猿投山の北尾根と戸越峠界隈を歩く2017年11月19日

北尾根で見つけた滑子
 余りの暑さに負けて撤退した7/15の再挑戦である。8時30分に県道33号から沢に伸びる車道に入る。7月はムンムンした草いきれと水滴でびしょぬれになったが、今は落葉し草も枯れて踏み跡も明瞭になって歩きやすい。車道終点から沢に下りる。沢歩きといっても沢足袋などは使わず、登山靴のまま渡渉するのである。
 最初は傾斜も緩くどんどん遡る。すると最初の堰堤に当たるので左岸から巻く。また沢床に下りて溯ると最初の分岐に出た。左又へ行く。先月の台風でまだ緑の葉をつけた灌木が倒れてやや歩きにくい。7月には見なかった赤テープがあるので好事家が入渓しているのだろう。
 7月には右岸の高巻をしたが、今回はゴルジュに入った。風化花崗岩の地質であるが、両岸が切り立っているからゴルジュと言える。左岸の山腹の根こそぎの倒木が沢一杯落ちて前途を阻んだ。小滝もあるので右岸から巻いた。巻きあがった所は7月に左岸から北尾根にエスケープした所だった。ここで一旦ゴルジュは途切れた。
 ゴルジュは滝の後退という。その通りである。滝が落ちて浸食が進むと沢が削られて、溝状になるのだ。
 今回はエスケープ地点からも沢を進んだ。ゴルジュではないがV字形の険しい渓谷であある。猿投山の秘渓といいたいが、高巻道はあるし、山腹に古い道形が残っているので知る人ぞ知る溪であろう。第一、二次林や植林の山では自然味は少ない。険しさだけが取り柄である。
 二股ではスマホでチエックをしてもらったが、必ずや赤いテープのマーキングがあった。これを信じて進めば問題ない。とはいえ、先蹤者にもミスはあるので注意するにこしたことはない。
 どんどん進むうちに沢が立ってきて傾斜が強くなった。元々細かった水流も途絶えた。稜線が明るくなってきた。落石に注意しながら這うように登った。源流が広がり右手の尾根に乗り移ると踏み跡や赤テープがあった。たどっていくと北尾根の界標131に達した。10時30分、2時間が経過していた。ここで小休止。
 南へ歩くと、赤テープを2重に巻いた分岐に着いた。これが地形図の破線路の道だが、7月はここから踏み跡をたどったがすぐに見失い、藪尾根を強引に下って東大演習林の林道に下りて県道に出た。
 分岐から南へは独立標高点480mへ行き、猿投山に達する。11時となり、登頂すると往復2時間、下山1時間30分を見込むと日没につかまる恐れがあるので引き返した。
 再び、沢からあがった地点に戻り、北尾根の急斜面の山腹とやせ尾根のマーキングをたどりながら北進する。地形図の戸越峠の「越」のところのコブには左を巻く赤テープと直進に分かれた。左は峠へ行くのだろう。直進してコブに達し、右折した。このコブから右(東)への踏み跡やマーキングがあった。明瞭な尾根であったから不安なく下れた。最初の右又と左又の分岐だった。沢床を行くと2回目の堰堤があり左から越える。すると良い道がまた沢に下っていく。さらに最初の堰堤も左から越えてすぐに車道に出会った。後はマイカーまで戻った。帰路につくと間欠ワイパー程度の小雨になった。猿投山は黒い雲に巻かれていた。時雨模様の寒い1日だった。
 帰路は保見から長久手市に周り、「ござらっせ」で入浴して体を温めて帰名した。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/07/15/8621285

救助要請は当事者でないとヘリは飛ばない2017年10月24日

 今夜は愛知岳連の理事会だった。様々な報告の中で書きとめておきたいことがあった。
 それは今夏、D山岳会4人パーティが槍ヶ岳の北鎌尾根で先頭が事故発生した際、場所が場所だけにドコモの携帯の電話が通じなかった。すぐ動けず、通りすがりの山岳ガイドの携帯がAUで使えたので救助要請を委託した。ところが、現地に3泊して食料も尽きかけても救助ヘリが来ない。それでメンバーの1人が携帯の通じるところまで降りて警察に連絡できた。何とかけが人をピックアップしてもらったという。
 なぜそんなことになったのか。いろいろ調査すると
 警察は当事者からの通報でないと動きませんとのこと。また山岳ガイドもピンからキリまであり、ただの添乗員みたいなのもいるので信頼してはいけないとのことだった。それよりなにより山岳ガイドはお客の引率が使命であり、旅行会社の命令下にあるので余計な仕事には係わらないとも言われた。つまり当てにしてはいけないのである。

