ヤマケイ文庫 伊藤正一『底本 黒部の山賊 アルプスの怪』を読む2019年02月14日

 先日、丸善で購入。帰宅時に地下鉄車内で読み始めたら面白くて、一と駅先まで乗り越した。徒歩圏で良かった。夕食後、寝床に入ってからも一気に読み込んだ。最近にない面白い本であった。
 ヤマケイ文庫 2019.2.14刊行
 
 定本というのはこれまでに刊行された本があって、再編集されているということ。それは良く売れた本の証拠でもある。

①1964年 初版 黒部の山賊 アルプスの怪 実業の日本社

②1994年 新版 黒部の山賊 アルプスの怪 実業の日本社

③2014年 定本 黒部の山賊 アルプスの怪 山と渓谷社
内容紹介
 北アルプスの最奥部・黒部原流域のフロンティアとして、長く山小屋(三俣山荘、雲ノ平山荘、水晶小屋、湯俣山荘)の経営に携わってきた伊藤正一と、遠山富士弥、遠山林平、鬼窪善一郎、倉繁勝太郎ら「山賊」と称された仲間たちによる、北アルプス登山黎明期、驚天動地の昔話。
 また、埋蔵金伝説、山のバケモノ、山岳遭難、山小屋暮らしのあれこれなど、幅の広い「山の話題」が盛り込まれていて、読む者をして、まるで黒部の奥地にいるような気持ちにさせてくれる山岳名著の一書です。
 1964年に実業之日本社から初版が刊行されたときは、多くの読者からの好評を得ました。
 近年は、山小屋でのみ購入できたこの幻の名作が、『定本 黒部の山賊』として、山と溪谷社から刊行されることになりました。
新規原稿も一話加え、底本未掲載の貴重な写真も盛り込んでいます。
巻末には、高桑信一氏と高橋庄太郎氏による『黒部の山賊』へのオマージュも掲載。 以上はコピペ。

④2019年 ヤマケイ文庫 黒部の山賊 アルプスの怪 山と渓谷社

・・・・特に③はよく売れたようです。アマゾンのコメント90件は山岳書としては多い。しかも、③では①②で採用された畦地梅太郎の版画の表紙を変えています。多くの読者を獲得した勢いで、今年は早くも文庫化されています。しかし文庫化にあたっては初版の表紙にもどされました。

 著者の伊藤正一(1923~2016)さんは三俣小屋の利権を林野庁と争っていた記憶しかなかった。本書を読んで、松本深志高校卒(旧制)で物理学者を目指していたこと、日本勤労者山岳連盟の創立者であることも知った。
 社会の仕組みをよく知っていて、権力にただ盲従、服従しない点は岩波茂雄と同郷の人だけはあると思った。信州人は反骨の精神が強い。したがって左翼のシンパになったり、日本共産党の支援もあったかに思われる。

 今度の読書で何でこんなに面白く読めたのか。山を始めた当初は折立から太郎平を経て黒部五郎岳へ縦走、折立から薬師岳を経て立山へ縦走、薬師岳往復くらいしか山歴はなかった。鷲羽岳は遠い山であった。
 本書に書いてあるような黒部源流に奥深く入ったのは2009年の盆休みに雲の平を経て読売新道を歩いたことだ。同年の9月には上の廊下を突破した。2010年8月には赤木沢を遡行、2013年の8月にはついに黒部源流を遡行する。
 そして三俣山荘に宿泊した。この時はすでに同書が置いてあり販売もしていたように記憶するが、購入にまでは至らなかった。伊藤さんは2016年に死去されたからこの年はまだ存命だったことになる。
 要するに雲の平に象徴するような別天地を知ったら黒部の魅力は忘れえないものになる。伊藤さんは黒部の語り部たらんと本書を著したのだ。非日常の世界を平易な文章でわれわれ都会人に知らしめた。
 そうか、柳田國男の『遠野物語』『山の人生』も怪異な話だった。黒部源流に人生を送った山男・山賊らの物語なのである。

