登山の死いつかわが身に銀河浴ぶ 平岩武一2020年08月17日

 東海白樺山岳会ブログで遭難件数を列挙し始めて、6/19から8/16までの約2ヶ月弱で49件発生した。7月末までで15件、8月だけを取り上げても34件ということになり、1日でほぼ2件発生していることになり、これは異常事態である。
 昨年の8月と比較すると名山や日本アルプスが多いが今年は北アに集中し、全国各地の低山に拡散した傾向がある。コロナ禍で有料、食事付きの山小屋が北アに限られるのでこれは予想通りといえる。
 もう一つは高齢登山者の遭難多発と死亡率の高さが群を抜いている。特に道迷いから行方不明になる事例が後を絶たない。ただでさえ、高齢になれば筋力低下は免れないのに知ってか知らずか、滑落死が多い。高齢者の滑落、転倒、転落は死につながりやすい。筋力の低下は左右前後のバランスをつかさどる重要な筋肉なので、意識的なタンパク質の摂取が必須であろう。加えてVB1,VB2,VB12などとVCも重要なものである。
 お盆休みも終わって、山岳遭難も一段落するだろう。8/21からは猛暑も一服するとの予報が出ている。どこかの静かな山域で静養したいものである。ステイホームは何もしないようでも結構体力を消耗している。在宅の熱中症患者が死亡することもある。暑いというだけでも消耗するのである。

炎天の遠き帆やわが心の帆 山口誓子2020年08月13日

 俳人の山口誓子は東大卒、住友のエリート社員だった。戦前から病気もちであった。四日市市の富田で療養していた。今も家は実在するが、他人に譲渡されており中へは入れない。外には療養地だったことの碑がある。肋膜炎の療養の為に昭和16年から28年迄の12年間、三重県の四日市市富田、天ヶ須賀海岸、そして鈴鹿市白子の鼓ヶ浦に居住していた。
 近くにある句碑
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/haiku/kuhi/detail?id=457443

 暑い夏の日に遠く伊勢湾に浮かぶ帆船を見たのであろう。戦後まもない日に病弱で孤独な自分の心境を海に浮かぶ帆船に託した。白砂青松の冨田浜の療養の甲斐があり、病は段々癒えていった。
 約10年後の昭和31(1956)年5月9日に日本山岳会のマナスル遠征隊が世界初登頂を遂げた。敗戦後の日本人に勇気を与えた。
 昭和34(1959)年4月29日に御在所岳ロープウェイが開通するが、山口誓子は開通する前に自力で登山を試みる。世話を焼いていた地元の人は心配して籠まで用意したが乗らなかった。自力で登り宿に帰り、医師の診察を受けている。大抵は登頂で万歳するが彼は下山後に万歳した。病を制服したことへの安堵感であった。
 冨田の療養先からは様々な名句が生まれている。病弱であることは名句の下敷きになるのだろうか。石田波郷も然りである。山口誓子は戦争には行っていない。病弱だったが92歳まで生きた。

水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る 金子兜太2020年08月11日

ブログ「金子兜太アーカイブ Tuta Kaneko Archive」から
ソース:https://kanekotota.blogspot.com/2015/06/blog-post_24.html

「池田 
この墓碑は、何で作ったんですか。

金子 
石、石。もちろん石。かなり大きい石。

池田 
あ、棒じゃないんですか。

金子 
棒じゃないです。棒の墓碑ももちろん二、三本立ってますよ、すでに。最後に石にしたんですね。これもエピソードがありましてね、カナカ族の酋長に土地を借りないかんわけ。置く場所を借りる。カナカ族は酋長が居ますから、各島にね。ところが酋長が未だに土地を貸してくれないと、これはトラック島を訪問した人の話です。日本の軍隊に対する憎しみを持ってるわけだ。けっこう最後は彼らの食料を取り上げたり、女性に対してもひどいことをしてますからね、だから怒ってるんだ。今でもこの墓碑は寝てるっていう話があります。これは行ってきた大から最近、最近っていっても数年前ですが聞きました。実際は「置きて去る」つて、立ってるというわけじゃないんだけど、でもまあ、貴女の言うとおり、木の墓標と合わせて、それも含めて何本も何本もあるから。

