忘年山行2 伊勢山上と枡形山を歩く2019年12月01日

 朝6時30分起床。今朝も良く晴れている。窓からは錫杖ヶ岳が良く見える。あの山を借景にしているのだろう。布団を畳み、荷物を片付けて朝食に食堂へ行く。既に皆さんは食事を始めるところだった。朝はパン食と野菜、フルーツの洋食風になった。それも済ますとザックを1Fにおろし、出発の準備だ。ロッジの玄関前で記念写真を撮影。車を玄関に乗り込み運び入れると出発だ。11人参加。
 まずは関ICから一志嬉野ICへ。雲出川の支流の中村川に沿う地方道を源流に向かって走る。途中から飯福田川に分かれて走ると伊勢山上飯福田寺(いせさんじょういぶたじ)に着いた。

 ここは行場といって修験者の修業の場だったらしい。HPには「元々、修験者(山伏)のための霊場・修行の場でありましたが、明治時代以降一般の方にも開放され、多くの方々に入山していただいております。但し、命の危険を伴う場所も多く、入山される場合は、必ず当寺の受付にて入山心得をお聞き頂き、入山名簿にご記帳の上、入山料500円をお納め下さい。入山中の怪我・事故等につきましては、当寺は一切責任を負えませんので、ご了承いただける方のみご入山下さい。 」とあった。以前から聞いてはいたが来る機会が無かった。
 受付で500円を払ってもらい行場の説明を聞く。再びHPによると「当山は伊勢山上と称され、ご本尊は『薬師如来』。

 大宝元年(701年)、役小角(えんのおづぬ)により開創された霊場である。広大な表行場・裏行場を有し、古来より諸侯国司をはじめ、信奉の参拝者は多く、北畠家の祈願所として栄える。                 また、天正11年(1583年)には、織田信雄に寺領・百十五貫文を寄付されたが、松坂城主・蒲生氏郷により、当山の伽藍を壊し、その材を用いて松坂城を築くなど、衰退の止む無きに至る。その後、津藩主・藤堂家の信奉を得、寺運は興隆し、今多くの人々が修行と順拝に参詣している。」とあった。

 そうか、ここにも北畠氏の勢力範囲だったのか。あるHPには「大河内城跡についてーーー北畠満雅が応永22年(1415)に築いた城で、弟の顕雅を城主としました。永禄12年(1569)北畠具教はこの城に篭もって織田信長と戦いました。織田勢は力攻したが失敗、兵糧攻めに転じたため、具教はついに信長の次男信雄を養子とする条件で和睦。信雄が田丸城に入ったため廃城。
◎北畠具教(1528-76)戦国時代の武将。弓馬・兵法・和歌など文武に秀でた端将といわれています。永禄のはじめごろから織田信長の伊勢侵攻によって、多気・大河内両城を棄てて三瀬の古城に移り、1570年出家。」と案内。

 伊勢山上の説明によれば織田信長は北畠具教を攻めた際に伊賀忍者を使ったらしい。それに対抗するためにこちらも山岳僧を養成する道場だったというのだ。

 それで出発するといの一番に油こぼしの鎖場が出てきた。鎖を掴みながら登りきるとお堂のある窟屋に行く。ここもクライミング的な順路があるが、大勢なのでエスケープルートでずるした。ここを通過すると難所はなく雑木林の中の穏やかな山道になる。最高点らしいところで小休止。するとまた次の難所が出てきた。小尻返しとかいうのでロープを出して確保してもらった。岩場に慣れない新人もいるからだ。ここも突破、次はエスケープルートを回るともう難所はなくなりスタート地点に戻った。約2時間余りの岩場巡りだった。
 受付へ下山報告後、東屋で昼食とした。休憩後、次の枡形山登山口へ移動。中村川を下って平野部に出た。向山から大阿坂町に出て山際に建つ浄眼寺へ向かった。ここにも説明板はある。

 あるHPによれば「
「阿坂城跡(白米城)について
北畠満雅が築いた城。敵軍の水断ちに遭った際、白米で馬を洗い水がふんだんにあるように見せかけ、敵をあざむき退却させたという伝説から、白米城の名があると言われています。」とあった。寺のPから約40分と手ごろ。ここは子供のころから聞いていた白米城であった。昔は地形図にもそう印刷されていなかったか。

 一山やったばかりだが、また登山の準備で登りかかった。最初はセメントの狭い舗装道路を急登する。やがて地道になって緩急取り混ぜながら山頂に着いた。なるほど眺めが良い。三等三角点も萱の山上に埋まる。すぐ近くの南の山は堀坂山、西には中村川の谷を隔てて矢頭山、髯山(ひげ)、雨乞山が並ぶ。さらに向こうには尼ヶ岳(伊賀富士)が頭を出している。山頂の案内板には日川富士もある。これは観音岳の北西の508mの独立標高点を指すらしい。
 4人のパーティを組んで近鉄伊勢中川駅でタクシーを拾い、浄眼寺へ走り、枡形山から日川富士を経由、観音岳を登って下山し、またタクシーを呼んで松阪駅へ行けば手軽な縦走コースになる。

 戦国時代にこの地域を統括していた「北畠 具教(きたばたけ とものり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名・公家。伊勢国司北畠家の第8代当主。」

