小笠山ノート③2021年01月14日

小笠山の直下に立っていた案内板
NPO 静岡県自然史博物館ネットワークのホームページから

1.小笠山の地形と地質

 小笠山丘陵は約100万~数10万年前の大井川系礫層を主とする小笠層群(岩井寺累層・小笠山累層)で構成される。小笠山層群の下位にあたる掛川層群の堆積物(約400万~100万年前の海底堆積物)が低営力・静穏な陸棚環境に堆積した砂泥互層や泥層であることと対照的に、小笠山層群の堆積物は礫層を主体とし、高営力・動的なデルタ環境の堆積物である。この小笠層群の堆積開始時における急激な堆積環境の変化の背景には、当時の海水準の変動や東海地方の構造的変動が関わっており、小笠層群の形成は東海地方の地史を語る上で重要な事件のひとつである。

 小笠山丘陵が位置する東海地域は日本列島周辺でもっとも激しく変動している地域の一つであり、東海沖ではフィリピン海プレートが西南日本を含むプレートの下に沈み込んでおり、海底堆積物が次々と付加し、衝上断層を介してのし上げている。赤石山脈の隆起も、相良-掛川地域に分布する相良層群(約1000万~400万年前の海底堆積物)~掛川層群(約400万~100万年前の海底堆積物)に認められる北東-南西方向に軸を持った波曲構造や小笠山面(小笠層群の推定堆積面)に認められるドーム状曲隆もこうした構造運動によるものである。

 小笠層群が西南西から南南西に緩く傾斜するのも、これらの礫層堆積後に北東側が隆起したためで、現在でもその隆起は継続している。掛川層群から小笠層群への堆積環境(堆積システム)の急変も、このような構造的な変動が後背地の隆起、堆積盆の傾動を引き起こした結果といえる。

 なお、小笠山丘陵の地形の特徴として、丘陵斜面の傾斜が北東側で急で、南西側が緩やかなケスタ様地形を示していることにも触れられ、このような地形の成因は、小笠山一帯に西南西~南南西へ緩く傾いて分布する小笠層群(主に礫層)の方が浸食されにくく、丘陵の北東~東方に広がる掛川層群(主に泥層)の方が浸食されやすいために生じたものと説明されました。

2.小笠山の植物

ウバメガシの林(杉野孝雄氏提供) 小笠山の植物は、種子植物1100種以上(1977年)、シダ植物200種以上(1974年)という植物の宝庫であったが、現在ではその多く(約1/3)が失われている。植物相の特徴として、以下のことが挙げられる。

(a) 山地性のアカガシと海岸性のウバメガシが共存している。

(b) 暖地性種子植物が主に分布しているが、分布の限界地に近い種として、ヤマモガシ、キダチニンドウ、トキワガキ、ヤマビワ、ナナミノキ、トラノオスズカケ、ルリミノキなどがある。

(c) シダ植物は暖地性の種類が豊富である。
(d) ヘビノネゴザ、ツヤナシイノデ、キヨタキシダなど、温帯性シダ植物が分布するが、種類、産量ともに少ない。

アカガシの大木(杉野孝雄氏提供)(e) スジヒトツバ、タカサゴキジノオ、リュウビンタイ、タカノハウラボシ、ナチクジャクなど、亜熱帯性シダ植物が分布している(分布の北縁)。

(f) コバノキフジ、コリンモチツツジ、オガサホトトギスなどの矮小植物が分布している。

 なお、参考資料として配布されたリーフレット「小笠山総合運動公園」のなかには、杉野氏ほかが静岡県に提供された「小笠山の自然」(動植物のカラー写真20点)が掲載されており、小笠山周辺の生物相を理解するのに役立ちます(口絵参照)。
以上
 ①②を総合的にまとめた記事になります。小笠山は標高こそ低いが自然史の学習の場として有益な地域でした。今、大井川源流のトンネルの掘削の許可が下りず、工期が延びるとしてJR東海と静岡県がもめています。確かに源流の水脈を断ち切ることになります。するとこの地域の伏流水も減水する可能性はあるでしょう。その影響はまずは微妙な地下水にささえられた自然の植物群落から枯れてゆくことになる。
 伏流水はサイフォンのような流れ方もありうる。例えば、愛知、岐阜、長野の山県境の三国山は池の平という地名があるように標高1100mの山上でありながら湧水があり、牧畜、養鶏が成り立っている。人も住んでいるのだ。地元で聞くと恵那山の湧き水というのである。確かめようがないのだが、富士山だってあちこちに湧水群がある。
 だからリニアトンネルの掘削は慎重を要する。地元民が不安がるのも無理はない。

小笠山ノート②2021年01月13日

小笠山の原始性のある植生
小 笠 山 の現 存 植生 の成 立史 と植 物 相 の考 察
                           杉 野 孝 雄
1.は じめに
 小笠山は遠州南部にあり,東西約14km ,南北約12km,周囲約40km,最高峰264mの丘陵である。北緯約34°40′ から34° 46′ ,東経約137° 55′ から138° 05′ に位置し,西は太 田川,東 と北は逆川 と菊川で境され、南は遠州灘 に達 している。
 地形は山頂から四方にのびる屋根の間は谷を形成 し,多数の小河川lを生ずる。西から南はゆるやかな斜面で乾燥する。東から北は切立つた崖で谷が特に深い。
  地質的には,西から南側は第四紀洪積世に堆積した小笠礫層で構成されている。地層の下位は第二紀鮮新世の掛川層 群で,砂 岩,泥岩からなり,東から北麓にその露頭がみられる。
 ここでは,小笠山の現存植生の成立史 と植物相の特徴を述べ,現存植生について,植物地理学的,生態的考察を加えたい。尚小笠山の自然保護の重要性についても言及したい。

