山岳会東海支部の新年会に出席2020年01月19日

 今池のガスビル8F。16時30分に受付を開始。懐かしい面々と新年のご挨拶を交わす。しかし、年々、知っている人が減って知らない人が増える。そこが寂しさを感じる。かつてはほとんどが錚々たる先輩ばかりだったのに今はこっちが古参会員の部類に入ってきた。後10年も続くかどうか。
 山は楽しい。しかし人間は年を取るのだ。やがては消えてゆく運命である。せめて元気なうちは続けたいもの。
 今回はNHKのディレクターの廣瀬 学氏を呼んで、NHKの得意の山番組の裏表を語ってもらった。廣瀬氏は2年前に名古屋へ転勤で来られたらしい。副支部長と懇意というのでつながった。20世紀は映像の世紀というので山々にもTVカメラが入り込んだ。その前に伊藤孝一の映画用のカメラが入った話も出た。当然だろう。
 後は番組制作の裏話になった。これはスマホで撮影して拡散しないでくれとの要望になった。この世界にも昔は容認されたが今は苦情が出るものもあって再放送はできないとのことだった。そこをちょいと切り取って見せてもらえた。加えてキャンプ、焚火、などは放映すると苦情が来るとのこともあった。冬山とか登山道のない山ではそんなわけにはいかないのだが・・・・。世間は分からずやなのです。
 まして何かとスキャンダルの多いNHKは視聴者の見る目が厳しくなっていることもある。NHKから国民を守る党もある。バッシングがひどくなっている。それでも山番組は人気が高い。お茶の間で見るにしてもどこか非日常の世界へ誘いがあるからだ。この後、宴会に入る。私の顔を見るなり『名古屋周辺週末の山登りベスト120』が好評だった。支部報に寄せる読み物も好評であった。みなさんなかなかよく読んでいただいている気がする。

阪神淡路大震災から四半世紀2020年01月17日

今日17日で25年か、早いものだ。当日、共著で拙書『ひと味違う名古屋からの山旅』の2刷の印税が入金した。これも何かの縁と、共著の人たちの了解を得て、全額を中日新聞社を通じて義援金として寄付した。ささやかでも助け合うことで被災者の力になると思った。その後の報道で未曾有の 義援金が集まった。本もよく売れて3刷までいった。
業界団体の研修旅行で神戸市の被災地跡を見学した。想像を絶する展示だった。天災は忘れた頃にやってくるというが、近年は加速度的に起こる。巨大土木工事が続いてあるから地盤がストレスを受けやすい。リニア新幹線とか中央構造線をぶち抜く。何も無ければ良いがと思う。

読書三昧2020年01月12日

對州は大山国やほととぎす
 司馬遼太郎『街道を行く 壱岐・対馬の道』(朝日文庫)などを読み直す。発見したのは上見坂公園の句碑の作者が高浜虚子になっていることだった。P189に
「山ですねえ」
と私は、バスが山の壁にぶちあたりそうになっては巧みにかわして山の壁に沿ってゆくのを見て、永留氏に言った。
「対馬は来てみれば大山国だったという意味の句が虚子先生にあります」と永留氏が言った。