「永禄11年(1568年)以降、尾張国の織田信長が伊勢国に侵攻し、神戸氏・長野工藤氏など伊勢北中部の豪族を支配下に置いた。そして、永禄12年(1569年)に8月に信長自ら北畠領内への侵攻を開始した[2]。北畠軍は織田軍相手に奮戦したが、兵数に大きな差があり、具教の弟・木造具政が織田氏に寝返るなどの悪条件も重なり、次々と城を落とされた。具教は大河内城(現在の三重県松阪市)に籠城して死守するも、50余日に及ぶ抵抗の末に降伏する形で和睦した(大河内城の戦い)[2][3]。このとき、具教は降伏の条件として信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養嗣子として迎え入れることとなる」

「天正4年11月25日(1576年12月15日)、具教は信長と信雄の命を受けた旧臣(長野左京亮、加留左京進(藤方朝成の名代))の襲撃を受けて、子の徳松丸・亀松丸、および家臣の大橋長時・松田之信・上杉頼義ら(名が判明しているだけで14名の武士)共々殺害された[2][3]。享年49。同時に長野具藤はじめ北畠一門の主な者が信雄の居城・田丸城において殺害された。これにより戦国大名としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られた(三瀬の変)。」

 織田信長の年表を見ると戦いに忙しかった。34歳時の1567年は本拠を岐阜城に移転。42歳時の1575年は有名な長篠の戦いがあった。1576年には安土城を築く。1582年には信長も本能寺の変で自害。
 北畠家は伊勢国司家としては滅亡したとある。江戸時代以降も継承されたが「中院通勝の子親顕が北畠家の名跡を継承したが、寛永7年(1630年)、親顕が没し、跡継ぎがなく北畠家は断絶」した。しかしその後「1871年(明治4年)7月、久我建通の子通城が分家して北畠姓に改姓し、家名を再興した。後に北畠親房、顕家らを祭る霊山神社の宮司を務めた。」とあり、北畠家から分家筋が一旦名前を変更後、北畠を名乗るようになった。
 「北畠政郷の子・田丸顕晴が度会郡田丸城に入って田丸氏を名乗ったことに始まる。」田丸氏は知人にも同姓が居る。松山市出身だが、松山藩の徳川家に仕えた田丸氏の子孫だろうか。浪岡氏は青森県の北畠につながる。
 これで今年は3月の北畠親房(1293~1354)の田丸城見学、5月の青森の北畠八穂(1903~1982)の調査、11月の近江柏原の北畠具行(1290~1332)の墓見学、12月の北畠具教(1528~1576)の縁の山に登ったことで4人を知った。八穂は近代の人。北畠家系図を見ると親房と具行は同時代なんですね。天皇の政治から貴族の政治へ、平安時代は過ぎて、鎌倉時代の武家政治に変遷する中で登場してくる。具行は安土桃山時代の人。何となく分かりかけて来た。

『津軽の野づら』の原作と出版の著作権2019年11月21日

 深田久弥の『津軽の野づら』は北畠八穂の著書とされる。深田には書けない内容だかららしい。しかし今年津軽半島では八穂は標準語で文章を書けないことを知った。津軽弁で語られた『津軽の野づら』を一般に分かりやすい文章で著したのは深田久弥であった。すると著作者も深田になるのだがなぜか不幸な別れ方をしたためか、著作権に争いがあるためか、再版を見ることが無い。
 こんな例は柳田國男『遠野物語』にも言える。
 ウィキによると原作は「岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集である。遠野地方の土淵村出身の民話蒐集家であり小説家でもあった佐々木喜善より語られた、遠野地方に伝わる伝承を柳田が筆記・編纂する形で出版」とされる。聞き取りした話を文語体で著したのは柳田の手柄である。
 続けて「晩年の柳田も当時を振り返って「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」と語っている。」というように深田も聞き取りに苦労して小説化したと思われる。津軽半島の小泊で聞いた太宰治『津軽』の朗読の語り部の津軽弁は私にはさっぱり聞き取れなかった。しかし、秋田県の人は聞いて落涙した。
 当時26歳の田舎娘の八穂が津軽弁で深田に語りそれを解釈しながら標準語の小説にしたのであろう。中身は八穂であるが作品への貢献度は深田に傾くと考えるが・・・。

雨森芳洲覚書2019年11月20日

 江戸時代の朝鮮外交に尽くした雨森芳洲を知ったのは9/14に滋賀県高月町の雨森芳洲庵を訪ねてからだった。説明を聞き、自分でも調べると面白い。
 司馬遼太郎『街道を行く 対馬・壱岐』の雨森芳洲について丁寧な人間観察がある。近刊の石平『朝鮮通信使の真実 江戸から現代まで続く侮日・反日の原点』を読んでも朝鮮とは「つき合い難し」が結論である。

 それなのに朝鮮外交に尽力したのはなぜか。

 辛口のジャーナリスト・高山正之氏が週刊新潮に寄せるコラムはつとに有名であり私も毎週立ち読みする。後年にまとめて『変見自在』にまとめられる。それは欠かさず購入してきた。 
 9/12付けには「たかるだけの国」と出して寄稿された。以下はブログ「文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization on September 2016」に書き込まれた記事を転載させていただく。

