中央アルプス・麦草岳目前で撤退!2017年10月02日

幸ノ川渡渉地から眺めた穂高連峰
 9/30は午前中は仕事、午後は句会とあわただしく、出発は夜9時になった。今回は麦草岳に挑戦する目的で福島Aコースを選んだ。2時間ほど走ると木曽路の大桑村に着く。R19から木曽川右岸に渡り、大桑スポーツ公園のPで車中泊する。公園なので照明あり、トイレあり、東屋ありで便利なところだ。よく通った頃はここを中継地にしていた。
 夜11時30分のR19の気温掲示は10℃だから相当寒い。名古屋の暑さになれた体は軽装になりやすい。長袖2枚を持ってきたのでそれを着こむ。シュラフもオールシーズンにしてよかった。車内の荷物スペースを整理するとフラットになり、手足を伸ばして眠れるバンは便利である。
 10/1の朝5時尿意で目覚め。夜が明けたのだ。おにぎりをお茶で流し込んで又走る。
 R19の木曽福島の外れに駒の湯の看板で右折、後は1本道でキビオ峠登山口に行ける。標高1200mはある。ここまで走れないことはないが、夏は良いが、秋は厳しい。予想以上に寒いので、長袖シャツの着替えも着こむ。さらに雨具の上着もヤッケ代わりにはおった。
 キビオ峠は今は舗装道路だが中山道以前に開通していた木曽古道の名残である。小さな園地になっていて、御岳山や乗鞍岳が一望できる展望台があり、トイレ、東屋もある。駐車場は結構広いし、テントを張る余地もあるので夏はいいだろう。
 6時40分、登山口の「熊出没注意」の看板に気が滅入るが、久々の中ア登山に勇気を鼓舞する。鈴を鳴らしながら一歩一歩登り始めた。最初は赤松のよく伸びた林の中を行く。白樺の美しい林になったと思うとすぐに雑木林になる。突然目の前を黒い獣が駆けあがっていった。熊か!とビビったが相当上部で振りかえり、こっちを見ている。何だ、カモシカだ。
 ジグザグの登山道を登りきると気持ちの良い木曽見台の分岐に着いた。7時30分。左折すると木曽見台、右へ尾根伝いに行くと登山道だ。笹の刈り払いはここまで。木曽駒高原スキー場が閉鎖されたためか、スキー場へ40分の道標が寂しく、登山道も笹に埋もれる。一方で地形図に描かれた破線路は今は笹に埋もれた廃道になり、尾根を直登するルートになった。
 登り始めは急で足に応えるのだが、周囲は原生林であり、特に大栃の樹木があり見事な自然美が癒してくれる。尾根を登りきった辺りでまた廃道に出会う。冬道は基本的に尾根を辿るから冬道が夏道になった気がする。
 尾根筋をたどってしばらくで山腹へ巻き始めた。1793mのコブを巻いたのだろう。わりあいはやく尾根に戻った。ここらになると岳樺の林になるが黄葉には早い。徐々に高まる尾根を歩くとまた巻き始める。赤林山だ。
 以前に山岳会でこの山に登山しに来たことがあった。登山道はないので南の痩せた尾根筋をたどって登頂し、コンパスで真北へ下れば登山道に出会うのでRFの練習になった。
 巻道は以前よりも荒れた気がする。道幅は細くなりアップダウンが多くなったように思う。記憶ではもっときれいな巻道だった。別人のスマホの軌跡をみると確かに標高差50mの違いがあった。
 赤林山の北で破線路は2050mまで登って巻き始め、南で2080m付近で尾根に戻る。軌跡は1910mで巻き始め、2030mで戻る。北の登りで140m、南で50mの下りを節約するためだろうが、山腹道は荒れやすいからかえって労力は増えている。新道?は歩きにくいものだが。
 赤林山の南の鞍部ではぱっと視界が広がったので一休みした。寒い風が吹き上げてくる。ここからは尾根に忠実に歩く。樹林の道が続く。ようやくの思いで6合目に着いた。道標は直進は麦草岳、左折は福島Bコースへの巻道になっている。時計は11時18分だ。ここまで4時間30分かかっている。麦草岳は2733mなので比高328mを1時間では登るのは難しい。上松コースと合流するまではやぶであるから1時間30分を見込むと12時50分登頂になる。休まず下って4時間とすると16時50分だ。山中で日没に捉まると厄介と考えてBコースを下山する周遊に計画変更した。
 幸ノ川の源流域を横断する登山道である。この道も若干荒れているが歩行に困難はなかった。幸ノ川を遡行すると登山道との交差地点で終了した。今日はちゃんと水が得られた。交差地点からは心なしか急に踏み跡が歩きやすくなった。
 避難小屋に着いたのは12時14分。小屋周辺は紅葉、黄葉できれいだ。1人ベンチで昼寝中だった。小屋の屋根に太陽電池パネルが追加した以外は変わりない。12時30分下山開始。力水には14時14分、渡渉地点は15時少し前、スキー場跡は15時30分過ぎになった。
 後から足音がするのでびっくりして振り返るとランニング登山の単独行で名古屋の人だった。軽装備でBコースを走り、麦草岳、牙岩、前岳、木曽駒、宝剣岳、三の沢岳を往復してきたそうな。どんな心臓と足をもっているやら。こういうのを韋駄天というのだろう。
 さて、韋駄天氏と立ち話している内に15時40分になった。ここからキビオ峠までは約3kmある。車道をスキー場から別荘地を抜けて一旦R19の分岐まで下り、ここから峠へ登り返した。30分から40分と見込んでいたが登りの疲れもあり、Pに着いたのは16時50分になった。1時間強かかった。平地のような感覚では歩けない。
 目的完遂のためにはもう2時間早く出発するべきだろう。5時には出発していないと登頂できない。膝痛を克服してからの試歩と思えばまずは良しとしたい。
 帰路は駒の湯に寄って入浴。650円也。以前は透明な源泉が噴き出すとすぐに鉄の錆びた色になりタオルも汚れたが、今はろ過して透明な色になった。その分効能も減った気がするが山の湯は良いものだ。
 木曽の夜は早い。まだ6時前だが目当てのソバ屋は閉店している。農協スーパーに寄って木曽の蕎麦を購入した。
 登山道で出会ったのはカモシカ、野兎、そして避難小屋の昼寝氏、韋駄天氏だけだった。
 それと雪虫が大量に浮遊していた。明日は雪が降るかも知れない。下山中の14時前、急に冷えてきて、赤林山にもガスがかかり、麦草岳は雲に隠れた。そして白いものがちらついた。霰だろうか。朝は素晴らしい日本晴れだったのに。秋山は急速に変化するから怖い。

