定例会のリアル2021年02月24日

 久々に山岳会の定例会に出席。ズームで出席も数名いるので人数は少なかったが、リアルな会合はやっぱりいいですね。今夜は古手の会員から伝統行事の継続と意義を見直しの疑義が飛び出て少し長引いた。
 伝統だからと言って毎年反省もなしに続けて良いのか。現場の会員らは意義を感じておらず、やらされ感があるというのである。趣味の会でそれは無いよ、という強い主張で緊迫した雰囲気になった。
 ボトムアップならば良いが、トップダウンは承服しがたいのである。確かにそうだ。再審議ということになった。
 もう一つは遭難事故の顛末である。昨年6月の事故当事者がまだ立ち直っていないという。4日間山中を彷徨うという事故で滝から転落し、下山できなくなった。その人は登山届を出しておらず、どこの山へ登ったのか誰も知らない。家族が本人のPCの履歴から推測で分かった。登山口へ行ったら車があった。そこから警察と山岳会の捜索が始まった。
 幸いに発見されて九死に一生を得た。しかし高齢で山岳会幹部の若い指導者に従わない。自分の方が偉くて山岳会は自分を救済する義務があると勘違いしているのだろう。プライドの高いのはまあ人間社会では通用するが自然では通用しない。つける薬が無い。今後は登山届が無いのは救助しないことにしよう、という話になった。腹立たしい話である。

山岳古道⑨北畠が陸奥へと赴任した東山道2021年02月22日

 『神皇正統記』の著者の北畠親房の足跡を追う。

https://1000ya.isis.ne.jp/0815.html
「 北畠親房が『神皇正統記』を書いたのは、常陸の筑波山麓にたつ小田城の板の間でのことだった。同じころ吉田兼好が『徒然草』を書いていた。二人の執筆の姿勢はまことに対極的で、親房は日の本を背負い、兼好は草の庵を背負っていた。14世紀になってしばらくのこと、内乱の時代の只中である。」

「 こうした親房が『神皇正統記』をなぜ陣中で急いで書いたのかというと、これは東国武士に南朝への参加を説得するための分厚い政治パンフレットだったのだ。かつては後村上天皇のために書いたとされていたのだが、いまでは関東の“童蒙”(かんぜない君主)、すなわち結城親朝の説得のために書いたというのが定説になっている。
 けれどもその効果は出ずに、説得工作は失敗をする。しかもその直後に後醍醐の崩御を聞いた。親房は傷心のまま吉野まで帰ってくることになる。まだ十代の後村上天皇はさすがに親房の労をねぎらい、准大臣として迎えるのだが、親房は静かに黙考して、動かない人になっていた。つまり『神皇正統記』は後醍醐存命中にこそ流布されるべきレジティマシーのための一書パンフレットだったのである。」

「浪岡氏(なみおかし)または浪岡北畠氏(なみおかきたばたけし)は、村上源氏の一族北畠家の流れを汲む陸奥の国司の一族とされる。

「後醍醐天皇の命により国司として奥州を支配した北畠顕家の時代には、2度までも足利尊氏を危機に追い込むほど強勢を誇ったものの、顕家が2度目の上洛戦で戦死し、勢力を引き継いだ弟の顕信も、傘下の武士の離反や幕府より奥州に派遣された吉良氏や斯波氏のために勢力を衰退させていったという。顕信の後半生ですら不詳であり、それ以後の歴代当主の事跡は、戦国期に登場した具永(後述)以前のものは判然としてはいない。

当初は南朝ゆかりの南部氏に保護されて、稗貫から閉伊船越にいたようであるが、やがて三戸南部氏が北朝方についたため、根城南部氏の庇護のもと、浪岡に入部した[2]ものと推測されている。[3]

現在の地に15世紀後半に浪岡城が築城されたとみる説[4]が多い。北畠氏は浪岡を拠点としたことから「浪岡御所」と呼ばれて、浪岡の位置する津軽田舎郡から外浜・西浜にかけて勢力を維持することとなった。」