2.現 存植生 の成 立史
 加藤 (1968),土 (1974)に よれば,小 笠 山を構成する下位の地層は,第二紀鮮新世の掛川層群に属する曽我累層,掛川累層,土方泥層である。その上部を覆い、小笠山の大部分を占める小笠礫層は,第 四紀洪積
世 と推定される上半部の河床堆積物と,下半部の河口堆積物からできでいることから,大井り||に よる堆積物が隆起してできた山地 とされている。
 古大井川の河口は,第 四紀洪積世の頃は掛川附 近にあり,遠州半島を盛 り上げた。この半島は次第に東に移動 し,西方の堆積物が隆起し,小笠山を築いた。また,こ の時期には氷河期のおとずれと共に海面が下が り,間氷期には海面が上昇 し,小笠山地域は海から遠 ざかる時期 と,海水に浸蝕 される時期の繰返しがあり,現在の山容が形成 されたとのことである。
 この地殻変動が小笠山の植生に影響を与えたことはもちろんであるが,気候の変動が植生に与える影響をみのがすことはできない。中村 (1952)及 び塚田 (1967)は ,花粉分析の結果から, 日本における年平均気温の変動 と植生の変遷 を推定 している。それによれば,ヴ ユルム氷期の最盛期 (2.5~ 1.5万年前)に は,現在より年平均気温で約 8℃低かつたとしている。このことから,こ の氷期の頃,小笠山一帯はブナのような夏緑樹林で覆われていたと考えられる。
 小笠山の現在の植生が完成 したのはそのあこの気温の変動により,小笠山の植生 は9,500~ 4,500な いし4,000年 前 頃は照葉樹林で覆われていたと思われる。その後,気 温 が寒冷化 したので4,500年 前頃には山地性,ま たは温帯の 植物が侵入 し分布したであろう。小笠山でその頃からの残存植物 と考えられるものには,モミ,アカガシ,ヒカゲツツジ,ツ クパネ,バイカツツジ,ダ イモンジソウなどの種子植物や,温帯性シダのコケシノブ,オ サシダ,ナ ライシダ,ヘビノネコザ,ハ クモウイノデなどが挙げられる。現在の小笠山の植生 を構成 している暖帯性の植物 は,気温の寒冷化 した時代を生きのびた植物や,気温が上昇 したあと侵入 し、勢力を広げた植物 と考えられる。
 小笠山附近の気温が寒冷化 し,温帯性の植物が分布していたことは,亘理 (1951)も 述べていることである。彼は,小笠山に近い菊川流域の菊川町で弥生式住居址や土器 と共に埋木 を採集 したがその中に,照葉樹のシイ,カ シ類 と共に トチノキの埋木が発見 されている。 トチノキは,「寒冷な気候を指示」するものであり,現在は静 岡県 内では北遠地方にみられるが,2,000年前頃には,こ の地域にも生育していたのである。
 気候とは別に,小笠山の植生の成立に及ぼした人為的要因もみのがすことはできない。小 笠山には昔から人が住みつき,古墳 も発見されている。また,た び重なる山火事 も知 られている。西から南に広がるァヵマツ林の成立には,地形,地質が大きな影響を与えているが,人為的要因も特に強 く介在 していることが考えられる。

3.植 物相 の概 要 と特 徴
 小笠山の植物相を概観すると,西 から南側はアカマツ林が発達 し,林床にはコシダ,ウ ラジロの群落がみられる。東から北側は,お もにシイ,カ シ類が繁茂し,林床にはコバノカナフラビ,ホ ソバカナヮラビの群落が発達 している。スギ,ヒ ノキの植林地も多い人家に近い場所は開墾 され,茶畑、みかん畑になつている.
 山頂には,山地性のアカガシ林 と海岸性のウバメガシ林がよく発達 し,ウバメガシの林床にはヒトッバが多いタ イミンタチバナの群落もみられる。ァカマツ,ソ ヨゴ,ヤ マモモ,ヤ マツツジ,モ チツツジ,ミ ツバツツジ,ナ ツハゼ、ネジキも普通である。小笠神社を中心 とする半径 2kmの地域には,集中的にいちじるしく多様の植物が分布する。

