カラオケで「くちなしの花」を歌い追悼2020年08月19日

 名古屋市の成年後見制度の親族関係の調査業務を受託し、その担い手を募った。応募多数につき、親族関係の知識に関する考査があった。基本的な例題であるが高齢の頭では考えるのに時間がかかる。というより記憶力の問題である。というわけで頭に血が上った。1時間少々で終わった。
 少し早いがカラオケスナックのお店で、渡哲也の「くちなしの花」を歌唱した。他に数曲歌って今度は喉が疲れてしまった。渡さんの供養になっただろうか。今回は対馬へ旅した際に繰り返し聞いた桂銀淑さんの「すずめの涙」にも挑戦したがやっぱり難しい。
 昨年の青森の山旅で繰り返し聞いた吉幾三「津軽平野」、美空ひばり「津軽のふるさと」などゆっくりなスローテンポの曲が歌いやすい。後、橋幸夫「沓掛時次郎」は歌うと元気が出る。多分股旅ものだからだろう。

 渡哲也さん、安らかにお眠りください。

乱読三昧2020年08月18日

 日々猛暑なので外出の気力が湧かず。今日は研修を1つ忘れてしまい、開始時刻で気がついて電話で欠席を伝えた。ウェブあり、ズームありで方式も煩雑になった。リアルに戻れないかと思う。
 朝から乱読が続く。昔の週刊誌も捨てずにとってある。ちょいと引っ張り出して何で買ったかと改めて読み直す。更には以前読んだ本に行き当たるまで渉猟を繰り返しやっと記憶の中の文章に行き着いた。一度は眼を通しておくと頭の片隅には残るものである。
 久々に事務所へ。書店で知事リコールの書籍を買った。中日に広告が載ったからだ。リコールは成立するか否か。尾張地区の少し若い知人は成立を危ぶむ。三河地区の同年代の女性の友人2人に聞くと「それなあーに」なんて言っているからほとんど知られていない。
 昨年夏のアイトレ自体に興味や関心がないと何だか騒いでいるわね、で終わる。記憶に残らないのだろう。8/25から周知し、署名集めに進んで行くがエベレスト登山よりは楽なはず。みんなで真剣に取り組むことになる。結果はついてくるだろう。追い風が吹くか逆風か。

訃報 渡哲也さん 享年782020年08月14日

NHKニュースから

 渡哲也さんが亡くなったことについて、石原プロモーションは「長きにわたり病との闘いの末去る令和2年8月10日午後6時30分に肺炎のため都内の病院にて旅立ちました。ここに生前のご厚誼を深く感謝いたしますとともに、謹んでお知らせ申し上げます」とするコメントを14日午後7時半すぎ公式のツイッターに掲載しました。

 この中で、葬儀については静かに送ってほしいという故人の強い希望により、14日、家族葬という形で執り行い、お別れの会やしのぶ会なども行わないとしています。

 また、香典や弔電などの儀も故人の遺志により、辞退するとのことです。

 そのうえで、「何卒、故人の遺志をご理解いただけますようお願いいたします。皆様のお心の中にて故人への祈りを捧げていただけますことを心よりお願い申し上げます」としています。
以上

・・・つい先だって、FBの友達が「くちなしの花」をアップしたので「渡哲也のヒット曲の「くちなしの花」の動画をアップしたばかりだった。
 お悔やみ申し上げます。
 裕次郎が石原プロを作った際に渡哲也も入社した。すると裕次郎は無名の新人の渡哲也にもお辞儀して丁重に扱ってくれたことに感動したらしい。あの有名な裕次郎さんが自分に頭を下げて迎えてくれたというのだ。そんなエピソードを何かで読んだ。
 78歳とは早いとも言えないがもう少し活躍してくれても良かったと思う。