 北畠氏は14世紀に日本史に登場する。三重県で一代勢力を拡大した時期もあったが、親房は長男とともに奥州統括のために多賀城へ赴任する。その時の通路は東山道であっただろう。京都から神坂峠を越えて陸奥までほぼ東日本を縦断する幹線であった。
 不思議なのは青森県の北畠氏の存在である。浪岡氏が復姓したのだろうか。どうやって調べるのか見当がつかない。
 それでも青森に北畠八穂が生まれたことは確かであり、錯綜した歴史の中で流れ流れて青森に定着したのである。

山岳古道⑧松浦武四郎が歩いた大台への道2021年02月21日

 晩年の松浦武四郎が歩いた道がある。大台ケ原と尾鷲を結ぶ古道である。この道を何度も往復している。ここ以外にも奈良県側からも入山している。古くから人が入っていたのである。

「小屋番の山日記」から
初冬の尾鷲道を歩き、マブシ嶺に登る
http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/12/11/8746470

 身支度を整えて出発したのは7時56分。地蔵峠までは林道歩きである。軍手をはめても非常に寒い。峠からは山道に入るが、橡山に続く尾根を切通しされたために古い峠の趣はない。非常階段のような急登を強いられる。地元の篤志家らで転落防止のロープも張られている。尾根に届くと稜線歩きとなり山道も安定する。
 木立は落葉して見通しが良い。最初の道標は古和谷分岐である。ここからが古来からの尾鷲道である。下山路として今も歩けるのかどうかは不明だ。先へ進む。数分で又口辻だ。ここから山腹の水平道に入る。ふかふかの落葉の山道を歩く。北面には雪が積もっている。温暖なイメージの南紀の山にも寒波が来た。山腹の道、特に沢をまたぐ所は壊れやすく注意を要した。やがて新木組峠に着いた。ここは極端に寒かった。雪をかぶった大峰山脈が見渡せる。寒いはずである。峠の風下側に下ると若干寒さが和らぐ。少し食べたり飲んだりして休む。
 寒風に曝されながら落葉樹の冬木立の尾根を歩く。いかにも冬の山旅である。そうして木組峠に着いた。峠から破線路があるが尾鷲道は少し下る。先程ははげ山を越えたが山腹の尾鷲道は消失してしまったようだ。テープに導かれて山腹まで下ると再び道形を見出して歩いた。
 山腹を巻き終えると一本木の杭を見だした。あとは山頂までひと踏ん張りである。
 標高1216mの緩斜面に展開する雑木林は今は疎林となって平らかな別天地である。夏ならば緑濃き動物の楽園であろうか。
 山頂直下の疎林の中を歩く。北西からの寒風のせいか樹木はなべて矮小化している。余りの寒気に毛糸の手袋を出そう、雨合羽をはおろうと考えるうちに11時30分に三角点1411.0mに着いた。マブシ嶺である。
 紀勢線に名古屋から夜行列車がある頃から尾鷲道を歩いて見たかった。今回は三分の一くらいを歩いたことになった。大台ケ原山は高くはないが深い山域である。ヒマと交通の面で中々実行できなかった。伊勢道も久居ICまでしかなかった。R42を延々走ったものだ。名古屋から約230kmはあった。高速なら橋とトンネルでつないで180kmに短縮できる。
 大台の開拓を試みた松浦武四郎も奈良県側から入山し、下山は尾鷲道を下った。大杉谷を初遡行した大北聴彦と大西源一も下った歴史の道であった。

 以前はコブシ嶺(*1)と覚えていたが、このほど発刊の『分県登山ガイド 三重県の山』によれば松浦武四郎の紀行にマブシ嶺とあるのでそれに従ったという。私も松浦武四郎全集の中の絵図で確認した。どちらも由来までは言及はない。
 休憩の後、最高点まで行って12時30分に下山した。往きとは違い、寒気も和らぎ、陽光を一杯浴びて少し暑さも覚える日だまり山行の雰囲気になった。往路をそのまま戻り、15時10分ゲートに着いた。
 帰路はニホンジカ3頭に出会った。昨夜はタヌキ2匹を見た。けものが多い山域である。