 もう1つ、別の報告でも事故が発生して救助要請する際は、警察へダイレクトに連絡せよ、とのことだった。山岳会の留守役、家族、友人を経て連絡すると、警察がすぐ必要な事情を聞いてくるが、当事者以外だと、今どんな状況なのか、分からない。怪我は食料はメンバーは現地の様子はなど緊急で知りたいことがおおく、ヘリを早く出動させるにも正しい情報が欲しい。

 というわけで、救助要請は他人に委託しないこと、警察とつながったら「山岳事故です」と通報すること。それでも、単独行で事故ったら通りがかりの登山者は有力な協力者になりうる。過去には通報してもらって助かった例もある。この点は考えものである。
 結局、山岳ガイドがきちんと救助要請してくれたかどうか。警察は連絡をうけても動かなかったらしいがちょっと信じがたい。長野県は今ヘリが飛ばせないこともからんでいると思う。現在は埼玉県から飛んでくるらしい。
 墜落事故でヘリを失い、今は特別態勢という。
https://thepage.jp/detail/20170721-00000009-wordleaf
 こんな事情もあるかも知れません。

 山の常識の基本のキのような話であるが、遭難事故が激増している今は心しておきたいことである。

人生ことごとく運である。 山岳遭難もまた運である。赤沼千尋2017年10月19日

 北海道の旭岳で吹雪の中下山中に道に迷い、沢でビバークを強いられた4人は今朝無事にヘリで救出された。あの厳寒の山中で耐えてみな生存していたのが奇跡に思えた。あの4人は本当に運が良かった。
 1989年10月8日の立山の稜線で吹雪かれて8人が死んだ。天気が急変する秋山は怖いと思ったものだ。撤退の判断ができなかったリーダーには悔恨の出来事だった。
 旭岳は迷い込んだ所が沢の窪みで良かった。不幸中の幸いだった。トムラウシ遭難の場合は吹きさらしの稜線で9人が死んだ。
 つくづく運の良さ悪さを思う。
 そこで思い出すのが表記の言葉だった。赤沼千尋『山の天辺』の中にある。赤沼は燕岳山荘の創業者である。
 続いて引用してみよう。
「ことに雪山、それは荒れた日には、眼も開けられぬ恐ろしさに総毛立つ魔者となり、晴れた日と雪崩と言う武器で、音もなく襲いかかる狡猾な肉食獣となることがある。登山する人間にとって、このような山の災厄から逃れられる唯一の道は、天候などの条件のよい日に登山する以外はない。
 そして、早く登山したいはやる心を押さえながら、良い天候を待ち続ける忍耐心と、待ちに待つ時間がとれるかどうかということが問題なのである。
 冬山は夏山とは違った生き物である。景観も通路も異なり、気象に一喜一憂しなければ、あっと言う間に風雪に吹かれて道に迷い込み、或いは雪崩の巻き込まれるのである」

 天気の良い日を選んで登山すれば遭難なんてまず起きないものである。ところがアルピ二ズムという西洋の登山思想に染まった登山者は悪天候を突いてこそ登頂の価値があるとばかりに突き進む。
 これは人間の業である。いや登山者の業である。
 どうしようもない感情である。国学者・本居宣長はこれを「もののあはれ」とかいった。映画監督の小津安二郎も映画で「もののあはれ」を表現した。
 小椋佳作詞作曲で美空ひばりに与えた「愛燦燦」の歌詞の一節に
   ♪雨 潸々と この身に落ちて 
    わずかばかりの運の悪さを恨んだりして 
    人は哀しい哀しいものですね♪
これまたどうしようもない人間の感情を表現して秀逸である。
 
 同じ忍耐なら厳寒の中で忍耐するよりも安全圏にいて、好日を待つ忍耐が良い。命あってのものだねということだ。
 故渡部昇一氏の『論語』の本で人生は待つこと、と解説してあった。中々待てないからだから修養が必要である。運を良くするには待つ修養が大切なのか。

