亀山(越前大野城)に登城②2022年04月11日

 大野市へ戻る際に見た九頭竜川は雪解け水で増水し勢いがあった。小京都といわれるごとく複雑な市街地を経て大野市歴史博物館に入館。城の創建は
「福井県大野市にあった安土桃山時代の山城(やまじろ)。江戸時代には大野藩の藩庁が置かれた城である。大野市街近くの亀山(標高249m)に築かれていた。1573年(天正1)8月16日、戦国大名の朝倉義景は刀禰坂(とねざか)の戦いで織田信長に敗れ、一乗谷館・一乗谷城(福井市)を放棄し大野へ逃れたが、一族の朝倉景鏡の裏切りにより大野六坊の一つである賢松寺にて自刀した。こうして朝倉氏が滅ぼされたのち、その戦いで戦功により、大野市周辺を与えられた金森長近が1576年(天正4)に築いた城である。長近は小規模ながら大天守・小天守を持った堅固な大野城を築き、城下町をつくり上下水道を整備するなど、今日の大野市街の原形をつくった。
 信長の死後、北ノ庄城(福井市)を本拠とした柴田勝家と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が対立し、賎ヶ岳の戦いが起こったが、その際、長近は勝家方として従軍した。戦後、長近は敵方であったものの秀吉から城と領地を安堵され、1586年(天正14)に飛騨高山(岐阜県)に転封した。その後、大野城には長谷川秀一、青木一矩、織田秀雄(信長の孫・信雄の長男)が入城し、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの後、大野一帯が福井藩の直轄領となったことから、福井城の支城となった。1624年(寛永1)には結城秀康三男の松平直政が5万石の大野藩の藩主として入城、その後、譜代や親藩の大名が城主となり、土井氏4万石の時代に明治維新を迎えた。
 この間、1775年(安永4)に火災により大天守・小天守などを失った。現在、城跡には1968年(昭和43)に建設された鉄筋コンクリート造の復興天守群と天狗櫓(てんぐやぐら)があるが、その石垣は当時のものである。また、城門2基が同市内の光明寺および真乗寺に山門として移築され現存している。JR越美北線越前大野駅から徒歩約20分。山頂まで徒歩約10分(4ヵ所の登城口がある)。◇亀山城ともよばれる。」
 少しは歩こうと越前大野城に登城した。登ると何と三等三角点もあり、249mの山だった。城からは大野盆地を囲む残雪の毘沙門岳、荒島岳、経ヶ岳、銀杏峰(げなんぽ)、部子山(へこやま)などの名山、遠景には姥ヶ岳、堂ヶ辻山、屏風山、取立山などの無名峰が並んだ。ミニハイキングになった。
 下山後は大野市内で名物のおろしそばを食べた。最後は数ある湧水地の本願清水イトヨの里に寄り、取水して土産にした。
 地図を見ると大野市は地下水脈の上に成り立つ水上都市と言える。九頭竜川、真名川などの河川が洪水の度に押し出し、土砂が堆積し、伏流水の豊かな土地が形成された。名古屋市中区の鶴舞もツルマという。水の湧く土地であり、以前はビール会社の工場があった。富山県入善町は黒部川の伏流水が豊富で至る所に湧き水がある。郡上八万市、大垣市もそうだし、外国ではナイロビが水の湧く土地という意味らしい。

