西三河・岩根山561m(伊熊神社)を歩く2017年06月10日

おぶつなさんは産土神の意味とみられる
 緊急入院からほぼ1ヶ月経過、食欲の回復、ポタリングで大腿筋の鍛錬ともやってきた。まだ2時間3時間の山歩きは自信はない。
 ちょこっと、山を歩いてみようと、試歩の山として選んだのは西三河の岩根山(伊熊神社)であった。等高線を眺めてもほぼ円錐形の立派な山容が推察できる。山頂に三角点はないが、神社マークがある。

 国道153号から、堂ノ脇で左折する。旭高原元気村への案内板がある。惣田町で左折、加塩町からの道で右折する。しばらく走ると伊熊神社社叢へ案内する看板がある。頂上に至る車道で左折。軽四向きの狭い道を走る。どこかで歩き出すと思われたが直下まで行けた。しかし、未舗装になった辺りで車を止めた。歩きだしたらまた舗装になっていた。

 徒歩5分で登頂してしまった。これでは試歩にならない。
 頂上には杉の木立に囲まれた立派なお社が建っていた。これが伊熊神社である。右脇には大木があった。これも祠があり信仰の対象であろう。別社も建っている。裏手に回ると歩道になっていてぐるりと歩ける。裏手の大岩が何か曰くありげであるが何も説明はない。大きな黒御影岩に何かが彫られていた。

 おぶつな(奈の変体がな)さん凡てが凡て七十七の(以下判読不明)

 「おぶつなさん」をググるとと産土神のことであった。

「神道・日本語・日本文化を学ぶ」というHPには
「産土神(うぶすながみ)と氏神(うじがみ)は、世間一般では同じ意味で使われる場合が多いのですが、本来は異なる神として立て分けるべきです。

 産土神(うぶすながみ)とは、土(すな)を産み出す神、大地を始め万物を産み出す神です。
 産土神は、日本神道の神とのみ限定してはいけません。

 日本に限らず、地球上、大地ある限り、その土地に産土神(うぶすながみ)がいらっしゃる。神道であるとか、キリスト教であるとかに関わりなく、地球全土に産土神がいらっしゃるのです。

 この産土神が、その土地をお守りなさいます。
 つまり、その土地に生育する作物、植物、河川、その他の自然物をはじめ、その土地に住む人間の生活全般に密接に関わる働きをしておられるのが産土神です。

 氏神(うじがみ)とは、氏一族があって、その一族を守護する神のことです。
 先祖のみたま祭りをする際には、先祖のみたまたちと、その奥にいらっしゃる氏神様とを、お呼びしてみたま祭りをお仕えします。

 また、先祖のみたまが、あの世で修行を積み重ねて神格化なさると、その家の氏神の一柱となることもあります。」とあった。

 岩根山は産土神の山であったのだ。恐れ多くて三角点など埋設できなかったのだろう。
 それで社殿に近づいて参拝した。すると額がかかっていた。由緒書きである。
 社伝はこの山人らの信仰の歴史を伝えている。
 
一 村社伊熊神社ハ伊熊字笠松ノ海抜千四百尺ノ山上ニ鎮座ス勧請年月は未詳仁治三年再建寛政十年白山大権現ノ称号ノ神祇官統領神祇伯王ヨリ賜リツ安政四年四月正一位ノ位階ヲ賜ハル明治六年大権現ノ称号ヲ廃セラレ村社格トナル大正二年三月村社琴平神社ヲ本社二合祀ス大正八年八月十二日幣帛供進ノ神社ニ指定セラル

一 祭神
菊理比賣命
大物主命

一 境内反別
壱反五畝拾歩

大正九年九月二十七日
以上
 白山大権現とはウィキによれば「白山権現(はくさんごんげん)は白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、十一面観音菩薩を本地仏とする。白山大権現、白山妙理権現とも呼ばれた。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の白山権現社で祀られた。」
 明治6年の廃仏毀釈が仏教と神道を分離してしまった。伊熊神社はかつては白山信仰の拠点だったと思われる。
 「全国の白山権現社の多くは、菊理媛神を祭神とする神道の白山神社となっている。」そうだ。社伝の琴平神社とは大物主命を祭神とする。すると別社がそれだろうか。大正2年の合祀だから比較的新しい。
 こんな小さな神も長い間には結構な波乱の内に鎮座してきたのである。

 小さな山上を一回りすると下山するのみであるが、鳥居の下へ本来の参道が下っていた。地形図では北東へつづく尾根である。それをたどると数分で下の鳥居に着いた。そこには馬頭観音(昭和六年十二月十日の碑文)など3体が建っていた。さらに山に向かって右側に細道が続いていて辿ってみると林道終点に着いた。これも参道だった。
 地形図の破線路も今は林道になったばかりだ。かつては峠道であった。右下に上伊熊の家が見えたので明瞭な山道を下ると草刈り中の人がいた。住民である。猪用のわなの檻の草を刈っていた。2日に1回は来るそうだ。捕まえても食べず、埋設するだけという。伊熊神社の里宮はないらしい。登り返すとさらに反対側にも山道が下っていた。昔は山道で行き来していたのである。
 愛知県の伊熊神社社叢の看板があった。植林の多い愛知県にはこれでも貴重な神社の杜として保存されている。
 参道を登り返した。途中には大岩があり、またまむし草も多かった。地質は花崗岩と思われた。山麓近くまで水田が拓かれているのは水が豊富な証拠である。

