北鈴鹿・阿弥陀ヶ岳撤退2019年11月17日

 関ヶ原ICを出てR21を醒ヶ井養鱒場交差点まで走って左折。上丹生の二股で左折。今年4月には工事中で入れず、急遽霊仙山に切り替えた。それはそれで良かったが登り損ないのままでは気になる。ヤマビルの多い時期を避けると今時がベストである。ただし短日なのでこの山だけに絞る。
 金山駅前を7時30分に出発、登山口には9時過ぎに到着。2台の先行車が止まっているがすぐ奥へ走って行った。われわれは左折して林道沿いを走り登山口を探すがない。最初の廃施設の左手からの踏み跡を行くしかなさそうだ。
 良い感じで登れたが廃道になり、段々に急斜面になる。しかも昨夜からの雨でぬかるんでいるので滑りやすい。踏み跡は下部だけですぐ鹿の獣道らしい跡をたどる。急斜面に落ち葉が積もり神経質な登りが続き、結局滑落の危険を感じて中途で撤退することとした。1時間ほど彷徨っただけである。
 クルマに戻ってさて、と時間はあるので柏原宿の観光にした。徳源院まで行き、近江百山の清滝山の登山口を確認後、中世のお公家か、北畠具行の墓地を訪ねた。この山道は東山道らしい。柏原宿は中山道だがそれより古い街道もこうして残されているのは歴史を大切にする滋賀県らしい。
 柏原宿の歴史資料館の休憩所で喫茶。この家屋は漆の商売で財をなした松浦姓の商人の商家だったのを米原市が買い取って観光施設に活用した。この店の水はすこぶるうまい。何杯もお代わりした。うまい水でコーヒーを淹れるから尚うまい。おそらく近江米もうまいだろう。
 まだ時間があるので湖北・高月町の歴史資料館に行き、雨森芳洲の企画展を見学した。滋賀県は明智光秀のゆかりの地の掘り起こしと雨森芳洲の顕彰にこれ務めている。歴史ファンにはたまらない。
 来週は韓国人による「韓国から見た雨森芳洲」の演題で講演会が開催される予定だ。阿弥陀ヶ岳を午前中にさっさと登り、午後は講演会へと掛け持ちで行きたい。朝7時出発なら12時までに降りてこれる。忙しいが何とかなるだろう。

西教寺と日吉大社へ〜大津・坂本、明智氏ゆかりの地を訪ねて2019年11月12日

 当会の秋の研修会として開催。大型バス1台を仕立てて豊橋、豊川から約40名が来られた。名古屋の私は刈谷ハイウェイオアシスで拾ってもらった。
 伊勢湾岸道から新名神を経由、大津で高速を出る。国道を走ってまずは西教寺へ行く。大型バスが狭い路地に入り込んでUターンするのに難儀したが見事なハンドル裁きで切り抜けた。西教寺のPへ入るのが大変なのだ。
 境内の紅葉はまだ色づいておらず3分くらいか。小春日に助けられて傾斜のある石段を登ると本堂の立つ西教寺に着く。裏手にまわり料金300円は幹事さんがまとめて支払う。住職さんからの案内で本堂に入らせてもらう。話によると天台真盛宗の総本山という。ウィキペディアの解説をいくら読んでも理解しがたい上にまた新たな宗派ときては混乱する。
 今日の目的の明智光秀は一族の墓として葬られている。明智の墓はあちこちにあるがここのは由緒ある墓だとか。菩提寺ともいう。
 ウィキペディアには「信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。また、境内には光秀の供養塔や光秀一族の墓が立っている。」と縁が深いことを思わせる。
 またバスで日吉大社に移動。すぐ近くにある。これもウィキペディアによると「文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見だが、これは、日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである[2]。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉大社は、崇神天皇7年に日枝山の山頂から現在の地に移されたという[2]。」
 ずいぶん古い歴史を持って居る。ウィキペディアに「元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降、天正14年(1586年)から慶長2年(1597年)にかけて再建されたものである。[4]信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は、当社の復興に尽力した[2]。これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であったことから、当社を特別な神社と考えたためである。」とあって、やっと秀吉との縁が結びつく。しかし光秀に絡む史跡はないので坂本の地にあるという縁だけで取り上げられるのだろう。
 ちなみに明智光秀の居城だった坂本城は城址のみで明智光秀像が立っているだけらしい。
 というわけで今日は観光気分で早足で名刹を回りました。西教寺で2句、日吉大社で2句即吟で投句してきました。
 投句作品は未発表作品なので書けないが、神の留守、小春日和、照り紅葉、冬紅葉、冬柿、実なんてん、冬日和、湯葉などの季語が浮かんだ。
 白洲正子の『近江山河抄』の”日枝の山道”を改めて読む。

