忘年山行1霊山を歩く2019年11月30日

 朝8時過ぎ、私、M野、K,M本、T、I島の6人が集結し、金山駅前を出発。9時過ぎ亀山PA着。ここでIさんとSさんに合流し8名になる。東名阪高速を出て名阪国道(R25)へ行く。快調に飛ばして伊賀(柘植)ICを出る。スマホのナビで地理勘もなく霊山寺へ導かれる。
 霊山寺には数台の先行車が止まっていた。手軽なハイキングの山である。私たちも支度して出発。境内の長い階段を登ると本堂の横の大銀杏が黄金色に輝くような黄葉が素晴らしい。一度も吠えず老犬が見守ってくれる。登山道は左へ少し下った林道である。
 林道の終点から杉の植林の中の登山道が始まる。というより参詣の道だろうか。200mごとに号数が増える。とにかく異口同音に寒いと訴える。中腹まで登ると温まり一枚脱ぐ。
 中途には寺院遺跡のような名残りの名前がある。山頂直下には湿地帯もあったから夏は僅かでも湧水があるのだろう。山岳霊山が成立するには水源が大きな条件になる。

 伊賀上野観光協会のHPには霊山寺は「創建は古く、霊山山頂(765.8m)には、平安時代〜江戸時代にかけての一大寺院跡(面積11,200m2)があります。奥之院には、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)(延宝3年〈1675年〉)を安置し、石造台座には永仁3年(1295年)5月10日の銘があります。
 その後、霊山寺は現在のように霊山中腹に再興され、天台宗より黄檗(おうばく)宗に改宗されました。
本尊、十一面観世音菩薩は寄木造で、像高1.8m、江戸時代初期の作です。ほかに普賢(ふけん)菩薩や、平安時代の銅鏡が保管されています。」と約700年の歴史を誇る古刹である。

 山頂へは雑木林に変わった辺りから緩やかに登り石段を登ると萱とのの平らな山頂だった。南西の隅っこに一等三角点が埋まっていた。経塚を中心に塁が築かれている。そこに腰を下ろして休む。寒いのでやることもなく早々に下山した。
 本堂では俳句の投句箱があったので2句を即吟で投句しておいた。滋賀の大津市で4句、今日で2句と投句した。果たして結果は如何に。
 ゲストハウス関ロッジに行くにはまだ時間が早いので芭蕉公園を散策した。芭蕉は韜晦したので生まれた家、場所も定かではないらしい。そこで上野市は生家を具体的に挙げ、ここ柘植町にも生誕地を訴えます。
 観光資源になるほどの大物は違います。
 案内板には
「俳聖松尾芭蕉翁は、1644(正保1)年に伊賀国柘植郷拝野の里(現在の三重県阿山郡伊賀町大字柘植町)松尾儀左衛門の二男として生まれました。翁を偲び毎年11月12日に松尾家の菩提寺である萬寿寺などにおいて、しぐれ忌が開催されます。また、伊賀町内には句碑や像の他に、生誕地の碑・生誕宅址碑等が建てられ、翁の遺徳を讃えています。」
 園内には有名な

「古里や 臍のをに泣く としのくれ」

という、芭蕉が親不孝を詫びて詠んだ句碑が建っていました。旅の途中で訃報を聞いたにも関わらず死に目にも会えず、葬儀に来れなかった。兄からこれが母が大事に持って居たお前の臍の緒だと渡されて泣いたというのである。

その後、伊賀IC近くのレストランで蕎麦を食べて温まりました。そろそろ時間と関ロッジへ向かいました。このところ数年は常宿みたいになりました。自炊ながら風呂、布団もある立派なお宿です。
 今日は新人2名も含めて15名もの盛会になりました。かつては旧人ばかりだったこともあり10名前後で推移してきました。もう1名の新人候補もいたのですがあいにく風邪でドタキャンになりました。鋤鍋を囲んで今年の反省や来年の抱負など語らいました。例年になく充実した忘年山行になりました。その一方では70歳代後半から80歳代の3名の古参会員の退会を聞かされたので喜びも半ばですが。

三ッ口谷を遡行し鈴鹿・鎌ヶ岳へ2019年06月23日

 久々に鈴鹿の沢登りを楽しんだ。ルートは三ツ口谷を遡行して鎌ヶ岳に登頂するというもの。メンバーは4人。金山駅前を7時に出て、白川で1人拾う。後は一路菰野ICへ走る。約50kmでもう登山口に着く。その間PA,コンビニはなく、直行になった。
 スカイラインのPには誰もいないのは降雨の予報から出控えたか。入った記憶はあるがもう20年以上前のことで細かい記憶にはない。なるだけ沢身に入るように遡ったが、登山道も適宜歩いた。詰めの手前で長石尾根に上がり登頂する。山頂もいつもと違って単独行が2名いただけ。
 アマテラスに参拝後、滑落に神経を使いながら下山した。幸いに名古屋まででも降雨はなく予報は外れた。ラッキーだった。

