余り苗を撮る2017年06月06日

 今朝もいい天気である。やっぱり小寒いので長袖を着た。出発は6時過ぎになった。撮影のためにザックにカメラを入れると結構重みを感じる。天白川沿いに走って日進市役所のかなり手前で撮影ポイントに来た。
 薄の穂が出て美しいところである。それにしても早すぎる。俳句歳時記では秋の季語になっているからだ。立秋の8/8以降でないと把握しにくい。最近の気候が少し早まっているのだろうか。その後は余り苗を撮影した。
 日進市役近辺まで足を伸ばしたが荷が重いせいか、白山宮の参拝は休んだ。一般道をUターンして帰途についた。途中、神明社という村社をお参りした。ここのひしゃくはあるにはあるが、プラスチック製だった。無人の村社になると簡素である。先の大戦の戦没者も祀られていた。タイサンボクの花も散り始めた。
 天白川沿いに戻ると、小学生の集団登校に出くわす。懐かしい光景である。国道153号を梅森西の交差点を渡り、名古屋市へ戻る。

月の出や印南野に苗余るらし 永田耕衣2017年06月03日

 今朝もすっきりした五月晴れになった。北風が涼しいというより寒いほどだ。ポタリングでまた日進市の田園地帯を走る。今日目に付いたのは代田もかなり田植えが進み、植田になってきたことである。それに伴い、余り苗もそこかしこに見られた。この風景で思い出したのがこの俳句だった。
 農家では田植えに備えて苗を余裕を見て育てる。植え終わると片隅に苗が少し残っている風景、それが余り苗、苗余るという季語になる。
 掲載の俳句は山本健吉『現代俳句』で紹介されて有名になった。印南野はいなみのと読む。
 ウィキには稲美町でヒット。「兵庫県南部に位置し、神戸都市圏に属する。兵庫県南部の加古川と明石川に挟まれた印南野台地に位置し、兵庫県東播磨県民局に区分されている。古代では印南野と呼ばれており、播磨国風土記では入波と呼ばれている。万葉集では稲日・稲見と呼ばれており、この本に登場している印南野は古くからの歌枕である。」と案内。
 帰宅の途に就いたころには風向きは西風に変わり、空は薄曇りになった。

初夏の平針街道を走る2017年05月22日

 初夏(はつなつ)の清々しい季節です。特に朝は冷涼な気温と湿度の少ない空気が爽やかな気分です。今朝も風を切って自転車で平針まで走ってきました。
 5/11は天白川を日進市役所まで走った。その後から体調が崩れ、5/12受診、5/13に緊急入院、5/17に退院とあわただしい1週間でした。現在も抗生物資を投与されて予後観察中の身である。5/19には試歩として天白川沿いに平針駅までポタリングしてみた。結果は良好で5/20にはうなぎ丼のようなしつこい食べ物も美味しく食べられた。
 いろいろ反省を交えて考えると肥満を意識して、食事を抑制し5kgは落としたもののさらに減食したことで免疫力低下を招いたような気がする。無理は禁物ということだ。入院中は食事を受け付けなかったが、ご飯をおにぎりにしてもらい、1つ食べ、次の日は1つは普通にたべ、1つはお茶で流し込んだ。そしたら急に体力が回復してきた。
 医食同源なり。
 5/20は山岳会の総会に出席し、ビール抜きで宴会もこなした。5/21はマンションの総会にも出席できた。今までは第3土曜日に集中していたが1つ外れてくれて出席できた。しばらくは総会の季節である。
 今朝も清々しい朝の風に起こされて走った。地下鉄原駅周辺は飯田街道と平針街道が交差して信号が複雑だ。
 かつては飯田街道(岡崎街道)と東海道を結んだ平針街道だったというが面影は少ない。最初から交差点を外し路地裏通りを走って旧の平針街道へ。軒先の低い商家風の建物が今も残る。今ではホームセンターにとってかわった金物屋がここでは開店中である。
 帰り際、パンや兼喫茶店で一服する。豊富なパンとコーヒーを飲みながら新聞を読む。店の周りは東海学園の女子学生が連れだって登校してゆく。あっちの路地、こっちの路地からも現れる。まるで小津映画の「早春」の一こまだ。あれは蒲田駅だろうか、サラリーマンやOLが駅へ集中してゆく風景である。そして満員電車に乗って東京へ出勤してゆく。小津さんのアイロニーたっぷりの映画である。
 いつもと違う路地を走って自宅に戻った。

