茶刈機のエンジン音は響かひて彼方に望む春の伊勢湾 森紀子2020年01月16日

歌会始 東海地方ゆかりの短歌も
https://www3.nhk.or.jp/tokai-news/20200116/3000008564.html

皇居・宮殿の「松の間」では、天皇皇后両陛下をはじめ、皇族方などの前で入選した10人の短歌が読み上げられ、四日市市の主婦、森紀子さん(75)の歌も古式にのっとって披露されました。
 お茶の生産が盛んな、山沿いの水沢町に暮らす森さんは、新茶が芽吹く茶畑の向こうに見える伊勢湾が春の日ざしを受けて輝く風景に心を打たれ、「茶刈機のエンジン音は響かひて彼方に望む春の伊勢湾」と詠みました。
 森さんは、自分の歌が詠み上げられると小さく繰り返しうなずきながら耳を傾けていました。
 歌会始のあとの記者会見で森さんは「天皇陛下は『いい歌をありがとう』と声をかけてくださりました。中断した時もありましたが続けてきてよかったなと実感しました」と入選の喜びを話していました。
以上
・・・・森紀子氏のお住いの水沢町といえば雲母峰の南東にある鈴鹿山麓の方ですね。入選おめでとうございます。時々は通過するのでその情景は頭に浮かびます。御作は中々の大景です。大景を詠むのは難しいものです。入選作の背景には伊勢の地名が効果的だったと感じます。伊勢の地名は「神風の伊勢」と枕詞で詠まれ、皇室ゆかりの神宮につながるのです。

連嶺に礼して年の改まる 福田蓼汀2020年01月14日

・・・分かりやすい。”髯白きまで山を攀ぢ何をえし” という句もある。山の道楽はきりがなく続く。

 福田 蓼汀(ふくだ りょうてい、1905年(明治38年)9月10日 - 1988年(昭和63年)1月18日)は日本の俳人、登山家。本名は福田幹雄(みきお)。山口県萩町(現在の萩市)生まれ。

 東北帝国大学法文学部法科在学中に学友の勧めで高浜虚子門に入る。1940年には「ホトトギス」同人。948年、「山火」を創刊・主宰。1958年、橋本鶏二の「年輪」、野見山朱鳥の「菜殻火」、波多野爽波の「青」と共同で四誌連合会を結成し、その世話役を務めた。1961年の俳人協会設立にも参画、のちに副会長も務めている。

 1939年の八ヶ岳登山を皮切りに日本各地の山々を踏破、山岳俳人の第一人者として名を高める。戦後に隆盛した社会性俳句の流れからも一線を画し、季節感情と対象を具体的に把握しようとする写実精神を主張。「山岳と自然の純粋美を讃える作品」(岡田日郎)としての山岳俳句を作り続けた。1969年には次男が奥黒部で遭難死するという不幸があり、この悲しみを詠んだ「秋風挽歌」30句(『俳句』11月号掲載)などの業績により、1970年に第四回蛇笏賞を受賞した。1988年1月18日、没。享年82。「山火」は門人の岡田日郎が継いだ。(ウィキペディア抄録)

対馬の嶺は下雲あらなふ上の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも 万葉集2020年01月11日

 林野庁のHPから
https://www.rinya.maff.go.jp/j/kokuyu_rinya/kokumin_mori/katuyo/reku/rekumori/ariakeyama.html