登山はベストを尽くせばそれでいい!2016年08月09日

 8/5の夜発で8/7まで北アルプスの唐松岳から五龍岳までを元気に縦走してきた。6人が参加。8/6は八方尾根から唐松山荘へは厳しい炎暑の下、ふーふー言いながらの登りである。小屋へは12時すぎに着いた。私は寝不足を回復するため休養したが元気な5人は不帰の剣の手前までお散歩として往復した。また1人は唐松の下りで筋肉を傷めるアクシデントがあった。縦走はとても無理というので、話し合いでKさんがYさんに付き添いで八方を下ることになった。Kさんは日本百名山をすべて踏破している。その心の余裕から生まれた親切である。それでもその優しさに感謝する。
 8/7は4人が5時に山荘を出発。今日も炎暑が予想された。五龍山荘まではアップダウンの多い縦走路を3時間で予定通り踏破。山荘で休憩後、五龍への登り道に取りつく。ガレの多い岩の路である。山頂直下は岩壁の岩登りになった。岩登りのトレーニングが生きるような登りである。山頂はすぐそこにあった。日本百名山踏破77山目か?
 これまで計画しても雨で中止することもあったし、五龍山荘で泊まって雨の遠見尾根を下山したこともあった。雪辱を果たすというとオーバーか。
 山荘まで下山。コーヒーを飲んで休憩。今度は雪辱を果たすべく、炎天の遠見尾根を下山した。八方に比べるとしばらくは鎖場の連続する岩場もあってやや荒っぽい登山道である。緑陰の岳樺の中に入るとほっとする。小遠見山まで来るとハイキングの路をアルプス平まで下る。リフト、ゴンドラを乗り継いで下山。振り返ると稜線は雲が漂う。もう気象の変化の兆しか。
 山麓の駅舎まで来て出ると故障組が先回りして待機してくれた。タクシーでマイカーを回収する時間が節約できて良かった。着替えの後、麓の温泉で汗を流して帰名した。
 足の筋肉痛の故障で下山したYさんは元々体力のない人だった。それでも唐松岳には登頂できたのだ。最近見た映画「ロング・トレイル」の印象的なセリフを思い出す。アパラチアントレイルを途中で目的を果たせずリタイアしても「人生はベストを尽くせばそれでいい」と言った。中ア・宝剣沢、黒部源流縦走などの実績はあるが今回は体力の限界に達したようだった。登山はベストを尽くせば良いじゃないか。諦めることも人生のうちである。

