蛍火を追つて久女の墓の前 杉田たか2019年11月29日

 杉田たか 句集『時鳥』から

 季節はさかのぼるがこの句も久女の墓の付近を飛び交う蛍を詠んでいる。幻想的な句である。あそこはたしか小さな川があったと記憶している。天然自然がまだまだ残されているので蛍が生息できるのだ。作者はきっと墓守のみならず句碑の周囲の清掃なども担われているのかと想像する。これまで数回は訪ねたがいつ行ってもきれいだった。忘れられた俳人ならば句碑も墓も草茫々になって荒れてゆくばかりだろう。久女を愛する愛好家が絶えないのだろう。
 今冬は北九州に旅を考えている。門司港に近い北九州市(旧小倉市)の堺公園の久女句碑や英彦山登山もやれたら良い。

データ:https://www.myliving.info/blog/20279/

「北九州市ゆかりの俳人である杉田久女と橋本多佳子の功績を称えて、「杉田久女・橋本多佳子記念室」が、2018年(平成30年)1月16日(火)北九州市立小倉城庭園内(北九州市小倉北区城内1-2)にオープンする。

施設は、小倉城庭園を訪れる多くの国内外の方に北九州市が誇る二人の俳句作家の情緒あふれる言葉をとおして、「文学の街・北九州」の魅力を発信するとしている。

展示内容は、小倉城庭園売店の一部(16㎡)を記念室に改修して、久女・多佳子の功績を解説版で紹介する」以下略
月曜日(月曜日が休日の場合はその翌日)、12/29~1/3

狐来る久女の墓のほとりまで 杉田たか2019年11月28日

 杉田たか 句集『時鳥』から。杉田たかさんは「杉」同人。「晨」、「槐」、を経て同人誌「家」に参加。「杉」と「家」を拠点に詠む。

 久女の墓で分かる通り、場所は愛知県豊田市小原町の松名。岐阜県境にも近い。作者は杉田久女の嫁ぎ先の墓地の近くに住んでいる。今は長屋門しか残っていない。その奥に久女、娘の石昌子の久女ファン向けの句碑が建っている。久女の墓は夫の宇内の墓と並んで少し離れたところに夫婦で眠っている。たかさんは杉田姓からも杉田久女の家の親戚筋にあたる。狐が何か餌になるものを探しているのだろう。久女は才媛だったが人生には寂しさと薄幸のイメージが伴う。狐が出没する墓地にはいかにも寂寞に誘う。

猟夫来て桶の氷を叩き割る 杉田たか2019年11月27日

 杉田たか 句集『時鳥』から

・・・今時はベレー帽に洋犬を連れたハンターの謂いだが、猟夫(さつお)という季語を用いると柴犬か紀州犬、秋田犬などの伝統的な日本の猟犬を連れた猟師を彷彿する。寒い朝、凍結した氷が張った桶を猟銃の持つところで割ったというのだ。捕った獲物の解体でもするのかな。
 久女の夫の宇内は晩年になると小原村松名の実家に帰って、猟師を楽しんだという。たかさんは昭和6年生まれ、久女は昭和21年1月21日に死去したからたかさんは15歳で葬儀にも参列したかも知れず、同時代を生きている。この猟夫は宇内の残像かも知れません。否深読みか。
 宇内は昭和21年小倉中学を辞し小原村に帰郷、昭和37年、逝去。つまり妻の死去を機に小倉市(現北九州市)を去った。娘の昌子さんも同行しただろう。昌子さんはウインパーの『アルプス登攀記』の翻訳もあるアメリカ文学者の石一郎氏と結婚。「岳人」にも随想を寄稿。

峠見ゆ十一月のむなしさに 細見綾子2019年11月19日

 1907年(明治40年)、父・細見喜市、母・とりの長女として兵庫県氷上郡芦田村、現・兵庫県丹波市青垣町東芦田に生まれ(ウィキペディア)という。地形図で見ると四方を500m~600m級の山々に囲まれた盆地である。隣へ行くには峠を越えることになる。
 ネットでヒットする鑑賞文や解説文はたくさんあるがあまり的確な文はない。大都会に生まれ育った俳人ばかりでもないと思うが山に囲まれた山人の気持ちは中々に分からない。
 彼女は日本女子大国文科を出るほどの聡明な娘だったらしい。上京後に肋膜炎を患い病弱でもあった。ゆえに療養のために帰郷することとなる。そんな彼女には山の連なりが障壁に見えたことだろう。あの山の向こうに行ってみたい。峠を越えて都会の生活にも触れてみたいと。
 病弱である彼女には生気を失った枯木山の峠すら越えがたく虚しさを覚えるばかりだったのである。
 同じく病弱だった山口誓子の山岳俳句には山へのあこがれがあった。三重県塩浜の自宅から日々鈴鹿山脈の山を眺めて俳句を作り慰めにしていた。綾子も俳句を慰めにしていた。俳句に打ち込んで行くうちに俳人の沢木欣一と知り合い結婚。病弱も克服していった。
 沢木欣一主宰の「風」は写生を第一とするが綾子の俳句観を反映させたのである。今は「伊吹嶺」に継承された。

