若狭・庄部谷山を歩く③2020年12月01日

 地元の人は軽トラで山仕事でここまで上がっていた。この方も山や自然が好きで岩魚釣りや山菜取りに入るという。ブナが素晴らしいと言ったらこの方も同意された。仕事と趣味が一致しているのだ。
 それにしても堰堤が多いですね、と黒谷山の東の谷にある砂防堰堤の話をした。
 そこを切り口にブナ林は山の生活史的には、昔は薪炭林だったことでしょう。若木の内に クヌギ、コナラ、ヤマザクラ、エノキなどの伐採を繰り返し、山の地味が痩せるから松を植えたことでしょう。
 炭焼きの山から松山になった。松茸は人間が繰り返し干渉し、地味が痩せた松の木から生える茸である。
 松を切り出した丸太を榑松という。人名にもあるし、鈴鹿山系の竜ヶ岳の南にも石榑峠、霊仙山の登山口の廃村・榑ヶ畑と結構見る地名である。
 その炭、薪、松も戦後の石油の輸入で炊飯、煮炊きの燃料に使わなくなり、炭焼きや薪の切り出しの用が無くなるとくぬぎ類は急成長した。松山は荒れた。慌てて杉や桧を植林したが育ちが悪い。猿投山周辺には多く見られる。山が荒れると大雨で土砂の流出が続き、山崩れで浸食された。土石流は谷川の川底の水位を上げる。もはや沖積平野にはなりえないから砂防堰堤で土砂を貯めることになった。
 それが徹底すると例えば天ノ橋立も砂洲への砂の供給が止まり切れるという事態になる。鳥取砂丘もかつて古代から続いた中国山地のかんな流しで砂鉄を採ったり、和鉄を生産するための大量の炭焼きの原料として伐採された結果、山が荒れたのである。いつしか砂の供給不足で砂丘が減ってゆくのではないか。
 山の人曰く、今のブナ林は山の保水力となって守っているんだな、と理解を示された。そのブナを切って、風力発電の基地にしたらどうなるか。山の人曰はく、北陸は冬春でも雷が鳴り、落ちることがある。と懸念を示された。その上に保水力は減衰する。
 横谷川の下流の新庄は間違いなく、土石流の犠牲になる。山は堰堤だらけになるだろう。今でも小さなダムがあるが大規模なダムも作らないと危ない。
 一基8000万円から2億円もする風車の耐用年数は9年である。耐久消費財なので短期間で利益を出すことになる。採算が合わなければ撤退するだろう。すると残るのは新庄の住民らは自然破壊で災害の恐怖にさらされる。発電企業からの法人税よりも治山治水に使う税金が多ければ社会的には採算割れだ。
 人間の生活史は利用のための自然破壊の歴史である。

 下山後は温泉に入湯したかったが、適当なお湯がないので諦めた。帰路、湧き水があったので汲んだ。またR27沿いにJAのスーパーがあったので魚を買った。若狭湾産には買い気をそそられる。敦賀市まで来るともう雨になった。木之本では小雨、関ヶ原では止んだ。日本海は冬時雨だったのだ。