池田 
それが海の方から見える。実際に見えるわけではないでしょうけど心に見える。

金子 
見えるという思い。実際は見えない。遥かに遠ざかったからね、夕方でしたからね、見えない。見えるという思い。だからカナカ族のほうで土地を貸してくれないなんて問題は、この句にとってはどうでもいいんです。私の中で映像としていつまでも消えない。今でも消えないと言っていいでしょうね。これが戦後俳句の私の出発ですから。」

・・・・引揚船の上で、目に見えるのは船尾から白く泡立つ水脈だけしかない。はるかに島を思いながら心象風景を句にしたんですね。生涯是反戦詩人に終わった。

 年譜には「1944 昭和19年 25歳 3月、主計中尉に任官。3月初め、トラック島夏島(現、デュブロン)第4海軍施設部に赴任。」とあった。

 大先輩のMさん(1913~2009、国鉄労働者、非合法時代の日本共産党員、エスペラント語の大家、JAC会員)もニューギニア戦線へ送り込まれて九死に一生を得た。ほとんどの同僚は現地で戦死した中を生還した。Mさんは96歳で死んだ。
 ジャングルの中を病気と飢餓に耐えて彷徨った人は押しなべて長命を得た点でも共通している。俳人の金子兜太(1919~2018)は99歳、俳優の池部亮(1918~2010)もインドネシア北東部のハルマヘラ島へ配属されてジャングルを彷徨った。92歳で没した。ジャングルの中に戦友を置いて日本へ生還した元兵隊には言葉もないであろう。

 先日、スマホの小さなモニターで映画「ビルマの竪琴」を鑑賞したが、引揚船の場面の映像にふと反応したのが表記の俳句であった。戦争でおびただしい数の日本兵の死を弔うために僧侶となってビルマに残る日本人の物語である。
 戦争が終わって日本に帰国できる喜びよりも現地に残したままの墓碑の守りが気になる。金子には贖罪感も多々あったことだろう。

鉢盛山は朝餉まつ山 鉢伏は 夕めし終えて月をまつ山 太田水穂2020年08月10日

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ブログ「犀川を溯る」から
 「あなたの手紙、いつもいつもなぜあゝ云うよい筆が早速にまわるだろうと感服にたえません。それは花のかんばしい野を清い水がさらさらと流れるようで す」
 これは、女学校で国語を教えていた青年教師が卒業したばかりの教え子に送った手紙の一節です。教え子は奥安曇野の南小谷に住む渋谷貞子。青年教師は、太 田貞一、歌人の太田水穂。いまから百年も前、明治三十九(一九〇六)年のことです。
 太田は当時、松本高等女学校、いまの蟻ケ崎高校の教師でした。
 貞子の文学的才能を高く評価していた太田は、文学仲間の吉江孤雁に彼女を紹介し、翌四十年、二人の結婚式で媒酌人をつとめました。
 貞子に吉江を紹介した手紙があります。
 「その人は丈は五尺五寸ぐらい、身体は肥えている方で、頬も豊かな目の丸い、笑うと愛嬌豊かな姿、小さい時から美少年と云われました。…只今は早稲田へ 教師に出る傍ら、独歩社という文学の社を立てて出版著述をしています…」
 当時、太田は吉江と文芸雑誌「山比古」の同人同士であり、上京するごとに吉江宅に泊まっていました。
 吉江と同宿していたのが、やはり同人だった松本郊外の和田出身の窪田空穂でした。
 太田は和田小学校長をしていた頃、「この花会」を創り短歌刷新運動をしていました。窪田はその頃からの文学仲間でした。
 吉江と貞子の結婚した明治四十年、太田はやはり松本高女での教え子だった亀井藤野と窪田との媒酌人も務めたのでした。
 また彼自身も、その二年後、「この花会」で知り合った有賀みつ(四賀光子)と結婚し上京、大正四(一九一五)年「潮音」を創刊し、中央歌壇で妻と共に活 躍します。