 というくだり。永留氏とは文中にある永留久恵氏。大正9年生まれで鶏知の中学校の校長。民俗学の研究者。

 この句は上見坂の句碑の句のことだろう。高浜虚子の弟子の河野静雲の間違いではないか。銘を見ると虚子とは書いてない。会話中の文なので誤植ではない。

国境の島・対馬の山旅⑤有明山と矢立山2020年01月01日

 元旦はよく晴れた。ホテルを出てすぐに向かったのは近くの八幡宮神社だった。対馬国一宮にあたり格式が高い。但し島のせいか広大な敷地ではなく、山の斜面に面して建てられている。平地は駐車場に利用されている。元旦にしては朝がはやいせいか初詣客は少ない。
 八幡宮を出ると有明山の案内板を探しながら路地を歩いた。どの細道も清水山の斜面にびっしり建っている住宅地に行くようで登山道らしさはどこにもない。一旦は万松院の通りまで出てみたが街角の地図にも見ないので困った。ガイドブックを頼りに行くと八幡宮辺りから出発するので今少し丁寧にみると何と八幡宮の近くに古ぼけた案内板が掛かっていた。住宅地の中を登ると清水山城祉の入り口に着いてやれやれだ。ここからはしっかりした道標がある。
 まずは城跡の中の少し荒れ気味の道を登った。正しく山城であった。豊臣秀吉は織田信長が明智光秀にやられるとすぐに光秀を討った。そして天下統一を果たす。しかし、この後が順調には進展しなかった。功績のあった家臣にボーナスとして領地を与えたいがすでに国内は既得権ばかりだった。秀吉の力を以てしても難しいとなれば朝鮮侵略にと考えが飛躍する。国内は臨戦態勢のまま外国へ出ることになった。しかし、侵略は失敗。撤退することになった。これが後々にまで尾を引く。やられた方はいつまでも恨みを忘れない。
 秀吉の後を担った家康は朝鮮との国交回復に尽力する。これが12回続いた朝鮮通信使であった。この地の長寿院の墓地に眠る雨森芳洲は対馬にあって朝鮮語を不自由なく話せて対馬藩の外交官としての役割を担った。否江戸幕府からも信頼をされたであろうが、史書は江戸幕府の次官級のトップだった新井白石との確執(パワハラ)に遭い、不仲になったと書く。幕府に召されるほどの出世は出来なかった。一地方の専門分野でのベテラン渉外掛かりの役人のままで終わった。その生涯は不遇であった。
 不遇な文学者、儒者、芸能人には今でも当時でも男色が居た。能の世阿弥は足利義満の寵愛を受けるしか芸道を守れなかったのだろう。芭蕉は現在の御園座の敷地にあった坪井杜国を愛した。杜国は米穀の商いで財を築いたが、幕府が嫌がり禁じていた米の空売りで所払いになったという。雨森芳洲もまた男色に耽るしかなかったのだろう。朝鮮通信使の役人からも批判されている。(志岐隆重『十二回の朝鮮通信使』(長崎文献社))
 今回の山旅は雨森芳洲の墓の見学も含まれた。隣には夫人など家族の墓もある。別に女嫌いではなかったのだ。
 清水城跡を脱すると桧の森を通り、常緑樹の中の道を登る。登山道は比較的広く歩きやすい。ずっと展望のない常緑樹の下を歩くとちょっと緩やかなところに着く。そこから明るい尾根道になってカヤトの山頂に出た。かつては対州馬の草地だったとか。
 360度の展望の一等三角点の埋まる山頂だが南にはより高い矢立山が悠然と聳える。厳原港が俯瞰できる。少し小さな池があるところまで行くと白嶽も見える。縦走路もあるらしい。
 往路を下山。城跡はパスして街中へ下った。歴史資料館の脇の車道もルートであった。但し入山の印や道標はない。
 ホテルに戻るとマイカーで矢立山に向かった。明日以降の登山に備えて下見で行ってみたが車道から林道へ入ると奥深く走る。小茂田への下りで一部不通になっていたが矢立山登山口まで行けた。比高150mしかなく、また長い林道を走るのも大変なので登ってみたら15分で登頂になった。ここも360度の大展望だ。さっきまでいた有明山も下に見下ろす。本当ならこっちに一等三角点を持ってきても良いはずだが、三角測量は必ずしも最高点からとは決まっていない。第一富士山は一等でない。常念岳は前常念、穂高でも奥穂ではなく前穂に埋まる。例外はあるのだ。1日で2座も登ってしまった。八幡様のご利益か。

対州は大山国やほととぎす 河野静雲2019年12月22日

虚子の句碑
 「(一社)対馬観光物産協会ブログ」から
 2011年 1/11 【高浜虚子の歌碑】
上見坂公園(かみざか、対馬市厳原町)にて、正岡子規の弟子、高浜虚子の俳句です。
「対州は 大山国や ほととぎす」
島なので、海が見えると思って来てみたら、山ばっかりだった・・・と(^_^;)
対州は対馬の古い呼び方です。
以上
・・・簡単明瞭な俳句です。虚子ではなく、河野静雲と思われます。高浜虚子の弟子で福岡市の俳人です。大山国はおおやまぐに、と読むんでしょう。5万図3枚でカバーする中堅的な規模の島嶼です。


『魏志倭人伝』の一節はHPからコピペすると
原文
「始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴」

読下し文
「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。その大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。居する所は絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食し自活す。船に乗り、南北に市糴す。」

口語訳
 「始めて一海を渡り、千余里で対海国に至る。その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。居する所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸の家がある。良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている。」