恵那山の山名をめぐる話・・・三遠地方民俗と歴史研究会2019年01月28日

 東海地方のどこからでも悠然とした山容を見せる恵那山。別名は舟覆山とも称されて、漁師からは忌み嫌われたらしい。それがいまでは名山として押しも押されぬ地歩を得た。
 恵那山の由来を調べようと、多くのガイドブックや山の本を渉猟してはみたが、アマテラスの胞を山頂に埋めたという伝説から一歩も踏み込まれることはなかった。江戸時代の地誌『新撰美濃誌』にも伝説の引用はある。しかしそれまでである。伝説は口承であるから人々の脳裏に刻まれた物語である。文献は残されず記憶に頼るからだ。
 深田久弥『日本百名山』も伝説の紹介だけであり、立松和平『百霊峰巡礼』には山名すらない。ほとんどは回避しているかに思える。
 それで暗礁に乗り上げていた時、ふと名古屋市中区生涯センターに置かれた愛知県埋蔵文化センターのチラシが目に留まった。そこには埋甕の展示が案内されていた。実は『埋甕』という本を読んで、明治時代半ばまでは胞は普通に埋設されていた。さらに調べると、徳川家康の胞が岡崎城に埋設されていると知った。松平家康として生れたのだから偉人になってからの記念碑的扱いである。
 こうして考えを巡らすと山頂に胞を埋めること自体は特殊なことではないと思われた。眺めの良い山には伊勢神宮の遙拝所がある。それでなくても、神話上の人物が祀られている。
 例えば奥三河の大鈴山は伊勢神宮の遙拝所だった。伊勢神峠はもともとは伊勢拝みの謂いだという。猿投山にはヤマトタケルの兄の墓所がある。鎌ヶ岳にもアマテラスが祀られている。
 特に信仰の山ではないのにだ。山自体が御神体ではなく、頂上からはるかに伊勢神宮を遙拝できることが重要なのだ。
 これまでの調べでは、地名としての恵那は惠奈として平安時代の和名抄という書籍に記録されている。
 思えば日本民族には言葉はあっても文字のない時代が長かった。そんな時代でも確実に子供は生れたから「エナ」という言葉はあったであろう。唐の時代に漢字を輸入して、一字一音で日本語に当てはめた。それが万葉仮名であった。エナは惠奈と書かれ、恵那になり、やがて漢字の胞が当てられた。岐阜県の胞山県立自然公園と称するように県は胞を使う。恵那は言わば雅字であろう。
 山麓の阿木にアマテラスの胞を洗った血洗池があり、中津川を隔てた湯舟沢はアマテラスが産湯を使ったという伝説。それで恵那山と呼ばれたというのである。この伝説は何ゆえに生れたのだろうか。
 阿木の奥には木地師の活躍があった、今もロクロ天井には木地師の墓がある。1471mの点名は阿木という。焼山は木地師が焼き畑農業で山を焼いて蕎麦、稗、粟などを栽培した名残りではないか。全山が花崗岩の山なので噴火はあり得ない。
 実際には今の恵那山に命名される前に、血洗池の源流の山に埋まる三角点888.3mの点名「血洗」の一帯を恵那山と呼んでいたのではあるまいか。恵那の地名はそこから起こったと考えると自然である。
 伊勢神宮の遷宮は7世紀に始まる。皇学館大学が編纂した御杣山の記録集でも詳細に記録されるのは江戸時代に入ってからのことだった。多分、記録の手段としての和紙の供給が不足していたであろう。江戸時代になると庶民でも出版できるほどに流通した。1340年には奥三河が1回だけ御杣山になったが、設楽山とするだけでどこの山とは特定されない。私は段戸山周辺と思うが・・・。三河の山と伊勢神宮が遷宮の用材切り出しでつながっているとは面白い。
 御杣山の記録集(全文漢字)には恵那山の北の湯舟沢山1620m、井出ノ小路山1840mの名前は出てくる。あの辺には伊勢山もあり伊勢神宮との密着度が高い。しかし、恵那山は出てこないから、中津川周辺から源流は神域であったと思う。用材切り出しは湯舟沢周辺の記録はある。阿木はない。阿木は人里に近く、木地師もいたから落葉樹林でおおわれていたと見る。
 信仰としての恵那山は後世に入ってからのことと思われる。中津川を中心に川上にある恵那神社の建立が象徴する。縁起は不明となっている。前宮登山道は役の行者様の石仏もあった。前宮から奥は今でも針葉樹林の森である。
 恵那山はどこから登っても遠い山である。庶民が親しく登る山ではなく、崇められたであろう。汚されたくないためと盗伐を防止することも重要であっただろう。アマテラスの胞を埋設した伝説を持ってきて、神聖な雰囲気を演出して、安易な入山を阻止したと考えても無理はない。尾張藩が管轄していた木曽の山では、木1本首1つ、と戒めた。それだけ盗伐が多かったのだろう。
 奥三河の段戸山周辺でも、徳川幕府成立から約60年後の寛文年間に天領になった。豊川市赤坂に番所が作られて幕府の管理下に置かれて、山の民はそれまで自由に出入りしてた山に入れなくなった。おそらく、木曽でも三河でもトラブルが相次いだ。木地師は主に落葉樹なので棲み分けはできただろう。桧となると建築用材として需要は数多あり、江戸時代の経済発展とともに盗伐は増加傾向だったと思われる。
 木曽の森林は尾張藩が管轄した。徳川幕府は天皇に権威を求めた。庶民への啓蒙としてアマテラスの胞の埋設の伝説を以って、神々の森への不可侵を広めた。こんなところだろうか。

北信濃俳句紀行2019年01月26日

 四日目(1/24)はとことんスキーを楽しもうという組と帰る組に分かれた。東京へ帰る人らは朝食後宿の車で妙高高原駅まで送ってもらった。私はスキーは堪能したので今日はのんびりと道草を食いながら、帰名することにした。まずはマイカーの周囲の除雪が一仕事だった。天井は約1mは積もっただろう。エンジンは一発でかかったので安心した。
 除雪を終えて荷物を積み込んだ。8時30分過ぎに出発。最初は信濃町にある一茶の記念館を見学する。9時30分過ぎに入館。何分この時期は見学者もいないらしい。入館料は500円のところ暖房もしていないというので250円にしてくれた。順路にそって見学すると一茶の生涯を学ぶことができる。投句コーナーでは即吟で3句を投句しておいた。開封と選句は秋だそうな。「楽しみにしていてください」と係員がいう。受賞すればまた登山を兼ねて訪問するか。

  ”これがまあ終の棲家か雪五尺”  小林一茶

の観賞はこの時期でないと実感は得られない。まだ5尺(150センチ)にはならないが累積では降雪しているだろう。駐車場の奥の雪捨て場は堆く積んでいる。
 生涯の苦労が俳句ににじみ出ている。俳句で孤独を癒されたであろう。俳句の縁で多数の他人とつながり、名声も得た。人生は何が幸いするか分からない。
 次はR18を回避して県道37号で善光寺へ直行した。小高い丘からは雪の善光寺平に見えたが、平地に下ると雪はない。いつぞやのPに止めて善光寺へお参りした。ここでも外人が多い。
 次は松本市の杉田久女の句碑である。松本城のPに止めて、城山(じょうやま)公園まで徒歩で訪ねた。若干の登りはスキーで体が揉み解されたけれど、登っていないためにエネルギーの発散不足気味を解消した。句碑は松本市街を俯瞰する小高い丘の上に建っていた。さらに目を転ずると雪嶺の常念岳が見えた。
 この景色か、久女が好きだったのは。

  ”あじさいに秋冷いたる信濃かな”   杉田久女

という格調高い句にふさわしい地である。
 句碑を辞して、近くにある久女の墓にも行った。分かりにくいが、赤堀家の墓の隅の小さな墓に、1月21日の久女忌を修した供花が残されていた。思わず手を合わせた。こんな時期でもちゃんと修されている。久女ファンは多いのだ。山が好きなだけでなく父親の出であることが分骨の理由であろう。
 湯本明子『俳人 杉田久女の世界』(1999年 本阿弥書店)によれば、冒頭の縁(えにし)の項で、小原村の墓、次いで松本市の墓が紹介されている。「久女の墓」の墓碑の筆は虚子の手になるという。分骨の骨を拾ったのは父親だったという。その遺志を実現したのは娘の石昌子であった。
 石昌子の夫は日本山岳会会員の石一郎(『山岳』第36年第2号に会員番号1944と掲載。昌子も会員番号1945で正会員である。)といい、ウインパーの『アルプス登攀記』の翻訳もあるアメリカ文学者であった。昌子も「岳人」に寄稿している。昌子の句碑も墓も小原町松名にある。娘の手により久女は納まる所に納まったのだ。
 道草を終えるともう4時。そろそろ帰名につかなきゃ。R19で木曽を経て帰った。

