越後湯沢の秘湯・赤湯温泉行③ ― 2024年11月04日
午前5時に目覚めた。W君はさっそく朝湯に行った。夕べも遅くに入湯したらしく温泉が好きなんだろう。
6時から朝食である。6時半ごろから3人で揃って階下に行く。朝食は大き目の生卵、浅草のリ、納豆、煮物など。結構な量がある。夕べも味噌汁に入っていたが小屋主らが採ってきたきのこが入っている。これは旨い。
朝食後は下山だ。昨日の道をまた歩くが景色が反転するから飽きることはない。それに朝が早いから朝日を浴びた紅葉はより美しい。照り黄葉という季語もある。またカメラで撮りまくった。
地図にある棒沢の釜段ノ滝を見に行ったが堰堤だった。地形図の印刷が間違っていて本当は清津川へ落ち込んでいる。こっちから眺めても水しぶきが見える。但しその滝を見に行く場所がないのは残念だ。
ここからまた林道歩きが始まる。気楽な散策気分である。Pまでゆっくり話しながら歩いた。途中でも多数の登山者や行楽の若者グループに出会った。まさかあの格好で赤湯に行くんでは無かろうが。
Pのクルマはすっかり減っていた。戻る際に徒歩の登山者を見た。多分元橋(火打峠)へ登り返すんだろう。火打峠には平標山の登山者のマイカーが多数止まっていた。人気の山らしい。元橋のバス停もあり、赤湯への入り口の看板もあった。
林道を走っている際に上をゴンドラが往来していた。これはかぐらスキー場へ一気に運んでいる。但し苗場山へは立入禁止の記号になっている。単なる展望と散策のためのものだろう。
帰路は給油、魚沼の温泉に入湯(480円)した。やけどしそうなくらい熱かった。石鹸、シャンプーはなく温まるだけでした。R253経由で帰名した。
6時から朝食である。6時半ごろから3人で揃って階下に行く。朝食は大き目の生卵、浅草のリ、納豆、煮物など。結構な量がある。夕べも味噌汁に入っていたが小屋主らが採ってきたきのこが入っている。これは旨い。
朝食後は下山だ。昨日の道をまた歩くが景色が反転するから飽きることはない。それに朝が早いから朝日を浴びた紅葉はより美しい。照り黄葉という季語もある。またカメラで撮りまくった。
地図にある棒沢の釜段ノ滝を見に行ったが堰堤だった。地形図の印刷が間違っていて本当は清津川へ落ち込んでいる。こっちから眺めても水しぶきが見える。但しその滝を見に行く場所がないのは残念だ。
ここからまた林道歩きが始まる。気楽な散策気分である。Pまでゆっくり話しながら歩いた。途中でも多数の登山者や行楽の若者グループに出会った。まさかあの格好で赤湯に行くんでは無かろうが。
Pのクルマはすっかり減っていた。戻る際に徒歩の登山者を見た。多分元橋(火打峠)へ登り返すんだろう。火打峠には平標山の登山者のマイカーが多数止まっていた。人気の山らしい。元橋のバス停もあり、赤湯への入り口の看板もあった。
林道を走っている際に上をゴンドラが往来していた。これはかぐらスキー場へ一気に運んでいる。但し苗場山へは立入禁止の記号になっている。単なる展望と散策のためのものだろう。
帰路は給油、魚沼の温泉に入湯(480円)した。やけどしそうなくらい熱かった。石鹸、シャンプーはなく温まるだけでした。R253経由で帰名した。
越後湯沢の秘湯・赤湯温泉行② ― 2024年11月03日
午前五時に出発。まだ暗いが上信越道の豊田飯山で降りた。深夜割引で若干安い。R117に出て飯山市に近づくとスキやの灯りがいやに目についた。空腹の身に熱い味噌汁が飲めるぞ、と一旦は通り過ぎたがまたバックして入店した。
それぞれ好きなモノを注文した。朝定が良い。熱い味噌汁が胃にしみる。再び乗り込んでR353へ右折する。清津峡の案内がある。目的地はそこである。石内丸山スキー場にからむ山路を越えると塩沢に下った。そこでR17に右折した。
越後山脈の三国峠に向かう。トンネルと橋を繋いで結構な山岳路である。火打峠を越えて下ってから火打平ゲレンデへ右折。プリンスホテルが建っている。
なおも奥深く林道を走る。今日は観光客の車が多いせいか案内係が交通整理中である。黄葉に染まる雑木林の林道を走って橋の前で行き止まりになった。ここでには10台位の先着がびっしり止まっている。我々は止める余地がなく思案の結果車止めの石の前に停めた。いずれ下山者が来れば空くだろうという見込みだった。
身支度して歩き始める。清津川の橋を渡ると早速黄葉を愛でながらの散策である。ぱちぱちカメラを構えては撮影した。陶然として歩みはのろい。朝日が当たって紅葉はいっそう映える。
その内車の終点に着く。そこからも林道はしばらくは続いた。ますます美しい黄葉紅葉に見とれる。ついに棒沢の橋で林道も終わり、橋を渡って1184mの鷹打峠への尾根に取り付く。とても急な斜面のジグザグの山路である。休み休みしながら登ると米袋を担いだ歩荷が追い抜いて行く。後から後から登山者が抜いていった。
峠を過ぎる。峠といっても尾根の反対側に下るわけではない。そのまま山腹を縫うトラバース道である。ブナ林が素晴らしい。すでに葉を落として登山道には落葉が積もっている。滑落に気を付け乍ら歩いた。
見返りの松のポイントでは携帯電話が通じるらしいのでS君がさっそく仕事がらみの通話をこなした。やや下り気味に荒れた山道を歩く。最後は比高50m位は螺旋階段のような急転直下の山路だった。
