鳳来寺山を歩く2021年01月16日

 鳳来寺山の歴史は古い。ネットで断片的な情報を集めてみた。

  鳳来寺は、歴史ある「真言宗五智教団」の寺院。703年「利修仙人」が祈祷により天皇の御病気を治し、そのお礼として創建されたと伝わるお寺です。1648年には、鳳来寺を家康誕生ゆかりの地として崇める徳川家光によって、日本三大東照宮とも言われる鳳来寺山東照宮が建設されました。(ヤマハックのHPから)

・・・愛知県のうちの三河の三霊山は猿投山、六所山、三河本宮山である。「三河国三霊山とは、三河国、今の愛知県豊田市・豊川市にある三つの山の総称で、古来より御神体あるいはそれに準じる神聖な山として、信仰の対象になってきた山々。本宮山・猿投山・六所山の三つで、それぞれの山頂や山麓には砥鹿神社・猿投神社・六所神社が鎮座する。
 三河国なので当然ではあるが、松平氏、徳川氏との関わりが深く、徳川家康などが崇敬した、あるいは参拝したことでも知られる古社となっている。」以下に列挙すると。

1 猿投山
 『日本書紀』には、大碓命は景行天皇に東征を命じられたが、これを恐れて逃亡したため美濃国に封じられたとある。宝亀10年(779年)に編纂された縁起書によれば、大碓命は景行天皇52年に猿投山中で蛇毒のために42歳で死去し、山上に葬られたという。猿投山西峯にある西宮の背後に大碓命の墓がある。社伝によれば、仲哀天皇元年に勅願により現在地に創建。

2 六所山
 六所山は古来より猿投山・本宮山と共に三河国三霊山のひとつとされ、山自体が神体とされて大山積神(オオヤマツミ)など6柱の祭神が奉祀されていた。現在でも字金姓の小台地にたたずむ一の鳥居は、六所山を遙拝するのに最も適した場所にあり、古代、この地に最初期の遙拝所が建てられたものとも推察し得る。後に社殿の築造という仏教文化に由来する概念が国内に浸透し、六所山山頂にも社殿が築かれることになるのは遅くとも平安時代末期頃。

3 三河本宮山
 砥鹿神社は,文武天皇(もんむてんのう)の時代,701年(大宝元)天皇の使者としてこの地に来た草鹿砥公宣卿(くさかどきんのぶきょう)が本宮山の山中で不思議な老人に会い,その指示で創建されたものと伝わっている。本宮山頂には砥鹿神社の奥宮がまつられている。その神は大己貴命(おおなむちのみこと)でいつのころからか三河国の一宮とされ,10世紀初頭に書かれた延喜式(えんぎしき)の中にも記載されている。

・・・今回登った鳳来寺山は703年とあり、三河三霊山に入るべき歴史がある。立松和平『百霊峰巡礼』(東京新聞出版局)には本宮山と鳳来寺山は入っているが猿投山と六所山は除外された。

4 鳳来寺山
 文武天皇が病にかかられたときには、鳳凰に乗って都に行き、祈祷によって天皇のご病気を治したため、大宝3年(703年)に天皇からお礼に寺を立てられ、この寺を鳳来寺と命名し鳳来寺が誕生したとされています。 大宝3年(703年)、理趣(利修)仙人によって開かれた真言宗の古刹。
 ウィキペディアでは「寺伝では大宝2年(702年)に利修仙人が開山したと伝える。利修は霊木の杉から本尊・薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、四天王を彫刻したとも伝わる。文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承があり、鳳来寺という寺名及び山名の由来となっている。利修の17日間の加持祈祷が功を奏したか、天皇は快癒。この功によって伽藍が建立されたという。」
 鳳来寺山のメインコースとなる表参道の特徴は、なんと言っても1425段もの石段を越えていくところ。そのため標高は低いですが、登りごたえは十分です。山中では霊山らしい史跡や寺社をはじめ松尾芭蕉や若山牧水の句碑や歌碑も多く点在。見どころが多いので、登山客を飽きさせることのないコースになっています。
以上