スキー懇親会行②2019年01月26日

 二日目(1/22)は新潟県妙高市から長野市の戸隠スキー場への遠征になった。宿の送迎用ハイエースに満席のメンバーが同乗。オーナーが運転し、リーダーを勤めてもらった。
 当日は良く晴れた。妙高山の山麓からはかぶさるように聳えて見える。登山はしたことがあるがこちらからは初見である。昨日の昼食で「妙高山カレー」を食べたが、ご飯の盛り形はこの角度から見た妙高山の山容に似せたものだった。
 一旦R18に出て、信濃町から黒姫山麓を走り戸隠スキー場に向った。雪はたっぷりある。雪国に来たなあという気分がしてくる。戸隠スキー場は実は飯綱山の山腹につくられたゲレンデである。
 リフトに乗るとめのお山のトップに着く。素晴らしい北信濃の山岳風景が広がった。ゲレンデの雪質も軽いので滑りが良い。昨日と違い、ワックスとの相性も良いのでスキーに乗っている感覚がよみがえった。よく知ったオーナーのリードでゲレンデを隅々まで滑りまくった。
 昼食もあそこが良いと教えてくれた。蕎麦がうまいというので私も天ざるを注文した。確かにうまい。昼食後は再びゲレンデを滑った。滑り飽きた頃、宿に帰る時間が来た。
 宿ではすぐに温泉に入湯。汗を流す。夕食は刺身を中心に和食だった。ペンションでも和風料理が出るのはありがたい。様々な話題が飛び交った。
 宿の設備はベッドですべて欧風になっている。しかも床暖房で温かい。昨夜は下着を着こんで寝たせいで暑く寝にくかった。今夜は浴衣1枚で快適に寝られた。

 三日目(1/23)は近場の妙高杉の原スキー場に遠征する。ゴンドラが新しい。すぐに乗車する。ここからの山岳風景も素晴らしい。斑尾山が見え、野尻湖が凍らないので碧く見えた。遠景は志賀高原だろうか。
 ここのゲレンデは杉の原ゾーンと三田原ゾーンとに分かれている。ゾーンは林道でつながっている。三田原山は山スキーのツアーコースとして名前だけは知っていた。私の好きな岳樺やブナの林間が広がっている。コース外滑走禁止の制札があるにも関わらず、多くのシュプールがついている。標高1855mというから相当な高さを稼いだ。そのせいか若干寒いし風も強い。
 ゲレンデコンディションは上々だった。ここではオーナーの息子さんがリードしてくれた。なんでもスキー大会でならしたこともあるという。滑りをみると美しい滑降をするから本物だろう。息子さんから最新のスキー技術をレッスンしてもらった。曰く、ストックは雪面に引きずる、とか両足は若干開けるなど。30年前から40年前のスキー技術からは目からうろこのレッスンになった。
 基本的にはスキー板の中心に乗ることである。柔らかい革製登山靴で山スキー入門してきた身にはそれは基本のキで染みついている。前後のバランスが崩れると転倒し易いからだ。今はプラブーツになり足はがちがちに固定しているからスピードターンもやり易い。
 ところで息子さんの板はなんとテレマークだった。この板もバランスのコントロールが微妙と思われる。ゲレンデには自衛隊の人らも迷彩服で練習中だった。彼らの板はなんとカンダハ―だった。今もまだあるのか。スキーの本場という気がする。
 テレマークもカンダハ―も時代遅れのように思うが、何と言っても軽いので操作がし易い。最新の締め具は機構が複雑且つ重くなる。私のように革製登山靴でも履けると言うフレキシビリティの重視から今もジルブレッタを愛用する。但し400になってからは重い。
 三日間を通じて見た感想は日本のスキー場が外人天国になった感が深い。しかも白人だけでなく、シナ人やコリアンの言葉も飛び交っていた。そういえば宿のお客にも白人が居た。インバウンド需要はこんなところにも恩恵をもたらしていた。
 日本人から見るとカナダやスイスに行くのが1つのあこがれになっているが、インバウンドで反対に日本の冬の魅力を教えてくれる。
 宿の夕食は今夜が最後となった。ステーキを中心に欧風料理で締めくくった。

スキー懇親会行①2019年01月25日

 恒例のJACスキー懇親会(1/21~1/24)に久々に参加、旧交を温めた。とはいえ、知友は4人くらいで、長年交流していただいた越後支部のWさんは高齢もあってか地元なのに顔を見ることはなかった。参加者は1名Aさんが東海支部で後はみな東京からの参加組だった。今回も14名参加で平均年齢は75歳くらいとか。すると私などまだ若手の部類に入る。
 宿の場所は新赤倉温泉のペンションだった。赤倉スキー場の下にあり、スキーを履いてまで即ゲレンデほどは近くはないが、至近距離にある。アクセスは宿の送迎バスがになってくれた。
 20日はパッキングしてマイカーに積み込んだ後、昼間に寝て置いた。午前1時に名古屋を出発。単独なのでR19を北進した。木曽にも雪はない。午前3時、木曽福島の手前の道の駅で1時間ほど仮眠。4時に出発して、木曽を通過。塩尻、松本で午前6時になり、朝食を兼ねて休憩。松本市でさえ雪はない。さらに長野へと犀川沿いに走った。善光寺平に出た。今度はR18に合流して犀川も千曲川に合流する。千曲川の沖積平野も小布施までで、千曲川はR117と平行して新潟県境まで流れる。そこからは信濃川になる。
 R18は飯綱山の麓を登り、リンゴ園の多い黒姫山の高原台地に着く。ここまで約300km走り、道の駅ではないが、トイレのある休憩所で一休み。燃料計も半分になったので灯油を18リットル補充しておく。宿では3日間エンジンをかけないので名古屋の軽油だと凍結するからだ。秋ならばコスモスの咲き乱れる高原であろう。
 信濃町(柏原)に来ると江戸時代の俳人・小林一茶のふるさとである。ここまで来るとさすがに雪の量が増えてきた。積雪路になったので4WDにセット。久々の雪道走行を恐る恐る試しながら走る。また道の駅で休憩。コーヒータイム。信越大橋を渡ると新潟県妙高市に入る。天気も降雪になったので宿の名前をスマホに入力してナビを勤めさせる。2mあるマイカーの高さ以上に切り出された雪道を走る。一旦スキー場まで登って右折して下った所に宿はあった。9時前だったから正味7時間走ったことになる。
 宿のオーナーは昨夜だけで80センチは積もったと言った。それで宿周辺の除雪作業に大わらわであった。Pの一角に車を止めて、荷を宿に運びいれ、服装を整えると11時になった。12時から利用できる午後券を割引で購入、先着数名が宿の車で送ってもらう。
 久々のゲレンデスキーの試運転である。降雪と吹雪で何も見えない。案の定スキーが走らない。ショップでワックスを購入して塗布。少しは楽になった。がまだぎこちない。体がほぐれた頃、4時になり宿の迎えの車で帰る。すぐに宿の温泉の湯に浸る。東京から続々参加者が着いた。夜は全員が揃い、会食を楽しんだ。

