月の出や印南野に苗余るらし 永田耕衣2017年06月03日

 今朝もすっきりした五月晴れになった。北風が涼しいというより寒いほどだ。ポタリングでまた日進市の田園地帯を走る。今日目に付いたのは代田もかなり田植えが進み、植田になってきたことである。それに伴い、余り苗もそこかしこに見られた。この風景で思い出したのがこの俳句だった。
 農家では田植えに備えて苗を余裕を見て育てる。植え終わると片隅に苗が少し残っている風景、それが余り苗、苗余るという季語になる。
 掲載の俳句は山本健吉『現代俳句』で紹介されて有名になった。印南野はいなみのと読む。
 ウィキには稲美町でヒット。「兵庫県南部に位置し、神戸都市圏に属する。兵庫県南部の加古川と明石川に挟まれた印南野台地に位置し、兵庫県東播磨県民局に区分されている。古代では印南野と呼ばれており、播磨国風土記では入波と呼ばれている。万葉集では稲日・稲見と呼ばれており、この本に登場している印南野は古くからの歌枕である。」と案内。
 帰宅の途に就いたころには風向きは西風に変わり、空は薄曇りになった。

苗田水堰かれて分れ行きにけり 前田普羅2017年05月20日

 前田普羅『渓谷を出づる人の言葉』(中西舗土解説、1994年、能登印刷出版部)のP100から。
 単なる風景句に思うが、本書の解説を読むと、富山の自然への観察の行き届いた結果の俳句と分かる。山の好きな普羅は句材を求めてか、たびたび1等三角点のある呉羽山145mに登った。そこから立山方面を眺めると常願寺川の白い川原が尾根のように見えるという観察から始まる。富山は常願寺川が切れたら水の底と言われてきたらしい。
 普羅の住んでいたのは富山駅の北の奥田町というところ。実は標高6.5mで、すぐ隣を神通川が流れる。どちらかといえば、神通川の氾濫を恐れるべきだが、今以上の土砂の流出はあるまいと楽観視する。
 常願寺川を破壊の天才として恐れているのは山岳俳人ならではの深い見方である。立山カルデラ砂防博物館を見学すると、今も常時防災活動が行われていた。かつては立山温泉があったところで、砂防堰堤の建設作業が行われている。五色ヶ原の左側はとてつもない人間の果てしない事業が続いている。
 富山市上滝辺りは標高165mあり、そこから扇状地が始まる。発電設備や取水口もあって、用水路で下流の水田地帯を潤し、末端で都市生活の水をまかなう。「私達の地上の運命は常願寺川の御機嫌一つに掛っている」として、以下「然しそのために苗田の水も稲田の水も年毎に少しの不自由も感ぜず、また私達の井戸も四時清冷な水を高く吹き上げているのである」と結ぶ。
 俳句にしてしまうと簡単であるが、深い観察力と洞察力が加わっていることを思う。これが普羅の提唱していた地貌ということにも思いを致す。足元を詠め、とも指導していた。それはこの句に如実に現れている。

泉への道遅れゆく安けさよ 石田波郷2017年05月19日

 今朝も早く起きてしまった。そのまま寝てもいいのだが、天気も良いので、週末のごみ出しをしたついでに、ポタリングに出かける。朝の涼しい気温の中の自転車走行は気持ちがよい。しかし、スピードは出せない。いまだしゃきっとしない体調がある。ふと、脳裏に浮かんだのが表題の一句だった。句の解釈は
http://www.izbooks.co.jp/hakyou036.html
に詳しい。
 句のように相手がいるわけではないが、病後の体調不安を抱えながらも自由に体を動かす生活をとり戻した。今、山を歩けば多分こんなことになるだろう。

以前にも当ブログで1年前近くに文中で引用してた。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2016/05/25/