南信州・蛇峠山馬の背吟行記2015年09月26日

 9/20から9/24にまで及んだ北ア・内込谷遡行の疲れは残るが、老体に鞭打って、ご近所の俳句好きの老友3人を伴って、表記の場所へドライブとなった。名古屋から約100km未満。R153をたどると2時間ほどで治部坂峠に着く。峠を右折し、別荘地を抜けるとNTT無線施設のゲートで車止め。
 1457mの標高ながら、あいにく低く雲が垂れ込めて、日本アルプスや八ヶ岳方面は遠望できず、矢作川源流の大川入山すら雲に隠れるので、馬の背を散歩するのみ。
 しかし、それでもススキが生い茂り、菊の花、竜胆、四葉塩釜などが咲いている。来た甲斐があった。風はさはやかそのもの。目にするもの、手に触れるものみな秋の風情を漂わす。芝生に寝転がって信濃の空を仰げば行雲に見とれる。山霧が流れてきて、涼しさが増す。愛知や美濃にはない高原が美しい。
 吟行を終えて、峠のレストランでちょいと買い物後、三国山の亀甲苑で名古屋コーチンの食事でも、と向かったが、もう夕飯の用意中とかで断られた。亀甲石のみ見学して下山。稲武地区の道の駅に向かった。ここでもちょいと地の食べ物を買う。足助の外れの川魚料理屋で鰻丼を食す。料理屋の窓からは巴川で鮎釣りする人が見えた。そろそろ鮎漁も終わる。 

秋雲に取り巻かれてゐる蛇峠山

さはやかに膝の痛みも癒されぬ

秋草にしゃがみこみ名を言へり

秋風にとどまる思い断ち切れず

友と死に別れ野菊を供花とせよ(O女の友人がガンで逝く)

紅玉のげに紅き色林檎かな

秋蝶のもの寂しげに花に舞ふ

竜胆のごとくまっすぐ伸びて咲け

吟詠!小川路峠2014年10月26日

秋葉道紅葉且つ散る峠かな

黄葉の落ち葉舞ひ散る峠かな

愛されし歴史の道や山装ふ

  縁者から見放されたような淋しい墓。山から山へ流浪の職人
  たちには先祖のお守りさえ不可能に近い

秋深し木地師の墓によるべなし

綿虫が人恋しさにまつわりし

  秋葉道から眺める茶臼山の立派な山容はなぜ日本300名山
  に推されなかったのか疑問に思うほどだ

秋高し伊那の南の茶臼山(愛知/長野)

