三遠研の研究発表会2026年08月30日

 午後から新城市市民文化会館で研究発表会がある。今回は自分も松平往還についての若干の知見をまとめて演壇に立たせてもらった。PCのプレゼンのソフトに「ようこそ松平往還へ」を入力。25枚の画像にまとめた。地図、写真、文書だが40分の時間で話しきるには長すぎても短すぎてもダメだ。というわけで核心部を抜粋してみた。皆さんに伝わっただろうか。
 会場へは会員29名、一般6名、新入会者2名とまずまずの成果があった。『研究輯録』の創刊号から最新号まで40冊売れたと担当者が喜んでいた。
 今まで死蔵していたバックナンバーが捌けたわけだから資金的にも余裕が出て助かる。会員が増えて盛り上がっていた時代と違って今はどの結社も右肩下がりの時代だ。俳句雑誌の一角を占めていた雑誌の廃刊が伝わってきた。出版社も大変な時代だ。かといって時代のせいにはできず、乗り切るには知恵がいる。

プレゼン「ようこそ松平往還」へ2026年08月29日

 昨夜は事務所の冷房をガンガン聞かして入力に挑んだがデスクに向かう勢いは得られなかった。今夜はもう最後だと腹をくくって入力にかかった。
 タイトルは
1「ようこそ松平往還へ」で良い。サブは「人質になる前の8歳の松平元康こと徳川家康も歩いた古道」。
2概説、
3松平往還の現状
4磯谷栄一『消えゆく松平往還を歩く』は種本として紹介
5岡崎城から大樹寺総門、高月院へのGPSの軌跡。約20km
6大樹寺総門の写真
7各論として岡崎城から滝山寺へのGPSの軌跡
8大樹寺総門とビスタラインの説明
9米河内からヤゲ川越えの写真
10米河内の説明
11渡通津峠の写真
12渡通津のGPS
13駒立から日影町へ
14瀧脇村の石御堂の写真
15石御堂の祠の写真
16首謀者の松平辰蔵の話
17松平辰蔵の墓の写真
18加茂郡村々百姓騒立諸事日記の紹介
19松平周辺のGPS
20高月院の写真
21松平周辺の往還の説明
22松平親氏の立像の写真
23ご清聴ありがとうございました。

何とかプレゼンの準備ができて就寝できた。

役員会に出席2026年07月22日

 暑熱に焼かれそうな名古屋を後にR153からR301へ来た。旧下山村まででも34℃の高温だが40℃に比べるとマイナス6℃とかなり低い。標高差で1000m分の温度差になる。100mに付き0.6℃下がるという理論値からの推測である。
 試みに窓を開けて走ったが外の気温はやはり高く窓を閉めてエアコンを効かせながらの走行になった。ほとんどゴーストップがないから効率は良い。作手村の道の駅で一休みするともうそんなに余裕はない。
 R301から新城市のR155の手前で県道21号に右折。しばらく本宮山山麓を走って登山口に近いところから一宮生涯学習センターへ向かう。13時20分とぎりぎりだった。
 地元の役員らはすでに着席していた。当面の予定の事業に付いて話し合った。8/30の研究発表会では新人の壁谷善吉氏が城跡の石の研究成果を発表される。中日新聞等にも取り上げられて地味な研究が脚光を浴びつつある。

 東日新聞の記事から「吉田城石垣は蒲郡産
25年にわたる調査名古屋城残石説に壁谷善吉さん異論/西浦半島などから切り出し船で直接運搬か」
「名古屋城や吉田城の石垣について長年調査している蒲郡市元職員の壁谷善吉さん(75)は、吉田城(豊橋市)の石垣の一部は蒲郡市の西浦半島などから切り出され、船で直接運ばれたものだとする説を発表した。吉田城の石垣は名古屋城の築城に使われた石の残り...」
2021.12.26