願教寺山改め大野盆地をめぐるドライブ①2022年04月10日

 計画では福井県側からの上小池からの願教寺山に予定していた。ところが打波川の山奥はまだ除雪中で奥へ入れず、中止。最初の下打波発電所があるとことろで右岸の発電所に渡る橋があり、そこへは入れるが、車道はゲートで通せんぼ。Uターンして帰りました。しかし、屋根が朽ちて倒壊した廃屋や、無人の山家を見ていると何かしら胸を締め付ける寂寞がある。
 下打波の地名のあるところでは倒壊した廃屋はなく、山家はしっかりしていたが、樋がこわれたままになっているなどの手入れがされていない状況に空き家になっていると見られる。勝原の住民に聞いた話では、雪解け後に実家に戻り畑仕事をするいわゆる出づくり小屋になってしまったのだろう。水仙の花が咲き、山からの引水も管理がされているようでそこには人の気配を感じたのだが。
 白山神社には桂の大木があったので拝観と見学をした。なるほど大木である。桂といえば鈴鹿の上高地にも桂の大木があった。桂は大木になりやすいのか。足元にはオーレンの花が一杯咲いていた。
 勝原にもどってスマホのインターネットがつかえたので検索して、六呂師高原にドライブしてみた。伏石には火山弾が田んぼに埋まっていた。あれは経ヶ岳の火山活動で飛んできたものだろう。ここから仰ぐ経ヶ岳は垂直の崖に見える。後は福井県の野外センターに尋ねたが朝が早いので誰もいない。戻ってスキージャム勝山へ行く。820円の通行料金がかかる。しかし行ってみると田舎のスキー場から垢抜けした都会風のスキーリゾートの雰囲気があった。営業は今日でお仕舞という。法恩寺山に斜面にはしっかりゲレンデの雪が光っていた。

近江湖北・行市山から三方ヶ岳ミニ縦走2021年07月18日

 梅雨明けのこんな暑い時期に600m級の低山歩きはないだろう。左様、標高の高い亜高山帯が良いnああと思いながらも、雨で流れた5月初めの計画にこだわり、万緑に染まる湖北の山歩きを挙行した。
 行市山は毛受兄弟の墓から登った。案内板によると愛知県春日井市の出だ。尾張旭市とも書いてある。

 詳細は「毛受氏」に拠られたい。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/menzyu_k.html

 獣除けのゲートから登山道に入るといきなりの急登で始まる。山麓から遠望してなだらかな山容の通り、すぐ緩やかになる。アップダウンを繰り返しながら登頂した。南側が伐採されて余呉の山郷が見える。見えるのは良いが、カンカン照りなので日陰が欲しい。
 三方ヶ岳へは目印まで少し戻る。踏み跡はあるが心もとない。ルートを外さないように要所では地形図、GPSを確認した。さすがに福井滋賀の県境であるばかりでなく、日本中央分水嶺だ、少ないがブナもある。
 県境は一旦福井側の源流に食い込む林道に下り、再び尾根に取り付く。新しい林道に出てしまったので終点まで歩いて、尾根に戻って進む。△588mのコブから三方ヶ岳へ県境通りに踏み跡があり、ヤマップの赤線通りのルートは回避した。あっけなく三方ヶ岳に登頂。縦走の目的は果たした。
 下山ルートは少し戻って、三方ヶ岳の東のコブ(東三方と命名)から塩津への尾根にとる。踏み跡程度の路が続く。下りこそ、ルートを外さないようにGPSのチェックが必要だ。ヤマップの真価はこれだ。中間地点にある四等三角点は尾根が平らで、やや低い所に埋設されるから分かりにくい。倒木に隠れていたのを発見した。
 最後の下りも尾根が広がり、GPSの出番が頻繁になる。地形図にある赤線には大抵は赤テープなどのマーキングがあるものだが、最後は無くなった。獣道をたどり、地形上の弱点を探りながら廃林道に下れた。もう安心。林道も確り、歩いて、最後は獣避けのゲートを通過。
 塩津の山郷の集福寺に着いた。疲れもあり下塩津神社参拝はパス。雪が深いであろう集福寺の山郷を離れると国道8号だ。大型トラックなどクルマやバイクが激しく往来している。
 近江塩津駅までは約1km15分の道のりだ。16:07の発車まで、いくらも待ち時間はなく、冷たい飲み物で渇きを癒した。一駅先の余呉駅まではいくつものトンネルを抜けた。空間に湖が広がるともう余呉駅だ。
 毛受兄弟の墓までは約5kmあり、Wさんに予めデポした自転車でクルマの回収に行ってもらった。こうして美しい庭園のような湖北の山旅を堪能した。誰にも会わず、自分たちだけの山、あ、ニホンシカの子供がいたか。今度はどんな計画を立てるか。「早もせかるる次の山かな」

