奥三河・滝洞を遡る2019年11月13日

3段25mの美しい滝
 今日は1年の沢登りを締めくくる沢納め。場所は設楽町の滝洞を選定した。今期4度目の設楽町の沢歩きである。
 地形図には名前はないが、滝の口川が正しい地名のようだ。林道は滝洞林道と呼ばれている。池ノシリの588m地点から入り、不動橋付近に駐車可。林道ゲートは三角点838.7mの左のくの字型の箇所にある。
 栃洞を遡行した際、下山は838.7mの三角点を経て豊邦の山里に下山した。そこで山の小母さんたちとのよもやま話が面白かった。草の生えないところへ行きたいとか、滝洞は奥入瀬みたい、11月中旬が良いよ、と推奨をされた。
 それでこの時期に沢納を兼ねて10時30分ごろ、不動橋にP、林道ゲートを過ぎてからしばらく歩き滝洞に入渓した。谷は鰻沢、栃洞に比して若干小規模だが小さくまとまった感じ。大した難所はないが核心部は2か所あった。最後は3段25mの美しい滝で締めくくる。標高883mの尾根の下がった辺り。この辺りまで来るとヤマモミジの紅葉が美しい。滝を過ぎると平凡になり林道の分岐まで歩いて12時30分ごろに昼食。
 滝洞林道を歩いて下山した。道中で雪蛍を見た。この虫が浮遊するとやがて雪が降ると言われる。Pに着いたのは13時30分ごろだった。手軽な溪谷ハイキングの趣がある。帰りは時間に余裕があり、足助町の百年草に入湯した。温泉ではないが温まる。300円。足助町の紅葉は今一で来週から月末にかけてごった返すかも知れない。すでに駐車場客獲得に大わらわである。
 段戸の山と谷のランキング
1 澄川  ◎  段戸山
2 栃洞  〇  出来山
3 滝洞  〇  出来山
4 鰻沢  △  出来山

台風19号の被災地のこと2019年10月15日

 台風19号は関東甲信越地方に甚大な被害を残していった。特に北陸新幹線基地が水没した写真には衝撃を覚える。クルマでも最近の技術は電子部品のかたまりであるから水には弱い。それなりの対策をしてあると思うが水没までは想定してないだろう。水没したクルマは使えないので買い替えとなるからただでさえ出費が嵩むところへ高額製品の故障は痛い。それにしてもこんなことがあるから電子化した車は買えない。
 週末には戸隠山へ登山の予定なので宿泊予定の民宿に電話で安否を問うと戸隠は風も雨も強かったが被災は無かったというので一安心した。週末には登山道の状況をチエックすることにする。
 それで話は自然に新幹線車両基地の水没の話になった。おばさんの話ではあそこは「赤沼」といって元々水の出やすい地域であり、広い敷地が要るのであそこにならざるを得なかったとの見解だった。
 国地院の地形図でチエックすると、なるほど、赤沼は水害を受けやすいと分かる。山間部を流れてきた犀川(梓川)と千曲川が合流して氾濫を繰り返して出来た平地が長野盆地なのである。そして一つになった千曲川は小布施町辺りで狭い山間の峡谷に流れて行く。2車線が1車線に狭まるから水が滞留し易い。豊野という地名は氾濫河原で作物がよく実ったのであろう。岐阜の輪中の村もなぜそんな地区に執着するかといえば上流の山からの土砂が新たな肥料を運んで作物がよく育つという理由らしい。
 赤沼は千曲川左岸にある。地形図を仔細に眺めると左岸の標高が約340m前後でさらに東の山勝ちに浅川が流れる。源流は飯縄山になる。赤沼の住宅地は332m、浅川の山側も333mしかない。赤沼は浅川と千曲川に挟まれている地形になる。浅川は自然史的には村山付近へ東流していたのではないか。
 それが一つになった千曲川の水勢で土砂が押し流されて合流地が北へ北へと移動した。土砂の盛り上がりが十分でないところが赤沼という凹んだ地形になったと想像する。沢登りすると本流と支流の関係でそんな地形を見ることがある。
 水流が無い時は凹みだけに水が残り沼地になった。千曲川を堤防で囲んでしまえば広大な土地が造成できた。そこに新幹線車両基地や住宅地が造成された。
 破堤すると水は正直に凹んだ地形にたまる。どう対策するか、例えば犀川の水を千曲川と合流する前に長野市の山際に導水トンネルで飯山市辺りまで流すことが考えられる。小布施辺りから放水路をつくり下流へ流すことも考えられる。
 家を買う時住み替える時は、池(今池、赤池、池場、池下、池袋)、沼(沼田、大沼、沼尻)、津島(津は水が集る意味、島は離れた土地)、久手(湿地の意味。作手、大久手、長久手)は土地の状況をよく確認することである。すべて水はけが悪い地形になる。数千万円も出して水没なんて悪夢しかない。