鈴鹿・霊仙山を歩く2019年04月07日

 朝6時30分に出発。名二環から一宮ICを経て関ケ原ICで出る。R21をのんびり走る。今日は久々の鈴鹿の霊仙山である。醒ヶ井で左折。
 計画では阿弥陀山経由で周回の予定でしたが谷山谷が工事中で入れず、榑ヶ畑から汗拭峠経由で往復するだけになりました。落合コースもダメらしいので、このコースに集中したせいで、Pが満杯でした。ずっと下に戻って止めました。
 8:25出発、廃村跡の榑ヶ畑を経て杉林を登りきると汗拭峠で一休み。雑木林の急な尾根道をあえぐと傾斜が緩くなって歩きやすくなる。米原市展望台でまた一休み。周囲にはカレンフェルトが群がる。近くからキツツキのドラミングが聞こえてくる。小鳥の鳴き声も盛んである。
 腰を上げていっそう急な山道をジグザグに登り高度を稼ぐ。お猿岩に着くとスキー場のような緩斜面が広がっている。ここから立木はなくなり、今は雪が解けたばかりで地面も枯草色に染まる。そしてカルスト地形独特のカレンフェルトの白っぽい石が無数に広がる。雪解けの後の泥んこの途を避けて、草地をたんたんと歩いていくとお虎池に着いた。美しい水を湛えている。鳥居が立ち信仰の対象になっている。
 いったん下って経塚山へと登り返す。泥でぬかるんだやや急な道を登る。頂上の北面には残雪が結構ありました。経塚山からまたいったん下って登り返す。雪が結構残るが雪の上を歩くまでもない。
 11:00登頂。2等三角点が新しく埋め替えられた。約2時間半かかった。伊吹山が霞んで見える。琵琶湖も霞の彼方にある。遠望はなし。
 昼前でおにぎりを食うほど空腹ではない。アンパン1個で済ます。多数のしかし1人か2人パーティーが登ってきて休んでいる。中には焼き肉をする人、ラーメンを作る人、トーストをする人らがいて早めの昼食を楽しんでいた。風は微風程度だがじっとしていると寒い感じがする。
 11:17下山開始、経塚山と山頂の鞍部の谷沿いの踏み跡をたどるとお虎ヶ池の手前の登山道に合流できた。帰りがけに福寿草などの山野草を探したが無かった。またお猿岩ではカラスの群れが騒がしいので見に行くと雌の鹿が死んでいた。
 下山時でも雑木林では小鳥が大変にぎわっていた。きつつきのドラミングも盛んでした。美しい鳥が枝から枝へと導くように先を飛んで行く。夢のような光景である。少し膝に痛みがあるのでそろそろと下った。
 林道最奥の車はほとんど無くなったので下山したのだろう。Pへは13:20着。
 山上では昼食をしてないので、最奥の料理屋でニジマス料理を食してみた。4000円以上の結構なお値段である。2700円のリーズナブルな定食を頼んだ。刺身、フライ、甘露煮、お汁、付け出し、塩焼きと一応は揃っている。川魚料理好きには満足のいく水準である。

 醒ヶ井に出ると、加茂神社に寄った。ヤマトタケルの像が立っている。

「居醒の清水(醒井宿)概要: 居醒の清水は案内板によると「景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて居醒の清水旅する人々を困らせておりました。そこで天皇は、日本武尊にこの大蛇を退治するよう命ぜられました。※尊は剣を抜いて、大蛇を切り伏せ多くの人々の心配をのぞかれましたが、この時大蛇の猛毒が尊を苦しめました。やっとのことで醒井の地にたどり着かれ体や足をこの清水で冷やされますと、不思議にも高熱の苦しみもとれ、体の調子もさわやかになられました。それでこの水を名づけて「居醒の清水」と呼ぶようになりました。」とあります。」※剣はミヤズヒメのもとに置いてきたので素手で戦います。

 ここは昔中山道の宿だった。狭いがよく整備された街道が続いているので車で走ると元の交差点に戻った。道沿いの小川の水がきれいで、ハリヨが生息している。

 この後で、ヤマトタケルは伊勢に向かう。四日市辺りで、痛みがひどくなり、「ヤマトタケルが東征の帰途、伊吹山の神との戦いで病に倒れ、弱った体で大和帰還を目指して剣を杖代わりにしてこの急坂を登り、
『吾足如三重勾而甚疲』 (わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)
-- 私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れた --『古事記』と言ったとされる。これが「杖衝坂」と「三重」の名前の由来といわれる。
 そして、鈴鹿市または亀山市で、有名な和歌を詠んで亡くなる。