上松町出身の御嶽海の活躍は2020年08月01日

 7/30から7/31にかけて久々に上松尾根を登ったが、下山後は上松町営ねざめホテルで入浴した。コロナ禍で入浴者数を制限中だった。普通は浴室へ土足で行けたはずだが今は玄関で体温測定、消毒、土足からスリッパに履き替えて入浴者数をチエックする体制であった。男性は私1人であった。
 入浴後、雑談中、御嶽海の看板が目についた。あれは「おんたけうみ」か、いや「みたけうみ」でしょう、とやりあっていたらホテルの従業員が「みたけうみ」と読み、上松町出身と聞かされた。そして本名は大道(おおみち)というが、先に同名の力士がいたのでしこ名も地元の御嶽山に因んで命名した。出羽の海部屋は最後に海がつくので御嶽海を名乗ることになったという。町営なので地元力士の活躍を一日一日勝敗を掲げて応援しているわけだ。そんな蘊蓄を楽しく聞いた。
 帰名後、ググってみると父(現在68歳)は日本人だが母は何と21歳下の年の差婚で射止めた可愛いフィリッピン人で御嶽海はハーフだった。旧木曽福島町にはうまい蕎麦屋があり、そこの主人の嫁さんもフィリピン人だったから山家の外国人でも珍しいとは思わないが・・・。母親の大道マルガリータさんも今はフィリピンパブを経営中だとか。
 私の山岳会会員にも日本人の奥さんと別れてフィリピン人女性と再婚したのがいる。白人女性よりはよほど気心は会うのだろう。 
 元に戻って、御嶽海は東洋大学で法律を学んだ学生相撲出身であり和歌山県庁にも採用が決まっていたのにそれを断りプロの道を歩んだというから面白い。
 上松町がいやに暑いと思ったら御嶽海はなんと今日(8/2)の千秋楽で優勝争いに残っているのだ。「優勝争いの行方 千秋楽で照ノ富士が御嶽海に勝てば、その時点で照ノ富士の優勝が決まる。御嶽海が勝った場合は、照ノ富士、御嶽海、朝乃山-正代の勝者によるともえ戦(3人での優勝決定戦)となる。」(日刊スポーツ)地元力士の活躍で湧いているのですね。どおりで暑かったはずです。

岡井隆歌集を買う2020年07月14日

 現代詩文庫502『岡井隆歌集』(思潮社 2013年)を丸善にて購入。全国的な歌人ともなれば在庫があり買うことが出来た。調べていたのは<長江はくるしむ河と思はむか>の後の七七が思い出せずにいた。書架には歌人の歌集もあるにはあるが岡井隆のは見つからず、いらいらしていたが本があって良かった。
 中日新聞を購読していた頃は、毎日のように「今日の言葉」に短いフレーズを紹介していた。長命を得ていたせいもある。たしか、やはり長命の俳人の山口誓子の作品に触れて、もうそろそろ句業を引退しても良いと促したこともあったかに記憶している。
 今日は購読紙の読売新聞に<長江は>の短歌を引いてお悔やみの言葉を「気流」欄に初めて投稿してみた。

長江はくるしむ河と思はむかその上に寝て夢ぞ乱るる2020年07月11日

 訃報 歌人の岡井隆さん死去。
 表題の歌は『歌集 中国の世紀末』(1988.7.1)から。現代詩文庫『』井隆歌集』(2013 思潮社)に抄録。
・・・「長江は眠れる河か」は記憶違いで、ちゃんと歌集を見て確認しました。今も三峡ダム崩壊説が蔓延中ですが、実際に中国自身はその大きさに苦しんでいるのです。日本からは巨大市場に見えるのですが、実のある経済は実際は小さいのでしょう。32年も前の歌ですが、現代中国の現状を示唆していて、岡井隆死去の報にすぐ反応したのがこの歌だったわけです。
 大きすぎると、トップの号令も末端には届きにくい。みんなルールを守らない。外国からは攻められやすい。常に外国を攻めていないとすぐ攻め込まれる恐れがある。みんなの面倒も見きれない。大衆の不満は常にあり暴動が絶えない。

https://www.sankei.com/life/news/200711/lif2007110014-n1.html

歌人の岡井隆さん死去 前衛短歌運動の旗手
 昭和期の前衛短歌運動を牽引(けんいん)し、宮中歌会始選者も務めた歌人で文化功労者の岡井隆(おかい・たかし)さんが10日、心不全のため死去した。92歳。葬儀・告別式は故人の遺志で行わない。後日、お別れの会を開く予定。