 学者、雨森芳洲を一言で言えば「元禄期の若宮啓文」となるか。若宮とは朝日新聞の主筆だった人。北京のホテルで変死したことと「いっそ竹島を韓国に譲って友好の島にしよう」と書いたことで人々の記憶に残っているかもしれない。とにかくあの国が好きだった。そんな狂気に嵌るきっかけは生の金日成に会ったことだった。社に戻るなり願い出てソウルに語学留学に出かけた。そのあとはもう韓国贔屓のネタばかりを書いた。1995年には、日本開催が決まっていたサッカーW杯を「韓国と共同開催にせよ」と社説に書いた。朝日に盲従する宮澤喜一がそれに頷いてまさかの共同開催になった。しかし韓国にW杯をやれる体力はなかった。決まってすぐのアジア通貨危機では国自体がデフォルトに陥ってしまった。若宮が騒ぎ、FIFAの鄭夢準も走り回り、結局は日本が財政支援した。 
 それだけじゃない。開会直前に9・11テロが起きてそれに伴う不況のさざ波で競技場を建てるカネもなくなった。やっぱり共催は無理となったところでまた若宮が騒ぎ、旧日本輸銀が2億ドル融資を強いられた。
かくて開催されたものの韓国人のラフプレーと審判買収で「最も汚いW杯」の汚名だけが残った。若宮は韓国と同じくらい女にも入れ揚げた。
その醜聞を手土産に退社後、念願の韓国の大学の先生に納まった。
変死するまではいい人生だった。 

 雨森芳洲は男色という一点を除いて若宮の祖先かと思われるほど、その人生の軌跡は似ている。彼は20代で対馬藩に抱えられ、33歳のとき釜山の倭館に派遣されて生の朝鮮を見た。若宮が金日成に会ったのと同じ歳頃で、同じようにのめり込んでいった。
 そのころの李氏朝鮮は貧困の極みにあった。だから徳川将軍の代替わりがあると総勢400人の通信使がお祝いと称して押しかけてきた。彼らは丸1年も逗留して遊興に耽り、貧しいから宿の食器から寝具、床の間の掛け軸までかっぱらっていった。老中格の新井白石はそんなたかり集団に厳しく、接待費も旅程も半減するよう命じた。ついでに徳川将軍を「日本国王」とよいしょするよう朝鮮側に求めた。幇間並みに扱った。 
 このとき通信使の接待役が芳洲だった。朝鮮人に生まれたかったと、若宮と同じ思いを語っていた芳洲は白石の処置に怒りまくった。二人の応酬はホントに激しかったが、誰が見ても白石の言う通りだった。 
最終的に幕府は朝鮮側にもう江戸まで来なくていい、対馬で接遇すると伝えた。世にいう易地聘礼だ。二代秀忠から十代家治までたかりまくった通信使は1811年の対馬での質素な供応を最後に二度と来なくなった。先日の天声人語がこの雨森芳洲を取り上げていた。 
 今の日韓のいざこざを踏まえ「威信や体面にこだわる両国の間で板挟みになった」芳洲が半白になるほど苦労したと書き出す。いや日本は体面などどうでもいい、大所帯で押し掛けて、接遇に100万両もかかるたかりをやめてくれと言っているだけだ。コラムは「日本国王」の件にも触れて「国威を高めることに執着した」と冗談も理解できない。ホワイト国外しをした安倍政権をあてこすった気になっている。 
 それに通信使側はたかっておきながら「穢れた獣のような日本人が富栄えるは嘆くべし恨むべし」(金仁謙『日東壮遊歌』)と感謝の気持ちもない。デフォルトを救ってやったときと同じだ。ここはだれもが白石の対応を褒めるだろう。
 コラムは最後に「互いに欺かず争わず真実をもって交わること」という芳洲の言葉で結ぶ。それは日本が百歩も譲って呑んでやった慰安婦合意を踏みにじり、カネだけ失敬するような国に言い聞かせる言葉だ。
日本人の読む新聞に載せるのは失礼ってものだ。
以上

 雨森芳洲には子孫が居たと分かった。
 民団新聞のWEB版に「祖先<雨森芳洲>の志大切に」と題した記事がある。全文転載させていただく。

 新時代の韓日交流へ膨らむ想い

「ぼくは草の根で」
病院学級で奉仕の心知る

 「人間同士の触れ合いや、言葉を通して日本と韓国、北朝鮮関係で何か寄与できれば」。今年2月、ソウル市の延世大学校政治外交学科を卒業した雨森秀治さん(31、奈良県宇陀市)は翻訳、通訳などの仕事で韓国と日本を行き来する。大学在学中に自分のやるべき方向を決定づけたという奉仕活動、そして江戸時代中期の儒学者で、朝鮮との善隣友好関係を深めた雨森芳洲を祖先に持つ思いなどを聞いた。

 現在、韓国にある出版社の契約社員として、韓国と日本を往復する生活が続く。取材当日、翻訳を手がけたという書籍を持参してくれた。

 韓国と関わって6年目。高校2年生のとき、祖父から初めて10代前の祖先、雨森芳洲の話しを聞き、びっくりした。そのときから芳洲や朝鮮通信使に関する資料や書物を調べ、滋賀県伊香郡高月町の芳洲の生家を何度も訪ねるなど、勉強を重ねた。芳洲の生き方や考えを知るにつけ、「韓国に行ってみたい」という思いは膨らんでいった。

 25歳のとき、それまで勤めた貿易会社を退職。「両親も同僚も反対した。でも韓国語を勉強した後、日本と韓国、北朝鮮関係で自分のできることで関わりたいと思っていた」。ソウルにある西江大学校の語学堂で1年間、韓国語を学び、04年3月、延世大学校政治外交学科に入学した。