 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭しうるわし

玄冬の経ヶ峰を歩く2018年12月10日

 中国の五行説では四季を青春、朱夏、白秋、玄冬に分類する。
 ウィキぺディアは「四季の変化は五行の推移によって起こると考えられた。また、方角・色など、あらゆる物に五行が配当されている。そこから、四季に対応する五行の色と四季を合わせて、青春、朱夏、白秋、玄冬といった言葉が生まれた。詩人、北原白秋の雅号は秋の白秋にちなんだものである。」とある。
 
 12/8は亀山市の関ロッジで山岳会の忘年会をやった。9人のこじんまりとした集まりだったが、山に近い会場に集うことに意義がある。12/9には会場に近い経ヶ峰に登った。参加者は8名で皆60歳代後半の人ばかりになった。
 ネットには「生涯において最後の時期、老年時代を指す言葉として用いられる。具体的には60代後半以降と定義」されるからわれわれは玄冬の山旅をしたのだ。

 登山口は地形図で笹子川独標371ポイント付近。ここから笹子谷左岸の林道歩きがしばらく続く。北笹岳とか笹子山などの登山口標がある。林道を詰めると谷を渡渉して尾根に付いた急な山道に入る。
 枯れススキのきれいなところに着くと背景も見えてくる。鹿避けの扉の開閉もあり、鹿の繁殖が凄いのだろう。誰かが蛭もいるだろうという。多分??。
 山道は平坦になり、稲子山分岐をチエックすると湿地帯を抜けて山小屋に着く。ハイカーのオアシスになっている。多くのパーティーが小屋で休み、会食を楽しんでいた。
 
 古代インドでは「50歳~75歳 仕事や家庭から卒業し林に庵を構えて、自らの来し方行く末を深く瞑想する時期」を林住期と呼んだ。また「75歳~100歳 林(庵)から出て思うままに遊行して人に道を説き、耳を傾け、人生の知恵を人々に授ける時期」は遊行期と呼んだ。
 まだ遊行期には少し早い。この小屋が人気があるのは林住期に重なる要素があるからだろう。若い人でも泊りに来たいと言った。
 小屋の囲炉裏を眺めていると、中国の詩人・白居易または白楽天の詩を思う。「林間に酒を煖めて紅葉を焼く」がある。「林の中で落ち葉で酒をあたためて飲み、秋の風情をたのしむ。」の意味である。
 登るだけではない楽しみ方はまだまだある。
 
 当会の忘年山行も昔は山上までコンロ、コッヘル、食料を持ち上げてやっていたが、老いてからはPに近い小屋になり、更に布団、風呂付のロッジに格上げしてきた。
 焚火はないが、ストーブを焚いているので暖かい。疲れも癒される。体も温まり、小屋を辞して、山頂に向かった。すぐだった。素晴らしい展望である。南にはお局さんが端麗な山容でおすまし中である。その右は台高山脈の山々である。布引山地の最高峰の笠取山は風力発電の山に様変わりした。鈴鹿山脈はどうも凍て雲に覆われて小雪が舞っているだろう。
 昔は経を格納する石室のイメージがあったが、今は枯れ芝に覆われて入り口らしきものはない。新たに木造の展望台も設置されてくるたびに整備されている。登山道も格段に整備が行き届き、ハイカーも多いと思う。
 この山は「岳人」を創刊した伊藤洋平の初登山の山であった。津市の医家に生まれ、旧制中学時代にこの山に初登山、その後も鈴鹿の山々に登った。八高、京大医学部に進み、医学生の時に「岳人」を創刊。すぐに中部日本新聞に移管、中日新聞、東京新聞を経て、今はモンベルが刊行中だ。伊藤洋平の志を守る意思は固い。伊藤洋平は日本山岳会東海支部でも在籍するが、愛知県がんセンターの医師としても活躍を期待されたが、62歳の若さで死んだ。この山頂から遥かなるアンナプルナへと旅立った。
 小屋番の山日記の「伊藤洋平『回想のヒマラヤ』を読む」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/12/03/7934654

 稲子山分岐まで戻って、稲子山を目指す。破線路はあるが廃道であり、テープのマーキングが頼りになる。笹子谷右岸の杖型の林道地点に下山する。途中、鹿の遺骸を見る。地中に埋設するべきだが皮だけが廃棄されていた。今は狩猟シーズンなので注意したい。Wリーダーの尻皮は後ろ姿だけだと獣に間違われて撃たれるぞ、と脅したら女性陣の喧騒でそれはない、ということになり大笑いして、忘年山行を終えた。

