とり年に因み奥三河・白鳥山に登る!2017年01月07日

 今年の干支は酉=とりです。そこで奥三河の白鳥山に登って来ました。メンバーは5名でしたが1名減って4名でした。
 7時過ぎ、名古屋から猿投グリーンロードを経て国道153号、稲武で県道80号に入り、面の木峠を越えると旧津具村です。幸いにも道路には雪もなくスムーズに山村に着きました。盆地ですから放射冷却が強く気温は零度以下です。田んぼは白っぽく霜の朝でした。上津具から見出を通過します。
 見出とは砂金を見出したことに由来すると古いガイド紀行を読んだことがある。古町には武田金山の廃鉱があり、選鉱の際にズリに含まれる金を見逃したのでしょう。ズリは川に流れ込み、鉱石が砕けて砂金が取り出された。下留はくだる、と読みます。白鳥山に登るには「くだる」から登ります、とジョークを飛ばす。
 登山口の白鳥神社は大島にあります。ここは花祭の里です。毎年1月2日に行われるようです。そんな看板を観て左折すると花祭の会場を過ぎて登ります。
http://www.shitara-trail.jp/festival/hanamatsuri/
 急坂を登ると行き止まりが神社でした。かなりの急な石段を登ると神社に軽く拝礼。右側に登山道の案内板があり、トイレもある。トイレの右には駐車場から来る登山道が続いています。9時40分、登山道を歩きはじめると二手に分かれます。左を行きます。植林内の急登の道です。左沢筋の山腹を攀じ登ると尾根の一端に着いた。山頂から西に伸びる尾根はここで南北に分かれている。平になった西尾根は右へ振る。しばらくは水晶の採掘跡の急な道を登る。平かになったと思うと山頂でした。断崖絶壁になっているので北面が開けています。
 山頂からの眺望は絶品でした。三角錐の雪の山が見えた。これは山容から聖岳と分かります。ほぼ北東に聳える。名古屋市中区に富士見町があり、江戸時代は富士山が見えたという話があった。現在では聖岳と断定されています。なるほど、富士山と見まがう美しい山容です。
 これさえ同定できれば後は左へ赤石岳が連なります。聖岳と赤石岳の間の顕著な山は兎岳になります。聖岳から右への連なりは上河内岳は白い他は真っ黒です。辛うじて黒法師岳の三角錐の山が同定できますがあとは分かりにくい。またとない寒日和で雪の南アルプスの山岳同定で至福の時を過ごしました。
 愛知県の最高峰の茶臼山もすぐそこに見えます。さきほど越えた天狗棚も至近距離に見えます。これだけ素晴らしい山なのに忘れられたような静寂に包まれています。山頂を去って、しばらくでまた同じような角度で聖岳を望見する断崖絶壁の一角に着きました。この山はテーブルマウンテンになっているのです。
 その後もぬたば池から奥へ進むとやはり断崖絶壁の展望台がありました。目前の山は大峠です。展望に倦むと高く伸びた桧の植林内を下り始めました。段々急な下り道が続いて、ついに山腹の九十九折れの山道を歩いています。間もなくで往きの山道に合流しました。9時40分に出発して約2時間ほどの軽いハイキングでした。
 車に戻り、面の木峠まで走ります。途中、ちらっと形の良い山が見えました。知生山です。古町高山に似ています。
 碁盤石山の山腹の九十九折れを登りきると面の木峠です。ここで昼食というわけです。北西に真っ白な山が見えるので何だろう、と井山へ車道を走りました。井山は以前の牧場から風力発電所へと変貌しました。森林はないので眺めが非常に良い。北西の山は文字通り白山でした。右には御嶽山が頭だけ見えます。黒っぽい恵那山、恩田大川入山が見えます。奥矢作の山々の眺めが欲しいままです。途中に休憩所があるのでそこで昼食にしました。
 帰路は茶臼山高原道路を名倉に下りました。地物野菜の販売所で若干の買い物をしてからまた国道153号を戻りました。本年初の登山は干支の山を楽しみました。

