『津軽の野づら』の原作と出版の著作権2019年11月21日

 深田久弥の『津軽の野づら』は北畠八穂の著書とされる。深田には書けない内容だかららしい。しかし今年津軽半島では八穂は標準語で文章を書けないことを知った。津軽弁で語られた『津軽の野づら』を一般に分かりやすい文章で著したのは深田久弥であった。すると著作者も深田になるのだがなぜか不幸な別れ方をしたためか、著作権に争いがあるためか、再版を見ることが無い。
 こんな例は柳田國男『遠野物語』にも言える。
 ウィキによると原作は「岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集である。遠野地方の土淵村出身の民話蒐集家であり小説家でもあった佐々木喜善より語られた、遠野地方に伝わる伝承を柳田が筆記・編纂する形で出版」とされる。聞き取りした話を文語体で著したのは柳田の手柄である。
 続けて「晩年の柳田も当時を振り返って「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」と語っている。」というように深田も聞き取りに苦労して小説化したと思われる。津軽半島の小泊で聞いた太宰治『津軽』の朗読の語り部の津軽弁は私にはさっぱり聞き取れなかった。しかし、秋田県の人は聞いて落涙した。
 当時26歳の田舎娘の八穂が津軽弁で深田に語りそれを解釈しながら標準語の小説にしたのであろう。中身は八穂であるが作品への貢献度は深田に傾くと考えるが・・・。

司馬遼太郎『北のまほろば―街道をゆく〈41〉』読了2019年06月22日

目次だけを見てもボリュームたっぷりだった。読みこなすのは大変なことだった。

古代の豊かさ
陸奥の名のさまざま
津軽衆と南部衆
津軽の作家たち
石坂の“洋サン”
弘前城
雪の本丸
半日高堂ノ話
人としての名山
満ちあふれる部屋
木造駅の怪奇
カルコの話
鰺ケ沢
十三湖
湖畔のしじみ汁
金木町見聞記
岩木山と富士山
翡翠の好み
劇的なコメ
田村麻呂の絵灯篭
二つの雪
山上の赤トンボ
志功華厳譜
棟方志功の「柵」
移ってきた会津藩
会津が来た話
祭りとえびすめ
鉄が錦になる話
恐山近辺
三人の殿輩
蟹田の蟹
義経渡海
龍飛岬
リンゴの涙
以上
・・・約400ページに圧縮され、非常に多彩なテーマを織り交ぜながら、青森県の歴史と文化を楽しませる。
 ことに興味深いのは愛知県豊橋市出身の菅江真澄の話が縦横に語られること。真澄の見聞が契機となって古代史に光が当たる。真澄の旅は物見遊山ではなく、国学で学んだこと、すなわち日本のことをもっと知りたい、日本人は何者だったのか、という学問的欲求だったと思われる。
 山のこともちょっぴりだが入っている。岩木山、八甲田山をベースにした文学の盛んなことも指摘。風土色の強い芸能も盛んである。
 青森県の歴史は津軽と南部の重層性が特殊である。津軽は南部から分かれた。津軽為信の野心が南部からの独立させた。弘前城の規模は徳川家康の許容範囲を超えたものらしい。それは関ケ原の戦いに際しての津軽為信の政治性の巧みを描く。
 その上に近代以降の会津藩の多層性もある。青森県の歴史と文化は一筋縄では解読できない複雑さがある。
 個人的な興味は三重県の北畠家が青森へ移ったことで、児童文学者・北畠八穂が生まれ、近代文学に華を添えた。
 この紀行自体は太宰治の『津軽』を下敷きにしている。太宰の視点で津軽の理解に努めた風だ。
 リンゴの涙の章の最後に小学生の詩を引いた。「リンゴの涙」と「でかせぎ」。「津軽や南部の言葉を聞いていると、そのまま詩だと思うことがある。」と。「この小さな津軽詩人の詩を借りて「北のまほろば」を終える。」と締めくくった。
 演歌歌手・吉幾三の「津軽平野」は1984年のリリース。歌詞にでかせぎ、岩木山が出てくる。美空ひばりの「津軽のふるさと」「りんご追分」など数々の名曲にはりんご、岩木山が出てくる。
 青森県自体が詩の国なのである。