緑濃き御在所山の近江側の黒谷を溯る2018年06月04日

 6/2(土)夜9時、西庁舎前で合流。白川ICから都市高速、東名阪から新たな東員ICを経由すると鈴鹿へのアクセスは本当に近い。鈴鹿山麓の施設のPに仮泊。遠くからホトトギスが聞こえた。12時就寝。
 6/3(日)朝4時目覚め、すぐにお湯を沸かし、簡単な朝食。テントをたたみ、鈴鹿スカイラインの武平峠を目指す。千草は釈迦ヶ岳から流れる朝明川がつくった沖積平野。植田と麦秋の田が交互に広がる穀倉地帯である。ふと右を見上げると鎌や御在所の藤内壁にかかる朝霧が昇ってゆく。朝霧は女の腕まくりという。今日も暑いぞ、と思う。
 スカイラインは早朝から車が入っている。7時前といのに御在所の登山口はもうほぼ一杯になっている。
 武平トンネルを抜けると近江に入る。車を降りるとひんやりした空気が気持ちいい。ここもほぼ一杯で私たちで埋まった。沢登りの支度を済ます。今日は沢初めなので、ほぼ半年ぶりに、何かと装備の忘れ物や、技術的な準備不足を点検するのである。
 沢谷峠に向かう。峠ですでに800mを越えているので、標高差は余り無い。820mから920mの等高線に沿い横断する。ここからゆるやかに下り、雨乞岳への道を分けた分岐で約1時間。
 沢谷周辺は、小鳥の楽園さながらに日本三鳴鳥のオオルリ、ウグイス、コマドリの鳴き声を楽しませてもらった。
 さらに小さな谷を下って黒谷出合いに着く。出合には大岩に黒谷と赤いペンキがあり、ファンがいるようだ。ハーネスを装着、気合を入れて遡行を開始した。
 水量は少ない。あえて水勢に逆らうように登るが、両岸にもかつての炭焼きの道が残っている。カメラを濡らしたくないので、撮影しながら、適当に巻きながら先行者らを追う。
 適度の滝が現れる。リーダーはトップで慎重に滝を攀じる。後続はロープを降ろしてもらう確保する。実はロープワークと確保のトレーニングでもある。平凡な谷相かと思えば狭い斜め滝が行方を阻んだり変化がある。ここは左岸上からトラロープがぶら下がっていたので利用して登る。私は撮影のため、左岸の手前のガレが押し出した支谷を巻いた。
 さらに一段と高い滝が現れた。これは右岸から巻いた。ここもトラロープがぶら下がる。慎重に足場を確保しながら小さな尾根に立つ。そのまま流れと合うまで巻けるみたいだが、滝の落ち口に真上に懸垂下降を試みた。これもトレーニングの一環としてである。
 こんなことを繰り返しながら夏本番の沢登りまで熟達度を向上させていこうということである。
 ここを上がると核心部を終わった。黒谷の由来となった黒い岩と花崗岩とが半々になった。上部は花崗岩のみになった。二股にも大岩に赤ペンキの標があった。傾斜は緩み源流の態である。細流になり、低い笹
原になった。強い獣臭がしたがすぐ先で長者池になった。
 イモリ、アメンボなどの水生昆虫がいた。小鳥が美しく鳴いている。老鶯はケキョケキョと警戒した。近くの東屋で休みながら、濡れたザイル、衣類を干した。
 今日は7/10までロープウェイが点検のため休業中で、登山客のみだがそれでも人が絶えることは無い。武平峠までの下りではサラサドウダン、ベニドウダン、ヤマツツジが眼を楽しませた。 
 峠のマイカーに戻った。時間があるので希望荘で一風呂浴びて帰名した。

