浜松スクエアークライミングジムdeボードクライミング2017年06月11日

 朝9時、金山を出発。ナビは三ケ日で出よ、というので出たらやはり早かった。距離は100kmちょっと。着いたら11時半を回っていた。地道をはしらされたのが大きい。周囲は田舎地帯にあるポツンとした建物である。
 ここで登録料1000円と使用料2500円を支払って会員になる。シューズ、ギヤ、などは持ち込み可能なのでこれだけである。利用者はそんなには多くはいないので順番待ちはなかった。
 見学を決め込む積りだったが折角だからと1本やってみたらボードの半ばでロープダウンした。腕に力を入れすぎとルートがやや高度だったみたいだ。
 それで優しいルートをやるとするすると最高点まで登攀できた。3本目も場所を変えて、ややグレードの高いルートをやってみたらするすると最高点に到達できた。全員3回から4回はやれたところでお開きにした。
 今回の収穫は膝の痛みを感じなかったことである。ボルダリングはドスンと落ちるので避けたがトップロープに確保されての降下は軟着陸で膝への負荷が少ない。
 帰りは三方ヶ原SAのスマートインターチエンジから入線した。

平針・秋葉山へポタリング、そして針名神社へ2017年06月09日

 昨夜は上前津にある山岳会のルームで編集会議のため自転車で出向いた。約10kmはある。今時は7時台でも明るいからだ。往路も帰路も主要道の自転車道の凹凸が辛いのでなるだけ路地裏を走った。すると普段車で走らないから知らない発見がたくさんある。
 御器所(ごきそ)という由緒ありそうな地名の裏道は住宅でびっしりだ。そんな中に御器所八幡宮の案内を見たから少しUターンして参拝してきた。なかなかに立派な境内である。

 今朝は昨日の遠出の疲れもあって近場にした。そうだ、秋葉山を訪ねよう。自宅は6時30分に出発。原の交差点からはじまる県道58号(飯田街道、旧平針街道)を約2kmも走れば平針駅南への道と交差、直進すると秋葉山に登る参道があった。舗装だが歩いて登る。
 登りきると標高58mの独立標高点のある秋葉山の本殿の前に立つ。ここは慈眼寺という曹洞宗の寺院だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E7%9C%BC%E5%AF%BA_(%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%B8%82)
            針名神社へ
 さっき登った参道は北からの道だが実は南からも参道が登ってきていた。こっちが本道と思われた。そして地続きに針名神社へ続く道を走った。秋葉山は人の手が入らず、御手洗い場もアルミのひしゃくで水は枯れていた。ちょっと荒れた感じがしたが、こちらは車もあるし、立派なお社に御手洗場もある。ここのひしゃくは曲げ物である。
 新しい気分の残る境内を歩いて参拝した。
 歴史は「針名神社の創建は古く、延喜式神名帳の”従三位針名天神“の記載により、今から約1100年以上前と推察できる。
 「延喜式」とは、延喜五年(905年)に醍醐天皇の命により編纂が開始された「養老律令」の施行細則を集大成した全五十巻に及ぶ古代法典である。この「延喜式」の第九巻・第十巻に記載されている神社のことを式内社と呼び、針名神社も式内と冠しているのはこの史実によるものである。
 元々は現在地より約800m北、天白川左岸の元郷に祀られていたが、慶長年間(1612年頃)に徳川家康の命により平針宿が成立したと同時期に現在の社地に遷し祀られたとされる。
 現社殿・社務所・手水舎等は昭和天皇御即位五十年の奉祝記念事業として昭和51年11月6日に竣功した。境内地は約一万二千坪を有し、名古屋市内でも有数の規模を誇る神社である。」

 由緒は「主祭神の尾治針名根連命(おはりはりなねむらじのみこと)は、尾張氏の祖先神で尾張国一宮の真清田神社の御祭神でもある天火明命(あめのほあかりのみこと)の十四世孫にあたり、父の尾綱根命とともに犬山市の針綱神社にも祀られている。
 古代豪族尾張氏の氏神と考えられております。配神として、大巳貴命(おおなむちのみこと)又の名を大國主命(おおくにぬしのみこと)また、記紀神話の国造りの際に全国を回って国土開拓を協力した神とされる少彦名神(すくなひこなのかみ)を祀っている。
 なお八幡神(応神天皇〔品陀和気命〕)を明治42年に合祀している。」とあった。