ハ,アカガシ林とウバメガシ林
 小 笠 山の植生の特徴 として,山 地性のアカガシの 林と,海 岸性のウバメガシの 林が山頂に極相林として並存 していることがある。
 アカガシ林は山頂の西側にあり,ツ クバネガシ,オ オツクバネガシを混生する。その東側にウバメガシ林が続 く。いずれもよ く発達 した林で、アカガシは奥の院にみられる最も太いもので胸高直径140㎝もある。
ウバメガシは胸高直径80㎝以上の大木が多数みられ、純林を形成 している。
 アカガシ林は,静 岡県内では低地にも分布するが山地によ く発達するもので八高山 (832m ),粟 ヶ岳 (514m ),光 明山 (540m)の 山頂なとに大きな群 落 がみられる一方,ウバメガシ林は海岸にみられ,静岡県
内では伊豆半島の海岸に多い。南伊豆町子浦には,静 岡県の天然記念物に指定 された林もあるが,そ れに匹敵する大木の群落が,海岸から9励離れた小笠山の山頂に発達 している。両者の生育している環境を比べると,ア カガシ林のある西側の基盤は礫岩であるが,小 さな尾根に囲まれた凹地で,腐植土が堆積 し土壌 もやや深 くなつているoウバメガシ林がみられる東側は礫岩が露出する場所で南面する。
 ァカガシは陰樹で,適潤,ま たはやや乾いた肥沃な深層土を好むoウ メバガシは陽樹で乾燥に強レV性質があるので,他の植物が生育できないような海岸の急斜面の岩上でも生育することができる。この生態 の差が,両者が小笠山の山頂で東西にすみ場所 を分け合つて並存する原因になっていると思われる。
 鈴木 (1952)に よると,ウバメガシ林は植生類型 としては硬葉樹林のウバメ型で,そ の成立の限界はラングの雨 量 係数100に ほぼ一致 し,海岸線が冬の季節風に直角に位置する海岸において発達が顕著になる傾向があるという。小笠山のウバメガシの生育地の気温,雨量の記録はないが,隣接する小笠町のラングの雨量係数は132,袋 井市 のそれは98で あり,小笠山の東側より西側の係数が低いoそれにもかかわ らず東側にウバメガシ林が発達するのは、小笠礫岩の保水力が乏しく,ま た,た えず吹きつける風が乾燥 した環境を形成し,冬雨型の極相林であるウバメガシ林を土地的極相林 として夏雨型の小笠山に発達させたと考えられる。
 このことは,ウバメガシ林が南面する季節風の強い側に繁茂 していることからも裏付けられる。


5.自 然保護 の重要性 と対策
 小笠山は植物学的に各方面から興味深い丘陵である。しかも,狭 い範囲に各種の自然保護上貴重な植物がまとまつて生育 している。これらの植物には,山頂のアカガシ林,ウバ メガシ林,全国的に分布が希な植物,アカウキクサ線を分布の限界とする植物の小笠山をタイプ地 として発表された植物,及び豊富なシダ植物等がある。
 小笠山は山塊そのものが植物見本園的な存在であることか ら,全山を自然公園または森林公園 として永 く子孫に残すべ き,最適 の地域である。その際には,環境の破壊 を防 ぐ意味か ら,自 動車道 を通 す こ となく,山 に入 るには歩道のみ とし,永久に小笠山の自然が保護され ることが望まれる。
以上