 昭和3年、名古屋市生まれ。歌人だった両親の影響で短歌を始め、結社「アララギ」に入会。26年には近藤芳美さんらと歌誌「未来」を創刊した。慶応大学医学部卒業後も内科医の傍ら作歌を続け、36年に出した歌集「土地よ、痛みを負え」では象徴や比喩を多用し、従来の写実にとどまらない短歌の可能性を開拓。40年代にかけ、寺山修司や塚本邦雄さんらとともに、短歌に濃密な思想性を持ちこむ前衛短歌運動の中心的存在となった。

 40年代半ばには一時、歌壇から離れたが数年後に復帰。詩作や評論も手がけ、口語と文語を融合させながら日常の細部を軽やかに歌う「ライト・ヴァース」を提唱し、後進の歌人にも影響を与えた。

 「禁忌と好色」で迢空賞、「親和力」で斎藤茂吉短歌文学賞、「馴鹿(トナカイ)時代今か来向かふ」で読売文学賞をそれぞれ受けた。19年から天皇陛下や皇族の和歌の相談役として宮内庁御用掛を務めた。28年、文化功労者。

大西暢夫『ホハレ峠』を読む2020年06月20日

彩流社刊

著者は  アマゾンから
大西/暢夫
1968年、岐阜県揖斐郡池田町育ち。東京綜合写真専門学校卒業後、写真家・映画監督の本橋成一氏に師事。1998年にフリーカメラマンとして独立。ダムに沈む村、職人、精神科病棟、障がい者など社会的なテーマが多い。2010年より故郷の岐阜県に拠点を移す。『ぶた にく』(幻冬舎)で第58回小学館児童出版文化賞、第59回産経児童出版文化賞大賞。映画監督作品:『水になった村』(第16回EARTH VISION地球環境映像祭最優秀賞受賞)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

出版社側のねらいは
編集者が明かす、ダムに沈んだ徳山村の本を出した理由 ―そこから見え隠れする近現代
https://note.com/sairyusha/n/naeff5f3e8d72

朝日新聞の書評は
(書評)『ホハレ峠 ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡』
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14511895.html?pn=3

 ■現金がのみ込んだ大地との生活

 ダムの底に沈んだ岐阜県揖斐郡徳山村。一五〇〇人ほど暮らしていた村民が次々と出ていく中、そのもっとも奥の集落・門入(かどにゅう)で、最後まで暮らしていた廣瀬ゆきえさん。

ここから続き
 山に入り、山菜を採り、日が暮れれば寝る。夫を村で看取(みと)り、たった一人で大地の恵みと呼吸するような生活に、強制的に終止符が打たれる。ダム建設に伴い立ち退きを余儀なくされた日、漬物小屋を解体する重機から目をそらすように遠くを見つめる写真が全てを物語る。「村の清流だった揖斐川の水が、自らこの大地を飲み込もうとしている」

 約三〇年前から村に通い、ゆきえさんと向き合い、その足跡を記録した。門入の住民は街に出るために、ホハレ峠を越えた。早朝に出たとしても着くのは夕方。わずか一四歳、家で育てた繭を運びながら峠へ向かう。峠の頂上から初めて「海」を見た。それは、初めて見る琵琶湖だった。

 北海道真狩村に嫁ぎ、やがて村に戻ると、山林伐採、ダム建設が忍び寄っていた。ダムの説明会に参加するだけでお金が支給され、集落の繋(つな)がりを巧妙に札束で崩していく国。「みんな一時の喜びはあっても、長い目で見たらわずかなもんやった。現金化したら、何もかもおしまいやな」

 転居した先のスーパーで特価品のネギを見て、「農民のわしが、なんで特価品の安いネギを買わなあかんのかなって考えてな。惨めなもんや」と漏らす。村を最後まで見届けたゆきえさんの人生は「点」でしかないが、その点は長く繋がってきた尊いもの。誰よりも本人がそのことを知っていた。

 台所で倒れ、亡くなったゆきえさん。口の中から一粒の枝豆が出てきた。ゆでた枝豆をつまみながら、ご飯を作っていたのだろう。時折さしこまれる写真の数々が、村の歴史、ゆきえさんの足跡を伝える。読みながら、本のカバーを何度も見返す。「現金化したら、何もかもおしまいやな」と繰り返し聞こえてきた。