恵那の雪ひとまず消えし小春かな 松本たかし2019年11月09日

岡田日郎編『山の俳句歳時記』から。

 恵那山は森林におおわれた山である。北アルプスの森林限界は南北で違うけれど2300.m以上、南アルプスや中央アルプスは2500m以上ですから恵那山は山頂まで森林におおわれている。
 そんな恵那山は東海地方から眺めると真っ黒な山体になる。降雪してもしばらくするとまた真っ黒になる。白っぽいのは樹林を覆っている間だけになる。
 南からは恵那山を眺める場所も機会も余りない。愛知の茶臼山からは見える。しかし初雪はたいていは北面に残る。
 作者の松本たかしはどこから眺めたのだろうか。たぶん伊那谷北部辺りからと想像してみる。この作者にはもっと人口に膾炙した名句がある。
    玉の如き小春日和を授かりし
 しかしやっぱり地名の持つ確かさ安定感は良い。具象性があって然りだ。

出羽人も知らぬ山見ゆ今朝の冬 河東碧梧桐2019年11月08日

 特選 名著復刻全集 近代文学館  大須賀乙字選碧梧桐句集。
復刻版は昭和50年5月1日発行だが原典は大正5年2月5日の発行になる。発行所は俳書堂。
 序文は乙字が書いている。当時の俳句観を知るには貴重なので転記しておきたい。

「我国にはもと傑れたる叙景詩はなかったのである。芭蕉は叙情詩人たる素質の人であるが、十七字に客観的内容を取って僅少の名句を得たのである。蕪村は芭蕉の完成したるものに憑って俳句を純然たる叙景詩にしたのである。蕪村の叙景は、しかしまだ概念的なところがあって、現在の感覚に触れた生々としたものではない。子規の冩生になって初めて客観的具象化を遂げたのである。しかし子規の寫生は部分的感覚に執してはゐない、纏った気分を把握して天然に向って居る。理知的按排の巧妙な芸術を築き上げて居るのである。子規の進んだ跡を最も正直に行った者は碧梧桐である。
 感覚の鋭敏さにおいては碧梧桐は稀有の人である。子規の判断は純理知の働きに近いものであったけれど、碧梧桐の判断は感覚的要素が基礎となって居たから、子規の感化が薄らげば危険であるべき将来を持って居たのである。此句集を讀めば誰でも「ものの感じを掴む驚く可き鋭敏さ」に感服しないものはなかろう。藝術の為の藝術としての俳句は子規碧梧桐に至って完成されたといってもよいのである。
 子規にも模倣句は可なりあるが、碧梧桐にもそれは少なくない。しかも良い調子にこなされて居るから、なかなか気の付く人はないのである。調子のうまいことも碧梧桐の特色に數へなければならぬ。
 文泉子は「碧梧桐は調子の天才だ」といった。音調も感覚的要素であるから碧梧桐の立場がそこにある事は愈々明らかである。碧梧桐の句といへば桔据難解のやうに世間では思って居るが、決してさうでないことは此句集が證する。初期の句は、どうしても概念的であるを免れないが、歴史的位置を占めて居る句として掲げて置いた。佳句は明治三十八九年頃より四十一年頃までのものに多い。殊に東北行脚中のものには、なかなかの絶唱がある。
 一度新傾向の聲に驚いてから碧梧桐は、局分されたる感覚に瞑想を加へて横道に外れて了った。さすがに行脚をして居るから實境の見る可き句もあるけれど、四十三年以後になると、殆ど拾ふ可き句がない。俳人碧梧桐を再び見ることは出来ないと思ふ。信に惜しいことである。其故にこれは序文にして又弔文である。
  
 大正四年十二月五日   於千駄谷寓居  乙 字 識」
 
・・・・碧梧桐も乙字も忘れられた俳人である。俳論家の乙字らしく理詰めの碧梧桐押しである。碧梧桐は調子の天才と評したのは俳句は韻律詩であることを証明している。芭蕉も舌頭に千転せよ、と論じたから俳句の骨法である。


