渡部昇一氏死去2017年04月18日

 産経新聞から
 本紙正論メンバーで第1回正論大賞を受賞した英語学者・評論家で上智大名誉教授の渡部昇一(わたなべ・しょういち)氏が17日午後1時55分、心不全のため東京都内の自宅で死去した。86歳だった。葬儀・告別式は親族で行う。喪主は妻、迪子(みちこ)さん。後日、お別れの会を開く。ここ数日、体調を崩していた。

 昭和5年、山形県鶴岡市生まれ。上智大大学院修士課程修了後、独ミュンスター大、英オックスフォード大に留学。帰国後、上智大講師、助教授をへて教授に。専門は英語学で、「英文法史」「英語学史」などの専門書を著した。

 48年ごろから評論活動を本格的に展開し、博学と鋭い洞察でさまざまな分野に健筆をふるった。51年に「腐敗の時代」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。同年に刊行された「知的生活の方法」は、読書を中心とした知的生活を築き上げるための具体的方法を論じ、100万部超のベストセラーとなった。
 57年の高校日本史教科書の検定で、当時の文部省が「侵略」を「進出」に書き換えさせたとする新聞・テレビ各社の報道を誤報だといちはやく指摘し、ロッキード事件裁判では田中角栄元首相を擁護するなど論壇で華々しく活躍。一連の言論活動で「正確な事実関係を発掘してわが国マスコミの持つ付和雷同性に挑戦し、報道機関を含む言論活動に一大変化をもたらす契機となった」として60年、第1回正論大賞を受賞。東京裁判の影響を色濃く受けた近現代史観の見直しを主張するなど、保守論壇の重鎮だった。平成27年、瑞宝中綬章。主な著書に「日本史から見た日本人」「ドイツ参謀本部」など。フランシス・フクヤマ「歴史の終わり」など翻訳も多数手がけた。
以上
 哀悼の意を表する。
 享年86歳だった。若いころからTVなどの時事番組で知った。その後はベストセラーの『知的生活の方法』で改めてファンになった。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2016/12/14/8275366
 続々出版される本は大抵は購読してきたはずだ。驚くのは知的生活の提案者らしく蔵書が膨大で和英合わせて15万冊に及ぶらしい。
 渡部氏のやり方を知ってからは本を消耗品扱いするのをやめた。雑誌といえども何でこんなものを買ったのかと思うが後で読み直すと意味はあった。失敗と成功の積み重ねで失敗を減らしていくのだろう。的確な本の選択眼蔵書術も教わった気がする。
 蔵書専門のマンションの購入も夢見ているがそれを維持する収入がないことで実行できないでいる。夢で終わる公算大であるが、渡部氏から得たものは大きかった。
 梅棹忠夫からは行動のための読書術を教わり、渡部昇一氏からは知の計算外の蓄積の大切さを教わった。無用なものでも継続すれば無用でなくなり、体系が生まれると知った。専門家でないことが新鮮な発想を生むのである。
 渡部先生!やすらかにお眠りください。お別れ会には上京して出席したいものだ。

哀悼!ペギー葉山さん死去2017年04月12日

NHKニュースから
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170412/k10010946071000.html?utm_int=movie-new_contents_list-items_019&movie=true
4月12日 14時59分
「ドレミの歌」や「学生時代」などのヒット曲で知られ、女性として初めて日本歌手協会の会長も務めた歌手のペギー葉山さんが12日、肺炎のため東京都内の病院で亡くなりました。83歳でした。
ペギー葉山さんは東京都出身で、昭和27年にレコードデビューしました。昭和33年には、NHK高知放送局の依頼で歌った「南国土佐を後にして」が、ふるさとを離れて働く人たちの望郷の歌として大ヒットしました。

その後も「ドレミの歌」や「ラ・ノビア」、「学生時代」など幅広いジャンルのヒット曲で人気を集め、昭和41年のNHK紅白歌合戦では紅組の司会を務めました。

また平成17年に亡くなった俳優の根上淳さんと仲のよいおしどり夫婦として知られ、根上さんの闘病生活を支えてきました。
その後も平成19年に、女性として初めて日本歌手協会の会長に就任するなど第一線で活躍し、おととし3月、放送文化賞を受賞しています。

所属するレコード会社によりますと、ペギー葉山さんは最近まで活動を続けていましたが、10日に東京都内の病院に入院し、12日昼前、肺炎のため亡くなったということです。
“バターの香り”教えてくれた大きな存在
ペギー葉山さんが亡くなったことについて、日本歌手協会の田辺靖雄会長は「戦後日本に軽音楽を通じて、洋楽・ポピュラーソングのバターの香りを教えてくれた大きな存在の歌手でした。亡くなるまで現役を通され、会長をひかれたあとも、後輩の私たちに温かく接してくださいました。お疲れさまでした。ごゆっくりお休みください」というコメントを出しました。
高知県知事「観光振興の大恩人」
ペギー葉山さんが亡くなったことについて、高知県の尾崎知事は「突然の訃報に驚いたし本当に悲しい。心から哀悼の意を表したい」と話しました。

高知県は、大ヒットした「南国土佐を後にして」が高知県への観光ブームを巻き起こしたことなどをたたえ、昭和49年、ペギー葉山さんに「名誉高知県人」の称号を贈っています。