毒消し飲むやわが詩多産の夏来る 中村草田男2017年05月08日

 ウィキから紹介文のみをコピーすると
「中村 草田男(なかむら くさたお、1901年(明治34年)7月24日 - 1983年(昭和58年)8月5日)は、愛媛県出身の俳人。本名清一郎(せいいちろう)。東京大学国文科卒。高浜虚子に師事、「ホトトギス」で客観写生を学びつつ、ニーチェなどの西洋思想から影響を受け、生活や人間性に根ざした句を模索。石田波郷、加藤楸邨らとともに人間探求派と呼ばれた。「萬緑」を創刊・主宰。戦後は第二芸術論争をはじめとして様々な俳句論争で主導的な役割をもった。」
 この俳人も松山市の出身なんですねえ。わが詩多産、というより、俳人多産なんですねえ、松山市は。

 傾向はそれほど好きでもないが、なぜか納得させられる俳句を多産している。降る雪や明治は遠くなりにけり、は一般の人の人口に膾炙している。
 さてこの俳句もよく引用する。
 この5月から歯肉炎の治癒にと、漢方薬の店に飛び込んで処方をしてもらった。歯科医の処方は抗生物質か消毒薬でみな殺す発想なのに対して漢方は自然治癒をサポートする。まさに毒消しである。
 夏は人も自然も行動が活発化する。また、植物も新緑から万緑へと緑の濃さを増す。岩魚のさびも取れて活発に虫を追うようになる。句材も多くなるのである。
 つい先だって、天白川を遡るサイクリングで大きな鯉が何匹も泳いでいるのを見た。バシャバシャと水を跳ねながら。天白川も名古屋市では川幅10m以上あるが日進市に入ると狭まり5mもない。周囲は代田になったばかりで蓮華田も残る。田園風景の広がる日進市は句材も豊富である。

春更けて諸鳥啼くや雲の上 前田普羅2017年04月27日

 晩春の山でしょう。夜明けと同時に小鳥も一斉に啼きだします。早朝の山の尾根を登っていると雲の上から小鳥の鳴き声が聞こえてくるというのです。
 4/26には舟伏山に登った際も雑木林から小鳥の鳴き声が盛んでした。雲の上というのは実際には山の高いところを強調しているとも解釈できます。
 4月初旬からびわくぼ峠、寧比曽岳と3回目の山歩きですが、試歩を重ねてようやく翌朝のひざの痛みもかなり軽減してきました。薬効著しいものがあります。運動するから薬効成分が体をめぐるのでしょう。
     春深し試歩の山路を重ねけり     拙作
小鳥たちの激励を受けてまた山に向かいましょう。GW後半に封印していた春スキーを1回はやれそうに思う。

麗しき春の七曜またはじまる 山口誓子2017年04月03日

 今日から4月の実質スタート。役所は新年度、3月決算の会社は今日から新年度入りする。新入社員、新入学生なども今日から出社、登校する。通勤電車も初々しい服装の人らでにぎわうだろう。自分も気分一新、成年後見制度の学習と広報に取り組む年度のスタートだ。
 1941(昭和16)年の作。丁度40歳で四日市市富田に療養生活のために移ったころだ。当時の家はR23の近くだが人手に渡ったために見学は出来なかった。それでもかつて誓子が住んでいた案内板はあった気がする。この年の12月大東亜戦争に突入していく。
 誓子の代表句「海に出て木枯らし帰るところなし」もこの地で生まれた。見た目には鈴鹿おろしを言うが、昭和19年の時局が特攻隊を彷彿させる。木枯らしのように伊勢湾に吹き下ろして帰ってこない。つい深読みしてしまうのである。
 春先というのはまだ寒い。山岳会やFB仲間の報告でも冬山そのものである。雪崩の季節はこれからだ。昨日は豊川市宝円寺のシダレサクラを撮影に行ったがまだ蕾だった。今年は寒くて開花が遅れ気味のようだ。それでも次々花見客が来た。