・・・どの山もいずれ劣らぬ古い歴史を誇る。中でも本宮山は標高も高く、山麓から見えることが信仰を集める大きな要素であろう。三河富士の秀麗な山容も大きい。猿投山も三河の山とはいえ、尾張からランドマークのようによく見える。名古屋のテレビ塔のような存在に等しい。しかしながら鳳来寺山は今でこそドライブウェイで簡単に行けるが往時は深山の趣があったであろう。4座の中では一番険路である。六所山は存在感が一番希薄である。
1本宮山789m
2鳳来寺山684m
3猿投山630m
4六所山611m
と標高でも歴史でも見劣りする。何で霊山と崇められたか、といえば徳川(松平)発祥の地ということが大きいだろう。つまり政治的なバックアップがあったのでしょう。
 この四霊山の中で門前町を構えたほどの盛り上がりがあったのは鳳来寺山だけだった。本宮山は何ら痕跡はない。猿投山もない。六所山もない。そしてドライブウェイが出来たのも鳳来寺山と本宮山だけだった。
 しかし、禍福は糾える縄のごとし、たくさんの参拝客が増えたので東照宮や鳳来寺はお賽銭が増えただろう。社屋の改築も車道で楽にできるようになった。ところが1971年(昭和46年)の鳳来寺パークウェイの開通と同時に門前町は寂れてゆくことになった。
 1969年(昭和44年)というから開通する2年前に作家の深田久弥が登っている。『山頂の憩い』という本の中に鳳来寺山の紀行がある。1425段の石段を登り切って、鳳来寺の新設の堂を見ている。
 ウィキには「大正3年(1914年)に本堂を焼失したが、昭和49年(1974年)に再建」とある。5年ほどのずれがある。パークウェイの建設と本堂の再建は同時進行していた気がする。まず物資を運ぶ道路を建設させて堂を建設にかかる。作業員も通いやすい。道路を作業のためにだけではもったいないから観光道路化しようというアイデアかも知れん。
 歴史的には徳川のバックアップで東照宮も作られた。その管理は鳳来寺の住職らが担っていた。ところが明治維新でいきなり廃仏毀釈の洗礼を浴びる。鳳来寺は廃れ、東照宮は延命する。石段の途中には数多くの僧坊跡があったが衰退の一途をたどったのである。
 門前町の入り口にあたる「三の門」の駐車場は実は田口鉄道の鳳来寺駅跡だったのである。今も名残りをとどめるのは角にある「おかめ茶屋」さんである。

遠州・小笠山を歩く2021年01月09日

 朝5時起きし、出発。大高町の丸の内の交差点で県道59号からR23に左折するところをうっかり直進してしまったので戻って入り直す。早朝というのに大型トラックがひっきりなしに疾走してゆく。文字通り日本の大動脈である。ここはスマホのナビに留意しながら右寄りに行く。知多道路、名二環、伊勢湾岸道、最後は豊明でR1に分かれるとR23のみとなる。蒲郡で一旦R247に出て再びR23に合流。豊橋市の外れで豊橋バイパスの高架に入ると豊橋市の南の工業地帯、農村地帯を大きく迂回し静岡県の境で再びR1と合流。小高い丘からは黒い富士山が見える。
 後は静岡県になるとR1を走り潮見坂を経由しながら東進。浜名湖の今切口をまたいぐ浜名バイパスを行く。天竜川に沿って大きく左旋回すると浜松市に入る。天竜川を渡ると磐田バイパス、袋井バイパスと続く。適当な出口で出て、袋井市街地を目指すと吉野家があったので温かい朝食をと思ったが、7時開店なのに7時30分でも開店していない。8時まででもまだ準備中だった。別の牛丼屋へ行った。スマホを法多山に指示して向かう。
 参道の入り口付近は有料駐車場があって手招きで誘う。ハイキングで半日くらいは止めさせてくれるか、と聞くと皆ノーであった。参道に近いところのPで、半日止めても良いか、というとOKを出してくれた。一番奥へと案内された。もう正月は過ぎたというのにひっきりなしに参拝客が押し寄せてくる。

