秋山が好き2022年11月06日

 有名な額田王の和歌である。網掛山の黄葉を楽しんだ際はこの和歌が頭に浮かんだ。

冬ごもり 春さり來れば 鳴かざりし
鳥も來(き)鳴きぬ 咲かざりし
花も咲けれど 山を茂み
入りても取らず 草深み
取り手も見ず
秋山の木の葉を見ては 黄葉(もみち)をば
取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く
そこし恨めし 秋山われは    額田王

歌意
冬が過ぎて春になると いままで鳴かなかった鳥も来て鳴きます 
咲かなかった花も咲きます でも山は茂りあっていて入って手にも取れないですよね 草も深く手折って見ることも出来ないですよね 
一方 秋の山は木の葉を見るに付け 黄葉を手に取っては賞賛し 
まだ青いまま落ちてしまった葉を手に取って 
また地面に置いては歎いてしまいます そんな一喜一憂する 
心ときめく秋山こそ 私は好きです

・・・・今もそうですが1400前の昔も錦秋の秋に軍配を上げたんだと思います。

湯豆腐や命の果ての薄明り 久保田万太郎2022年10月28日

 色んな人がいろいろに解釈をしている。背景を考えなければ平凡であるが、そこは作家の言葉の斡旋で読み過ごされないような心配りがある。命の果て、って何だろうと思わせる仕掛けがある。
 小林一茶もそうですね。
    露の世は露の世ながらさりながら
子供の儚い人生を詠んだ句です。
 名句の奥深さをじっくり味わいたいものです。

この道や行く人なしに秋の暮れ 芭蕉2022年10月27日

 俳諧の道を説いても弟子には理解されなかった。道を極めたトップに立つものであっても追随者がなくては継承は覚束ない。そんな寂しさではないか。
 世の中にはお金をいっぱい貯め込んでも友人を失ったり、家族に恵まれなかったりする人がいる。あるいは政家家や経営者としての成功者でもいったん地位を降りると弟子や支持者が雲散霧消する人もいる。
 やがて冬の季節に入る。寂寞を一層感じる秋の暮である。

老残のこと伝わらず業平忌 能村登四郎2022年08月29日

ソース:http://www.g-rexjapan.co.jp/blog1/archives/626
アメリカで80代以上の老人へアンケート(コピー)

質問 「人生で最も後悔していることはなんですか」
ダントツの一位は

「チャレンジしなかったこと」
色々なしがらみや、そして勇気を出して挑戦できなかった・・なぜあの時チャレンジしなかったのか・・・人生の終盤になっての後悔の一番です。

二位

他人がどう思おうが気にしなければよかった

人からの評価、噂、視線を気にしたことがとてももったいないと思った。

また、他人の意見を気にすればするほど行動も鈍くなり自分自身ができることがなかなかできなくなってしまう。

ホントの話、そんなことは気にしなくてよかった。

自分がそうすればよかったか、何をするべきか、どう進めればいいか。

そう考えて進めればよかったということです。

三位

幸せをもっと噛みしめたかった

不満を感じたり愚痴をいったり・・そんなことよりも今の幸せをもっと感じていたかった。

食事もできる、健康でいられる、住む場所もある・・それでも十分幸せだ・・

幸せの敷居を下げることがとっても大事だとおもった。

四位

もっと他人に尽くせばよかった

自分のことばかり考えていくことで、人間関係までも荒んだり、いつも間にか他人の悪口ばかり言うようになったり。。

もっとこの人のために何がでくるだろう。何か提供できるのではないか・・と考えることもあるそうです

五位

くよくよ悩まなければよかった

なんでうまくいかなかったのか、そして悩んだ挙句に行動もできなかった。悩む時間よりも、現実的な対策に時間をかければよかったと思ったそうです

六位

家族ともっと時間を過ごせばよかった

身近な人、家族を大事にできない人は仲間やお客さんを大切にはできません。身近な人、家族をもっと大事にしたかった。どんな家庭でも別れもあります。

年齢とともにそれは増えていくものです。

七位

もっと人に優しくすればよかった

人を批判したり、非難している人。そんな人がもし他人だったらその人と仲良くしたいと思うだろうか?否定的な言葉をかけるのではなくて、もっと他人に思うやりを持った言葉をかけれたのではないだろうか?という後悔です