 中日新聞の記事から「岩に池田輝政の刻印? 蒲郡で発見、吉田城に運んだか」2026.5.21
「城郭に使われた石を研究している蒲郡市西浦町の郷土史家壁谷善吉さん(79)が、西浦温泉近くの海岸で豊橋市の吉田城主だった池田輝政とみられる印が刻まれた岩を見つけた。
 ノミで岩を削った跡をたどり、海岸から少し高い場所にあった花こう閃緑岩に「池田三左門 慶長16(1611)年3月」と読める刻印を確認した。「三左門」は池田輝政の通称「三左衛門」を示すとみられる。2012年にも近くで「三左」の刻印が見つかっている。
 豊橋市教委によると、1622(元和8)年に完成した吉田城の本丸御殿では、石垣に西浦町の石が使われたことが分かっている。壁谷さんは西浦半島の海岸部や山間部で多くの刻印を発見しており、「池田輝...

引用以上
 帰路はR1で帰名する予定で、豊川市の赤坂陣屋跡に寄ったが暑いのでちらっと見ただけである。涼しくなったらまた来たい。R1の交通量はかなり減って随分通行がスムーズになった。多分R23の全通の効果だろう。

プレゼン20162026年05月20日

 昨日は朝早くからミニハイキングと新城市での定例会の出席もあってか、疲労感が抜けなかった。
 定例会では次期研究発表会をどうする、となり、「松平往還」をまとめるいい機会なので手を挙げた。8月末までに形のあるものにする。
 さてその方法はパワポの活用であるがいままで使ったことがないし、ソフトも持っていない。書店で探して1冊は購入。ネットで探ったが本格的なものは結構高い。
 そこで思い出したのが中古PCに予めインストールされているプレゼン2016というソフトがパワポの互換性のあるソフトであった。これを活用することにした。参考書はパワポで代用すれば何とかなりそうだ。

三遠研の総会2026年04月18日

 午後からの三遠研の総会まえに岡崎市日影町の松平往還の寸断された現地を三度訪れた。前回は気が付かなかったが、セメントの山路を登って少し周囲を探ると、左の谷側は山田があったと思われる。石垣でパイプがあるので昔は水田耕作をしていた。右の尾根側は狭い平地になって山家が建っていたと思われた。意味不明の3m位の空の穴があった。これはきれいなので井戸の跡か、池か。竹が枯れて踏みしだく。
 道路側を覘くとセメントの溝があった。登り口からセメントはすぐ終わる。右へセメントは続いていたが急で滑りやすいので先へ行くのは止めた。想像すると道路拡張工事で削り取った断面は崩壊しやすいので上部にセメントで固めた溝を作り、排水溝にしたのではないか。そして、真ん中辺りに流れるように傾斜をつけて、道路側へ排水路を作ってある。垂直に近い排水路の意味が分かった。また松平往還の上にあって移設された馬頭観音というものは実は普通の観音の石仏だった。
 午後は新城市で総会の後、深溝松平家の歴史話の講演を拝聴。内容は予備知識がないので半値半壊で終わった。しかし深溝松平の日記は一般に文庫本になって売っているのでそんなにとっつきにくいことではない。講演者もまだ若いのでこれからだろう。地域史を深めると面白い。
 総会後、豊川ICから岡崎ICまで高速を飛ばし、岡崎市図書館で松平往還と加茂一揆の史料に当たった。特に集められていることでもない。というのも徳川家康が政権をとると江戸に移って岡崎城の城主は徳川以外が守った。但し松平家の分家は三河一円に多く存在したから折々歩かれたであろう。
 ネットから主要な松平分家(十八松平)の一覧
「十八松平」の数え方には諸説ありますが、代表的な分家は以下の通りです。
1 岩津松平家(いわづ):松平信光の長男・親長が祖。初期は一族の中で最も勢力があったとされる 。
2 竹谷松平家(たけや):信光の子・守家が祖。宝飯郡竹谷(蒲郡市)を拠点とした 。
3 形原松平家(かたのはら):信光の子・与副が祖。形原城(蒲郡市)を拠点とした。
4 大草松平家(おおくさ):信光の子・光重が祖。額田郡大草(幸田町)を拠点とした。
5 五井松平家(ごい):信光の子・元心が祖。宝飯郡五井(蒲郡市)を拠点とした。
6 深溝松平家(ふこうず):光重の子・忠定が祖。額田郡深溝(幸田町)を拠点とした。
7 能見松平家(のみ):信光の子・光親が祖。岡崎市能見付近を拠点とした。
8 長沢松平家(ながさわ):親忠(安祥家)の子・親則が祖。豊川市長沢付近を拠点とした。
9 大給松平家(おぎゅう):親忠の子・乗元が祖。豊田市大給城を拠点とした。
10 滝脇松平家(たきわき):親忠の子・乗清が祖。豊田市滝脇を拠点とした。
11 福釜松平家(ふかま):親忠の子・親盛が祖。安城市福釜を拠点とした。
12 桜井松平家(さくらい):親忠の子・信定が祖。安城市桜井を拠点とし、一時宗家と対立した。
13 藤井松平家(ふじい):親忠の子・利長が祖。安城市藤井を拠点とした。
その他の主な松平家
14 松平郷松平家:松平氏発祥の地(豊田市松平郷)を守り続けた家系 。
15 大河内松平家:名知恵・松平信綱を祖とする。三河吉田藩(豊橋市)などを治めた 。
16 久松松平家:家康の異父弟・定勝を祖とする家系(伊予松山藩や桑名藩など)

