永田方正著『北海道 蝦夷語地名解 附・アイヌ語地名考』入手2023年10月14日

 アマゾンで注文してあった表題の本が届いた。北海道の地誌である。フェイスブックでやり取りする中で出てきた書名ですが著者を調べると興味があったので購入して見た。ずしりと重い造本である。

著者の永田方正はコトバンクによれば

「明治期のアイヌ研究者,教育者
生年天保15年3月1日(1844年)
没年明治44(1911)年8月22日
出生地武蔵国南豊島郡青山百人町(東京都新宿区)
出身地愛媛県
旧姓(旧名)宇高 辰次郎
経歴昌平黌に学び、文久元年伊予西条藩主の侍講となる。維新後、明治14年北海道開拓使に入るが、翌年開拓使が廃止され、函館県御用掛となりアイヌ人教育の調査を行う。これを機にアイヌ語の研究に関わる。函館商船学校、函館師範の教師を経て、19年北海道庁に入り、「北海道蝦夷語地名解」(24年刊)の編纂に従事。その後、札幌農学校教師。42年上京し、坪井正五郎の紹介で東京高女で国文、和歌などを教えた。著書に「北海小文典」がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について」

https://www.hm.pref.hokkaido.lg.jp/wp-content/uploads/2021/03/pon_kanpisosi9-1.pdf

https://otaru.jpn.org/chimeikai_age/

https://www.e-rumoi.jp/content/000005768.pdf

http://www.sofukan.co.jp/books/114.html


 
ソース:https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784883230372

出版社内容情報
 "北海道(アイヌモシリ)の山河の匂いが立ちのぼる!
 本書は、アイヌ語が生活に生きていた明治初期の北海道をくまなく巡向調査し、アイヌの古老に聞き、8年の歳月をかけて完成した北海道地名集成の最高の書である。
 永田方正は本書を字引体で作ろうとして果さなかったが、今回詳細な索引を付して使い易くしたことで彼の初志は果された。収めるところの地名約6,000、そのなかからアイヌモシリ・北海道の山河の匂いが立ちのぼる。北海道の地名およびアイヌ語を研究する者で、本書の恩恵を蒙らない者だれ一人もない、アイヌ地名の宝庫である。"

国郡
石狩国
後志国
渡島国
胆振国
日高国
十勝国
釧路国
根室国
天塩国
北見国

 無責任でいいかげんな本が量産される一方で、出版の不振や「本が読まれなくなった」傾向がよく指摘されるが、反対に「よくぞこんな労作を」と感嘆させられる良心的刊行も決して少なくない。
 一般書の書評としてとりあげられることも少ないであろう最近のそんな例を紹介したい。
 永田方正著『北海道蝦夷語地名解』。明治24年に出た名著の初版本を完全復刻した上、総索引を付したアイヌ地名6000語の研究・記録である。アイヌ語空間が生きていた初期の北海道を、たとえば知床半島や積丹半島にいたるまで訪ね歩き、可能な限りアイヌ古老に原意を確認してゆく作業は8年間に及んだ。菊判616ページというこの大著に、採算割れの冒険を冒して出したのが、全社員わずか2人の零細出版社であるのも象徴的だ。        (1984.10.1 朝日新聞)

カムエク山でヒグマに遭遇2019年07月12日

 北海道のカムイエクウチカウシ山という山で神戸の男性登山者(65歳)がヒグマに遭遇し、軽傷を負っていたことが報じられた。この登山者が凄いと思ったのはヒグマに遭遇しながらも追い払うとまた登頂へ向けて登山を続けたということだ。
 北海道の今時の山ではヒグマに遭遇することは珍しいことではない。ヒグマの生息圏へ人間がお邪魔するのであるからだ。しかし、ヒグマはツキノワグマに比してやはり怖い。登山者のザックを見ると、特に餌になる食べ物を取り出すところを見られてしまうと自分のものと思い、手にするまで執拗に追いかけるらしい。
 有名な大学生3人の死亡に至った事件もこの山であった。ヒグマに見つかったらザックは捨てて逃げるべきだったという。
 そうした事件を知っているだけに今回の登山者はヒグマ以上にカムエク登頂への執念を感じるのである。無事でよかったと思う。