若狭・庄部谷山を歩く②2020年11月30日

庄部谷山頂
 Pを朝8時30分出発、林道へ左折して、上空の送電線を見ながら約20分ほどで384mの近くに立つ送電鉄塔への巡視路の道標があり、さらに庄部谷山へと篤志家が付けた道標もあった。河原へ下るとすぐに水が流れている。ちょっと多めなので平地に赤テープのある上流側にも歩いたが何もなし。戻って渡渉した。
 対岸に渡って振り向くと何と橋が壊れている。昔は橋があったのだ。急斜面には巡視路によく見る段差が埋まっている。荒れているが方向さえ分かればいい。ジグザグに高度を稼ぐと384mの北の鞍部に着いた。尾根にはテープ類が豊富に付いている。躊躇なく巡視路用の段差の残る踏み跡をたどればよい。そこを過ぎると樹林が途絶えカヤトの丘に登る。黒谷山の三角点は平な頂上の片隅に座していた。
 約50kmかなたの青葉山693mが見えたのは嬉しかった。若狭富士と言い、双耳峰の特徴ある山が可愛い。
 黒谷山では少し水を飲んだ。美味しかった。黒谷を後にしてしばらくでまた樹林帯に入る。677mへの登りはブナ林のさまよいであった。ちょっと下ると伐採されて開けたところで一休みした。ここでも送電線が通っている。若狭湾が良く見える。隣の山は雲谷山である。そこへ現れたのはなんとマウンテンバイクの人だった。山頂までは付かず離れずで歩いた。途中で長話したが関東の人らしい。今回で2度目という。
 広い尾根一杯、谷間にも広がるブナ林のさまよいは感動する。この尾根ならスキーが使える気がした。加えて赤テープも結構目立つのは落葉期だからと思う。青葉茂れる頃ならちょっと迷うかも知れない。804mのミニプレートがあった。新庄から221m、518mと続く尾根の終点である。
 12時、三角点が埋まる山頂は静寂に包まれていた。木の間越に見える黒い山体は野坂岳だろう。標高は古い山の本には856.1mだが今の地形図は855.9mと20センチ低くなった。普通のおにぎりの1.5倍の大きさがあるとはいえ、全部は食べきれず残した。腹筋が締まってかえって食えない。いい傾向である。
 さて、12時20分に下山。マウンテンバイク氏は休憩中に登ってきて休まず、自転車に乗って下って行った。さっきの話では野坂岳へ行くという。一般道へ出てからもマイカーへ戻るのにそのまま行ける利点を言っていたが・・・。
 下山ルートは東尾根にとったが西尾根よりもテープの頻度が多く、見えるところから次が見える。芦谷山への分岐までは難なく下れた。分岐からも路形がはっきりしている。倒木など多いがピッチは早まる。時計を見るとまだ13時を過ぎたばかりだが雲谷山上空にはもう雲がかかっていた。朝は晴れていたが午後は悪くなる。
 そして708m北の鞍部から林道に降り立つって雲谷山を見ると雲に包まれた日輪が山の向こうへと沈む。日没予定は16時44分だが、山陰になることを計算に入れると15時でちょうど良い。やっぱり芦谷山往復は止めて良かった。
 674mの南まで林道をしばらく歩くと広大なブナ林がある。まるで庭園か、キャンプ場になりそうな緩斜面が続き、短いショートカットを2回繰り返す。やや急斜面になったブナ林はピンクのテープが頼りで間隔が長いのでGPSでチエックしながら下った。しかしヤブは一切ないので落葉の上を滑落に注意しつつ下った。
 林道上部からの長いショートカットの最後は鉄塔が交差した。ちょうど山仕事の人がいたので長話になった。

若狭・庄部谷山を歩く①2020年11月29日

粟柄越関所跡の碑
 朝4時30分起床、名古屋ICは5時30分、養老SAでトイレタイムの際に下着を1枚着こんだ。余りに寒い。若狭美浜ICは7時30分通過、R27を走り、新庄へ左折した。耳川に沿う県道213号はほぼ直線路である。沖積平野に広がる田には稲刈り後の切り株に青い穂が生え、ひつじ田と呼んでいる。これも枯れてしまう。
 新庄まで走るとまたちょっと谷間の村が広がる。野坂岳と庄部谷山の水を集めた横谷川が押し出した沖積平野である。村の中央を走る県道の中央には雪解け用の湧水装置が埋めてあり雪深い地区と分かる。増永廸男『福井の山150』は山スキーを履き、新庄の発電所の先から尾根に取り付いている。804mを経由して登頂している。スキーが使えるほどの雪が降るのである。
 新庄を過ぎると県道は狭隘な感じで寂しい。この先にまだ人の住む山里があるかしらんといつも電線と電話線を探している。あるあると行くと松屋に着いた。
 地名はこの村の生活史、自然史を語る。まったくの想像であるが一定の標高以下はおそらく薪炭林であっただろう。炭焼きの山だったのだ。炭焼きにちょうど良い太さで伐採する。後はまた生えるに任せる。落葉も薪や畑の肥料に持ち帰る。地味がやせてくると松を植える。松もまた有用な樹種である。
 松田、松井、松川、松本、松山、松岡、松尾、松坂などは松を利用した結果の地名であろう。松は腐りにくいから水に強いので田んぼを造成する際は焼いて、地中に打ち込み水平に土砂を均した。奥三河には焼松という三角点があり、山間の谷間に棚田を作る際に使われた。後年甫場整理で拡張すると古い焼松が出てくるという。
 松屋からは左折して舗装された林道を走る。384mへ直登する印はないかと探りながら走ったがない。粟柄越の関所跡という立派な石碑があり何となくそこをPにした。すぐ先に三差路があり、左折すると東尾根にをからむ林道の入り口であった。