茶の花を心に灯し帰郷せり 村越化石2017年03月31日

 一読、明快な句意である。しかし、村越化石が全盲と知れば驚くだろう。

 故郷の静岡県藤枝市のホームページを見てみると
「村越化石(本名・村越英彦)は、大正11年(1922)12月17日、静岡県志太郡朝比奈村(現・藤枝市)新舟(にゅうぶね)に生まれました。16歳の時、ハンセン病罹患が発覚し、旧制志太中(現・藤枝東高校)を中退、離郷します。昭和16年、群馬県草津町の国立療養所栗生楽泉園(くりゅうらくせんえん)に妻と共に入園。死と隣り合わせの時期を過ごし、戦後、特効薬プロミンにより病が完治した後も、後遺症を抱えることになった化石の心のよりどころとなったのが俳句でした。
 昭和18年、ホトトギス同人の本田一杉(ほんだいっさん)に指導を仰ぎ、俳誌『鴫野(しぎの)』に入会、「栗の花句会」(現・高原俳句会)の浅香甲陽(あさかこうよう)の影響を受けます。昭和24年、大野林火(おおのりんか)の『冬雁』に感銘を受け、林火に手紙を送り「濱」に入会。以降、林火の教えを自身の魂に刻み続け、光を失った眼、自由のきかない身体にもかかわらず、魂の俳句を詠み続けました。その句作からいつしか「魂の俳人」と呼ばれるようになりました。
 平成14年、60年ぶりに故郷岡部町新舟に帰郷。実家に近い「玉露の里」に建てられた村越化石句碑除幕式に立ち会いました。
 化石の師・林火は、ハンセン病文学の三本柱として、「小説の北条民雄(ほうじょうたみお)、短歌の明石海人(あかしかいじん)、俳句の村越化石」をあげました。
 「北条民雄や明石海人がハンセン氏病の悲惨さ、怖しさの中に命を終わったのに対し、化石にはその後の長い歳月があった。化石の特色はそこにある。いえば、民雄・海人の知らなかった無菌になってからの生きざまである」(大野林火「松虫草」より)
 群馬県草津の大自然の中で己の生を見つめながら句作に努めた化石は、蛇笏(だこつ)賞、詩歌文学館賞、山本健吉賞、紫綬褒章など多くの栄誉を受けました。」と丁寧な紹介が割かれている。
http://www.city.fujieda.shizuoka.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/25/pdfkoho-2010-7-kaseki.pdf
 掲載の句は平成14年作。句碑除幕式への旅の途次に詠まれたのだろう。全盲なので、茶の花を心に灯し、と詠んだ。
 化石の師のホトトギスの本田一杉はハンセン病で全盲の弟子に「肉眼はものを見る。心眼は仏を見る。俳句は心眼あるところに生ず」 と教えて励ましたという。水原秋桜子の有名な俳論「自然上の真と文芸上の真」に倣えば、文芸上の真である。
 ちなみにハンセン病はライ病とも呼ばれ、レプラとも書かれる。差別用語といわれるが、今では完治する病気とされる。松本清張の「砂の器」がハンセン病をテーマにした小説として有名。「砂の器」は映画化された。岸惠子主演の「ここに泉あり」でも草津のハンセン病療養施設が出てくる。レプラと言う語彙は森下雨村のつり随筆『猿猴川に死す』で知った。しかし、罹患者がハンセン病文学の主役になったことは初めてではないが、永く生きて、俳句で社会とのつながりを得たのは初めてだ。魂の俳人と言われる故だろう。

いそがしや沖の時雨の眞帆片帆 去来2017年03月29日

 猿蓑の一句。猿蓑解説のHPに 
「真帆片帆」は、舟の帆を満帆にしたりたたんだりしている様。時雨が来て漁舟が慌てている様。
 この句については、去来抄に「去来曰、猿蓑は新風の始め、時雨は此集の美目なるに、此句し損ひ侍る。たヾ、有明や片帆にうけて一時雨といはば、いそがしやも眞帆もその内にこもりて、句の走りよく心の粘り少なからん。先師曰、沖の時雨といふも又一ふしにてよし。されど句ははるかに劣り侍ると也」と書いている。

