師走と読書2019年12月09日

 12/6夜から12/8夜までは久々の東京行きで疲れた。往復とも地道利用でけちけちドライブであった。もっとも運転はSさんまかせだったから楽だった。
 しかし運転感覚が違うので随分疲れる。特にガソリンのFF車は加速が良いのでばあっと加速してきゅっと制動をかけるからギクシャクするかに思う。神風タクシーと同じである。
 当方はディーゼルエンジンのFR車なので後ろから押される感覚だ。しかも出足は良くないのでスローな動きに慣れている。助手席に乗ると思わず右足に力を込めている。乗せてもらうのも決して楽ばかりではない。
 さて精算すると、府中市の府中駅へ8分のところにあるビジネスホテル代は6500円、ホテルから10分ほどの宮西町の1日24時間Pは1210円X50%、府中新宿間は290円X2=580円、往復800kmほど走って?円/人、高速代は帰路のみで清水東名三好間は2930円X50%。
 旅費交通費は〆て14180円と忘年会費16000円で3万円超。往復新幹線利用だと2万円かかる。往きのみ夜行バスでも16000円。ほぼ半分で行けたことになる。体力的にはきついが安上がりで済んだ。

 9日は新聞休刊日。朝から溜まっている原稿を2本書いた。そろそろ年賀状も用意して準備しなければと思うが、まだまだ仕事があるし研修もある。忘年会もあるがいくつかは不義理する。
 枕元の本と雑誌もたまってきた。いくつかは手に取るが雑用もあり読み切れない。新聞は3紙のうち1紙にして時間を浮かせたがそれでも忙しいのは師走だからだと気づいた。

猟夫来て桶の氷を叩き割る 杉田たか2019年11月27日

 杉田たか 句集『時鳥』から

・・・今時はベレー帽に洋犬を連れたハンターの謂いだが、猟夫(さつお)という季語を用いると柴犬か紀州犬、秋田犬などの伝統的な日本の猟犬を連れた猟師を彷彿する。寒い朝、凍結した氷が張った桶を猟銃の持つところで割ったというのだ。捕った獲物の解体でもするのかな。
 久女の夫の宇内は晩年になると小原村松名の実家に帰って、猟師を楽しんだという。たかさんは昭和6年生まれ、久女は昭和21年1月21日に死去したからたかさんは15歳で葬儀にも参列したかも知れず、同時代を生きている。この猟夫は宇内の残像かも知れません。否深読みか。
 宇内は昭和21年小倉中学を辞し小原村に帰郷、昭和37年、逝去。つまり妻の死去を機に小倉市(現北九州市)を去った。娘の昌子さんも同行しただろう。昌子さんはウインパーの『アルプス登攀記』の翻訳もあるアメリカ文学者の石一郎氏と結婚。「岳人」にも随想を寄稿。

『津軽の野づら』の原作と出版の著作権2019年11月21日

 深田久弥の『津軽の野づら』は北畠八穂の著書とされる。深田には書けない内容だかららしい。しかし今年津軽半島では八穂は標準語で文章を書けないことを知った。津軽弁で語られた『津軽の野づら』を一般に分かりやすい文章で著したのは深田久弥であった。すると著作者も深田になるのだがなぜか不幸な別れ方をしたためか、著作権に争いがあるためか、再版を見ることが無い。
 こんな例は柳田國男『遠野物語』にも言える。
 ウィキによると原作は「岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集である。遠野地方の土淵村出身の民話蒐集家であり小説家でもあった佐々木喜善より語られた、遠野地方に伝わる伝承を柳田が筆記・編纂する形で出版」とされる。聞き取りした話を文語体で著したのは柳田の手柄である。
 続けて「晩年の柳田も当時を振り返って「喜善の語りは訛りが強く、聞き取るのに苦労した」と語っている。」というように深田も聞き取りに苦労して小説化したと思われる。津軽半島の小泊で聞いた太宰治『津軽』の朗読の語り部の津軽弁は私にはさっぱり聞き取れなかった。しかし、秋田県の人は聞いて落涙した。
 当時26歳の田舎娘の八穂が津軽弁で深田に語りそれを解釈しながら標準語の小説にしたのであろう。中身は八穂であるが作品への貢献度は深田に傾くと考えるが・・・。