苗田水堰かれて分れ行きにけり 前田普羅2017年05月20日

 前田普羅『渓谷を出づる人の言葉』(中西舗土解説、1994年、能登印刷出版部)のP100から。
 単なる風景句に思うが、本書の解説を読むと、富山の自然への観察の行き届いた結果の俳句と分かる。山の好きな普羅は句材を求めてか、たびたび1等三角点のある呉羽山145mに登った。そこから立山方面を眺めると常願寺川の白い川原が尾根のように見えるという観察から始まる。富山は常願寺川が切れたら水の底と言われてきたらしい。
 普羅の住んでいたのは富山駅の北の奥田町というところ。実は標高6.5mで、すぐ隣を神通川が流れる。どちらかといえば、神通川の氾濫を恐れるべきだが、今以上の土砂の流出はあるまいと楽観視する。
 常願寺川を破壊の天才として恐れているのは山岳俳人ならではの深い見方である。立山カルデラ砂防博物館を見学すると、今も常時防災活動が行われていた。かつては立山温泉があったところで、砂防堰堤の建設作業が行われている。五色ヶ原の左側はとてつもない人間の果てしない事業が続いている。
 富山市上滝辺りは標高165mあり、そこから扇状地が始まる。発電設備や取水口もあって、用水路で下流の水田地帯を潤し、末端で都市生活の水をまかなう。「私達の地上の運命は常願寺川の御機嫌一つに掛っている」として、以下「然しそのために苗田の水も稲田の水も年毎に少しの不自由も感ぜず、また私達の井戸も四時清冷な水を高く吹き上げているのである」と結ぶ。
 俳句にしてしまうと簡単であるが、深い観察力と洞察力が加わっていることを思う。これが普羅の提唱していた地貌ということにも思いを致す。足元を詠め、とも指導していた。それはこの句に如実に現れている。

榎本一郎『俳句と川柳』を読む2017年05月04日

 週刊新潮の高山正之氏の変見自在と藤原正彦氏の管見妄語は必ず目を通す。今週は藤原氏の「ユーモアとバランス」の言葉があっていたく感じるところがあって断片をメモった。
 ユーモアには駄じゃれから辛辣な皮肉、風刺、ブラックユーモアなど多種多様あるが、これらすべてに共通なのは、「いったん自らを状況の外におく」という姿勢である。ユーモアとはバランス感覚の跨張された表現と言ってよい。対象にのめりこまず距離をおく。ラットレースから距離を置く。内発的動機。
 いやあ、上述の言葉こそ川柳の本質を言い当てているではないか。イギリスのインテリとの会話から生まれた発想である。

 こんな言葉に敏感になったのは、実は今、榎本一郎『俳句と川柳』を読んで、俳句と川柳の違いを学んでいるからである。私の世話をする句会にも自分は川柳をやりたいと悩んでいる男性がいるが、それなら辞めて自分で勉強するかというとそうでもない。松山市出身ということが俳句への内発的動機の一つであるに違いない。私は、俳句も川柳も俳諧の仲間という以上の違いを説明できなかった。
 特に川柳は内実をしっていても身分を明らかにできない人が皮肉をこめて詠んできたものと思った。
 
  役人の子はにぎにぎをよく覚え

  子が出来て川の字形りに寝る夫婦

  かみなりをまねて腹がけやっとさせ

  ひんぬいた大根で道を教えられ
  
 どれも記憶に残りやすい江戸川柳である。

 それでこの本を見つけて飛びついた。読んでも中々難しいものである。詳細すぎて理解が進まない。

 俳句は若者にも詠まれていて人気上昇中であり、川柳も年一回はどこかの会社が優秀作として発表している。どちらも根強い人気がある。

 俳句はホ句の独立した文芸、川柳は平句にルーツがあるという。

 俳句の観賞文を書くために多くの俳句から選別する。ふと思うのは連用形で結句する俳人がいることだ。連用形で結句すると川柳に思えてならない。所属の結社誌にもそんなことを書いた覚えがある。前の主宰は特に俳諧味とか、諧謔をよく強調された。