*自宅に戻ってから5万の地形図「明智」でチエックしたら平成元年6月18日に登った記録の書き込みがあった。下の鳥居の右側の道から登っていた。全く記憶にない。

日進市の白山宮へポタリング2017年06月02日

日進市の白山宮の参道
 昨日、日進市の五差路に白山という交差点があった。安いガソリンスタンドを求めて走りまわった際に立ち寄ってみた。その名も白山宮とあり、平成になって新築した新しい社殿だった。
 そのうえ、足腰の関節の痛みを取るという「足王社」が本殿の横に移転されていた。サッカー神社ともいうらしい。元々は飯田街道沿いに在ったものらしい。早速参拝した。
 地形図では独立標高点77mのある丘陵地の山腹に位置する。特に山の名前はない。77mの山頂へはひらかれた道があったので登ってみたが何もなかった。植生は照葉樹林の林で眺めはない。
 下山して宮司さんに聞く。名古屋周辺には白山神社が多いこと、私の母の在所も三重県の白山町といった話をした。

HPに整理してあるのでコピペすると祭神は

主祭神 菊理姫命 伊弉冉尊 大巳貴命

配祀神 大山祗神 木花開耶姫命 稻田姫命

                 由 緒
  
 創立年代は不詳であるが、境内に古墳があることから古い年代に求めることができ、加賀国白山のご分霊を勧請した近郷無双の古社である。
 大永3年(1523)本郷城主、丹羽若狭守氏清(天文7年岩崎へ移城)が始めて祭祀を司ったとの記述が見られ、以来、湯立、笹踊り、棒の手、馬の塔(献馬)の神事が氏子によって伝承され、「白山の馬まつり」として人々に親しまれ、普く有名になった。
 近年では茅輪祭をはじめ多くの祭礼に年間を通じ数万人の参拝者が訪れる。
 社地は約1万坪を有し広大無辺なご神徳は、いやちこなるを拝します。
              むすびのご神徳
 主神、ククリヒメの神は、その名の通りすべてのものを括り結び合わせることをご使命とされ、古語に産靈をムスビと言っているように、すべてのものを産む力(生命力)が、生成化育の信仰を生み、人生は結びの和によって一層大きく発展することを教えています。
 離合集散ただならぬ世の中にあって生産者には、生産(むすび)の力を、商人には人を引きつける徳を、交際上には人に和を与え給う大神として、人々の上に、ますますムスビの徳を垂れ給うのであります。
以上

 昨夜は大気が不安定になり、雷鳴が響いた。風は北から吹いてくるので冷たい風と暖かい空気との摩擦で雷が起きたのだろう。寝付きにくいが、6月ともなると夜が短い。朝6時目覚め、6時30分には出発できた。自転車にまたがり、いつものコースを走る。三河山間部に雲が多いが、猿投山は見えている。
 本郷町から県道57を横切り、左折して山に向かうと白山宮のPに着く。自転車も置く。約35分のポタリングだった。途中、写真撮影もあるので25分くらいだ。ちょうどいい運動量になる。
 石の鳥居の右手に由緒が書かれている。古墳への道もついている。立派な参道である。新しい花崗岩の石畳が登ってゆく。上部で石段になる。まずは本殿に参拝し、続いて足王社に参拝した。昨日は中年の女性が参拝していた。若くても足腰の痛みはあるのだろう。サッカーの選手も参拝にきたようである。プロは練習と試合で怪我だらけであろう。時に神頼みにもなるのだ。
 77mへの登頂は省略して下山した。また自転車にまたがって日進の田園地帯を走った。大ぶりの野鳥が代田にいるのでよく見たらカイツブリのようである。珍しい鳥ではないが近くで見ると大きい。
 名古屋市平針駅に近くなると裏道、抜け道も途端に交通量が増えた。走らなくなると同時に危険を感じる。喫茶店で一休みして帰宅した。

NHKウィチュウ「ゆる山へGO」録画登山行2017年04月29日

 山岳会の先輩筋から「ゆる山」に出ないか、と話があったのはかなり前のことになる。漠然とした話なのでなかなかイメージもつかめなかった。
 平成7年に『ひと味違う名古屋からの山旅』の出版にちなんだ民放TV局出演の経験もあるにはある。あの時はまるっと2日間つきっきりだったが、本の宣伝をしてあげるのだから、と出演料もなくボランティアになった。
 今回も天下のNHK様であり、山岳会経由なのでまたボランティアのつもりで引き受けた。ゆる山の候補10座選定以上には打ち合わせも進まず、どうなることかと思っていたら4月中旬になって急速に進展した。
 ゆる山の候補は10座あげて2座に絞り、カメラマンのことを配慮して寧比曽岳を1番手で推薦。2番手に岩小谷山を推薦。展望と手軽さを優先して岩小谷山に変更、下見にびわくぼ峠に登山してみたが、重たいTVカメラを携えては危険と察したので再び寧比曽岳に変更した。
 下見登山は4月21日に制作会社の担当者と同行して無難に終えた。当初、4月29日に予定したが、天気が変わりやすいので28日に繰り上げてもらった。 
 28日は快晴になった。朝4時半起床。マンションの窓から見ると東の三河高原の方が朝焼けしている。北風でやや寒そうだ。熱いお茶を飲む。テルモスにも熱いお茶を入れた。お茶は橋幸夫大使推薦の静岡茶である。朝食と久々にメンパに弁当を詰めた。6時前に出発。NHK前にはすでに1台ごついランクルが止まっていた。歩荷役のHさんだった。舘谷キャスター、カメラ、音声、監督のスタッフ3名と揃い出発。東新町ICから高速をつないで、東海環状に入り、鞍ヶ池PAスマートICから県道にでて足助へ。少し買い物を済ます。県道33を遡ると大多賀峠はすぐだ。ここに歩荷さんと案内の私はマイカーをデポする。
 1台に同乗。段戸湖の登山口に着いた。するとマイカーが半分ほど埋まっている。釣り客でもないが・・・。

