鈴鹿・奥草山を歩く2019年12月21日

 鈴鹿の奥草山に登って来ました。
 名古屋を出たのは予定より30分遅れの7時30分になった。武平峠を越えて滋賀県土山町大河原のかもしか壮に着いたのは8時30分。伊勢湾岸道、新名神のお陰で約1時間ともの凄く早い。1250円也。
 かもしか壮のPから仰ぐとこれから行く山なみが見える。かもしかにPの承諾を得て、出発は9時になった。PからR477へ出て右折、R477の手前で右に入る車道を行く。最初は舗装だったが未舗装になる。標高450mの峠で車道は終わる。ここから尾根の踏み跡を探しながら歩き始める。すると左から良い道が合わさり、そのまま行くと537mのコブを巻くイメージで登った。さらに急な切り開きを攀じ登る。東西に横切る幅2mくらいの作業道に合う。そこも横切って急登にあえぐと820mの奥草山に着いた。
 まだ11時前だし、寒いのでそのまま歩く。雑木林を下って小さなコブを越え、右折して下ったところに政子3等三角点があった。点名は鶏岩という。ピンクや黄のテープが多い。11時になった。ここから一段と下って南のコブに行く。ピンクのテープが花が咲いたように見えるほどたくさん結んであった。矢印まである。明瞭な尾根を下る。標高620m付近でやっと12時を回ったので昼食にした。
 山頂と違って風もない。尾根は広くなった。雑木林から植林内へ入ると下枝もない。黄のテープが小まめに巻いてありそれを追う。途中、二重巻きがあって分岐らしいが尾根を忠実に下った。最後は堰堤の取り付け道路の終点に下れた。途中で下ると車道の山側の金網が越えられないだろう。堰堤まですぐだった。
 近道になると思い、ちょっと堰堤の階段を下ってみたが対岸で鍵がありしかも鉄条網で出られず袋小路になっていたのでまた戻ることになった。これは失敗。立入禁止の看板はなかったが事実上そうなっている。またR477へ出てかもしか壮へ戻った。13時30分頃か。
 一風呂浴びた。65歳以上は400円とシニアに優しい。旧宿舎以来久々の入浴である。コンパクトながら手ごたえはあった。
 奥草山は赤松の古木が多かった。樹齢は150年くらいか。かつては東海道を往来する馬の秣(まぐさ)を生産する草山だったのだろう。秣の需要が無くなると松を植えた。松は草山で養分が流れたやせた土地に強い。倒木が多いのは雑木林で落葉が養分となり地味が肥えたために枯れたのだろう。放っておけば落葉広葉樹の薪炭林になる。薪炭の需要も無くなると今度は皆伐して杉桧の植林山になった。
 里山の森林文化史を歩いているようだった。奥草山とは言いえて妙である。奥三河の萩垂山、萱場山は伊那街道の草山だったし、木曽上松の風越山は中山道の秣生産の山だった。

杉に巻かれた青いテープの意味2019年12月15日

芋ヶ谷林道終点の登山口付近の杉。これは尾根までずっと巻かれていた。
 昨日14日に近江鈴鹿の阿弥陀ヶ峰に登った。以前から気になって居たのが杉の幹に巻かれた青いテープ。ここでもほとんどの杉に巻かれていた。その意味は何か。
 今の太さなら良い板が挽ける太さだと思い、そろそろ伐採時期にきた目印かと思った。が、ググると次のブログがヒットした。ブログ「洋洋日記」には「青いビニール、これははクマ対策だった。山を降りて、地元の森林組合理事長に聞くと、クマは杉の樹皮をはぎ、樹液を吸うので、ああして、木を光らして、怖がらせているという」とあった。
 ということはこの山にはクマが跋扈するということである。今回は警戒して熊鈴を鳴らしながら登ったから正解だった。知ってみると怖い目印でもある。