秋時雨静けさ戻る秋葉道

猿のごとく木に登り通草(あけび)捥ぐ

  遠山側から登ってきて焚き火の熾き火で
  ジンギスカンの焼肉をふるまう

美味しさに馬肥ゆるごとさはに食ふ

  遠山側から登ったというまま行方不明の人の話。
  家族の捜索依頼があったがどのルートをたどった
  のかも分からず、という。

身に入むや行方知れずの山旅人

  明治時代、遠山谷に官吏として赴任したが余りの深さに
  峠で引き返したという逸話が残る。遠山から西へ吹く風
  のように我々も下山。

名にし負ふ辞職峠や秋の風

高峰はなべて隠すや秋の雲

久々の人をもてなす紅葉山

秋冷の権兵衛峠2014年10月05日

色付き始めた紅葉が白樺の白い樹肌に目立つ
 小川路峠遊歩から撤退したもののまだお昼前だ。そのまま帰名するのは惜しい、と飯田市界隈の喫茶店に向かった。飯田市には営業中の喫茶店は一軒もなかった。やむなく、R153を走って権兵衛峠に向かった。伊那市から羽広へ行く県道87を行き、途中から左折してR361に合流。そのまま走れば木曽に行ける。以前は走れた権兵衛峠への道は伊那側は通行止めになったのでトンネルをくぐって番所に行く。そこから以前の車道を峠に走る。分水嶺付近で車止めのゲートがあった。そこはトイレもあって南アルプスの眺めもよいが今日は霧で霞んでいた。それでも飯田市付近よりは見通しはいい。
 そこに車をとめて峠まで150mの道標に導かれて歩くと白樺の木と紅葉の紅とがマッチして美しい。下ると待望久しい権兵衛峠だった。今は遊歩道が両側から整備されて歩きやすい。今、歩いた道も笹が刈り払われたばかりだった。
 峠にはいろいろのモニュメントが設置されていたが、気にしていた木曽用水の案内板もあった。
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2002.7.12~7.14の奈良井川の白川を遡行した記録文
ソース
http://koyaban.asablo.jp/blog/2010/10/10/5395164
未編集なので部分的に引くと
前略
翌朝は快晴とはならなかった。梅雨空に戻っただけである。盛り沢山の朝食を摂って満足した。今日はピークを踏まないので将棋頭山の登頂を提案した。雨具を着けて出発した。ガスの中では何も見えない。山荘に戻って分水嶺からは胸突き八丁の尾根を下った。左側が昨日の沢である。どおりで沢の傾斜もきついはずである。どんどん下る。大樽小屋を経て分岐から権兵衛峠を目指したが笹が繁茂した辺りで前途を見限った。戻って白川へ下った。林道にはトラックが入っていた。この用水路はトンネルを通って伊那へ供給されていた。天竜の水は落差の関係で利用出来ず木曽から引いていた。伊那の米は木曽の水で育ったものであった。権兵衛峠を越えて木曽へ運ぶ米は伊那の余り米・・・と俗謡に唄われた時代から相互に補完しあう時代になっていたのだ。終点に着いて帰り支度した。帰路、萱ヶ平に寄った。世に忘れられたような山村である。話をした主婦も松本に住んで今日だけ畑仕事らしい。グミの実がたわわになっていたのが印象的であった。今回は凄い滝の登攀こそ無かったがピークも踏み静かな山小屋に一泊して満ち足りた気分で終わった。
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 実に12年ぶりになる。記述には一部間違いもあるが、そのとき以来気になっていた。
 誰一人居ない峠は静寂そのものだった。すると伊那側の奥からしじまを破るように熊避けの鈴の音が聞こえてきた。約20名はいただろうか。男女の団体登山者であったが、目的は権兵衛峠の木曽山用水の歴史を訪ねるハイキングだった。
 リーダーの解説者がいたので私も「為替水」の水桝の現場に同行せさせてもらい、一緒に受講生になった。
 水桝とは12km先の奈良井川源流の白川から取水した水を木の水路(桝)を流れさせ、水路の上に棒を渡す。すると溢れる水量は元の奈良井川に落ちる仕掛けである。峠からは北沢に流し、下流の小沢川から同じ水桝で取水するという。
 水利権を巡って140年間もの争いの結果、生み出された知恵だった。その顛末は以下に詳しい。
http://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/think/heritage/pdf/025.pdf
 
 為替なんてやや小難しい表現である。もっぱら金融用語としてしか知らなかった。日本の江戸時代には為替の金融システムが完成していた。
 ウィキによれば「日本の「かわせ」の語は中世、「交わす」(交換する)の連用形「かわし」と呼ばれていたものが変化したものである。日本で「為替」という言葉が生まれたのは、鎌倉時代である。」という。
 お金は共通のものだから、江戸で受けた現金を大阪へ送金する手段として為替が利用された。A振出人(Bの債権者でCの債務者)、B引受人(Aに対する債務者)、C受取人(Aに対する債権者)の三者が絡む為替手形は今でも流通する。最近も郵便局の小為替を利用したが、小銭を直接送金するのではなく、名古屋の郵便局で小為替を発行してもらって封筒にいれて送る。現金の代わりに受け取った側は当地の郵便局で換金できる仕組みだ。
 水も同じ事である。愛知用水の水源は牧尾ダムとよく聞く。愛知用水水源管理所のHPによると「愛知用水の水を取り入れる愛知用水取水口は、牧尾ダムから木曽川を約120km下った「岐阜県加茂郡八百津(やおつ)町」にあります。