 評・武田砂鉄(ライター)

徳山村は映画「ふるさと」にもなった。
以上

 個人的には、昨夜で粗方読破してしまった。奥美濃の山は登山の開始と同時進行である。山岳会に入会したのが昭和53(1978)年(28歳)であった。『鈴鹿の山』とか『秘境 奥美濃の山旅』を買って読んで山行のヒントにした。『ぎふ百山』を知るのはもう少し後になる。次々と登った山が増えてゆくのが楽しみになった。この後、サンブライト出版から森本次男『樹林の山旅』の復刻版が出た。すぐに買った。たちまち愛読書となった。
 足は月1回のレンタカーであった。入会した年の10月にトヨタ・スターレットというレンタカーで、馬越峠を越えた。初めての徳山村探訪になった。早暁、薄いガスの中に徳山谷が見え、紫色の煙が昇っていた。その時は冠山に登った。特に岐阜の山が面白く、当時は守山区に住んでいて、中日新聞の購読に加えて、岐阜新聞の東濃版を配達してもらった。昭和55(1980)年3月4日から『続・ぎふ百山』の連載が始まっていた。それが目的だった。昭和60(1985)年1月までのスクラップが残っている。切り抜きしたものを友人に託したらきれいな海賊版にしてくれた。何冊も印刷して仲間に配布したが後に岐阜新聞社から立派な装丁の『続 ぎふ百山』が出版された。海賊版は100山目で止まっていたが新版は130山もあった。
 昭和55(1980)年(30歳)にマイカーを買った。その車で、金ヶ丸谷の偵察に出掛けた。この時は揖斐川沿いに走り、西谷川を遡った。初めての門入との遭遇である。着いた門入では家の取り壊し中だった。墓には白い布をかぶせてあった。こんな情けない姿を先祖に見られたくないからだという。それで村人に金ヶ丸谷の熊の生息状況を聞いたら、いつぞやは京都の若い人が夜叉ヶ池から金ヶ丸谷を下降して遭難死したという。京都から親御さんがきて息子が帰らないから探してくれというので探したら谷の中で死んでいた。「あんたね、熊よりも谷の方が怖い。行かん方が良い」と諭してくれた。その日はそこで帰った。これが門入とのなれそめである。『ホハレ峠』P236には「たしかに昭和55年ということは、そろそろ徳山村から移転地へ引っ越しが具体的になってくるとき」とあるから記憶にまちがいはない。
 金ヶ丸谷の遡行は平成17(2005)年9月になった。偵察から実に25年の歳月が流れ、ダムの湛水が始まる前年だった。我ながらしつこく追いかけたものである。
 門入の予備知識としては安藤慶一郎編著『東海 ムラの生活誌』(昭和55年9月刊 中日新聞社)がある。5番目に「西美濃山村の生活と親族組織」がある。学者が書いただけに綿密に調査したのだろう。門入の特殊性は通婚関係と指摘している。閉ざされた狭いムラ社会ではそうせざるを得ないだろう。