 古代豪族尾張氏の氏神とあれば、ここに大巳貴命が祀られているのは当然であろう。しかも大事にされていたから八幡神が優位になることはなかった。稲荷様も勧請されているので商売繁盛を祈願した。
 何より気に入ったのは秋葉山から針名神社の境内の閑静なことである。もちろん常緑樹が主であり、林床に日光が当たらないから地面が出ている。小鳥の鳴き声も聞こえる。散策には素晴らしい別天地であろう。
 社殿から高い場所への階段道を登ってみたら名古屋市農業センターの一角だった。少し南に3等三角点の「平針」63.5mが埋まる。さらに南は平針試験場である。

 針名神社からは路地裏の細道を走って原駅前の通りに出た。そこでパン食べ放題の喫茶店で休み帰宅した。

1等三角点研究会の例会山行に参加2017年05月28日

2009年の例会では六谷山に登山した。
 入会年月は東海白樺に続いて長く30年くらいになる。例会山行には中々出席できないが勉強になることが多い会である。文字通り研究会である。草創期は1等三角点がどの山なのか情報がなかった。登らないと分からなかった。登った人は会報で情報を公開する。それを共有するための会だった。
 例えば当時は段戸山(今の鷹ノ巣山)は20万地勢図で△記号があったので1等三角点と思われたが、実は100mほど低い出来山だと知った際はへーっと思ったものだった。
 それが今は一覧性のある専門書も数々出版されて情報は豊富になった。しかし、その希少性はなくならない。半島、離島や僻地の1等はまだ情報の価値は高い。懇親会でもある離島の1等三角点に行くからと同行者を募る話も出た。
 27日は自宅を15時に出て県道58号を走り、保見の先の交差点を左折して金泉閣に向かった。約1時間で着いた。早速受付を済ますと大槻会長と旧交を温めた。そばには同窓の早川総支配人もいて挨拶を交わした。事前に行くことを連絡していたからだ。
 懇親会では京都、滋賀、大阪を中心に富山県、静岡県、千葉県、横浜市、宮崎県、北九州市、山口県、茨城県などからから集結した39名が交流することになった。知っている人は富山県のYさんのほか3名くらいになった。草創期の会員は高齢化で亡くなったり、動けなくなったりしたようだ。つい先だっても古参の新潟のYさんが死亡されたメールを受け取ったばかりだった。
 27日夜は猿投温泉に宿泊して英気を養った。28日はまたとない素晴らしい五月晴れになった。38名が登山に向かう。猿投神社の駐車場まで見送って別れた。

初夏の平針街道を走る2017年05月22日

 初夏(はつなつ)の清々しい季節です。特に朝は冷涼な気温と湿度の少ない空気が爽やかな気分です。今朝も風を切って自転車で平針まで走ってきました。
 5/11は天白川を日進市役所まで走った。その後から体調が崩れ、5/12受診、5/13に緊急入院、5/17に退院とあわただしい1週間でした。現在も抗生物資を投与されて予後観察中の身である。5/19には試歩として天白川沿いに平針駅までポタリングしてみた。結果は良好で5/20にはうなぎ丼のようなしつこい食べ物も美味しく食べられた。
 いろいろ反省を交えて考えると肥満を意識して、食事を抑制し5kgは落としたもののさらに減食したことで免疫力低下を招いたような気がする。無理は禁物ということだ。入院中は食事を受け付けなかったが、ご飯をおにぎりにしてもらい、1つ食べ、次の日は1つは普通にたべ、1つはお茶で流し込んだ。そしたら急に体力が回復してきた。
 医食同源なり。
 5/20は山岳会の総会に出席し、ビール抜きで宴会もこなした。5/21はマンションの総会にも出席できた。今までは第3土曜日に集中していたが1つ外れてくれて出席できた。しばらくは総会の季節である。
 今朝も清々しい朝の風に起こされて走った。地下鉄原駅周辺は飯田街道と平針街道が交差して信号が複雑だ。
 かつては飯田街道(岡崎街道)と東海道を結んだ平針街道だったというが面影は少ない。最初から交差点を外し路地裏通りを走って旧の平針街道へ。軒先の低い商家風の建物が今も残る。今ではホームセンターにとってかわった金物屋がここでは開店中である。
 帰り際、パンや兼喫茶店で一服する。豊富なパンとコーヒーを飲みながら新聞を読む。店の周りは東海学園の女子学生が連れだって登校してゆく。あっちの路地、こっちの路地からも現れる。まるで小津映画の「早春」の一こまだ。あれは蒲田駅だろうか、サラリーマンやOLが駅へ集中してゆく風景である。そして満員電車に乗って東京へ出勤してゆく。小津さんのアイロニーたっぷりの映画である。
 いつもと違う路地を走って自宅に戻った。