北鈴鹿・阿弥陀ヶ峰を歩く2019年12月14日

阿弥陀から見た霊仙山主峰三座
 11月から3度目にして登頂できました。昔1度は登ったが阿弥陀ヶ峰は道の判然としない寂峰だと改めて思いました。ルートは醒ヶ井の最奥の村・上丹生の奥を行くと配水場跡で二股になり、左の芋ヶ谷(いもがえともいう)の林道を終点まで歩き、作業道みたいな林道を登ると尾根に達し頂上まで辿るだけでした。林道の手入れは良く、落石もないので登山口のある終点まで入れる。終点の手前には林道の入り口がある。
 終点から阿弥陀ヶ峰登山道の道標にしたがって適当に踏み跡をたどると先ほど見送った林道に合流する。以後、支線が多く、迷いやすいが、おおむね高いところへ行く道を外さなければ尾根まで上がれる。支線はほぼ水平である。尾根の鞍部に達した後も山頂方向に沿う林道があるのでそこを辿り終点から少し登ると尾根になる。欅の大木がありすぎには立ち去れない。すっかり葉を落とした木立の間から雪をつけた霊仙山が見えて初冬の装いに気が引き締まります。さらによく踏まれた山道が出てきて登ると阿弥陀堂跡に着いた。ここまではかなり踏まれた登拝の道型を確認できた。木の間から伊吹山が良く見える。梓河内の山里もびっしり家が立ちこんでる。まるで隠れ里か要塞のように見える。
 阿弥陀堂跡からは道型が消え、カレンフェルトの間を縫うように登り、登頂。平頂です。ここは展望が皆無なので梓河内道を探るために少し移動するとカレンフェルトがびっしり立った展望丘に出ました。ここにして初めて霊仙山の三座が見えました。経塚山1040m、奥の最高点、右の山頂。加えて避難小屋も立っています。
 風も冷たく強くのんびりとはさせてくれません。滞在もそこそこに下山しました。7時50分に出発、10時10分に登頂。10時30分に下山。芋ヶ谷林道に着いてから地形図の峠にも立ち寄りました。そこまで林道は通じていませんので徒歩です。梓河内側の栗ヶ谷から林道が上がっています。峠から左(北)は小屋山、梓山など500m級の低山がつらなり、右(南)は585mを経由して阿弥陀ヶ峰に直登しています。踏み跡は未確認。車には12時過ぎに戻りました。
 時間があるので三島池に寄り渡り鳥にあいさつして帰名しました。朝はすっきり晴れていた伊吹山も午後には雨雲が掛かり伊吹薬草の湯を出ると時雨模様になりました。ところが関ヶ原を過ぎると晴れていた。これが雪になると本格的な冬の到来です。

忘年山行1霊山を歩く2019年11月30日

 朝8時過ぎ、私、M野、K,M本、T、I島の6人が集結し、金山駅前を出発。9時過ぎ亀山PA着。ここでIさんとSさんに合流し8名になる。東名阪高速を出て名阪国道(R25)へ行く。快調に飛ばして伊賀(柘植)ICを出る。スマホのナビで地理勘もなく霊山寺へ導かれる。
 霊山寺には数台の先行車が止まっていた。手軽なハイキングの山である。私たちも支度して出発。境内の長い階段を登ると本堂の横の大銀杏が黄金色に輝くような黄葉が素晴らしい。一度も吠えず老犬が見守ってくれる。登山道は左へ少し下った林道である。
 林道の終点から杉の植林の中の登山道が始まる。というより参詣の道だろうか。200mごとに号数が増える。とにかく異口同音に寒いと訴える。中腹まで登ると温まり一枚脱ぐ。
 中途には寺院遺跡のような名残りの名前がある。山頂直下には湿地帯もあったから夏は僅かでも湧水があるのだろう。山岳霊山が成立するには水源が大きな条件になる。

 伊賀上野観光協会のHPには霊山寺は「創建は古く、霊山山頂(765.8m)には、平安時代〜江戸時代にかけての一大寺院跡(面積11,200m2)があります。奥之院には、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)(延宝3年〈1675年〉)を安置し、石造台座には永仁3年(1295年)5月10日の銘があります。
 その後、霊山寺は現在のように霊山中腹に再興され、天台宗より黄檗(おうばく)宗に改宗されました。
本尊、十一面観世音菩薩は寄木造で、像高1.8m、江戸時代初期の作です。ほかに普賢(ふけん)菩薩や、平安時代の銅鏡が保管されています。」と約700年の歴史を誇る古刹である。

