鈴木愼哉編著『悪法「成年後見制度」は法にあらず』を購入 ― 2026年06月29日
ジュンク堂の書棚を眺めていたら目に留まった。以前から評判の悪い成年後見制度であるがこんなタイトルの本まで出版された。月刊誌『紙の爆弾』の別冊号の体裁。来年は大幅に改正されるらしい。一度後見人が付くと死ぬまで辞退できなかった。生涯にわたって仕業の後見人に報酬を召し上げられていた。これが終わる。なぜこんな制度ができたのか今後は解明されてゆくだろう。
仕事 ― 2026年06月16日
本業の方は相続登記の完了を待機中だ。終わり次第、書類を使いまわす手続きが次々待ち構えている。新たに建設業関連の仕事も入力を終えた。事業報告書作成の資料として前年対比の表を作成した。一般社団法人の総会で会計報告する場合は必ず前年対比がある。一般企業にはそれはない。多分、一般社団法人は財務諸表の見方に慣れない人向けに配慮された形式だろう。企業決算ではビジネスなので採算、儲け、経費の見方にシビアになる。パッと見て読める人でないと経営はできない。稲盛和夫は会計が分からんで経営ができるか。という本を書いているほどだ。
ググって見たら2025.10.25に新装版が発刊されていた。根強いファンがいるのだろう。
『稲盛和夫の実学 新装版 経営と会計』 (日経ビジネス人文庫)
【内容紹介】
【会計の名著、新装版として登場】
バブル経済に踊らされ、不良資産の山を築いた経営者は何をしていたのか。儲けとは、値決めとは、お金とは、実は何なのか。身近なたとえ話からキャッシュベース、採算向上、透明な経営など七つの原則を説き明かす。ゼロから経営の原理と会計を学んだ著者の会心作。
会計をまったく知らなかった技術者が、27歳で京セラを創業後、どのように会計と向き合ってきたのか、その変遷は興味深い。経理の担当者が「会計上はそうなる」と説明しても、それに屈せず、「人間として正しいことをする」という原理原則を突き通した姿は、バブル経済時にもまったく変わらなかった。いま読んでも、会計を軸に経営を回していく情熱は、読む人に感銘を与える。
四半世紀以上のロングセラーを、装いを新たに出版。
★新装版文庫解説 楠木建(一橋大学特任教授)
*本書は、1998年10月に日本経済新聞社から刊行、2000年11月に文庫化した同名書を、新たに解説を加えて新装版としたもの。
【目次】
序章 私の会計学の思想
【第一部】 経営のための会計学 実践的基本原則
第一章 キャッシュベースで経営する【キャッシュベース経営の原則】
第二章 一対一の対応を貫く【一対一対応の原則】
第三章 筋肉質の経営に徹する【筋肉質経営の原則】
第四章 完璧主義を貫く【完璧主義の原則】
第五章 ダブルチェックによって会社と人を守る【ダブルチェックの原則】
第六章 採算の向上を支える【採算向上の原則】
第七章 透明な経営を行う【ガラス張り経営の原則】
【第二部】経営のための会計学の実践 盛和塾での経営問答から
解説 楠木建・一橋大学特任教授
・・・・真骨頂は第一章である。どの企業でも事業を発展させるために過剰投資する。すると手元の資金が不足する。そこで自社の不動産を担保に金を借る。儲けがあれば返済して行ける。赤字だと借金を返せない。カネを回すだけの経営になりやすい。
日産が行き詰まったのも利益を生まない資産が多すぎた。そこで借金で回していた。それでもヒット車があるうちは良かった。売れないと在庫がたまるから値引き販売に走った。赤字が積み重なる。ついルノーからゴーンを迎えてやったことは、ルノーからの資本注入と大胆な資産売却だった。大胆なリストラは成功したがその後が続かない。切ってはいけない人材まで退職していった。悪循環が始まる。