 初出誌は1994年5月22日~1995年2月24日号の週刊朝日に連載された。

 この中の「湖畔のシジミ汁」には名古屋市の出身で、城郭考古学を専門とする奈良大学教授の千田 嘉博氏の学説も引用されている。名古屋城の解体、木造化で揺れている昨今、千田氏の言動に注目が集まる。上物の更新だけに傾倒した行政の前のめりの姿勢を批判し、石垣の保全に目を向けさせる。

うつくしま百名山・半田山を歩く2019年05月19日

 朝7時過ぎ、朝食後に班分けをして29名が分乗。飯坂温泉福住旅館を出発した。ルートはナビ通りではなく、R4の東の農地を迂回するように走った。西に半田山の容姿が見えた。一番良い形のところを選んだのだろう。粋な計らいである。そうして半田山自然公園を目指した。
 公園への道は車でごった返していた。バスとの行き違いもありしばらく進めなかった。今日は山開きの日。その会場のPへ着くと想像以上に車が止まっている。もう歩き出していた。今日の参加者は500名という。さっきのバスも送迎だったのだ。
 登山口の林道終点まで走るが、狭い道にハイカーの行列が続くので注意深く走った。Pでさっさと身支度して出発だ。頂上へは比高300mもないからすぐだった。山頂へは参加者へバッジを渡すために渋滞していた。しばらく落ち着いてから登頂し、すぐ記念写真を撮って下山した。
 桑折町(かおり)の広報課のスタッフが記念写真を撮影中で、我々の記念写真のシャッターも押してもらった。下山後はPで解散となった。あっけない例会であった。しかし、語り草になりそうな登山ではあった。分乗者2名をJR桑折駅まで送って別れた。

 解散後はいったんR4を二本松市まで走った。安達太良山の麓をR459からR115へ走る。

 かつては30歳代の正月休みにJRを使って南東北の1等三角点だけを狙った変態的なスキーの山旅を思い出す。
 初日の男体山は強風で頂上直下で撤退、二日目は野岩鉄道で移動し南会津の七ヶ岳をスキー登山成功、3日目は鉄道で会津若松駅まで移動し、会津磐梯山のスキー登山に失敗、4日目は郡山駅から磐越東線で青谷駅へ移動し、スキー一式は駅に預けて、阿武隈山地の大滝根山に登頂するが、自衛隊の基地内のためフェンスの外から眺めるだけに終わった。
 さらにJR東北本線二本松駅の旅館で一泊後朝一のバスで安達太良山に向かった。最奥のスキー場からスキー登山で登頂した。これが3
つ目の成果だった。白河駅から三本槍ヶ岳を目指すもバスでPに降りた途端に道が凍結するほど寒気が厳しく、登山に挑戦することもなくすごすごと帰った。
 あの頃は登山技術も情報収集調査も不足して3座登頂、3座失敗の成果で終わった。男体山はその後グループで登った。磐梯山は5/17に雪辱を果たした。日本百名山は北海道で5座、東北で10座、関東甲信越で4座、関西で1座、四国で1座、九州で2座、未踏は合計23座になった。

 安達太良山はいかにもスキー向きのなだらかな山容が良い。大方雪は解けた。そんな馬鹿なことを思い出しながら典型的な山岳路を走った。R115は安達太良山の北麓を抜け出すと目の前に素晴らしい山が忽然と現れた。登ったばかりの磐梯山だった。磐梯の東から南へ回った。5/17に利用した道の駅にまた立ち寄った。
 最後は会津若松市の鶴ヶ城を見学した。駐車場から天守閣は見えず、場内に入ってから見上げた。名古屋城や姫路城をイメージしているからそのコンパクトさに拍子抜けする。松本城もそうだった。今の時代は市を睥睨するほどの威圧感は薄れた。場内には有料で入れるが外から眺めるだけにした。
 山本八重(新島八重)の和歌が展示してあった。何年か前の島津亜矢主演の「 御園座初座長公演 会津のジャンヌ・ダルク~山本八重の半生」を思い出す。Pの入り口には司馬遼太郎の文学碑がでんと構えていた。
 刻まれた言葉は「「歴史を紀行する」や「王城の護衛者」から抜粋した文章が碑に刻まれています。

『会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える。「歴史を紀行する」一九六八(昭和四十三)年より』
『容保が、京を戦場に死のう、といったとき、慟哭の声がまず廊下からあがった。この声は またたくまに満堂に伝播し、みな面を蔽って泣いた。
「君臣、相擁 し、声を放って哭けり」と、この情景を、劇的な表現で会津藩の古記録は語っている。「王城の護衛者」一九六八(昭和四十三)年より』