・・・・小笠山直下にはアカガシの大木があった。この論考を読むと小笠山を代表する樹種なのなのだ。

小笠山ノート①2021年01月12日

登山道の真下の断崖絶壁は小笠層群の露頭
 静岡県袋井市北方可睡丘陵の小笠層群
                       竹 村 恵 二(京 都大学)
 天竜川と大井川 にはさまれた地域(掛川地方)の新第三系は,慎山次郎 をは じめ とす る多 くの研究があ り,第 四系について も土隆 一の一連の研究があ る。
 筆者は1974年 の京大理学部の課題研究として,袋井市北方の可睡(かすい)丘陵を対象として,層 序学的な調査を行い,堆 積環境の時間的変遷の考察と大阪層群との比較 を試みた 。
 調査地域は掛川層群,曽 我層群,小笠層群,段丘堆積物よりなる。掛川,曽我,小笠の三層群は南西へ緩 く傾く単斜構造 をなす。曽我層群は中部に挾まれる凝 灰質層 を鍵層 として下部,中 部,上 部に三分される。それを不整合 におおって,砂 礫 と泥の互層状を呈す小笠層群 がのる。粘土層 を基準に して,小 笠層群を下部よ り一色層,西 之谷層,可 睡 斎層,可睡層,平 宇 層,久 能層,鶴 松層 に七分 した 。
 掛川層群は海成の砂泥 か らな る。その上の曽我層群 は小笠丘陵 では下位か ら上位に向 って泥質 か ら砂礫質への変化が認 め られ,礫 は粒度 のそろった海浜成 円礫であ る。可唾丘陵では最下部に数米の礫層 を持 ち,そ の上位に円礫 まじりの砂層 が堆積 してい る。北西 方へ行 くに従 い礫が優勢 とな り,磐 田原下部は小笠丘陵地域 よ りも河成相 的であ るこ とを示す 。
 可睡丘陵では,曽 我層群 の上位 に礫泥互層状の小笠層群が重なり,全体 として河成相的様相を呈する 。一般に現在の河川 との比較 によ り磐 田原下部は天 竜川系 の河川 によ る堆積であ り,小 笠丘陵 は大井川系の河川 による堆積 であ る とされ る 。そ の間 に位 置 す る可睡丘陵 の小 笠層 群 には 少 量 とは いえ花 歯岩の礫 があ り天 竜川系 河 川 の影響 が及 ん だ もの と考 えられ る 。
 しか し,可 睡丘 陵 の小 笠層 群 は生成 環境 を細 か く吟 味 す る と,海 成 の 部 分が 存 在 した と考 え られ る 。第 一 に,泥 質 部 に サンドパイプのある層 が存在すること。第 二に淘 汰のよい海浜成 円礫の層 が平宇層および可睡斎層に存在することによる 。
 た だ し,一 色層 か らSaxostrea  sp.を 産 した以 外 に海 棲 貝 化石 が産 して いな いの は海成の証拠 としては 不十 分 であ る 。今 回 の 調査 では,可 睡丘 陵 の小 笠層 群 は,河 成 相 を主体 としつつ も,淡 水,汽 水 の 入 りくん だ複 雑な環 境 下 で形成 され た こ とが結 論され る 。
 時代 に関 して は,鮮 新 一更新統 の境 界 は浮遊 性有 孔 虫 化 石 か ら掛 川層 群 中 に求 め られ る(1973加 藤,1972両 角)。 ま た曽我 層群 の貝 化 石 は現 生 種 が90%以 上 で,か つ掛 川層 群 中 の熱帯 要素 が 消 滅 す る ことか ら,曽 我層 群 は更 新世 であ る と され る(土1961)。
 小笠 層 群 に つ い ては,化 石 に よ る資料 が 乏 しい が,可 睡丘 陵 の 西浦 付 近 よ りMetasequoiadisticha Mikiの 産 出が 報 告 され て お り(土ほ か1967),大 阪層 群 のMa3の 時 代 よ り新 し くな い と考 え られ る。現在 花粉 分 析 を行な って お り,よ り細 か い対 比 の可能 性 もでてくるで あ ろ う 。
以上
 WEBの国土地理院の地形図をなんども縮尺拡大するうちに天竜川と大井川の間には6本の中小河川があり、さらに微細な河川が縦横に網羅的に見られた。これはきっと天竜川と大井川の伏流水が関係しているとにらんでググってゆくうちに引用記事を発見した。
 やっぱり遠州半島は基本的に小笠山と高天神山を結んであったのだ。
 その北の逆川は夜泣き石辺りを水源に西へ流れる。「逆川(さかがわ)は、静岡県の主に掛川市を流れる二級河川。 太田川水系原野谷川の支流。 蛇行が激しく、たびたび水害をもたらしてきた暴れ川である。 堤が欠ける(決壊する)ことから「かけがわ」(欠川→掛川)とも呼ばれ、当地域が「掛川」と呼ばれる由縁となったと伝えられている。」のであるが、古くは大井川の流れではなかったかと想像する。
 すると袋井は「市内を流れる原野谷川・宇刈川・沖之川に囲まれた「袋」のような地形に由来するという。」という。池袋なども同じ由来だろう。袋になるのは川の蛇行で沖積平野になるが、水溜まりの部分が流れを失い袋状に取り残される地形だから。
 天竜川の伏流水もあり湿潤な土地ではないか。しかし水稲には良い環境だろう。水が豊か、水稲栽培が盛ん、子孫繁栄を願って遠州三山がこの地に成立したものともうかがえる。するとあの団子の餅も土地柄を反映した名物なのだ。

若狭・庄部谷山を歩く③2020年12月01日

 地元の人は軽トラで山仕事でここまで上がっていた。この方も山や自然が好きで岩魚釣りや山菜取りに入るという。ブナが素晴らしいと言ったらこの方も同意された。仕事と趣味が一致しているのだ。
 それにしても堰堤が多いですね、と黒谷山の東の谷にある砂防堰堤の話をした。
 そこを切り口にブナ林は山の生活史的には、昔は薪炭林だったことでしょう。若木の内に クヌギ、コナラ、ヤマザクラ、エノキなどの伐採を繰り返し、山の地味が痩せるから松を植えたことでしょう。
 炭焼きの山から松山になった。松茸は人間が繰り返し干渉し、地味が痩せた松の木から生える茸である。
 松を切り出した丸太を榑松という。人名にもあるし、鈴鹿山系の竜ヶ岳の南にも石榑峠、霊仙山の登山口の廃村・榑ヶ畑と結構見る地名である。
 その炭、薪、松も戦後の石油の輸入で炊飯、煮炊きの燃料に使わなくなり、炭焼きや薪の切り出しの用が無くなるとくぬぎ類は急成長した。松山は荒れた。慌てて杉や桧を植林したが育ちが悪い。猿投山周辺には多く見られる。山が荒れると大雨で土砂の流出が続き、山崩れで浸食された。土石流は谷川の川底の水位を上げる。もはや沖積平野にはなりえないから砂防堰堤で土砂を貯めることになった。
 それが徹底すると例えば天ノ橋立も砂洲への砂の供給が止まり切れるという事態になる。鳥取砂丘もかつて古代から続いた中国山地のかんな流しで砂鉄を採ったり、和鉄を生産するための大量の炭焼きの原料として伐採された結果、山が荒れたのである。いつしか砂の供給不足で砂丘が減ってゆくのではないか。
 山の人曰く、今のブナ林は山の保水力となって守っているんだな、と理解を示された。そのブナを切って、風力発電の基地にしたらどうなるか。山の人曰はく、北陸は冬春でも雷が鳴り、落ちることがある。と懸念を示された。その上に保水力は減衰する。
 横谷川の下流の新庄は間違いなく、土石流の犠牲になる。山は堰堤だらけになるだろう。今でも小さなダムがあるが大規模なダムも作らないと危ない。
 一基8000万円から2億円もする風車の耐用年数は9年である。耐久消費財なので短期間で利益を出すことになる。採算が合わなければ撤退するだろう。すると残るのは新庄の住民らは自然破壊で災害の恐怖にさらされる。発電企業からの法人税よりも治山治水に使う税金が多ければ社会的には採算割れだ。
 人間の生活史は利用のための自然破壊の歴史である。