「第21回企画展 幕末維新を生きた旅の巨人 松浦武四郎」へ行く2018年09月17日

 16日の朝8時過ぎ、天白の自宅を出発。R23へ入り、津市の三重県総合博物館を目指した。天気は曇り時々篠つく雨で鈴鹿山脈も雲の中だった。
 津市の官庁街にまで南下してしまったのでナビでチエックすると少し来過ぎた。津駅前で北上し、近鉄線、伊勢線をわたって県道10号へ出るとすぐに博物館に着いた。三重県出身者だがここは初めてのところだ。チケットも第3日曜は20%引きの640円だった。
 館内に入ると蝦夷のアイヌ人のくらしの説明ブースがある。そこで少しばかりタイムスリップしてから順路に入る。武四郎は旅の人だが、旅は即見聞を広めて、観察して、記録してと知的好奇心を満たすものだった。

 この軌跡は豊橋市出身の菅江真澄に似ている。生没年は宝暦4年(1754年) - 文政12年7月19日(1829年8月18日)なので、武四郎の生没年、文化15年2月6日(1818年3月12日) - 明治21年(1888年)2月10日)に重ねると、11年間は同時代を生きたことが分かる。菅江真澄も旅と人々の暮らしの観察者であり、記録の旅人に生きた。武四郎はその後輩になる。

 旅の巨人の展示は即ち著した文物が中心である。最後の段階で大台ケ原山に至る。したがって地味なものである。一巡して何かスパイスが足りない気がした。一旦館を出て昼食。午後から始まるトークに期待した。大川吉崇氏のミニレクチャーのテーマは「松浦武四郎と大台ケ原登山の謎」。
 13時30分から開始。講師の大川氏が開口一番今日は10人も入れば良い、と思っていたそうだ。席は満席になって満足そうだった。
 自分の名前を冠した大川学園を経営した教育者らしく、78歳の高齢者らくしくない熱弁をふるわれた。三重岳連の顧問であり、登山への情熱は若いころからのことで人後に落ちない。武四郎への思いも一入の人である。
 著書も紹介された書名はずばり『大台ケ原登山 知られざる謎』でレクチャーのテーマそのままであった。要旨は当時は秘境だったということ。そんな場所へ入山した武四郎の心理を探りたいのが大川氏の狙いである。結論は推測の域を出ないままである。
 熱弁の後は会場へ再入場させてもらい、ギャラリートークが始まった。博物館の学芸員から文物についての解説を走りながら伺った。最後の大台ケ原でやや丁寧な説明にやはり学芸員の解説がいないと素通りしてしまいそうな展示であると思った。
 やや満足になったので館を出て県道10号で北上。前方には錫杖ヶ岳の尖峰、経ヶ峰が見えた。北には鈴鹿山脈が横並びに見えた。三子山から仙ヶ岳の双子峰、鎌ヶ岳、御在所も南からの角度で見ると3つに並ぶ。釈迦ヶ岳を認めた辺りからはいつもの鈴鹿山脈の姿になった。R23へ迂回して帰名した。
 帰宅後はアイヌの文化再考になった。武四郎はアイヌ語を覚えたと言うが、アイヌ語の原文からの翻訳物はない。これまでにも他の学者、研究者にもない。その点を大川氏や学芸員に質問したが回答はなかった。無関心なのだろうか。
 一つの民族において文字がないとはどういうことなのか。
 大和民族も文字を持たなかった。大和言葉を漢文で書き著した。これを整理したものが『古事記』である。『古事記』を解説したのは松阪市出身の本居宣長であった。また外国に対してアイデンティティを示すために日本の国号を冠した歴史書『日本書紀』は唐の人らにも理解できるレベルの漢文で書かれたらしい。
 アイヌのユーカラはアイヌ語で語られた叙事詩であるが、原文は無く、日本語のカタカナで書かれている。
 武四郎もアイヌ人から地名を「ピーエ」と聞くと「美瑛」と漢字で書いた。一事が万事そんな調子である。要するにアイデンティティがないのである。文字を持たなかった民族は歴史を記録できず、他民族に同化または滅ぼされた。北米インディアン、エスキモーなど。
 武四郎はアイヌ人とその文化を愛したが和人としては当時のロシアの南下に備える重大な目的があった。そのための蝦夷の探検であった。それがアイヌ民族を滅ぼす結果になった。
 所詮、アイヌは採集生活者であった。栽培せずに山川からの恵みで命をつないできた。言葉や文化は口承で間に合ったのだろう。文字が無ければ教育も充分ではない。
 記憶の民族よりも(文字による)記録の民族が優るのである。