 録画撮りはここから始まった。27歳といううら若き舘谷春香キャスターをガイドするという役目でカメラに向かってなにやら台本も持たず台詞をしゃべる。もとよりしゃべるのは得意ではないが思いついたことを言う。道道歩きながらしゃべることになる。林道のゲートから先が裏谷原生林の領域になる。
 ゲートを入った途端、せせらぎの方に大きなカメラを抱えたバードウォッチャーさんが屯していた。ははん、車は彼らだったのだ。なにやら小鳥の営巣地があるらしい。
 そこを離れて少し先で超望遠レンズを持ったバードウォッチャーに出会った。スタッフが声をかける。小鳥談義をする。見せてもらうと鮮明な小鳥の画像にびっくりする。おそらく何十万円もするだろう超望遠レンズで撮影するのだろう。
 五六橋で右折、トイレの場所から山道へ入る。いよいよ核心部である。せせらぎに沿う山道はこころを癒される。細道がせせらぎに下りているので水辺に近づいた。下見では魚影があったが今日は見えない。ササやぶ越しに若草が見えた。対岸に渡るとバイケイソウだった。流れが変わったので湿地帯になり、少数ながらバイケイソウの群落になったのだ。日光に映えて若草が美しい。
 せせらぎを後に、道々樹木の大きさに圧倒される。樹齢200年から300年ともいう。明治維新の50年前からの樹齢になる。下見の際は芽吹きも少なかったが1週間で森林は若やぐ感じになり、芽吹き、花も増えた。但し、シロモジかアブラチャンなのか図鑑なしでは同定出来ないのが残念。小鳥のコロニーでもあるのか鳴き声も盛んだ。いくらも標高差はなく900mから1000mまでゆったりとした歩みを楽しむ。これが愛知県随一の原生林である。大迫力の映像になったのではないか。
 峠状(菜畑峠)の乗り越しで一服。今までは矢作川水系でここからは豊川水系になる。山腹を巻くように檜の植林帯の水平道を歩く。途中で林道と交差する。そこの枯れ枝の配置から道迷い防止への見知らぬ登山者同士の配慮について説明する。
 さらに進む。湧水は飲んでいいと説明。駒鳥に続いて筒鳥が聞こえてきた。やや小さいと音声さんが嘆く。峠状(富士見峠)の鞍部に着いた。小休止後、1140m峰へ最後の登りが始まる。以前はササをかき分けて登らされたが、刈り払いされて、明るい。比高200mもないのですぐ到着。トイレが更新された。中電反射板を見にゆく。休み場には御料局三角点があった。かつては皇室の御料林の名残だ。
 緩やかに下って少し登り返すと三角点の埋まる山頂である。ここでもカメラに向かって舘谷キャスターと並び登頂の喜びをしゃべる。録画はこれで完了。やっと終わった。
 今日は山頂からのパノラマも素晴らしい。御岳、恵那山、南アルプスの巨峰群、北に目を転じると山霞みの中にぼうーっと浮かんだのは名古屋駅前のビル群だった。舘谷さんも大喜びだった。
 ウィチューでは川柳を募っているので舘谷さんも一句ひねった。私は俳人なので俳句を即興で詠んだ。

  遥かなる(春香)名古屋のビルも霞みけり

 春香さんの名前を織り込むつもりはなかったが結果として織り込んだ。これはオフレコである。

 私はかつて正月休みに4回渡道した。いずれも山スキーが目的だった。その計画の中に春香山もあったがついに叶わぬ夢に終わった。北海道の山は気温が低く、低山でも山麓まで真っ白になる。但し天気も悪いので登頂の実績は少なかった。
 彼女は東京生まれだが、名前から両親のうちどちらかが北海道出身と推察して聞いてみたら図星だった。大抵は父親である。
 誕生して雪ん子のような真っ白な愛娘を抱いた。たちまち故郷の春香山の白皚々(しろがいがい)とした山容が目に浮かんだ。そうだ、春香と名づけよう、と。まったくの想像であるが・・・。

 舘谷春香さんはスレンダー美人である。去る3月のフルマラソンも4時間台で走るとか。ほっそりした体つきはアスリートゆえだった。それなら心肺機能は発達しており、日帰り登山ぐらいは楽にこなせる。今回は入道ヶ岳に続いて2回目になる。さらに登山の面白さを倍増させたようだ。
 舘谷春香さんは文学を志す。川柳以外に小説を書くし短歌も詠むとか。以前の赴任先の富山は万葉集の故地だ。北日本新聞は文学賞を募る。裏日本の人達は筆豆である。そんな土地で4年も住めば物書きになる素地ができるのだろう。実際、山の本でも福井、石川、富山、新潟の岳人は出版をよくする。
 録画は直ちに編集されて7分に集約されるそうな。映像の情報力は半端じゃないからきっと充実したものになるだろう。そうあってほしいもの。
   春更けて足助の山に登るなり

