四国や諭鶴羽山の投稿を掲載した「聳嶺」届く2023年12月04日

 12月3日山から帰宅したらポストに届いていた。『聳嶺』はしょうれいと読む。投稿は25本以上、121ページとけっこうな文量がある。会員数は約200名といつの間にか増えた。コロナ明けで全国へ活動を活発化したことがうかがえる。
 私も昨年11月19日から11月22日の四国と淡路島の一等三角点の山旅の報告を投稿させてもらった。四国では小島烏水祭に参加して交流した。淡路島では最高峰の諭鶴羽山ハイキングと淡路島出身の軍人・樋口季一郎の銅像を拝見するために時間をつくった。終戦後でもソ連は日ソ中立条約を破棄して北海道をとりに攻めてきた。そこを守った軍人であり、ユダヤ人の難民を救済した人道の偉人でもあった。こんな日本人が居たのか、との思いを満たした。
 ”たまきはるユダヤの命救いたる樋口李一郎像建つ見ゆ”

たまきはるユダヤの命救いたる樋口季一郎像建つ見ゆ 拙作2022年11月22日

祖霊社に建つ樋口季一郎の銅像
 伊弉諾神宮参拝。その一角の祖霊社に10月11日、樋口理一郎の銅像が建立された。それを見て詠む。

「リトアニアの日本国総領事館に赴任していた杉原千畝がナチス・ドイツの迫害から逃れてきた多くのユダヤ難民を救出した逸話は、「東洋のシンドラー」として国内外に広く知られるようになった。
 その一方で、もう一人の「東洋のシンドラー」、樋口季一郎陸軍中将の史実は知られることが少ない。杉原が救ったとされるユダヤ人の数6000人を優に上回る2万人のユダヤ人を樋口中将が救ったことは、ユダヤ人社会で記録に留められているほどだが、今、彼の功績を広く世界に伝えるべく、日本、イスラエル、米国で連携の輪が広がろうとしている。
 ルトワック氏ら22人のユダヤ人が銅像建立の発起人に第二次世界大戦直前、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人難民を救い、ポツダム宣言受諾後、ソ連の北海道侵攻を阻止した樋口季一郎陸軍中将(1888-1970年)の史実に今、新たな光が当てられようとしている。」

②四国の山旅~徳島港から竜王山へ2022年11月19日

 仮眠中に車体を浮かせるような地震が2回あった。紀の川は中央構造線の上を流れる。大断層の上だからだろうか。東南海地震が数十年中にあるという。ここは震源地に近そうなところである。
 和歌山港は2時40分に出航。徳島港へ4時55分きっかりに入港。船から出るとまずは腹ごしらえに牛丼屋を探す。スマホのナビで導かれるままに入る。食べ終わってもまだ暗い。真西にある眉山を南周りに迂回してR192に入った。脇町ICへ導かれて美馬ICでR438に出た。野田ノ井から藤宇を経て阿讃山脈に沿う山道を走ると竜王山の直下まで来た。
 駐車場が3ヶ所あるので登山口はここだろう。身支度して出発。阿波竜王へはあっけなく着いた。4等三角点、展望台がある。ここから笠形山への道標を分けると一旦980mまで下る。痩せているうえに左は急傾斜の斜面でスリルがある。鞍部から急登をあえぐと讃岐竜王である。ここは図根点が埋まる。あれっ、1等三角点はどこだ。と地図を再点検すると何と南の1013mだった。
 駐車場に戻ると地元ハイカーが7人くらいはいただろうか。1等三角点の場所を問うとやはり1013mである。時間があれば香川県まんのう町の横畑を起点に竜王山、一等三角点を周回すると面白い。
 結局地図にはないが竜王峠まで車で移動し、竜王峠から2分で三角点にタッチできた。中型バスの運ちゃんが暇そうに待っていた。多分どこかのハイカー集団を浅木原まで送り、ここまで下ってくるのを待機中か。これで行きがけの駄賃の目的は達成した。
 次は高松市内のホテルである。10時半に着いたが交通機関が意外に不便だった。JR高松駅から栗林公園北口駅まで乗車。下車して稲荷山の北を回り栗林トンネル口から鞍部に登りイベント会場まで歩く予定だったが、時間に遅れそうなのでスタッフに電話して送迎してもらった。

