東三河山ぽ会編『わたしたちの明神山』改訂版成る2009年07月04日

 愛知県豊橋市に拠点を置く東三河山ぽ会から『わたしたちの明神山』が発刊された。後記欄によると同会は1884年?創立、1984年のミスプリントであろう。今年25年目となる比較的若い山岳会である。会員は160数名を擁し、発展途上にある。
 10周年記念に出した初版の「わたしたちの明神山」を再踏査して改訂版とした。今時地域研究は「日本百名山」の踏破に押されて流行らず、人気もないであろう。それでも総会員数160名中80名余りが参画しての事業となった。地方ゆえのまとまりの良さもあるだろうが素晴らしいことと感嘆する。
 内容的には三瀬明神山一座のあらゆる尾根と沢の踏査の記録集である。それだけでも大変なことだったと思うが大人数を生かして山村民俗や山村の歴史にも踏み込めば充実度は高まっただろうとおもう。
 東栄町も設楽町も昔からあったわけではなく、振草村などが中心になって変遷を重ねてきたのである。振草村誌を通読するだけでも大いに参考になるだろう。愛知県を代表して全国のどこに出しても恥ずかしくない自慢したい山=三瀬明神山である。今後もぶれることなく取り組んで欲しいと思う。
 2009年3月12日発行。
 http://sanpokai.web.infoseek.co.jp/

梅雨空の奥三河・天狗棚界隈を歩く2009年07月05日

湿地に咲くミズチドリ
 夜明けが早いから目覚めるのも早い。
 7時前にマイカーに乗り込む。県道58で平戸へ走り、R153に合流。鞍が池方面に右折し、また左折。閑散とした鞍が池を通過。足助へも早い。猿投グリーンロードが値上げして以来、このルートが定着した。
 足助の町に入ると新しいトンネルが開通していた。あっという間に足助の町をバイパスする。稲武の黒田辺りに来ると茶臼山が遠望されるが梅雨空とて墨絵のようだ。道の駅で一休みして稲武の交差点を右折。R257に入る。私の好きな名倉の高原に着いた。奥三河一の穀倉地帯ではないか。
 東海地方では余り例がないがここも谷戸(やと)の地勢である。両側を山に囲まれた土地で川が流れるか湿地がある。一方は耕作に利用し、近くに住まう。名倉は私の在所にもあるがやはり両側を山に囲まれて小さな川が流れている地形だ。
 名倉のアグリステーションでちょっと高原トマトなど買い物をする。茶臼山高原道路に入り、面の木ビジターセンターにP。道草を食いながら来ても10時前には出発。園地へは下る。一度見たかった木地師の小屋を見学したり、湿地帯の花を楽しんだ。園地ということもあり、一度Pまで戻ってトイレを済ます。
 花はササユリ、ニガナ、アヤメの仲間、ミズチドリ、ウツボグサ、ドクダミ、カワラナデシコなどを見た。湿地を後に下ると林道に出た。林道をトボトボ登ると面の木ICから下る県道に合う。ここで右折すると地形図で伸びてくる尾根に入れる。
 かなり急な尾根道であるが落葉樹の美しい森である。先ほどからウグイス、カッコウ、ホトトギスが啼いて夏の森を賑やかに歌う。その中に鳥居がある狭い尾根の入口に着いた。右へはかすかに踏み跡が下っていく。ははん、この尾根が茶臼山高原道路と平行する東尾根か、と見た。鳥居をくぐると鉄製の階段道が続いた。急な階段である。登り終えたところが天狗棚展望台であった。鳥居からは赤いペンキで塗られた宮標石が何箇所も続き、白い標柱も立てて保護されているかに見えた。ここはかつては御料林だったのだ。
 近くの碁盤石山が梅雨空に霞む。廻りの樹木はヤマボウシが咲く。バイカツツジが散り終った後であろう。展望台を辞してついでに天狗棚も往復した。天狗棚までも宮標石は多い。およそ1時間程度の散策であった。
 鳥居まで戻ると左折した。踏み跡程度だが歩きやすい。ゆっくり下ると界49の白い標柱に桧原山と書いてある。ここが御料局三角点であった。いわゆるピークではない。それが何とも物足りない思いである。
 尾根をそのまま下ると左に高原道路に下る枝道があったが直進して反射板まで下った。曇り空で見晴らしはない。右へと小広い道が下ってゆくので辿ると林道に出た。右へは尾根の入口を経て面の木からの県道に行き、左は面の木ビジターセンターへ行く。
 ビジターセンターへと足を向けた。朝と違って多数の車が止まっていた。資料室を一回り見て、茶店でコーヒーと御幣餅を食べた。
 帰路はR257まで戻り、設楽町から新段嶺トンネルを潜り、足助経由で帰る。気温は天狗棚で19℃、足助でも23℃と涼しい。念願だった桧原山御料局三角点探訪の軽いハイキングでした。