 雨森さんは芳洲との関係を誰にも明かさずに過ごした時期がある。韓日にまたぐ有名な祖先を持つことは、時として雨森さんを苦しめた。

 高校時代、歴史教師から芳洲とのつながりを聞かれた。当時、勉強が苦手だったという雨森さん。教師は「芳洲の子孫なのにどうしてそんなにできないのか」と吐き捨てるように言った。それはトラウマとなり、以来、関係を心のなかに封印したまま10年以上を過ごしたという。

 「周りから言われるのは嫌だったし、プレッシャーがあった」

 留学当時に抱いた思いを、さらに「自分のやるべきこととして、具体的に教えてくれた」のは、延世大学校での4年間、奉仕活動で関わった延世大学校医学部付属セブランス病院の院内学級だ。 同学級は00年12月に開校された韓国政府公認の病院学校。白血病や重い病を抱えながら長期入院生活を送る5歳から19歳までの子どもたちが、英語や数学、音楽、美術などを学んでいる。教師は奉仕活動で参加した学生たち。雨森さんは毎週1回、日本語を教えた。

 当時、歴史教科書問題や、独島(竹島)問題などで韓日関係が険悪化していた。子どもたちから「独島は私たちの島」と言われ、意見を求められたこともあった。「反対側から見ること、客観的に見ることなど、いろいろなことを子どもから教わった」

 雨森さんにとって、院内学級の授業は何よりも大事な時間だった。「そこは生と死の現場。今日会って最後かもしれない。生徒が亡くなったことも多かった。辛くて止めようと思ったことも何回もあった。でも生徒たちは一生懸命、勉強をする。自分もそれに応えなければと思った」

 もちろん、嬉しいこともあった。退院した生徒が「元気になった」からと毎週のように顔を出し、「秀治のおかげで日本に対するイメージが変わった。日本語を勉強して日本に行きたい」と夢を話してくれた。大学の同級生2人も手伝いたいと名乗り出てくれた。

理解し合ってつき合う教え

 4年間の奉仕活動は雨森さんの精神を鍛えた。すべて「生徒のおかげ」だと感謝する。

 雨森さんが芳洲に惹かれるのは、隣国の言葉を学び、歴史や風俗、習慣などを理解したうえで外交にあたったことだ。「おじいちゃんは国と国との関係だったが、僕は個人と個人の付き合いを大事にしながら、お互いの歴史や文化を知らない人たちに伝えていきたい」と民間レベルの草の根交流をめざす。

 昨年、奉仕活動する記事が韓国の新聞で紹介された。「売名行為」だとするメールや電話が寄せられた。だが雨森さんを支えたのは子どもたちの真摯な姿であり、「勇気をもらった」という人たちからのエールだった。

 「芳州の志を引き継いでいきたい」という。「両国の人たちがお互いを理解しあえるように、小さなことから始めたい」と、目を輝かせた。

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プロフィール

雨森芳洲(1668~1755)現・滋賀県伊香郡高月町雨森で、医師清納の子として生まれる。18歳のころ江戸に出て儒学者の木下順庵に入門。
1689年、師の推薦で対馬藩に仕官し、92年赴任。
98年、朝鮮御支配役佐役を拝命、1702年に釜山に渡る。朝鮮語入門書「交隣須知」をまとめ、05年に朝鮮語を学習。
11年、徳川家宣就任を祝う朝鮮通信使に随行して江戸に赴き、19年にも通信使を護行して江戸を往復。使節団の製述官が帰国後に著した「海游録」に活躍が紹介されている。61歳で朝鮮外交心得「交隣提醒」を著す。外交の基本は「誠信の交わり」と説いた。

(2008.4.16 民団新聞)
以上

・・・・いろいろ集めてみて分かったのは芳洲は日本の入国管理局の地方局の事務官クラスの人だったのではないか。儒学者として紹介はされるけれど新井白石ほどの幕府の高官にはなれなかった。朝鮮語も不自由なく会話できたけれど、彼らが格下の日本を見下げる態度だけは誠信を以てしても克服させることはなかった。それでも大好きな朝鮮と向き合う対馬に骨を埋めたのである。現に対馬に墓地もある。
 飛躍するが、
 本居宣長は『玉勝間』に「漢意とは、漢国のふりを好み、かの国をたふとぶのみをいふにあらず、大かた世の人の、万の事の善悪是非を論ひ、物の理(ことわり)をさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍の趣なるをいふ也」と書いた。
 芳洲の誠信の交わりもひとえに「からごころ」に由来する。自分だけは朝鮮が分かっている。朝鮮人の心になりきって日本人に誠信の交わりを説くのである。朝鮮人はこう考えている、日本をこう見ている、だから彼らの意に沿うように努めようと。これは現代のジャーナリストとそっくり同じである。現代のジャーナリストは「漢意」に加えて「西洋思想」があるから厄介である。

北畠家の系図2019年11月18日

北畠具行の墓所
 今年は北畠家の人物に巡り合うこと3人も居た。もちろん歴史上の話である。北畠家の家系図はこうなっている。

北畠氏学講座
http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake.html

北畠氏大詳細系図
 http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake17.html

 3月 「田丸城跡は1336年(延元元年)北畠親房・顕信父子が南朝義軍の拠点として砦を築いた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%B8%E5%9F%8E

http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/03/28/9052863


 5月 北畠八穂の先祖は三重県の北畠親房の長男の顕家が東北(陸奥国)へ下向した、とあるように南朝方の公卿(くぎょう)で今風に言えば高級官僚であった。青森の北畠家はその血筋の流れを汲む浪岡氏の末裔
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%85%AB%E7%A9%82

http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/05/11/9071166

 10月 北畠親房「一命を以って先皇に報い奉る」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/10/01/9160106