 愛知用水取水口では、牧尾ダムからの放流水のほかに、「阿木川ダム」、「味噌川ダム」の放流水と木曽川沿川で降った雨(自流水)を3つのゲートから毎秒最大30m3取り入れます。」とある。
 以前は牧尾ダムから直接水道管で引いていると思っていたが上記の通り、放流した分を下流で取水をする、言わば為替水ということになる。すると牧尾ダムは現代の水桝ということになる。水系が違っても原理は同じである。
 鉢盛山でも木曽川の水源を水路で引き、朝日村側へ落としていた。災害で短期間にだめになった。
 伊那用水(木曽山用水)は12kmの水路が伊勢湾台風で打撃をうけて、現在は南沢へ隧道で落としているという。私が見たのは新しい水路だった。件の白川で会った管理員は大水が出るたびに見に来る、と言っていた。

 峠からカラマツの巨木があるところまでいい道がある。烏帽子山(南沢山)1894mにも1時間ほどで登れるようだが、靴が不首尾で又来ることにした。

霧閉ざす小川路峠への道2014年10月05日

ゲートの近くに立つ小川路峠への案内板
 最初の目的は飯田市の小川路峠だったが霧が立ちこめて撮影条件がよろしくない。降雨率ゼロ%には違いないが、だまされた気がする。東シナ海に熱帯低気圧があるとこうも上昇気流の影響を受けやすいものか。長野県南部は太平洋の気流が天竜川を溯って最初に冷気を受ける地域なのだろう。昨年も撮影に難儀したことを思い出す。
 おまけに以前はなかった獣避けの金属柵が設けられて立入りがたい。鍵は開いていたので入ってみたが地元の人らが仕事で入っているのだろう。用が済むと施錠して立ち去ることになるので袋小路になりかねない。それに人が入らないから路面は良いが頭上からの枯れ枝が下がり走りにくい、というわけで1170m付近で撤退した。
 ただ、観世音堂のある一番観音は水場を設け、東屋を設置して、整備されていた。スン坂も地元の小学校辺りが歩いているようだ。それは良いことである。スン坂のスンは、愛知県額田町の寸五郎坂の寸と同じだろうと想像する。屋根の勾配の用語で10寸で5寸上がる勾配という意味。馬に登らせる山坂としては急勾配である。

大平街道から兀岳へ、そして夏焼山を歩く2014年05月26日

   俳友からのはがき来信

山旅の記憶たしかに夏見舞

       ☆

   早朝、恵那山にヘリコプター飛来

登山者を無事救い出しヘリが飛ぶ

       ☆ 

熊避けの鉦を叩くや登山口

木曽と伊那青葉若葉の峠道

山シャツの背中に汗の滲みけり

夏の初めタオル1本首に巻き

尾根道は樹林の中の薄暑かな

閑古鳥山の深さのなほ深く

山頂や長居をすれば蚋多し

ユキザサの花らしからぬ花が咲く

旅人の喉を潤す草清水

雉飛んでぶなの若葉を揺らすほど

麦飯をメンパに詰めて弁当に

麦飯を食ふ塩鮭を具に梅干も

蝿たかる緑色した熊の糞

        ☆

  廃村・大平にて木地師の家の大蔵家を訪問

青葉風木地師の宿の父祖の梁(大蔵さんの旧家)

大物は逃がしたと言ふ岩魚釣

望郷のよすが手植えの余花を見し

  木曽見茶屋で御幣餅を食う

香ばしき匂いを運ぶ青葉風(五平餅)

木曽見茶屋胡瓜とともに五平餅

        ☆

  満蒙開拓平和記念館を訪ねる

阿智村や苗田の果の記念館

 国敗れて山河あり。命からがらでも還れた人はまだ良い。満洲の土になった同胞の悲劇。開拓というより戦争の犠牲の上に今の平和がある。

信州の青き山河に還るべし     

  信州・JAで買う

朴の葉の寿司広ぐれば大いなる

柏餅皮膚のごとくに剥がしけり

伊那山脈・鬼面山!秋天に立つ2013年10月17日

鬼面山櫓に立てば天高し

天高し屏風のごとき木曽の山

恵那山のドームのごとし秋麗

登りついてすぐに汗引くさはやかに

山頂や名は知らねども初紅葉

妻恋の鹿啼く声のあはれなり

十月や青きままなるぶな林(巨樹)

朝寒や峠地蔵に一礼す

羽毛シュラフ被る身に入む夜の山

漆黒の秋の闇夜の峠かな

大鹿の村の白樺黄葉す

秋雲のまとわりつきし奥茶臼

秋の日や仰ぐ赤石岳高し

断層の恐さも知らず秋の川(青木川・安康露頭)