雨森芳洲覚書2019年11月20日

 江戸時代の朝鮮外交に尽くした雨森芳洲を知ったのは9/14に滋賀県高月町の雨森芳洲庵を訪ねてからだった。説明を聞き、自分でも調べると面白い。
 司馬遼太郎『街道を行く 対馬・壱岐』の雨森芳洲について丁寧な人間観察がある。近刊の石平『朝鮮通信使の真実 江戸から現代まで続く侮日・反日の原点』を読んでも朝鮮とは「つき合い難し」が結論である。

 それなのに朝鮮外交に尽力したのはなぜか。

 辛口のジャーナリスト・高山正之氏が週刊新潮に寄せるコラムはつとに有名であり私も毎週立ち読みする。後年にまとめて『変見自在』にまとめられる。それは欠かさず購入してきた。 
 9/12付けには「たかるだけの国」と出して寄稿された。以下はブログ「文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization on September 2016」に書き込まれた記事を転載させていただく。

 学者、雨森芳洲を一言で言えば「元禄期の若宮啓文」となるか。若宮とは朝日新聞の主筆だった人。北京のホテルで変死したことと「いっそ竹島を韓国に譲って友好の島にしよう」と書いたことで人々の記憶に残っているかもしれない。とにかくあの国が好きだった。そんな狂気に嵌るきっかけは生の金日成に会ったことだった。社に戻るなり願い出てソウルに語学留学に出かけた。そのあとはもう韓国贔屓のネタばかりを書いた。1995年には、日本開催が決まっていたサッカーW杯を「韓国と共同開催にせよ」と社説に書いた。朝日に盲従する宮澤喜一がそれに頷いてまさかの共同開催になった。しかし韓国にW杯をやれる体力はなかった。決まってすぐのアジア通貨危機では国自体がデフォルトに陥ってしまった。若宮が騒ぎ、FIFAの鄭夢準も走り回り、結局は日本が財政支援した。 
 それだけじゃない。開会直前に9・11テロが起きてそれに伴う不況のさざ波で競技場を建てるカネもなくなった。やっぱり共催は無理となったところでまた若宮が騒ぎ、旧日本輸銀が2億ドル融資を強いられた。
かくて開催されたものの韓国人のラフプレーと審判買収で「最も汚いW杯」の汚名だけが残った。若宮は韓国と同じくらい女にも入れ揚げた。
その醜聞を手土産に退社後、念願の韓国の大学の先生に納まった。
変死するまではいい人生だった。 

 雨森芳洲は男色という一点を除いて若宮の祖先かと思われるほど、その人生の軌跡は似ている。彼は20代で対馬藩に抱えられ、33歳のとき釜山の倭館に派遣されて生の朝鮮を見た。若宮が金日成に会ったのと同じ歳頃で、同じようにのめり込んでいった。
 そのころの李氏朝鮮は貧困の極みにあった。だから徳川将軍の代替わりがあると総勢400人の通信使がお祝いと称して押しかけてきた。彼らは丸1年も逗留して遊興に耽り、貧しいから宿の食器から寝具、床の間の掛け軸までかっぱらっていった。老中格の新井白石はそんなたかり集団に厳しく、接待費も旅程も半減するよう命じた。ついでに徳川将軍を「日本国王」とよいしょするよう朝鮮側に求めた。幇間並みに扱った。 
 このとき通信使の接待役が芳洲だった。朝鮮人に生まれたかったと、若宮と同じ思いを語っていた芳洲は白石の処置に怒りまくった。二人の応酬はホントに激しかったが、誰が見ても白石の言う通りだった。 
最終的に幕府は朝鮮側にもう江戸まで来なくていい、対馬で接遇すると伝えた。世にいう易地聘礼だ。二代秀忠から十代家治までたかりまくった通信使は1811年の対馬での質素な供応を最後に二度と来なくなった。先日の天声人語がこの雨森芳洲を取り上げていた。 
 今の日韓のいざこざを踏まえ「威信や体面にこだわる両国の間で板挟みになった」芳洲が半白になるほど苦労したと書き出す。いや日本は体面などどうでもいい、大所帯で押し掛けて、接遇に100万両もかかるたかりをやめてくれと言っているだけだ。コラムは「日本国王」の件にも触れて「国威を高めることに執着した」と冗談も理解できない。ホワイト国外しをした安倍政権をあてこすった気になっている。 
 それに通信使側はたかっておきながら「穢れた獣のような日本人が富栄えるは嘆くべし恨むべし」(金仁謙『日東壮遊歌』)と感謝の気持ちもない。デフォルトを救ってやったときと同じだ。ここはだれもが白石の対応を褒めるだろう。
 コラムは最後に「互いに欺かず争わず真実をもって交わること」という芳洲の言葉で結ぶ。それは日本が百歩も譲って呑んでやった慰安婦合意を踏みにじり、カネだけ失敬するような国に言い聞かせる言葉だ。
日本人の読む新聞に載せるのは失礼ってものだ。
以上

