熊のよな犬飼うてあり雪の宿 吉田冬葉 ― 2025年02月24日
「冬葉第一句集」より
雪が積もった山がちの家であろうか。そこには「熊のよな」犬を見たというのである。熊のように大きな図体の犬を誇張した表現であろう。雰囲気からして猟師の家かも知れん。
雪が積もった山がちの家であろうか。そこには「熊のよな」犬を見たというのである。熊のように大きな図体の犬を誇張した表現であろう。雰囲気からして猟師の家かも知れん。
恵那颪雨も混じりて夜寒宿 吉田冬葉 ― 2025年02月23日
吉田冬葉「冬葉第一句集」から
数ある句の中でも冬葉は恵那の人なので固有名詞が入ると採りたくなる。
さて、恵那颪とは「山から吹き降ろす勢いのある風」を言う。名古屋ならば伊吹颪が有名で旧制八高の寮歌にもある。また濃尾平野の小中学校の校歌の歌詞にも詠い込まれる。
恵那地方には北から寒気をともなって吹き降ろすほどの高い山はない。なのでこれは造語だろう。強いて言えば、笠置山、二ッ森山辺りだが周囲を威圧する高さはなく里山である。
数ある句の中でも冬葉は恵那の人なので固有名詞が入ると採りたくなる。
さて、恵那颪とは「山から吹き降ろす勢いのある風」を言う。名古屋ならば伊吹颪が有名で旧制八高の寮歌にもある。また濃尾平野の小中学校の校歌の歌詞にも詠い込まれる。
恵那地方には北から寒気をともなって吹き降ろすほどの高い山はない。なのでこれは造語だろう。強いて言えば、笠置山、二ッ森山辺りだが周囲を威圧する高さはなく里山である。
渡し越ゆれば苗木の里や春の風 吉田冬葉 ― 2025年02月09日
『冬葉第一句集』より。P226の残雪を踏んで故郷に帰ると題して小見出しで「故郷」と題した連作から。大正10年3月。
中津川市から苗木へは木曾川が流れているので、今は木曽川に大きな橋が架かっている。R257の城山大橋が代表的で5本もある。
昔は渡し舟が橋の役割をしていた。
ネットで中津川市史がヒットした。
https://adeac.jp/nakatsugawa-city/texthtml/d100020/mp000020/ht022150
中山道宿村大概帳中津川宿の項には、
此宿往還通小坂有之 左右見渡し山□有之 此宿東町北入口飛州高山江之往還 木曽川通字上ヶ地船渡場幷苗木城下江之道筋
有之其余ハ山道・作場江出ル小道等也
飛州高山江 凡弐拾六里 濃州苗木城下江 凡壱里 木曽川渡船場上地江 凡拾八町
以上
現在の地形図には上ヶ地渡場は不明である。
冬葉は故郷の苗木を愛した。その後は昭和6年に「故郷」、昭和8年に「青嵐」、昭和16年に「望郷」などを発刊。中央俳壇では俳句の指導書も発刊し活躍した。
中津川市から苗木へは木曾川が流れているので、今は木曽川に大きな橋が架かっている。R257の城山大橋が代表的で5本もある。
昔は渡し舟が橋の役割をしていた。
ネットで中津川市史がヒットした。
https://adeac.jp/nakatsugawa-city/texthtml/d100020/mp000020/ht022150
中山道宿村大概帳中津川宿の項には、
此宿往還通小坂有之 左右見渡し山□有之 此宿東町北入口飛州高山江之往還 木曽川通字上ヶ地船渡場幷苗木城下江之道筋
有之其余ハ山道・作場江出ル小道等也
飛州高山江 凡弐拾六里 濃州苗木城下江 凡壱里 木曽川渡船場上地江 凡拾八町
以上
現在の地形図には上ヶ地渡場は不明である。
冬葉は故郷の苗木を愛した。その後は昭和6年に「故郷」、昭和8年に「青嵐」、昭和16年に「望郷」などを発刊。中央俳壇では俳句の指導書も発刊し活躍した。
岩雪崩とまり高萩咲きにけり 吉田冬葉 ― 2025年01月31日
『冬葉第一句集』から、大正8年7月の駒ヶ岳の所見から。大須賀乙字の序文にあたる「冬葉君の近業」を転載しておこう。
冬葉君の近業
冬葉君は吐天君(注:1)と相知って其句に一段の生気を帯びた。吐天君は冬葉君と交つて其句に油が乗って来た。二人とも句は実に巧者である。此の上の修業は初心にかえる工夫と読書して句品を高うすることにある。
