山岳古道のWEBミーティング2023年05月12日

 午前10時から30分ほど本部のPTの人らとミーティング。1尾鷲道2八風街道3塩の道のまとめに入る。
1) ホームページの進捗状況(永田)
(共有画面で提示しつつ)120古道のトップページの背景写真は、スライダーになっています。TOPICS(新着情報)へは、各古道が完成するごとに掲載していきます。
その下は古道の検索で、「地域から選ぶ」、「ジャンルから選ぶ」の2種類があり、各古道名をクリックすると、該当する古道のTOP(概要)に移動します。(このTOPが、先日原稿依頼をした部分です。)
下記の1~4が、5月20日までに提出していただく項目です。
[1]古道の名前と特長を簡潔に表現した一文
[2]代表的な写真を一枚(無い場合は、最初は白いままか、あるいはこちらで用意します)
[3]原稿の中の2)概要
[4]略図(調査する地点がわかれば、簡単で構いません)
概要の下部には古道名が記されてあり、古道名をクリックするとその古道に飛びます。名前のすぐ下に地図のボタンがあり、クリックにより、古道を緑線で示した地形図が出ます。そして、写真を左右2枚に並べて、本文が流れていきます。深掘りスポットやまつわる話などは、下方にあるボタンを各々クリックすると出てきます。
スマホの場合は、写真は左右2枚でなく、自動的に1枚で展開します。

大台ヶ原山を歩く②・・・マブシ嶺から古和谷2023年05月02日

          新木組峠へ
 5/2 尾鷲市の夜明けは5時6分。少し前から東の空が朝焼けになった。出発予定の午前5時の1時間前に起きてガスコンロでお湯を沸かして熱いお茶をすする。朝飯の柿の葉寿司も食えるだけ食う。遠くから小鳥の鳴き声が聞こえる。風も小康状態だ。外に出てパッキングする。山頂に戻ると地面が凍結していた。昨日は泥だったのに一晩で冷気に晒されて霜柱が立っている。寒い訳である。5時過ぎにマブシ領を発つ。比高200mほど下ると平らな雑木林になる。風はほとんど吹いてこない。穏やかである。本当はここらで幕営したかった。しかし適地はすべて熊の生息地と重なる。昨夜も蚊取り線香を焚いて熊に知らせた。青嵐で熊も落ち着かなかったのだろう。熊鈴を鳴らしながら巡礼者のように素敵な自然林の中を歩く。木組峠に着く。ここからまた若干の登りになる。登りついたところから光山の分岐を後にする。1250m前後のコブを上下しながら新木組峠に着いた。ここでも水を飲み、若干は食べた。昨年5月中頃に仲間と訪れた際は木組峠の稜線道を登り帰りは尾鷲道(リスク大)を通過した。反対に帰路は1297.6mに登って又口辻に下りた。これが松浦武四郎らが通った道だった。
          古和谷分岐へ  
 今回は横断的な尾鷲道を行く。落葉が多くふわっと重なっている。ザックが重いので転滑落には要注意だ。靴先で落葉に隠れた石ころを探りながら歩いた。神明水は流水があった。3回目でやっと水の流れを見た。しかし今日は寒いし水はあるので通過。中間地点まで来たところで左足に痙攣が走った。ヤバいな、と小休止し、芍薬甘草湯を水とともに流し込む。苦くもなく少し甘めのながら薬効は即効だ。再び危険な横断道を歩く。篤志家らが張ってくれたフィックスロープが非常にありがたい。その内に又口辻、そして古和谷分岐に着いた。
         古和谷へ下る
 9:30。小休止の後、未踏の古和谷道に下る。杉や桧の植林内のよく歩かれている感じの尾根道が続く。分岐から張り出した尾根の1053mの手前の鞍部から谷へ急降下。ここでも中間地点でまた痙攣が走った。芍薬甘草湯を服用して治まるのを待つ。なるだけゆっくりと下り、ようやく古和谷の流れを眼下に見たときはほっとした。左岸の植林内に細々とした山路が続く。思った以上に歩きやすい感じだ。後ろに人気を感じて振り返ると半袖の若い登山者が追い付いてきた。しばし情報交換して先に行ってもらう。今日尾鷲辻から下ってきてもう追いつかれたのである。一体何時に出発したんだろう。ヤマッパーらしい。あっという間に視野から消えた。韋駄天とは彼みたいな男をいうのだろう。そろそろ足を労わりながら重荷を担ぐより、寝具、食料など省いて軽量にして駆け抜けるのも一案である。渡渉地点でちょうど昼時になり、ザックを下ろした。先を急ぎたい気持ちより山に浸る方に重きを置いた。河原でガスコンロをだし、お湯を沸かし、お茶を楽しみ、カップ麺を食った。その後石飛で右岸に渡る。左岸より右岸の方が悪い。森林軌道の跡らしいが、橋が落ちたところは高巻きする。目印はあるものの上下、左右に留意した。河原に近い箇所はレールの残骸がある。朽ちた桟橋をいくつか恐る恐るわたると尾鷲道の登山口は近い。13:40に車道に出た。ここからが長い長い林道歩きだ。県道に着くまで2時間はかかった。
          思いがけない親切に深謝
 計画では2時30分に尾鷲駅到着だったが、到底無理。昨年泊った民宿に電話しようとしたが圏外だった。その内、後続がまた一人とトレランが下山してきた。どうしようか、と考えていると釣り師が親切にも駅まで乗せてってあげると申出があった。渡りに船と便乗させてもらった。名古屋へ帰る旨話すと鈴鹿市在住なので自宅に近い白子駅まで乗せてもらえた。感謝感謝であった。