4月句帳2017年04月09日

  3/26 天白川俳句(話)会
長閑さやいつまで続く俳話会
・・・2010年5月以来、脱落者なしに続いてきた。80歳を超えなんとするこれからはどうなるのか。

  3/28 岳連理事会
八人の犠牲は重し春愁
・・・開口一番那須町の山で起きた高校生ら8人の雪崩事故の話題。出席者全員が立って黙祷し、哀悼の意を表した。

  3/29 某県議と会う
人の世に救いの手あり春の宵
・・・自分だけで解決するには荷が重い。そんな時政治家の助けも要る。政治家とは人脈のハブ空港(中継地)と知るし。

  3/30 さんぱつ
暖かやすその刈り上げ要望す

  3/31 弥生尽
遅々とした歩みなれども弥生尽

  4/1 豊田市自然観察の森ネイチャーセンター写真展
里山を丸ごと保つ木の芽時

春山や失われゆく里の景

  4/1 天白川緑道に雪洞(ぼんぼり)が灯る
天白の柳青める河川敷

雪洞に灯点りそぞろ歩きかな

  4/2 新城市鳳来湖の上臈岩撮影行
あちこちに咲くやキブシの花垂れり

ヤマツツジかつてはありし川合村
・・・湖底に沈んだ川合村には上臈岩の伝説があった。洞穴には高貴な女郎の櫛簪があったという。持ち帰ると葉っぱに変わるとか。

鳥交る上臈岩に巣のありぬ
・・・湖岸からバードウォッチャーが超望遠レンズで鳥の交尾を観察していた。固定したクライミング用ヌンチャクもしっかり見えた。繁殖期はクライマーも自粛するとか。

春のトビ湖面すれすれ飛来せり

  4/5 歯の治療
春愁やとみに通ひし歯科医院
・・・加齢にともない抵抗力が弱くなって歯のトラブルが増えた。

  4/5 元名古屋家裁調査官による成年後見制度のセミナー参加
春暑し八十席みな埋まる
・・・名古屋家裁の元調査官による初めてのセミナー開催。コスモスの岐阜や三重からも来場して81席は満席になった。

  4/5 山岳会の総会・例会
新参の若き人来て始まれり
・・・3月に例会見学、定光寺の岩登り参加で入会を意思表示した40歳の新人が正式に入会となった。4/3は単独で野伏ヶ岳に登山したという頼もしい新人である。

  4/6 中日信金尾張旭支店でシニア人材面談会に行く
尾北には仕事埋もれり春の昼
・・・昨年11月から経産省、中産連、信金の連帯で始まったシニア人材の発掘。富山県の高岡信金から一宮信金、豊川信金、四日市信金などに積極的に動いたが応答なし。係の人曰く「まだ決まった人は居ない」とか。「野に遺賢なし」なのか。若い社長のバイタリティを支援したい。

花冷えやベスト着て行く面談日

  4/7 コスモスあいち民法研究会(東区生涯センター)
セミナーの話してゐる春の暮
・・・昨年春からコスモスあいちに魂を入れるべく始まった広報活動も1年経過して成果を挙げてきた。まだまだこれからである。

春の夢語りつつ飲む水割りを

  4/8 橋幸夫 INブルーノート名古屋
春の宵一期一会のコンサート
・・・3/20に続いて名古屋に来るというので行って見た。怪しげなナイトクラブ風の雰囲気だ。橋幸夫も初めてのステージという。今夜の出会いは今日かぎりのこととコメント。同年代の女性同士のファンが目立った。全席50名くらいか、コスパが悪く、音響効果も今一。

