年忘れ一日がかりで上京す 拙作2019年12月07日

 12/6の夜10時、Sさんの車に同乗して一路上京に向かう。名古屋市内からR23のバイパスに入り、三河平野を貫通。蒲郡市を経由して豊橋バイパスに入ると後は静岡県の浜松市から静岡市までほぼ渋滞もなくスムーズに移動できた。静岡市から御殿場市に向かいR246で神奈川県入り。座間市までは覚えていたがとりあえずの目的地の府中市までの道は毛糸がもつれたように入り乱れた道路なのでナビに頼る。ともかく府中市のパーキングに着いた。宮西町の1日24時間1210円というPにデポ。そこで着替えて、ビジネスホテルでチエックインを確認。その足で京王電鉄京王線の府中駅から乗車し終点新宿駅へ。
 京王プラザホテルはすぐだった。ホテルに入るとすでに全国から会員が集結していた。図書交換会など閲覧して回った。それでも時間は余裕があったが旧交を温める会員もいて時間は過ごせた。やがて17時半近くになると宴会会場に入場。薬師岳のテーブルを割り当てられた。東海支部のT支部長がテーブルマスターである。他支部は2名のみであった。
 天皇陛下が入場されて拍手で迎えた。会員数は500名の割れんばかりの拍手である。即位の祝意も含めての事である。天皇と同じ会場で同じ料理を食べて時間を過ごすのは大変にぜいたくな時間である。料理はフランス料理である。ワインも出た。
 会長あいさつに続き、永年会員表彰、新入会員紹介、物故者への黙祷などが続く。最後は豊橋市の福井酒造の四海王の樽酒の鏡開きになる。登壇者は最初はさすがに天皇陛下は見学と思われた。お声がかからなかった。皇太子時代は常連であった。係りの人も表情を見て取って最後にお声がけされた。大そう喜ばれた。
 車椅子の谷垣氏など数名が登壇して全会員が掛け声で樽の蓋が割られた。後に各テーブルに配られた。檜の香りが酒に移り独特の味わいになった。
 乾杯用のビールが注がれて乾杯。そしてフランス料理が次々運ばれて宴たけなわになった。天皇が在席中は各テーブル内の交わりしかできなかった。天皇が退席されて入り乱れての交流になった。二次会も別の部屋で行われた。ここでも旧交を温める。お開きになると府中市へ電車で帰り、部屋に入る。時はすでに零時を回っていた。睡眠不足と疲れでぐっすり眠った。

会員の退会さはに木の葉髪 拙作2019年11月14日

 今朝は傘を持って居る人が居たので外を見ると時雨模様だった。それでも雨合羽を着ていたので少雨なら大丈夫とポタリングに出た。いつもの喫茶店でモーニング。山岳会の忘年山行の段取り、公正証書遺言の段取りなどのメールの返信などを処理して丸の内事務所へ。今週は認知症関連の記事が多い週刊誌を3冊購入。事務所ではストーブに点火して暖房。エアコンより暖かい。
 さて掲載の句は年末になって山岳会のベテラン会員の退会の届け出が続いた。みな会歴が長く、退会すれば寂しいことになる。しかしさいわいにもネット経由で延べ8人の入会者があった。縁故入会、一般紙面からの入会者は絶えて久しいので退会者が続くのは辛い。11月になって髪の毛も心なしか抜け毛が増えた。退会が原因というわけではない。生きるもの全てが生気を失ってゆく11月である。髪の毛が抜けるように寂しいのである。そういえば、髪という字は長い友と書く。抜け始めてわかる、髪は長~い友達なのである。そんなCMがあったなあ。

秋晴れ2019年11月05日

 今日はは清々しい朝。わが窓から猿投山もいつもよりくっきり見える。黒々としている。もうすぐ山眠る季節に入るがすでに寝ているようだ。空気中の水蒸気が減ったのだろう。もしやと御嶽山の方向に目を凝らすとかすかに見える。間違いなく御嶽山の輪郭である。但し今は冠雪していないのだろう。だから黒っぽい。自転車の空気が減って今日はポタリングを休止したがこれからは良い季節になる。いやむしろ小寒いくらいだ。昨夜は原稿を2本書き上げた。あと少しで外に出かけられる。