俳句と越の小さな山旅2016年10月11日

 10月9日。所属結社「辛夷」のイベントに参加するため、早朝2時に自宅を出た。今年も天気の良くない連休になった。東海北陸自動車道の長良川沿いの道になると降雨が激しくなった。しかもトンネルが連続するのでワイパーの操作が面倒なほど。白鳥ICの手前では豪雨となった。時速60kmに減速し、4WDにONしておく。路面の水量次第で4WDでもハイドロプレーニング現象が起きる。対策は低速で走るしかない。高鷲ICからやや大人しくなる。ひるがのSAで仮眠。飛騨清見から高山ICまで走りR41へ。交通量は多め。
     大山歴史民俗資料館へ
 富山市内に入り立山方面へ右折、旧大山町から常願寺川を渡ると立山町だ。常願寺川はいつも見る氾濫河原が隠れるほどの濁流である。両岸の堤防はここから始まっている。両岸一杯に広がって海まで突進するようだ。
 下流の雷鳥大橋の河川内の標高は115m、左岸(西)の富山地鉄・月岡駅付近の三角点は86、9mですでに天井川になっている。右岸(東)の立山町側は123mで少し余裕がある。つまり、富山平野の東部は常願寺川の氾濫がもたらした。夥しい土砂は五色が原の鳶山の大崩が原因らしい。旧立山温泉は立ち入り禁止になり多くの砂防堰堤が建設されている。
 いつもの道の駅兼コンビニへは7時半に到着。9時まで時間をつぶす。目的地は亀谷温泉の大山歴史民俗資料館だが、小止みになったので雄山神社に寄る。境内を歩く。隣には富山県立山博物館がある。9時過ぎたので大山歴史民俗資料館に向かった。道を少し戻る。山猿が数匹民家の屋根に上ったり道路に下りて何かやっている。常願寺川にかかる小見への橋を渡る。砂防堰堤が滝のようになって奔流する。地響きが聞こえるようだ。小見から亀谷温泉へ右折。九十九折れの道を登りきると有峰林道ゲートの手前が目指す資料館だ。
 今まで登山の帰りに温泉に入湯することは度々あってもここへ寄ることはなかった。時刻少し前だが入館を許された。いきなり伊藤孝一が有峰がダムに沈む前に買い上げた狛犬を見たいと来観の意思を告げた。奥に展示してあるが順路と言うものがある。右回りに説明を聞きながら色々質疑応答して学ばせてもらった。
 想像した以上の山や向きの資料館だった。
 第一展示室では宇治長次郎、金山穆韶(ぼくしょう)、播隆上人が大山町の三賢人として顕彰されている。
 第二展示室は常願寺川の治水と発電、
 第三展示室は有峰、大山地域の鉱山・恐竜となっている。念願だった狛犬は全部で八体展示。太めの犬くらいの大きさで木質系の荒削りな造形である。円空仏のイメージにそっくりである。すると有峰の住民の先祖は単なる農民ではなく、落ち武者だろうか。円空は木地師とされているが、流れ者の木地師に彫らせたものか。
 放射性炭素年代測定という科学的検査で古いものは大体1300年頃と判明したらしい。いずれもひびが入り朽ち始めていることは確かである。パンフレットには
サル 2体 1334年鎌倉末 ヒノキ科
シシ  2体 1452年室町前 軟松類
ヌエ  2体 1531年戦国期 軟松類
クマ  2体 1814~1879年 江戸後~明治初  モクレン科
とあった。
 これを大正9年にダムに沈む前に名古屋のお金持ちで登山家の伊藤孝一が購入したという。一旦は名古屋に持ち出され、疎開で長野県の赤沼家へ一家とともに狛犬も移転した。これを赤沼氏が買い取って松本市民俗資料館に寄贈したという話。それを松本市から富山市は返還を希望して里帰り(有峰は水没したのでJターンというべきか)を果たしたのが平成になってからのことだった。
中々に存在感のある狛犬であった。結構長々と話をした。次の目的地の富山市電気ビルに走った。
      富山市俳句会へ
 13時から年次大会に入った。結社賞などの発表、投句の選評、その後の懇親会、句会など順調に運行された。40歳で入会したころは初代主宰の前田普羅から直接指導を受けた俳人もいた。年々鬼籍に入り、来賓席にならぶ古参俳人は当時の数名から2名にまで減った。1人は2代目主宰の中島正文(俳号:杏子、日本山岳会会員で山岳史家)の直系の俳人である。3代目の福永鳴風を支えた俳人たちが基盤を守って、4代目の現主宰・中坪達哉を支える。俳誌も現在は1080号を数える。来年は主宰継承後10周年となる。
 この10年間には東京のS女を病死で失い、続いて片腕というべきY氏の急死という波乱にも見舞われた。いずれも結社を支える実力は互角の有力俳人だった。3代目の福永鳴風は昭和55年「花辛夷守らせたまへ普羅杏子」と詠んで、指導者に徹する意味でレッスンプロを自認し、継承の決意を示した。鳴風が育てた若手4名のうち2名を失った。将来の発展のための布石を打つ時期が来たと言える。句会後は散会となる。
       氷見市/七尾市・蔵王山(点名:高坂山)へ
 10月10日。本当は7日から8日は毛勝三山の猫又山に登山の予定だった。天気不良、膝の痛みを警戒して大人しくした。10日は降雨は逃れそうなので昨年と同じ能登半島の1等三角点の山・高坂山507mを予定した。
 ホテルを出たのは寝過ごして8時40分となった。R8からR415へ行き、氷見市に向かう。なるだけ富山湾沿いにドライブした。氷見市の北部の阿尾から県道306号平阿尾線に入り七尾市との境界に近い平に向かった。平は氷見市最北の山村であった。つまり富山県最北でもある。入善町や朝日町とほぼ同じ。
 平とは名ばかりで傾斜地に山家が建つ。地形図では20戸を数えるが人の姿は殆どない。こんな僻村でも人が住んでいた。富山県知事選挙の公報があるからだ。どこにも登山口を見いだせないまま石川県まで走ってしまった。林道からは富山湾を見下ろす。雪の立山連峰など素晴らしいだろう。
 平へ戻って古老に山の話を聞くと意外なことを言う。三角点か、有名らしいなあ、大阪や京都からも大勢来る、この前は80歳の老婦人も来たよ、と言うではないか。同好の士である。この山はねえ、1等三角点という希少価値があるんです、と言うとおおそれだ、と答える。歯はほとんどないがはっきりしている。道はなあ、笹を刈ったと聞いている、剣主神社に車を置いて行けや、と教えてくれた。どうやら登れるらしい。
 神社の境内に駐車。12時10分。舗装された農道を登る。舗装が切れた辺りからは棚田の風景が広がったが休耕田もある。登山口の表示を探すがない。農道から山に通じそうな刈り払いがあったがなぜか足が進まなかった。
 高坂山は目前にあり、東尾根が伸びている。農道から草深い踏み跡に分け入り、尾根の根っこまで近づいて地形図にある破線路(用水路沿いの踏み跡)を歩きながら尾根と落差が縮まったところで杉の植林の中を尾根に這い上がった。12時28分。尾根には微かな踏み跡があった。但し倒木もあり度々道を外した。ヤブっぽくなると道に戻る。すると七尾市側の良い道と合流した。広くて浅い沢のようないわば街道を歩いた。山頂が近づくと再び細道になる。13時登頂。3m四方が刈り払われているきれいな山頂である。1等三角点本点である。周囲は雑木林で眺望はほとんどない。25分滞在後、平へ30分とある道標のある良い道を下った。最初は南尾根の樹林の道から山腹を横切り、芒の生い茂る湿地帯を行くとさっきの農道へ出た。何だ、この道か。印は何もない。Pへ着いたのは14時過ぎ。2時間ほどのハイキングだった。
     石動山(せきどうさん)を散策
 まだ時間があるので石動山へも行って見た。そこは山岳信仰の拠点だったという。最高点の564mの大御前に登拝してみた。小さなお社があった。白山宮という。そこから城跡を経て下山した。樹林の隙間から富山湾が見下ろせた。結局医王山、宝達山と来て本当は石動山に置くはずだったが先に神社があって三角点設置はならず、高坂山になったのだろう。資料館のスタッフは白山宮ははくさんぐうで良いが、白山をしらやまと言った。昔は加賀能登も越の国であった。だから越の白山(こしのしらやま)と呼んだ。相当古い歴史の山のようだ。
 さて、思いは果たした。県道306号を戻ってまた富山湾沿いに走った。虻ヶ島からの立山連峰の眺めが素晴らしいと宣伝する表示があった。
http://www.info-toyama.com/image/index.cfm?action=detail&id=1124
このサイトを見ると確かに素晴らしい眺めだ。剱岳を中心に左に毛勝三山、右に立山が見える。湾に浮かぶ島が前景で立山連峰が借景になっている。こんな時期に来たいものである。今日はあいにく厚い雲の中だ。
 R160をひたすら走る。いろいろな観光施設が新しい。R160からR415を走り高岡市に着いた。R156から砺波ICで北陸道へ。今回は米原経由で帰名。
 これで『一等三角点全国ガイド 改訂版』(ナカニシヤ出版)に収録された1等は愛知県、岐阜県、奈良県、富山県、福井県は完全踏破、石川県は穴水の河内岳、輪島の下山村(三蛇山)と鉢伏山、七尾の天元寺(遍照岳)、宇出津の沖波山、小松の清水山が未踏。離島の1等3座は行かない。三重県は大平尾村4.5mのみ未踏。長野県は大物では四方原山、長倉山、八風山、が残る。