①四国の山旅~和歌山港フェリー乗場へ2022年11月18日

 お昼過ぎに名古屋を出発。R23を走り、四日市からR1へと走る。亀山ICからR25(名阪国道)へ入り伊勢路から大和路へ。R25はトラックを中心に交通量が多い。桜峠で521mもある標高は大きくカーブを描いて60m前後の奈良盆地へ下る。
 郡山ICからはR24を南下する。北は奈良市中心になる。その西が安倍元総理の終焉の地となった近鉄大和西大寺駅前だが訪ねてみたいが今日はパス。
 R24ha金剛山地に寄り添いながら五條市で紀の川にぶつかると真西へと方向を変える。夕方になると紀伊山地のその奥に夕日が当たる大峰山脈が神々しく見えた。紀の川に沿うともう暗くなる。そして和歌山市に着く。和歌山城を右に見ると和歌山港は近い。徳川御三家とは思えないほど小ぶりな城に見える。
 和歌山港の乗場では21時50分の出航待ち。2時40分までは時間があるので車中で横になり仮眠。

子規・虚子を訪ねる伊予の旅2014年07月22日

       愛媛県松山市子規記念博物館へ(7/19から7/20)

 「何処へなりと遊べ夏山夏の川  子規」の垂れ幕があった。子規らしい大らかな俳句である。

 30歳代の頃、正月休みの四国周遊の山旅で皿ヶ嶺登山の帰途、松山市に遊んだ。例の温泉に入湯するためであった。投句箱に”大いなるぶなの枯れ木や皿ヶ嶺”を書いて投句したら佳作に選ばれて、愛媛人形を贈られた。嬉しい旅の記念になった。
 今回は定年後に始めた句会のメンバー4人を誘って往復1000kmを越すドライブになった。だから松山市は2回目の再訪となった。
 メンバーには松山市出身者もいて懐かしがった。高校までは松山市に住み、東京の音楽系大学に進むも、音楽家とはならず、楽器メーカーの社員となり、定年後の今は音楽指導の生活。感性を持て余すのか、俳句にも首を突っ込んだ由。というより、俳都に生まれたことが原因かも知れません。
 朝7時に出発。すぐ高速道路に入ると後は松山ICまで一般道に出ることはないはずだったが、トラベルはトラブルという縁語でも分かる通り、道中色々ありまして、子規記念博物館に着いたのは午後4時過ぎでした。宿に荷を預けて徒歩で子規記念博物館へ行く。午後6時まで開館というのが旅人には嬉しい。一通り子規の人生と活動を眺めた。生まれは漢学者の系統らしいが、東京へ出てからの人間関係の築き方が素晴らしい。特に新聞記者となってペンの力で情報発信できた環境にあったことが決定付けた。
 子規に名句らしい句はないじゃないか、との評価もある。彼は早世だったからそれは当たっている。ただ。彼の意を汲んだ弟子の活躍が大きかった。特に虚子が大きい。
    伊予の名山・高縄山へドライブ登山
 二日目は、早朝の神の湯に入湯。太鼓の音が響く。松山ならではの名物で、午前6時前というのに大勢の観光客が待っている。入湯料も最低410円から1000円を超えるものまでサービスにグレードがあった。一旦宿に戻って、商店街の街中をぶらついた。そこで新湯の存在も知った。椿の湯という。建物も新しい。3度目はここにも来よう。土産物の並ぶ商店街はまだシャッターが下りたままであった。ぶらぶら時間をつぶすうちに皆開店し始めた。
 商店街を抜けたところに古風な機関車の設置された道後温泉駅があった。カラクリ時計もあり観光スポットになっている。松山市の出身者は先ほどから盛んに携帯で高校時代の音楽仲間に電話しまくっていて、駅前に呼び出したようだ。名刺を渡された。その会話を聞くと伊予弁であろうか。
 懐かしむ伊予の言葉や夏の朝   拙作
を詠んだ。そして宿に戻って出発した。今日の目的地の高縄山にドライブ登山した。R317沿いの石手川の源流の山で、終始川沿いに走る。看板を見て左折。本格的な山岳路になり、羊腸の道を走ると、石ヶ峠に着いた。ここに置いて歩いてもいいが、まだいい道が延びていた。そのまま走るとすぐに高縄寺、更に登ると山頂直下に着いてしまった。石の板を敷いた歩道を登るというでもないほど短い。1等三角点が埋まる山頂だった。傍らのNTTの電波反射塔が景観を台無しにしているが、ここまで楽に登れたのはそのお陰でもある。鉄骨の櫓に登ると瀬戸内海の眺めが素晴らしいはずが、あいにく霧が流れる。この寺のどこにも俳句だらけであった。
    高浜虚子の生地を訪ねる
 車に戻って、さて帰名の途に着くと思いきや、松山市出身者が虚子の句碑へ案内するという。はて、そんな句碑は知らなかった。石ヶ峠から今度は右折。サイクリストが盛んに登ってきた。道なりに下ると旧北条市になる。R196を横切って、予讃線も渡ると旧のR196に出て右折。河野川の橋を渡ると高浜虚子の句碑と胸像があった。石も新しい。
 虚子は鎌倉市、芦屋市、小諸市に記念館があるのは知っているが、生家のある松山市では顕彰もされていない。大虚子にしては冷遇されている。それもまあ、子規の弟子であり、子規をあれだけ売り出している以上は二人も金は掛けられないだろう。質素であるが、虚子の老成した顔のイメージはよく出ている。
 その後、鹿島の港のみ立ち寄って、帰名となった。R196を経て山間の広い県道を登ると高縄山への案内があった。笹ヶ峠を越えると今治市に入る。道はころっと変わり、一車線になり、しばらく羊腸の道を下った。再びR317になり、R196に右折。今治湯の浦ICから高速に入る。そこから今度は徳島自動車道を経て淡路道に戻った。往きは淡路道から高松道へ図らずも入ったために意図的に迂回してみたのである。
 淡路は大きな島だった。本州へ帰ると長い渋滞に悩まされたが、何とか午後10過ぎ、無事帰名。有意義な旅を終えた。