 去来の反省
 『猿蓑』は「初時雨猿も小蓑を欲しげなり」で始まる蕉門の自信作。その勢力を誇示せんとばかりに冒頭に門弟12人の時雨句で始めるという力の入れようだった。
 まさに「美目」であった。そのしんがりを勤めたのが去来で冒頭の句であったが、去来は後刻これは失敗作だった、「有明や片帆にうけて一時雨」とすればよかったと言うのである。
 芭蕉の評価
 去来のこの発言に対して、芭蕉は「沖の時雨」は直截的で良い。だが、去来の新提案の方が遥かに良いと言ったという。

・・・・やっぱり、掲載句の方が上等でしょう。改作すると大抵よくないものです。

 ところで真帆片帆を検索で探すと沢山ヒットする。
   涼しさや淡路をめぐる真帆片帆  正岡子規
   のどかさや松にすわりし真帆片帆   同
のように換骨奪胎されている。
この他
初雷や片帆にうけて武庫颪      河東碧梧桐
新蕎麦や伊吹颪に真帆片帆     昇角
春風や東へ片帆西へ真帆       正岡子規
春風や海に花さく真帆片帆       正岡子規
松島や舟は片帆の風かをる      正岡子規
涼しさや湊出て行く真帆片帆      正岡子規
牛は野に雲雀は空やまほ片帆     正岡子規
盆東風や沖より帰る真帆片帆      木村信子
眞帆片帆小島小島の紅葉哉       正岡子規
眞帆片帆瀬戸に重なる月夜哉      正岡子規
真帆とまり片帆すみやかよき汐干    阿波野青畝
真帆片帆どこまで行くぞ青嵐       正岡子規
真帆片帆右は播磨の青嵐        正岡子規
真帆片帆沖はかすみて何もなし     正岡子規
真帆片帆湖の南は夕立す        寺田寅彦
真帆片帆行く手行く手の海霞む     正岡子規
稻妻や片帆に落す海の上         正岡子規
雁暮れて西湖明るし眞帆片帆      正岡子規
雲に近く行くや小春の眞帆片帆     正岡子規
霞みけり大島小島真帆片帆       正岡子規
鷺消えて片帆の残る霞哉         正岡子規

真帆片帆をテーマにこれだけあった。子規は気に入った語彙を徹底して使い込んだのだろう。
 言葉の響きが万葉集的なので検索してみたがヒットしなかった。蒲郡市の歌碑に
 満潮にのりて浮める真帆片帆 拾石の里 ハ住みよかりけれ
という歌はあった。いつ頃なのかも不明であった。しかし、古い語彙であることは確かだろう。

 田端義夫歌うところの「ふるさとの燈台」の歌詞の冒頭にも使われている。作詞家は清水みのるといい、浜名湖周辺の伊佐見村の生まれだった。現在は浜松市。なるほど海の語彙が豊富なわけである。ぱっと、イメージに引き込む作詞力が素晴らしい。
 同じ浜松市出身の鈴木紀代氏も橋幸夫の「ちゃっきり茶太郎」の1番の冒頭に「小夜の中山」を置いて古歌の歌枕の世界に引き込もうとする。作詞家も結局は言葉の斡旋力を磨くために古典を読むなどの努力が欠かせないのだと思う。少し脱線しました。

