俳句に詠まれた伝染病ー感染を怖れて居れずコレラ診る(幸野梨枝)2020年03月08日

 虚子編『新歳時記』(昭和9年)と稲畑汀子編『ホトトギス新歳時記』(昭和61年)の両方ともにコレラは採用されています。ほぼ踏襲されています。コレラ、赤痢、瘧(ぎゃく、マラリアのこと)、霍乱(かくらん、くわんらん、急性胃腸カタル)など。
”遠巻きにコレラの掲示読んでおり(林とくろ)”

”感染を怖れて居れずコレラ診る(幸野梨枝)”
・・・この人はたぶん医師か。今も毎日コロナウイルスの感染者の治療に当たる医師たちがいる。

”赤痢出て野崎参りも絶えにけり(森川暁水)”

”霍乱の手にはなたざる手綱かな(前田普羅)。
・・・健康な人が病気にかかるのを鬼の霍乱というがこれが由来。

 ちなみに戦前の虚子編には「コレラ菌により発病する伝染病をいう。病勢激烈でこれに罹るときは頻繁に嘔吐、下痢を起こして忽ち衰弱し、高率な死亡率を示す。印度から中国を経て我国にも伝わることがあり、多く夏から秋に発生する。コレラ船はコレラ患者の発生した船。夏期はこの種の伝染病予防のため海外からの航行船に対して厳重に検疫を行う」とあります。

「百名山を楽しむ」・・ ・山小屋も楽しい文学の山 (八ヶ岳)...2020年02月22日

中部経済新聞 2/22(土)発行
 本文にある白駒荘は2013年の夏に泊まった後、2017年12月31日に火事で焼失し、2018年10月に再建したそうです。八ヶ岳は本当に営業小屋が多く、小屋ヶ岳というあだ名もついている。おととし泊まったしらびそ小屋の雰囲気も良かった。自然の中に溶け込んでいる。

涼感!八ヶ岳山麓
http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/08/26/6959282
北八ヶ岳のしらびそ小屋に泊る
http://koyaban.asablo.jp/blog/2018/12/22/9016038

 それでいて山岳遭難も多いのは初心者が小屋があるからと、なんとなく入山するからでしょう。よく登山入門の山とか初心者向きの山とかのレベルで評価するが、気象に関しては初心者向けに手加減してくれるわけではない。やっぱり3000m級の山々は危険がいっぱいである。

「人気の「冬期の八ヶ岳連峰」、危険性もしっかり把握しておこう 島崎三歩の「山岳通信」 第179号」
https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=938
・2月10日、八ヶ岳連峰赤岳で、仲間と5人で入山した53歳の男性が、赤岳の山頂付近で疲労及び体調不良により行動不能となる山岳遭難が発生。男性は山小屋職員により救助された。
・2月14日、八ヶ岳連峰阿弥陀岳で、家族と2人で入山した51歳の男性が、摩利支天沢をアイスクライミング中に滑落して負傷する山岳遭難が発生。男性は静岡県警ヘリで救助された。
・2月16日、八ヶ岳連峰赤岳で、仲間と2人で入山していた60歳の男性が、地蔵尾根を下山中に転倒して滑落、負傷する山岳遭難が発生。男性は茅野警察署山岳遭難救助隊及び諏訪地区山岳遭難防止対策協会救助隊により救助された。

 昨年夏の北ア・ジャンの撤退は脚力不足ではなく、心肺機能の衰えと自覚した。今年は長時間歩行だけではなく、2000m以上の山に月1回は登って心肺機能を鍛錬したい。八ヶ岳も地図を眺めると主稜線をたどっただけだった。枝尾根には未踏の2000m峰がいくつもある。既知の山と未知の山をつないで歩いてみたいと思う。
※お詫びと訂正:加藤文太郎の泊まった赤沢鉱泉は夏沢鉱泉の間違いと気が付きました。校正、推敲していているんですがそのまま通ってしまいました。お詫びして訂正します。

積読から捨本へ2020年02月19日

 枕元に山積みの本。すでに収容能力をオーバーしたので目に届かないまま積読にする。同じ本をうっかり2冊も買ったことが分かった。明日から、いや以前から山岳雑誌を捨てようと思いながら中々捨てられない。暇はあってもだ。
 枕元を整理するには出すか、書棚を増設するしかない。手作りで作るのも一案だが不要になった際はゴミになる。思えば昔の人はこんなにも本なんて持たなかっただろう。デジタルと言われ紙が減ると言われながら、減らない。デジタルは心もとないからやはりもの(本)が信頼できる。たしかに新聞雑誌の売り上げ数は減ったらしいが。
 しかし、本も雑誌・新聞も安い。寿命も短い。知的労働者(記者、作家、編集者、校正者ら)が長時間労働で作り上げた作品も短時日のうちに捨てられる。さらに言えば雑誌などは10年経過してから読み直すと史料になる。当時は無関心で見落とした記事にも目が留まる。へー、そうだったのか、と。取っておいてよかったという思いがある。だから捨てられない、となる。
 自分の余命は平均的には後10余年。そう考えると気は軽い。さらに読書する気力を維持できるのもそんなに長くはなさそうだ。なんだか寂しい話だがリアリズムである。

宮本常一『忘れられた日本人』より 「対馬にて」2020年02月01日

 対馬に関していろいろな本を読んでみたが、「忘れられた日本人」の中の以下の文は対馬は純然たる日本の村の風景と思える。沖縄はまだ行ってみたことはないが伝えられる写真など見てもいかにも中国風なのである。だから朝鮮に近い対馬は日本の中の異質な風景か、との先入観は実際に行ってみて打ち砕かれた。そしてこんな民俗学の走りのような文にもそれは伺える。防人の万葉歌に見る如く1400年もの昔から日本はこの島を死守してきたのだった。
 それが今、韓国人にちょっと土地を買われたからといって大騒ぎするまでもない。韓国が南下したらそれこそ日韓戦争になるだろう。あの美しい島を何とか守ってゆくにはどうするのか、考える時期が来たのである。
 ちなみに5万図の地形図を読んでも谷名になっている。沢名は一つもないので明らかに西日本の地名である。縄文時代からここは日本だったのである。大陸の文明を受容しながら例えば稲作、精錬などの技術を取り込んだ地域から弥生文化になったのではないか。そしてそれはほぼ愛知県でぴたりと止まった。対馬のように弥生文化になじまなかった地域が残った。
 対馬の緯度は東へ移すとほぼ東海地方で止まる。ここらが照葉樹林文化の東限だった。実際伊勢志摩などは対馬の植生の風景と似ている。伊勢といえば対馬には必要以上に神社が多かった。神道の島ともいえる。仏教は外来、神道は日本古来の信仰である。対馬は古代のままの日本の原風景なのかも知れません。

ソース:http://www1.ttcn.ne.jp/makime/mypage/1306/0630/tusimanite.html

            寄りあい

 伊奈の村は対馬も北端に近い西海岸にあって、古くはクジラのとれたところである。私はその村に三日いた。二目目の朝早くホラ貝の鳴る音で目がさめた。村の寄りあいがあるのだという。朝出がけにお宮のそばを通ると、森の中に大ぜい人があつまっていた。私はそれから、村の旧家をたずねていろいろ話をきき、昼すぎまたお宮のそばを通ると、まだ人々がはなしあっていた。昼飯もたべないではなしているのだろうかと思って、いったい何が協議せられているかに興をおぼえたが、その場できいても見ないで宿へかえり、午後区長の家をたずねた。区長はまだ若い人で寄りあいの席に出ており、家にはその父にあたる老人がいた。この村で区長をつとめるのは郷士の家の戸主にかぎられており、老人も若いときには区長をつとめていた。明治以前には下知役(げちやく)とよばれる役目であった。百姓は農中とか公役人とかいい、その代表は江戸時代には肝煎(きもいり)とよばれていたが、明治以後は総代といった。区長と総代がコンビになって村のいろいろの事をきめていくのである。

 さて私は老人からいろいろ話をきいている間に、この村には古くから伝えられている帳籍があり、その中に区有文書がはいっていることを知った。そこでそれを見せてくれないかとたのんでみると、自分の一存ではいかぬという。帳箱には鍵(かぎ)がかかっており、その鍵は区長が保管しているが、総代立ち会いでないとあけられないという。それでは二人立ち会いの上で見せていただけないかとたのむと老人は人をやって寄りあいの席から二人をよんで来た。事情をはなすと開けて見せる位ならよかろうと、あけてくれた。その夜は宿で徹夜でその主要なものをうつしたが、実は旅のつかれがひどいので能率はあがらない。翌朝になって、
「この古文書をしぱらく拝借ねがえまいか」
と老人の家へいってたのむと、老人は息子にきいてみねばという。きけば今日も寄りあいのつづきがおこなわれていて息子はその席へ出ているとのことである。そしてまた人をやってよんで来てくれた。すると息子はそういう間題は寄りあいにかけて皆の意見をきかなければいけないから、借用したい分だけ会場へもっていって皆の意見をきいてくるといって、古文書をもって出かけていった。しかし昼になってもかえって来ない。午後三時をすぎてもかえって来ない。
「いったい何の協議をしているのでしょう」
ときくと、
「いろいろとりきめる事がありまして……」
という。その日のうちに三里ほど北の佐護まで行きたいと思っていた私はいささかジリジリして来て、寄りあいの場へいってみることにした。老人もついていってくれる事になった。