それでも名門企業ゆえにまだ新人が入社する。腐っても鯛ということだ。新車が当たれば借金はあっという間に返せる。
ググって見たら2025.10.25に新装版が発刊されていた。根強いファンがいるのだろう。
『稲盛和夫の実学 新装版 経営と会計』 (日経ビジネス人文庫)
【内容紹介】
【会計の名著、新装版として登場】
バブル経済に踊らされ、不良資産の山を築いた経営者は何をしていたのか。儲けとは、値決めとは、お金とは、実は何なのか。身近なたとえ話からキャッシュベース、採算向上、透明な経営など七つの原則を説き明かす。ゼロから経営の原理と会計を学んだ著者の会心作。
会計をまったく知らなかった技術者が、27歳で京セラを創業後、どのように会計と向き合ってきたのか、その変遷は興味深い。経理の担当者が「会計上はそうなる」と説明しても、それに屈せず、「人間として正しいことをする」という原理原則を突き通した姿は、バブル経済時にもまったく変わらなかった。いま読んでも、会計を軸に経営を回していく情熱は、読む人に感銘を与える。
四半世紀以上のロングセラーを、装いを新たに出版。
★新装版文庫解説 楠木建(一橋大学特任教授)
*本書は、1998年10月に日本経済新聞社から刊行、2000年11月に文庫化した同名書を、新たに解説を加えて新装版としたもの。
【目次】
序章 私の会計学の思想
【第一部】 経営のための会計学 実践的基本原則
第一章 キャッシュベースで経営する【キャッシュベース経営の原則】
第二章 一対一の対応を貫く【一対一対応の原則】
第三章 筋肉質の経営に徹する【筋肉質経営の原則】
第四章 完璧主義を貫く【完璧主義の原則】
第五章 ダブルチェックによって会社と人を守る【ダブルチェックの原則】
第六章 採算の向上を支える【採算向上の原則】
第七章 透明な経営を行う【ガラス張り経営の原則】
【第二部】経営のための会計学の実践 盛和塾での経営問答から
解説 楠木建・一橋大学特任教授
・・・・真骨頂は第一章である。どの企業でも事業を発展させるために過剰投資する。すると手元の資金が不足する。そこで自社の不動産を担保に金を借る。儲けがあれば返済して行ける。赤字だと借金を返せない。カネを回すだけの経営になりやすい。
日産が行き詰まったのも利益を生まない資産が多すぎた。そこで借金で回していた。それでもヒット車があるうちは良かった。売れないと在庫がたまるから値引き販売に走った。赤字が積み重なる。ついルノーからゴーンを迎えてやったことは、ルノーからの資本注入と大胆な資産売却だった。大胆なリストラは成功したがその後が続かない。切ってはいけない人材まで退職していった。悪循環が始まる。
それでも名門企業ゆえにまだ新人が入社する。腐っても鯛ということだ。新車が当たれば借金はあっという間に返せる。
戸塚宏という人の言葉② ― 2026年05月31日
戸塚宏という人の言葉① ― 2026年05月30日
ユーチューブを見ていたら戸塚ヨットスクールの校長だった戸塚宏の教育論が面白く次ぎ次ぎ出てきて深夜に及んだ。
動画のタイトル
https://www.youtube.com/watch?v=-sP9mcKF5_s
「知識」より「できる」を増やせ。教育の3本柱を再定義【コーナー②】
に見入った。
教育の三本柱
