渡渉の失敗による遭難が増えている2017年08月31日

 北海道の幌尻岳で川を下山中に3人が渡渉に失敗、流されてロープに繋がれたまま溺死という痛ましい遭難事故があった。流された仲間を助けるために2人も命を亡くした。
 日本山岳会広島支部ということで驚いた。
 なぜこんなことになったのか、一つは準備不足であっただろう。増水した川の渡渉についての心得と技術の知識が不足していた。さらに突っ込めば、現代人の都会生まれの都会育ちが増えて、渡渉が日常から消えたことがあるように思う。
 私などは子供のころは夏休みの間は近くの川で遊ぶのが日常だった。ゴム草履をはいてパンツ1枚はいて川の上流へ、渡渉したり、ある時は泳ぎ、またある時は魚をとったりした。深い淵にもぐったり、川の中に居座る大きな岩へ攀じ登って飛び込んだりした。
 そんな遊びのための川が台風や大雨になると濁流になり一変する姿も眺めた。だから川の怖さをよく知っている。ところが同年代でも都会育ちはそんな体験を持たないから想像すらできない。知らないということを知らない。
 自然への怖れを持ってほしいと思う。登山技術だけではだめで自然への畏敬の念を抱いて欲しいものである。

小泉武夫『猟師の肉は腐らない』を読む2017年08月25日

 書店をのぞいてふと見つけた新潮文庫である。2014年に単行本が出て2017年4月に文庫化された。日経新聞連載で知った『食あれば楽あり』は読んだ。この本も文庫化された。掲載の本は最初は発酵学の蘊蓄を傾けたエッセイかと思ったが何と小説であった。この著者は小説も手がけているんだ。
 山岳文学というと深田久弥、新田次郎、田中澄江辺りが有名だ。山に登ったり下ったりで中々文学にはなりにくい。新田文学はなんでも気象学に収れんされてしまうので飽きた。
 さて、お得意の発酵学からはどんな文学を?
 舞台の設定の八溝山地というのが気になっていた。以前から八溝山には登山したいと思っていた。そこを舞台にどんな物語を展開しているのか興味津々で読み進めた。 
 登場人物は八溝山地に生れの猟師の義っしゃんと猟犬のクマ1頭、それに小泉さん自身らしい東京の先生である。一人称である。
 とにかく出てくるのは山暮らしの猟師の創り出す食べ物がテーマであった。実は私も農家の生まれなので子供時分から蜂の子、川魚などは自分で捕って食べていた。鶏も飼い、年末、葬儀などのイベントがあれば1羽つぶしたものだった。うなぎも祖父に連れられて仕掛けに行った。大きなミミズを隣家の畑に断ってとり集め、それをすぐに仕掛けて川に沈めた。朝4時ころ、子供の時分にはそんな早起きはできず、祖父が回収に行き、何匹か仕掛けに入っていた。それをためてひと夏に何度か天然ウナギを食したものである。
 そんな田舎暮らしの食い物のネタがいっぱい詰め込まれた「小説」だから楽しく読み、またサバイバルなどと声高に云わなくとも自然の中でカネ要らずのグルメを堪能する夢や可能性を抱かせるのである。
 実際、読んでいる最中に買い置きした豚肉の調理を思いついた。猪肉の燻製とまではいかないが、豚肉に天然塩を振り、おろしにんにくを合わせた。しばらく置くと水分がしみ出して、終わったころで天火で焼くと実にやわらかくおいしい味になった。燻製ならなお美味であろう。マンション暮らしでは煙は御法度なのである。
 水郡線の矢祭山駅で降車する件までは事実であろう。その先からフィクションの小泉発酵学ワールドの世界に入る。
 先生が山奥に住む義っしゃんへの手土産に背負うものとしては
1 粕取焼酎・・・いまだ飲んだことがない。アマゾンでぐぐると高いがワンクリックで買える。
2 飛魚のくさや・・・これも未食である。ただし、飛魚のだしは、冷麦、ソーメンの汁として、何種類かアマゾンで買った。スーパーの有名メーカーの均一で甘めの出しには飽きがきているからだ。
 飛魚の出しを使ったら抜群にうまい。焼そばや卵焼きの出しにも使っている。ペットボトルの残り少なくなって見えてきた飛魚はカレーの隠し味にする予定だ。
 とこれだけだが義っしゃんの大好物なのだ。
 一方で文中の山のメニューに素材は
1 赤蛙
2 岩魚  甘露煮、燻製
3 山女
4 鮠
5 蝮
・・・・これは血を飲む。焼酎に漬け、まむし酒にすることもあるようだ。三重県の田舎の叔父はマムシを見つけると捕まえて首をはね、生き血を飲んだ。但し、昨今の農山村では田畑や農道にも農薬をまく。それに汚染された蛙、蜥蜴などの小動物を蛇が飲み込むと食物連鎖で、農薬の濃度が高くなる。そのマムシ酒を飲んだ息子が急死、そんなはずはないと老父が試飲したらやはり死んだニュースが奥三河であった。今は注意が要る。
6 縞蛇
7 鶫
8 山鳩
9 鶉
10 猪肉の燻製
・・・愛知県足助町の山奥では今でも猪が大活躍するらしい。この前行った山の伊熊神社の麓の山家では2日に1回は巡回してくるそうだ。そこで罠を仕掛けてある。捕獲すると埋設するとか。足助町ではジビエとして「山恵」なる解体会社をつくって猪肉の販売に乗り出した。私も購入したことがある。そんなに美味いものならここでも燻製を売ってくれないだろうか。
11 じゃがいもとニンジン
12 キューリ、トマト、
13 蝗 佃煮
14 地蜂の子の甘煮、炊き込みご飯
・・・・これは奥三河や東濃の山村で食える。先だって、新城市のゆーゆーアリーナの食堂のメニューにもあった。須山御嶽山に行く際、地蜂の採集禁止の警告板を見た。いまや、珍味ゆえに希少性のある財産になった。
15 野兎
16 納豆
17 山ブドウとあけび
18 どじょうの蒲焼・・・・これは豊橋の松葉公園の近くの小さなうなぎ屋で食えたが今もあるかな。うなぎ養殖の池にどじょうを放しておく。うなぎよりあっさりした味でしかも安かったからちょくちょく食べた。蒲焼、柳川鍋ともに美味かった。
19 かぶと虫の蛹・・・これもクヌギの丸太を割った際に蛹(白っぽい幼虫)が出てきた。祖父の話で焼いて食った記憶がある。ヘコキムシ、クワガタムシ、カミキリムシもある。
20 山羊の乳・・・・日進市の田園地帯をポタリングしたていたら、山羊を飼っている家を発見した。都市近郊ではいまどき珍しい。富山県立山町の道の駅みたいな土産物センターでも山羊を飼い、山羊の乳のソフトクリームを売っている。
21 その他の植物の根や実の話
以上は第1部の長閑なること宇宙のごとしに出てきた食味である。梅雨明け近い、というから7月初旬の八溝の夏の四泊五日の山暮らし体験記であった。
 第2部は八溝の初冬の候である。あれから2年5ヶ月後の12月初旬、三泊四日の山暮らしに出かける。そこの食生活は如何。今度も粕取焼酎は無論、魚の缶詰、くさや、カレールー、塩鮭、を持参。
1 猪肉の味噌漬け
2 渓流魚のカレー・・・イセエビのカレーは聞いたことがある。魚は出しが良く出るのでカレーには良い。鮎が安くなれば鮎カレーを作るか。鮎をカラカラに焼いて出しにすると美味いかもしれない。鮪缶、アサリ缶、鮭缶などのストックは欠かさない。