 最近読んだ加藤耕子氏の句集『空と海』から

  原生林蛭に身の血を分かち合ひ 

をして「作者は蛭に吸血されても、身の血を分ち合い、と平然としている様子が諧謔を呼ぶ。 」と書いた。一般的には吸血中だから忌み嫌うものという常識がある。じっと自分の体の血を吸う蛭を観察して一句をなしているのだから俳人精神の賜物といえばそうか、と思う。しかし、可笑しいのである。「かまととぶる」かのようなこらえる笑いを呼ぶ。それは上品な笑いとはいえる。笑いをとるための笑いではないからだ。 

 この俳句の川柳との違いは初句で切れていることと季語の認識である。しかし何となくしまらない気がする。脱力感をぬぐえない。

 現代俳人の指導者は俳句の立句性を忘れたか、詠めないのか、あるいは嫌い、平句に向かっているのだろうか。日常をちょいと切り取って作句することを指導する。足元にこそ詩の原点があるかのような発言も目にする。
 ある短歌会でも旅行による観光的な詩歌をこっぴどく批判し、芭蕉のような行き倒れ覚悟の旅で作った詩歌は高貴だと発言する先生がいた。ちょっと言い過ぎである。

 川柳の穿ち(着眼点)は「いったん自らを状況の外におく」という姿勢がないと詠めない。俳人は状況と一体になっているふしがある。私は自然と一体になった時に詠める。また見えているのに見ていないことを思い起こさせる。俳句でその状況を思い起こせる。

 本書を読むと、川柳でも指導的立場の人の主張は様々で一筋縄ではいかない。それでも榎本氏は川柳をあらわす文芸と結論する。俳句は切れにあるとする。国際化をにらんでのことである。夏石番矢氏の指摘を引用して外国人がHaikuを詠めば季語と五七五も捨てられるそうだ。残るのは切れだけということらしい。

 脈絡を外れるが山本健吉が若いころ「俳句研究」誌の編集長として波郷、楸邨、草田男を「人間探求派」として推した。虚子の花鳥諷詠に反発して、彼らのように「人間を詠め」という。このことが後々には駄句の山を築くことになった、とある俳人の指摘を読んだ。
 日本人の悪いところは一斉に同じ方向になびきやすいことであろう。その意味でも、「いったん自らを状況の外におく」という姿勢は大切だと思う。

NHKウィチュウ「ゆる山へGO」録画登山行2017年04月29日

 山岳会の先輩筋から「ゆる山」に出ないか、と話があったのはかなり前のことになる。漠然とした話なのでなかなかイメージもつかめなかった。
 平成7年に『ひと味違う名古屋からの山旅』の出版にちなんだ民放TV局出演の経験もあるにはある。あの時はまるっと2日間つきっきりだったが、本の宣伝をしてあげるのだから、と出演料もなくボランティアになった。
 今回も天下のNHK様であり、山岳会経由なのでまたボランティアのつもりで引き受けた。ゆる山の候補10座選定以上には打ち合わせも進まず、どうなることかと思っていたら4月中旬になって急速に進展した。
 ゆる山の候補は10座あげて2座に絞り、カメラマンのことを配慮して寧比曽岳を1番手で推薦。2番手に岩小谷山を推薦。展望と手軽さを優先して岩小谷山に変更、下見にびわくぼ峠に登山してみたが、重たいTVカメラを携えては危険と察したので再び寧比曽岳に変更した。
 下見登山は4月21日に制作会社の担当者と同行して無難に終えた。当初、4月29日に予定したが、天気が変わりやすいので28日に繰り上げてもらった。 
 28日は快晴になった。朝4時半起床。マンションの窓から見ると東の三河高原の方が朝焼けしている。北風でやや寒そうだ。熱いお茶を飲む。テルモスにも熱いお茶を入れた。お茶は橋幸夫大使推薦の静岡茶である。朝食と久々にメンパに弁当を詰めた。6時前に出発。NHK前にはすでに1台ごついランクルが止まっていた。歩荷役のHさんだった。舘谷キャスター、カメラ、音声、監督のスタッフ3名と揃い出発。東新町ICから高速をつないで、東海環状に入り、鞍ヶ池PAスマートICから県道にでて足助へ。少し買い物を済ます。県道33を遡ると大多賀峠はすぐだ。ここに歩荷さんと案内の私はマイカーをデポする。
 1台に同乗。段戸湖の登山口に着いた。するとマイカーが半分ほど埋まっている。釣り客でもないが・・・。