 山頂へは雑木林に変わった辺りから緩やかに登り石段を登ると萱とのの平らな山頂だった。南西の隅っこに一等三角点が埋まっていた。経塚を中心に塁が築かれている。そこに腰を下ろして休む。寒いのでやることもなく早々に下山した。
 本堂では俳句の投句箱があったので2句を即吟で投句しておいた。滋賀の大津市で4句、今日で2句と投句した。果たして結果は如何に。
 ゲストハウス関ロッジに行くにはまだ時間が早いので芭蕉公園を散策した。芭蕉は韜晦したので生まれた家、場所も定かではないらしい。そこで上野市は生家を具体的に挙げ、ここ柘植町にも生誕地を訴えます。
 観光資源になるほどの大物は違います。
 案内板には
「俳聖松尾芭蕉翁は、1644(正保1)年に伊賀国柘植郷拝野の里(現在の三重県阿山郡伊賀町大字柘植町)松尾儀左衛門の二男として生まれました。翁を偲び毎年11月12日に松尾家の菩提寺である萬寿寺などにおいて、しぐれ忌が開催されます。また、伊賀町内には句碑や像の他に、生誕地の碑・生誕宅址碑等が建てられ、翁の遺徳を讃えています。」
 園内には有名な

「古里や 臍のをに泣く としのくれ」

という、芭蕉が親不孝を詫びて詠んだ句碑が建っていました。旅の途中で訃報を聞いたにも関わらず死に目にも会えず、葬儀に来れなかった。兄からこれが母が大事に持って居たお前の臍の緒だと渡されて泣いたというのである。

その後、伊賀IC近くのレストランで蕎麦を食べて温まりました。そろそろ時間と関ロッジへ向かいました。このところ数年は常宿みたいになりました。自炊ながら風呂、布団もある立派なお宿です。
 今日は新人2名も含めて15名もの盛会になりました。かつては旧人ばかりだったこともあり10名前後で推移してきました。もう1名の新人候補もいたのですがあいにく風邪でドタキャンになりました。鋤鍋を囲んで今年の反省や来年の抱負など語らいました。例年になく充実した忘年山行になりました。その一方では70歳代後半から80歳代の3名の古参会員の退会を聞かされたので喜びも半ばですが。

三ッ口谷を遡行し鈴鹿・鎌ヶ岳へ2019年06月23日

 久々に鈴鹿の沢登りを楽しんだ。ルートは三ツ口谷を遡行して鎌ヶ岳に登頂するというもの。メンバーは4人。金山駅前を7時に出て、白川で1人拾う。後は一路菰野ICへ走る。約50kmでもう登山口に着く。その間PA,コンビニはなく、直行になった。
 スカイラインのPには誰もいないのは降雨の予報から出控えたか。入った記憶はあるがもう20年以上前のことで細かい記憶にはない。なるだけ沢身に入るように遡ったが、登山道も適宜歩いた。詰めの手前で長石尾根に上がり登頂する。山頂もいつもと違って単独行が2名いただけ。
 アマテラスに参拝後、滑落に神経を使いながら下山した。幸いに名古屋まででも降雨はなく予報は外れた。ラッキーだった。