 さて、あれだけの食材をあてに飲んでは食い、食っては飲んでいる場面ばかりである。しかし、それではいくら発酵学の蘊蓄が盛りだくさんでも物語性がない。
 事実上は猟師の山暮らしなので猟犬の「クマ」の話と猟銃の村田銃の話も出てくる。なかでも「クマ」は高安犬と秋田犬のハイブリッド(優性遺伝)の設定になっている。 
 ここまで読んではたと思い出したのは戸川幸夫『高安犬物語』(新潮文庫)の本だった。動物文学の嚆矢とされる名作である。作者は直木賞も受賞した。この小説は高安犬物語、熊犬物語、北へ帰るなど5編の中短編からなり、1から3編が高安犬がテーマになっている。
 熊犬物語には希少種であり、秋田またぎ犬と掛け合わす話がでてくる。また病気で手術する話もあり、もちろん村田銃の話も出てくる。小泉氏もこの本を下敷きにしているな、と感じさせる。この知識の挿入が本書を発酵学の蘊蓄を傾けた食道楽三昧に堕落させないスパイスの役目になっている。

 ただし、時代の設定が不明な点が消化不良を起こしている。というのも早川孝太郎全集Ⅳの「常陸八溝山麓の狩詞」に語彙がまとめられている。前文のみ引用してみよう。

<太子町を立ちて八溝山麓黒沢村に一泊、翌日は矢祭山を見、国境を踰え磐城の平原に入る。水の流れ依然南に向うが不思議なり。あたかも秋の盛りにて遥かにみる東白川郡の山々一様に染まり、低き丘の次々に続きし様印象深し。東館に一泊、翌朝立ちて塙に向う。徒に家のみ大なる者並びたり。知る人も無く町を一巡して、またもや道を田に出で、そこに働く人をとらえてモンペの話を聞く。モンペは近年の輸入なり。
塙、花輪、鼻輪。阿武隈川のほとり武隈の塙の松。
有名なる賽の神。
磐城の塙も似た地形なり。秋田県と岩手の境の花輪、これも同じ地形なり。山形県にもあり。喬木村に稲荷神社あり。そこの祭特色あり。人の名もききたれどついにたずね行かず終わりたり。著者の欄外書き込み>