  こんな寒い日でも山麓の法多山尊永寺は多くの参拝者で賑わっていた。参道の入り口で自動で体温チエックし、マスク着用で参道を歩き、参拝しました。途中で団子売りばへ立ち寄った。登山前なので荷物になるものは買えないので後にした。
 本堂の屋根が蒼穹の空に映えて美しい。1300年の歴史を誇るだけのことはある。
 その後登山道を探すために本堂の裏にも回ったが分からない。地形図をよく見ると墓地の間を抜けるようだ。入り口が分かりにくいが奥ではよく踏まれた道になりました。小笠山は尊永寺から北の尾根に取り付き、172mのコブに上がった。ここには宮標石がある。また愛野駅からの道標もありこちらがメインルートと思われる。
 樹齢のある常緑樹のかぶさる登山道を行くと三ッ峯への分岐になり往復。後は小刻みなアップダウンを繰り返す。腹擦峠で一休みした。登り返すと221mに到達。東経138度展望台は富士山を眺められる。浜松市から島田市まで東西の展望が良い。掛川駅からのハイキングルートと合流。小笠山はすぐだった。樹林に囲まれて展望はない。400m下ると小笠神社に行く。戻って、地蔵尾根(中尾根)を下山した。162mとの鞍部から北へ急坂を下る。滑落しそうなくらい滑りやすい。県道へ出て法多山へ登り返すと無事周回登山を果たして下山しました。Pの叔父さんにお礼を述べて帰った。
 後は名物の団子を買うのだが、車では境内に入れさせてもらえず、おじさんに聞くとPから下ると製造元があるからそこで買えるよと教えてくれた。首尾よく買えてほっとした。600円。賞味期限は1/10で日持ちしないのが玉に瑕。
 ヤマップの累積標高は830m、5時間50分で11.1km歩きました。

山の天気2021年01月08日

 日本海側は大雪で困っているが逆に太平洋側は好天をもたらす。西高東低の気圧配置では明暗を分けるのである。明日の小笠山は好天が期待できる。

幸初詣2020年12月31日

 名古屋も雪が降って来た。
 今日は幸初詣に行った。上前津の大須観音と三輪神社だ。その後大須のPCの店舗をのぞいて来年導入する機種をほぼ決定してきた。市バスで栄に移動し、遅い中食をとり、ジュンク堂でテレワークの本を買った。東急ハンヅで万年筆のインクを購入。丸の内の事務所で、会計処理、やっとこさ年賀状をしたためて2020年は終わった。非常に寒いので事務所のビルトインタイプのエアコンが老朽阿化して運転を停止。暖房の性能アップに石油ストーブを中型に買い替える。

冬型の気圧配置2020年12月14日

 いよいよ冬入りですね。北陸では雪が降り始めたそうです。窓から眺める北の空も黒っぽい雪雲です。猿投山の左の奥は恵那山があるはずです。木曽山脈も雪雲に覆われているのでしょう。名古屋の空はやはり高曇りとなっている。日が差さず寒いわけです。
 部屋の暖房も石油ストーブですが、灯油の補給のサイクルが早まりました。自宅にいる時間が長ければあっという間に消費してしまいます。外出すれば軽油を消費するし、どっちにせよエネルギーは使います。