下りきってまた熊沢の橋を渡る。すぐに清津川の橋を渡るとようやく赤湯温泉山口館に近づく。山口館で受付を済ませてさっそく入浴する。清津川の激流の傍に小さな囲いの露天風呂である。野趣にあふれる。他に2ヶ所あり時間帯で専用と謳うのもある。
宿はランプなので薄暗い。電気は通じないから照明、TVなど文明の恩恵からは程遠い。スマホも新聞も無いから何をするやらうろたえる。睡眠不足を補うために布団を敷いて仮眠する。夕飯のコールで階下に降りて夕餉を囲む。結構な人数だが11/2の天気予報で台風の接近もあって三分の二はキャンセルしたらしい。
接客の小屋番氏から山の話、宿の歴史などを伺う。100年というからそんなに古くもない。しかし、谷底の宿でよくぞ続いたものだと感心する。壁の古い写真を見ると皇太子殿下が写っていた。大学を出たばかりの頃、苗場山の途次、立ち寄られた。入湯だけで宿泊はしなかったらしい。
夜になり早いうちに寝床に就いた。ランプの使い方の説明に回って来られた。ランプが点くと古い時代に戻った気がする。一つあっても良いような照明器具である。
それぞれ好きなモノを注文した。朝定が良い。熱い味噌汁が胃にしみる。再び乗り込んでR353へ右折する。清津峡の案内がある。目的地はそこである。石内丸山スキー場にからむ山路を越えると塩沢に下った。そこでR17に右折した。
越後山脈の三国峠に向かう。トンネルと橋を繋いで結構な山岳路である。火打峠を越えて下ってから火打平ゲレンデへ右折。プリンスホテルが建っている。
なおも奥深く林道を走る。今日は観光客の車が多いせいか案内係が交通整理中である。黄葉に染まる雑木林の林道を走って橋の前で行き止まりになった。ここでには10台位の先着がびっしり止まっている。我々は止める余地がなく思案の結果車止めの石の前に停めた。いずれ下山者が来れば空くだろうという見込みだった。
身支度して歩き始める。清津川の橋を渡ると早速黄葉を愛でながらの散策である。ぱちぱちカメラを構えては撮影した。陶然として歩みはのろい。朝日が当たって紅葉はいっそう映える。
その内車の終点に着く。そこからも林道はしばらくは続いた。ますます美しい黄葉紅葉に見とれる。ついに棒沢の橋で林道も終わり、橋を渡って1184mの鷹打峠への尾根に取り付く。とても急な斜面のジグザグの山路である。休み休みしながら登ると米袋を担いだ歩荷が追い抜いて行く。後から後から登山者が抜いていった。
峠を過ぎる。峠といっても尾根の反対側に下るわけではない。そのまま山腹を縫うトラバース道である。ブナ林が素晴らしい。すでに葉を落として登山道には落葉が積もっている。滑落に気を付け乍ら歩いた。
見返りの松のポイントでは携帯電話が通じるらしいのでS君がさっそく仕事がらみの通話をこなした。やや下り気味に荒れた山道を歩く。最後は比高50m位は螺旋階段のような急転直下の山路だった。
下りきってまた熊沢の橋を渡る。すぐに清津川の橋を渡るとようやく赤湯温泉山口館に近づく。山口館で受付を済ませてさっそく入浴する。清津川の激流の傍に小さな囲いの露天風呂である。野趣にあふれる。他に2ヶ所あり時間帯で専用と謳うのもある。
宿はランプなので薄暗い。電気は通じないから照明、TVなど文明の恩恵からは程遠い。スマホも新聞も無いから何をするやらうろたえる。睡眠不足を補うために布団を敷いて仮眠する。夕飯のコールで階下に降りて夕餉を囲む。結構な人数だが11/2の天気予報で台風の接近もあって三分の二はキャンセルしたらしい。
接客の小屋番氏から山の話、宿の歴史などを伺う。100年というからそんなに古くもない。しかし、谷底の宿でよくぞ続いたものだと感心する。壁の古い写真を見ると皇太子殿下が写っていた。大学を出たばかりの頃、苗場山の途次、立ち寄られた。入湯だけで宿泊はしなかったらしい。
夜になり早いうちに寝床に就いた。ランプの使い方の説明に回って来られた。ランプが点くと古い時代に戻った気がする。一つあっても良いような照明器具である。
越後湯沢の秘湯・赤湯温泉行① ― 2024年11月02日
夜7時半にW君が来宅。山のザックなど積み込んで可児市のS君宅へ名古屋高速で直行。連休前とあって思いの他交通量が多く高速にして良かった。犬山市付近で交通事故があったばかりで大渋滞に巻き込まれた。それでも高速のお陰で10分くらいの遅れで済んだ。
S君宅で無事に合流。中央高速の小牧東へ行く。とりあえず姥捨SAで仮眠となった。長野盆地の夜景がきれいだ。空気が澄んでいるがその分寒い。一応暖かい服装は用意してきた。
S君宅で無事に合流。中央高速の小牧東へ行く。とりあえず姥捨SAで仮眠となった。長野盆地の夜景がきれいだ。空気が澄んでいるがその分寒い。一応暖かい服装は用意してきた。
越後湯沢の秘湯・赤湯温泉行を企画 ― 2024年11月01日
山岳会のS君から赤湯温泉に行こうとの企画が出されていた。地図を見ると苗場山のふもとに湧く山の湯である。南魚沼は9月に行ってきたばかりだった。それでも今なら黄葉が期待できるとの読みで行くことにした。
越後山脈の続きで、谷川岳、仙ノ倉山、平標山が続いて一旦は火打峠に下る。そこから清津川沿いに降りて赤湯林道を経て清津渓谷に行った先に赤湯温泉がある。
平標山は三国山、稲包山、白砂山、佐武流山、赤倉山、そして苗場山とつながる。関東圏の山好きにはたまらない山域であろう。