人生ことごとく運である。 山岳遭難もまた運である。赤沼千尋2017年10月19日

 北海道の旭岳で吹雪の中下山中に道に迷い、沢でビバークを強いられた4人は今朝無事にヘリで救出された。あの厳寒の山中で耐えてみな生存していたのが奇跡に思えた。あの4人は本当に運が良かった。
 1989年10月8日の立山の稜線で吹雪かれて8人が死んだ。天気が急変する秋山は怖いと思ったものだ。撤退の判断ができなかったリーダーには悔恨の出来事だった。
 旭岳は迷い込んだ所が沢の窪みで良かった。不幸中の幸いだった。トムラウシ遭難の場合は吹きさらしの稜線で9人が死んだ。
 つくづく運の良さ悪さを思う。
 そこで思い出すのが表記の言葉だった。赤沼千尋『山の天辺』の中にある。赤沼は燕岳山荘の創業者である。
 続いて引用してみよう。
「ことに雪山、それは荒れた日には、眼も開けられぬ恐ろしさに総毛立つ魔者となり、晴れた日と雪崩と言う武器で、音もなく襲いかかる狡猾な肉食獣となることがある。登山する人間にとって、このような山の災厄から逃れられる唯一の道は、天候などの条件のよい日に登山する以外はない。
 そして、早く登山したいはやる心を押さえながら、良い天候を待ち続ける忍耐心と、待ちに待つ時間がとれるかどうかということが問題なのである。
 冬山は夏山とは違った生き物である。景観も通路も異なり、気象に一喜一憂しなければ、あっと言う間に風雪に吹かれて道に迷い込み、或いは雪崩の巻き込まれるのである」

 天気の良い日を選んで登山すれば遭難なんてまず起きないものである。ところがアルピ二ズムという西洋の登山思想に染まった登山者は悪天候を突いてこそ登頂の価値があるとばかりに突き進む。
 これは人間の業である。いや登山者の業である。
 どうしようもない感情である。国学者・本居宣長はこれを「もののあはれ」とかいった。映画監督の小津安二郎も映画で「もののあはれ」を表現した。
 小椋佳作詞作曲で美空ひばりに与えた「愛燦燦」の歌詞の一節に
   ♪雨 潸々と この身に落ちて 
    わずかばかりの運の悪さを恨んだりして 
    人は哀しい哀しいものですね♪
これまたどうしようもない人間の感情を表現して秀逸である。
 
 同じ忍耐なら厳寒の中で忍耐するよりも安全圏にいて、好日を待つ忍耐が良い。命あってのものだねということだ。
 故渡部昇一氏の『論語』の本で人生は待つこと、と解説してあった。中々待てないからだから修養が必要である。運を良くするには待つ修養が大切なのか。

渡渉の失敗による遭難が増えている2017年08月31日

 北海道の幌尻岳で川を下山中に3人が渡渉に失敗、流されてロープに繋がれたまま溺死という痛ましい遭難事故があった。流された仲間を助けるために2人も命を亡くした。
 日本山岳会広島支部ということで驚いた。
 なぜこんなことになったのか、一つは準備不足であっただろう。増水した川の渡渉についての心得と技術の知識が不足していた。さらに突っ込めば、現代人の都会生まれの都会育ちが増えて、渡渉が日常から消えたことがあるように思う。
 私などは子供のころは夏休みの間は近くの川で遊ぶのが日常だった。ゴム草履をはいてパンツ1枚はいて川の上流へ、渡渉したり、ある時は泳ぎ、またある時は魚をとったりした。深い淵にもぐったり、川の中に居座る大きな岩へ攀じ登って飛び込んだりした。
 そんな遊びのための川が台風や大雨になると濁流になり一変する姿も眺めた。だから川の怖さをよく知っている。ところが同年代でも都会育ちはそんな体験を持たないから想像すらできない。知らないということを知らない。
 自然への怖れを持ってほしいと思う。登山技術だけではだめで自然への畏敬の念を抱いて欲しいものである。