 AIの概要は「岡崎城の歴代城主は、西郷氏の築城(1455年頃)から廃城(1871年)までに、主に松平・徳川氏や格式の高い譜代大名など26人が務めました。最大の特徴は徳川家康の生誕地であることで、家康以降は江戸幕府の神聖な場所として、本多氏、水野氏、松平氏の有力譜代大名が入れ替わりで城主を務めました。

主な歴代城主・関係者
西郷頼嗣(稠頼):初期の築城者
松平清康:1530年頃、城主となり松平氏の本拠地とする
徳川家康:1542年誕生、桶狭間の戦い後に独立し本拠とした
松平信康:1570年~(家康の長男)

 ここから後は必ずしも先祖の墓参りの道としての意味は無くなった。(筆者注)
田中吉政:1590年~(家康の関東移封後)
本多康重:1601年~(本多氏系、譜代)
水野氏:1645年~(水野忠善など、譜代)

江戸時代は、本多氏や水野氏、松平(松井)氏など、徳川家に近い大名が転封を繰り返しながら守りました。」以上

 当時は塩の道として発展した足助街道(現在の県道39号線)に重きが移ったと思われる。

三遠研役員会2026年04月02日

 午前中は早めに出発。県道58号で岡崎市日影町に行く。松平往還の出入り口が不明瞭なので再度現地調査である。案内書を読みながら現地を観察。3/15は迷いながらもなんとか往還の道につながった。結局、よく読むと県道が拡幅されて削られてしまった。鍋蓋のような道路を山を削って直線的に切通しにしてある。見ただけでは分からないわけだ。
 この際県道338の旧道も走って見た。郡界川沿いの一車線の細い道だった。二畳ヶ瀧も見えたが降水後で濁っていた。どこまでも行くと奥殿陣屋の三差路へ出た。一周したわけだ。また瀧脇を経て林夫添のR301の信号に出て新城に向かった。 
 午後から新城市民文化会館で役員会を開催。4/18の総会の段取りを話し合う。