加藤耕子句集『空と海』鑑賞とミニ研究2017年03月19日

 俳人加藤耕子の名前をメディアで知ったのはかなり前のことだ。俳句と英語を結び付けて、世界一短い詩である俳句を世界に発信しようという試みを続けてこられた異色の俳人でもある。
 自註現代俳句シリーズ加藤耕子集の略歴によると、昭和61(1986)年に日本の俳句と世界のHAIKUをつなぐため「耕の会」発足。俳句と文章誌「耕」「kō」という英文誌も創刊している。しかも名古屋の人なので名前だけは知っていた。
 作者の生まれは昭和6(1931)年なので55歳で一念発起したわけだ。私は俳句を始めたのは40歳なので「耕」の3年後の1989年のことになる。多分、新聞で取り上げられた記事を読んで記憶に残ったのである。「耕」も31歳になったのだ。
 最近になって、所属俳誌の主宰のあとがきに加藤耕子の名前を見た。俳人協会の評論賞の選考委員にも加わっているのだ。おそらく俳句で認められた俳人ではなく、むしろ評論分野に業績があったのだろう。略歴を読むと愛知県立女子短大英文科、同志社大英文科、名古屋市の英語教師を経て昭和44(1969)年に俳句開眼。主に水原秋桜子の師系の結社で俳句修業。
 男性が女性に絶対敵わないのは女性のもつ一途な勉学心であろう。この一途さが俳句と英語俳句を結び付けるという途方もない、徒労ともいうべき、句業につながっている。これは何なのか。
 作者は終戦時、14歳の多感な少女時代、そして英文科に進む。英語圏かつキリスト教文明に対するコンプレックスを抱いたのか。日本にも俳句というものがありますのよ、と英語でHAIKU(俳句)を詠む人達との交流を通じて、日本の心を発信する。
 ロマン・ロラン(1866~1944)は外国語を学ぶ者は母国語をより深く知る、という意味のことを言った。これはエスペラントのテクストにあった断片で記憶違いがあるかも知れない。加藤耕子もこの例にもれず、かえって深く日本の古典文学に目覚めたと言える。
 英文学が専門の夏目漱石は俳句の業績も評価が高い。素養は漢詩にあると思うが英語を深く知ったことが刺激になったであろう。前田普羅も早稲田の英文科であるが文明開化の進む東京をみて俳句に目覚めたであろう。実際、戦後になって『飛騨紬』の句集を編んだ動機も高山線の開通によって飛騨の山村文化が壊れて行くことを案じたことにあった。
 本題の鑑賞に入る。平成14年から平成21年の俳句をまとめた。作者71歳から78歳になる。昨年3月に発刊された。本阿弥書店。

向ひ合ふ齢となりぬ福寿草 
・・・何に向かい合うかと言えば、古希なので死であろう。但し、福寿草という新年のめでたい季語を持ってくるところに作者の都会的な明るさがある。孫に囲まれて幸せな正月の風景のなかにもちゃんと人生の節目を詠む。

樹の姿あらはに寒の山匂ふ
・・・如月の候、梅園にでも吟行したであろう。それも観光地化された名園や遊園ではなさそうだ。寒の山とあるからだ。私には奥三河の新城市海老の奥の川売辺りの廃田に植えられた梅を思う。狭い谷間の山里を1500本の梅の木の匂いが漂う。

月待ちの岩に冠さる橅若葉
・・・伊勢8句の前書きがある。はたして伊勢の山に橅が生えていたのかどうか。明神平辺りまで登れば見られる。あるいは大台ヶ原山へマイカー登山だろうか。71歳の老婦人ながらお元気そのものだ。

金銀の名もつ峠の崖清水
・・・これも伊勢8句の一つ。筏場道に確かに金明水の水場がある。

山めぐるとは老鶯をめぐること
・・・鶯は冬は笹薮の中でチェチェと鳴く。春はお馴染みの鳴き声になり、夏になると高い山に移る。鈴鹿の稜線に登るとうるさいほど鳴いている。

原生林蛭に身の血を分ち合ひ
・・・伊勢8句とはどうも夏の大台ケ原山を歩いた嘱目吟と見える。私も台高山脈縦走中、大台辻の近くの沢筋で休憩中、上から、下から山蛭の歓迎を受けたことがあったことを思い出した。しかし、作者は蛭に吸血されても、身の血を分ち合い、と平然としている様子が諧謔を呼ぶ。