 乙川優三郎『脊梁山脈』は木地師が主人公の小説である。しかも東亜同文書院の学生のまま兵隊にとられた設定。小説では長野県売木村の木地師と主人公が復員列車の中で出会うのだが、復員列車で親切を受けたお礼に売木村を訪ねると本人は居るのだが別人であった。出会った人は東北に住んでいたというトリックにも使われている。つまり東北の兄が結婚してすぐに出征したが戦死した。弟は無事で帰国できたので戸籍上は兄に成りすましたまま、兄の嫁と子を養う人生を送る。そんな筋書きだった。木地師の社会も他と交わりが少ないから近親婚になるのだろう。要するに限られた山奥の閉ざされた社会での家を守ったのである。
 著者も門入の婚姻関係の理解には相当な苦労をしている。P182辺りから明らかにされている。
 廣瀬ゆきえさんは大正7(1918)年生まれ。昭和7(1932)年14歳で初めてホハレ峠を越えたと、本書にある。昭和8年にはまたホハレ峠を越えて、更に鳥越峠を越えて彦根市のカネボウの紡績工場へ働きに出た。16歳までの冬はそこで働いた。17歳から24歳まで一宮市、名古屋市の紡績会社で働いた。
 著者の大西暢夫さんは門入が越前藩の領域だったことまでは調査されていないようだ。越前から見て最初のムラが門入、次は戸入、本郷である。古くはお坊さんも越前から迎えていた。福井県の日野川源流の廃村・大河内へ行く途中に二つ屋があり、そこから夜叉ヶ池に向かって登る尾根が街道の尾と言った。登りきると金ヶ丸谷の源流部に下る。そこからどのように道があったのかは明らかではない。
 ゆきえさんは昭和17(1942)年頃、24歳で結婚し北海道に渡った。『ぎふ百山』の千回沢山・不動山の項に入谷の人らは大正の初めに北海道へ渡ったことが書いてある。門入では明治36年から移住が始まっていたのである。戦争を経て昭和28年に北海道を引き揚げた。34歳になっていた。八ヶ岳山麓に一時的に身を置き、昭和30(1955)年に徳山村へ戻った。13年間はまさに転変流転の人生だ。廣瀬家から橋本家に嫁いだはずなのに夫がまた廣瀬家に戻した。もともと親戚同士の結婚だった。これが親族組織で成り立つ門入の特殊性である。
 愛読書の『樹林の山旅』には黄蘗(きはだ)の村(千回沢山と不動山)の項で門入が紹介される。きはだは薬になる木のことで、徳山会館で売っていた。
 森本は昭和10年頃の記録をまとめて昭和15年に発刊した。だから廣瀬ゆきえさんは18歳頃になり同時代を生きていたことになる。但しゆきえさんは一宮市の紡績工場に住み込みで働いているので遭遇はしなかった。森本は大滝屋という旅館に泊まって門入のめぼしい山と谷を跋渉した。ホハレ峠の話も出てくる。「あへぎあへぎ登る急な坂路は、太陽の光を顔に受けて峠に着いた時分には日焼けで頬がはれている。だから、ここはホヽハレ峠だという話を聞いたが、この峠の名前は街で信じてもらうにはふざけすぎている。だが私達は嘘だとは思わない。」
 栃や欅の原木を板に挽いてホハレ峠まで来ると余りの力仕事に頬が腫れるというのが由来のようだ。
 湛水が始まったころは遊覧船が浮かぶとか、門入へは県道が通るとかは仄聞したが今も実現していない。