奥三河のグミンダ峠考2016年10月06日

 山や峠の名前には不思議なものが多い。
 ガイドブックに解説されていなくても地誌や町村史を読むとなるほどと分かることもある。それらにも載っていないとどんな由来だろうと考える。命名された当時は何でもないことだったはずである。それが長い月日の経過で知る人は居なくなり、人々の記憶からも消えて文献にも書き留められないまま今日に至る。
 愛知県北設楽郡設楽町と東栄町にまたがる大鈴山の南のグミンダ峠は分からないまま調査してきた峠名の1つだ。
 地形図にも掲載されないしカタカナが想像すらつかせない。漢字ならば表意文字から追っていけるのだが表音文字ではいかんともし難い。
 これまでは地誌を調べても地名の由来というそのものずばりの項目を見ただけで終わっていた。視点を変えてみた。必ずある交通史、交易の街道史の項目に着目した。するとないと思っていたグミンタが見つかった。
 設楽町誌   グミンタ道
 東栄町誌   グミンタ道
と両方ともに符合するがグミンタと濁らない。
 東栄町の前身であった振草村誌の地図「愛知県北設楽郡振草全図」にはグミンダ峠と濁る。しかし、肝心の峠名の由来には触れられていない。設楽町誌に紹介のあった澤田久夫の『北設楽郡地名考』を探すと鶴舞図書館に所蔵されていた。
 グミ  グミの木、グミの平、グミッタ(小林)
とあるだけで採集されただけであった。小林は東栄町側の地名である。グミは食用になる果実だがこんなものが奥三河の山村で栽培されるのはありえない。グミンタを耳で聞いた言葉としての表記になったと思う。そんな例はあちこちにある。
 暗礁に乗り上げたように思った。愛知県図書館で伊藤文弘『愛知県の峠』(平成27年10月ごろ出版の私家版)がふと目に入った。
 グミンダ峠は採録されていた。そこには狗田峠という漢字名を小林で採集されたようだ。そして私が考えていた天狗に因むとも書いてある。
 私は音の響きから直観的に狗賓(ぐひん)田ではないかと想像してきた。グヒンダ峠が訛ったものと考えてきた。しかし傍証がない。
 天狗の狗は第一義的には犬の意味がある。犬はつまらないものの代名詞として、羊頭狗肉と書かれる。イヌの肉はまずいので羊の頭で誤魔化して売るのだろう。
 犬死はつまらない死に方、刑事のことを国家権力の犬と言い、イヌワシ、イヌブナ、イヌツゲとかの動植物名に採用される。イヌブナは主に太平洋側に生育し、樹皮は灰色、混淆林を形成する。日本海側はシロブナといい美しく純林を形成する。ブナの山は良いなあ、という場合は多分シロブナの純林に感動するのだろう。するとイヌブナは劣るという蔑みともいえる。
 賓はググると「うやまうべき客人。」とあった。来賓の賓なのだ。
 ウィキペディアには
「狗賓(ぐひん)は、天狗の一種。狼の姿をしており、犬の口を持つとされる]。「狗賓は日本全国各地の名もない山奥に棲むといわれる。」「また、愛知県、岡山県、香川県琴平地方では、一般的な天狗の呼称として狗賓の名が用いられている。」
 左様、大鈴山、明神山周辺は天狗が居た伝説がある。『北設楽郡史』民俗資料編には「御堂山の天狗」の項があり、御堂山は設楽町田口の長江にある。御堂山から風越に掛けて多くの天狗が居たという。御堂山には36人衆、添沢温泉にも18人衆という祠もあるという。御堂山は長江の北西638.2mの三等三角点(点名:八橋)の付近で、風越とは柴石峠の北西695m付近の辺りで八橋の小字になり地形図にはない。
 津具には天狗棚があるし、碁盤石山の伝説には天狗が登場する。花祭りにも天狗が多く集まって舞い踊るらしい。天狗の話には事欠かない地域である。つまり、グミンタ道とは狗賓の往来する道だったのか。
 伝説に因む峠の名称にはロマンがある。

奥三河・宇連山を歩く・・・ガンゾモチフデ山考2016年06月04日

 6/4、久々に仏坂峠から宇連山に登った。
 7時、天白を出発し、新東名から新城ICで降りる。これで3回目の利用である。約72kmあった。更にR151、R257を20km走り、四谷千枚田を目指す。高速を出るとコンビニが一軒もないことにあわてたが、ブッポウウォールの見えるコンビニで昼食とコーヒーを買う。
 四谷千枚田は1000枚以上の棚田で有名である。今日の夜は何やら行事をやるらしい。すでに多くのカメラマンが陣取っていた。交通整理もあり、通行はできた。分県登山ガイド『愛知県の山』の表紙を飾った風景である。
http://www.amazon.co.jp/%E6%94%B9%E8%A8%82%E7%89%88-%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E3%81%AE%E5%B1%B1-%E6%96%B0%E3%83%BB%E5%88%86%E7%9C%8C%E7%99%BB%E5%B1%B1%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89-%E7%A4%BE%E5%9B%A3%E6%B3%95%E4%BA%BA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E4%BC%9A%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E6%94%AF%E9%83%A8/dp/4635023729
 本書の表紙のような青々とした棚田を想像したが、まだ2週間前に植えたばかりで、7月頃になるとのことだった。
 新城ICから約20kmあった。仏坂トンネルのPに着いた。3台止まっている。9時15分、支度して出発する。峠道は途中崩壊箇所があって、臨時の金属製の桟橋が掛けられていた。そこ以外は依然と変わらず歩ける。15分ほどで峠に着く。よく手入れされた杉の高木が林立する。人工林も手入れされれば美しいものである。峠には文字通り石仏が安置されたり、役行者様が祀ってある。
 小休止することもなく、宇連山へ延々と続く尾根の登りに入る。東海自然歩道であるが、道幅は普通の登山道である。ハイカーが愛知県の山間部を踏破するのは難儀なことであろう。登り始めは尾根を忠実に辿らず、山腹を巻いてゆく。それを繰り返すとベンチのある休み場に着く。ここからはほぼ尾根筋の厳しい登りになる。小さなアップダウンを繰り返しながら841mを越えて下ると海老峠に着いた。小休止する。
 フタリシズカが可憐な花を咲かせる。遠くから近くから「テッペンカケタカ」と聞こえてきた。
 ホトトギスである。長い旅を終えて今頃は日本の山で休むこともなく営巣するのだろう。托卵はずるいが彼らのたくましい知恵である。彼らはグローバルに活動する。外国から干渉されたり、したりするうちにずるく悪賢くなるのだ。
 海老峠は川売(かおれ)も廃村宇連(うれ)にも下ったり登ったりしたことがある。昔は行商人の往来した峠道である。川売には少し道形が残っているが、宇連には見えない。下部まで下れば分かるだろう。
 さて、再び山道を歩く。海老峠でやっと半分のところである。歩いても歩いても高くはならず、展望も得られないから忍耐が要る。高くなるどころか838mを越えると逆に下り気味となる。一旦は750mまで下げた後、山頂に向かって高まってゆく。右手が明るい。宇連山の西半分が伐採中で、林道も延伸されてきた。正確には三角点の西に伸びる尾根と東海自然歩道(破線路)の交差するところから北部は皆伐のために道が影響を受けている。
 かつて、清水沢右又を遡行してこの辺りに着いた。何か、切り開きができていた。その看板に書かれた住所に注目した。最後に「ガンゾモチフデ」とあったからだ。あれは地名だったのだ。『振草村誌』に宇連山の別名として「ガンゾモチフデ山」を発見して以来、気になってきた。ガンゾの意味は色々書いて置いた。
 最近では、北アルプスの剣岳の東、剣沢の真北に「ガンドウ尾根」があると知った。
 佐伯邦夫「剣岳地名大辞典」には鋸刃状の尾根の意味とする。
http://www.tatecal.or.jp/tatecal/proceedings/13-17-52_Ls.pdf
 ガンドウには大きなノコギリの意味があるとすると第10岩脈のイメージが重なる。
https://www.gsj.jp/publications/bulletin/bull2003/bull54-07.html