ひぐらしや焦土のころを墓の前
・・・作者は14歳で終戦を迎えた。空襲を受けたのは名古屋だけではない。祖母の話では三重県津市も受けた。約10km以上離れた在所からでも夜が焼夷弾で明るかったと興奮を交えて話を聞いた。14歳とはいえ、もう感性は備わっている。岐阜空襲は昭和20年7月9日だった。岐阜市が焦土と化した記憶はひぐらしの鳴き声とともに作者の脳裏にしまわれている。左翼のように平和とか反戦とか言わないで反戦を詠む。

伊吹嶺に夕日を納む墓参かな
・・・これも岐阜6句の一つ。俳人、歌人は名山に対して尊敬の念を込めて山ではなく、嶺を使う。栗田やすし主宰の「伊吹嶺」は俳誌の名前に採用するし、句集、歌集に採用されてもいる。単純に五音に合わせているからではない。筑波嶺、富士ヶ嶺、立山ヶ根、阿夫利嶺(大山)等。

むらさきの帯を低めに二月礼者
・・・平成15年の作品。粋筋の役者の普段着を目撃しての嘱目吟。結句の収まりが今一だが、帯を低めに、という中句が動かせない、となれば窮屈だが破調もやむなしだ。先駆する作品は前田普羅の「面体をつゝめど二月役者かな」がある。

龍太師に会ふひぐらしの声の中
・・・平成16年の作。毎月一枚の投句はがきに5句、4000名の弟子の2万句を選句していたという「雲母」の主宰飯田龍太。甲斐を旅したのであろう。平成4(1992)年「雲母」を900号で終刊させた。これは新聞にも掲載された俳壇の事件として記憶がある。平成19(2007)年2月25日に亡くなる。平成16年に会ったのか、回想句なのかは分からない。

冠着とは姥捨のこと夏の萩
・・・築北三山の一つで冠着山のこと。この山のみ登り残している。近々のうちに登りたい。
 加齢にしたがい、旅吟が増える。平成17年の作。姥捨伝説が気になるのだろう。私も『楢山節考』を読み、映画も見たことがある。長寿とはいうが、生きるって、目出度いばかりではないのだ。現代は終活が大流行りだ。人生をどう終わらせるか。悩ましい課題だ。

寒晴や伊吹遠尾根荒荒し
・・・遠い尾根って表現は初見。墓参で岐阜市へ行っての所見だろう。岐阜市からなら伊吹北尾根が見えるだろう。比高差は少ないがノコギリの歯のように見えるかも知れない。

葉桜の空茫々と時彦忌
・・・平成18年の作。平成15年には「魂離るこの世に瀧の音残し」と追悼句がある。草間時彦(1920~2003)は5月26日に没。私の脳裏には「甚平や一誌持たねば仰がれず」の句のみある。

川となる沢幾筋ぞ山若葉
・・・「耕・kō」20周年の前書きがある。嘱目吟のようでいて、ぞで切って、継続は力なりを実感する思い。川の源流は一滴の水から始まり、せせらぎとなり、谷になり、川に育っていく。結社を支えた同僚や弟子のお陰で20年継続できた感懐を込めた。創業は易し継続は難し。

楝(おうち)咲く見えゐる花の遠さかな
・・・栴檀の花のことである。地味な花だからそう把握したのだ。普羅の句集にもあったが思い出せない。俳号の普羅はフラワーに由来する。若いころは植物研究会に入っていたから花にも詳しかった。

雲しんと筑波嶺閉ざす半夏生
・・・前述したように筑波山を筑波嶺と詠んだ。1000m以下の低山ながら日本百名山の一つ。関東平野のランドマークと言ってよい。半夏生のころだから梅雨末期で雲しんと、という表現も納得。

