南信州・アテビ平散策2018年07月22日

 名古屋を6時半に出発、足助からR153、稲武からR257,稲武で28℃なので天狗棚のある面ノ木峠へ登る県道80号線から茶臼山へは窓を開けて冷涼な高原ドライブになった。
 地形図を眺めると、木曽山脈の蛇峠山から南に派生する支脈が、一旦、売木峠で1150mまで高度を下げて再び高度をあげて聳えるのが茶臼山である。茶臼山の東の長野県側から流れる谷は矢作川(実は根羽川)の源流にもなっている。
 売木峠からすぐに軒川に沿う県道が、根羽村と売木村の境に沿って右へ登って行くので右折するとしばらくで休憩小屋に着く。
 アテビ平小鳥の森の入り口へは8時半着。1218mの所にある休憩小屋のおばさんも店開きに登って来た。と同時に常連客らも続々登って来た。ここでも24℃とかなり涼しい。
 ハイキングの姿で、入り口からしばらくは谷に下る広い遊歩道を歩く。谷をまたぐと登り返し、アテビ平の一角に着く。湿原ではなく、準平原でせせらぎが流れ、小鳥がさえずる。ミズゴケがびっしり生える。
 地形図で精査すると、軒川の源流に当たる。比高20m下って20m登り返すとまた1200m級のアテビ平である。アテビとはクロベの別名という。ここから4方向に交差している。とりあえず、湿潤な道を歩きながら馬の背を目指す。
 馬の背へ歩き、尾根を下った。一旦、標高1120mの県道の入り口を往復後、県道に並行する沢沿いの道を登る。バイケイソウの花が多い。比高100mほどをゆっくり登り返すと休憩小屋の手前で遊歩道に合流。再び同じ道を下って、次はアテビ島へ周回する。軒川の源流部を迂回するイメージである。ここから、ザゼンソウのある湿地を経て、休憩小屋へ戻る。
 五平餅を食べて休憩後、また遊歩道を下り、アテビ平に登ると、今度は左折(北へ)して、馬の丞へ行ってみる。8の字形の遊歩道であるが、樹林帯を歩く以外、特に特長のある景色は無い。アテビ平に戻った後、休憩小屋に帰るともう12時半になった。
 今回はここに咲くと言うレンゲショウマの花を探しに来たのだが、蕾すら見つからなかった。ここにはないかも知れない。
 今から茶臼山と萩太郎を登るのは暑くてやりきれないので売木村に下った。そこでうるぎ温泉こまどりの湯に入湯した。ぬめっとした良いお湯である。R418から平湯峠を越え、R153で帰名した。国道153号でも気温28℃なので名古屋へ帰りたくなかった。

万緑を顧みるべし山毛欅峠 石田波郷2018年06月29日

 昨夜から強風が吹いた。蒸し暑い一夜だった。天白川も泥で濁っているから上流で相当な雨が降っただろう。先般、小学4年の子等の川遊びのために刈られた河川敷の刈草ももう枯れている。暑さである。梅雨明けも近い。その前に大暴れがあるか。
 明け易い。いくらも寝ていないのにもう朝だ。

 この時期が来ると思い出す一句である。そして好きな俳句である。

 句の背景をググルと「週刊俳句 Haiku Weekly」に

俳枕15 奥武蔵・山毛欅峠と石田波郷 広渡 敬雄

「青垣」18号より転載
 奥武蔵は埼玉県の南西部に位置し、武蔵野台地が緩やかに高さを増して丘陵、山岳となる辺り。その地域を名栗川(入間川)と高麗川が潤し、合流して荒川に至る。

 山奥まで集落があり、正丸峠、山伏峠を越えれば秩父盆地が開ける。

 歴史的には七世紀に新羅に滅ぼされ日本に亡命した高句麗の人々が、霊亀二年(716年)この地(高麗郡)に集結し創建した高麗神社があり、彼岸花で有名な巾着田の日高市、武者小路実篤の「新しき村」の毛呂山町、梅園で名高い越生町、最近では俳人石田郷子氏が居住し、創意工夫で心豊かな山村生活を発信している名栗村(現飯能市)等がある。

 萬緑を顧みるべし山毛欅峠  石田波郷

 七夕や檜山かぶさる名栗村  水原秋櫻子
 枯野きて修羅の顔なり入間川 角川源義
 桑を解くひとへ瞼の高麗の裔 能村登四郎
 実篤の書にいなびかりつづけざま 細見綾子
 擂粉木の素の香は冬の奥武蔵 三橋敏雄
 あたたかき砂あたたかき石名栗川 石田郷子

 山毛欅峠(橅峠・782㍍)は秩父盆地と飯能市の境・正丸峠と関八州見晴台のほぼ中程にある。

 現在は奥武蔵グリーンラインも通じ、峠の小高い杉並木に昭和五十年に建立の自然石に刻まれた石田波郷の句碑がある。但し、かつて波郷を驚嘆させた山毛欅林は杉の植林となり往時を偲ぶすべもない。

 句集『風切以後』に収録されているこの句は、『日本百名山』の著者深田久弥や中村汀女も愛誦し、波郷自身も「私の数少ない自然を詠んだ句で一番気に入っている」と語っている。

 自句自解等には、「昭和十八年五月、長男修大誕生直後、文学報告会職員のハイキングで奥武蔵に遊んだ。見はるかす四方の浅黄、萌黄、浅緑、深緑の怒涛のように起伏する爽大な風景に魂を奪われ即刻にこの句を為した。三月から月俸九十円の一書記であった」とある。

 矢島渚男は昭和32年3月、二十二歳の大学生の時、東京都江東区砂町の波郷宅を訪ね、以後師事したが、その日にこの句を色紙に書いていただいたと「亡師追想」で述べている。

 波郷は大正2年愛媛県の松山市生まれ。松山中学時代から俳句を始め、十七歳で水原秋櫻子門下の五十崎古郷に師事し、「馬酔木」に投句。昭和7年同巻頭を得て単身上京、百合山羽公、瀧春一、篠田悌二郎、高屋窓秋、石橋辰之助、相生垣瓜人等錚々たる俳人とともに二十歳で最年少同人となり、窓秋、辰之助と並んで「馬酔木三羽烏」と称された。

