春の雨2025年04月23日

 この所立て続けに訃報を聞いた。山岳会関係者で1人は紀伊半島に住む101歳の長命の人だった。もう1人は名古屋市の住まいの俳人で登山愛好家の人でたぶん85歳くらいだった。春は若い人には出会いの季節だが同時に老人には別れの季節でもある。

相続手続き支援2025年04月21日

 10時から12時前までびっしり相続の手続きに関するヒアリングを行う。当方の直接関与する業務と外注する業務の手配などを決めて行く。網羅的な説明は終えて、すでに依頼主でも終わっている業務もあった。割とシンプルなのでうまく行くだろう。
 終わって、栄の丸善で死後委任契約の事務手続きの本を購入しに行った。もう慣れたはずだが、名古屋国際ホテルがあった跡地はPになって空間がぽっかり空いた。ハナミズキの花が青空によく映える。
 13時から新たな許認可を包括的に編纂した法律書の購入のために持参してもらった。結局購入することにした。ネットでも情報は入るが書籍化されたものでチエックすることにしたい。
 17時からは山岳会の編集会議に出席。どこの団体も会員数減少、収入減少、そしてコスト削減などをしているが追いつかない。挙句会報のデジタル化を主張する会員n声が高まりつつある。
 しかし電子化された書面は見る気力が湧かない。おそらく多くの人がそうだろう。新聞も紙があってこそデジタル版が時に欲しいというだけだ。今後の議論になる。

『聳嶺』の原稿送稿2025年04月17日

 会報用に原稿を3本まとめて送信した。どこの会でも原稿が不足気味というので埋め草に送ることがある。当会でも締切が9月末だが早々と要請があった。

総会&例会2025年04月02日

 今夜は総会である。今後は5月末まで総会ラッシュとなる。そのさきがけとなる。議題の肝は会員の減少対策で再び会員募集を再開することの周知である。2020年以来のコロナ禍でリアルな会合を制限されてきた。その影響が予測しがたいものであった。当時はワクチンの接種が国民的な広がりですぐに終息するだろうとの楽観的な見方があった。それで2022年8月に打った広告が結果的には無駄になった。
 現在でも会員層は高齢者主体になっている。こんな中で山岳会活動をどう描いてゆくのか。

山行予定2025年03月26日

 とりあえずの山行予定は
4月  尾張藩の藩祖・徳川義直の歩いた道である殿様街道を歩いて見るか。名古屋城から義直の廟がある定光寺迄24km。内尾張旭市まではカットし、ほぼ分かっている範囲で車道も含めて歩いて見る。廟が完成するのは3/31というから報道されるだろう。

5月 高賀三山縦走 通常は車道が通じているところまでは車で登って往復と詰まらない山になった。奥美濃林道が山頂付近を巻いていることも興ざめである。それでも公共交通機関を利用するとちょっとは新鮮味がある。テント泊

6月 大川入山周回登山 大抵は治部坂峠から往復する。古いスキー場に下って村営バスで峠に戻るプランである。但し村営バスは平日に限る。前夜発

7月 台高山脈・堂倉山 大台ケ原山もハイキングの山に落ちぶれた今、尾鷲古道を下って堂倉山の原生林を味わうのも良い。小屋泊まり。
 
8月 北アルプス・唐松岳登山 使えるものは使って楽に登りたい。二食付き小屋泊まり。


9月 南アルプス・前茶臼岳 

以上を委員会にアップしたい。

山行委員会会合2025年03月24日

 上前津にある会場へと外へ出ると雨だった。その上に春雷が鳴る。WEBにしたいが1年に1回のことなので地下鉄に歩く。10分前に到着。メンバーはほとんど入れ替わった。若い人が中心である。というかこっちが年を取っただけだ。それでもしつこく登山を続ける。
 会合は規則を確認して、且つ各委員の予定を募ることと要請があった。26名にお声がけしたが9名の辞退があり15名で運営することとなった。それでもすごいことである。会合後は地下鉄駅前の居酒屋で懇親会を開いて散会した。