   地理的・地形的特徴
 対馬南部の有明山山系の丘陵地帯に位置し、有明山を中心として小峰が連なり、山頂部を除いて比較的急峻な地形となっています。フェリーで厳原港へ向かう途中、正面に最も大きく見える山が、有明山です。山頂部は平坦で草原が広がり、昼食や休憩などのんびり過ごすことができます。眼下には清水山城跡や厳原の町が広がり、また、山頂からは、矢立山(648m)や白嶽(515m)リアス式海岸の入り組んだ地形で風光明媚な浅茅湾(あそうわん)を望むことができます。
   歴史的・文化的特徴
 万葉集14巻3,516の防人の歌に、「対馬の嶺は下雲あらなふ上の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも」があります。この歌は故郷を離れた防人(朝鮮半島との戦いである633年の「白村江の戦い」の後、北九州(対馬、壱岐、福岡)を守るために遠方から、集められた兵士)たちが、故郷に残してきた家族や恋人に想いをはせる情景を詠んだものです。歌の中の「対馬の嶺」は有明山とは限らないのですが、厳原港から最も大きく見える山であることから、これが有明山であるとも考えられます。
 当時から、対馬は「国境の島」として、戦いの最前線の島として、近隣の国と重要な関係を持ってきましたが、国交が回復すると、今度は親交の島として歩んできました。
 眼下には、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際(1591年)に築城したと言われる「清水山城跡」があり、階段状の山城で全国的にも類を見ない城で国指定の記念物となっています。近隣には、石川県前田家墓地、山口県毛利家墓地と並び、日本三大墓地に数えられる対馬藩守護代宗家十万石の菩提寺「万松院」をはじめ、かつての対馬を偲ぶ多くの遺跡が残っています。時代の流れとともに、移り変わってきた激動の「国境の島・対馬」は歴史的、文化的に貴重な場所として注目されています。
気候等と植生・野生生物
 3月下旬から4月にかけて、日の当たる尾根筋や山頂近くで鮮やかなゲンカイツツジが、葉が展開する前に枝先に淡紅色の花を数輪つけ、冬枯れの寂しい風景のなかでひときわ美しい花を咲かせます。このころ、足元ではフデリンドウやシハイスミレなどの可憐な植物が開花し、対馬に春の訪れを告げます。梅雨時になるとヤマボウシの白い花が見頃を迎えます。
 登山道は一部ヒノキの人工林を通るところもありますが、スダジイやヤブツバキ、アカガシなどの照葉樹林も残り、林床ではアリドオシなどをよく見かけます。植林されたヒノキは、色合いや香りに独特の特徴のあるヒノキで、対州ヒノキと呼ばれており、ブランド展開されています。
・・・・以上の紹介記事を読むと今度行くなら緑の季節が良いと思う。今回のドライブと渡航で如何に遠い島かいうことはしっかり味わった。飛行機か高速船を使い、現地のレンタカーが合理的な旅のやり方であろう。乗りなれたマイカーが一番良いが不経済である。但し、有り余る時間があるなら高速を使わず、ホテルも泊まらずの車中泊が良いか。今回の旅で大方の地理勘はできたから水、食料、トイレさえ確保すればどこでも自由に旅を楽しめる。

中央支部新年会2020年01月09日

18時30分から愛知会中央支部の新年会に出席。会場は丸の内の老舗料亭河文。一卓7人で10卓とすると70人は居た。同業者団体初の新年会になった。新人紹介も多数並び、同業者が増えた。支部全体で500名とか。私が開業時で300名だったから凄く増えた。廃業、死亡も少なくないが、魅力ある士業と見られているのだろう。私も2020年は開業10周年になる。月日の経つのは早いものだ。人生百年、生涯現役でいく。山歩き、仕事もだ。
春風や闘志いだきて丘に立つ 高浜虚子

百船の泊つる対馬の浅茅山時雨の雨にもみたひにけり2020年01月08日

 国境の島、対馬。平城京の都(現在の奈良市)から遠く離れた地でありながら、万葉集には多数の歌が詠まれているという。6月の晴れ間、万葉研究の第一人者、中西進さん(89)と、歌の原風景を求めて島をめぐった。(横山由紀子)

島を包む太古の蒼

 長崎空港からプロペラ機で30分余り。緯度は大阪と変わらないのに、緑深い原生林やエメラルド色の海が広がる。南方の島にいるかのようだ。

 南北に延びた島の中央部を深くえぐる浅茅(あそう)湾は、7~9世紀、遣唐使・遣新羅使船の停泊地だった。「海の色は青じゃなくて蒼という表現がぴったりだね。色合いも太古そのもの」と中西さん。

 《百船(ももふね)の泊(は)つる対馬の浅茅山(あさぢやま)時雨(しぐれ)の雨にもみたひにけり》 巻15-3697

 (多くの船が泊まる港の対馬の浅茅山は、時雨の雨に美しく色づいてきたことよ)