 掲載の俳句は冬の部 立冬の句にある。

 出羽人はヤフー知恵袋の回答に「出羽国の人間の事だと思います。
出羽国とは今の秋田県と山形県を合わせた地域です。」とある。

 今朝の冬は「立冬の日の朝。引き締まった寒さの感慨をいう語。 [季] 冬。」ですが今まで使ったことはない。

ブログ「水牛歳時記」の立冬から抜粋すると、

「二十四節気の一つで、太陽が黄経二二五度の点を通過する時点を言う。新暦では十一月八日頃になる。暦の上ではこの日から「冬」である。「りっとう」という言葉の響きが硬いせいか、俳句では「冬立つ」「冬に入る」「冬来たる」と用いられることも多い。また立冬の朝を「今朝の冬」と言うこともある。」

・・・はてどこの山を指すのか、興味津々です。何度も口にして読むと確かに調子が良い。なるほど納得です。
 今朝も猿投の山がくっきり見えている。窓からは雲一つない快晴の朝です。北は曇りがちだが東は段戸高原の山々が見えている。確かに立冬よりも今朝の冬の方が使いやすい。今は神無月で2019年の場合は10月28日(月)~11月26日(火)に当たる。
  神留守の猿投の山に対面す    拙作
  くっきりと猿投山見ゆ今朝の冬  拙作

存分に空焼かせたり秋の嶺 山口誓子2019年11月07日

2冊の中央右寄りは御在所山、左の鋭峰は鎌ヶ岳
 昨日は冬並みに寒かった。風邪を引きそうになった。日中は夏の服のままであったが夕方からの定例会には一旦自宅に帰って冬服に着替えた。とっくりの薄手のセーター、ウールのジャケット、厚手の繊維のズボンで固めるとちょっと暖かくなった。私もすでに老人なので若いころのようなわけにはいかない。自覚はあるが・・・。
 今日も猿投山ははっきり見えるがやや霞んでいる。冬霞である。恵那山方向は白い雲が沸いているから冬型の気圧配置が変わって緩んだのだろう。小春日和の季節が恋しい。

 さて掲題の俳句は鈴鹿山脈の夕焼けを彷彿させる。誓子は四日市市の海辺付近に住んでいた。戦前に患い戦後は療養のためだった。あそこからは鈴鹿山脈が良く見えるだろう。特に空気が乾燥した今時は夕焼けが映える。詠んだ時期も今頃と思う。誓子には慰めであり、やがてはその御在所岳に登頂するまでに健康を回復してゆく。
 いかにも誓子らしいのは空焼かせたり、と把握したところ。実はこの風景は日本山岳会東海支部で編纂した『東海・北陸200秀山』上下の表紙になった。上下で一枚の写真になるので上下ともお買いください、というメッセージが込められている。2009年中日新聞社から発刊したからもう10年になる。

秋風の吹きくる方へ帰るなり 前田普羅2019年11月03日

 昭和23年『定本普羅句集』から。小恙数日の後9月24日、大和関屋を発つ。」とある。(中西舗土『鑑賞 前田普羅』)
 奈良県の弟子宅から富山県に帰る。帰宅したって娘は嫁いでいない。妻は昭和18年1月23日に死去。天涯孤独の身になっていた。そんな家族環境を知るとこの句の寂蓼感がいや増すではないか。普羅の句には寂しいものが多いのは孤独な人生であったことと性格にも寄るのだろう。

 昭和23年4月にはいなべ市鼎の龍雲禅寺に逗留し、長屋佳山と交流し、漢籍を読んだりしている。その後に奈良県に向かったようだ。現在も長屋門に俳句の札がかかり庭には句碑が二基建っている。親交の度が分かる。
http://www.inabe-gci.jp/nature/2018/04/post-8.html
 いなべ市でも農業施設「フラール」のフラは普羅に因むとか。鼎の手前には大きな案内板もあり、地味だが顕彰されている。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/11/25/6642904

秋深き隣は何をする人ぞ 芭蕉2019年11月02日

 人口に膾炙した俳句である。
 ヤフー知恵袋にある回答は「卒するまで後二週間足らずにして、まさに「旅に病んで」の我が身には招かれた句会に出ることも叶わず、やむを得ずして託した、いわば断腸の句であるだけに、やはり初句は「秋深き」の連用中止形にての余韻の深さを採りたいと思います。
 奥の細道という長旅の疲れと持病の胃腸患いの悪化などに苛まれながらの老残の身については二日前にも「此秋は何で年よる雲に鳥」と「旅懐」を詠ったばかりです。」となっている。
 隣人への好奇心から詠んだわけではなく、自ら病床にあって、フレイル(奥の細道の旅の疲れ、加齢)の状況で詠まれたようです。孤独感が表出しています。そういう季節なんですね。
 