八溝山   茨城、栃木、福島の三県に跨り、久慈郡の北端を占める常磐一の高山である。頂上に八溝神社を祀り、代々の神主を磯神の高階氏と言って、遠く紀伊の鈴木氏の末である。ここ三、四〇年前までは、附近一帯に猪鹿が多かったので、今の黒沢村のうち、蛇穴、磯神、上の宮、上郷等部落はほとんど狩を渡世にしていたのである。現今では猪はほとんど影を絶ち、僅少の鹿が頂上付近に棲息するというが、それもあるいは疑問とするくらいである。したがって狩りの生計は跡を絶って、狩詞ばかりがわずかに遺っている。
以上
 昭和3年11月「民族」に初出した文の時点でさえ、狩はもう廃れていたのだった。したがって小説が成立するのは少なくとも大正時代以前というのが私の推測である。
 文中の住所には東白川郡矢祭町とある。これは昭和38年に合併後の地名だ。
 水郡線が開通したのは明治30年であるから結構早い。矢祭山駅は昭和12年3月開業である。
 アマゾンの本書のコメント欄にはかすみ網猟禁止とか現代の基準からみて違法性を指摘する。鳥獣保護法は明治初期から制定されているが、かすみ網の禁止そのものは1947年以後である。
 時代考証するととてもでたらめの小説と突っ込まれている。私もそう思う。しかし、ここは小泉発酵学の蘊蓄を吐露する場所として八溝山が選ばれたのだ。小説たるゆえんである。読後感としては悪くないのである。

藤前干潟へポタリング2017年08月24日

 朝から天気が良い。久々の一面青空だ。今日は暑いぞ、と覚悟して6時50分に自転車にまたがる。行く先は藤前干潟である。
 天白川右岸のサイクリングロードで助走開始、平子橋で一般道に出て、東海通りに通じる道を走る。R247で左折する。右折のタイミングを間違えて南へ行きすぎ、山崎川を渡り、大江まで走った。東レや三菱重工・名古屋航空宇宙システムの前を走った。通勤時間帯でごった返している。
 簡単な地図を持っているが、地理勘がないと迷走するばかりだ。すでに名古屋港の東に着いたのだが稲永までは遠い。
 ファミマ木場町店に入り、飲み物とパンを買い、休憩を兼ねて地図をチエックした。港湾沿いの道を木場町まで戻り、堀川は名古屋高速高架橋の下の橋を渡る。R154にぶつかったら左折して県道227号(金城埠頭線))に右折して走れば、中川橋、名古屋臨海高速鉄道・稲永駅前へと行く。やっと稲永の地名が出てきた。野跡を右折しると藤前干潟の地名も出てきた。
 藤前干潟に着いたのは8時40分。野鳥観察館やビジターセンターの建物もある。海岸線の細道を走ってみたが、今は満潮で海面しか見えない。かつては名古屋市のごみの埋め立てでメディアの紙面を騒がした所だが、反対運動で野生動物保護に落ち着いた。午後には干潮になり、干潟が現れるそうだ。すると野鳥も飛来してくるが、待っておれないので帰宅の途に着いた。また冬に再来する。
 9時10分、帰路はR154に出て、白鳥橋西に出て地理勘を得た。ここからは気の向くままに路地を走り抜けて天白区に戻る。
 ネットでの計算値は片道15.8kmだったが少し多くなった。往復30kmを越えたからか、暑さも手伝ってちょっと疲れを感じた。

熱田神宮、断夫山古墳、白鳥御稜、宮の渡しへポタリング2017年07月28日

 梅雨どきに戻ったかのような蒸し暑い朝。それでも行ってみるかと、午前7時自転車にまたがった。ルートは勝手知った道ばかりだが、楽に行きたいと、天白川左岸のサイクリングロードに入った。平子橋で詰まる。市道へ上がり、野並から平子橋を渡る。新郊通り3丁目までは緩やかな登りになる。呼継1丁目で右折して妙音通りに出る。内浜の交差点を突っ走って、跨線橋の左から迂回すると伝馬町の交差点だ。
 右折して熱田神宮で、約50分になるので、一休み後、断夫山古墳へ行く。大津通りから神宮西駅へ回り込む。R19を北上するとパセリのようなこんもりした森のある神宮西公園に着いた。蝉時雨の盛んな森を囲む周辺道路を注意しながら走ると小さな断夫山古墳の説明板を見た。
 次は白鳥古墳(御稜)だが、地形図をプリントしたため掲載されず、目標を見失った。(後で堀川の左岸側のハローワークの裏手と知った)堀川左岸のハローワークから右岸へ連絡橋がかかっているので降車して渡るが古墳は見いだせず。それにしても堀川の臭いこと。川面を良く見るとボラの死がいが大量に浮いている。流れがないために酸素不足になったのだろうか。蒸し暑いので自販機でドリンクを買って飲む。
 国際会議場へは行くまでもない。名古屋学院大学の赤レンガ造りの瀟洒な校舎を横目に見て、また堀川に戻ると白鳥庭園の正門に着いた。白鳥というもののヤマトタケルなど古代史とは何の関係もない。白鳥橋東から途中、喫茶店でモーニングセットで軽い休憩をとる。内田町の宮の渡しまでぶらぶら走る。また熱田神宮まで戻り、西門から入り、参拝をする。
 境内もやかましいほどの蝉時雨に満ちていかにも夏の盛りを味わう。夏なのに落ち葉掃除に勤しむスタッフがいた。そうか、神宮の森はすべて照葉樹林なのである。それで初夏から今頃は落葉期にあたる。それでもかっと照りつける直射日光を遮ってくれるから参拝客は意外と多い。夏休み中の子供たちの緑陰講座でもあるのか結構多い。
 白鳥古墳は境内にあるとのうろ覚えで、神職の巫女さんに問うが知らない。男性の神職が代わって、スマホ片手に、汗だくで教えてくれたが要領を得ない。先だって住吉大社から転勤してきたばかりという。
 神職は高卒なら境内にある熱田神宮学院で2年学ぶとなれる。今は国学院大学か皇学館大学で神道を修める。かつて鹿児島県の最果ての神社で、正月というのにただ一人社務所に務めていた神職も皇学館大学OBと言われたことを思い出す。この世界でも人事異動であちこち飛ばされるようだ。
 西門に戻ってスタッフに聞くとさすがに地元民らしく丁寧に教えてくれた。何のことはない。また神宮西駅から堀川へ横断するような道だった。白鳥山法持寺の奥にやはりパセリのようなこんもりした森が見える。これだ、と思ったが、入口が分からないので一周してハローワークの手前に案内板があって分かった。案内板も初見であるから名古屋市は知られたくないのだろう。蝉時雨のふりそそぐ古墳を前にしてヤマトタケルの霊を思った。
 帰路はほぼ往路通りになった。呼継から旧東海道を走り、熊野三社もちらっと寄った。東海道の影響か、建物が込み入っている。それにお寺や神社の多いこと。昔は知多半島まで見渡す干潟だったらしい。そういえば山崎川も流れはほとんどない。平子橋まで来て、天白川右岸を走る。植田の天白川と植田側の合流地点までストレスなく走れた。今日約8kmくらいだが、道草が多くて、約4時間もかかった。