参考データ
大台ヶ原山 尾鷲道 その1 尾鷲辻~又口辻~古和谷林道終点
https://amaimonoko.at-ninja.jp/s-mtdata/ki/odai-owase/1.htm
・JACの古道調査です。
・GPSの信号はヤマップを通じてWさんのスマホに送信されます。
・天候:1年に400日雨が降る、とか弁当忘れても傘忘れるなという尾鷲市から大台ヶ原一帯の俚諺です。
一般的な天気予報は5/1~5/4の降雨率20%、5/5以降は70%以上にアップ)
・非常に不安定な天気です。

大台ヶ原山を歩く①・・・・尾鷲辻~マブシ嶺2023年05月01日

          新緑の大台ヶ原ドライブウェイ
 5/1 近鉄名古屋駅5:58発のアーバンライナーに乗車。4070円。(4/30に地下鉄桜通線名古屋駅から近鉄地下改札口に直通の通路を検分)近鉄大和八木駅に定刻通りに着く。奈良交通のバス乗り場で8:15発の大台ヶ原行きのバスを待つ。道の駅杉の湯で休憩中に柿の葉寿司を調達。新伯母峰トンネルをくぐって和佐又山キャンプ場で降車させて、このバスは大峰山脈の山上ヶ岳への縦走にも利用できるわけだ。新伯母峰トンネルを戻り大台ヶ原ドライブウェイに行く。
 伯母峰峠を越えて上北山村に来た途端に新緑に彩られた自然に魅了された。これだけを見て帰っても満足するだろう。伯母峰峠の標高は991m、そこから比高450mもの高原に来るとまた冬景色に戻る。針葉樹の中に少し落葉樹があるが芽吹いたばかりである。大台ケ原ビジターセンターのある山上広場は標高1570m程度。バスは定刻通りに到着。11:20前後。ここで登山届を出す。ベンチでパッキングを見直し装備の点検。中食。12時少し前に出発。山頂は昨年8月に登ったので省略。尾鷲辻への水平の道を急ぐ。ここではバードウォッチャーが大型カメラを手にシャッターチャンスを狙っている。
      未知の尾鷲道を歩く
 尾鷲辻に着いた。昨年8月は雨の中到着しここでカッパを着た。尾鷲道を少しだけ覘いた。今日は好天に恵まれた。40年前紀勢線に「名古屋23:58発、紀伊勝浦行夜行急行「紀州5号」というのがあっ」た頃、尾鷲駅から尾鷲道の計画を立てては断念してきた。紀勢線の夜行もすでに1984年に廃止。2005年発刊の『新日本山岳誌』に登山の対象ではない栃山、保色山等をとりあげた。取材山行で尾鷲道の最新の情報を知った。マブシ嶺が名古屋から前夜発で往復できると知って2017.12.10に登った。ブログに「木立は落葉して見通しが良い。最初の道標は古和谷分岐である。ここからが古来からの尾鷲道である。下山路として今も歩けるのかどうかは不明だ。先へ進む。数分で又口辻だ。」と書いた。
今回は高齢の自分には長大な尾鷲道を踏破する最後の機会になるかも知れない。
 堂倉山も往復したかったがエネルギー温存のために断念。別の日に山上から往復する機会を狙う。堂倉山の南の鞍部は平らで一晩過ごしたい。1414mの無名の山からマブシ嶺までは1400mの稜線の西側(上北山村内)をアップダウンの少ない道になっている。ところどころに山抜け(蛇抜け)の痕が痛々しい。そこだけは尾鷲道も寸断されるからう回路を設けてある。地元の篤志家グループのお陰で迷うことはない。
        山の花を楽しむ