 吉江や窪田にとっても活躍の時代が訪れます。
 吉江は母校・早稲田大学に初めて仏文科を創設、教え子から西条八十、日夏耿之介、井伏鱒二、広津和郎、宇野浩二など錚々たる人物を輩出させます。
 窪田は早稲田大学の教授を務める傍ら、「槻の木」を発刊、「国民文学」派の歌人として著名になります。
 中央で活躍する彼らの脳裏からいつも離れなかったのが、自分たちを育ててくれた故郷の自然でした。
 鉢盛山は朝餉まつ山 鉢伏は 夕めし終えて月をまつ山 水穂
 塩尻の原新田(塩尻短歌館のある場所)に生まれ育った太田水穂にとって、東と西に望む二つの「鉢」の山は忘れられない山でした。
 湧きいづる泉の水の盛りあがり くづれるとすれや なほ盛り上がる 空穂
 窪田が和田から松本の高等小学校まで片道八キロかけて登下校したときを思い出して詠んだ歌です。当時、お母さんが握ってくれた三つのおにぎりの二つは昼 食に食べ、残りの一つは帰りの島立の湧水のほとりで食べた記憶を蘇らせたものです。
 いまは、わさび畑がたった一枚残るほどに減ってしまった奈良井川扇状地の湧水も、明治の頃はこんなにも水量が豊かだったのでしょうか。


 吉江の妻・貞子は、窪田の「槻の木」短歌結社に所属し短歌を詠んできましたが、昭和十五(一九四〇)年に夫を亡くし、四十六年に八十四歳でこの世を去り ました。
 
 きのふまで鳴きける百舌鳥を思ひつゝ 夕さりて夫と野路を歩む
さだ子
 
 師・太田が嫁ぐ前に送った手紙のような、夫を支えての生涯でした。
 「君の性格は、余の見るところでは、このような人に配偶されて最もその光輝を発揮するように思われるのです。…夫の事業に同情を存し、夫の事業をよく理 解して、夫と共に苦楽相い合する生活を趣味ある土台の上に立てるように」

(地域史研究家=安曇野市)
隔週日曜日掲載
以上
・・・今日は山の日の祝日なので山を詠んだ歌人の歌を掲げました。

白露にて己が咀嚼にも親しみぬ 森 澄雄2020年08月06日

ブログ「深秋会」から
森 澄雄(1919~2010)
白露(はくろ)が秋の季語。
次から次へと台風が来るにしても大気が澄んで来ましたね。一旦涼しくなってから暑くなると体に応えます。
白露は24節気のひとつで毎年7、8日ごろに訪れます。「陰気ようやく重なり、露凝って白き」の意味です。
秋は、初秋、仲秋、晩秋と分けられますが、その中で仲秋の前半には「白露」、後半には「秋分」を置いています。この頃は秋も次第に深まってきて露の降りるのも多くなります。
この句は、「己(し)が咀嚼(そしゃく)」する食べ物にもようやく慣れてきたと難しく表現しています。平易にいえば、白露の頃の食べ物は何もかもおいしいと言うことです。
作者もり・すみおの紹介は、2005年2月22日を参照。
(出典:角川春樹編「合本現代俳句歳時記」、2004年刊)
以上

・・・噛んで食べられることへの愛おしさを詠んでいるのだろう。噛むことは認知症予防にもなるという。

ブログ「ニュース&トピックス」から
https://aspirest.com/4245/

咀嚼によるダイエット効果とは?意外なメリットについて詳しく解説
2020.01.28

昔から「食べ物はよく噛んで食べるべき」と言われてきたこともあり、咀嚼の大切さを知っている方は多いものです。
食べ物をよく噛んで食べることで、胃腸への負担を減らしたり、食べ過ぎを予防したりすることができます。しかし、咀嚼は必ずしも健康面だけにメリットがあるわけではありません。
実は、咀嚼には「ダイエット効果」もあると言われているのです。
そこで、今回は咀嚼によるダイエット効果について、詳しくご紹介します。

咀嚼でダイエット効果が期待できる理由

咀嚼でダイエット効果が期待できるのには理由があります。
まずは、どのような理由があるのか次からの内容をご覧ください。

消化吸収を高める

咀嚼でダイエット効果が期待できる理由として、まず挙げられるのが「消化吸収を高める」といった点です。
しっかりと咀嚼することによって、食べ物がすりつぶされ、胃腸への負担を大幅に軽減します。
結果的に消化吸収を高めることにつながり、胃腸への負担を減らすことができるのです。胃腸への負担が軽減することで、代謝の低下を防ぎ「脂肪が燃焼しやすい身体づくり」に繋がります。