四国の山を歩く(工石山、天狗森、旭ヶ丸)2007年11月25日

      四国への旅
 11/22夜8時50分名古屋ICから東名高速に入る。行く先は四国の山である。関西までは日本海側の低気圧の影響で小雨である。11/23午前0時30分、名塩SAに着いて車中泊を決めた。商用車キャラバンはこんなとき広大なスペースを提供してくれる。快適な仮眠であった。
 11/23午前4時半、3時間の仮眠で再び本線に入る。山陽道に入り、岡山JCTから瀬戸大橋方面に向う。本四架橋を渡るのは初体験。今まで連絡線かフェリーであった。あっけなく渡ってしまう。本土を離れるときに一旦ETCを通過し精算すると3874円を表示。
       高知・工石山1176mに登る
 高知道の高知ICを出る。料金は6550円也。520kmの走行距離で合計10424円だった。今日の予定の工石山登山口赤良木峠に向う。工石山は高知市民に親しまれた低山である。登ってみてよく分かった。自然が豊富で眺めがいい。位置的に四国山脈を東西に眺められるから広大である。剣山から石鎚山まで眺めることが出来た。しかもわずか1時間30分ほどでだ。一等三角点の山らしい風格と展望を兼ね備えた名山である。玉石混交の中では当然玉である。古くは信仰の山でもあった。
 山頂は北峰と三角点のあるピークの二つあるが展望盤は北峰にある。四国の山岳展望は北峰で楽しめる。但し憩えるような設備はないの少し下って三角点に向う。三角点のあるピークは展望台が設置されている。土佐湾を俯瞰できて素晴らしい。ベンチもあり広く初冬でも温かい小春日和が嬉しい。登山者が来ては去っていく。
 我々も充分な展望と昼食を楽しんだ後、賽の河原を経由して登山口に下るコースを下った。イヌブナ、ヒメシャラなど自然の植生が保存されている。登ってきた登山道には全国の県の木が植えてあった。もちろん愛知県のハナノキもあった。下山にとったコースは反対に元からの自然であろう。ヒメシャラの別名にアカラギとあったから登山口の赤良木峠はヒメシャラの群生でもあったかと思う。
      土佐の高知の名所に遊ぶ
 下山後は高知市内に向った。ペギー葉山が歌って大ヒットした「南国土佐を後にして」に出てくる土佐の名所を訪ねたかった。まず「はりまや橋」続いて「桂浜」とドライブした。途中大雪山の1峰に桂月岳と名を残す大町桂月がここ土佐の出身と知った。渋滞気味の道を次の馬路村の魚梁瀬に向った。
       秘境・馬路村へ向う
 馬路村の魚梁瀬はR55の安田町から左折、一路奥へと走る。安田町がかなり奥深く感じる。それにこの対向車の多いこと。人家が途切れても結構な車とすれ違った。馬路村は山間部の空間の中に明るくあった。馬路温泉が観光資源であり、さっきの車は日帰り入浴の客だったかもしれない。
 馬路温泉からY字路を右へ入ると暗く、羊腸の道が尚も続いた。傾斜がましてダムの堰堤に登って行く感じがした。闇で分からない。山の案内人という大きな看板を見ると下っている。ダム湖の水面に近づいていくようだ。近代的な吊橋が見えた。左は明日の予定の天狗森の案内があった。橋を渡ってしばらくで宿・満木荘への道を聞いた。すぐそこだった。名古屋から約670Kmのドライブだった。
 桂浜を4時に出て6時半に宿に着いた。すぐに外湯のやなせ温泉に入湯しに行く。ぬるぬるしていいお湯だった。何より他の客が居ないのでゆっくり出来る。地元以外の人がここまでわざわざ日帰りで入湯目的で来ることはない。だから秘湯といってもいい。
 お湯をでてすぐに宿に戻り夕食となった。イタドリの煮物、あめごの塩焼き、てんぷらなど地物で彩られたメニューは家庭的で温かい感じがした。ビールもぐいぐい入っていく。酒も2本追加した。ふとんにもぐるとばたんキューだった。
         天狗森1295mに登る  