 「対馬」という名前の由来は諸説あるが、「ツシマは“津の島”、つまり湊の島という意味ですね。それに『対馬』の文字があてられたのは、古代朝鮮の国家、馬韓(ばかん)に相対する島、ということかもしれません」と中西さんは思いを馳せる。

◇遊女が見送る船出

古代の山城・金田城跡に残る石塁(石の砦)。防人が配置されていた
その他の写真を見る(2/4枚)
 対馬を南北に貫く国道382号を車で走っていると、中西さんは標示板に「玉調(たまづけ)」という地名を見つけて、「止めて、止めて」と声をあげた。中西さんによると、玉調の「調」は古代の租税の租庸調の調だという。対馬では真珠の養殖が盛んだが、古代も真珠が採れ、それを特産品として納めたために、玉調という地名ができたのだろうと。
・・・・五万図で地形と地名を眺めても楽しい。学殖が深ければなおも楽しいだろう。対馬の地名は韓国側からはテマドと呼んだ。二つの島の意味である。対馬は日本が自ら命名したわけではないようだ。
 あるブログから引用すると
「対馬がはじめて歴史書に登場するのは3世紀頃、中国の三国志時代の「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)です。

「始めて一海を渡ること千余里、對馬(対馬)国に至る。 其の大官は卑狗、副は卑奴母離と曰う。居る所絶島、方四百余里可。土地は山険しく深林多く、路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食べ自活、船に乗りて南北に市糴(=交易)す。」

 断崖絶壁が多く、山が深く、道は獣道のように細い。また、水田が少なく、海産物を食し、朝鮮半島や大陸と日本本土を小船で行き来して交易を行っていた・・・。

 この記述は、当時の対馬の状態を簡潔・的確に描写しています。現在でも対馬の島土の約89%は森に覆われており、農耕地は少なく、戦後に道路網が整備されるまで集落間の移動に船を用いることも多かったようです。」とあった。
 当時の唐が命名したのであろうか。なにしろ文字もなかった時代に耳に入る言葉「tsushima」に対馬を当てた。

七草がゆを食う会2020年01月07日

 朝6時代の地下鉄に乗る。今日はまだラッシュではないが座れない。伏見駅で下車。名古屋観光ホテルの3F桂の間へ。着席後すぐ七草がゆが運ばれてくる。魚の切り身、フルーツ、漬物など豪華な朝食である。
 今日のテーマは愛知大文学部教授・和田明美氏を招き、「新元号 令和を寿ぐー出典『万葉集』の「序文」と「梅花の歌」についての講話。元号は令和で初めて国書の万葉集から採用されたというお話。わずかな時間でかいつまんで何となく分かった気になった。
 万葉集巻5所収の梅花の歌の序の中の「初春令月 気淑風和」に由来する。和田先生の核心はこの序文には唐詩(漢詩)の「帰田賦」にルーツがあると解説。この序文に「仲春令月 時和気清」を手本にしている。換骨奪胎というか謂わばオマージュなのである。
 唐詩の内容は都で出世もできず、田舎に落ちぶれて帰るうらぶれた内容である。唐詩に範を求めても万葉集では日本的に「変奏」しているというのだ。仲春は初春に変わり、「詩」ではなく、やまと歌の「短詠」へと変容。「受容と変容の日本文化を具現した」したと解説する。

 そうですね。芥川龍之介「神々の微笑」(1922年)の中の
「日本の霊として現れた老人が日本で布教しているキリスト教の神父に対してこういう。

「…(日本人は)何人でも(キリスト教に)帰依するでしょう。
ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人(日本人)は大部分悉達多(シッダールタ=釈迦)の教えに帰依しています。
しかし我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」

※出典 青空文庫 小説「神神の微笑」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html

 和田教授の話の核心はここだろう。朝の短い時間ではぎりぎりの講話だった。日本は作り変えてゆく国であり、元号ももうシナの古典ではなく、国書から採用しますよ、という文化的属国からの脱却のメッセージにもとれる。
 してみると、この春中国の習主席を国賓(新天皇との接遇には反対意見が多い)で来日する話で持ち切りだが、令和への改元のタイミングとしては策士として安倍首相の深謀遠慮に注目したい。否ちょっと政治的な解釈に傾き過ぎたか。

