スキー懇親会行②2019年01月26日

 二日目(1/22)は新潟県妙高市から長野市の戸隠スキー場への遠征になった。宿の送迎用ハイエースに満席のメンバーが同乗。オーナーが運転し、リーダーを勤めてもらった。
 当日は良く晴れた。妙高山の山麓からはかぶさるように聳えて見える。登山はしたことがあるがこちらからは初見である。昨日の昼食で「妙高山カレー」を食べたが、ご飯の盛り形はこの角度から見た妙高山の山容に似せたものだった。
 一旦R18に出て、信濃町から黒姫山麓を走り戸隠スキー場に向った。雪はたっぷりある。雪国に来たなあという気分がしてくる。戸隠スキー場は実は飯綱山の山腹につくられたゲレンデである。
 リフトに乗るとめのお山のトップに着く。素晴らしい北信濃の山岳風景が広がった。ゲレンデの雪質も軽いので滑りが良い。昨日と違い、ワックスとの相性も良いのでスキーに乗っている感覚がよみがえった。よく知ったオーナーのリードでゲレンデを隅々まで滑りまくった。
 昼食もあそこが良いと教えてくれた。蕎麦がうまいというので私も天ざるを注文した。確かにうまい。昼食後は再びゲレンデを滑った。滑り飽きた頃、宿に帰る時間が来た。
 宿ではすぐに温泉に入湯。汗を流す。夕食は刺身を中心に和食だった。ペンションでも和風料理が出るのはありがたい。様々な話題が飛び交った。
 宿の設備はベッドですべて欧風になっている。しかも床暖房で温かい。昨夜は下着を着こんで寝たせいで暑く寝にくかった。今夜は浴衣1枚で快適に寝られた。

 三日目(1/23)は近場の妙高杉の原スキー場に遠征する。ゴンドラが新しい。すぐに乗車する。ここからの山岳風景も素晴らしい。斑尾山が見え、野尻湖が凍らないので碧く見えた。遠景は志賀高原だろうか。
 ここのゲレンデは杉の原ゾーンと三田原ゾーンとに分かれている。ゾーンは林道でつながっている。三田原山は山スキーのツアーコースとして名前だけは知っていた。私の好きな岳樺やブナの林間が広がっている。コース外滑走禁止の制札があるにも関わらず、多くのシュプールがついている。標高1855mというから相当な高さを稼いだ。そのせいか若干寒いし風も強い。
 ゲレンデコンディションは上々だった。ここではオーナーの息子さんがリードしてくれた。なんでもスキー大会でならしたこともあるという。滑りをみると美しい滑降をするから本物だろう。息子さんから最新のスキー技術をレッスンしてもらった。曰く、ストックは雪面に引きずる、とか両足は若干開けるなど。30年前から40年前のスキー技術からは目からうろこのレッスンになった。
 基本的にはスキー板の中心に乗ることである。柔らかい革製登山靴で山スキー入門してきた身にはそれは基本のキで染みついている。前後のバランスが崩れると転倒し易いからだ。今はプラブーツになり足はがちがちに固定しているからスピードターンもやり易い。
 ところで息子さんの板はなんとテレマークだった。この板もバランスのコントロールが微妙と思われる。ゲレンデには自衛隊の人らも迷彩服で練習中だった。彼らの板はなんとカンダハ―だった。今もまだあるのか。スキーの本場という気がする。
 テレマークもカンダハ―も時代遅れのように思うが、何と言っても軽いので操作がし易い。最新の締め具は機構が複雑且つ重くなる。私のように革製登山靴でも履けると言うフレキシビリティの重視から今もジルブレッタを愛用する。但し400になってからは重い。
 三日間を通じて見た感想は日本のスキー場が外人天国になった感が深い。しかも白人だけでなく、シナ人やコリアンの言葉も飛び交っていた。そういえば宿のお客にも白人が居た。インバウンド需要はこんなところにも恩恵をもたらしていた。
 日本人から見るとカナダやスイスに行くのが1つのあこがれになっているが、インバウンドで反対に日本の冬の魅力を教えてくれる。
 宿の夕食は今夜が最後となった。ステーキを中心に欧風料理で締めくくった。