食欲抑制効果が期待できる

咀嚼を意識して食事することによって、食欲抑制効果を期待できます。
ヒトは、食べ物をたくさん噛むことによって「満腹中枢」が刺激されて、食欲を抑制する効果のあるホルモンが分泌されるのです。そのため、食べ過ぎを防ぐことができ、ダイエット効果を期待できるということになります。
実際、「つい食べ過ぎてしまう」という方の多くは、咀嚼が少なく、ドカ食いのような食べ方をしているケースが多い傾向にあります。
「食べ過ぎ予防」はダイエットにおいて重要ポイントですので、痩せたい方にとって咀嚼は大切といえるでしょう。

満腹感が長持ちする

しっかりと咀嚼して食事をすることにより、満腹感が長持ちするといったメリットがあります。
上述した「食欲抑制ホルモン」は、長時間分泌されますので、「さっき食べたのにもうお腹がすいた」といった事態に陥るのを防ぐことにつながるのです。
「食べても食べてもお腹がすく」「食後しばらくすると空腹を感じる」という場合は、咀嚼を意識してみることで、空腹に悩まされにくくなるでしょう。

咀嚼はカロリーを消費する

咀嚼することは「カロリー消費」につながります。
食事をするにあたり、咀嚼は「ただ顎を動かしているだけ」のイメージがありますが、実際は意外にも大きな消費カロリーとなっています。
顎を動かしているだけといっても、実際は食事中ずっと動かしていることになりますので、人によっては数十分~1時間ほど噛み続けているということになるでしょう。
咀嚼回数を増やせば「食事をしながらもカロリーを消費している」といった好循環になり、痩せやすく太りにくい身体づくりを実現できます。

咀嚼でダイエットを目指すためのポイント
咀嚼でダイエットを目指すにあたり、いくつかポイントがあります。
ダイエットを成功させるためにも、それぞれのポイントの詳細についてチェックしてみてください。

30回以上噛む

咀嚼でダイエットを目指すのであれば、30回以上は噛むことを意識しましょう。
咀嚼回数は多ければ多いほどダイエット効果が期待でき、痩せ体質になりやすくなるのです。
また、たくさん噛むことでカロリーが消費され、無理なく脂肪を落とすことにもつながります。

左右のバランスを意識して噛む

咀嚼する際には、左右の顎の使い方を意識しなければなりません。例えば、右側の顎ばかりで噛んでいるなど、バランスの悪い咀嚼をすると、身体の歪みの原因となり、「痩せにくい身体」に陥ってしまうリスクがあります。
誰にでも「噛みやすい方」というものはありますが、意識して左右同じ回数で噛むようにしましょう。

なるべく硬い食品を選ぶ

咀嚼でダイエットを目指すなら、なるべく硬い食品を積極的に取り入れるようにしましょう。
例えば、繊維がたっぷりの野菜や、おせんべいなど、必然的に咀嚼回数が増える食品を選ぶことがおすすめです。
もしくは「噛み切りにくい食べ物」「飲み込むまでに時間がかかる食べ物」なども良いでしょう。具体的には「こんにゃく」「ナッツ」「餅」「いか・たこ」などが挙げられます。
硬いものを食べるのは難しい、という方でも、上記の食品であれば取り入れやすいのではないでしょうか。

咀嚼のダイエット効果は意外にも高い

咀嚼によるダイエット効果は意外にも高い一方、まだまだその事実を知られていないのが現状です。
また、咀嚼は体の健康面を整える効果もありますので、ダイエットの希望者に限らず、多くの方が取り入れるべきといえるでしょう。
まずは、咀嚼の良い影響について、今一度正しく理解し、食生活を見直してみてはいかがでしょうか。

・・・なるほど、先日作ったきんぴらごぼうと親鳥の甘辛炒めは旨かった。ごぼうも親鳥も噛まないと飲み込めない。何度も噛むうちに顎がつかれるほどである。するめを噛むようなものであるがスルメはかみ砕いてもバラバラにはならない。牛蒡は優れた繊維質の補給に良い。それに親鳥は味わいがあるし、ゴボウも独特の風味がある。その上で減量効果があるなら最高の一品ではないか。