そこは新城市(旧鳳来町)と設楽町の境。今は設楽町であるが、振草村は大部分が東栄町になったが、宇連は設楽町に合併された。だから『振草村誌』に記載されたのである。また、『設楽町誌』の宇連山の絵図に「がんどぅ」として記載されたのも同じ理由になる。すると、モチフデはこの町村界で入会山の境界にされた意味だろうか。

小屋番の山日記 宇連山覚書

http://koyaban.asablo.jp/blog/2006/08/12/

小屋番の掲示板「行ってきました」 宇連山・清水沢遡行

http://8425.teacup.com/koyabann1/bbs/99

 考えているうちに12時に山頂へ着いた。今日は曇り空で明神山も今一さえない。山頂に居た若い男たちはすべて県民の森側へ下って行った。すると仏坂のPの車は鞍掛山への登山者だったことになる。
 山頂でゆっくり休んだ後往路を戻った。帰路は四谷千枚田を通過したがマイカーは減っていた。R257、R420を経て足助でR153になる。県道58で帰名する。

東三河・本宮山・・・宝川源流を登り、表参道を下る2016年05月28日

 7時30分、自宅を出る。空は曇りがちだ。東名はやや通行量が多い。豊川ICを出て旧一宮町舎の信号を左折。県道21の交差点で右折。ウォーキングセンターへは8時30分に着くがまたも駐車スペースがなく右往左往する。遅かったのだ。人気の山は遅出には厳しい。そこで宝川の方へ直接行くこととした。県道21へ戻り、宝円寺のシダレサクラの案内板で右折。2車線の道を走ると里のはずれで1車線に狭まる。やがて新東名のトンネルをくぐる。右へ曲がると林道が続くが、未舗装になった辺りでUターンして駐車。
 9時30分林道を歩き出す。延々と続く林道だがところどころには道標もあって確認できる安心感がある。勾配が急になった先で終点。右岸へ木の橋が渡してある。滑りやすい板に注意しながらわたる。ここも結構広く林道の残存かと思われる。しかし、いよいよ沢に近づくと山道になる。
 岩をからむ道を行くと前方に滝が見える。また左岸へ渡渉する。滝は左岸から巻き、右から落ちてくる沢を注意しながら渡渉する。勾配はますます急になったがちょっとした平らな休み場に着いた。480mという。駐車地点で見た二人連れが休んでいた。
 国見岩まであと0.5kmとある。炭焼き窯の跡がしっかり残っている。戦後、石油が輸入されるまでは木炭は高く売れたという。だからこんな高い山奥まで炭を焼きに来たのだろう。
 ここから右の源流の音を聞きながら登ってゆく。かなりの勾配である。木の階段でステップを踏みやすく整備されているから安心である。そして、鎖場の連続するもっとも勾配の急な斜面をよじ登る。鎖は最初は2本で終わった。落石に注意しながら登ってゆくとまた鎖が現れた。大きな岩を直登するコースと迂回するコースに分かれたので迂回する方向に振った。その先にも道標が立っている。一方は林道へ、国見岩へと分岐する。その先でも鎖場をしのぎながら行くと鎖の三叉路になった。さっきの直登コースが上がってきたところだ。上から下山してきたので譲ると直登コースを下る。聞くと下に岩戸神社があるという。それなら見逃すわけにはいかないと迂回コースを下って直登コースに上がるとなるほど岩の間に何か祀ってあり、水が出ている。ちょっと拝んでから直登の鎖をつかんで攀じ登る。左へ急斜面を登ってゆくと国見岩に着いた。短いながら手ごたえ十分のルートであった。
 ガイドによればこの岩の下部に岩戸神社があると説明されている。さっきのは岩戸神社じゃなかったのだ。
 赤い鳥居をくぐって山頂直下の広場に着く。更に奥宮順拝路へ行くと山頂へ左折して橋を渡る。すぐに山頂だった。表参道を下ると多くの登山者とすれ違った。さすがはメインルートだけはある。大杉の林立する厳かな雰囲気を味わいながらくだった。途中に水場は2箇所あり、登りでも下りでも水筒の要らない山だなと思う。そのせいか、砥鹿神社境内の自販機は100円だった。
 基本的に展望のない尾根の一本調子の登り下りになる。それに飽きさせない工夫かどうかは知らないが、山姥の足跡、蛙岩、梯子岩、馬の背岩などの仕掛けをしてあった。
 ウォーキングセンターに着いて、マイカーデポ地まで行く。素戔嗚神社を経て宝円寺を見て歩く。農婦としばし世間話する。本宮山松源院の話も聞く。更に歩くと新東名も見えてきた。やれやれだ。W・Cから約40分だった。本宮の湯で汗を流した。帰路は県道21、R1、県道57、県道56とつないで走った。それでもまだ明るい。夏至が近づいてきたなと思う。

乙川優三郎『脊梁山脈』を読む2016年02月01日

新潮文庫。平成28年1月1日刊。乙川優三郎作は昭和28年生まれの直木賞作家(2002年受賞)。平成25(2013)年に単行本が刊行されている。

 登山者として、山旅の付録のような感じで、見聞を広め、本を読んで知識を深くするうちに、木地師には長く関心を持ってきた。

 本書は登頂とか、遭難とか、登山、山岳の歴史といった登山者向けの本ではない。以前に、伊那谷の木地師のことをググっていて、偶然ヒットした際、古書で取り寄せて一度は読んだ。木地師の関連のことを拾い読みしただけであった。文庫に入り、川本三郎の解説も読んでみて、また格別に感じたので購読。改めて文学作品として読む。