豊田市自然観察の森内写真展に行く2017年04月01日

 今日は朝から菜種梅雨と思われる篠つく雨模様でした。矢作川流域の地域広報を担う「矢作新報」(3/31付)の4面に50年来の旧友がミニ写真展を開催中と報じたので行ってきました。テーマは「矢作川源流の森」で3/28から4/6まで。月曜休み。
 写真家の安江邦幸さんは矢作川源流に絞り込んで風景写真13枚を展示している。大川入山、茶臼山、面の木峠、段戸裏谷原生林など。ユニークと思うのはこの写真をだれが喜んでみてくれるかと考えて、源流の平谷村の小学校を28校巡回したとのこと。今は春休みなのでここという。今後は西尾市など下流域に下って展示するそうだ。
 自然観察の森は、かつて鎌倉市を旅した際、里山の田や畑もそっくり残して開発の手から守り市民が自由に歩けるように整備した鎌倉広町(48ha)の保全活動に似ている。ここは124.5haあって一周すると2時間はかかるそうだから規模的には上回る。しかし、鎌倉は公共交通のアクセスがよく、第一級の観光地に隣接するがここは公共交通機関もバスしかなく目玉がないのが惜しい。しかし、シデコブシという東海地方だけで見られる珍しい花も咲く。一見の価値はある。

沢登り研修2016年09月04日

 山岳会会員の技術の底上げを狙いとして研修を企画された。沢登りの方は頼むというので当方がリーダーを務めることになった。指導するほどの高いレベルの知識・技術・経験などがあるわけではない。只、山行の年季だけは長い。毎月1回は山へ行く。これを40年近く休まず続けている。しかも一般登山のみならず、ヤブ山から沢登り、山スキーを一応はこなす。やらないのは本格的な冬山と海外遠征である。
 ヒマラヤ遠征とか若いころに一時的に本格的な冬山に打込んだ人は多いがほとんどは結婚や仕事の都合でリタイヤ、中断する。そんな人が50歳代になって山岳会に戻っても空白を埋めることはできない。大抵は理屈をいうだけになる。また、話をすると休日はゴルフ、テニスという人も多い。つまり登山をレジャーの中のスポーツという一面でしかとらえていない。山岳会の指導者層には案外こんな人が多いのだ。むしろ、ゴルフの話をしている時の方が楽しそうである。
 私の場合は登山をスポーツを含めた文化としてとらえる。
 沢登りは登山技術の一ジャンルというだけの把握では心もとない。岩登りが登山技術の基本とすれば、沢登りは登山文化の粋ではないかと思っている。尾根を伐開して道を開くまでは沢登りは登山の方法であった。登山技術の総合力を試される、という。即ち、滝を攀じ登るのは岩登り技術の応用である。途中でビバークする場合は幕営と生活技術が試される。
 その中の重要なものは焚火である。町中は当然であるが田舎でも焚火は堂々とやりにくい時代になった。ちょっとしたコツがわからなくなったのだ。
 古新聞紙を火種に枯葉、枯れ枝、流木を燃やすだけのことであるが、これが意外に難しい。時にはローソクやメタを使って火種の維持に努めるが中々に着火しない。焚火なしで寝るのは寒いし、着衣が濡れてはシュラフにも入れない。何とか100%のコツをつかみたいと思っていた。それで3個100円の料理用メタを常用したりもしてきた。
 着火の基本は火床になる地面に石を敷き詰めて地面からの水蒸気を遮断すると成功率が格段に上がると知った。たったこれだけのコツをつかむのに長年苦労したのである。これを知ってからはメタも不要になった。沢登りでツエルト張り終えて、料理の用意とともに焚火の枯れ枝集めは重要な仕事である。しかも明るいうちに集めねばならない。焚火は実用性ばかりでなく心を落ち着かせる効果もある。贅沢な時間の演出家であった。
 人類と獣の違いは第一に火を扱うことであった。火をコントロールすることであった。火の力は暖かい、焼く、煮る、乾かす、殺菌する、明るい、これは文化である。コントロールに失敗すると火事になる。焼失もする。軽量携帯のガスコンロ、石油コンロもあるが焚火はマッチ1本で自然にあるエネルギーを取り出し利用する。
 さて、一般登山では足を交互に動かせば先へ進める。沢登りは大抵は足場は濡れて滑りやすい。そこをバランスよく攀じる。また道標もないから読図力とRFが重要になる。総合力は随所で試されるのである。
 今回は台風の影響で急な増水を心配する向きもあった。しかし、栃を中心とする落葉広葉樹林の原生林は保水力が良いとされる。テントのフライを激しく叩く夜来の雨にも関わらず、顕著な増水はなかった。但し、日本アルプスなどの岩場の多い山では増水(鉄砲水)は必至であろう。ユメ入るべからずである。
 朝4時起床。前夜のうちに炊いて置いたご飯に鶏鍋を温めて朝食を済ます。テント撤収。林道を下って、6時前に入渓。最初はヤブっぽい渓相にがっかりするが1時間もしないうちに栃の原生林になって空が高くなった。しかも長々と滑滝になって奥へと続く。滝はすべて自力で越える。次は次はと期待して遡るうちに右岸に虎ロープが垂れ下がる滝に来た。これは滝の左を攀じ登った。ここでメンバーの1人が目に傷を負うアクシデントがあった。1人でリタイアさせたが、滝を登ったところで降雨があった。これ以上は雨雲の領域に突っ込んで行くことになる。
 昨日の偵察で、ここからの山道を辿れば林道終点に行けるので全員の撤退を決めた。行程の四分の一くらいだが、滑、滝、栃の原生林という美味しい部分は味わったのである。この先には溝状の滝が楽しみだったが後日に期することとした。
 山道は崩壊花崗岩の山の斜面を開削して開いた。林道に着いて国見峠方面を眺めると標高900m以上は雨雲に隠れていた。テント場まで下り、装備をはずし片づけた。池田温泉の開場は10時なのでそれまでの時間活用に揖斐川町の播隆上人ゆかりの一心寺の訪問を提案したら全員が乗ってきた。
 春日村美束で24℃の涼しい気温は平野部では32℃に上がった。台風の影響で亜熱帯独特の暑さにうんざりする。狭い路地を走り抜けて一心寺に到着した。少し歩いて城台山の城跡にも登った。一応頂上である。少し下に点名城台山4等三角点もあった。慰めにはなる。再び車で池田温泉に移動した。中々の名湯である。効験が顕著なのか朝から開場を待つ人もいた。ぬるぬるした成分がいかにもと思う。さっぱりした後は炎熱の名古屋に帰って解散した。とはいえ、まだ12時前だ。ベランダに濡れたテントとフライを干すと風にはためく。フエルト靴の泥を洗ってベランダに干す。次はまたどこの沢へ行けるのかな。