 ホンシャクナゲの開花期に巡り合い、淡いピンク、濃いピンク色の花が美しい。花に酔っていると下から5名のパーティに出会った。マブシ領の往復だった。今日人に出会ったのはこの組だけだった。1402mの独立標高点に行く踏み跡があるが道標は左折となる。下るだけだと思ったが1450mの無名のコブに登った。地倉山の道標があった。ちらっと平らなビバークの適地を見たが熊の生息域との警告もある。下り気味の道ながら少しは登り返す。15:30頃、見覚えのあるマブシ嶺に着いた。砂礫の殺風景な平は大峰山脈の展望を欲しいままに楽しめる。大峰南部の釈迦ヶ岳の鋭鋒は既登ゆえにランドマークになっている。
        マブシ嶺のビバーク
さてビバーク予定地の木組峠、又は新木組峠まではまだ時間がかかる。ビバーク地の適地ではないがマブシ嶺にした。雑木林の近い所の小さな凹地にツエルト張った。ザックの軽量化のために支柱は2本のストックにした。立木の枝、木の根っこ、石などに張り綱を結ぶ。これで今夜の寝処が完成。同じくシュラフも止めて羽毛のジャケットとズボンで冷えに備えた。加えてシュラフカバーでOK。シュラフは一度潜ってしまうと用足しに外に出るのが億劫になる。羽毛服なら着たまま用足しできる。
         青嵐のビバーク      
 さて、午後6時頃までは大峰山脈が見えていたが、簡単な夕食を済ませて寝ていると外が風で騒がしくなってきた。なんだこの風は?とスマホで尾鷲市の天気情報を見ると晴天で降雨率は10%である。春山特有の天気の急変だろう。俳句の季語にある青嵐(あおあらし、せいらん)は「青々とした草木や野原の上を吹き渡っていく風を青嵐(あおあらし)と言います。嵐の字が使われているように、やや強く吹く風です。上空に寒気が流れ込むと突風やひょうが降ることもあり、青嵐となります。5月は全般に快適な季節ではありますが、寒気の流入には注意が必要です。」と説明される。遠くで春雷も聞こえて来た。強風でフライが飛ばされ、ツエルトがなぎ倒されるような環境に一句作る心の余裕はない。只一人、まんじりともしない山の夜を過ごした。時間の経過とともに冷えてくる。ツエルト内の空間は外の冷気から自分を守る大切な空間である。合羽を着て外気に晒されると低体温症になるから登山の装備に必須となった。

⑥四国の山旅~諭鶴羽古道を歩く2022年11月21日

 南あわじ市は淡路島の最大の市である。総人口は45000人ちょっと。 淡路市は20000人、洲本市は40000人。淡路島全体でも124000人の人口がある。
 先日の樋口季一郎は南あわじ市の阿万町の生まれという。福良とは目と鼻の先のである。
ソース:https://intojapanwaraku.com/culture/159110/
 北海道石狩市には樋口季一郎記念館があるという。また北へ旅心を刺激される。

「1888(明治21)年、兵庫県淡路島の阿万村(あまむら:現南あわじ市)に生まれた樋口季一郎(旧姓奥濱)。陸軍士官学校を経て、幹部養成機関である陸軍大学校を卒業。将来を嘱望され、陸軍将校としての道を歩み始めます。」

 道の駅「福良」は静寂である。月曜日ということもある。車中泊のクルマらしいワンボックス車が数台とキャンピングカーが1台止っていた。夜の内には車の屋根を叩く雨が降った。
 果たして21日の朝は止んでいたが山の上は雲がかかる。行くしかない。弁当を食べて、登山口のある諭鶴羽ダムまでは約20分の分かりやすい道だった。