墓じまい~相談会の中から2019年12月18日

 今日、丸善の店頭をのぞいたら「週刊朝日12/27」を立ち読みしてしまった。昨日の相談会では相談者の中に、障害者の娘2人を抱え、3女は既婚、4人目は長男がいながら祭祀継承者が無く「墓じまい」を検討されている人がいたからだった。妻とは死別。
一方で、遺言書の作成を検討中という相談者は、祭祀継承者が長男(独身)ではなく、長女(既婚、娘2人)というのも現代ならではの家族事情である。これだけデフレが長引けば勤務先もおかしくなり家族形成できなかった男性(未婚、離婚、死別など)も多数いるだろう。祭祀継承者が決められる家族はまだましなのか。
 タイトルは「消滅するお寺  墓、仏壇じまい急増」
「現代人の関心が高いトピックとして、「仏壇じまい」に注目。ネット上には処分業者がひしめきあい、仏具専門店には問い合わせが急増しているそうです。その実態をリポートします。関連企画では、地方で進む寺院の衰退について住職らのリアルな声をまとめています。」

 検索してみると、同誌は過去に何度も特集していた。おそらく反響が大きいのだろう。
 検索でこんなブログが見つかった。「終活。com]
https://syukatsudo.com/info/ohaka-iranai/#i-8

 2025年問題までもう5年後に迫った。今後こんな相談が急増するだろう。戦後から着々と築かれて来た核家族の崩壊である。加えて空き家問題も同時に進行する。
 小津映画の名作「東京物語」を今一度鑑賞してみたいな。あれは子供が親から独立するとそれぞれ子供に自分の生活というものができて親をかまっていられなくなり、親の死亡で兄弟姉妹もバラバラに崩壊してゆくという文学的な物語であった。人間の社会はこんなことを繰り返してきた。
 仏教が日本に受容されたのは先祖崇拝、先祖供養を認めたからだった。キリスト教は本人の供養のみで先祖崇拝は無い。ゆえに日本人には定着しなかった。4月に亡くなった山岳会の先輩はクリスチャンだったからあっさりした葬儀で終わった。西欧思想らしく個人主義、自分本位の習俗であった。日本国憲法自体が西欧思想の個人主義なので今後こうなるように思えた。

師走と読書2019年12月09日

 12/6夜から12/8夜までは久々の東京行きで疲れた。往復とも地道利用でけちけちドライブであった。もっとも運転はSさんまかせだったから楽だった。
 しかし運転感覚が違うので随分疲れる。特にガソリンのFF車は加速が良いのでばあっと加速してきゅっと制動をかけるからギクシャクするかに思う。神風タクシーと同じである。
 当方はディーゼルエンジンのFR車なので後ろから押される感覚だ。しかも出足は良くないのでスローな動きに慣れている。助手席に乗ると思わず右足に力を込めている。乗せてもらうのも決して楽ばかりではない。
 さて精算すると、府中市の府中駅へ8分のところにあるビジネスホテル代は6500円、ホテルから10分ほどの宮西町の1日24時間Pは1210円X50%、府中新宿間は290円X2=580円、往復800kmほど走って?円/人、高速代は帰路のみで清水東名三好間は2930円X50%。
 旅費交通費は〆て14180円と忘年会費16000円で3万円超。往復新幹線利用だと2万円かかる。往きのみ夜行バスでも16000円。ほぼ半分で行けたことになる。体力的にはきついが安上がりで済んだ。

 9日は新聞休刊日。朝から溜まっている原稿を2本書いた。そろそろ年賀状も用意して準備しなければと思うが、まだまだ仕事があるし研修もある。忘年会もあるがいくつかは不義理する。
 枕元の本と雑誌もたまってきた。いくつかは手に取るが雑用もあり読み切れない。新聞は3紙のうち1紙にして時間を浮かせたがそれでも忙しいのは師走だからだと気づいた。

猟夫来て桶の氷を叩き割る 杉田たか2019年11月27日

 杉田たか 句集『時鳥』から

・・・今時はベレー帽に洋犬を連れたハンターの謂いだが、猟夫(さつお)という季語を用いると柴犬か紀州犬、秋田犬などの伝統的な日本の猟犬を連れた猟師を彷彿する。寒い朝、凍結した氷が張った桶を猟銃の持つところで割ったというのだ。捕った獲物の解体でもするのかな。
 久女の夫の宇内は晩年になると小原村松名の実家に帰って、猟師を楽しんだという。たかさんは昭和6年生まれ、久女は昭和21年1月21日に死去したからたかさんは15歳で葬儀にも参列したかも知れず、同時代を生きている。この猟夫は宇内の残像かも知れません。否深読みか。
 宇内は昭和21年小倉中学を辞し小原村に帰郷、昭和37年、逝去。つまり妻の死去を機に小倉市(現北九州市)を去った。娘の昌子さんも同行しただろう。昌子さんはウインパーの『アルプス登攀記』の翻訳もあるアメリカ文学者の石一郎氏と結婚。「岳人」にも随想を寄稿。