老人性低体温症2019年11月04日

遭難を考える講演会
 このところの冷え込みで秋山遭難が増えてきた。北アでは72歳の老登山者が低体温症で死亡した。 
 登山の基本は、温かい衣料(行動中は軽く、休止中は防風対策、冷えに対策して工夫)、十分な水と食料(非常食も含む)、後不時露営に備えて、ツエルト、防寒着、体力が許せばコンロ、コッヘルで暖を取れる準備を固めていきたい。これらの装備をいつでも使えるようにしておくことも大切だ。
 今時は携帯電話など連絡手段も必須になった。秋山は早く日没する。早出早着きが常識。これから冬至までは日照時間が少なくなる一方なので行動時間が限られることも念頭に置きたい。

 テルモという医療器具のメーカーのHPから
 高齢者では暑さ、寒さに対する感覚が鈍くなり、身体の反応も弱くなっています。具体的には、暑くても汗をかきにくく、汗の量も少なくなります。また暑いと皮膚の血流が増えて体内の熱を逃がそうとするはずですが、高齢者の場合、暑くても皮膚の血流量が増えにくくなります。
 逆に寒くなっても皮膚の血流量があまり減らないため、体内の熱を逃がしてしまい、体を冷やしやすくなります。
 老人性低体温症
寒いとき、高齢者の手に触ると、温かく感じることが多いと思います。本来、寒いときは皮膚の血管が縮まって血流量が少なくなり、体内から熱が逃げるのを防ぐ仕組みがあります。しかし若い人にくらべて高齢者の皮膚血管はその反応が鈍いため、体内から熱が奪われやすくなります。
 さらに体内で熱を作り出す反応も高齢者では弱いため、体が冷えてしまいます。
 寒いときに体の中心部の体温が35℃以下に下がった状態を「偶発性低体温症」といいますが、高齢者の体温が低くなったときの状況をとくに「老人性低体温症」と呼びます。
以上
・・・・こんな老人の生理を考慮して秋山冬山に対応する必要がある。2012年のGWの白馬岳の稜線をTシャツ1枚だけで登っていた中高年のパーティ6人が全員低体温症で死亡している。
 「豊後ピートのブログ」から
「GWの白馬岳で6人が凍死 4」
https://blog.goo.ne.jp/bongo-pete/e/2b0dc77309ffd5dee6f12fe543b436f5#comment-list

 結局は当ブログの右に掲げたコラムにある跡部昌三さんの箴言に尽きると思う。
「悪天候は人を死地に追い込むためにあるのではないということである。厳冬1月も寒冷さ、風雪の狂う高所では、人の生存を拒否しているようであるがそこへ登ろうとするものは、それがどのようなものかは、すでに分かっているはずである。また、それに立ち向かう自由と、さける自由は登山者自身に許されている」

 自分の限界を知っておく。所詮自然の猛威には勝てない。頑張って褒められるのは人間界の虚構の中での話である。

秋山遭難~安達太良山2019年10月26日

 状況はNHK福島によると「警察によりますと2人は25日、安達太良山の中腹にある山小屋に宿泊の予約をしていたとみられるということです。
山小屋の管理者などによりますと25日夕方男性から「道に迷い、山で夜を過ごす。食料はある」などという連絡があったということです。警察は死亡したのは連絡をした男性とその妻とみて身元の確認を進めるとともに、状況を調べています。25日夜、安達太良山は気温が低く、雨や風は強かったということです。」

 典型的な秋山遭難です。ツエルトなどの装備はあったのか、あっても使わないこともある。食料もあると書いてある。
 山歴などは不明。この時期に1700m級の登山を計画するのだから初心者の域は出ている。装備も抜かりなくツエルトは持っていたと思われる。但しあの山は火山の山で頂上付近は立木もなく、風が強くてビバークの適地も少なかったと想像する。そんな状況ではツエルトも張れない。頭はくろがね小屋へ早く着きたい一心で下山することまでは頭が回らなかった。
 そうこうするうちに下山するタイミングを失い、小屋へも行き暮れて行き倒れになったのだろう。無残な死である。しかし夫婦でともに死んで行けたから幸いだった。子供さんらには悲しいが・・・・。