尾崎知事は「曲がヒットしたことで高知県では『南国土佐』を1つのブランドとして長年、観光振興の取り組みを続けることができた。私たちにとっては大恩人だと思う」と功績をたたえていました。
以上
小屋番の山日記
http://koyaban.asablo.jp/blog/2007/11/25/2458224
 9年半前前に四国の山へ行った。本四架橋を渡る際にペギー葉山さんの「南国土佐を後にして」の曲をカーオーディオから流して今から四国だぞという雰囲気を出した。それくらいあの歌は四国にふさわしい。誰かがこれから行くのだから「・・・・後にして」の歌と合わん、と言ったが、シンボルだから良いのだと思った。
https://www.youtube.com/watch?v=1JcGhhPM3YQ
を聞いて偲びたい。

橋幸夫お茶親善大使就任記念スペシャルコンサート2017年03月21日

 3/20、静岡県菊川市の菊川文化会館アエルで行われた橋幸夫のコンサートに行った。名古屋を8時30分に出発、東名高速を走って菊川ICで降りてすぐにアエルに10時30分到着。早速チケットを購入。4000円也。高速代は往復で4600円。10000円の遠州路の行楽になった。

 牧之原市、御前崎市、掛川市、菊川市、島田市がバックアップして「橋幸夫「ちゃっきり茶太郎」コンサート実行委員会を立ち上げて実施された。会場のアエルは定員1200名であるがほぼ満席だった。
 昭和の歌謡界を一世風靡した橋幸夫も73歳となった。だが人気は未だ堅持されて集客力は抜群だった。1部はちゃっきり茶太郎カラオケ大会2部は橋幸夫スペシャルコンサートに分けて実施。
 カラオケ大会は全国から316名の応募があり、テープで審査されて、厳選された14名がステージに登壇して股旅物の新曲「ちゃっきり茶太郎」の1番を歌う趣向で競われた。選ばれた人は青森県、栃木県、神奈川県、三重県、千葉県、愛知県西尾市、岐阜県各務原市と地元もあった。年齢は32歳から70歳代まであり女性も2名居た。三重県の紀平さんは女性で骨折の身を押して参加された。紀平さんと聞いただけで、ああ、津市辺りの人と見当がついた。
 歌唱のレベルが高く、橋幸夫、ビクター社員、作詞家・鈴木紀代さんら審査委員も迷ったらしいが、青森から参加された人が5万円の賞をもらった。特別賞も紀平さん他2名が選定された。結構盛り上がった。
歌は
 https://www.youtube.com/watch?v=IPiwZbxVHNc
 乗りやすいリズムと歌詞はいわゆるふるさとソング、というかご当地ソングそのものだった。鈴木さんは長山洋子の作詞を手掛けてきたベテラン作詞家で、出身は浜松市の西遠女子学園高校の28回卒業生、今年67回生が卒業したというから、57歳?の働き盛りと見える。
 歌詞の最初に西行法師の名歌「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」の歌枕になっている小夜の中山を持ってくるから引き込まれてしまう。富士、牧之原、駿河湾、遠州といやがおうにもナショナリズムを掻きたてる仕掛けがある。だからといって地元が頼んだわけでもないのに、とのエピソードもどこかの市長が話された。人の縁が縁をつなぎ、今回の大使就任になり、お茶の販売促進の大役を担うことになった由。
 そのせいか、どうか、下は3歳から11歳の子供5人がたっての頼みで出演して「ちゃっきり茶太郎」を歌ったり、回転したりでパフォーマンスを繰り広げた。
 後援の地元5市長は開演直後にあいさつされたが、中盤の橋幸夫ショーからは静岡県知事の川勝平太氏も来場し、「370万人の県民を代表して・・・」とコメント。豊かな県勢にしては意外に少ないんだな。
 さて、肝心の橋幸夫は1943年生まれの御年73歳だそうな。私が中学生の頃から人気者であった。近所のお姉さんはTVの番組の橋さんにキャーと黄色い声をあげていたいたことを思い出す。彼女らも今はいいお婆ちゃんになったろう。会場の特等席にはファンクラブが充てられていた。皆70歳前後の婦人が多かった。ブラジルの日系人社会に招かれること3回という。「こんな年寄の橋幸夫のどこが良いんだろう・・・」とトークを交えながら笑いをとり、様々な話題を振りながら往年のヒット曲を歌った。落ち着いたステージはマイウェイを歌うフランクシナトラを彷彿させる。いや、日本独自の立派なエンターテイナーになったのだと思う。
 締めは永遠の名曲「いつでも夢を」の歌声が会場全体にひびいた。来て良かった。
https://www.youtube.com/watch?v=K7gUdZqgCJY
 菊川ICから西進した。朝も今も遠州路は春霞に閉ざされて富士山は見えなかった。

加藤耕子ミニ研究22017年03月19日

産経抄から
芭蕉を学ぶ国の危機 2月24日
ソース:http://www.sankei.com/world/news/140224/wor1402240018-n1.html

 ▼日本から遥か彼方にある国の小学生は、なんと国語の授業で、松尾芭蕉の俳句を勉強している。元ウクライナ大使の馬渕睦夫さんによると、独立以来国語教育に特に力を入れてきた、ウクライナの学習指導要領にはこうある。