スキー懇親会行①2019年01月25日

 恒例のJACスキー懇親会(1/21~1/24)に久々に参加、旧交を温めた。とはいえ、知友は4人くらいで、長年交流していただいた越後支部のWさんは高齢もあってか地元なのに顔を見ることはなかった。参加者は1名Aさんが東海支部で後はみな東京からの参加組だった。今回も14名参加で平均年齢は75歳くらいとか。すると私などまだ若手の部類に入る。
 宿の場所は新赤倉温泉のペンションだった。赤倉スキー場の下にあり、スキーを履いてまで即ゲレンデほどは近くはないが、至近距離にある。アクセスは宿の送迎バスがになってくれた。
 20日はパッキングしてマイカーに積み込んだ後、昼間に寝て置いた。午前1時に名古屋を出発。単独なのでR19を北進した。木曽にも雪はない。午前3時、木曽福島の手前の道の駅で1時間ほど仮眠。4時に出発して、木曽を通過。塩尻、松本で午前6時になり、朝食を兼ねて休憩。松本市でさえ雪はない。さらに長野へと犀川沿いに走った。善光寺平に出た。今度はR18に合流して犀川も千曲川に合流する。千曲川の沖積平野も小布施までで、千曲川はR117と平行して新潟県境まで流れる。そこからは信濃川になる。
 R18は飯綱山の麓を登り、リンゴ園の多い黒姫山の高原台地に着く。ここまで約300km走り、道の駅ではないが、トイレのある休憩所で一休み。燃料計も半分になったので灯油を18リットル補充しておく。宿では3日間エンジンをかけないので名古屋の軽油だと凍結するからだ。秋ならばコスモスの咲き乱れる高原であろう。
 信濃町(柏原)に来ると江戸時代の俳人・小林一茶のふるさとである。ここまで来るとさすがに雪の量が増えてきた。積雪路になったので4WDにセット。久々の雪道走行を恐る恐る試しながら走る。また道の駅で休憩。コーヒータイム。信越大橋を渡ると新潟県妙高市に入る。天気も降雪になったので宿の名前をスマホに入力してナビを勤めさせる。2mあるマイカーの高さ以上に切り出された雪道を走る。一旦スキー場まで登って右折して下った所に宿はあった。9時前だったから正味7時間走ったことになる。
 宿のオーナーは昨夜だけで80センチは積もったと言った。それで宿周辺の除雪作業に大わらわであった。Pの一角に車を止めて、荷を宿に運びいれ、服装を整えると11時になった。12時から利用できる午後券を割引で購入、先着数名が宿の車で送ってもらう。
 久々のゲレンデスキーの試運転である。降雪と吹雪で何も見えない。案の定スキーが走らない。ショップでワックスを購入して塗布。少しは楽になった。がまだぎこちない。体がほぐれた頃、4時になり宿の迎えの車で帰る。すぐに宿の温泉の湯に浸る。東京から続々参加者が着いた。夜は全員が揃い、会食を楽しんだ。

新潟県 五頭連峰の親子遭難今日も発見されず2018年05月08日

 5/5に五頭連峰の松平山に登ったまま下山しない親子の捜索が続いている。当日は「2人は5日午後2時ごろ、登山に出掛け、同日午後4時ごろ「道に迷ったのでビバークする」と甲哉さんの父親に連絡」してきた。
 ビバークという用語を使うくらいなので経験者である。また近くのコンビニでおにぎりやカップ麺を購入したことが分かっている。ということは、コッヘルにガスコンロも携帯していると思われる。親としては雪を溶かして水を作り、子にラーメンを食べさせる積りだっただろう。
 5日の夜は何とか過ごせたであろう。コンロもあるので暖房はできる。ツエルトがあれば良いが、カッパだけでも何とかなる。
 「6日午前7時半ごろ「下山する」との電話がかかってきて以降、通話ができない状態になっている」とのことで、夜になって警察に届けて大騒ぎになっている。
 当初は7日に赤安山、扇山を中心に捜索、ところが、登山口の登山届に山葵山から松平山への届けがあったというので、松平山付近に捜索範囲を移動。
 登山道をチエックすると北への枝尾根がいくつかあり、残雪があると迷いやすい。沢に下ってしまい、そのまま下れば里へ下れる、とは考えないだろう。ビバークの用語を知っているし、道に迷った際に沢を下っては行けないという教えは知っているだろう。
 それでは何処に。きっと岩陰で救助を待っているものと思う。子連れだからあちこち彷徨することも考えにくい。ヘリの音は聞こえるだろうが、連絡できない状況か。捜索範囲は狭まっている。がんばって欲しい。