近江湖北・横山岳の沢(俳句編)2009年07月12日

 蛍飛ぶ御魂の如く儚げに

 夏草や選鉱跡の無残なり

 夏の谷赤く錆たるレールかな

 トロッコの残骸赤き夏の谷

 緑なす谷を彩るシモツケソウ

 夏木立ブナ純林の東尾根

 滝阻む夏草を分け高く巻く

 梅雨晴れや横山岳の東峰

 東峰ゆ青田が畳の如くなり

 谷を登り着いてサイダーを回し飲む

 山頂や麦茶をごくり飲むばかり

 梅雨晴れや遠くに霞む蕎麦粒山

近江湖北・横山岳の沢への序曲2009年07月13日

 横山岳は湖北にあってよく知られた名山である。一度は登山道で登ったがその山に沢から挑んだ。
 7/11の夜は木之本ICの近くでFさんと合流。同乗して八草峠に向う旧R303に入って土倉谷の入口を確認後、空き地(多分R303の新道建設で出た廃土の置き場跡か?)にテントを張った。張り終えて酒盛りの後で小用に外に出て前を流れる川を眺めていたら何やら淡い点滅する光が見えた。他の人に話すと蛍だという。ああそうか、最近山仲間を続けて失ったから彼らが蛍となって様子見にきたのだろう、と。かつて石徹白でもテントを張って酒盛りの最中に外に出てみたら最初はヘッドランプを点けた登山者がこちらに向ってくるような錯覚を覚えた。あの時も誰かが亡くなった直後であった。乱高下しながら点滅して去っていく蛍は夏の夜の風物詩である。
 7/12は昨日までの疲れもあってすっきりとはしない。昨夜は1時頃まで酒盛りで睡眠時間は3時間余り。えいっや、と起きたがこんな体で長時間の沢登りに耐えられるだろうか。もうすぐ高齢者の仲間入りである。一年一年が勝負であり、一期一会の沢登りである。どんなに良くても同じ沢を2度やる機会はまれであるから1回を大切にしなければならない。長時間の睡眠で万全を期すると失敗し、3時間程度の短時間だと成功することがあった。何やら受験競争の頃の三当五落を思い出す。体調が万全でないから緊張感を高めて挑むことになるからだろう。
 昨夜確認しておいた土倉谷に入った。土蔵岳に突き上げる谷であるが谷名はなぜか蔵でなく倉である。山中には異様な選鉱場跡を眺めつつ谷深く入った。夏草でむんむんする土倉谷であった。

近江湖北・横山岳の沢-土倉谷左又遡行編2009年07月13日

 土倉谷の右又、左又の分岐まで入ってP地点へは若干戻った。
 遡行したのは左又である。独立標高点1006mからほぼ直線に流れる谷である。P地点から左又の林道を歩く。周囲は杉の植林である。林道終点へは10分余り。7時入渓する。水量は小さな沢にしては多めで水温はかなり冷たい。1130mの山から流れることや落葉樹の多い山ということもある。
 最初はツタの絡む藪に閉口しながら溯った。低潅木の類もなぜか沢を覆うように繁茂している。苦労しながら登った。おまけに標高は殆ど稼がない。谷の中には錆びたトロッコの残骸があり、曲がりくねったレールの残骸も見た。この付近にはかつては銅鉱山でもあったのだろう。谷の右岸左岸には意味のない空き地があったりしてそこは何かあったものと思う。こんな奥なら泡雪崩の犠牲も止むなしであろう。北西の季節風は稜線に雪庇を作り、盛んに雪崩を起こしたに違いない。
 標高600mの二又付近から左の東峰の方向を確認する。周囲の植物景観は杉の植林から落葉樹に変わった。主にサワグルミの大木が多かった。この辺りからどんどん高度が上り始めた。谷が立ってくると共に滝も出てきたし、谷も開豁な谷相から狭隘な相に様変わりした。
 ところがこの谷の滝は一癖あるために直登しにくく、巻くのも容易ではなかった。2段8mの滝は左岸を巻いた。5mのスラブ滝も左岸を巻いた。土の斜面の草付がいやらしい。強く力を掛けると抜ける。足場は粘土質でずり落ちそうな気配を堪えての高巻であった。そんな中でひときわ美しかったのがピンクの花のシモツケソウであった。
 右に左にと分けてゆく源流域では水量の多い谷を選択した。水も伏流となり、左の空、右の空も樹林越しに見えた。美しいブナ純林の中に足を踏み込んだ。ひたすら登りきると何とドンピシャリで東峰の山頂であった。
 三角点のある西峰へは行かず、休んだ。まだ東尾根の下降があるからだった。東尾根はきれいな登山道が開削されていたがまだ信じられなかった。どこかで右にそれて行くだろうと思った。 
 ともあれ見事なRFのW君とF君に深謝する。
 持っていたサイダーを回し飲む。遠望は梅雨空とてかすかにあった。上谷山、三国山、三周、黒壁(高丸)、とりわけ美しい山容を誇るのは蕎麦粒山である。五蛇池山、天狗山、など。近くでは猫ヶ洞が高い。土蔵岳は地味、特にボリュウムがあるのは金糞岳である。伊吹山は稜線の上に頭だけ出す。雨も覚悟の沢登りだったからこの好望はありがたい。梅雨空ではあるが山頂は絶えず爽やかな風が吹きぬけてゆく。