栃の花はつはつの雨おもしろし 石田波郷2020年07月01日

「はつはつ」は、わずかの意を持つ古語。

山は万緑の季節。すでに栃の花が咲いていることだろう。

この句も『雨覆』に収録されているが戦争で病気になるまでの破郷は割と自然詠も詠んでいる。

六月の女すわれる荒筵 石田波郷2020年06月30日

ブログ「増殖する俳句歳時記」から転載

 作者が実際に見た光景は、次のようだった。
 「焼け跡情景。一戸を構えた人の屋内である。壁も天井もない。片隅に、空缶に活けた沢瀉(おもだか)がわずかに女を飾っていた」(波郷百句)。

 「壁も天井もない」とは、ちゃんとしたそれらがないということで、四囲も天井もそれこそ荒筵(あらむしろ)で覆っただけの掘っ立て小屋だろう。焼け跡には、こうした「住居」が点在していた。女が「六月」の蒸し暑さに堪えかねたのか、壁代わりの筵が一枚めくり上げられていて、室内が見えた。もはや欲も得もなく、疲労困ぱいした若い女が呆然とへたり込んでいる。

 句の手柄は、あえて空缶の沢瀉を排(配)して、抒情性とはすっぱり手を切ったところにある。句に抒情を持ち込めば哀れの感は色濃くにじむのだろうが、それでは他人事に堕してしまう。この情景は、詠まれた一人の女のものではなく、作者を含めて焼け跡にあるすべての人間のものなのだ。哀れなどの情感をはるかに通り越したすさまじい絶望感飢餓感を、荒筵にぺたんと座り込んだ女に託して詠みきっている。焼け跡でではなかったけれど、戦後の我が家は畳が買えず、床に荒筵を敷いて暮らしていた。あの筵の触感を知っている読者ならば、いまでも胸が疼くだろう。『雨覆』(1948)所収。(清水哲男)

 ブログ「日刊 この一句」から転載
 『雨覆』(七曜社 1948年)より。荒筵に貧が読みとれる。また「老婆」や「少女」 などと言わず「女」と説明を加えぬ言い方で殺風景なイメージの焦点を絞っている。 時折しも「六月」。じめじめと蒸し暑い空気も漂わせ、荒筵とともに居心地の悪さを 増幅させる。「六月の」で小休止の切れがある。極度に言葉が大ぶりで、大胆だ。
 この句、「焼け跡情景。一戸を構えた人の屋内である。壁も天井もない。片隅に、 空缶に活けた沢潟が僅かに女を飾っていた」と波郷は語る。
 ただし、この句を今の感覚で読めばどんな解釈が出来るか、も考えたい。「荒筵」 に座る「女」は何をしているのか、「六月」でなく異なる月ならどのように印象が変 わるか、など。時代と俳句を切り離して考える時、表現はどう受容されるか。時代に 寄り添って生みだされ、時代を超える魅力を持つのが俳句だとしたら、その表現構造 のヒントが今日の句にはあるようだ。(塩見恵介)

・・・・収録の句集は『雨覆』 昭和23年刊  昭和20年から22年の句を集めた。前後の句を読むと焼け跡の風景である。

香水の香を焼け跡に残しけり

荒筵澤瀉細く活けて住む

そして表題の句が続く。こんな時代に香水をつける女とは売春婦であろうか。深川出身の小津安二郎の映画にも戦後の風景は出てくる。それでも荒筵までは無かったと思う。生きるとは今日一日を生きることだった。生きるためには春を鬻ぐことも故なしとした女のあはれを詠んだのである。もののあはれとは本居宣長の言葉ですが、どうしようもないことの意味という。ここまで句の背景を知ると倦怠感まで漂ってくる。

 かつて東京都江東区砂町の石田破郷記念館に行ったことがある。破郷は昭和21年から12年間住んだことがあるという。「焦土諷詠」として江東区の光景を詠んできた。戦後生まれには知識でしかない。

老残のこと伝はらず業平忌 能村登四郎2020年06月16日

 昭和24年の作。『秀句十二か月』(富士見書房)によれば、この句を詠んだヒントは梅若万三郎の「卒塔婆小町」を観ての感動の余波という。王朝時代の美女小野小町は能でも「鸚鵡小町」「関寺小町」は「卒塔婆」とともに三小町老女と呼ばれて重い能であるが、すべて百歳の老女の小町が登場する。それにもかかわらず業平には老残の物語がなく、美男のまま終わっていることを詠ったものである。と解説している。以下、伊勢物語の解説を交えて業平に関する蘊蓄を傾けている。ただの俳人ではないな。