『津軽の野づら』の原作と出版の著作権2019年11月21日

 深田久弥の『津軽の野づら』は北畠八穂の著書とされる。深田には書けない内容だかららしい。しかし今年津軽半島では八穂は標準語で文章を書けないことを知った。津軽弁で語られた『津軽の野づら』を一般に分かりやすい文章で著したのは深田久弥であった。すると著作者も深田になるのだがなぜか不幸な別れ方をしたためか、著作権に争いがあるためか、再版を見ることが無い。
 こんな例は柳田國男『遠野物語』にも言える。
 ウィキによると原作は「岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集である。遠野地方の土淵村出身の民話蒐集家であり小説家でもあった佐々木喜善より語られた、遠野地方に伝わる伝承を柳田が筆記・編纂する形で出版」とされる。聞き取りした話を文語体で著したのは柳田の手柄である。
 続けて「晩年の柳田も当時を振り返って「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」と語っている。」というように深田も聞き取りに苦労して小説化したと思われる。津軽半島の小泊で聞いた太宰治『津軽』の朗読の語り部の津軽弁は私にはさっぱり聞き取れなかった。しかし、秋田県の人は聞いて落涙した。
 当時26歳の田舎娘の八穂が津軽弁で深田に語りそれを解釈しながら標準語の小説にしたのであろう。中身は八穂であるが作品への貢献度は深田に傾くと考えるが・・・。

雨森芳洲覚書2019年11月20日

 江戸時代の朝鮮外交に尽くした雨森芳洲を知ったのは9/14に滋賀県高月町の雨森芳洲庵を訪ねてからだった。説明を聞き、自分でも調べると面白い。
 司馬遼太郎『街道を行く 対馬・壱岐』の雨森芳洲について丁寧な人間観察がある。近刊の石平『朝鮮通信使の真実 江戸から現代まで続く侮日・反日の原点』を読んでも朝鮮とは「つき合い難し」が結論である。

 それなのに朝鮮外交に尽力したのはなぜか。

 辛口のジャーナリスト・高山正之氏が週刊新潮に寄せるコラムはつとに有名であり私も毎週立ち読みする。後年にまとめて『変見自在』にまとめられる。それは欠かさず購入してきた。 
 9/12付けには「たかるだけの国」と出して寄稿された。以下はブログ「文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization on September 2016」に書き込まれた記事を転載させていただく。

 学者、雨森芳洲を一言で言えば「元禄期の若宮啓文」となるか。若宮とは朝日新聞の主筆だった人。北京のホテルで変死したことと「いっそ竹島を韓国に譲って友好の島にしよう」と書いたことで人々の記憶に残っているかもしれない。とにかくあの国が好きだった。そんな狂気に嵌るきっかけは生の金日成に会ったことだった。社に戻るなり願い出てソウルに語学留学に出かけた。そのあとはもう韓国贔屓のネタばかりを書いた。1995年には、日本開催が決まっていたサッカーW杯を「韓国と共同開催にせよ」と社説に書いた。朝日に盲従する宮澤喜一がそれに頷いてまさかの共同開催になった。しかし韓国にW杯をやれる体力はなかった。決まってすぐのアジア通貨危機では国自体がデフォルトに陥ってしまった。若宮が騒ぎ、FIFAの鄭夢準も走り回り、結局は日本が財政支援した。 
 それだけじゃない。開会直前に9・11テロが起きてそれに伴う不況のさざ波で競技場を建てるカネもなくなった。やっぱり共催は無理となったところでまた若宮が騒ぎ、旧日本輸銀が2億ドル融資を強いられた。
かくて開催されたものの韓国人のラフプレーと審判買収で「最も汚いW杯」の汚名だけが残った。若宮は韓国と同じくらい女にも入れ揚げた。
その醜聞を手土産に退社後、念願の韓国の大学の先生に納まった。
変死するまではいい人生だった。 