 いってみると会場の中には板間に二十人ほどすわっており、外の樹の下に三人五人とかたまってうずくまったまま話しあっている。雑談をしているように見えたがそうではない。事情をきいてみると、村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめには一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろに話しあって区長のところへその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループヘもどってはなしあう。用事のある者は家へかえることもある。ただ区長・総代はきき役・まとめ役としてそこにいなければならない。とにかくこうして二日も協議がつづけられている。この人たちにとっては夜もなく昼もない。ゆうべも暁方近くまではなしあっていたそうであるが、眠たくなり、いうことがなくなればかえってもいいのである。

 ところで私の借りたい古文書についての話しあいも、朝話題に出されたそうであるが、私のいったときまだ結論は出ていなかった。朝から午後三時まで古文書の話をしていたのではない。ほかの話もしていたのであるが、そのうち古文書についての話も何人かによって、会場で話題にのぼった。私はそのときそこにいたのでないから、後から概要だけきいた話は、
「九学会連合の対馬の調査に来た先生が、伊奈の事をしらべるためにやって来て、伊奈の古い事を知るには古い証文類が是非とも必要だというのだが、貸していいものだろうかどうだろうか」
と区長からきり出すと、
「いままで貸し出したことは一度もないし、村の大事な証拠書類だからみんなでよく話しあおう」
ということになって、話題は他の協議事項にうつった。そのうち昔のことをよく知っている老人が、
「昔この村一番の旧家であり身分も高い給人(郷士)の家の主人が死んで、その子のまだ幼いのがあとをついだ。するとその親戚にあたる老人が来て、旧家に伝わる御判物(ごはんもの)を見せてくれといって持っていった。そしてどのように返してくれとたのんでも老人はかえさず、やがて自分の家を村一番の旧家のようにしてしまった」
という話をした。それについて、それと関連あるような話がみんなの間にひとわたりせられてそのまま話題は他にうつった。しばらくしてからまた、古文書の話になり、
「村の帳箱の中に古い書き付けがはいっているという話はきいていたが、われわれは中味を見たのは今が初めであり、この書き付けがあるのでよいことをしたという話もきかない。そういうものを他人に見せて役に立つものなら見せてはどうだろう」
というものがあった。するとまたひとしきり、家にしまってあるものを見る眼のある人に見せたらたいへんよいことがあったといういろいろの世間話がつづいてまた別の話になった。


 そういうところへ私はでかけていった。区長がいままでの経過をかいつまんでひととおりはなしてくれて、なるほどそういう調子なら容易に結論はでないだろう。とにかくみんなが思い思いの事をいってみたあと、会場の中にいた老人の一人が
「見ればこの人はわるい人でもなさそうだし、話をきめようではないか」
とかなり大きい声でいうと外ではなしていた人たちも窓のところへ寄って来て、みんな私の顔を見た。私が古文書の中にかかれていることについて説明し、昔はクジラがとれると若い女たちが美しい着物を着、お化粧して見にいくので、そういうことをしてはいけないと、とめた書きつけがあるなどとはなすと、またそれについて、クジラをとったころの話がしばらくつづいた。いかにものんびりしているように見えるが、それでいて話は次第に展開して来る。一時間あまりもはなしあっていると、私を案内してくれた老人が
「どうであろう、せっかくだから貸してあげては……」
と一同にはかった。
「あんたが、そういわれるなら、もう誰も異存はなかろう」
と一人が答え、区長が
「それでは私が責任をおいますから」
といい、私がその場で借用証をかくと、区長はそれをよみあげて
「これでようございますか」
といった。
「はァそれで結構でございます」
と座の中から声があると、区長は区長のまえの板敷の上に朝からおかれたままになっている古文書を手にとって私に渡してくれた。私はそれをうけとってお礼をいって外へ出たが、案内の老人はそのままあとにのこった。協議はそれからいつまでつづいたことであろう。

 私にはこの寄りあいの情景が眼の底にしみついた。この寄りあい方式は近頃はじまったものではない。村の申し合せ記録の古いものは二百年近いまえのものもある。それはのこっているものだけれどもそれ以前からも寄りあいはあったはずである。七十をこした老人の話ではその老人の子供の頃もやはりいまと同じようになされていたという。ただちがうところは、昔は腹がへったら家へたべにかえるというのでなく、家から誰かが弁当をもって来たものだそうで、それをたべて話をつづけ、夜になって話がきれないとその場へ寝る者もあり、おきて話して夜を明かす者もあり、結論がでるまでそれがつづいたそうである。といっても三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結諭が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理窟をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。

 このような協議の形式はひとり伊奈の村ばかりでなく、それから十日ばかりの後おとずれた対馬の東岸の千尋藻(ちろも)でも、やはり古文書を見せてもらうのに千尋藻湾内四ヵ浦の総代にあつまってもらったことがあり、会議がどれほど大切なものであるかをしみじみ知らされたのである。この四カ浦総代会は四百年以上もまえからつづいているとのことであった。それは四ヵ浦が共同して湾内でイルカをとるようになって以来のことである。四ヵ浦共有の文書を見たいと私がいい出したら、千尋藻の総代が、
「それでは四カ浦総代に使いを立てましょう」
といってくれたので、のんきにかまえて、ただ
「どうもありがとう」
ですましてしまった。ところが使いは小舟にのって湾奥の村の総代の家まで行かねばならない。片道一里はある。申しこんでから三時間ほどたって使いがかえり、他の三カ浦の総代に連絡がついたと知らせてくれた。地図をひろげて見て大へんな迷惑をかけたことに気がついた。

 一時間ほどたって三人の総代が舟できた。それぞれきちんと羽織を着て扇子をもっている。夏のことだから暑いのだが、総代会というのは厳重なものであるらしい。しばらくの間協議がしたいというので、私はその間別の家へ話をききにいっていたら、夜九時頃総代の宅まで来てくれという。いってみると表の間に四人があつまっていて夕はんもたべずに協議していた。さて、
「持ちかえることはゆるされないが丸一日だけお目にかけようということに話がきまりました」
と千尋藻の総代から話があった。その理由は帳面の中には四ヵ浦共有の網での魚のとれ高もしるされており、そういうものが外にもれるといけないからというのである。まことにもっともなことで、
「それで結構です」
と答えると、千尋藻の総代が、帳箱にしるしてある封印をきって蓋(ふた)をあけ、中の冊数をしらべて私に渡してくれた。それからお膳が出て夕飯になった。私もまだだったのでお相伴(しょうばん)にあずかった。折敷膳の漆塗(うるしぬり)の古びたもので、お膳の上には、ご飯に、ズイキの茎の煮たものとナスのつけものがのっている。こういうあつまりには昔からこの程度のふるまいがあるという。さて、食べながら四人からひとしきり昔のイルカとりの話が出たのであるが、おそらく五時から九時までの間の協議というのも、こうした話がつづけられたのであろう。その席にいたとしたら一々書きとめておきたいような話ばかりであったらしい。

 私はその夜もまた徹夜で帳面を写したのだが……そして私にはいささかの悲痛感があったのだが、外はよい月夜で、家のまえは入海(いりうみ)、海の向うは低い山がくっきりと黒く、海は風がわたって、月光が波に千々(ちぢ)にくだけていた。その渚(なぎさ)のほとりで、宿の老婆は夜もすがら夜なべの糸つむぎをしていた。
「月がよいので……」
と月の光をたのしみ、夜風のすずしさをたのしんで仕事をしていた。私は昼間も写しものに追われ、夕方やっと仕事をおえて総代の家へかえしに行き、夜はまた旧家をおとずれて話をきいた。その夜三人の総代はまた千尋藻の総代の家へあつまり、帳簿を帳箱に入れて封印し、夜十二時頃それぞれの浦へかえっていった。私が聞書を終えて、宿へもどると、渚の方で人声がして松火(たいまつ)のもえるのが見えるので、渚まで出てみると、ちょうど総代たちが家へかえるため船にのるところであった。私のために二日ほどたいへん迷惑なめにあわされたわけで、ほんとうに申しわけないことをしたが、総代たちに会食の酒代をといって包んだ金も、
「これは役目ですから」
といってどうしても受け取りもしなかったのだった。船が出るとき
「ご迷惑をかけてどうもありがとうございました」
とお礼をいうと、
「いや、これで私の役目も無事にすみました」
といって月夜の海の彼方へ船をこいでいった。