白洲正子『近江山河抄』を読む2019年11月11日

 明日は歴研のバス旅の予定。日吉大社と西教寺である。はて、どこかにあったぞと書棚の本を取り出し、「日枝の山道」を読んだ。どちらも行ったことはないので予備知識を入れておこうと思う。日枝は”ひえだ”、ではなく”ひえ”と読ませる。『古事記』には日枝と書き、比枝、比叡と転じたと書く。
地形図を貼っておく。
<iframe frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" width="500" height="400" src="https://maps.gsi.go.jp/?hc=hifc#15/35.070627/135.858822/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0"></iframe>
 地形図を眺めると
 日枝の御神体山は八王子山381mである。この山は延暦寺境内へとつなぐ尾根の末端にあたる。そして真西には比叡山延暦寺の根本中堂がある。白洲さんの文には八王子山、牛尾山、小比叡(おびえ)というと紹介される。『古事記』にも登場する歴史の古い山なのである。
 そういえば、今年の夏珍しい仕事を手掛けた。名古屋近郊にある宗教法人様の規則変更であった。しかも天台宗なのでここが大本ではないか。書類には比叡山の事務局の印鑑も押印してあった。これは余談である。
 西教寺のことも少し書いてある。行ってみてまた読んでみる。

神又谷異聞2019年06月10日

 20万地勢図「岐阜」を見ていたら、池ノ又林道通行止め地点から尾根に上がり、747mを越えて中ツ谷に下り、1048mへの独立標高点に登り、1196m(左千方)まで行って、尾羽梨川へ下る破線路があります。『坂内村誌』によれば中尾嶺越というようだ。1050.2mは中尾嶺ともいう。(滋賀県地名大辞典)
 私のは昭和48年12月現在の地図です。田戸の奥の尾羽梨は廃村です。昔は近江の村と結ぶ山道があったのです。

 坂内村誌(民俗編)には
 神又谷は昭和10年代は木材搬出の道があったそうです。古くは江州谷とよばれたほど滋賀県側から木炭や、薪材を切り出しに来ていたらしい。近江は金糞岳があり、土倉鉱山もあり金属精錬が盛んだった。魚を焼く、お茶を淹れる、暖房、炊事など需要は旺盛だった。
 それで近江だけでは足りず、山越えで炭を生産したのでしょう。そしてリッカ谷から1050.2mの南の鞍部を越えて、神又谷と往来があったらしい。あの見事なブナ林は二次林なんですね。それにしては注意していたが炭焼き窯跡は見つからなかった。

 皆さんと眺めたブナ原生林は他の樹種が混じらない純林と呼ばれる。
 ウィキぺディアには「森林の樹木群集がほとんど陰樹で構成されるようになり、それ以降樹種の構成がさほど変化しない状態になったことを「極相に達した」といい、極相に達した森林を極相林という。 また、主に極相林で生育する樹木種を極相種という。」
 つまり下山の際に見た無尽蔵に林立していたあのブナ林は極相に達しているのです。
 だから眺めて美しいし、青森県の白神山地も同じく極相林でしたから、あそこにいる限りは白神山地と変わりない環境だったのです。
 
 滋賀県の廃村・奥川並(おくこうなみ)は川上の人等が峠を越えてつくった村でした。ですから中津谷との交流の道もあったのです。1060mは多分ですが、中津山かも知れません。するとあの尾根は中津尾かな。坂内村誌はそこまで記載はないが詳細な山名考証がある。昔は近江と美濃の山村民は縦横に山を歩いていたのでしょう。

 点名の大岳は滋賀県側の名称です。前述したように中尾嶺も文献に出ている。

 木炭の生産は江戸時代から盛んだった。秀吉は薪炭材の本数を把握するために1000本の紐を作り、山の木に巻いて残った本数を引いて実際の本数を把握したという。知恵者です。

 古くはヤマトタケルの時代、伊吹山の魔物を征伐するために出かけますが、死に至るケガをさせられて退散します。伊吹神は金属の神様で南宮大社も金属の神様を祭っています。伊吹山の北には金糞岳があります。金属の精錬には木炭が必須です。長浜市は鉄砲の生産で有名です。鉄砲鍛冶にも大量の木炭が必要です。大量の木炭を消費する環境だったことは想像できます。今と違って往時は山に多くの人が入っていたでしょう。今は野生動物の天国です。