名銀ハートフルプラザ「はじめよう登山」セミナー①2017年07月11日

 名銀ハートフルプラザは大名古屋ビルヂング16Fにある。今冬、成年後見制度の広報のセミナー開催の交渉に行った。話は難航した。セミナールームから濃尾平野の山々がよく見えるので、話のはずみで、山の話題にふれた。今回、縁あって、山のセミナー開催にこぎつけた次第である。芸が身を助けるほどの不仕合せ(古川柳)というがまさにそんなことになった。成年後見のセミナーも7/26にやれるので言ってみるものである。
 持ち時間は1時間なので広範囲な話は無理。課題はそれこそ山のように盛れるが、最新の衣類の知識の説明に重点をおいた。ちょっとした知識が生命を左右するかも知れない。
 レジュメはあっさり書いておいて、深い話は参考資料4点を添付した。
心得・・・山の命と弁当は自分持ち

服装・・・吸汗速乾機能の衣類

装備・・・スマホの利用が普及拡大中だが、必携とまではされていない。ザックと登山靴は基本のキなので登山用具専門店で相談して購入。

ストック・・・あれば便利で脚力を補佐する。しかし邪魔にもなる。必携かどうかは登山者次第である。

食料・・・粒食(ごはん)と粉食(パンやラーメン)の違い。

登山計画書・・・・条例化されて義務となった登山計画書。書くことで自分やメンバーの実力と向き合うことになる。
 実際の見本と長野県のWEBからDLした様式も呈示した。いの一番は登山計画書というわけである。
 次は書くための資料収集の選択である。ガイドブックとインターネット経由の情報との質的な違いを指摘した。

山岳遭難の多発傾向への警告・・・体力、技術、服装、装備の準備に怠りがなければ滅多に遭難はない。リーダーの心得、ビバークの心得も示した。残される家族の悲惨さも説明した。

定員は20名のところ19名の受講申込と聞いていた。予備の椅子を出していたから定員は若干オーバーしたのかな。腑に落ちる話になったであろうか。

西三河・岩根山561m(伊熊神社)を歩く2017年06月10日

おぶつなさんは産土神の意味とみられる
 緊急入院からほぼ1ヶ月経過、食欲の回復、ポタリングで大腿筋の鍛錬ともやってきた。まだ2時間3時間の山歩きは自信はない。
 ちょこっと、山を歩いてみようと、試歩の山として選んだのは西三河の岩根山(伊熊神社)であった。等高線を眺めてもほぼ円錐形の立派な山容が推察できる。山頂に三角点はないが、神社マークがある。

 国道153号から、堂ノ脇で左折する。旭高原元気村への案内板がある。惣田町で左折、加塩町からの道で右折する。しばらく走ると伊熊神社社叢へ案内する看板がある。頂上に至る車道で左折。軽四向きの狭い道を走る。どこかで歩き出すと思われたが直下まで行けた。しかし、未舗装になった辺りで車を止めた。歩きだしたらまた舗装になっていた。

 徒歩5分で登頂してしまった。これでは試歩にならない。
 頂上には杉の木立に囲まれた立派なお社が建っていた。これが伊熊神社である。右脇には大木があった。これも祠があり信仰の対象であろう。別社も建っている。裏手に回ると歩道になっていてぐるりと歩ける。裏手の大岩が何か曰くありげであるが何も説明はない。大きな黒御影岩に何かが彫られていた。

 おぶつな(奈の変体がな)さん凡てが凡て七十七の(以下判読不明)

 「おぶつなさん」をググるとと産土神のことであった。

「神道・日本語・日本文化を学ぶ」というHPには
「産土神(うぶすながみ)と氏神(うじがみ)は、世間一般では同じ意味で使われる場合が多いのですが、本来は異なる神として立て分けるべきです。

 産土神(うぶすながみ)とは、土(すな)を産み出す神、大地を始め万物を産み出す神です。
 産土神は、日本神道の神とのみ限定してはいけません。

 日本に限らず、地球上、大地ある限り、その土地に産土神(うぶすながみ)がいらっしゃる。神道であるとか、キリスト教であるとかに関わりなく、地球全土に産土神がいらっしゃるのです。