渡渉の失敗による遭難が増えている2017年08月31日

 北海道の幌尻岳で川を下山中に3人が渡渉に失敗、流されてロープに繋がれたまま溺死という痛ましい遭難事故があった。流された仲間を助けるために2人も命を亡くした。
 日本山岳会広島支部ということで驚いた。
 なぜこんなことになったのか、一つは準備不足であっただろう。増水した川の渡渉についての心得と技術の知識が不足していた。さらに突っ込めば、現代人の都会生まれの都会育ちが増えて、渡渉が日常から消えたことがあるように思う。
 私などは子供のころは夏休みの間は近くの川で遊ぶのが日常だった。ゴム草履をはいてパンツ1枚はいて川の上流へ、渡渉したり、ある時は泳ぎ、またある時は魚をとったりした。深い淵にもぐったり、川の中に居座る大きな岩へ攀じ登って飛び込んだりした。
 そんな遊びのための川が台風や大雨になると濁流になり一変する姿も眺めた。だから川の怖さをよく知っている。ところが同年代でも都会育ちはそんな体験を持たないから想像すらできない。知らないということを知らない。
 自然への怖れを持ってほしいと思う。登山技術だけではだめで自然への畏敬の念を抱いて欲しいものである。

猿投山捜索行③と土岐市白鳥神社をたずねる2017年07月15日

豊田市迫町からの猿投山
 7/9までに捜索しきれなかった豊田市側の戸越峠付近の沢に入ってみた。峠直下のつづら折れの県道33号から西に入る林道跡に分け入る。草深いので最初から雨具のズボンをはいた。終点には大きな砂防堰堤がある。右岸から乗り越す。白砂のせせらぎである。藪はなく、スイスイ遡る。
 ところが突然、両岸が切り立ちゴルジュの様相を見せ始めた。単独なので奥深く入るのはためらう。右岸にいい踏み跡が続くのでそこを辿った。流れと巻道の落差は大きく谷底が見えない。
 ゴルジュはのど元の意味である。または滝の後退で出来るともいわれる。谷底のどこかに滝があるかも知れない。確かに危険領域である。滝は強引に攀じ登れるが、下降が難しい。装備がないので無難に行く。
 踏み跡と流れが一致したところで左岸に渡り、山腹のけもの道を辿ってみた。谷底とはいえ、真夏で風が通らないために非常に暑く、樹林下でも高温多湿である。1時間もしないのに大汗をかかされる。たびたび、水分補給して休んだ。こんなところで倒れたら笑いものになりかねない。
 シダの群生に隠れたけもの道を辿って、とにかく尾根に出た。かすかな風を受けて涼しい。水を飲んで落ち着きを取り戻す。地形図を眺めても位置は不明だが、地形図の戸越峠の印刷の「越」付近だろう。尾根上には踏み跡があるので辿ってみた。すると、7/8に辿って引き返した地点に着いた。北尾根に立っていることを確認できた。ここから赤テープが多くなる。多くの登山者がここで引き返しているのだろう。
 北尾根を南へたどると赤テープを2重巻きにした分岐に着いた。もう一か所あるが、ここから下ってみた。この枝尾根は最初は踏み跡が残っていたが途中からなくなる。やむなく藪をこいで急斜面を下ると東大演習林の林道に降り立った。ここまで2時間経過した。
 そのまま無難に歩ける。県道33号線に出て捜索行は終わった。戸越峠を越え、マイカーのデポ地に戻った。汗だくの体をパンツ以外は着替えた。

 次は岐阜県土岐市に向かった。県道33号から国道352号に左折。県境を越えた。目的の1つは西山712m(曽良山、鶴岡山)の登山口のチエックである。愛知県側からしか登ったことはないが、実は岐阜県の方が登山道の整備もして力を入れている。愛知県では西三河の最高峰であるが登りは20分ほどで整備するまでもない。ついでに曽木のバーデンパークSOGIに入湯した。パンツも着替えてさっぱりした。
 そして第2の目的の白鳥神社の参拝があった。愛知県の東郷町にも白鳥の地名があり、白鳥神社があった。ここも白鳥の地名であり白鳥神社があった。さらに国道363号を瀬戸市に向かい、柿野の白鳥神社に参拝を果たした。こちらは本格的なたたずまいである。
 実は柿野は垣野だという。
 猿投山の山上には大碓命の墓がある。大碓命は『古事記』ではさえない役割である。景行天皇の妃の候補の女性を横恋慕し、自分の妻にしてしまった。美濃の美山町の柿野に隠れ住んだ。晩年は土岐市の柿野で亡くなったそうな。祭神をヤマトタケルにしたのは人気があったことと、先に猿投山に葬られたからだという。双子の兄弟だった大碓と小碓。小碓はのちに大活躍してヤマトタケルになるが悲劇的な最期を遂げる。大碓は平凡ながら平民に近い幸せを享受した。
 山名の景行天皇がいたずらする猿を投げたという伝説には妃を横取りした大碓を勘当したことを暗示しているように思えてならない。