 この作品の斬新さは、主人公の矢田部信幸が当時、上海にあった日本の私立学校・東亜同文書院の学生だったということである。矢田部は17歳で昭和14年に入学。学業中に現地の上海で兵隊にとられた。昭和21年に復員兵として日本に帰還した。物語は佐世保港から始まる。車中で小椋康造に出会う。急病を看護してもらい、氏名、住所まで知ることになった。小椋とは豊橋で別れたが、故郷の福島へ帰ってからも小椋への恩義が忘れられない。実業家だった叔父から莫大な遺産が転がり込む。
 母校の東亜同文書院は敗戦で廃校となった。教授、学生ともども日本へ引き揚げた。学長だった本間喜一の奔走で豊橋に受け皿となる愛知大学を昭和21年に創立。矢田部も学生として復帰できないことはなかったと思うが、23歳にもなっていたし、いまさら学業に戻ることも気が進まない。独身で財産はあるし、家族を養うために働く必要もないからだ。GHQの占領下であったが、戦前の皇国史観から解放された自由を味わうかのように生き方を模索してゆく。
 そこで、小椋康造の故郷の長野県下伊那郡売木村を訪ねることにした。ところが、小椋康造には会えたが、当人ではなかった。ここが本作の伏線となり、種明かしは最後まで伏せられる。 
 WEBで国土地理院の地形図にアクセスして、主人公の足跡をたどると、作品中の地名も実在する。下り沢はくだっさ、と読む。霧山はきじやま、らしい。売木峠を目指す、というので、愛知県境の茶臼山の近くにある売木峠かと思ったら、別にあると知った。以後、地形図を開いたままにして読み進めた。
 木地師の小椋康造は果たしてどこに住んでいるのだろうか、との興味津々を維持させたまま、女との出会いと別れを織り交ぜながら展開してゆく。
 小椋康造への関心が木地師の根源への関心に発展した。さらに日本人はどこから来たか、という命題にまで迫る。日本書紀や古事記にまで言及するのだが、そこまではちょっと行き過ぎかなと思う。
 長谷川三千子『からごころー日本精神の逆説』ではないが、日本的なものを探究するとふっと消える。日本書紀には潤色が多いという。歌人の土屋文明は芭蕉の俳句を日本古来の文学と思うなよ、と書く。杜甫や李白の漢詩の影響があるからだろう。だからそこを承知で日本を理解したい。日本文化は外来のものを取り込みながら発展成熟したのだろう。多層文化ともいう。そこは前著に詳しい。
 乙川さんは主人公をして、木地師のルーツを、朝鮮半島からの渡来人や帰化人に求める。作品中には朝鮮人やハーフも登場する。今の時代だって、多文化共生じゃないか、と言いたいのだろうか。作品中に語らせる主人公のセリフから東亜同文書院生としたのも意図的である。コスモポリタンな人物を造形するためだったと思う。
 今も昔も戦乱の絶えないシナ大陸や朝鮮半島から逃れて日本に流れてきた技術者集団があったと思う。在留許可の仕事の研修で知ったのは、今でも中華料理の料理人は日本へ入国したがっているそうだ。政治経済の高度に安定した日本でなら食べて行ける。誰しも安定を望む。木地師の技術が発展し成熟したのは平和な日本ならではのことと思う。職人は荒れる祖国に見切りをつけて、ウデ一本で求められるままに世界を渡り歩く。
 作品に戻ろう。核心部や出てくる地名に付箋を付けていったら10枚にもなった。一一、WEB上の地形図で確認した。東北の温泉地や木地師の里を知ることができた。いずれ、登山の計画と組み合わせて、現地を歩いてみたい。
 核心部というのは菊の御紋の墓を見つけた場面だ。これは私も体験がある。奥三河の段戸山中で無名の山に登った。草深い平坦地に菊の御紋の墓があった。2年前も伊那谷の小川路峠への途次、木地師の墓を見た。墓守する定住の子孫もなく、供花すらなく、あはれな雰囲気が漂う。
 作品には出てこないが、東北の高杖高原なるスキー場から七ヶ岳にスキーで登った。その際、泊まった民宿が小椋姓だった。日本列島の一番膨らんだ東北南部から北部にかけて、まさに脊梁山脈は連なる。東北の山旅の参考になる好著だった。

