東山道を考える①2022年11月28日

 11/27の松沢山の下山後は気になっていた帚木館ビジターセンターを見学してきた。ここは園原と言い、東山道の拠点である。西から神坂峠を越えて信濃へ、と言うよりは東国への第一歩を踏み入れる土地である。
 ウィキペディアには「東山道は『日本書紀』の「東ノヤマノ道」あるいは『西宮紀』の「東ノ道」にあたると考えられている[2]。

 律令時代の東山道は、畿内から陸奥国へ至る東山道諸国の国府を結ぶ駅路で[3]、現在の東北地方へ至る政治・軍事面で重要な最短距離路だった[注釈 1][注釈 2]。」の記載がある。

 年代的には8世紀初め。

  又してもウィキペディアに「中央官制、税制と地方行政組織

 大宝律令の制定によって、律令制国家ができあがった。中央官制は、二官八省と弾正台と五衛府から構成されていた。地方の行政組織は、国・郡・里で統一された。里はのちに郷とされた。さらに道制として、畿内と東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道に区分され、その内部は66国と壱岐嶋・対馬嶋の2嶋が配分された(令制国一覧参照)。軍団は各国に配置され、国司の管轄下におかれた。また田と民は国家のものとされる公地公民制を取り入れ、戸籍により班田が支給された。税は、租庸調と雑役から構成されていた。

 742年(天平14年)大宰府を廃止。翌年、筑紫に鎮西府を置いたが、745年(天平17年)には太宰府が復された。

 東北地方では多賀城、出羽柵等が設置され、蝦夷征討と開発、入植が進められた(既述)。

  農地拡大政策と律令国家

 律令国家は、高度に体系化された官僚組織を維持するため、安定した税収を必要とした。」

 東国とは
「「日本」という国号が定められる前、「ヤマト」がそのまま国全体を指す言葉として使われていた当時――7世紀中葉以前の古代日本においては、現在の東北地方北部はまだその領域に入っておらず、東北地方南部から新潟県の中越・下越地方及び九州南部は未だ完全に掌握できていない辺境であり、ヤマトの支配領域は関東地方・北陸地方から九州北部までであった。つまり、「アヅマ」とは、「ヤマト」の東側――特にその中心であった奈良盆地周辺より東にある地域を漠然と指した言葉であったと考えられている(ただし、初めから「アヅマ」を東の意味で用いていたものなのか、それとも元々は別の語源に由来する「アヅマ」と呼ばれる地名もしくは地域が存在しておりそれがヤマトの東方にあったために、後から東もしくは東方全体を指す意味が付け加えられたものなのか、については明らかではない)。

「アヅマ」や「アヅマノクニ」という語は元から漠然としたもので、確かな定義をもって用いられてきたわけではないため、時代が進むにつれてそれらを指す地理的範囲について様々な考え方が生じたのである。」
「坂東と区別して東北地方は蝦夷(えみし)あるいは陸奥(みちのく)と呼ばれる」

http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/yamatotakeru.htm
ヤマトタケルの東征

 「ヤマトタケルの東征物語は大和朝廷の東国への勢力拡大を象徴する四世紀頃の、ある程度事実を反映した物語である。
 『古事記』が和銅五年(712年)、『日本書紀』が養老四年(720年)に編纂され、ヤマトタケル伝承はそれより四百年もさかのぼる遠い昔の話であり、それも大和の側の視点で書かれた物語でありそのまま史実とはみなせないが、当時の情勢を推測することができる。
 ヤマトタケルは第12代景行天皇の子供であり天皇の命により、南九州の熊曾建くまそたけるや出雲の出雲建いずもたけるを討つ西征をした後、東国の蝦夷えみし征服の東征を行った。
 なお、ヤマトタケルは古事記では倭建命であり、日本書紀では日本武尊である。」