北八ヶ岳のしらびそ小屋に泊る2018年12月22日

 30歳代に北八ツの西側からはよく登ったけれど、東側の登山道は真教寺尾根を登っただけで他はトレースしたことはない。それは交通の不便さが第一である。それでも八ヶ岳の地形図を眺めながら、しらびそ小屋にはいっぺんは泊って見たいと念願していた。
 あらからほぼ30年経過して、私も来年は古稀を迎える年ごろになった。登山者としての余命はそんなに長くはない。死ぬまでに1度は泊って見たい小屋になった。それは山岳会の12月の定例会でS君からの提案があったことから急に決まった。S君は八ヶ岳が大好きである。好みが一致して実現することになった。
 12/21朝7時過ぎ、集合場所の金山駅前を3人で出発。高速道路をひた走ると、長坂ICを経由してR141に合流した。そこからの見慣れない八ヶ岳連峰の主峰の赤岳は圧巻である。
 登山口のミドリ池入口に9時過ぎに到着。幸い積雪は少なく楽に走れた。昔からの登山口の稲子湯にも寄って見た。静まり返っていた。入り口に戻り、9時30分にゲートを出発。最初はカラマツ林の中の登山道と交錯する林道を登る。林相はシラビソに変わり源流の音が近づく。やや急な道を登りきるとストーブの煙の臭いが漂うミドリ池湖畔のしらびそ小屋に着いた。2時間10分であった。
 小屋には小屋主の奥さんが1人でお留守番であった。平日の今夜のお客は我々3人だけの貸し切りである。夕食は5時半からという。さっそくクマザサ茶がふるまわれた。夕食までのヒマは美味しいコーヒーと談話で過ぎて行った。いつの間にかあてがわれた部屋には暖房が入った。寝不足もあってうとうと寝入ってしまった。夕食になり、起きて食事。奥さんの山の話が面白かった。
 また13歳離れた御主人とのなれそめの話も面白い。何と東京都出身だそうである。「親の話は聞いておくもんだ」と意味深なことをつぶやかれた。20歳代で山小屋経営者にあこがれて結婚したことを後悔しておられるんだろうか。私は「30歳代になれば、智恵がつくからね」と応じた。青春時代の一途な心は尊いもの、大切にしてほしい。
 翌朝、5時起き、外は雨に変わった。窓から見るミドリ池も若干融雪してしまい、氷も解けたであろう。今日のニュウへの登山は早々と中止に決定した。朝食は5時30分になった。それも済ますと後は奥さんと話をしてのんびり時間を過ごした。
 山口耀久の名前を出すと、即座に有名な『北八ツ彷徨』の書名が出てきたのはさすがだ。しかし、意外なことも口にされた。山口さんの筆になる看板は息子さんが取り払ったそうだ。なぜなんだろう。山口さんの文体も読みづらいと余り評価は高くない。確かに思索的な点でスイスイ楽しめる文章ではない。
 随分としらびそ小屋での滞在時間を楽しんだ。下山したくなかったが、9時を回るとそうも行っておれず下山した。そうしたら入れ代りに続々登って来た。ミドリ池入口のPに戻って身支度を整えた。帰路は八峰の湯(ヤッホーの湯)を浴びてさっぱりする。ついでに昼食もとった。副食に名物の鯉の旨煮を付けて郷土の味を楽しんだ。
 R141に出て、途中で野辺山駅に寄った。ここからの八ヶ岳連峰の大観も素晴らしい。清里で八ヶ岳高原ライン(県道11)に入り、長坂インターを目指す。県道28に左折してすぐに八ヶ岳倶楽部の看板を見て立ち寄る。有名な柳生博さんの経営するレストランであるが、野鳥が集まる雑木林の散策が最大のウリになっている。四季の自然観察も良い。標高1360Mというから伊吹山のお花畑付近に相当する。以前は句会の人らを案内して喜ばれた。
 ここでコーヒーを注文。すると近くにどこかで見た白髪の老紳士が立って何か説明中だった。若いスタッフに聞くと柳生博さん本人だった。すぐに去られてしまった。本職はイケメンの俳優であるが、最近は日本野鳥の会会長としてのイメージが濃厚である。店を去るときに外のテラスでワインをたしなんでおられたので声を掛けてみたら気楽に応接してくれた。もっぱら山の話に弾んだ。
 去り難い八ヶ岳山麓の道草を断ち切って、又ドライブ。目の前に南アルプスの大観が。高速へ入ってからも八ヶ岳が見送ってくれた。

 奥さんが山口さんの著作に不機嫌だった理由。それは帰宅後に分かった。『八ヶ岳挽歌』を取り出し「しらびそ小屋」を読むと、今日的には個人情報がしっかり暴露されていた。現在のオーナーは今井行雄さんだが、初代小屋主は兄の今井治夫といった。小屋の建設から結婚、人生の破たんまでの顛末が赤裸々に書かれていた。
 「しらびそ小屋」の名付け親は山口耀久であったが身内の恥を書籍で公然と書かれては良い気はしない。2001年の刊行時に1度は読んだがオーナーの関係者と接するとその生々しさは普通ではない。山口耀久は八ヶ岳の開発とともに忘れられてゆくのだろう。

更級や姥捨山の月ぞこれ 高浜虚子2018年10月13日

 当初の計画は西穂から奥穂の縦走だった。それが今年の夏の天候不順を秋も引きづり登山の実績はゼロになった。それじゃならぬと12日のみ何とか天気が良さそうというので四阿山を前日午後発日帰りでやることにした。
 10/11は雨。中央道をひた走り、夜8時半過ぎ、上田市のホテルに投宿。温泉付き、食事なしで3800円はリーズナブル。
 10/12の朝まで降雨があった。午後から晴れるの予報に希望を託してゆっくり朝飯を食べて出発。群馬県側の嬬恋村のパルコール嬬恋のゴンドラに行くがあいにく10/10で休業に入ったという。山を眺めると雨雲が厚いので登山は中止にして観光に切り替えた。真田一族の歴史館に寄るが、12時過ぎから青空が出てきた。観光などして居れぬと観光を中止。
 思いついたのは筑北三山(聖山、四阿屋山、冠着山)の冠着山が未踏で残していた。これ幸いと千曲市に向った。千曲川に沿うて長野市に向う。途中の上田山温泉の背後に迫る冠着山への車道に入るとあとは一直線に登山口へ。
 登山口はすでに標高1000mを越える。案内板には山頂へ1100mとあり、30分で登れる。黄葉には今一早いが落葉広葉樹の森の登山道をありがたく登らせてもらった。
 山頂には意外にも冠着神社が建ち、窪地には古い石碑、草地には三角点、方位盤、句碑があった。表題の俳句は高浜虚子の作品で句碑として鎮座していた。この山は名山中の名山で、多くの詩歌に詠まれた。