松平郷から天下峯を歩く2015年12月12日

 過去の記録  王滝溪谷から天下峯を歩く
http://koyaban.asablo.jp/blog/2009/10/22/4647334

 以前は王滝溪谷から歩いた。今一歩きでがないので、松平郷から試みた。
 9時30分過ぎ、名古屋を出発。東の空は雲が厚い。暖かいので空気が湿っているのだろう。R153は流れもよく、豊田市をスムーズに通過できた。R301になり、矢作川を渡る橋で、流れが渋滞すると、ふっと目の前を見ると、目の前に焙烙山と六所山が並んで、屏風のように聳える。
 10年前の合併で豊田市最高峰の名誉は剥奪されたが、豊田市民には朝な夕なに眺められ、親しまれている里山である。天下峯は前景に埋没して同定はできない。
 R301は丘陵地を越えて、東海環状の豊田松平ICを左に見て下ると巴川にかかる松平橋を渡る。右折し、案内にしたがって左折する。豊田松平ICから7kmで松平郷への案内板のある三叉路に着く。左折するとPとトイレがあるが、松平東照宮や高月院はまだ奥まで走る。11時前に着いた。
      松平郷・沢連(そうれ)の山里を歩く
 今日は休日なので農産物を売る露店が開店していたので白菜と里芋を買った。車はまばらにある。すでにシーズンは過ぎて閑散としている。しかし、名残りの紅葉も素晴らしい色彩を見せる。11時過ぎ、身支度を整えて、天下峯に向かう。六所山への登山口を右に見送り、高月院への道も見送る。車道歩きである。坂道を歩くと左に在原家のミニガイドがあるが、下山後に見送る。
 登りきった三叉路を右折。セメントのよう壁の前後に枝道があり、下は高月院への近道と石碑があった。
 ぐんぐん急な坂道を登ると二股になるが道標を見て直進。暖冬のせいで道路わきのツツジが狂い咲きしている。右折の道も上部で合流する。一軒の住居と建物があるが行き止まりだ。ここからヘアピンのように左折する。車道の幅はあるが通過は困難だろう。
      六所山を遥拝する東宮口へ(ひがしみやぐち)へ
 荒れた舗装から地道になり、きり開きを越えるとまた舗装路になる。桧、杉の植林山の山腹を巻く感じだ。残された渋柿がたわわに実っている。照葉樹林の青、雑木林の彩り、針葉樹の植林と変化する。車道は一旦下って軽く乗り越す。ほとんど平坦な道になった。そのまま歩くと六所神社のある東宮口に着いた。東宮(とうぐう)とは皇太子の意味があるが、橋の名前のところに地蔵橋とあり、宮口川とあったので宮口の東の意味か。
 ここは六所山の麓であり里宮である。農村舞台もある。あるHPにはかつては宮口村といい、社領だったという。村の氏子二人が毎月二度、上宮(うえみや)清掃の当番に当たる、と書いてある。宮口音頭まであるそうだ。数分下ると、坂上町字金姓(かねしょう)の地にある下宮一の鳥居が建っていた。鳥居からは六所山が背景に見える。あの山は明神山(六所大明神)とも呼ばれたが、山全体が御神体であり、古代からの遥拝地なのであった。なぜかここだけが残されたのも神聖な場所だからだろう。
     神聖な六所山遥拝の地を育む水田
 それにしても仁王への分岐にある宮口川の橋から眺める六所山は素晴らしい山容である。三河三霊山(三河本宮山、猿投山)の一つというだけはある。緩やかな丘陵地形に挟まれた谷の風景は、鎌倉市辺りならば谷戸(やと)という地形である。多すぎない水量の宮口川は美しい水田を潤す。地形図を眺めると六所山の西麓だが、南側の山が低く、朝早くから陽光に恵まれるのだろう。そして水田を北側に集約し、宮口川を南の山陰に寄せて流す。北側に民家も寄せているが、背後からも小さな流れがある。制御しやすい湧水は農業に助かる。
 十二月の今は穭田(ひつじた)になっている。地味が豊かで今にも生育しそうだ。「刈り取った稲の株から再び生えてくるひこばえを穭(ひつじ)といい、一面に穭の生えた刈田を穭田という。乾いた田の面を吹く風に弱々しい青い葉が揺れているのは晩秋の寂しい眺めだが、中には青々と葉が茂って、小さな穂をつけるものもある。枯れ果てた四囲の景の中でその青さは目にしみるが、やがて霜が来ると白々と枯れてゆく。それまでの間、穂をついばみに」降りてくる小鳥の声がしばらく穭田ににぎわいとなる」(水原秋桜子編『俳句小歳時記』大泉書店 より)
 六所山は農の恵みを与えた山だった。
     仁王から天下峰へ登る
 宮口川に沿う細い車道を下ると仁王に着く。ここが天下峯の登山口になる。王滝への道から右折すると民家が肩を寄せ合うように建っている。奥まで歩き橋を渡る。奥の民家で行き止まりとなるので細い山道に右折する。すぐに安全寺に着く。松平親氏が天下泰平を祈願したという謂れが書いてある。山門には天下山とある。
 奥へ入るのは略してそのまま植林内の山道を登る。細い車道に出ると天下峯への小さな道標がある。車道を登って行くとほどなく天下峯への山道が分かれる。楓の冬紅葉が美しい。右はフリークライミングのゲレンデに直行し、上部で左折する。そのまま車道を行くとトイレとPがある。すぐ右手に天下峯への山道が登って行く。
 どちらでも良いがこちらの方が少しは短い。周囲は巨岩の並ぶ急峻な山腹である。その所々に石仏が安置されて心休まる。クライマー達は大きな取り付くシマのない巨岩に取り付いて攀じ登る。その横をすり抜けて階段状の道になるとすぐに巨岩の横たわる頂上である。13時少し前に着いた。
 頂上からは豊田市の市街地も眺められるが、何といって六所山の眺めが良い。左には兄貴格の焙烙山も並ぶ。少し背が高いが山格は六所山に及ばない。松平親氏はここからやがて天下を治めるぞ、と祈願した。企業経営者なら何々で日本一になるぞ、とか、願うことだろう。トヨタが日本一から数十年で世界一を実現したように願わないと実現もしない。13時30分過ぎ、下山。
     東照宮へ
 元の仁王へ戻る。361号を王滝へ歩き、橋を左折。豊松小学校のある峠道を越えて360号へ下る。少し登り返して東照宮へ2.3kmの案内のある車道を歩く。羽明という山さとを経て登ると沢連(そうれ)に着く。往きに見た在原家の墓所のある在原山に寄った。在原家は松平の遠祖という。徳川さんは先祖を大切にしたんだろう。
 車道を下ると松平郷に戻った。山頂から東照宮まで約4kmで1時間程のこと。ほぼ4時間弱の山里ウォーキングでした。東照宮には大勢のハイカーが説明を聞いていた。Pには大型のバス1台があり団体さんらしい。閑散と思っていたが意外にも午後から来訪する人が多かったようだ。

晩秋の蠅帽子嶺に登る2015年11月01日

            地元の本巣市で買い物
 10/31から11/1にかけて旧根尾村の奥山に遊んだ。10/31の朝10時にIKさんと金山駅前で合流し、一路、美濃路へ向かう。R157へ入るのが一苦労で、何とか本巣市に着いた。ここでもう1人のINさんとも合流した。最初の寄り道先は本巣市の大きなスーパーに入る。今夜の夕食の食材の調達である。白菜一束、鶏肉、キノコ類、副食類を買う。3人分で2800円ほどになった。後はお好みでビール、行動食などを買う。名産の柿も美味しそうだが、帰路の土産に買うことにする。
             根尾谷の奥へ
 R157を2台で旧根尾村の能郷白山の麓の大河原に向かった。現在はうすずみ温泉までは二車線の立派な国道だ。その先は車の幅一杯の酷道に豹変する。根尾能郷を過ぎると、いつもの倉見七里の険路を走る。飛び石連休のせいか温見峠から来る車もかなり多く、すれ違いに冷や冷やする。難所を通過すると廃村黒津に着いた。屋根が抜けて朽ちて行くばかりの哀れな廃屋が点在する。そして最奥の廃村大河原も閑散としていた。もう出作りの旧村民も山を下りたのか。
 その先の猫峠の道は全面通行止めだった。ハエ帽子峠の登山口の標示のある分岐に来た。今夜の寝場所探しになった。平地、水の確保、道路から隠れる、湿地でないこと、それに焚き火の枯木があることを条件に少し先まで走って見つかった。太い雑木林の木立の雰囲気が良い。早速、テントを張った。周辺から枯木や枯れ枝を集めた。枯れ枝を箒代わりにして落ち葉を掃きながらうずたかく盛り上げた。IKさんは川へ水汲みに行く。食材を並べて準備もした。少し早いが、落ち葉の山に古ダンボール紙をちぎって、着火した。湿り気はあるがすぐに着火してくれた。小枝を乗せ、火が乗り移ると、太い木や濡れた木もかぶせる。火力で湿気も蒸発する。何とか勢いがついた。
            山猿の咆哮
 近くで、山猿の、遠くには鹿の咆哮を聞いた。特に山猿は対岸の山腹がコロニーであるらしい。集団で吼えている。気味が悪い。火を使う我々を警戒中とも思う。鹿は妻恋の叫びだろう。

      ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿     芭蕉

 野生のプンプンする山奥の闇の中で、白菜、鶏肉、うどんを煮込んで食事を楽しんだ。どんな話も楽しい。
            焚き火は寂しがり屋 
 時々は焚き火の火加減を見た。焚き火は寂しがり屋なのである。枯木を追加してやり、時にはウチワで仰いで酸素を強制的に送ってやらないと元気がなくなる。焚き火は何よりも人間の話を聞くのが好きなのである。焚き火を囲んで取り留めの無い話をするとまた勢いを取り返す。どんな話でも喜んで聞いてくれる。火力の衰えは話を催促するかのようだ。
 そのうちに小型のパトカーが温見峠に向かって疾走していった。しばらくすると救急車、消防車が赤い回転灯を点けながら走ってゆく。何事か事故が起きたようだ。焚き火が終わりかけた頃、救急車が警笛を鳴らしながら町に向かって疾走していった。消防車などは回転灯は消灯して普通に還って行く。事故処理は終わったようだ。こんな人里離れた僻遠の地でどんな事故があったのか。

 対岸の山腹から、再び山猿の咆哮が聞こえた。焚き火を処理してテントに入った。うるさいから早く寝ろ、と言わんばかりに聞こえる。

            11/1は歴史の山路へ 
 寒い夜だった。テント内はびっしょり濡れている。冬用羽毛シュラフでも手を出していると寒い。もう初冬の寒さであろう。6時に起きてすぐに食事の支度に入る。昨夜の残り汁に白菜の残りなどを入れてまた煮込む。うどん汁の追加をすると味が良くなった。食べられるか心配したが殆ど残さずに平らげた。テントを撤収。ゴミともマイカーに積み込んで出発する。分岐付近の駐車地で準備中に尾張小牧ナンバーの単独登山者が着いた。早朝に出発したらしい。行先は同じだ。
 登山口まではすすきや笹が刈り払われて4WD車なら何とか走れそうな車道を下る。難なく登山口に着いた。この切り開きは昨年の2014年は水戸天狗党の事件から150周年のイベントのためだったのだろうか。
 ここから対岸まではロープが張ってある。事前に渡渉があることは伝えてあるのでそれぞれが工夫して渡渉した。名古屋市指定のゴミ袋を2重に登山靴の上から履いた人、ビニール製買い物袋を両足に掃いた人、単独の人は胸まである釣師御用達のゴム長、私は膝まであるゴム長だったが、渇水期なのでゴム長でも水は入らずに渡れた。
            武田耕雲斎らの辿った山路
 対岸で登山靴に履き替える。杉の大木の横の乳くれ地蔵を横目に長い尾根の末端に取り付く。全山自然林である。藪がややかぶさる程度の野生味のある登山道はかつての記憶そのままである。
 水戸天狗党の武田耕雲斎ら800名は150年前の12月初旬にこの山路を乗り越して、越前国に入り、山伝いの村落をつなぎながら、敦賀市まで苦難の旅を続けた。800人というから先頭から最後尾まで1人分1m超の間隔とすると、ほぼ1kmの隊列になっただろう。馬もいたし、大砲も分解して運んだという。徒労といえば徒労の旅だった。苦労も空しく京都の徳川慶喜には会えず、越前藩は優遇してくれたが徳川幕府方に渡ると鯡倉に押し込められてその後は斬首にされた日本刑法史上最悪の結果になった。日本の夜明け前の暗さを反映したような事件だった。
            シロブナの純林の道
 ジグザグの急登が終わると、地形図に表現された尾根を忠実に辿る道と山腹を巻いてゆく道に分かれる。そこに朽木が横たわるが、知らないとそのまま山腹道を辿る。我々も往きは山腹を歩いた。標高が高まるとブナの自然林になった。木肌の奇麗なシロブナという。日本海側の樹種で純林を構成する。
 気温が低いせいか、汗をかいているはずなのに爽やかな気分である。周囲は鮮やかな黄葉というわけではない。今年は雨が少なかったせいか、黄葉する前に枯れている葉も多い。十分な水分を吸いあげておればもっと美しいだろう。
 シロブナの純林を堪能しながら歩いていくと、やがて、943mの道標を見た。傾斜が緩くなって歩きやすい。純林はここからが本番だった。そして県境に近づくと尾根がやせてきて、傾斜も急になった。峠道は尾根の左へ振る。すぐに稜線へ上がる近道の目印もあった。急な傾斜の山腹を横切るように歩く。すると谷にも道標があり県境へ行けるようだ。以前はここへ下りた記憶がある。
 峠道は今までと違って、藪が繁り、歩きにくくなった。同行者らは野生味があると喜んではいたが・・・・。県境に沿うように横切って行くと地蔵が祀られている蠅帽子峠に着いた。水戸天狗党のことを書いた道標が立っていた。まだ新しい。そこで一休みした。峠に着く気分は格別である。

    峠見ゆ十一月の空しさに    細見綾子

 福井県側の山々は枯れ切っていた。IKさんが、あっ、あれは白山、と叫んだ。樹林越しに荒島岳も見えたが、冠雪した白山が見えて我々山旅人を喜ばせた。十一月の山ならでは風景である。空しいどころか、我々には嬉しい。部子山銀杏峰、姥ヶ岳、道斉山、堂ヶ辻山、屏風山も見える。越前側は完全な廃道らしい。かの天狗党は越前側に下るが、村々の家は焼かれていたという。係わり合いになるのを恐れたのか。
           蠅帽子嶺の三角点へ
 峠の越前側から尾根へ踏み跡が上がっている。これが三角点1037mに登る踏み跡だ。踏み跡はすぐに消える、又現れる、激しい藪に前途を阻まれながら3つばかりのピークを超えると三角点だった。先行の単独行者がいてあいさつした。落葉しているので見晴らしは良い。能郷白山が大きい。比高600mはあるから当然だ。
 単独行者はコンロを片付けるとさっさと下山していった。又静寂が戻った。3人だけの世界になった。するとどこからか一頭の大型の蝶が飛来してきた。アサギマダラだった。まだこんな山奥に居るのかと驚いた。先だって三河の三ヶ根山で見たばかりである。秋の蝶は弱弱しいというが何のそのという感じだ。
 我々も下山の時が来た。先ほど見つけた下山の尾根に下るポイントに戻り、激しいヤブ尾根を辿った。踏み跡程度だが結構な道のように思える。谷に直降するルートは見つからず、尾根を辿ると峠道に戻れた。地形図どおりである。漫歩気分でブナの純林の街道を下った。943mポイントをチエックした。IKさんが痙攣を起こして遅れたので休憩を取った。鞍部から右は先の方で倒木で塞がれていたから908mポイントへ軽く登った。誰もが記憶の無い道標だった。地形図の尾根を辿る旧来の道だった。広いために踏み跡が分散し、見失い勝ちになるが何とか凹んだ道形を探し、つないで下った。すると見覚えのある元の山腹道に合流できた。908mのピークを避ける道は後から付けられたのだろう。道の凹みは多くの旅人の足跡であろう。
 合流地点からはしばらくでジグザグの道を下った。長い気がした。やがて谷の音が聞こえると、長い峠道も終わる。再び各自のやり方で渡渉した。車に戻ったのが14時10分。出発は8時10分だから丁度6時間のアルバイトだった。また膝の痛みがぶり返すかなと思いつつも充実した山旅を堪能した喜びが優った。
 帰路は再び道の駅「綾部の里」に寄り、名産の柿の一袋を購入した。晩秋の美濃を後にした。