冬将軍の到来か?2020年12月13日

https://tenki.jp/forecaster/k_shiraishi/2020/12/13/10783.html
日本気象協会 本社白石 圭子

12/13の予想は「急に真冬の寒さに 厳しい寒さ続く 古都京都でも雪か 雪雲は名古屋にも」だったが寒いことは寒かった。

12/6の予想は「本格的な冬の寒さはまだ先、と思いきや!13日(日)から日本列島に西まわりで強い寒気が流れ込むでしょう。今のところの予想では、九州などでも平地で雪が降るほどの寒気です。」これは当たりです。

・・・今日の寒さはこれだったのですね。本当なら若狭の横谷山に行きたかったが、日中は雨の予報だった。小浜市、美浜町、敦賀市、福井市と北に天気予報をチエックしてゆくと悪くなるばかりだった。そこで日本分水嶺の東の蛇谷ヶ峰ならばと高島市を見ても日中はよろしくなさそうだ。湖東の押立山になるとさすがに悪くはないが行ってみよう、というモチベーションが湧いてこない。奈良県の天川村の八経ヶ岳は快晴である。冬型の気圧配置になると東海地方や南紀は快晴になり、岐阜県でも美濃以北、福井県寄りは悪いのが相場である。
 そろそろスタッドレスタイヤに交換する時期になったが何となく気乗りしないのは年を取ったからかな。交換して汗をかいたらスーパー銭湯にでも行って体をほぐしたい。

若狭・庄部谷山を歩く③2020年12月01日

 地元の人は軽トラで山仕事でここまで上がっていた。この方も山や自然が好きで岩魚釣りや山菜取りに入るという。ブナが素晴らしいと言ったらこの方も同意された。仕事と趣味が一致しているのだ。
 それにしても堰堤が多いですね、と黒谷山の東の谷にある砂防堰堤の話をした。
 そこを切り口にブナ林は山の生活史的には、昔は薪炭林だったことでしょう。若木の内に クヌギ、コナラ、ヤマザクラ、エノキなどの伐採を繰り返し、山の地味が痩せるから松を植えたことでしょう。
 炭焼きの山から松山になった。松茸は人間が繰り返し干渉し、地味が痩せた松の木から生える茸である。
 松を切り出した丸太を榑松という。人名にもあるし、鈴鹿山系の竜ヶ岳の南にも石榑峠、霊仙山の登山口の廃村・榑ヶ畑と結構見る地名である。
 その炭、薪、松も戦後の石油の輸入で炊飯、煮炊きの燃料に使わなくなり、炭焼きや薪の切り出しの用が無くなるとくぬぎ類は急成長した。松山は荒れた。慌てて杉や桧を植林したが育ちが悪い。猿投山周辺には多く見られる。山が荒れると大雨で土砂の流出が続き、山崩れで浸食された。土石流は谷川の川底の水位を上げる。もはや沖積平野にはなりえないから砂防堰堤で土砂を貯めることになった。
 それが徹底すると例えば天ノ橋立も砂洲への砂の供給が止まり切れるという事態になる。鳥取砂丘もかつて古代から続いた中国山地のかんな流しで砂鉄を採ったり、和鉄を生産するための大量の炭焼きの原料として伐採された結果、山が荒れたのである。いつしか砂の供給不足で砂丘が減ってゆくのではないか。
 山の人曰く、今のブナ林は山の保水力となって守っているんだな、と理解を示された。そのブナを切って、風力発電の基地にしたらどうなるか。山の人曰はく、北陸は冬春でも雷が鳴り、落ちることがある。と懸念を示された。その上に保水力は減衰する。
 横谷川の下流の新庄は間違いなく、土石流の犠牲になる。山は堰堤だらけになるだろう。今でも小さなダムがあるが大規模なダムも作らないと危ない。
 一基8000万円から2億円もする風車の耐用年数は9年である。耐久消費財なので短期間で利益を出すことになる。採算が合わなければ撤退するだろう。すると残るのは新庄の住民らは自然破壊で災害の恐怖にさらされる。発電企業からの法人税よりも治山治水に使う税金が多ければ社会的には採算割れだ。
 人間の生活史は利用のための自然破壊の歴史である。