越後山脈の続きで、谷川岳、仙ノ倉山、平標山が続いて一旦は火打峠に下る。そこから清津川沿いに降りて赤湯林道を経て清津渓谷に行った先に赤湯温泉がある。
平標山は三国山、稲包山、白砂山、佐武流山、赤倉山、そして苗場山とつながる。関東圏の山好きにはたまらない山域であろう。
巻機山の米子沢に挑む② ― 2024年09月08日
夜6時から12時頃までは缶ビールの酔いと疲労でぐっすり眠れた。トイレに起きると深夜を回る。蚊取り線香を一本燃え切ったのでつぎ足す。実際に蚊が居ることと熊除けでもある。いったん起きるともう眠れない。午前3時にはトタン屋根を叩くような降雨があった。しばらく続いて沢登りはどうなるやらと気をもんだが雨は止んだ。うとうとしていると午前5時にコンコンとノックがあった。
今回の米子沢は研究すると単独で行くのはリスクが高そうだった。過去には死亡事故もあったので関東圏の沢の精通者にガイドを依頼してあった。
ハーネスなどを付けて4人パーティで実施。若いスタッフ2名も居るので心強い。
最初は砂防堰堤工事用の車道を歩き、水の流れのない氾濫河原の米子沢に入渓。しばらくは岩伝いに遡行、やっと水が流れているところへ来た。右岸を高巻き、景観が良くなってきた辺りで又、連瀑帯の右岸の大高巻きがあった。これで体力の消耗させられた。滝の連ちゃんを巻くのだから木の根、草の根、枝をつかんで必死で登る。沢も立ってきて登攀の要素が多くなる。スタッフらはザックが大きいのにスイスイ遡行してゆく。結局、ガイドの判断で中途で撤退することとした。私のペースでは日帰りは無理との判断である。エスケープルートがないこともある。頑張って良い所まで行ってしまうとそこで体力尽きてヘリを救助要請ということになりかねない。そうならないようにプロガイドを依頼したわけだ。過去の記録には沢中ビバーク後遭難した例もある。
私が地形図やガイドブックで研究した以上に沢が立ってきてきた。この上は等高線が詰まっているのでもっと厳しくなる。朝は青空も見えていたがいつしか雲が厚くなった。モチベーションは低下するばかりだ。現在の自分の体力では無理だった。下降は遡行よりも危険なことがある。登りに掛かった時間以上に掛かる。そろそろ下り無事駐車場に帰還した。
清水の民宿で山の蕎麦を食う
昼時でもあり、帰り支度を整えると蕎麦を一緒に食って行こうと誘われた。もちろん同行させてもらった。清水で登山客相手の民宿である。山菜が山盛りになった蕎麦である。大変美味しかった。
名刺を出して改めてあいさつする。日本山岳会東海支部の名前を見て、とっさに世界第二位の高峰のK2へ登った会だね、と返ってきた。隊員のTさんなら知っているよ、と。T氏は北アルプスの山荘の経営の仕事をしていることもご存じだったから世間は狭い。一気に親しみが湧いてきた。木曽山脈の沢の話から名古屋ACCの某の名前も出てきた。行ったことがないというのでまた中央の沢で合流できたら良いな、と話が弾んだ。
自分も若い時は木曽駒の細尾沢を遡行し、宝剣岳を越え、三の沢岳のコルに下り、伊奈川を下降して八丁峠を登り返した沢中2泊の昔話をした。或いは上の廊下の遡行の話も出た。しかし、肝心なことは今、どんだけ体が動くか、であろう。リベンジを約して別れた。
帰路は大沢山のトンネル経由
南魚沼市街に戻りナビでは大沢山経由でR117へ越えるルートが示された。R253より高いが行ってみた。合流地点は津南の近くだったからかなり近道である。信州中野ICから上信越道に入ったがETCカードを間違えてバーが上がらない。チケットで入るが塩尻、飯田付近で渋滞というので松本で出てR19で帰名した。
軽油を給油すると44リットル。現地と合計で64リットル。773km走っての燃費は満タン法で12km/リットルと高燃費だった。ファンベルトを交換した効果が出ている。
今回の米子沢は研究すると単独で行くのはリスクが高そうだった。過去には死亡事故もあったので関東圏の沢の精通者にガイドを依頼してあった。
ハーネスなどを付けて4人パーティで実施。若いスタッフ2名も居るので心強い。
最初は砂防堰堤工事用の車道を歩き、水の流れのない氾濫河原の米子沢に入渓。しばらくは岩伝いに遡行、やっと水が流れているところへ来た。右岸を高巻き、景観が良くなってきた辺りで又、連瀑帯の右岸の大高巻きがあった。これで体力の消耗させられた。滝の連ちゃんを巻くのだから木の根、草の根、枝をつかんで必死で登る。沢も立ってきて登攀の要素が多くなる。スタッフらはザックが大きいのにスイスイ遡行してゆく。結局、ガイドの判断で中途で撤退することとした。私のペースでは日帰りは無理との判断である。エスケープルートがないこともある。頑張って良い所まで行ってしまうとそこで体力尽きてヘリを救助要請ということになりかねない。そうならないようにプロガイドを依頼したわけだ。過去の記録には沢中ビバーク後遭難した例もある。
私が地形図やガイドブックで研究した以上に沢が立ってきてきた。この上は等高線が詰まっているのでもっと厳しくなる。朝は青空も見えていたがいつしか雲が厚くなった。モチベーションは低下するばかりだ。現在の自分の体力では無理だった。下降は遡行よりも危険なことがある。登りに掛かった時間以上に掛かる。そろそろ下り無事駐車場に帰還した。
清水の民宿で山の蕎麦を食う