 この産土神が、その土地をお守りなさいます。
 つまり、その土地に生育する作物、植物、河川、その他の自然物をはじめ、その土地に住む人間の生活全般に密接に関わる働きをしておられるのが産土神です。

 氏神(うじがみ)とは、氏一族があって、その一族を守護する神のことです。
 先祖のみたま祭りをする際には、先祖のみたまたちと、その奥にいらっしゃる氏神様とを、お呼びしてみたま祭りをお仕えします。

 また、先祖のみたまが、あの世で修行を積み重ねて神格化なさると、その家の氏神の一柱となることもあります。」とあった。

 岩根山は産土神の山であったのだ。恐れ多くて三角点など埋設できなかったのだろう。
 それで社殿に近づいて参拝した。すると額がかかっていた。由緒書きである。
 社伝はこの山人らの信仰の歴史を伝えている。
 
一 村社伊熊神社ハ伊熊字笠松ノ海抜千四百尺ノ山上ニ鎮座ス勧請年月は未詳仁治三年再建寛政十年白山大権現ノ称号ノ神祇官統領神祇伯王ヨリ賜リツ安政四年四月正一位ノ位階ヲ賜ハル明治六年大権現ノ称号ヲ廃セラレ村社格トナル大正二年三月村社琴平神社ヲ本社二合祀ス大正八年八月十二日幣帛供進ノ神社ニ指定セラル

一 祭神
菊理比賣命
大物主命

一 境内反別
壱反五畝拾歩

大正九年九月二十七日
以上
 白山大権現とはウィキによれば「白山権現(はくさんごんげん)は白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、十一面観音菩薩を本地仏とする。白山大権現、白山妙理権現とも呼ばれた。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の白山権現社で祀られた。」
 明治6年の廃仏毀釈が仏教と神道を分離してしまった。伊熊神社はかつては白山信仰の拠点だったと思われる。
 「全国の白山権現社の多くは、菊理媛神を祭神とする神道の白山神社となっている。」そうだ。社伝の琴平神社とは大物主命を祭神とする。すると別社がそれだろうか。大正2年の合祀だから比較的新しい。
 こんな小さな神も長い間には結構な波乱の内に鎮座してきたのである。

 小さな山上を一回りすると下山するのみであるが、鳥居の下へ本来の参道が下っていた。地形図では北東へつづく尾根である。それをたどると数分で下の鳥居に着いた。そこには馬頭観音(昭和六年十二月十日の碑文)など3体が建っていた。さらに山に向かって右側に細道が続いていて辿ってみると林道終点に着いた。これも参道だった。
 地形図の破線路も今は林道になったばかりだ。かつては峠道であった。右下に上伊熊の家が見えたので明瞭な山道を下ると草刈り中の人がいた。住民である。猪用のわなの檻の草を刈っていた。2日に1回は来るそうだ。捕まえても食べず、埋設するだけという。伊熊神社の里宮はないらしい。登り返すとさらに反対側にも山道が下っていた。昔は山道で行き来していたのである。
 愛知県の伊熊神社社叢の看板があった。植林の多い愛知県にはこれでも貴重な神社の杜として保存されている。
 参道を登り返した。途中には大岩があり、またまむし草も多かった。地質は花崗岩と思われた。山麓近くまで水田が拓かれているのは水が豊富な証拠である。

*自宅に戻ってから5万の地形図「明智」でチエックしたら平成元年6月18日に登った記録の書き込みがあった。下の鳥居の右側の道から登っていた。全く記憶にない。

日進市の白山宮へポタリング2017年06月02日

日進市の白山宮の参道
 昨日、日進市の五差路に白山という交差点があった。安いガソリンスタンドを求めて走りまわった際に立ち寄ってみた。その名も白山宮とあり、平成になって新築した新しい社殿だった。
 そのうえ、足腰の関節の痛みを取るという「足王社」が本殿の横に移転されていた。サッカー神社ともいうらしい。元々は飯田街道沿いに在ったものらしい。早速参拝した。
 地形図では独立標高点77mのある丘陵地の山腹に位置する。特に山の名前はない。77mの山頂へはひらかれた道があったので登ってみたが何もなかった。植生は照葉樹林の林で眺めはない。
 下山して宮司さんに聞く。名古屋周辺には白山神社が多いこと、私の母の在所も三重県の白山町といった話をした。

HPに整理してあるのでコピペすると祭神は

主祭神 菊理姫命 伊弉冉尊 大巳貴命

配祀神 大山祗神 木花開耶姫命 稻田姫命

                 由 緒
  
 創立年代は不詳であるが、境内に古墳があることから古い年代に求めることができ、加賀国白山のご分霊を勧請した近郷無双の古社である。
 大永3年(1523)本郷城主、丹羽若狭守氏清(天文7年岩崎へ移城)が始めて祭祀を司ったとの記述が見られ、以来、湯立、笹踊り、棒の手、馬の塔(献馬)の神事が氏子によって伝承され、「白山の馬まつり」として人々に親しまれ、普く有名になった。
 近年では茅輪祭をはじめ多くの祭礼に年間を通じ数万人の参拝者が訪れる。
 社地は約1万坪を有し広大無辺なご神徳は、いやちこなるを拝します。
              むすびのご神徳
 主神、ククリヒメの神は、その名の通りすべてのものを括り結び合わせることをご使命とされ、古語に産靈をムスビと言っているように、すべてのものを産む力(生命力)が、生成化育の信仰を生み、人生は結びの和によって一層大きく発展することを教えています。
 離合集散ただならぬ世の中にあって生産者には、生産(むすび)の力を、商人には人を引きつける徳を、交際上には人に和を与え給う大神として、人々の上に、ますますムスビの徳を垂れ給うのであります。
以上