越美国境・笹ヶ峰から下山2019年09月16日

 滝ヶ谷を登り詰めて笹ヶ峰の北方のピーク(ab1270m)でビバークを決断。Wリーダーがビバークに最適な砂地の平な一角を見つけた。そこで二張りのツエルトを設営。濡れたものを乾かすために焚火を試みたが着火に失敗。不快なままだったが疲労困憊の体ですぐ就寝できた。
 夜は多少は寒かった。足の冷えは資源ごみの袋を足ごと包み、ザックにすっぽり入れて寝たら快適だった。防寒としては羽毛のベストが軽くて快適だった。
 朝4時か、目覚ましが朝を知らせる。周囲は濃霧に包まれている。それでも6時ごろになると東の空から太陽が昇るのが見えた。能郷白山、イソクラなども同定できた。(Wさん)気温が上昇すると霧は晴れた。スマホも使えたので午後から天気が悪くなるとの予報は聞こえた。
 さて、6時過ぎ、霧に包まれる笹ヶ峰を目指す。何とか獣道を探しながらも笹と低灌木の藪のからむ稜線の藪漕ぎは著しく体力を消耗させる。我慢我慢の藪漕ぎをすること40分で登頂できた。
 笹ヶ峰の三角点周辺はきれいに刈り込まれているので登山者があるのだろう。ここからロボット(ab1280m)のピークまでは藪山好きの登山者がつけてくれた踏み跡に期待したが、笹と低灌木の藪漕ぎは続いた。ここでもかすかに残る獣道を探しながら越美国境稜線の縦走を続ける。この山の登頂者は残雪期が多く、稜線もスキー向きなほど広いから期待したほどの踏み跡はなかった。
 先頭を行くWリーダーが1294mの夏小屋丸の南のコブから不動山へRFを間違えた。が、Wさんが下がりすぎと、気が付いたのですぐにGPSでチエックしてもらったらやはりミスだった。『秘境奥美濃の山旅』のガイドはここから不動山往復をしている関係で踏み跡ができてしまったのだろう。
 ビバーク地から約6時間後、やっとロボットに着いた。12時10分に廃村大河内に向かって下山する。この尾根道も白谷山までは藪が絡む。しかし獣道ではなく、ロボットのために付けられた登山の道の廃道なので途切れず、下るペースは確保できる。白谷山を過ぎてから尾根は急降下する。途中で熊4頭に遭遇し、Wさんが笛を鳴らして知らせる。疲れた体をかばいながら何とか白谷の水場へ着いた。不足していた水分を思いきり補給して人心地ついた。
 橋を渡るとマイカーのあるPへはすぐだ。時に4時半。着替えて廃村大河内を後にした。帰路、林道に立ちすくむ鹿と遭遇する。登山者が去れば獣天国に還る。今庄の宿で有名な今庄そばを賞味できた。温泉には時間切れで入湯できなかった。沢から山頂を踏んで、稜線を縦走して夢のようだ、とWさん。三度目の正直か。失敗しないと性根が座らないのは私も同じだ。しかし奥美濃でこんなに山深く秘境的雰囲気を楽しめる山は貴重だ。究極の登山であった。