 ダムと言っても標高600mの山なので降雨量は少ないだろう。築堤の規模も小さい、左岸側に登山口があった。8時20分入山。
 最初は比高約70mほどの急登に喘ぐ。右からの尾根に合うと緩やかになった。すぐに「神倉神社(かんのくら神社:修験道の修行の磐座。神様の乗られた鶴が羽を休めた由緒あるところ。)」に着く。ここで休むには早いが通り過ぎるには惜しい。
 後は道々石仏を眺めたり照葉樹林の中で激しく鳴く冬鳥の鳴き声を聞きながら歩を進めると自然に着いてしまった。10時登頂。
 眺めは南あわじ市の街や田畑が見下ろせる。すっきりはしないが雨よりは良い。撮影すると諭鶴羽神社へ下ってみた。道は広くてしっかりしている。一等三角点だけに四方に眺めが良いから電波施設が多い。
 境内は南の光がかがやくように明るさがあった。無人だったが軽自動車もあるし、御神灯も点灯している。境内の一角には登山者向きの休憩舎もあったし、眺めは海が見えて最高に良い。
 昨夕福良に向かっている際にオレンジ色にかがやく一面の明るさは夕日に輝く海だったのだろう。
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 この神社も
ソース:https://yuzuruha.jimdo.com/
「諭鶴羽神社 御創建 二千百五十年祭斎行
伊弉諾神 伊弉冊神 鶴の羽に乗り
諭鶴羽山に舞い遊ばれ
そして・・・    諭鶴羽神社をご創建

 国生みをなされた 伊弉諾(いざなぎ)伊弉冊(いざなみ)お二柱の神様が、天つ国より鶴の羽に乗られて、この山で舞い遊ばれていました。この神聖な山に一人の狩人が掟を破って入り込み狩りをしてしまいます。
 あろうことか、狩人、二柱の神様が乗られた鶴めがけて矢を射ってしまいます。羽に傷を負った鶴は、頂上のカヤの大樹にとまり、二神は、人のお姿となって狩人の前に現れます。 
 『私は、伊弉諾 伊弉冊である。国家安全・五穀豊穣成就を守るためにこの山に留まるなり、これよりは諭鶴羽大神となる』
 狩人、涙を流して神様に謝ります。伊弉諾(いざなぎ)伊弉冊(いざなみ)お二柱の神様は、狩人を許し、村人とともに力を合わせてお社を建てることを命じました・・・このお社が、諭鶴羽神社です。
 今も、二柱の神様の乗られた二羽の鶴は、この山の上を仲睦まじく飛び続けられ、国の安寧と人々の暮らしを見守って下さっています。
(諭鶴羽山縁起より)
 諭鶴羽山の頂上には、頂上社として二神をお祀りし、奥の院は、最初に諭鶴羽神社がご創建された元の諭鶴羽神社として、二神をお祀りしています。」

「歴史の道『諭鶴羽古道』

 諭鶴羽古道は当神社を起点として灘黒岩へ十八町(表参道)又、神代浦壁へ三十町(裏参道)の二つのルートがあります。一町は、約109m、一町ごとにお地蔵さん(町目地蔵)が迎えてくれ、その表情も様々。季節ごとに豊かにその様子を変えていく山の表情ともあいまって、山歩きの醍醐味をお楽しみいただけます。」
以上
 何とまあ。昨日の伊弉諾神宮と同様のご神体が祭ってある。今回は裏参道を歩かせてもらった。歩きやすい山路でした。
 下山すると12時。ダムのベンチで昼食。田園地帯まで下ると温泉施設があったので入湯した。65歳以上は520円也。
 これで旅の目的は達成し終わった。しかしさっさと帰る気にもなれない。北淡町の野島断層記念館に道草した。平成7年の地震は強烈だった。あれでできた地面の断層がもろに残してある。730円。
 更に明石海峡真下の道の駅にも寄って海峡を往来する船舶を眺めた。海峡の中程が震源地である。夕暮れが迫りようやく帰名の途に付いた。