2月10日とは?2016年02月10日

 2月10日は何の記念日だったのか、ふと思う。7日は北方領土の日だった。そこで思い出したのは、北海道の名付け親として知られる松浦武四郎の死去した日だった。明治21(1888)年2月10日に亡くなった。晩年は大台ケ原の開拓に力を入れた。

 ググると、簿記の日もヒットした。
 以下は全国経理教育協会のHPからコピペした。

「簿記の日
簿記の原点である福沢諭吉の訳本 「帳合之法」の序文が1873年(明治6年)の2月10日に草されたことにちなみ、本協会が制定しました。
「帳合之法」とは
福澤諭吉により慶応義塾出版局から明治6年に『帳合之法 初編』2冊、翌年『帳合之法 二編』が2冊出版され、計4冊からなるわが国において最初の西洋式簿記書の訳本です。

「帳合之法」の原書は1871年アメリカ商業学校の先生ブライアントとスタラットンが書いた学校用『ブックキーピング』(Bryant and Stratton, Common School,Book-keeping) を翻訳したもので、まだ「簿記」という訳語がなく、わが国の商店などに用いられていた「帳合」の語を以てこれに当てたとされています。『帳合之法 初編』の2冊には単式簿記、『帳合之法 二編』の2冊には複式簿記が説明されており、福澤諭吉が日本に初めて複式簿記を紹介した書物です。」

 簿記は行政書士の資格で会計事務を専門とする私にとって、基本の基本になる知識と技術である。行政書士法には、伝統的な許認可のみならず、権利義務の書類作成とともに事実証明の書類作成、すなわち会計の職務も法定化された。本職であり、一生の仕事になった。
 名前は忘れたが、このような任意団体の通信教育で簿記を学び、協会内部の検定資格を得た。その後、日本商工会議所の簿記検定2級を取得、翌年には全国商業高校の簿記検定1級を取得した。理論だけから、実務の修業になった。もう40年以上も貸方借方の世界になじんだ。
 ペンとインクとソロバンで、仕訳帳から元帳に転記し、試算表を作成するが一発では合わない。合ったときは嬉しい。まことに、帳合の法とはよく言ったものだ。あれから、ペンと紙の帳簿、ソロバンはパソコンと会計ソフトを使った方式に変わった。試算表は簡単に作成できるようになった。消費税が加わり、大きな変化を遂げた。
 時代が変わっても変わらないものは、経営者の判断力の重要性だろう。正しい計算よりも正しい判断が必要なことは、いつの時代でも変わらざる真理であろう。

谷口けいさん遭難 「登山家の星」悼む 田部井淳子さん2015年12月23日

毎日新聞から
 世界的登山家の谷口けいさん(43)が大雪山系黒岳で遭難、死亡したとの知らせに山岳関係者からは驚きと悲しみの声が上がった。

<谷口さんは女性として世界初の「ピオレ・ドール」受賞>「今の日本で最も活躍している女性登山家の一人」
 谷口さんは2006年春にアルピニストの野口健さんらが行ったネパール・マナスル峰の清掃登山隊に参加し、自身初の8000メートル峰登頂を果たした。当時、別の隊でマナスルに入山中で、ベースキャンプで交流した登山家の田部井淳子さん(76)は「とてもショックだ。谷口さんは男性と対等に登れる体力と技術を持った女性登山家の星だった。これからの人を失ってしまい、残念でならない」と突然の死を悼み、「女性にとって登山中のトイレは大きなハンディ。装備を外し、バランスも崩しやすい。突風の影響なども考えられる」と話した。