昼時でもあり、帰り支度を整えると蕎麦を一緒に食って行こうと誘われた。もちろん同行させてもらった。清水で登山客相手の民宿である。山菜が山盛りになった蕎麦である。大変美味しかった。
名刺を出して改めてあいさつする。日本山岳会東海支部の名前を見て、とっさに世界第二位の高峰のK2へ登った会だね、と返ってきた。隊員のTさんなら知っているよ、と。T氏は北アルプスの山荘の経営の仕事をしていることもご存じだったから世間は狭い。一気に親しみが湧いてきた。木曽山脈の沢の話から名古屋ACCの某の名前も出てきた。行ったことがないというのでまた中央の沢で合流できたら良いな、と話が弾んだ。
自分も若い時は木曽駒の細尾沢を遡行し、宝剣岳を越え、三の沢岳のコルに下り、伊奈川を下降して八丁峠を登り返した沢中2泊の昔話をした。或いは上の廊下の遡行の話も出た。しかし、肝心なことは今、どんだけ体が動くか、であろう。リベンジを約して別れた。
帰路は大沢山のトンネル経由
南魚沼市街に戻りナビでは大沢山経由でR117へ越えるルートが示された。R253より高いが行ってみた。合流地点は津南の近くだったからかなり近道である。信州中野ICから上信越道に入ったがETCカードを間違えてバーが上がらない。チケットで入るが塩尻、飯田付近で渋滞というので松本で出てR19で帰名した。
軽油を給油すると44リットル。現地と合計で64リットル。773km走っての燃費は満タン法で12km/リットルと高燃費だった。ファンベルトを交換した効果が出ている。
巻機山の米子沢に挑む① ― 2024年09月07日
9/6の夜発で、先日ファンベルトとテンショナーを交換したNV350に乗って遠出である。
9/7 南魚沼市へ
目的地は新潟県南魚沼市の巻機山の登山口のある清水。約400kmもあるので夜出てR19の道の駅「木祖村」で車中泊。直前に購入した窓に貼るシェードを設置すると外からの光が入らず快適だ。標高900m以上あるから気温は19℃と涼しい。翌朝は早朝出発、松本市のよしのやで朝定を食べる。梓川に沿うこの道も松本市街を抜けると快適に走れる。安曇野を過ぎて長野盆地を経由、豊野から信州中野で千曲川に沿うR117に入る。これまでに何度も走った。
津南町、十日町市からR253で南魚野へ山越え。
南魚沼市の鈴木牧之記念館へ
時間的に早いので塩沢の鈴木牧之の記念館を見学した。著書『北越雪譜』で江戸時代の読者に越後で豪雪に埋もれた人生を送る人間の暮らしを紹介して人気を得た。都会人にサプライズを与えた古典の著者であった。この本は明治時代の『遠野物語』にヒントを与えた気がする。原作者は現地の人がいるがそのままでは二番煎じなので、柳田国男が文語文で編集。これも都会人に山の怖さを知らせ、サプライズを与えた。川端康成の『雪国』の中にも一節が引用されている。
記念館を辞して、軽油を20リットル給油、道の駅で昼食、スーパーで夜食、行動食を買い出し。汗でべとつくので「金城の里」で入湯してさっぱりした。450円と安い。その後、清水へ。
三国街道(R291)から清水へ
R291は昔は三国街道といって上州と越後の国境の清水峠を越えた古道である。日本山岳会が120周年を迎える2025年の記念事業として120本の山岳古道を調査中であるがこの街道もその一つである。
今も車道は通じていない。街道筋の最奥の清水は狭い山里である。民宿やバス停もある。巻機山登山で賑わっているのだろう。九十九折れの山路を奥まで走ると桜坂駐車場があり、近代的なトイレも整備されていた。P料金500円を払う。トイレの横に停めて車中泊の準備を済ます。16時頃とて下山者が続々降りてきた。帰ってゆくと18時頃には自分独りになる。さすがに心細い。しかも車の中はマフラーの熱がこもって暑い。標高も750m位なのでそんなに涼しくもない。前の車はサイドの窓を開放できたが今度はまったく隙間もないのでバックのドアを少し開けて冷気を入れる。缶ビール一缶と夜食を食うとすることがない。ここはインターネットも通じないからだ。
9/7 南魚沼市へ
目的地は新潟県南魚沼市の巻機山の登山口のある清水。約400kmもあるので夜出てR19の道の駅「木祖村」で車中泊。直前に購入した窓に貼るシェードを設置すると外からの光が入らず快適だ。標高900m以上あるから気温は19℃と涼しい。翌朝は早朝出発、松本市のよしのやで朝定を食べる。梓川に沿うこの道も松本市街を抜けると快適に走れる。安曇野を過ぎて長野盆地を経由、豊野から信州中野で千曲川に沿うR117に入る。これまでに何度も走った。
津南町、十日町市からR253で南魚野へ山越え。
南魚沼市の鈴木牧之記念館へ
時間的に早いので塩沢の鈴木牧之の記念館を見学した。著書『北越雪譜』で江戸時代の読者に越後で豪雪に埋もれた人生を送る人間の暮らしを紹介して人気を得た。都会人にサプライズを与えた古典の著者であった。この本は明治時代の『遠野物語』にヒントを与えた気がする。原作者は現地の人がいるがそのままでは二番煎じなので、柳田国男が文語文で編集。これも都会人に山の怖さを知らせ、サプライズを与えた。川端康成の『雪国』の中にも一節が引用されている。
記念館を辞して、軽油を20リットル給油、道の駅で昼食、スーパーで夜食、行動食を買い出し。汗でべとつくので「金城の里」で入湯してさっぱりした。450円と安い。その後、清水へ。