 雨森芳洲には子孫が居たと分かった。
 民団新聞のWEB版に「祖先<雨森芳洲>の志大切に」と題した記事がある。全文転載させていただく。

 新時代の韓日交流へ膨らむ想い

「ぼくは草の根で」
病院学級で奉仕の心知る

 「人間同士の触れ合いや、言葉を通して日本と韓国、北朝鮮関係で何か寄与できれば」。今年2月、ソウル市の延世大学校政治外交学科を卒業した雨森秀治さん(31、奈良県宇陀市)は翻訳、通訳などの仕事で韓国と日本を行き来する。大学在学中に自分のやるべき方向を決定づけたという奉仕活動、そして江戸時代中期の儒学者で、朝鮮との善隣友好関係を深めた雨森芳洲を祖先に持つ思いなどを聞いた。

 現在、韓国にある出版社の契約社員として、韓国と日本を往復する生活が続く。取材当日、翻訳を手がけたという書籍を持参してくれた。

 韓国と関わって6年目。高校2年生のとき、祖父から初めて10代前の祖先、雨森芳洲の話しを聞き、びっくりした。そのときから芳洲や朝鮮通信使に関する資料や書物を調べ、滋賀県伊香郡高月町の芳洲の生家を何度も訪ねるなど、勉強を重ねた。芳洲の生き方や考えを知るにつけ、「韓国に行ってみたい」という思いは膨らんでいった。

 25歳のとき、それまで勤めた貿易会社を退職。「両親も同僚も反対した。でも韓国語を勉強した後、日本と韓国、北朝鮮関係で自分のできることで関わりたいと思っていた」。ソウルにある西江大学校の語学堂で1年間、韓国語を学び、04年3月、延世大学校政治外交学科に入学した。

 雨森さんは芳洲との関係を誰にも明かさずに過ごした時期がある。韓日にまたぐ有名な祖先を持つことは、時として雨森さんを苦しめた。

 高校時代、歴史教師から芳洲とのつながりを聞かれた。当時、勉強が苦手だったという雨森さん。教師は「芳洲の子孫なのにどうしてそんなにできないのか」と吐き捨てるように言った。それはトラウマとなり、以来、関係を心のなかに封印したまま10年以上を過ごしたという。

 「周りから言われるのは嫌だったし、プレッシャーがあった」

 留学当時に抱いた思いを、さらに「自分のやるべきこととして、具体的に教えてくれた」のは、延世大学校での4年間、奉仕活動で関わった延世大学校医学部付属セブランス病院の院内学級だ。 同学級は00年12月に開校された韓国政府公認の病院学校。白血病や重い病を抱えながら長期入院生活を送る5歳から19歳までの子どもたちが、英語や数学、音楽、美術などを学んでいる。教師は奉仕活動で参加した学生たち。雨森さんは毎週1回、日本語を教えた。

 当時、歴史教科書問題や、独島(竹島)問題などで韓日関係が険悪化していた。子どもたちから「独島は私たちの島」と言われ、意見を求められたこともあった。「反対側から見ること、客観的に見ることなど、いろいろなことを子どもから教わった」

 雨森さんにとって、院内学級の授業は何よりも大事な時間だった。「そこは生と死の現場。今日会って最後かもしれない。生徒が亡くなったことも多かった。辛くて止めようと思ったことも何回もあった。でも生徒たちは一生懸命、勉強をする。自分もそれに応えなければと思った」

 もちろん、嬉しいこともあった。退院した生徒が「元気になった」からと毎週のように顔を出し、「秀治のおかげで日本に対するイメージが変わった。日本語を勉強して日本に行きたい」と夢を話してくれた。大学の同級生2人も手伝いたいと名乗り出てくれた。