野伏ヶ岳で登山の67歳男性が遭難か 捜索も手がかりなし2021年05月05日

https://www3.nhk.or.jp/lnews/nagoya/20210504/3000016511.html?fbclid=IwAR05bMiE4dVKFSv9Dt1vh-zlvM2FNWpz2_yyUhHB7ZnIZfSomIS4v9eubmM

 登山道が無い山なので捜索隊も途方に暮れているでしょう。捜索隊は頑張ってください。
 4/30に妻宛てに電話で野伏ヶ岳に行くと伝えた。5/3になっても下山の電話が無く、妻が警察に届けた。5/4に警察で捜索活動がされたが、発見されず。5/5は朝から雨で、現地でも捜索は困難だろう。この山に登る前は猿ヶ馬場山に登っている。野伏ヶ岳もともに日本三百名山であるから、GWに集中的に登りに来られたんだろう。どちらも無雪期は登山道が無く、登れないから残雪期を選んだと思います。なので道迷いに備えて、ツエルト、非常食、コンロなどを携帯し、ビバークの準備くらいはしていると思いたい。
 GWに入る前に、知人から野伏ヶ岳の状況の問い合わせがあった。今年はFBなどの仲間内の記録から雪解けが早く、残雪を踏んでの登頂は困難でしょうと、伝えた。山岳会の仲間も願教寺山への渡渉地点で撤退していることなど教えてあげた。多分中止していると思う。
 不明の男性も林道を歩き、あの広い和田山牧場までは登れたに違いない。そこからどう登るか。
 ヤマップの記録では4/30が近い。ダイレクト尾根を登り、北東尾根を下っている。
 バンビさんの日記から「いろいろ試練があり山の怖さ甘くみたら痛い目にあうのがわかった山行きとなりました😅
 薮こぎが激しすぎるのと、下山すごい豪雨になって見えなく薮でストック無くすし携帯充電切れ道迷いにあうし。最悪なのは道迷いで池にたどり着いて雪の池を膝まで入り渡ってようやく道に出て下山。雨は大丈夫だろうと雨具、着替え持ってかなかったから凍えそうになるし山を甘くみてました🙏反省し今後気をつけないと遭難しかねないですね😅」と報告されている。
 不明の男性もルートファインディングに苦労していると思う。しかし、ベテランだろうから、推高谷の源流部に回り込んで、1481mの稜線なら雪が残っているかも知れません。そして留意すべきは福井県側の広い緩斜面に迷い込んでいないかどうか。または橋立峠に周回して、激やぶの斜面で疲労困憊しているか。などと想像しています。
 関東圏の登山者は奥美濃のヤブの濃さを甘く見ない方が良い。藪漕ぎできないくらいに雪で押されて曲がっている。
 まだ不明後5日間であり、食料はないと思うが頑張れる限界だろう。