三国街道(R291)から清水へ
R291は昔は三国街道といって上州と越後の国境の清水峠を越えた古道である。日本山岳会が120周年を迎える2025年の記念事業として120本の山岳古道を調査中であるがこの街道もその一つである。
今も車道は通じていない。街道筋の最奥の清水は狭い山里である。民宿やバス停もある。巻機山登山で賑わっているのだろう。九十九折れの山路を奥まで走ると桜坂駐車場があり、近代的なトイレも整備されていた。P料金500円を払う。トイレの横に停めて車中泊の準備を済ます。16時頃とて下山者が続々降りてきた。帰ってゆくと18時頃には自分独りになる。さすがに心細い。しかも車の中はマフラーの熱がこもって暑い。標高も750m位なのでそんなに涼しくもない。前の車はサイドの窓を開放できたが今度はまったく隙間もないのでバックのドアを少し開けて冷気を入れる。缶ビール一缶と夜食を食うとすることがない。ここはインターネットも通じないからだ。
スキー懇親会行② ― 2019年01月26日
二日目(1/22)は新潟県妙高市から長野市の戸隠スキー場への遠征になった。宿の送迎用ハイエースに満席のメンバーが同乗。オーナーが運転し、リーダーを勤めてもらった。
当日は良く晴れた。妙高山の山麓からはかぶさるように聳えて見える。登山はしたことがあるがこちらからは初見である。昨日の昼食で「妙高山カレー」を食べたが、ご飯の盛り形はこの角度から見た妙高山の山容に似せたものだった。
一旦R18に出て、信濃町から黒姫山麓を走り戸隠スキー場に向った。雪はたっぷりある。雪国に来たなあという気分がしてくる。戸隠スキー場は実は飯綱山の山腹につくられたゲレンデである。
リフトに乗るとめのお山のトップに着く。素晴らしい北信濃の山岳風景が広がった。ゲレンデの雪質も軽いので滑りが良い。昨日と違い、ワックスとの相性も良いのでスキーに乗っている感覚がよみがえった。よく知ったオーナーのリードでゲレンデを隅々まで滑りまくった。
昼食もあそこが良いと教えてくれた。蕎麦がうまいというので私も天ざるを注文した。確かにうまい。昼食後は再びゲレンデを滑った。滑り飽きた頃、宿に帰る時間が来た。
宿ではすぐに温泉に入湯。汗を流す。夕食は刺身を中心に和食だった。ペンションでも和風料理が出るのはありがたい。様々な話題が飛び交った。
宿の設備はベッドですべて欧風になっている。しかも床暖房で温かい。昨夜は下着を着こんで寝たせいで暑く寝にくかった。今夜は浴衣1枚で快適に寝られた。
三日目(1/23)は近場の妙高杉の原スキー場に遠征する。ゴンドラが新しい。すぐに乗車する。ここからの山岳風景も素晴らしい。斑尾山が見え、野尻湖が凍らないので碧く見えた。遠景は志賀高原だろうか。
ここのゲレンデは杉の原ゾーンと三田原ゾーンとに分かれている。ゾーンは林道でつながっている。三田原山は山スキーのツアーコースとして名前だけは知っていた。私の好きな岳樺やブナの林間が広がっている。コース外滑走禁止の制札があるにも関わらず、多くのシュプールがついている。標高1855mというから相当な高さを稼いだ。そのせいか若干寒いし風も強い。
ゲレンデコンディションは上々だった。ここではオーナーの息子さんがリードしてくれた。なんでもスキー大会でならしたこともあるという。滑りをみると美しい滑降をするから本物だろう。息子さんから最新のスキー技術をレッスンしてもらった。曰く、ストックは雪面に引きずる、とか両足は若干開けるなど。30年前から40年前のスキー技術からは目からうろこのレッスンになった。
基本的にはスキー板の中心に乗ることである。柔らかい革製登山靴で山スキー入門してきた身にはそれは基本のキで染みついている。前後のバランスが崩れると転倒し易いからだ。今はプラブーツになり足はがちがちに固定しているからスピードターンもやり易い。
ところで息子さんの板はなんとテレマークだった。この板もバランスのコントロールが微妙と思われる。ゲレンデには自衛隊の人らも迷彩服で練習中だった。彼らの板はなんとカンダハ―だった。今もまだあるのか。スキーの本場という気がする。
テレマークもカンダハ―も時代遅れのように思うが、何と言っても軽いので操作がし易い。最新の締め具は機構が複雑且つ重くなる。私のように革製登山靴でも履けると言うフレキシビリティの重視から今もジルブレッタを愛用する。但し400になってからは重い。
三日間を通じて見た感想は日本のスキー場が外人天国になった感が深い。しかも白人だけでなく、シナ人やコリアンの言葉も飛び交っていた。そういえば宿のお客にも白人が居た。インバウンド需要はこんなところにも恩恵をもたらしていた。
日本人から見るとカナダやスイスに行くのが1つのあこがれになっているが、インバウンドで反対に日本の冬の魅力を教えてくれる。
宿の夕食は今夜が最後となった。ステーキを中心に欧風料理で締めくくった。
当日は良く晴れた。妙高山の山麓からはかぶさるように聳えて見える。登山はしたことがあるがこちらからは初見である。昨日の昼食で「妙高山カレー」を食べたが、ご飯の盛り形はこの角度から見た妙高山の山容に似せたものだった。
一旦R18に出て、信濃町から黒姫山麓を走り戸隠スキー場に向った。雪はたっぷりある。雪国に来たなあという気分がしてくる。戸隠スキー場は実は飯綱山の山腹につくられたゲレンデである。