・・・・ざっと読めば神坂峠は東国への入り口だったのだ。東国の人々は天皇の支配に抵抗しして従わない人々である。だから東征と言う言葉にもなる。
 東国とは天皇が支配する大和の国とは違う異国であった。当然租税も納めなかった。そこで多賀城を拠点にみちのく支配が強まってゆく。この中には北畠一族がいた。北畠親房は御醍醐天皇に仕えて『神皇正統記』を著した。つまり日本は天皇の国とした。
 北畠の末裔は今も青森県に生きている。浪岡姓を名乗ることもある。文化は辺境に残るのである。
 
 木曽山脈は西日本と東日本の分水界だった。同時に文化も違った。木曽山脈を境に西は沢と言い、東は谷と言う。西に沢があるのは東国の人が入った証である。黒部川は西国だが薬師沢がある。谷もあるので混じっている。
 東は縄文遺跡の歴史が長い。約15000年前という。西は清洲の弥生遺跡でも2400年前という。明らかに縄文人の方が長い。弥生人は日本列島の新参者であろう。
 但し、金属を製錬する技があり武器や農機具を生産できたから農業は発展したであろう。西から次々に弥生人が縄文人と同化してきて最後の壁が木曽山脈だった。
 諏訪、八ヶ岳山麓の縄文遺跡からは胞衣が大切に扱われた。胞衣は境界の印。恵那山は実は東日本はここからは東国という印で胞衣を埋設したのではないか。
 西の湯舟沢は伊勢神宮の遷宮の用材の産地だった。だから伊勢神宮側の神話だと思われた。実際、アマテラスの赤ちゃんを洗った血洗い池がある。血洗神社もある。湯船沢川もアマテラスの湯船の伝承がある。てっきり伊勢神宮側の話と思われた。

伊那谷の松沢山を歩く2022年11月27日

 去る11/5に時間切れで登れなかった松沢山。又とない好天が来たから再度行ってみた。今回も日の短い時期なのと伊那谷は木曽山脈が高い分日暮れがはやいので中央道で早立ちしました。
 今日も瑞浪と神坂付近で対面通行でちょっと遅れたが渋滞はなかった。
 予定通り日の入峠から松沢山に登った。1時間45分。標高1300m付近までは植林内で急登を強いられる。余り面白味はないが、1400mに近くなるとなんと自然林が広がった。太平洋型のブナ、カンバ類、くぬぎなどの大木もあり原生林の雰囲気のあるいい山でした。但し樹林に囲まれて展望はない。落葉期なので遠くに白い山は見えた。
 登る際に左から2本の枝道があった。原生林と植林の境付近、山頂付近です。境付近の道は1177mの尾根を下る記録があったので明瞭でもあり時間もあるので下山してみた。北青見平という美しい地名の高原に無事下山できました。1177mからはやせ尾根であり傾斜がきつく踏み跡も不明瞭ですがピンクのテープを頼りに下れた。分岐も迷いそうなところが2ヶ所あった。
 下った北青見平は開拓の村、別荘もあるが南アルプスの眺めがすこぶる良かった。高原の標高800mから日の入峠へは比高100mの登り返しになる。
 山頂からの枝道は地形図を見ると谷に食い込む林道(終点は1000m位)に下れる気がする。ここから登っても面白そうです。(未確認)周回して6.8km、約4時間20分とほどほどの強度です。登りは1時間45分、下りは2時間半でした。

神の留守目に付く紙垂の白さかな 拙作2022年11月11日

 網掛山の麓にある鄙びた神社に参拝すると神の留守故に閑散としている。そんな雰囲気でも紙垂だけは新しいものかよく目に付いた。これがないと本当に寂れた感じがより強まる。紙垂が垂れていることで神域を意識させる。