知育・・・偏差値秀才。偏差値が高いのは知っているだけで行動ができない。
論理的思考能力
抽象的思考能力
徳育・・・論理的思考。人間性を高めること。
空:
浩然の気を養う
シュリーマン 世界で一番幸福な顔をしている。日本はユートピア。
欧州はモノを獲得して幸福になる
日本は行動して自分を高めることで幸福になる。カネを目当てにするな、幸福を目当てにせよ。
徳はハードウェア、本能のこと。
体育・・・正しい行動をする能力。集中力が大事。
スポーツは勝つ事が目的。
「Right」が「権利」という翻訳の根本的誤解
権利は受動的な力である。
ライトは力を及ぼされる。
福沢諭吉は
通義:義に通ずると翻訳
自由はフリーとリバティ
リバティは人に迷惑を掛けない自由
動画のタイトル
https://www.youtube.com/watch?v=-sP9mcKF5_s
「知識」より「できる」を増やせ。教育の3本柱を再定義【コーナー②】
に見入った。
教育の三本柱
知育・・・偏差値秀才。偏差値が高いのは知っているだけで行動ができない。
論理的思考能力
抽象的思考能力
徳育・・・論理的思考。人間性を高めること。
空:
浩然の気を養う
シュリーマン 世界で一番幸福な顔をしている。日本はユートピア。
欧州はモノを獲得して幸福になる
日本は行動して自分を高めることで幸福になる。カネを目当てにするな、幸福を目当てにせよ。
徳はハードウェア、本能のこと。
体育・・・正しい行動をする能力。集中力が大事。
スポーツは勝つ事が目的。
「Right」が「権利」という翻訳の根本的誤解
権利は受動的な力である。
ライトは力を及ぼされる。
福沢諭吉は
通義:義に通ずると翻訳
自由はフリーとリバティ
リバティは人に迷惑を掛けない自由
『六所山と六所神社』他を購入 ― 2026年05月30日
昨日は下山後、豊田市役所松平支所に寄って、先回在庫が無くて買えなかった『六所山と六所神社』を購入できた。
目次は
緒言
第一章 由緒と風土記
一 六所神社の由緒と歴代宮司
トピックスはちがみね「社務日記 四方拝から元旦祭へ」
二 献幣使
三 妙昌寺と六所神社(附、開山無染禅師行業記)
トピックスはちがみね「東海学・松平郷と徳川氏 森 浩一」
膨大なので以下は適宜抜粋
第二章 祭り
第三章 自然と歴史・文化
第四章 崇敬・信仰
一 六所山の参拝道と古道 浦野一郎
二 仙台鹽竈神社への参拝
三 六所の大神様に朝な夕な心の中で何百回も柏手を打ち、帰してもらった父
四 原田十吉の六所神社崇敬
五 日明(坂上町)蜂嶺山天王寺の残照
第五章 聞き書き
一 六所山の本殿は南を向いておる。
二 酒井家のこと
三 馬宿、刀洗いの井戸
第六章 資料
第七章 年表
目次は
緒言
第一章 由緒と風土記
一 六所神社の由緒と歴代宮司
トピックスはちがみね「社務日記 四方拝から元旦祭へ」
二 献幣使
三 妙昌寺と六所神社(附、開山無染禅師行業記)
トピックスはちがみね「東海学・松平郷と徳川氏 森 浩一」
膨大なので以下は適宜抜粋
第二章 祭り
第三章 自然と歴史・文化
第四章 崇敬・信仰
一 六所山の参拝道と古道 浦野一郎
二 仙台鹽竈神社への参拝
三 六所の大神様に朝な夕な心の中で何百回も柏手を打ち、帰してもらった父
四 原田十吉の六所神社崇敬
五 日明(坂上町)蜂嶺山天王寺の残照
第五章 聞き書き
一 六所山の本殿は南を向いておる。
二 酒井家のこと
三 馬宿、刀洗いの井戸
第六章 資料
第七章 年表
拳母街道の坂峠 ― 2026年05月14日
