められた想いにはとてもその年齢の差は感じられない.それどころか,男と女の関係すら感じられるほどである。

 しかし,良寛と貞心尼とが出会って5年経過した冬のこと.老いた良寛は遂に自身ではたつことすらできなくなったという.

 寝たきりになった良寛は,トイレも1人で出来なくなり,尿と便で汚れたままになった着物を身につけたまま,誰かが来て取り替えてくれる日を待つようになったと伝える記録もあるらしい。

 良寛は自分の死期が近いことを悟りながらも,貞心尼を想う気持ちが次第に高まってきた.しかし貞心尼が良寛の住む場所に来るには,雪深い難所の峠を越えなければならない。

 夏でも難所と言われる峠を,雪深い冬のこの寒い時期に女の足で超えられる筈もないと思いながら,極度に高まった貞心尼を慕う熱い気持ちを,弾ける様に,次の歌を詠んだ。

    梓弓 春になりなば草の庵を

    とくとひてまし逢ひたきものを

 この歌は貞心尼の元に届けられた.誰かが,見かねて貞心尼に届けたのであろう。
 
 貞心尼は良寛の死期が近いことを悟った.そして,この歌を受け取った貞心尼は,良寛の元に,雪道を走った。

 彼女と行動を共にした人がいたかどうかは知らない。

 彼女は,雪深い峠を,凍死するかも知れない危険を冒しながら,死ぬ前にもう一度だけ良寛に会いたいと,一心不乱に雪道を駈けた。

 そして,病臥に伏せていた良寛の枕元に辿りつき,生きて師である良寛に会うことができた。

 貞心尼の姿を自分の眼前に見た良寛は,喜びの余り布団から身を起こし,貞心尼の手を取って涙を流して泣いたと言われる。

 その時詠んだ歌がある。

    いついつと 待ちにし人は來りたり

    今はあひ見て何か思はむ

 貞心尼も,その時良寛の死が近いことを知り,その時の気持ちを歌っている。

     生き死にの 境はなれて住む身にも

     さらぬわかれの あるぞ悲しき

 良寛は,駆けつけた貞心尼の手厚い介護を受け,10日後の年が明けた頃に,最愛の尼弟子<貞心尼>に見取られながら,この世を去った。

 別れる間際に,良寛の口から洩れた句がある.現在では,この歌が良寛の辞世の句と言われている。

   裏を見せ 表を見せて 散るもみぢ

 この句を見るにつけ,今年の歌会始めの雅子妃が詠んだ次の歌を想い出す。

  吹く風に 舞ういちやうの葉 秋の日を

  表に裏に 浴びてかがやく

恐らく,心が砥ぎ澄まされてくると,空から落ちてくる一瞬の落ち葉の振る舞いが,映画のスローモーションをみている様に永く永く感じられるに違いない。」
以上

 何と言っても写生から実相観入(斎藤茂吉の短歌論)して、深い心を詠んでいるところが良い。こんな境地になるには修業がいるんだろう。

緑区滝の水緑地4等三角点へポタリング2017年11月03日

 午後3時、読書の乱読に飽きてポタリングに出た。目的地は名古屋市緑区滝の水緑地の4等三角点である。点名も滝の水緑地で63.8m。
 自宅は約15mの低地なのでまたペダルをこいで坂道を登る。R302号の側道に達したら、最高点である68mの標高点を通過する。そして西友ストアのある神沢の交差点までは長い下り坂を気持ちよく下る。そして登り返すとピアゴ滝の水店のある交差点だ。ここを過ぎると又下るので側道沿いに踏み跡がないか探るがないので戻って北側の住宅地との間の車道を走ると滝の水緑地の園地に着いた。ここまで4.8kmだった。
 東屋、ベンチ、トイレがあり、遊歩道まであった。今は小さな池の水を抜いている作業中だった。俳句の冬の季語に「池普請」があり、まさにその仕事であろう。立冬以後は水も枯れて、作業がしやすくなりこんな仕事が増えるだろう。