理解し合ってつき合う教え

 4年間の奉仕活動は雨森さんの精神を鍛えた。すべて「生徒のおかげ」だと感謝する。

 雨森さんが芳洲に惹かれるのは、隣国の言葉を学び、歴史や風俗、習慣などを理解したうえで外交にあたったことだ。「おじいちゃんは国と国との関係だったが、僕は個人と個人の付き合いを大事にしながら、お互いの歴史や文化を知らない人たちに伝えていきたい」と民間レベルの草の根交流をめざす。

 昨年、奉仕活動する記事が韓国の新聞で紹介された。「売名行為」だとするメールや電話が寄せられた。だが雨森さんを支えたのは子どもたちの真摯な姿であり、「勇気をもらった」という人たちからのエールだった。

 「芳州の志を引き継いでいきたい」という。「両国の人たちがお互いを理解しあえるように、小さなことから始めたい」と、目を輝かせた。

■□
プロフィール

雨森芳洲(1668~1755)現・滋賀県伊香郡高月町雨森で、医師清納の子として生まれる。18歳のころ江戸に出て儒学者の木下順庵に入門。
1689年、師の推薦で対馬藩に仕官し、92年赴任。
98年、朝鮮御支配役佐役を拝命、1702年に釜山に渡る。朝鮮語入門書「交隣須知」をまとめ、05年に朝鮮語を学習。
11年、徳川家宣就任を祝う朝鮮通信使に随行して江戸に赴き、19年にも通信使を護行して江戸を往復。使節団の製述官が帰国後に著した「海游録」に活躍が紹介されている。61歳で朝鮮外交心得「交隣提醒」を著す。外交の基本は「誠信の交わり」と説いた。

(2008.4.16 民団新聞)
以上

・・・・いろいろ集めてみて分かったのは芳洲は日本の入国管理局の地方局の事務官クラスの人だったのではないか。儒学者として紹介はされるけれど新井白石ほどの幕府の高官にはなれなかった。朝鮮語も不自由なく会話できたけれど、彼らが格下の日本を見下げる態度だけは誠信を以てしても克服させることはなかった。それでも大好きな朝鮮と向き合う対馬に骨を埋めたのである。現に対馬に墓地もある。
 飛躍するが、
 本居宣長は『玉勝間』に「漢意とは、漢国のふりを好み、かの国をたふとぶのみをいふにあらず、大かた世の人の、万の事の善悪是非を論ひ、物の理(ことわり)をさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍の趣なるをいふ也」と書いた。
 芳洲の誠信の交わりもひとえに「からごころ」に由来する。自分だけは朝鮮が分かっている。朝鮮人の心になりきって日本人に誠信の交わりを説くのである。朝鮮人はこう考えている、日本をこう見ている、だから彼らの意に沿うように努めようと。これは現代のジャーナリストとそっくり同じである。現代のジャーナリストは「漢意」に加えて「西洋思想」があるから厄介である。

北畠家の系図2019年11月18日

北畠具行の墓所
 今年は北畠家の人物に巡り合うこと3人も居た。もちろん歴史上の話である。北畠家の家系図はこうなっている。

北畠氏学講座
http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake.html

北畠氏大詳細系図
 http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake17.html

 3月 「田丸城跡は1336年(延元元年)北畠親房・顕信父子が南朝義軍の拠点として砦を築いた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%B8%E5%9F%8E

http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/03/28/9052863


 5月 北畠八穂の先祖は三重県の北畠親房の長男の顕家が東北(陸奥国)へ下向した、とあるように南朝方の公卿(くぎょう)で今風に言えば高級官僚であった。青森の北畠家はその血筋の流れを汲む浪岡氏の末裔
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%85%AB%E7%A9%82

http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/05/11/9071166

 10月 北畠親房「一命を以って先皇に報い奉る」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/10/01/9160106