 こうした話を細々と書いたのは、昔の村の姿がどのようなものであったか、村の伝承がどのような場で、どんな時に必要であったか、昔のしきたりを語りあうということがどういう意味をもっていたかということを具体的に知っていただきたいためであった。

 日本中の村がこのようであったとはいわぬ。がすくなくも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄りあいが古くからおこなわれて来ており、そういう会合では郷士も百姓も区別はなかったようである。領主-藩士-百姓という系列の中へおかれると、百姓の身分は低いものになるが、村落共同体の一員ということになると発言は互角であったようである。
 同じ対馬の北端に近いところで、古文書を見ていたら、三百年近いまえの文書に宗(そう)氏の一族にあたる郷士の家が寄りあいに下男ばかり出すのはけしからぬと非難した文書があった。するとそういう会合に普通なら郷士の旦那(だんな)も出ていって一人まえの顔をして話しもし人の言い分もきかなければならなかったものと思われる。郷士が被官や卒士(そし)を持っておれば、それらの従属者にはずいぶん威張りもしたであろうが、一般村人となれば、別に主従関係はないのだし、寄りあいをサボれば村人から苦惜の出るのはあたりまえである。
 といって郷士と百姓は通婚できなかったり、盆踊りに歌舞伎芝居の一齣(ひとこま)のできるのは郷士に限られていたり、両者にいろいろの差別は見られたのである。差別だけからみると、階級制度がつよかったようだが、村里内の生活からみると郷士が百姓の家の小作をしている例もすくなくなかったのである。そしてそれは決して対馬だけのことではなかった。

 そうなると村里の中にはまた村里としての生活があったことがわかる。そしてそういう場での話しあいは今日のように論理づくめでは収拾のつかぬことになっていく場合が多かったと想像される。そういうところではたとえ話、すなわち自分たちのあるいて来、体験したことに事よせて話すのが、他人にも理解してもらいやすかったし、話す方もはなしやすかったに違いない。
 そして話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんなが考えあい、最後に最高責任者に決をとらせるのである。これならせまい村の中で毎日顔をつきあわせていても気まずい思いをすることはすくないであろう。と同時に寄りあいというものに権威のあったことがよくわかる。

 対馬ではどの村にも帳箱があり、その中に申し合せ覚えが入っていた。こうして村の伝承に支えられながら自治が成り立っていたのである。このようにすべての人が体験や見聞を語り、発言する機会を持つということはたしかに村里生活を秩序あらしめ結束かたくするために役立ったが、同時に村の前進にはいくつかの障碍(しょうがい)を与えていた。

吉田絃二郎の文学碑『島の秋』2020年01月31日

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吉田絃二郎(1886~1956)の生涯から

    対馬時代 兵役期 (1906-1908 年)
 念願の早稲田大学文学科に入学するが対馬要塞砲兵大隊に入隊。国境の孤島での兵役生活をおくる。
明治 36 年佐賀工業学校卒業後、佐世保海軍工廠に働くが 38 年1月・向学心に燃える絃二郎は貧苦の中上京を決意し、ついに早稲田大学第二高等予科に入学。39 年9月待望の早稲田大学文学部入学。同年、徴兵検査の結果甲種合格。12 月1年志願兵として対馬要塞鷄知砲兵大隊に入隊。
 つづいて、41 年見習士官として重砲兵大隊に入る。陸軍砲兵少尉任官。国境の地対馬の練兵は激しかったが、生活は安定し幸福な時代であった。ただ、夜となく昼となく寒い朝鮮風が吹き荒れて、山は鳴り海は吼える玄海の孤島での日々は、度々郷愁に取りつかれることもあったが、これを慰めてくれるのはアルバイト先の東京神田の設計事務所で知り合った女性、後の明枝夫人からの便りや慰問の品々であった。
 後に、文学者として確乎たる位置づけをした短編小説「磯ごよみ」・「島の秋」はここを舞台としたもので、昭和 32 年上見坂公園内に、島の秋文学碑が建立され、対馬の人々の絃二郎に寄せる真情が窺われる。
■「島の秋」・・・自作について 絃二郎
 「対馬の兵営生活時代に、漫々たる玄海の波を眺め日から日、夜から夜と孤島の山の背をたどりながら行軍をつづけたころ感じた島の印象を叙情詩的な気分で描いてみようと試みた。」 私は、解剖のメスを持つ科学者の眼で人生を見ないで、直感の境に於いて自然と瞑合する詩人の心を持って人生を見たい。
 この心から出発して静観した私の人生はいつも死と悲哀と流転の相を背景として、刹那より無限に暗い一路を辿っているものであった。
以上
 対馬の地政的な経緯と吉田の動きを時系列に並べてみた。対馬の要塞化の経緯が分かる。吉田は山歩きも好きだった。山の随筆も残している。これも『日本風景論』の影響である。同時代の文人に俳人・前田普羅がいる。山岳俳句で一世を風靡した。友人には俳人・飯田蛇笏も要る。吉田、前田、飯田は偶然だが早稲田大学英文学の出だった。大正昭和の激動の時代の空気を一杯吸いながら文学に生きた。

明治23年 有明山の一等三角点選点
明治24年 御岳の一等三角点選点
明治24年 観音岳の一等三角点選点
*対馬の五万分の一の地形図作成のための三角点測量がはじまった。
明治27年 志賀重昂『日本風景論』発刊
*約15年間のロングセラー、15刷を重ねた。
明治32年 要塞地帯法制定
明治37~38年 日露戦争
明治38年 日本山岳会設立
明治39年 吉田絃二郎 早大に進学
明治39年 吉田絃二郎 志願兵として対馬に入営
明治43年 朝鮮併合
大正元年 五万図「厳原」等測量
大正5年 『島の秋』を早稲田文学に発表

吉田絃二郎『島の秋』2020年01月30日

 年末年始の対馬の山旅で、白岳の帰りがけに上見坂公園に立ち寄り、吉田絃二郎の文学碑を見た。帰名後対馬が舞台の『島の秋』を読んだ。大正5年(1916)の作品であり代表作になった。静謐な対馬の情景が浮かぶ小説です。小説の舞台のアンチモニーの鉱山と佐郷という地名がでてきますが、多分架空です。実在の白岳の山も登場します。また620mの三角点も登場しますが架空です。これは兵隊として対馬の稜線を縦走した体験から得たのでしょう。明治20年代は一等三角測量が行われた。ちなみに有明山は明治24年です。佐郷は厳原町かも知れません。
 対馬観光物産協会の売店で『つしまっ子 郷土読本』(対馬市教育委員会)を購入。読むと対馬は日本で最初の銀山があったところでした。アンチモニは銀山か。またP83には要塞云々の石標の写真があります。これこそ白岳2等三角点の南の鞍部で見たものと同じです。そして要塞地帯法という法律があり立入禁止だったようです。すると吉田が見た三角点は白岳だったかも知れない。ちなみに対馬の600m超の山は648mの矢立山しかない。対馬の銀山は厳原町樫根にあった。少し東に白岳から流れる日田川が合する。最後の場面では峠越えがありますが、実際は佐須峠(390m)を越えて厳原港へ出たと思われる。
 小説には炭焼きも登場する。白岳へは道のない谷を遡行したが炭焼き窯址をいくつか見た。エネルギー源として木炭に依存していたことは疑いない。