5/6に歩いた森下から松平村2等三角点への道は廃道だったが、実は拳母街道の旧道と分かった。そしてあの峠は坂峠ということも分かった。
AIの回答は「挙母街道における「坂峠」とは、現在の愛知県豊田市松平町と花沢町の間(林道松平槇田和線)にある峠を指します。一般の地図にはあまり掲載されていない隠れた古道・峠で、歴史や自然散策を好む方の間で知られるスポットです。
周辺エリアと街道の概要挙母街道(ころもかいどう)は、名古屋から豊田市中心部(旧挙母市)へと向かう街道や、三河地方の山間部から挙母へと通じる道を指す歴史的な呼称です。
坂峠の所在地: 豊田市松平町と花沢町の間に位置しています。付近は東海環状自動車道の豊田松平インターチェンジからアクセスしやすい環境です。周辺の峠: 挙母街道やそれに連なる街道筋には、この「坂峠」のほかに、国道301号沿いの根引峠や伊勢神峠など、歴史深い峠が点在しています。」
六所山への登山道が今は松平郷から通じているが古い地形図にはない。むしろ、旧下山村の方から登っている。今のR301よりも早く通じた古道だった。中根洋治『忘れられた街道』にもこの峠は出て来るらしい。
おいでんバスの終点も大沼だった。確かにこのルートの方が素直に走れる。現在はわざわざ急な根引峠を越えている方が不思議なくらいだ。
AIの回答は「挙母街道における「坂峠」とは、現在の愛知県豊田市松平町と花沢町の間(林道松平槇田和線)にある峠を指します。一般の地図にはあまり掲載されていない隠れた古道・峠で、歴史や自然散策を好む方の間で知られるスポットです。
周辺エリアと街道の概要挙母街道(ころもかいどう)は、名古屋から豊田市中心部(旧挙母市)へと向かう街道や、三河地方の山間部から挙母へと通じる道を指す歴史的な呼称です。
坂峠の所在地: 豊田市松平町と花沢町の間に位置しています。付近は東海環状自動車道の豊田松平インターチェンジからアクセスしやすい環境です。周辺の峠: 挙母街道やそれに連なる街道筋には、この「坂峠」のほかに、国道301号沿いの根引峠や伊勢神峠など、歴史深い峠が点在しています。」
六所山への登山道が今は松平郷から通じているが古い地形図にはない。むしろ、旧下山村の方から登っている。今のR301よりも早く通じた古道だった。中根洋治『忘れられた街道』にもこの峠は出て来るらしい。
おいでんバスの終点も大沼だった。確かにこのルートの方が素直に走れる。現在はわざわざ急な根引峠を越えている方が不思議なくらいだ。
豊田市博物館へ ― 2026年05月04日
初めて入館する。1200円のところ、JAF割引で1100円になった。企画展は「教えて、千田先生! とよたの城も天下の城も」。会期2026年4月25日(土)〜2026年6月28日(日)。入場者は多数で中々の人気があるようだ。山城ブームもあるのだろう。
山歩きではちょくちょく古城に行くことがある。古城山という名前もある。美濃の口山には特に多い。戦国時代は群雄割拠で多数の山城が作られたのだろう。
常設展も意外に面白かった。昭和30年の国産初の乗用車のトヨペットクラウンの展示に目をくぎ付けにされた。今にも動きそうなくらいよく保存されている。
他には蚕の展示、ガラ紡の展示など拳母町、拳母市、豊田市と続く歴史の変遷がモノで分かりやすく展示されていた。
ネットから引用
「愛知県豊田市。トヨタ自動車が本社を置く、いわずと知れた企業城下町だ。この市は元々「挙母(ころも)市」という市名だったことをご存じだろうか?