国境の島・対馬の山旅⑧白岳の三角点2020年01月04日

 対馬まで山歩きに来てまさか藪漕ぎになろうとは思わなかった。12/31の白嶽で2等三角点を踏めないか少し動き回ってみたが叶わなかったので県道24号線を西回りに走って小茂田に来た。小茂田から上見坂まで県道44号線を走った際に日見川にかかる橋の付近に白嶽の道標を見たのである。滞在7日目で4日の登山の締めは白岳2等三角点と上見坂公園の虚子句碑見学にした。
 朝いつものようにホテルの朝食サービスを食べて出発。今回はR382から厳原町桟原ですぐに左折。県道44号線に入る。すると佐須坂の長いトンネルを抜けて下るとすぐに日見川橋になり、右折。鶏知に通じるエコーラインなる道でもある。2kmくらいで日見川左又を行く。未舗装になる。行けるところまで行くと道が荒れているので適当な場所にデポ。そこから歩き出すがすぐにチエーンがある。
 林道を淡々と歩くと地形図にない分かれ道等もあるが上流へと向かう。最後は有耶無耶になったので直前の谷に入ってみた。イメージでは上見坂の登山道と合流したいのだが山は低いし、水流は少なく、登山靴でもなんとかなると踏んだ。
 最初は広く歩きやすかった谷も段々狭くなり、間伐材の散乱が邪魔するようになってきた。そのうち右からの山道に出会えないかとの期待はむなしく、植林帯に迂回したり、間伐材の間をぬって高度を稼ぐ。明らかにこれはイメージした谷ではないと、撤退が頭にちらついた。こんなところで行倒れても誰も知らせることはできないからだ。
 高度計とスマホの地形図でチエックしながら登る。谷はいよいよ狭くなり急になってきた。転落に注意しながらジグザグで高度を稼ぐと空が明るくなり始めた。やれやれ稜線だ。登り着いた稜線は標高460m。目前かと登るが三角点の南のコブと分かった。やはり谷一つ手前だった。鞍部まで下って登り返すと良い山道になり赤テープが勇気づけてくれる。登山者に匂いがする道になった。
 やがて岩峰を巻くように登ると2等三角点:白岳の山頂だった。360度の大展望である。白嶽もよかったがここの山頂も人ずれしていないので好ましい。たった1人の山頂を満喫した。
 下山は鞍部までは同じ。そこには気が付かなったが陸軍省の石標が建っていた。これも戦争の遺跡である。
 鞍部からは赤テープを頼りに下った。というよりも道を外すと間伐材の散乱に身動きが取れず、歩けるところを行くと必ず赤テープがあったからだった。上部では広い谷間も中腹では狭くなった。地形図で崖の記号がある辺りで植林内に上がった。すると掘れ込んだ道型があった。廃道ではあるがかつてはよく歩かれたらしい。植林内ではその道型もあいまいになり藪に突入しながら谷の下部を目指す。
 日見川源流になるとスプーンでえぐったような地形になり、前方に上見坂の道標が目視できた。これで藪から脱出だ。ハイウェイのような上見坂の登山道に合流した。前回の引き返した辺りは三角点から真東に伸びる尾根との合流地だろう。5分も歩けばここまで来れたかも知れない。しばらくいい道を歩くと日見川源流の最奥へ下ってゆくきれいな踏み跡をたどる。谷間に下ると平坦な廃道を下る。すると左岸から右岸に移ったところで登った谷の入り口になった。よく見ると廃道の雑木に赤テープもあったが見落としたのだ。これで一周した後は元来た道をたどる。
 マイカーに戻り、県道44号まで走ると左折。上見坂公園へ入った。多分44号の旧道だろう。途中見晴らしのいい駐車地から白嶽の連嶺がよく見えた。2等三角点も谷筋まで見える。登りも下りの谷もとても急峻だった。よう登ったわな、と自分でも呆れかえった。さらに走ると公園への入り口を右折。広い園地がありトイレもあった。真っ先に目に入ったのは高浜虚子の弟子の河野静雲の句碑
     対州は大山国やほととぎす
 対州は対馬国の別称。海に浮かぶ島国だと思って来たら山だらけじゃないかという句意。多分ほととぎすの鳴く初夏に来たのだろう。虚子には、壱岐を詠んだ句もある。