目の前でごろりと寝るや秋の猫 拙作2022年11月09日

 11/5の網掛山の登山口にて。下山すると駐車場の前に地の猫が遊びに来た。車道で寝転んだり、歩いたりこちらへじわじわ近づいてきた。猫が好きな人は近づいてきたら撫でてやったりするんだろう。こちらは猫嫌いなので構わない。構わないからそっぽを向かれる。それでも猫も孤独なんだろうか。私の周りをふらふら歩いている。飼い猫はやっぱり人がすきなだろう。ちょっと相手をしてやりたかった。

網掛山2022年11月05日

 11/5は久々に紅葉を楽しんだ。山は網掛山である。
 紅葉シーズンは国道153号は足助を中心に渋滞があると思って中央道・園原ICから行くことにしました。11/4の夜、再度計画を見直した。松沢山は往復2時間程度なので、もう1山掛け持ちで登ることにした。園原のすぐ近くにある網掛山です。登り1時間30分、下り1時間くらいです。8時30分に出発できれば11時には下山できる。移動時間を考えても松沢山は12時から登れる。と再計画した。
 ところが走ってみると中央道は多治見から瑞浪付近で工事中と分かった。15分で通過できると電光掲示板にはあったが実際には30分以上の大渋滞にはまった。
 網掛山の登山口の中平には何とか着いたが、駐車場がない。仕方なく神社の駐車場に置かせてもらった。中平は干し柿の仕込みで柿を収穫中でした。渋柿をもぎ取り皮をむいて干す。白い粉を吹いて甘い市田柿になる。
 9時過ぎの出発になった。登山道は東山道という古道から網掛峠までが1時間、山頂までが30分で道標完備の素晴らしいハイキングでした。何にも増して感動させたのは山全体が紅葉していたことです。峠までは植林ですが峠付近から山頂までは写真撮りまくりでなかなか先に進めなかった。
 山頂には着いたが展望はなし。他には登山者なし。 
 下山は1100mの等高線が北東に伸びるゆるやかな尾根を下った。ここも疎林が広がり紅葉が素晴らしかった。1050m等高線まで来ると東の展望台があり南アルプス全山が見渡せた。今日は3000mの稜線は曇りであった。分かったのは奥茶臼山、双耳峰の池口岳です。ここから昼神温泉もばっちり俯瞰できた。
 展望台からは林も密になったが紅葉は続く。登山道は地形図には著されていないがジグザグの急斜面です。茸採りにあったがまだ早かったらしい。蛇も見た。この時期は穴惑いともいう。他の蛇は彼岸過ぎには穴に入り冬眠に入るがまだ外が良いわ、という蛇である。保護色のせいか茶色に見える。
 ぐんぐん下って地形図に無い林道に降り立つ。歩いてゆくと朝の神社の近くまで来た。Pまで来ると猫が迎えてくれた。
 12時が過ぎた。この山で充分秋山は楽しんだ。もう良いか、と前途を中止することも考えたが行って見た。R153を大野まで走る。ここから山里に入る地道に左折。迷路のような里道を右往左往しならがら松沢山の林道に入った。舗装はされているが両側の刈払いがないのでボディが枝でこすれてしまう。嫌な音がする。登山口の峠に着く。ここも地形図に無い林道がある。近くには駐車場もあるが登山口の案内はない。
 13時過ぎにとりあえず登山靴を履いて緩やかな尾根を登った。この登山道は南北に長いので午後1時30分というのにすでに日陰になっている。先ほどの明るさはなく薄暗い。太陽の位置を見ると今にも日没してしまいそうな気がする。飯田市の日没時間は16時49分なのでまだ十分往復は可能だが、網掛山の下りで太ももの筋肉を使ったせいで膝が上がらず、モチベーションの低下でUターンした。
 下ると14時前で明るい。もったいない気がするがまあこれで良いか。60代から80代の行方不明者も多いし事故は絶えない。当事者にはなりたくないから控えめにやろう。
 R153に戻って走ると交通量が多い。今日はたくさんの行楽のドライブが居たんだろう。ここでも工事中で2度信号待ちした。あちこちで工事だらけだ。11月は混むぞ。

