岐阜県図書館へ ― 2025年02月01日
吉田冬葉のことについて検索で分かることには限界がある。ので岐阜県図書館へ現物を見に行ってみた。午後一時過ぎなので、植田ICから高速を利用。1時間余りで着いた。
館内に入るとまず喫茶店でコーヒーを飲む。名古屋ではたくさんある喫茶店だが岐阜市内では余りない。2時半前で3時閉店という。うまいコーヒーだった。水が違うのだろう。
1Fの検索機で見ると句集以外に多数の資料が見つかった。2Fの郷土資料コーナーでそれらを請求し、前書き、跋、序とあとがき、季語、目次などをコピーして行った。句集では『故郷』『青嵐』『望郷』をコピーした。『冬葉第一句集』の原本もあった。前書き部分は俳句集成にも収録されていたから割愛した。それ以外に新聞記事、雑誌記事、地域誌のコラム、など結構多数の寄稿文が見つかった。
新聞では朝日新聞の1981.11.5付「風雅の旅人たち・・・美濃俳句史37・・・が包括的に吉田冬葉を特集している。他岐阜合同新聞の「瓦石の中の珠玉」が寄稿されているがコピーが荒くて判読できない。中部日本新聞は訃報欄に昭和31年12月1日付けで11月28日に64歳で死亡した記事を掲載。
まずまずの成果に満足して帰名できた。
館内に入るとまず喫茶店でコーヒーを飲む。名古屋ではたくさんある喫茶店だが岐阜市内では余りない。2時半前で3時閉店という。うまいコーヒーだった。水が違うのだろう。
1Fの検索機で見ると句集以外に多数の資料が見つかった。2Fの郷土資料コーナーでそれらを請求し、前書き、跋、序とあとがき、季語、目次などをコピーして行った。句集では『故郷』『青嵐』『望郷』をコピーした。『冬葉第一句集』の原本もあった。前書き部分は俳句集成にも収録されていたから割愛した。それ以外に新聞記事、雑誌記事、地域誌のコラム、など結構多数の寄稿文が見つかった。
新聞では朝日新聞の1981.11.5付「風雅の旅人たち・・・美濃俳句史37・・・が包括的に吉田冬葉を特集している。他岐阜合同新聞の「瓦石の中の珠玉」が寄稿されているがコピーが荒くて判読できない。中部日本新聞は訃報欄に昭和31年12月1日付けで11月28日に64歳で死亡した記事を掲載。
まずまずの成果に満足して帰名できた。
岩雪崩とまり高萩咲きにけり 吉田冬葉 ― 2025年01月31日
『冬葉第一句集』から、大正8年7月の駒ヶ岳の所見から。大須賀乙字の序文にあたる「冬葉君の近業」を転載しておこう。
冬葉君の近業
冬葉君は吐天君(注:1)と相知って其句に一段の生気を帯びた。吐天君は冬葉君と交つて其句に油が乗って来た。二人とも句は実に巧者である。此の上の修業は初心にかえる工夫と読書して句品を高うすることにある。
雷鳥の巣にぬくみある夕立かな
痩馬に草鞋咬まれし暑さかな
虎杖の花に霜降る夏暁かな
岩雪崩とまり高萩咲きにけり
句作は渋るときはいくら骨を折っても出渋る。一旦出渋った句はいくらつくりかへても面白くない。之に反して感興に乗った時は泉の噴出する勢いあって、調子から違ってくる。
此等の句は駒ヶ岳での吟である。「雷鳥の巣にぬくみある」と、とても想像では出来ない。更に「夕立かな」と平気で云ってのける事なぞは、実地に其時の光景に出あはせなければ思ひも寄らぬ事である。非思量の境なればこそ此の句を得たのである。作者の気稟(注2)をかへる事は誰でも難しいが、境は転ずるに従って新しい刺激もあり発見もある。
句作はどうしても旅行がいい。旅行をしなければ誰でも句は沈滞して了ふ。虎杖の句は高山気分がよくでている。「霜降る夏暁かな」の夏暁が等閑の言葉でない。露霜のすぐ消えさうな趣がある。「岩雪崩とまり」の句切れつよく「高萩咲きにけり」とゆうゆうと叙し去った調子高く甚だよろしい。いつもの巧みな句よりも品格一等を高めて居る。
大正八年八月
大須賀乙字
以上