近江湖北・横山岳の沢-東尾根下降編2009年07月14日

 横山岳東峰は多分私には初登である。三角点のある頂上は既登であるがもう記憶はない。正確な標高は分らないが1130mにアバウトで+9mはある。立木は1本もなくとにかく眺めがいい。
 山頂からは山麓の青田がまるで畳を何枚も敷いたように美しい。日本の田園風景は庭園という人もいるらしいが当を得た表現である。
 こうして梅雨の涼しい風に当っている間にも東尾根の下降が気になる。みなさん思いは同じである。このところ1年以内に2度も山中ビバークを余儀なくされてしまったWFコンビは反省しきりである。体力、登山技術、RFに自信があるとかえってリスクを高める結果になる。好事魔多し、と下山を促した。
 午後2時過ぎ、東尾根を下る。素晴らしい道である。地元の杉野の有志によるボランティア活動で整備されている。ブナの純林に入った。原生林ではないようだ。やや細いがかえって白い幹が新鮮である。下草は少なく、藪もない。地形図を見れば広くて緩斜面の東尾根は天然のスキー場に成り得る。工事しなくとも雪さえあれば快適な林間滑走が楽しめそうだ。スキー登山の記録もあるに違いない。この快適な道もやはり三角点865mの手前のコブを前にして網谷の広域林道へと導かれている。安全第一ならそのまま下ればいい。
 私たちはとりあえず865mの三角点を踏んで下ることにした。道はないが踏み跡はあるし、赤テープも残る。好き者はトレースしているのだろう。とんでもないほど高い所の位置は残雪期のものであろう。
 後方からF君がルートを見失わないように監視役を務める。三角点を確認後下るとほどなくかなり大きな池が現れた。側を通過すると赤テープは右に反れるので左の尾根を忠実に辿る。ここにも池があるが干上がっていた。地形図では10mの等高線が盛り上がるような表現であるが実際は↓を組み合わせて凹地なのではないかという気がした。
 踏み跡と赤テープも右の722mの尾根へと反れる。ついに踏み跡も赤テープもない尾根に踏み出した。但し、杉の植林となった。実は865m辺りからは植林化している。その為の林道であり踏み跡であった。地形図と地形との比較照合をしながらの神経質な下山が続く。緩斜面がなくなり、杉の植林も途絶えたことに気づくと足元は急な斜面となった。 標高は600mを切った。木の根、枝をつかみつつ慎重に下る。ついに素手では危険な垂直の壁に近い斜面に遭遇した。標高は465mある。P地点との比高は100m程度。褪せるな。WFコンビは懸垂下降で下ることを決定した。最初はザイルを送りながら様子見する。2回目も同じ。3回目でようやく杉の植林内に下れた。
 脆弱ながら下ると杉の大木の林の向うに流れが見えた。川を渡ると林道に辿り着いた。ああ、これで安全圏だ。WFコンビと硬い握手で無事下山を祝った。Pへは10分余り。
 地形図で対岸の尾根が下ってくる辺りであり、印刷された土倉谷の倉と谷の間の付近に下りたわけだ。Pは土の字の上辺りである。実際に見た印象、下った経験では等高線はないくらいに詰まっている。もしも暗くなってつかまるとビバークは必至である。しかも確保しながらのビバークとなろう。
 車に戻ると安堵の気持ちが湧いてきた。F君は鉱山の選鉱場跡を撮影した。私はこれは正に「夏草や兵共が夢の跡」だなあ、と呟いた。明治40年に銅鉱を発見以来昭和40年代までおよそ1500人とも900人ともいう鉱夫で賑わった町=土倉村であった。廃鉱を伝える石碑が寂しく写る。
 旧R303に戻り、新道を帰る途次、F君が上から見た学校付近まで来ると横山岳を仰ぎたいというので停車した。その後もいい眺めのところで停車した。この山はやはり湖北の名山なのである。青畳に見えた青田付近からもよく見えた。日の長い時期ゆえに下山後も岳への思いが尾を引く。F君とはまた木之本ICで別れた。