杣路峠を越えた人々2022年06月29日

愛知県旧稲武町の野入町のR153にある案内板
1尹良親王・・・南朝時代の後醍醐天皇の孫

2菅江真澄・・・江戸時代後期の紀行家

3武田信玄・・・戦国時代の武将

4武田勝頼・・・信玄の子

6中馬街道(塩の道)・・・三河湾で製塩して川船で岡崎へ。足助で馬に積み込んで塩尻まで運んだ。

6善光寺・秋葉・伊勢参りの参詣客・・・伊勢神峠は伊勢を遥拝(拝む)する信仰の拠点だった。伊勢までは遠くここでUターンしたものかどうか。

7食い物・・・味噌醤油は大豆と塩から作る。塩の道で信州に販路が広がり、携帯に便利なファーストフードが開発された。即ち、五平餅である。

・三河ではご飯を杉の板につぶして小判型にまとめ、炭火で焼いて味噌だれを掛けたものを食う。

・稲武を美濃へ行くとだんご形の五平餅が多い。木曽街道はだんご形だ。ところが塩尻は小判型になる。混沌としている。

・飯田にも小判型の五平餅がある。

・最北は信州の鳥居峠の茶店だった。


根羽村のHPから

       歴史について
 古代・中世の根羽・月瀬村両村は三河の国に属していました。
 現在の愛知県東加茂郡全域と豊田市・西加茂郡・北設楽郡及び長野県の旧根羽村・月瀬両村を含む広大な区域は、古代の 平安時代(794~1.185)後半に高橋新荘が成立し、中世に入り鎌倉時代(1.185~1.331)には鎌倉御家人の荘官足助氏の 支配下に入ったと伝えられています。
 根羽の地は鎌倉時代は加茂郡名倉郷にあり、南北朝時代には加茂郡足助庄に属した とされています。 享禄年間(1.528~)には阿南町新野の関氏の勢力が三河に及び、天文十年(1.541)には旧根羽村・月瀬村に及んだと されています。 天文十三年八月十三日、下條氏によって関氏は滅ぼされ、下條氏の支配下に入ったのは、弘治ニ年(1.556)新野峠が 武田軍によって改修され、下條信氏が武節谷合戦で功を上げた頃と思われます。
 信玄南下作戦の一環として元亀二年(1.571)四月、足助松山城が攻略され、根羽・月瀬両村はこの時以降武田領となり 三河国から信濃国に編入となった。
 以後、天正十年(1.582)武田氏滅亡により、織田知行所に変わり、同年、織田信長の 自刃により徳川氏の天領となった。宮崎信州代官・飯島代官所支配などを経て、慶応四年(1.868)尾州取締所預かりとなり、 同年八月の廃藩置県により伊那県に編入となった。 明治四年(1.871)筑摩県、同九月に長野県となり、。
 明治8年(1875年)1月12日、根羽村と月瀬村が合併し、現在の根羽村 となり、今日に至っています。16世紀までは、三河国加茂郡に所属していた経緯もあり、隣接する豊田市、さらに西三河の刈谷 市・安城市とも交流がある。村内を流れ三河湾に注ぐ矢作川や、豊田市と通じる国道153号の影響で、愛知県西三河地域と の結びつきが強い。
以上