ソース:http://sybrma.sakura.ne.jp/171yoshida.shimanoaki.html
「小さな資料室」からコピー

       島の秋        吉田絃二郎

「淸(せい)さん一時(いつとき)俺が持たう。」
 でつぷりと肥つた五十恰好の日焦(ひや)けのした男は前に歩いてゐる色の蒼白い若者に聲をかけた。
「なあに、親方重くも何ともありませんから……」
 淸さんと呼ばれた若者はかう言つて肩にしてゐる振り分けの荷物をもう一方の肩にかへた。前の方の荷は四角な木の箱を白い布で巻いて、さらにその上を人目に立たないやうに鬱金(うこん)の風呂敷でつゝんであつた。後の方の荷物は蔓(つる)で編まれた籠(かご)で、中には鏨(たがね)や鎚のやうなものが、飯盒(はんがふ)や二三枚の着物といつしよにごつちやにして入れられてあつた。誰の目にもこの島の海岸のアンチモニー鑛山の工夫だといふことは一目で察せられた。二人はともすれば、だんまりこんで歩いた。
「これなら尚少(もうすこ)し遲く發(た)てば宜かつたのう。」
 親方は黑く煤(すゝ)けたパナマを脱いで、汗を拭いてちよつと太陽をかざしながら言つた。八月末の午後の太陽はこの島國の嶮(けは)しい山々の背を照らしてゐた。泥炭の屑のやうにくだけた山の背の道は、十日に一人か二十日に一人の旅人(たびびと)を迎へるだけで、野茨(のいばら)や木莓(きいちご)が兩側から道を掩うてゐた。岩に反射した太陽の熱はぎらぎらと照りかへして幾度かこの二人の旅人を眩ますやうにした。
「しかしこの山だけは太陽(ひ)があるうちに越しませんと難儀ですからなあ。」
 淸さんはかう言ひながら滴るやうな水々しい木莓の實を口に入れた。
 冬の海の風をまともに受けて幹の途中からぷつゝりと斷ち切られたやうな櫟(くぬぎ)の林が、帶のやうに山の腰をめぐつてゐる森林帶を通り越してからは、山は一面の芝草(しばぐさ)に埋められてゐた。釣鐘草のやうな形の藤紫の花や、チウリップに似た紅い花や、草菖蒲(くさあやめ)が一面に高原を埋めてゐた。
「今日は朝鮮の山がよう見えるぞなあ。」
 淸さんの後から隨(つ)いて歩いてゐた親方は草の上に腰を卸して、煙管(きせる)をぽんとはたいた。黑い海と白い波を越えて夕陽(ゆふひ)を受けた南朝鮮の山々が、赭(あか)ちやけた尾根(をね)の輪郭をくつきりと水淺葱(みづあさぎ)の空に投げかけてゐた。
「沖は大分荒れてるやうですねえ。」
「あゝ白い波頭があねえに見えるぢやのう。」
 二人はまた歩き出した。遠い谿(たに)の底で蝉の聲が聞えた。秋らしい風が高原の草花の上を滑つて吹いて來た。道は今までの嶮(けは)しさに引き替へて山の背から山の背へと緩(ゆる)やかな傾斜をもつてつゞいた。
「あの三角柱(かくちう)ぢやつたのう。」
 親方は山の背の鞍部(あんぶ)を一つ越して向うの山の背に立つてゐる測量基點の三角柱を指さして言つた。
「えゝさうでしたね……」
 淸さんも向うの山の背の三角柱を眺めた。二人はそれつきり何(なん)にも言はないでまた歩みをつゞけた。親方にも淸さんにも新しい色々な寂しい思ひ出が湧いて來た。
「姐(ねえ)さんがあすこに立つて待つてるかも知れない。」
 淸さんは不圖かう想つた。それでも二三歩あるいてゐる間に淸さんは肩にしてゐる骨甕(こつがめ)のことを想つた。淸さんは寂しい絶望と悲しさとを感じた。
「あすこぢやつたのう、お菊のわろがもう歩けんというたのは……」
 親方には四五年前内地からこの島に渡つて來た時、同じこの山の背を傳うて歩いてゐた折のことが想ひ出された。自分の背に負ぶつてゐた男の子のことまでもが浮かんで來た。その男の子は鑛山に着いて間もなく死んだ。
 妻が草鞋(わらぢ)に足を喰はれて淸さんの肩に負ぶさるやうにして山を下つて行つたことなどを考へてゐると、親方は寂しいうちにも吹き出したくなつて來たりした。
「でも何もかもわやぢや。」
 親方は淸さんの肩の骨甕を見まいとしたが駄目であつた。
「淸さん、代らう……」
 親方はかう言つて淸さんの肩の荷に手をかけようとした。
「親方、何でもないんですから……」
 淸さんは逃げるやうにして親方の手を放した。
 二人はまただんまりこんで歩いた。
 樹の株をころがしたやうな黑い石が段々に重なつて道を塞(ふさ)いでゐた。やがて道はすつかり草に掩はれてしまつた。
 二人は一直線に三角柱を目あてに谿をのぼつて行つた。
「淸さん……」
「親方……」
 二人は時々深い草のなかに影を見失ふことがあつた。かちかちと後ろの籠のなかの道具がぶつ突かり合ふこともあつた。ごとごとと前の荷の骨甕が搖れるたんびに寂しい音を立てることもあつた。淸さんにはたゞ一人で何時までも草のなかを掻き分けて寂しい穴の底にはいつて行つてゐるやうにおもはれた。そして二度と太陽や人の顔や人の聲のない暗い世界にたつた一人ではいりこんで、泣けるだけ思ふ存分泣いて見たいとおもつたりした。
「淸さん……」
 淸さんは親方の聲を聽きながらもわざと聞えぬ振りをして應へなかつたこともあつた。それでも草を掻き分けてゐる音がしばらく絶えると淸さんは自分から親方を呼んだ。
「この邊であつたらう……」
 灰のやうな白い細かい苔につゝまれた岩を滑りながら淸さんは想つた。淸さんの心にもその折のことがはつきり浮かんで來た。
 男の子を背負つた親方はずんずん先きになつてこの山を下つて行つたのであつた。姐(ねえ)さんを負ふやうにして山を下つた淸さんはなかなか急いで歩けなかつた。二人は幾度も深い草のなかに道を失はうとした。姐さんのほてつた頬がすれすれに淸さんの頬に觸(ふ)れた。上氣したやうな姐さんの頬はやつともの心を覺えたばかりの淸さんの心にもたまらなく美しいものゝやうにおもはれた。姐さんの手を引いてゐながらも淸さんは幾度も女の柔かい手を意識した。
「淸さん、もう妾歩けない。二人で死んぢまひませうか。」
 姐さんは苦しいなかにもかう言つて笑つた。淸さんは女の手を握つて默つて山を下つて行つた。
「親方……」
 淸さんは急に親方を呼んで、どこかで「こつちだこつちだ……」と呼んでゐる親方の太い聲が聞えた。
「標高六二〇米三……」
 淸さんは讀むともなしに標柱に刻(きざ)まれてある文字を讀んだ。日蔭になつて黝(くろ)ずんだ白嶽(しらたけ)が、長い鋸形(のこぎりがた)の影を重なり合つた幾つもの低い山の背に投げかけてゐた。そこからはまた白嶽の背を越して銀のやうな海が空とひたひたになつてゐるのが見えた。
「あの海のわきが鑛山(やま)だ!」
 親方も淸さんもさう思つた。けれども二人ともお互に口に出すことを怖れた。鑛山は二人にとつては餘りに寂しい思ひ出の地となつてゐたから。
 炭を燒く白い煙が紫に煙つた谿底(たにそこ)から上つては海の方へなびいてゐた。
「佐郷(さがう)までは尚(も)う二里もあらうかのう?」
「さうですなあ……」
「佐郷の手前に行きや大(おほ)けな河があるで、思ふ存分體(からだ)拭いて行かう。」
 二人は離れ離れに歩いた。また沈默がつゞいた。重なり合つた山と山との間に深い暗影をつくつて日の光りは衰へて行つた。麓の谿々には深い霧が漂ひ始めた。淸さんは歩くのもいやになつた。急に亡くなつた姐さんのことがいろいろに想ひ出された。
「なぜ姐さんはあのやうに急に亡くなつたのであらう?」
 十三の歳はじめて淸さんが親方の家に伴はれて來た時は、姐さんは二十一か二で、親方とは親子ほど年がちがつてゐた。淸さんは子供心にも美しいやさしい小母さんだとおもつた。姐さんもまた淸さんを自分の弟か何かのやうにおもつて可愛がつた。
「錦絲堀知つてて? さう、曳船(ひきふね)も……」
 姐さんには娘のころ發(た)つて來てしまつた東京の町外れが懷しかつた。親に死に別れたといふこと、同じ東京に生まれたといふことまでもが姐さんには二人を結びつける何かの因縁であるやうにおもはれた。そのころ姐さんは親方と一緒に山陰道の雪深い海岸にゐた。親方はそのころから夏から秋にかけて海に出て、潜水機械をつかつては鮑(あはび)を取つた。姐さんと淸さんは何時(いつ)も喞筒(ポンプ)のハンドルを動かすのが役目になつてゐた。親方は潜水服を着て海のなかに下げられた梯子(はしご)に足をかけた。
「こればかりは身内の者にして貰ふと安心ぢやからのう。」
 姐さんと淸さんが重い冑(かぶと)を親方に冠(かぶ)せるとき親方は克くかう言つて笑つた。そして喫(の)みさしの煙草を靜かに水の面に捨てた。淸さんは冑を冠せて捻子(ねぢ)をしめた。姐さんは靜かに空氣喞筒(ポンプ)のハンドルを動かしてゐた。怪物のやうな黄銅の冑や、ゴムの赤い潜水服が見えなくなつてからは時折りぶくぶくと水の泡が船の周圍に音を立てゝ浮かんだ。姐さんは大阪で覺えたといふ唄などうたふこともあつたが、大抵は默つて機械的に手を動かしてゐた。
 冬の海が荒れて仕事ができなくなると、親方は鑿(のみ)や鶴嘴(つるはし)を擔いで、雪深い銀山の仕事に出かけた。親方の家には何時も五人や六人の男たちが親方を頼つて厄介になつてゐた。男たちも親方について銀山に行つた。淸さんだけはまだ姐さんと一緒に海岸の家にのこつてゐた。雪の深い夜、戸外には風の聲もしない靜かな夜、淸さんは榾(だた)の火が滅(き)えるまで姐さんと東京の話をした。
「妾東京に歸つたつて家もないんだけど、奉公したつて良いから歸つて見たい。」
 榾火(ほだび)が滅(き)えてしまつてからも二人は灰を掻きまぜた。そのたんびに小ひさな火がのこつてゐて二人の顔をちよつとの間紅く照らした。
 雪解(ゆきげ)の滴れが時たま軒をすべるのがばさと仄(ほの)かな音を立てゝ雪のなかに滅えた。夜更(よふ)けてからきまつて丹波行きの馬車がぽうぽうと喇叭を吹いて雪のなかを通つて行つた。
「こんな家から逃げて東京にかへりたい……」
 姐さんは戸を明けて眞つ白な雪の町を見た。
 黑い海と暗い空には限りもない星がまたゝいてゐた。姐さんにも淸さんにも明るい大都会が耐らなく戀しかつた。
「おつ母さんだつてあるにはあるんですよ。しかし父が早く亡くなつたものですから……妾が大阪につれられたのもほんとは賣られたやうなものなんですよ。それをまたこゝの親方が貰ふことになつたのです。」
 姐さんは雪の夜など克(よ)く淸さんに話した。姐さんはまだ夫婦といふものがどんなものだか、男といふものがどんなものだか少しも知らない間に親方に貰はれたのであつた。