東三河・本宮山 くらがり溪谷から登り風頭山へ下る2016年06月19日

           くらがり渓谷へ
 東名高速の岡崎ICから出て県道37を走るつもりがうっかりパスしてしまい、音羽蒲郡ICまで走った。本宿まで戻ってR473から樫山町月秋の交差点で県道37を右折しくらがり溪谷の駐車場に着いた。この際、新東名の岡崎東ICの傍を通った。高速で来るならここが一番近いと知った。
 地図上のイメージではもっと山深い気がしたから意外である。「岡崎東IC くらがり渓谷」で距離を検索すると旧岡崎市の東のよしの屋の岡崎東店からになるのはまだ認知されていないからだろう。名鉄の東岡崎駅もあり、しばらくは混乱する。そもそもここを岡崎東とするのは無理がある。額田なる歴史ある地名は地図から完全に抹消されたのは寂しい。せめて岡崎額田ICに変更を希望する。
          くらがり溪谷を歩く
 さて、午前6時50分に着いたが、駐車場の開場は午前9時からになる。待っても居れないので、鍵はないのでチェーンを外して入った。7時過ぎに静寂のくらがり渓谷を歩きはじめる。といっても山上まで車道の通過できる林道歩きである。渓相はうっそうとした樹木が日光を遮って文字通りくらがりである。
 地形図には漢字で「闇苅溪谷」とある。本宮山の三角点近くまで水線で突き上げるもっとも正統な溪谷である。源流部の楓橋には闇苅沢とあった。豊川市の宝川は砥鹿神社付近で消える。新城市側の境川も砥鹿神社で終わる。旧作手村も巴川(ともえがわ)の源流が突き上げるが傾斜が緩いので水線は表現されていない。くらがり渓谷は下流で男川(おとがわ)となり、乙川(おとがわ)に合流する。
 苅という字は草を刈ることに限定した国字という。槍ヶ岳山荘の創業者の穂苅三寿雄など信州系の地名や氏名と見る。谷は関西、沢は関東と言うから、闇苅沢の名称は関東か信州の影響下にあるだろう。
         くらがり山荘の歌碑・・・依田秋圃のこと   
 最初はバンガローとかキャンプ場などの観光向けの施設がある。杉はだれでも分かるが欅などは名札で初めて分かる。そんな樹種を見ながら歩いてゆくとくらがり山荘という大きな建物に着く。周囲は紅葉の名所のようだ。今は緑だが11月中旬以降は燃えるような彩になるのだろう。
 ここには奥三河の山と人を愛した依田秋圃の歌碑が建っている。東京帝大林学科を卒業後愛知県に赴任した林業技術者であった。後に浅野梨郷らと交わり、愛知歌壇の草分け的な存在だった。(http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/06/16/7670502

