八風街道の文献調査2022年10月05日

 10月2日は秋日和でした。
 中央アルプスの寂峰を予定していたがキャンセルに。八風街道の文献調査の宿題を片付けるために菰野町と東近江市の図書館をはしごするドライブに行く。
 先ずは菰野町図書館へ。午前中というのに既に暑い。司書さんに来館の目的を告げると親切に立ち合って出してくれた。菰野町史はコピーを依頼、後はスマホに撮影。
 次はいなべ市のR421から石榑トンネルをくぐり東近江市湖東町へ。道の駅はごった返していたのでパス。R307から西堀栄三郎記念館へ。湖東町に何の縁か、親が近江商人でこの地で商売していたらしい。知恩院で西堀さんの墓を見たことがあったが近江の人だったのだ。
 八風峠について書いた文だったか「峠は高い程良い。高い分高く売れる。」と近江商人の心意気を書いた文を思い出した。数ある鈴鹿の峠でも高く険しい。
 ビジネスとアルピニズムは一脈通じる。リスクとは日々の糧を得るという意味のアラビア語だが、高い程リスクもあるが満足感や儲けも大きい。
 盟友の今西さんも展示されていた。
 隣の湖東町図書館で調べたが核心的な史料はない。永源寺町図書館へ移動。やはり永源寺町史は核心を突くのでコピーを依頼した。
 R421を走ると永源寺そばを謳う蕎麦屋に吸い込まれた。昼ご飯を食べていなかったからだ。天ざる蕎麦1300円也。この蕎麦は美味しい。
 杠葉尾の山家をぬうように狭い旧街道を走ると八風街道の面影を残す「左 いせ」の道しるべを発見。伊勢参りにはこんな険しい八風峠も越えたんだ。来た甲斐があった。

『稲武の地名』から②2022年08月08日

 続き。桑原と笹平の九沢にまたがる後山も桑原の後ろの山という意味。稲武は蚕の養蚕が盛んだったらしいのでありうる地名だ。水草の里の地名は628mの東側の谷に「水クサ」とあった。九沢から笹平へ行くとU字形の谷筋一体を指す。

『稲武の地名』から①2022年08月07日

 夜中に探してやっと『稲武の地名』が見つかった。これは新聞の広告で見たのだろう稲武町役場で購入した。平成元年5月25日付の領収書がはさんである。
 地形図に地名を書き込んで行くと段々イメージが具象化してきた。古橋和夫『三河宮尹良親王ー稲武の尹良親王とその周辺』にある足跡と合わせて次の行動の目的がはっきりしてきた。
 8/6に車で走った寺洞林道の峠付近が御所屋であった。左側の山が寺洞山となっている。峠に石仏みたいなものはちらっとみたが先を急いだことと帰路は雨で未確認のままだった。ここに歌碑が建立されている。餅洗い石もここにあるはずだ。
 4等三角点のピークから720m付近が「マコ」という。石がごろごろあるところということらしい。720m地点まで行って見ると何か分かるだろう。

奥飛騨の木地屋渓谷を歩く2022年07月02日

 連日40℃を越える猛暑にうだる。そんな名古屋から約180km3時間ほどで飛騨高山市の奥座敷のような木地屋渓谷に着く。
 「飛騨山脈ジオパーク構想」のHPには木地屋渓谷を次のように紹介する。
「丹生川町折敷地、丹生川ダムの上流域にある渓流です。
ダムをのせている五味原文象斑岩は、およそ6600万年前に活動した大雨見山火山のもとになったマグマが上昇してきたものと考えられ大雨見山層群との複合岩体です。
水平に近い節理面があるため、河床は滑らかに水を流し川遊びの好適地となっています。」
「高山市丹生川町の北部、荒城川流域は飛騨地方の地質を特徴づける大陸棚のようなところで堆積した飛騨外縁帯の森部層、荒城川層を土台としています。大雨見山を中心に活動した火山の大雨見山層群が広く分布していて、さらにその上を槍穂高カルデラ火山の丹生川火砕流堆積物、上宝火砕流堆積物が覆っています。
上流域には大雨見山火山のもとになったマグマが地下深いいところで冷え固まった、五味原文象斑岩とよばれる大きな岩盤が上昇しています。
丹生川ダムはこの岩盤を土台にしてつくられています。
秋には紅葉が水面に映え、別天地の風情が感じられます。」
「丹生川ダムの堤頂部を渡り、五味原湖のほとりを進むと木地屋渓谷の入り口に着きます。
橋を渡り右手の細い道へ入ってゆくと、右側に美しい渓流を眺めながら散策することができます。
河床は平らなナメになっていて、夏場の川あそびにも好適の場所です。」