大台ヶ原山へ②2022年08月21日

 朝6時ごろ起きた。外はざーざーぶりの雨だった。計画が流れてゆく感じがした。朝7時の朝食をとる。焼鯖が旨い。ザックを整理して外に出るがまだ傘が要る。車の外で準備中に雨が止んできた。それじゃとカッパの上着のみ着て尾鷲辻への踏査を試みた。
           雨の尾鷲辻へ
 登山口は日出ヶ岳と同じだが少し先で右へ分かれた。昨日と同様にオーバーユースに備えてほとんどはコンクリートで固めてある。そしてほぼ水平の道である。日出ヶ岳から流れるシオカラ谷の流れは1540mなのでやや下り気味であり、1580mの尾鷲辻まではやや登り気味である。尾鷲辻には東屋が建っているので雨具のズボンも着用した。近くにはオレンジのテープが巻いてある。これは下部では尾鷲道の印、青色は松浦武四郎の歩いた標になっていた。
        尾鷲道をちょっと足を踏み入れる
 東屋を出ると今までの整備され過ぎた道とは違い途端に山道らしくなる。それに雨水も溜まって歩きにくい。比高80m下って1550m付近からジグザグの巻き道の下りに入る寸前で引き返した。できれば堂倉山の山頂でも踏めれば良いなと控えめの目標はあった。ここから1500mまで一気に下がり、さらに1450mまでだらだら下ると堂倉山との鞍部である。約20m登り返すと山頂だ。約150mの比高を登り返すのだが雨では止む無し。
 尾鷲道の道標のある下り道の始まりで引き返したが往きには気が付かなかった道標も見つかった。昭文社の地図でもこの先は未整備を示す破線路になっている。つまり古道のまま廃道の運命であり、わずかな好き者が歩いているに過ぎない。途中に避難小屋はなく、水場は地図にはあるが実際には流れていなかった。常水ではないので縦走には大量の水を担ぐから体力とRFの力が試されるコースである。
 山上に戻ってビジターセンターの軒先で濡れ物を脱いで乾いた着物に着替えた。雨は小止みになり大峰山脈付近には晴れ間も見えた。終わったら晴れたのだ。成果は挙げられなかったが尾鷲道への知見は若干でも深まった。
        名古屋へ帰る
 ワイパーを作動せずに帰路についた。朝方の大雨だとがけ崩れなども心配したのである。ドライブウェイを走ると稜線と路上が同じになるので川上村の山々が見えた。中でも雲海に浮かぶ白髭岳の三角錐の立派な山容が素晴らしかった。日出ヶ岳に登った際はついぞ気が付かなかった。1378mの標高は300m以上も低いので目立たないのだ。1403m辺りだろうか。同じ目線の高さで堂々と聳えている。今西錦司が83歳の時、1500山目に登った記念碑的な山である。
 伯母峰峠もまた来てみたいところだった。そこからぐんぐん高度を下げてR169に出た。後は同じ道をたどり帰名した。

弥山・八経ヶ岳で行方不明の人奇跡の帰還2022年08月14日

 8/5から大峰山脈で行方不明の人らが救助された。助かって良かった。しかしどこでどう間違えたんだろうか。
8/4 地元に登山届を提出。弥山の小屋に泊まった。
8/5 弥山小屋から八経ヶ岳に向かった。そして山麓の民宿に着く予定だったが着かないので民宿から警察に連絡された。以来ずっと山の中でビバークしていたのだろうか。携帯電話の通じる所まで来てやっと救助要請の電話が出来た。
 地図を見ていると
八経ヶ岳から南西に伸びる尾根は1325m地点で赤線が止っている。この尾根に迷い込んで右往左往してしまったのだろうか。
 道迷いの原因は地図が読めないというよりは大抵は歩行中のおしゃべりである。麓に下りたら温泉に入ろう、宿ではビールを飲もう、などと心がそこにないと分岐のサインを見落とす。読図力より登山への集中力だ。
 ヤフーのコメントにはGPS云云かんぬんとか書いてある。こんな登山道や道標のある山でGPSなんか必携ではないだろうに。道に迷ったと思ったらまずは落ち着いて地図を見る。八経ヶ岳の山頂を踏んだのは間違いない。その時刻はスマホやカメラに記録される。そこから何時間かかった、とかで居場所を想定するのも良い。まずは山頂に戻る、地図で分岐などの道標が分かるところまで戻る。
 しかし、このお二人はそうしなかった可能性がある。動かなければ体力の消耗は抑えられる。でも助かって良かった。怪我もなく五体満足で下山できた。