*1コブシ嶺=この山だけを目指す登山ガイドは前掲の本が初めてだろう。過去のガイドブックを調べた。手持ちの書籍では
 ①昭和54(1979)年刊行の仲西政一郎編『近畿の山』(山と渓谷社)の大台の山と谷の地図に掲載。北の鞍部は雷峠になっている。点名は雷峠1である。雷峠から東の川へ本谷沿いに破線路が示されている。木組峠も木組谷をからむ山腹に破線路があり廃村木組がある。
 ②平成10(1998)年の小島誠孝『台高の山と谷』には尾鷲道が独立して章建てされている。ここでもコブシ嶺と書かれている。取材当時は伐採跡だったらしい。木組峠から古和谷へは猛烈なブッシュだったという。 
 ③『台高の沢』の見ひらき地図にもコブシ嶺とあったから関西岳人はコブシ嶺を踏襲しているのだろう。
 三重県の岳人らが調査して出来た書籍には
 ④平成21年(2008)年の津・ラ・ネージュ山岳会選『三重の百山』もコブシ嶺になっている上に大台ヶ原からの往復コースになっている。この当時は写真を見ると木立に囲まれて展望はないとある。今とはえらい違いである。以南は廃道化しつつあると案内してある。
 ⑤平成25(2013)年の伊勢山の会『宮川源流53山』には、大台ケ原からの往復ルートで紹介。まぶし嶺とある。この本では「展望360度の絶景の山である」と書いてある。写真にも高い樹木はない。
 
 コブシ嶺とマブシ嶺は2008年ころから変化したらしい。ネットの検索では以下が詳細である。最近ではマブシ嶺(コブシ嶺)と書いてあったりする。南から1411mのマブシ嶺に突き上げる光谷からか光山ともされる。(但し今の道標では1184mの山に当てられる。)

山岳古道⑦菅江真澄が歩いた道2021年02月20日

 みちのく・えぞのロングトレイルの創始者かと思う。
 単に物見遊山ではなく、知的な発見を求めての旅だからオデッセイだった。成果は『菅江真澄遊覧記』にまとめられている。

 『菅江真澄遊覧記』1の書き出しは「この日本国内のすべて古い神社を拝みめぐって、幣を奉りたい、」と旅に出て行った。信州にはかつて姥捨て山にも登ったことがあり、飯田の街に住む当時の友人からのお誘いもあったらしい。
 風越の山は名のみそ治まれる御代の春とて花の静けさ
を詠んでいる。

 真澄の脳裏には何があったのか。愛知県の豊橋市に白井英二後に秀雄の名前で生まれた。白井姓はたしかに東三河には少なくない。30歳で両親に別れを告げてあるかみちのくへと旅立ったのである。名古屋では本草学、国学を学んだという。
 その中に旅のヒントがあったのだろう。弥生文化の西端だった名古屋から豊橋地域から東は山岳を越えねばならなかった。伊那街道は山越えが続くので足助に回り込んで塩の道を歩き、愛知長野県境の杣路峠を越えた。いわゆる飯田街道である。それから治部坂峠を越えるともう難所はない。昼神から飯田へ。飯田の風越山のふもとの白山神社に詣でた。そこで道々採集していた薬草を小児科医に売って路銀を作っている。
 ここはもう東日本の縄文文化圏である。そこから北上しうとう(善知鳥)峠890mを越えて塩尻の洗馬へ。塩尻ではもてなしを受けたという。
 「信毎おでかけ」によると
「 塩尻市の本洗馬歴史の里資料館で7日、江戸時代の文人で紀行家の菅江真澄(すがえますみ)(1754〜1829年)の没後190年記念展「菅江真澄旅の始まり」が始まった=写真。県内に残る菅江の直筆作品全14点を初めて展示。地域の行事など菅江の絵画作品もあり、当時の暮らしぶりが分かる。