 ゐろり火に添ふるたきぎの音たてて燃ゆるに山の夜は更けにけり

周囲は闇苅国有林である。左岸側の尾根には宮標石が埋まっていたから戦前は御料林だった。樹木の太さからおよそ樹齢100年以上はある。100年前の1916年は大正5年。事業計画書は明治42(1909)年作成。この歌は歌集『山野』の大正12年「凍る夜」の第1首。林業地の事務所に泊まった時の歌。
 明治中期に旧宮崎村の山本源吉翁が山焼きで兀山だった村有地を植林に切り替えた。その植林事業の計画書を作成したのが林業技師の依田貞種だった。歌人だから歌集もあるが散文集『山と人とを想ひて』の中の「くらがりの蛭」に山本翁と村有林からくらがりの御料林を歩いた話が蛭の被害と共に語られている。場所の特定はできないがこの地に足跡のあったことは事実である。
           馬の背平へ
 さて、くらがり山荘を過ぎると人工的な施設は廃墟然とした一ぜん飯屋の東屋で終わる。これまでも景勝地にはそれぞれらしい名称を与えているが淵も滝も奇岩も中途半端な気がする。あえて名前を与えてまでハイカーの気を引くまでもない。圧倒するような滝もなく、吸い込まれそうな深淵もない。くらがり八景と称してまぼろしの滝に着いたがスケールが小さ過ぎだ。開発し過ぎである。
 林道を延々登ると前方が開けて来た。何と源流部は皆伐されている。楓橋を渡ると本流は左へと山頂に突き上げる。裏参道は急坂を喘いで馬の背平に着いた。ここからは既知のルートになる。再びセメントで固めた参道を登る。転がりそうなほど急な坂道を登りきると国見岩の赤い鳥居の階段道の中途に着いた。ふるさと公園の一角に着いたわけだ。
          本宮山の地形図の疑問
 地形図には岡崎市と豊川市の境界を挟んで、ふるさと公園から実線が豊川市側に連続して下っている。これがどうも階段道である。ところが国見岩と岩戸神社の記号がない。名勝地はドットを三点配する記号であるがここにないので実線が何を意味するか不明である。国土地理院の記号には石段がある。鳳来寺山はちゃんと石段の記号になっている。やはり大己貴命を祀るのだから国見岩(岩戸神社)の名称を入れ、破線路で表現するべきだ。もう1本細目の実線は女道のことだろう。
 鳥居から中段まで下ると左へ踏み跡があるので辿ると地形図の池に遭遇する。これは地形図のダム記号で表現されている。錦鯉が泳いでいる。ゆるやかに尾根を残すとまた沢をまたぐ。すぐに林道らしい道に出る。直進すると奥宮である。
 右へ緩やかに下る。うっそうとした社叢林が静寂境を作り出している。小鳥の鳴き声が盛んである。やがて東屋(地形図の林道がV字の底の部分)に着いたが緑の落葉樹が茂って下界は部分的にしか見下ろせない。休んでいる人に聞くとできたばかりの頃はよく見えたらしい。ここまでは1.5mから3m以内の実線で表現するのは妥当だ。少しづつ細くなって、急カーブする先を下って本宮山林道に降り立つ。この部分は1、5mもないので破線路であろう。結局本宮山林道は国見岩への登り口が終点だった。
 多分、小型重機で遊歩道を開削する際に傾斜の緩いところまでとして、急なところは人手で道づくりをしたのではないか。
 池からの分岐まで登り返す。奥宮にも参拝した。また戻る。林道ならぬ遊歩道は水芭蕉園(旧スケート場)まで続くが今日はパス。
        風頭山へ下る
 さて、国見岩を経て、馬の背平まで戻る。平からは電波塔記号のある690mのピークまで車道を登った。施設は今は利用されず廃墟然としている。金網柵の右から回り込んで尾根に出る。地形図では破線路になっているが踏み跡は一切ない。赤や黄色のテープで登山者の痕跡が分かる程度だ。ただし、樹林の影になるせいでこの時期でも下草はほとんどない。右は桧の林、左は常緑樹などの雑木林になる。
 腐葉土の柔らかい感触を感じながら下る。最初の鞍部で河原町へ下る分岐になる。ここまで来ると両側とも桧の林になり、尾根の幅一杯は防火帯のような広さの道ともいえないが道のように歩ける。
 ここから600m以上のピークを数えること9座も越える。破線路は662mまであるが651m三角点へも迷うことなく行ける。道標はないが、赤テープのマーキングが随所にある。600mに3m足りない風頭山に着いた。馬の背平10:40から約2時間40分かかって13:20に登頂。ここで初めてパン1個を食う。暑いせいでおにぎりは入りそうにない。岩場に降りて本宮山を眺める。はるばる来たぜ、と思う距離感がある。下り坂の山旅であるがほとんど下らない。100m前後の比高しかないから健脚向きである。
 風頭山は今から21年前の平成7年に出版した拙書『続・ひと味違う名古屋からの山旅』に初めて紹介。他のガイドブックにもガイドされて次第に知られるようになった。地元の小学生が遠足で登る山であり、山頂には児童らの置いて行った旗が残っていた。どこをどう登ったかの記憶はない。踏み跡を辿ると25分で林道に出、更に杉林を30分下ると登山口の車道に着いた。徒歩20分で千万町口のバス停に着く。15時20分の名鉄バスでくらがり渓谷に戻った。歩けば1時間強だがバスなら210円かかるが6分ほどだ。岡崎東ICから新東名を経て帰名。名古屋ICまで920円。高速43km+地道15km位で58kmほど。1時間くらいで来れる。