尾鷲旧道研究①~木組と木津を結んだ生活道路~2022年07月07日

左古和谷? 右きぐみ?
 きくみ(木組)とは木組峠の西を流れる東の川の山懐にあった木組村のことだ。地蔵峠の道標に「きくみ」と彫ってあった。きとみははっきりしている。くはみを囲むような表示だが、「木組」のことだろう。地名は濁らない表記もある。左は古和谷だろうか。古の字は行書体である。後が判明しがたい。
①豊川 
川のの読み方はとよがわ、
地名はとよかわ
②豊田
地名はとよたし
人名はとよだ
③豊橋
橋の名前はとよばし
地名はとよはし
④松阪
人名はまつざか
地名はまつさか

尾鷲道研究②~古川崇とは~2022年07月01日

 多くの信仰を集める古川崇(かさむ)とはどんな宗教者だったのか。研究書は以下の通り出版されている。


①大台ヶ原開山記―古川嵩伝記 単行本 – 2001/7/1
豊かな自然を持つが故に、昔から「魔の山」「迷いの山」と恐れられた大台ケ原を開いた古川嵩。自然界と人間の融合による環境保護に警鐘を鳴らした、彼の生涯と開山の足跡をたどる。
鈴木/林
1926年三重県津市生。1943年白子海軍航空隊学徒動員。1945年陸軍通信兵現役入隊。1946年電気通信省勤務。1985年日本電信電話公社退職(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

②大台ヶ原山 知られざる謎
内容説明
奈良県吉野郡と三重県多気郡の境にある、山域「大台ヶ原山」に息づく“日本の文化の原風景”を明らかにする。

目次
1 松浦武四郎と大台ヶ原山(大台ヶ原山の神秘;大台ヶ原山の開発;霊山と怪性の住居;自然への敬意;自然観と宗教観)
2 古川嵩と大台教会(嵩の目指す宗教;大台ヶ原山での修行;大台教会と神習教)
3 大台ヶ原山の隠れた背景(大峰の修行者が立ち入らない大台ヶ原山;江戸時代から明治にかけて大台ヶ原山に入っていた人々)
4 大台ヶ原山で語り継がれる伝承(大台教会第二代故田垣内政一教長の夜話;大台ヶ原山に関わる伝承と言い伝え)

著者等紹介
大川吉崇[オオカワヨシタカ]
1941年生。高野山大学文学部仏教学科卒業。三重高等学校で日本史を4年間担当、のち大川学園に移籍。現在、学校法人大川学園理事長・社会福祉法人自由学苑福祉会理事長。三重県山岳連盟顧問・三重県レクリエーション協会会長・三重県私立幼稚園協会常任相談役。加盟学会は、日本民俗学会・日本環境教育学会・日本調理科学会(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
http://ohkawa-a.cocolog-nifty.com/blog/cat36483120/index.html

③癒しの山 大台ヶ原 : 開山行者の生涯 Kindle版
開拓者精神!! 

現在社会で死語になっている言葉。

「俺も助かる、世間の人々も助かる」
これが人間究極の人生だ!
この本の主人公、若き行者、古川嵩が己の命をかけて魔の山「大台ヶ原」に立ち向かう姿は、やれストレスや・うつ病やなどと悩み苦しむ現代人に強烈なパンチをくらわす。人生の唯一無二の生き様を我が身をもってしめした希有のストーリーだ。

並外れた彼の精神力と不動の信念。彼を取り巻く人々の驚嘆もさることながら、大台の王と呼ばれ恐れられた日本オオカミでさえ彼の心を射止めた。
「若き行者と二頭のオオカミ」の交流も見所だ。

彼は、うつ病に取り憑かれた。その治療のため父の主導で御嶽山修行した。過酷な修行のある日、不動明王やその他の神々に出会う。修行を終えた時には病は消滅。

「俺の人生目的は大台ヶ原開山だ」

 最愛の妻や家族と今生の別れ。金剛杖で力強く大地をはたき、単身大台へ。二頭の日本オオカミと共に完全燃焼した古川嵩行者の壮絶なる生き様。

大願成就の暁に「神武天皇銅像」を建立したことはあまりにも有名だ。時節柄、銅像撤去に来た進駐軍の上官が
「これぞフロンティアスピリッツだと感激し、後生に残し置こう」」と言い放ったことは知る人ぞ知る史実。現在も牛石ヶ原に聳え立つ神武銅像は光彩を放っている。