 戦後に石油の輸入が再開されると木炭の生産は急激に淘汰されてしまいます。この山も需要の急減した木炭の原料として利用価値のない(文字どうり、ブナは木で無い、橅があてらる)山になった。伸びるままに伸びて、戦後は74年間に他の樹種を抑えて極相に達した。

鈴鹿・霊仙山を歩く2019年04月07日

 朝6時30分に出発。名二環から一宮ICを経て関ケ原ICで出る。R21をのんびり走る。今日は久々の鈴鹿の霊仙山である。醒ヶ井で左折。
 計画では阿弥陀山経由で周回の予定でしたが谷山谷が工事中で入れず、榑ヶ畑から汗拭峠経由で往復するだけになりました。落合コースもダメらしいので、このコースに集中したせいで、Pが満杯でした。ずっと下に戻って止めました。
 8:25出発、廃村跡の榑ヶ畑を経て杉林を登りきると汗拭峠で一休み。雑木林の急な尾根道をあえぐと傾斜が緩くなって歩きやすくなる。米原市展望台でまた一休み。周囲にはカレンフェルトが群がる。近くからキツツキのドラミングが聞こえてくる。小鳥の鳴き声も盛んである。
 腰を上げていっそう急な山道をジグザグに登り高度を稼ぐ。お猿岩に着くとスキー場のような緩斜面が広がっている。ここから立木はなくなり、今は雪が解けたばかりで地面も枯草色に染まる。そしてカルスト地形独特のカレンフェルトの白っぽい石が無数に広がる。雪解けの後の泥んこの途を避けて、草地をたんたんと歩いていくとお虎池に着いた。美しい水を湛えている。鳥居が立ち信仰の対象になっている。
 いったん下って経塚山へと登り返す。泥でぬかるんだやや急な道を登る。頂上の北面には残雪が結構ありました。経塚山からまたいったん下って登り返す。雪が結構残るが雪の上を歩くまでもない。
 11:00登頂。2等三角点が新しく埋め替えられた。約2時間半かかった。伊吹山が霞んで見える。琵琶湖も霞の彼方にある。遠望はなし。
 昼前でおにぎりを食うほど空腹ではない。アンパン1個で済ます。多数のしかし1人か2人パーティーが登ってきて休んでいる。中には焼き肉をする人、ラーメンを作る人、トーストをする人らがいて早めの昼食を楽しんでいた。風は微風程度だがじっとしていると寒い感じがする。
 11:17下山開始、経塚山と山頂の鞍部の谷沿いの踏み跡をたどるとお虎ヶ池の手前の登山道に合流できた。帰りがけに福寿草などの山野草を探したが無かった。またお猿岩ではカラスの群れが騒がしいので見に行くと雌の鹿が死んでいた。
 下山時でも雑木林では小鳥が大変にぎわっていた。きつつきのドラミングも盛んでした。美しい鳥が枝から枝へと導くように先を飛んで行く。夢のような光景である。少し膝に痛みがあるのでそろそろと下った。
 林道最奥の車はほとんど無くなったので下山したのだろう。Pへは13:20着。
 山上では昼食をしてないので、最奥の料理屋でニジマス料理を食してみた。4000円以上の結構なお値段である。2700円のリーズナブルな定食を頼んだ。刺身、フライ、甘露煮、お汁、付け出し、塩焼きと一応は揃っている。川魚料理好きには満足のいく水準である。

 醒ヶ井に出ると、加茂神社に寄った。ヤマトタケルの像が立っている。

「居醒の清水(醒井宿)概要: 居醒の清水は案内板によると「景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて居醒の清水旅する人々を困らせておりました。そこで天皇は、日本武尊にこの大蛇を退治するよう命ぜられました。※尊は剣を抜いて、大蛇を切り伏せ多くの人々の心配をのぞかれましたが、この時大蛇の猛毒が尊を苦しめました。やっとのことで醒井の地にたどり着かれ体や足をこの清水で冷やされますと、不思議にも高熱の苦しみもとれ、体の調子もさわやかになられました。それでこの水を名づけて「居醒の清水」と呼ぶようになりました。」とあります。」※剣はミヤズヒメのもとに置いてきたので素手で戦います。

 ここは昔中山道の宿だった。狭いがよく整備された街道が続いているので車で走ると元の交差点に戻った。道沿いの小川の水がきれいで、ハリヨが生息している。

 この後で、ヤマトタケルは伊勢に向かう。四日市辺りで、痛みがひどくなり、「ヤマトタケルが東征の帰途、伊吹山の神との戦いで病に倒れ、弱った体で大和帰還を目指して剣を杖代わりにしてこの急坂を登り、
『吾足如三重勾而甚疲』 (わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)
-- 私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れた --『古事記』と言ったとされる。これが「杖衝坂」と「三重」の名前の由来といわれる。
 そして、鈴鹿市または亀山市で、有名な和歌を詠んで亡くなる。