 ▼「自然を描写して気持ちを表す日本人の国民性を学ぶことにより、ウクライナとは違った文化をもつ日本と日本人に対する尊敬の念を養う」。芭蕉を学ぶ子供たちに、救援の手を差し伸べるすべはないものか。
以上

 以上は加藤耕子句集『空と海』のあとがきにあった話に共通する。あとがきには「ウクライナの小学校の教科書には、シェークスピア、ゲーテと並んで芭蕉が世界の三大詩人の一人に取り上げられています。東洋の、日本の文化の奥深さと同時に世界の人々の指針ともなるべき俳句・HAIKUの持つ精神力、物の見方、詩型の確かさ、短い故の言葉の力を強く思った次第です。」とある。

 中杉弘の大説法と言うブログにも
「元駐在ウクライナ大使の馬渕睦夫さんの話を聞いていくと分かることが色々あります。この人の考え方は僕の考え方とほとんど一致しています。
 まず、第一番「私は世界人です」という人は、相手にされません。国際の社交会に出て「貴方は何人ですか?」と聞かれて「私は、世界人です。国際人です」と言ったら相手にされません。「私は日本人です」と言うと相手にされるのです。
 世界人などいないのです。「日本人です」と言うから世界人として扱われるのです。日本人を飛ばして「世界人だ」などと言ったら通用しないのです。それぞれの個性を主張して、それぞれの歴史と文化を担って、国際の社交場に出て行って、初めて国際人です。国際人をつくっているものは、日本人です。このようなことになるのですが、このような教育が日本では行われていないのです。
 英語をしゃべるのが、国際人ではないのです。日本文化を知って歴史と伝統を学び、アメリカ人と日本人は違います。日本人と朝鮮人と中国人は違います。「どのように違うのか」「どのような物の考え方が違うのか」ということが、説明できないと日本人にはなれないのです。
 馬淵さんがウクライナの駐在大使をやっている時に、小学校の5年生の教科書を見せてもらったのです。日本のことがびっちり書いてあったので、馬渕さんがびっくりしたのです。
 日本ではウクライナなどあまり知られていない国ですが、日本について非常に懇切丁寧に書いてあるのです。一番印象に残ったのは、日本は物質文明と精神文明を融合させている国です。松尾芭蕉の句を、小学校5年生に徹底的に教えるのです。馬渕さんも知らなかった句を小学校5年生で習うのです。
 「自分が知らないではずかしい思いをしました」と言っていました。16ページくらい使って日本のことを紹介してあるのです。」

馬渕睦夫氏のユーチューブ「朝鮮戦争とグローバリズム」
https://www.youtube.com/watch?v=wxVjJcTme3s
・・・ウクライナの小学生が松尾芭蕉の俳句を9ページを割いて学ぶ。自然はインスピレーションの源泉。

 世界はわれわれが知っている以上に日本文化を学んでいるようだ。とりわけ俳句を学んでいるのは不思議な気がする。加藤耕子はその潮流を見て行動しているのだ。どんな結実を見るのか。今後も加藤耕子の発信から目を離せない。

加藤耕子句集『空と海』鑑賞とミニ研究2017年03月19日

 俳人加藤耕子の名前をメディアで知ったのはかなり前のことだ。俳句と英語を結び付けて、世界一短い詩である俳句を世界に発信しようという試みを続けてこられた異色の俳人でもある。
 自註現代俳句シリーズ加藤耕子集の略歴によると、昭和61(1986)年に日本の俳句と世界のHAIKUをつなぐため「耕の会」発足。俳句と文章誌「耕」「kō」という英文誌も創刊している。しかも名古屋の人なので名前だけは知っていた。
 作者の生まれは昭和6(1931)年なので55歳で一念発起したわけだ。私は俳句を始めたのは40歳なので「耕」の3年後の1989年のことになる。多分、新聞で取り上げられた記事を読んで記憶に残ったのである。「耕」も31歳になったのだ。
 最近になって、所属俳誌の主宰のあとがきに加藤耕子の名前を見た。俳人協会の評論賞の選考委員にも加わっているのだ。おそらく俳句で認められた俳人ではなく、むしろ評論分野に業績があったのだろう。略歴を読むと愛知県立女子短大英文科、同志社大英文科、名古屋市の英語教師を経て昭和44(1969)年に俳句開眼。主に水原秋桜子の師系の結社で俳句修業。
 男性が女性に絶対敵わないのは女性のもつ一途な勉学心であろう。この一途さが俳句と英語俳句を結び付けるという途方もない、徒労ともいうべき、句業につながっている。これは何なのか。
 作者は終戦時、14歳の多感な少女時代、そして英文科に進む。英語圏かつキリスト教文明に対するコンプレックスを抱いたのか。日本にも俳句というものがありますのよ、と英語でHAIKU(俳句)を詠む人達との交流を通じて、日本の心を発信する。
 ロマン・ロラン(1866~1944)は外国語を学ぶ者は母国語をより深く知る、という意味のことを言った。これはエスペラントのテクストにあった断片で記憶違いがあるかも知れない。加藤耕子もこの例にもれず、かえって深く日本の古典文学に目覚めたと言える。
 英文学が専門の夏目漱石は俳句の業績も評価が高い。素養は漢詩にあると思うが英語を深く知ったことが刺激になったであろう。前田普羅も早稲田の英文科であるが文明開化の進む東京をみて俳句に目覚めたであろう。実際、戦後になって『飛騨紬』の句集を編んだ動機も高山線の開通によって飛騨の山村文化が壊れて行くことを案じたことにあった。
 本題の鑑賞に入る。平成14年から平成21年の俳句をまとめた。作者71歳から78歳になる。昨年3月に発刊された。本阿弥書店。