春の夜のパフォーマンスのフアンかな
・・・リズミカルな曲で突如、立って両手を振り、足を躍らせる男性の老ファン。橋幸夫も目を丸くして、苦笑いして困惑気味だった。

春の夜やな踊りそと引き踊らせり
・・・店の女性スタッフが老ファンを制し、着席を促すが、広いスペースに導いて躍らせた。

歌われず後ろ髪引く春の夜
・・・今夜は得意の股旅演歌は抑え、都会風の歌に終始。そこが残念だった。「潮来笠」だけは歌ってくれたが。

御園座のビルに垂れたり春の雲
・・・小雨降る広小路を歩くと伏見駅の上に御園座のビルが出現。上には雨雲がかかっていた。年内に竣工し、来年3月には杮落公演がある。

花の雨人は少なし夜の道

高校生の冬山禁止の是非2017年04月08日

 4月5日付の中部経済新聞の一面「中経手帖」の手帖子が高校生の冬山禁止の動きを危惧している。
 那須町の山で起きた雪崩で8人の高校生らが亡くなった遭難事件に関し「冬山は危ないというイメージを決定的にしてしまった。・・・」と書きだし、「高校生の冬山を禁止する動きが広がりつつある。」と危惧する。 事故後に手帖子は白草山に登り、眼前の御嶽を目の当たりに見て、「この壮大な眺めを、山好きの高校生から奪うのはどうかと思う。中略、禁止することはない。天候にわずかでも不安があれば登らなければ良いのだ。以下略」
 しかし、大学山岳部も高校山岳部の指導者のレベルもお寒い限りと思う。
 小屋番の山日記の「今西錦司の言葉」に書いた。今西錦司は「そんなわけで、立派な登山家の薫陶を受ける機会の無い初心者は、あえて老猟師とはかぎらずとも、郷に入っては郷に従えで、その山をよく知った土地の人に教えを乞うて・・・・・・・。そして経験者といえども、都会生活を送るものが、わずかの暇を盗んで得たぐらいの経験はどうせ大したものではない。われわれは山に対してはいつになっても初心者であるという謙譲な気持ちを、つねに持っていたいものである。 」と書いている。 登山技術はあるが山を知らない指導者が多すぎるのだと思う。「山を知るとはどういうことか。山に登るというが我々は頂を目指して登る。頂は山ではなく一部である。山は全体を指す。しかし、山に登って山を見渡すとき頂の形をしっかり目に焼き付ける。だから頂を隠して山体だけを見せられてもどの山か見当がつかない。頂を見れば見当がつく。言わば頂は山の顔である・・・と。実はこれも今西氏の見解である。
 この前銚子洞の遡行に失敗して道の無い稜線に追い上げられた際に役に立ったのは正しく頂の顔(特長)であった。目に見える山々のどれか一つでも正確に同定できればあとは地形図と照合していけば自分の位置が判明し、他の山も分かろう。山を知るということは大変に広範囲な知識だけではなく尾根、谷、樹木の有様に加えて言葉にならないことも含むであろう。
 奥美濃の花房山に登る前に谷の近くの民家に教えを乞うたがこの谷のあそこが特に悪い、注意して行け、とアドバイスを受けた。行ってみると地元でダイラと呼んでいるところで伏流して小広くなっていた。下山の際にあれっと思ったのはこんなところを通ったのかなあ、という疑問であった。多分道迷いを心配してくれたであろう。
 山の隅々まで特徴を把握している(頭の中に血肉化して刻まれている)即ちこれが山を知ることであろう。 」

訃報 演歌界の名伯楽 船村徹先生2017年02月17日

 日本山岳会だよりのメールを開くと、船村徹先生の訃報を伝える内容だった。
【訃報】
船村 徹 様(14674)84歳
栃木支部 通常会員
2017年2月16日逝去されました。