 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭しうるわし

奥川並から湖北・神又峰(点名:大岳)を目指すが撤退2019年02月11日

         夜の余呉湖畔
 2/9夜9時、名古屋を発つ。名神で一宮ICから関ヶ原ICを経て、R365を走ると今夜の宿の予定地の余呉湖には近い。2月というのに雪のかけらも見ない。R365から左折して余呉湖畔のビジターセンターへ着く。11時半。トイレと広いPがあり、テントビバークにはもってこいだが、すでに数台は止まっているし、路面が濡れている。
 そこで別の場所を探す湖畔のドライブになった。余呉湖あじさい園は先着車があった。次はバンガロー風の廃屋があったが、大きな熊の檻に仰天して退散。賎ヶ岳ハイキングマップのトイレマークらしい所に落ち着く。照明はないがトイレがあるし、水も出る。しかも路面が乾いていた。さっさとテント設営してビバークする。往来するクルマは1台限だった。
         高時川水系の山村へ
 2/10の朝5時、夜中は強風にあおられて固定を忘れたフライが飛ばされた。時折はフレームがしなるほど強い風が吹いた。また雪が飛んできたから非常に寒い夜を過ごす。
 熱いお湯でカップ麺を胃にそそぐ。体温が少しは温まる。すばやく撤収。また周回の道を行くと、昨夜の閑散が信じられないほど公魚(ワカサギ)釣りで車も人も多かった。
 R365から上丹生に行く県道を走る。七々頭ヶ岳を仰ぎみて高時川奥へと良い道を走る。人家のある最奥の村の菅並に着く。良い道に誘われてうっかり洞寿院に入ってしまった。戻ると北海道(多分きたかいどう)トンネルがあるが???。Uターンして、神社のある寂れたような細道に入るとこれが目的地の田戸(たど)への県道であった。ところどころ通行止めの表示はあるが、横は通過できる幅があり、注意して行けよ、事故っても自己責任だぞ、とのサインか。
     雪解けの水を集めて流れる高時川中流の廃村田戸へ
 高時川は水量も豊かに蛇行しながら滔々と流れている。寡雪とはいえ、県境は相当な降雪があり、すでに雪解けが始まっているのだろう。上谷山、三国ヶ岳、左千方などの融雪を集めて雪解川となって琵琶湖に注ぐ。
 目的地の田戸へは意外に早く着いた。途中での路面の凍結や落石もなくスム―ズに走れた。ここから中河内までは走ったことがある。かつては安蔵山へ登りにも来たことがある。自分のブログをググってもヒットしないから15年前になるだろう。こんなマニアックな山に登れたのは何と言っても、1985(昭和60)年の山本武人『近江 湖北の山』のガイドがあればこそだった。
      廃村奥川並へ
 奥川並へは橋を渡り、歩くこと約2時間はあると、先行者の記録にある。山の尾根を眺めても雪は少ない。この時点で、スキー登山は断念した。奥まで行けば雪はあるが、2時間も重いスキーをかつぐのは愚かなことだ。というわけだがわかんを忘れたのでつぼ足覚悟で歩くことになった。相方は夏山用の登山靴もなく、スキー登山靴になった。
 安蔵山の南尾根を巻くように奥川並川沿いの林道を延々歩いた。林道は徐々に雪が現れた。山腹の電話線の垂れたのを見ると廃村も近いだろう。杉の林の中に各戸の墓の共同の碑を見た。廃村奥川並はすぐだった。今は石垣だけが残っている。検索すると「ブログこの道往けば」の「滋賀県道285号中河内木之本線 忘らるる村編」によれば、田戸は平成7年に、奥川並は1969(昭和44)年に離村した、と記載。
 廃村になって今は地形図にも奥川並の名前はない。段々雪深くなり、約20センチから30センチはある。0.7kmも歩くとリッカ谷と中津谷の出合に着く。ここまでで10時。
       中津谷林道を行く
 当初の計画ではリッカ谷林道を歩く予定だったが、相談で中津谷林道を上がることに変更。出合を左折。西尾根の末端を目で探ると踏み跡が登っている。しかしパス。中津谷と足ノ又の落合の蛇行する沖積平野を雪が覆って美しい。積雪がどんどん増えた。夏山用登山靴は雪で湿りはじめた。雨具のズボンを履くが靴下が濡れてきた。この辺が限界である。
 標高550m付近から積雪はどんどん増えた。ついに600m付近で林道は終点になり、谷奥には堰堤が見えた。ネットの記録には谷の奥の稜線に中尾峠があったが今は廃道。ここからヤブを分けて西尾根に合い、神又峰へ登山している。そして西尾根に踏み跡があったそうだ。その登り口は多分、大栃の辺か。或いは落合付近か。
      神又峰(大岳)は撤退
 11時を過ぎて、標高差450mの山頂往復は約4時間もかかるので撤退を決めた。足元の準備不足もある。奥川並に入ってから空が曇ったり晴れたり、雪が舞ったりする。中津谷でもリーダーが素っ頓狂な声を挙げた。ほらほら雪の結晶だ、と。六角形のあの雪印そのものを見せてくれた。標高があがると気温がグンと下がり結晶のままを見られるのだ。
      雪の結晶は六花という
 さて、リッカ谷出合に戻った。そこで昼食とした。カタカナのこの地名も六花(リッカで雪の結晶の意味)に由来するのだろう。横山岳にぶつかったマイナス30℃から50℃の寒気団が雪を降らせるのではないか。だとしたら美しい地名である。
 又しても撤退に意気消沈してしまう。延延林道を歩いて廃村田戸に戻った。この少し下流の小原で締め切って丹生ダムが予定されていたが今は中止となった。世が世なら湖底に沈むはずだった。前回来た時に家があったかどうか。もう記憶はない。
      公魚(わかさぎ)の天ぷらに舌鼓を打つ 
 再びR365に出て、余呉湖に寄った。何と昨夜ビバークを予定していたPは公魚(わかさぎ)釣りの車で満杯だった。釣り場にもひとだかりが見えた。近くの民宿「文右衛門」に入って、わかさきの天ぷらを頼んだ。これは美味かった。ヒマラヤの岩塩もよく効いた。白味噌のしじみ汁も味噌の香りが臓腑を刺激した。これで800円だった。撤退を慰めてくれた。ここはマガモ料理も食べさせてくれる。アイガモ(アヒル)か、と聞いたら内は使わない、マガモだと反論されたので本物だろう。値ははるが食べてみたい。帰路はあねがわ温泉で一と風呂浴びた。湖北は温泉施設が少ないので大繁盛していた。
 長浜市のR365を走ると、鈴鹿の霊仙山の前衛にある阿弥陀山が均整の取れた山容を見せる。見えなくなると岐阜県は近い。浅春の湖北の山旅を終えた。