今は「日本百名山」という名誉を頂き、多くの登山者の訪れる関西では否世界中の登山家の「心を癒やす山」として賑わっている。

この本は、克明な史実をもとに書かれた原書、郷土史家、鈴木林著の大台ヶ原開山記【古川嵩伝記】を氏の承諾を得て、三重熊野市在住の郷土史家、杉岡昇氏がリライト、よしいふみとが編集したもので。今後二度と世に出ることの無い貴重本である。

(もくじ)
はじめに
プロローグ、梅雨の一夜
古川嵩行者の生涯
厄年の児、商人の道へ、 大台ヶ原開山への旅立ち、信頼、池峰明神参籠、大台ヶ原入山、単独行動、再会としばしの別れ、教会設立活動、越冬の修行、教会建設、気象観測、有線電話架設、神武天皇銅像建立、自然崇拝と自然破壊、旅立ち
今、発行元の山の辺書房自分史編集室では、より多くの人に膾炙するため英語版「FRONTIER SPIRITS」を制作中。
​日本語版はAmazon電子書籍本サイト。
杉岡昇
杉岡昇プロフイール

 一九六一年、和歌山県立新宮高等学校卒。日本国有鉄道OB・新宮山の会OB。 日本百名山の一つ、大台ヶ原に魅せられ登山を続けるうち、稀有の大自然を多くの人に知ってもらいたいという思いから『大台ヶ原・開山行者、古川嵩の生涯』と、続編「大台ヶ原、妖怪一本足たたら伝説」を、乏しい資料を求めて数年がかりで纏め上げ、自伝出版専門の山の辺書房自分史編集室から出版。
現在紙本第三刷となり、さらに電子書籍としてアマゾンで販売している。これは、ロングセラー作品となった。

 二〇一一年、和歌山県南部を襲った台風十二号で住み慣れた我が家を喪失。失意の避難生活の末、終の住み家を求めて奔走。苦難の末三重の山峡に移住する。自然植物研究家・ラン愛好家・登山家・執筆家・陶芸など多彩な趣味の持ち主。

 平成二十七年秋、思いもよらぬ膀胱ガン発症。三度の手術を受け快癒。現在経過観察中。度々の人生の節目に遭いながらも、著者の人生哲学的思考――災難のどん底に居ても常に生き甲斐を見つける――事を本分とし、日々著述や多くの趣味に意識を移しポジティブに力強く生を満喫している

[主な著作] 「大台ヶ原・開山行者、古川嵩の生涯」「続編大台ヶ原、妖怪一本足たたら伝説」「平成の大洪水」これは…NHKで放映され反響を呼ぶ。その後矢継ぎ早に「膀胱ガン闘病記」「熊野の里山今昔噺、第一巻、第二巻を出版(アマゾン電子書籍)。

遭難の審良(あきら)静男特任教授、山中で発見 免疫研究の世界的権威 ひざを骨折するなど重傷2021年07月26日

https://news.yahoo.co.jp/articles/441ffa883b2f125211af36826d837ddf0310a0 
 記事によると登山道で道に迷い、躓いて前のめりに転倒したという。右ひざを骨折し、左ひざも脱臼した。これじゃ動けない。窮地に陥ってしまったわけだ。
 多分頂上直下の倒木帯ではないか。倒木は伐って、登山道を確保してないと、遠回りに迂回することになり、登山道を外しやすい。基本的には尾根歩きなので谷の中を歩き始めたら登山道を外したと判断してよい。
 みんなが間違いと知らずに下ってしまい、間違ったと気が付いて戻ると登山道と見まがう踏み跡が出来てしまう。2回往復するからだ。
 記事によると審良さんは登山道から800mも離れたところで発見されたというから疑うことなく下ってしまったのだろう。当然に道ではないから岩などがゴツゴツして歩きにくくなるから転倒もしやすい。
 それにしても審良さんはノーベル賞候補にもなった超有名人だったんだ。日本の為にも救助されて良かった。