雷鳥の巣にぬくみある夕立かな
痩馬に草鞋咬まれし暑さかな
虎杖の花に霜降る夏暁かな
岩雪崩とまり高萩咲きにけり
句作は渋るときはいくら骨を折っても出渋る。一旦出渋った句はいくらつくりかへても面白くない。之に反して感興に乗った時は泉の噴出する勢いあって、調子から違ってくる。
此等の句は駒ヶ岳での吟である。「雷鳥の巣にぬくみある」と、とても想像では出来ない。更に「夕立かな」と平気で云ってのける事なぞは、実地に其時の光景に出あはせなければ思ひも寄らぬ事である。非思量の境なればこそ此の句を得たのである。作者の気稟(注2)をかへる事は誰でも難しいが、境は転ずるに従って新しい刺激もあり発見もある。
句作はどうしても旅行がいい。旅行をしなければ誰でも句は沈滞して了ふ。虎杖の句は高山気分がよくでている。「霜降る夏暁かな」の夏暁が等閑の言葉でない。露霜のすぐ消えさうな趣がある。「岩雪崩とまり」の句切れつよく「高萩咲きにけり」とゆうゆうと叙し去った調子高く甚だよろしい。いつもの巧みな句よりも品格一等を高めて居る。
大正八年八月
大須賀乙字
以上
注1:内藤吐天1900-1976。大垣市の俳人。薬学博士。大須賀乙字門。詩集、翻訳など多くの著作がある。詩は日夏耿之助に師事し格調が高い。 昭和時代の薬学者,俳人。 明治33年2月5日生まれ。名古屋市立大,名城大の教授をつとめた。
注2:読み方:きひん. 生まれつきもっている気質。(デジタル大辞泉)
・・・乙字の句業の継承者として、第一人者としての片鱗がでている。
冬葉君の近業
冬葉君は吐天君(注:1)と相知って其句に一段の生気を帯びた。吐天君は冬葉君と交つて其句に油が乗って来た。二人とも句は実に巧者である。此の上の修業は初心にかえる工夫と読書して句品を高うすることにある。
雷鳥の巣にぬくみある夕立かな
痩馬に草鞋咬まれし暑さかな
虎杖の花に霜降る夏暁かな
岩雪崩とまり高萩咲きにけり
句作は渋るときはいくら骨を折っても出渋る。一旦出渋った句はいくらつくりかへても面白くない。之に反して感興に乗った時は泉の噴出する勢いあって、調子から違ってくる。
此等の句は駒ヶ岳での吟である。「雷鳥の巣にぬくみある」と、とても想像では出来ない。更に「夕立かな」と平気で云ってのける事なぞは、実地に其時の光景に出あはせなければ思ひも寄らぬ事である。非思量の境なればこそ此の句を得たのである。作者の気稟(注2)をかへる事は誰でも難しいが、境は転ずるに従って新しい刺激もあり発見もある。
句作はどうしても旅行がいい。旅行をしなければ誰でも句は沈滞して了ふ。虎杖の句は高山気分がよくでている。「霜降る夏暁かな」の夏暁が等閑の言葉でない。露霜のすぐ消えさうな趣がある。「岩雪崩とまり」の句切れつよく「高萩咲きにけり」とゆうゆうと叙し去った調子高く甚だよろしい。いつもの巧みな句よりも品格一等を高めて居る。
大正八年八月
大須賀乙字
以上
注1:内藤吐天1900-1976。大垣市の俳人。薬学博士。大須賀乙字門。詩集、翻訳など多くの著作がある。詩は日夏耿之助に師事し格調が高い。 昭和時代の薬学者,俳人。 明治33年2月5日生まれ。名古屋市立大,名城大の教授をつとめた。
注2:読み方:きひん. 生まれつきもっている気質。(デジタル大辞泉)
・・・乙字の句業の継承者として、第一人者としての片鱗がでている。
雷鳥の巣にぬくみある夕立かな 吉田冬葉 ― 2025年01月30日
大正8年7月の木曽駒での山岳詠。上松尾根を登ったのであろう。敬神の滝に小屋がある。金懸小屋、玉の窪小屋がある。この当時は皮製登山靴はなかったのでわらじ履きだったと思われる。
登山好きな点でも乙字の弟子にふさわしい。頂上付近のはいまつ帯の一角に雷鳥の巣を見つけたのである。卵があったのかも知れない。そっと手を差し伸べるとまだ温かいではないか。そんなところへ夕立が来た。とても想像では作れない臨場感がある。
『碧梧桐句集』大須賀乙字選 序文
https://koyaban.asablo.jp/blog/2020/05/13/9246373