ウエストンの白馬岳登山2009年05月07日

 『日本アルプス 登山と探検』(平凡社ライブラリー)によるとウエストンが来たのは明治27年7月のことだった。19日に直江津を出発。糸魚川までは船で行く。7/20には姫川を溯り、大所川に沿って樵夫小屋に着きますがこれは多分木地屋のことでしょう。当時はもう木地屋を止めて百姓になり、杉の幹を加工する生業に変わったようだ。明治初期、戸籍制度を作り、住民を定住させるために山に火を放すことを禁じる法律を作った。地租改正もあって山の木を自由に伐れなくなった。
 20年位前の3月、天狗原から木地屋へスキーツアーで降りた。タクシーを待つ間木地屋の家でビールを飲み、自家製の野沢菜漬けを提供されて美味しかったことが思い出される。
 7/21の午後5時に野生的な浴場と表現した蓮華温泉に着いた。挿入されたハミルトンの写真を見ると粗末な小屋に驚く。文字通り野生的である。青年団のパーティは夜遅くまで酒盛りをして大満足で「劇的な詩」を歌っていた、と書く。「劇的な詩」とは何だろうか。恐らくは民謡か俗謡か。他の客も喜んで聞いていた、とも書く。和やかな雰囲気だったのだろう。
 7/22の午前4時に起こされて出発。2時間で蓮華銀山に着く、とある。精錬所跡とは銀山だったのか。検索中に面白いことが分かった。三島由紀夫の祖父・平岡定太郎が蓮華銀山の会社社長をしていたという。
しかしこの事業は失敗。山師の哀れな末路が見えるようだ。
 ここから白馬岳に10時に登頂。その道を往復した。当時は大蓮華の峰と呼んだ。温泉から6時間で登ったから相当な健脚であった。
 あとはさらっと書いて終る。
 少しづつ少しづつ理解できる範囲で読んでいくとウエストンは近代的な登山の普及者であると分る。しかし、山の湯に親しみ、山の民の観察もする。山旅の名人は民俗学者の資質もある。広く親しまれてきた所以である。
 ここまで書いてふと最近買った渡辺京三『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)を思い出す。実はこの本にもウエストンの本が出てくる。著者は江戸時代を一文明として捉え、それを外国人の観察になる著書から日本人に紹介した本である。日本人は悪いこともいいこともすべて捨てて変わってしまう、という。江戸時代もいい所があった。古き日本が夢のように美しい国、という外国人の言説の紹介。それを「逝きし世」と表現したのである。
 バスも通わぬ中の蓮華温泉こそ美しい。別天地である。兵馬ノ平は規模こそ小さいが箱庭的なまとまりがある。周囲の遠景もある。時を忘れて埋没できる自然郷である。