山岳古道⑤生活の道だった熊野古道(馬越峠と八鬼山越)2021年02月18日

東紀州の八鬼山と高峰山
http://koyaban.asablo.jp/blog/2009/01/25/4080883

林道の交差地点から急坂になり、いよいよ山に登る感じがしてきた。石畳の道は相変わらずであるが階段状になり、一歩が歩きやすく感じるのは登山のための道と違って昔の生活道路であるからだ。三角点のような「曲点」の標石が埋まるカーブも丸くて柔らかい曲がり方ができる。恐らくは紀州藩の役人の言いつけで村総出で道普請に借り出されたであろう。雨の多い地域だけに流出しないように重い石を敷き詰めたのである。その苦難たるや後の世の人間には想像もできない。
 降りてきた人は2名か3名、追い抜いていった人も1名程度で閑散としている。それはこの八鬼山越えが熊野古道で一番の難所だったからだ。坦々と単調になりがちな古道歩きである。喘いで登りつめた峠で昼食をとるために一休みした。峠の向うに湾が見下ろせた。古い時代の山旅人も同じ感懐を持ったであろう。峠は風の通り道なので風に乗って再び小雪が舞って来た。
 八鬼山へは峠を右へ更に登った。やがて荒神堂に着いた。古い建物が二棟道を挟んで建つ。そこをやり過ごすとまた広い石畳の道となって登る。平坦な稜線を歩くと三叉路に着いた。ここが八鬼山越えの頂点だった。ここも非常に寒い。小広い平地に海を見下ろす東屋が建つ。熊野灘を見下ろせた。  
 寒いせいか先を急ぎたい気分もあって山頂への道も不明なのでそのまま道を辿った。又戻って桜の森へ340mの案内にしたがって行った。平坦な道の左奥が八鬼山の山頂らしいが三角点もないのでパスして下る。だらだら歩いていくと左に椿園がある。二股に分かれるので左を行くと熊野灘に面して東屋の建つ桜の森園地であった。芝生のややラウンドした園地は広々してどこでも腰を下ろせる。東屋に立つと熊野灘が180度に展開した。素晴らしい景色に感嘆した。
 桜の森を見て周ると江戸道と称する案内があった。先ほどの左への道は江戸道だったのだ。改めてガイドブックを見ると三叉路の先は明治道であり、ここだけは道の付け替えが行われたようだ。江戸道を下ると急坂に次ぐ急坂で険しいことが分かった。明治道はそれを改良したのだろう。概ね照葉樹林の中の道はいかにも紀州の山に居る感じがする。
 十五郎茶屋跡があり、海が見下ろせた。しかし、まだ標高は400mもある。急坂を下りに下った。やや広い明治道と合流した。江戸道は登山道に近い付け方であった。どんどん下ると登山口に着いた。子犬が我々を迎えるように吠えた。猟師が一人留守番をしていた。世間話をして別れた。
 殆ど平坦になった古道はやがて人家の間を抜けて車道に合流した。ここにも世界遺産に反対する地権者の看板が立っていた。キチンとした文章で意味のよく通る意思表示であると思った。車道をJR三木里駅まで歩く。15時30分着。ようやく思いがけなく長かった古道歩きも終った。

東紀州・熊野古道から天狗倉山を歩く
http://koyaban.asablo.jp/blog/2014/06/03/7334427
前方を見るとほぼ直線に石畳の道が伸びていく。デザイン的にも洗練された美しい道である。せせらぎを2箇所渡る。タオルを濡らして涼をとる。更に行くと右前方が皆伐された斜面が見えた。そして思いがけず林道が横切っている。眺めはいいのだが古道の雰囲気は台無しである。すぐ先が馬越峠であった。茶屋のあとは植林してある。一角から尾鷲市街を見下ろせた。
 一休みの後、天狗倉山に向かった。やや急な山道をよじ登ってゆくと道は二股に分かれている。今回は右にとった。山頂の大きな岩を巻くとすぐに鉄梯子が見えた。岩に登って休止。風も無くかなり暑い。降りてもう一つの岩に移ると風に当って涼しかった。尾鷲湾がよく見える。遠望はガスがあってすっきりしない。
 下山する。高齢の地元ハイカーと行きかう。何度登っても楽にはならんと言った。そりゃそうだ。峠に戻り、尾鷲市側に下った。こちら側は傾斜がきつい。ドンドン下ってゆく。多くの散歩の人と行きかう。こんな山のふもとに住む市民は幸せである。
 尾鷲に来るたびに訪れる喫茶「山帰来」に寄った。オーナーの川端守氏は登山のために不在だったが奥様が、開店10時のところ、30分早めに開けていただいた。冷たいコーヒーを注文。2年から3年に1回は来ているので見覚えはあるようだ。山の話題でもちきりになった。特に熊野古道に関して『熊野古道 古辺路紀行』を著されたこと、熊野古道センター長に就任されたこと、世界遺産登録10周年の今年はイベントも多くご多忙の様子だった。