 菅江は1783(天明3)年から1年余、同館隣の県史跡「釜井庵(かまいあん)」を拠点に県内各地を訪ね歩いた。今回、県内で菅江の直筆作品を所蔵している個人らから借りた。

 須々岐水(すすきがわ)神社(松本市里山辺)所蔵の和歌の掛け軸「ぬさとれば」は初めて一般公開した作品で、菅江が同神社を訪れた際に詠んだ歌だ。菅江が県内滞在中に読んだ和歌133首をまとめた歌集「雄甫詠草(ゆうほえいそう)」などもあり、学芸員の中原文彦さん(67)は「これだけの直筆作品が一堂に並ぶ機会は貴重」と話す。

 菅江は短歌だけでなく、絵図も残している。拠点としていた洗馬の七夕や県内各地の風景など当時の様子も紹介している。」

 真澄は道中のスケッチや短歌を詠んだという。それらを一宿一飯のお礼に置いていったのだろう。松浦武四郎も篆刻の技があり、泊めてもらったお礼に置いていったらしい。泊める側の宿主は西日本の珍しい話をせびったのだろう、さあさ、もう一献などとやりながら情報交換したと思われる。
 宿主に残した絵は後々に研究家がまとめて『真澄遊覧記』と書籍化された。
本洗馬歴史の里資料館からのお知らせ
https://www.city.shiojiri.lg.jp/tanoshimu/hakubutukan/motosebarekisinosato/oshirase.html

菅江真澄『すわの海』から「御頭祭」 21.9.18
https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sinji/suwaumi.htm

菅江真澄が見た天明4年の上社本宮 21.10.18
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/zatugaku/sugae.htm

名酒 真澄の由来は
「地元諏訪の諏訪大社の宝物「真澄の鏡」から由来
創業は1662年(350年超え)でとても由緒ある酒蔵さんなのです!
どうやらもともとは武家で、戦国時代に一度地元を追われて50年ほど静岡で過ごすことになったが、ようやく戻ってこれた時に刀を捨てて酒屋になったとのこと。」

 東洋文庫『菅江真澄遊覧記』1の年表を読むと、
1782年 29歳 5月 木曽路を歩く。三河から駿河ま、また京都へ行ってくる。

1783年 30歳
1月    伊勢神宮参宮
2月末  故郷三河(岡崎市)を出発
3月    信濃下伊那郡に入る(伊那の中路)
付録の旅の軌跡を見ると風越山に登った
5月24日 東筑摩郡洗馬村に至る
8月15日 姥捨山に登る(わがこころ)
11月末  亡母の三回忌を行う(手向け草)

1784年 31歳
1月    信濃諏訪地方を往復す(諏訪の海)(庵の春秋)
6月    越後を経て奥羽へ出発(くめじの橋)
9月    出羽へ入国す
10月   雄勝郡柳田(秋田県湯沢市)に至る(秋田のかりね)
・・・5月から翌年6月まで信濃に居た事になる。

名前の変遷
1754年  白井英二 青年になってから秀雄
1783年~1800年 津軽に居るころまで白井秀雄を名乗る
1801年  8月 弘前から西津軽郡鰺ヶ沢にくる 白井真澄になる
1808年  秋田県能代にて菅(すが)水斉を名乗る
1810年  以後、菅江真澄を名乗る

以下省略

・・・私は諏訪大社を参拝してから真澄を名乗ったかと思ったがずっと後だった。さらに菅江を名乗る前に菅を名乗ったという。
 脱線するが「略。 愛媛県・山形県・秋田県などに多く、読み方は愛媛では96%以上、山形では90%以上が「かん」で、秋田では99%以上が「すが」である。 ... 「菅」姓の人数は約4万人で全国順位は500位前後であるが、愛媛県今治市では7位、秋田県湯沢市では6位、山形県最上町では最も多い名字となっている。」(ウィキペディア)
 ちなみに菅(すが)義偉は秋田県、菅(かん)直人元総理は山口県である。

山岳古道⑥五平餅の来た道2021年02月19日

 五平餅の発祥の地はどこなのか。愛知県、岐阜県の地理分布から推測すると塩の道の宿場には大抵ある。
 五平餅の原材料や普及するための諸条件
1 杉の板を製材する技術・・・尾張藩が木材を生産していた木曽谷の木曽五木はヒノキ・サワラ・アスナロ・コウヤマキ・ネズコの5つの樹木。なので杉は入っていない。JR坂下駅付近までは五平餅はあるが、その奥は余り気にも留めない。
 疑問点は木曽の奥までは普及しなかったのか?