春の蓮華温泉は静寂郷2009年05月07日

 春の蓮華温泉は陸の孤島だった。
 スキーで降りて温泉へ行くなんて初めてのことだった。山の雑誌で紹介された写真をイメージしていたがずっと荒々しい山奥である。ガイドを雇ってでもいきたかった蓮華温泉である。
 観光客は居ない。まだバスも通わない時期だ。7月に通うまではスキーで来るか、スノーシュー、或いは平岩から木地屋を経て徒歩で来るしかない。
 それだけに静寂そのものであった。雪解けと競い、フキノトウが浅黄色であちこちに頭を出す。ロッジの前の広大な湿原にはミズバショウが咲き始めた。
 露天風呂は宿の裏を登ること10分もかかる。山の斜面からお湯が沸き、湯気が立っている。湯船に体を浸すとしみわたるように温まる。とてもぜいたくな時間だ。
 ロッジの中に入ると「秘湯を探して」と題した文が掲げてあった。岩木一二三氏の秘湯賛歌である。秘湯なる言葉も岩木氏の造語とか。共感するところの多い名文なのでメモしておく。

             「秘湯をさがして」
 田舎を捨てた人間だけに人一倍田舎を恋しがる東京人の一人である。幼い頃に、いろりのそばで母のぞうり作りを見、縄をなう父に育てられたからかも知れない。
 しかし、そのふるさとの家も跡かたもなく近代化され、牛小屋はコンクリート建ての車庫に変わってしまった。おいやめいが各々の車を持って走り回っているほどの近代化した日本の社会である。
 いったい、老いゆく自分達がどこに安住の地を求め、どこに心の支えをおいたらいいのだろうかと迷いながらさまよい歩いて三十年の歳月が流れていった。
 旅行会社に席を置くために、つい旅行に出たり、旅と結びつけてしまうが、もうホテルもきらきらした旅館もたくさんだ、炭焼き小屋にでも泊めてもらって、キコリのおじさんとにぎりめしでもほうばってみたいと思うこともしばしば。
 馬鹿らしくて夜行列車なんか乗れませんよ。ジェット機が早くて楽で…。といったかと思うと、やっばり連絡船はよかったなあ…、人間の哀感を知っていた乗物だ。自分たちが必死で求めてきた近代文明に何かが欠けていることがようやく解ってきた昨今の日本の姿であろうか。
 それはたしか昭和四十四、五年頃だったと思う。せめて自分だけでもいい。どんな山の中でもいい、静かになれるところで自分に人間を問いつめてみたいと思って杖をひいたのが奥鬼怒の渓谷の温泉宿だった。
ランプの明かりを頼りにいろり端で主人と語りあかしたあの日が今でも忘れられない。目あきが目の見えない人に道を教えられたような思い出がよみがえってくる。
 公害のない蓮華温泉の星空はきれいだった。
 人間と宇宙がこれ以上近づいてはならない限界のようにさえ思われたのである。細々と山小屋を守る老夫婦の姿には頭が下がった。人間としてのせいいっぱいのがんばりと生き甲斐が山の宿に光っていた。
 ひとびとの旅は永遠に続いてゆく。それぞれ目的の異なる旅かも知れないが…。いづれの日か山の自然と出で湯は、ほのぼのとした人間らしさをよみがえらせてくれることだろう。
 秘湯で歴史を守ろうとじっとたえてきた人々の心の尊さがわかって頂ける時代が帰って来たのである。秘湯を守る皆さんや、秘湯を訪ねられるお客さん方に、私たちが近代社会の中で失いかけていたものは…という問いを投げかけてみたい。
 これからの日本に大切なことは何か。
 それは、人間が共に考えながら、助け合いながら、築き上げ、守りぬく、ぬくもりのある人生の旅ではありますまいか。 ・・・ 岩木一二三
(昭和56年発行第六版の序文より)