風雪の奥伊吹スキー場に遊ぶ2018年02月11日

 建国記念日の今日は朝5時集合ということだったが30分遅れて5時40分に山友宅を出発。高速を使えば一宮ICから関ヶ原ICだけなので地道を走った。東海大橋を渡って直進すると養老山麓を走る。雪は一片もない。牧田川を渡ると大垣市に入り、すぐに関ヶ原町に入る。
 関ヶ原古戦場をかすめるように行くと米原市だ。すぐにR365と分かれて伊吹山登山口の案内に従い、地方道に右折する。藤川、上平寺へと走る。
 藤古川を渡ると上平寺になる。この辺りが揖斐川(牧田川)水系と琵琶湖に注ぐ天野川水系との分水嶺になる。藤古川の源は伊吹山の最高点から流れる。県境は東の端をかすめるのだから近江の山に見えるが、この辺りに伊吹山は岐阜県の山という地勢の根拠があるのだろう。
 そもそも岐阜県は飛騨も美濃も慎ましい性格の土地柄である。県境について自己主張をしないのである。木曽川でも愛知県側の堤防は岐阜県側よりも高くしてあるそうだ。愛知県と岐阜県境でも所属争いが最近まであった。
 逆に石徹白のように美濃文化圏なのになぜか福井県であった。選挙で不便と言うので岐阜県に編入された。近年は長野県山口村も岐阜県に編入された。これは経済圏の問題であろう。
 白山は「加賀の白山」といい、御嶽は「木曽の御嶽」と他県にゆずる。阿寺山脈にしても長野県の木曽に対して、岐阜県側は裏木曽という。尾張藩が管理した木曽を重く見たのだろう。
 穂高だって長野県側の方が熱心に観光開発をしている。登山者間には槍穂高連峰で落ちるなら岐阜県側に落ちよ、とまでささやかれているそうだ。長野県警は判断によって結構有料のヘリに切り替えるからだ。しっかりしている。
 飛騨はかつては天領といった。幕府直轄だったからナショナリズムが発達しなかったのだろう。