若狭・庄部谷山を歩く③2020年12月01日

 地元の人は軽トラで山仕事でここまで上がっていた。この方も山や自然が好きで岩魚釣りや山菜取りに入るという。ブナが素晴らしいと言ったらこの方も同意された。仕事と趣味が一致しているのだ。
 それにしても堰堤が多いですね、と黒谷山の東の谷にある砂防堰堤の話をした。
 そこを切り口にブナ林は山の生活史的には、昔は薪炭林だったことでしょう。若木の内に クヌギ、コナラ、ヤマザクラ、エノキなどの伐採を繰り返し、山の地味が痩せるから松を植えたことでしょう。
 炭焼きの山から松山になった。松茸は人間が繰り返し干渉し、地味が痩せた松の木から生える茸である。
 松を切り出した丸太を榑松という。人名にもあるし、鈴鹿山系の竜ヶ岳の南にも石榑峠、霊仙山の登山口の廃村・榑ヶ畑と結構見る地名である。
 その炭、薪、松も戦後の石油の輸入で炊飯、煮炊きの燃料に使わなくなり、炭焼きや薪の切り出しの用が無くなるとくぬぎ類は急成長した。松山は荒れた。慌てて杉や桧を植林したが育ちが悪い。猿投山周辺には多く見られる。山が荒れると大雨で土砂の流出が続き、山崩れで浸食された。土石流は谷川の川底の水位を上げる。もはや沖積平野にはなりえないから砂防堰堤で土砂を貯めることになった。
 それが徹底すると例えば天ノ橋立も砂洲への砂の供給が止まり切れるという事態になる。鳥取砂丘もかつて古代から続いた中国山地のかんな流しで砂鉄を採ったり、和鉄を生産するための大量の炭焼きの原料として伐採された結果、山が荒れたのである。いつしか砂の供給不足で砂丘が減ってゆくのではないか。
 山の人曰く、今のブナ林は山の保水力となって守っているんだな、と理解を示された。そのブナを切って、風力発電の基地にしたらどうなるか。山の人曰はく、北陸は冬春でも雷が鳴り、落ちることがある。と懸念を示された。その上に保水力は減衰する。
 横谷川の下流の新庄は間違いなく、土石流の犠牲になる。山は堰堤だらけになるだろう。今でも小さなダムがあるが大規模なダムも作らないと危ない。
 一基8000万円から2億円もする風車の耐用年数は9年である。耐久消費財なので短期間で利益を出すことになる。採算が合わなければ撤退するだろう。すると残るのは新庄の住民らは自然破壊で災害の恐怖にさらされる。発電企業からの法人税よりも治山治水に使う税金が多ければ社会的には採算割れだ。
 人間の生活史は利用のための自然破壊の歴史である。

 下山後は温泉に入湯したかったが、適当なお湯がないので諦めた。帰路、湧き水があったので汲んだ。またR27沿いにJAのスーパーがあったので魚を買った。若狭湾産には買い気をそそられる。敦賀市まで来るともう雨になった。木之本では小雨、関ヶ原では止んだ。日本海は冬時雨だったのだ。