若狭駒ヶ岳の山旅余情2020年11月26日

 若狭駒の余情を楽しんでいる。筋肉痛が時間の経過でほぐれていくのと反対に、山旅の余韻は終わった後から後から湧いてくる。
 この山の紹介文の書誌学考察
A 昭和45(1970)年 伏木貞三『近江の山々』 (白川書院)

B 昭和47(1972)年 伏木貞三『近江の峠』(白川書院)

C 昭和59(1984)年 草川啓三『近江の山』(京都山の会出版局)

D 平成4(1992)年  山本武人『近江朽木の山』(ナカニシヤ出版)

F 平成11(1999)年 近江百山之会編著『近江百山』(ナカニシヤ出版)

G 令和2(2020)年 竹内康之「山と渓谷」誌11月号202Pのガイド記事

  駒ヶ岳の由来は

 Aは蔵書になく、検索で目次がヒットしたので見ると項目がない。

 Bには木地山から若狭へ越える峠道は3つあったと紹介し、木地山峠の項目を重点的に解説。駒ヶ岳については記載がなく、駒ヶ越と河内越の2本を簡単に紹介。下る予定だった尾根道は昔は池河内(木地山の真北)へ越えた峠道だったのだろう。河内越が2か所もあるので一方を駒ヶ越にしたのか。

 Cの本は駒の連想から駒ヶ岳由来を説く。したがって馬も通れる道だったと想像する。しかし、馬を通らせるにはS字形の道が必須であり、重量が重いから痕跡は残るだろう。奥三河の山間部の街道跡には残っている。(寺山)書きで寺山としてある。著者は若狭側から藪漕ぎで登っている。様子は今と大違いである。当時でも森林公園からの切り開きはあった。

 Dは写真のリアルさが際立つ良書。ここでは登山ルートとして上中町へ越えた河内越を紹介する。尚、若狭町は小浜市とばかり思っていたが、「2005年(平成17年)3月31日 - 三方郡三方町・遠敷郡上中町が合併し、三方上中郡の自治体として発足。」とあるので独立した自治体である。
 五万図熊川に残る破線路をトレースしているが藪漕ぎである。
麻生谷にかかる橋を渡るのは今も同じだが、杉は植えて20年くらいの若杉であり風景が違う。略図を見ると焼尾谷の対岸の道標にあった「ろくろ橋」は麻生川にかかる橋で昔はそこに登山口の道標もあったと思われる。
 ブナの疎林の落葉を踏みしめて歩いたが、写真で見ると当時は背の低い笹が茂っている。ブナも若く、日光が差し込んでいたのだろう。ここでも由来に触れているが、不明。
 寺山は若狭側の地名。ちなみに三角点の点名は寺山。木地山では河内越が正しい。駒ヶ岳山頂の写真は下は笹に覆われ、灌木が茂り、展望は皆無だろう。三角点は今は盛土の上に埋まるが当時は平地に埋まっていたと思われる。周囲の土砂が削られたのだろうか。Cでも三角点の周囲だけは同じである。