 さて、伊吹山の麓まで来るとさすがに雪が多くなってスキー場へ行く気分が高まった。伊吹の交差点で右折。姉川に沿って走った。曲谷(まがたん)の地名が懐かしい。甲津原までくると雪国さながらの風景になった。スキー場手前の駐車料金ゲートで渋滞ができた。 無事駐車場に着いてやっとスペースを確保。すでに75%は埋まっている。関西ナンバーに混じって岡山、広島ナンバーもあった。
 トイレも、「アルカンデ」にも行列だ。歩かなくても済むがこちらは歩いてリフト券売り場に急いだ。当然、行列だ。今日は回数券だけにした。天気も悪い。それにこの来客ではゲレンデも混雑しそうだ。
 リフト設備は一新されていた。右側に乗ると2本目からは降雪がひどくなった。山スキーに必携のシールを玄関に干したまま忘れた。その上、寒風と横殴りの雪がブンゲンへのモチベーションを萎えさす。ともかくリフトのもっとも高いところへ降りた。約1200mはあるはずだ。寒気流は大体この高さで流れているらしい。早々に滑走に入った。
 このゲレンデはまずまずのコンディションだった。山友と話し合って、この悪天ではブンゲンは無理とあきらめた。
 それで4等三角点(点名:品又峠)日ノ出山1045.5mを提案。一旦、出発地点へ滑降、左側のリフト2基を乗り継いで終点に立った。風雪はそれほどでもない。比高150mの差である。
 ここでスキーを外す。鉄骨の展望櫓をめがけてキックステップで登り始めた。するとスキー場のパトロール員2名が注意喚起する。場外への滑走で行方不明事故が多発しているので挙動不審者には神経をとがらしているようだ。あの櫓へ、と山友が説明して不審を解いた。
 約50センチほどの深さはある斜面を蹴り込みながら登るのは快適であった。櫓付近は太ももまでもぐった。どこかに三角点があるが記憶がない。山友は櫓に登り始めた。上で踏板が外れていると分かって降りた。またゲレンデに下って、スキー板を履いた。
 品又峠に向って滑降を開始。かつて峠からは1230mの無名峰までリフト2本が設置されていたが今は廃止された。多分風雪が強いのだろう。揖斐高原スキー場から林道をたどり、品又峠からリフトに沿って登った。終点の廃屋付近でツエルトビバークをしたのもこの2月の連休だった。あの辺りはブナの原生林だったと思う。
 品又峠からは緩斜面のゲレンデを滑降。また最初に戻り、右のリフトを1本乗ると回数券は終わる。さらなる緩斜面に基礎スキーの技術チエックをしながら滑る。シュテムターン、シュテムギルランデなど、山で使う技術を意識して滑った。
 スキーのセンターまで来るとスキー客がびっしり埋める。うわ―、という感じで早々に板をはずしてPに戻った。時刻は12時30分くらいだっただろう。ちょっと早過ぎる気もするが混雑にはもまれたくない。それに朝は空いていた場所もクルマが埋まっていた。
 スキー場からの車道を下っても約6kmほどは渋滞中であった。おそらくキャパシティを越えているのではないか。最奥の甲津原もマイカーやバスで一杯だった。それからまだまだ渋滞は続いたのである。
 曲谷を過ぎて吉槻まで来ると急に明るくなった。それまでは裏日本の気候、ここからは表日本と言う感じだ。伊吹の道の駅で一休みしたらここも満杯だった。ようやく伊吹の麓を去った。朝の曇り空はよく晴れた。伊吹山も少し見えた。
 R365をたどり、関ヶ原、養老へ。養老ミートで気になっていた豚チャン1kgパックと他を購入した。温泉にでもと行ってみると800円の入湯料に引き返す。南濃町まで足を伸ばして南濃温泉 水晶の湯へ入湯。JAF会員は410円也。ああ、やっぱり本物の温泉は温まる。やっと帰宅する気になった。
 山友を送り、帰宅。自宅では早速、豚チャンを賞味した。フライパンに油を引き、にんにくのみじん切りを入れる。豚チャンを入れて、後でキャベツを大量に入れる。缶チューハイを片手に今日の反省をした。疲労と酔いで、横殴りの風雪を思いつつ間もなく睡魔に襲われるのであった。