 下山後は温泉に入湯したかったが、適当なお湯がないので諦めた。帰路、湧き水があったので汲んだ。またR27沿いにJAのスーパーがあったので魚を買った。若狭湾産には買い気をそそられる。敦賀市まで来るともう雨になった。木之本では小雨、関ヶ原では止んだ。日本海は冬時雨だったのだ。

若狭・庄部谷山を歩く②2020年11月30日

庄部谷山頂
 Pを朝8時30分出発、林道へ左折して、上空の送電線を見ながら約20分ほどで384mの近くに立つ送電鉄塔への巡視路の道標があり、さらに庄部谷山へと篤志家が付けた道標もあった。河原へ下るとすぐに水が流れている。ちょっと多めなので平地に赤テープのある上流側にも歩いたが何もなし。戻って渡渉した。
 対岸に渡って振り向くと何と橋が壊れている。昔は橋があったのだ。急斜面には巡視路によく見る段差が埋まっている。荒れているが方向さえ分かればいい。ジグザグに高度を稼ぐと384mの北の鞍部に着いた。尾根にはテープ類が豊富に付いている。躊躇なく巡視路用の段差の残る踏み跡をたどればよい。そこを過ぎると樹林が途絶えカヤトの丘に登る。黒谷山の三角点は平な頂上の片隅に座していた。
 約50kmかなたの青葉山693mが見えたのは嬉しかった。若狭富士と言い、双耳峰の特徴ある山が可愛い。
 黒谷山では少し水を飲んだ。美味しかった。黒谷を後にしてしばらくでまた樹林帯に入る。677mへの登りはブナ林のさまよいであった。ちょっと下ると伐採されて開けたところで一休みした。ここでも送電線が通っている。若狭湾が良く見える。隣の山は雲谷山である。そこへ現れたのはなんとマウンテンバイクの人だった。山頂までは付かず離れずで歩いた。途中で長話したが関東の人らしい。今回で2度目という。
 広い尾根一杯、谷間にも広がるブナ林のさまよいは感動する。この尾根ならスキーが使える気がした。加えて赤テープも結構目立つのは落葉期だからと思う。青葉茂れる頃ならちょっと迷うかも知れない。804mのミニプレートがあった。新庄から221m、518mと続く尾根の終点である。
 12時、三角点が埋まる山頂は静寂に包まれていた。木の間越に見える黒い山体は野坂岳だろう。標高は古い山の本には856.1mだが今の地形図は855.9mと20センチ低くなった。普通のおにぎりの1.5倍の大きさがあるとはいえ、全部は食べきれず残した。腹筋が締まってかえって食えない。いい傾向である。
 さて、12時20分に下山。マウンテンバイク氏は休憩中に登ってきて休まず、自転車に乗って下って行った。さっきの話では野坂岳へ行くという。一般道へ出てからもマイカーへ戻るのにそのまま行ける利点を言っていたが・・・。
 下山ルートは東尾根にとったが西尾根よりもテープの頻度が多く、見えるところから次が見える。芦谷山への分岐までは難なく下れた。分岐からも路形がはっきりしている。倒木など多いがピッチは早まる。時計を見るとまだ13時を過ぎたばかりだが雲谷山上空にはもう雲がかかっていた。朝は晴れていたが午後は悪くなる。
 そして708m北の鞍部から林道に降り立つって雲谷山を見ると雲に包まれた日輪が山の向こうへと沈む。日没予定は16時44分だが、山陰になることを計算に入れると15時でちょうど良い。やっぱり芦谷山往復は止めて良かった。
 674mの南まで林道をしばらく歩くと広大なブナ林がある。まるで庭園か、キャンプ場になりそうな緩斜面が続き、短いショートカットを2回繰り返す。やや急斜面になったブナ林はピンクのテープが頼りで間隔が長いのでGPSでチエックしながら下った。しかしヤブは一切ないので落葉の上を滑落に注意しつつ下った。
 林道上部からの長いショートカットの最後は鉄塔が交差した。ちょうど山仕事の人がいたので長話になった。

