高熱が出た2024年05月22日

 朝から歯肉の痛みがひどいので事務所近くの歯科医に行った。レントゲン検査したところ歯根の神経の残っているところが炎症を起こしているとの説明だった。写真を見ると約80%は神経を取ってあるので痛みは感じないが歯根全摘しなかったようだ。
 今の歯は生きているんですか、と歯科医に問うと神経が若干でも残っているお陰で半分は死んでいるのだが半分は生きているということだった。痛みを感じるから生きている実感がある。
 そこで抗生物質と痛み止めを処方してもらって帰った。夕食後1錠飲んで、寝床で体温を測ると37.5℃もあった。倦怠感が出るはずだ。これでは休養するしかない。

雑用整理2024年05月16日

 雑用が溜まっていた。岳連への会費を送金を処理しておいた。また14日の早朝会議にはすっかり失念していたので謝罪のメールも送信しておく。
 4月5日の墓参で初見で知った人に俳句の雑誌を送付した。まだまだタイヤの交換とかがある。晴れた日にやりたい。
 今日は5/26の沢登りの予定が決まった。また関東甲信越の山行と沢登りも日程が決まった。
 但し、やりかけの仕事が3つあるので5月中に目途を付けたい。6月になれば建設業関連の届け出を促す。7月末が期限。これもテキパキと片付けないと延長するわけには行かない。
 後は5月一杯は総会のラッシュである。
・5/12のJACは俳句会と重なったので欠席
・5/14の早朝の同窓クラブは失念
これからは
・5/17の夕方から中央支部総会・名古屋駅前
・5/19の午後からアムスカ総会・名工大
・5/26の夜から管理組合の総会・集会室
・5/30の午後から書士会の総会・金山駅前

辛夷創刊百周年記念大会③2024年05月14日

 これで旅の前半は終わってあとは冠山トンネルをくぐる目的がある。富山を出てナビには冠山トンネルを指定。すると金沢平野ではR8もはしるが途中から山間よりになった。小松市からR364を走る。永平寺町を経てR158を走ったが間もなく足羽川沿いの道になった。R476になると市で左折、R417になる。この奥が冠山になる。
 足羽川沿いの道も極端な急カーブはなくトンネル入り口に着く。徳山ダム湖には約5kmのトンネルを通過後すぐにもう一本通過すると見慣れた塚林道の入り口に着いた。トイレがある。一時期はここから冠ヶ峠に向かう登山者で賑わった。今は閑散としている。時々車が往来するから結構知られてきた。来年は是非池田町の能楽を見学に行きたい。
 後は徳山会館にも寄ったが閉店だった。R417をひた走って揖斐川町の街へ出てまたナビにしたがって名古屋へ帰った。

辛夷創刊百周年記念大会②2024年05月13日

 5/12の13時になると広い会場で記念撮影。約80名くらいが集う。後は式次第にしたがって主宰のあいさつ、句会の選句、表彰など。16時くらいから会場は宴会に移る。詩吟、能.の舞が披露された。飲食が配膳されて乾杯。和やかな交流の場になる。それぞれが一言スピーチもあった。最後は中国語のできる人から漢詩の話があった。中々に多彩な会員がいる。ダブリンに旅した会員もいて外国の俳句事情も語られる。
 すこうするうちにお開きになった。予約していたアパホテル富山駅前に急いだ。3月中に申し込んで置いたから一泊5300円だった。朝食は有料で1900円なのでパス。市内で朝定で済ます。