    壱岐の島途切れて見ゆる夏の海

    西日今沈み終りぬ大対馬

    壱岐低く対馬は高し夏の海
               六月一日 門司より再び乗船、出帆。


    船涼し左右(そう)に迎ふる壱岐対馬

六月十日 雑詠選了。対馬見え壱岐見え来る。大阪朝日九州支社より、帰朝最初の一句を送れとの電報あり。

 ここも砲台跡だった。今も自衛隊の基地がある。展望台に上ると韓国が見えるだろう。韓国人観光客がレンタカーで入れ替わりに遊びに来ていた。これで一日の予定は終えた。

年暮れぬ笠着て草鞋はきながら 松尾芭蕉2019年12月27日

 朝から年賀状を書き上げた。午前中いっぱいかかった。午後から近くの郵便局に投函。昨年は区内、市外、県外の区分があったが今年はないので枚数が激減したのか。63円にアップしたこともあるし。

 さて表題の句は人口に膾炙して名句である。旅の俳人の気持ちがよく表出されている。年暮れぬの「ぬ」は強い断定という。

 ググってみると

貞享一年(一六八四)四十一歳の作である。句意は

 笠をかぶり、草鞋はいたままで、今年もとうとう暮れてしまった。「ここに草鞋を解き、かしこに杖を捨てて、旅寝ながらに年の暮れければ」との前詞がある。

「野ざらし紀行」で初めて文学的行脚を経験した旅人としての、初々しい実感のこもる歳暮吟である。出典は『野ざらし紀行』。

熱田

   名護屋に入る道のほど風吟す
 狂句木枯らしの身は竹斎に似たる哉

   海辺に日暮して
 海くれて鴨の声ほのかに白し

   爰(ここ)に草鞋(わらじ)をとき、かしこに杖をすてて、旅寝ながらに年のくれければ、
 年くれぬ笠(かさ)きて草鞋(わらじ)はきながら

とある。
 三重県伊賀の山に行った際も句碑を見た。”ふるさとや臍の緒に啼く年の暮”だった。年末は旅人には心が落ち着くのだろう。ふるさとに帰ったり、弟子宅に世話になったりして気力を充実させる機会である。

桐一葉きりひとは日当りながら落ちにけり 高浜虚子2019年12月26日

 『五百句』から。
 そういえば、関ケ原から近江へと車を走らせていたら、同じ光景を見た。急いで車を路肩に止めて書き留めた。そして一句を作った。
  黄葉且つ散るや朝日を浴びながら   拙作
 その時はこの表題の名句を思い出すことができなかった。この句の季語は実は落ち葉なのであった。桐の葉にフォーカスして記憶していたからすぐに思い出せなかったのだ。季語を独立させず、巧みに七音に織り込んで作る。虚子はやはり巧者なのである。

十二月あれもこれもと巡らせる 拙作2019年12月24日

 広告の裏の白紙にメモ書きしていろいろやることを列記して置く。まあ大体は片付いて来た。それでも1つやるとまた忘れていた用事があり、達成感が出てこない。
 今日は本当は事務所で年賀状を片付ける積りでいたが明日の句会の準備があることを思い出した。加えて積読でたまった読書も少しづつでも読んでおく。そのうちに日が暮れて来た。
 年末年始の休暇は北九州の山旅と漠然と決めてはあるが、フェリーの予約など事務は一切進まず。GWで青森に行った時のように一切予約なしで行ってみるか、と。但し対馬へ車ごと渡るとなれば予約は必須だし、身一つであっち行くとなれば、ホテルに泊まることが必須になるからやはり予約がいる。
 というわけで何となく福岡の天気予報など眺めてみるが芳しくない。いっそ行くのは止めて、映画でも見ながら、寝正月を決め込んでも良い。となれば小津映画のDVDを探す必要がある。1セットまるごとどこへ仕舞ったのやら。