 このうちの松平容保は、美濃高須藩の出。帰ったら「街道をゆく〈33〉奥州白河・会津のみち、赤坂散歩 (朝日文芸文庫)」も読まなきゃ。

 その後、市内からナビに従い、R252に出て、福島県最奥部をドライブ。六十里越えトンネルを越えて新潟県へ、そしてR117から上信越道に入り帰名。鶴ヶ城見学に要した2時間分、帰宅が午前様になった。

まほろばの里から北蔵王・雁戸山へ行く2019年05月18日

 夜明けとともに目覚める。曇りがちだがまた晴れるだろう。名古屋で用意したうどんと豚肉、カット野菜を使って肉うどんを朝食にした。初夏になると食品が傷みやすいのでその日に消費したいもの。
 明るくなった高畠町内を走ると「まほろば」の語彙が目につく。青森を「北のまほろば」とネーミングした司馬遼太郎の「街道をゆく」のと同じだが旅の感動を表現したのに対し、地元の方は売り込みが強い気がした。しかし、これも歌人の短歌に基づいていると知って納得する。

 高畠町観光協会のHPには「まほろばの里たかはた
山形が生んだ歌人、結城哀草果は

「置賜は国のまほろば菜種咲き 若葉茂りて雪山も見ゆ」と詠みました。

山形県置賜地方の東部に位置する高畠の歴史は、縄文草創期の土器が発見された日向洞窟など、一万年前までさかのぼることができます。
そして、町内全域に広がる古墳群は、この地に人びとが定着し、次第に集落を形成してきた事の何よりの証となっています。

地味豊かな当地は、さくらんぼ、ぶどう、りんご、ラ・フランスなど、多くの果物が生産されています。

また、自然のおりなす山容も、蛭沢や観音岩に見られる当地方特有の凝灰岩の巨岩に恵まれ屹立する様態は、まさに「まほろばの里」にふさわしい景観となっています。

※“まほろば”とは、「周囲が山々に囲まれた平地で、実り豊かな住みよい所」の意」
以上
 ある観光サイトに「さて、「置賜」の地名が初めて記録に出てくるのは、持統天皇3年(689年)の『日本書紀』です。陸奥の国・優嗜曇郡の蝦夷が僧になりたいとの申し出を、天皇の詔により許可したと記述されています。優嗜曇は「ウキタム」、または「ウキタミ」と読ませており、承平4年(934年)頃に編纂された『和名類聚抄』では、「於伊太三(おいたみ)」の字があてられています。
 「置賜は国のまほろば」と詠まれたように、この地域は、豊かな土地であったと思われます。それは、この地に天皇領や摂関家、後白河法皇の領地(本所)であったことからも推測できるものです。置き賜う=興玉=オギタマ(伊勢の二見ケ浦には興玉神社がある。)という名前からも、当時の権力者は、条件の良い豊かな土地を自分のものにしていたと考えられるからです。
 さらにこの地方は、西東北における蝦夷と大和朝廷との境にあたり、国土防衛線の意味もあったと言われます。このことは、西東北地方における前方後円墳の分布においても、当地の南陽市に存在する稲荷森古墳の特異性からも伺うことができます。蝦夷集落を管理しなければならない最前線であったとすれば、置賜は「日置郡、置部(へきべ)」に関した名前とも考えられる。「へき部」とは、古代出雲族から出た氏族の名前であるが、その後役職名となり、「住民の戸数を調べる仕事で、税務と行政」を司る意味に使われるようになったと言われています。」紹介されている。
 思い付きで命名していることではなかったのである。司馬遼太郎の「街道をゆく」10の羽州街道にも置賜にふれている。 