注1:内藤吐天1900-1976。大垣市の俳人。薬学博士。大須賀乙字門。詩集、翻訳など多くの著作がある。詩は日夏耿之助に師事し格調が高い。 昭和時代の薬学者,俳人。 明治33年2月5日生まれ。名古屋市立大,名城大の教授をつとめた。
注2:読み方:きひん. 生まれつきもっている気質。(デジタル大辞泉)
・・・乙字の句業の継承者として、第一人者としての片鱗がでている。
冬葉君の近業
冬葉君は吐天君(注:1)と相知って其句に一段の生気を帯びた。吐天君は冬葉君と交つて其句に油が乗って来た。二人とも句は実に巧者である。此の上の修業は初心にかえる工夫と読書して句品を高うすることにある。
雷鳥の巣にぬくみある夕立かな
痩馬に草鞋咬まれし暑さかな
虎杖の花に霜降る夏暁かな
岩雪崩とまり高萩咲きにけり
句作は渋るときはいくら骨を折っても出渋る。一旦出渋った句はいくらつくりかへても面白くない。之に反して感興に乗った時は泉の噴出する勢いあって、調子から違ってくる。
此等の句は駒ヶ岳での吟である。「雷鳥の巣にぬくみある」と、とても想像では出来ない。更に「夕立かな」と平気で云ってのける事なぞは、実地に其時の光景に出あはせなければ思ひも寄らぬ事である。非思量の境なればこそ此の句を得たのである。作者の気稟(注2)をかへる事は誰でも難しいが、境は転ずるに従って新しい刺激もあり発見もある。
句作はどうしても旅行がいい。旅行をしなければ誰でも句は沈滞して了ふ。虎杖の句は高山気分がよくでている。「霜降る夏暁かな」の夏暁が等閑の言葉でない。露霜のすぐ消えさうな趣がある。「岩雪崩とまり」の句切れつよく「高萩咲きにけり」とゆうゆうと叙し去った調子高く甚だよろしい。いつもの巧みな句よりも品格一等を高めて居る。
大正八年八月
大須賀乙字
以上
注1:内藤吐天1900-1976。大垣市の俳人。薬学博士。大須賀乙字門。詩集、翻訳など多くの著作がある。詩は日夏耿之助に師事し格調が高い。 昭和時代の薬学者,俳人。 明治33年2月5日生まれ。名古屋市立大,名城大の教授をつとめた。
注2:読み方:きひん. 生まれつきもっている気質。(デジタル大辞泉)
・・・乙字の句業の継承者として、第一人者としての片鱗がでている。
伊東月草編『冬葉第一句集』(抄) ― 2025年01月29日
愛知県図書館の横断検索で吉田冬葉の『冬葉第一句集』(抄)は『現代俳句集成』第四巻に収録されていると知った。吉田冬葉の検索ではヒットしないので句集名で検索。そのはずで、編集者は本人ではなく、伊東月草が裏方となって編纂された。
但し、巻頭の凡例を読むと月草はわけあってできなくなり、実際は冬葉自身が行ったようだ。したがって編纂者として月草の名前を辞退したが許されなかった、という。
結社誌「懸葵」「常盤木」「石楠」「人生と表現」「雄弁」「炬火」「枯野」等にあった句を冬葉自身が自選して収録した。その数は1222句。全集版のこの抄録には村山故郷が200句を選出した。
巻頭には大須賀乙字の「冬葉の近業」があるが、大正7(1918)年8月の「懸葵」から転載。当句集は大正11(1922)年4月に出版。したがって乙字は亡くなった後になる。それでも掲載したのは句集の体裁を整えるためであろう。
俳論家で知られた大須賀乙字は明治14(1881)年7月29日~大正9(1920)年1月20日。
当句集は季題別に編纂されて、冬葉を特徴づけるとして旅行吟は独立して編入された。例えば大正8年の駒ヶ岳登山の7句は上松より頂上までの前書きもあり木曽駒登山の山岳詠である。大正9年の高野より吉野へは12句抄録された。
最後になったが、冬葉の経歴を書き留めておきたい。