岳人8月号届く2009年07月14日

 13日夕帰宅するとポストに岳人8月号が投函されていた。
 今月も前月に続いてP155の②ヤマビルを追うでヤマビルの全国的な取材調査の結果が掲載されている。
 ざあと流し読みした中で他にP188の「マカルー頂上の旗」が目に付いた。3月に病死した原真さんへの追悼の思いを込めた様な文である。同名の著書があるから原さんの死後改めて読み返すうちにこの文になったと思う。
 応募紀行の40年ぶりの鈴鹿・藤原岳も読ませてくれる。第一特集では「挑戦するこころ」が扇動的なくらいに大きい印刷である。たまには切り口を変えて冒険している、なと思える。編集者側こそ読者に迎合しない冒険が必要であろう。

OSの故障に冷や汗2009年07月15日

 勤務先の基幹システムに使っているOS/2が原因不明の故障。ソフト会社に対応を依頼したが復旧せず。今朝になり、再度試みるも失敗。実はいつものSEさんが入院中で困った。泣き面に蜂とはこのことである。おまけに締切日が迫る。
 午後から入院先のSEさんと携帯で連絡を取りながら代理のSEさんが別のPCにデータを移行させる一時的な対応に成功。すでに定時は過ぎたが1時間の残業で何とか14日のデータは出来た。明日は15日のデータを作り、反映させれば復旧は成功。何とかなるだろう。
 何分10年間も使用してきたベテランPCマシンである。PCの1年は7年分(ドッグイヤー)というから人間なら70歳で少し深刻な病が出る頃だ。IBMのOS/2は今はサービス期間も過ぎ、PCそのものも新品はない。IBMはPCから撤退してしまったからだ。
 しかし、WINと違ってトラブルは今日まで皆無であったからすっかり信頼しきっていた。別のマシンは2年前から不調を訴えるようになり、労わりながら使っている。もはや限界をこえているのだ。2年前から新基幹システムの代替、更新のための調査と研究を続けているが綱渡りの運営がしばらくは続く。

夏山計画-黒部源流の山旅2009年07月16日

 久々に夏の北アルプスに行こうと計画する。
 長い間憧れていた雲の平周遊と赤牛岳登山を兼ねた欲張りな計画である。赤牛は還暦を迎える丑年の干支登山でもある。雲の平は長期の休暇が必要でしかも好天に恵まれないと楽しめない。どこからでも遠い地域であった。
 今年の夏山縦走で概念を得たら9月には黒部上の廊下遡行も視野に入る。来年夏は赤木沢を遡行すれば完全遡行となる。そんなうまい具合にいくかどうか。
 もしも実現したら私の北アルプスの空白地帯がほぼなくなる。寂しい気持ちもする。とはいえ落穂拾い的な山は数多残るが。

北海道の山の遭難事故にショック2009年07月17日

 連休に入る前の7/16、北海道で夏山として大量の遭難事故が発生した。ツアー会社の引率で愛知県を含む登山者10名が低体温症で死亡した。
 強風で荒れる大雪山の強行登山が原因のようである。30歳代のガイド3名は無事という。高齢登山者の弱点を知らない若者のガイドでは強行な印象が強い。
 過去にも大雪山に登山した名古屋の女性登山者が避難小屋で死亡したことがあった。これも低体温症だったと思う。
 かつて北海道へは正月休みに山スキーで4度渡道した。ニセコアンヌプリのスキー場から頂上へスキー登山したが1300m級の山なのにハイ松が生えていたし、ダケカンバの疎林があった。これは本州では2300m以上の現象である。つまり1000m以上も高い山に登った景観であった。大雪山は2100m級だから恵那山並みであるが気温は3000m以上の山と同じである。
 今時の3000m級といえば6月に登った燕岳に相当する。頂上付近では確かに寒かった。小屋ではストーブを焚いていた。大雪山も同じであっただろう。しかし、大雪には営業小屋がない。火を焚かないとグングン冷えて体力を消耗するばかりで死に至らしめる。
 おそらくガイドらは若さに任せてツアー客の体温を保温する知恵も持たず、温かいものをとる措置もしなかっただろう。
 ガイドだから登山技術や体力はある。但し、気象の判断力は今一未熟だったとの印象を抱いた。