 録画撮りはここから始まった。27歳といううら若き舘谷春香キャスターをガイドするという役目でカメラに向かってなにやら台本も持たず台詞をしゃべる。もとよりしゃべるのは得意ではないが思いついたことを言う。道道歩きながらしゃべることになる。林道のゲートから先が裏谷原生林の領域になる。
 ゲートを入った途端、せせらぎの方に大きなカメラを抱えたバードウォッチャーさんが屯していた。ははん、車は彼らだったのだ。なにやら小鳥の営巣地があるらしい。
 そこを離れて少し先で超望遠レンズを持ったバードウォッチャーに出会った。スタッフが声をかける。小鳥談義をする。見せてもらうと鮮明な小鳥の画像にびっくりする。おそらく何十万円もするだろう超望遠レンズで撮影するのだろう。
 五六橋で右折、トイレの場所から山道へ入る。いよいよ核心部である。せせらぎに沿う山道はこころを癒される。細道がせせらぎに下りているので水辺に近づいた。下見では魚影があったが今日は見えない。ササやぶ越しに若草が見えた。対岸に渡るとバイケイソウだった。流れが変わったので湿地帯になり、少数ながらバイケイソウの群落になったのだ。日光に映えて若草が美しい。
 せせらぎを後に、道々樹木の大きさに圧倒される。樹齢200年から300年ともいう。明治維新の50年前からの樹齢になる。下見の際は芽吹きも少なかったが1週間で森林は若やぐ感じになり、芽吹き、花も増えた。但し、シロモジかアブラチャンなのか図鑑なしでは同定出来ないのが残念。小鳥のコロニーでもあるのか鳴き声も盛んだ。いくらも標高差はなく900mから1000mまでゆったりとした歩みを楽しむ。これが愛知県随一の原生林である。大迫力の映像になったのではないか。
 峠状(菜畑峠)の乗り越しで一服。今までは矢作川水系でここからは豊川水系になる。山腹を巻くように檜の植林帯の水平道を歩く。途中で林道と交差する。そこの枯れ枝の配置から道迷い防止への見知らぬ登山者同士の配慮について説明する。
 さらに進む。湧水は飲んでいいと説明。駒鳥に続いて筒鳥が聞こえてきた。やや小さいと音声さんが嘆く。峠状(富士見峠)の鞍部に着いた。小休止後、1140m峰へ最後の登りが始まる。以前はササをかき分けて登らされたが、刈り払いされて、明るい。比高200mもないのですぐ到着。トイレが更新された。中電反射板を見にゆく。休み場には御料局三角点があった。かつては皇室の御料林の名残だ。
 緩やかに下って少し登り返すと三角点の埋まる山頂である。ここでもカメラに向かって舘谷キャスターと並び登頂の喜びをしゃべる。録画はこれで完了。やっと終わった。
 今日は山頂からのパノラマも素晴らしい。御岳、恵那山、南アルプスの巨峰群、北に目を転じると山霞みの中にぼうーっと浮かんだのは名古屋駅前のビル群だった。舘谷さんも大喜びだった。
 ウィチューでは川柳を募っているので舘谷さんも一句ひねった。私は俳人なので俳句を即興で詠んだ。