さみどりの御池岳を歩く2018年05月13日

 5/11の朝7時30分過ぎ、鳴海駅前で同行者と合流。伊勢湾岸道・東海ICから入って30km余りで延伸された東海環状道・東員ICを出た。そのままR365からR306へ。鞍掛トンネルは通行止めの看板あり。目指すはコグルミ谷でしたが平日でも路駐多数ありパス。ここまで2時間。鞍掛峠から登ることに。
 Pはほぼ満杯でした。鞍掛峠へのきつい登りをこなすとちょっと汗が噴いた。鈴北岳への尾根を歩く。県境北面の落葉樹林は今や新緑のいろどりがさわやかです。空気もドライです。
 ものすごく繁茂していたクマザサは今は全滅して土が露わになっているのに驚きます。60年に1度の笹の花が咲くと死滅するというのは本当だった。
 1056mのコブで同行者がタテ谷へ下るというマニアックなルートへ分かれた。踏み跡もなく赤布のマーキングもないルートである。知る人ぞ知るルートか。なんでも珍しい花を見るためらしい。この尾根は積雪期に捜索で下った記憶がある。
 ここからは登りが急になった。鈴北岳の手前でタテ谷からの道と合流する。そうかタテ谷にはコグルミ谷と結ぶ道があるのだ。鈴北岳に登頂後、小休止して県境稜線を歩いてみた。
 ここも積雪期には歩いたが無雪期は記憶がない。登山道ではなく、踏み跡程度だがマーキングはある。水を湛えた池が3ヶ所もあった。山頂は1182mから1090m付近で県境は北東へ分かれ、1060m付近でコグルミ谷からの登山道に合流した。気持のよい稜線歩きだった。新緑期ならではのルートである。夏草が繁茂するとどうなるやら。
 この後は登山道を歩き御池岳に登る。真の谷はイチリンソウの花盛りであった。またコバイケイソウが大群落をなす。途中で樹林越しに野生のシカを見た。こっちをじっと凝視している風である。鹿もコバイケイソウは毒草と知って食わないから繁茂するのだろう。
 久々の御池岳山頂に立つ。雪で白い白山、乗鞍岳、御嶽山がならぶ。目を凝らせば能郷白山や中央アルプスも見えた。手前は霊仙山、伊吹山と見える。昔からこんなに眺めが良かったかな。平日でもたくさんの登山者が集まって来た。それぞれに昼食を楽しむ。そのうち山ガール2人も上がって来た。2人並んでスマホで撮りたいので押してくれという。もちろんOK。若い人が山に増えるのは良いものである。
 山頂を辞してボタンブチに向ったが時間がないので引き返す。山頂から北西に下る登山道を歩く。オオイタヤメイゲツの原生林の下はやはりコバイケイソウの大群落だ。西の奥はたしか「日本庭園」とかいった。真の谷からの登山道と合流。平坦な道を歩く。緑のワンダーランドである。鈴北岳の麓で多くの登山者が何やら採っている。聞くとワラビだった。喜々として摘んでいた。
 昭和32年4月29日の滋賀大生の遭難碑を経て、ゆるやかに鈴北岳へ。あの笹原はどこへ消えたのか。鈴北の山頂も笹で覆われていたころはガイドブックの『鈴鹿の山』に県境尾根の道はxxxxで表示されていた。
 初心者のころは下降した際御池谷の枝沢に迷い込んだ。突然踏み跡が消えるし、県境尾根が見えるので戻って見ても3度目でも県境への踏み跡が見いだせず、ままよと下った。するとチエーンソーの音がするのでその方向に行くと伐採中の人に道を問うた。「ここは御池谷だ、俺らも終わるから付いてこい、峠まで送ってやる」というので甘えさせてもらったことがある。
 後年、捜索で御池谷の道を溯り、途中から山仕事の人らについて下った道へ入った。かすかに記憶がよみがえった。1056mから下る枝尾根周辺の植林帯だった。
 今は笹もなく見晴らしも良い。鈴北岳から延々くだって峠へ。そしてトンネルに着いた。Pに戻ってもまだ相棒が着いていない。携帯で電話しても圏外で通じない。しばらくで電話があり、コグルミ谷を下降中とのこと。1056mからタテ谷へ下り、県境の1148mへの尾根を登ったらしい。御池の山頂は踏まずにコグルミ谷を下った。御池岳は広大な面積をもつのでこんなお中道的な歩き方も出来るのだなと思った。コグルミ谷の入り口で合流して無事帰名した。