 道の駅の接するR113からR13へ右折。置賜平野を北上する。山形市からR286へ右折。山形自動車道関沢ICまで良い道が続く。ICを過ぎると突然1車線の狭隘な山岳路に急変する。タイトなカーブは笹谷峠まで連続した。
 906mの峠に着いた。濃霧が景観を奪い、強い風が吹いている。駐車場は約30台から50台は入る広さがある。トイレもあって設備は良い。身支度後、登山口を探るが見当たらず、宮城県境まで歩くと道標があった。明確ではなく、何となく右へ下がってみたら、R286の県境ゲートの宮城側に出た。その先に小さく北蔵王と古い道標がありそれに従う。思い直して山形県境も探るが分からず。
 地形図では宮城県内から破線路が続くが山形県境も絡めながら歩くようだ。そのうち有耶無耶関跡なる道標のある場所に着いた。宮城県側からの沢道が上がってきている。さらに進むと登山道が錯綜している。笹谷峠側に少し戻ると三差路になり左折すると雁土山への道標になっていた。狐につままれたような迷走山路である。
 雁土山へ振ると見事なブナの森の中の山道になる。地形図にあるような緩斜面で高度は上がらず。4等三角点「八丁平」は見落とした。何分登山口から濃霧で見通しはきかない。登山道はやや傾斜を高めながらゆっくり登り始めた。足元の道は掘れこんでいるいるから利用者は多いのだろう。上に行くと残雪が道の溝を埋めている。
 中途で小休止。クマへの恐れから、ブナ林では休まず歩いたせいで大汗をかいた。登山口で厚着し、その上に雨がっぱも着込んだから当然だ。カッパを脱ぎ、厚めの上着も脱いで体温を下げた。そしてぐったりする疲労感に襲われた。
 濃霧も晴れて、前衛のカケスヶ峰へ登頂。360度の展望がある。雁戸山は名前の通り鋸刃のような山容である。疲労した体で蟻の戸渡のような危険個所は歩けない。往復1時間半はかかる。4時頃までに飯坂温泉へ行かねばらなず、少し急がないと間に合わない。カケスヶ峰で登頂を断念して関沢コース経由から笹谷峠へ下山した。
 こちらも同等のブナはないが、つるつるの滑りやすい登山道の状況であった。但し明るいのが幸いだ。峠が近くなると登山道がいくつかに分岐している。直感で電波塔?の方へ行くと舗装路になっていた。直進すると地元の高校の山小屋に通じていただろう。舗装路との連絡路もあった。登山口は駐車場からすぐの電波塔への舗装路の入り口であった。明確な道標ではない。名山ではあるがマイナーだとこんな扱いなのだ。
 小屋で一緒になった女性ハイカーに道々教えてもらった。今日は山形神室への手前のはまぐり山を往復したらしい。眺めが良く楽だとのこと。神室山は二つもあったのだ。
 駐車場で支度後、R286を下る。山形市内に戻り、物産展示場を見学。そこから仰ぐ雁戸山は立派な姿に見えた。R13で米沢市内まで戻り上杉鷹山関係の伝国の杜に入館(本日は無料)して鷹山の業績を学んだ。R13で福島の飯坂温泉に向かった。
 福島県境の手前で県道に右折。峠駅を見学に行く。奥羽本線は新幹線化されたが、かつてはスイッチバックで知られた。そこの名物の「峠の力餅」を買うためだった。ここも1車線の狭い山岳路であった。人気の秘境駅だったので今もドライバーが行きかう。
 峠駅は残っていた。今は山形新幹線の強力なモーターで牽引されて走り抜けてゆく。R13は西栗子と東栗子トンネルの2本を貫通させ、東北中央自動車道は長いトンネルを貫通させたというのに、ここは産業遺産めく駅を残した。
 R13を下るとあとは道草もなく飯坂温泉の旅館を目指した。摺上川に面した老舗旅館だった。玄関を入ると懐かしい会長らが待っていた。受付を済ませてようやく30名の会員仲間の一員になった。