生まれは明治25(1892)年。岐阜県中津川市苗木に生まれる。本名は辰男。少年時代名古屋市で陶器画工として働きながら育英中学校を卒業。そのころから小牧の織田烏不関に俳句を学び、明治43年上京して大須賀乙字に師事、以後俳句一筋に精進した。乙字とともに「懸葵」「石楠」「常盤木」等に拠ったが乙字没後の大正14年「獺祭」を創刊主宰。乙字の系統は伊東月草、志田素琴等に分散したが、この間冬葉は主張を枉(曲)げず乙字一筋を貫いた。
句風は、乙字風の古俳句的な格調高い風景描写に、深い自然観照を加え、独自の風格を示した。昭和31年没。
大正11年 『冬葉第一句集』
昭和6年 『故郷』
昭和8年 『青嵐』
昭和16年 『望郷』
俳句指導書多数ある。
但し、巻頭の凡例を読むと月草はわけあってできなくなり、実際は冬葉自身が行ったようだ。したがって編纂者として月草の名前を辞退したが許されなかった、という。
結社誌「懸葵」「常盤木」「石楠」「人生と表現」「雄弁」「炬火」「枯野」等にあった句を冬葉自身が自選して収録した。その数は1222句。全集版のこの抄録には村山故郷が200句を選出した。
巻頭には大須賀乙字の「冬葉の近業」があるが、大正7(1918)年8月の「懸葵」から転載。当句集は大正11(1922)年4月に出版。したがって乙字は亡くなった後になる。それでも掲載したのは句集の体裁を整えるためであろう。
俳論家で知られた大須賀乙字は明治14(1881)年7月29日~大正9(1920)年1月20日。
当句集は季題別に編纂されて、冬葉を特徴づけるとして旅行吟は独立して編入された。例えば大正8年の駒ヶ岳登山の7句は上松より頂上までの前書きもあり木曽駒登山の山岳詠である。大正9年の高野より吉野へは12句抄録された。
最後になったが、冬葉の経歴を書き留めておきたい。
生まれは明治25(1892)年。岐阜県中津川市苗木に生まれる。本名は辰男。少年時代名古屋市で陶器画工として働きながら育英中学校を卒業。そのころから小牧の織田烏不関に俳句を学び、明治43年上京して大須賀乙字に師事、以後俳句一筋に精進した。乙字とともに「懸葵」「石楠」「常盤木」等に拠ったが乙字没後の大正14年「獺祭」を創刊主宰。乙字の系統は伊東月草、志田素琴等に分散したが、この間冬葉は主張を枉(曲)げず乙字一筋を貫いた。
句風は、乙字風の古俳句的な格調高い風景描写に、深い自然観照を加え、独自の風格を示した。昭和31年没。
大正11年 『冬葉第一句集』
昭和6年 『故郷』
昭和8年 『青嵐』
昭和16年 『望郷』
俳句指導書多数ある。
『岐阜の地質をめぐって』を発見 ― 2025年01月23日
東海地方の山に登ると報告分を書く際に地質を調べる。岐阜県の山には特に興味を惹かれる。この前の本陣山でもリニアのトンネル工事で話題になった。最近の新聞でも中津川市で地盤沈下が起きている。そこで地質はどうか、と調べたくなる。
手元にあったはずの『岐阜の地質をめぐって』(築地書館)は1980年初版。三刷がある。それが書棚を整理中に出て来た。もう一度買おうか、とアマゾンを見たら絶版であった。古書でも42000円もする貴重な本になっていて驚いた。
日本の古本屋でも4500円プラス送料300円。中には43000円の値付けもあった。アマゾンも上の価格は5万円から6万円もする。
なぜこんな貴重な本になったのか、想像であるが、実地調査で写真撮影が必須であることと書ける執筆者が少ないのではないか。読者数も少ないから多数は売れない。
こんな価格を知ると再度の購読は諦めていた。
それじゃ図書館で、と横断検索すると愛知県、つるまい、小牧、一宮、犬山、豊田市、豊橋にはある。
見つかって良かった。
手元にあったはずの『岐阜の地質をめぐって』(築地書館)は1980年初版。三刷がある。それが書棚を整理中に出て来た。もう一度買おうか、とアマゾンを見たら絶版であった。古書でも42000円もする貴重な本になっていて驚いた。