 谷口さんが黒岳に入山する直前に見送ったという登山家でニセコ雪崩調査所所長の新谷暁生(しんやあきお)さん(68)=北海道ニセコ町=は「もっと多くのことを成し遂げてくれるはずだったのに」と惜しんだ。【手塚耕一郎】
以上
 朝刊は谷口けいさんの遭難死を報じた。国際的登山家の死を悼んだ。用足しにと確保のザイルを解いた。それがどんなリスクがあるのかは彼女も十分に分かっていたはずだ。転落というが、ほんのちょっとした油断であろう。田部井淳子さんは女性のハンディを指摘された。だから彼女は女性だけでパーティを組む。女性だけの山岳グループはそういう意味があるのだ。

訃報!谷口けいさんが大雪山系・黒岳で遭難死2015年12月22日

 毎日新聞から
21日午後2時50分ごろ、北海道上川町の大雪山系黒岳(1984メートル)を登山している男性から「女性1人の姿が見えなくなった」と道警本部に電話で通報があった。道警などが22日、周辺を捜索したところ、遭難した山梨県北杜市大泉町の登山家、谷口けい(本名・谷口桂)さん(43)を発見。病院で死亡が確認された。

 道警旭川東署によると、21日午後2時35分ごろ、山頂付近でロープを使って登っていた時、谷口さんがロープを外して離れ、仲間が戻ってこないのに気付いた。近くの斜面には滑落したような跡があったという。

 谷口さんは、男性4人を含む道内外の登山仲間5人組でスキー登山のため20日に入山。同日は7合目で1泊した後、21日に山頂に登る予定だった。

 道警は21日夜に無事下山した4人から事情を聴くとともに、山岳遭難救助隊などが22日朝から捜索を開始していた。

 谷口けいさんは、世界の優れた登山家に贈られるフランスの「ピオレ・ドール賞」(黄金のピッケル)を2009年に女性として世界で初めて受賞。エベレストなどの登頂経験もあり「今の日本で最も活躍している女性登山家の一人」とも評される。【横田信行、日下部元美】
以上
黒岳の地図
http://maps.gsi.go.jp/?ll=43.703716,142.921314&z=15&base=std&vs=c1j0l0u0

 今年、1月17日の支部の新年会に招き、スピーチを拝聴したばかりだった。明るく感じのよい女性登山家だった。インターネットで遭難の報を知ったが、大怪我をしていながらもきっと生存しているだろうと思った。その願いも空しく帰宅後のニュースは死亡を報じた。山は非情であると強く思う。
 お悔やみ申し上げる。

トムラウシ山遭難・再考2012年07月16日

 今日の中日新聞朝刊に「トムラウシ遭難から3年」、「遺族 募る怒り」と大見出しが出た。「捜査進まず」ともあり未解決をにおわせる記事になっている。
 過去に拙ブログでも都度、採りあげてコメントしてきた。
   低体温症の怖さ
http://koyaban.asablo.jp/blog/2010/07/16/5222954
   トムラウシ遭難事故最終報告
http://koyaban.asablo.jp/blog/2010/02/25/4907555
    同上   追記
http://koyaban.asablo.jp/blog/2010/02/26/4909666
  北海道の山の遭難事故の反省点
http://koyaban.asablo.jp/blog/2009/07/25/4457664
  北海道の山の遭難事故にショック
http://koyaban.asablo.jp/blog/2009/07/17/4441299
 大切な家族を山で亡くした遺族の立場で考えると怒りが込み上げるのも理解はできる。専門家による最終報告では自己責任という記載もあった。これも遺族からは不満になる。そこで道警による捜査で旅行会社の刑事責任を追及してもらいたい、というのが記事の骨子だろう。
 立山・大日岳の雪庇崩落事故では民事責任は立証されて国は多額の賠償責任を負わされて遺族に支払った。ところが刑事責任までは問われなかった。
http://www.dailymotion.com/video/xcg1js_yyyyyyyyy-yyyyy_news