向ひ合ふ齢となりぬ福寿草 
・・・何に向かい合うかと言えば、古希なので死であろう。但し、福寿草という新年のめでたい季語を持ってくるところに作者の都会的な明るさがある。孫に囲まれて幸せな正月の風景のなかにもちゃんと人生の節目を詠む。

樹の姿あらはに寒の山匂ふ
・・・如月の候、梅園にでも吟行したであろう。それも観光地化された名園や遊園ではなさそうだ。寒の山とあるからだ。私には奥三河の新城市海老の奥の川売辺りの廃田に植えられた梅を思う。狭い谷間の山里を1500本の梅の木の匂いが漂う。

月待ちの岩に冠さる橅若葉
・・・伊勢8句の前書きがある。はたして伊勢の山に橅が生えていたのかどうか。明神平辺りまで登れば見られる。あるいは大台ヶ原山へマイカー登山だろうか。71歳の老婦人ながらお元気そのものだ。

金銀の名もつ峠の崖清水
・・・これも伊勢8句の一つ。筏場道に確かに金明水の水場がある。

山めぐるとは老鶯をめぐること
・・・鶯は冬は笹薮の中でチェチェと鳴く。春はお馴染みの鳴き声になり、夏になると高い山に移る。鈴鹿の稜線に登るとうるさいほど鳴いている。

原生林蛭に身の血を分ち合ひ
・・・伊勢8句とはどうも夏の大台ケ原山を歩いた嘱目吟と見える。私も台高山脈縦走中、大台辻の近くの沢筋で休憩中、上から、下から山蛭の歓迎を受けたことがあったことを思い出した。しかし、作者は蛭に吸血されても、身の血を分ち合い、と平然としている様子が諧謔を呼ぶ。

ひぐらしや焦土のころを墓の前
・・・作者は14歳で終戦を迎えた。空襲を受けたのは名古屋だけではない。祖母の話では三重県津市も受けた。約10km以上離れた在所からでも夜が焼夷弾で明るかったと興奮を交えて話を聞いた。14歳とはいえ、もう感性は備わっている。岐阜空襲は昭和20年7月9日だった。岐阜市が焦土と化した記憶はひぐらしの鳴き声とともに作者の脳裏にしまわれている。左翼のように平和とか反戦とか言わないで反戦を詠む。

伊吹嶺に夕日を納む墓参かな
・・・これも岐阜6句の一つ。俳人、歌人は名山に対して尊敬の念を込めて山ではなく、嶺を使う。栗田やすし主宰の「伊吹嶺」は俳誌の名前に採用するし、句集、歌集に採用されてもいる。単純に五音に合わせているからではない。筑波嶺、富士ヶ嶺、立山ヶ根、阿夫利嶺(大山)等。

むらさきの帯を低めに二月礼者
・・・平成15年の作品。粋筋の役者の普段着を目撃しての嘱目吟。結句の収まりが今一だが、帯を低めに、という中句が動かせない、となれば窮屈だが破調もやむなしだ。先駆する作品は前田普羅の「面体をつゝめど二月役者かな」がある。

龍太師に会ふひぐらしの声の中
・・・平成16年の作。毎月一枚の投句はがきに5句、4000名の弟子の2万句を選句していたという「雲母」の主宰飯田龍太。甲斐を旅したのであろう。平成4(1992)年「雲母」を900号で終刊させた。これは新聞にも掲載された俳壇の事件として記憶がある。平成19(2007)年2月25日に亡くなる。平成16年に会ったのか、回想句なのかは分からない。

冠着とは姥捨のこと夏の萩
・・・築北三山の一つで冠着山のこと。この山のみ登り残している。近々のうちに登りたい。
 加齢にしたがい、旅吟が増える。平成17年の作。姥捨伝説が気になるのだろう。私も『楢山節考』を読み、映画も見たことがある。長寿とはいうが、生きるって、目出度いばかりではないのだ。現代は終活が大流行りだ。人生をどう終わらせるか。悩ましい課題だ。

寒晴や伊吹遠尾根荒荒し
・・・遠い尾根って表現は初見。墓参で岐阜市へ行っての所見だろう。岐阜市からなら伊吹北尾根が見えるだろう。比高差は少ないがノコギリの歯のように見えるかも知れない。

葉桜の空茫々と時彦忌
・・・平成18年の作。平成15年には「魂離るこの世に瀧の音残し」と追悼句がある。草間時彦(1920~2003)は5月26日に没。私の脳裏には「甚平や一誌持たねば仰がれず」の句のみある。