集会続き2025年03月11日

 早朝傘さして植田駅へ行く。行く先は伏見駅の名古屋観光ホテル。午前8時からのクラブ愛知の朝食会に出席し、毎回ゲストを呼んでスピーチをたまわる。今朝は豊田市の中学校教師から経営コンサルタントに転身して活躍中の松井直人氏だ。映像を出しながらものすごい熱血漢で精力的な教師像を見せてもらった。出身は日体大なので体育会系の厳しい指導だったと思われます。豊田市立末野原中学校に勤務。当時は中学校も荒れていたらしい。
 個人的には不登校の生徒を集めた新城市の黄柳野高校の事は知っていた。ここには沢登りで有名な成瀬陽一氏がいる。生徒に沢登りを教えて気力体力を養うのだろう。ヤマケイ文庫「 新編増補 俺は沢ヤだ」の本もある。講演も拝聴した。
 登山の分野でも学級崩壊で精神を病んで中学校の教頭のままで中途退職。いたわりつつ好きなだけ登山を楽しみ本も書いたが病魔に勝てず死去した先生がいた。よほどのことだろう。
 松井氏は教師から転じて、アイリス・ジャパニーズランゲージスクール(小牧市)という会社を立ち上げた。日本で働きたい外国人の教育指導が仕事である。その中で育った中国人女性で行政書士の張瑞華さん(北京理工大学、中山大学、北海道大学)も同席された。
「伴走力」という本も出版された。じっくり読ませてもらおう。
 美浜ヨットスクールは死人が出て事件になったが成瀬さんも松井さんも成功した。子供たちは立派に生きる道を体得したのだ。体育会系のいわゆるスパルタ教育は生身で生徒らと向き合うから真剣味がある。愛知県の高校の管理教育とは真逆の考え方だと思った。
 夜は山岳会の支部報編集会議で上前津に行く。17時ジャスト。もう会議が始まっていた。基本的には編集の仕方、技術的な議論に終始。原稿不足は追加で穴埋めすることにした。

じねんじょ列車に乗る2025年03月06日

 山岳会の友人Wさんが明知鉄道企画の「じねんじょ列車」に乗ろうという話を持ち掛けて来た。明知鉄道は一度くらいは乗ったのか一部か記憶がない。モノは試しに計画に乗った。
 3/5の例会後にWさんの車に便乗して中津川市のビジネスホテルに一泊。朝早くは午前中は余裕があるので木曽川右岸の飯地高原の秋葉山にハイキングの予定でいた。朝食バイキングを食べた後出発。登山口に着いたがナビが下山口にガイド。おかしいと正規の登山口に着いたが時間的に遅いので止めた。ところがメンバーのSさんが行くと言いだして一人すたすたと登って行った。約30分くらいなのでそのうち戻るだろうと待機。
ぶつぶつ言いながら下って来た。今日は雲が厚いので展望はなかっただろう。結局計画通り登ったのはSさんだけだった。
 その後恵那駅に行ってPに駐車。明知鉄道の恵那駅に行くと時間が迫るにつれて予約客が続々集まって来た。中には着物姿のグループもいた。一列車27名、三両編成と聞いたので60名くらいは乗ったのであろう。
 我々は先頭車両に座った。机には折箱が並んでいた。ゆっくり動き出すと麦ごはんにじねんじょを掛けてくれる。お茶のサービスもある。地元の食材の寒天なども使った料理屋の仕出し弁当プラスじねんじょであった。
 東濃の約浜井場の標高350mから飯沼駅の標高450mまでで約100mもの登る。ゆっくり50分かけて明智駅に着いた。HPには「岐阜県恵那市大井町(中央線恵那駅)を起点に、日本大正村で有名になった恵那市明智町に至る東美濃地方の高原地帯を縫って南下する全長25.1kmの路線」とある。通常運行は始発から終点まで各駅停車で約50分かかるが12:25発の急行仕立てはビュッフェ形式なので駅を4ヶ所パスして54分で運行している。
 料理は運賃含みの5000円と高め。味は美味しかったが、昨夜は夜食の牛丼で食いながら深夜まで雑談していた。朝も6時に起こされてバイキングの朝食を楽しんでしまったのであまり食欲はなかった。それでも残すわけにはいかないので完食した。
 下車後は自由時間になり、初めて大正村を歩き、歴史を楽しんだ。明治村のような囲い込んだ博物館と違って、一般人が生活する場も含めて歴史を振り返る拠点を設けてある。私の実家を髣髴させる古い家屋もあった。春寒し大正は遠くなりにけり、である。
 大正ロマン館では懐かしい名前を二つ見た。一つは大正村創設の提案者の写真家・澤田正春と尾上 隆治((おのえ たかはる、1914年11月14日 - 2005年1月5日)は、株式会社尾上機械の3代目経営者。また様々なコレクターとしても有名である。)元日本山岳会会長の尾上昇の父である。
 駅前の土産物店で熱いコーヒーを飲んでまた列車で恵那駅へ。PからはR19、県道33、R363と走って瀬戸市経由で帰名。

例会2025年03月05日

 今夜は街の山岳会の定例会。共済保険の保険料6360円を支払う。年度末のこの時期は退会者も出て来る。また新人募集をしなくてはならん。