戸隠山登山は中止2019年10月17日

 毎日天気予報をチエックする。当たり前だが毎日変動する。長野県は18日は午後から90%の降雨率である。19日は90%だったが70%になった。20日は10%だったのが20%になった。1日の中でも大きく変動するのは気圧が不安定な時期に差し掛かったからだ。立冬には少し早いが日本海に近い地域はすでに雪が降ってきている。
 それでも中止したのは被災地への配慮である。2011.3.11は死亡、行方不明を併せて18000人を超えた。直ちに歌舞音曲を慎むムードになり、イベントやコンサートが中止、延期になった。一ヶ月半後に予定していた御園座の島津亜矢コンサートは迷いながらも実施された。ステージで島津亜矢が言ったのは自粛ばかりでは却って滅入るからと、喪章を着物に付けて歌唱されたことがあった。それで良かった。朝日新聞にもそんな記事が掲載された。
 今回も行く予定で調べていたが参加者の一部の人が気合が入らなかったようだ。登山は何かを気にしながらやると大怪我の元なので中止を決めたのである。ましてや戸隠山は岩場の連続する難路である。名山はいつでも登れる。

秋の服黒のジャンパー買ひにけり 拙作2019年10月16日

 目まぐるしく変わりやすい秋の気候である。明日からはまた天気が下り坂になる。さすがに半袖では寒い。すでに半袖は一部残して収納した。長袖シャツに切り替えた。仕事には久々に背広を着た。普段着には長袖にベストを併せていたが夕方には小寒い季節になった。
 それでジャンパーを買うことにした。アピタ店に行くともの凄い車が出入りしている。何事かと聞くと16日17日は特別セールとかいう。衣類も20%引きというので物色でなく本気で選んだ。先ずは内ポケットのしっかりしたモノが良い。なるだけミニバッグは持ち歩きたくない。手帳、長財布、小銭入れ、スマホ、キーホルダーと持ち歩くものは結構ある。
 艶消しの薄い黒色のオーソドックスなものを買った。やや作業服っぽいかな。16000円の20%3200円オフで14000円ほどの出費。これで自転車でポタリングにも着れる。約15kmある丸の内の事務所にも着て行ける。防風、防寒、ちょっとした雨に耐える撥水性、透湿性も謳う。
 食品売り場では大勢のお客が買い物中である。カード客は5%引きというのでこぞって買い物なのだ。消費税2%アップしたものの吹き飛ばすかの消費意欲である。Pから出るのもかなり渋滞した。