 健康にも恵まれ、辰之助等とハイキング、スキー等を意欲的に楽しんだ。終生の師横光利一にも目をかけられ、二十二歳で第一句集『石田波郷句集』を上梓し、二十四歳で「鶴」を創刊主宰。

 三十歳の結婚を機に「馬酔木」を辞した。

 召集による入隊以後体調を崩したが、終戦早々の昭和21年、「俳句は生活の裡に満目季節をのぞみ、蕭々又朗々たる打坐即刻のうた也」と宣し「鶴」を復刊する。

 その後肺を病み、再三の成形手術、清瀬の東京療養所入所により、「療養俳句」の一時代を確立した。

 万全な体調でないものの、朝日俳壇選者、現代俳句協会さらに俳人協会の設立に尽力し、昭和三十年、四十二歳で『定本石田波郷全句集』により第六回読売文学賞を受賞、俳壇で重きをなした。

 昭和44年には、句集『酒中花』で芸術選奨文部大臣賞を受賞するも、同年11月21日五十六歳で逝去。深大寺に葬られた。「今生は病む生なりき烏頭」

 戦後十二年間暮らした江東区の砂町文化センターに平成12年、「石田波郷記念館」が開設されている。

 句集は十六冊あるが、句の重複も多く『石田波郷全句集』には『鶴の眼』『風切』『病雁』『雨覆』『惜命』『春嵐』『酒中花』『酒中花以後』の八冊が収録されている。玄人跣の自身の撮影写真も添えた『江東歳時記』、『清瀬村』等の随筆集もある。

 長男修大氏著の『わが父波郷』『波郷の肖像』は、父波郷とのほど良い距離感があり、最良の語り手を得た感がする。

 作風は馬酔木調の抒情的青春性の横溢する二十歳代前半、加藤楸邨等の影響を受けた「人間探究派(難解俳句)」時代、戦後直後の「焦土俳句」時代、そして四十歳からの長い「療養俳句」時代と生涯に大きな変遷がある。特に後半は自身の診療生活の限られた句材を詠んだ私小説風の俳句も多い。

 終生、「俳句の韻文精神」、又、「豊饒なる自然と剛直なる生活表現」を唱え、「俳句は文学ではない」との俳句の本質を喝破した言葉も残している。
 山本健吉は、句集『風切』(昭和18年)で、抒情的新興俳句と訣別し、蕉風「猿蓑」を手本に古典の格と技法とを学び生活に即した人生諷詠としての俳句に開眼したと述べる。

 多くの波郷の佳句の中から、自然詠に限って記したい。

 元日の殺生石のにほひかな(那須湯本)
 花ちるや瑞々しきは出羽の国
 雪降れり月食の汽車山に入り(越後湯沢へ)
 雨蛙鶴溜駅降り出すか (軽井沢にて 草軽軽便電気鉄道)
 葛咲くや嬬恋村の字いくつ
 蓼科は被く雲かも冬隣 (霧ヶ峰 鷲ヶ峰)
 浅間山空の左手に眠りけり
 琅玕や一月沼の横たはり(手賀沼)

 ◎泉への道後れゆく安けさよ(軽井沢)

*山毛欅峠の句は句集『風切以後』の表記に拠った。
以上
 江東区の砂町文化センターの「石田波郷記念館」は行ったことがある。両側が個人商店が並ぶ狭い路地を抜けて歩いた。庶民の街である。ちょっと離れた場所に古石場文化センターがあり、小津安二郎の生誕の地がある。
 登山・ハイキングを兼ねてブナ峠の句碑に行って見たいと思う。奥武蔵は埼玉県の奥で西部鉄道沿線らしい。1000m級以下の低山がほとんどで奥三河の山のイメージに近い。
 自然詠は自然の中に入らないと得られない。芭蕉も旅に出て佳吟を残した。旅といえども、他人に面倒を一切任せた商品として、バスや電車に乗っての観光旅行ではない。
 旅することは生きることと思うようなイメージである。それは山旅に近い。登山こそが本来の旅の原型を残している。波郷のころはまだ峠の趣があったが今は写真で見ると車道が通じている。まあそれでも足で歩けば少しは感じるものがあると思う。