鈴鹿・霊仙山を歩く2019年04月07日

 朝6時30分に出発。名二環から一宮ICを経て関ケ原ICで出る。R21をのんびり走る。今日は久々の鈴鹿の霊仙山である。醒ヶ井で左折。
 計画では阿弥陀山経由で周回の予定でしたが谷山谷が工事中で入れず、榑ヶ畑から汗拭峠経由で往復するだけになりました。落合コースもダメらしいので、このコースに集中したせいで、Pが満杯でした。ずっと下に戻って止めました。
 8:25出発、廃村跡の榑ヶ畑を経て杉林を登りきると汗拭峠で一休み。雑木林の急な尾根道をあえぐと傾斜が緩くなって歩きやすくなる。米原市展望台でまた一休み。周囲にはカレンフェルトが群がる。近くからキツツキのドラミングが聞こえてくる。小鳥の鳴き声も盛んである。
 腰を上げていっそう急な山道をジグザグに登り高度を稼ぐ。お猿岩に着くとスキー場のような緩斜面が広がっている。ここから立木はなくなり、今は雪が解けたばかりで地面も枯草色に染まる。そしてカルスト地形独特のカレンフェルトの白っぽい石が無数に広がる。雪解けの後の泥んこの途を避けて、草地をたんたんと歩いていくとお虎池に着いた。美しい水を湛えている。鳥居が立ち信仰の対象になっている。
 いったん下って経塚山へと登り返す。泥でぬかるんだやや急な道を登る。頂上の北面には残雪が結構ありました。経塚山からまたいったん下って登り返す。雪が結構残るが雪の上を歩くまでもない。
 11:00登頂。2等三角点が新しく埋め替えられた。約2時間半かかった。伊吹山が霞んで見える。琵琶湖も霞の彼方にある。遠望はなし。
 昼前でおにぎりを食うほど空腹ではない。アンパン1個で済ます。多数のしかし1人か2人パーティーが登ってきて休んでいる。中には焼き肉をする人、ラーメンを作る人、トーストをする人らがいて早めの昼食を楽しんでいた。風は微風程度だがじっとしていると寒い感じがする。
 11:17下山開始、経塚山と山頂の鞍部の谷沿いの踏み跡をたどるとお虎ヶ池の手前の登山道に合流できた。帰りがけに福寿草などの山野草を探したが無かった。またお猿岩ではカラスの群れが騒がしいので見に行くと雌の鹿が死んでいた。
 下山時でも雑木林では小鳥が大変にぎわっていた。きつつきのドラミングも盛んでした。美しい鳥が枝から枝へと導くように先を飛んで行く。夢のような光景である。少し膝に痛みがあるのでそろそろと下った。
 林道最奥の車はほとんど無くなったので下山したのだろう。Pへは13:20着。
 山上では昼食をしてないので、最奥の料理屋でニジマス料理を食してみた。4000円以上の結構なお値段である。2700円のリーズナブルな定食を頼んだ。刺身、フライ、甘露煮、お汁、付け出し、塩焼きと一応は揃っている。川魚料理好きには満足のいく水準である。

 醒ヶ井に出ると、加茂神社に寄った。ヤマトタケルの像が立っている。

「居醒の清水(醒井宿)概要: 居醒の清水は案内板によると「景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて居醒の清水旅する人々を困らせておりました。そこで天皇は、日本武尊にこの大蛇を退治するよう命ぜられました。※尊は剣を抜いて、大蛇を切り伏せ多くの人々の心配をのぞかれましたが、この時大蛇の猛毒が尊を苦しめました。やっとのことで醒井の地にたどり着かれ体や足をこの清水で冷やされますと、不思議にも高熱の苦しみもとれ、体の調子もさわやかになられました。それでこの水を名づけて「居醒の清水」と呼ぶようになりました。」とあります。」※剣はミヤズヒメのもとに置いてきたので素手で戦います。

 ここは昔中山道の宿だった。狭いがよく整備された街道が続いているので車で走ると元の交差点に戻った。道沿いの小川の水がきれいで、ハリヨが生息している。

 この後で、ヤマトタケルは伊勢に向かう。四日市辺りで、痛みがひどくなり、「ヤマトタケルが東征の帰途、伊吹山の神との戦いで病に倒れ、弱った体で大和帰還を目指して剣を杖代わりにしてこの急坂を登り、
『吾足如三重勾而甚疲』 (わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)
-- 私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れた --『古事記』と言ったとされる。これが「杖衝坂」と「三重」の名前の由来といわれる。
 そして、鈴鹿市または亀山市で、有名な和歌を詠んで亡くなる。