日本の古本屋でも4500円プラス送料300円。中には43000円の値付けもあった。アマゾンも上の価格は5万円から6万円もする。
なぜこんな貴重な本になったのか、想像であるが、実地調査で写真撮影が必須であることと書ける執筆者が少ないのではないか。読者数も少ないから多数は売れない。
こんな価格を知ると再度の購読は諦めていた。
それじゃ図書館で、と横断検索すると愛知県、つるまい、小牧、一宮、犬山、豊田市、豊橋にはある。
見つかって良かった。
JAC新年会 ― 2025年01月19日
1月19日(日)の午後は山岳会の新年会でした。ゲストには外部から招いてスピーチをお願いしています。今年は登山家の松田宏也氏です。松田氏は1955年生まれなので70歳です。出席者には高齢者も多く、私と同様に遭難の報道を目にしてきた同時代に生きた人が多い。今その本人が目の前にいる。マイクを持つ手の指はなく握れない。リアルに凍傷のすさまじさを語る。
スピーチは画像と動画を交えて解説された。想像以上の奇跡的な生還だったと言える。それだけじゃない、両手の指、両足の膝下を失っても尚も登山を続けて来た不屈の精神に出席者は魅了されたのではないか。
近刊は『ヤマケイ文庫 足よ手よ、僕はまた登る『ミニヤコンカ奇跡の生還』からの再起 (2022/6/16)』がある。
この本に先駆するのは『ミニヤコンカ奇跡の生還 (2010年ヤマケイ文庫) 』です。キャッチコピーには「神よ、晴れてくれ! そんな願いもむなしく、山頂を目前に悲劇の幕は切って落とされた。
1982年5月、中国の高峰・ミニヤコンカ(7556m)登山中に悪天候に阻まれて遭難した筆者が、19日間におよぶ苦闘の末に奇跡の生還を果たすまでを描いた感動の手記。
極度の飢え、思うように動かなせない凍傷の手足、そして仲間の死……。
ズタズタに傷ついた肉体を引きずりながら孤独の下山を続け、絶望の峰から生きて帰った松田宏也の、究極のサバイバル・ドキュメント。」
ミニヤコンカ(7556m)は中国・四川省の山で、遭難を知ったトップは省を挙げて救助と治療に尽くせ、と号令したそうな。日本円にして1200万円の治療代がかかったが無償だったという。返し切れない中国への恩に日中がもっと仲良くなれないか、と憂うのもむべなるかなです。
最初に発見してくれた現地人4名のうち1名が文字が読めて、遭難して行方不明の日本人と認識してもらえた。発見された界隈は松田宏也の名称を冠した歩道になっているとか。
中国は政治の先進国です。中国の山へ遠征することが日中友好の証です。遠征を通じて人間同士のつながりが生まれれば良し。
一方で愛知県稲沢市の桜木市議(当時)は覚醒剤の受け渡しに関与して無期懲役が確定している。現在83歳の桜木元市議は多分獄中死だろう。アヘン戦争で亡国の憂き目にあった中国は麻薬には厳しい警戒心を怠らない。李下に冠を正さず、という俚諺を知っておきたい。
その後は会場を移動。名駅の地下街の飲食店で懇親会となった。
スピーチは画像と動画を交えて解説された。想像以上の奇跡的な生還だったと言える。それだけじゃない、両手の指、両足の膝下を失っても尚も登山を続けて来た不屈の精神に出席者は魅了されたのではないか。
近刊は『ヤマケイ文庫 足よ手よ、僕はまた登る『ミニヤコンカ奇跡の生還』からの再起 (2022/6/16)』がある。
この本に先駆するのは『ミニヤコンカ奇跡の生還 (2010年ヤマケイ文庫) 』です。キャッチコピーには「神よ、晴れてくれ! そんな願いもむなしく、山頂を目前に悲劇の幕は切って落とされた。
1982年5月、中国の高峰・ミニヤコンカ(7556m)登山中に悪天候に阻まれて遭難した筆者が、19日間におよぶ苦闘の末に奇跡の生還を果たすまでを描いた感動の手記。
極度の飢え、思うように動かなせない凍傷の手足、そして仲間の死……。