若狭・庄部谷山を歩く②2020年11月30日

庄部谷山頂
 Pを朝8時30分出発、林道へ左折して、上空の送電線を見ながら約20分ほどで384mの近くに立つ送電鉄塔への巡視路の道標があり、さらに庄部谷山へと篤志家が付けた道標もあった。河原へ下るとすぐに水が流れている。ちょっと多めなので平地に赤テープのある上流側にも歩いたが何もなし。戻って渡渉した。
 対岸に渡って振り向くと何と橋が壊れている。昔は橋があったのだ。急斜面には巡視路によく見る段差が埋まっている。荒れているが方向さえ分かればいい。ジグザグに高度を稼ぐと384mの北の鞍部に着いた。尾根にはテープ類が豊富に付いている。躊躇なく巡視路用の段差の残る踏み跡をたどればよい。そこを過ぎると樹林が途絶えカヤトの丘に登る。黒谷山の三角点は平な頂上の片隅に座していた。
 約50kmかなたの青葉山693mが見えたのは嬉しかった。若狭富士と言い、双耳峰の特徴ある山が可愛い。
 黒谷山では少し水を飲んだ。美味しかった。黒谷を後にしてしばらくでまた樹林帯に入る。677mへの登りはブナ林のさまよいであった。ちょっと下ると伐採されて開けたところで一休みした。ここでも送電線が通っている。若狭湾が良く見える。隣の山は雲谷山である。そこへ現れたのはなんとマウンテンバイクの人だった。山頂までは付かず離れずで歩いた。途中で長話したが関東の人らしい。今回で2度目という。
 広い尾根一杯、谷間にも広がるブナ林のさまよいは感動する。この尾根ならスキーが使える気がした。加えて赤テープも結構目立つのは落葉期だからと思う。青葉茂れる頃ならちょっと迷うかも知れない。804mのミニプレートがあった。新庄から221m、518mと続く尾根の終点である。
 12時、三角点が埋まる山頂は静寂に包まれていた。木の間越に見える黒い山体は野坂岳だろう。標高は古い山の本には856.1mだが今の地形図は855.9mと20センチ低くなった。普通のおにぎりの1.5倍の大きさがあるとはいえ、全部は食べきれず残した。腹筋が締まってかえって食えない。いい傾向である。
 さて、12時20分に下山。マウンテンバイク氏は休憩中に登ってきて休まず、自転車に乗って下って行った。さっきの話では野坂岳へ行くという。一般道へ出てからもマイカーへ戻るのにそのまま行ける利点を言っていたが・・・。
 下山ルートは東尾根にとったが西尾根よりもテープの頻度が多く、見えるところから次が見える。芦谷山への分岐までは難なく下れた。分岐からも路形がはっきりしている。倒木など多いがピッチは早まる。時計を見るとまだ13時を過ぎたばかりだが雲谷山上空にはもう雲がかかっていた。朝は晴れていたが午後は悪くなる。
 そして708m北の鞍部から林道に降り立つって雲谷山を見ると雲に包まれた日輪が山の向こうへと沈む。日没予定は16時44分だが、山陰になることを計算に入れると15時でちょうど良い。やっぱり芦谷山往復は止めて良かった。
 674mの南まで林道をしばらく歩くと広大なブナ林がある。まるで庭園か、キャンプ場になりそうな緩斜面が続き、短いショートカットを2回繰り返す。やや急斜面になったブナ林はピンクのテープが頼りで間隔が長いのでGPSでチエックしながら下った。しかしヤブは一切ないので落葉の上を滑落に注意しつつ下った。
 林道上部からの長いショートカットの最後は鉄塔が交差した。ちょうど山仕事の人がいたので長話になった。

若狭・庄部谷山を歩く①2020年11月29日

粟柄越関所跡の碑
 朝4時30分起床、名古屋ICは5時30分、養老SAでトイレタイムの際に下着を1枚着こんだ。余りに寒い。若狭美浜ICは7時30分通過、R27を走り、新庄へ左折した。耳川に沿う県道213号はほぼ直線路である。沖積平野に広がる田には稲刈り後の切り株に青い穂が生え、ひつじ田と呼んでいる。これも枯れてしまう。
 新庄まで走るとまたちょっと谷間の村が広がる。野坂岳と庄部谷山の水を集めた横谷川が押し出した沖積平野である。村の中央を走る県道の中央には雪解け用の湧水装置が埋めてあり雪深い地区と分かる。増永廸男『福井の山150』は山スキーを履き、新庄の発電所の先から尾根に取り付いている。804mを経由して登頂している。スキーが使えるほどの雪が降るのである。
 新庄を過ぎると県道は狭隘な感じで寂しい。この先にまだ人の住む山里があるかしらんといつも電線と電話線を探している。あるあると行くと松屋に着いた。
 地名はこの村の生活史、自然史を語る。まったくの想像であるが一定の標高以下はおそらく薪炭林であっただろう。炭焼きの山だったのだ。炭焼きにちょうど良い太さで伐採する。後はまた生えるに任せる。落葉も薪や畑の肥料に持ち帰る。地味がやせてくると松を植える。松もまた有用な樹種である。
 松田、松井、松川、松本、松山、松岡、松尾、松坂などは松を利用した結果の地名であろう。松は腐りにくいから水に強いので田んぼを造成する際は焼いて、地中に打ち込み水平に土砂を均した。奥三河には焼松という三角点があり、山間の谷間に棚田を作る際に使われた。後年甫場整理で拡張すると古い焼松が出てくるという。
 松屋からは左折して舗装された林道を走る。384mへ直登する印はないかと探りながら走ったがない。粟柄越の関所跡という立派な石碑があり何となくそこをPにした。すぐ先に三差路があり、左折すると東尾根にをからむ林道の入り口であった。