八位

不安を抱えながら生きるべきではなかった

不安はお化けと一緒でいつ出るかわかりません。そんなことに不安を抱くよりも自分ができることに力いっぱいチャレンジすればよかった。

九位

もっと時間があれば。。。
年齢と共にできることは限られてきます。

十位

思い切ってチャレンジすればよかった。

挑戦したい、これもやりたい、そう思いながら人生を生きていつも間にか挑戦することができなくなっている自分がいる、人生後半戦で強く感じることで半面、頑張ろうとチャレンジしている青年をみると自分に置き換えて非常に熱心に応援したりする。

でも、自分もやっておけば。。。と後悔の念は付きまとってしまう。

一度の人生、挑戦していけばよかったという後悔は非常に多いですね。

その他

自分を大事にすればよかった。

自分で自分をなぜ責めたのか?もっと自分を褒めればよかった

他人の言葉よりも自分の直感を信じて行動すればよかった
もっと多くの旅をすればよかった
沢山の恋愛をしたかった
時間を大事に使えばよかった
子供たちに好きなことをさせて上げたかった
そのためにも経済力や哲学などしっかりつけておけばよかった

言い争いなどしなければよかった
(もっと相手を理解すればよかった)

自分の情熱に従っていきたかった
もっとがんばればよかった
本音を言っていきたかった
目標を達成したかった、そのために頑張りたかった
目標を設定し進んでいくことは素晴らしいことです。

自分にとっての目標は何だったんだろうか?

そしてそれを達成するために何かしただろうか?

いかがでしたでしょうか?

どれも重要なことだと思います。上記のことは人生の終盤戦で気づいても中々改善できないかもしれません。

このようなアンケートをみてどう感じるかは人それぞれだと思います。

だた、大事なことは

後悔しないこと
まとめると、今が幸せで、今に感謝し、そしてチャレンジし続ける。それが後悔が少なくなる生き方のようです。もちろん自分自身に問いかけてみれば答えは出るように思います。

どのような人生であっても後悔する生き方は誰しも望まず、

後悔しない生き方を望むと思います。そんなときに参考になるかもしれない内容と思い紹介しました。
以上

※後悔は先に立たず・・・という有名な言葉はある。誰しもやりたかったことがやれずに後悔するが、当時は熟慮した上で慎重策を選んだはずです。失敗したら丸裸になる。家族を路頭に迷わすことはできない、と深慮すると冒険はできない。
 冒険すると何万人かに1人は成功する。しかし冒険なれするといつかはやられる。

*けものを追う猟師山を見ず・・・山に精通したような猟師、山菜取りが山中で下山できずに死ぬことがある。

*リスクとは日常生活の糧を得る行為というアラビア語。昔は山へ芝刈りに行ったし、川に魚を捕りに行った。少なからずリスクを負っていた。今はギャンブル、相場、事業などに使うが由来は生活の糧を得る行為だった。

*華やかに活躍した在原業平を詠んだ俳句

老残のこと伝わらず業平忌   能村登四郎

高齢に生きることは老残の身をかみしめることである。

霧ふかき積石に触るるさびしさよ 石橋辰之助2022年08月12日

 山頂とか分岐点とかの要所に積まれた石の積まれた標をケルンという。霧のふかい山路を歩いてケルンに到達したが何も見えず、山路の一区切りはついたが景色が見えなくて寂しいというのである。


https://zatsuneta.com/archives/10821a2.html

 昭和時代の俳人・石橋辰之助(いしばし たつのすけ)の1948年(昭和23年)の忌日。

石橋辰之助について
1909年(明治42年)5月2日、東京市下谷区(したやく、現:東京都台東区)に生まれる。別号に竹秋子(ちくしゅうし)。東京・安田工業学校電気科を卒業。