 昨夜は大気が不安定になり、雷鳴が響いた。風は北から吹いてくるので冷たい風と暖かい空気との摩擦で雷が起きたのだろう。寝付きにくいが、6月ともなると夜が短い。朝6時目覚め、6時30分には出発できた。自転車にまたがり、いつものコースを走る。三河山間部に雲が多いが、猿投山は見えている。
 本郷町から県道57を横切り、左折して山に向かうと白山宮のPに着く。自転車も置く。約35分のポタリングだった。途中、写真撮影もあるので25分くらいだ。ちょうどいい運動量になる。
 石の鳥居の右手に由緒が書かれている。古墳への道もついている。立派な参道である。新しい花崗岩の石畳が登ってゆく。上部で石段になる。まずは本殿に参拝し、続いて足王社に参拝した。昨日は中年の女性が参拝していた。若くても足腰の痛みはあるのだろう。サッカーの選手も参拝にきたようである。プロは練習と試合で怪我だらけであろう。時に神頼みにもなるのだ。
 77mへの登頂は省略して下山した。また自転車にまたがって日進の田園地帯を走った。大ぶりの野鳥が代田にいるのでよく見たらカイツブリのようである。珍しい鳥ではないが近くで見ると大きい。
 名古屋市平針駅に近くなると裏道、抜け道も途端に交通量が増えた。走らなくなると同時に危険を感じる。喫茶店で一休みして帰宅した。

NHKウィチュウ「ゆる山へGO」録画登山行2017年04月29日

 山岳会の先輩筋から「ゆる山」に出ないか、と話があったのはかなり前のことになる。漠然とした話なのでなかなかイメージもつかめなかった。
 平成7年に『ひと味違う名古屋からの山旅』の出版にちなんだ民放TV局出演の経験もあるにはある。あの時はまるっと2日間つきっきりだったが、本の宣伝をしてあげるのだから、と出演料もなくボランティアになった。
 今回も天下のNHK様であり、山岳会経由なのでまたボランティアのつもりで引き受けた。ゆる山の候補10座選定以上には打ち合わせも進まず、どうなることかと思っていたら4月中旬になって急速に進展した。
 ゆる山の候補は10座あげて2座に絞り、カメラマンのことを配慮して寧比曽岳を1番手で推薦。2番手に岩小谷山を推薦。展望と手軽さを優先して岩小谷山に変更、下見にびわくぼ峠に登山してみたが、重たいTVカメラを携えては危険と察したので再び寧比曽岳に変更した。
 下見登山は4月21日に制作会社の担当者と同行して無難に終えた。当初、4月29日に予定したが、天気が変わりやすいので28日に繰り上げてもらった。 
 28日は快晴になった。朝4時半起床。マンションの窓から見ると東の三河高原の方が朝焼けしている。北風でやや寒そうだ。熱いお茶を飲む。テルモスにも熱いお茶を入れた。お茶は橋幸夫大使推薦の静岡茶である。朝食と久々にメンパに弁当を詰めた。6時前に出発。NHK前にはすでに1台ごついランクルが止まっていた。歩荷役のHさんだった。舘谷キャスター、カメラ、音声、監督のスタッフ3名と揃い出発。東新町ICから高速をつないで、東海環状に入り、鞍ヶ池PAスマートICから県道にでて足助へ。少し買い物を済ます。県道33を遡ると大多賀峠はすぐだ。ここに歩荷さんと案内の私はマイカーをデポする。
 1台に同乗。段戸湖の登山口に着いた。するとマイカーが半分ほど埋まっている。釣り客でもないが・・・。