大白木山の沢を溯る2018年06月18日

 山岳会の例会で出された大白木山(おじろぎやま)の沢登りの計画に参加した。今年はこれで2回目になる。
 前夜の6/16(土)8時、集合場所で合流。スーパーで夜食と行動食を仕入れた。同行者が最近はスマホのナビを活用し出した。頭の中にはすでに道筋が入っているが、ナビは意外にも、岐阜羽島ICを経由する。東海北陸道・美濃IC経由尾並坂越えより、ナビの方が早かった。美濃市までの市街地を一気に高速で時間稼ぎするより、地道だけでそんなに早く行けるものか、ナビに従ってみた。
 名古屋市内からR22を走り一宮ICから名神高速を岐阜羽島まで走る。ICを出てからは複雑な指示に従った。夜道なので全く地理勘が働かない。県道46、県道18と走り、長良川を渡ると、揖斐川の手前で県道220に右折。これは揖斐川左岸道路で、本巣市役所付近で、根尾川左岸にそのままつながって、県道92になるが、木知原でR157に合流するまでは、 北進するのみであった。根尾川左岸の堤防道路は狭く、ガードレールもなく、怖かったが、対向車がなく、かなり早く走れたのは幸いだった。
 R157からは勝手知ったる道で上大須ダムまで走り、ダム湖畔まで行く。夜11時半、約100kmで2時間余りかかった。が、土砂崩れで園地までは行けない。照明のあるトイレと東屋で仮泊の予定だったがしばらく右往左往した後、ダム近くの東屋に落ち着いた。
 6/17(日)朝食後6時に出発、折越林道を走る。標高点542m地点の大栃の傍らのPに駐車。大白木山に突き上げる越波谷(おっぱだに)の源流である。
 事前の調べで、大白木山 沢登りでググると、ブログ「山へ行きたい」の2012年6月23日記録がヒット、何年か前に三段滝遊歩道が開通したらしい。
 7時15分出発。10分ほど歩道を歩くと終点で、沢を渡った先に三段滝があった。岩盤を削ったような溝が3段になり、見事な滝がかかる。記録は右岸の土壁を攀じて1170mへ遡行している。
https://blogs.yahoo.co.jp/two2106_hira/30795220.html
 私どもは、本流に戻って、7時40分、遡行を開始。小さな滝をいくつも越えて行く。
 この谷は栃の大木が多い。栃の実は栗よりも一回り大きい。しかし、食用とするには渋をとる必要があり、手間暇がかかる。それでも各地に栃の地名が多いのは貴重な食料として大切にされたからだろう。
     山人に愛され栃の夏木立   拙作
 最初にして最後の核心部に来た。ゴルジュにかかる約15mくらい。直登は無理で、右岸から高巻。急斜面を木の枝を掴みながら攀じる。滝上のポイントへトラバースして、懸垂下降。30mのロープで5m余裕があったから25mほどか。
 ここからも小さな滝はあるが問題はなく突破。雨が少ないのか、否、そんなことはない。多分浸透してしまうのだろう。全体に苔むしている。地形図にある林道と交差して、現在位置をチエック。
 その後は一段と水量が減って荒れた登山道を歩くような感覚だ。荒れているのは一度は伐採されたからだろう。錆びたワイヤーロープが捨てられていた。周囲には杉の植林を確認した。谷が枯れたのは、根の浅い杉を植えたからだ。ブナ、ミズナラのような落葉広葉樹は根張りが広く保水力がある。
 完全に伏流しているかと思えばまた流れが復活するが、ついに水が絶えた。1000m付近から土の溝になり、傾斜が増した。沢筋に蕗や大きなヤブレガサが繁茂している。不思議な植物環境である。
 1100m付近から斜面が立ってきて、土の溝を登るのが困難になり、沢一筋にこだわるリーダーがいよいよ尾根に転じる時と判断。樹林帯の山腹に入り、木の枝、根っこにつかまりながら、喘ぐと呼吸を整えながら高度を上げた。12時55分、登山道に出た。ハイウェイのように見えた。5分ほどで山頂だった。
 リーダーのWさんは「ぎふ百山」を山スキーか沢登りのバリにこだわって踏破することを狙っている。この山で又1つ踏破できた。私は完登したがバリで踏破するならと2順目を同行する。隣の高屋山も谷から登った。以下の山名の(* )内はWさんの履歴である。*は同行した印。
 1234.5mの並びのよい三角点が埋まる。今年は能郷白山の開山1300年にあたるとかで、この山も本巣7山の1つと言う。それをアピールする幟が山頂標にくくられている。
http://www.motosukankou.gr.jp/01_event/01_02_05.html
 高曇りで遠望は無かった。2基の反射板のある広場から山岳同定を楽しんだ。沢の中から見た根尾富士(福井の中の谷から踏破*)も良かった。美しいコニーデ型の屛風山には癒された。山頂から眺める根尾富士はまた格別である。ほぼ真北に位置する。さらにその背後には重なって荒島岳(ナルサコから踏破*)が見えた。白山、別山は雲の中に隠れている。
 更に目を凝らし、記憶をたどると、越美国境の平家岳(日の谷から踏破)、滝波山(残雪期に踏破)、手前の左門岳(銚子洞から踏破*)、対岸のドウの天井、反射板の建つ日永岳(西ヶ洞から踏破*)が見えた。少し位置を変えて、山頂から南東に高賀山(北の沢*)も確認。能郷白山は樹林に隠れた。梅雨時の条件下では最高の展望に満足した。
 充分な山頂滞在を満喫。下山を開始。つい最近まで、廃道に近かった登山道は整備されて歩きやすかった。登山道の脇には、この山を特長づけるヤマボウシの花が盛りである。最初はハナミズキと見たのですが、時間を置いて、正しい名前を思い出した。同じ仲間だから当然である。
 登山道を下って、南東に舟伏山(初鹿谷から踏破*)を確認した。あれも「ぎふ百山」の1座だ。
 以前、荒れていた部分の植林帯はきれいに整備された。杉の倒木の切り口には2018.4.22と書かれていた。篤志家の伐採日かな。これから登る人に出会った。立ち話すると登りがきつかったとか。一旦下って登り返すと反射板への分岐(1050m)に着いた。新しい道標が設置されていた。右へ行ってみたが、何も展望は無い。反射板があるから眺めが保証されているわけではなかった。
 後は折越峠に向ってどんどん高度を下げた。根上がりの桧にも案内板があった。篤志家らの仕事だろう。816mを過ぎて、峠に近付いた。急な斜面をジグザグで下る。折越林道を歩いて542mまで行く。疲れた足には少しこたえる。
 Pに戻った。汗とヤブをこいだ際の埃で汚れた体を水で拭いた。蛭やダニもチエックしたが何もなかった。帰路は廃村・越波から廃村・黒津をめぐりR157から能郷へ走った。
 道草ついでに源屋で川魚料理を楽しんだ。一番安い定食でも、鮎塩焼き2尾、あまごの甘露煮1尾、味噌汁、デザート、漬物、等盛りだくさんのごちそうだ。季節のものの鮎に舌鼓を打つ。これで2480円。食後は白山神社へ戻って休んだ。今年も猿楽が奉能されたであろう。
 後は来た道を戻った。