川となる沢幾筋ぞ山若葉
・・・「耕・kō」20周年の前書きがある。嘱目吟のようでいて、ぞで切って、継続は力なりを実感する思い。川の源流は一滴の水から始まり、せせらぎとなり、谷になり、川に育っていく。結社を支えた同僚や弟子のお陰で20年継続できた感懐を込めた。創業は易し継続は難し。

楝(おうち)咲く見えゐる花の遠さかな
・・・栴檀の花のことである。地味な花だからそう把握したのだ。普羅の句集にもあったが思い出せない。俳号の普羅はフラワーに由来する。若いころは植物研究会に入っていたから花にも詳しかった。

雲しんと筑波嶺閉ざす半夏生
・・・前述したように筑波山を筑波嶺と詠んだ。1000m以下の低山ながら日本百名山の一つ。関東平野のランドマークと言ってよい。半夏生のころだから梅雨末期で雲しんと、という表現も納得。

老鶯やかつて隠田いま捨田
・・・私がよく歩く奥三河の設楽町に落目という谷合の隠田があった。江戸時代、検地で役人の目から落ちたので目落ちといったが、あからさまなので落目の隠語になって地名として定着した。先祖が苦労の末に開拓した田も圃場整理されて整然としたのに、米作を継ぐ人がなくて廃田になった。

昭和二十年焦土の上の油照り
・・・回想と前書きがある。作者は境涯を句に反映させないタイプだが、この句を読むと油照りとともに少女時代の記憶がよみがえるのだろう。

初秋の空のみづいろ金華山
・・・説明を要しない明快な句。私には長良右岸の園地から眺めた青い空に金華山の尖峰がくっきりと浮かぶ。

みちゆきの足袋もむらさき中村屋
・・・中村屋は歌舞伎の名門。中村勘三郎のこと。平成24年12月5日57歳で没。
 顔見世や通夜の日に舞う勘九郎  寺崎杜詩緒
「誰の通夜かといえば、平成二十四年十二月五日、五十七歳で逝った父の勘三郎であった。通夜は十二月十日に自宅で、近親者のみとの断りにもかかわらず、七百名を超えたという。ファンならずとも耳目を集めた死去であった。」

龍太なき山河春月赤く出づ
・・・平成19年の作。同年2月25日没。龍太の出世作「紺絣春月重く出でしかな」を踏まえての追悼句。オマージュというか、中々こうは詠めない佳作。

葉桜や雨のきらひな雨男
・・・平成20年の作。時彦忌 逗子の前書きがある。時彦忌なら「薔薇垣に薔薇の百花や時彦忌」があるが、単に5/26というだけのこと。掲句の方が修している。

老鶯の声の広がる切通し
・・・切通し、谷戸の語彙が入るといかにも鎌倉で読まれたと拝察する。

夏霞翼をひろぐ岩木山
・・・日本百名山の一座。津軽富士の別称がある。翼をひろぐというのは根張りの優美さを表現しているのだろう。未踏だがそろそろ登山に行かねばなるまい。

峰に雪龍太甲子雄の霊ねむり
・・・平成21年の作。龍太は飯田龍太、甲子雄は福田甲子雄(1927~2005)のこと。飯田蛇笏に師事、蛇笏死後は龍太に投句。龍太亡き後は継承誌廣瀬直人主宰「白露」の同人として活躍。その2人も今は居ない。峰というのは多分、御坂山地だろう。甲州へ旅するも親しんだ龍太も甲子雄も居ない。山には雪があるばかりの空虚さをどう埋めようか。
   雪の峯しづかに春ののぼりゆく  龍太

鉄線や昭和一桁一途者
・・・知性が光る句のオンパレードであった。生活の匂いの無さ、境涯性のなさを感じるが、この句が自画像というべし。

木犀の香を入れ棺を閉ざしけり
・・・身内の死去に寄せた句。数えたわけではないが、切れ字のやは多用するが、かなとけりは少ない。秋桜子系ゆえだろうか。ところが掲句のように追悼句にはけりが使われる。「耕」の22周年記念でもけりが使われた。梅白し佐藤和夫の忌なりけり、と。心が改まると詠嘆の心境になるのだ。
 平成15年に戻るが、石田波郷の故地を訪ねている。波郷は「霜柱俳句は切字響きけり」と詠んだほど、秋桜子系にあってホトトギス派を自認した。
 「清洲橋扇橋風凍てにけり」も、わざわざけりを使った石田波郷へのオマージュなんだと思う。私も小津安二郎の映画を見るために上京した際に同じ江東区なので波郷の砂町を歩いたことがある。庶民の町であった。

訃報 演歌界の名伯楽 船村徹先生2017年02月17日

 日本山岳会だよりのメールを開くと、船村徹先生の訃報を伝える内容だった。
【訃報】
船村 徹 様(14674)84歳
栃木支部 通常会員
2017年2月16日逝去されました。

通夜 22日午後6 時、
葬儀 23日午前11時から
会場 護国寺
   〒112-0012 東京都文京区大塚5-40-1
   電話 03-3941-0764
喪主 蔦将包(つた・まさかね)様(ご長男)
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
以上
 もう84歳にもなっていたことに驚いた。作曲家としての実力は知らない人は居ないだろう。とにかくヒット曲の多い人だった。あの曲が、あの曲も、というくらい数多い。演歌の大家だった。歌手にとっては船村徹作曲のデビュー曲が一生のヒット曲にもなっている。一人や二人ではないから演歌界の名伯楽と言えよう。