 下山後は温泉に入湯したかったが、適当なお湯がないので諦めた。帰路、湧き水があったので汲んだ。またR27沿いにJAのスーパーがあったので魚を買った。若狭湾産には買い気をそそられる。敦賀市まで来るともう雨になった。木之本では小雨、関ヶ原では止んだ。日本海は冬時雨だったのだ。

若狭・庄部谷山を歩く②2020年11月30日

庄部谷山頂
 Pを朝8時30分出発、林道へ左折して、上空の送電線を見ながら約20分ほどで384mの近くに立つ送電鉄塔への巡視路の道標があり、さらに庄部谷山へと篤志家が付けた道標もあった。河原へ下るとすぐに水が流れている。ちょっと多めなので平地に赤テープのある上流側にも歩いたが何もなし。戻って渡渉した。
 対岸に渡って振り向くと何と橋が壊れている。昔は橋があったのだ。急斜面には巡視路によく見る段差が埋まっている。荒れているが方向さえ分かればいい。ジグザグに高度を稼ぐと384mの北の鞍部に着いた。尾根にはテープ類が豊富に付いている。躊躇なく巡視路用の段差の残る踏み跡をたどればよい。そこを過ぎると樹林が途絶えカヤトの丘に登る。黒谷山の三角点は平な頂上の片隅に座していた。
 約50kmかなたの青葉山693mが見えたのは嬉しかった。若狭富士と言い、双耳峰の特徴ある山が可愛い。
 黒谷山では少し水を飲んだ。美味しかった。黒谷を後にしてしばらくでまた樹林帯に入る。677mへの登りはブナ林のさまよいであった。ちょっと下ると伐採されて開けたところで一休みした。ここでも送電線が通っている。若狭湾が良く見える。隣の山は雲谷山である。そこへ現れたのはなんとマウンテンバイクの人だった。山頂までは付かず離れずで歩いた。途中で長話したが関東の人らしい。今回で2度目という。
 広い尾根一杯、谷間にも広がるブナ林のさまよいは感動する。この尾根ならスキーが使える気がした。加えて赤テープも結構目立つのは落葉期だからと思う。青葉茂れる頃ならちょっと迷うかも知れない。804mのミニプレートがあった。新庄から221m、518mと続く尾根の終点である。
 12時、三角点が埋まる山頂は静寂に包まれていた。木の間越に見える黒い山体は野坂岳だろう。標高は古い山の本には856.1mだが今の地形図は855.9mと20センチ低くなった。普通のおにぎりの1.5倍の大きさがあるとはいえ、全部は食べきれず残した。腹筋が締まってかえって食えない。いい傾向である。
 さて、12時20分に下山。マウンテンバイク氏は休憩中に登ってきて休まず、自転車に乗って下って行った。さっきの話では野坂岳へ行くという。一般道へ出てからもマイカーへ戻るのにそのまま行ける利点を言っていたが・・・。
 下山ルートは東尾根にとったが西尾根よりもテープの頻度が多く、見えるところから次が見える。芦谷山への分岐までは難なく下れた。分岐からも路形がはっきりしている。倒木など多いがピッチは早まる。時計を見るとまだ13時を過ぎたばかりだが雲谷山上空にはもう雲がかかっていた。朝は晴れていたが午後は悪くなる。
 そして708m北の鞍部から林道に降り立つって雲谷山を見ると雲に包まれた日輪が山の向こうへと沈む。日没予定は16時44分だが、山陰になることを計算に入れると15時でちょうど良い。やっぱり芦谷山往復は止めて良かった。
 674mの南まで林道をしばらく歩くと広大なブナ林がある。まるで庭園か、キャンプ場になりそうな緩斜面が続き、短いショートカットを2回繰り返す。やや急斜面になったブナ林はピンクのテープが頼りで間隔が長いのでGPSでチエックしながら下った。しかしヤブは一切ないので落葉の上を滑落に注意しつつ下った。
 林道上部からの長いショートカットの最後は鉄塔が交差した。ちょうど山仕事の人がいたので長話になった。