藤原岳孫太尾根を歩く2018年03月24日

孫太尾根・丸山で見たミスミソウ(雪割草)
 最近とみに名前を聞くようになった藤原岳の孫太尾根。WEBで見ると山野草の宝庫という。当方は花の名前は良く知らないが、このところ猿投山が続いたので、久々に鈴鹿の山に行った。長い間鈴鹿の山に登って来たが孫太尾根は初めてである。というより青川峡界隈はヤマビルの多いところなので避けてきたのだった。
 朝5時起き、登山口7時には出発の予定だった。就寝が遅く、自宅7時出発になった。東名阪は良く流れていたが行楽シーズン到来とあってか名古屋西ICを出てから蟹江辺りから渋滞気味になった。
 登山口には8時30分到着。小さな墓地のPはすでに満車で路駐もあった。関西ナンバーの他山梨ナンバーもあった。山野草はこんなにも人気が高いものなのか。田中澄江『花の百名百名山』の影響で、山歩きの楽しみ方に革命的な変化をもたらしたのだろう。墓地内の芝生に何とか寄せられた。40分に出発。
 植林の中に入ってゆるやかに登る。寝不足のせいか、体が重い。いくらも歩いていないのに、387mの尾根に乗った辺りで長休みになった。水を飲んで気を取り直す。
 しばらくはゆるやかな照葉樹林の中の道を歩くといきなり石灰岩の見上げるような急登になった。南西斜面には緑の濃いイチリンソウの草が開花を準備中であった。丸山まではきつい登りに耐えた。小さな菫の花が咲いている。丸山はいわゆる典型的なカレンフェルトの風景で小さな花が多い。ここで休んでいるパーティも多かったので私も一休みした。ようやく後尾に追いついたのである。
 丸山からは緩やかに下ってまた登ってゆく。どこからかキツツキのドラミングが聞こえてくる。植生は落葉樹の林になった。となりのセメント鉱山の現場が丸見えである。
 体が温まってきたせいかピッチも少し上がった。草木834mの頂上は巻道でパスしてしまったようだ。途中のピークで名古屋から来たという若い登山者に会った。いろいろ話を聞くと親が大町市出身とかで彼も山が好きになったらしい。遠望の乗鞍岳、御嶽山、中央アルプス、能郷白山などの山岳同定を楽しんだ。お目当てはフクジュソウだったとか。見られないので引き返すというが多志田山965mまで行くというと同行することになった。旅は道連れである。
 立ち止まっては地形図を見て、あれは竜ヶ岳、静ヶ岳、銚子岳などと現在地確認した。話を交わしながら登るとあっという間に多志田山に着いた。12時10分だった。
 雑木林の中の穏やかな山頂だ。新緑期には美しい林になるだろう。周囲にはまだ残雪が多い。残雪の上に黒っぽい春の泥がしっかりついている。登山者が多いことを示す。藤原岳を目指す登山者の後ろ姿を見たがここで引き返す。昼食後12時56分下山。
 遅い出発と思ったがまだ登ってくる登山者もいた。膝をかばいながらゆっくりと下った。15時20分着。まだクルマは多い。大貝戸周回組だろうか。
 下山後はいなべ市鼎の龍雲寺に向った。禅寺の庭の句碑の写真撮影である。以前と変わらぬ風景にホッとする。
 戻って阿下喜温泉あじさいの湯に入湯して帰名。帰路は桑名ICへの道が渋滞したので市街地を抜けてR1を走った。

忘年山行(那須ヶ原山~唐木岳)兼新人歓迎会2017年11月26日

 11/25から11/26にかけて山岳会恒例の忘年山行と1名の入会者があったので新人歓迎会を催した。場所は鈴鹿南部のゲストハウス関ロッジ。かつては国民宿舎だった宿だ。観光の目玉がない亀山市周辺では経営が覚束ないのか数年前に閉鎖してしまった。今回は7月ごろにリニューアルオープンしたが、一度利用した実績もあり、また使ってみることにした。
 但し、料理は自分らの自炊ということになった。メニューはすきやきにして食材調達は会の幹事が担った。
 ともかく午後5時ごろにはメンバー13名がそろった。テーブルにコンロ3台、あらかじめ切ってある食材を並べて調理してゆく。アルコールはビールは館内自販機で買うのが条件。焼酎は持ち込み可能というのでずらっと並んだ。差入れの日本酒もあって山屋にふさわしい宴会になった。自己紹介から始め、あとはもう宴たけなわとなるや気が付いたら布団に寝ていたという次第。1名が宴会後帰宅して12名が泊った。
 26日は帰宅組と山行組に分かれて行動。山行組は6名が残り、R1から滋賀県入り、蟹坂から大原貯水池を目指す。参道橋の先にいいPがあって2台を止めた。
 参道橋まで戻り、舗装の林道を登り始めた。荒れた林道の終点から山道が始まる。黒滝の手前の小屋に2合目とあった。参道橋といい、2合目の表示といい、那須ヶ原山へのメインルートだった証拠だ。登るにつれて傾斜が増す。谷から尾根を伝い高度があがった。枯れすすきが晩秋の山のシンボルのようになびく。遠くには綿向山、雨乞岳、御在所岳、鎌ヶ岳と鈴鹿を代表する1000m級の名山が横に並ぶ山容が圧巻である。
 2回目のネットをくぐると山頂は近い。約1時間ほどで登頂。簡素な祠を風雨や風雪から守るために建物で囲ってある。その下も避難小屋か登拝者の休憩室が設けてある。三角点は建物の後にあった。
 ここから81歳の長老と女性は下山し、我々4人はミニ縦走の道に入った。稜線は土が痩せているせいか、つつじ科のあせびのトンネルになっている。春の開花期には白い米粒のような花を咲かせる。
 三つ頭山、唐木岳へは標高差はないが、細かいギャップが続く。キレットを通過、小笹山に立ち寄り、さらに坂下峠への道を下降した。峠道は三重県側へ下る。若干登り返す。災害で荒れた道を歩くときれいな舗装の林道に出てPに戻った。
 山上でリーダーのスマホに連絡があったが電池切れでキャッチできなかった。下山後、宿に寄ると布団の中に時計の忘れものがあったと知った。メンバーの1人だったので良かった。管理人の計らいで無料で入浴を勧められた。もちろん、ありがたく入浴させてもらった。
 これで万事終了であったが、リーダー同行でもう一つ立ち寄りたいところがあった。今夏訪ねた亀山市の能褒野(のぼの)にあるヤマトタケルの墳墓と鈴鹿市の加佐登神社と白鳥塚を訪ねた。後はR1,R23を経て帰名した。