 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭しうるわし

玄冬の経ヶ峰を歩く2018年12月10日

 中国の五行説では四季を青春、朱夏、白秋、玄冬に分類する。
 ウィキぺディアは「四季の変化は五行の推移によって起こると考えられた。また、方角・色など、あらゆる物に五行が配当されている。そこから、四季に対応する五行の色と四季を合わせて、青春、朱夏、白秋、玄冬といった言葉が生まれた。詩人、北原白秋の雅号は秋の白秋にちなんだものである。」とある。
 
 12/8は亀山市の関ロッジで山岳会の忘年会をやった。9人のこじんまりとした集まりだったが、山に近い会場に集うことに意義がある。12/9には会場に近い経ヶ峰に登った。参加者は8名で皆60歳代後半の人ばかりになった。
 ネットには「生涯において最後の時期、老年時代を指す言葉として用いられる。具体的には60代後半以降と定義」されるからわれわれは玄冬の山旅をしたのだ。

 登山口は地形図で笹子川独標371ポイント付近。ここから笹子谷左岸の林道歩きがしばらく続く。北笹岳とか笹子山などの登山口標がある。林道を詰めると谷を渡渉して尾根に付いた急な山道に入る。
 枯れススキのきれいなところに着くと背景も見えてくる。鹿避けの扉の開閉もあり、鹿の繁殖が凄いのだろう。誰かが蛭もいるだろうという。多分??。
 山道は平坦になり、稲子山分岐をチエックすると湿地帯を抜けて山小屋に着く。ハイカーのオアシスになっている。多くのパーティーが小屋で休み、会食を楽しんでいた。
 
 古代インドでは「50歳~75歳 仕事や家庭から卒業し林に庵を構えて、自らの来し方行く末を深く瞑想する時期」を林住期と呼んだ。また「75歳~100歳 林(庵)から出て思うままに遊行して人に道を説き、耳を傾け、人生の知恵を人々に授ける時期」は遊行期と呼んだ。
 まだ遊行期には少し早い。この小屋が人気があるのは林住期に重なる要素があるからだろう。若い人でも泊りに来たいと言った。
 小屋の囲炉裏を眺めていると、中国の詩人・白居易または白楽天の詩を思う。「林間に酒を煖めて紅葉を焼く」がある。「林の中で落ち葉で酒をあたためて飲み、秋の風情をたのしむ。」の意味である。
 登るだけではない楽しみ方はまだまだある。
 
 当会の忘年山行も昔は山上までコンロ、コッヘル、食料を持ち上げてやっていたが、老いてからはPに近い小屋になり、更に布団、風呂付のロッジに格上げしてきた。
 焚火はないが、ストーブを焚いているので暖かい。疲れも癒される。体も温まり、小屋を辞して、山頂に向かった。すぐだった。素晴らしい展望である。南にはお局さんが端麗な山容でおすまし中である。その右は台高山脈の山々である。布引山地の最高峰の笠取山は風力発電の山に様変わりした。鈴鹿山脈はどうも凍て雲に覆われて小雪が舞っているだろう。
 昔は経を格納する石室のイメージがあったが、今は枯れ芝に覆われて入り口らしきものはない。新たに木造の展望台も設置されてくるたびに整備されている。登山道も格段に整備が行き届き、ハイカーも多いと思う。
 この山は「岳人」を創刊した伊藤洋平の初登山の山であった。津市の医家に生まれ、旧制中学時代にこの山に初登山、その後も鈴鹿の山々に登った。八高、京大医学部に進み、医学生の時に「岳人」を創刊。すぐに中部日本新聞に移管、中日新聞、東京新聞を経て、今はモンベルが刊行中だ。伊藤洋平の志を守る意思は固い。伊藤洋平は日本山岳会東海支部でも在籍するが、愛知県がんセンターの医師としても活躍を期待されたが、62歳の若さで死んだ。この山頂から遥かなるアンナプルナへと旅立った。
 小屋番の山日記の「伊藤洋平『回想のヒマラヤ』を読む」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/12/03/7934654