若狭・庄部谷山を歩く①2020年11月29日

粟柄越関所跡の碑
 朝4時30分起床、名古屋ICは5時30分、養老SAでトイレタイムの際に下着を1枚着こんだ。余りに寒い。若狭美浜ICは7時30分通過、R27を走り、新庄へ左折した。耳川に沿う県道213号はほぼ直線路である。沖積平野に広がる田には稲刈り後の切り株に青い穂が生え、ひつじ田と呼んでいる。これも枯れてしまう。
 新庄まで走るとまたちょっと谷間の村が広がる。野坂岳と庄部谷山の水を集めた横谷川が押し出した沖積平野である。村の中央を走る県道の中央には雪解け用の湧水装置が埋めてあり雪深い地区と分かる。増永廸男『福井の山150』は山スキーを履き、新庄の発電所の先から尾根に取り付いている。804mを経由して登頂している。スキーが使えるほどの雪が降るのである。
 新庄を過ぎると県道は狭隘な感じで寂しい。この先にまだ人の住む山里があるかしらんといつも電線と電話線を探している。あるあると行くと松屋に着いた。
 地名はこの村の生活史、自然史を語る。まったくの想像であるが一定の標高以下はおそらく薪炭林であっただろう。炭焼きの山だったのだ。炭焼きにちょうど良い太さで伐採する。後はまた生えるに任せる。落葉も薪や畑の肥料に持ち帰る。地味がやせてくると松を植える。松もまた有用な樹種である。
 松田、松井、松川、松本、松山、松岡、松尾、松坂などは松を利用した結果の地名であろう。松は腐りにくいから水に強いので田んぼを造成する際は焼いて、地中に打ち込み水平に土砂を均した。奥三河には焼松という三角点があり、山間の谷間に棚田を作る際に使われた。後年甫場整理で拡張すると古い焼松が出てくるという。
 松屋からは左折して舗装された林道を走る。384mへ直登する印はないかと探りながら走ったがない。粟柄越の関所跡という立派な石碑があり何となくそこをPにした。すぐ先に三差路があり、左折すると東尾根にをからむ林道の入り口であった。

若狭駒ヶ岳の山旅余情2020年11月26日

 若狭駒の余情を楽しんでいる。筋肉痛が時間の経過でほぐれていくのと反対に、山旅の余韻は終わった後から後から湧いてくる。
 この山の紹介文の書誌学考察
A 昭和45(1970)年 伏木貞三『近江の山々』 (白川書院)

B 昭和47(1972)年 伏木貞三『近江の峠』(白川書院)

C 昭和59(1984)年 草川啓三『近江の山』(京都山の会出版局)

D 平成4(1992)年  山本武人『近江朽木の山』(ナカニシヤ出版)

F 平成11(1999)年 近江百山之会編著『近江百山』(ナカニシヤ出版)

G 令和2(2020)年 竹内康之「山と渓谷」誌11月号202Pのガイド記事

  駒ヶ岳の由来は

 Aは蔵書になく、検索で目次がヒットしたので見ると項目がない。

 Bには木地山から若狭へ越える峠道は3つあったと紹介し、木地山峠の項目を重点的に解説。駒ヶ岳については記載がなく、駒ヶ越と河内越の2本を簡単に紹介。下る予定だった尾根道は昔は池河内(木地山の真北)へ越えた峠道だったのだろう。河内越が2か所もあるので一方を駒ヶ越にしたのか。

 Cの本は駒の連想から駒ヶ岳由来を説く。したがって馬も通れる道だったと想像する。しかし、馬を通らせるにはS字形の道が必須であり、重量が重いから痕跡は残るだろう。奥三河の山間部の街道跡には残っている。(寺山)書きで寺山としてある。著者は若狭側から藪漕ぎで登っている。様子は今と大違いである。当時でも森林公園からの切り開きはあった。

 Dは写真のリアルさが際立つ良書。ここでは登山ルートとして上中町へ越えた河内越を紹介する。尚、若狭町は小浜市とばかり思っていたが、「2005年(平成17年)3月31日 - 三方郡三方町・遠敷郡上中町が合併し、三方上中郡の自治体として発足。」とあるので独立した自治体である。
 五万図熊川に残る破線路をトレースしているが藪漕ぎである。
麻生谷にかかる橋を渡るのは今も同じだが、杉は植えて20年くらいの若杉であり風景が違う。略図を見ると焼尾谷の対岸の道標にあった「ろくろ橋」は麻生川にかかる橋で昔はそこに登山口の道標もあったと思われる。
 ブナの疎林の落葉を踏みしめて歩いたが、写真で見ると当時は背の低い笹が茂っている。ブナも若く、日光が差し込んでいたのだろう。ここでも由来に触れているが、不明。
 寺山は若狭側の地名。ちなみに三角点の点名は寺山。木地山では河内越が正しい。駒ヶ岳山頂の写真は下は笹に覆われ、灌木が茂り、展望は皆無だろう。三角点は今は盛土の上に埋まるが当時は平地に埋まっていたと思われる。周囲の土砂が削られたのだろうか。Cでも三角点の周囲だけは同じである。

 Fでも由来に触れるが不明とする。ブナ林は千古斧鉞の森ではなく、炭焼きの際に切り残したという。つまり、ブナは良い炭にならず、意図的にブナを残して択伐していたのだ。
 確かに、ブナの文字は山毛欅、橅、椈、桕、橿と多い。2番目は国字ですが、木では無い、と有用な樹種ではなかった意味が込められている。水分が多いので曲がりやすく建築材にはならず、戦後はパルプ材になった。
 すると植林と同じ原理で間引き(間伐)することによって残ったブナは成長し易くなる。ブナは一番背が高くなるので成長とともに周囲の木や笹も発芽できず、ブナの純林になるのだろう。それを知らずに見て「ブナ林は良いなあ」と感動しているのである。
 今の登山口の近くにあるろくろ橋も昔は少し下流の分校跡から入山したらしいが、草深くなって今のところに移動した。するとあの道標は朽ちてもおらず、新しいように見えたが20年以上は経ったのか。
 結局駒ヶ岳の由来はどの本も言及されず、不明でした。それどころか、山名などなかったし、駒ヶ岳なんて初めて聞くと地元の人の話を紹介している。