忘年山行(那須ヶ原山~唐木岳)兼新人歓迎会2017年11月26日

 11/25から11/26にかけて山岳会恒例の忘年山行と1名の入会者があったので新人歓迎会を催した。場所は鈴鹿南部のゲストハウス関ロッジ。かつては国民宿舎だった宿だ。観光の目玉がない亀山市周辺では経営が覚束ないのか数年前に閉鎖してしまった。今回は7月ごろにリニューアルオープンしたが、一度利用した実績もあり、また使ってみることにした。
 但し、料理は自分らの自炊ということになった。メニューはすきやきにして食材調達は会の幹事が担った。
 ともかく午後5時ごろにはメンバー13名がそろった。テーブルにコンロ3台、あらかじめ切ってある食材を並べて調理してゆく。アルコールはビールは館内自販機で買うのが条件。焼酎は持ち込み可能というのでずらっと並んだ。差入れの日本酒もあって山屋にふさわしい宴会になった。自己紹介から始め、あとはもう宴たけなわとなるや気が付いたら布団に寝ていたという次第。1名が宴会後帰宅して12名が泊った。
 26日は帰宅組と山行組に分かれて行動。山行組は6名が残り、R1から滋賀県入り、蟹坂から大原貯水池を目指す。参道橋の先にいいPがあって2台を止めた。
 参道橋まで戻り、舗装の林道を登り始めた。荒れた林道の終点から山道が始まる。黒滝の手前の小屋に2合目とあった。参道橋といい、2合目の表示といい、那須ヶ原山へのメインルートだった証拠だ。登るにつれて傾斜が増す。谷から尾根を伝い高度があがった。枯れすすきが晩秋の山のシンボルのようになびく。遠くには綿向山、雨乞岳、御在所岳、鎌ヶ岳と鈴鹿を代表する1000m級の名山が横に並ぶ山容が圧巻である。
 2回目のネットをくぐると山頂は近い。約1時間ほどで登頂。簡素な祠を風雨や風雪から守るために建物で囲ってある。その下も避難小屋か登拝者の休憩室が設けてある。三角点は建物の後にあった。
 ここから81歳の長老と女性は下山し、我々4人はミニ縦走の道に入った。稜線は土が痩せているせいか、つつじ科のあせびのトンネルになっている。春の開花期には白い米粒のような花を咲かせる。
 三つ頭山、唐木岳へは標高差はないが、細かいギャップが続く。キレットを通過、小笹山に立ち寄り、さらに坂下峠への道を下降した。峠道は三重県側へ下る。若干登り返す。災害で荒れた道を歩くときれいな舗装の林道に出てPに戻った。
 山上でリーダーのスマホに連絡があったが電池切れでキャッチできなかった。下山後、宿に寄ると布団の中に時計の忘れものがあったと知った。メンバーの1人だったので良かった。管理人の計らいで無料で入浴を勧められた。もちろん、ありがたく入浴させてもらった。
 これで万事終了であったが、リーダー同行でもう一つ立ち寄りたいところがあった。今夏訪ねた亀山市の能褒野(のぼの)にあるヤマトタケルの墳墓と鈴鹿市の加佐登神社と白鳥塚を訪ねた。後はR1,R23を経て帰名した。

ご用心、鈴鹿北部の山に熊が放獣された!2015年05月29日

産経WESTから
27日午前4時半ごろ、滋賀県多賀町樋田の県道で、道路脇の地蔵堂に参拝していた近くの無職女性(88)が背後から近づいてきたクマに襲われ、顔にけがを負った。クマは山中に去り、女性は病院に搬送された。

 現場は、三重県境に近い鈴鹿山脈の山あいで、20世帯ほどの集落の一角。滋賀県警彦根署によると、クマは体長1メートル程度。女性は前足で顔をひっかかれ、深い傷を負ったとみられる。

 滋賀県内では、今月20日にも高島市で登山中の男性がクマに襲われて重傷を負う事故があった。
続報
三重県内で捕獲されたクマを、同県の担当者が隣接する滋賀県の山中に放していたことが27日、分かった。同日早朝には、滋賀県多賀町で女性がクマに襲われて重傷を負う事故があり、滋賀県側はこのクマの仕業だった可能性があるとみて、知事名で三重県に抗議する方針。三重県側は落ち度を認めて同町に謝罪し、滋賀県への謝罪も検討している。

 三重県獣害対策課によると、同県いなべ市で今月17日、ツキノワグマ1頭が捕獲され「麻酔で眠らせた上で、滋賀県境の山中に放した」と発表。しかし、実際には三重県の放獣担当者は県境を越え、滋賀県多賀町でクマを放したが、滋賀県に連絡していなかった。