会津磐梯山に登る2019年05月17日

 奥会津の朝は濃霧の中にあった。今日は観光か、と訝りながら車で出発する。R252は六十里越えから田子倉ダムまでは急カーブの連続する山岳路であった。只見ダムからここまで来ると橋とトンネルで直線的になり広くて走りやすい。会津坂本でR49に合流すると幹線道路になる。そして会津坂下(あいづばんげ)まで出ると盆地になった。ここからまたスマホのナビに従った。R49を離れて田園地帯の農免道路のような道を走る。すると左手に美しい雪山が見えた。何だろう、水田の鏡面に逆さに映るので堪らずに車を止めて撮影した。飯豊連峰と分かった。
 朝霧が晴れると前方には美しい磐梯山が現れた。狙ったのは隣の猫魔ヶ岳という1等三角点の山だった。磐梯山は果たして登れるのか。急斜面の登山道は雪で閉ざされてはいまいか。ナビは八方台駐車場の登山口を目指した。両方の山の登山口でもある。着いてみると標高は約1200m。まだ8時だ、1800mの磐梯山へは比高600m、2時間半の登りである。山麓からは僅かな残雪しか見えなかった。方針は磐梯山に決めた。登山口で登山届を記入して投函した。
 出発は8時半過ぎとなった。美しいブナの森から始まる。中に小池が見える。沢は雪解け水が流れる。小鳥の鳴き声が美しい。夢のようなブナの森歩きを抜けると中の湯跡に着いた。温泉宿は廃屋で周囲には硫黄臭が漂う。ここから雪に覆われた登山道をゆく。とはいえ、潜ることはない。急な尾根道になる。山腹を巻くようなアップダウンもある。1640m弱の弘法清水小屋に着く。残雪の中からでも文字通り清水が沸いている。一杯飲むとうまい。雪解け水ではない。小屋に行くと女性の小屋番がおられた。こんな平日でも営業中なので百名山ゆえか。
 小屋から山頂まではほぼ一直線の急登である。しかも雪で曲がった枝が邪魔をする。難儀を強いられる。断崖のヘリを登るとすぐ山頂だった。11時ジャストなので休みを含めても2時間半程度。
 岩のゴロゴロした山頂であった。展望は360度。改めて飯豊連峰に目をやる。檜原湖などの湖が俯瞰される。山麓は高原性の平地でGWまで雪の平原だったと思う。目の前は残雪の飯森山、もうわずかな残雪の西吾妻連峰、一切経山が見える。真東は安達太良山、真南は那須連山だ。日光連山も視野に入るが見慣れない山々なので同定は難しい。会津は名山に囲まれた盆地であった。
 展望を堪能すると後は下山のみ。小屋に寄ってコーヒーを飲んだ。水のせいか、大変美味しい味がした。清水をペットボトルに詰めて往路を下った。登山口へは2時間もかからず、1時45分だった。
 帰路はR459で喜多方市へ行く。小屋で教えてもらったラビスパ裏磐梯に入湯した。JAFカード提示で50円引きの470円だった。R121で右折して米沢市へ向かう。大峠トンネルを抜けると米沢市であった。快適なR121であった。いったんは米沢市中心部をうろつくが、上杉神社など上杉氏関連の施設が目立つ。念願だった普門院をスマホに打ち込んだ。普門院は上杉鷹山が敬師と仰ぐ学者で細井平洲を迎えた名刹である。米沢市南部の山際にあった。奥羽本線関根駅にも近い。かつては福島から奥羽山脈の板谷峠を籠に乗って越えてきた最初の休み処であった。
 普門院の山門の前に愛知県東海市が寄贈した鷹山と平洲の出会いをモチーフにした人物像である。同じものが東海市の太田川駅前にもあるという。平洲を介在して友好都市になっているという。
 訪問すると自宅を訪ねよ、という案内があるので、「愛知県から来ました」と告げて、訪ねると和尚さんが出てこられて説明してくれたりして付き合ってくれた。東海市からも来たらしい。さらに平洲お手植えの椿も撮影して置きなさいと勧めてくれた。短時間だったが楽しい時間になった。普門院を辞した後は新しい道の駅へ行ってみたが、車が多すぎることと往来の多そうな道路に面しているのでスルー。
 遅くなったので、夕食は外食にした。米沢牛が有名であるが単価が高いのでジンギスカンにした。ビタミンが多いので疲れた体には良いだろうと。白味噌で味付けした羊肉とキャベツをかぶと型の鍋で焼く。味噌の下味がうまい。コメどころのご飯は肉以上にうまい。白味噌の味噌汁もうまい。1700円。
 夕食後はすっかり日も暮れて高畠町の道の駅に行く。ここは閑散として寂しいほどだったが車中泊には最適だ。カエルの合唱も気にならない。何しろ磐梯山に登れたのだ。

みちのくの山へ~名古屋から道の駅奥会津「かねやま」へ2019年05月16日

 出発の5月16日は松尾芭蕉が奥の細道に出立した日と同じになった。旅立ちの気持ちは日常を離れる寂しさと未知への期待感が混ざり合って落ち着かない。奥の細道の冒頭の一節「予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」の気持ちである。