「クルマのまち」ではなく、「マユのまち」だった
養蚕・製糸業を中心に栄えた挙母町。しかし、昭和の初めころからその需要が減り、当時の町長・中村寿一が町の繁栄を取り戻すために乗り出したのが、豊田自動織機製作所が新設した自動車製造部の工場誘致だった。
誘致成功後の1938年、トヨタの挙母工場が論地ヶ原(現豊田市トヨタ町)に完成。発展を遂げた拳母町は1951(昭和26)年、挙母市として市制を敷く。
たった8年で市名変更
そして1958(昭和33)年、商工会議所から市宛てに、市名を「豊田市」に変更してほしいという請願書が届く。理由は、挙母市が全国有数の「クルマのまち」に成長したことと、地名の「挙母」が読みにくいことから。元の地名に愛着を持つ市民も多く、一時は賛成派と反対派で市を二分するほどの論議が展開されたが、翌1959(昭和34)年には市名を「豊田市」に変更したのだ。」
1964(昭和39)年2月19日に市長に就任した佐藤 保はトヨタの社員だった人。
ネットから引用
「1964年(昭和39年)と年が改まり、豊田市長選挙が刻々と迫っていた。前回選で惜敗した市名変更反対派は次期選挙にすべてを賭けるとし、再度本多鋼治を擁立することを申し合わせていた。本多も日之出町の本多モータースに碁会所を設け、着々地歩を固めつつあった[13]。
保守派の間では現職の長坂貞一では勝算がないと見る向きがあり、田村重三助役や倉知桂太郎県議らが後継候補として取り沙汰された。同年1月、市議会はじめ各種団体で構成する代表者会議は「トヨタ労組を支援グループに引き込む以外に勝つ方法はない」との結論に達し、佐藤に出馬を要請。
関係者の多くは「『足を洗う』と言明した佐藤が受ける可能性は薄く、常識的に言って、2、3日考えさせてほしいと答えるだろう」と考えていたが、佐藤は即座に「お引き受けします」と答えた。
代表者らは呆然とし、のちに「トヨタ議員にしてやられた」と述懐する者もいた[13][14]。トヨタの労組は「我々は自民党支部と相携えて市長選を戦い抜く」と宣言[15]。2月15日に行われた市長選で佐藤は本多との一騎打ちを制し、初当選した(佐藤16,546票、本多12,672票)[16]。
在職中、近隣の町を次々と合併し豊田市の市域を広げた。1965年(昭和40年)9月1日に高岡町を編入、1967年(昭和42年)4月1日に猿投町を編入、1970年(昭和45年)4月1日に松平町を編入した。
猿投地区は豊富な地下資源に恵まれ、耐火粘土、珪砂などその埋蔵量は県下一を誇っていた。猿投町を編入したことにより、豊田市はより大きな発展を遂げることとなった[3]。
1975年(昭和50年)11月、健康上の理由により翌年の市長選への不出馬を表明[17]。佐藤は挙母町立青年学校教諭時代の教え子である助役の西山孝を強く推し[18]、民社党衆議院議員の渡辺武三もこれに賛同したことから、後継候補は西山に決まった(1976年2月の市長選で当選)。
1977年(昭和52年)3月1日、豊田市名誉市民に推挙される。1983年(昭和58年)11月3日、勲四等瑞宝章を受章[19]。
2004年(平成16年)8月1日、肺炎のため死去[2]。90歳没。」
博物館をでえてから、松平町へ向かう。仮称根引沢の奥地のチエックに行ってみた。案内書の「あおいの道」で×印になっている箇所だ。3/15はネットや鉄の獣除けのフェンスで引き返した。4/29の順路では高ノ山の大橋家から裏の鞍部への道を教えてもらった。が、田植えの真っ最中で農機が忙しく働いていたこともあって、そこへは行かず、農道から市道を歩いて高月院に到達した。だからここが気になっていた。
ふるい地形図では破線路になっているが今は市道で舗装路になった。一応の終点に車を止めてチエックする。少し戻って竹藪の谷合いへ踏み跡が続いている。これはR301の鈴木家への道だろう。しかし、鉄のフェンスに阻まれる。
戻って未舗装の林道を行くと、3/15に引き返したポイントでは細い笹薮があるが楽に突破できるだろう。次の奥にも笹薮の中に向こうへ行ける幅がある。どん詰まりでは急斜面で終わった。
奥の田園は北側だけが山と接していたために突破できなかった。この林道からならR301へ抜けられる。
加えて奥の奥は棚田の廃田と知った。下流の広大な田園は圃場整理の結果だ。農機が入りやすくなって合理化された。
後は松平支所の図書館へ立ち寄った。志満屋で柏餅を買った。
山歩きではちょくちょく古城に行くことがある。古城山という名前もある。美濃の口山には特に多い。戦国時代は群雄割拠で多数の山城が作られたのだろう。
常設展も意外に面白かった。昭和30年の国産初の乗用車のトヨペットクラウンの展示に目をくぎ付けにされた。今にも動きそうなくらいよく保存されている。
他には蚕の展示、ガラ紡の展示など拳母町、拳母市、豊田市と続く歴史の変遷がモノで分かりやすく展示されていた。
ネットから引用
「愛知県豊田市。トヨタ自動車が本社を置く、いわずと知れた企業城下町だ。この市は元々「挙母(ころも)市」という市名だったことをご存じだろうか?