ズタズタに傷ついた肉体を引きずりながら孤独の下山を続け、絶望の峰から生きて帰った松田宏也の、究極のサバイバル・ドキュメント。」
ミニヤコンカ(7556m)は中国・四川省の山で、遭難を知ったトップは省を挙げて救助と治療に尽くせ、と号令したそうな。日本円にして1200万円の治療代がかかったが無償だったという。返し切れない中国への恩に日中がもっと仲良くなれないか、と憂うのもむべなるかなです。
最初に発見してくれた現地人4名のうち1名が文字が読めて、遭難して行方不明の日本人と認識してもらえた。発見された界隈は松田宏也の名称を冠した歩道になっているとか。
中国は政治の先進国です。中国の山へ遠征することが日中友好の証です。遠征を通じて人間同士のつながりが生まれれば良し。
一方で愛知県稲沢市の桜木市議(当時)は覚醒剤の受け渡しに関与して無期懲役が確定している。現在83歳の桜木元市議は多分獄中死だろう。アヘン戦争で亡国の憂き目にあった中国は麻薬には厳しい警戒心を怠らない。李下に冠を正さず、という俚諺を知っておきたい。
その後は会場を移動。名駅の地下街の飲食店で懇親会となった。
『新撰美濃志』に描かれた大湫(村) ― 2025年01月13日
『新撰美濃志』は尾張藩士の岡田文園(啓)が約30年の歳月を要して編纂した地誌である。期間は天保(てんぽう)の時代(1830年から1844年)から万延(1860年から1861年)の期間になる。江戸時代は1603年に始まり、1867年に終わるから、幕末の美濃の社会を記録している。
復刻版(本書)の緒言に「尾張藩は十二万八千八百石を美濃に領知し、どの領主よりも最大であった。」という。
注:P557から。漢字は基本的に旧字体だが変換可能な限り変換し、出来ないものは出て来る字体にした。行替えは筆者による。
大湫村は半原の北にありて遠山荘とも亦稲村荘ともいふ。中山道の宿驛にて京の方細久手宿より一里半餘、江戸の方大井宿より三里半の馬つぎなり。「尾張御領九十石」(略)名古屋まで十六里あり。
「十三嶺」は宿の東大井宿との間にあり。中山道筋登り下り多き故しか名づく、されども坂道やすらかにて険阻ならず。
「小牧山」は驛の南にあり。さのみ高からねど諸山に秀でて見るに足れり。
「野田嶺」は驛の北にあり。千村氏毎年草餅を製して献上する地なり。
「琵琶坂」は細久手に到る大道の坂をいふ。岩石多く道さがしく登り下り十町ばかりもあり。坂の上より互寅の方に木曽の御嶽見え、北には加賀の白山、飛騨山の間より見ゆ、白山は大山なる故麓まで雪あり。西に伊吹山も見えて好景なり。
烏丸光栄卿の打出濱記に「大久手という所より琵琶坂といふをこゆ、けふの道すべて山の尾なり、たうげよりかなたこなたを見渡すに、こしの白山峰越に山の腰わづかに見ゆ、見るがうちに雲へだたりぬ(みこしぢのしらねいづくと白雲をふりさけ見れば雲に消えつつ)伊吹山のはるかなれどさだかに見ゆ」と見えたり。
以下略。
・十三嶺は十三峠のこと
・小牧山は稲荷山のこと
・野田嶺は本陣山のこと
・琵琶坂は琵琶峠のこと
復刻版(本書)の緒言に「尾張藩は十二万八千八百石を美濃に領知し、どの領主よりも最大であった。」という。
注:P557から。漢字は基本的に旧字体だが変換可能な限り変換し、出来ないものは出て来る字体にした。行替えは筆者による。
大湫村は半原の北にありて遠山荘とも亦稲村荘ともいふ。中山道の宿驛にて京の方細久手宿より一里半餘、江戸の方大井宿より三里半の馬つぎなり。「尾張御領九十石」(略)名古屋まで十六里あり。
「十三嶺」は宿の東大井宿との間にあり。中山道筋登り下り多き故しか名づく、されども坂道やすらかにて険阻ならず。
「小牧山」は驛の南にあり。さのみ高からねど諸山に秀でて見るに足れり。
「野田嶺」は驛の北にあり。千村氏毎年草餅を製して献上する地なり。