南アルプス深南部・房小山を歩く2018年06月16日

 6月も梅雨入りしてからは山に登りがたい。それでも1月から考えてきた山行であった。3/31までは冬季通行止めと知って4月に延期、都合でまた延期になり、ついに平日に行くことになった。
 6/12の午後2時一社に集まり、出発。東名から新東名に入る。平日なのでトラックが多い。SAで一休み。島田金谷ICで降りてR473へ、家山から大井川左岸の県道を経て、上長尾から山犬段への林道に入った。曲がりくねった車道を走る。大札山森林公園までは舗装路だが先は未舗装となった。
 午後6時に山犬段に着いた。早速駒鳥が出迎えてくれた。クルマから綺麗な小屋にマット、シュラフ、食料、水、コッヘル、燃料などを運び込む。まだ明るいので今年の干支の山である山犬段のピークに散策した。
 小屋に戻って食事を済ますともうやることはない。午後8時には就寝しただろうか。ハイボール500MLを飲んだだけだが、夜になるとさらに冷えてトイレにたった。寒くはなく暑くもない快適な小屋生活だ。
 6/13、朝4時、駒鳥が鳴いた。早速起きて朝食の準備、済むと片付けてマイカーに積みこむ。小屋から約400Mほど先にゲートがあるのでそこまで走る。ここで身支度して、5時過ぎに出発。
 林道は整地されて歩きやすい。開けたところからは黒法師岳が文字通り黒い山容で見えた。今日は高曇りである。林道は急斜面を切り取ったせいか、上部からの土砂崩れで埋まっているとこRが何か所かあった。不安定な土砂の上をそーっと乗り越えた。するとその先に黒いものが動いた。熊だった。
 皆さんが一斉に笛を吹き鳴らして追い払った。蕎麦粒山の方へ登って行った。五樽沢のコルへの登り口に着いた。約40分。コルまでは15分と道標にある。ジグザグを切りながらコルへ登った。余り歩かれていないが歩きやすい。コルからは稜線を歩く。ブナなどの喬木が林立する。尾根が広くなると笹が出てくる。落葉広葉樹の疎林の中の笹の道は美しい。
 三合山の分岐に着いた。直進は日本三百名山の高塚山だ。それだけ登山者が多いと思われる。右へ振ると、やや道が狭くなったのは登山者が少ないせいだろう。キレットに差しかかった。痩せ尾根、フィックスロープを伝って攀じ登る箇所もある。何とか頑張ると千石沢のコルに着いた。ここにもブナの巨木がある。そして林道へ下ってゆく道が分かれた。
 千石平は文字通り広い高原台地であった。コンクリートブロック積みの建物を見ると夕立除けのスペースはある。仕切りの隣は便器がむき出しで見える。設置された当時は扉もあっただろう。
 膝くらいの笹の高原で自在に歩ける。千石平で一休みすると多数の虫にたかられた。同行者に虫よけスプレーをしてもらった。その先はすぐに鋸山を経由して広い緑の稜線を歩く。
 東の方に恵那山が見えた。左隣は大川入山か。高曇りだが輪郭ははっきり見える。延ゝ続くブナの森の稜線。立ち枯れの木もある。そしていよいよか、稜線は一段の高さを増す。笹を分けて高度を稼ぐと突然蛇を見たと騒ぐ。見ると蝮だった。枯木色にとぐろを巻いていた。ストックの先で笹を突いて追い出した。
 あと一歩。11時過ぎ、房小山の道標の立つ山頂だった。6時間の長丁場だった。三角点は笹藪に隠れていた。しばしの山頂の憩いを楽しむ。約30分後下山に向けて歩く。登りには気がつかなかった笹に隠れた道が下りでは神経を使った。赤ペンキのマーキングもあるにはあるがぷつんと途切れた平坦なコブがあった。1725M付近はいくつかの踏み跡かけもの道に分散して不明瞭だった。1572Mへはいったん南東の尾根に回り込んで下る。
 鋸山を経由、千石平へ行く。アップダウンを何度も繰り返すと、次はキレットの通過が待っていた。三合山へ登り返すとやれやれの想いがする。約35分で五樽沢のコルに着いた。ここから林道へ下ればあとは林道をたどるのみだ。所が好事魔多し、で先頭が別の道に入りかけた。入り口には枯れ枝を置いて先へ行かない工夫がしてあったがそのサインを見落としたのだ。この道は昔の蕎麦粒山の横断道か。今は枯れ枝が散乱し石ころもあるので歩きにく。余り踏まれていないことは歴然としている。
 正しい道は急降下してゆく。林道からはゆったりした歩みになった。危険個所はあるが既に学習した。午後5時20分過ぎにゲート着。下山も6時間かかった。6月の日の長い時期ならでは登山だった。
 また名古屋への長いドライブになった。ダムに水を吸い取られた大井川は川瀬を見せて哀れなものだ。並々と流れる大井川の姿を見たい。

緑濃き御在所山の近江側の黒谷を溯る2018年06月04日

 6/2(土)夜9時、西庁舎前で合流。白川ICから都市高速、東名阪から新たな東員ICを経由すると鈴鹿へのアクセスは本当に近い。鈴鹿山麓の施設のPに仮泊。遠くからホトトギスが聞こえた。12時就寝。
 6/3(日)朝4時目覚め、すぐにお湯を沸かし、簡単な朝食。テントをたたみ、鈴鹿スカイラインの武平峠を目指す。千草は釈迦ヶ岳から流れる朝明川がつくった沖積平野。植田と麦秋の田が交互に広がる穀倉地帯である。ふと右を見上げると鎌や御在所の藤内壁にかかる朝霧が昇ってゆく。朝霧は女の腕まくりという。今日も暑いぞ、と思う。
 スカイラインは早朝から車が入っている。7時前といのに御在所の登山口はもうほぼ一杯になっている。
 武平トンネルを抜けると近江に入る。車を降りるとひんやりした空気が気持ちいい。ここもほぼ一杯で私たちで埋まった。沢登りの支度を済ます。今日は沢初めなので、ほぼ半年ぶりに、何かと装備の忘れ物や、技術的な準備不足を点検するのである。
 沢谷峠に向かう。峠ですでに800mを越えているので、標高差は余り無い。820mから920mの等高線に沿い横断する。ここからゆるやかに下り、雨乞岳への道を分けた分岐で約1時間。
 沢谷周辺は、小鳥の楽園さながらに日本三鳴鳥のオオルリ、ウグイス、コマドリの鳴き声を楽しませてもらった。
 さらに小さな谷を下って黒谷出合いに着く。出合には大岩に黒谷と赤いペンキがあり、ファンがいるようだ。ハーネスを装着、気合を入れて遡行を開始した。
 水量は少ない。あえて水勢に逆らうように登るが、両岸にもかつての炭焼きの道が残っている。カメラを濡らしたくないので、撮影しながら、適当に巻きながら先行者らを追う。
 適度の滝が現れる。リーダーはトップで慎重に滝を攀じる。後続はロープを降ろしてもらう確保する。実はロープワークと確保のトレーニングでもある。平凡な谷相かと思えば狭い斜め滝が行方を阻んだり変化がある。ここは左岸上からトラロープがぶら下がっていたので利用して登る。私は撮影のため、左岸の手前のガレが押し出した支谷を巻いた。
 さらに一段と高い滝が現れた。これは右岸から巻いた。ここもトラロープがぶら下がる。慎重に足場を確保しながら小さな尾根に立つ。そのまま流れと合うまで巻けるみたいだが、滝の落ち口に真上に懸垂下降を試みた。これもトレーニングの一環としてである。
 こんなことを繰り返しながら夏本番の沢登りまで熟達度を向上させていこうということである。
 ここを上がると核心部を終わった。黒谷の由来となった黒い岩と花崗岩とが半々になった。上部は花崗岩のみになった。二股にも大岩に赤ペンキの標があった。傾斜は緩み源流の態である。細流になり、低い笹
原になった。強い獣臭がしたがすぐ先で長者池になった。
 イモリ、アメンボなどの水生昆虫がいた。小鳥が美しく鳴いている。老鶯はケキョケキョと警戒した。近くの東屋で休みながら、濡れたザイル、衣類を干した。
 今日は7/10までロープウェイが点検のため休業中で、登山客のみだがそれでも人が絶えることは無い。武平峠までの下りではサラサドウダン、ベニドウダン、ヤマツツジが眼を楽しませた。 
 峠のマイカーに戻った。時間があるので希望荘で一風呂浴びて帰名した。