通夜 22日午後6 時、
葬儀 23日午前11時から
会場 護国寺
   〒112-0012 東京都文京区大塚5-40-1
   電話 03-3941-0764
喪主 蔦将包(つた・まさかね)様(ご長男)
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
以上
 もう84歳にもなっていたことに驚いた。作曲家としての実力は知らない人は居ないだろう。とにかくヒット曲の多い人だった。あの曲が、あの曲も、というくらい数多い。演歌の大家だった。歌手にとっては船村徹作曲のデビュー曲が一生のヒット曲にもなっている。一人や二人ではないから演歌界の名伯楽と言えよう。

 そんな先生は意外にも「山の日」の制定に熱意を示した。日本山岳会の正規の会員でもあった。これを知ってからいっぺんにファンになった。
「「山の日」の言いだしっぺは船村徹さんか? 」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/08/12/7731748

 昨年の8月11日の「山の日」の制定を見届けて、力尽きたのだろうか。

  ふるさとの山河に還る二月かな   拙作

 心より故人のご冥福をお祈り申し上げます。

北アルプス 大町登山案内人組合100年 日本最古PR2017年02月01日

 WEB版毎日新聞から
 長野県大町市の登山ガイド団体「大町登山案内人組合」が今年、発足100周年を迎える。日本初の登山ガイド組織として、楽しみで山に登る日本の近代登山の発展に大きく貢献してきた。組合は今年、市などと協力して記念事業を展開する計画で、関係者は「日本最古の登山ガイド団体はあまり知られていない。市の山岳文化をPRする機会にしたい」と話す。【稲垣衆史】

 組合は「大町登山案内者組合」として1917(大正6)年6月に設立された。前年に信濃鉄道大町駅(現・JR信濃大町駅)が開業し、北アルプスの地形図が整備されるなど、それまで知識人が中心だった登山が大衆化。大町も北アルプスの玄関口として年間1000人の登山者が訪れていたとされる。

 増加する登山者の要望に応えようと、組合を創設したのが市内で旅館「対山館(たいざんかん)」を営んでいた百瀬慎太郎(1892~1949年)だった。質の高い案内人を安定的に提供するため、地元の猟師ら山で働く人を中心に22人をガイドとしてまとめた。料金トラブルを避けるため定額料金を導入したり、心得や規約を作ったりし、資質の向上に努め、針ノ木小屋建設など針ノ木岳周辺の環境整備にも尽力した。こういった活動は模範となり、各地に同様の組合ができた。

 大町山岳博物館の関悟志・学芸員によると、百瀬は対山館を訪れる著名な登山家らと交流する中で、地元にいながらも新しい海外の登山文化などを取り入れていた。「組合の拠点だった対山館はサロンのような山の情報の交流・発信場になり、近代登山の発達に影響を与えた」と話す。

 戦時中、登山者が減り、対山館が廃業するなどして活動は一時休業状態になるなど存続の危機が何度もあったが、乗り越えてきた。現在、組合には市周辺に住む約40人が加入。登山ガイドだけではなく、北ア北部地区山岳遭難防止対策協会のメンバーも兼ねて遭難救助や見回りなどにも当たる。狩野正明組合長(68)は「100年で山の道具も環境も変わったが、受け継いだ組合の伝統は伝えていかなければならない。活動や意義を知ってもらい、見直す機会になれば」と話す。

 記念事業では、組合員のガイドによる針ノ木岳へのツアーの他、同博物館では百瀬らを中心とした地域の登山史を紹介する特別展を開催。11月17日には記念式典も開く予定。
以上
 山やには第一級のニュースですな。是非時間の都合をつけて行きたいものです。
 名古屋の伊藤孝一との交遊関係を調査するうちに百瀬慎太郎に触れないわけにはいかなかった。
 百瀬慎太郎遺稿集『山を想へば』を富山県立図書館経由で借りて、今も毎日読んでいる。宿泊客からの手紙や宿帳を抜粋した書簡集はさながらに近代登山のあけぼのを彷彿する一級の資料になっている。短歌は30歳代と40歳代が抜けているので完全に網羅されていない。散文も貴重な文献である。
 対山館は登山の拠点になっていた。今では一流と目される登山家が集まってきた。
 伊藤孝一は鹿島川を遡行するために来て泊まっている。俳人の河東碧梧桐一行はここに泊まって日本アルプス縦走に向かったのだなと分かる。名高い田部重治はまだ独身時代に南日重治の名前で泊まっている。伊藤孝一の手紙には時間があれば一緒に登りたいと懇願する手紙を出している。百瀬慎太郎の人柄の良さにひかれて交遊した期間は死ぬまでに30年に及んだ。赤沼千尋も同じだった。同書P90には登山案内人という言葉は大正初期にできたとあった。結局百瀬慎太郎あっての登山大衆化だったと思える。