 稲子山分岐まで戻って、稲子山を目指す。破線路はあるが廃道であり、テープのマーキングが頼りになる。笹子谷右岸の杖型の林道地点に下山する。途中、鹿の遺骸を見る。地中に埋設するべきだが皮だけが廃棄されていた。今は狩猟シーズンなので注意したい。Wリーダーの尻皮は後ろ姿だけだと獣に間違われて撃たれるぞ、と脅したら女性陣の喧騒でそれはない、ということになり大笑いして、忘年山行を終えた。

緑濃き御在所山の近江側の黒谷を溯る2018年06月04日

 6/2(土)夜9時、西庁舎前で合流。白川ICから都市高速、東名阪から新たな東員ICを経由すると鈴鹿へのアクセスは本当に近い。鈴鹿山麓の施設のPに仮泊。遠くからホトトギスが聞こえた。12時就寝。
 6/3(日)朝4時目覚め、すぐにお湯を沸かし、簡単な朝食。テントをたたみ、鈴鹿スカイラインの武平峠を目指す。千草は釈迦ヶ岳から流れる朝明川がつくった沖積平野。植田と麦秋の田が交互に広がる穀倉地帯である。ふと右を見上げると鎌や御在所の藤内壁にかかる朝霧が昇ってゆく。朝霧は女の腕まくりという。今日も暑いぞ、と思う。
 スカイラインは早朝から車が入っている。7時前といのに御在所の登山口はもうほぼ一杯になっている。
 武平トンネルを抜けると近江に入る。車を降りるとひんやりした空気が気持ちいい。ここもほぼ一杯で私たちで埋まった。沢登りの支度を済ます。今日は沢初めなので、ほぼ半年ぶりに、何かと装備の忘れ物や、技術的な準備不足を点検するのである。
 沢谷峠に向かう。峠ですでに800mを越えているので、標高差は余り無い。820mから920mの等高線に沿い横断する。ここからゆるやかに下り、雨乞岳への道を分けた分岐で約1時間。
 沢谷周辺は、小鳥の楽園さながらに日本三鳴鳥のオオルリ、ウグイス、コマドリの鳴き声を楽しませてもらった。
 さらに小さな谷を下って黒谷出合いに着く。出合には大岩に黒谷と赤いペンキがあり、ファンがいるようだ。ハーネスを装着、気合を入れて遡行を開始した。
 水量は少ない。あえて水勢に逆らうように登るが、両岸にもかつての炭焼きの道が残っている。カメラを濡らしたくないので、撮影しながら、適当に巻きながら先行者らを追う。
 適度の滝が現れる。リーダーはトップで慎重に滝を攀じる。後続はロープを降ろしてもらう確保する。実はロープワークと確保のトレーニングでもある。平凡な谷相かと思えば狭い斜め滝が行方を阻んだり変化がある。ここは左岸上からトラロープがぶら下がっていたので利用して登る。私は撮影のため、左岸の手前のガレが押し出した支谷を巻いた。
 さらに一段と高い滝が現れた。これは右岸から巻いた。ここもトラロープがぶら下がる。慎重に足場を確保しながら小さな尾根に立つ。そのまま流れと合うまで巻けるみたいだが、滝の落ち口に真上に懸垂下降を試みた。これもトレーニングの一環としてである。
 こんなことを繰り返しながら夏本番の沢登りまで熟達度を向上させていこうということである。
 ここを上がると核心部を終わった。黒谷の由来となった黒い岩と花崗岩とが半々になった。上部は花崗岩のみになった。二股にも大岩に赤ペンキの標があった。傾斜は緩み源流の態である。細流になり、低い笹
原になった。強い獣臭がしたがすぐ先で長者池になった。
 イモリ、アメンボなどの水生昆虫がいた。小鳥が美しく鳴いている。老鶯はケキョケキョと警戒した。近くの東屋で休みながら、濡れたザイル、衣類を干した。
 今日は7/10までロープウェイが点検のため休業中で、登山客のみだがそれでも人が絶えることは無い。武平峠までの下りではサラサドウダン、ベニドウダン、ヤマツツジが眼を楽しませた。 
 峠のマイカーに戻った。時間があるので希望荘で一風呂浴びて帰名した。