猿投山捜索行②2017年07月09日

 去る6月29日から11日間毎日十数名の山岳会有志が集結して捜索活動に当ったが、何ら手がかりの得られない残念な結果になった。しかし、綿密に緻密に地形図を眺めて空白を埋めるような捜索でも発見に至らなかった。すると捜索範囲以外の場所に潜んでいるとしか思えない。それには余りにも範囲が広すぎる。

 東大演習林内の未踏査の沢と尾根を3人で探った。沢といっても水量は少なく登山靴のまま歩ける。源頭の手前で左の未踏の尾根に上がった。植生は松、照葉樹林、落葉樹林が混じる。下草は生えていないので歩きやすい。
 松はかつてははげ山になった証拠といえる。薪炭林として活用されていたに違い。石油の輸入でエネルギー革命が起きて、薪炭林の炭は需要が激減、山の落葉樹は放置されたままになった。
 雨で栄養分が流されて特に尾根は地味がやせる。やせると松しか生えない。そこへ落葉樹は茂るに任せる時代になった。放置すればまず照葉樹林が茂る。年中、太陽の光が届かない林下は下草も生えない。遷移が起きる過程であろう。

 個人的には7/8の猿投山の北尾根の捜索で知った戸越峠周辺の地形の複雑さが気になるので再度訪れてみたい。7/9にもここが気になると申し出てみたが東大演習林の中の尾根と沢をやることになった。関係者は軽装かつスニーカーで行くところではないと否定的だった。事故というものは普段と違うことをやるから起きる。意外なところで発見されることが多い。それだからなおも気になる。
 猿投山から北尾根をたどると素直に戸越峠にすとんと下れそうだが、実はそれまで北を向いていた尾根は峠の手前で東西に地形が変わる。峠には道形もなく一とくせある地形なのだ。
 地形図に名前のある峠なのだが、道路は切通しのまま狭く平行し、歩行者として歩きにくい。峠の神様の類いもない殺風景な場所である。北尾根は地形図で想像以上にやせて懸崖である。

 帰路は県道33号からR419で帰った。猿投山の山容は瀬戸市側は鉄塔だらけで美観を損ねる。真南の籠川流域からは桃の花を前景に美しいが山容は尾根が南に伸びるせいか、間延びして今一だ。北一色町辺りからは南尾根が隠れて山頂にまとまりがあるように見えて美しい。
 R419から県道58号へ右折。思いついて愛知池に寄った。ここから自宅までは12kmくらいなのでポタリングのエリアに入る。