リフトに乗るとめのお山のトップに着く。素晴らしい北信濃の山岳風景が広がった。ゲレンデの雪質も軽いので滑りが良い。昨日と違い、ワックスとの相性も良いのでスキーに乗っている感覚がよみがえった。よく知ったオーナーのリードでゲレンデを隅々まで滑りまくった。
昼食もあそこが良いと教えてくれた。蕎麦がうまいというので私も天ざるを注文した。確かにうまい。昼食後は再びゲレンデを滑った。滑り飽きた頃、宿に帰る時間が来た。
宿ではすぐに温泉に入湯。汗を流す。夕食は刺身を中心に和食だった。ペンションでも和風料理が出るのはありがたい。様々な話題が飛び交った。
宿の設備はベッドですべて欧風になっている。しかも床暖房で温かい。昨夜は下着を着こんで寝たせいで暑く寝にくかった。今夜は浴衣1枚で快適に寝られた。
三日目(1/23)は近場の妙高杉の原スキー場に遠征する。ゴンドラが新しい。すぐに乗車する。ここからの山岳風景も素晴らしい。斑尾山が見え、野尻湖が凍らないので碧く見えた。遠景は志賀高原だろうか。
ここのゲレンデは杉の原ゾーンと三田原ゾーンとに分かれている。ゾーンは林道でつながっている。三田原山は山スキーのツアーコースとして名前だけは知っていた。私の好きな岳樺やブナの林間が広がっている。コース外滑走禁止の制札があるにも関わらず、多くのシュプールがついている。標高1855mというから相当な高さを稼いだ。そのせいか若干寒いし風も強い。
ゲレンデコンディションは上々だった。ここではオーナーの息子さんがリードしてくれた。なんでもスキー大会でならしたこともあるという。滑りをみると美しい滑降をするから本物だろう。息子さんから最新のスキー技術をレッスンしてもらった。曰く、ストックは雪面に引きずる、とか両足は若干開けるなど。30年前から40年前のスキー技術からは目からうろこのレッスンになった。
基本的にはスキー板の中心に乗ることである。柔らかい革製登山靴で山スキー入門してきた身にはそれは基本のキで染みついている。前後のバランスが崩れると転倒し易いからだ。今はプラブーツになり足はがちがちに固定しているからスピードターンもやり易い。
ところで息子さんの板はなんとテレマークだった。この板もバランスのコントロールが微妙と思われる。ゲレンデには自衛隊の人らも迷彩服で練習中だった。彼らの板はなんとカンダハ―だった。今もまだあるのか。スキーの本場という気がする。
テレマークもカンダハ―も時代遅れのように思うが、何と言っても軽いので操作がし易い。最新の締め具は機構が複雑且つ重くなる。私のように革製登山靴でも履けると言うフレキシビリティの重視から今もジルブレッタを愛用する。但し400になってからは重い。
三日間を通じて見た感想は日本のスキー場が外人天国になった感が深い。しかも白人だけでなく、シナ人やコリアンの言葉も飛び交っていた。そういえば宿のお客にも白人が居た。インバウンド需要はこんなところにも恩恵をもたらしていた。
日本人から見るとカナダやスイスに行くのが1つのあこがれになっているが、インバウンドで反対に日本の冬の魅力を教えてくれる。
宿の夕食は今夜が最後となった。ステーキを中心に欧風料理で締めくくった。
スキー懇親会行① ― 2019年01月25日
恒例のJACスキー懇親会(1/21~1/24)に久々に参加、旧交を温めた。とはいえ、知友は4人くらいで、長年交流していただいた越後支部のWさんは高齢もあってか地元なのに顔を見ることはなかった。参加者は1名Aさんが東海支部で後はみな東京からの参加組だった。今回も14名参加で平均年齢は75歳くらいとか。すると私などまだ若手の部類に入る。
宿の場所は新赤倉温泉のペンションだった。赤倉スキー場の下にあり、スキーを履いてまで即ゲレンデほどは近くはないが、至近距離にある。アクセスは宿の送迎バスがになってくれた。
20日はパッキングしてマイカーに積み込んだ後、昼間に寝て置いた。午前1時に名古屋を出発。単独なのでR19を北進した。木曽にも雪はない。午前3時、木曽福島の手前の道の駅で1時間ほど仮眠。4時に出発して、木曽を通過。塩尻、松本で午前6時になり、朝食を兼ねて休憩。松本市でさえ雪はない。さらに長野へと犀川沿いに走った。善光寺平に出た。今度はR18に合流して犀川も千曲川に合流する。千曲川の沖積平野も小布施までで、千曲川はR117と平行して新潟県境まで流れる。そこからは信濃川になる。
R18は飯綱山の麓を登り、リンゴ園の多い黒姫山の高原台地に着く。ここまで約300km走り、道の駅ではないが、トイレのある休憩所で一休み。燃料計も半分になったので灯油を18リットル補充しておく。宿では3日間エンジンをかけないので名古屋の軽油だと凍結するからだ。秋ならばコスモスの咲き乱れる高原であろう。
信濃町(柏原)に来ると江戸時代の俳人・小林一茶のふるさとである。ここまで来るとさすがに雪の量が増えてきた。積雪路になったので4WDにセット。久々の雪道走行を恐る恐る試しながら走る。また道の駅で休憩。コーヒータイム。信越大橋を渡ると新潟県妙高市に入る。天気も降雪になったので宿の名前をスマホに入力してナビを勤めさせる。2mあるマイカーの高さ以上に切り出された雪道を走る。一旦スキー場まで登って右折して下った所に宿はあった。9時前だったから正味7時間走ったことになる。