 その後、同町で27日早朝、女性(88)が自宅近くでクマに襲われ、頬骨を折るなどの重傷を負った。滋賀県によると、これまで同町内でのクマの目撃情報はほとんどなく、三重県が放したクマの仕業ではないかとみている。
以上
御池岳、天狗堂、藤原岳、三国山、霊仙山周辺に登山を計画されている人は要注意である。捕獲されるまでは入山を控えた方が良い。
襲われた場所は滋賀県多賀町樋田で、御池岳の真西にあたる。
熊は一晩で40kmは移動するらしい。
<iframe frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" width="500" height="400" src="http://maps.gsi.go.jp/?ll=35.182402,136.325355&z=15&base=std&hc=hifcb&vs=c1j0l0u0"></iframe>

続報
NHKの朝のラジオでは、熊に取り付けた発信機から、岐阜県海津市付近に居る、と報道している。ということは養老山系(多度山から養老山)に当る。

「山女原」(あけびはら)考2013年12月10日

難読地名考
山女原  
 仲間内がどう読むのか、と聞くので、「あけびはら」と言った。しかし、そのわけは知らなかったのでこの際検索でググって見た。

 どうしても”やまめはら”としか読めないが、”あけびはら”という。あけびならば、WIKIPEDHIAによると
「アケビ(木通、通草)は、アケビ科の蔓性落葉低木の一種(学名: Akebia quinata)、あるいはアケビ属(学名: Akebia)に属する植物の総称である。」と、立派な漢字が当てられているが、これも知らないと読めない。

ある人のブログには
「山形では、秋のお彼岸には、先祖の御霊が<アケビの舟>に乗ってこの世に戻って来るという言い伝えがあり、その頃になると山からアケビを採ってきて、仏壇にお供えする風習があるそうです。また、東北地方では、アケビを<山女>とか<山姫>とも呼びます。」
 うんうん、山形では山女でもあけびと読むのだそうだ。

検索を続けるうちに牧野富太郎先生の記事に出会った。全文はクリックして読むとして、一部を転載すると

「その口を開けたのに向かってじいっとこれを見つめていると、にいっとせねばならぬ感じが起こってくる。その形がいかにもウーメンのあれに似ている。その形の相似でだれもすぐそう感ずるものと見え、とっくの昔にこのものを山女とも山姫ともいったのだ。なお古くはこれを、※[#「くさかんむり/開」、85-15]と称した。すなわちその字を組立った開は女のあれを指したもので、今日でも国によるとあれをおかい又はおかいすと呼んでいる。これはたぶん古くからの言葉であろう。そしてこの植物は草である(じつは草ではなく蔓になっている灌木の藤本だけれど)というので開の上へ草冠を添えたものである。こんなあだ姿をしたこの実から始めてあけびの名称が生まれたのだが、このあけびはすなわちあけつびの縮まったもので、つびとは、ほどと同じく女のあれの一名である。」

 山姫とか山女と読んだのは女性器に見立てたからだったのだ。ちょっと、下品な発想をすると、山女というは余りもダイレクトなので漢字では地名にしか残らないのだろうか。

「あけびの実はなかなかに風情のあるものであるから、俳人も歌よみもみなこれを見逃さなかった。昔の連歌に山女(あけび)を見て「けふ見れば山の女ぞあそびける野のおきなをぞやらむとおもふに」と詠んでいる。」

 この戯れ歌?も、女が(股を開いて)遊んでいる。それを見た野のおきながやりたい、というのである。野のおきなとは野老(ところ、山芋の一種)のことで、芭蕉の句に
  山寺の悲しさ告げよ野老掘り
がある。アケビとヤマイモの取り合わせとは楽しい歌だこと。

「これは自分の拙吟だが「なるほどと眺め入ったるあけび哉」、「女客あけびの前で横を向き」これはどうだと友達に見せたら、そりゃー川柳へ入れたらよかろうと笑われた。」とまあ、牧野翁も自作を楽しんでいるのは笑わせる。
 
 全文は以下で
http://www.aozora.gr.jp/cards/001266/files/47237_29243.html

 もう一つ思い出した。映画「雪国」の冒頭の場面に、池部良がアケビの一房を持って山を下るところがあった。それを岸惠子がもらって食べるところもあった。あの川端先生のことであるから、ただの描写とは思えなくなった。越後の山奥の女、即ち山女である。
 「雪国」は決して清純な映画ではなく、色恋の強い文学であった。「女を世話してくれ」などというセリフがあるのを見ても性への傾斜が強かった川端康成の暗示かも知れないと思った。練達の文章が文学たらしめている。

 いやはや、地名をまじめに探る目的で調べたら、週刊ポストとか週刊現代のお色気記事になりそうな話で落ちがついた。