恵贈!『山その大いなる旅Ⅱ』同志社大学山岳部・山岳会2017年01月22日

 1/21の新年会で和田豊司元支部長から恵贈を受けた。A4サイズ、244ページの立派な製本である。
 同志社大学山岳部の前身のスキー部が1925(大正14)年に創設されて、2015年で90周年を迎えたことから編纂された記念誌である。旧制大学発足は1920(大正9)年だから山岳部はその5年後に創部された。
 日本の近代史とともに歩んだ歴史のある大学と理解する。2011年に創立者の新島襄の妻の八重を主人公にした舞台劇は観たことがある。少しは同志社の歴史をかじったのである。
 また私の所属する山岳会にも同志社大学法学部OBで名古屋高裁に勤める会員がいた。女性でも転勤させるから優秀な官吏だったのだろう。
 私のようなものにも恵贈されたのは目次を一覧して東海支部に縁のある登山隊との関係だったと理解した。クビ・ツアンポ源流域学術登山隊の報告をメインに編纂されている。私にはヒマラヤの遠征経験もなく、少しでも理解をしようと、岩波文庫『ツアンポー峡谷の謎』という本を読んだことも思い出した。読んだだけではだめで、この本と合わせて読めばヒマラヤの秘境を知ることができるだろう。
 2007年のクビ・ツアンポ源流域学術登山隊では和田豊司氏が隊長となって率いた。隊員の千田敦司氏も支部員であった。このイベントがP26~P107まで三分の一強を占める。次は2010年の同志社大学ネパール登山隊、2015年の同志社大学極西ネパール登山隊(仙田裕樹隊長)がP183まで続く。
 以後、国内活動の報告があり、P229のブロッケンの章に2006年ローツェ南壁冬季登山隊(尾上昇総隊長、田辺治隊長)の思い出を千田敦司氏(副隊長)が4ページにわたって綴る。これは東海支部にとっても3回もアタックし続けた壮絶な登山隊だった。こんな難しい登山を遂げても山は非情なもので、田辺治氏は今もダウラギリの雪の下で永遠の眠りについている。千田氏には忘れ得ぬ登攀だったであろう。
 ともあれ、若い人にとって人生は忙しい。あっと言う間に年をとる。体力と技術、信頼の置ける隊員を得て、かつ暇とカネを工面してこのようなイベントに参加して、一書を綴れたら幸運というものである。