学生時代から俳句雑誌『ホトトギス』に投句。卒業後は照明技師として帝国劇場、神田日活、新宿帝都座に勤め、戦後は日本映画社に勤務、制作課長となる。

1931年(昭和6年)に『ホトトギス』を離れ、水原秋桜子(みずはら しゅうおうし)の俳句雑誌『馬酔木(あしび)』に参加、1933年(昭和8年)に同誌同人。竹秋子の号を用い、山岳俳句において新境地を開く。

1937年(昭和12年)に『馬酔木』を離れ、新興俳句運動・プロレタリア俳句運動に参加。翌年に『京大俳句』に参加。1939年(昭和14年)には西東三鬼(さいとう さんき)・三谷昭(みたに あきら)らと『天香』を創刊するが、1940年(昭和15年)の「新興俳句弾圧事件(京大俳句事件)」に連座し検挙され、『天香』も終刊を余儀なくされる。

戦後、新俳句人連盟に参加し、委員長を務める。1948年(昭和23年)8月21日、急性結核により死去。39歳。句集に『山行』(1935年)、『家』(1940年)、『妻子』(1948年)、『山暦』(1951年)、『定本 石橋辰之助句集』(1969年)などがある。

夫のるす月さへ入れずとざしけり 夜雪庵金羅2022年03月28日

 藤田湘子の『実作俳句入門』(立風書房、1985年)のP43に月並俳句の事例として掲載されていた。江戸時代の女性の俳句である。
 今夜は夫が留守だから夫以外の男はもちろんのこと、名月の光さえ入れまいとして早々と閉ざしましたよ。という句意。これを俗臭といって嫌った。作者はたぶん町人の妻で貞女に成り代わって作句したのだろう。
 江戸時代の宗匠は俳句はその手本は芭蕉に倣え、と言い、俳句は人生を謳うものと指導したらしい。それはそうだが、俳句の中に持ち込んだ倫理感、道徳感、教訓、駄洒落、穿ち、謎解き、理屈、俗悪な風流ぶり、浪花節的人情、小主観、低劣な擬人法を批判した。
 明治時代になって、正岡子規は江戸市中の古書店から江戸徘徊の句集を集めて分析した結果が月並俳句の山と知った。そこで芭蕉のような人生を謳え、とした主観句は排除し、与謝蕪村の写生をたたえた。弟子の虚子、碧梧桐も後に続いた。
 虚子は客観写生を主導して今日に至る。
 ところが、秋櫻子らは虚子に反旗を翻した。弟子筋から再び、水原秋櫻子のような主観重視の俳人が出てきて虚子の元を去った。新しく「馬酔木」を立ち上げた。秋櫻子が死ぬと又は存命中でも「馬酔木」からは続々弟子が去っていった。そして、今に至るまで駄句の山を築いているという。
 秋櫻子の弟子の藤田湘子は「鷹」を立ち上げた。ここからも弟子が独立している。新たな中日俳壇の選者「鷹」の編集者である。どんな句を採用するのだろうか。

うらうらとかすむ春べになりぬれど山には雪ののこりて寒し 昭和天皇御製2022年03月27日

ソース:https://www.yamareco.com/modules/diary/1645-detail-24214

昭和天皇の山の歌(その2――心象風景の歌)

うらうらとかすむ春べになりぬれど 山には雪ののこりて寒し

でした。これが単なる叙景の歌でないことは、同じ題で作られた御製、

春たてど山には雪ののこるなり 国のすがたもいまはかくこそ

を見ればわかります。戦後2年半が経過し、復興の明るい兆しは見えるけれども、まだまだ雪や氷に閉ざされたところが残っている、というのは正直な実感だったのでしょう。

昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約の発効は、日本の復興における大きな一歩でしたが、昭和天皇はその日2首の歌を詠まれています。