 そんな先生は意外にも「山の日」の制定に熱意を示した。日本山岳会の正規の会員でもあった。これを知ってからいっぺんにファンになった。
「「山の日」の言いだしっぺは船村徹さんか? 」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/08/12/7731748

 昨年の8月11日の「山の日」の制定を見届けて、力尽きたのだろうか。

  ふるさとの山河に還る二月かな   拙作

 心より故人のご冥福をお祈り申し上げます。

北アルプス 大町登山案内人組合100年 日本最古PR2017年02月01日

 WEB版毎日新聞から
 長野県大町市の登山ガイド団体「大町登山案内人組合」が今年、発足100周年を迎える。日本初の登山ガイド組織として、楽しみで山に登る日本の近代登山の発展に大きく貢献してきた。組合は今年、市などと協力して記念事業を展開する計画で、関係者は「日本最古の登山ガイド団体はあまり知られていない。市の山岳文化をPRする機会にしたい」と話す。【稲垣衆史】

 組合は「大町登山案内者組合」として1917(大正6)年6月に設立された。前年に信濃鉄道大町駅(現・JR信濃大町駅)が開業し、北アルプスの地形図が整備されるなど、それまで知識人が中心だった登山が大衆化。大町も北アルプスの玄関口として年間1000人の登山者が訪れていたとされる。

 増加する登山者の要望に応えようと、組合を創設したのが市内で旅館「対山館(たいざんかん)」を営んでいた百瀬慎太郎(1892~1949年)だった。質の高い案内人を安定的に提供するため、地元の猟師ら山で働く人を中心に22人をガイドとしてまとめた。料金トラブルを避けるため定額料金を導入したり、心得や規約を作ったりし、資質の向上に努め、針ノ木小屋建設など針ノ木岳周辺の環境整備にも尽力した。こういった活動は模範となり、各地に同様の組合ができた。

 大町山岳博物館の関悟志・学芸員によると、百瀬は対山館を訪れる著名な登山家らと交流する中で、地元にいながらも新しい海外の登山文化などを取り入れていた。「組合の拠点だった対山館はサロンのような山の情報の交流・発信場になり、近代登山の発達に影響を与えた」と話す。

 戦時中、登山者が減り、対山館が廃業するなどして活動は一時休業状態になるなど存続の危機が何度もあったが、乗り越えてきた。現在、組合には市周辺に住む約40人が加入。登山ガイドだけではなく、北ア北部地区山岳遭難防止対策協会のメンバーも兼ねて遭難救助や見回りなどにも当たる。狩野正明組合長(68)は「100年で山の道具も環境も変わったが、受け継いだ組合の伝統は伝えていかなければならない。活動や意義を知ってもらい、見直す機会になれば」と話す。

 記念事業では、組合員のガイドによる針ノ木岳へのツアーの他、同博物館では百瀬らを中心とした地域の登山史を紹介する特別展を開催。11月17日には記念式典も開く予定。
以上
 山やには第一級のニュースですな。是非時間の都合をつけて行きたいものです。
 名古屋の伊藤孝一との交遊関係を調査するうちに百瀬慎太郎に触れないわけにはいかなかった。
 百瀬慎太郎遺稿集『山を想へば』を富山県立図書館経由で借りて、今も毎日読んでいる。宿泊客からの手紙や宿帳を抜粋した書簡集はさながらに近代登山のあけぼのを彷彿する一級の資料になっている。短歌は30歳代と40歳代が抜けているので完全に網羅されていない。散文も貴重な文献である。
 対山館は登山の拠点になっていた。今では一流と目される登山家が集まってきた。
 伊藤孝一は鹿島川を遡行するために来て泊まっている。俳人の河東碧梧桐一行はここに泊まって日本アルプス縦走に向かったのだなと分かる。名高い田部重治はまだ独身時代に南日重治の名前で泊まっている。伊藤孝一の手紙には時間があれば一緒に登りたいと懇願する手紙を出している。百瀬慎太郎の人柄の良さにひかれて交遊した期間は死ぬまでに30年に及んだ。赤沼千尋も同じだった。同書P90には登山案内人という言葉は大正初期にできたとあった。結局百瀬慎太郎あっての登山大衆化だったと思える。