 11/24、朝からいい天気である。外に出ると天狗森が朝日を浴びている。ダム湖は修理中で水を抜いているために殺風景であった。魚梁瀬は周囲を山に囲まれた秘境であった。古くは平家の落人伝説が残る。落ち延びてきた人が魚を捕るために簗を仕掛けたことが地名の由来という。おそらく豊富な魚が飢えた人々に希望を与えたであろう。時代は移って林業が盛んになり豊富な森林が村の経済を潤した。かつては森林鉄道が人々の足だったという。この宿も盛んなりし頃に増築を重ねて立派な外観を保つが林業が途絶えた今は閑古鳥がなく。たまにはアウトドア目的のキャンパー、渓流釣り、登山者も来るのであろう。約30年前には今西錦司一行が投宿して天狗森に登山している。
 朝7時半、宿を出て登山口に向った。橋を渡り、林道に入る。整備はされているらしく極端な悪路ではない。行けるところまで走って路肩の崩壊した所でデポ。8時過ぎ、林道を歩き始めるが朝日を浴びた紅葉がまことに美しい。全体は植林山であるが林道近辺は紅葉する落葉樹が多い。
 9時過ぎ、尾根の登山口に着いて登山道に入る。この尾根は中々急であった。ジグザグを繰り返しながら登って行くと山腹に突然原生林と見られる大径木が林立する。おそらく木材の用途として価値がない栂の類であろうか。登山道は整備されていないが赤テープもあって迷うことなく登れる。伐採中で倒木地帯の所を通過すると尾根に戻る。
 緩やかになった尾根の上はススキが繁る。これも陽光を浴びて美しい。ここからはダム湖と丸山台地が俯瞰できた。ネットに沿って登り切ると1102の独立標高点のある台地に着く。檜の株があって休むにはいい。
 台地から標高差にしてもう200m弱となった。アセビの群落の間を通過して再び森の中を登る。ここも原生林が残る素晴らしい自然景観である。山頂へはあっけなく着いた。笹の間を抜けるとぽっかり山頂が開かれている。いつもながらの満足感に浸る。1等三角点がひときわ大きく見える。後続も登ってきた。皆満足そうだ。展望は南の装束森が山頂のアンテナ設備のためはっきり同定できた。土佐湾に面した安芸市の目高森、剣山などはともかく他の知らない山々の同定に忙しい。
 約30分の滞在で下山した。Nさんがいつの間にか赤い布を付けていた。これがあると迷わず早く下れる。林道を下り車に戻るとほっとする。魚梁瀬の橋まで戻って右折。昨夜は闇で分からなかったダム湖を見ながら走る。展望台に寄り道して写真撮影もした。ここから見ると丸山台地の背後には名山の千本山がどっしりと座っていた。宿の人たちから「展望台に寄ったか」と聞かれた理由はこの景色を自慢したかったのだと話し合った。
 山間に潜んで暮すような陸の孤島=魚梁瀬よさらば!
      徳島県・小松島市に向う
 ダムを後に下ると左折して馬路温泉へは行かず、徳島県に向った。途中には野根山街道の旧跡があって再び来ることを誓った。装束森の登山口にもなる。古い官道であった。四郎ヶ野峠を下りきると平野部に辿り着く。広大な太平洋が広がった。左折してR55を走る。今日は小松島市で泊まる。宿まではまだ長いドライブである。
 小松島市に入ったのはいいがR55はバイパスに変り、旧R55は県道120に変更されていた。旅館までは中らずとも遠からずのところで道を聞いて何とか着いた。馬路村から約130Kmは走った。今夜は打ち上げということでまたビールで酒宴となった。
     旭ヶ丸1020mに登る
 11/25 今日も早めの出発にした。最後は旭ヶ丸1020mに登るが頂上直下までは牧場のための車道が開通しているから往復約1時間もかからない。ただし自然景観は著しく破壊されている。展望のよさだけが魅力の山である。下山後はNさんが四国八十八箇所順拝のお寺さんに行きたいというので一箇所だけ行った。満山寺である。結構沢山の巡礼者がいたのは流石であった。寺を辞してようやく徳島フェリー港へ向った。淡路島経由の高速道路も選択肢にあったがわざわざ渋滞に飲まれにいくのも芸がないので体が休まるし渋滞の少ない和歌山道、西名阪、東名阪経由にした。フェリーを利用するのは非常に贅沢な旅情気分が出る気がする。
 和歌山港を出てすぐに和歌山ICにはいる。むしろ事故で加太トンネル付近から四日市付近が渋滞した。しかし伊勢湾岸道を過ぎると激減して西名古屋料金所はガラガラであった。西名古屋料金所が大渋滞するというのは昔がたりとなった。