 朝6時半、自宅を出発。ナビに従い、R302からR19へと走る。その後は高速道路に入らず、日が暮れるまで走った。6時になり、新潟県入広瀬の道の駅で打ち切ろうかと考えたがまだ明るい。スマホでチエックすると何とか7時過ぎに福島県最奥の道の駅に着けそうだった。
 入広瀬は以前に浅草岳、黒姫守門のスキー登山で来たことがある。それから先は未知の領域である。六十里越えのつづら折れの道はタイトなカーブでゆっくり走らされる。トンネルを抜けてからも断崖絶壁の上に刻まれた道路を走った。田子倉湖の彼方の多分会津朝日岳が素晴らしい。雪が解けてようやく春を迎えたような山村をひた走る。
 ここは並行する只見線も復旧していない。あるブログに「只見線は会津川口-只見間で大雨の被災による不通が続いており、その区間では代わりにバスが運行されています。そんな運休区間の存在やその先の1日3本しか列車が来ない区間」があるそうな。
 ともかくも名古屋から1日で、高速道路を利用せずとも、福島県最奥の道の駅まで来れた。広いPにはトラック2台、ハイエース1台だけであった。ここで車中泊した。
 途中、蒲生岳登山口などを見た。南会津郡は知られざる低山の宝庫である。
 うつくしま百名山という選定があると知った。
「うつくしま百名山(うつくしまひゃくめいざん)は、1998年(平成10年)に福島テレビが開局35周年を記念して選定した福島県内各地域を代表する名山。選定委員長は福島県三春町出身の登山家・田部井淳子。その最高峰は標高2,356 m の燧ヶ岳。」
 会津、中通り、浜通りと三区分された。
会津は「西吾妻連峰(百)(東北)(新)
川桁山
磐梯山(百)(東北)(新)
雄国山
猫魔ヶ岳・厩岳山
大仏山
飯森山・鉢伏山
飯豊連峰(百)(東北)
鏡山
高陽山
黒森山
鳥屋山
須刈岳
飯谷山
三坂山
本名御神楽(東北)
惣山
白鳳三山
背炙山
大戸岳
明神ヶ岳
志津倉山
博士山(東北)
小野岳(東北)
中山
斎藤山
御前ヶ岳
金石ヶ鳥屋山
高森山
蒲生岳(東北)
浅草岳(三百)(東北)・鬼ヶ面山
会津朝日岳(二百)(東北)
唐倉山
七ヶ岳(三百)(東北)
荒海山(三百)(東北)
佐倉山
大嵐山
田代山・帝釈山(二百)(東北)
三ッ岩岳(東北)・窓明山
会津駒ヶ岳(百)(東北)・中門岳
燧ヶ岳(百)
以上。既登は5座のみという希少性の高い領域である。

 乙川優三郎の力作小説『脊梁山脈』の中に「私は福島の浜通りです」というセリフがあった。中通りは阿武隈山地と奥羽山脈にはさまれた地域、浜通りは阿武隈山地と海に面した地域をいうらしい。中通りは数では互角だが山の深さが違う。
 司馬遼太郎も地名のもとになった近江出身の蒲生氏郷について書いている。そこを読みたい。

パッキング2019年05月15日

 明日からまた三泊四日で東北の山を歩くのでパッキングをする。車内を整理する。東北では念願だった山形県米沢市に行くこととした。

親不知で道草食いながら帰名2019年05月06日

 長かった十連休も最終日となり、いよいよ帰名の日。新潟県の名立の道の駅を出て、R8を走る。念願だった親不知に寄った。小さなホテルが断崖にへばりつくように建っている。旧道を歩いてさらに古い道のレンガのトンネルまで往復してみた。かなりな難所だったことはひしひしと伝わってくる。
 戻って、栂海新道の登山口もチエックした。ここから白馬岳まで続く登山道の出発点であった。旧道の東屋の前に栂海新道の開拓者の小野健氏の顕彰銘板があったのはその功績を讃えたものだ。ウエストンの胸像がありともに北アルプスのよき紹介者である。
 続いて気になっていたのは芭蕉句碑のある市振の長圓寺だった。奥の細道の道中で詠まれた俳句の句碑がある。ここにも立ち寄った。
  一つ家に 遊女も寝たり 萩と月  松尾芭蕉