高須清光写真展ーフォトスケッチ天白川⑫に行く2018年05月15日

 事務所へ行く前に、古書店に句集を見に行くが売り切れていた。もう1つ別の書店に回ったが在庫がない。刈谷まで行くか。
 古書店から地下鉄で事務所へ直行。会計シフト入力などを済ます。ネット関係のチエックもした。

 16時過ぎ、上前津のワキタギャラリーに行く。表題の写真展を見に行った。私が住む天白川の自然を中心に一こまを写し取った。俳句的な要素の描き方に共感。そのうちの1枚は近くの河川敷の草を刈はらったばかりを撮影。向こうにはわがマンションも写っていた。河川敷は今はきれいな草地を回復した。これから草茫々になってゆくのだろう。
 日本人が勤勉なのはこの自然の豊かさと言った人がいた。うかうかしていると田畑は草茫々になるから草取りをしっかりやらねばならない。草に負けて米や野菜は育たなくなる。山村の廃田を見ると1年であっという間に芒が占める。自然の回復力は恐ろしいほどである。
 高須氏の写真展は以前にも見に行ったことがある。その際、『ちょっと気になる風景』ー天白川撮り歩きーを恵贈された。帯封に写真の対象は身近にある、とあった。その通りです。ある俳人も足もとを詠め、と指導した。フォーカスが深まるのである。見ているのに見ていない。凝視することの大切さ。切り取る構図やアングルだけではないのだ。
 テーブルの写真集をめくっていたら故東松照明(1930~2012)さんを偲ぶ写真が何枚かあった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%9D%BE%E7%85%A7%E6%98%8E
 東松さんは目標になる写真家なのだ。それを聞くと、東松氏の足もとにも及ばないと謙遜された。モノを凝視するという点で高須氏も並の写真家ではないと思われた。2012年刊。文庫本サイズのカラー写真満載。後記を読むと1945年生れで西尾市出身。(あの有名な高須克弥氏と同じ出身地、姓名と生年。偶然か)写真展は5/16(~16:30)まで。

 ワキタを出てからはまた古書店を2軒めぐったが得るモノはなし。但し、『ぎふ百山』の正続で7500円という売り物があった。出版されて久しいがまだ結構な値段が付いている。上前津からはバスで栄へ。
   初夏や市バスに乗れば冷房す

さみどりの御池岳を歩く2018年05月13日

 5/11の朝7時30分過ぎ、鳴海駅前で同行者と合流。伊勢湾岸道・東海ICから入って30km余りで延伸された東海環状道・東員ICを出た。そのままR365からR306へ。鞍掛トンネルは通行止めの看板あり。目指すはコグルミ谷でしたが平日でも路駐多数ありパス。ここまで2時間。鞍掛峠から登ることに。
 Pはほぼ満杯でした。鞍掛峠へのきつい登りをこなすとちょっと汗が噴いた。鈴北岳への尾根を歩く。県境北面の落葉樹林は今や新緑のいろどりがさわやかです。空気もドライです。
 ものすごく繁茂していたクマザサは今は全滅して土が露わになっているのに驚きます。60年に1度の笹の花が咲くと死滅するというのは本当だった。
 1056mのコブで同行者がタテ谷へ下るというマニアックなルートへ分かれた。踏み跡もなく赤布のマーキングもないルートである。知る人ぞ知るルートか。なんでも珍しい花を見るためらしい。この尾根は積雪期に捜索で下った記憶がある。
 ここからは登りが急になった。鈴北岳の手前でタテ谷からの道と合流する。そうかタテ谷にはコグルミ谷と結ぶ道があるのだ。鈴北岳に登頂後、小休止して県境稜線を歩いてみた。
 ここも積雪期には歩いたが無雪期は記憶がない。登山道ではなく、踏み跡程度だがマーキングはある。水を湛えた池が3ヶ所もあった。山頂は1182mから1090m付近で県境は北東へ分かれ、1060m付近でコグルミ谷からの登山道に合流した。気持のよい稜線歩きだった。新緑期ならではのルートである。夏草が繁茂するとどうなるやら。
 この後は登山道を歩き御池岳に登る。真の谷はイチリンソウの花盛りであった。またコバイケイソウが大群落をなす。途中で樹林越しに野生のシカを見た。こっちをじっと凝視している風である。鹿もコバイケイソウは毒草と知って食わないから繁茂するのだろう。
 久々の御池岳山頂に立つ。雪で白い白山、乗鞍岳、御嶽山がならぶ。目を凝らせば能郷白山や中央アルプスも見えた。手前は霊仙山、伊吹山と見える。昔からこんなに眺めが良かったかな。平日でもたくさんの登山者が集まって来た。それぞれに昼食を楽しむ。そのうち山ガール2人も上がって来た。2人並んでスマホで撮りたいので押してくれという。もちろんOK。若い人が山に増えるのは良いものである。
 山頂を辞してボタンブチに向ったが時間がないので引き返す。山頂から北西に下る登山道を歩く。オオイタヤメイゲツの原生林の下はやはりコバイケイソウの大群落だ。西の奥はたしか「日本庭園」とかいった。真の谷からの登山道と合流。平坦な道を歩く。緑のワンダーランドである。鈴北岳の麓で多くの登山者が何やら採っている。聞くとワラビだった。喜々として摘んでいた。
 昭和32年4月29日の滋賀大生の遭難碑を経て、ゆるやかに鈴北岳へ。あの笹原はどこへ消えたのか。鈴北の山頂も笹で覆われていたころはガイドブックの『鈴鹿の山』に県境尾根の道はxxxxで表示されていた。
 初心者のころは下降した際御池谷の枝沢に迷い込んだ。突然踏み跡が消えるし、県境尾根が見えるので戻って見ても3度目でも県境への踏み跡が見いだせず、ままよと下った。するとチエーンソーの音がするのでその方向に行くと伐採中の人に道を問うた。「ここは御池谷だ、俺らも終わるから付いてこい、峠まで送ってやる」というので甘えさせてもらったことがある。
 後年、捜索で御池谷の道を溯り、途中から山仕事の人らについて下った道へ入った。かすかに記憶がよみがえった。1056mから下る枝尾根周辺の植林帯だった。
 今は笹もなく見晴らしも良い。鈴北岳から延々くだって峠へ。そしてトンネルに着いた。Pに戻ってもまだ相棒が着いていない。携帯で電話しても圏外で通じない。しばらくで電話があり、コグルミ谷を下降中とのこと。1056mからタテ谷へ下り、県境の1148mへの尾根を登ったらしい。御池の山頂は踏まずにコグルミ谷を下った。御池岳は広大な面積をもつのでこんなお中道的な歩き方も出来るのだなと思った。コグルミ谷の入り口で合流して無事帰名した。