登山好きな点でも乙字の弟子にふさわしい。頂上付近のはいまつ帯の一角に雷鳥の巣を見つけたのである。卵があったのかも知れない。そっと手を差し伸べるとまだ温かいではないか。そんなところへ夕立が来た。とても想像では作れない臨場感がある。
『碧梧桐句集』大須賀乙字選 序文
https://koyaban.asablo.jp/blog/2020/05/13/9246373
なにうそでなにがほんとの寒さかな 久保田万太郎 ― 2025年01月20日
万太郎の有名な作品の一つに「なにがうそでなにがほんとの寒さかな」という句がある。予測を超えて思いがけないことの起こるこの世は、現実でも虚構のようであり、噓と本当は分かちがたいものだという作者の厭世観が滲む。
兵庫県の竹内県議が自殺したとの報道でネットでも大騒ぎになっている。元々は井戸知事時代の闇が斎藤知事によって改革の動きになった。それが既得権者には邪魔なので斎藤知事は辞任を余儀なくされた。それが再選されてしまった。
百条委員会では奥谷委員長と竹内県議が斎藤知事を厳しく批判していて辞任に追い詰めた。ところが県民局長の自殺で県のPCの中身も公表されてしまった。竹内県議は批判の対象が無くなって自ら死を選んだ。
この論争では立花さんが中心にいる。立花さんは当然ながら誹謗中傷の的になっている感がある。
万太郎の句ではないが何がホントで何が嘘なんか。
兵庫県の竹内県議が自殺したとの報道でネットでも大騒ぎになっている。元々は井戸知事時代の闇が斎藤知事によって改革の動きになった。それが既得権者には邪魔なので斎藤知事は辞任を余儀なくされた。それが再選されてしまった。
百条委員会では奥谷委員長と竹内県議が斎藤知事を厳しく批判していて辞任に追い詰めた。ところが県民局長の自殺で県のPCの中身も公表されてしまった。竹内県議は批判の対象が無くなって自ら死を選んだ。
この論争では立花さんが中心にいる。立花さんは当然ながら誹謗中傷の的になっている感がある。
万太郎の句ではないが何がホントで何が嘘なんか。
原稿を書く ― 2024年10月05日
結社誌の原稿を書いた。今回は相続がテーマだった。相続の俳句といえば小林一茶が有名である。人間の欲の絡んだテーマで俳句にふさわしくないようにも思うが昨近は「人間を詠め」が指導方針となっている。赤裸々な人間像を描くことで文学足りえんとする。すると虚子らが唱えた花鳥諷詠は文学じゃないのか、との議論もある。今日的にはどの俳論も色あせてきている。駄句の山が築かれている。作家次第であって指導者次第ではないということだ。
金子兜太・・・韻文精神なき俳人 ― 2024年04月26日
兜太の父親は秋櫻子系の俳人だった。医師という点でも共通する面がある。秋櫻子は師匠の虚子に反抗してホトトギスに反旗を翻した。兜太の師匠は楸邨であるがこれもまた秋櫻子系の俳人であった。
兜太には師匠への反抗が流れとして根付いていく。自身も戦争に駆り出された。戦地では戦友が死んでも簡単な葬式で済ますか、出来なかったこともあるだろう。
”水脈の果て炎天の墓置きて去る”
苦渋の中の一句である。この頃までは有季定型を守っていた。それが戦後一気に自由律に傾倒することになった。左翼傾向も打ち出す。権力者への抵抗を隠さない。
社会性俳句なるものが流行した。多くは食えるようになると転向していった。東大を出ても仕事にありつけなかったものは社会主義の運動に身を投じたであろう。それが大学の講師の仕事を得る。作家も新聞社から小説の注文が入る。多くは食えることで普通に戻った。
しかし兜太だけは左翼迎合を崩さなかった。それは日銀マンだったからではないか、と想像する。ある評論家は日銀貴族とまで言う。財務省の飼い殺しの存在である。
日銀マンの人生は多額の給与、賞与、退職後の退職金、年金と収入に事欠くことはない。だから権力に盾突くこともできたわけだ。何しろ首にならないということは経済的自由人の特権である。