 以下は駒ヶ岳異聞というか小説である。
 金達寿『日本の中の朝鮮文化』(講談社文庫)シリーズの長野県か山梨県辺りのどこかに駒ヶ岳は高麗ヶ岳という説を紹介している。いつの時代か、渡来人が大挙して日本に来たのだろう。ウィキペディアには「10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだが、1259年に高宗の時代に複数に渡る元の侵略で降伏・皇帝号喪失で元の属国になった。」とあるから乱世を逃れて日本に来たのかも知れない。
 確かに山梨県には北巨摩郡があり、甲斐駒がある。埼玉県には高麗神社がある。高麗の地名は意外に多い。但し、全国の駒ヶ岳の場所からのイメージでは一つにくくれない。北海道の駒は説明できないからだ。朝鮮人作家ならではの視点ではある。
 私の連想では、若狭には熊川宿(くまがわ)があり、韓国の釜山には熊川(ウンチョン)がある。百里ヶ岳は韓国の釜山とは500kmの距離にある。江戸時代の蕪村の俳句に「方百里」という言葉があるが、多分中国由来だろう。今の日本の換算では1里は約4kmなので400kmになる。実際は500kmもあるが誤差の範囲に入れても良い。
 昔の戦乱や乱世を嫌った職能集団は渡来人として対馬海流に任せて若狭湾にたどり着き、山越えで近江に流れ込んだ。
 他方で敦賀湾からも渡来人が流入してきた。敦賀はおつむの意味という。仏教徒や文人も来たのだろう。湖東にも朝鮮文化がある。
 演歌歌手の前田卓司の「小浜旅情」の歌詞には「御食国」の語彙があるが、皇室などへ海産物などを貢いでいた地域という。そういうルーツを持つ人々が遠い朝鮮半島の故郷を思い命名したのか。
 日本語の文字が発明され、普及するのは平安時代以降になる。和紙の普及も一般人には手に入らないから書き残すことはできず、口伝のみでは伝承できなかったのだろう。

『山・自然との対話』 日本山岳写真協会東海支部 創設40周年記念写真展を見学2020年11月17日

 愛知県美術館8Fで今日から開催された山岳写真展を見学してきました。いずれ劣らぬ大作、力作、傑作、佳作揃いでした。入場無料。11月23日まで。Kさん、Sさんらが対応に大わらわでした。Hさん(女性)にもお会いしました。こんなイベントでもないと中々会えません。
 Kさんの話ではFさん(女性)が9月に亡くなられたと知りました。山岳写真が大好きな88歳くらいだったと思います。それもそのはずで、父親は登山家で毎日新聞の有名なカメラマンでした。名古屋生まれの富豪で山岳映画の嚆矢として冬の黒部の山岳景観を映画化した伊藤孝一の映画フィルムを発掘したことで知られています。

飛騨の山と「高校三年生」の歌詞のハルニレ2020年09月12日

 猪臥山の原稿を書いているとき、不図思い出したのが、下山路で見た「ハルニレ」の木だった。これは中学2年か3年のころ大ヒットした「高校三年生」の歌詞の2節目に出てくる♯ニレの木陰に♪のニレであると知った。それで『東海・北陸の200秀山』を読むと何と私が書いていた。そしてニレのことも書いているではないか。
 今度の原稿にも是非書いておかねばなるまい。作詞したのは丘灯至夫(1917年2月8日 - 2009年11月24日)で、福島県田村郡小野新町(現小野町)の出身なので、ニレが普通に生えているのだろう。
 小野町ではきちんと「丘灯至夫記念館」とホームページを設けて顕彰している。
 略歴をコピペさせてもらう。
大正 6年 0歳 2月8日福島県田村郡小野新町(現小野町)に西田屋旅館(現存)に西山亀太郎、モトの六男として生まれる
昭和 4年 12歳 福島県郡山市金透小学校尋常科を卒業
昭和 7年 15歳 福島県郡山市立郡山商工学校(現・福島県立郡山商業高等学校)商業科を卒業
昭和10年 18歳 詩人・西條八十に師事 詩、歌謡、童謡などの作詞の道に入る
昭和16年 24歳 日本放送協会(NHK)郡山放送局に入局 17年退社
昭和17年 25歳 毎日新聞社(東京)に入社 福島支局記者として勤務
昭和24年 32歳 日本コロムビア株式会社専属作詞家となる
昭和38年 46歳 「高校三年生」(舟木一夫・歌)他の作詞により日本レコード大賞作詞賞を受賞
昭和39年 47歳 童謡「ワン・ツー・スリー・ゴー」(交通安全の歌)補作により日本レコード大賞童謡賞を受賞
昭和47年 55歳 毎日新聞社を定年退職 出版局特別嘱託となる(終身名誉職員)
昭和57年 65歳 地方自治功労により福島県田村郡小野町特別功労表彰を受ける
昭和63年 71歳 芸術文化功労により勲四等瑞宝章受賞
平成 2年 74歳 県外在住功労者知事表彰を受ける
平成13年 85歳 福島県小野町 名誉町民第1号
平成21年 92歳 11月24日永眠
以上
 次はハルニレです。
 国土交通省北海道開発局のHPには
「ハルニレは北海道を代表する木のひとつで、「エルム」ともよばれる落葉樹。川沿いなどの湿った土地によく育ちます。豊頃町を流れる十勝川河川敷に立つハルニレは、樹齢が130年以上にもなり、まちのシンボルとなっています。紅葉も終わり、すっかり葉を落としたハルニレは、どこかホッとしているように見えました。」とありました。
 どうやら北の木なんですね。