・・・というわけで、沢登りファンにはよく知られている。
 7/1の午前6時過ぎに金山駅前を出発。約180kmでダム湖に着く。先行の2人の男女が出発して行った。
 落葉広葉樹林の覆うナメの美しい溪谷である。ところどころの滝も右岸左岸から登れて困難さはない。
 途中で冷や麦を作る。左岸から湧水がありとても冷たい。冷や麦向きの水である。Wさんがガソリンストーブを出し、コッヘルで冷や麦をゆでる。ゆであがると熱湯ごとネットでゆで汁を濾す。冷水を通して出来上がり。運動後なので舌触りもよく美味しい。
 食事中、蛇が這い上がって岩を登っていた。水をかけて追い返そうとしたら落ちた。瞬間にこちらに向かってきてびっくりしたが、岩の下に潜り込んで行った。なんだったのだろう。
 岩のごろごろした渓相になると途端に快適さはなくなる。しばらくで再びナメに戻った。足を滑らせておれば良いので楽である。ナメにも飽きたころ二股になり、木地師の道具類を収めた小屋の前で沢から上がった。後は林道を歩いて車に戻った。
 帰路は恵比寿の湯で一風呂浴びた。これも快適である。さらにおまけでメンバーの一人が味付きのアブラ揚げが美味しいので買って帰りたいという。R158沿いの農協で物色するとあった。5人がそれぞれ買い求めた。今日は良く売れたであろう。
 後はまた高速で帰路につく。車の温度計は34℃である。名古屋は蒸し暑いだろうな。

杣路峠を越えた人々2022年06月29日

愛知県旧稲武町の野入町のR153にある案内板
1尹良親王・・・南朝時代の後醍醐天皇の孫

2菅江真澄・・・江戸時代後期の紀行家

3武田信玄・・・戦国時代の武将

4武田勝頼・・・信玄の子

6中馬街道(塩の道)・・・三河湾で製塩して川船で岡崎へ。足助で馬に積み込んで塩尻まで運んだ。

6善光寺・秋葉・伊勢参りの参詣客・・・伊勢神峠は伊勢を遥拝(拝む)する信仰の拠点だった。伊勢までは遠くここでUターンしたものかどうか。

7食い物・・・味噌醤油は大豆と塩から作る。塩の道で信州に販路が広がり、携帯に便利なファーストフードが開発された。即ち、五平餅である。

・三河ではご飯を杉の板につぶして小判型にまとめ、炭火で焼いて味噌だれを掛けたものを食う。

・稲武を美濃へ行くとだんご形の五平餅が多い。木曽街道はだんご形だ。ところが塩尻は小判型になる。混沌としている。

・飯田にも小判型の五平餅がある。

・最北は信州の鳥居峠の茶店だった。


根羽村のHPから

       歴史について
 古代・中世の根羽・月瀬村両村は三河の国に属していました。
 現在の愛知県東加茂郡全域と豊田市・西加茂郡・北設楽郡及び長野県の旧根羽村・月瀬両村を含む広大な区域は、古代の 平安時代(794~1.185)後半に高橋新荘が成立し、中世に入り鎌倉時代(1.185~1.331)には鎌倉御家人の荘官足助氏の 支配下に入ったと伝えられています。
 根羽の地は鎌倉時代は加茂郡名倉郷にあり、南北朝時代には加茂郡足助庄に属した とされています。 享禄年間(1.528~)には阿南町新野の関氏の勢力が三河に及び、天文十年(1.541)には旧根羽村・月瀬村に及んだと されています。 天文十三年八月十三日、下條氏によって関氏は滅ぼされ、下條氏の支配下に入ったのは、弘治ニ年(1.556)新野峠が 武田軍によって改修され、下條信氏が武節谷合戦で功を上げた頃と思われます。
 信玄南下作戦の一環として元亀二年(1.571)四月、足助松山城が攻略され、根羽・月瀬両村はこの時以降武田領となり 三河国から信濃国に編入となった。
 以後、天正十年(1.582)武田氏滅亡により、織田知行所に変わり、同年、織田信長の 自刃により徳川氏の天領となった。宮崎信州代官・飯島代官所支配などを経て、慶応四年(1.868)尾州取締所預かりとなり、 同年八月の廃藩置県により伊那県に編入となった。 明治四年(1.871)筑摩県、同九月に長野県となり、。
 明治8年(1875年)1月12日、根羽村と月瀬村が合併し、現在の根羽村 となり、今日に至っています。16世紀までは、三河国加茂郡に所属していた経緯もあり、隣接する豊田市、さらに西三河の刈谷 市・安城市とも交流がある。村内を流れ三河湾に注ぐ矢作川や、豊田市と通じる国道153号の影響で、愛知県西三河地域と の結びつきが強い。
以上