そんな目で俳人金子兜太を騙った評伝はまだ読んだことがない。駄句の山を築きながら高い評価を受ける人である。
https://koyaban.asablo.jp/blog/2018/05/06/8846273
兜太には師匠への反抗が流れとして根付いていく。自身も戦争に駆り出された。戦地では戦友が死んでも簡単な葬式で済ますか、出来なかったこともあるだろう。
”水脈の果て炎天の墓置きて去る”
苦渋の中の一句である。この頃までは有季定型を守っていた。それが戦後一気に自由律に傾倒することになった。左翼傾向も打ち出す。権力者への抵抗を隠さない。
社会性俳句なるものが流行した。多くは食えるようになると転向していった。東大を出ても仕事にありつけなかったものは社会主義の運動に身を投じたであろう。それが大学の講師の仕事を得る。作家も新聞社から小説の注文が入る。多くは食えることで普通に戻った。
しかし兜太だけは左翼迎合を崩さなかった。それは日銀マンだったからではないか、と想像する。ある評論家は日銀貴族とまで言う。財務省の飼い殺しの存在である。
日銀マンの人生は多額の給与、賞与、退職後の退職金、年金と収入に事欠くことはない。だから権力に盾突くこともできたわけだ。何しろ首にならないということは経済的自由人の特権である。
そんな目で俳人金子兜太を騙った評伝はまだ読んだことがない。駄句の山を築きながら高い評価を受ける人である。
https://koyaban.asablo.jp/blog/2018/05/06/8846273
両神山の肩打つ時雨お降りなり 金子兜太 ― 2024年04月25日
あとがき
昭和61年(1986)の初冬、『皆之(みなの)』(立風書房)を上梓してから9年たって、この句集を出すことができた。第12句集ということになる。
北武蔵は熊谷に住んで、すでに30年近くなる。猫も同居していたので「熊猫荘(ゆうびようそう)」と呼んできたのだが、その愛猫シンも他界した。
シンの死を含めて、ことにこの九年間は俳句仲間の死が相次ぐのおもいがある。旅にも出かけた。中国はじめ海外にも出かけて、すこし長い旅は皆子と同行というかたちも出来上がってしまった。細君と一緒でないと、なんとなく落着かない気持になったのは、こちらが年齢を加えたせいもあろうか。
さよう、この9年間でわたしは70の坂を越え、数え年の喜寿を祝ってくれる人まで出現する始末とは相成った。ただし一応は健康である。小病各所に轟くが、未だ大病なし。
そうした日常に執して句作してきたものをまとめた。即興即吟が多く、なんとなく頼りないものも少くないので、それらはどしどし削った。しかし、即興ということについて大いに得るところがあったことも事実で、即興の句には、対象との生きた交感がある、とおもうこと屡々だった。推敲し熟成させてゆく過程で、かえって観念過剰になって、生き生きとしたものを乏しくすることがけっこうあったのである。
むろんわたしは、昭和30年代の中年期に(造型)の名を掲げて書いた方法論をいまでも後生大事にしている。(創る自分)を活動させて、暗喩たり得る映像(イメージ)を形象することは、わたしの句作の基本である。これを推敲ということばで日常化しょうともしてきたわけだ。
しかし即興の味を覚えるなかで、造型とともに即興・二律背反ともいえるこの双方を、いつも念頭に置くようになっている。両刀使いである。そして、両刀使いでかなり気儘にやるうちに、俳句は、とどのつまりは自分そのもの、自分の有り態(てい)をそのまま曝すしかないものとおもい定めるようになっている。自分を突っ張って生きてきて、この気持ちはまだまだ旺盛だが、同時に、草や木や牛やオットセイや天道虫や鯖や、むろん人間やと、周囲の生きものとこころを通わせることに生甲斐を感じるようにもなっている昨今ではある。
この状態のすべてをそのまま、それこそ存在もろとも五七調最短定型にぶち込むことこそ何より、とおもうようになっているのである。 この秋、中国を訪れて林林氏にお目にかかったとき、「天人合一」の語に触れた。