宿のオーナーは昨夜だけで80センチは積もったと言った。それで宿周辺の除雪作業に大わらわであった。Pの一角に車を止めて、荷を宿に運びいれ、服装を整えると11時になった。12時から利用できる午後券を割引で購入、先着数名が宿の車で送ってもらう。
久々のゲレンデスキーの試運転である。降雪と吹雪で何も見えない。案の定スキーが走らない。ショップでワックスを購入して塗布。少しは楽になった。がまだぎこちない。体がほぐれた頃、4時になり宿の迎えの車で帰る。すぐに宿の温泉の湯に浸る。東京から続々参加者が着いた。夜は全員が揃い、会食を楽しんだ。
宿の場所は新赤倉温泉のペンションだった。赤倉スキー場の下にあり、スキーを履いてまで即ゲレンデほどは近くはないが、至近距離にある。アクセスは宿の送迎バスがになってくれた。
20日はパッキングしてマイカーに積み込んだ後、昼間に寝て置いた。午前1時に名古屋を出発。単独なのでR19を北進した。木曽にも雪はない。午前3時、木曽福島の手前の道の駅で1時間ほど仮眠。4時に出発して、木曽を通過。塩尻、松本で午前6時になり、朝食を兼ねて休憩。松本市でさえ雪はない。さらに長野へと犀川沿いに走った。善光寺平に出た。今度はR18に合流して犀川も千曲川に合流する。千曲川の沖積平野も小布施までで、千曲川はR117と平行して新潟県境まで流れる。そこからは信濃川になる。
R18は飯綱山の麓を登り、リンゴ園の多い黒姫山の高原台地に着く。ここまで約300km走り、道の駅ではないが、トイレのある休憩所で一休み。燃料計も半分になったので灯油を18リットル補充しておく。宿では3日間エンジンをかけないので名古屋の軽油だと凍結するからだ。秋ならばコスモスの咲き乱れる高原であろう。
信濃町(柏原)に来ると江戸時代の俳人・小林一茶のふるさとである。ここまで来るとさすがに雪の量が増えてきた。積雪路になったので4WDにセット。久々の雪道走行を恐る恐る試しながら走る。また道の駅で休憩。コーヒータイム。信越大橋を渡ると新潟県妙高市に入る。天気も降雪になったので宿の名前をスマホに入力してナビを勤めさせる。2mあるマイカーの高さ以上に切り出された雪道を走る。一旦スキー場まで登って右折して下った所に宿はあった。9時前だったから正味7時間走ったことになる。
宿のオーナーは昨夜だけで80センチは積もったと言った。それで宿周辺の除雪作業に大わらわであった。Pの一角に車を止めて、荷を宿に運びいれ、服装を整えると11時になった。12時から利用できる午後券を割引で購入、先着数名が宿の車で送ってもらう。
久々のゲレンデスキーの試運転である。降雪と吹雪で何も見えない。案の定スキーが走らない。ショップでワックスを購入して塗布。少しは楽になった。がまだぎこちない。体がほぐれた頃、4時になり宿の迎えの車で帰る。すぐに宿の温泉の湯に浸る。東京から続々参加者が着いた。夜は全員が揃い、会食を楽しんだ。
新潟県 五頭連峰の親子遭難今日も発見されず ― 2018年05月08日
5/5に五頭連峰の松平山に登ったまま下山しない親子の捜索が続いている。当日は「2人は5日午後2時ごろ、登山に出掛け、同日午後4時ごろ「道に迷ったのでビバークする」と甲哉さんの父親に連絡」してきた。
ビバークという用語を使うくらいなので経験者である。また近くのコンビニでおにぎりやカップ麺を購入したことが分かっている。ということは、コッヘルにガスコンロも携帯していると思われる。親としては雪を溶かして水を作り、子にラーメンを食べさせる積りだっただろう。
5日の夜は何とか過ごせたであろう。コンロもあるので暖房はできる。ツエルトがあれば良いが、カッパだけでも何とかなる。
「6日午前7時半ごろ「下山する」との電話がかかってきて以降、通話ができない状態になっている」とのことで、夜になって警察に届けて大騒ぎになっている。
当初は7日に赤安山、扇山を中心に捜索、ところが、登山口の登山届に山葵山から松平山への届けがあったというので、松平山付近に捜索範囲を移動。
登山道をチエックすると北への枝尾根がいくつかあり、残雪があると迷いやすい。沢に下ってしまい、そのまま下れば里へ下れる、とは考えないだろう。ビバークの用語を知っているし、道に迷った際に沢を下っては行けないという教えは知っているだろう。
それでは何処に。きっと岩陰で救助を待っているものと思う。子連れだからあちこち彷徨することも考えにくい。ヘリの音は聞こえるだろうが、連絡できない状況か。捜索範囲は狭まっている。がんばって欲しい。
ビバークという用語を使うくらいなので経験者である。また近くのコンビニでおにぎりやカップ麺を購入したことが分かっている。ということは、コッヘルにガスコンロも携帯していると思われる。親としては雪を溶かして水を作り、子にラーメンを食べさせる積りだっただろう。
5日の夜は何とか過ごせたであろう。コンロもあるので暖房はできる。ツエルトがあれば良いが、カッパだけでも何とかなる。
「6日午前7時半ごろ「下山する」との電話がかかってきて以降、通話ができない状態になっている」とのことで、夜になって警察に届けて大騒ぎになっている。
当初は7日に赤安山、扇山を中心に捜索、ところが、登山口の登山届に山葵山から松平山への届けがあったというので、松平山付近に捜索範囲を移動。