2 木炭を生産する里山に近い・・・東濃一帯は窯業が盛んで700年の昔から陶器をやくために木炭が大量に消費された。加えて煮炊きにも使われた。そのため、戦後の東濃の山々ははげ山だらけだった。
 この前に登った恵那市と瑞浪市の田代山、屏風山は中心こそ桧の植林だが桧ではないところは松の大木が多かった。昔は里山として薪炭林を伐り出していたが、戦後ははげ山になり、地味が痩せた。急いで松を植えたのだろう。そして失業対策事業として桧の植林が行われたらしい。杉は建築材として貴重であるが端材もでるから再利用になったと考えられる。
 ちなみに恵那駅前のあまから本店は昭和31(1956)年の開業というから戦後が飢えと混乱から一段落した時期である。石油産業の歴史には「1950年代半ばごろから始まる石炭から石油へのエネルギー革命は、諸外国にもまして日本で著しく進展し、日本は、石油時代へ急速に進んでいった。」とある。トヨペットクラウンは国産乗用車第一号の発売が始まった。マナスルに初登頂した。など復興著しい日本の姿が見える。
 経済的にもピンチを脱した日本国民は挙って娯楽やおやつなどを求め始めた時代である。ロッテのガムも昭和32(1957)年の発売だ。五平餅は山村のおやつとして作られた可能性がある。
 エネルギー革命で製炭は急速に衰退した。名古屋市の古い写真でも煙が上がっていたが、電化が進み、ガス、石油が進んでいったであろう。そんな折安くなった木炭を使って五平餅をビジネスとして売り出す知恵者が居たに違いない。

3 米のとれる地域は水利が良い・・・お米をおやつに回すには安くないとできない。そんなに山奥でもない美濃の木曽川沿岸地域なら水利も良く自家米で対応できたであろう。いわゆる中馬街道周辺の県道を走っていると見事な田園風景が広がる。

4 味噌または醤油を生産する醸造の技術=塩は絶対いる・・・中馬街道は塩を運んだ道である。今のR153とR363、R257、R155である。

「その昔、中馬街道は三河湾でつくられた塩を山間部へ運ぶための「塩の道」でした。 矢作川を川舟で上り、古鼠(ふっそ=現豊田市)で荷揚げされた塩は、足助の塩問屋で荷直しされ、信州方面へ中馬によって運ばれていました。中馬とは、江戸時代の中ごろ、信州でつくられた馬の背で荷物を運ぶ人々の組合のことです。

 現在、中馬街道は国道153号となり、地域の骨格をなす幹線道路として、生活、産業、観光を支える役割を担っています。この国道153号の豊田市中心市街地から長野県の県境までのエリアが、風景街道として登録された「塩の道・中馬街道」です。」

「三州街道、伊那街道とも呼ばれる。三河方面からは塩や海産物、信州方面からはタバコや串柿などが運ばれた。中山道の脇街道として賑わい、農民が数頭の馬を連れて荷を運ぶ中馬が盛んに行われた。」

岐阜県の「国道363号に沿って残る「中馬街道曽木地内」は馬頭観音をはじめいくつもの石仏や道祖神に見守られた、江戸時代初期の商業道路です。中馬の名称は、江戸時代前期に信州伊那谷の農民が農閑期に自分の馬や牛で荷物を運ぶ賃稼ぎを行っていたことに由来します。現在は国道363号沿いの整備が進み当時の面影を残す箇所は少なくなってきています。」