 園地の一角に自転車を止めて遊歩道を登る。赤松を主体にクヌギなどで構成した雑木林であり、典型的な里山の緑地である。歩道は幅1mあり2人で連れだって歩ける。散歩帰りの老夫婦とすれ違った。今はまだ緑だが冬になり落葉すると若干は見通しも良いだろう。登るというほどの傾斜も無く、4等三角点の「山頂」に着いた。5分くらいか。北側に開けており、藪の向こうにはピアゴやR302号の道路が見えた。晴れれば冬の白い御嶽山や恵那山が見えると思う。
 「山頂」から南に下る階段道があったので下ってみた。同じような雑木林の道である。主婦らしい「単独行者」に会った。キッチンを離れてふらりと歩いているのだろう。そのまま歩くと二手に分かれる。左は登り気味に山手に続き、右の凝木の道は湿地帯の木道である。
 わずかに水が浸み出している。そして小さな池に溜まるのだが、水抜きをしたばかりなので泥が日を浴びて新しい。作業は何とか協議会の腕章や高校生らしい子供らが協同でやっていたらしい。
 腕章の人に聞くとここは市有地で、かつてはサギソウも咲いていたが今は株を移植して咲かすらしい。宅地開発から逃れ、大都市に奇跡的に残された自然の一こまである。湿地ゆえに宅地に不向きとして残ったのだろう。
 帰路はR302号を戻り、島田住宅東まで登り返す。中平4丁目まで気持ちよく下り左折。このところ気になっていたマツダの販売店へ寄った。CX-8の展示車がないか、と思ったが来月半ばとのこと。クリ―ディーゼル、燃費17km/l、最低地上高20センチを確保した最新のSUVだ。車両価格で350万円超の高級車である。カタログをもらって当面夢を見させてもらう。喫茶店で一休みして帰宅。

人生の沙汰2017年10月29日

 今日は句会。句会に出句された中に沙汰という語彙があった。男女の恋のもつれから女が受け取った別れ話の手紙を浜辺に捨てた。女は男から棄てられたのだが、手紙を保持するいわれはないと廃棄したのであった。作者はそれを拾って読んでしまい、一句に詠んだ。その俳人魂のすごさに驚いた。
 沙汰とは一義的には「物事を処理すること。特に、物事の善悪・是非などを論じ定めること。」である。
 当方は地獄の沙汰も金次第くらいしか思いつかない。もっと記憶を探れば、ご無沙汰とか、色恋沙汰もある。警察沙汰になる、裁判沙汰にしたくない、音沙汰もない、など多々あった。
 あるブログをのぞいたら、「老後の沙汰も金次第」の表題に引きこまれた。地獄を老後に置き替えたのだ。
 HPのことわざの参考書から引くと
地獄の沙汰も金次第(じごくのさたもかねしだい)

【意味】
どんなことも、お金さえあれば思い通りにすることが出来ること。

【ゆらい】
じごくでえんまさまにさばかれるとき、お金を出せば手加減(てかげん)
してくれるということ。
以上
 転じて老後も金次第で思い通りになるという意味だろう。はたしてそうか。件のブログでは老人ホームの入居の金を云々していた。心の通わない老人ホームのお世話にならず、孤独死もいいじゃないか。
 今朝の読売新聞は孤立死のシリーズを開始。「孤立死17000人超」の大見出しが躍る。

 確か、曽野綾子氏は野垂れ死にの本を書いた。近藤誠氏との対談だ。ズバリ『野垂れ死にの覚悟』。目次から少し引くと
 独居老人五〇〇万人 野垂れ死にが普通になる
 介護はまず、汚物の洗濯が大問題
 長く生きることが貴い、という国民的思いこみ
 運命を呪い、最期まで怒鳴り散らす人々
 家で枯れるように老衰で死ぬのがいちばん快適
 親の介護をめぐる女たちの受難
 老人ホームの静けさ お喋りの楽しみ
引用は以上
 もちろん、曽野さんも近藤さんも野垂れ死にとは縁がないであろう。作家的な生と死の展望である。孤立死でも孤独死でも野垂れ死にである。人は誰かにいや家族や最愛の人にみとられて死ぬのが本望なのだろうか。今生の別れは誰にも悲しいことだ。
 