八名山地・吉祥山を歩く2018年04月21日

本宮山の尾根からの吉祥山(2016.6.2)
 午後からは吉祥山の新城市富岡で歴史研究会の総会があるので登山と二つかねて1日を宛てた。
 朝6時半ごろ、名古屋を発つ。東名高速は早朝から多めの交通量だ。天気は良いが良すぎてガスがかかる。目に付くかぎりは緑一色になった。それで行楽日和なのである。
 豊川ICを出て、地図を見ながら豊川(地名はとよかわだが、川の場合はとよがわと読む)を渡る道を目指す。R151から一宮町豊の交差点を右折、県道380、381を走り豊川を渡る。景色が開けて、三河富士という本宮山がきれいな山容で見える。山容の撮影に走ったことが思い出された。吉祥山の山容も南北に尾根が流れるように張り出して美しい。
 金沢の交差点を通過、東名高速と交わる手前にAコースの登山口の道標がある。吉祥山ふれあいの森である。クルマは2台ほど。ログハウス風のトイレで用足しを済ます。となりにはビジターセンター風の建物は休憩舎があり愛好家のたまり場になっているようだ。
 8時37分に出発。周囲には多分鶏舎の廃屋があり異様な感じがする。登山道はすぐに樹林の道になる。一旦開けた尾根に着いてあとは尾根通しに坦々と歩く。山頂まであと??mという道標もある。雑木林の中に入ると風も吹きぬけて涼しい。時々、鶯が良い声音で啼く。
 追い越して行った空身の人が何か花の写真を撮影中である。黄色が鮮やかなキンランだった。
 しばらくで大きな看板を兼ねた休憩所になった。山頂は近いが汗をかいたので小休止して水を飲む。いくらも登ることなく山頂だった。2Kmを約50分かかった。
 山頂は360度の大展望だった。冬ならば富士山も見えるらしい。今日はややガスがかかるが、三河本宮山、宇連山や三ッ瀬明神山が見えた。豊橋平野も見下ろす。低い割には展望が良い。
山頂には岩の露頭があり説明板がある。「角閃石片岩」という。この希少な岩石ゆえに標高300m以上が愛知県自然環境保全地域に指定されている。
 下山は北に階段を延々下った。椎の大木の林立する鞍部に着くと道が3つに分岐している。よく整備された道を下るとまた分岐になる。分岐を示す看板には直進すると先程の鞍部に吉祥天女の祠があるという。それでまたこの道をたどると鞍部に戻った。
 山頂に居た男の人も下ってきて吉祥天女を拝んでいる。これが山名の由来の吉祥天女か。それにしても小さくて地味である。

 ネットの説明を読んでも仏教なのに何で神様の名前が出てくるのか、複雑なので整理すると
1 仏教の守護神である天部の1つ
2 愛の神カーマの母
3 父は徳叉迦(とくさか)、母は鬼子母神であり、
4 夫を毘沙門天とする
5 吉祥とは繁栄・幸運を意味し幸福・美・富を顕す神
6 美女の代名詞として尊敬
 「仏像ワールド」のHPには「もとはインド神話の女神・美と豊穣と幸運を司るラクシュミーであり、密教では美女の代名詞といわれて信仰されていました。毘沙門天を夫に持ち5人の子供がいます。妹の黒闇天(こくあんてん)は災いと不幸を呼ぶ神です。

 貴族階級の人達に広く信仰されました。しかし一般の民衆に支持のあった弁財天に次第に人気を取られ、いつのまにか七福神の座も奪われてしまったといいます。」とあるので、神様の世界にも盛衰があるのです。

 男性曰く以前は今水寺の奥の院として山頂に在ったらしくここに移されたとか。吉祥山の北西の八名井の中腹に神社マークがある。ここが今水寺跡らしい。廃寺なのになぜ神社なのか不思議だ。一度は訪ねてみたい。

 ブログ「Bo-Bo-Rock」さんの記事には「平安時代には中腹に東三河屈指の大寺院、今水寺(こんすいじ)があり、その奥の院として吉祥天女(なぜに吉祥天?)が山頂にまつられ、​これが吉祥山の名前の由来となったそうです。ところが三河湾から奥の院が光って見えると魚がさっぱり獲れなくなるとのことでこまった漁師たちが奥の院を見えないようにしてほしいとお願いし、北側中腹に吉祥天女の祠を遷した」とか。

 愛知県の吉祥山の調査報告書には「角閃石片岩は、灰色を帯びた濃緑色をしてお り、結晶は細粒で 日の光に当てると新鮮な ものでは角閃石の結品がキラキラ輝 いて見えます。」という。
 