 録画撮りはここから始まった。27歳といううら若き舘谷春香キャスターをガイドするという役目でカメラに向かってなにやら台本も持たず台詞をしゃべる。もとよりしゃべるのは得意ではないが思いついたことを言う。道道歩きながらしゃべることになる。林道のゲートから先が裏谷原生林の領域になる。
 ゲートを入った途端、せせらぎの方に大きなカメラを抱えたバードウォッチャーさんが屯していた。ははん、車は彼らだったのだ。なにやら小鳥の営巣地があるらしい。
 そこを離れて少し先で超望遠レンズを持ったバードウォッチャーに出会った。スタッフが声をかける。小鳥談義をする。見せてもらうと鮮明な小鳥の画像にびっくりする。おそらく何十万円もするだろう超望遠レンズで撮影するのだろう。
 五六橋で右折、トイレの場所から山道へ入る。いよいよ核心部である。せせらぎに沿う山道はこころを癒される。細道がせせらぎに下りているので水辺に近づいた。下見では魚影があったが今日は見えない。ササやぶ越しに若草が見えた。対岸に渡るとバイケイソウだった。流れが変わったので湿地帯になり、少数ながらバイケイソウの群落になったのだ。日光に映えて若草が美しい。
 せせらぎを後に、道々樹木の大きさに圧倒される。樹齢200年から300年ともいう。明治維新の50年前からの樹齢になる。下見の際は芽吹きも少なかったが1週間で森林は若やぐ感じになり、芽吹き、花も増えた。但し、シロモジかアブラチャンなのか図鑑なしでは同定出来ないのが残念。小鳥のコロニーでもあるのか鳴き声も盛んだ。いくらも標高差はなく900mから1000mまでゆったりとした歩みを楽しむ。これが愛知県随一の原生林である。大迫力の映像になったのではないか。
 峠状(菜畑峠)の乗り越しで一服。今までは矢作川水系でここからは豊川水系になる。山腹を巻くように檜の植林帯の水平道を歩く。途中で林道と交差する。そこの枯れ枝の配置から道迷い防止への見知らぬ登山者同士の配慮について説明する。
 さらに進む。湧水は飲んでいいと説明。駒鳥に続いて筒鳥が聞こえてきた。やや小さいと音声さんが嘆く。峠状(富士見峠)の鞍部に着いた。小休止後、1140m峰へ最後の登りが始まる。以前はササをかき分けて登らされたが、刈り払いされて、明るい。比高200mもないのですぐ到着。トイレが更新された。中電反射板を見にゆく。休み場には御料局三角点があった。かつては皇室の御料林の名残だ。
 緩やかに下って少し登り返すと三角点の埋まる山頂である。ここでもカメラに向かって舘谷キャスターと並び登頂の喜びをしゃべる。録画はこれで完了。やっと終わった。
 今日は山頂からのパノラマも素晴らしい。御岳、恵那山、南アルプスの巨峰群、北に目を転じると山霞みの中にぼうーっと浮かんだのは名古屋駅前のビル群だった。舘谷さんも大喜びだった。
 ウィチューでは川柳を募っているので舘谷さんも一句ひねった。私は俳人なので俳句を即興で詠んだ。

  遥かなる(春香)名古屋のビルも霞みけり

 春香さんの名前を織り込むつもりはなかったが結果として織り込んだ。これはオフレコである。

 私はかつて正月休みに4回渡道した。いずれも山スキーが目的だった。その計画の中に春香山もあったがついに叶わぬ夢に終わった。北海道の山は気温が低く、低山でも山麓まで真っ白になる。但し天気も悪いので登頂の実績は少なかった。
 彼女は東京生まれだが、名前から両親のうちどちらかが北海道出身と推察して聞いてみたら図星だった。大抵は父親である。
 誕生して雪ん子のような真っ白な愛娘を抱いた。たちまち故郷の春香山の白皚々(しろがいがい)とした山容が目に浮かんだ。そうだ、春香と名づけよう、と。まったくの想像であるが・・・。

 舘谷春香さんはスレンダー美人である。去る3月のフルマラソンも4時間台で走るとか。ほっそりした体つきはアスリートゆえだった。それなら心肺機能は発達しており、日帰り登山ぐらいは楽にこなせる。今回は入道ヶ岳に続いて2回目になる。さらに登山の面白さを倍増させたようだ。
 舘谷春香さんは文学を志す。川柳以外に小説を書くし短歌も詠むとか。以前の赴任先の富山は万葉集の故地だ。北日本新聞は文学賞を募る。裏日本の人達は筆豆である。そんな土地で4年も住めば物書きになる素地ができるのだろう。実際、山の本でも福井、石川、富山、新潟の岳人は出版をよくする。
 録画は直ちに編集されて7分に集約されるそうな。映像の情報力は半端じゃないからきっと充実したものになるだろう。そうあってほしいもの。
   春更けて足助の山に登るなり

豊田市自然観察の森内写真展に行く2017年04月01日

 今日は朝から菜種梅雨と思われる篠つく雨模様でした。矢作川流域の地域広報を担う「矢作新報」(3/31付)の4面に50年来の旧友がミニ写真展を開催中と報じたので行ってきました。テーマは「矢作川源流の森」で3/28から4/6まで。月曜休み。
 写真家の安江邦幸さんは矢作川源流に絞り込んで風景写真13枚を展示している。大川入山、茶臼山、面の木峠、段戸裏谷原生林など。ユニークと思うのはこの写真をだれが喜んでみてくれるかと考えて、源流の平谷村の小学校を28校巡回したとのこと。今は春休みなのでここという。今後は西尾市など下流域に下って展示するそうだ。
 自然観察の森は、かつて鎌倉市を旅した際、里山の田や畑もそっくり残して開発の手から守り市民が自由に歩けるように整備した鎌倉広町(48ha)の保全活動に似ている。ここは124.5haあって一周すると2時間はかかるそうだから規模的には上回る。しかし、鎌倉は公共交通のアクセスがよく、第一級の観光地に隣接するがここは公共交通機関もバスしかなく目玉がないのが惜しい。しかし、シデコブシという東海地方だけで見られる珍しい花も咲く。一見の価値はある。