 雨森芳洲は男色という一点を除いて若宮の祖先かと思われるほど、その人生の軌跡は似ている。彼は20代で対馬藩に抱えられ、33歳のとき釜山の倭館に派遣されて生の朝鮮を見た。若宮が金日成に会ったのと同じ歳頃で、同じようにのめり込んでいった。
 そのころの李氏朝鮮は貧困の極みにあった。だから徳川将軍の代替わりがあると総勢400人の通信使がお祝いと称して押しかけてきた。彼らは丸1年も逗留して遊興に耽り、貧しいから宿の食器から寝具、床の間の掛け軸までかっぱらっていった。老中格の新井白石はそんなたかり集団に厳しく、接待費も旅程も半減するよう命じた。ついでに徳川将軍を「日本国王」とよいしょするよう朝鮮側に求めた。幇間並みに扱った。 
 このとき通信使の接待役が芳洲だった。朝鮮人に生まれたかったと、若宮と同じ思いを語っていた芳洲は白石の処置に怒りまくった。二人の応酬はホントに激しかったが、誰が見ても白石の言う通りだった。 
最終的に幕府は朝鮮側にもう江戸まで来なくていい、対馬で接遇すると伝えた。世にいう易地聘礼だ。二代秀忠から十代家治までたかりまくった通信使は1811年の対馬での質素な供応を最後に二度と来なくなった。先日の天声人語がこの雨森芳洲を取り上げていた。 
 今の日韓のいざこざを踏まえ「威信や体面にこだわる両国の間で板挟みになった」芳洲が半白になるほど苦労したと書き出す。いや日本は体面などどうでもいい、大所帯で押し掛けて、接遇に100万両もかかるたかりをやめてくれと言っているだけだ。コラムは「日本国王」の件にも触れて「国威を高めることに執着した」と冗談も理解できない。ホワイト国外しをした安倍政権をあてこすった気になっている。 
 それに通信使側はたかっておきながら「穢れた獣のような日本人が富栄えるは嘆くべし恨むべし」(金仁謙『日東壮遊歌』)と感謝の気持ちもない。デフォルトを救ってやったときと同じだ。ここはだれもが白石の対応を褒めるだろう。
 コラムは最後に「互いに欺かず争わず真実をもって交わること」という芳洲の言葉で結ぶ。それは日本が百歩も譲って呑んでやった慰安婦合意を踏みにじり、カネだけ失敬するような国に言い聞かせる言葉だ。
日本人の読む新聞に載せるのは失礼ってものだ。
以上

 雨森芳洲には子孫が居たと分かった。
 民団新聞のWEB版に「祖先<雨森芳洲>の志大切に」と題した記事がある。全文転載させていただく。

 新時代の韓日交流へ膨らむ想い

「ぼくは草の根で」
病院学級で奉仕の心知る

 「人間同士の触れ合いや、言葉を通して日本と韓国、北朝鮮関係で何か寄与できれば」。今年2月、ソウル市の延世大学校政治外交学科を卒業した雨森秀治さん(31、奈良県宇陀市)は翻訳、通訳などの仕事で韓国と日本を行き来する。大学在学中に自分のやるべき方向を決定づけたという奉仕活動、そして江戸時代中期の儒学者で、朝鮮との善隣友好関係を深めた雨森芳洲を祖先に持つ思いなどを聞いた。

 現在、韓国にある出版社の契約社員として、韓国と日本を往復する生活が続く。取材当日、翻訳を手がけたという書籍を持参してくれた。

 韓国と関わって6年目。高校2年生のとき、祖父から初めて10代前の祖先、雨森芳洲の話しを聞き、びっくりした。そのときから芳洲や朝鮮通信使に関する資料や書物を調べ、滋賀県伊香郡高月町の芳洲の生家を何度も訪ねるなど、勉強を重ねた。芳洲の生き方や考えを知るにつけ、「韓国に行ってみたい」という思いは膨らんでいった。

 25歳のとき、それまで勤めた貿易会社を退職。「両親も同僚も反対した。でも韓国語を勉強した後、日本と韓国、北朝鮮関係で自分のできることで関わりたいと思っていた」。ソウルにある西江大学校の語学堂で1年間、韓国語を学び、04年3月、延世大学校政治外交学科に入学した。

 雨森さんは芳洲との関係を誰にも明かさずに過ごした時期がある。韓日にまたぐ有名な祖先を持つことは、時として雨森さんを苦しめた。

 高校時代、歴史教師から芳洲とのつながりを聞かれた。当時、勉強が苦手だったという雨森さん。教師は「芳洲の子孫なのにどうしてそんなにできないのか」と吐き捨てるように言った。それはトラウマとなり、以来、関係を心のなかに封印したまま10年以上を過ごしたという。