 俳人・松尾芭蕉の”野ざらしを心に風のしむ身哉”という句を思う。最後は俳句で締めくくった。

富山県~呉西と呉東、山と道の文化2017年10月11日

 10月8日初めて富山県の牛岳に登った。
 以前から前田普羅の
  牛岳の雲吐きやまぬ月夜哉   普羅
の俳句で名前だけは知っていたからだ。句意は八尾辺りから眺めて次々と雲が湧き起こる、そしてふっと消えて行く牛岳の自然への感興を俳句に詠んだのであろう。
 登ってみて、スキー場開発で多くのブナは失われたにちがいない。それでも鍋谷のブナ林は二次林として再生している。それが水蒸気即ち霧そして雲の発生源にもなる。登った際も霧が流れては消えていった。
 当日は高曇りで富山平野全景を見はるかす訳にはいかなかったが、 山頂から麓の田園地帯を俯瞰して、位置的にこの山から呉羽丘陵を派生していると知った。
 富山市中心地に近い呉羽山は145m程度であるが1等三角点が置かれて東西南北に眺めがいい。そればかりか昔から呉西、呉東という聞きなれない言葉の意味も分かったのである。
 呉東は神通川と常願寺川の沖積平野として富山市を中心に立山町、黒部市、滑川市でまとまり、呉西は庄川、小矢部川の沖積平野が高岡市を中心に小矢部市、射水市、砺波市、南砺市、氷見市でまとまっている。
 それぞれが山と水の融合による社会を形成している。そして高岡市の方が産業、文化的にも古い伝統の街と知った。たしかに万葉集の編纂者の大伴家持の古さは尋常ではない。また伝統工芸が脈々と続いていて中小零細企業が集積している。一方で富山市は豊富な電源開発を背景にした近代企業が多く、工業地帯となっている。
 それぞれが補完しあって富山県を一つに結んでいる。
 10月9日は高落場山に登った。登山口は福光町に近い。富山市から山際の県道をなぞりながら地形を確かめるように走ってみた。R41から神通川を渡ると呉羽丘陵を越えて庄川に至る。そこがR156が貫通する砺波市だ。砺波平野から富山平野の広がりがある。庄川からは散居村を抜けて城端の街を抜けてR304に合流する。南砺市になる。
 高落場山の登山口の若杉集落跡も実は五箇山街道の要衝であった。それが時代によりR304にとってかわり、今は袴腰山の直下にトンネルを穿って東海北陸道が五箇山へ貫通している。
 だから城端は高岡市からは行き詰まりであり、文化の吹き溜まりのような街になる。R156を白川村から砺波市まで走ると五箇山からは急にさびれた気がするのは昔から高落場山の峠道をからんで城端に抜けていたからだった。現代は車に変わってもそのルートは大筋では変わらない。