 HP「古い町並み」から
 東海地方より信濃・信州への入り口に位置し、古くより「塩の道」として三州(伊那)街道に沿う村落として開けたものと推測される。古くは三河国足助郷に属し、室町時代には関氏の、その後下条氏の、続いて武田氏の支配下にあった。
 伊那街道(現国道153号線)16宿の最南端に位置し、岡崎・名古屋に通じる足助道(現国道153号線)、南方の折元峠を経て新城方面に向かう新城道、その他、岩村・明智に向かう岩村道などが交わり、中馬の往来が盛んで問屋や馬宿多数が存在した。
 そこへ江戸中期より善光寺・秋葉・伊勢参りの参詣客が加わり、根羽宿は荷問屋・旅籠・馬宿・茶屋などが並び賑わった。
 中馬頭数は宝暦10年(1760)5戸20頭が天保13年(1842)には63戸250頭になり、農間余業から漸次専業化した。明治に入ると更に増加し、明治19年には飼育頭数426頭を数えた。
 明治14年の中馬宿は14軒で、半年間に泊まった中馬数は8,400頭に及んだ。
 今、根羽村の中心地、街道の交差する辺りを歩くと、旅籠屋の形態を残した家屋が多く見られる。只、私自身中馬宿を知らないので、旅籠屋形式の建物でも中馬宿だったかもしれない。交差点あたりにゴハンギョと呼ばれる明和8年(1771)の道標石がある。この辺りが宿の中心だったようだ。
以上
・・・稲武の後山は秋葉信仰の山だった。石碑も新しいのでまだ何らかの信仰の行事は継続しているだろう。「後山」のみを検索すると1344mの岡山県の最高峰のみヒットする。国地院のHPで「後山」を検索するとたくさんヒットする。トップが稲武の後山になる。順序の意味は不明。

三信国境の杣路峠2022年06月28日

 山岳古道の調査のために歩いた。江戸時代は飯田街道と呼ばれた。今の国道153号である。名古屋市から豊田市足助町、稲武町、長野県飯田市へと通じる。三河湾で取れた塩を足助まで運び、荷馬に載せて塩尻市まで運んだから塩の道ともいう。今回は飯田街道のうち、昔のままに残されている峠の山道を歩いた。
 最初は伊勢神峠を上下した。ここは東海自然歩道に整備されて道標が建ち、誰でも手軽にハイキングが楽しめる。多くの峠が車道になる中でここは古い時代に一車線分の幅のトンネルが掘られて峠越えはない。更に下にトンネルが掘られている。そして新たに大型車がすれ違える幅の新トンネルが工事中である。
 伊勢神峠は斃れた荷馬を弔うための馬頭観音も建っていた。塩は重いから馬も喘ぎ喘ぎ上り下りしたであろう。歴史遺産とも言える。結構太い杉木立がいい雰囲気の峠道だった。ここは短いので早く下山したから次の目的地の杣路峠の入り口に向かった。
 国道153号を東へ向かい稲武を通過、木地山の先に入り口がある。しばらくは林道を歩くが少しで沢沿いの山路に入る。伊勢神峠道と違ってここはまったくの未整備だから、道幅は狭く、沢に架かる橋も壊れそうだ。やがて沢から離れるが、道は左折するところを直進してしまった。途端に道らしい雰囲気はなくなり、右往左往して道の痕跡を探す。沢の左岸に石仏を眺めると峠道とすっかり信じた。それでも道らしい気はしない。地形図では沢から離れ山腹の破線路に描かれる。結局、おかしいので左へ左へと徒労とも思えるトラバースをしてやっと峠道と確信できる踏み跡に到達した。そこからすぐに愛知県と長野県境の境の道標の建つ所に着いた。ab780m付近。信じられないほど緩やかな蛇行を繰り返して大きなブナの木のあるユキヨシ親王の社に着いた。ここは以前、長野県側から来たことがある。そうして新たな林道をたどると待望の杣路峠だった。とはいえ、新たな林道の工事で切通しになり、石仏ははるか上に見え、峠によくある道標はなく、通り過ぎた。メンバーの一人が何気なく見た印が杣路峠の道標だった。プラスチック製のお粗末なものである。これで目的は完遂した。
 林道が四方に分かれている。885mの3等三角点畑ヶ洞は徒歩30分程度とみて帰りがけの駄賃に触りに行くことにした。展望、山頂標もなく、頂上らしくもないが、本来の山頂はこんなもので素っ気ない。ここで初めておにぎり一つを食した。久々の山行で軽登山ではあるが腹筋が締まって空腹感はないので水分はごくごく飲んでいる。
 後はそろそろと下山。県境に戻り、峠道の発見場所からは未知の峠道になる。まことに歩きやすく、ずいぶんカーブもしている。重い塩を背負った馬がゆっくりと体に負荷を減らすように緩やかなカーブになっている。一か所は決壊場所もあったが上から巻いた。問題の道迷いの分岐には大きな栃の木があった。直進すると枝道と分かった。そこで少し戻ってみたら栃の木のあるところで左へ急カーブしていた。ここだったんだ。
 道迷いの原因も判明して車に戻った。国道153号を走り、水別峠の手前で中馬記念館?に入館し塩の道をにわか勉強した。すべて終わり意気揚々と帰名。