登山道をチエックすると北への枝尾根がいくつかあり、残雪があると迷いやすい。沢に下ってしまい、そのまま下れば里へ下れる、とは考えないだろう。ビバークの用語を知っているし、道に迷った際に沢を下っては行けないという教えは知っているだろう。
それでは何処に。きっと岩陰で救助を待っているものと思う。子連れだからあちこち彷徨することも考えにくい。ヘリの音は聞こえるだろうが、連絡できない状況か。捜索範囲は狭まっている。がんばって欲しい。
ウエストンの白馬岳登山 ― 2009年05月07日
『日本アルプス 登山と探検』(平凡社ライブラリー)によるとウエストンが来たのは明治27年7月のことだった。19日に直江津を出発。糸魚川までは船で行く。7/20には姫川を溯り、大所川に沿って樵夫小屋に着きますがこれは多分木地屋のことでしょう。当時はもう木地屋を止めて百姓になり、杉の幹を加工する生業に変わったようだ。明治初期、戸籍制度を作り、住民を定住させるために山に火を放すことを禁じる法律を作った。地租改正もあって山の木を自由に伐れなくなった。
20年位前の3月、天狗原から木地屋へスキーツアーで降りた。タクシーを待つ間木地屋の家でビールを飲み、自家製の野沢菜漬けを提供されて美味しかったことが思い出される。
7/21の午後5時に野生的な浴場と表現した蓮華温泉に着いた。挿入されたハミルトンの写真を見ると粗末な小屋に驚く。文字通り野生的である。青年団のパーティは夜遅くまで酒盛りをして大満足で「劇的な詩」を歌っていた、と書く。「劇的な詩」とは何だろうか。恐らくは民謡か俗謡か。他の客も喜んで聞いていた、とも書く。和やかな雰囲気だったのだろう。
7/22の午前4時に起こされて出発。2時間で蓮華銀山に着く、とある。精錬所跡とは銀山だったのか。検索中に面白いことが分かった。三島由紀夫の祖父・平岡定太郎が蓮華銀山の会社社長をしていたという。
しかしこの事業は失敗。山師の哀れな末路が見えるようだ。
ここから白馬岳に10時に登頂。その道を往復した。当時は大蓮華の峰と呼んだ。温泉から6時間で登ったから相当な健脚であった。
あとはさらっと書いて終る。
少しづつ少しづつ理解できる範囲で読んでいくとウエストンは近代的な登山の普及者であると分る。しかし、山の湯に親しみ、山の民の観察もする。山旅の名人は民俗学者の資質もある。広く親しまれてきた所以である。
ここまで書いてふと最近買った渡辺京三『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)を思い出す。実はこの本にもウエストンの本が出てくる。著者は江戸時代を一文明として捉え、それを外国人の観察になる著書から日本人に紹介した本である。日本人は悪いこともいいこともすべて捨てて変わってしまう、という。江戸時代もいい所があった。古き日本が夢のように美しい国、という外国人の言説の紹介。それを「逝きし世」と表現したのである。
バスも通わぬ中の蓮華温泉こそ美しい。別天地である。兵馬ノ平は規模こそ小さいが箱庭的なまとまりがある。周囲の遠景もある。時を忘れて埋没できる自然郷である。
20年位前の3月、天狗原から木地屋へスキーツアーで降りた。タクシーを待つ間木地屋の家でビールを飲み、自家製の野沢菜漬けを提供されて美味しかったことが思い出される。
7/21の午後5時に野生的な浴場と表現した蓮華温泉に着いた。挿入されたハミルトンの写真を見ると粗末な小屋に驚く。文字通り野生的である。青年団のパーティは夜遅くまで酒盛りをして大満足で「劇的な詩」を歌っていた、と書く。「劇的な詩」とは何だろうか。恐らくは民謡か俗謡か。他の客も喜んで聞いていた、とも書く。和やかな雰囲気だったのだろう。
7/22の午前4時に起こされて出発。2時間で蓮華銀山に着く、とある。精錬所跡とは銀山だったのか。検索中に面白いことが分かった。三島由紀夫の祖父・平岡定太郎が蓮華銀山の会社社長をしていたという。
しかしこの事業は失敗。山師の哀れな末路が見えるようだ。
ここから白馬岳に10時に登頂。その道を往復した。当時は大蓮華の峰と呼んだ。温泉から6時間で登ったから相当な健脚であった。
あとはさらっと書いて終る。
少しづつ少しづつ理解できる範囲で読んでいくとウエストンは近代的な登山の普及者であると分る。しかし、山の湯に親しみ、山の民の観察もする。山旅の名人は民俗学者の資質もある。広く親しまれてきた所以である。
ここまで書いてふと最近買った渡辺京三『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)を思い出す。実はこの本にもウエストンの本が出てくる。著者は江戸時代を一文明として捉え、それを外国人の観察になる著書から日本人に紹介した本である。日本人は悪いこともいいこともすべて捨てて変わってしまう、という。江戸時代もいい所があった。古き日本が夢のように美しい国、という外国人の言説の紹介。それを「逝きし世」と表現したのである。
バスも通わぬ中の蓮華温泉こそ美しい。別天地である。兵馬ノ平は規模こそ小さいが箱庭的なまとまりがある。周囲の遠景もある。時を忘れて埋没できる自然郷である。
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