 母につれられて里(さと)にかへつてゐたころも姐さんの母親は「この子さへなかつたら」と言つては何かにつけ姐さんに辛くあたつた。姐さんは子供心にも早く母親のところから出なければならない、それが母親を安樂にさせる方法だと考へた。母親は姐さんを捨てるやうにして再縁した。
「この家さへ出たら仕合せがあるにちがひない。」
 姐さんは大川端の倉の窓から、濁つた大川の流れをながめながら幾度もさうおもつた。
「母が尚(もう)すこし温かな心をもつてゐましたら、こんな家に買はれるやうにして來ることもなかつたのですに。」
「しかしおつ母さんだつて、あなたを不仕合せにさせるつもりではなかつたでせう。」
「母だつて、叔父の家に母子(ふたり)で厄介になつてるのは苦しかつたにはちがひないんですけれど……」
 この島に來てからも二人は克くこんなことを話し合つた。
 何處(どこ)の鑛山に行つても、漁場に行つても姐さんは直ぐに若い人々の間の噂の中心になつた。誰れも彼れも親方ほど仕合せな男はないと言つた。それでも親方は酒をあふつては料理屋(ちやや)から料理屋へと夜を更かすことが多かつた。
 雪の深い山陰道からこの島に移つて來るとき姐さんは身重であつた。それでもこの島に着いて間もなく親方は姐さんの横腹を蹴つたのでおなかの子は流れてしまつた。
 親方はその日佐須奈(さすな)の町に行つて、大漁目當(めあ)てに内地から渡つて來てゐた女と、一日遊んで歸つて來たのであつた。
「きさまは亭主が他の女を買うても口惜しいとは思はぬか、きさまはあはうぢや。」
 親方は姐さんの親切や眞心(まごゝろ)を信じてゐた。けれども親方は何時も姐さんとの間に一枚のへだたりを感じてゐた。姐さんは一度でも夢中になつて親方に何(ど)うするといふことはなかつた。
「お前はやきもちといふことを知らんのか?」
 親方は酒を飲んではかう言つた。親方はもつともつと姐さんにやいてもらひたかつたのであつた。けれども姐さんはつひぞ嫉妬といふことを知らなかつた。
「いくらでも酒を飲まして置いた方が宜いのよ、うるさくなくつて!」
 姐さんはかう言つては幾らでも親方に酒を飲ました。
「妾だつてこの家に來たころは男といふものを大事にしようとおもつたんですよ。けれど今ではそんな面倒くさいことはいやになつちやつたの。」
 男の子が死んでからこつち姐さんの心は一層すさんで行つた。
「人間てものは振り出しが大事ですわねえ。振り出しが惡けりや一生うだつは上りませんよ。」
 姐さんは克(よ)くかういふことを言ふやうになつた。
「では、一度振り直して見たら何(ど)うです!」
 淸さんはこの時ばかりは何だか取りかへしのつかぬ惡いことを言つたやうな氣がした。
「えゝ、振り直して見ても宜いんだけれど……こんなことは嘘なのよ。」
 姐さんが笑つたので淸さんはやつと安心した。二度とそんなことを言ふものぢやないと思つたこともあつた。
 男の子が死んだので小ひさな土饅頭(つちまんぢゆう)の墓が濱の松林のなかに積み上げられた。姐さんはヒステリーのやうになつて朝から松林のなかを歩いてゐた。
「死んぢやつた方があの子のためにもましだつたでせう。」
 姐さんは淸さんにかう言つた。
 子供が死んだ頃から親方は大抵家にゐるやうになつた。姐さんは面と向つてはつひぞ親方と諍(いさかひ)などすることもなかつた。親方は自分の娘のやうに姐さんを可愛がつた。
          *
「宜(え)え凪(なぎ)になつたやうぢやのう。」
 親方は沖を見ながら後から歩いてゐる淸さんに話しかけた。黑い潮の上を幾十里の間幾萬とも知れぬ白い帆や紫の帆が動くともなく動いてゐた。島の浦々から夕風を受けて船出する漁船は、まるで巣をはなれた白鳥のやうに、空とも水ともわかぬ縹渺(へうべう)の間を走つてゐた。
「今年は烏賊(いか)は大そう宜(い)いといふことですなあ。」
「さうかも知れんのう。」
 親方は氣のないやうな返辭をして谿底(たにそこ)の方をのぞいてゐた。
「淸さん、流れの音が聞えはせぬかのう。」
 淸さんも立ちどまつて谿の方の音を聽いた。蜩(ひぐらし)の聲が一しきり聞えた。
「こりや、佐郷(さがう)に着きや、とつぷり日が暮れるかも知れんのう。」
 親方は懶(ものう)ささうに歩き出した。二人はまた默りこんで歩いた。
 親方には姐さんの美しかつた眼や、胸や、優(やさ)しかつた心がけや、何時も子供のやうで頼りなかつたいぢらしさなどが犇々(ひしひし)と浮かんで來た。親方は幾度も深い吐息をついた。
「俺にはもうあのやうな世界は二度と來まい。俺はたゞ死ぬる日を待つてるばかりぢや。」
 親方はかう想つた。姐さんといふ女があつたばかりに親方の世界が今日まで意味があつたやうにおもはれた。
「花だつて咲くのは五日か十日ぢやからのう。」
 親方は吐き出すやうに言つた。ほんたうに人間の仕合せな時間といふものもやつぱり一生の間のほんの少(わづ)かの間であるのがあたりまへのやうに思はれた。
 島で一番大きいといはれる佐郷の川原に出た時は日はとつぷり暮れてゐた。廣い川原が白く夢のやうに暗い谿の底を縫ふてひろがつてゐた。
「もうさすがに秋ぢやのう、冷たうてようはいれぬ。」
 親方は頭から肩あたりに冷たい水を浴びながらさう言つた。
 淸さんは荷を磧(かはら)の上に置いて、足を投げ出したまゝ、犬蓼(いぬたで)の上に坐つてぼんやりしてゐた。
「姐さんを火葬にしたのもこのやうな川端の山であつた。」
 淸さんはつひ昨日のやうな氣がした。火葬場といふものゝない島では内地から來た人たちは大抵は土葬にして髮や爪だけを持つて内地にかへつた。親方や淸さんは姐さんの亡(な)き骸(がら)を島の土にするには忍びなかつた。たまに旅の人々が使用する火葬場といふのは川に沿うた小高い松林のなかに、竈(かまど)のやうに掘り下げた窪地であつた。人々は竈のやうになつた窪地に石を疊んでその上に姐さんの棺桶(くわんをけ)を置いた。棺桶の下と上と一面に松の枝を投げかけた。親方や村の人達はしつきりなしにやまねこ(地酒)を飲んだ。火をつけてから間もなく村の人達は歸つて行つた。親方と淸さんは燃え切つてしまふまでゐたが、親方はぐでんぐでんに醉つて、泣き出しては淸さんを困らせた。黑鳥(くろどり)がくつくつと啼いては松林の煙を追うて翔(と)んだ、淸さんまでもがしまひにはそこにあつたやまねこを德利から口づけにあふつた。
          *
 二人が今夜泊ることにして來た江村(えむら)といふ家は村の入り口で聞いて直ぐにわかつた。江村といふ男は海岸で親方の厄介になつた男の一人であつた。この島に來てからも親方は夏から秋にかけては鑛山(やま)から下つて海に出てゐた。そして潜水機を使用して海産物を取つてゐた。江村は鮑(あはび)取りの上手な男であつた。江村の家もこの島によく見る郷士(がうし)の邸(やしき)風な建物で、低い石の塀をめぐらしたり、玄關には式臺見たいなものがくつゝいてゐたりした。江村は暗い奥から出て來た。
「それはまあひどいことぢやしたなあ……そして何時(いつ)亡(な)くなつてぢやしたかなあ!」
 江村は薄暗い五分心(しん)のランプを掻き立てながら訊(たづ)ねた。
「恰度(ちやうど)昨日が四十九日にあたつたのぢやがのう。」
 親方は草鞋(わらぢ)をぬぎながら力ない返辭をした。
「四十九日が間は靈も家の軒をはなれぬ言ひますでなあ。」
 人の善ささうな江村の母親が洗足の水を運びながら言つた。
「それがたいそう急な病氣でものゝ二時間と經たない間に死んだのぢやからのう。」
 親方は淸さんが肩から卸(おろ)したばかりの包みを見ながら言つた。
「正午(ひる)少し過ぎでしたらう、私が濱から歸つて來ると姐(ねえ)さんは冷たくなつてゐたのです。」
「それはまあ……」
「何でも暑いのに戸外に出て張り物をしてゐたといふことぢやがのう。」
「えゝ、私が行つた時にはまだ張り板もそのまゝで、まだ一枚のなんか乾いてもゐなかつたのです。」
「まあ何とか尚(も)うちよつと早かつたら思ふがのう!」
「それで何ちふ病氣ですかい?」
「まあ腦貧血やら、腦充血やらいふものやらう。」
「まあむごいことぢやなあ……」
「いや、みんな人間の因縁ぢやで何うも爲(し)やうない。」
「さうとでもあきらめんぢやなあ……」
 淸さんは風呂敷包みをはゞかるやうにして縁の端に置いたが、江村は無理にとつて床の間に上げた。江村の母親は線香を焚(た)いて拜(をが)んだ。
 江村の家内もそれに出て來てみんなに挨拶した。そしてかの女が引つこんで間もなく酒の用意ができた。
「何もありませんが、今夜はゆつくり泊つて飲んで行つておくれ親方……」
 江村は親方に盃をさした。江村が佐郷川で捕(と)つたといふ鮎(あゆ)やら、海で捕つたといふ魚などが膳の上に並べられた。
 馬糞や秣(まぐさ)の醗酵(はつかう)する臭ひがかすかに漂うて來た。
「それでは内地に歸つて、二度とこつちへお出でにもならんのぢやなあ……」
「子供も亡(な)くす、家内も殺すしたんで、よう居る氣にもなれんからのう。」
 親方は盃を江村にかへした。
「何ですかい、やつぱり故郷(くに)の方へぢやすかい?」
「いんや、故郷いうてはないも同じぢやでのう。まあ内地に着いた上で何處に行くか決めよう思ふんぢや。」
 江村は淸さんに盃をさした。
「あのやうによい姐さんはありませんぢやしたがなあ。」
「俺の口からいふのも妙ぢやが俺にはよすぎとつたかも知れんハハハヽ……」
 親方はちよつと床の間の方を覗いて笑つた。
「さう言やあ姐さんには大分若いやつらはさわいでゐましたよ……なあ淸さん。」
 江村は笑ひながら淸さんの盃を受けた。
「しかし、お菊といふ女はもとさむらひの出ぢやいふのでか、さわがれたりするのがきらひでのう。」
「それで親方も安心ぢやつたのさ、でなけれや親方だつてあのやうな美しい姐さんを放(はふ)り出して鑛山(やま)なんぞにこもれるものかなあ。」
「お菊ばつかりや、あいつは女の石部金吉といふんぢやらうハハハヽ……」
 親方は眼を細くして笑つた。
「淸さん、何うしたのぢや、ちつともいけんぢやないか。」
 江村はぼんやりしてゐる淸さんの盃にさした。
「おい飲めや淸さん、若いもんが……」
 親方までもが盃を淸さんにさした。
「いや、私もう飲めません、疲れたせゐかすつかり醉ひがまはりました。」