 11月 辞世の和歌「消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%85%B7%E8%A1%8C

http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/12/05/9172795

 とまあ、偶然にも3人の北畠家の人物に遭遇した。
 そこで北畠家の系図でググると、きっちり調査された系図がヒットした。これによると北畠雅家を筆頭に、その子が北畠師親、その長男が北畠師重と続き、北畠親房になる。なので親房は雅家のひ孫になる。一方で北畠具行は北畠雅家の子の師親の弟の師行の子になる。
 祖父の弟は大叔父と呼ぶ。大叔父の子は父母より年上なら従伯父(じゅうはくふ、いとこおじ)で「自分の父または母の従兄(いとこ)」になる。年下なら従叔父(じゅうしゅくふ)で、「自分の父または母の従弟(いとこ)」という意味。
参考サイト
親戚・親族の呼び名早見表
https://www.e-keizu.com/info/family.html
「祖父の兄弟」って何て呼ぶの?家系図で解説!
https://famico.jp/article-zokugara-836/
「従伯父」とはどんな意味?家系図で解説!
https://famico.jp/article-jyuhakufu/

 すると、親房から見て、北畠具行は祖父の弟(4親等)の子。なので大叔父の子すなわち、従叔父(じゅうしゅくふ)です。ここまで離れると傍系親族になる。遠い昔の話である。
 一方で、北畠八穂は青森の産。山の作家・深田久弥の先妻だった。青森県近代文学館が発行した「北畠八穂特別展」のパンフには、祖父の三代前は新潟に住んでいた。父慎一郎は弘前裁判所に勤務、後に青森営林署に勤務。その後材木店を開業。
 例の系図では親房の子顕家の子(親房の孫)に浪岡姓を名乗る血筋が現れて続く。その顕家のひ孫にも浪岡姓が現れる。北畠を名乗る血筋は絶えるのである。
 そこで「青森 北畠」でググると浪岡氏がヒットする。
中世の津軽で大勢力を誇った「浪岡北畠氏」の謎【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】
https://serai.jp/tour/37771

浪岡城跡に行ってきたぞ〜北畠顕家の末裔が治めた北の御所
https://takatokihojo.hatenablog.com/entry/2017/07/06/091849

 結局北畠八穂(本名は美穂)の先祖がどうつながっているのかは突き止められなかった。

 ふと思い出したのは丸山学『先祖を千年、遡る (幻冬舎新書) 』だ。丸山先生の調査術であればたぶん分かるだろう。

来春は「山のセミナー」を・・・!2019年11月15日

 いくつもの受信メールを処理していたら、昨年夏に「山のセミナー」開催でお世話になった人からも来ていた。来春もセミナーを開催したいので講師を、との依頼だった。喜んでお受けしますと返信して置いた。
 例年は夏なので夏山には間に合わず、秋山には早過ぎる。タイミングが悪かった。今度は春なので里山に咲く花をテーマに話ができる。
 主催者が某地銀のセミナールームなので金融、法律の話が多くなる。私も最初は成年後見のセミナー開催で飛び込んだが気持ち良い回答は得られなかった。地銀にはお抱えの法律家がたくさんいるからだ。それで趣味の山歩きに話を振ってみたら、これが良かった。
 今は代も変わったもののその人も実はN私立高校時代にはN高校で数学を教えていた山岳会の先輩(故人)の教え子と分かって盛り上がった。正に「芸は身を助ける」のである。この夏はオファーがなく、途切れていた。来春の企画を考えていたのだろう。マネーの話の中にちょっと世間離れした山歩きのセミナーをポンと放り込むと変化が出る。