与良木を走る2026年02月26日

 午後から新城市文化会館で会合。早めに出て、R153、R473、R420、R257から道の駅したらへ行く。天神山を歩いて見たかったがゆっくりもできないので又与良木トンネルを越えて与良木を走った。前回は急な左折をパスしたためにR257へ出る市道を走ったが古道の面影はなかった。
 今回は一旦パスして、やや広いところでUターン、やっと与良木の村落に入れた。赤い梅が満開だった。但し道路幅は4ナンバーでも一杯、しかも急坂だった。地形図の実線の道に入ろうとしたが、登りが急すぎて元の道にバック。すると後輪が空回りする。4駆に入れて脱出。その先でもヘアピンがあり一回では通過できなかった。
 後日下の道に車を置いて歩いて見たい。今回は後期伊那街道、先回は前期伊那街道になる。いずれも田口で合流する。一般道の崖にはかつての塩の道の馬頭観音がいくつも組み込まれて面影を残している。
 R257に出て新城市文化会館へ。4/18の総会へ向けて会の大綱を話し合った。新役員、規約の見直し等。帰路はR301.県道20.R1.県道39、同56を経て帰名。

研究発表会2026年02月07日

 午後から新城市で研究発表会。午前中に設楽町の古道を歩けないか、と考えていた。咳が酷くて就寝が遅れてしまい、起きるのも遅くなった。そうではあるが道の駅したらを目指して走った。R301からR420に入ると途端に交通量が減る。多くはないが雪も残っている。R420に合流してR257へも同じで閑散として山路を走るとR257だ。道の駅したらはすぐだ。
 観光コーナーの案内所にあったパンフには清崎の里山である天神山が紹介されている。ちょっと歩いて見ようか、と車を向けたが道標はないし、地元のおじさんに聞くが整備はされていないらしい。時間も11時になり延期した。与良木峠を越えて海老へ走った。結果、稲目トンネル寄りの町道を走ったらしい。道中に石仏などの昔のよすがを示すものはなかった。
 標高点182mから下って信号で左折、清水川に沿う道を遡って・216地点で左折すると旧街道になるようだ。またの機会に歩きたい。
 設楽から約30km、30分で新城市。1時間弱あるのでコメダで喫茶を楽しむ。会場入り。
 テーマは東栄町の花祭りの話と豊橋市牟呂地区の相撲神事の研究が発表された。
 花祭りは天竜川水系だけに伝わる民俗芸能であるが、伊勢神楽の流れをくむという。2回ほど見学したことがある。
 花祭りの研究者は『御杣山』の小冊子を頒布されたので1冊購入。伊勢神宮の遷宮の歴史で1回だけ奥三河の「設楽」から御用材が搬出されたというのだが謎に包まれている。それを掘り下げる研究者が居て、継承している人なのである。いずれも豊川に筏を組んで鉄砲流しのような方法で三河湾に流したと思われる。その山は鴨山という説がある。一方で自分の推測ではあるが、鷹ノ巣山から澄川を経て豊川へ、きららの森から椹谷を経て豊川へと。夢のある研究である。
 相撲神事の伝わる豊橋市牟呂は和歌山県にも同じ地名がある。朝鮮文化につながる。日本民俗学の草分けの菅江真澄も牟呂の出身である。
 帰路はR301を経て帰名。エンジンは快調だ。これだけ信号のない国道のドライブはディーゼルエンジン車には快適である。

新城市へ~創業は易く継続は難し2026年01月27日

 午後から新城市で役員会に出向く。午前中は風邪のせいか、少しもたついてしまった。10時45分に出発。往きはR301で直進、スムーズに走れたが出発が遅いのであまり余裕がなく、いつもはトイレ休憩する作手の道の駅もパス。途中では道路工事も2ヶ所あってますます余裕がない。そのまま会場へ直進、13時15分に到着。
 会議内容は運営の事務的なことがらに終始。山岳会でも短歌会、俳句会でも少子高齢化と財政難はひたひた押し寄せて来る。山岳会の上部団体は約50年前で90団体あったが今は40団体と半減した。40歳代で在籍していた名古屋市と東三河にまたがる老舗の短歌会は何年か前に解散、名古屋市の俳句会も早くに解散している。今所属の富山市に本部がある俳句会は100年前に創立したが少人数でも継続している。
 1 人数が多い
 2 資金力がある
 3 変化に対応できる
のうち、1と2は組織力、もっとも重要なことは3である。氷河期が来て恐竜、マンモスは滅びた。氷河期の生き残りといわれるのは岩魚、雷鳥、ヒカゲノカズラ、カモシカなど。エサは豊かではないし生息環境もよろしくない。だからライバルは生きられない。知恵を出して生きて行けるか。
 帰路はR301ではなく、R257,R420と足助経由で帰名。