登山の死いつかわが身に銀河浴ぶ 平岩武一2017年06月30日

 岡田日郎『雲表のわが山々』(東京新聞出版局、昭和62年刊)の中に引用されていた一句。昭和7(1932)年生れの著者が、55歳で、登山歴40年を機に出版した。ということは15歳から登山をしているから相当な年季をいれている。句作も高校3年生の17歳というから早熟であった。
 そして今85歳になる。
 私など27歳で始めて、67歳でやっと山歴40年になった。俳句歴は40歳だからたかだか27年ほどだ。
 表題の句は現役の登山者の俳句を紹介した散文に引用されていた。平岩氏は橋本鶏二(中日俳壇選者)の弟子筋と別の本で読んだ記憶がある。
 「これらは山を愛し、山の俳句をいま作り続けている人達である。
 山の俳句はまず山を愛する登攀者、踏破者の作品を中心にして語られるべきであって、高原派、山里派、遠望派はこれに準ずると考える。しかも、前田普羅が語ったように、長年の蓄積の中からのみ凝集されたすぐれた一句一句が生み落とされるいくように思われる。ケーブルカーや登山バスで運ばれてきた一回限りの遊覧観光客の山の俳句は、山を愛する私にとって興味がないことはいうまでもない。またそのような簡単なことで山の俳句が詠めるとも思わない。
 山岳俳句とは自らの足で山へ登り、夢と憧憬を生涯持ち続けた俳人の作品のみにいえることで、そういう人を山岳俳人と呼び、他と区別する重要なポイントになるのである。」

 山岳写真の写真家でも人工的にファンを回して吹雪を演出する人がいた。やり過ぎだ。先輩の山岳写真家は山に登って撮影しろと、喧嘩していた。それでこそ山岳写真の価値がある。俳句でも同じことである。

 そして平成4年に第六句集『連嶺』を上梓。師の福田蓼汀の死去にともない、「山火」の継承を決意する。大きな転換期だった。以来、徹底写生論を展開するようになる。人間探究派の俳句は人を詠め、という指導理論の行きすぎで、駄句の山を築いたとされることへの危惧だろう。教養の裏付けのない一般人が安易に人間を詠んだらやっぱりおかしな句が生れるだろう。

余り苗を撮る2017年06月06日

 今朝もいい天気である。やっぱり小寒いので長袖を着た。出発は6時過ぎになった。撮影のためにザックにカメラを入れると結構重みを感じる。天白川沿いに走って日進市役所のかなり手前で撮影ポイントに来た。
 薄の穂が出て美しいところである。それにしても早すぎる。俳句歳時記では秋の季語になっているからだ。立秋の8/8以降でないと把握しにくい。最近の気候が少し早まっているのだろうか。その後は余り苗を撮影した。
 日進市役近辺まで足を伸ばしたが荷が重いせいか、白山宮の参拝は休んだ。一般道をUターンして帰途についた。途中、神明社という村社をお参りした。ここのひしゃくはあるにはあるが、プラスチック製だった。無人の村社になると簡素である。先の大戦の戦没者も祀られていた。タイサンボクの花も散り始めた。
 天白川沿いに戻ると、小学生の集団登校に出くわす。懐かしい光景である。国道153号を梅森西の交差点を渡り、名古屋市へ戻る。

月の出や印南野に苗余るらし 永田耕衣2017年06月03日

 今朝もすっきりした五月晴れになった。北風が涼しいというより寒いほどだ。ポタリングでまた日進市の田園地帯を走る。今日目に付いたのは代田もかなり田植えが進み、植田になってきたことである。それに伴い、余り苗もそこかしこに見られた。この風景で思い出したのがこの俳句だった。
 農家では田植えに備えて苗を余裕を見て育てる。植え終わると片隅に苗が少し残っている風景、それが余り苗、苗余るという季語になる。
 掲載の俳句は山本健吉『現代俳句』で紹介されて有名になった。印南野はいなみのと読む。
 ウィキには稲美町でヒット。「兵庫県南部に位置し、神戸都市圏に属する。兵庫県南部の加古川と明石川に挟まれた印南野台地に位置し、兵庫県東播磨県民局に区分されている。古代では印南野と呼ばれており、播磨国風土記では入波と呼ばれている。万葉集では稲日・稲見と呼ばれており、この本に登場している印南野は古くからの歌枕である。」と案内。
 帰宅の途に就いたころには風向きは西風に変わり、空は薄曇りになった。