台風19号の被災地のこと2019年10月15日

 台風19号は関東甲信越地方に甚大な被害を残していった。特に北陸新幹線基地が水没した写真には衝撃を覚える。クルマでも最近の技術は電子部品のかたまりであるから水には弱い。それなりの対策をしてあると思うが水没までは想定してないだろう。水没したクルマは使えないので買い替えとなるからただでさえ出費が嵩むところへ高額製品の故障は痛い。それにしてもこんなことがあるから電子化した車は買えない。
 週末には戸隠山へ登山の予定なので宿泊予定の民宿に電話で安否を問うと戸隠は風も雨も強かったが被災は無かったというので一安心した。週末には登山道の状況をチエックすることにする。
 それで話は自然に新幹線車両基地の水没の話になった。おばさんの話ではあそこは「赤沼」といって元々水の出やすい地域であり、広い敷地が要るのであそこにならざるを得なかったとの見解だった。
 国地院の地形図でチエックすると、なるほど、赤沼は水害を受けやすいと分かる。山間部を流れてきた犀川(梓川)と千曲川が合流して氾濫を繰り返して出来た平地が長野盆地なのである。そして一つになった千曲川は小布施町辺りで狭い山間の峡谷に流れて行く。2車線が1車線に狭まるから水が滞留し易い。豊野という地名は氾濫河原で作物がよく実ったのであろう。岐阜の輪中の村もなぜそんな地区に執着するかといえば上流の山からの土砂が新たな肥料を運んで作物がよく育つという理由らしい。
 赤沼は千曲川左岸にある。地形図を仔細に眺めると左岸の標高が約340m前後でさらに東の山勝ちに浅川が流れる。源流は飯縄山になる。赤沼の住宅地は332m、浅川の山側も333mしかない。赤沼は浅川と千曲川に挟まれている地形になる。浅川は自然史的には村山付近へ東流していたのではないか。
 それが一つになった千曲川の水勢で土砂が押し流されて合流地が北へ北へと移動した。土砂の盛り上がりが十分でないところが赤沼という凹んだ地形になったと想像する。沢登りすると本流と支流の関係でそんな地形を見ることがある。
 水流が無い時は凹みだけに水が残り沼地になった。千曲川を堤防で囲んでしまえば広大な土地が造成できた。そこに新幹線車両基地や住宅地が造成された。
 破堤すると水は正直に凹んだ地形にたまる。どう対策するか、例えば犀川の水を千曲川と合流する前に長野市の山際に導水トンネルで飯山市辺りまで流すことが考えられる。小布施辺りから放水路をつくり下流へ流すことも考えられる。
 家を買う時住み替える時は、池(今池、赤池、池場、池下、池袋)、沼(沼田、大沼、沼尻)、津島(津は水が集る意味、島は離れた土地)、久手(湿地の意味。作手、大久手、長久手)は土地の状況をよく確認することである。すべて水はけが悪い地形になる。数千万円も出して水没なんて悪夢しかない。

わが俳句は俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず 前田普羅2019年10月14日

 辛夷社のホームページの巻頭に掲げる前田普羅の言葉の一説である。
https://www.kobushisha.com/

 HPにはないが、続けて「こは俳句をいやしみたる意味にあらで、俳句を尊貴なる手段となしたるに過ぎず」とある。

 要するに、俳句に精進するのは趣味を超えて、人生の質を高めるための手段というのだ。自己を高めるための手段としている。あるいは修業というべきか。柔道、剣道、茶道、芸道みな修業なのである。
 前田普羅はそんな俳人だった。中央俳壇、俳壇ジャーナリズムと交流してメディアに露出し、知名度を高めて会員を増やし、有名俳人として読者に媚びを売ってまで食べてゆくことはしない。後進を育てることもしなかったらしい。それなのに今の中坪主宰で4代目になりしかも2010年に1000号を突破し、発行誌「辛夷」令和元年5月号は1111号を記録した。
 先日に書いたように金子兜太、加藤楸邨などは俳壇ジャーナリズムに囃されて作られた虚像だった。新聞、雑誌が売れない今の時代はもう彼らを支えきれなくなったのだ。だから結社解散という現象になったと理解できる。金子兜太の命脈はかなり長く続いたが死を以って主宰誌は廃刊、結社まで解散である。金子兜太の死がすべてを清算させた。巨木だったが中は空洞だったのだ。朽ちるのも早いわけだ。
 
 それで「辛夷」はどうなるか。北陸のガラパゴス結社にならないように新しみを追いかける一方で、守るべきものは守る。それは俳句は自己を高めるための手段であることとの認識である。ハードルは高い。
以上が年次大会で感じたことの反省記である。

 さて、朝8時、ホテルのPを出発。R41で帰名した。心配した通行止めは今朝は解除されていた。1時間に120m/mの降雨量で通行止めになるらしい。道の駅で情報をもらうと12日は14時ころまで通行止めだったらしい。激しい降雨があったのだ。
 今日も断続的に強雨がある。それで猪谷からR360へ右折した。対向車が続々走ってきた。船津の通行止めを予測して回避したのか。この道はトンネルと橋で改良が行われてかなり走りやすくなった。一部に一車線の狭い箇所が残るだけである。約40分で飛騨古川へ抜けた。やはり早い気がする。
 高山のスーパーで昼の弁当などを買った。飛騨萩原に来ると簗が開店していたので寄った。落ち鮎の塩焼き2尾と鮎飯、味噌汁で2000円也。鮎は目の前で焼いてくれる香ばしい匂いが良い。今年の食い納めである。
 いろいろ道草を食いながら犬山、小牧を通過。午後3時ながらすでに渋滞中である。多くの行楽客も今年は散々だったのではないか。16時に帰宅できた。何と8時間もかかった。高速料金相当は食事や買い物で地元に落としてきたのである。