ほのぼのと 空けゆく空をながむれば 月ひとり住む 西のやまかげ 尹良親王2022年06月12日

・尹良(ゆきよし)親王供養塔
(豊田市御所貝津町)
信濃国と三河国の国境地帯の各地には、南北朝の動乱の悲劇として「ユキヨシ様」伝説が広まっており、ここ稲武にも伝わる。かの柳田國男翁も『東国古道記』で考察している。

・御所屋に建つ尹良親王の歌碑
(豊田市黒田町)

真弓山を詠われたという。

ほのぼのと
空けゆく空をながむれば
月ひとり住む
西のやまかげ

・ユキヨシ様
「ユキヨシ様」は伊那谷から北三河・北遠江にかけての国境地帯にて祀られる習俗が広く分布しており、この信仰に関して民俗学の側面から着目したのが柳田國男であった。柳田は「東国古道記」の中で、およそ次のように述べている。「かつて中部山岳地帯と海岸を結び付ける道は秋葉街道だけであったが、やがて浪合を通り飯田・根羽に連なる三州街道(飯田街道)が開けてきて、その段階で津島神社の御師たちが入り込み、土着的な山路の神『ユキヨシ様』を旅人の道中安全を守る守護神(一種の道祖神)へと変化させて山間に広く分布していった。これに加えて、浪合で戦死した南朝某宮に対する御霊信仰の要素が結合して尹良親王なるものが出現し、さらに津島神社や三河武士・徳川氏の起源伝承として存在意義が認められ、地元の口碑がその欲求に合うように内容まで多様に変型させられたのではなかろうか」。柳田の見解は伝説の史実化の過程を考える上で示唆するところが多く、特に津島信仰の絡み合いについては、柳田の洞察力が遺憾なく発揮されていると言えよう。「ユキヨシ様」は、近世の地方における南朝史受容の一コマを現代に語り伝えているのである。

もっとも、延宝から正徳頃までの浪合神社の棟札には、祭神を行義権現と記しているものがあるため、「ユキヨシ様」信仰は一元的ではないことがわかる。

・黒田正寿寺と尹良親王

 黒田の吉祥山正寿寺の開山は応永年間(一三九四~一四二七年)であり、尹良親王がこの地に滞在された時、お供の新田親氏が親王の言いつけで山号を吉祥山、寺号を正寿寺と名づけたといわれている。
 尹良親王は、お亡くなりになった妃の菩提を弔うために正寿寺を建立したといわれ、山門は『御所造り』になっている。(現在の山門の屋根は、平成になって葺き替えられている。)
 この正寿寺の建立の他にも、尹良親王にまつわる幾つかの伝説が伝えられている。
 正寿寺の裏山には御所屋(地元では尹良様と呼ぶ)という所がある。
現在は、尹良親王が読まれた歌の歌碑が建てられている。この歌の短冊は正寿寺にあり、親王の真筆と伝えられている。この他、正寿寺には、親王ご使用の『硯石』、親王ご筆写と伝えられる『大般若教三巻』、ご遊山の時お拾いになったという『鹿の玉』などがある。