「淸さん何いふか、内地にかへりや、これで島のやまねこが戀しいこともあらう。」
 江村は淸さんの肩を抱くやうにして燗德利(かんどくり)を淸さんの前に押しつけた。
「淸さんお前ほど仕合せものはなかつた。あのやうに姐さんに可愛がられて……」
「お菊の奴、淸さんいやあ、まるで血を分けた弟のやうに思ふとつたのでのう。」
「大分淸さんをうらやんでる奴もあつたよ。」
「お前もその一人ぢやつたらうハハハヽヽ。」
 三人が一緒に笑ひ出した。
 親方も江村も大分醉つてゐた。淸さんは縁端に出て涼しい風に胸をはだけた。山と山の間に深く抉(えぐ)られたやうな空は暗かつた。飽くまでも高く、飽くまでも澄んでゐた。限りもない星が暗い淵をのぞいてゐた。
 ことことと秣桶(まぐさをけ)の音がした。若い女たちの澄みちぎつた麥搗(つ)きの唄が、輕い杵(きね)の音に交つて聞えて來た。
「姐さんは何故(なぜ)あんなに早く死んだのだらう?」
 淸さんには姐さんの死が自然でなかつたやうにおもはれたりした。
「女つてつまらないものよ。妾なんか何のために生まれて來たんだかわからない。親にも可愛がられないで、一生ほんたうに誰も頼るものがないんですもの。」
 姐さんは淸さんと二人切りのときしみじみと語つたことがあつた。
「一生のうち、たつた一度で宜い、思ふ存分泣いて見たい、笑つて見たい。」
 姐さんはよくかう言つた。母親につれられて叔父の家に厄介になつてゐた姐さんは、娘のころからどのやうな悲しいことがあつても、顔に出して泣くことはできなかつた。
「この子は何て意地つ張りでせう。」よく叔母はさう言つて姐さんをつねつたりした。それでも姐さんは一度だつて、人の前で聲を立てゝ泣くやうなことはなかつた。親方の家に來てからもさうであつた。一度だつて姐さんは親方の前で泣いたことはなかつた。
「淸さん、何(ど)うしたんでせう。淸さんの前だけでは妾は泣けるやうな氣がしてならないのよ。泣かして頂戴。」
 姐さんはかう言つて眼を赤くしてゐた。
 親方が鑛山(やま)に籠つて海岸に歸つて來ない夜など、淸さんはよく暗の底に啜(すゝ)り上げて泣いてゐる姐さんを見出した。
「眼をさまさしてお氣の毒でしたね。堪忍して頂戴、妾の病氣なんですから。」
 姐さんは子供のやうにすゝり上げて泣いた。
「自分でも分らないんですよ。でも、かう泣けるだけ泣いてしまふと宜いんですよ。妾は昔からかうなんです。」
 親方すら姐さんが人にかくれて泣いてゐたといふことは知らなかつた。
 死ぬ少し前だつた。
「淸さん妾が死んだら、あなたも死んで頂戴。」
 姐さんは冗談に言つたことがあつた。
 つひこなひだであつた。親方が鑛山(やま)から下りて來て、明日から海にはいらうといふので、姐さんと淸さんは潜水機の手入れをしてゐた。
「お菊、空氣筒(ホース)をよく見といておくれ。それが生命(いのち)の綱で、いつち大切ぢやからのう。」
 親方はさう言つて濱の方へ船を見に行つた。
 姐さんはいつまでも空氣筒(ホース)を調べてゐたが、そこには一つの罅(ひゞ)もなかつた。
「淸さん、これで大丈夫だわねえ。」
 淸さんは一應調べて見た。が、そこには何の異状もなかつた。
 翌(あけ)の日、船に乘つてからであつた。姐さんが眞つ先きに空氣筒に小ひさな罅がはいつてゐるのを發見した。
 それでも姐さんは親方には言はないでこつそり淸さんに言つて修理さした。空氣筒は鋭利な小刀(ナイフ)のやうなもので五分ばかり切られてあつた。
「何(ど)うしたんかい?」
 親方は空氣筒を繕(つくろ)うてゐる淸さんの手許を見ながら訊いた。
「少し孔が出來たんです。」
「水にはいらぬ前で宜かつたのう。」
 親方は何でもないと言つた風で煙草をふかしながら、方錐形(はうすゐけい)の木の枠に硝子を張つた覗きで海の底を見てゐた。
「親方も不仕合せな人さ、妾のやうな女を貰つたんですから。」
 親方が潜水した後でハンドルを動かしながら姐さんが淸さんに話した。
 それから四五日經つてからだつた姐さんが死んだのは。
「親方、もう佛さまのおのろけは大概にしてさ、うんと飲まうぢやありませんか。」
 筒拔けた聲を出して江村が今度は大きな椀を親方にさしてゐた。
「飲むとも。」
 かう言つて親方は椀を受けとつた。
 そしてなみなみと注いだ酒を一息に飲みほして、江村にさした。江村もまた一息に飲みほした。
「相かはらずお前もいけるのう。」
 親方はどろんと曇つた眼を瞠(みは)るやうにして言つた。親方の手は顫へてゐた。
「酒を飲むのと、戰(いくさ)するのが昔から島の男のしやうばいぢやつたからなあ。」
 江村はかう言つて床の間を眺めた。
「わしどんが幼(こま)かときは、まだこゝにはちやんと甲冑櫃(よろひびつ)があつたんですが、親父が酒のかはりに賣りこくつたんですたい。」
「お前も手傳うたんぢやろ。」
「いゝや、親父の奴が酒と、それから博多から來とつたじやうもん(美人)に夢中になつてぢやすたい。」
「そいぢや親父さんは戰爭もでけんだつたらう。」
「戰爭したなあ、蒙古(もうこ)が來たころぢやすたい。」
「そいぢや大昔ぢや。」
「うんにや、そいでも島の人間は今でも戰(いくさ)は上手ぢやす。去年もわしどまあ大演習に呼ばれて内地に行つたが、警備隊の兵隊がいちばん宜う働いたですよ。」
「酒飲むことゝ女郎買ふことばかり働くんぢやろ。」
「女郎買ひも働くにや働いた。ばつて柳町のじやうもんは宜(よ)か、あればつかりや内地が宜か。」
 二人の醉漢(すゐかん)は大きな聲を出して笑つた。
 江村のおかみさんが飯をはこんで來たのは麥搗(むぎつ)き唄(うた)も聞えなくなつてからであつた。江村の老人は二三度床の間の線香を立てかへに來た。
          *
 淸さんは何うしても眠れなかつた。酒と山越しに疲れた體中に、鋭い神經がいやが上に鋭く働いた。佐郷川の流れと遠い海の響きが絶え間なく近い山に谺(こだま)した。勝手の方では老人とおかみさんは一目も寝ないで準備(したく)をしてゐた。親方も眠れないので二三度起き上つては水を飲んだ。江村の高い鼾(いびき)のみが夜つぴて絶えなかつた。
「淸さん。それでは夜が明けるまでに港まで出ることにせうかのう。」
 細くしたランプの心(しん)をかきたてながら親方は煙草に火を點(つ)けた。
 おかみさんが來て江村をゆり起した。江村はなかなか覺めなかつた。
「そいぢやどうしてもこの夜なかに發(た)つとですか?」
 江村は眼をこすりながら言つた。
「そいぢや馬にして行きなはれ。」
 老人が庭に下りて親方と江村の顔を見ながら言つた。
「夜の道ぢや危ない。私が港まで行かう。」
「いやそいぢや氣の毒ぢやから、燈(あかり)だけ貰うて行かう。」
 江村は山一つ向うまでといふので、炬火(たいまつ)を持つて先きに立つた。淸さんは荷を振り分けにしてかついだ。
「さよなら……厄介になりました。」
「あい、さよなら……」
 老人と江村のおかみさんは泣いてゐた。そして淸さんの肩の風呂敷包みを拜(をが)んだ。山にかゝるまで江村の家の燈(あかり)だけが白い佐郷川のほとりに見えた。
「良い心持ちぢや。」
 親方は胸をはだけながら冷たい風をうけて、先きに立つて歩いた。滿天の銀河(ぎんが)は秋らしい淸爽(せいさう)の氣に充ちてゐた。
 幾萬と限りもない漁火(いさりび)が玄海を埋めて明滅してゐた。大きな山螢が道を横切つて滅(き)えた。
「こゝいら冬になると鹿が出ますよ。」 
 江村が親方に話した。
「山猫なら今から捕れますよ。あいつは惡い奴で、夜になると鳥の塒(ねぐら)にやつて來るのですたい。」
 親方は疲れたかして幾度も道ばたに腰を卸しては煙草を喫(の)んだ。江村一人がのべつに話しつゞけた。
「淸さん、内地行つたらあんまりじやうもんを泣かせちや罪ばい。」
 淸さんは默つたまゝ歩いた。親方の煙草の火だけが後ろの方で遠く時々明るくなつた。
 嶺(みね)に達したころ炬火は燃え切つてしまつた。それでも山の背は明るかつた。白い道がかすかに靑い草原を縫うて走つてゐるのが見えた。
「それではこれでおわかれとせう……いや、どこまで來て貰つてもはてはないから……」
「それぢやまたどこぞで逢ふこともありませうで。」
「落ちついたら知らせるから……」
 江村の立つてゐる黑い姿が空に投影して久しいこと嶺の上に見えてゐた。
「やまねこにたゝられたと見えて體がだるい。」
 親方はともすればおくれがちになつた。
「淸さん、俺いつとき代つて擔(かつ)がう……」
 淸さんに追ひついては親方がかう言つた。
 二人は何(なん)にも語らないで白い道を歩いた。
「何時までもこのまゝ夜道がつゞけば宜い。」
 二人はさうおもつた。
 ばたばたと二人の跫音が靜かに聞えた。黑鳥(くろどり)がくゝくゝと草のなかを鳴いて走つた。
「親方、あれが港の燈臺でせう。」
 淸さんは立ちどまつて山の裾の方を指さした。そこには暗い山の陰に際立つて明るい火が燃えてゐた。
「もう直きぢや、一休みして行くことにせう。」
 親方は投げ出すやうにして體を草の上に横たへた。淸さんも親方の傍に行つて腰を卸した。草の中の蚊が時折り耳をかすめて飛んだ。
 二人は靑い葉の枝を折つては焚いた。白い煙がくつきりと草原を這うて海の方へなびいた。白い波頭(なみがしら)が山の根を噛んでゐるのが銀の帶のやうに見えた。
「もう東も白んで來るぢやらう。」
 眠さうに親方が言つた。
 二人は限りもない空の星と沖の漁火(いさりび)を見つめたまゝ默りこんでゐた。二人は何時とはなしにうとうとと眠つた。親方の鼾(いびき)が高くきこえた。
 淸さんが眼をさました時には、既う夜はすつかり明けてゐた。海には灰色の帆が限りもなくつゞいてゐた。空はすつかり曇つてゐた。壱岐の勝本の鼻が少(わづ)かにどんより見えるだけで、内地の島影は見えなかつた。
 暗い玄海の面を燻し銀のやうな白い波が、涯もなく流れては、雲や空のなかに滅えて行つた。
 絶望と困憊(こんぱい)とをたゝへた親方の顔の色は土のやうに見えた。親方は他愛もなく眠つてゐた。力ない呼吸と鼾とが土の底から洩れて來るやうにおもはれた。
 淸さんは全身の骨と筋肉とが一つづゝ離れ離れになつたやうに懶(ものう)かつた。
 淸さんはぢつと親方の死人のやうな顔を見つめてゐた。そこには鬱金(うこん)の風呂敷包みが草の上に横たへられてあつた。
 淸さんは子供のやうになつて泣いた。