 Fでも由来に触れるが不明とする。ブナ林は千古斧鉞の森ではなく、炭焼きの際に切り残したという。つまり、ブナは良い炭にならず、意図的にブナを残して択伐していたのだ。
 確かに、ブナの文字は山毛欅、橅、椈、桕、橿と多い。2番目は国字ですが、木では無い、と有用な樹種ではなかった意味が込められている。水分が多いので曲がりやすく建築材にはならず、戦後はパルプ材になった。
 すると植林と同じ原理で間引き(間伐)することによって残ったブナは成長し易くなる。ブナは一番背が高くなるので成長とともに周囲の木や笹も発芽できず、ブナの純林になるのだろう。それを知らずに見て「ブナ林は良いなあ」と感動しているのである。
 今の登山口の近くにあるろくろ橋も昔は少し下流の分校跡から入山したらしいが、草深くなって今のところに移動した。するとあの道標は朽ちてもおらず、新しいように見えたが20年以上は経ったのか。
 結局駒ヶ岳の由来はどの本も言及されず、不明でした。それどころか、山名などなかったし、駒ヶ岳なんて初めて聞くと地元の人の話を紹介している。

 以下は駒ヶ岳異聞というか小説である。
 金達寿『日本の中の朝鮮文化』(講談社文庫)シリーズの長野県か山梨県辺りのどこかに駒ヶ岳は高麗ヶ岳という説を紹介している。いつの時代か、渡来人が大挙して日本に来たのだろう。ウィキペディアには「10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだが、1259年に高宗の時代に複数に渡る元の侵略で降伏・皇帝号喪失で元の属国になった。」とあるから乱世を逃れて日本に来たのかも知れない。
 確かに山梨県には北巨摩郡があり、甲斐駒がある。埼玉県には高麗神社がある。高麗の地名は意外に多い。但し、全国の駒ヶ岳の場所からのイメージでは一つにくくれない。北海道の駒は説明できないからだ。朝鮮人作家ならではの視点ではある。
 私の連想では、若狭には熊川宿(くまがわ)があり、韓国の釜山には熊川(ウンチョン)がある。百里ヶ岳は韓国の釜山とは500kmの距離にある。江戸時代の蕪村の俳句に「方百里」という言葉があるが、多分中国由来だろう。今の日本の換算では1里は約4kmなので400kmになる。実際は500kmもあるが誤差の範囲に入れても良い。
 昔の戦乱や乱世を嫌った職能集団は渡来人として対馬海流に任せて若狭湾にたどり着き、山越えで近江に流れ込んだ。
 他方で敦賀湾からも渡来人が流入してきた。敦賀はおつむの意味という。仏教徒や文人も来たのだろう。湖東にも朝鮮文化がある。
 演歌歌手の前田卓司の「小浜旅情」の歌詞には「御食国」の語彙があるが、皇室などへ海産物などを貢いでいた地域という。そういうルーツを持つ人々が遠い朝鮮半島の故郷を思い命名したのか。
 日本語の文字が発明され、普及するのは平安時代以降になる。和紙の普及も一般人には手に入らないから書き残すことはできず、口伝のみでは伝承できなかったのだろう。

『山・自然との対話』 日本山岳写真協会東海支部 創設40周年記念写真展を見学2020年11月17日

 愛知県美術館8Fで今日から開催された山岳写真展を見学してきました。いずれ劣らぬ大作、力作、傑作、佳作揃いでした。入場無料。11月23日まで。Kさん、Sさんらが対応に大わらわでした。Hさん(女性)にもお会いしました。こんなイベントでもないと中々会えません。
 Kさんの話ではFさん(女性)が9月に亡くなられたと知りました。山岳写真が大好きな88歳くらいだったと思います。それもそのはずで、父親は登山家で毎日新聞の有名なカメラマンでした。名古屋生まれの富豪で山岳映画の嚆矢として冬の黒部の山岳景観を映画化した伊藤孝一の映画フィルムを発掘したことで知られています。