 ブログ「重翁の写真俳句&紀行」
虚子句碑紀行、写真俳句紀行、写真俳句日記で構成しています
のなかから
 「姨捨公園入口の虚子の句碑はすぐ見つかった。
「今朝は早薪割る音や月の宿  虚子」
 長楽寺までの道筋に、藤原定家、西行法師、小野小町、小林一茶他、多数の句碑、歌碑があるらしいが、殆ど無視して虚子の句碑を発見した。
「更級や姨捨山の月ぞこれ  虚子」
 両句とも昭和20年9月22日に疎開していた小諸から観月句会で来た時の句である。」
 とあるからどうも登山して得た俳句ではなさそうだ。

 句意はまず、更級の意味を知る「更級郡。信濃国及び長野県にかつてあった郡。現在の長野市の一部と千曲市の一部。ソバの産地としても知られ、かつては「更科」とも綴ったが、「級」「科」は共に段差を意味する古語。」とあって地名である。
 結句の「これ」は、「これやこの」のこれ。「「や」は詠嘆の間投助詞で、「これがまあ、あの話に聞き及んでいる」という意味」で、「ぞ」は「係助]名詞、活用語の連用形・連体形、副助詞などに付く。
1 「ぞ」の付いた語・句を特に強く示す意を表す。」ので、

 初句はその土地へのあいさつの意味で、やあ!更級の皆さんこんばんは。中句結句にかけて、美しい月を眺めて、これが昔から詩歌に謳われたあの有名な姥捨山の月なんですね。というほどの意味。
 虚子らしく、更級といい姥捨山といい、古典の教養のにじむ古い地名を持ってきて、文語を駆使し、技巧的だが手堅い句を得た。


信州・戸倉上山田温泉 源泉掛け流しと貸切露天風呂で温泉三昧の宿 ホテル亀屋本店のHPからコピペする。
 
 我が心なぐさめかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て 古今和歌集 読人知らず

月もいでで やみに暮れたるをばすてに
なにとてこよひ たづね来つらむ 更級日記

更級や昔の月の光かはただ秋風ぞ姨捨の山 藤原定家

あやしくも慰めがたき心かな姨捨山の月を見なくに 小野小町

君が行く処ときけば月見つつ姨捨山ぞ恋しかるべき 紀貰之

隈もなき月の光をながむればまづ姨捨の山ぞ恋しき 西行

諸共に姨捨山を越るとは都にかたれ更級の月  宗良親王

空にひとつあまりて月の田毎かな 永宮寺松堂

姨捨や月をむかしの鏡なる 加舎白雄 元文三年(1738年)寛政三年(1791年)

くもるとはひとの上なりけふの月 宮本虎杖 元文5年(1740年)

姨捨てし国に入りけり秋の風 小林一茶 1763(宝暦13)年1827(文政10)

姨捨てた奴もあれ見よ草の露 小林一茶

遠近(おちこち)や 月待つ夜の とまり客 柳沢簾雨

おもかげや姨ひとりなく月の友 松尾芭蕉

十六夜もまだ更級の郡かな 松尾芭蕉

元旦は 田毎の月こそ 恋しけれ 松尾芭蕉

更級や 姨捨山の 月ぞこれ 高浜虚子 1874年~1959年

今朝は早 薪割る音や 月の宿 高浜虚子

冠着山(かむりきやま)
古称は小初瀬山(おはつせやま)  別名姨捨山(おばすてやま) 更級山(さらしなやま)
冠形の峰を大空にそびえ立たせた美しい展望の山であり、別名姨捨山、更級山といい町のシンボルとなっている。
月の照る美しい山として古くから文学の山でもあった 
神代の昔「天の岩戸」を背負って天翔けてきた「手力男命」(たじからのおのみこと)がこの美しい峰にひかれてここで一休みして冠を着けなおしたという伝説のある山。
「姨捨」伝説の山でもあり万葉集にも多く読まれている。 古称は小初瀬山(おはつせやま)。

奈良時代以前からこの山裾に初瀬(泊瀬)の皇子を奉斎する部の民「小初瀬部氏」が広く住していたことによるらしい。オハツセの転訛が北端で長谷(ハセ)の地名で残り南西部にオバステで定着したものとされている

冠着山伝説
 神代の昔、天照大神が隠れた天の岩戸を取り除き、九州の高天原から信州の戸隠に運ぶ途中に“天の岩戸”を背負って天翔けてきた“手力男命(たじからのおのみこと)”がこの美しい峰にひかれて、ここで一休みして冠を着けなおしたという伝説。のある山、また“わが心なぐさめかねつさらしなやをばすて山につきをみて”の考子伝説の山でもある。

冠着山(かむりきやま)/古称は小初瀬山(おはつせやま)/別名姨捨山(おばすてやま)
 冠着山は、冠形の峰を大空に聳え立たせた美しい展望の山であり、また月の照る美しい山として古くからの文学の山でもあります。正名の冠着山についても伝説があります。
 
 
冠着山伝説

古称は小初瀬山(おはつせやま)。

奈良時代以前からこの山裾に初瀬(泊瀬)の皇子を奉斎する部の民「小初瀬部氏」が広く住していたことによるらしい。オハツセの転訛が北端で長谷(ハセ)の地名で残り南西部にオバステで定着したものとされている


更科紀行
姨捨伝説
姨捨伝説(おばすて伝説)は、「大和物語」で語られる親孝行の物語で、『老人を大切にしよう。』、という教話であります。
訓話だと考えられる。奈良時代にインドや中国から伝わったといわれ、その物語にはいくつかのパターンがあるようです。
 むかしむかし、まだ日本が貧しかったころ、この地にはその貧しさゆえの口減らしとして、『年老いた者は山にすてる。』というおふれがありました。
 ある夜、そのおふれに従って一人の若者が老いた母親を背負って山に捨てに出かけました。ところが、後ろでボキッ、枝を折る音が聞こえます。
『夜道に迷わぬように折った小枝を目印にお帰り。』、それは、帰りにわが子が道に迷わないようにと思う、母親の優しさであった。 若者は母親のこの優しさに心を打たれ、どうしても母親を捨てることが出来ませんでした。おふれに背き、そのまま母を背負って山を下り、家に連れ帰り、床下に穴を掘って母親をかくまうことにしました。