ぶな太郎に会いに行く2016年03月26日

ぶな太郎
 金蔵連峠に着いた。すぐに森林内への不法投棄をパトロールの三州足助公社の軽トラが来た。ぶな太郎の場所を聞くと教えてくれた。あいにく地形図を忘れたが見当はつけてある。11時20分に出発。膝痛を抱えているので2本のストックを使う。
 やや急坂を登るとすぐに林道が交差する。少し先に尾根への入り口がある。尾根通しにいい道を歩く。この先は単調な植林の尾根を歩く。右前方に山頂部が自然林に覆われた大きな山が見える。あれは寧比曽岳か。すぐに筈ヶ岳分岐に達するが休みなし。急な坂を下る。林道が縦横に交差する。そのまま尾根へ登り返すと小さなベンチや防火水槽のあるコブに達する。若い多人数のパーティとすれ違う。小休止する。
 ここから緩く下るとまた左右から来た林道が交差している。左が中山林道からの延長だろう。ここまで12時30分だから1時間10分ほど。峠で聞いた話の通り、左に林道が分かれている。自然歩道から別れて林道に入ってみるが、終点で右から来た自然歩道に合流した。自然歩道は小さなコブを越えるので近道にはなった。992mへ登る尾根の基部になっている。左手の2mくらい離れた杉の木2本に黄色いテープが巻いてある。その間に踏み跡が奥へと続いている。
 教えてくれた道は、ああ、これか。12時48分、奥へ踏み込むと、黄色いテープが続いていく。微かな道に見える。かつてはよく来る人がいたらしいが、今はあまり来ないとも言われた。しっかりした道ではないが迷うこともない。5分で「ぶな太郎」に着いた。周囲を虎ロープで囲ってある。なるほど堂々とした風格がある。
 樹齢200年という。合体木ともいう。根は合体しているが幹は微妙に分かれている。高さは20mはある。太平洋型混交林だったのだろうが、周囲は杉の植林で落葉樹はない。
 白山や奥美濃辺りで見る巨木とは成り立ちが違う。あそこのは太い幹のまま天を突くように伸びて、枝分かれする。
 13時過ぎ、自然歩道に戻ると、峠で見た単独の女性ハイカーが驚いた顔でこっちを見た。熊じゃないよ、とメッセージを送る。元来た道を戻る。筈ヶ岳985m分岐で山頂に立ち寄る。13時37分。三角点の1つは踏んでおきたい。ここで初めて昼食タイムとする。峠まではさほどかからない。
 14時55分。峠まで戻ると、次は新盛町の㈱山恵を目指す。今年開業したジビエの店だ。ジビエとは山のイノシシなどの野生獣を仕留めて肉として売る。これを山からの恵みとして事業化したのである。イノシシの肉を少し買ってみた。工場では今、イノシシの解体中だった。開腹して皮を剥ぎ、ブロック肉を切り取る。これを精肉して冷凍してある。思ったよりは順調に売れているとか。
 山旅の民宿や山宿では山肉がごちそうになる。これまでに九州の宮崎県は大崩山の宿で鹿の刺身を食べた。福井県の勝山では熊の処女の刺身のルイベを食べた。子を産んだ熊の肉は硬いらしい。新潟県では熊鍋をいただいた。肉片はあまり味わえなかった。イノシシの鍋は比較的食べた方である。供給が安定すれば足助名物として宿で出すのも良い。その後、百年草で汗を流して帰名した。正常に歩けるので膝には負荷が少なかったようだ。

奥三河紅葉ドライブ2015年11月09日

 11/7はあいにく曇天だった。11/8は立冬だが雨の予報というので欲張らず、奥三河のドライブと撮影行とする。途中で入った喫茶店で週刊「矢作新報」というミニコミ紙を読むと稲武地区の古橋懐古館の話題が出ていた。それじゃあと再訪してはみたがイベントには10日早かった。以前に観覧した展示物を見ただけで終わった。午後を回ったので、山には登らず、段戸裏谷に迂回しながら帰名することにした。
 R157を行くと大井平公園ではもみじまつりとかで広い駐車場が満杯で整理員もでているほどの盛況だ。その先の駒ヶ原山荘に向かう町道に右折。この道沿いの雑木林が紅葉黄葉の盛りだった。杉の植林山に見えても結構自然林はある。かつては伐採しまくっていたが少しは残す気運がが出てきたのか。
 駒ヶ原に上がると段戸の高原が広がる。右は農地が殆どだ。左折すると裏谷へ向かう林道を行く。こんな山奥に何の必要があって広域の車道が建設されるのか。車道は仏庫裡へ直進するので途中から宇連の方向に行く林道に入った。これが従来からのイメージにあう。一車線の未舗装路だが落石はなく何とか走れる。途中で澄川と裏谷に別れるが、道路状況が悪そうなので澄川に下る。宇連で県道33に出て裏谷に向かった。
 裏谷の段戸湖では小型バスがあり大勢がレクチャーを受けている。何かイベントがあったようだ。車を止めて裏谷林道を歩く。東海自然歩道に入ると針葉樹ばかりの中に落葉広葉樹が色づいている。曇天なので色は冴えないが晴れれば美しいだろう。今が盛りである。
 設楽町では「きららの森」と呼んでいる。矢作川源流のささやかな原生林ながら今となっては学術的にも貴重な森である。夏の間は大勢の釣り人が湖に立ち込んでいたが今は誰もいない。鴨が二三羽浮かんでいるのみの静寂を取り返した段戸湖である。
 R33を足助まで向かう。寧比曽岳の峠を越えてすぐの所にも落葉樹の一帯があり、それはそれは美しい黄葉に色づいていた。そこは薪にしたり炭を焼く為に保存されているという。足助の手前で百年草という入浴施設で温まった。足助から名古屋までは断続的に渋滞があった。足助の紅葉シーズンはこれからだ。しばらくは迂回する方が良い。