猿投山捜索行2017年07月08日

雲興寺の東屋に集まり捜索範囲を地図で検討する
 5月16日に忽然と行方不明になった人を探している。
 車を止めた場所と本人が地形図を駆使して山野を歩きまわる登山者ではなく、近くの住民として散歩のエリアになっていた。そのことからすぐに見つかると思っていたが7/8現在までに手がかりすら得られていない。非常に緻密な捜索態勢の網にも引っかからず、一体どこにおかくれになったのでしょう。
 今朝も4時起き、寝床でうつらうつらする内、東の空が朝焼けになった。早くおきよと、せかされているようだ。顔を洗って、5時少し前に出発する。今日は東郷町の白鳥神社に参拝した。白山社もあり、くくり姫もおわす。参拝後、県道233から長久手市で県道57になり、瀬戸市から赤津を経て7時過ぎ、雲興寺へ集結する。
 7時半を過ぎて8時までに三々五々、捜索に参加するメンバーが集まって来た。例によって過去の捜索で塗りつぶした地形図の未踏の部分をトレースするべく、班分けする。
 私は気になっていた豊田市北一色町の側から1名の応援を得て捜索することとした。
 戸越峠を越えて豊田市側に行き、北一色の林道の奥深くまで走る。途中で、猿投山のバリを下山中のパーティに遭遇し驚く。彼らは猿投山最高点の632mに直接突き上げる沢を下降してきたらしい。道はないそうである。「まだ見つからないんですか」というから彼らも知っているんだろう。(捜索の張り紙もあるし)
 彼らと別れて尚も走って、舗装が途切れた終点らしいところで車をデポする。
 林道を少し戻って小さな沢を遡った。沢なので道形は崩壊しているが水量はないので登山靴のまま遡れた。水が絶えて、尾根への踏み跡も見いだせた。地形図の破線路のイメージ通りである。尾根の道形はしっかり残っていて歩きやすい。しかもよく掘れている。きっと炭焼きとか塩を担いだ行商の道だったであろう。豊田市と瀬戸市の境界の470mのピークには難なく着いた。捜索はここからだ。
 一旦は480mの独立標高点を目指す。ここは巻道があったが直登する。猿投山への北尾根道はしっかりしている。480mから東南の尾根を少し下って北尾根にスイッチバックする。一と癖ある地形である。赤テープが多いので助かる。猿投山への道はここで一旦鞍部まで下る。そして登り返すと629mの山頂である。登頂には向かわず、水線のある浅い谷は既に捜索済みなので引き返す。
 470mまで戻って戸越峠までの北(市界)尾根を探ってみた。踏み跡は明瞭で破線路との分岐には顕著な赤テープがあった。ここも踏査済みである。市界尾根を辿ってみた。ゆるゆる進むと急な断崖で尾根が左右に分岐した。地形図の戸越峠の印刷の越の辺りと思えたが、同行者のスマホの軌跡ではかなり手前を示唆している。
 地形図と実際の地形はかなり違う。そこで赤テープのあった少し手前の分岐まで戻って下ってみた。この踏み跡の赤テープはすぐに見失った。結局は尾根の直下の山腹のけもの道らしい足跡を辿って破線路辺りまで戻った。事実破線路に合流している。これも実感では市界尾根に思えたがスマホの軌跡は破線路を示した。
 山勘はいかに当てにならないか。
 同行者もルートファインディングのいい勉強だという。山中の行方不明者の捜索というものは山野を跋渉するから猟師の行動に似ている。獲物を追う猟師山を見ず、であって猟師も遭難することがあるのだ。
 市界尾根に戻って470mに戻る。さてどう下るか、相談。私は480mの東南尾根を下る案を示す。往路の沢道は下りたくない。この尾根にもきれいな山道が残っていた。そして林道へすとんと下れた。途中で右の明るい森で山腹を下ればあるいは実線の未舗装の林道へ下れたかも知れない。
 何とか無事に下れた。手がかりはないのが残念である。
 小長曽陶器窯跡の入り口にマイカーを止めて1時間の行動範囲を改めて考えると戸越峠周辺の微細な地形が気になる。転落すると厄介なことになりそうな急峻な谷の地形である。
 11時30分か、捜索を終えて雲興寺の本部に帰って報告。誰からも発見の言葉はなく口が重い。家族には焦燥感が募ることだろう。それぞれが解散となった。
 帰路は豊田市民芸館で開催中の写真展に寄る。長年の友人が矢作川流域の自然の風景を撮りためたものだ。
 帰名中、思いついて長久手市の景行天皇社にも寄った。猿投山の由来は景行天皇が猿を投げたという伝説に由来する。猿投山上に祀られている墓の大碓命はヤマトタケル(小碓命)に殺されたことになっている。関係の深い神様である。ここにも白山社がある。明日の発見を祈願した。
(写真は捜索メンバーのM氏撮影)

白山宮のくくり姫に祈願!2017年07月04日

 7/3も青山秀樹さんの捜索に参加してきた。
http://www.city.seto.aichi.jp/docs/2017052300024/
 5/16に猿投山の戸越峠付近で行方不明になった。以来、20日経過した。地元でも警察署、消防署などが捜索したらしいが発見に至らず、相当日数経過してからさなげの森を管理する山岳会に依頼された。そこで協力者を募ると60名以上が手を挙げた。6/29から毎日、手分けしてしらみつぶしに尾根や沢筋を歩きまわって手がかりを探しているが、現在までに見つかっていない。
 私も7/1は留守本部をつとめ、7/3は実際に道なき山を歩き回った。成果は得られなかった。
 帰り道、ふと思いついて、日進市の白山宮に寄って、くくり姫に祈願した。猿投神社も勧請している。
 くくり姫は「「ククリ」はものごとを「くくってとりまとめる」が語源である。
 つまり、死者であるイザナミと生者であるイザナギの間をとりまとめたことに由来するというのが一般的である。」
 ゆえに、神頼みするわけである。
 計画では7/9まで続ける。早く発見されることを祈りたい。幸いにも家族は私どもの捜索活動に発見の希望をつないでいる。家族が見放さない限り、われわれは捜索をする意義を見いだせる。
 何もしないで神頼みするわけではなく、やるだけのことを精一杯やるのだ。きっと発見されると思う。