 それからしばらくのことです。隣の国が『灰で縄をないなさい。できなければあなたの国を攻める。』、と言ってきました。殿様は困り果て、誰か知恵のある者はいないかと国中におふれを出しました。若者がこのことを母親に伝えると、『塩水に浸した藁で縄をなって焼けばよい。』、と教えられました。若者はこのとおりに灰の縄を作り、殿様に差し出し、この難題を解決させることが出来ました。 
 すると今度は、『曲がりくねった穴の空いた玉に糸をとおせ。』、と言っていました。今回も若者は母親に、『1つの穴のまわりに蜂蜜を塗り、反対側の穴から糸を付けたアリを入れなさい。、と教えられ、殿様に伝え、またも解決させることが出来ました。
 
 しかし、隣の国は、またまた難題を言っていました。『叩かないで鳴る太鼓をつくれ。』、と。若者がこれも母親に伝えると今度は、『太鼓の中へアブを入れれば、たたかずに鳴る。』、と教えられ、殿様に伝え、これもさせることが出来ました。
 
 すると、隣の国は『こんな知恵者がいる国と戦っても、勝てるわけがない。』と攻め込むのを諦めてしまいました。
殿様は、たいそう喜こんで、この若者を城に招きました。『褒美をとらす。欲しいものを言うがよい。』、と言いました。
若者は、決心して、正直に母親のことを打ち明けました。
『褒美はいりません。ただ、老いた母の命を助けてください。実は、この知恵をさずけてくれたのは、年老いた私の母なのです。』
『なるほど、年寄というものは有り難いものだ。』、と。
殿様は、お年寄りの有難さを知り、それからは年寄りを大切にするように改めて、年寄りを捨てることを止めさせました。それからは、どの家でも年老いてもいつまでも親と仲良く暮らせるようになりました

信濃の国更級の郷(戸倉・更級地区)に一人の若者が住んでいました。若者は養ってくれた伯母を母のように慕い、大切にしていました。ところがこの国の殿様は、年寄りが大嫌いで、「六十歳以上になった者は山奥に捨てよと」と、おふれを出していました。伯母も七十歳になってしまい、若者は泣く泣く背負って、姨捨山に捨てたのでした。けれども、後ろ髪がひかれ一人で帰る気になれません。 若者はそっと引き返し、老婆を背負って帰えりましたが、道に迷ってしまいました。すると老婆は「おまえが道に迷わないように、小枝を折ってあるからそれを目印に歩きなさい。」と教えてくれましたので、無事帰ることができました。誰にも分からぬように匿っていました。殿様は隣の国から難題を仕掛けられ「灰の縄を献上しなければ攻め入る」困った殿様は「灰の縄を見事に作った者には、褒美を取らす」と里人におふれを出した。若者は、早速老婆に相談すると「縄に塩をたっぷりと染み込ませ蒸し焼にすると良い」と教えてくれました。それを持っていくと殿様は感心した。「ご褒美はいらないから老人を捨てることをお許し下さい」と、殿様に一部始終を話しお願いをすると、それからは経験の尊さを知り、老人を大切にしたそうです。  淺川かよ子著「更級埴科の民話」参照

木花咲耶姫伝説
大むかし、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)という心も姿も美しい姫がおりました。この姫に大山姫という心も姿もみにくい叔母がいました。
「めいの咲耶は、かがやくほど美しいのに、この私はなんとみにくいことか。」
大山姫は、自分の姿を水にうつしてはくやしがっていました。

 「人は姿や顔の美しさより、心のやさしさが大切ではないでしょうか。」
と咲耶姫がいうと、
大山姫は
「たいそうえらぶった口のききようだこと、美しい咲耶に、みにくい私の心などわかるわけがありませぬ、ええええ、どうせ私は、顔のとおり、心もみにくうございますとも。」
とたいそうお腹だちになりました。

 咲耶姫は、自分のまごころが通じないばかりか、いえばいうほど、大山姫がひねくれていくように思われ、どうしてよいのやらわからなくなりました。
大山姫はまた、
「みにくい者には、着飾るより楽しみがありませぬ。」
と言っては、次から次へと、高価な衣や首飾りをつけ、よその命(ミコト)や姫達に見せびらかしていました。
命達はそんな大山姫のことを、あのような姫をめとったら、一生の不運だと言って、誰も大山姫を妃に迎えようとしませんでした。
そんなわけで大山姫は、四十の坂を越してしまいました。

 咲耶姫は大山姫が不憫でならず、この上は神におすがりしなければと、朝に夕に、「おば姫の心を安らかにしたまえ。」
と心をこめてお祈りしました。
するとある夜、咲耶姫の夢枕に、月の神が立たれ、「明、十五夜の夜、大山姫をともない、更級の数々の峰を越えていき高根(高い山)に出でよ。そこに大岩があるから、その上へ登って、四方(ヨモ)を眺めよ、その時私の姿が、段丘の田毎に映り、そのさやけさで、大山姫の心はおのずと、清らかになるであろう。」
と告げられました。

 次の日咲耶姫は喜びいさんで
「おば姫さま、お屋敷に閉じこもってばかりおられては、体の為になりませぬ。今宵は満月、お月見でもいたしませぬか。」
と誘いました。
「そういえば、ここ何年となく、お月見などしなかったから、行ってみましょう」
大山姫は思いがけなく素直にいわれて、衣はどれを着ていこうか、髪飾りはこれに決めましょうなどと、いそいそ身支度をなされました。咲耶姫は大山姫と連れ立って、月の神のお告げ通り、更級の数々の峰を越えて、高根に登りました。
「なんと見事な大岩でしょう。」
と大山姫は、一つの大きな岩を目ざとく見つけられて指さされました。
「おば姫さま、あの大岩へ登りましょう。」
咲耶姫は、この大岩こそ、月の神のお告げの大岩に違いないと、大山姫を誘って、その大岩へよじ登り、二人して四方を眺めました。

 四方の山々は黒く静まりかえっていましたが、遥か下の方には、段丘の田毎の水に月影が映っていました。

 ふたりはしばし無言のまま、その景色にみとれていましたが、やがて大山姫がしずかに口をひらかれました。
「咲耶よ、田毎の月かげのさやけさ、まこと、この世のものとも思われませぬ。なにやら、私の心の中のけがれが、みんなあらい落とされていくようじゃ、これもみな、咲耶のおかげじゃ。」
と目に涙をうかべていわれました。
「もったいのうございます。わたくしこそ、なにやら月のひかりで、こころの奥まで清められたようでございます。」
咲耶姫は今こそ、自分のまごころが大山姫に通じたかと思うと嬉し涙にくれました。

 するとその時、月を伏し拝んでいた大山姫が、
「わたしがもし、月の宮へのぼれたら、この国をお守りになっていらっしゃる諏訪の神建御名方命(カミタテミナカタノミコト)のような神になりたいのですが。」
といわれました。
「え!月の宮へ!何もそんな遠いところへ行かなくても、私のそばにいつまでもいてほしゅうございます。」
咲耶は思いもよらぬ大山姫のことばに、ただおろおろするばかりでした。