  遥かなる(春香)名古屋のビルも霞みけり

 春香さんの名前を織り込むつもりはなかったが結果として織り込んだ。これはオフレコである。

 私はかつて正月休みに4回渡道した。いずれも山スキーが目的だった。その計画の中に春香山もあったがついに叶わぬ夢に終わった。北海道の山は気温が低く、低山でも山麓まで真っ白になる。但し天気も悪いので登頂の実績は少なかった。
 彼女は東京生まれだが、名前から両親のうちどちらかが北海道出身と推察して聞いてみたら図星だった。大抵は父親である。
 誕生して雪ん子のような真っ白な愛娘を抱いた。たちまち故郷の春香山の白皚々(しろがいがい)とした山容が目に浮かんだ。そうだ、春香と名づけよう、と。まったくの想像であるが・・・。

 舘谷春香さんはスレンダー美人である。去る3月のフルマラソンも4時間台で走るとか。ほっそりした体つきはアスリートゆえだった。それなら心肺機能は発達しており、日帰り登山ぐらいは楽にこなせる。今回は入道ヶ岳に続いて2回目になる。さらに登山の面白さを倍増させたようだ。
 舘谷春香さんは文学を志す。川柳以外に小説を書くし短歌も詠むとか。以前の赴任先の富山は万葉集の故地だ。北日本新聞は文学賞を募る。裏日本の人達は筆豆である。そんな土地で4年も住めば物書きになる素地ができるのだろう。実際、山の本でも福井、石川、富山、新潟の岳人は出版をよくする。
 録画は直ちに編集されて7分に集約されるそうな。映像の情報力は半端じゃないからきっと充実したものになるだろう。そうあってほしいもの。
   春更けて足助の山に登るなり

4月句帳4 花の舟伏山2017年04月25日

舟伏山に咲く岩桜
イハザクラただそれだけを見るために

ふみあとはイハザクラ見る分れ道

しぶとさを見習うべしやすみればな

寄りあって一人静は群れ咲きぬ

筒鳥の哀しき声の寂しさよ

百千鳥林に風の出でにけり

若草や雑木林は芽も吹かず

萌へいでし林一面ヤブレガサ

シロモジの芽吹きを見つつ下りけり

残雪のしるき能郷白山よ

春山や大白木山のこと言へり

一羽の蟻クレーターなめり穴を出る

何処へと羽蟻飛んでしまひけり

4月句帳3 初音聞く2017年04月22日

原生林段戸裏谷初音聞く

段戸にも春告鳥や森の上

アブラチャン咲きて段戸の春を告ぐ

芽吹き山段戸裏谷原生林

せせらぎの水も温むやブナの森

筒鳥に耳傾けよ森の中

カモシカのじっと見てゐる春の山

春曇りそれでも猿投山見たり

山里の庭は桃色花盛り

沓掛時次郎の歌詞の ♪浅間三筋♪とは2017年04月19日

 橋幸夫が歌う「沓掛時次郎」(昭和36(1961)年、作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)は長谷川伸が昭和3(1928)年に股旅物の戯曲で創作された人物だった。
音曲:https://www.youtube.com/watch?v=Tul_g3_oQeo
 その中の歌詞に歌いこまれた浅間三筋ってなんだろうと調べてみた。何のことはない。活火山の浅間山から立ち昇る三筋(本)の煙のことであった。
 浅間山に関することや沓掛時次郎に関することをさかのぼると、結構いろいろ分かった。この歌は佐伯孝夫のまったくの創作ではなかった。先駆する民謡「小諸馬子歌」に
♪小諸出てみよ浅間の山に今朝も煙が三筋立つ♪
と歌う。なかなか風情がある。
音曲 https://www.youtube.com/watch?v=jru-axzBJHQ
 続けて、「沓掛小唄」というのもヒットした。
音曲:https://www.youtube.com/watch?v=g9a_jKsOmzA
歌詞:http://www.tei3roh.com/kutsukakekouta.htm
物悲しい音色が時代を語る。おそらく大ヒットしたのである。これは昭和4年とあるのでもう長谷川伸の作詞となっている。1番から5番まであるが1番と最後のみコピーする。
1 意地の筋金 度胸のよさも