恵贈!『山その大いなる旅Ⅱ』同志社大学山岳部・山岳会2017年01月22日

 1/21の新年会で和田豊司元支部長から恵贈を受けた。A4サイズ、244ページの立派な製本である。
 同志社大学山岳部の前身のスキー部が1925(大正14)年に創設されて、2015年で90周年を迎えたことから編纂された記念誌である。旧制大学発足は1920(大正9)年だから山岳部はその5年後に創部された。
 日本の近代史とともに歩んだ歴史のある大学と理解する。2011年に創立者の新島襄の妻の八重を主人公にした舞台劇は観たことがある。少しは同志社の歴史をかじったのである。
 また私の所属する山岳会にも同志社大学法学部OBで名古屋高裁に勤める会員がいた。女性でも転勤させるから優秀な官吏だったのだろう。
 私のようなものにも恵贈されたのは目次を一覧して東海支部に縁のある登山隊との関係だったと理解した。クビ・ツアンポ源流域学術登山隊の報告をメインに編纂されている。私にはヒマラヤの遠征経験もなく、少しでも理解をしようと、岩波文庫『ツアンポー峡谷の謎』という本を読んだことも思い出した。読んだだけではだめで、この本と合わせて読めばヒマラヤの秘境を知ることができるだろう。
 2007年のクビ・ツアンポ源流域学術登山隊では和田豊司氏が隊長となって率いた。隊員の千田敦司氏も支部員であった。このイベントがP26~P107まで三分の一強を占める。次は2010年の同志社大学ネパール登山隊、2015年の同志社大学極西ネパール登山隊(仙田裕樹隊長)がP183まで続く。
 以後、国内活動の報告があり、P229のブロッケンの章に2006年ローツェ南壁冬季登山隊(尾上昇総隊長、田辺治隊長)の思い出を千田敦司氏(副隊長)が4ページにわたって綴る。これは東海支部にとっても3回もアタックし続けた壮絶な登山隊だった。こんな難しい登山を遂げても山は非情なもので、田辺治氏は今もダウラギリの雪の下で永遠の眠りについている。千田氏には忘れ得ぬ登攀だったであろう。
 ともあれ、若い人にとって人生は忙しい。あっと言う間に年をとる。体力と技術、信頼の置ける隊員を得て、かつ暇とカネを工面してこのようなイベントに参加して、一書を綴れたら幸運というものである。

恵贈!安藤忠夫著 画文集『絵本 わが山の日々』~山道も下山に入って~2017年01月22日

 1/21の新年会でご当人から恵贈を受けた。著者の安藤忠夫氏は愛知県足助町の産と聞いた。愛知県立高校の教諭の職のかたわら登山を継続してきた。JACの他に日本山書の会の会員であり、東海支部きっての教養人である。現在は仕事から完全にリタイアして信州・安曇野の一角に新居を構えて夫人とともに暮らしている。
 目次を読むと23本の章立てからなり、北アルプスを主に、御嶽、中央アルプス、八ヶ岳の山名が並ぶ。もちろんガイドではなく、随想集である。そのページに自筆の彩色の絵をちりばめた。ゆえに絵本と言うのだろう。
 眺めているとふと気づいた。安藤氏のもっとも好きな奥美濃は一遍もないことだった。しかし、あとがきを読むと、そんな脂ぎった山行記からは脱して来し方を振り返る趣向なのである。そして本書は饅頭本のつもりと別記する。古来希成りを過ぎて73歳という。いよいよお迎えの声を聞いたのだろうか。
 ちょっとは中身にも触れよう。P62の百瀬慎太郎著『山を想へば』から、の項。今も私が読んでいる最中だからつまみ読みしてみた。
 実は東海岳人列伝で取り上げた「伊藤孝一」の友人という立場で第一級の資料として、読んでいる。愛知県図書館を経由して、富山県図書館所蔵の同著を借りている最中である。今は古書が安いのでアマゾンをクリックして購入するが同著は33000円もするので借りた。借りた本も鉛筆書きされた38000円の値付けが読み取れる。山岳書としても名著にして稀覯本の類に入る。こんな本を安藤氏は蔵書に加えているのである。
 槇有恒の序文を読むと、百瀬は隻眼とあった。子供の頃は辛い思いで育ったようだ。旅館業も彼が好きで継承したわけではなかったという。「この自分の職業にむしろ批判的であった彼は、打算に疎くその深い教養によってかえって広く多くの友人との交誼を得たと思う。」と書いた。その通りである。
 中でも名古屋の伊藤孝一、燕小屋の赤沼千尋とは30年にわたる水魚の交わりを得たのである。そして、登山史に残る山岳映画撮影行として針ノ木峠越え、真川から薬師岳積雪期初登頂、上ノ岳から槍ヶ岳初縦走を記録した。遺稿集に伊藤孝一もあとがきの前の追憶蘭に書く地位を得た。「山を語り得た人」である。別格の扱われ方である。
 短歌蘭には50歳の時の回想の一首があった。
 ”此の山の真冬の深雪踏みしだき心しまりし昔思ひいづ”
     (大正12年2月、立山針の木峠越え)

 病中雑吟にも佳吟がある。3人の友情の溢れた一首だ。
 ”友垣の情けうれしも菊の花菜の花などをとりそへたまふ”
 (伊藤孝一夫妻、赤沼君)
 ”北陸の旅の便りもともしかりまして和倉の塩のいで湯は”
 (伊藤孝一氏)
 ”神風の伊勢の入海舟ゆき黒鯛釣ると羨まし黒鯛”
 (名古屋伊藤孝一氏)
 曾遊回顧の中から
 ”知多の海内海の浜にみさけりし鈴鹿の山の姿はおぼろ”