 すると空の月の宮から、
「大山姫よ!この浮橋をわたって来なさい。わたしと、月の宮でくらそう。」
と、諏訪の神のよぶ声がしました。そしてその声とともに、数百条と思われる綱のような浮橋が、月の宮から大山姫の足元へかかりました。大山姫と咲耶姫はふしぎななりゆきに夢でもみているような心地がしました。
「諏訪の神、まこと、私のような物でも、この国の守り神となれましょうか。」
と大山姫は、月の宮を仰ぎながら叫びました。 
     
 すると再び月の宮から、
「そなたの美しい心こそ、月の宮びととしても、国の守り神としてもふさわしいのです。」
と諏訪の神の声がしました。
大山姫はその声に誘われたかのように、一本の浮橋へ、足をかけられますと、
「咲耶、さようなら、おまえのやさしい心は、いつまでも忘れません。」と叫ばれました。その時、妙なる楽の音が響き渡り、大山姫の姿は、満月の中へ、みるみる小さくなっていきました。      

 咲耶姫はその姿を見送りながら、声を限りに叫ばれました。
「おば姫はこの高根に、みにくい心を捨てられ生まれ変わられました。おば姫をいつまでも忘れぬようこの高根を、おばすて山と呼ばせていただきましょう。」

 更級の里、おばすて山に伝わるお話です。  
         
姥捨山の月:長野県更埴市南西の山。正式名称は「冠着山<かむりきやま>」、標高1,252.2メートル。古来、「田ごとの月」なる名月の地として有名。土佐の桂浜・石山寺の秋の月と並んで三名月と言われたりする。
以上

雪の北八ヶ岳・横岳を歩く2018年01月21日

 名古屋・地下鉄の一社を夜9時に女性4名、男性2名で出発。テントビバークの予定なので防寒着を十分にと勧告したので荷物が膨らんだ。荷物室は満載に近い。
 東名道から中央道へ。飯田辺りに来れば少しは雪もあろうかと思ったがない。諏訪SAにも雪片すらなかった。中央道を出て国道沿いのスタンドで寒冷地用の軽油を補給。名古屋の軽油では凍結するからだ。R192をどんどん走る。蓼科高原に入っても雪道はなかった。駐車場は標高1750mというのに。ここでテント泊まりと車中泊に分かれてビバーク。
 朝になるとなんとスキー場の施設の中に暖房付きの仮眠所があった。寒い思いをしなくても良かったのだ。
 ゴンドラは9時に乗車。9時半からアイゼンを装着して横岳に向かった。一面針葉樹の森の中には真っ白な雪で覆われていた。あるところにはしっかりあった。しかもスキー場のバーンもあった。お客が少ないのは八方辺りに流れているのかな。
 夏道のままをトレースするだけなのでRFはなし。大勢の登山客でしっかり踏まれているからラッセルもない。静寂を味わう北八ッではなかったのかと思う。
 八ヶ岳は新人の頃毎年秋には登った。踏み跡程度のバリも登っているが登攀はなかった。もう終わった山域ではあるがこうして年老いてまた2472mの冬の山に楽に登れるのは魅力的である。山麓に宿をとって高原の雰囲気も味わうのも良い。Pに着くと朝はガラガラだったがほぼ満車になっていた。
 帰路はJAに寄って、ダイヤ菊の日本酒を購入。小津安二郎が脚本を書くために、脚本家の野田高梧(愛知一中→早稲田大学)と2人でここ蓼科の雲呼荘で練り上げたという。出来上がるとダイヤ菊の空き瓶が100本以上並んだという。
http://www.shopdaiya.jp/tra/index.html
https://www.leon.jp/lifestyle/6714
 酒飲みというほど好きではないが、小津ファンとして、酒と野沢菜付けを土産にゲットして帰名。
 6名とザック、テントなどを満載しても、高速走行は快適。多分、遠州に行った後タイヤのエアアップをしてころがり抵抗が向上したせいか。私と同様に老骨に鞭打って無事に往復450kmを走って帰還した。