さみどりの御池岳を歩く2018年05月13日

 5/11の朝7時30分過ぎ、鳴海駅前で同行者と合流。伊勢湾岸道・東海ICから入って30km余りで延伸された東海環状道・東員ICを出た。そのままR365からR306へ。鞍掛トンネルは通行止めの看板あり。目指すはコグルミ谷でしたが平日でも路駐多数ありパス。ここまで2時間。鞍掛峠から登ることに。
 Pはほぼ満杯でした。鞍掛峠へのきつい登りをこなすとちょっと汗が噴いた。鈴北岳への尾根を歩く。県境北面の落葉樹林は今や新緑のいろどりがさわやかです。空気もドライです。
 ものすごく繁茂していたクマザサは今は全滅して土が露わになっているのに驚きます。60年に1度の笹の花が咲くと死滅するというのは本当だった。
 1056mのコブで同行者がタテ谷へ下るというマニアックなルートへ分かれた。踏み跡もなく赤布のマーキングもないルートである。知る人ぞ知るルートか。なんでも珍しい花を見るためらしい。この尾根は積雪期に捜索で下った記憶がある。
 ここからは登りが急になった。鈴北岳の手前でタテ谷からの道と合流する。そうかタテ谷にはコグルミ谷と結ぶ道があるのだ。鈴北岳に登頂後、小休止して県境稜線を歩いてみた。
 ここも積雪期には歩いたが無雪期は記憶がない。登山道ではなく、踏み跡程度だがマーキングはある。水を湛えた池が3ヶ所もあった。山頂は1182mから1090m付近で県境は北東へ分かれ、1060m付近でコグルミ谷からの登山道に合流した。気持のよい稜線歩きだった。新緑期ならではのルートである。夏草が繁茂するとどうなるやら。
 この後は登山道を歩き御池岳に登る。真の谷はイチリンソウの花盛りであった。またコバイケイソウが大群落をなす。途中で樹林越しに野生のシカを見た。こっちをじっと凝視している風である。鹿もコバイケイソウは毒草と知って食わないから繁茂するのだろう。
 久々の御池岳山頂に立つ。雪で白い白山、乗鞍岳、御嶽山がならぶ。目を凝らせば能郷白山や中央アルプスも見えた。手前は霊仙山、伊吹山と見える。昔からこんなに眺めが良かったかな。平日でもたくさんの登山者が集まって来た。それぞれに昼食を楽しむ。そのうち山ガール2人も上がって来た。2人並んでスマホで撮りたいので押してくれという。もちろんOK。若い人が山に増えるのは良いものである。
 山頂を辞してボタンブチに向ったが時間がないので引き返す。山頂から北西に下る登山道を歩く。オオイタヤメイゲツの原生林の下はやはりコバイケイソウの大群落だ。西の奥はたしか「日本庭園」とかいった。真の谷からの登山道と合流。平坦な道を歩く。緑のワンダーランドである。鈴北岳の麓で多くの登山者が何やら採っている。聞くとワラビだった。喜々として摘んでいた。
 昭和32年4月29日の滋賀大生の遭難碑を経て、ゆるやかに鈴北岳へ。あの笹原はどこへ消えたのか。鈴北の山頂も笹で覆われていたころはガイドブックの『鈴鹿の山』に県境尾根の道はxxxxで表示されていた。
 初心者のころは下降した際御池谷の枝沢に迷い込んだ。突然踏み跡が消えるし、県境尾根が見えるので戻って見ても3度目でも県境への踏み跡が見いだせず、ままよと下った。するとチエーンソーの音がするのでその方向に行くと伐採中の人に道を問うた。「ここは御池谷だ、俺らも終わるから付いてこい、峠まで送ってやる」というので甘えさせてもらったことがある。
 後年、捜索で御池谷の道を溯り、途中から山仕事の人らについて下った道へ入った。かすかに記憶がよみがえった。1056mから下る枝尾根周辺の植林帯だった。
 今は笹もなく見晴らしも良い。鈴北岳から延々くだって峠へ。そしてトンネルに着いた。Pに戻ってもまだ相棒が着いていない。携帯で電話しても圏外で通じない。しばらくで電話があり、コグルミ谷を下降中とのこと。1056mからタテ谷へ下り、県境の1148mへの尾根を登ったらしい。御池の山頂は踏まずにコグルミ谷を下った。御池岳は広大な面積をもつのでこんなお中道的な歩き方も出来るのだなと思った。コグルミ谷の入り口で合流して無事帰名した。