山歩き講座2019年09月08日

 朝10時から11時30分まで天白生涯学習センターで「山歩き講座」を開講しました。拙いながら講師役を務めさせていただきました。受講生は当初10名と聞いていたのですがキャンセルがあって4名に減りました。しかし少ない分距離感が縮まり親しく接することができました。
 石川館長の開講のあいさつで始まった。登山やハイキングの経験者は1名もなく、約1時間はレジュメに沿って机上学習で登山の注意事項を中心にレクチュアーしました。
1 登山計画書の作成、
2 ガイドブックの活用、
3 自分に合った山の見つけ方、
4 ネットからの地形図のプリントアウトの活用でした。
 装備類は登山計画書の作成の過程で必然的に覚えるし、登山用具店でも知る機会があろうかと簡単に済ませました。
 特に山岳遭難では道迷いが増えていることを警告的に主張して置きました。統計で転落、滑落とあっても道に迷った結果、未整備な尾根や谷を歩くことで転落することがあるのでまずは迷わないことに重点を置きました。迷わないためには地形図を使い倒すことしかない。自分が今どこに居るのか。
 1時間の机上学習後は生涯センターの裏の里山、四等三角点60.1mの埋まる「島田」山へガイド登山しました。全員に地形図のプリント、私はコンパスを持って、地形図とコンパスの使い方を話しました。
 太いクヌギも森林文化史的にみれば、里山として利用されなくなった結果大木になったこと。限界を越えると幹に空洞ができて倒木するのであちこちに間引きされたクヌギの薪を見ました。この樹種が薪やシイタケの原木に利用されてきたわけです。
 島田山は落葉樹と常緑樹の混交林です。中山神社のコブは全域常緑樹で覆われていて、絶えず人間の干渉を受ける里山と伐採や採集から守られる鎮守の森の植生の違いも示しました。
 2.5万図の地形図には10m以内の地形の変化は表現されず、結果絶対的ではないことと、水のない浅い谷の地形を指しながら地図の見方を教えました。やがて平らな山頂に達すると三角点についてのレクチャーを始めました。曰く地形図を作成する基準となる重要な標石と。一等から三等は戦前の内に五万図を作成するための測量の基準として、2.5万図は写真測量でつくられ、四等は戦後に埋設されたもの。等々。
 一旦等高線1つ分下って何もないコブも地形図と比較しながらこうやって表現される旨話した。地形図の枝道の二又の表現で右折して生涯センターに戻るとちょうど11時30分になった。30分のミニガイドはおおむね好評のうちに下山しました。緑陰講座にもなりました。
 最後に石川館長のあいさつで締めた。

リニア中央新幹線の行方2019年09月06日

大村VS川勝知事会談を報じる新聞
 9/5の朝刊各紙は大村知事と川勝知事の会談の顛末を報じた。各県にまたがる問題なので国の積極的関与が必須との確認に終わった。

 これまでに川勝知事には赤石トンネルの位置を間ノ岳と北岳の間に移して大井川の水源問題に与しない旨提言した。JR東海は私企業であり、水利権問題に関与するのは無理と思われるからだ。

 9/5の知事会談を知って、大村知事には現在の計画通りの場合は長野県側に流れ出る水量を計測し、長野県側に貯水ダムをつくって水路で大井川源流に還流する方法を提言した。
 報道を見るとどの方法でも地方自治体の首長の権限の範囲を大きく逸脱するので知事レベルでの調整は不可能だと理解した。

過去の記事から
http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/11/01/7031382
大鹿村中央構造線博物館見学

三角点を確認2019年09月04日

 登る道もちょっと変えて昨日は見落とした四等三角点島田を探しに登った。今日はすぐに見つけた。昨日は見えていたのに見ていなかったことになる。今日は藪蚊が多くて刺してくるのですぐ下山する。
 遊歩道には結構櫟の大木があり、戦後、薪炭に利用をしなくなって伸び放題である。しかし、樹高はこれくらいが限界だろう。風による倒木も増えてくる。直径1m位の切り株もあります。近くには薪にしてありました。里山の名残りです。白っぽい茸、茶色の食えそうな茸も生えていて秋山らしい。ツユクサ、ピンクのヒガンバナ、ミソハギ、黄色の花は不明だが道々の草花も目に留まりました。
 結構汗をかいて近くの喫茶店で涼んでから帰宅する。

 夜は山岳会の定例会に行く。いつもは見ない2人が出席していた。先月復会の会員も正式に入会になった。もう一人の女性も仕事帰りで少し遅れて入室してきた。誰かが沢ばっかりでは新人さんが参加しにくいじゃない、とご意見がありごもっともと新人向けの山行を考慮することとした。また岩登りで酷使するザイルが消耗したとかで新調することが提案されて異議なしで決定した。新人歓迎会兼忘年山行の日時も11月末とだけを決定した。コンテンツは提案してもらうことになった。