 法律の専門家である弁護士はどう見ているか。自分で登山もやる弁護士の溝手康史氏は山岳雑誌にも登山の法律問題を寄稿している。
溝手法律事務所のHP
http://www5a.biglobe.ne.jp/~mizote/index.htm
HPから
「5、ツアー登山における自己責任の範囲
 いかなる登山でも一定の危険性があり、登山に参加することはそのような危険を了解していることを意味する。道路を歩く歩行者は、自動車の通行による危険を承認したうえで歩行するわけではないから、原則として歩行者に危険性の承認はありえない。しかし、歩行者といえども、横断歩道以外の場所で車道を横断すれば一定の危険性を承認しているとみなされる。
 日本の裁判所は危険の承認を違法性阻却事由として扱わない傾向があり、危険の承認は注意義務違反を判断する諸事情の1つとして考慮することになるが、山岳地帯は本質的に危険であるにもかかわらず、自分の意思で敢えて行うのが登山であるから、危険の承認の有無は注意義務違反を判断する重要な事情と考えるべきである(「岳人」2006年9月号172頁参照)。
 もっとも、ツアー登山においては、契約に基づいてツアーガイドが案内することが前提となっているので、参加者の危険の承認はあくまでツアーガイドの安全配慮義務を前提としたものとなる。そこでは、ガイドが一般的なレベルの能力、技術、経験を有し、ガイドとしての一般的なレベルの安全配慮義務を尽くすことを前提としたうえで、それでも通常予想される程度の危険は参加者が承認しているとみなされる。
 例えば、冬に北アルプスの登山を行うのであれば、参加者は冬山の寒気や危険を承認して参加したものとみなされる。冬山など自然の持つ危険性は、ガイドがついていてもいなくても変わりはないからである。したがって、通常程度の冬山の風雪の中で疲労と寒さのために体力を消耗し、悪天候による停滞中に疲労凍死したとしても自己責任である。また、天候が悪化したために、荒れ狂う風雪の中を下山中に動けなくなり、凍死しても自己責任とされる場合が多いだろう。もっとも、このような事態をガイドが容易に予見できるだけの事情があり、容易に回避できるような状況があれば、ガイドが予見義務違反、結果回避義務違反の責任を問われることがある。
 では、風雪が強い中で冬山経験の豊富な客が敢えて登頂することを望み、山頂アタックを試みたが、予想以上の悪天候のために遭難した場合、風雪が強い中で敢えて山頂アタックを試みたガイドに法的責任が生じるだろうか。
 「ガイドは客の安全を守る義務がある」という点を形式的に理解すれば、「現実に天候が悪い中で行動をし、そのために遭難したのだから、遭難を予見することは可能であり、ガイドには登山を中止すべき注意義務があった」と結論づけることは容易だろう。しかし、ここで重要な点は、一定の程度の危険を承認したうえで客が行動を選択した点である。現実には、悪天候は予想以上であり、そのために遭難したのであるが、山岳という自然の持つ危険性を予め正確に予測することは不可能であり、ある程度の冬山経験のある客が悪天候の中で行動することを敢えて選択したことは危険の承認といえる。ただし、ガイドが行動中に遭難の危険を容易に予見できたとすれば、ガイドは途中で登山を中止して下山すべき注意義務を負う。この場合、悪天候の中で登山を決行したことがガイドの過失になるのではなく、遭難の危険を容易に予見できたのに、途中で登山を中止しなかったことが過失となる。
 他方、冬山登山の参加者が初心者であるような場合には、客が「どうしても登りたい」と言っても、天候が悪ければガイドは登山を中止すべき注意義務を負う。この場合、初心者の客が「どうしても登りたい」と言ったとしても、登山の危険性を十分に判断できるだけの能力に欠けるので、公平の見地から危険の承認があったということはできない。
 前記の穂高岳ガイド登山事故では、新雪のラッセルに時間をとられ途中で時間が足りずビバークが避けられなくなったとしても、それは11月の北アルプスでは想定された事態であり、危険の承認の範囲内の行動である。したがって、仮に、ビバーク中に疲労凍死したとしてもガイドの責任を問うことはできない。しかし、時間不足のために予定を変更して雪崩の危険のあるルートを下降することによる危険は、11月の北アルプスの縦走登山では想定外のものである。したがって、この事故により客が遭難したことに危険の承認があったとはいえない。
 唐松岳ガイド登山事故については、悪天候のために下山ルートを見失い、ビバークすることは冬山登山で予想される危険の範囲内のことであり(出発時に、下山ルートを見失う危険を予見することが可能だった場合は別であるが)、ガイドに法的責任は生じないだろう(この事故では死亡したのがガイドなので法的紛争になりにくい)。
 他方、前記の谷川岳ガイド登山事故は残雪期の岩登りであるから、滑落の危険性があることは客も想定しているといえる。ただし、ガイドが滑落することが予見できるような場所でロープをはずすように指示したとすれば、ガイドの安全配慮義務違反が問われることになるが、この事故の具体的状況が不明なので何とも言えない。