5 店を構えてお客が取り込むには宿場=市場(マーケット)が絶対いる・・・中馬街道の宿場とは現在の運送会社のトラックターミナルみたいなイメージである。名古屋から馬で荷を運び自宅に戻れる距離で他の馬に荷を移し替えた。馬宿に泊まる人もいただろう。するとそこは宿場町になる。人、モノ、カネが集まる。一日中歩き通すから空腹も満たす。小昼なら五平餅程度でも間に合う。そんなマーケットがあったのであろう。

 五平餅はそんなに山奥でもなく、コメもとれる山里であり、里山で杉が豊富に生産されて、端材も出る。炭も焼かれる。塩の道なので必然的に醸造が盛んになり、土地土地の味噌、醤油が生産される。各地域でも老舗が多い。
 恵那や中津川に集中的に多いのは中山道への往来が多かったからといえる。権兵衛街道も木曽街道の発展でコメ、味噌、酒などを運ぶために開削された。

「江戸の人口が50万人に達し、味噌の需要に対する生産量がまかないきれなくなりました。そこで、三河や仙台からどんどん味噌が江戸に送られ味噌屋は大繁盛しました。また、江戸の人口は女性よりも男性が多く外食が発展し、味噌を使った料理も同時に発達していきました。」

 中津川市付知、恵那市明智の味噌醤油の会社は皆明治時代の創業で100年以上の歴史がある。生活必需品故に企業生命も永らえている。

 恵那山の伏流水が東濃を沃野にしたのであろう。塩の道が東西文化の交流の中で、五平餅生まれ、普及していったのではないか。

山岳古道⑤生活の道だった熊野古道(馬越峠と八鬼山越)2021年02月18日

東紀州の八鬼山と高峰山
http://koyaban.asablo.jp/blog/2009/01/25/4080883

林道の交差地点から急坂になり、いよいよ山に登る感じがしてきた。石畳の道は相変わらずであるが階段状になり、一歩が歩きやすく感じるのは登山のための道と違って昔の生活道路であるからだ。三角点のような「曲点」の標石が埋まるカーブも丸くて柔らかい曲がり方ができる。恐らくは紀州藩の役人の言いつけで村総出で道普請に借り出されたであろう。雨の多い地域だけに流出しないように重い石を敷き詰めたのである。その苦難たるや後の世の人間には想像もできない。
 降りてきた人は2名か3名、追い抜いていった人も1名程度で閑散としている。それはこの八鬼山越えが熊野古道で一番の難所だったからだ。坦々と単調になりがちな古道歩きである。喘いで登りつめた峠で昼食をとるために一休みした。峠の向うに湾が見下ろせた。古い時代の山旅人も同じ感懐を持ったであろう。峠は風の通り道なので風に乗って再び小雪が舞って来た。
 八鬼山へは峠を右へ更に登った。やがて荒神堂に着いた。古い建物が二棟道を挟んで建つ。そこをやり過ごすとまた広い石畳の道となって登る。平坦な稜線を歩くと三叉路に着いた。ここが八鬼山越えの頂点だった。ここも非常に寒い。小広い平地に海を見下ろす東屋が建つ。熊野灘を見下ろせた。  
 寒いせいか先を急ぎたい気分もあって山頂への道も不明なのでそのまま道を辿った。又戻って桜の森へ340mの案内にしたがって行った。平坦な道の左奥が八鬼山の山頂らしいが三角点もないのでパスして下る。だらだら歩いていくと左に椿園がある。二股に分かれるので左を行くと熊野灘に面して東屋の建つ桜の森園地であった。芝生のややラウンドした園地は広々してどこでも腰を下ろせる。東屋に立つと熊野灘が180度に展開した。素晴らしい景色に感嘆した。
 桜の森を見て周ると江戸道と称する案内があった。先ほどの左への道は江戸道だったのだ。改めてガイドブックを見ると三叉路の先は明治道であり、ここだけは道の付け替えが行われたようだ。江戸道を下ると急坂に次ぐ急坂で険しいことが分かった。明治道はそれを改良したのだろう。概ね照葉樹林の中の道はいかにも紀州の山に居る感じがする。
 十五郎茶屋跡があり、海が見下ろせた。しかし、まだ標高は400mもある。急坂を下りに下った。やや広い明治道と合流した。江戸道は登山道に近い付け方であった。どんどん下ると登山口に着いた。子犬が我々を迎えるように吠えた。猟師が一人留守番をしていた。世間話をして別れた。
 殆ど平坦になった古道はやがて人家の間を抜けて車道に合流した。ここにも世界遺産に反対する地権者の看板が立っていた。キチンとした文章で意味のよく通る意思表示であると思った。車道をJR三木里駅まで歩く。15時30分着。ようやく思いがけなく長かった古道歩きも終った。