 人情からめば 涙癖

渡り鳥かよ 旅人ぐらし

 あれは 沓掛時次郎

5 千両万両に 曲げない意地も

 人情からめば 弱くなる

浅間三筋の 煙の下で

 男 沓掛時次郎
以上
 島津亜矢の歌う「沓掛時次郎」の歌詞(作詞:宮沢守夫、作曲:村沢良助)は1番の意地の筋金を引く。5番の男 沓掛時次郎の結びも引いてある。
https://www.youtube.com/watch?v=ub6-DIQfAtY
 この歌はシングルでは発売されず、2014年のアルバム「亜矢の股旅・任侠演歌セレクション」に収録。さらにさかのぼると2004年のアルバム「極めつけ 島津亜矢の名作歌謡劇場」に収録。1993年の名作歌謡劇場シリーズの中で「お梶/沓掛時次郎」があった。これが最初であろう。平成5年だから亜矢ちゃんが22歳のとき歌ったのだ。
 橋幸夫の歌う「沓掛時次郎」は「浅間三筋の煙の下で」とやはり「男 沓掛時次郎」は同じだ。橋幸夫は18歳で歌っている。

 ともに長谷川伸の作詞「沓掛小唄」を踏まえたいわゆるオマージュの作品と知った。やっぱりなあ、良い歌、いい言葉はい意味でのパクリなんだと思う。昭和4年以来、昭和36年の橋幸夫、平成5年の島津亜矢と、約30年の間をおいて、歌い継がれてきたのである。名作の由縁である。

 締めくくりにはっと思って前田普羅の句集「春寒浅間山」を繰ってみた。普羅の俳句にも浅間三筋が詠まれていやしまいか。さすがにそれはなかった。
  春星や女性浅間は夜も寝ねず
  春星を静かにつつむ噴煙か
  つかの間の春の霜置き浅間燃ゆ
  女性浅間春の寒さを浴びて立つ
・・・・浅間山のやわらかな山容に女性を見たという句意。普羅はごつごつした険しい山よりも女性的な山容の山が好きだった。富山県の金剛堂山にも久遠の恋の情を表すほどだった。  
しかし、
  榾を折る音ばかりして父と母
  母の顔父の顔ある榾火かな
・・・・普羅は若くして台湾に渡った両親との生き別れに寂しさを癒せなかった。15歳で山恋と書くほど山好きな少年になった。後記に「私は浅間が降り注ぐ女性に打ち勝てなくなった」とある。浅間山に母性を見たのである。生涯寂しさを漂わせた俳人であった。
 長谷川伸も幼くして母と生き別れの人生体験があった。これが作品の原点になっている。普羅も渡り鳥のように旅から旅へ、親の愛を受けられないまま、拗ねてやくざになってしまった時次郎に似ている。
 しかし、普羅は早稲田大の英文科を出たほどの教養人だったから身を持ち崩すことはなかった。意地もあっただろうが、俳句が人生の高みへの階段を登る手段となしたからだった。
4/23追記
 昭和14年の東海林太郎のヒット曲「名月赤城山」(矢島寵児作詞)にも「沓掛小唄」の歌詞中「意地の筋金」の部分が引用されていることが分かった。

4月句帳2 奥三河は山笑ふ2017年04月16日

  豊川市宝円寺の樹齢400年のしだれざくらは散り初め
  4/1に来た時はつぼみだったが瞬く間に盛は過ぎる
しだれざくら咲きて且つ散る宝円寺

山笑ふ表参道辺りかな

艶やかな赤や黄の色チュウリップ

  耕運機で田を耕す
蓮華田を耕す男ただ一人

  新城市設楽原歴史資料館
怒涛めく歴史雁峰山霞む

歴史など知らで芽吹きの木立かな

  塩津温泉からびわくぼ峠へ
春の日も浴びず日蔭の杉木立

春暑し風さはやかな峠かな

春山やかつて火山の岩襖

熊よけの笛に驚く春の山

草餅を食ふ空腹の身にしみる

山里は花桃多し奥三河

  稲武の喫茶店にて
シデコブシ白き花にも紅仄か