 一般的には、悪天候であれば、当然にガイドに登山を中止すべき注意義務を負うというものではない。客にそれなりの体力や技術があれば、少々の悪天候でも登山を安全に実施できないわけではないし(現実に、羊蹄山ツアー登山、十勝岳ツアー登山事故、トムラウシ・ツアー登山事故、白馬岳登山事故でも、遭難することなく行動できた客がいる)、客に悪天候による危険性の承認があれば客の自己責任になるからである。しかし、一般にツアー登山では客はガイドにとって初対面であることが多く、ガイドが客の体力や技術を正確に判断することが難しいことが多いので、ガイドは客にそれほど体力や技術がないことを前提としたうえで行動を考えなくてはならない。少々の悪天候でも行動をすることが許されるのは、ガイドがそれまでに客と行動を共にしたことがあり、客の力量を正確に把握でき、登山の形態や状況から客が登山の危険性を十分に理解し、判断しているとみなすことができる場合に限られる。その場合でも、万一、ガイドの予想に反して客が悪天候に耐えることができず遭難に至ればガイドの判断が的確だったかどうかが法的に問題となるので、ガイドとしては敢えてこのようなリスクを犯さない方が賢明である。
 前記の羊蹄山ツアー登山事故の場合で言えば、台風の通過直後であり、登山当日は悪天候が予想され、出発前に2人の客は登山を断念した。他の客は参加することにしたのだが、参加者はある程度の悪天候を予想していたと言え、その限りでは出発時点では一定の危険を承認していたとみなされる。しかし、9合目付近で風速毎秒15メートルくらいあり、パーティーが崩壊状態となったのであるから、そのままでは安全に客をガイドできないことをツアーガイドは予見できたはずである。この時点で、登山を続行するか、あるいは、どのように行動すべきかはツアーガイドの判断によって決定されるべきことであり、客には選択すべき能力もそれだけの状況にもなかった。そのまま登山を続行したことは極めて危険なことであったが、それを客が自ら決定したとして危険の承認があったと言うことはできない。
 要するに、羊蹄山ツアー登山事故の場合には、死亡した客は出発時における悪天候による一定の危険を承認していたが、9合目付近ではガイドに全面的に頼るしかなく、山頂付近での客の行動は自己決定に基づく危険の承認があったとはいえない。
 なお、このケースではガイドに安全配慮義務違反があるのだが、現実には、客が出発時において予想される悪天候による登山の危険を認識していたとは思えないフシがある。余りにも安易に旅行会社主催のツアー登山に参加する傾向が問題とされている(これはガイドの責任とは全く別の問題である)。地図、磁石、雨具、ヘッドランプ、非常食等を持たないツアー登山参加者は参加する資格がないのだが、添乗員が大の大人を相手に所持品検査はできず、、せいぜい、「雨具、ヘッドランプをちゃんと持っていますね?」と言うくらいのことしかできないのが現実でだろう。天候のよいときであれば添乗員でも安全にガイドできるかもしれないが、悪天候や降雪があった時に、添乗員にそのような登山の経験がなければ十分に対応できないし、あるいは、客が崖から転落しかかったような場合に添乗員が適切に救助できる技術を持っているとは思えない。添乗員によるツアー登山の場合、そのような危険を了解したうえで参加するという自覚が必要である。仮にガイドに安全配慮義務違反の責任が生じたとしても、失われた自分の命は戻ってこないのであり、登山者には、「いざとなれば、自分の命は自分で守る」という自覚が必要である。
 羊蹄山ツアー登山事故、十勝岳ツアー登山事故、トムラウシ・ツアー登山事故は、いずれも、ガイドが、客の体力やルートファインデイング能力を見誤ったことが遭難に繋がっている。「この程度であれば、この客はついてこれるはずだ」とか、「この客はまだ歩けるはず」とガイドは考えたのだが、それに反して客の状態はもっと悪かった。ガイドはその客とほとんど初対面であるにもかかわらず、なぜ、そこまで客の能力を過信することができたのだろうか。恐らく、トムラウシ・ツアー登山事故の場合には、「できれば、他の客を登らせてやりたい」などのガイドの心理が働いたのではないかと思われる。羊蹄山ツアー登山事故の場合には、最初に登頂したのは添乗員と客1人だったという状況からすれば、この添乗員自身が個人的にどうしても登頂したかったのではないかと思われるフシがある。
 ガイドは、客の能力を冷静に観察し、判断に迷えば、客の登山能力を低めに見積もって判断すべきである。
 ガイドが下山を決定したにも関わらず、客がそれを無視して登山を続行する場合は、その後の客の自己責任に属する。あるいは、ガイドが雨具を付けるように客に指示したにも関わらず、雨具を着用しない場合には、それは客の自己責任に基づく行動である。
 ガイドと客が冬の岩壁登攀をするようなガイド登山とか、ヒマラヤの高峰のガイド登山など極めて危険性の高い登山では、ガイドが客の安全を確保することが困難なことが多いので、客の自己責任の範囲が広くなる。」