三河一向一揆・・・研究発表会2020年01月26日

 新城市富岡ふるさと会館で13時30分から同会の研究発表会が開催された。集結したのは約50名と多数。研究発表は2名でどちらもパワーポイントで視覚的に解説されて分かりやすかった。
 テーマは表記の①三河一向一揆の話で講師は中野豊光氏。
 ウィキペディアには「三河一向一揆(みかわいっこういっき)は、戦国時代に三河国の西三河全域で永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)まで半年ほど行われた一向一揆である。」と紹介された歴史的事実である。
 まず一向一揆とは何か、門信徒の勢力の強い教団はどこか、などの基礎的知識を解説しながら核心に迫ってゆく。この事件に関与したお寺を紹介しながら、徳川家康が如何にてこずったか、の興味深いお話でした。家康といえども最初から三河国一円を睥睨したわけじゃない。多大な収益源を確保したお寺は強い。(約10年後の1570年から1574年に織田信長も長島一向一揆で手を焼いた。)
 和議の成立と決裂・・・一旦和議を結ぶが約20年にわたってくすぶり続けた。結果的には追放である。
 またウィキペディアには「この経験により、家康は本願寺教団の力が戦国大名にとって大きな脅威であることを身をもって理解することとなった。これが後世、本願寺教団の分裂に際し、教如を支持する一派(今の真宗大谷派)に土地を寄進して分裂を支持する行動に繋がった」との解説がある。
 中野氏は冒頭の教団の勢力図の解説でも浄土真宗が西本願寺派と東本願寺派とに分裂した話をされたがこれが原因だったのである。
 途中で気が付いたのは、徳川家康の扱い方である。講話中の中野氏が徳川家康で通していることに違和感を持ったのである。
 1 今川氏からもらったのは松平元康
 2 1563年に今川氏から独立後松平家康に改名
 3 1566年、朝廷からの勅許で徳川家康に改める
つまり、三河一向一揆の頃はまだ松平姓であった。
 ウィキペディアは「この一揆は、三河における分国支配の確立を目指した家康に対して、その動きを阻もうと試みた一向宗勢力が、一族や家臣団を巻き込んで引き起こしたものである。その意味では、松平宗家(徳川家)が戦国大名として領国の一円支配を達成する際に、必ず乗り越えなければならない一つの関門であったと考えられる。」と結んでいる。
 お寺への信仰は自由にさせるが自治(不介入権、財力)は抑制させた。この後、家康は東三河平定へと進む。