晩秋の若狭駒ヶ岳を歩く2020年11月22日

 山と渓谷誌11月号に若狭駒ヶ岳のガイド記事が掲載された。以前から気になっていた山の1つである。ダム側から登り予定だったが木地山側からだと周回登山ができるというので3連休でもあり行ってみた。
 5時起き、6時出発と好調にスタート。名2環に入り、一宮ICから関ヶ原ICで出てR365に。木之本から湖北、湖西へと走った。R161、R303から分かれてR367へ。朽木村までは山間の道だが朽木村の中心地からは安曇川に沿ういわゆる鯖街道である。
 注意しながら麻生川に沿う県道23号に入るともう一本道になる。しばらくはバイパスのような2車線の立派な道路である。この道が尽きると一気に1車線の狭い道になる。上を見ると電線と電話線が奥まで続いているので不安ながらも走り通した。川沿いには名残りの紅葉が美しい。バードウォッチャーが大勢で何かを見ていた。
 そのうち、池原山登山口を見つけた。まだ奥に山里がありそうなので行ってみた。バスの終点は木地山という。最奥の村に着いた。木地山でうろうろしていると福井ナンバー3人、徳島ナンバー4人のパーティも来て一気に人が増えた。登山口の表示はないが福井ナンバーの人らが橋を渡って対岸に消えていった。地形図で確認するとその通りである。予定では池原山から駒の池を経由であったが焼尾東谷から登り、山頂を往復後池原山経由で下山することにした。
 このルートは渡渉が多かった。踏み跡も明瞭ではなく、余り歩かれている様子はない。但しポイントには赤テープがあるし道標もあるにはある。沢沿いに歩けば道に迷うことはなかった。焼尾谷が二股になり奥に行くと杉の植林が無くなりブナの森が広がった。その中には名残りの紅葉もあり美しい。ブナの黄葉も見事であろうが今はすべて落葉してしまった。
 谷も立ってきた。そのうち徳島ナンバーのパーティが追い付いて来た。60歳代の男性1名と3名の女性らである。谷の詰めからは尾根に上がった。急登になった。そいて高島トレイルといわれる稜線にたどり着いた。ブナの疎林が広がる素晴らしい尾根である。ここでしばし休憩後、徳島隊は駒ヶ池を見に行くという。私は山頂を目指した。
 ブナの巨木の風倒木に驚きながら馬の背のような広い尾根は歩きやすい。
 駒ヶ越という地点を過ぎた。五万図熊川には木地山(地形図には中小屋)とダム湖に沈んだ河内を結んでいた峠道があった名残りである。焼尾谷の西谷を源流まで詰めてここに上がり、駒ヶ岳寄りに登ってまた谷を下る破線路があった。森林公園との分岐があり、すぐに谷へ下ったのだろう。
 山頂はすぐだった。山頂はただ一人静寂に包まれていた。標高が低い割には自然は豊かである。山頂もブナの疎林で360度大展望ではない。しかし一部から琵琶湖も見える。ブナ越しに若狭湾も見えた。そうかここは日本中央分水嶺なのです。日本海と太平洋側への脊梁山脈でもある。
 12時ちょうどに下山開始、単独行に出会う。徳島隊にも出会った。高島トレイルは下りも快適である。30分で谷道の分岐も過ぎて駒ヶ池に向かう。いい感じでブナ林が続く。駒ヶ池は今にも埋まりそうな感じであった。周辺は高島市側は杉の植林が迫り、小浜市側が辛うじてブナが残されていた。
 駒ヶ池は美しい。いい雰囲気であるがポツリときた。今日は夜は降雨の予報であるが山は早くも時雨模様になりそうだ。池を半周する感じで踏み跡がある。これは地形図にもオームの記号のような破線路で表現されている。
 駒ヶ池を過ぎると杉の植林との境界を歩く。これが高島トレイルかと思うような未整備状態になった。作業道が交差してくるので尾根を外して歩いてみた。すると744mの独立標高点を迂回するように池原山の枝尾根を寸断していた。但し赤テープが巻いてあり、尾根の下り口は何とか分かる。この尾根にも作業道が交差している。池原山へは作業道から赤テープで誘導するようにピークに向かった。三角点を確認できた。そこを下るとささやかながらブナ林に出た。道標が立っている。明確な登山道はないが赤テープが続く方向にくだった。地形図では尾根が二股になったところである。ここからは急降下になった。踏み跡も明瞭ではないが赤テープが頻繁にあるので迷うことはなかった。最後は横向きに下りながら車道に降り立った。
 休む間もなく、木地山に向かって歩き出した。約2kmはあり、40分の見込み。池の原というバス停があったが1軒あるだけ。木地山まであと10分というところで徳島隊の車が帰っていく。ちょっと挨拶したら木地山まで送ってやるというので親切に甘えた。マイカーまで戻れてやれやれだった。
 R367まで走り、朽木温泉に向かった。蛇谷ヶ峰901.5mという山の麓を開発したグリーンパークというリゾート地の一にである。Pはほとんど埋まっていた。3連休のせいで大勢が集まった。入口では検温された。マスク着用も当然。700円払って奥へ。湯船でゆったりした。登山後の温泉は温まるので疲労回復に良い。
 R367沿いの道の駅で栃餅、鯖寿司を購入した。鯖街道だから良い土産になる。これで皆終わったので帰名するのみである。良い1日になった。