段戸山(鷹ノ巣山、出来山を含む)をめぐる沢、谷、洞2019年08月26日

 昨日は栃洞を遡行した。
 山一つ西は滝洞という。その西は鰻沢という。栃洞の東は西川谷、さらに東は弁天谷という。北へ椹尾谷、本谷がある。以上は豊川水系の支流になる。鷹ノ巣山の北側は矢作川水系になる。北西には井戸沢がある。寧比曽岳には沢名の記載がない。出来山の足助側には信玄沢、枯木沢があり、全体は信玄の金山の名残りとして金沢の地名がある。
 沢名は愛知県から木曽山脈、飛騨山脈の屏風の東側の名称である。西側は谷名になる。洞は岐阜県に多い気がする。意味は「大木や岩などの、うつろになったところ。ほら。ほらあな。」「崖(がけ)や岩の中の、うつろになった穴。ほら穴。」が一義的な意味だろう。確かに栃洞を歩いても岩のポットホール(甌穴)が多かった。
 それでは沢と谷が入り混じった川はどうなのか。例えば富山県側に入る黒部川の源流部は谷のはずだが、赤木沢、五郎沢、祖父沢、薬師沢など数々挙げられる。これらは東日本の信州側から多数の人が入って持ち込んだものだろう。黒部川を国境とする見解もあったらしい。
 結局愛知県の設楽町には沢、谷、洞が入り混じっているが、沢は信玄沢の名称でも推測できるように甲斐の人が多数入った証拠だろう。設楽町には縄文遺跡があることから東日本文化圏だったと思われる。洞はその形状から来るのだろう。
 すると弁天谷はどうか。愛知県尾張地方には弥生遺跡が出土している。谷の文化圏の関西からも多数の人が来たと思われる。
 コトバンクから引用すると
「弁才天 べんざいてん
仏教の守護神。
知恵,弁舌,技芸の女神。もとはヒンズー教の河神。8本の手で各種の武具をもつ座像,あるいは2手で琵琶(びわ)をもつ座像として表現される。日本では奈良時代から弁才天信仰がはじまり,江戸時代には弁財天ともしるされ,蓄財の神,七福神のひとりとして庶民の信仰をあつめた。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例」とあった。比較的新しい歴史がある。
 当貝津川と栗島川(上流で西川谷と弁天谷と変わる)の出合いには赤沢弁財天があり霊水をウリにしている。つまり信仰が由来だった。

奥三河・澄川を遡る2019年06月16日

澄川のミニゴルジュ
 午前6時半、一社駅前を出発。すぐ高速に入り、東海環状道・鞍ヶ池SIから出る。約30分で三河に来れる。足助を経てR420から設楽町へ走る。新段戸トンネルを抜けると路面がまだ濡れている。三都橋を左折、裏谷を経て、豊川水系の源流部から最奥の村・宇連へと下る。
 宇連で駒ヶ原宇連林道へ左折。標高760mの澄川にかかる中山橋まで走ると通行止めのチエーンがかかっていた。目的地はここまでなのでP。身支度して、9時30分澄川に入渓する。空模様は小雨がパラつくが午後はよくなるとの予報を頼りに実施。
 雨が降り続いたので当然増水しているが水はきれいである。大きな岩がゴロゴロしている。岩をかむように奔流が続く。しばらくすると落差のある滝も出てきて、地形図から想像する穏やかな渓相と違い、かなり悪いと言える。
 水量が少なければ直登できそうな小滝も今日は巻くことにする。巻き道も自然に踏まれている。そうして巻くうちに意外なものを発見した。桟橋である。非常に古い朽ちた桟橋がかかっていた。かつては溪谷探勝の遊歩道でもあったのだろうか。そのうちに新しい堰堤がでてきた。これは左から越えた。
 左へ明瞭な支流が分かれる。本流を行くとしばらくで伐採地にでて突然明るくなった。ここから先へ進むとまたも意外なミニゴルジュが現れた。二股で左は支流、本流は斜瀑が二筋に分かれて落ちていた。中央の恐竜の背中のような岩稜をたどって偵察するとさらに奥に2m程度の滝が奔流となってしぶきを上げる。5人ものメンバーでは突破が困難なので支流から巻いた。
 支流を高く登り、本流にトラバースして下った。どうやら950mの標高に達したらしい。ここから橋までは平流となった。それでも飽きることはなかった。いよいよ澄川林道にかかる橋に着いたので川から上がった。12時だった。2時間半の沢歩きだった。
 ここは返り水林道との分岐であり、段戸山(現在は鷹ノ巣山)登山口の古い案内板が立っていた。昔はここから登ったのである。
 鷹ノ巣山往復は止めて車に戻ることにした。先週の長丁場があるので登頂を追うと遅くなる気がしたのであろう。澄川林道を駒ヶ原宇連林道との分岐まで歩き、クルマに戻った。約1時間で14時。木材を満載したトラックが山奥から来た。チエーンはその為だったのだ。
 稲武地区のこまどりの湯に入湯を希望多数であった。宇連からさいの神峠を越えて名倉へ出た。こまどりの湯は近い。久々の広い湯船に体を浸した。こんな沢歩きも良いものだ。こまどりの湯を出たのは午4時だった。明るいうちに名古屋に帰れるのも久々だ。