春の蓮華温泉 山スキー行2009年05月06日

 5/3の朝、道の駅で車中泊後、栂池スキー場へ。Pは早朝のせいか60%くらいの入り。ゴンドラは朝8時に運行するのでパッキングや朝食を済ます。3泊4日のザックは約20Kgにもなろうか。相棒のW君は30Kgを越えたらしい。
 ゴンドラから見下げるゲレンデは新緑の最中であった。中間駅までにも雪はない。ヘリスキーが待機していた。ロープウエーに乗り換えて最上部に着く。ここはまだ残雪があり、春スキーで賑わっていた。それ以上にツアー登山者が続々登って行く。白馬乗鞍岳からの滑降であろうか。
 我々は重装備であるがかえって場違いな気がするほどであった。肩にがっしり食い込むザックを背負い、喘ぎながら天狗原へ登る。時折ヘリは飛んでいく。多くの客がいるようだ。この大きな差に愕然とする。
 天狗原へはふーふー言いながら着いた。ヘリポートのある辺りに向ってシール歩行する。ようやく滑降する振り子沢の上部に着いた。
 12:10。ここでシールを外して沢に滑降。中々快適でした。台地上にルート表示があるが我々はU字溝状になった沢に滑りこんだ。W君もなぜ振り子沢なのか納得した。左右にふらふら振れるからである。この名前は乗鞍岳にもある。
 ピンクのテープや古いスキーツアーのための看板が木に打ちつけてあるのでRFは心配ない。振り子沢の下部で尾根を乗り越し小沢を滑ると車道であった。
 車道をしばらくは雪の上を歩いたが途切れている箇所もある。すぐに憧れていた蓮華温泉に着いた。休みをいれて約1時間30分の滑降でした。Pはすでに3パーティがテントを張っていた。我々も設営。ここからは雪倉岳、朝日岳、五輪山が良く見えた。五輪山は伊吹山そっくり。
 今日は蓮華温泉ロッジで受付を済まし、テントを設営するのみ。後は名物の露天風呂を楽しんだ。風呂からの展望は素晴らしいの一語。ロッジの話では雪倉岳のスノーブリッジが崩壊してスキー登山は出来ないとのことだった。それで朝日岳に変更。
 5/4。4時起床5時23分出発。宿からしばらくは下り、尾根を乗り越す際はスキーを漕ぐ。キャンプ場を通過して例のピンクのマーキングを頼りに見事なぶなの原生林の中を滑走。やがて兵馬ヶ平の湿原に着いた。余りにいいのでのんびり休む。ここを突っ切って瀬戸川橋へ下るのだがRFを間違える。ピンクのテープに惑わされた。橋を渡り、対岸に着いて板を担いで尾根まで上がる。雪のある辺りで再びシール登行。右にテントが一張り。地図の池も見る。急坂を登りきると台地にひょうたん池が現れた。しばらく眺める。殆ど水平の林を突っ切ると白高地沢に出た。ここで対岸に徒渉するものと勘違い。実は右岸の広い台地上の尾根に取り付くのが正解だった。
 あれほど遠く見えた朝日岳が今は目前に見える。しかし、ピッチが上がらず、11時30分、1705mの独立標高点で引き返す。標高差700mを往復するのに約3時間以上かかり、日没での原生林の彷徨いが想像された。テント場へ戻って露天風呂を楽しもうと思ったが営業は4時までというので内風呂に入浴した。露天は500円、内風呂は800円。
 5/5。トレーニング不足(登山がトレーニング)を痛感。1月以来の今シーズンは月1回の登山がやっとのこと。昨年との違いは大きい。そんな反省をしながら今日は静養的なスキーワンダリングでお茶を濁した。雪倉岳の徒渉地点を偵察に行ったが靴を脱げば渡れないこともない。今日も内風呂に入湯。
 5/6。夜来からの雨がテントのフライを叩く。今日は荒れるかな、と思ったが意外に晴れ間も除く。5時55分出発。振り子沢を溯って約3時間30分で天狗原の一角に着いた。初日は蟻の行列をなしていたスキー客も今日はいない。ヘリスキーも終ったようで赤旗も撤去された。
 栂池を俯瞰するところから荒れた斜面を滑降した。ロープウエーはパスし、林道を下る。ゴンドラに乗ると下界に下るに従い雨脚が強くなった。白樺の新緑が美しい。
 栂池の温泉は13時からなので八方温泉に転戦した。ここは12時開店、500円と格安。今日も更湯であった。お湯のあとは100%白馬産の蕎麦粉がウリの蕎麦屋で下山後の食欲を満たした。
 ちなみにロッジは1泊2食で9000円也。お客はガイド登山の客が多かった。