 この2つの記事を合わせると、山頂の輝きは角閃石片岩なのでしょう。最近、知った台高山脈のマブシ峰も、何がまぶしいかと思えば、近くに光山があり光谷があるし、南アルプスの光岳(てかりだけ)は石灰岩の光岩が光って見えるそうだ。皆海から見える光である。

 さて、吉祥天女の祠を拝んだ後は近道で元の遊歩道に戻り、Cコースをたどった。ここの山腹からは水が浸み出して小さな沢が流れている。低い山だが水は豊富な気がする。急な道をどんどん下ると作業小屋に着く。パスしていくと車道に出て登山口に着いた。休憩所への道標を見て、山の中へ入る細道を歩いた。ため池を横目に見ながら歩くとまた車道に出てひたすら車道を行くと休憩所である。朝とは打って変わってPは満車で車道にも路駐が多かった。一足違いで多くのハイカーが歩いているらしい。それだけ人気があるのだ。
 Pを出て次は本宮の湯に向った。県道381には母親と娘2人のハイカーも見た。多分JR長山駅から徒歩だろう。駅からでも2時間で登れるハイキングの山であった。
 本宮の湯は久しぶりだ。610円で入湯。湯を出て、軽い昼食をとると12時30分になった。そろそろ新城市富岡へ走る。

藤原岳孫太尾根を歩く2018年03月24日

孫太尾根・丸山で見たミスミソウ(雪割草)
 最近とみに名前を聞くようになった藤原岳の孫太尾根。WEBで見ると山野草の宝庫という。当方は花の名前は良く知らないが、このところ猿投山が続いたので、久々に鈴鹿の山に行った。長い間鈴鹿の山に登って来たが孫太尾根は初めてである。というより青川峡界隈はヤマビルの多いところなので避けてきたのだった。
 朝5時起き、登山口7時には出発の予定だった。就寝が遅く、自宅7時出発になった。東名阪は良く流れていたが行楽シーズン到来とあってか名古屋西ICを出てから蟹江辺りから渋滞気味になった。
 登山口には8時30分到着。小さな墓地のPはすでに満車で路駐もあった。関西ナンバーの他山梨ナンバーもあった。山野草はこんなにも人気が高いものなのか。田中澄江『花の百名百名山』の影響で、山歩きの楽しみ方に革命的な変化をもたらしたのだろう。墓地内の芝生に何とか寄せられた。40分に出発。
 植林の中に入ってゆるやかに登る。寝不足のせいか、体が重い。いくらも歩いていないのに、387mの尾根に乗った辺りで長休みになった。水を飲んで気を取り直す。
 しばらくはゆるやかな照葉樹林の中の道を歩くといきなり石灰岩の見上げるような急登になった。南西斜面には緑の濃いイチリンソウの草が開花を準備中であった。丸山まではきつい登りに耐えた。小さな菫の花が咲いている。丸山はいわゆる典型的なカレンフェルトの風景で小さな花が多い。ここで休んでいるパーティも多かったので私も一休みした。ようやく後尾に追いついたのである。
 丸山からは緩やかに下ってまた登ってゆく。どこからかキツツキのドラミングが聞こえてくる。植生は落葉樹の林になった。となりのセメント鉱山の現場が丸見えである。
 体が温まってきたせいかピッチも少し上がった。草木834mの頂上は巻道でパスしてしまったようだ。途中のピークで名古屋から来たという若い登山者に会った。いろいろ話を聞くと親が大町市出身とかで彼も山が好きになったらしい。遠望の乗鞍岳、御嶽山、中央アルプス、能郷白山などの山岳同定を楽しんだ。お目当てはフクジュソウだったとか。見られないので引き返すというが多志田山965mまで行くというと同行することになった。旅は道連れである。
 立ち止まっては地形図を見て、あれは竜ヶ岳、静ヶ岳、銚子岳などと現在地確認した。話を交わしながら登るとあっという間に多志田山に着いた。12時10分だった。
 雑木林の中の穏やかな山頂だ。新緑期には美しい林になるだろう。周囲にはまだ残雪が多い。残雪の上に黒っぽい春の泥がしっかりついている。登山者が多いことを示す。藤原岳を目指す登山者の後ろ姿を見たがここで引き返す。昼食後12時56分下山。
 遅い出発と思ったがまだ登ってくる登山者もいた。膝をかばいながらゆっくりと下った。15時20分着。まだクルマは多い。大貝戸周回組だろうか。
 下山後はいなべ市鼎の龍雲寺に向った。禅寺の庭の句碑の写真撮影である。以前と変わらぬ風景にホッとする。
 戻って阿下喜温泉あじさいの湯に入湯して帰名。帰路は桑名ICへの道が渋滞したので市街地を抜けてR1を走った。

猿投山~森と人間の文化再考2018年03月12日

 昨日の猿投山の下山は広沢川の車道を下った。広沢川は三角点からも流れるが最高点即ち東の宮や西の宮からも流れる。歴史的には最高点だけが重要であっただろう。猿投川は最高点が源流になる。中流に猿投神社がある。
 1等三角点は明治時代になってからの埋設である。測量のためとはいえ境内を避けるのは当然であった。多分伐採が許されなかったであろうと推測は立つ。神域は清浄でなければならかった。
 広沢川も猿投川も水がきれいであった。花崗岩の沢は一般的にきれいである。ところが魚影が一切見当たらない。そこで表題の言葉に思いを致す。渓流魚系の魚種がいても不思議ではない。
 ぐぐって見たら次ぎのデータがヒットした。
 「広沢川流域における水源林総合調査」
General research of the woodland in stream sourse area at the Hirosawa basin 洲崎 燈子 Toko SUZAKI」によると
「小型動物の生息環境」

 今回の調査結果から得られた土壌動物の個体数は,文献値と比較してかなり少なかった(新島・伊藤,1996).原因は不明である.
 水質は良好だったが,水生生物相も貧弱だった.広葉樹林の D 1では,河川河床に露出した礫層が水生昆虫に多様な生息環境を提出していたため,他地点と比べ水生昆虫相が豊富になったと考えられる.魚類がほとんど確認できなかった原因は不明である.数地点に設けられている砂防ダムの影響もある」とする。