 11月 辞世の和歌「消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%85%B7%E8%A1%8C

http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/12/05/9172795

 とまあ、偶然にも3人の北畠家の人物に遭遇した。
 そこで北畠家の系図でググると、きっちり調査された系図がヒットした。これによると北畠雅家を筆頭に、その子が北畠師親、その長男が北畠師重と続き、北畠親房になる。なので親房は雅家のひ孫になる。一方で北畠具行は北畠雅家の子の師親の弟の師行の子になる。
 祖父の弟は大叔父と呼ぶ。大叔父の子は父母より年上なら従伯父(じゅうはくふ、いとこおじ)で「自分の父または母の従兄(いとこ)」になる。年下なら従叔父(じゅうしゅくふ)で、「自分の父または母の従弟(いとこ)」という意味。
参考サイト
親戚・親族の呼び名早見表
https://www.e-keizu.com/info/family.html
「祖父の兄弟」って何て呼ぶの?家系図で解説!
https://famico.jp/article-zokugara-836/
「従伯父」とはどんな意味?家系図で解説!
https://famico.jp/article-jyuhakufu/

 すると、親房から見て、北畠具行は祖父の弟(4親等)の子。なので大叔父の子すなわち、従叔父(じゅうしゅくふ)です。ここまで離れると傍系親族になる。遠い昔の話である。
 一方で、北畠八穂は青森の産。山の作家・深田久弥の先妻だった。青森県近代文学館が発行した「北畠八穂特別展」のパンフには、祖父の三代前は新潟に住んでいた。父慎一郎は弘前裁判所に勤務、後に青森営林署に勤務。その後材木店を開業。
 例の系図では親房の子顕家の子(親房の孫)に浪岡姓を名乗る血筋が現れて続く。その顕家のひ孫にも浪岡姓が現れる。北畠を名乗る血筋は絶えるのである。
 そこで「青森 北畠」でググると浪岡氏がヒットする。
中世の津軽で大勢力を誇った「浪岡北畠氏」の謎【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】
https://serai.jp/tour/37771

浪岡城跡に行ってきたぞ〜北畠顕家の末裔が治めた北の御所
https://takatokihojo.hatenablog.com/entry/2017/07/06/091849

 結局北畠八穂(本名は美穂)の先祖がどうつながっているのかは突き止められなかった。

 ふと思い出したのは丸山学『先祖を千年、遡る (幻冬舎新書) 』だ。丸山先生の調査術であればたぶん分かるだろう。

NHKラジオ「石丸謙二郎の山カフェ」で山を詠む~山岳俳句の話2019年11月16日

 今朝は良く晴れた。昨夜は小寒かった。その分放射冷却で冷えたのだろう。猿投山は靄もなく、くっきり見える。空気中の水蒸気が少ないからである。今朝は初めて石油ストーブを使った。昨夜の鍋ものを温めて、且つお湯も沸かす。この生活スタイルは来春まで続く。沢納めは13日に終わり、機を見てスタッドレスタイヤに履き替える。スキー板や装備の点検もある。山屋の冬用意は結構多い。

 さて掲題の山岳俳句の話の主役は堀本祐樹さんという本格俳人がゲストでした。ググるとウィキペディアで「堀本 裕樹(ほりもと ゆうき、1974年8月12日 - )は、日本の俳人、文筆家。所属事務所はアドライフ。和歌山県出身。東京経済大学・二松學舍大学非常勤講師、実践女子学園生涯学習センター講師、杉並区立角川庭園・すぎなみ詩歌館講師、俳人協会幹事。國學院大学法学部卒業。俳句結社「蒼海俳句会」主宰。」でした。著書も12冊、NHK俳句にも出演しメディア露出が多く、プロとして食べて行けるのだろう。俳句結社「蒼海俳句会を主宰」。
 HPにあいさつには

  蒼海の一粟(いちぞく)の上(え)や鳥渡る   堀本裕樹

故事ことわざ辞典には「滄海の一粟とは、広大なものの中にある、きわめて小さいもののたとえ。また、広大な天地の間にある、人間の存在のはかないことのたとえ」とあった。國學院大學卒業だけあって漢語に造詣が深いと見える。(法学部だが)

 番組では横浜の「みろく山の会」(1982.11.1創立、会員数750名)の俳句同好会も紹介された。HPからコピペすると
「俳句同好会が活動開始
最近、俳句ブームという言葉を聞くようになりましたが「みろく山の会」にも興味を持っている方が増えていますので俳句同好会を作ることになり、2018年3月より活動を開始しました。

俳句は楽しみの延長であり、頭の体操になり、感性が養われ、言葉を知ることができます。外へ出る機会も増え、作品を発表することで句を磨くことになります。鉛筆とノートがあれば参加でき、良いことが沢山ありますので是非参加ください。皆様のご入会をお持ちしています。

活動内容
・入会、退会は幹事・副幹事に連絡するだけで良い。
・当面次の活動を毎月どれかを1回行う。
 1)メール句会
 2)俳句山行
 3)室内句会
 ※2018年度の詳細計画は、世話役会山行・年間計画の俳句山行年間計画を参照ください。
・作品は俳句同好会に投句し、会員投票による多選作品をみろく情報誌に発表する。
・メール句会は作品を主にメールにより送信し、毎月19日を投句の日とする。
・俳句山行は通常の会山行で行い、A・S山行とする。
・室内山行はみろく事務所で毎月19日ごろの平日2時~4時に行う。
・月次案内は情報誌裏表紙のスケジュール表に乗せる。」