若狭・庄部谷山を歩く①2020年11月29日

粟柄越関所跡の碑
 朝4時30分起床、名古屋ICは5時30分、養老SAでトイレタイムの際に下着を1枚着こんだ。余りに寒い。若狭美浜ICは7時30分通過、R27を走り、新庄へ左折した。耳川に沿う県道213号はほぼ直線路である。沖積平野に広がる田には稲刈り後の切り株に青い穂が生え、ひつじ田と呼んでいる。これも枯れてしまう。
 新庄まで走るとまたちょっと谷間の村が広がる。野坂岳と庄部谷山の水を集めた横谷川が押し出した沖積平野である。村の中央を走る県道の中央には雪解け用の湧水装置が埋めてあり雪深い地区と分かる。増永廸男『福井の山150』は山スキーを履き、新庄の発電所の先から尾根に取り付いている。804mを経由して登頂している。スキーが使えるほどの雪が降るのである。
 新庄を過ぎると県道は狭隘な感じで寂しい。この先にまだ人の住む山里があるかしらんといつも電線と電話線を探している。あるあると行くと松屋に着いた。
 地名はこの村の生活史、自然史を語る。まったくの想像であるが一定の標高以下はおそらく薪炭林であっただろう。炭焼きの山だったのだ。炭焼きにちょうど良い太さで伐採する。後はまた生えるに任せる。落葉も薪や畑の肥料に持ち帰る。地味がやせてくると松を植える。松もまた有用な樹種である。
 松田、松井、松川、松本、松山、松岡、松尾、松坂などは松を利用した結果の地名であろう。松は腐りにくいから水に強いので田んぼを造成する際は焼いて、地中に打ち込み水平に土砂を均した。奥三河には焼松という三角点があり、山間の谷間に棚田を作る際に使われた。後年甫場整理で拡張すると古い焼松が出てくるという。
 松屋からは左折して舗装された林道を走る。384mへ直登する印はないかと探りながら走ったがない。粟柄越の関所跡という立派な石碑があり何となくそこをPにした。すぐ先に三差路があり、左折すると東尾根にをからむ林道の入り口であった。