 「周りから言われるのは嫌だったし、プレッシャーがあった」

 留学当時に抱いた思いを、さらに「自分のやるべきこととして、具体的に教えてくれた」のは、延世大学校での4年間、奉仕活動で関わった延世大学校医学部付属セブランス病院の院内学級だ。 同学級は00年12月に開校された韓国政府公認の病院学校。白血病や重い病を抱えながら長期入院生活を送る5歳から19歳までの子どもたちが、英語や数学、音楽、美術などを学んでいる。教師は奉仕活動で参加した学生たち。雨森さんは毎週1回、日本語を教えた。

 当時、歴史教科書問題や、独島(竹島)問題などで韓日関係が険悪化していた。子どもたちから「独島は私たちの島」と言われ、意見を求められたこともあった。「反対側から見ること、客観的に見ることなど、いろいろなことを子どもから教わった」

 雨森さんにとって、院内学級の授業は何よりも大事な時間だった。「そこは生と死の現場。今日会って最後かもしれない。生徒が亡くなったことも多かった。辛くて止めようと思ったことも何回もあった。でも生徒たちは一生懸命、勉強をする。自分もそれに応えなければと思った」

 もちろん、嬉しいこともあった。退院した生徒が「元気になった」からと毎週のように顔を出し、「秀治のおかげで日本に対するイメージが変わった。日本語を勉強して日本に行きたい」と夢を話してくれた。大学の同級生2人も手伝いたいと名乗り出てくれた。

理解し合ってつき合う教え

 4年間の奉仕活動は雨森さんの精神を鍛えた。すべて「生徒のおかげ」だと感謝する。

 雨森さんが芳洲に惹かれるのは、隣国の言葉を学び、歴史や風俗、習慣などを理解したうえで外交にあたったことだ。「おじいちゃんは国と国との関係だったが、僕は個人と個人の付き合いを大事にしながら、お互いの歴史や文化を知らない人たちに伝えていきたい」と民間レベルの草の根交流をめざす。

 昨年、奉仕活動する記事が韓国の新聞で紹介された。「売名行為」だとするメールや電話が寄せられた。だが雨森さんを支えたのは子どもたちの真摯な姿であり、「勇気をもらった」という人たちからのエールだった。

 「芳州の志を引き継いでいきたい」という。「両国の人たちがお互いを理解しあえるように、小さなことから始めたい」と、目を輝かせた。

■□
プロフィール

雨森芳洲(1668~1755)現・滋賀県伊香郡高月町雨森で、医師清納の子として生まれる。18歳のころ江戸に出て儒学者の木下順庵に入門。
1689年、師の推薦で対馬藩に仕官し、92年赴任。
98年、朝鮮御支配役佐役を拝命、1702年に釜山に渡る。朝鮮語入門書「交隣須知」をまとめ、05年に朝鮮語を学習。
11年、徳川家宣就任を祝う朝鮮通信使に随行して江戸に赴き、19年にも通信使を護行して江戸を往復。使節団の製述官が帰国後に著した「海游録」に活躍が紹介されている。61歳で朝鮮外交心得「交隣提醒」を著す。外交の基本は「誠信の交わり」と説いた。

(2008.4.16 民団新聞)
以上

・・・・いろいろ集めてみて分かったのは芳洲は日本の入国管理局の地方局の事務官クラスの人だったのではないか。儒学者として紹介はされるけれど新井白石ほどの幕府の高官にはなれなかった。朝鮮語も不自由なく会話できたけれど、彼らが格下の日本を見下げる態度だけは誠信を以てしても克服させることはなかった。それでも大好きな朝鮮と向き合う対馬に骨を埋めたのである。現に対馬に墓地もある。
 飛躍するが、
 本居宣長は『玉勝間』に「漢意とは、漢国のふりを好み、かの国をたふとぶのみをいふにあらず、大かた世の人の、万の事の善悪是非を論ひ、物の理(ことわり)をさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍の趣なるをいふ也」と書いた。
 芳洲の誠信の交わりもひとえに「からごころ」に由来する。自分だけは朝鮮が分かっている。朝鮮人の心になりきって日本人に誠信の交わりを説くのである。朝鮮人はこう考えている、日本をこう見ている、だから彼らの意に沿うように努めようと。これは現代のジャーナリストとそっくり同じである。現代のジャーナリストは「漢意」に加えて「西洋思想」があるから厄介である。