トレラン遭難・・・行方不明になると2020年10月17日

 10/11に白山の楽々新道をたどるトレランのトレーニングに出かけたまま帰宅しない登山者がいる。10/14に警察の捜索は打ち切りになり今は家族が民間に切り替えた。現在はヤマレコで家族の中の娘さんが情報収集に懸命である。
 当会のブログにも掲載して拡散する協力をした。ささやかだが1人の人間の人脈は未知から未知へとつながって膨大な人数に拡散されてゆく。しかもインターネットは今や日常になった。多数の人が少しでも知れば拡散される。
 有益な情報がなくても捜索ボランティアに名乗りを上げる人も出てくるだろう。今はプロが2人、元捜索隊員だった人などが続々加わっているらしい。降雪期の初めでまだ少しは助かった。
 高い山ではもう降雪である。当然白山も降っている。トレランは装備を極端に切り詰めるからもしもの際は無防備で発見されても悲しい結果になるかも知れない。
 50歳代なので家族もあり、養育費もかかる年代だ。行方不明のままだと、職場は解雇、退職金はスズメの涙、給料は不明日以降は支給されず、相続はできない。金融機関の口座は遺産分割協議ができるまでは解約も凍結される。相続手続きは家裁に失踪宣告を申し立てて7年後になる。特例はあるのだろうか。
 行方不明は余りにも高い代償を払うことになる。

門玲子『玉まつり』購読2020年06月17日

あの深田先生が何故・・・ 復員後の深田久弥が志げ子夫人と暮らした大聖寺・金沢で親しく夫妻の謦咳に接した著者には、思いがけぬ深田の噂は大きな謎となった。 作品を丹念に読み解くことで昭和文学史の真実に迫る。久弥、八穂、志げ子への鎮魂の書。
幻戯書房刊。2020.5.24

表紙は富士写ヶ岳

副題
深田久弥『日本百名山』と『津軽の野づら』と

門玲子(ウィキペディア)

門 玲子(かど れいこ、1931年3月24日[1]- )は、日本近世文学研究者。
石川県加賀市大聖寺生まれ。1953年金沢大学文学部卒。1980年『江馬細香 化政期の女流詩人』で第8回泉鏡花記念金沢市民文学賞受賞。1998年『江戸女流文学の発見』により毎日出版文化賞受賞。江馬細香など近世の女性漢詩人、只野真葛など近世の女性思想家について研究している。