初夏の平針街道を走る2017年05月22日

 初夏(はつなつ)の清々しい季節です。特に朝は冷涼な気温と湿度の少ない空気が爽やかな気分です。今朝も風を切って自転車で平針まで走ってきました。
 5/11は天白川を日進市役所まで走った。その後から体調が崩れ、5/12受診、5/13に緊急入院、5/17に退院とあわただしい1週間でした。現在も抗生物資を投与されて予後観察中の身である。5/19には試歩として天白川沿いに平針駅までポタリングしてみた。結果は良好で5/20にはうなぎ丼のようなしつこい食べ物も美味しく食べられた。
 いろいろ反省を交えて考えると肥満を意識して、食事を抑制し5kgは落としたもののさらに減食したことで免疫力低下を招いたような気がする。無理は禁物ということだ。入院中は食事を受け付けなかったが、ご飯をおにぎりにしてもらい、1つ食べ、次の日は1つは普通にたべ、1つはお茶で流し込んだ。そしたら急に体力が回復してきた。
 医食同源なり。
 5/20は山岳会の総会に出席し、ビール抜きで宴会もこなした。5/21はマンションの総会にも出席できた。今までは第3土曜日に集中していたが1つ外れてくれて出席できた。しばらくは総会の季節である。
 今朝も清々しい朝の風に起こされて走った。地下鉄原駅周辺は飯田街道と平針街道が交差して信号が複雑だ。
 かつては飯田街道(岡崎街道)と東海道を結んだ平針街道だったというが面影は少ない。最初から交差点を外し路地裏通りを走って旧の平針街道へ。軒先の低い商家風の建物が今も残る。今ではホームセンターにとってかわった金物屋がここでは開店中である。
 帰り際、パンや兼喫茶店で一服する。豊富なパンとコーヒーを飲みながら新聞を読む。店の周りは東海学園の女子学生が連れだって登校してゆく。あっちの路地、こっちの路地からも現れる。まるで小津映画の「早春」の一こまだ。あれは蒲田駅だろうか、サラリーマンやOLが駅へ集中してゆく風景である。そして満員電車に乗って東京へ出勤してゆく。小津さんのアイロニーたっぷりの映画である。
 いつもと違う路地を走って自宅に戻った。

苗田水堰かれて分れ行きにけり 前田普羅2017年05月20日

 前田普羅『渓谷を出づる人の言葉』(中西舗土解説、1994年、能登印刷出版部)のP100から。
 単なる風景句に思うが、本書の解説を読むと、富山の自然への観察の行き届いた結果の俳句と分かる。山の好きな普羅は句材を求めてか、たびたび1等三角点のある呉羽山145mに登った。そこから立山方面を眺めると常願寺川の白い川原が尾根のように見えるという観察から始まる。富山は常願寺川が切れたら水の底と言われてきたらしい。
 普羅の住んでいたのは富山駅の北の奥田町というところ。実は標高6.5mで、すぐ隣を神通川が流れる。どちらかといえば、神通川の氾濫を恐れるべきだが、今以上の土砂の流出はあるまいと楽観視する。
 常願寺川を破壊の天才として恐れているのは山岳俳人ならではの深い見方である。立山カルデラ砂防博物館を見学すると、今も常時防災活動が行われていた。かつては立山温泉があったところで、砂防堰堤の建設作業が行われている。五色ヶ原の左側はとてつもない人間の果てしない事業が続いている。
 富山市上滝辺りは標高165mあり、そこから扇状地が始まる。発電設備や取水口もあって、用水路で下流の水田地帯を潤し、末端で都市生活の水をまかなう。「私達の地上の運命は常願寺川の御機嫌一つに掛っている」として、以下「然しそのために苗田の水も稲田の水も年毎に少しの不自由も感ぜず、また私達の井戸も四時清冷な水を高く吹き上げているのである」と結ぶ。
 俳句にしてしまうと簡単であるが、深い観察力と洞察力が加わっていることを思う。これが普羅の提唱していた地貌ということにも思いを致す。足元を詠め、とも指導していた。それはこの句に如実に現れている。