 そして最後は朝日町のたら汁街道を走る。朝7時40分前に栄食堂に着いて入店した。たら汁を注文した。中くらいの鍋に鱈がぶつ切りでみそ仕立ての汁になってでてきた。元は漁師の船上の料理だったが、家庭料理になり、お客に出すと喜ばれて観光客にも出す名物料理になったという。味噌の味が体にしみわたる。久々の手料理に舌鼓を打った。
 入善町では高瀬の湧水群に寄った。近所の人らがたくさん来て2リットルのペットボトルに水を詰めていた。水のポリタンクに10リットルほど汲んだ。料理に使うためだ。
 その道筋の生地魚市場にも寄った。日本海産の鮮魚が売られていた。蟹ずしを買った。こんな市場があるところは良い。すべての気になる要件は済ませたからあとはR41で帰名するだけになった。スマホのナビは常願寺川沿いに富山市街を迂回する道を選んだ。そして八尾町の笹津のR41に出た。猪谷でR360に入り宮川村を通過する。また古川町でR41に合流。古川の道の駅で車内の大整理。
 R41で高山市内を通過。宮峠を越える。R41に高山線の宮トンネルに平行するトンネルの工事が始まっている。美濃加茂市、可児市と走る。犬山市まで来ると突然天地が裂けたような稲光が走った。そして大雨になった。
 最後まで有料道路は使わずに走り切った。走行距離は2750kmになった。往路が900km、5/4に八甲田山を出発時に1700kmで青森市内は800km走った。帰路は差し引き1050km走った。大いなるグランドツーリングだった。

日本海を見ながらドライブ2019年05月05日

 青森県の碇ヶ関から秋田県潟上市の道の駅「しょうわ」に入ってまた仮眠した。国道から少し入るので騒音はない。明るくなってまたR7をひたすら南下する。基本的にはR7、新潟からはR8であるが、なるだけ海沿いの国道を走った。渋滞はほとんどなくて快適だった。帰路も鳥海山、月山を眺めて素晴らしかった。
 新潟県に入ってからのR345、R402は景色が良い。R352,再びR8を行き、5/5の夜は道の駅「うみてらす名立」で車中泊とした。

残雪の八甲田山を歩く2019年05月04日

 朝4時過ぎ、目が覚めると周囲には結構な車の台数が埋まっていた。夜遅く着いたのだろう。近隣の県ならそれでも良い。ここでも岩木山と同様に山スキーヤーが非常に多い。春の八甲田山は色んな変化のあるコースがあって、春スキーのメッカともいえる。
 さて、朝食後に、出発の準備をする。残雪が多いので重登山靴を用意した。ところが、靴底が壊れてゴム底がはがれるというアクシデントがあった。出発前で良かった。以前から水の染み込みが早くなったのは靴底の革が割れていたためだった。そこで無雪期用の登山靴に履き替えた。これだとアイゼンが使えないがやむなし。
 食料、水、衣類などパッキングに念を入れてロープウェイ駅まで歩く。白神岳では軽ピッケルにした。岩木山では冬用のピッケルを使ったがここではストック2本とした。
 ロープウェイはもう稼働していた。観光客が多いので臨時便を出したのだ。2番目の箱に乗れた。終点で降りると一面の雪の平だ。1326mの建物のあるピークを緩く越す。すると地形図では湿地帯になっているが今は一面の雪の平に下ってゆく。しかし、長い竹の棒が赤倉岳の登山道につながって刺してあるので万一ガスられても迷うことはない。数名から10名以上の山スキーヤーのパーティの後を追うようについてゆく。雪面が少しは固くなるから楽だ。
 こうして赤倉岳を登ったが、スキーヤーとはルートが違うために、途中から藪を漕いで、登山道に出た。そして1527mの井戸岳を経て1440mの避難小屋に下る。比高144m登り返すと八甲田山の最高峰の大岳に登頂。1等三角点がある。意外にも登頂者は少なく5名くらいか。あれだけいたお客はほとんどが観光客であり、山スキーであった。ツボ足で登頂だけを目的の登山者は少ないのだった。
 展望の広大さはいうまでもない。岩木山と違って広さがある。これゆえに大規模な遭難事件が起きたのだ。ほぼ南に予定していた戸来岳の三山が見える。確かではないが、階上岳も視野に入っているだろう。しかし、もうこれで良いと満足し、明日は帰名することとした。
 滞在15分で下山した。元来た道をたどった。往きは2時間半、帰りは2時間くらいか。またロープウェイで下る。
 帰路はスマホのナビがR103、R394,R102,R454、R7とつないだ。道の駅「碇ヶ関」で車中泊とした。ここには温泉がありありがたく入湯した。ところが、夜になって国道沿いの騒音の激しさがきになり眠れなくなった。それで3時間ほど睡眠後の11時半にまたドライブになった。