 「林と人の関わりの変化」
 「広沢川は猿投山麓を流れる渓流だが,歴史をたどると人の暮しとの関わりがきわめて深い川であることがわかった.このことを反映して,広沢川沿いにはこの地域の河川上流域でよくみられるケヤキのような河辺の樹木がほとんどなく,植栽されたスギ,ヒノキ,竹類,あるいは里山の代表的な種であるコナラなどの優占する林が広がっていた.
 しかしここで見られるコナラ林が,定期的な伐採と萌芽再生によって維持されてきた典型的な里山林だったかというとそうではない.前述のように,1960年代までもっとも広い面積を占めていたのがアカマツ林だった.
 アカマツは貧栄養で水分条件の悪い土地にもよく育ち,過度の伐採を受けても速やかに種子から再生することができる樹種である上に,火力が強く,窯業に用いるのに適していた(豊原,1988).
 このアカマツ林が,1980年代以降全国に広がった松枯れによって衰退し,その後コナラ林に置き替わったものだと考えられる.
 1960年代まで,アカマツは薪炭として,スギやヒノキは用材として利用されてきた.図 10に見られる 1960年代の天然林の面積減少は,アカマツが盛んに伐りだされていたことを反映しているのであろう.
 しかし 1960~70年代の高度経済成長期における燃料革命,外材の輸入量の増加といった要因により,里山や植林地で伐採が行われなくなった.これは全国的な傾向である.
 広沢川周辺の 1965年以降の森林面積の変化は確認できなかったが,部分的に禿山だった状態から,斜面が全て森林に覆われるまでに回復したことが聞き取り調査から明らかになった.
 過度の伐採から開放され,森林面積は拡大してきたが,それと同時に,身近な自然に関する評価や関心は低下してきた.このことは,人間の生活環境の悪化とも密接に関わっている.広沢川ではかつて河川水のみならず,岩石や薪炭材といった生産物も流域住民の生活を支えてきた.このような過去を踏まえ,回復した河辺の森林を水源林として,また生物の生息環境として良好な状態にしていかなくてはならない.
 要 約
1)豊田市内猿投町の広沢川で林の組成や構造と土壌の保水力の関係を調べた.調査地の環境を総合的に把握するため,補足的に土壌動物,水生生物,河川水の水質などについても調査した.調査地周辺の利用史についても調査を行い,これらの結果から,今後源流域の森林を整備するにあたって留意すべき点について考察した.

2)表層土壌の終期浸透能は広葉樹の本数や胸高断面積値が増加するほど高くなり,逆に針葉樹の本数や胸高断面積値が増加するほど低くなった.落葉広葉樹の胸高断面積値が高いほど,夏季に林内が明るくなる傾向があり,林内の光環境と終期浸透能の間に関係がある可能性も示された.

3)土壌動物の個体数は文献値と比較して少なく,河川の水質は良好だったが水生昆虫相および魚類相は貧弱であった.

4)広沢川流域の林木や岩石はさまざまな用途で人に利用されてきたが,現在は人との関わりが少なくなった.今後はかつての禿山から回復した森林を,水源林としても生物の生息環境としても良好な状態にするための管理手法を考えていく必要がある.」
以上
 そういうことだったのだ。余りにも過度の利用で疲弊してしまったのだ。水清ければ魚棲まず、というのはつい最近になって回復した自然であった。魚が棲む環境ではなかった。しかし今は違う。
 以前は報告書の通り、薪炭林として利用され、そのために砂礫が露出して荒れた。『分県登山ガイド 愛知県の山』の旧版のコラムに書いておいた営林署職員の詩に「黄色女体」とまで表現されたはげ山の姿があった。これは「瀬戸層群」という詩だった。

     瀬戸層群   名古屋営林局 牧野道幸
芸術や生活があんまり健啖であったので
緑の丘は食い尽くされてしまい
七百年の間
黒い煙が陶器の誇りを守ったにしても
あそこもここも
山の河原が眩しい日照りだ
ぼうぼう光る一画の粘土の層面には
植物化石が日を浴びて
見上げるドームは黄色女体

『年間詩集 Poetcar Works』 名古屋営林局詩の会 昭和27年3月発行
『分県登山ガイド 愛知県の山』P104コラム①「猿投の森を歩く」に引用

 猿投山の三角点から最高点にかけて歩くと喬木があるにはあるが稜線だけだった。ちょっと下ると杉や桧の純林即ち人工植林に変わる。むしろ東大演習林の方が植生が豊かである。演習林内でも魚は見なかった。
 今回発見したことは単純な林層では生物多様性はないことだった。
 1冊の本を思い出した。JAC東海支部が愛知県から猿投山の北面の県有林を借りて取り組む猿投の森事業があり、理論的指導者であった只木良也氏の著書『森の文化史』のキャッチコピーは
「太古、豊かな照葉樹林に囲まれていた日本列島。しかし二千年前の登呂遺跡から出土した木製品はスギ材にかわり、現在の白砂青松はさらなる森の荒廃を証明している。日本の環境破壊は弥生時代に起こっていた——。「森の文化」と呼ばれるわが国で、人びとは森林とどのように接してきたのか。そしてその先に見えてくる、文明と自然の共生関係とは何か。」

『森と人間の文化史』のキャッチコピーは

 「森を知れば人間の将来が見えてくる。
 森の役割をグローバルな視点で捉える!
 1988年刊行の『NHKブックス 森と人間の文化史』に加筆、修正を加えた、新たな時代への提言。

森を守ることは人間を守ること

森は太陽の恵みを受けて、地球上のすべての生命活動を支えるとともに、人間の心に繊細で穏やかな情緒を育んできた。
森林の成り立ちや、その果たす役割をグローバルな視点で描き、文明の母といわれる森と人間の深いかかわりを辿りながら、森の存在が人間にとっていかに“かけがえのない”ものであるかを詳らかにする。」

 猿投山の再生はまだまだこれからだ。二書のキャッチコピーにヒントがある。東大演習林の自然林を参考林にして広沢川の源流部の再生をプランしてみたらどうか。源流部の荒れた林道を見ると桧や杉の保水力のなさは如何ともし難い。
 伐採したままだと日本では松の木しか生えないそうだ。大陸では砂漠化する。後は野となれ砂漠になれである。朝鮮半島の山でも併合した頃ははげ山だった。朝鮮半島は花崗岩だそうだ。そこに植栽をすすめて緑の山にした。植栽は文化である。