中央アルプス・麦草岳目前で撤退!2017年10月02日

幸ノ川渡渉地から眺めた穂高連峰
 9/30は午前中は仕事、午後は句会とあわただしく、出発は夜9時になった。今回は麦草岳に挑戦する目的で福島Aコースを選んだ。2時間ほど走ると木曽路の大桑村に着く。R19から木曽川右岸に渡り、大桑スポーツ公園のPで車中泊する。公園なので照明あり、トイレあり、東屋ありで便利なところだ。よく通った頃はここを中継地にしていた。
 夜11時30分のR19の気温掲示は10℃だから相当寒い。名古屋の暑さになれた体は軽装になりやすい。長袖2枚を持ってきたのでそれを着こむ。シュラフもオールシーズンにしてよかった。車内の荷物スペースを整理するとフラットになり、手足を伸ばして眠れるバンは便利である。
 10/1の朝5時尿意で目覚め。夜が明けたのだ。おにぎりをお茶で流し込んで又走る。
 R19の木曽福島の外れに駒の湯の看板で右折、後は1本道でキビオ峠登山口に行ける。標高1200mはある。ここまで走れないことはないが、夏は良いが、秋は厳しい。予想以上に寒いので、長袖シャツの着替えも着こむ。さらに雨具の上着もヤッケ代わりにはおった。
 キビオ峠は今は舗装道路だが中山道以前に開通していた木曽古道の名残である。小さな園地になっていて、御岳山や乗鞍岳が一望できる展望台があり、トイレ、東屋もある。駐車場は結構広いし、テントを張る余地もあるので夏はいいだろう。
 6時40分、登山口の「熊出没注意」の看板に気が滅入るが、久々の中ア登山に勇気を鼓舞する。鈴を鳴らしながら一歩一歩登り始めた。最初は赤松のよく伸びた林の中を行く。白樺の美しい林になったと思うとすぐに雑木林になる。突然目の前を黒い獣が駆けあがっていった。熊か!とビビったが相当上部で振りかえり、こっちを見ている。何だ、カモシカだ。
 ジグザグの登山道を登りきると気持ちの良い木曽見台の分岐に着いた。7時30分。左折すると木曽見台、右へ尾根伝いに行くと登山道だ。笹の刈り払いはここまで。木曽駒高原スキー場が閉鎖されたためか、スキー場へ40分の道標が寂しく、登山道も笹に埋もれる。一方で地形図に描かれた破線路は今は笹に埋もれた廃道になり、尾根を直登するルートになった。
 登り始めは急で足に応えるのだが、周囲は原生林であり、特に大栃の樹木があり見事な自然美が癒してくれる。尾根を登りきった辺りでまた廃道に出会う。冬道は基本的に尾根を辿るから冬道が夏道になった気がする。
 尾根筋をたどってしばらくで山腹へ巻き始めた。1793mのコブを巻いたのだろう。わりあいはやく尾根に戻った。ここらになると岳樺の林になるが黄葉には早い。徐々に高まる尾根を歩くとまた巻き始める。赤林山だ。
 以前に山岳会でこの山に登山しに来たことがあった。登山道はないので南の痩せた尾根筋をたどって登頂し、コンパスで真北へ下れば登山道に出会うのでRFの練習になった。
 巻道は以前よりも荒れた気がする。道幅は細くなりアップダウンが多くなったように思う。記憶ではもっときれいな巻道だった。別人のスマホの軌跡をみると確かに標高差50mの違いがあった。
 赤林山の北で破線路は2050mまで登って巻き始め、南で2080m付近で尾根に戻る。軌跡は1910mで巻き始め、2030mで戻る。北の登りで140m、南で50mの下りを節約するためだろうが、山腹道は荒れやすいからかえって労力は増えている。新道?は歩きにくいものだが。
 赤林山の南の鞍部ではぱっと視界が広がったので一休みした。寒い風が吹き上げてくる。ここからは尾根に忠実に歩く。樹林の道が続く。ようやくの思いで6合目に着いた。道標は直進は麦草岳、左折は福島Bコースへの巻道になっている。時計は11時18分だ。ここまで4時間30分かかっている。麦草岳は2733mなので比高328mを1時間では登るのは難しい。上松コースと合流するまではやぶであるから1時間30分を見込むと12時50分登頂になる。休まず下って4時間とすると16時50分だ。山中で日没に捉まると厄介と考えてBコースを下山する周遊に計画変更した。
 幸ノ川の源流域を横断する登山道である。この道も若干荒れているが歩行に困難はなかった。幸ノ川を遡行すると登山道との交差地点で終了した。今日はちゃんと水が得られた。交差地点からは心なしか急に踏み跡が歩きやすくなった。
 避難小屋に着いたのは12時14分。小屋周辺は紅葉、黄葉できれいだ。1人ベンチで昼寝中だった。小屋の屋根に太陽電池パネルが追加した以外は変わりない。12時30分下山開始。力水には14時14分、渡渉地点は15時少し前、スキー場跡は15時30分過ぎになった。
 後から足音がするのでびっくりして振り返るとランニング登山の単独行で名古屋の人だった。軽装備でBコースを走り、麦草岳、牙岩、前岳、木曽駒、宝剣岳、三の沢岳を往復してきたそうな。どんな心臓と足をもっているやら。こういうのを韋駄天というのだろう。
 さて、韋駄天氏と立ち話している内に15時40分になった。ここからキビオ峠までは約3kmある。車道をスキー場から別荘地を抜けて一旦R19の分岐まで下り、ここから峠へ登り返した。30分から40分と見込んでいたが登りの疲れもあり、Pに着いたのは16時50分になった。1時間強かかった。平地のような感覚では歩けない。
 目的完遂のためにはもう2時間早く出発するべきだろう。5時には出発していないと登頂できない。膝痛を克服してからの試歩と思えばまずは良しとしたい。
 帰路は駒の湯に寄って入浴。650円也。以前は透明な源泉が噴き出すとすぐに鉄の錆びた色になりタオルも汚れたが、今はろ過して透明な色になった。その分効能も減った気がするが山の湯は良いものだ。
 木曽の夜は早い。まだ6時前だが目当てのソバ屋は閉店している。農協スーパーに寄って木曽の蕎麦を購入した。
 登山道で出会ったのはカモシカ、野兎、そして避難小屋の昼寝氏、韋駄天氏だけだった。
 それと雪虫が大量に浮遊していた。明日は雪が降るかも知れない。下山中の14時前、急に冷えてきて、赤林山にもガスがかかり、麦草岳は雲に隠れた。そして白いものがちらついた。霰だろうか。朝は素晴らしい日本晴れだったのに。秋山は急速に変化するから怖い。

登山はベストを尽くせばそれでいい!2016年08月09日

 8/5の夜発で8/7まで北アルプスの唐松岳から五龍岳までを元気に縦走してきた。6人が参加。8/6は八方尾根から唐松山荘へは厳しい炎暑の下、ふーふー言いながらの登りである。小屋へは12時すぎに着いた。私は寝不足を回復するため休養したが元気な5人は不帰の剣の手前までお散歩として往復した。また1人は唐松の下りで筋肉を傷めるアクシデントがあった。縦走はとても無理というので、話し合いでKさんがYさんに付き添いで八方を下ることになった。Kさんは日本百名山をすべて踏破している。その心の余裕から生まれた親切である。それでもその優しさに感謝する。
 8/7は4人が5時に山荘を出発。今日も炎暑が予想された。五龍山荘まではアップダウンの多い縦走路を3時間で予定通り踏破。山荘で休憩後、五龍への登り道に取りつく。ガレの多い岩の路である。山頂直下は岩壁の岩登りになった。岩登りのトレーニングが生きるような登りである。山頂はすぐそこにあった。日本百名山踏破77山目か?
 これまで計画しても雨で中止することもあったし、五龍山荘で泊まって雨の遠見尾根を下山したこともあった。雪辱を果たすというとオーバーか。
 山荘まで下山。コーヒーを飲んで休憩。今度は雪辱を果たすべく、炎天の遠見尾根を下山した。八方に比べるとしばらくは鎖場の連続する岩場もあってやや荒っぽい登山道である。緑陰の岳樺の中に入るとほっとする。小遠見山まで来るとハイキングの路をアルプス平まで下る。リフト、ゴンドラを乗り継いで下山。振り返ると稜線は雲が漂う。もう気象の変化の兆しか。
 山麓の駅舎まで来て出ると故障組が先回りして待機してくれた。タクシーでマイカーを回収する時間が節約できて良かった。着替えの後、麓の温泉で汗を流して帰名した。
 足の筋肉痛の故障で下山したYさんは元々体力のない人だった。それでも唐松岳には登頂できたのだ。最近見た映画「ロング・トレイル」の印象的なセリフを思い出す。アパラチアントレイルを途中で目的を果たせずリタイアしても「人生はベストを尽くせばそれでいい」と言った。中ア・宝剣沢、黒部源流縦走などの実績はあるが今回は体力の限界に達したようだった。登山はベストを尽くせば良いじゃないか。諦めることも人生のうちである。