鈴鹿・藤内小屋の夜2017年10月15日

 14日は朝は曇り。桑名付近からの鈴鹿山脈は稜線付近に雲がかかっていました。R23で行ったため、渋滞にはまり、登山口は10時近くになった。三つ口谷コースは止めて武平峠往復に変更。約1時間の登りでした。頂上直下の登山道は稜線の崩壊が激しく、西側の尾根のう回路に付け替えられていました。それでも急でした。幸いに登頂時は360度展望が良く見えました。下山時には近江側からガスが流れ始め不安定でした。
 下山後は希望荘で一風呂浴びました。R477のPへ止めて藤内小屋へ歩き、35分で到着。豪雨による水害で氾濫した爪痕はそのままですが、少しは落ち着いてきたかに思います。散乱する巨大な花崗岩の間を流れる沢の水が透明できれいです。道中、ノコンギクやアケボノソウが路傍にさいて秋の風情を漂わせています。有志?が登山道の整備に汗をながしていました。小屋に近くなると急登になり、希望荘で流した汗もまたちょっと汗がでてしまいました。藤内小屋は初めて泊ります。部屋をあてがわれて、早速長袖の下着に着替えたり、軽い防寒着をはおったりして秋冷に備えました。
 小屋の前で時間を潰していると金丸氏がバリルートから突然現れました。山と渓谷社の『分県登山ガイド 三重県の山』の著者の金丸氏とは昨年、迷岳に登山した際にニアミスしていました。FBで同じ山に取材登山していたと知って、上梓後に交流を希望していました。また今年の4月からNHKの「ゆる山へGO」でも三重県を担当され、私は愛知県の担当と、何かと縁ができたわけです。それで14日に藤内小屋で交流の機会を得た次第です。金丸氏はクライマー系の登山家ですが、理科系の教員をしておられたので、植物に非常に明るいのです。
 同著者の内田氏も後からワインを持って駆け付けて来られました。現役の教員ですから土曜日も何かと指導教師の仕事があるようです。また取材を共にされた女性2名も後から別々に駈けつけられて本や山の話で盛り上がりました。夕飯から食後の懇談まで尽きることなく懇親の場を持つことができて楽しかったです。
 14日夜は小屋の窓から四日市の夜景も見えていました。15日は朝から降雨でしたが、出発するころにはあがっていました。登山口に着いて皆さんと別れ散会となりました。