造化に対する人間の思い上りは許せない。しかし、「自然随順」などという言い方はどこかいかがわしい、と日頃考えていたわたしは、このことばが嬉しくて仕方なかったのである。
句集の題「両神(りようがみ)」は秩父の山両神山からいただいた。秩父盆地の町・皆野で育ったたわたしは、西の空に、この台状の高山を毎日仰いでいた。いまでも、皆野町東側の山頂近い集落平草(ひらくさ)にゆき、この山を正面から眺めることが多い。熊谷にいて、妻君と散歩するときも、蒼暗の台状の山を秩父の山の連なりの上に遠く見ている。
あの山は補陀落(ふだらく)に違いない、秩父札所34ケ寺、坂東33ケ寺の観音さまのお住まいの山に違いない、といつの間にかおもい定めてもいる。つまり、両神山はそんな想望とともに、わたしの日常のなかに存在しているのである。
山に甘えて、「両神」 の題をいただいた次第。 この句集上梓に当って、宗田安正氏のお世話に与ったことをこころから感謝している。
平成7年 (1995) 中秋。 金子兜太
・・・・五七五の有季定型は一句もない。伝統俳句ではない。
虚子と決別した秋櫻子は散文の断片のような俳句を良しとした。その弟子に父親の金子伊昔紅もいた。
高弟は破郷、楸邨、草田男らがいた。その中で破郷がいち早く俳句は韻文と見抜いた。そして秋櫻子から脱皮して行った。
ところが山本健吉はかれら三人を人間探求派と囃した。人間を詠め、と。文学に目覚めさせようとした。しかし、高邁な文学精神を体得できる弟子はそんなには増えないから、人間を詠む、というところだけは普及して駄句の山を築くことになった。子規虚子が折角写生を謳ったにも関わらず、散文の断片を俳句とする考えに曲がった。
兜太は楸邨の弟子ということになっている。しかし、碧梧桐の俳論も流れに組み込まれている。碧梧桐が長生きしておれば金子兜太のような存在になったであろう。しかし、碧梧桐は貧乏人ではないから潔く俳句から足を洗った。金子は東大出、日銀に勤務する賃金労働者の身分だ。貧しくはなかっただろうが公務員で食っていくしかなかった。
戦後は少しばかり権力に抵抗した。食えるようになるとみな転向したが金子だけは変な散文の断片を作り続けた。マスコミも珍重したのであろう。一茶に共鳴するくらいだから性格的に素直ではないことは確かだ。
70歳を越えると新たな境遇が生まれたのであろう。両神山を産土と感じ始めたのだ。
昭和61年(1986)の初冬、『皆之(みなの)』(立風書房)を上梓してから9年たって、この句集を出すことができた。第12句集ということになる。
北武蔵は熊谷に住んで、すでに30年近くなる。猫も同居していたので「熊猫荘(ゆうびようそう)」と呼んできたのだが、その愛猫シンも他界した。
シンの死を含めて、ことにこの九年間は俳句仲間の死が相次ぐのおもいがある。旅にも出かけた。中国はじめ海外にも出かけて、すこし長い旅は皆子と同行というかたちも出来上がってしまった。細君と一緒でないと、なんとなく落着かない気持になったのは、こちらが年齢を加えたせいもあろうか。
さよう、この9年間でわたしは70の坂を越え、数え年の喜寿を祝ってくれる人まで出現する始末とは相成った。ただし一応は健康である。小病各所に轟くが、未だ大病なし。
そうした日常に執して句作してきたものをまとめた。即興即吟が多く、なんとなく頼りないものも少くないので、それらはどしどし削った。しかし、即興ということについて大いに得るところがあったことも事実で、即興の句には、対象との生きた交感がある、とおもうこと屡々だった。推敲し熟成させてゆく過程で、かえって観念過剰になって、生き生きとしたものを乏しくすることがけっこうあったのである。
むろんわたしは、昭和30年代の中年期に(造型)の名を掲げて書いた方法論をいまでも後生大事にしている。(創る自分)を活動させて、暗喩たり得る映像(イメージ)を形象することは、わたしの句作の基本である。これを推敲ということばで日常化しょうともしてきたわけだ。