高校生の冬山禁止の是非2017年04月08日

 4月5日付の中部経済新聞の一面「中経手帖」の手帖子が高校生の冬山禁止の動きを危惧している。
 那須町の山で起きた雪崩で8人の高校生らが亡くなった遭難事件に関し「冬山は危ないというイメージを決定的にしてしまった。・・・」と書きだし、「高校生の冬山を禁止する動きが広がりつつある。」と危惧する。 事故後に手帖子は白草山に登り、眼前の御嶽を目の当たりに見て、「この壮大な眺めを、山好きの高校生から奪うのはどうかと思う。中略、禁止することはない。天候にわずかでも不安があれば登らなければ良いのだ。以下略」
 しかし、大学山岳部も高校山岳部の指導者のレベルもお寒い限りと思う。
 小屋番の山日記の「今西錦司の言葉」に書いた。今西錦司は「そんなわけで、立派な登山家の薫陶を受ける機会の無い初心者は、あえて老猟師とはかぎらずとも、郷に入っては郷に従えで、その山をよく知った土地の人に教えを乞うて・・・・・・・。そして経験者といえども、都会生活を送るものが、わずかの暇を盗んで得たぐらいの経験はどうせ大したものではない。われわれは山に対してはいつになっても初心者であるという謙譲な気持ちを、つねに持っていたいものである。 」と書いている。 登山技術はあるが山を知らない指導者が多すぎるのだと思う。「山を知るとはどういうことか。山に登るというが我々は頂を目指して登る。頂は山ではなく一部である。山は全体を指す。しかし、山に登って山を見渡すとき頂の形をしっかり目に焼き付ける。だから頂を隠して山体だけを見せられてもどの山か見当がつかない。頂を見れば見当がつく。言わば頂は山の顔である・・・と。実はこれも今西氏の見解である。
 この前銚子洞の遡行に失敗して道の無い稜線に追い上げられた際に役に立ったのは正しく頂の顔(特長)であった。目に見える山々のどれか一つでも正確に同定できればあとは地形図と照合していけば自分の位置が判明し、他の山も分かろう。山を知るということは大変に広範囲な知識だけではなく尾根、谷、樹木の有様に加えて言葉にならないことも含むであろう。
 奥美濃の花房山に登る前に谷の近くの民家に教えを乞うたがこの谷のあそこが特に悪い、注意して行け、とアドバイスを受けた。行ってみると地元でダイラと呼んでいるところで伏流して小広くなっていた。下山の際にあれっと思ったのはこんなところを通ったのかなあ、という疑問であった。多分道迷いを心配してくれたであろう。
 山の隅々まで特徴を把握している(頭の中に血肉化して刻まれている)即ちこれが山を知ることであろう。 」

那須町で高校生ら8人雪崩で死亡2017年03月27日

 栃木県那須町のスキー場でラッセルの訓練中に雪崩が起きて8人の高校生が死亡した。何ともショッキングなニュースに絶句する。亡くなられた生徒たちのご冥福をお祈りする。
 それにしても積雪33センチも新雪が降ったこと、1月から2月にかけての積雪の雪面がかたまり、その上に湿雪が積もれば雪崩れるのは必至だったはず。指導者たちの登山観はどうなっているのか。
 おそらく大学山岳部で鍛えられた先生だろう。厳冬の高山もこなしてきたに違いない。しかし、冬山の指導者足らんとするには最低でも20年は要するというのが持論である。18年から20年に1回は豪雪の年があり、雪崩れの遭難事件が多発する。こうした経験と観察で状況判断力が養われる。
 ところが大学山岳部出身者は一番危ないという説もある。実際、これまでに遭難で死亡した登山者はみな大学山岳部出身者だった。降雪中、降雪直後でも豪雪地帯の沢に滑り込んで行き、雪崩で亡くなった。もう一人も豪雪地帯の低山ながら切りたった崖の谷に突進して倒木の落下にあたり死亡、北アルプスの谷に午前10時頃入山して落石で死亡と枚挙に暇がない。登山技術以前の判断力の欠如である。
 かつて、私の所属する山岳会に入会した関東の若い転勤族がこう言ったものだ。「あなたは大学山岳部OBではない(社会人だ)から無理をしませんね」と。「えっ、他の会じゃそんなに無茶をしてるんかい」と返した記憶がある。結局、山岳雑誌の記事に刺激された読者は自分の力量を顧みず無茶をするのだ。悪天候を突いて登るのがアルピニズムとばかりに、中途半端な西洋からの登山思想を吹き込まれた大学山岳部OBの指導者がまだまだ多いのだろう。