「クルマのまち」ではなく、「マユのまち」だった
養蚕・製糸業を中心に栄えた挙母町。しかし、昭和の初めころからその需要が減り、当時の町長・中村寿一が町の繁栄を取り戻すために乗り出したのが、豊田自動織機製作所が新設した自動車製造部の工場誘致だった。
誘致成功後の1938年、トヨタの挙母工場が論地ヶ原(現豊田市トヨタ町)に完成。発展を遂げた拳母町は1951(昭和26)年、挙母市として市制を敷く。
たった8年で市名変更
そして1958(昭和33)年、商工会議所から市宛てに、市名を「豊田市」に変更してほしいという請願書が届く。理由は、挙母市が全国有数の「クルマのまち」に成長したことと、地名の「挙母」が読みにくいことから。元の地名に愛着を持つ市民も多く、一時は賛成派と反対派で市を二分するほどの論議が展開されたが、翌1959(昭和34)年には市名を「豊田市」に変更したのだ。」
1964(昭和39)年2月19日に市長に就任した佐藤 保はトヨタの社員だった人。
ネットから引用
「1964年(昭和39年)と年が改まり、豊田市長選挙が刻々と迫っていた。前回選で惜敗した市名変更反対派は次期選挙にすべてを賭けるとし、再度本多鋼治を擁立することを申し合わせていた。本多も日之出町の本多モータースに碁会所を設け、着々地歩を固めつつあった[13]。
保守派の間では現職の長坂貞一では勝算がないと見る向きがあり、田村重三助役や倉知桂太郎県議らが後継候補として取り沙汰された。同年1月、市議会はじめ各種団体で構成する代表者会議は「トヨタ労組を支援グループに引き込む以外に勝つ方法はない」との結論に達し、佐藤に出馬を要請。
関係者の多くは「『足を洗う』と言明した佐藤が受ける可能性は薄く、常識的に言って、2、3日考えさせてほしいと答えるだろう」と考えていたが、佐藤は即座に「お引き受けします」と答えた。
代表者らは呆然とし、のちに「トヨタ議員にしてやられた」と述懐する者もいた[13][14]。トヨタの労組は「我々は自民党支部と相携えて市長選を戦い抜く」と宣言[15]。2月15日に行われた市長選で佐藤は本多との一騎打ちを制し、初当選した(佐藤16,546票、本多12,672票)[16]。
在職中、近隣の町を次々と合併し豊田市の市域を広げた。1965年(昭和40年)9月1日に高岡町を編入、1967年(昭和42年)4月1日に猿投町を編入、1970年(昭和45年)4月1日に松平町を編入した。
猿投地区は豊富な地下資源に恵まれ、耐火粘土、珪砂などその埋蔵量は県下一を誇っていた。猿投町を編入したことにより、豊田市はより大きな発展を遂げることとなった[3]。
1975年(昭和50年)11月、健康上の理由により翌年の市長選への不出馬を表明[17]。佐藤は挙母町立青年学校教諭時代の教え子である助役の西山孝を強く推し[18]、民社党衆議院議員の渡辺武三もこれに賛同したことから、後継候補は西山に決まった(1976年2月の市長選で当選)。
1977年(昭和52年)3月1日、豊田市名誉市民に推挙される。1983年(昭和58年)11月3日、勲四等瑞宝章を受章[19]。
2004年(平成16年)8月1日、肺炎のため死去[2]。90歳没。」