 木の情報発信基地には
「ニレ科ニレ属。落葉高木。北海道、本州、四国、九州さらにサハリン、朝 鮮、中国などに分布する。高さ20-25m、直径50-60cmになる。大きなものは高さ30m、直径100cmに達する。ハルニレは、アイヌのユーカラ神話では、美しい女神とされていて、それにみとれた雷神が足をすべらせ、その上に落ち、女神は身ごもり、人の祖先であるアイヌラックが生まれたとされている。
 また、別名アカダモとも呼ばれ、元来東北地方から入った方言名である。ヤチダモあるいはアオダモの類ではと勘違いしかねないが、まったく関係はない。葉は互生、長さ3-12cm、葉縁に二重きょ歯がある。花は早春に黄緑色の小さい花を葉に先立って古枝の先に咲かせる。翼果は長さ10-16mmの膜質の倒卵形で、種子は翼上部にある。年輪が明瞭な環孔材。心材は暗褐色、辺材は褐色をおびた灰白色である。木理がはっきりしているので、コブや根に近い箇所にはとくに美しい杢が出る。重く硬い。切削・加工はやや困難であるが、曲げに強いので、曲木には適している。耐朽・保存性は高くない。用途として、家具、器具、車輌、単板などがある。淡泊な木材が好まれる場合には、ムクの木材として、また天然木化粧単板の材料としても使われる。」

自粛疲れ?都会離れ「コロナ疎開」2020年04月06日

ソース:https://www.yomiuri.co.jp/national/20200406-OYT1T50058/
大見出し:自粛疲れ?都会離れ「コロナ疎開」…地方は困惑「本来ありがたいが」

 新型コロナウイルスの感染者の増加を受け、東京都や大阪府などの大都市から地方に旅行したり、一定期間滞在したりする人が目立っている。インターネット上では「コロナ疎開」との言葉も使われる。ウイルスからの避難や「自粛疲れ」などが背景にあるようだが、専門家からは感染拡大の危険性が指摘され、各地で困惑が広がっている。

中略

「3密」避け冷静対応を 専門家呼びかけ
 政府の専門家会議メンバーの押谷仁・東北大教授は、都市部から地方への避難について、「新型コロナウイルスが拡散する恐れのある行動で、避けてほしい」と呼びかける。

 地方都市の中には医療機関の備えが不十分なところが多く、高度な医療が提供できる施設も限られる。住民に高齢者が多いこともあり、都市部から感染が波及すると、大きな被害が出る可能性があるという。

 押谷教授は、「密閉、密集、密接が起こる環境を避ければ、感染者が増えている東京や大阪でも普通に生活できる」と説明し、冷静な対応を求めている。
以上

・・・・そういえば、名古屋市でも4/4(土)の朝8時過ぎは車が多かった。名二環から一宮JCT経由木之本ICまで利用したが、養老SA辺りまでは車が多かった。関ケ原ICを過ぎてから交通量は激減したかに思う。
 木之本ICからR8に出てもやはり車は多く、サイクリストも良く見た。JR永原駅のPは数台の車で閑散としていた。輪行袋を抱えたサークルも見かけたが数は少ない。私はより人の居ない山中へと分け入ったから「三密」は回避できている。万路越えから無名のコブで3人に会っただけ。
 海津大崎へ下山後は、予想ではマキノ町のHPで有名な花見のイベントを中止したから閑散としているかと想像したが、県道は一方通行で渋滞中であった。ナンバーは滋賀県が圧倒し、他に京都府、福井県くらいで都会からの他県ナンバーの「コロナ疎開」はなかったかに思える。交通監視員に聞くと、それでも例年よりはうんと少ないのだとか。
 こちらはマキノ駅から永原駅まで乗車したが、駅のホームでは私一人、車内の乗客も閑散。下車する人もちらほら。マイカーに戻るとあとは接触は地元スーパーでの買い物以外は自宅までほとんどない。一宮JCTではいつもの渋滞はなく、名二環もスムーズだった。愛知県民は自粛を守っているのだろう。帰路は早かった。帰宅後は手洗い、入浴、うがいをして就寝。
 自粛で室内にいると読書するくらいしかない。あるいは隅々の掃除とかはこの機会にやるが気は進まない。やっぱり人は他人との接触の中で生きている。そういう形で物事は進んでゆくものなんだな。