飛騨の山と「高校三年生」の歌詞のハルニレ2020年09月12日

 猪臥山の原稿を書いているとき、不図思い出したのが、下山路で見た「ハルニレ」の木だった。これは中学2年か3年のころ大ヒットした「高校三年生」の歌詞の2節目に出てくる♯ニレの木陰に♪のニレであると知った。それで『東海・北陸の200秀山』を読むと何と私が書いていた。そしてニレのことも書いているではないか。
 今度の原稿にも是非書いておかねばなるまい。作詞したのは丘灯至夫(1917年2月8日 - 2009年11月24日)で、福島県田村郡小野新町(現小野町)の出身なので、ニレが普通に生えているのだろう。
 小野町ではきちんと「丘灯至夫記念館」とホームページを設けて顕彰している。
 略歴をコピペさせてもらう。
大正 6年 0歳 2月8日福島県田村郡小野新町(現小野町)に西田屋旅館(現存)に西山亀太郎、モトの六男として生まれる
昭和 4年 12歳 福島県郡山市金透小学校尋常科を卒業
昭和 7年 15歳 福島県郡山市立郡山商工学校(現・福島県立郡山商業高等学校)商業科を卒業
昭和10年 18歳 詩人・西條八十に師事 詩、歌謡、童謡などの作詞の道に入る
昭和16年 24歳 日本放送協会(NHK)郡山放送局に入局 17年退社
昭和17年 25歳 毎日新聞社(東京)に入社 福島支局記者として勤務
昭和24年 32歳 日本コロムビア株式会社専属作詞家となる
昭和38年 46歳 「高校三年生」(舟木一夫・歌)他の作詞により日本レコード大賞作詞賞を受賞
昭和39年 47歳 童謡「ワン・ツー・スリー・ゴー」(交通安全の歌)補作により日本レコード大賞童謡賞を受賞
昭和47年 55歳 毎日新聞社を定年退職 出版局特別嘱託となる(終身名誉職員)
昭和57年 65歳 地方自治功労により福島県田村郡小野町特別功労表彰を受ける
昭和63年 71歳 芸術文化功労により勲四等瑞宝章受賞
平成 2年 74歳 県外在住功労者知事表彰を受ける
平成13年 85歳 福島県小野町 名誉町民第1号
平成21年 92歳 11月24日永眠
以上
 次はハルニレです。
 国土交通省北海道開発局のHPには
「ハルニレは北海道を代表する木のひとつで、「エルム」ともよばれる落葉樹。川沿いなどの湿った土地によく育ちます。豊頃町を流れる十勝川河川敷に立つハルニレは、樹齢が130年以上にもなり、まちのシンボルとなっています。紅葉も終わり、すっかり葉を落としたハルニレは、どこかホッとしているように見えました。」とありました。
 どうやら北の木なんですね。

 木の情報発信基地には
「ニレ科ニレ属。落葉高木。北海道、本州、四国、九州さらにサハリン、朝 鮮、中国などに分布する。高さ20-25m、直径50-60cmになる。大きなものは高さ30m、直径100cmに達する。ハルニレは、アイヌのユーカラ神話では、美しい女神とされていて、それにみとれた雷神が足をすべらせ、その上に落ち、女神は身ごもり、人の祖先であるアイヌラックが生まれたとされている。
 また、別名アカダモとも呼ばれ、元来東北地方から入った方言名である。ヤチダモあるいはアオダモの類ではと勘違いしかねないが、まったく関係はない。葉は互生、長さ3-12cm、葉縁に二重きょ歯がある。花は早春に黄緑色の小さい花を葉に先立って古枝の先に咲かせる。翼果は長さ10-16mmの膜質の倒卵形で、種子は翼上部にある。年輪が明瞭な環孔材。心材は暗褐色、辺材は褐色をおびた灰白色である。木理がはっきりしているので、コブや根に近い箇所にはとくに美しい杢が出る。重く硬い。切削・加工はやや困難であるが、曲げに強いので、曲木には適している。耐朽・保存性は高くない。用途として、家具、器具、車輌、単板などがある。淡泊な木材が好まれる場合には、ムクの木材として、また天然木化粧単板の材料としても使われる。」

自粛疲れ?都会離れ「コロナ疎開」2020年04月06日

ソース:https://www.yomiuri.co.jp/national/20200406-OYT1T50058/
大見出し:自粛疲れ?都会離れ「コロナ疎開」…地方は困惑「本来ありがたいが」

 新型コロナウイルスの感染者の増加を受け、東京都や大阪府などの大都市から地方に旅行したり、一定期間滞在したりする人が目立っている。インターネット上では「コロナ疎開」との言葉も使われる。ウイルスからの避難や「自粛疲れ」などが背景にあるようだが、専門家からは感染拡大の危険性が指摘され、各地で困惑が広がっている。