 「週刊朝日」6/19のマリコのゲストコレクションを読む。
1012のゲストは髙樹のぶ子氏。
芥川賞作家だが私には新発見の作家だった。話題は『業平 小説伊勢物語』(日本経済新聞社)2420円。古典の伊勢物語を小説で著したところがよく読まれているという。丸善で手に取ってみたが結構分厚い。和歌を中心に構成してあるが、立ち読みして衝動買いするまでもなく、元へ戻した。しかし気にはなる。
 内容よりも構成である。「調べ」を小説にしたと著者は言う。ねらいは音楽的調べを小説にしたとのこと。それが気になって立ち読みしに行ったわけだが、当方の受け入れ未だ熟せずという気がする。

p98 4段目最終行からp99 2段目まで

髙樹 難しい古典と格闘しなきゃいけないと思ったら、人は読んでくれないし売れないとおもうけど、業平の歌も人生も、ある種の音楽を聴くみたいな調べに乗って、流れにのってすらすら読めるようにしたから、取りつきやすいのかも知れない。やっぱり文体が必要。

林 文体ですね。
 
髙樹  略

林 日本人にちゃんとそういう素養があった。以下略

髙樹 略

中略

髙樹 西行とか鴨長明とか、江戸時代だと芭蕉とか、いわゆる隠遁者の美、貴種流離(故郷から遠く離れた地をさすらうこと)の美意識の源流をたどってゆくと、私は9世紀の業平にたどり着くんじゃないかと思ったのね。以下略
以上が印象に残った部分。
 文体といえば、永井荷風がいる。荷風も俳人である。調べという点で共通性がある。日本人に素養があったと林氏がいうように、上田三四二『短歌一生』(講談社学術文庫)の冒頭で、短歌を日本語の底荷だと思っている。と書く。林真理子氏のコメントと一致している。その後で俳句も日本語の底荷だと思う。と追記するのを忘れない。

 表題の句は夏の季語で旧暦の5月28日。同書も期日に間に合わせて5月12日に発刊されている。

あるサイトからコピペすると

 「平安時代初期の歌人・在原業平の880(元慶4)年の忌日。平城天皇の子の阿保親王の第5子で、在原姓を賜って臣籍に下った。

六歌仙・三十六歌仙の一人で、容姿端麗で情熱的な和歌の名手だったため『伊勢物語』の主人公とされている。枕を共にした女性は若い娘から上は99歳まで、その数は3733人と伝えられ、才女の小野小町も名を連ねている。」

イベントもあるようだ。

「※中止※貴族・歌人の在原業平を偲ぶ。業平忌/不退寺
5/28(木)法要11:00~12:00

平安時代の貴族で、平城天皇の孫にあたる在原業平(ありわらのなりひら)ゆかりのお寺・不退寺では、業平を偲んで命日に業平忌が執り行われます。弟の嵯峨天皇に譲位され、出家した平城天皇が萱葺(かやぶき)の御殿を造営した地でもあり、のちに仁明天皇の勅命で業平が不退寺を建立。現在は業平寺とも呼ばれています。当日は、本堂に業平画像を掛けて法要を厳修。毎年、歌の上達を願って和歌や俳句をたしなむ人も多く参拝します。重要文化財・多宝塔の特別開扉も。(写真提供:不退寺)」

愛知県知立市にゆかりの歌人として
「平安の歌人である在原業平が東下りの途中、八橋にさしかかり、かきつばたが一面に咲き乱れているのを見て【からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ】と詠んだ歌はかきつばたの5文字を折り込んでいるいることで有名で、広く文人や歌人に親しまれています。」

「在原業平は平安の歌人であり、六歌仙・三十六歌仙の1人です。
知立市内には在原業平ゆかりの地が多く点在しております。
●無量寿寺
●在原寺
●落田中の一松(かきつ姫公園内)
●業平池跡
●在原業平朝臣墳墓伝承地」

 俳人能村登四郎も業平の遺跡を歩いたという。まずは奈良の不退寺を訪ねてみよう。いやその前に知立市無量寿寺が先だ。自宅から約20kmありサイクリングに最適。汗と体脂肪を絞りたい。