 朝夕が寒くなってきた。東南の角の面した寝室は朝日が入るが午後早くには陰ってしまう。二面がガラス窓なので気温がぐっと冷える。それで11/1には夏の間は物置代わりにしていた窓のない部屋に移動した。四面窓がないと朝になっても気温の下がり方が優しい。冷え方が優しいと小便に起きる回数も減る。寝具も掛布団1枚に毛布を用意だけしておくが使わずに済んだ。
 11/8の立冬まであと6日間、いよいよ冬の季節到来だ。服装もノータイをやめてきちんと結んでも暑くならないようになった。そして年内はもうあと二ヶ月ではないか。お盆を過ぎると早いというが、歳月人を待たず。

新涼の身に添ふ灯影ありにけり 久保田万太郎2019年10月13日

 朝5時30分過ぎ出発した。東の空が赤く焼ける。少し手間取ったが6時30分に名古屋ICから名神、東海北陸道へ。道路情報では中央道から東はみな通行止めになっている。現在台風が通過中である。鉄道も止まるだろう。
 高速は飛騨清見までは順調に1時間半で着いた。まだ8時なら時間はあると高山経由でR41へ向かった。ついでに高山市内の吉野家で朝食も。さてR41で飛騨古川まで来るとR360の入り口の電光掲示板にR41は船津で通行止め、それなら宮川町経由で左折したが、R41は猪谷付近も通行止めになっていたのでUターン。また高山西から清見に戻り富山ICへ行く。11時30分過ぎになりぎりぎりで着いた。そのまま予約のホテルのPへ止めて会場の電気ビルへ向かう。

 12時電気ビルへ。1年ぶりの再会であるが今回は関東からの出席者が北陸新幹線の不通、高速道路の通行止めで来られなかった。他に毎年温かく歓迎してくれた人も高齢で来られなかった。もう1名も病気とかで来られず再会はならなかった。これも世の中の移り変わりであるが今年は台風が激変させた。

 13時から辛夷賞、衆山皆響賞の発表と受賞式、大会への投句の受賞句の発表と受賞式も連続的に行われた。かつてとの違いはほとんどが女性であることとしかも高齢であることだった。壇上にすら上がれないのだった。
 わが結社も老いたり。
 表題の俳句はあいさつの中で、句の語句の一部の「身に添う」俳句を作るようにとのアドバイスがあった。わが結社は古参結社の10社未満の中に入るらしい。
 但し、他の老舗結社、有名な大結社も続々解散していることを思うとまだ大会を挙行するだけましか。最古参の「ホトトギス」でさえ最盛期の30%以下にまで会員数が減少したという。今後も会員数減、会費減、財政難から俳句雑誌の発行が困難になり解散することだろう。
 人気のあった金子兜太の「海程」、加藤楸邨の「寒雷」も解散というのは信じがたい。中村草田男の「万緑」はすでにない。かつては山本健吉が人間探求派として持ち上げた結社ばかりが寂れてゆくのはどうしたことか。金子兜太は水原秋櫻子の弟子だったからいわゆる新興俳句が守旧派の「ホトトギス」よりも先に寂れてゆく現象はどう説明が付くのか。
 結局は人間把握の甘さだろうに。山本健吉は28歳で「俳句研究」の編集長になり人間探求派を言った。当時の文学者は大抵は左翼系であり、若かったのだ。マルクス、レーニンをかじるもののほとんど未消化のままで、社会生活を十分経験せず、人間観察は未熟だし、青いまま文学を論じる。論だけは立つ。楸邨も同じ傾向がある。
 人間探求派(主に左翼系俳人)は現在までに駄句の山を築いてきたのだ。これでは継承者は育たない。社会派と囃された沢木欣一も「風」で活躍したが東大に就職すると左翼から転向したという。死後「風」は解散し、愛知県支部が「伊吹嶺」に継承された。
 最後は投句された俳句への主宰の講評が延々と行われた。結社は主宰がすべてといわれる。主宰の独裁であるが支えるのは会員の会費であるから力関係は五分五分である。十分な鑑賞力がないとそっぽを向かれる。
 当会は毎年の年次大会や1000号記念大会でも俳壇から来賓を招かなかった。これは異例なことらしい。前田普羅の方針でもあったらしい。それはそれとして北陸のガラパゴスにならなければ良い。
 一連のイベント終了後は懇親会会場へ。ここも関東からの会員の欠席していては賑やかさが違う。遠方は私のみとは寂しいかぎり。恒例のおわら節の踊りも今年は無だった。最後は残心句会へ。
 ホテルに入ると睡魔に襲われるごとく寝た。