 能書きの通りですね。同会は2000年にNPO法人として法人化された先進的な取り組みになっている。名古屋では「ふはく山の会」が多数の会員数を擁する。どちらも労山系である。

 対して日本山岳会東海支部も会員数は多い。但し目標が海外遠征を至高とする方針のせいか退会者も多い。新人の世話係(トレーニング、山行企画、遭難対策など)が大変ということである。自分から手を挙げて会の世話に係る人が居ないわけではない。同好会(スケッチ、写真、古道歩きなど)が多数あるからだ。そんな中でも私も山を詠んだ俳句の「支部俳壇」を設けた。俳句愛好家がたくさん居ればクラブ化したいが追随者は居ない。山行を消化するだけで手一杯なのだろう。

出羽人も知らぬ山見ゆ今朝の冬 河東碧梧桐2019年11月08日

 特選 名著復刻全集 近代文学館  大須賀乙字選碧梧桐句集。
復刻版は昭和50年5月1日発行だが原典は大正5年2月5日の発行になる。発行所は俳書堂。
 序文は乙字が書いている。当時の俳句観を知るには貴重なので転記しておきたい。

「我国にはもと傑れたる叙景詩はなかったのである。芭蕉は叙情詩人たる素質の人であるが、十七字に客観的内容を取って僅少の名句を得たのである。蕪村は芭蕉の完成したるものに憑って俳句を純然たる叙景詩にしたのである。蕪村の叙景は、しかしまだ概念的なところがあって、現在の感覚に触れた生々としたものではない。子規の冩生になって初めて客観的具象化を遂げたのである。しかし子規の寫生は部分的感覚に執してはゐない、纏った気分を把握して天然に向って居る。理知的按排の巧妙な芸術を築き上げて居るのである。子規の進んだ跡を最も正直に行った者は碧梧桐である。
 感覚の鋭敏さにおいては碧梧桐は稀有の人である。子規の判断は純理知の働きに近いものであったけれど、碧梧桐の判断は感覚的要素が基礎となって居たから、子規の感化が薄らげば危険であるべき将来を持って居たのである。此句集を讀めば誰でも「ものの感じを掴む驚く可き鋭敏さ」に感服しないものはなかろう。藝術の為の藝術としての俳句は子規碧梧桐に至って完成されたといってもよいのである。
 子規にも模倣句は可なりあるが、碧梧桐にもそれは少なくない。しかも良い調子にこなされて居るから、なかなか気の付く人はないのである。調子のうまいことも碧梧桐の特色に數へなければならぬ。
 文泉子は「碧梧桐は調子の天才だ」といった。音調も感覚的要素であるから碧梧桐の立場がそこにある事は愈々明らかである。碧梧桐の句といへば桔据難解のやうに世間では思って居るが、決してさうでないことは此句集が證する。初期の句は、どうしても概念的であるを免れないが、歴史的位置を占めて居る句として掲げて置いた。佳句は明治三十八九年頃より四十一年頃までのものに多い。殊に東北行脚中のものには、なかなかの絶唱がある。
 一度新傾向の聲に驚いてから碧梧桐は、局分されたる感覚に瞑想を加へて横道に外れて了った。さすがに行脚をして居るから實境の見る可き句もあるけれど、四十三年以後になると、殆ど拾ふ可き句がない。俳人碧梧桐を再び見ることは出来ないと思ふ。信に惜しいことである。其故にこれは序文にして又弔文である。
  
 大正四年十二月五日   於千駄谷寓居  乙 字 識」
 
・・・・碧梧桐も乙字も忘れられた俳人である。俳論家の乙字らしく理詰めの碧梧桐押しである。碧梧桐は調子の天才と評したのは俳句は韻律詩であることを証明している。芭蕉も舌頭に千転せよ、と論じたから俳句の骨法である。


 掲載の俳句は冬の部 立冬の句にある。

 出羽人はヤフー知恵袋の回答に「出羽国の人間の事だと思います。
出羽国とは今の秋田県と山形県を合わせた地域です。」とある。

 今朝の冬は「立冬の日の朝。引き締まった寒さの感慨をいう語。 [季] 冬。」ですが今まで使ったことはない。

ブログ「水牛歳時記」の立冬から抜粋すると、

「二十四節気の一つで、太陽が黄経二二五度の点を通過する時点を言う。新暦では十一月八日頃になる。暦の上ではこの日から「冬」である。「りっとう」という言葉の響きが硬いせいか、俳句では「冬立つ」「冬に入る」「冬来たる」と用いられることも多い。また立冬の朝を「今朝の冬」と言うこともある。」

・・・はてどこの山を指すのか、興味津々です。何度も口にして読むと確かに調子が良い。なるほど納得です。
 今朝も猿投の山がくっきり見えている。窓からは雲一つない快晴の朝です。北は曇りがちだが東は段戸高原の山々が見えている。確かに立冬よりも今朝の冬の方が使いやすい。今は神無月で2019年の場合は10月28日(月)~11月26日(火)に当たる。
  神留守の猿投の山に対面す    拙作
  くっきりと猿投山見ゆ今朝の冬  拙作