博物館をでえてから、松平町へ向かう。仮称根引沢の奥地のチエックに行ってみた。案内書の「あおいの道」で×印になっている箇所だ。3/15はネットや鉄の獣除けのフェンスで引き返した。4/29の順路では高ノ山の大橋家から裏の鞍部への道を教えてもらった。が、田植えの真っ最中で農機が忙しく働いていたこともあって、そこへは行かず、農道から市道を歩いて高月院に到達した。だからここが気になっていた。
ふるい地形図では破線路になっているが今は市道で舗装路になった。一応の終点に車を止めてチエックする。少し戻って竹藪の谷合いへ踏み跡が続いている。これはR301の鈴木家への道だろう。しかし、鉄のフェンスに阻まれる。
戻って未舗装の林道を行くと、3/15に引き返したポイントでは細い笹薮があるが楽に突破できるだろう。次の奥にも笹薮の中に向こうへ行ける幅がある。どん詰まりでは急斜面で終わった。
奥の田園は北側だけが山と接していたために突破できなかった。この林道からならR301へ抜けられる。
加えて奥の奥は棚田の廃田と知った。下流の広大な田園は圃場整理の結果だ。農機が入りやすくなって合理化された。
後は松平支所の図書館へ立ち寄った。志満屋で柏餅を買った。
岡崎市図書館へ ― 2026年05月03日
松平往還、三河加茂一揆等の文献を求めて岡崎市図書館に来た。加茂一揆の研究書はあったがやや左翼的な視点が気になった。大学の学者だからだろうか。客観的な見方が知りたい。
この点、豊田市松平支所の図書館には松平中学や松平高校の生徒らが研究した結果をノートにまとめられていて良かった。自分らの先祖にも関係するから余計に真剣に取り組んだのだろう。
この点、豊田市松平支所の図書館には松平中学や松平高校の生徒らが研究した結果をノートにまとめられていて良かった。自分らの先祖にも関係するから余計に真剣に取り組んだのだろう。
豊田市中央図書館へ ― 2026年05月01日
1 鴨の騒立
2 松平町誌
3 豊田市史
4 三河加茂一揆の地をゆく
5 加茂郡村々百姓騒立諸事日記
6 渡辺守綱公顕彰会叢書第十二集
以上を閲覧できた。
2 松平町誌
3 豊田市史
4 三河加茂一揆の地をゆく
5 加茂郡村々百姓騒立諸事日記
6 渡辺守綱公顕彰会叢書第十二集
以上を閲覧できた。
盛本昌広『家康家臣の戦と日常』を買う ― 2026年04月24日
4/18の三遠研の講演会で知った深溝松平の話から18松平家に関心を持った。岡崎城は家康が江戸へ行ってしまうと家臣が守った。すると松平往還は廃道になるかに思った。この講演会で松平信光の子は48人もいてその子孫が三河南部へと進出して行ったのである。
三河湾に到達してもうこれ以上はないという所迄出て行った。その後は全国規模で各地の松平に散在している。多数の子孫がいたということは折に触れて歩かれたであろう。松平往還の案内書にはそんな話は載っていないが誰かが書いている気がする。
三河湾に到達してもうこれ以上はないという所迄出て行った。その後は全国規模で各地の松平に散在している。多数の子孫がいたということは折に触れて歩かれたであろう。松平往還の案内書にはそんな話は載っていないが誰かが書いている気がする。

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