中略

「3密」避け冷静対応を 専門家呼びかけ
 政府の専門家会議メンバーの押谷仁・東北大教授は、都市部から地方への避難について、「新型コロナウイルスが拡散する恐れのある行動で、避けてほしい」と呼びかける。

 地方都市の中には医療機関の備えが不十分なところが多く、高度な医療が提供できる施設も限られる。住民に高齢者が多いこともあり、都市部から感染が波及すると、大きな被害が出る可能性があるという。

 押谷教授は、「密閉、密集、密接が起こる環境を避ければ、感染者が増えている東京や大阪でも普通に生活できる」と説明し、冷静な対応を求めている。
以上

・・・・そういえば、名古屋市でも4/4(土)の朝8時過ぎは車が多かった。名二環から一宮JCT経由木之本ICまで利用したが、養老SA辺りまでは車が多かった。関ケ原ICを過ぎてから交通量は激減したかに思う。
 木之本ICからR8に出てもやはり車は多く、サイクリストも良く見た。JR永原駅のPは数台の車で閑散としていた。輪行袋を抱えたサークルも見かけたが数は少ない。私はより人の居ない山中へと分け入ったから「三密」は回避できている。万路越えから無名のコブで3人に会っただけ。
 海津大崎へ下山後は、予想ではマキノ町のHPで有名な花見のイベントを中止したから閑散としているかと想像したが、県道は一方通行で渋滞中であった。ナンバーは滋賀県が圧倒し、他に京都府、福井県くらいで都会からの他県ナンバーの「コロナ疎開」はなかったかに思える。交通監視員に聞くと、それでも例年よりはうんと少ないのだとか。
 こちらはマキノ駅から永原駅まで乗車したが、駅のホームでは私一人、車内の乗客も閑散。下車する人もちらほら。マイカーに戻るとあとは接触は地元スーパーでの買い物以外は自宅までほとんどない。一宮JCTではいつもの渋滞はなく、名二環もスムーズだった。愛知県民は自粛を守っているのだろう。帰路は早かった。帰宅後は手洗い、入浴、うがいをして就寝。
 自粛で室内にいると読書するくらいしかない。あるいは隅々の掃除とかはこの機会にやるが気は進まない。やっぱり人は他人との接触の中で生きている。そういう形で物事は進んでゆくものなんだな。