 「自分の命は自分で守る」自覚が必要。

 登山には超法規的な部分がある。そう思う。細かいルールを決めておいても、現場で守りきれるかどうかは分からない。

 遺族の心を慮って提案すると・・・。
①可能ならば同じ山にツアー登山で登ってみる。
②なぜこんな最果ての山に登りたがったのか故人を理解してあげる。
③同行者と友達になって登山者の心理を理解する。

 旅行会社を叩いても癒されるだろうか。
 本来は、旅行会社、リーダーは利用した登山者から感謝されていいはずだ。こんなところへ連れて来てもらってありがとう、というべきだった。事故になると一転して、豹変する。山に登るには普段と違う服装や持ち物を持つことになる。そのへんから理解していって欲しいと思う。バスツアーのツアーとは違うのだ。

 登山界では百名山を求めてツアー登山する登山者は批判の的になっている。いささか古いが、朝日新聞記者だった本多勝一氏、医師で登山家の原真氏(故人)らは自著で百名山登山を批判している。今はこんな筋金入りの批評家は居なくなったように思う。
 元々『日本百名山』は登ってください、という意味で書かれたわけではない。山の雑誌が特集したり、NHKがTVで放映し、ビデオも販売して一般登山者にも広まっていった。映像を見れば「わっ登りたい」といつしか、それがブームになって、自分の力量もわきまえずに、ツアー登山に参加して行く人が激増していった。そうした背景での事故発生である。

 今も、私の会の人らが北海道の斜里岳などに遠征している。昨年、斜里岳の登山口まで行って泊まったが、雨で決行を断念したからだ。私も判断を求められて困った。午前3時、昨夜は海辺の灯りが見えたが、今は見えないので、中止、と宣言した。
 昨年は雨でも観光バスをチャーターしたツアー登山客がずぶ濡れで下山してきた。雨だからといって中止をするとクレームになるそうだ。雨で地盤が緩むと動かない岩も動くし、崩落もある。山では何が起きても不思議ではないと心得たものが参加するべきだろう。
 今後、大きな遭難事故が起きないことを祈るばかりである。

雌阿寒岳2011年08月10日



雌阿寒岳から眺めた阿寒富士(1等三角点)。凄絶な火口周辺の景観は活火山そのものでした。今回は天候不順と時間に余裕がなくて断念した。