老鶯やかつて隠田いま捨田
・・・私がよく歩く奥三河の設楽町に落目という谷合の隠田があった。江戸時代、検地で役人の目から落ちたので目落ちといったが、あからさまなので落目の隠語になって地名として定着した。先祖が苦労の末に開拓した田も圃場整理されて整然としたのに、米作を継ぐ人がなくて廃田になった。

昭和二十年焦土の上の油照り
・・・回想と前書きがある。作者は境涯を句に反映させないタイプだが、この句を読むと油照りとともに少女時代の記憶がよみがえるのだろう。

初秋の空のみづいろ金華山
・・・説明を要しない明快な句。私には長良右岸の園地から眺めた青い空に金華山の尖峰がくっきりと浮かぶ。

みちゆきの足袋もむらさき中村屋
・・・中村屋は歌舞伎の名門。中村勘三郎のこと。平成24年12月5日57歳で没。
 顔見世や通夜の日に舞う勘九郎  寺崎杜詩緒
「誰の通夜かといえば、平成二十四年十二月五日、五十七歳で逝った父の勘三郎であった。通夜は十二月十日に自宅で、近親者のみとの断りにもかかわらず、七百名を超えたという。ファンならずとも耳目を集めた死去であった。」

龍太なき山河春月赤く出づ
・・・平成19年の作。同年2月25日没。龍太の出世作「紺絣春月重く出でしかな」を踏まえての追悼句。オマージュというか、中々こうは詠めない佳作。

葉桜や雨のきらひな雨男
・・・平成20年の作。時彦忌 逗子の前書きがある。時彦忌なら「薔薇垣に薔薇の百花や時彦忌」があるが、単に5/26というだけのこと。掲句の方が修している。

老鶯の声の広がる切通し
・・・切通し、谷戸の語彙が入るといかにも鎌倉で読まれたと拝察する。

夏霞翼をひろぐ岩木山
・・・日本百名山の一座。津軽富士の別称がある。翼をひろぐというのは根張りの優美さを表現しているのだろう。未踏だがそろそろ登山に行かねばなるまい。

峰に雪龍太甲子雄の霊ねむり
・・・平成21年の作。龍太は飯田龍太、甲子雄は福田甲子雄(1927~2005)のこと。飯田蛇笏に師事、蛇笏死後は龍太に投句。龍太亡き後は継承誌廣瀬直人主宰「白露」の同人として活躍。その2人も今は居ない。峰というのは多分、御坂山地だろう。甲州へ旅するも親しんだ龍太も甲子雄も居ない。山には雪があるばかりの空虚さをどう埋めようか。
   雪の峯しづかに春ののぼりゆく  龍太

鉄線や昭和一桁一途者
・・・知性が光る句のオンパレードであった。生活の匂いの無さ、境涯性のなさを感じるが、この句が自画像というべし。

木犀の香を入れ棺を閉ざしけり
・・・身内の死去に寄せた句。数えたわけではないが、切れ字のやは多用するが、かなとけりは少ない。秋桜子系ゆえだろうか。ところが掲句のように追悼句にはけりが使われる。「耕」の22周年記念でもけりが使われた。梅白し佐藤和夫の忌なりけり、と。心が改まると詠嘆の心境になるのだ。
 平成15年に戻るが、石田波郷の故地を訪ねている。波郷は「霜柱俳句は切字響きけり」と詠んだほど、秋桜子系にあってホトトギス派を自認した。
 「清洲橋扇橋風凍てにけり」も、わざわざけりを使った石田波郷へのオマージュなんだと思う。私も小津安二郎の映画を見るために上京した際に同じ江東区なので波郷の砂町を歩いたことがある。庶民の町であった。