 12月21日夜伊藤孝一氏への手紙書きつつ浮かび出るままに31首の中から
 ”二十年はすでに経ちにし冬山の思い出の文書かむとするも”
 ”若かりし頃のゆたけき思い出を思ひつつ寂しわが五十一”
 ”深雪を蹴立てて来る時じくも芦倉の猛者八人来る”
 ”榾の火にいつくしき面火照らせつ平蔵が酌む茶碗酒かな”
 ”板倉さんの飯盒の蓋が火にとけしとしみじみとして八郎は語る”
 ”平蔵がどっかと雪に腰下し板倉さんは此処ですといふ”
 
 昭和19年 52歳 16首
   伊藤孝一の令閨死去
 ”愁しみを胸につつみて山を下る足下にふと龍胆の花”
  
 以下の歌は師匠が旅と酒と短歌に生涯を送った若山牧水であることを思うと苦笑を禁じ得ない。
 ”酒に生き酒に傷つく我にして忘れがたかる酒の味かも”
 百瀬は昭和24年、58歳で逝った。同い年の伊藤は昭和29年に62歳で逝き、赤沼は83歳の長命を得て、昭和54年に逝った。黎明期の北アルプスを知る生き証人を失った。「山を語り得た」百瀬の死は早過ぎた気がする。
 ”喘ぎつつ登り来たりてわが齢老けしを思ひ心寂しむ”
 50歳代にしてこんなに弱っていたのか。年は違えどだれにもこんな歌境になる時期が来る。

 安藤氏の住居は針ノ木峠にも近い。百瀬慎太郎に想いを寄せつつ、コマクサの花をめでる。そして、蓮華岳とはコマクサの群落に由来するのではないかと夢想する。コマクサの色はなるほどレンゲソウの赤紫の濃い色に似ている。それもあり得る。私は前田普羅の名句”霜強し蓮華とひらく八ヶ岳”のように寒い朝、眺めた山容に蓮華を見たのではないか。神々しさを想像する。新潟からの白馬岳は大蓮華山と呼ばれたごとしである。またそんな話をしに行きたいと思う。

赤沼千尋『山の天辺』を読む2016年12月30日

 赤沼千尋は黎明期の北アルプスの燕岳に登山小屋を建設した人である。『山の天辺』(昭和50年、東峰書房)は折々に書いた随想集の体裁となっている。扉には畦地梅太郎の版画「雪渓に立つ」「燕山荘」が挿入されている。序文は『たった1人の山』の浦松佐美太郎が書いた。
 今回特に書き残したいのは、「山男と遭難」の文に山小屋経営者ならではの秀逸なエピソードがあるのを見つけたからだ。
抜粋すると
「人生ことごとく運である。
山岳遭難もまた運である。」

「ことに雪山、それは荒れた日には、眼も開けられぬ恐ろしさに総毛立つ魔者となり、晴れた日と雪崩と言う武器で、音もなく襲いかかる狡猾な肉食獣となることがある。登山する人間にとって、このような山の災厄から逃れられる唯一の道は、天候などの条件のよい日に登山する以外はない。
 そして、早く登山したいはやる心を押さえながら、良い天候を待ち続ける忍耐心と、待ちに待つ時間がとれるかどうかということが問題なのである。」

 黒部の一帯を映画に撮影した名古屋の登山家・伊藤孝一著『狸囃子』からの引用から
「流動を停止した雪崩は、人間の眼には解らないが、停止と同時に力強い圧縮を開始するものである。故に、雪崩れている最中か、又は停止直後に、雪の中から泳ぎ出るか、或いは助け出されルカでなければ、忌まわしい結果が生じる。以下略」
「その夜、(佐伯)平蔵が雪崩に衝かれたら、押されるままにしていてはならぬ。足は飛んだり跳ねたり、手は眼の前を掻いて泳ぐように動かし続けることを忘れるな、と戒めた語り草は、生新しい体験が生んだ不滅の金言として、炉辺に居並ぶ全員の心の髄まで染み込んだ。」

 次は百瀬慎太郎遺稿集『山を想えば』からの引用
「前略、雪崩れに遭った時はいちはやくスキーを脱ぐ事が肝要だと言われる。これが咄嗟の場合によく行われ得る事だろうか。山田二郎氏(筆者注:慶応大学山岳部OB,マナスル隊員、元JAC会長)もこの試みを直ちに実行しようとして、右足のスキービンディングを脱いだ瞬間やられたのであった。それほど雪崩のスピードは速いものであった・・・。」

 以上の引用の後で赤沼自身の言葉は
「こんなエキスパートでも責任感が厚く、良い人たちが雪山に消えて行ったのである。今時の装備と比べれば誠にプリミティブなものであったが、然し登山の熱意と鍛錬並びに事前の準備は大変なものであった。それにも拘らず遭難した。そこには何か抗し難い運命のようなものが感ぜられる。」
と結んだ。
 単に思い出話や自慢話に終始しないで山と人生を語った名著の予感がする。今のところ本書は古書でしか入手できない。(愛知県図書館の横断検索をかけても1冊も蔵書がなかった。)中公文庫、岩波文庫辺りが文庫本化して欲しい。
 他に登山史から忘れられたような伊藤孝一の親友でもある。伊藤は厳冬期の北アルプスを縦走且つ映画撮影行という破天荒な登山家だった。赤沼は黒部の精通者として百瀬慎太郎とともに案内人役で同行した証人である。