②は新城城主の本宮山登山の記録を斎藤彦徳氏が語られた。講師の自著である『池田主鈴寛親』(山婦ミ乃記、松山ごゑ記、一の宮満つ理)を現地で購入した。これをテキストに進講した。
 「山婦ミ乃記」とは”山踏みの記録”で要するに三河本宮山の登山記である。新城城主は江戸詰めなので帰郷してのふるさとの探訪記であった。
 書かれた文政元年は1818年。江戸幕府開幕から215年、今から202年ほど前になる。明治維新の50年前になる。文面からは天下泰平の世が偲ばれる。旧暦10月3日は太陽暦で11月半ば、しかし、当時はいくら空気が澄んでいたとしても浅間山が見えたのだろうか。

 原文から引くと
「からうしていたゝきに至れハ、雲をもしのくハかりにて覚えて、四方の山々ハ海原に立浪のやうに見へて其山々の上より遠き国々の海山見へワたる、爰(ここ)にてしはし休らひ給ふ、北の方に甲斐の国・信濃の国の山々見ゆ、右のかたへよりていと高き峯に雲のかゝりたるハしなのなる駒かたけといへる高山なりとそ、雪の色ハ月毛と見へてハるかなる雲井にかける駒嶽もいとはるかに見へて、雲をいたゝきたるハ浅間か嶽也と聞て
  冬ハまた浅間かたけの煙よりつもれる雪をや見やはとかめぬ  」

 意訳・・・辛うじて山頂に立つと、山脈が波涛のように見えた。山山を眺めながら休んだ。北の方には山梨県や長野県の山々が見える。木曽駒ヶ岳が見える。雪がクリーム色に見えた。甲斐駒はもっと遠くに見える。雲がかかるのは浅間山と聞いた。そこで一首詠んだ。
 冬には浅間山の煙より高く雪が積もるのを見たらすごいことだなあ?

 中々の山岳同定である。締めの和歌は『伊勢物語』の換骨奪胎だろうか。

信濃なる浅間の嶽に立つ煙をちこち人の見やはとがめぬ      
                         在原業平

見やはとがめぬ=「やは」は反語の助詞。見とがめないことがあろうか。どうして注目しないことがあろうか。
以上
・・・晴れたら雨生山(うぶやま)から金山を歩く予定だったがあいにく雨で中止した。登山口のみ偵察しておいた。地質的に特異な地域らしいので春か秋の花の時期が良いだろう。

日本山岳会東海支部の『坂の上の雲』探し2020年01月20日

 今日も山岳会関連の会議で支部ルームへ。支部報の次号の編集会議を打ち合わせする。60周年記念事業についても議論が出た。さらに『東海山岳』の60年史の視点を議論。
 昭和30年代のマナスル初登頂で沸騰した日本人のヒマラヤ熱を契機に各社会人山岳会の精鋭アルピニストがプロジェクトチーム的に集結して登山隊を組んでもうまくいかなかった。その教訓から一つの山岳会にまとまろうということになった。先例としてはRCCがあった。社会人山岳会の壁を乗り越えて集まった。それは東海地方にもあったが東京中心より親密な交流が可能な名古屋で集結した末に生まれたのが東海支部だった。
 1961年4月に名大医学部の一室で誕生した。以来10年間はヒマラヤ、南米など海外遠征支部かと訝るほど遠征をこなした。マカルー登頂で一段落すると支部は虚脱感に見舞われて解散の風が吹き始める。解散を阻止して東京のRCCで活躍していた湯浅道男を迎えることになった。愛知学院大学法学部の教員として赴任してきた。以後はガウリなどを制覇して第二の黄金期を謳歌する。
 それが終わったころに国内山行の充実を問う声があがった。私は「奥三河の乱」と言っている。同時並行しながら海外遠征も進行はしたがインドヒマラヤに格下げになった。それでも6000m級の未踏峰を初登頂する機会はあった。これも『インド・ヒマラヤ』(ナカニシヤ出版)に集大成されるほどに達成感が生れた。それ以前に東海地方中心のガイドブックも多数出版した。登山者として思いつくことはみなやってしまった感がある。
 問題は支部にとっての日露戦争以後である。白人の大国に勝利して浮かれていた日本は次の標的探しを始めた。司馬遼太郎は昭和を書かなかった。欧米列強から日本を守る目的は達成した。次はさて?惨めな敗戦国に成り下がる話になるから書きたくないのは当然である。そういう意味で好悪のはっきりした作家であった。
 支部の財政と支部員の安定供給を支えた登山教室も生徒不足で廃校になった。カルチャーセンター経由の登山教室は終わったのだ。すると会員数は漸減するわ、レベルは下がるわである。支部友も向上心のない会員は退会させた。残った会員も登山の第一線からは退くものの現役でいたい意欲のある人は同好会やサークルを結成して余生を楽しんでいる。そして国内は山行委員会、猿投の森づくりの会などが底支えしている。山の楽しみ方の多様化である。いわばダイバーシティである。出番の少なかった女性、高齢者が活き活きと活動している。
 支部員発掘策として発案されたのが夏山フェスタ(中部経済新聞主催)の発信力を利用して登山学校を開校したところ生徒が殺到した。初心者から中級までのレベルで座学ではなく実践的に教える。今年で一クール修了である。向上心旺盛な登山者は潜在的に多数いたのである。今後はこれを発掘してゆくことになる。
 整理してみよう。
 戦国の乱世は信長が制した。そこを明智光秀が寝首を切った。秀吉が報復して真に天下統一を達成した。30万人もの兵力を擁して当時の世界一の軍事力(鉄砲を持った兵)を持って居たという。そこで秀吉は明を征服することを思いつく。時の勢いである。
 日本一を達成すると今日の企業でも海外へ出てゆく。それは日本人の倣いである。大はトヨタから小はカレーのここ壱番屋まで。
 しかし、秀吉は唐入りでつまづく。余力を失うと家康が台頭して徳川幕藩体制になった。この時代では領土拡張はなかった。腕のたつ腹心の部下を処分して拡大志向の家来を縮小した。武士は戦うことから官僚に変わった。これに反比例するように学問、文芸、芸能、農業生産、商業などが盛んになった。現在におきかえると支部は江戸中期といったイメージか。野心を抱く人は減ってしまった。そこをどうとらえるかはそれぞれの歴史観である。

山岳会東海支部の新年会に出席2020年01月19日

 今池のガスビル8F。16時30分に受付を開始。懐かしい面々と新年のご挨拶を交わす。しかし、年々、知っている人が減って知らない人が増える。そこが寂しさを感じる。かつてはほとんどが錚々たる先輩ばかりだったのに今はこっちが古参会員の部類に入ってきた。後10年も続くかどうか。
 山は楽しい。しかし人間は年を取るのだ。やがては消えてゆく運命である。せめて元気なうちは続けたいもの。
 今回はNHKのディレクターの廣瀬 学氏を呼んで、NHKの得意の山番組の裏表を語ってもらった。廣瀬氏は2年前に名古屋へ転勤で来られたらしい。副支部長と懇意というのでつながった。20世紀は映像の世紀というので山々にもTVカメラが入り込んだ。その前に伊藤孝一の映画用のカメラが入った話も出た。当然だろう。
 後は番組制作の裏話になった。これはスマホで撮影して拡散しないでくれとの要望になった。この世界にも昔は容認されたが今は苦情が出るものもあって再放送はできないとのことだった。そこをちょいと切り取って見せてもらえた。加えてキャンプ、焚火、などは放映すると苦情が来るとのこともあった。冬山とか登山道のない山ではそんなわけにはいかないのだが・・・・。世間は分からずやなのです。
 まして何かとスキャンダルの多いNHKは視聴者の見る目が厳しくなっていることもある。NHKから国民を守る党もある。バッシングがひどくなっている。それでも山番組は人気が高い。お茶の間で見るにしてもどこか非日常の世界へ誘いがあるからだ。この後、宴会に入る。私の顔を見るなり『名古屋周辺週末の山登りベスト120』が好評だった。支部報に寄せる読み物も好評であった。みなさんなかなかよく読んでいただいている気がする。

阪神淡路大震災から四半世紀2020年01月17日

今日17日で25年か、早いものだ。当日、共著で拙書『ひと味違う名古屋からの山旅』の2刷の印税が入金した。これも何かの縁と、共著の人たちの了解を得て、全額を中日新聞社を通じて義援金として寄付した。ささやかでも助け合うことで被災者の力になると思った。その後の報道で未曾有の 義援金が集まった。本もよく売れて3刷までいった。
業界団体の研修旅行で神戸市の被災地跡を見学した。想像を絶する展示だった。天災は忘れた頃にやってくるというが、近年は加速度的に起こる。巨大土木工事が続いてあるから地盤がストレスを受けやすい。リニア新幹線とか中央構造線をぶち抜く。何も無ければ良いがと思う。