消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき北畠具行2019年11月06日

 霊仙山で遭難騒ぎがあり地形図を眺めていたら登山口の柏原と梓河内の間に北畠具行の墓所を発見した。今年は3月の北畠親房、5月の北畠八穂と北畠づいているのでつい注目したわけです。日の短い晩秋の山歩きに良さげな気がします。
 鎌倉幕府も元寇に防人として働いてくれた武士らのために財政難となって崩壊した。防人は出征するために自分の領地を売ってカネに替えて旅に出る。軍資金をもって家来に食わせながら赴いたと言います。当然借金もあった。それで帳消しにする徳政令の政策もしたが幕府はもたなかった。
 現代でも軍備のためにアメリカの財政は青息吐息だそうな。中国も韓国も財政事情はもっと悪いだろう。日本も良いとは言えないが債権国ではある。外国が破綻すれば焦げ付く。債権というのは信用で成り立つ虚構である。それでも生きてゆくことに違いない。実体のある経済を見るしかない。日本人が株式や金よりも土地に価値を見出すのは過去の教訓であろう。
 さて北畠家の末裔は今も健在であった。医業、薬局など手堅い仕事でヒットする。代々の土地が温存(継承)されてきたからだろう。
 個人は露のごとく消えても倒幕のために尽くした自分の人生は何だったのか。
辞世の歌の意味は重い。

 歌意は「消えかかっている露の如くはかない自分の命の最後はもうわかってしまった。それにしても鎌倉幕府の末路を知って死にたかったものだ。」
 北畠 具行(きたばたけ ともゆき、正応3年(1290年) - 正慶元年/元弘2年6月19日(1332年7月12日))は、鎌倉時代末期の公卿。村上源氏北畠家庶流・北畠師行の次男。兄に雅行。

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 北畠家初代の北畠雅家の孫にあたり、北畠宗家4代目の北畠親房は具行の従兄弟違(従兄弟の子供)にあたる。親房と共に後醍醐天皇に仕えて、従二位権中納言に昇進する。和歌にも優れており、「君の恩寵も深かりき」と評される程の側近となった。また、親房が世良親王急死の責任を取って出家すると、宗家は幼少の顕家が継いだために、具行はその後見人となった。

 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が倒幕計画を立てると、具行も中心的存在の一人となる。このときの計画は失敗したため、具行も鎌倉幕府軍に捕えられた(元弘の変)。翌2年(1332年)、京極高氏(佐々木道誉)により鎌倉へ護送される途中、幕府の命により近江国柏原(現在の滋賀県米原市)で処刑された。

「ばさら」と呼ばれた道誉は、公家である具行の事を嫌悪していたが、死に臨んでの具行の態度に道誉も感服し、柏原宿の徳源院に一ヶ月ほど留め、幕府に対して助命を嘆願したが叶わず、その別れを惜しんだと伝わる。6月18日夜、二人は暫く談笑し、翌19日具行は剃髪後に処刑されたが、処刑前に道誉に対し、丁重な扱いに感謝の言葉を述べたと伝わる。[1]

「増鏡」によれば、辞世の歌は「消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき」[2]

墓所として、米原市柏原に貞和三年(1347年)建立の宝篋印塔が残り、「北畠具行墓」の名称で国の史跡に指定されている。
以上はウィキから

哀悼!登山が好きだった八千草薫さん死去2019年10月28日

若かりし頃の八千草薫さん
 往年の美人女優の八千草薫さんが24日に88歳で死去と報じられた。ご冥福をお祈り申し上げます。
 八千草薫さんの出演された映画で今も記憶にあるのは1957年豊田史郎監督の「雪国」(原作:川端康成)。主演は池辺良(島村役)と岸恵子(駒子)で駒子の義妹役が八千草薫さんだった。ちょっとくらい役目だが活き活きと演じる姿は印象に残る。あの当時はまだ冬のスポーツのスキーも活発ではなかったから雪国の生活は大変だった。そういう貧しい雪国の愛の物語である。
 川端が逗留し執筆していた高半旅館(現:雪国の宿 高半)の部屋も保存されて見学したことがある。
 映画のはじめは国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。という書き出しの通り、蒸気機関車に引っ張られた客車の中に池部良と八千草薫が座っている場面がある。

【「雪国」 川端康成】
 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん」
 明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
 もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。
「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます」
「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ」
「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ」
以上
 この中の葉子役である。「駅長さあん」と叫ぶのが八千草さんだった。段々思い出してきた。1957年封切りなのであの頃で26歳だった。ちょうど谷口監督と結婚し山歩きをし始めたころだ。DVDが出てきたらまた観てみよう。