人を見ぬ大鹿村や秋桜

山と川のほか何もなし花すすき(大鹿村)

涼感!八ヶ岳山麓2013年08月26日

 8/24(土)朝7時、俳句仲間3人(70歳代前半)と付き添いの娘さん1人の合計5人が集合。行く先は信州の白駒池畔の白駒荘である。普段は市内から近郊の吟行であるが、3周年を記念して普通の主婦らには、異次元の世界を体験する吟行に誘った。たまには足もとを離れてみるのもいい。
 白駒荘は山小屋であるが、登山経験のないフツーの主婦らでも徒歩15分程度で行ける。ただし、民宿や旅館ではない。だから泊まっても2食が提供される以外のサービスはない。浴衣もないし、娯楽施設もないし、入浴も出来るが石鹸、シャンプー等は使えない。それでも行くのは標高2000m超の池と原生の自然がもてなしてくれるからだ。
 大企業に勤めていたある人が、一泊3万円の豪華ホテルでも旅の満足はない、と山岳会に入会してきた。提供されるサービスの消費者であるよりも自ら楽しみを生み出す登山に目覚めた。山の中でのサービスは最小限に留めたい。ビールが飲みたけりゃ自分で運ぶしかない。今時、登山小屋に隣接したキャンプ場ではわんさか買いに来るそうだが・・・。
            『蓼科日記』の現場・無芸荘へ
 さて、山岳宿泊未体験の主婦らを乗せて、一直線に目指しても時間が有り余る。道草には、蓼科高原のプール平にあるという小津安二郎(1903- 1963)の記念館でもある無芸荘に行くことにした。小津と脚本家の野田高梧(1893-1968)のコンビで数々の名作を生んだ山荘である。野田は小津の名声に隠れがちで目立たないが、10歳年長でもあり、経験豊富で人脈も多彩のせいか、映画に幅がでる。それに愛知一中のOBでもある。
 愛知一中は歴史があり、今の旭丘高校の前身にあたる。同校のHPから転載すると、( )は筆者の挿入。

旭丘高校の沿革

(1) 愛知県第一中学校
明治 3年 6月 (藩立)洋学校開設。(名古屋藩七間町)
    5年    県に管轄が変わる。愛知県洋学校と改称。
    6年    愛知県洋学校を成美学校と改称。
    7年 9月 県に管轄が変わる。成美学校廃校。官立愛知外国語学校開設。
(後に、官立愛知外国語学校を愛知英語学校と改称。)
    10年 2月 愛知英語学校廃校。
愛知県が校舎および設備を文部省から譲り受け、愛知県中学校を開設。
    11年10月 南外堀校舎(中区)に移転。 *1
    19年 9月 愛知県尋常中学校と改称。
    (26年11月19日 野田高梧誕生)
    29年 4月 愛知県第一尋常中学校と改称。
    32年 4月 愛知県第一中学校と改称。
    (33年4月野田高梧6歳で尋常高等小学校入学?)
    34年 8月 愛知県立第一中学校と改称。
    (41年3月野田高梧15歳で卒業後、4月愛知一中入学)
    41年 9月 西ニ葉町校舎(東区)に移転。
(大正2年3月野田高梧20歳で卒業)
(大正2年早稲田大学英文科入学)
(  同6年             卒業)
大正11年 5月 愛知県第一中学校と改称。
昭和13年 7月 新出来町校舎(現校舎)に移転。
23年 4月 愛知県立第一中学校と改称(ママ)。通信制・(昼間)定時制を付設。 (正しくは愛知県立第一高等学校)
*1南外堀校舎とは現在は名古屋市中区丸の内3-2-5で、丸の内三郵便局の敷地の玄関前に、愛知一中校舎跡の石碑が建立されている。移転はその後2回あるが、幼き日の野田高梧はこの地の校舎と西二葉町(武家屋敷の多い東区白壁地区)校舎で学んだことになる。
 当時から愛知一中は名門として知られ、「「バンカラ紳士」で鳴らした愛知一中の伝統を受け継ぐ自由な校風」の元で育った。その後早稲田大に進んだ。優秀な人物像が浮かぶ。旭丘高校出身人物リストの文化人に名前が挙がっている。同級生に小田喬がいて後に松竹入りの動機になったとされる。