「永正三河大乱ゆかりの岡崎岩津地域」散策秋の研修会2025年11月29日

 9/6の「永正三河大乱」のテーマで研究発表会を開催、講師はI氏。受講生は37名と賑わった。今日はどの実地研修の日である。21名が1台のバスで乗り合い岡崎の岩津天神のPに集合。

 あらまし:1467年の応仁の乱以降の乱が地方にも及んで三河も戦いがあった。そんな複雑な内容の話を立て板に水を流すごとく解説。その時は予備知識が無いのでさっぱりついていけなかった。当方は司馬遼太郎の『覇王の家』で松平親氏の話、同『徳川慶喜』で最後の将軍を読んでいた。水戸光圀は水戸学でかじった程度。
 当時のレジュメから
1 永正三河大乱の背景
      ~京における混乱の影響~
2 永正三河大乱における戦い
a今橋城の戦い→永正三年(1506)
b岩津合戦→永正五年(1508)
  今川、東三河連合軍VS松平親長、岩津松平氏
※奥平氏率いたのは奥平貞昌
※戸田氏率いたのは戸田堯光
◎今川氏の目的は

そもそも三河を手に入れる事ではなかった

京に復帰した、義材(足利義稙)に接近した本家、吉良義信が松平一族
の動きを封じたかったから、今川氏親へ遠江守護を確約し、義材の命令により、今川軍を動かしたいという狙いがあったから

3 今川氏はこの戦いで何を得たのか
以上

 岩津天神に参拝。バスはPで待機。徒歩で東名高速を跨ぐ橋をわたるとすぐ右手の竹藪のこんもりした盛り上がりが岩津城址である。岡崎市の観光資源にもなっている。そうかといって過度な案内の林立する観光地風ではなく、素朴な雰囲気のまま保存されている。ここに松平信光らが岡崎平野への進出の機会を伺いながら居城としていた。竹林が無ければ矢作川以西の平野が見渡す限りに見えるだろう。
 次は信光明寺である。松平信光らの墓を今に伝える。ここも観光寺ではなく、おカネを落とす仕掛けもないから閑散としている。歴史の愛好者が居ないと何も分からない。その次は円福寺であるが信光明寺の墓をここに移したとかいう。説明板があるわけではないから資料を読んでふむふむとその場では分かった積りになる。
 そして近くの飲食店で会食となった。食後は奥殿陣屋へ移動。そこはなんと村積山の北麓だった。
AIの概要
「奥殿陣屋(おくとのじんや)は、愛知県岡崎市にある奥殿藩(おくとのはん)の陣屋跡地を整備した公園です。徳川家康の祖先である大給松平家の本拠地として栄え、その歴史と文化を伝えています。現在は「花園の里」として知られ、書院や日本庭園、資料展示室などが整備されており、季節の花々や史跡、抹茶などを楽しめます。
奥殿陣屋の概要
歴史:1711年に松平盛実によって開かれた奥殿藩の政治・行政の中心地でした。
立地:徳川氏発祥地である松平郷の近くにあり、持統天皇が命名したとされる「花ぞの山」の麓に位置しています。
現在の姿:陣屋跡地が公園として整備されており、当時の建物の一部(書院など)が復元されています。」

以上で解散。
豊田市松平郷から山間の地を抜けて岩津の地へ。そして安城へ、更に岡崎へと進出していった。
 ①松平親氏→②松平泰親→③松平信光→④親忠→⑤長忠→⑥信忠→⑦祖父・清康→⑧父・広忠→松平後に徳川家康