恵贈!安藤忠夫著 画文集『絵本 わが山の日々』~山道も下山に入って~2017年01月22日

 1/21の新年会でご当人から恵贈を受けた。著者の安藤忠夫氏は愛知県足助町の産と聞いた。愛知県立高校の教諭の職のかたわら登山を継続してきた。JACの他に日本山書の会の会員であり、東海支部きっての教養人である。現在は仕事から完全にリタイアして信州・安曇野の一角に新居を構えて夫人とともに暮らしている。
 目次を読むと23本の章立てからなり、北アルプスを主に、御嶽、中央アルプス、八ヶ岳の山名が並ぶ。もちろんガイドではなく、随想集である。そのページに自筆の彩色の絵をちりばめた。ゆえに絵本と言うのだろう。
 眺めているとふと気づいた。安藤氏のもっとも好きな奥美濃は一遍もないことだった。しかし、あとがきを読むと、そんな脂ぎった山行記からは脱して来し方を振り返る趣向なのである。そして本書は饅頭本のつもりと別記する。古来希成りを過ぎて73歳という。いよいよお迎えの声を聞いたのだろうか。
 ちょっとは中身にも触れよう。P62の百瀬慎太郎著『山を想へば』から、の項。今も私が読んでいる最中だからつまみ読みしてみた。
 実は東海岳人列伝で取り上げた「伊藤孝一」の友人という立場で第一級の資料として、読んでいる。愛知県図書館を経由して、富山県図書館所蔵の同著を借りている最中である。今は古書が安いのでアマゾンをクリックして購入するが同著は33000円もするので借りた。借りた本も鉛筆書きされた38000円の値付けが読み取れる。山岳書としても名著にして稀覯本の類に入る。こんな本を安藤氏は蔵書に加えているのである。
 槇有恒の序文を読むと、百瀬は隻眼とあった。子供の頃は辛い思いで育ったようだ。旅館業も彼が好きで継承したわけではなかったという。「この自分の職業にむしろ批判的であった彼は、打算に疎くその深い教養によってかえって広く多くの友人との交誼を得たと思う。」と書いた。その通りである。
 中でも名古屋の伊藤孝一、燕小屋の赤沼千尋とは30年にわたる水魚の交わりを得たのである。そして、登山史に残る山岳映画撮影行として針ノ木峠越え、真川から薬師岳積雪期初登頂、上ノ岳から槍ヶ岳初縦走を記録した。遺稿集に伊藤孝一もあとがきの前の追憶蘭に書く地位を得た。「山を語り得た人」である。別格の扱われ方である。
 短歌蘭には50歳の時の回想の一首があった。
 ”此の山の真冬の深雪踏みしだき心しまりし昔思ひいづ”
     (大正12年2月、立山針の木峠越え)

 病中雑吟にも佳吟がある。3人の友情の溢れた一首だ。
 ”友垣の情けうれしも菊の花菜の花などをとりそへたまふ”
 (伊藤孝一夫妻、赤沼君)
 ”北陸の旅の便りもともしかりまして和倉の塩のいで湯は”
 (伊藤孝一氏)
 ”神風の伊勢の入海舟ゆき黒鯛釣ると羨まし黒鯛”
 (名古屋伊藤孝一氏)
 曾遊回顧の中から
 ”知多の海内海の浜にみさけりし鈴鹿の山の姿はおぼろ”

 12月21日夜伊藤孝一氏への手紙書きつつ浮かび出るままに31首の中から
 ”二十年はすでに経ちにし冬山の思い出の文書かむとするも”
 ”若かりし頃のゆたけき思い出を思ひつつ寂しわが五十一”
 ”深雪を蹴立てて来る時じくも芦倉の猛者八人来る”
 ”榾の火にいつくしき面火照らせつ平蔵が酌む茶碗酒かな”
 ”板倉さんの飯盒の蓋が火にとけしとしみじみとして八郎は語る”
 ”平蔵がどっかと雪に腰下し板倉さんは此処ですといふ”
 
 昭和19年 52歳 16首
   伊藤孝一の令閨死去
 ”愁しみを胸につつみて山を下る足下にふと龍胆の花”
  
 以下の歌は師匠が旅と酒と短歌に生涯を送った若山牧水であることを思うと苦笑を禁じ得ない。
 ”酒に生き酒に傷つく我にして忘れがたかる酒の味かも”
 百瀬は昭和24年、58歳で逝った。同い年の伊藤は昭和29年に62歳で逝き、赤沼は83歳の長命を得て、昭和54年に逝った。黎明期の北アルプスを知る生き証人を失った。「山を語り得た」百瀬の死は早過ぎた気がする。
 ”喘ぎつつ登り来たりてわが齢老けしを思ひ心寂しむ”
 50歳代にしてこんなに弱っていたのか。年は違えどだれにもこんな歌境になる時期が来る。

 安藤氏の住居は針ノ木峠にも近い。百瀬慎太郎に想いを寄せつつ、コマクサの花をめでる。そして、蓮華岳とはコマクサの群落に由来するのではないかと夢想する。コマクサの色はなるほどレンゲソウの赤紫の濃い色に似ている。それもあり得る。私は前田普羅の名句”霜強し蓮華とひらく八ヶ岳”のように寒い朝、眺めた山容に蓮華を見たのではないか。神々しさを想像する。新潟からの白馬岳は大蓮華山と呼ばれたごとしである。またそんな話をしに行きたいと思う。