辛夷創刊百周年記念大会①2024年05月12日

 4年ぶりに富山県を訪ねた。所属の俳句結社が創刊百周年を迎えたというので記念大会になった。
 想えばコロナで年一回あった周回は2020年以来休会が続いていた。コロナ禍が空けて2024年はちょうど100周年というめぐり合わせである。
 朝5時に出発。小雨模様の東海北陸道を走ったが郡上白鳥で高速を出てR156のドライブになった。高速料金をけちるだけではなく、地道は思い出が詰まっている。それに飛騨路は落葉広葉樹が保存されてとても美しい。さっさと通り過ぎる高速はもったいない。
 30年くらい前、中央線、太多線、越美南線を乗り継いで郡上白鳥駅で下車、タクシーで石徹白へ。5人パーティで登山開始。神鳩の小屋で一泊。南竜小屋では食事付で助かる。5人で白山登頂。ここで親子2人と高齢者と別れて2人で北部縦走に入る。ゴマ平避難小屋でも一泊。野谷荘司山から大窪へ下山。大杉鶴平さんの家に寄る。そこからも延々歩いて鳩谷の国鉄バス停に着いた。後は名金線のバスで名古屋へ。そんな思い出のある白川郷である。
 世界遺産の白川郷も観光客は多そうだが立ち寄る気にはなれないのでスルー。五箇山でR304と別れてR156を行く。ちょっとカーブとアップダウンが多くて嫌な道だ。砺波平野に出るとナビの指示で右往左往する。R359で東へ走っていたら突然素晴らしい山岳景観が現れて感動した。多分婦中町辺りだろう。晴れた日に街にいることはないから意外に富山平野からの景色は知らない。
 少しづつ下ってR359から地方道に左折するとちょうど麦畑と代田の上に立山連峰が見えて立ち去りがたい。左から毛勝三山、剱岳、立山、薬師岳、前衛の鍬崎山と2000mから3000mが並ぶ威容である。その向こうには後立山連峰が控える。富山側からの命名なんですね。高速~降りた理由はこれである。ここで何枚も撮影した。
目的地の富山駅前には11時に到着。一晩900円のパーキングに入庫、昼食をとっていたらもう12時になった。会場の電気ビルに急ぐ。

爽やかな季節2024年05月09日

 2024年の立夏は5月5日でした。暦の上で夏になった。季語の爽やかが実感できる朝夕になった。朝夕は少し寒いくらいに冷える。窓を開けて寝ると夜明け前にはぐんと冷える。大体3時半ごろに尿意があり起床すると寒いからだと思う。体温が下がると尿意を刺激するのであろう。
 それでいて日中もそれほど気温が上がらないから一年で一番過ごし易い季節になった。しかし、そんないい季節はあっという間に過ぎてしまう。やがて暑い夏の季節が来る。

憲法記念日2024年05月03日

憲法記念日国旗掲揚せず過ぎぬ

・・・小さな旗はあるのだがなぜか国旗掲揚する気にもならなかった。やっぱり憲法改正の機運も起きないのは異常な気がする。

金子兜太・・・韻文精神なき俳人2024年04月26日

 兜太の父親は秋櫻子系の俳人だった。医師という点でも共通する面がある。秋櫻子は師匠の虚子に反抗してホトトギスに反旗を翻した。兜太の師匠は楸邨であるがこれもまた秋櫻子系の俳人であった。
 兜太には師匠への反抗が流れとして根付いていく。自身も戦争に駆り出された。戦地では戦友が死んでも簡単な葬式で済ますか、出来なかったこともあるだろう。
  ”水脈の果て炎天の墓置きて去る”
苦渋の中の一句である。この頃までは有季定型を守っていた。それが戦後一気に自由律に傾倒することになった。左翼傾向も打ち出す。権力者への抵抗を隠さない。
 社会性俳句なるものが流行した。多くは食えるようになると転向していった。東大を出ても仕事にありつけなかったものは社会主義の運動に身を投じたであろう。それが大学の講師の仕事を得る。作家も新聞社から小説の注文が入る。多くは食えることで普通に戻った。
 しかし兜太だけは左翼迎合を崩さなかった。それは日銀マンだったからではないか、と想像する。ある評論家は日銀貴族とまで言う。財務省の飼い殺しの存在である。
 日銀マンの人生は多額の給与、賞与、退職後の退職金、年金と収入に事欠くことはない。だから権力に盾突くこともできたわけだ。何しろ首にならないということは経済的自由人の特権である。
 そんな目で俳人金子兜太を騙った評伝はまだ読んだことがない。駄句の山を築きながら高い評価を受ける人である。
https://koyaban.asablo.jp/blog/2018/05/06/8846273

金子 兜太句集『両神』届く2024年04月24日

 『東国抄』に続いて『両神』も届いた。

金子兜太句集『東国抄』から2024年04月23日

 金子兜太しか知らないと変な句形にとまどう。しかし、金子は天才ではない。河東碧梧桐という先人が居たのだ。

 立山は手届く爪殺ぎの雪  碧梧桐(大正4年)

山を詠んでもこんな形式である。しかし碧梧桐は10年後には俳句界から去る。ライバルの虚子の伝統俳句に敗北した形である。それでも少数ながら愛好者はいた。これを継承したのが兜太だったのではないか。

 龍神の両神山に白露かな  兜太