風さゆる み冬は過ぎてまちまちし 八重桜咲く春となりたり
国の春と 今こそはなれ霜こほる 冬に耐へこし民のちからに
以上

毎年よ彼岸に入りに寒いのは 正岡子規2022年03月12日

ブログ「おばあさん見習いの日々(ダジャレ付き)」から

 「母の詞自ずから句となりて」

  毎年よ彼岸の入りに寒いのは   正岡子規

 何気ない母の言葉が自然に五七五になっていて、面白いと思ってそのまま俳句にしたという由。

 「彼岸だというのに、随分寒いな」

 「毎年よ彼岸の入りに寒いのは」

 こんなやり取りがあったのでしょうね。
以上
 今日は三寒四温の温にあたる日でほわっとした温かい日だった。それでも夜は冷える。一日の気温較差が春は大きいのだから留意が要る。
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 車の燃料タンクの残量が半分以下になったので給油に行った。名古屋市内ではガソリン180円/リットル、軽油150円/リットルとの表示が目に入る。
 うわっ、高騰している。ロシア対ウクライナ戦争の影響だろう。
 ロシアはエネルギー供給国なので、原油生産国のアラブ、アメリカの石油が高く売れるわけだ。これはたまらんなあ、といつもの安売り店では軽油141円/リットルと以前の一般店の高値になっていた。この店も5円アップしてしまった。他店が150円前後だから安く見える。
 別の店では灯油を買い増しした。105円/リットルになった。昨年暮れは95円だったはずだが。もう何とかやり過ごせそうな気もするが、毎年春の彼岸には気温が下がる。だから掲載の俳句も自然に生まれたんだろう。今しばらくは石油ストーブが要る。

おおむね山は山を愛する人に属す 白楽天2021年08月08日

白楽天、本名は白居易(772年〜846年)。集大成の白氏文集は、源氏物語、枕草子、和漢朗詠集などに影響を与えていると言われる。ちなみに、芭蕉の座右の書には白氏文集と源氏物語が入っている。


游雲居寺贈穆三十六地主  唐代:白居易

亂峰深處雲居路

共蹋花行獨惜春

勝地本來無定主

大都山屬愛山人


雲居寺に游び、穆三十六地主に贈る  白居易
     
亂峰(らんぽう) 深き處 雲居の路、

共に花を蹋で行き 獨り春を惜しむ。

勝地 本來 定主なし、 大都 山は山を愛する人に属す。

乱峰・・・無秩序に面白く並ぶ峰
勝地・・・景色の良い所
大都・・・おおむね

面白く重なる峰また峰の奥深く、雲居寺に通う路を
みんなと一緒に花を踏んで歩きながらひとり春を愛惜する
景勝の地はもともと決まった持ち主はいない
おおむね山は山を愛する人のものである。

鯉こくの食ひたき日なり普羅忌なり 石田波郷2021年08月07日

 八月八日。俳人前田普羅(本名忠吉、一八八四~一九五四)の忌日。「ホトトギス」へ投句、一躍大正期を代表する俳人となる。昭和四年、「辛夷」創刊主宰。

・近代の俳人の中で、もっとも多く切字を使った俳人は、前田普羅、飯田蛇第初、久保田万太郎、石田波郷の四人

霜柱俳句は切れ字響きけり   波郷

・波郷は他にも普羅忌を読んでいる。

・・・・俳句は韻律を重んじる。高浜虚子の自然詠に物足らないと決別した水原秋桜子とそこから派生した結社俳人らは叙情に流れて韻律性を忘れてしまった。社会を詠め、人間を詠めと主張されて、評論家もそれを支持した。俳句ジャーナリズムも人間探求派などと囃した。山本健吉が編集長になって囃した雑誌「俳句研究」も今は廃刊である。
 戦後の一時期に盛り上がったのである。社会性俳句は戦後の貧しさが背景にあったが俳人らも大学教授の職にありついて食えるようになると転向していった。
 人間を詠むのは良いが、人事句は季語のある川柳になりやすい。五七五の散文になった。実際、今はそんな駄句で溢れている。波郷は秋櫻子系でありながら普羅の俳句の韻律性に目覚めて、秋櫻子系の中のホトトギス派などと自分で言っていた。
 波郷は出征兵士だった。病気になって復員してきた。或いは復員後に病気がちになったのか。おそらくタンパク質の不足で栄養失調になったのであろう。肺結核になり死亡した。鯉こくはそんな病人にはごちそうに思えたのである。体が求めていたのだろう。