大鼠山スキー登山2020年03月22日

 3/22は飛騨市山之村の大鼠山へスキー登山を果たしました。
 2/9は1502mの地点で大雪のために撤退。今回はそのリベンジになります。3/21の午後3時30分、同行のWさんの職場から出発。名二環、名古屋高速から名神、東海北陸と使えるものはみな使って飛騨清見ICで飛騨入り。神岡町のスーパー「バロー」へ着いたら午後6時20分。バローで食材の買い物を済ますと山之村へ。神岡町の素晴らしい夜景をちらっと眼下に見て、つづら折れの県道を走り伊西トンネルを抜けると山之村に着く。
 荒涼とした風景の中を走る。それでも春は来ており、2/9には雪道走行だったが今は路上の雪はない。山はいわゆる斑雪山(はだれやま)になった。戦前のベストセラーの中河与一の小説『天の夕顔』の駅に着く。ここは天蓋山の登山口だが桑崎山や明日登る大鼠山の拠点にもなる。Pにも雪はほとんどない。軒先でビバークさせてもらう。少しばかりの酒とうどんすき焼きで体を温める。
 3/22の朝4時起き。食事、片づけて出発は6時20分になった。2/9はここからシールを張って歩いたが今日は車で1km先のスノーモービル置き場まで走り、出発。しかし、雪は林の中だけは残り、山之村牧場が見えるところでは路面の雪は解けたのでスキー板をかついで歩く。ここで7時25分経過。再び路面の雪ではスキーを履くが登山道になる林道の先でまた解けている。板を外して、また履いてを2回繰り返し、標高1300m付近からしっかり残雪の林道歩きになった。
 以前撤退した1502m地点は楽々通過出来、大鼠山の登山道のある地点まで一気に歩いた。ここに深洞湿原の道標を見た。地元の人の話では中々に良いところらしい。先行者のスキー跡があるのでそれを追うように登る。林道を離れると針葉樹、ブナ、ダケカンバ、ササ、低灌木の茂る混交林になる。登山道は雪に埋もれているが、ゆるやかな地形をたどると30分もかからず、1590mの最高点に着いた。11時2分。
 展望は北東に見えるがあいにくの曇天で山岳同定はできない。北ノ俣岳辺りが見えるとは思うが・・・。山名板があるのでここが終点かと思ったら実は三角点1584.5mはもう一つ隣のこぶだったのでまた腰をあげて歩いた。着いたものの三角点はまだ雪の下。いくらも滞在することもなく下山した。破線の登山道は1590mを迂回しているが実際には幹に赤ペンキでルートを示してある。三角点からの展望は北東だけで周囲は樹林にさえぎられる。どちらかと言えば最高点の方がよさそうだ。
 下山はわれわれが残したスキーの跡をたどるがリーダーが付けた赤布も回収する。林道に着いたがシールを外すのは1502m地点にした。途中にギャップがあるからだ。シールをはがして、滑走面の糊を溶剤で掃除してワックスを塗る。先回はこれをしなかったから滑走面に雪が付いて難儀した。滑らないスキー板は危険でさえある。それで今回は気持ちよく走ってくれた。登りは時速2km以下、下りは時速10km以上だから早い早い。あっという間に車道に出た。車道もところどころスキー板を付けたり外したりで忙しかったが楽しくリベンジ登山を終えた。
 今回の収穫は林道歩きが多かったが、1400m以上では残された山毛欅の大木に目を奪われたことだ。加えて山頂までシールを付けたまま登山できたこと。
 山頂周辺の山毛欅、針葉樹、ダケカンバなどの混交林も特筆される。日本海側の山では山毛欅の純林が多かったから意外な発見である。今回は登山に夢中で留意はしなかったが、点名は「大鼠、おおねず」からの想像であるが、ネズコ(黒部、黒檜、ネズコは幹が鼠色に由来)の大木の群生地だったのか。𣜌(木へんに鼠)とも書く。
 また今年の干支の鼠に因んだ山名の山に登れてやっと正月が祝えるねと笑った。帰路は飛騨市古川の桃源郷温泉「すぱーふる」に入湯。良い湯でした。

阪神淡路大震災から四半世紀2020年01月17日

今日17日で25年か、早いものだ。当日、共著で拙書『ひと味違う名古屋からの山旅』の2刷の印税が入金した。これも何かの縁と、共著の人たちの了解を得て、全額を中日新聞社を通じて義援金として寄付した。ささやかでも助け合うことで被災者の力になると思った。その後の報道で未曾有の 義援金が集まった。本もよく売れて3刷までいった。
業界団体の研修旅行で神戸市の被災地跡を見学した。想像を絶する展示だった。天災は忘れた頃にやってくるというが、近年は加速度的に起こる。巨大土木工事が続いてあるから地盤がストレスを受けやすい。リニア新幹線とか中央構造線をぶち抜く。何も無ければ良いがと思う。

国境の島・対馬の山旅⑦龍良山2020年01月03日

 3日の龍良山はスダジイの原始林に象徴するもっとも対馬らしさを残す山であった。それも地元でガイドブックも執筆するNさんの同行を得られてディープな情報が得られたからだった。訪対するまでの情報収集では対馬を深く紹介したガイドブックは皆無だった。それで『分県登山ガイド 長崎県の山』の対馬を担当するNさんに情報収集中と連絡していた。返信があったのは元旦であった。普段は連絡しない手段だった。
 それでも見知らぬ私に同行のお誘いを受けることになった。Nさんは城山か龍良山か、評価が今一はっきりしない龍良山を希望した。Nさんは城山を勧めてくれた。古代の城戸が残り、陸軍の砲台跡も見学できるからだろう。全島照葉樹林に覆われた対馬の山でも特に保存状態が良いとされる龍良山を希望したのは直感である。
 朝8時、宿舎のホテルまでお迎えに来てくださった。同僚の若い女性Yさんも同行してくれた。Nさんの車に同乗させてもらい、厳原町内山まで行く。これまでの北から対馬の南端に近い山だ。環境省のツシマヤマネコの飼育センターの施設がある。ここで野生に戻す訓練をするという。広大なPに止めて林道を歩き出す。すぐに龍良山原始林内に分け入る。高い樹高、大径木の常緑樹が林立する木立である。日光が一切差し込まないから足元は土が出ている。下草も生えない。その上にあまり踏み跡はしっかりしないところもある。スダジイの大木というか古木まで来た。樹齢何百年か。伊勢神宮の神杉が樹齢約600年と聞く。それに単純比較はできまい。