晩秋の若狭駒ヶ岳を歩く2020年11月22日

 山と渓谷誌11月号に若狭駒ヶ岳のガイド記事が掲載された。以前から気になっていた山の1つである。ダム側から登り予定だったが木地山側からだと周回登山ができるというので3連休でもあり行ってみた。
 5時起き、6時出発と好調にスタート。名2環に入り、一宮ICから関ヶ原ICで出てR365に。木之本から湖北、湖西へと走った。R161、R303から分かれてR367へ。朽木村までは山間の道だが朽木村の中心地からは安曇川に沿ういわゆる鯖街道である。
 注意しながら麻生川に沿う県道23号に入るともう一本道になる。しばらくはバイパスのような2車線の立派な道路である。この道が尽きると一気に1車線の狭い道になる。上を見ると電線と電話線が奥まで続いているので不安ながらも走り通した。川沿いには名残りの紅葉が美しい。バードウォッチャーが大勢で何かを見ていた。
 そのうち、池原山登山口を見つけた。まだ奥に山里がありそうなので行ってみた。バスの終点は木地山という。最奥の村に着いた。木地山でうろうろしていると福井ナンバー3人、徳島ナンバー4人のパーティも来て一気に人が増えた。登山口の表示はないが福井ナンバーの人らが橋を渡って対岸に消えていった。地形図で確認するとその通りである。予定では池原山から駒の池を経由であったが焼尾東谷から登り、山頂を往復後池原山経由で下山することにした。
 このルートは渡渉が多かった。踏み跡も明瞭ではなく、余り歩かれている様子はない。但しポイントには赤テープがあるし道標もあるにはある。沢沿いに歩けば道に迷うことはなかった。焼尾谷が二股になり奥に行くと杉の植林が無くなりブナの森が広がった。その中には名残りの紅葉もあり美しい。ブナの黄葉も見事であろうが今はすべて落葉してしまった。
 谷も立ってきた。そのうち徳島ナンバーのパーティが追い付いて来た。60歳代の男性1名と3名の女性らである。谷の詰めからは尾根に上がった。急登になった。そいて高島トレイルといわれる稜線にたどり着いた。ブナの疎林が広がる素晴らしい尾根である。ここでしばし休憩後、徳島隊は駒ヶ池を見に行くという。私は山頂を目指した。
 ブナの巨木の風倒木に驚きながら馬の背のような広い尾根は歩きやすい。
 駒ヶ越という地点を過ぎた。五万図熊川には木地山(地形図には中小屋)とダム湖に沈んだ河内を結んでいた峠道があった名残りである。焼尾谷の西谷を源流まで詰めてここに上がり、駒ヶ岳寄りに登ってまた谷を下る破線路があった。森林公園との分岐があり、すぐに谷へ下ったのだろう。
 山頂はすぐだった。山頂はただ一人静寂に包まれていた。標高が低い割には自然は豊かである。山頂もブナの疎林で360度大展望ではない。しかし一部から琵琶湖も見える。ブナ越しに若狭湾も見えた。そうかここは日本中央分水嶺なのです。日本海と太平洋側への脊梁山脈でもある。
 12時ちょうどに下山開始、単独行に出会う。徳島隊にも出会った。高島トレイルは下りも快適である。30分で谷道の分岐も過ぎて駒ヶ池に向かう。いい感じでブナ林が続く。駒ヶ池は今にも埋まりそうな感じであった。周辺は高島市側は杉の植林が迫り、小浜市側が辛うじてブナが残されていた。
 駒ヶ池は美しい。いい雰囲気であるがポツリときた。今日は夜は降雨の予報であるが山は早くも時雨模様になりそうだ。池を半周する感じで踏み跡がある。これは地形図にもオームの記号のような破線路で表現されている。
 駒ヶ池を過ぎると杉の植林との境界を歩く。これが高島トレイルかと思うような未整備状態になった。作業道が交差してくるので尾根を外して歩いてみた。すると744mの独立標高点を迂回するように池原山の枝尾根を寸断していた。但し赤テープが巻いてあり、尾根の下り口は何とか分かる。この尾根にも作業道が交差している。池原山へは作業道から赤テープで誘導するようにピークに向かった。三角点を確認できた。そこを下るとささやかながらブナ林に出た。道標が立っている。明確な登山道はないが赤テープが続く方向にくだった。地形図では尾根が二股になったところである。ここからは急降下になった。踏み跡も明瞭ではないが赤テープが頻繁にあるので迷うことはなかった。最後は横向きに下りながら車道に降り立った。
 休む間もなく、木地山に向かって歩き出した。約2kmはあり、40分の見込み。池の原というバス停があったが1軒あるだけ。木地山まであと10分というところで徳島隊の車が帰っていく。ちょっと挨拶したら木地山まで送ってやるというので親切に甘えた。マイカーまで戻れてやれやれだった。
 R367まで走り、朽木温泉に向かった。蛇谷ヶ峰901.5mという山の麓を開発したグリーンパークというリゾート地の一にである。Pはほとんど埋まっていた。3連休のせいで大勢が集まった。入口では検温された。マスク着用も当然。700円払って奥へ。湯船でゆったりした。登山後の温泉は温まるので疲労回復に良い。
 R367沿いの道の駅で栃餅、鯖寿司を購入した。鯖街道だから良い土産になる。これで皆終わったので帰名するのみである。良い1日になった。