うららかに済せし認知症検査 訃報 俳人・後藤日奈夫2020年06月09日

 読売新聞の訃報欄に後藤日奈夫とあり103歳の長寿に驚いた。父の夜半は有名な”滝の上に水現れて落ちにけり”がある。

 うららかに・・・の句は春の好日に本人の認知症検査が行われたのだろう。どんな検査かは知らないが、基本的なことがらを医師から問われて応える。あなたの両親の名前は、あなたの妻の生年月日は、など極めて本人にまつわるカテゴリー(キーワード)を聞かれたのだろう。それがうまく回答できたんではないか。健常者として俳句も詠んでいけるぞ、と。

メディアの方で評伝を掲載したのは朝日と毎日だけだった。
https://www.asahi.com/articles/ASN685R2NN68PTFC00W.html

 研ぎ澄まされた視点による写生俳句のほか、機知に富んだ洒脱(しゃだつ)な作品でも知られた俳人の後藤比奈夫(ごとう・ひなお、本名後藤日奈夫〈ごとう・ひなお〉)さんが5日、老衰のため死去した。103歳だった。葬儀は近親者で営む。喪主は長男立夫さん(故人)の妻久子さんと、長女岡田方子(まさこ)さん。後日、お別れの会を開く予定。

 1917年、大阪市生まれ。俳人・後藤夜半(やはん)の長男。41年、大阪帝国大理学部卒。父に俳句を学び、俳誌「ホトトギス」「玉藻」に投句。54年から俳誌「諷詠(ふうえい)」編集兼発行人を務め、76年に父から主宰を継いだ。俳人協会副会長、同顧問などを歴任。06年、亡妻・恒子さんを詠んだ句集「めんない千鳥」で俳壇の最高賞といわれる蛇笏(だこつ)賞。15年に山本健吉賞。

 代表句に「東山回して鉾(ほこ)を回しけり」など。

斧あてしごとき一笛初神楽 訃報 俳人・伊藤敬子さん死去2020年06月06日

 今朝は蒸し暑い。ぼーっとした頭で新聞を開くと伊藤敬子氏の訃報が目に留まった。公益社団法人愛知県支部の支部長も努めていた。東海地方俳壇の第一人者であろう。句集は持って居ないが、『鳴海しぼり』『四間道』など足元に題を得た句集名に興味を持って居た。

 前田普羅も弟子筋には足元を詠め、と指導したごとく、俳人の姿勢としては立派なこと。中日俳壇の選者にされないのが不思議だった。多分ですが、人気を二分する「風」の沢木欣一の弟子の栗田やすし氏の全国的な広がりに比較して限界があったのかと。
 足元にこだわれば全国的人気は得られない。栗田氏にはもう一つ大きな強みがある。それは河東碧梧桐の研究家だったこと。これは栗田氏を全国区的認知度を高めたであろう。一方で伊藤氏は愛知県生まれの書記官で「ホトトギス」の俳人だった鈴木花蓑の研究があった。あくまでも足元に徹したのである。しかし、花蓑は山本健吉をして「全体としては客観写生風の低俗句の羅列であるが、その中に少数の感覚の冴えた、凝視の効いた写生句が混じっている」と余り評価は高くない。こんなところも地味な俳人で終わったのである。

https://www.asahi.com/articles/DA3S14503386.html

 伊藤敬子さん(いとう・けいこ=俳人、俳人協会評議員)5日、肺炎で死去、85歳。葬儀は近親者で営む。喪主は夫和吉(わきち)さん。後日、お別れの会を開催予定。

 愛知県生まれ。80年に俳句誌「笹」を創刊、主宰を務めていた。第1回山本健吉文学賞を受賞。句集に「光の束」「百景」など。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E6%95%AC%E5%AD%90_(%E4%BF%B3%E4%BA%BA)

 表題に挙げた俳句は朝日新聞の大岡信『折々のうた』に採り上げられた俳句である。昭和63(1988)年の作品。53歳の作句だから勢いがあり、鋭い感性が感じられる。

神楽とは
https://www.isejingu.or.jp/ritual/annual/kagurasai.html

笙とは
https://www.youtube.com/watch?v=0W8A6n0OgkQ