幻戯書房NEWSから
 
深田久弥と同郷で、復員後の深田と身近に接した著者が、当時を回想し、深田と北畠八穂の作品を丹念に読み込み、昭和文学史の真実に迫る、鎮魂の長篇エッセイ。

●本文より
 深田は長患いの八穂のためにさまざまに心を砕いている。上林暁の《この夫婦は辛い夫婦だつた》という言葉が思い合わされた。

中日新聞書評
深田久弥の謎 読み解く 同郷の門玲子さん 長編エッセー出版
 石川県大聖寺町(現加賀市)出身で「日本百名山」の著者として知られる作家深田久弥(きゅうや)(一九〇三〜七一年)。戦前は鎌倉文士として名をはせた深田が、戦後は大聖寺や金沢市で七年半を暮らし、「山の文学者」となっていったのはなぜか−。同郷の出身で、久弥と妻志げ子とも親交のあった女性史研究家の門玲子さん(89)=愛知県大府市=が、作品を読み解きながらその謎に向き合った長編エッセー「玉まつり 深田久弥『日本百名山』と『津軽の野づら』と」(幻戯書房)を出版した。(松岡等)
 東京帝国大在学中に改造社の編集者となった深田は、懸賞小説の下読みで、後に作家、詩人となる北畠八穂(やほ)(一九〇三〜八二年)の応募してきた作品「津軽林檎」に才能を感じ、八穂の住む青森まで出向く。
 結ばれた二人は、千葉・我孫子、東京・本所、鎌倉と移り住み、深田は文壇で頭角を現していく。しかしその出世作ともいわれる「津軽の野づら」に収められた「あすならう」は「津軽林檎」を元にしており、当時発表された作品のいくつかは八穂の下書きを元にした「共同作業」だった。
 また深田は、初恋の人だった志げ子と再会し、鎌倉でカリエスに悩まされていた八穂を残して、志げ子との間に子をもうける。出征した中国から復員後、深田は文壇を離れ、志げ子との間に生まれた子どもたち家族と故郷に暮らしながら国内の山々に登り、ヒマラヤの文献などを集めて読み込み、「山の文学者」となっていく。
 八穂は深田と離別後に作家として独立。やがて戦前の深田名義の作品の多くが八穂の下書きした作品だったと主張し、それが通説のようになっていく。しかし門さんは、八穂が戦後に自身の名前で発表した作品群にみられる独特の比喩や詩的な飛躍のある文章を読み込み、深田の理知的な作風と比較。「津軽の野づら」「知と愛」「鎌倉夫人」など、八穂が自作であるとする少なくない作品は深田自身のものではと示唆する。
 金沢で暮らしていた間、文化人の中心にいた深田が「僕の心の中に七重に鍵をかけたものはあるが、その他はすべてオープンだ」と語っていたのを聞いていたという門さん。「深田自身は(八穂とのことについて)一言も弁解をしていない。地元の大聖寺でも、深田の傷のようにそっとしているのではないか。しかし、それでは(八穂が主張したことだけが)事実になってしまう。自分が感じたことは書き残しておかなければ、という気持ちを持ち続けていた」と語る。
 書名の「玉まつり」は、松尾芭蕉が寿貞尼をしのんで詠んだ「数ならぬ身となおもひそ玉まつり」から。志げ子さんとの会話の中でふいに出たその句に「ほのかな表現に哀れふかい弔いの心」を感じ取ったという。
 本書は、深田と八穂が暮らした鎌倉と我孫子を訪ねた紀行文で締めくくられる。二人に縁の場所を歩いた旅は、深田が生涯明かさずにいた思いを、門さん自身が納得するためだったようにも読める。
 四六判、二百二十六ページ。二千八百円(税別)。

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