しかし即興の味を覚えるなかで、造型とともに即興・二律背反ともいえるこの双方を、いつも念頭に置くようになっている。両刀使いである。そして、両刀使いでかなり気儘にやるうちに、俳句は、とどのつまりは自分そのもの、自分の有り態(てい)をそのまま曝すしかないものとおもい定めるようになっている。自分を突っ張って生きてきて、この気持ちはまだまだ旺盛だが、同時に、草や木や牛やオットセイや天道虫や鯖や、むろん人間やと、周囲の生きものとこころを通わせることに生甲斐を感じるようにもなっている昨今ではある。
この状態のすべてをそのまま、それこそ存在もろとも五七調最短定型にぶち込むことこそ何より、とおもうようになっているのである。 この秋、中国を訪れて林林氏にお目にかかったとき、「天人合一」の語に触れた。
造化に対する人間の思い上りは許せない。しかし、「自然随順」などという言い方はどこかいかがわしい、と日頃考えていたわたしは、このことばが嬉しくて仕方なかったのである。
句集の題「両神(りようがみ)」は秩父の山両神山からいただいた。秩父盆地の町・皆野で育ったたわたしは、西の空に、この台状の高山を毎日仰いでいた。いまでも、皆野町東側の山頂近い集落平草(ひらくさ)にゆき、この山を正面から眺めることが多い。熊谷にいて、妻君と散歩するときも、蒼暗の台状の山を秩父の山の連なりの上に遠く見ている。
あの山は補陀落(ふだらく)に違いない、秩父札所34ケ寺、坂東33ケ寺の観音さまのお住まいの山に違いない、といつの間にかおもい定めてもいる。つまり、両神山はそんな想望とともに、わたしの日常のなかに存在しているのである。
山に甘えて、「両神」 の題をいただいた次第。 この句集上梓に当って、宗田安正氏のお世話に与ったことをこころから感謝している。
平成7年 (1995) 中秋。 金子兜太
・・・・五七五の有季定型は一句もない。伝統俳句ではない。
虚子と決別した秋櫻子は散文の断片のような俳句を良しとした。その弟子に父親の金子伊昔紅もいた。
高弟は破郷、楸邨、草田男らがいた。その中で破郷がいち早く俳句は韻文と見抜いた。そして秋櫻子から脱皮して行った。
ところが山本健吉はかれら三人を人間探求派と囃した。人間を詠め、と。文学に目覚めさせようとした。しかし、高邁な文学精神を体得できる弟子はそんなには増えないから、人間を詠む、というところだけは普及して駄句の山を築くことになった。子規虚子が折角写生を謳ったにも関わらず、散文の断片を俳句とする考えに曲がった。
兜太は楸邨の弟子ということになっている。しかし、碧梧桐の俳論も流れに組み込まれている。碧梧桐が長生きしておれば金子兜太のような存在になったであろう。しかし、碧梧桐は貧乏人ではないから潔く俳句から足を洗った。金子は東大出、日銀に勤務する賃金労働者の身分だ。貧しくはなかっただろうが公務員で食っていくしかなかった。
戦後は少しばかり権力に抵抗した。食えるようになるとみな転向したが金子だけは変な散文の断片を作り続けた。マスコミも珍重したのであろう。一茶に共鳴するくらいだから性格的に素直ではないことは確かだ。
70歳を越えると新たな境遇が生まれたのであろう。両神山を産土と感じ始めたのだ。
金子兜太句集『東国抄』から ― 2024年04月23日
金子兜太しか知らないと変な句形にとまどう。しかし、金子は天才ではない。河東碧梧桐という先人が居たのだ。
立山は手届く爪殺ぎの雪 碧梧桐(大正4年)
山を詠んでもこんな形式である。しかし碧梧桐は10年後には俳句界から去る。ライバルの虚子の伝統俳句に敗北した形である。それでも少数ながら愛好者はいた。これを継承したのが兜太だったのではないか。
龍神の両神山に白露かな 兜太
立山は手届く爪殺ぎの雪 碧梧桐(大正4年)
山を詠んでもこんな形式である。しかし碧梧桐は10年後には俳句界から去る。ライバルの虚子の伝統俳句に敗北した形である。それでも少数ながら愛好者はいた。これを継承したのが兜太だったのではないか。
龍神の両神山に白露かな 兜太
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