「琵琶坂」は細久手に到る大道の坂をいふ。岩石多く道さがしく登り下り十町ばかりもあり。坂の上より互寅の方に木曽の御嶽見え、北には加賀の白山、飛騨山の間より見ゆ、白山は大山なる故麓まで雪あり。西に伊吹山も見えて好景なり。
烏丸光栄卿の打出濱記に「大久手という所より琵琶坂といふをこゆ、けふの道すべて山の尾なり、たうげよりかなたこなたを見渡すに、こしの白山峰越に山の腰わづかに見ゆ、見るがうちに雲へだたりぬ(みこしぢのしらねいづくと白雲をふりさけ見れば雲に消えつつ)伊吹山のはるかなれどさだかに見ゆ」と見えたり。
以下略。
・十三嶺は十三峠のこと
・小牧山は稲荷山のこと
・野田嶺は本陣山のこと
・琵琶坂は琵琶峠のこと
殿様街道下調べ② ― 2025年01月07日
鶴舞図書館の検索機で木下信二著『殿様街私考』があると分かった。郷土資料コーナーで見ると、「昭和61年発行、孔版私家版限定65/冊子P54、 愛知県尾張旭市 樹下文庫第25冊」であった。日本の古本屋では5000円の希少価値が付いている。
中身を見ると、実際に現地を歩いて、地元の精通者や古老などに聞きいて実証する姿勢である。また古文献、瀬戸市史などにも当たって調査は緻密と思える。それでも私考としたのは謙遜だろう。
中でも、東光寺から石坂峠までの石畳の検証では、江戸時代以来のものではなく、電話線の保護のためと分かった。尾鷲の熊野古道の石畳は多雨地帯ゆえに道を保護する目的で多方面に亘って敷き詰められている。ここでは部分的というところに著者の注意深さが伺える。
今となっては約400年の歴史の変遷で改修されたり破壊されて道の形は部分的にしか残っていない。それでも古きを訪ねるのはノスタルジアであろうか。
中身を見ると、実際に現地を歩いて、地元の精通者や古老などに聞きいて実証する姿勢である。また古文献、瀬戸市史などにも当たって調査は緻密と思える。それでも私考としたのは謙遜だろう。
中でも、東光寺から石坂峠までの石畳の検証では、江戸時代以来のものではなく、電話線の保護のためと分かった。尾鷲の熊野古道の石畳は多雨地帯ゆえに道を保護する目的で多方面に亘って敷き詰められている。ここでは部分的というところに著者の注意深さが伺える。
今となっては約400年の歴史の変遷で改修されたり破壊されて道の形は部分的にしか残っていない。それでも古きを訪ねるのはノスタルジアであろうか。
殿様街道下調べ① ― 2025年01月04日
元旦の山歩きで偶然に知った殿様街道をネットで調べると殿様とは徳川義直が鷹狩で出かけた定光寺の豊かな自然が気に入ってここに墓を作れと作らせた。山路だが生活道路でもあったという。
今日は1/2に行ったばかりの尾張旭市の一角に残る殿様街道の案内板を見に行った。その後、森林公園を通りながら瀬戸市へ越えて、中水野の東光寺からの山岳古道への道筋を調べた。奥が行き止まりで入り口までは行けなかった。この先が入り口で石畳の道へ続く。そして石坂峠に登る。そこからは丸根山を経て、東海自然歩道に合流し定光寺へ良い道があるはずである。
別の機会に『瀬戸市史』や『尾張旭市史』などをチエックしてみたい。
今日は1/2に行ったばかりの尾張旭市の一角に残る殿様街道の案内板を見に行った。その後、森林公園を通りながら瀬戸市へ越えて、中水野の東光寺からの山岳古道への道筋を調べた。奥が行き止まりで入り口までは行けなかった。この先が入り口で石畳の道へ続く。そして石坂峠に登る。そこからは丸根山を経て、東海自然歩道に合流し定光寺へ良い道があるはずである。
別の機会に『瀬戸市史』や『尾張旭市史』などをチエックしてみたい。
みよし市立中央図書館へ ― 2024年12月24日
高山正之『弁護士が怖い!』(文春文庫)を閲覧する目的でみよし市の図書館を再訪した。先週にも来たら当該の本は貸出中となっていてがっかりだった。今回はWEBから返却されたことを確認してから行った。