神又谷異聞2019年06月10日

 20万地勢図「岐阜」を見ていたら、池ノ又林道通行止め地点から尾根に上がり、747mを越えて中ツ谷に下り、1048mへの独立標高点に登り、1196m(左千方)まで行って、尾羽梨川へ下る破線路があります。『坂内村誌』によれば中尾嶺越というようだ。1050.2mは中尾嶺ともいう。(滋賀県地名大辞典)
 私のは昭和48年12月現在の地図です。田戸の奥の尾羽梨は廃村です。昔は近江の村と結ぶ山道があったのです。

 坂内村誌(民俗編)には
 神又谷は昭和10年代は木材搬出の道があったそうです。古くは江州谷とよばれたほど滋賀県側から木炭や、薪材を切り出しに来ていたらしい。近江は金糞岳があり、土倉鉱山もあり金属精錬が盛んだった。魚を焼く、お茶を淹れる、暖房、炊事など需要は旺盛だった。
 それで近江だけでは足りず、山越えで炭を生産したのでしょう。そしてリッカ谷から1050.2mの南の鞍部を越えて、神又谷と往来があったらしい。あの見事なブナ林は二次林なんですね。それにしては注意していたが炭焼き窯跡は見つからなかった。

 皆さんと眺めたブナ原生林は他の樹種が混じらない純林と呼ばれる。
 ウィキぺディアには「森林の樹木群集がほとんど陰樹で構成されるようになり、それ以降樹種の構成がさほど変化しない状態になったことを「極相に達した」といい、極相に達した森林を極相林という。 また、主に極相林で生育する樹木種を極相種という。」
 つまり下山の際に見た無尽蔵に林立していたあのブナ林は極相に達しているのです。
 だから眺めて美しいし、青森県の白神山地も同じく極相林でしたから、あそこにいる限りは白神山地と変わりない環境だったのです。
 
 滋賀県の廃村・奥川並(おくこうなみ)は川上の人等が峠を越えてつくった村でした。ですから中津谷との交流の道もあったのです。1060mは多分ですが、中津山かも知れません。するとあの尾根は中津尾かな。坂内村誌はそこまで記載はないが詳細な山名考証がある。昔は近江と美濃の山村民は縦横に山を歩いていたのでしょう。

 点名の大岳は滋賀県側の名称です。前述したように中尾嶺も文献に出ている。

 木炭の生産は江戸時代から盛んだった。秀吉は薪炭材の本数を把握するために1000本の紐を作り、山の木に巻いて残った本数を引いて実際の本数を把握したという。知恵者です。

 古くはヤマトタケルの時代、伊吹山の魔物を征伐するために出かけますが、死に至るケガをさせられて退散します。伊吹神は金属の神様で南宮大社も金属の神様を祭っています。伊吹山の北には金糞岳があります。金属の精錬には木炭が必須です。長浜市は鉄砲の生産で有名です。鉄砲鍛冶にも大量の木炭が必要です。大量の木炭を消費する環境だったことは想像できます。今と違って往時は山に多くの人が入っていたでしょう。今は野生動物の天国です。