南信州・蛇峠山馬の背吟行記2015年09月26日

 9/20から9/24にまで及んだ北ア・内込谷遡行の疲れは残るが、老体に鞭打って、ご近所の俳句好きの老友3人を伴って、表記の場所へドライブとなった。名古屋から約100km未満。R153をたどると2時間ほどで治部坂峠に着く。峠を右折し、別荘地を抜けるとNTT無線施設のゲートで車止め。
 1457mの標高ながら、あいにく低く雲が垂れ込めて、日本アルプスや八ヶ岳方面は遠望できず、矢作川源流の大川入山すら雲に隠れるので、馬の背を散歩するのみ。
 しかし、それでもススキが生い茂り、菊の花、竜胆、四葉塩釜などが咲いている。来た甲斐があった。風はさはやかそのもの。目にするもの、手に触れるものみな秋の風情を漂わす。芝生に寝転がって信濃の空を仰げば行雲に見とれる。山霧が流れてきて、涼しさが増す。愛知や美濃にはない高原が美しい。
 吟行を終えて、峠のレストランでちょいと買い物後、三国山の亀甲苑で名古屋コーチンの食事でも、と向かったが、もう夕飯の用意中とかで断られた。亀甲石のみ見学して下山。稲武地区の道の駅に向かった。ここでもちょいと地の食べ物を買う。足助の外れの川魚料理屋で鰻丼を食す。料理屋の窓からは巴川で鮎釣りする人が見えた。そろそろ鮎漁も終わる。 

秋雲に取り巻かれてゐる蛇峠山

さはやかに膝の痛みも癒されぬ

秋草にしゃがみこみ名を言へり

秋風にとどまる思い断ち切れず

友と死に別れ野菊を供花とせよ(O女の友人がガンで逝く)

紅玉のげに紅き色林檎かな

秋蝶のもの寂しげに花に舞ふ

竜胆のごとくまっすぐ伸びて咲け

裏木曽・高時山を歩く2014年09月30日

高時山頂上からの御嶽山
 9/27、御嶽山が水蒸気爆発を起こして3日目。懸命の捜索救助活動が続けられている。にもかかわらず、危険な火山ガスの発生で長時間は滞在できず、限定的なようだ。鈴鹿なら応援に行けるが特殊な高山では邪魔になるだけであろう。
 なるだけ近いところから御嶽を眺めたいと探したのが裏木曽の高時山である。検索するとランプの宿として知られる渡合温泉への林道は4月に修復し開通していることが分かった。加子母側の長い林道走行は避けたいから温泉から登ることにした。
 R257から付知峡へ入る。R257自体は昔は南北街道と言ったらしい。わざと古い町並みの街道を走ったこともある。そして、さらに驚くのがこの県道である。
 明治時代初期には御嶽信仰の登拝の道として開削された。主導者は私財を投入して完成させ、感謝されたが、家運は傾いた。中央線はまだ開通しておらず、白巣峠を越えて王滝へ行く方が近道にもなった。そんな歴史を刻んだ石碑があった。中央線の開通とともにこの道の登拝道としての役目を終えて廃れた。もっぱら林道として利用されている。
 渡合温泉への道は遠かった。県道から林道へ、そして未舗装の道へと進む。そのどん詰まりに温泉はあった。かつて1度、入湯させてもらったことはある。あの時は林道を走れるだけ走ってそこから歩いたから楽な山歩きだった。木曽越峠の歯痛地蔵だけは記憶がある。
 渡合温泉は夫婦で経営されているようだ。朝早く着くと主人がどこかへ出かけるようだったので、山道のインフォメーションをもらった。親切に紙に書いて教えてくれた。まづ滝を見学しなさい、と。というので旧道を歩くことになった。この道は初見であった。滝までは良い道があった。滝からは利用者も余りないせいで踏み跡程度になった。古い道標はそこかしこに残っているので何とか迷わずに歩けた。基本的には谷沿いに歩くが、一部崩壊箇所もあり、薮に覆われていたりする。初心者向きではない。約1時間もしただろうか、林道へ上がった。しばらく林道を歩くとまた道標で山道に導かれた。ここもススキで覆われて分かりにくいが突破すると何となく山道に開かれて行く。ヒノキの植林内を急登してトラバース気味に行くと木曽越峠だった。
 峠は加子母側の林道と付知側の林道がゲートで遮断されて行き来はできないが、開発し過ぎである。かつて慈しんだ峠の歯痛地蔵は辛うじて保存されていた。
 峠から一旦林道に下り、又登ると御嶽展望台があった。間じかに噴煙を上げる御嶽を眺めた。そこからしばらくでまた林道に下り、登り返した。この尾根はヒノキ、トチノキの大木が残る素晴らしいものだが、自然破壊がやり切れない。尾根伝いに登ってゆくと御料局の8の文字のある標石があった。付知側は国有林だからかつては御料林だったのか?
 1434mを経てさらに長い釣り尾根を登りかえすと御嶽山に開かれた山頂だった。2等三角点が埋まる。これだけ良い眺望であるが、御岳信仰の祠などはない。
 今も多くの登山者が山頂付近で心肺停止のままで救助を待っている。未発見の登山者もいるかも知れない。朝方から捜索救助のヘリコプターの音がひっきりなしに聞こえてきたが、可及的速やかな捜索救助を祈る。遭難された登山者を思い、手を合わせた。
 高時山は御嶽山の南南西の位置にある。噴煙を噴き上げる火口が良く見える。噴煙は北西の風に流されて東に流れてゆく。右に三笠山、左の継母岳も良く見える。継母岳は崩壊しそうなほど鋭角に聳えている。何事もなければ豪快な山岳風景であるが遭難者や家族を思うと心が痛む。
 25分ほど滞在して下山。峠からは山道を下ったが、旧道へは降りずに林道を下った。長い林道歩きだった。温泉に戻ると奥さんにあいさつして帰った。