受付で閉架図書を請求した。以前に読んだことがある内容だった。アメリカの弁護士事情である。
アマゾンや日本の古本屋でも古書の在庫は無かったから愛知県の横断検索で調べてつるまいとみよし市にあることを知った。つるまいが近いが地下鉄で乗り降りが面倒なのと大きな図書館は時間がかかる。みよし市なら約11km余り、30分のミニドライブになる。それに今回はR153ではなく、裏道を走った。こっちは民家の間を抜けるから旧道であろう。
こじんまりとした良い図書館である。利用する人も少なめで使いやすい。日進市立図書館は利用者が結構多く、Pも満車で入れないことがある。たまには来ても良い。帰路はイオンみよしに買い物に寄った。豊田市内にはない大型店舗でPは満車だった。豊田市を含めた名古屋市東部の住民の年末やクリスマスの需要で旺盛な消費を担う中核店舗である。
受付で閉架図書を請求した。以前に読んだことがある内容だった。アメリカの弁護士事情である。
アマゾンや日本の古本屋でも古書の在庫は無かったから愛知県の横断検索で調べてつるまいとみよし市にあることを知った。つるまいが近いが地下鉄で乗り降りが面倒なのと大きな図書館は時間がかかる。みよし市なら約11km余り、30分のミニドライブになる。それに今回はR153ではなく、裏道を走った。こっちは民家の間を抜けるから旧道であろう。
こじんまりとした良い図書館である。利用する人も少なめで使いやすい。日進市立図書館は利用者が結構多く、Pも満車で入れないことがある。たまには来ても良い。帰路はイオンみよしに買い物に寄った。豊田市内にはない大型店舗でPは満車だった。豊田市を含めた名古屋市東部の住民の年末やクリスマスの需要で旺盛な消費を担う中核店舗である。
短日や街に電飾華やかに 拙作 ― 2024年12月18日
丸の内の事務所から久々に丸善に行く。名古屋銀行本店で記帳を済ませて錦通りに出て、左を見るとあれ!という景観が広がっていた。
しばらく見ぬうちに元有ったホテルの解体中は囲いでみえないままだったが今日はそれが取り払われて駐車場になっていた。その向こうには建設中の高層ビルが高々と見える。
広小路に出て丸善へ行く。買い物を済ませて大津通に出るとイルミネーションで飾られている。いつもながら華やかな演出である。そこから栄の建設中のビルが見えたがすでに夕闇が迫りつつある。短日の名古屋の街は逆にネオンや電飾でにぎやかになってゆく。
肝心の、丸善は6階7階にテナントが入居したせいで、地下1階から5階までになり、本の収納も展示が変わり、探しにくくなった。特に地下1階の文庫、新書類の総合的な展示は探し易くて良かったのに3階に移って、ごちゃごちゃになった。専門書類も分かりにくい。慣れかも知れません。というわけで、同じ丸善グループのジュンク堂へ移動しました。
しばらく見ぬうちに元有ったホテルの解体中は囲いでみえないままだったが今日はそれが取り払われて駐車場になっていた。その向こうには建設中の高層ビルが高々と見える。
広小路に出て丸善へ行く。買い物を済ませて大津通に出るとイルミネーションで飾られている。いつもながら華やかな演出である。そこから栄の建設中のビルが見えたがすでに夕闇が迫りつつある。短日の名古屋の街は逆にネオンや電飾でにぎやかになってゆく。
肝心の、丸善は6階7階にテナントが入居したせいで、地下1階から5階までになり、本の収納も展示が変わり、探しにくくなった。特に地下1階の文庫、新書類の総合的な展示は探し易くて良かったのに3階に移って、ごちゃごちゃになった。専門書類も分かりにくい。慣れかも知れません。というわけで、同じ丸善グループのジュンク堂へ移動しました。
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