2016. 5 No51 編集・発行 稲武地区コミュニティ会議広報部会豊田市稲武支所発行部数: 1,300 部
5P に交流館 Times:6P にゆいの輪を包括稲武地区人口状況(28 年 4 月 1 日現在)人口:2,461 人 世帯数: 1,009 世帯

・《稲武地区の尹良親王伝承一覧》

・尹良親王の腰掛石(御所貝津)
・地蔵峠の尹良社(御所貝津)
・正寿寺(黒田)
 ・尹良親王真筆の和歌が書かれた短冊
 ・尹良親王使用の硯石
 ・尹良親王筆写の『大般若経』(3巻)
 ・遊山(狩り)で見つけた鹿の玉
・尹良親王の歌碑(黒田)
・真弓橋(尹良親王が弓を杖に黒田川を渡った場所に架けられた橋)
・尹良親王の忠臣・青木の御子孫の家
 ・尹良親王の愛馬「龍の駒」の蹄の跡がついた石
 ・尹良親王使用の福州青磁の皿
 ・尹良親王使用の桑の木のお盆(お膳)
・地名「かんばあさ」:尹良親王の愛馬に草を食べさせた「神馬草」の転訛
・地名「御所貝津」:尹良親王の御所の垣内(かいと)

信州の古道~杣路峠2022年04月20日

 山岳古道の調査のために歩いた。江戸時代は飯田街道と呼ばれた。今の国道153号である。名古屋市から豊田市足助町、稲武町、長野県飯田市へと通じる。三河湾で取れた塩を足助まで運び、荷馬に載せて塩尻市まで運んだから塩の道ともいう。今回は飯田街道のうち、昔のままに残されている峠の山道を歩いた。
 最初は伊勢神峠を上下した。ここは東海自然歩道に整備されて道標が建ち、誰でも手軽にハイキングが楽しめる。多くの峠が車道になる中でここは古い時代に一車線分の幅のトンネルが掘られて峠越えはない。更に下にトンネルが掘られている。そして新たに大型車がすれ違える幅の新トンネルが工事中である。
 伊勢神峠は斃れた荷馬を弔うための馬頭観音も建っていた。塩は重いから馬も喘ぎ喘ぎ上り下りしたであろう。歴史遺産とも言える。結構太い杉木立がいい雰囲気の峠道だった。ここは短いので早く下山したから次の目的地の杣路峠の入り口に向かった。
 国道153号を東へ向かい稲武を通過、木地山の先に入り口がある。しばらくは林道を歩くが少しで沢沿いの山路に入る。伊勢神峠道と違ってここはまったくの未整備だから、道幅は狭く、沢に架かる橋も壊れそうだ。やがて沢から離れるが、道は左折するところを直進してしまった。途端に道らしい雰囲気はなくなり、右往左往して道の痕跡を探す。沢の左岸に石仏を眺めると峠道とすっかり信じた。それでも道らしい気はしない。地形図では沢から離れ山腹の破線路に描かれる。結局、おかしいので左へ左へと徒労とも思えるトラバースをしてやっと峠道と確信できる踏み跡に到達した。そこからすぐに愛知県と長野県境の境の道標の建つ所に着いた。ab780m付近。信じられないほど緩やかな蛇行を繰り返して大きなブナの木のあるユキヨシ親王の社に着いた。ここは以前、長野県側から来たことがある。そうして新たな林道をたどると待望の杣路峠だった。とはいえ、新たな林道の工事で切通しになり、石仏ははるか上に見え、峠によくある道標はなく、通り過ぎた。メンバーの一人が何気なく見た印が杣路峠の道標だった。プラスチック製のお粗末なものである。これで目的は完遂した。
 林道が四方に分かれている。885mの3等三角点畑ヶ洞は徒歩30分程度とみて帰りがけの駄賃に触りに行くことにした。展望、山頂標もなく、頂上らしくもないが、本来の山頂はこんなもので素っ気ない。ここで初めておにぎり一つを食した。久々の山行で軽登山ではあるが腹筋が締まって空腹感はないので水分はごくごく飲んでいる。
 後はそろそろと下山。県境に戻り、峠道の発見場所からは未知の峠道になる。まことに歩きやすく、ずいぶんカーブもしている。重い塩を背負った馬がゆっくりと体に負荷を減らすように緩やかなカーブになっている。一か所は決壊場所もあったが上から巻いた。問題の道迷いの分岐には大きな栃の木があった。直進すると枝道と分かった。そこで少し戻ってみたら栃の木のあるところで左へ急カーブしていた。ここだったんだ。
 道迷いの原因も判明して車に戻った。国道153号を走り、水別峠の手前で中馬記念館?に入館し塩の道をにわか勉強した。すべて終わり意気揚々と帰名。
 資料を見ても植生についての記述はない。しかし、ユキヨシ社の大ブナといい、最後に見た唯一の大栃も樹齢200年はあるだろう。あの石仏は寛政年間だった。220年前の徳川家斉の時代だ。当時は栃、ブナ、ケヤキなどの自然林の森であっただろう。あの大木は象徴的に残されたと思う。
 石仏はおそらくは岡崎市の石屋かも知れない。稲武の駒山には馬が列をなしたという。多数の馬が塩だけでなく石仏を運んだであろう。
 樹齢200年といえば、設楽町の学術参考林に残された原生林も200年位だった。ブナ、トチ、ケヤキなどの大木が多かった。
 段戸の国有林は戦前は御料林であり、江戸時代は天領だったから勝手に伐採は出来なかった。山周りのお役人も居たらしい。明治維新後に古橋が政府に伐採のお伺いをたてて井山が伐採された。杉、桧が植林された。