忘年山行兼新人歓迎会~天狗堂を歩く2016年11月21日

 11/19から11/20は所属山岳会の忘年山行兼新人歓迎会でした。11/19は朝から雨で登山は中止。それでも午前中に出発して野菜などの買い物をしながら会場の某山荘(会員のつてで借用)へ行きました。
 スーパーの野菜は高いのでいなべ市と野菜でググって地元産の農産物市場を探し大泉駅前の「うりぼう」で格安で美味しい野菜などゲットできました。
 それでも時間があるので2012年に行ったことがあるいなべ市藤原町鼎にある「農業レストランフラール」で昼食にしました。地元産の野菜料理のバイキング方式です。レストランの場所が高台に変わり価格も800円から1100円になりましたが満足のあるメニューでした。朝11時開店というのにPはほぼ満杯でした。以前の店よりも少し広くなっていました。それだけ人気が高いのでしょう。野菜で腹いっぱいになったのにまぜご飯、たこ焼き、蕎麦、カレー、ケーキ、フレンチトーストなど減量に取り組み始めた私には体に毒な料理が続々出されて悩ましいところです。
 特にまぜご飯は懐かしいふるさとの味がした。在所の三重県津市一志町の味だというとこのまぜご飯は一志の人が炊いたというのです。それは米、しょうゆ、砂糖、鶏肉、ゴボウのささがきでした。香り高いゴボウと砂糖の甘味が絶妙の味を出しているのです。何杯もお代わりしたいのですが減量を考えて1杯で我慢でした。晴れておれば御池岳から藤原岳がよく見えるところです。又来てみたい「フラール」でした。
 午後2時になり会場の山荘へ着きました。早速、清掃をしてから、道具類を運び込みます。女性会員5人が野菜などを切り分けて鶏鍋の下準備に取り掛かった。鍋といっても昆布やシイタケで出しをとる手間を省いて鍋の素を使うのであっという間に終わる。しばらくは付近を散歩したりして5時の宴会開始まで時間をつぶす。
 5時になりコンロ3個に鍋を置いて7人で宴会を始める。新人のTさんの入会を祝った。始まってしばらくでまず、Iさんが着いた。新人のFさん、最若手のMさん、会長のWさんと輪に入るたびに乾杯を繰り返した。何を話したのかさっぱり覚えていないが盛り上がったことは確かである。Iさんは家族の用事で夜に帰宅された。
 11/20は午前5時に起床。朝食をとるが早いか、一斉に片づけ、清掃をした。荷物を運び出すと参加者全員で記念の写真を撮影する。まだ薄暗い感じがする。7時過ぎに山荘を出発。竜ヶ岳登山口付近の国道に設けられたPでKさんとKさんを待つ。マイカーを4台に集約して12人で君が畑に出発。途中で新しくできた道の駅でトイレ休憩。木地師発祥の村・政所から蛭谷、君が畑の秘境の山里に行く。バス停には15人の先行者パーティが準備中だった。
 我々もノエビアの空地まで走りメンバーを降ろす。下山口の瀬川林道入り口に車をデポする準備を行った。御池林道のノタノ坂などには車が一杯止まっていた。シロモジの黄葉、カエデの紅葉で御池谷は錦秋の秋を迎えていた。
 君が畑に戻り、出発。神社では何やら山人らが仕事中だった。登山届は出したかねと尋ねられていた。多分神社の冬支度であろう。来週辺りから降雪があってもおかしくはない深山である。神社の右の尾根の急登に喘ぎながら登る。膝痛を抱えて泣き泣き登る。大事にすると運動不足で筋肉が減り益々太る。かといって過激な運動はより悪化しかねない。昨夜はビール、焼酎のお湯割り、Fさんの差し入れの名酒をしたたか飲んだがそのアルコールが今や汗となって滝のように流れる。冬なのでタオルは持ってこなかった。帽子からも汗がしたたり落ちる。小さなハンカチがたちまち汗まみれになったので軍手をタオル替わりにした。
 尾根に乗ると歩きやすくなった。アップダウンをこなしながら山頂へ行く。今日は見えないが遠くから眺めると三角錐の立派な山容である。益々急傾斜になり爪先立ちの登高が続く。先を行く人が遙か上に見える。それで山頂が近づいたことを予感する。あいにくの霧の山頂であった。風に乗って話声が流れてくる。先行者らは近くで宴会中のようだ。簡単に水を飲んだり中食をとり休憩する。御池林道に急降下する道標がある。かつてはここを往復した記憶がある。山仕事中の人からこの山は5月中旬を過ぎると山ビルが降ってくるから気を付けよ、と教えらてぎょっとしたこともあった。
 長休みは体が冷えるのでサンヤリを目指しそこそこに出発する。宴会中のパーティが盛り上がっていたのを傍目に過ぎると岩の展望台がある。そこから急降下していた。924mへ行く途中で時雨もようになり合羽を着た。サンヤリから来る大パーティとすれ違う。我々と合計すると約40名は下らない。錦秋の鈴鹿を目指す登山者でにぎわっているのだ。サンヤリへは1時間ほどで着いた。2等三角点がある。今日は霧で何も見えない。W会長が登山道を探りに行くが踏み跡も見いだせないようである。晴れておれば道なき道を探るささやかな冒険を楽しみたいが、12人の人数に加えて80歳代の高齢者も居るので天狗堂に戻って御池林道に下る登山道を下ることとした。
 天狗堂には誰も居なかった。急降下する踏み跡を木の枝、根っこを支えに下る。かなり下っても急な道が終わらなかった。沢の音が聞こえる。沢沿いになると登山道も傾斜が緩くなり御池林道も近い。やれやれで林道に着いた。サンヤリから瀬川林道に下るのは失敗したのでマイカーを回収に行く。またノエビアの前で集まり解散とした。