西教寺と日吉大社へ〜大津・坂本、明智氏ゆかりの地を訪ねて2019年11月12日

 当会の秋の研修会として開催。大型バス1台を仕立てて豊橋、豊川から約40名が来られた。名古屋の私は刈谷ハイウェイオアシスで拾ってもらった。
 伊勢湾岸道から新名神を経由、大津で高速を出る。国道を走ってまずは西教寺へ行く。大型バスが狭い路地に入り込んでUターンするのに難儀したが見事なハンドル裁きで切り抜けた。西教寺のPへ入るのが大変なのだ。
 境内の紅葉はまだ色づいておらず3分くらいか。小春日に助けられて傾斜のある石段を登ると本堂の立つ西教寺に着く。裏手にまわり料金300円は幹事さんがまとめて支払う。住職さんからの案内で本堂に入らせてもらう。話によると天台真盛宗の総本山という。ウィキペディアの解説をいくら読んでも理解しがたい上にまた新たな宗派ときては混乱する。
 今日の目的の明智光秀は一族の墓として葬られている。明智の墓はあちこちにあるがここのは由緒ある墓だとか。菩提寺ともいう。
 ウィキペディアには「信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。また、境内には光秀の供養塔や光秀一族の墓が立っている。」と縁が深いことを思わせる。
 またバスで日吉大社に移動。すぐ近くにある。これもウィキペディアによると「文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見だが、これは、日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである[2]。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉大社は、崇神天皇7年に日枝山の山頂から現在の地に移されたという[2]。」
 ずいぶん古い歴史を持って居る。ウィキペディアに「元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降、天正14年(1586年)から慶長2年(1597年)にかけて再建されたものである。[4]信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は、当社の復興に尽力した[2]。これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であったことから、当社を特別な神社と考えたためである。」とあって、やっと秀吉との縁が結びつく。しかし光秀に絡む史跡はないので坂本の地にあるという縁だけで取り上げられるのだろう。
 ちなみに明智光秀の居城だった坂本城は城址のみで明智光秀像が立っているだけらしい。
 というわけで今日は観光気分で早足で名刹を回りました。西教寺で2句、日吉大社で2句即吟で投句してきました。
 投句作品は未発表作品なので書けないが、神の留守、小春日和、照り紅葉、冬紅葉、冬柿、実なんてん、冬日和、湯葉などの季語が浮かんだ。
 白洲正子の『近江山河抄』の”日枝の山道”を改めて読む。

白洲正子『近江山河抄』を読む2019年11月11日

 明日は歴研のバス旅の予定。日吉大社と西教寺である。はて、どこかにあったぞと書棚の本を取り出し、「日枝の山道」を読んだ。どちらも行ったことはないので予備知識を入れておこうと思う。日枝は”ひえだ”、ではなく”ひえ”と読ませる。『古事記』には日枝と書き、比枝、比叡と転じたと書く。
地形図を貼っておく。
<iframe frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" width="500" height="400" src="https://maps.gsi.go.jp/?hc=hifc#15/35.070627/135.858822/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0"></iframe>
 地形図を眺めると
 日枝の御神体山は八王子山381mである。この山は延暦寺境内へとつなぐ尾根の末端にあたる。そして真西には比叡山延暦寺の根本中堂がある。白洲さんの文には八王子山、牛尾山、小比叡(おびえ)というと紹介される。『古事記』にも登場する歴史の古い山なのである。
 そういえば、今年の夏珍しい仕事を手掛けた。名古屋近郊にある宗教法人様の規則変更であった。しかも天台宗なのでここが大本ではないか。書類には比叡山の事務局の印鑑も押印してあった。これは余談である。
 西教寺のことも少し書いてある。行ってみてまた読んでみる。

出羽人も知らぬ山見ゆ今朝の冬 河東碧梧桐2019年11月08日

 特選 名著復刻全集 近代文学館  大須賀乙字選碧梧桐句集。
復刻版は昭和50年5月1日発行だが原典は大正5年2月5日の発行になる。発行所は俳書堂。
 序文は乙字が書いている。当時の俳句観を知るには貴重なので転記しておきたい。

「我国にはもと傑れたる叙景詩はなかったのである。芭蕉は叙情詩人たる素質の人であるが、十七字に客観的内容を取って僅少の名句を得たのである。蕪村は芭蕉の完成したるものに憑って俳句を純然たる叙景詩にしたのである。蕪村の叙景は、しかしまだ概念的なところがあって、現在の感覚に触れた生々としたものではない。子規の冩生になって初めて客観的具象化を遂げたのである。しかし子規の寫生は部分的感覚に執してはゐない、纏った気分を把握して天然に向って居る。理知的按排の巧妙な芸術を築き上げて居るのである。子規の進んだ跡を最も正直に行った者は碧梧桐である。
 感覚の鋭敏さにおいては碧梧桐は稀有の人である。子規の判断は純理知の働きに近いものであったけれど、碧梧桐の判断は感覚的要素が基礎となって居たから、子規の感化が薄らげば危険であるべき将来を持って居たのである。此句集を讀めば誰でも「ものの感じを掴む驚く可き鋭敏さ」に感服しないものはなかろう。藝術の為の藝術としての俳句は子規碧梧桐に至って完成されたといってもよいのである。
 子規にも模倣句は可なりあるが、碧梧桐にもそれは少なくない。しかも良い調子にこなされて居るから、なかなか気の付く人はないのである。調子のうまいことも碧梧桐の特色に數へなければならぬ。
 文泉子は「碧梧桐は調子の天才だ」といった。音調も感覚的要素であるから碧梧桐の立場がそこにある事は愈々明らかである。碧梧桐の句といへば桔据難解のやうに世間では思って居るが、決してさうでないことは此句集が證する。初期の句は、どうしても概念的であるを免れないが、歴史的位置を占めて居る句として掲げて置いた。佳句は明治三十八九年頃より四十一年頃までのものに多い。殊に東北行脚中のものには、なかなかの絶唱がある。
 一度新傾向の聲に驚いてから碧梧桐は、局分されたる感覚に瞑想を加へて横道に外れて了った。さすがに行脚をして居るから實境の見る可き句もあるけれど、四十三年以後になると、殆ど拾ふ可き句がない。俳人碧梧桐を再び見ることは出来ないと思ふ。信に惜しいことである。其故にこれは序文にして又弔文である。
  