藤原岳孫太尾根を歩く2018年03月24日

孫太尾根・丸山で見たミスミソウ(雪割草)
 最近とみに名前を聞くようになった藤原岳の孫太尾根。WEBで見ると山野草の宝庫という。当方は花の名前は良く知らないが、このところ猿投山が続いたので、久々に鈴鹿の山に行った。長い間鈴鹿の山に登って来たが孫太尾根は初めてである。というより青川峡界隈はヤマビルの多いところなので避けてきたのだった。
 朝5時起き、登山口7時には出発の予定だった。就寝が遅く、自宅7時出発になった。東名阪は良く流れていたが行楽シーズン到来とあってか名古屋西ICを出てから蟹江辺りから渋滞気味になった。
 登山口には8時30分到着。小さな墓地のPはすでに満車で路駐もあった。関西ナンバーの他山梨ナンバーもあった。山野草はこんなにも人気が高いものなのか。田中澄江『花の百名百名山』の影響で、山歩きの楽しみ方に革命的な変化をもたらしたのだろう。墓地内の芝生に何とか寄せられた。40分に出発。
 植林の中に入ってゆるやかに登る。寝不足のせいか、体が重い。いくらも歩いていないのに、387mの尾根に乗った辺りで長休みになった。水を飲んで気を取り直す。
 しばらくはゆるやかな照葉樹林の中の道を歩くといきなり石灰岩の見上げるような急登になった。南西斜面には緑の濃いイチリンソウの草が開花を準備中であった。丸山まではきつい登りに耐えた。小さな菫の花が咲いている。丸山はいわゆる典型的なカレンフェルトの風景で小さな花が多い。ここで休んでいるパーティも多かったので私も一休みした。ようやく後尾に追いついたのである。
 丸山からは緩やかに下ってまた登ってゆく。どこからかキツツキのドラミングが聞こえてくる。植生は落葉樹の林になった。となりのセメント鉱山の現場が丸見えである。
 体が温まってきたせいかピッチも少し上がった。草木834mの頂上は巻道でパスしてしまったようだ。途中のピークで名古屋から来たという若い登山者に会った。いろいろ話を聞くと親が大町市出身とかで彼も山が好きになったらしい。遠望の乗鞍岳、御嶽山、中央アルプス、能郷白山などの山岳同定を楽しんだ。お目当てはフクジュソウだったとか。見られないので引き返すというが多志田山965mまで行くというと同行することになった。旅は道連れである。
 立ち止まっては地形図を見て、あれは竜ヶ岳、静ヶ岳、銚子岳などと現在地確認した。話を交わしながら登るとあっという間に多志田山に着いた。12時10分だった。
 雑木林の中の穏やかな山頂だ。新緑期には美しい林になるだろう。周囲にはまだ残雪が多い。残雪の上に黒っぽい春の泥がしっかりついている。登山者が多いことを示す。藤原岳を目指す登山者の後ろ姿を見たがここで引き返す。昼食後12時56分下山。
 遅い出発と思ったがまだ登ってくる登山者もいた。膝をかばいながらゆっくりと下った。15時20分着。まだクルマは多い。大貝戸周回組だろうか。
 下山後はいなべ市鼎の龍雲寺に向った。禅寺の庭の句碑の写真撮影である。以前と変わらぬ風景にホッとする。
 戻って阿下喜温泉あじさいの湯に入湯して帰名。帰路は桑名ICへの道が渋滞したので市街地を抜けてR1を走った。