円空と和歌2015年08月16日

 8/15はお千代保稲荷のお参りを終えてから、まだ帰名するには早いので、高賀山の麓の洞戸の円空記念館に出向いた。先週の8/8には円空の第二回歌集展が開催されてシンポもあったが山行でいけなかった。気になっていたシンポであるが文書には残されなかった。その代わり、円空和歌集という小冊子が発行された。(500円)15首ていどの和歌を見開き2ページで4首掲載し、簡単な解説を加えて、自筆原文の写真も併載された。
 閉館間際で、さっさと巡っただけであるが、私1人だけだった。原文は解読不能で、解説者が欲しいね、と言ったら、係員が気を利かして色々解説をしてくれた。とわいえ、専門家ではないので断片的な話に終始するが、それでも脳髄を刺激するヒントは得られた。来た甲斐があったというものである。

 ”立上る天の御空の神なるか高賀山の王かとそ念”

の作品の解釈は雨上がりの高賀山の風景の美しさを詠んだとされる解釈になっている。もっと踏み込んでブロッケン現象を見た感動を書きとめたのではないか、と言ったら、登山したことがある人はそういう解釈もできるね、と賛同いただいた。
ソースは草加の山の会のHP
http://www.soka-yamanokai.com/study/study09.html
から一部転載すると
(1823年8月5日に笠ヶ岳に登り、)「夕方山頂に着き、播隆上人と信者達は燈明を捧げ、焼香三拝していると太陽が西の空の雲に隠れようとした時、ブロッケン現象が現れ、これを「一心念仏の中、不思議なるかな阿弥陀仏雲中より出現したまう。」と「加多賀岳再興記」には記してある。ブロッケン現象とは大きな丸い虹の様な光の輪が雲の中に出来、その中に登山者の影が映るのだが播隆上人や信者達は阿弥陀様が雲の中に出てくれたものと大変感激し、笠ガ岳を霊山として開く為より登山道を整備することとした。」
 播隆上人は和歌は残していない。笠ヶ岳は高山だからとも思ったが、ブロッケン山(ドイツ)は標高1141mだから高賀山(1224m)よりも低い。板取川と長良川に挟まれて山霧が発生しやすい。山頂にビバークして確かめたいものである。

 来館者からは円空の和歌の解釈本が欲しいとねだられるそうだ。私も欲しいと思う。

 今まで気が付かなかったのは仏像のみならず、人麻呂像も彫っていたことだった。しかも写真には愛知県で発見されたことが分かる。これは何を意味するのだろうか。円空の和歌修業はどうやら愛知県に居て、人麻呂の和歌を解釈できる高僧ではなかっただろうかという推測は成り立つ。
 
 愛知県の荒子観音は円空研究は荒子に始まり荒子で終わるというほど豊富なんだとか。このことからも円空のスポンサーは愛知県にいたことは想像できようか。毎月第二土曜日に開陳されるので一度は拝観したい。

 円空の和歌は古今和歌集(905年成立)に学んだ気がする。古今和歌集にも人麻呂は歌聖として崇められる立場にあった。人麻呂の塑像は歌聖として自らの和歌のお手本にしたと思われた。
 その根拠は万葉仮名で書かれた万葉集は平安中期以降は読めなくなっていた。951年から訓読みの作業が始まったとされる。いつ終わったのかは不明。

円空の和歌は
 ”わが母の命に代る袈裟なれや法のみかげは万代をへん” 
 ”世に伝ふ歓喜ぶ神は我なれや口より出る玉のかつかつ(注:数々)
柿本人麻呂の和歌は
 ”山の間ゆ出雲の子等は霧なれや吉野の山の嶺にたなびく”

とあって、技巧的に取り込まれたのだろう。

 土屋文明『萬葉集入門』によると、「人麿とその模倣者」の見出しで、
・細部まで完成されて未熟、未完成というべきところはない。
・人麿は広く模倣されている。
・人麿後の萬葉集は皆人麿の模倣と見てよい。
・人麿を越える人はいなかった。
・萬葉集は人麿において頂点に達し、人麿に終わっている。
以上を読むと歌聖といわれるはずだ。円空の時代でも既にそんな評価だったのである。

 仏像の制作をもって遍く旅した円空であるが、江戸時代には珍しくなかった。

 菅江真澄は愛知県豊橋市で生まれ30歳で東北の旅に出た。旅の途上で薬草を採集しながら地もとの医者に売って路銀を得ていた。また宿泊のお礼に絵図を書き残した。

 松浦武四郎は三重県松阪市の生まれ。北海道へ旅するが宿泊先では篆刻の技術が役立った。主に篆刻を彫って置いていった。アイヌの部落では薬草の知識が役立った。

 円空の場合は大衆への祈りの心を形に残したと言える。しかし和歌に傾注したのは何だったのだろうか。仏像だけでは表現しきれない繊細な心は言葉にして残すしかなかった。韻文と言う形で高貴な階級とも交流があったのではないか。解明が待たれる。

第2回円空和歌集展 永遠の微笑みと慈悲2015年07月19日

 関市洞戸円空記念館において、平成21年以来となる、第2回和歌集展が開催される。去る5/3に見学した際に、円空の和歌に興味があることを伝えたら、講演会があると示唆された。係員が名前と住所を書いておくようにといわれ、書いておいたら、約束どおり案内が送付されてきた。 

日時:7月26日(日)~9月30日(水)
入館料:200円(但し、7/26~8/8間は無料)
開館時間:AM9:00~PM4:30

 立上る天の御空の神なるか高賀の山の王かとそ念(おもふ)

 一般的には霧が晴れ上がって高賀山が見えた。その立派な山容に高賀山は神でしょうか。いいえ、王=天皇の子孫だと思う。と解釈するのか。

 しかし、円空は単に写実的な諷詠ではなかった。言葉にも宗教性があるので、私は修行中にブロッケン現象を見たと解した。高賀山に立上る山霧に自分の姿が映り、それを神と見たのである。そしてそれは天皇の高貴な身分の子孫であることよ。というのだ。
 例えば木地師の祖とされ、御綸旨を出した惟喬親王は王よりは位が上とされる。この心情は今では理解しがたい。真の解釈を知りたいものです。

8月8日(土)にはほらどキウイプラザで、円空シンポジュウムがある。円空研究の第一人者の長谷川公茂氏の基調講演も開催。氏をコーディネーターとするパネルディスカッションも開催される。
PM1:00~PM4:30

 円空仏だけならまだしも和歌に関心があるので是非にも行きたいが、先約が入った。どうしよう。