新涼の身に添ふ灯影ありにけり 久保田万太郎2019年10月13日

 朝5時30分過ぎ出発した。東の空が赤く焼ける。少し手間取ったが6時30分に名古屋ICから名神、東海北陸道へ。道路情報では中央道から東はみな通行止めになっている。現在台風が通過中である。鉄道も止まるだろう。
 高速は飛騨清見までは順調に1時間半で着いた。まだ8時なら時間はあると高山経由でR41へ向かった。ついでに高山市内の吉野家で朝食も。さてR41で飛騨古川まで来るとR360の入り口の電光掲示板にR41は船津で通行止め、それなら宮川町経由で左折したが、R41は猪谷付近も通行止めになっていたのでUターン。また高山西から清見に戻り富山ICへ行く。11時30分過ぎになりぎりぎりで着いた。そのまま予約のホテルのPへ止めて会場の電気ビルへ向かう。

 12時電気ビルへ。1年ぶりの再会であるが今回は関東からの出席者が北陸新幹線の不通、高速道路の通行止めで来られなかった。他に毎年温かく歓迎してくれた人も高齢で来られなかった。もう1名も病気とかで来られず再会はならなかった。これも世の中の移り変わりであるが今年は台風が激変させた。

 13時から辛夷賞、衆山皆響賞の発表と受賞式、大会への投句の受賞句の発表と受賞式も連続的に行われた。かつてとの違いはほとんどが女性であることとしかも高齢であることだった。壇上にすら上がれないのだった。
 わが結社も老いたり。
 表題の俳句はあいさつの中で、句の語句の一部の「身に添う」俳句を作るようにとのアドバイスがあった。わが結社は古参結社の10社未満の中に入るらしい。
 但し、他の老舗結社、有名な大結社も続々解散していることを思うとまだ大会を挙行するだけましか。最古参の「ホトトギス」でさえ最盛期の30%以下にまで会員数が減少したという。今後も会員数減、会費減、財政難から俳句雑誌の発行が困難になり解散することだろう。
 人気のあった金子兜太の「海程」、加藤楸邨の「寒雷」も解散というのは信じがたい。中村草田男の「万緑」はすでにない。かつては山本健吉が人間探求派として持ち上げた結社ばかりが寂れてゆくのはどうしたことか。金子兜太は水原秋櫻子の弟子だったからいわゆる新興俳句が守旧派の「ホトトギス」よりも先に寂れてゆく現象はどう説明が付くのか。
 結局は人間把握の甘さだろうに。山本健吉は28歳で「俳句研究」の編集長になり人間探求派を言った。当時の文学者は大抵は左翼系であり、若かったのだ。マルクス、レーニンをかじるもののほとんど未消化のままで、社会生活を十分経験せず、人間観察は未熟だし、青いまま文学を論じる。論だけは立つ。楸邨も同じ傾向がある。
 人間探求派(主に左翼系俳人)は現在までに駄句の山を築いてきたのだ。これでは継承者は育たない。社会派と囃された沢木欣一も「風」で活躍したが東大に就職すると左翼から転向したという。死後「風」は解散し、愛知県支部が「伊吹嶺」に継承された。
 最後は投句された俳句への主宰の講評が延々と行われた。結社は主宰がすべてといわれる。主宰の独裁であるが支えるのは会員の会費であるから力関係は五分五分である。十分な鑑賞力がないとそっぽを向かれる。
 当会は毎年の年次大会や1000号記念大会でも俳壇から来賓を招かなかった。これは異例なことらしい。前田普羅の方針でもあったらしい。それはそれとして北陸のガラパゴスにならなければ良い。
 一連のイベント終了後は懇親会会場へ。ここも関東からの会員の欠席していては賑やかさが違う。遠方は私のみとは寂しいかぎり。恒例のおわら節の踊りも今年は無だった。最後は残心句会へ。
 ホテルに入ると睡魔に襲われるごとく寝た。