 戦後に石油の輸入が再開されると木炭の生産は急激に淘汰されてしまいます。この山も需要の急減した木炭の原料として利用価値のない(文字どうり、ブナは木で無い、橅があてらる)山になった。伸びるままに伸びて、戦後は74年間に他の樹種を抑えて極相に達した。

鎌田則雄山岳写真展「遥かなる日本の山々」開催2019年05月14日

 朝6時半ごろの地下鉄に乗る。この時間帯はまだ辛うじて座れた。もう少し後になるほどすし詰めになり呼吸も困難なほどに混む。伏見駅で下車して名古屋観光ホテルへ。ちょっと早すぎてまだ閑散としているがぼつぼつ集まりだしてはいた。
 早朝に朝食を一緒に食べて、共通の話題で1年間の会合を持つ。今日はクラブAの総会(大学の同窓会)である。約50名以上は集まったと思われる。事業報告、決算予算など報告され議事進行する。
 終わった後、若い弁護士のMさんが声をかけてくれた。3月のスピーチで、登山40年・・・山歩き人生40年・・・登った、読んだ、書いた・・・を聞いて何がしかの印象を持ったらしい。コーヒーを飲みながら山談義した。
 その後、広小路通りを徒歩で栄まで歩く。少し見ぬ間にも、丸善ビルの取り壊しに続き、今は東海銀行本店ビルが取り壊し中だった。次は丸栄も囲まれて取り壊し工事が進んでいるようだ。そして親しまれた中日ビルまでもが一部を囲まれて取り壊しに入っている。
 中でも東海銀行本店ビルの消滅は、東海銀行山岳部の知友20名くらいと交流していただけに一時代が終わってゆく寂しさがある。最後まで親しくしていたNさんも昨秋に亡くなった。
 東海地方の金融センターの崩壊は三和に吸収、三菱に吸収される形であった。その影響で資本的には兄弟のような松坂屋もおかしくなった。最近ではユニーが外部資本の傘下に入った。東海地方に本社を置く会社の地盤沈下が激しいのはなぜだろうか。
 名大の地元占有率が高く、親元から通学、親元から通勤する傾向になり、変化を望まない風土があるからか。いわゆる名大閥である。国立大学が大量に優秀な人材を供給するのは使命ではあるが偏在は良くない。
 かつては親族でなければ出世できないと、オリエンタル中村は三越に経営権を奪われた。名大卒でないと出世できないと知れば社員の意欲は削がれる。これが地元資本の会社の沈没につながる気がする。
 そんなことを思いながら、中区役所に着いた。9時半の開催時刻とほぼジャスト。会場ではまだ梱包の整理やら、お祝いの胡蝶蘭の展示に大わらわであった。
 
2019年 5/14 ~ 5/19
名古屋 市民ギャラリー栄 8階 (第6/7/8室)  総数137点
講演 : 山の構図セミナー 5/19 13:00~14:30 (無料)

 一回りした。ブースを3室も使って137点の作品を展示してありました。 想像以上に見ごたえがあり、圧巻というべし。
 個展開催を祝う仲間からの胡蝶蘭などが次々運び込まれて大変なことになっていました。
 となりの展覧会の人が何人で出品されたんですか、というので、いや、個展ですから1人ですよ、といったら驚かれました。
 一言言えば、制作年月日順に展示されるとこの作家の成長過程がわかってもっと良かった。
 当初は雪山、鋭鋒の構図重視でしたから絵葉書的になりやすかった。鋭鋒の雪山は外国の巨峰に比すれば見劣りする。それが段々テーマが広がり、今は足元の山野草にも注目する。マクロからミクロへ、静から動へ、またその組み合わせとなる。
 雷鳥を撮影するにしても雄の婚姻色である赤い肉冠にフォーカスするなど動物写真家への転換か、と思わせる。
 今後は歴史、民俗、社会などへのテーマ展開の可能性がある。愛知県には東松照明など異色の写真家がいた。単なる風景ではないモノへのフォーカスを期待する。

 小雨模様になってきた。地下街を抜けて、久屋大通駅へ行くと大雨になっていた。濡れるのを覚悟で事務所へ駆け込んだ。若干の雑務の処理。あっという間に正午が迫る。また駅まで行き植田駅へ。自宅に戻って、損保の手続きをした。ネットの見積もりサイトで見積もると10000円も安くなった。やってみるもんだ。