門玲子『玉まつり』購読2020年06月17日

あの深田先生が何故・・・ 復員後の深田久弥が志げ子夫人と暮らした大聖寺・金沢で親しく夫妻の謦咳に接した著者には、思いがけぬ深田の噂は大きな謎となった。 作品を丹念に読み解くことで昭和文学史の真実に迫る。久弥、八穂、志げ子への鎮魂の書。
幻戯書房刊。2020.5.24

表紙は富士写ヶ岳

副題
深田久弥『日本百名山』と『津軽の野づら』と

門玲子(ウィキペディア)

門 玲子(かど れいこ、1931年3月24日[1]- )は、日本近世文学研究者。
石川県加賀市大聖寺生まれ。1953年金沢大学文学部卒。1980年『江馬細香 化政期の女流詩人』で第8回泉鏡花記念金沢市民文学賞受賞。1998年『江戸女流文学の発見』により毎日出版文化賞受賞。江馬細香など近世の女性漢詩人、只野真葛など近世の女性思想家について研究している。

幻戯書房NEWSから
 
深田久弥と同郷で、復員後の深田と身近に接した著者が、当時を回想し、深田と北畠八穂の作品を丹念に読み込み、昭和文学史の真実に迫る、鎮魂の長篇エッセイ。

●本文より
 深田は長患いの八穂のためにさまざまに心を砕いている。上林暁の《この夫婦は辛い夫婦だつた》という言葉が思い合わされた。

中日新聞書評
深田久弥の謎 読み解く 同郷の門玲子さん 長編エッセー出版
 石川県大聖寺町(現加賀市)出身で「日本百名山」の著者として知られる作家深田久弥(きゅうや)(一九〇三〜七一年)。戦前は鎌倉文士として名をはせた深田が、戦後は大聖寺や金沢市で七年半を暮らし、「山の文学者」となっていったのはなぜか−。同郷の出身で、久弥と妻志げ子とも親交のあった女性史研究家の門玲子さん(89)=愛知県大府市=が、作品を読み解きながらその謎に向き合った長編エッセー「玉まつり 深田久弥『日本百名山』と『津軽の野づら』と」(幻戯書房)を出版した。(松岡等)
 東京帝国大在学中に改造社の編集者となった深田は、懸賞小説の下読みで、後に作家、詩人となる北畠八穂(やほ)(一九〇三〜八二年)の応募してきた作品「津軽林檎」に才能を感じ、八穂の住む青森まで出向く。
 結ばれた二人は、千葉・我孫子、東京・本所、鎌倉と移り住み、深田は文壇で頭角を現していく。しかしその出世作ともいわれる「津軽の野づら」に収められた「あすならう」は「津軽林檎」を元にしており、当時発表された作品のいくつかは八穂の下書きを元にした「共同作業」だった。
 また深田は、初恋の人だった志げ子と再会し、鎌倉でカリエスに悩まされていた八穂を残して、志げ子との間に子をもうける。出征した中国から復員後、深田は文壇を離れ、志げ子との間に生まれた子どもたち家族と故郷に暮らしながら国内の山々に登り、ヒマラヤの文献などを集めて読み込み、「山の文学者」となっていく。
 八穂は深田と離別後に作家として独立。やがて戦前の深田名義の作品の多くが八穂の下書きした作品だったと主張し、それが通説のようになっていく。しかし門さんは、八穂が戦後に自身の名前で発表した作品群にみられる独特の比喩や詩的な飛躍のある文章を読み込み、深田の理知的な作風と比較。「津軽の野づら」「知と愛」「鎌倉夫人」など、八穂が自作であるとする少なくない作品は深田自身のものではと示唆する。
 金沢で暮らしていた間、文化人の中心にいた深田が「僕の心の中に七重に鍵をかけたものはあるが、その他はすべてオープンだ」と語っていたのを聞いていたという門さん。「深田自身は(八穂とのことについて)一言も弁解をしていない。地元の大聖寺でも、深田の傷のようにそっとしているのではないか。しかし、それでは(八穂が主張したことだけが)事実になってしまう。自分が感じたことは書き残しておかなければ、という気持ちを持ち続けていた」と語る。
 書名の「玉まつり」は、松尾芭蕉が寿貞尼をしのんで詠んだ「数ならぬ身となおもひそ玉まつり」から。志げ子さんとの会話の中でふいに出たその句に「ほのかな表現に哀れふかい弔いの心」を感じ取ったという。
 本書は、深田と八穂が暮らした鎌倉と我孫子を訪ねた紀行文で締めくくられる。二人に縁の場所を歩いた旅は、深田が生涯明かさずにいた思いを、門さん自身が納得するためだったようにも読める。
 四六判、二百二十六ページ。二千八百円(税別)。

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http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200611250173.html

五十嶋一晃『類例のない伊藤孝一の登山』届く2020年05月28日

五十嶋一晃『類例のない伊藤孝一の登山』
 昨日ポストに投函されていた。
2020年3月18日発行
著者:五十嶋一晃
発行者:五十嶋博文
発行所:五十嶋商事有限会社
定価:2500円+税

表紙には
「冬期未踏の北アルプス最深部を開拓しながらその映像を残した男
それは自己実現欲求を叶える山行と撮影であった」
これが著者の五十嶋氏の伊藤孝一研究で得られた結論であった。