東紀州・熊野古道から天狗倉山を歩く
http://koyaban.asablo.jp/blog/2014/06/03/7334427
前方を見るとほぼ直線に石畳の道が伸びていく。デザイン的にも洗練された美しい道である。せせらぎを2箇所渡る。タオルを濡らして涼をとる。更に行くと右前方が皆伐された斜面が見えた。そして思いがけず林道が横切っている。眺めはいいのだが古道の雰囲気は台無しである。すぐ先が馬越峠であった。茶屋のあとは植林してある。一角から尾鷲市街を見下ろせた。
 一休みの後、天狗倉山に向かった。やや急な山道をよじ登ってゆくと道は二股に分かれている。今回は右にとった。山頂の大きな岩を巻くとすぐに鉄梯子が見えた。岩に登って休止。風も無くかなり暑い。降りてもう一つの岩に移ると風に当って涼しかった。尾鷲湾がよく見える。遠望はガスがあってすっきりしない。
 下山する。高齢の地元ハイカーと行きかう。何度登っても楽にはならんと言った。そりゃそうだ。峠に戻り、尾鷲市側に下った。こちら側は傾斜がきつい。ドンドン下ってゆく。多くの散歩の人と行きかう。こんな山のふもとに住む市民は幸せである。
 尾鷲に来るたびに訪れる喫茶「山帰来」に寄った。オーナーの川端守氏は登山のために不在だったが奥様が、開店10時のところ、30分早めに開けていただいた。冷たいコーヒーを注文。2年から3年に1回は来ているので見覚えはあるようだ。山の話題でもちきりになった。特に熊野古道に関して『熊野古道 古辺路紀行』を著されたこと、熊野古道センター長に就任されたこと、世界遺産登録10周年の今年はイベントも多くご多忙の様子だった。

山岳古道④水戸の天狗党が越えた官道2021年02月17日

  蠅帽子峠までは行ける。ブナの疎林が素晴らしい尾根歩きである。但し登山道は整備されておらず、多少は藪っぽいところがある。登山口も3m程度の渡渉を強いられるから簡単ではない。
 
過去の記録「晩秋の蠅帽子嶺に登る」から

http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/11/

 水戸天狗党の武田耕雲斎ら800名は150年前の12月初旬にこの山路を乗り越して、越前国に入り、山伝いの村落をつなぎながら、敦賀市まで苦難の旅を続けた。
 800人というから先頭から最後尾まで1人分1m超の間隔とすると、ほぼ1kmの隊列になっただろう。馬もいたし、大砲も分解して運んだという。徒労といえば徒労の旅だった。
 苦労も空しく京都の徳川慶喜には会えず、越前藩は優遇してくれたが徳川幕府方に渡ると鯡倉に押し込められてその後は斬首にされた日本刑法史上最悪の結果になった。日本の夜明け前の暗さを反映したような事件だった。