死んでゆくものうらやまし冬ごもり 久保田万太郎2017年01月15日

 読売新聞朝刊の安心の設計「生と死を問う」で五木寛之さんの談話を読んでいたらふと浮かんだのが掲句である。

 団塊の世代の大量死が10年後、20年後にやってくる。これを「多死社会」というそうだ。その前段階として大量の要介護老人があふれるとする。今でさえ、政府を悩ませる課題であるが、その時はいやおうなく迫ってくる。対策はないという。
 個人的には役人らの数字を操作したデータからの妄想におんぶした発想から逃れていないように感じる。多くの人が案外、健康で、活躍しつつ人生を全うすると楽観している。五木氏といえども先を見通すことなどできないだろう。人生は真坂の連続というがそれは歴史も同じことである。
 そんなことよりもこれに乗じて、
1 外国人労働者を大量に移民させること
2 外国人の一時的な在留中に日本の福祉が利用されていること
の方が心配だ。

 五木氏は2008年の新潮新書『人間の覚悟』という本を出した。あれからもう9年経過した。五木氏の類書の中ではよく読まれたらしくカスタマーレビューは『大河の一滴』の60件に続く42件もある。覚悟が随所に語られている。

 文中に紹介された近刊『玄冬の門』はアマゾンの目次をコピペすると
第1章 未曽有の時代をどう生きるか
人生後半の生き方が問われる時代
なぜ家庭用金庫が売れるのか
高齢者と若者の間の「階級闘争」
望んで「下流老人」になった人はいない
現代の「楢山送り」
犀の角のごとく独り歩め
玄冬期に入る前の心構え

第2章 「孤独死」のすすめ
子孫のために美田を残さず
「家庭内自立」のすすめ
自分の面倒は自分でみる
「再学問のすすめ」
妄想に遊ぶ楽しさ
孤独の幸せ感
隠遁は憧れの的だった
「孤独死」のすすめ
孤独の楽しみのためのレッスン
あらゆる絆を断ち切ろう

第3章 趣味としての養生
健康法が多すぎる
趣味としての養生
自分の体と対話する
癌は善意の細胞
病院に頼るのは間違いだ

第4章 私の生命観
いまは後生のことを考える人はいない
宗教なき世界にどう生きるか
不自由でもできるだけ介護されずに生きていく
「遊行期」――子供の心に還るなつかしい季節
死に方の作法
私の生命観――大河の一滴として
輪廻転生の恐ろしさ
語られた言葉が歴史に残った

第5章 玄冬の門をくぐれば
遊行期とお金の問題
過去の良い思い出を回想する
古人を友とする
高齢者こそが活躍できる分野
老後の楽しみとしての宗教
信心の楽しみ
年寄りは身綺麗に、機嫌よく
「置かれた場所で散りなさい」

 読売新聞のインタビューアーは多分この本を読んだんでしょうね。大筋で同じことを言っている。過去の類書の集大成のような内容です。
 第二章の孤独死の勧めにあるように記事の最後も単独死、孤独死が悲惨だとは思わないという。家族に看取られながら息をひきとることはもうない、と。宗教も進めている。
 面白いのは最終見出しの「置かれた場所で散りなさい」のフレーズは本日の同紙の広告に幻冬舎の渡辺和子『置かれた場所で咲きなさい』は散ると咲くの違いはあるが同じこと。この著者も宗教関係者である。

 多死社会への心の対応策として宗教の時代が来るのかな!そりゃもう急速にあの人もこの人も逝った、のかとがっくりする時代ですから心は塞ぐだろう。

 私ども団塊の世代は、青年期は経済界からがんばれ、がんばれと尻を叩かれた。中年期は忍耐、高齢期は諦観を諭されているように思う。

さて、万太郎と言えば、

湯豆腐やいのちのはてのうすあかり  万太郎

も有名な句である。苦労させた愛妻への追悼とか。

http://daisyoninn.asablo.jp/blog/2012/07/18/6515534

山で行方不明になれば野垂れ死にも覚悟の上だ。

野ざらしを心に風の入む身かな  芭蕉