・・・感想

伊藤孝一の四女の都留子氏かた提供された豊富な一次資料をぜいたくに採用

既刊の伊藤孝一を書いた著作物の検証

日本の近代登山史と照合しながら伊藤孝一の登山の価値を見出す

名古屋が生んだ稀代の登山愛好家にして日本で初めて冬の北アルプスに映画カメラを持ち込み、映像で登山を記録した業績は日本登山界の金字塔

アルピニズムは異教徒と同じで、伊藤は日本古来の手法で登った。映画カメラ、衣服や道具は輸入品だったけれど

 伊藤孝一は尾張藩の御用商人の末裔として生まれた。『名古屋商人史』には鼈甲を商う商人として記録されている。廃藩置県、明治維新で尾張藩も解体された。武士は廃業し御用商人の中には不良債権を抱えて倒産したであろう。伊藤孝一の先祖はどさくさをうまく切り抜けたらしい。不動産を中心に莫大な資産を残してもらったが、昭和の初め中川運河の用地提供で税金のトラブルに巻き込まれて資産を失った。

晩年は東京都三鷹市で余生を送った。

戦後は忘れられた登山家であった。伊藤孝一が再び世に注目されたのは毎日新聞名古屋本社のカメラマンだった上田竹三氏の執念で戦前の失われた貴重なフィルムが赤沼家の蔵にあることを突き止めたことで大きな展開を見せ始めた。
登山史、山岳映像の専門家から高く評価されて富山県立山博物館で展示される機会も得た。
映画は私も見た。赤沼さんの経営するスキー宿であった。まさかその伊藤孝一が名古屋の生まれとは汁知らずだった。

たとうれば独楽のはぢけるごとくなり 虚子2020年05月11日

ソース: http://www.izbooks.co.jp/kyoshi81.html
高濱虚子の100句を読む     坊城俊樹

たとふれば独楽のはぢける如くなり    虚子
        昭和十二年三月二十日
        「日本及日本人」碧梧桐追悼号。
        碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり

 河東碧梧桐は同年の二月一日に亡くなる。
 歴史の中では、碧梧桐が子規の写生を根源的に実践しようとしすぎて、無中心主義になったことで虚子とのあつれきが生じた。
 自由律・破調といつたことはその後の変遷であって、当初は無中心によって、つまり写真のように眼前のすべてのものを写実的に俳句に盛り込もうとした。おのずと季題ばかりが中心でなくなり、かつ五七五に盛り込むことも必然でなくなる。
 ある意味で碧梧桐のほうが子規の写生により従順であり、虚子のそれは季題諷詠という独自の路線に入っていったとも考えられる。
 その後の歴史は周知の事実であるが、碧梧桐と虚子はプライベートにおいては昔とかわらぬ交友を続けていた。
 年尾や立子も、碧梧桐の小父様と言ってはなついていたし、虚子もその死の際には、
 「一月九日に青々君を失ひ、一月一日碧梧桐君を失ふ。旧友凋落、聊か心細い感じがいたします」と哀悼の意を述べている。
 「独楽」が虚子と碧梧桐であることは間違いないが、この句の普遍性は世の中のライバルというもののすべてにこの句が当てはまるということであろう。
 この句は弔句であるが、それは死去のすこし後に発表された。そのためか、「贈答句集」に掲載されずに「五五十句」にのせている。
 単なる弔句におさまらないのは、この「たとふれば」の前置きに、重畳たる虚子と碧梧桐の明治初期から当時にいたるまでの人生の軌跡が省略されていることだ。
 その数十年間の子規からはじまる、俳句の歴史がこの二人の歴史とシンクロして現代の俳句を形成したことを思えば、いかにこの句が巨大な存在であることがわかる。
 喧嘩独楽は火花を散らして回り続ける。やがて負け独楽が倒れ臥すと、勝ち独楽もまた回転をやめる。
 虚子はこの独楽の勝ち組になったという感慨より、ただ無常観ばかりが残っていたのではかろうか。やがて、受賞する文化勲章のときの、

  我のみの菊日和とは夢思はじ     虚子
    昭和二十九年十一月三日宮中参内。文化勲章拝受。

 この句には、子規やその他のあらゆる俳人たちへの感謝とともに、それらすべての者たちとは異なるポン友、碧梧桐への思いが沸々と沸いていたはずである。
以上

 深い洞察のもとに書かれた気がする名文です。子規とともに同郷のよしみで遠慮もなかったから仲のいい兄弟みたいに俳論をたたかわせてきたんだろう。虚子は讃えられ、碧梧桐は忘れられる一方の不遇さ。それでも書の世界の達人の手で蘇らせられた。碧梧桐が本物のであったからdろう。