山岳古道③秋葉街道ー小川路峠を越えたアルピニスト2021年02月15日

松濤明の遺稿集『風雪のビバーク』の中の春の遠山入りの中にこの秋葉街道の紀行が名文で紹介される。深田久弥も南アルプスからの帰りに下っている。木地師の墓がある。三十三体の観音様の石仏がある。
 遠山側の歩道は踏査していないのでこの機会に歩きたい。遠山谷の民宿に泊まったら、かつての馬宿だった。庭には名古屋コーチンが飼ってあった。文化は関東圏、経済は名古屋圏らしい。飯田線が開通するとあっという間に寂れた。
 北には中央道から分岐した三遠南信道路が開通を待つ。今は秋葉街道の入り口付近が工事中で、先に矢筈峠の下にトンネルが開通させている。矢筈峠は深田久弥が遠山谷へ入る際に越えた。

山岳古道②権兵衛峠-伊那のコメを木曽へ運んだ道2021年02月14日

 HP「みはらしファーム」から
http://www.dia.janis.or.jp/~miharasi/miharashifarm/shoukai/toge/index.html

 昔々、伊那と木曽との間にわずかに人だけが通う険しい峠道がありました。
 ある者は転倒し、鍋を欠いたことから「鍋懸峠」と呼ばれました。
 この峠を馬の通える峠に整備し、米不足の木曽へ伊那の米を運ぼうと、木曽町日義神谷の牛方、古畑権兵衛は木曽11宿にこの峠の開発を呼び掛け、自らも進んで工事を進めました。伊那側では木曽の助郷人馬役(中山道経営のための労働提供)の割り当てを恐れ、初めは開発に消極的でしたが、ついには伊那側15ヶ村の協力により元禄9年(1696)に完成したのです。
 以後、伊那からは大量の米が、木曽からは漆器などが運ばれました。以来この峠はいつしか「権兵衛峠」、峠への道は「米の道」と呼ばれるようになったのです。

小屋番の山日記「秋冷の権兵衛峠 」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2014/10/05/7450584

山岳古道①覚明行者の開拓した登拝道ー木曽越峠から白巣峠2021年02月10日

 山岳古道についての打ち合わせ会を持った。会として五か所をアップすることになるが、その組織づくりを始める。切り口をどうするか。これが古道だと取り上げても賛意が得られるか、興味を持たれるかが疑問である。そこであらまし歴史的な人物、食い物文化、古墳、信仰などのカテゴリーを考えてみる。
1 御嶽山の黒沢口の登拝道は春日井の覚明行者という。
「御嶽山を一般の人が登拝できるようにした覚明行者の誕生地ということで、春日井では江戸末期から明治時代にかけて、誕生講を中心に大部分の市域で御嶽講が結成され、下街道は御嶽参りの人々でにぎわった。そして、多くの先達が輩出し、市内各所に霊神碑が林立するお山が分布している。
現存する講を御嶽信仰の上部団体との関係でみると、御嶽教はなく、神道大教4、木曾御嶽本教3、地元完結型3である。(註6)」

「中央線が明治33年(1900)年多治見まで、同35年中津川まで、同43年木曾福島、翌年塩尻まで全通している。鉄道が開通するごとにその終点から御嶽をめざし、下街道から御嶽詣の人たちの姿は消えていった。
中津川まで開通してからは、付知―白巣峠―王滝村から頂上をめざすルートもにぎわい、付知には宿屋が5軒ほどあったという。(註2)」

http://s-i-n-o.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-d1a749.html

「木曽越峠の名は、木曽義仲が越えたという伝承によるが、加子母から木曽越峠、信州王滝村に抜ける道は、江戸時代の寛政年間(1789-1801)に御嶽登山道として、御嶽行者の覚明によって開かれた。余談ながら、覚明は愛知県春日井市牛山町の出生で、名鉄小牧線間内駅前に覚明霊神の像があるので親しみがある。加子母村から木曽越峠を越えて渡合へ、さらに白巣峠を越えて滝越経由で、王滝へと至るルートだ。嘉永2年(1849)には、この御嶽登山道が荒れてきたため、加子母村と王滝村の人が中心になって、補修の寄付を募っている。文久2年(1863)には、加子母と付知の人が発起人になり、道に迷って命を失った人の菩提を弔い、道案内として登山者を守るため、加子母村を基点に王滝村まで33体の石仏の観音像が安置された。」