治部坂高原の詩2022年01月06日

 昨日はあれだけ晴れたのに今朝はもう猿投山も冬雲に隠れてしまった。雪も降っている。それでも蛇峠山のあの展望を写真を見ながら反芻するかのように楽しんでいる。
 ふと思い出したのは昭和17年に青木書店から刊行された尾崎喜八の詩集『高原詩抄』の『美ヶ原熔岩台地』の詩である。

 登りついて不意に開けた眼前の風景に               
 しばらくは世界の天井が抜けたかと思う              
 やがて一歩を踏みこんで岩にまたがりながら            
 此の高さにおける此の広がりの把握に尚もくるしむ         
 無制限な おおどかな                      
 荒っぽくて 新鮮な                       
 此の風景の情緒はただ身にしみるように本源的で          
 尋常の尺度にはまるで桁がはずれている
 秋が雲の砲煙をどんどん上げて                  
 空は青と白との目も覚めるだんだら                
 物見石の準平原から和田峠の方へ                 
 一羽の鷲が流れ矢のように落ちていった 
以上

 蛇峠山のパノラマ台に
 登りついて不意に開けた眼前の風景に
 伊那谷ってこんなにも開豁な谷だったのか
 曾遊の山々にあいさつを送った
 南北120kmにわたる赤石山脈の白い巨峰の並ぶ様に驚き
 赤石岳と聖岳の間の未踏の兎岳が気になる
 木曽駒は一つのまとまった大山塊に見える
 ここからは空木岳も前衛峰の1つじゃないか
 伊那谷の奥座敷に富士山型の山は蓼科山だ
 そして尾崎喜八の詩心を刺激した美ヶ原
 御嶽山も乗鞍岳も名脇役に徹しているかに見える
 恵那山は治部坂峠の向こうに大川入山、恩田大川入山を
 従えて三角錐の頭をすこし出している
 西からのドーム型の山容に見慣れた目には新鮮である
 
 スキー板を外すのももどかしく、
 ザックからカメラを出して撮りまくった
 景色の奴隷になったかのように

 ここはまぎれもなく信州の山
 今年初めてのスキー登山でした。