 九州森林管理局のHPには「 豆酘龍良山スダジイ等遺伝資源希少個体群保護林は、対馬下島の南西部、龍良山の北西斜面に設置されており、全域が連続した照葉樹林となっている。植生は海抜350m付近を境に、下方をスダジイーイスノキ林、上方をアカガシ林が成立する。林内には胸高直径1m以上のスダジイを始め、イスノキ、アカガシ、イヌマキ等、天然林に近い照葉樹林は最大級の規模といわれている。
また、平成21年度には、同じ対馬の下島最南端の神崎半島に位置する豆酘内院龍良山神崎スダジイ等希少個体群保護林が、同じく下島の中でやや北部に位置する対馬白嶽アカガシ等希少個体群保護林がそれぞれ同様に類似するスダジイ、イスノキ等照葉樹林であり、これら2つの照葉樹林の保護林が隣接して設定された。
主峰・龍良山(標高558m)は、霊山として島民に崇められている。史跡名勝天然記念物、壱岐対馬国定公園に指定され、年間を通じ登山客も多く見受けられる。また、麓には厳原町が整備した「鮎もどし自然公園」があり、公園から保護林を一望できる展望台、キャンプ場等があり、多くの観光客が訪れている。」と紹介される。

 文化遺産オンラインには「史跡名勝天然記念物
龍良山原始林は対馬下島にあり標高559mで,標高120mの低地から山頂まで,良好な照葉樹林が残されている。低標高地域には,他の地域では人為により破壊されてしまった,スダジイ林が良好に残されている。標高350m以上ではアカガシ林にかわり,山頂付近では雲霧林を形成し,ラン,シダなどの着生植物が多く見られる。低地のシイ林から高地のアカガシ林までの連続した照葉樹林が良好に残されている地域は,日本でも数少なく,貴重なものである。

天然紀念物調査報告(植物之部)第五輯 一五頁 參照
天然紀念物解説 二一七頁
對馬全島中ニテ暖地性常緑樹種ノ最盛ニ發生セル原始林ニシテしひのき、あかがし、うらじろがし、をがたまのき、しきみくすのきやぶにつけい、あをがし、たぶのき、さかき、ひさかき、かくれみの、いすのき、さねかづら、むべ、むさしあぶみ、等發生ス」

 一社対馬観光物産協会のHPには「龍良山は、対馬独自の天道信仰の聖地として立ち入りが禁じられ、千古斧の入ったことのない原始の照葉樹林として、国の天然記念物に指定されています。森の平均樹齢は200年で、スダジイ・イスノキなどが他の地域では見ることのできない巨大な姿を見せています。
 低域部は雰囲気の良い照葉樹木原始林で、1時間程度の散策を楽しめます。
標高558m。登山口から山頂までのコースタイム(休憩除く)は、往路90分、復路75分。」とあり、大体200年くらいだろう。
  
 登山道は西の鞍部に向かって斜めに登り、一部は植林内を横切って鞍部に到達。鞍部から尾根を登ると岩盤の山頂である。三角点は少し先に埋まる。点名は男竜良という。往路を戻る。下山後は飲食店で蕎麦をいただく。
 その後は豆酘の尾崎山の燈台までドライブになった。対馬海流の荒波が直接ぶつかる対馬南端の海岸は絶壁に近い。5年前の薩摩半島の野間岳でも小雪混じりの悪天の中東シナ海の荒波を眼下にみた。今日は晴れているだけましだ。また厳原町まで戻ってNさん,Yさんと別れた。その後で、宗氏の菩提寺である万松院と居城であった金石城跡も訪ねた。