沢登り研修2016年09月04日

 山岳会会員の技術の底上げを狙いとして研修を企画された。沢登りの方は頼むというので当方がリーダーを務めることになった。指導するほどの高いレベルの知識・技術・経験などがあるわけではない。只、山行の年季だけは長い。毎月1回は山へ行く。これを40年近く休まず続けている。しかも一般登山のみならず、ヤブ山から沢登り、山スキーを一応はこなす。やらないのは本格的な冬山と海外遠征である。
 ヒマラヤ遠征とか若いころに一時的に本格的な冬山に打込んだ人は多いがほとんどは結婚や仕事の都合でリタイヤ、中断する。そんな人が50歳代になって山岳会に戻っても空白を埋めることはできない。大抵は理屈をいうだけになる。また、話をすると休日はゴルフ、テニスという人も多い。つまり登山をレジャーの中のスポーツという一面でしかとらえていない。山岳会の指導者層には案外こんな人が多いのだ。むしろ、ゴルフの話をしている時の方が楽しそうである。
 私の場合は登山をスポーツを含めた文化としてとらえる。
 沢登りは登山技術の一ジャンルというだけの把握では心もとない。岩登りが登山技術の基本とすれば、沢登りは登山文化の粋ではないかと思っている。尾根を伐開して道を開くまでは沢登りは登山の方法であった。登山技術の総合力を試される、という。即ち、滝を攀じ登るのは岩登り技術の応用である。途中でビバークする場合は幕営と生活技術が試される。
 その中の重要なものは焚火である。町中は当然であるが田舎でも焚火は堂々とやりにくい時代になった。ちょっとしたコツがわからなくなったのだ。
 古新聞紙を火種に枯葉、枯れ枝、流木を燃やすだけのことであるが、これが意外に難しい。時にはローソクやメタを使って火種の維持に努めるが中々に着火しない。焚火なしで寝るのは寒いし、着衣が濡れてはシュラフにも入れない。何とか100%のコツをつかみたいと思っていた。それで3個100円の料理用メタを常用したりもしてきた。
 着火の基本は火床になる地面に石を敷き詰めて地面からの水蒸気を遮断すると成功率が格段に上がると知った。たったこれだけのコツをつかむのに長年苦労したのである。これを知ってからはメタも不要になった。沢登りでツエルト張り終えて、料理の用意とともに焚火の枯れ枝集めは重要な仕事である。しかも明るいうちに集めねばならない。焚火は実用性ばかりでなく心を落ち着かせる効果もある。贅沢な時間の演出家であった。
 人類と獣の違いは第一に火を扱うことであった。火をコントロールすることであった。火の力は暖かい、焼く、煮る、乾かす、殺菌する、明るい、これは文化である。コントロールに失敗すると火事になる。焼失もする。軽量携帯のガスコンロ、石油コンロもあるが焚火はマッチ1本で自然にあるエネルギーを取り出し利用する。
 さて、一般登山では足を交互に動かせば先へ進める。沢登りは大抵は足場は濡れて滑りやすい。そこをバランスよく攀じる。また道標もないから読図力とRFが重要になる。総合力は随所で試されるのである。
 今回は台風の影響で急な増水を心配する向きもあった。しかし、栃を中心とする落葉広葉樹林の原生林は保水力が良いとされる。テントのフライを激しく叩く夜来の雨にも関わらず、顕著な増水はなかった。但し、日本アルプスなどの岩場の多い山では増水(鉄砲水)は必至であろう。ユメ入るべからずである。
 朝4時起床。前夜のうちに炊いて置いたご飯に鶏鍋を温めて朝食を済ます。テント撤収。林道を下って、6時前に入渓。最初はヤブっぽい渓相にがっかりするが1時間もしないうちに栃の原生林になって空が高くなった。しかも長々と滑滝になって奥へと続く。滝はすべて自力で越える。次は次はと期待して遡るうちに右岸に虎ロープが垂れ下がる滝に来た。これは滝の左を攀じ登った。ここでメンバーの1人が目に傷を負うアクシデントがあった。1人でリタイアさせたが、滝を登ったところで降雨があった。これ以上は雨雲の領域に突っ込んで行くことになる。
 昨日の偵察で、ここからの山道を辿れば林道終点に行けるので全員の撤退を決めた。行程の四分の一くらいだが、滑、滝、栃の原生林という美味しい部分は味わったのである。この先には溝状の滝が楽しみだったが後日に期することとした。
 山道は崩壊花崗岩の山の斜面を開削して開いた。林道に着いて国見峠方面を眺めると標高900m以上は雨雲に隠れていた。テント場まで下り、装備をはずし片づけた。池田温泉の開場は10時なのでそれまでの時間活用に揖斐川町の播隆上人ゆかりの一心寺の訪問を提案したら全員が乗ってきた。
 春日村美束で24℃の涼しい気温は平野部では32℃に上がった。台風の影響で亜熱帯独特の暑さにうんざりする。狭い路地を走り抜けて一心寺に到着した。少し歩いて城台山の城跡にも登った。一応頂上である。少し下に点名城台山4等三角点もあった。慰めにはなる。再び車で池田温泉に移動した。中々の名湯である。効験が顕著なのか朝から開場を待つ人もいた。ぬるぬるした成分がいかにもと思う。さっぱりした後は炎熱の名古屋に帰って解散した。とはいえ、まだ12時前だ。ベランダに濡れたテントとフライを干すと風にはためく。フエルト靴の泥を洗ってベランダに干す。次はまたどこの沢へ行けるのかな。