 『蓼科日記』の記述は昭和29年8月18日から始まるというから59年前のこと。小津は昭和38年に死去するので9年間滞在した生の記録である。
 無芸荘は蓼科湖から急坂を登りきったところにぬっと現れた。
 茅葺の古い民家であるが、すでに何台もの車が止まって見学者があるようだ。8月中は毎日開館されているが、他の月は限定される。この点が、小津ネットワークの会員ながら、中々来れなかった理由でもある。中へ入ると囲炉裏があり、夏でも木を燃やしている。ほとんどくすぶり続けるので煙がたつ。自在鉤も真っ黒だ。
 屋内はかつての雰囲気を壊さないように資料や写真を控え目に展示、掲示されている。俳句を投稿するコーナーもあり即興で2句を投句した。他の同行者にも勧めた。気温は推定18度くらいなので、
 秋涼しけむり重ねる自在鉤    拙作
 
 即興なので満足できないが、俳人でもあった小津さんへのご挨拶である。隣には分厚い『蓼科日記 抄』が置いてあった。先月末に発刊されたばかりだ。手にとってぱらぱら見ると俳句もちらちら見えるので購入した。3990円也。蓼科湖まで戻って観光案内所で購入できる。そこで昼食もする。
          白駒池へ
 地図を見て、麦草峠に行くR299への抜け道に入る。羊腸の道を辿り、R299へ合流する。この道もかつて走ったが、もう記憶はない。峠までは何度も急カーブをやりこなし、少し佐久側へ下った辺りに有料駐車場があり、白駒池への入り口になっていた。車から降りると寒いほどの気温で、長袖を着込み、合羽の上着をヤッケ代わりに着用した。
 薄暗い米栂類の原生林の道を登り下りすること15分ほどで池畔に出た。この2月には文字通り白い白駒池を見たばかりであった。凍結していた。今は生きているという気がする。小波が立ち、浮き草がゆれる。5分で白駒荘であった。
 受付で宿泊を申し込む。予約しておいたので個室を確保できた。4人の女性は個室へ、私は相部屋で寝ることにした。1周40分らしいが、今からでは遅いのでゆっくり休む。夕食後しばらくで、コンサートが始まった。和洋の弦の調べがテーマだった。バイオリン1、ビオラ1、琴2の協奏、合奏である。演歌、流行歌以外に余り関心のない私には理解不能であるが、固定ファンがいて、大変込み合う。演奏後は懇親会で、食べ物、飲み物が提供されて、宿泊費+2000円に見合うサービスになっている。普段は寂しい池畔の宿も今夜は演奏で賑わったのである。
  秋の夜の和洋の弦の調べかな   拙作
  
 8/25(日)はどうしますか。外はあいにくの雨の朝だ。周回もままならず、駐車場へ戻る。また蓼科やビーナスラインに戻っても芸が無い。佐久側へ下って、野辺山、清里を経巡り、柳生博の「八ヶ岳倶楽部」に遊ぶことにした。ここで丁度昼食タイムになり、有名なカレーを食す。その後は再び茅野市へ戻る山麓の道をドライブして、「縄文の湯」に入湯した。さっぱりした。ここでもまだ標高1000mはある。小雨そぼ降る信濃路を後にした。

春の吟遊「信州の山河」2013年04月17日

永き日の頂上や聖山(麻績村)

フキノトウ摘みつつ下る聖山

眼前の名峰なべて夕霞

蒼天に残雪冴える常念岳(安曇野市光城山)

春雪嶺居並ぶごとし鹿島槍

みすずかる信濃の峠雪間かな

信州や岳は麗らか国境

柵(しがらみ)のはては飯縄雪残る

柵(しがらみ)の無住の寺の長閑さよ(安昌寺)

春雷や鬼女紅葉の怒りめく(鬼女の岩屋)

春雨や鬼無里村から峠越ゆ

濁りつつ迸るなり雪解川(据花川)

霞むまま白馬三山眺めをり(小川村)

春宵や山ほど積もる話して(Aさん宅)

若桜ちと咲き初めし善光寺

善光寺しだれさくらでもてなせり

モクレンの咲き誇る道善光寺

おやきなど食べて歩くや春の昼

額づけば善男善女春の昼

踏み場なきほどのカタクリ山に咲く(髻山(モトドリヤマ)

春泥に気をとられつつ山を行く

善光寺平長閑に見下ろせり

善光寺平らに蓋す春の雲

残雪の北信五岳欲しきまま(道の駅「小布施」から)