 大正四年十二月五日   於千駄谷寓居  乙 字 識」
 
・・・・碧梧桐も乙字も忘れられた俳人である。俳論家の乙字らしく理詰めの碧梧桐押しである。碧梧桐は調子の天才と評したのは俳句は韻律詩であることを証明している。芭蕉も舌頭に千転せよ、と論じたから俳句の骨法である。


 掲載の俳句は冬の部 立冬の句にある。

 出羽人はヤフー知恵袋の回答に「出羽国の人間の事だと思います。
出羽国とは今の秋田県と山形県を合わせた地域です。」とある。

 今朝の冬は「立冬の日の朝。引き締まった寒さの感慨をいう語。 [季] 冬。」ですが今まで使ったことはない。

ブログ「水牛歳時記」の立冬から抜粋すると、

「二十四節気の一つで、太陽が黄経二二五度の点を通過する時点を言う。新暦では十一月八日頃になる。暦の上ではこの日から「冬」である。「りっとう」という言葉の響きが硬いせいか、俳句では「冬立つ」「冬に入る」「冬来たる」と用いられることも多い。また立冬の朝を「今朝の冬」と言うこともある。」

・・・はてどこの山を指すのか、興味津々です。何度も口にして読むと確かに調子が良い。なるほど納得です。
 今朝も猿投の山がくっきり見えている。窓からは雲一つない快晴の朝です。北は曇りがちだが東は段戸高原の山々が見えている。確かに立冬よりも今朝の冬の方が使いやすい。今は神無月で2019年の場合は10月28日(月)~11月26日(火)に当たる。
  神留守の猿投の山に対面す    拙作
  くっきりと猿投山見ゆ今朝の冬  拙作

業務研修・改正相続法について~世は遺言書の時代へ2019年10月21日

 今日は午後2時から東別院の大ホールで業務研修があった。以前から期待していた相続法の改正についての学習である。テキストはなく法務省のHPから取り出して編集されたらしい。
 以前から仲間内で『Q&A 改正相続法のポイント―改正経緯をふまえた実務の視点―』 をテキストにして読み合う時間を設けている。しかし、適切な指導者がいないためあまり進まないが今回は実務家を講師に招いた。
 講師は岡崎市で開業する弁護士の中根克弘氏。杉浦さんとともに西三河に多い姓名である。中でも岡崎市が圧倒的に多い。古くから地盤を固めてきた家の生まれであろう。中根でググると県議の名前もあり、多数の実業家が出てくる。
 講義は実務派らしく体験談や自分の見解を交えて少し脱線気味ながら熱弁を振るわれた。但しテキストの編集が悪く縦書きの条文を左からページを繰るために探すのに時間がかかる。
 要旨はこれからは死後の相続ではなく、被相続人が自分の意思で財産の処分の方法を決める遺言書の時代になるということ。従来からの公正証書遺言に加えて自筆遺言書の法務局への保管があらたに来年7月から実施されることで現在はシステムの準備中である。自筆遺言書も1月から自筆部分を本文のみにとどめて、財産目録はパソコンで清書したり、コピーでも良いことになった。改正相続法を事務所の業容拡大に努めるようにしなければならない。
 16時30分を少し過ぎて研修を終えて外に出るとぽつりと雨が来た。