岩と雪と酒を愛した真のアルピニスト逝く!2019年10月23日

 今夕は支部報の編集会議に出席。その席で古参会員の橋村一豊氏の死去を知った。「岳人」や「山と溪谷」誌などのバックナンバーをよんでいると記録報告が目についた往年のアルピニストである。支部活動を通じて謦咳に接すること多々あった。
 芳野満彦『新編 山靴の音』(中公文庫)にも成城大学山岳部の学生として出てくるから相当な登山技術の登山家であった。剱岳や穂高岳周辺の初登攀の記録の持主とも聞かされた。
 東海支部との出会は創設当初の海外遠征に参加したというから古い。多分、1965年10月~1966年3月のアンデスのアコンカグア峰(6,959m)であろう。しかし、大企業の会社員だったから生活の拠点は東京だった。定年後自由の身となり、豊田新線の三好付近に住まわれていた。支部ではもっぱら中高年になってから始めた登山教室修了者の新人の登山指導に熱をいれていた。岩登り、ルートファインディング等。
 それが一段落すると森林インストラクターの資格をとり「猿投の森」を立ち上げた。しかも法人格を取得する手続きにも精通していたのは会社員時代の事務能力の高さを示す。愛知県の県有林の北向きで育ちが悪い部分の植林を伐採し、そこに落葉樹を植えて自然を愛する人らの憩いの場を造成する試みである。今は見事な雑木林になっていると思われる。
 過去の支部報にも多数の寄稿がある。「岳人」にも寄稿していた。中でも忘れられないのは、氷壁登攀のトレーニングの逸話だった。藤内壁でアイゼンの爪先が丸くなるまでやったという。そこまでやって初めて本格的な穂高や剱の氷壁に挑戦する自信が付いたというのだ。一にも二にも自信が付くまでやり通すわけだ。
 多くの山仲間を山で失った。九死に一生を得る経験もあったという。生き残れたのは豊富な練習量が支えになったという。
 晩年は認知症になり関東の老人施設で療養中と聞いた。狷介固陋なところはあったが、あれだけ知的な人物がなぜ認知症になるのか、不思議に思う。また酒が大好きだった。折があれば健筆をふるってもらいたかった。
 来る10月26日には橋村氏が立ち上げたその猿投の森で、「森の音楽祭」が開催される。東海学園交響楽団による演目はL. v. ベートーヴェン / 交響曲 第5番 ハ短調「運命」作品67。トヨタ自動車合唱部の合唱もあるらしい。良い追悼の機会になるだろう。あの世に響け「運命」。

北畠親房「一命を以って先皇に報い奉る」2019年10月01日

 台風の影響か今日も蒸し暑い。気温は低いが動きたくない暑さでまだエアコンに頼る。ただし、ベランダのよしず2枚は先日取り外した。視界がすっきりする。
 今日は売店で新聞を買うと10%の消費税が取られていた。毎日宅配されると8%のままになる。新聞は生活必需品と見られて特別扱いになっている。
 中日新聞夕刊の呉座雄一先生の「名ぜりふで読み解く日本史⑦」が面白い。今年3月には三重県の『神皇正統記』で知られる北畠親房の城址を訪ねた。5月には青森近代文学館を訪ねて、北畠八穂と深田久弥の合作といわれる『津軽の野づら』の原本を拝読してきた。八穂は一旦は深田と結婚したが戦後すぐ別れて北畠の名前で作品を産み出してきた。青森市の北畠家の末裔は今日まで命をつないできたのである。
 北畠家の嫡男顕家は陸奥守に任命されて陸奥国多賀城に下向したとある。顕家は「自分には武芸の心得がない」と固辞したという。すると多分文才があったのだろう。それは何代目か後の八穂の児童文学に結んでいる。
 あの当時は今の青森県1県ではなく東北全体の国名だったらしい。古くはみちのくというのか。ウィキにも「現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県。」とあった。別に「相当領域: 青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部」とも。
 中日新聞の記事では忠孝をテーマにするが理由は分からないとしている。先皇とは御醍醐天皇のことを指す。なるほど表題の言葉は強烈なほどの忠孝ぶりである。儒教の影響も考えられる。或いは「一所懸命」の語彙でググルと「一所懸命の土地 (いっしょけんめいのとち)は、中世日本において各々の在地領主が本貫とした土地であり、命をかけて最後まで守り抜く覚悟を持った土地をいう。」とある。忠孝よりは任務への意気込みを語ったのだと思う。
 忠孝でもう一人忘れてはいけない人が居る。三河の足軽・鳥居強右衛門である。家康への忠孝の見本として語られる。あるサイトには「忠孝を貫いて磔になった強右衛門を美化して、日露戦争に出兵した兵士の教育に使ったことを自慢したいようだ。 「坂の上の雲」に描かれた、消耗品のように兵士を注ぎ込んだ旅順攻囲戦でもそんな洗脳をしていたのだろうか。」とあるが、ある大企業の経営者(三河出身)は「君らは鳥居強右衛門を見習え」と入社式かなにかのスピーチで語ったそうだ。会社のためには命を捨てよ、というわけだ。それは忠孝の正しい意味ではないだろうに。
 当時は縄文文化の中で生きる東北地方の人々は天皇にまつろわぬ勢力であっただろう。制定を任されたことへの恩義と考えたかも知れません。呉座先生の『戦争の日本中世史』も立ち読みしてみるか。

 ぐぐって行くうちに的確な参考サイト「パックス・ロマーナ」がヒットした。「日本の「忠孝」思想は、儒教思想の異端である。」の全文は以下へアクセスすること。
http://kivitasu.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-4a24.html
「孔子曰く「・・・危邦には入らず、乱邦には居らず。天下道あれば則ち見れ、道なければ則ち隠る。・・・」(滅亡しそうな国には入らず、乱れた国には長くおらず、天下が治まって正しい道の行われている時には仕えて、正しい道が行われていないときには退いて隠れる)。何が何でも国のため、君主のために死ぬという考え方は論語にはない。」が本来のシナ人の儒教の教えになる。今のシナ人もまったく同じである。自国が危ないと知ると家族や財産を外国に移したり・・・。
 それに対して日本はどうか。
「日本における儒教の受容は、南北朝時代からすでに日本古来の宗教との融合が模索されていた。神儒一致の考えは、南北朝時代、渡会家行、北畠親房、忌部正通らによって始められ、」とあるから、シナとは違った形で受容された。表題の文にはやっぱり日本型の儒教が反映していたのである。