近江湖北・横山岳の沢への序曲2009年07月13日

 横山岳は湖北にあってよく知られた名山である。一度は登山道で登ったがその山に沢から挑んだ。
 7/11の夜は木之本ICの近くでFさんと合流。同乗して八草峠に向う旧R303に入って土倉谷の入口を確認後、空き地(多分R303の新道建設で出た廃土の置き場跡か?)にテントを張った。張り終えて酒盛りの後で小用に外に出て前を流れる川を眺めていたら何やら淡い点滅する光が見えた。他の人に話すと蛍だという。ああそうか、最近山仲間を続けて失ったから彼らが蛍となって様子見にきたのだろう、と。かつて石徹白でもテントを張って酒盛りの最中に外に出てみたら最初はヘッドランプを点けた登山者がこちらに向ってくるような錯覚を覚えた。あの時も誰かが亡くなった直後であった。乱高下しながら点滅して去っていく蛍は夏の夜の風物詩である。
 7/12は昨日までの疲れもあってすっきりとはしない。昨夜は1時頃まで酒盛りで睡眠時間は3時間余り。えいっや、と起きたがこんな体で長時間の沢登りに耐えられるだろうか。もうすぐ高齢者の仲間入りである。一年一年が勝負であり、一期一会の沢登りである。どんなに良くても同じ沢を2度やる機会はまれであるから1回を大切にしなければならない。長時間の睡眠で万全を期すると失敗し、3時間程度の短時間だと成功することがあった。何やら受験競争の頃の三当五落を思い出す。体調が万全でないから緊張感を高めて挑むことになるからだろう。
 昨夜確認しておいた土倉谷に入った。土蔵岳に突き上げる谷であるが谷名はなぜか蔵でなく倉である。山中には異様な選鉱場跡を眺めつつ谷深く入った。夏草でむんむんする土倉谷であった。

近江湖北・横山岳の沢-土倉谷左又遡行編2009年07月13日

 土倉谷の右又、左又の分岐まで入ってP地点へは若干戻った。
 遡行したのは左又である。独立標高点1006mからほぼ直線に流れる谷である。P地点から左又の林道を歩く。周囲は杉の植林である。林道終点へは10分余り。7時入渓する。水量は小さな沢にしては多めで水温はかなり冷たい。1130mの山から流れることや落葉樹の多い山ということもある。
 最初はツタの絡む藪に閉口しながら溯った。低潅木の類もなぜか沢を覆うように繁茂している。苦労しながら登った。おまけに標高は殆ど稼がない。谷の中には錆びたトロッコの残骸があり、曲がりくねったレールの残骸も見た。この付近にはかつては銅鉱山でもあったのだろう。谷の右岸左岸には意味のない空き地があったりしてそこは何かあったものと思う。こんな奥なら泡雪崩の犠牲も止むなしであろう。北西の季節風は稜線に雪庇を作り、盛んに雪崩を起こしたに違いない。
 標高600mの二又付近から左の東峰の方向を確認する。周囲の植物景観は杉の植林から落葉樹に変わった。主にサワグルミの大木が多かった。この辺りからどんどん高度が上り始めた。谷が立ってくると共に滝も出てきたし、谷も開豁な谷相から狭隘な相に様変わりした。
 ところがこの谷の滝は一癖あるために直登しにくく、巻くのも容易ではなかった。2段8mの滝は左岸を巻いた。5mのスラブ滝も左岸を巻いた。土の斜面の草付がいやらしい。強く力を掛けると抜ける。足場は粘土質でずり落ちそうな気配を堪えての高巻であった。そんな中でひときわ美しかったのがピンクの花のシモツケソウであった。
 右に左にと分けてゆく源流域では水量の多い谷を選択した。水も伏流となり、左の空、右の空も樹林越しに見えた。美しいブナ純林の中に足を踏み込んだ。ひたすら登りきると何とドンピシャリで東峰の山頂であった。
 三角点のある西峰へは行かず、休んだ。まだ東尾根の下降があるからだった。東尾根はきれいな登山道が開削されていたがまだ信じられなかった。どこかで右にそれて行くだろうと思った。 
 ともあれ見事なRFのW君とF君に深謝する。
 持っていたサイダーを回し飲む。遠望は梅雨空とてかすかにあった。上谷山、三国山、三周、黒壁(高丸)、とりわけ美しい山容を誇るのは蕎麦粒山である。五蛇池山、天狗山、など。近くでは猫ヶ洞が高い。土蔵岳は地味、特にボリュウムがあるのは金糞岳である。伊吹山は稜線の上に頭だけ出す。雨も覚悟の沢登りだったからこの好望はありがたい。梅雨空ではあるが山頂は絶えず爽やかな風が吹きぬけてゆく。