 HP「古い町並み」から
 東海地方より信濃・信州への入り口に位置し、古くより「塩の道」として三州(伊那)街道に沿う村落として開けたものと推測される。古くは三河国足助郷に属し、室町時代には関氏の、その後下条氏の、続いて武田氏の支配下にあった。
 伊那街道(現国道153号線)16宿の最南端に位置し、岡崎・名古屋に通じる足助道(現国道153号線)、南方の折元峠を経て新城方面に向かう新城道、その他、岩村・明智に向かう岩村道などが交わり、中馬の往来が盛んで問屋や馬宿多数が存在した。
 そこへ江戸中期より善光寺・秋葉・伊勢参りの参詣客が加わり、根羽宿は荷問屋・旅籠・馬宿・茶屋などが並び賑わった。
 中馬頭数は宝暦10年(1760)5戸20頭が天保13年(1842)には63戸250頭になり、農間余業から漸次専業化した。明治に入ると更に増加し、明治19年には飼育頭数426頭を数えた。
 明治14年の中馬宿は14軒で、半年間に泊まった中馬数は8,400頭に及んだ。
 今、根羽村の中心地、街道の交差する辺りを歩くと、旅籠屋の形態を残した家屋が多く見られる。只、私自身中馬宿を知らないので、旅籠屋形式の建物でも中馬宿だったかもしれない。交差点あたりにゴハンギョと呼ばれる明和8年(1771)の道標石がある。この辺りが宿の中心だったようだ。
以上
・・・稲武の後山は秋葉信仰の山だった。石碑も新しいのでまだ何らかの信仰の行事は継続しているだろう。「後山」のみを検索すると1344mの岡山県の最高峰のみヒットする。国地院のHPで「後山」を検索するとたくさんヒットする。トップが稲武の後山になる。順序の意味は不明。

三信国境の杣路峠2022年06月28日

 山岳古道の調査のために歩いた。江戸時代は飯田街道と呼ばれた。今の国道153号である。名古屋市から豊田市足助町、稲武町、長野県飯田市へと通じる。三河湾で取れた塩を足助まで運び、荷馬に載せて塩尻市まで運んだから塩の道ともいう。今回は飯田街道のうち、昔のままに残されている峠の山道を歩いた。
 最初は伊勢神峠を上下した。ここは東海自然歩道に整備されて道標が建ち、誰でも手軽にハイキングが楽しめる。多くの峠が車道になる中でここは古い時代に一車線分の幅のトンネルが掘られて峠越えはない。更に下にトンネルが掘られている。そして新たに大型車がすれ違える幅の新トンネルが工事中である。
 伊勢神峠は斃れた荷馬を弔うための馬頭観音も建っていた。塩は重いから馬も喘ぎ喘ぎ上り下りしたであろう。歴史遺産とも言える。結構太い杉木立がいい雰囲気の峠道だった。ここは短いので早く下山したから次の目的地の杣路峠の入り口に向かった。
 国道153号を東へ向かい稲武を通過、木地山の先に入り口がある。しばらくは林道を歩くが少しで沢沿いの山路に入る。伊勢神峠道と違ってここはまったくの未整備だから、道幅は狭く、沢に架かる橋も壊れそうだ。やがて沢から離れるが、道は左折するところを直進してしまった。途端に道らしい雰囲気はなくなり、右往左往して道の痕跡を探す。沢の左岸に石仏を眺めると峠道とすっかり信じた。それでも道らしい気はしない。地形図では沢から離れ山腹の破線路に描かれる。結局、おかしいので左へ左へと徒労とも思えるトラバースをしてやっと峠道と確信できる踏み跡に到達した。そこからすぐに愛知県と長野県境の境の道標の建つ所に着いた。ab780m付近。信じられないほど緩やかな蛇行を繰り返して大きなブナの木のあるユキヨシ親王の社に着いた。ここは以前、長野県側から来たことがある。そうして新たな林道をたどると待望の杣路峠だった。とはいえ、新たな林道の工事で切通しになり、石仏ははるか上に見え、峠によくある道標はなく、通り過ぎた。メンバーの一人が何気なく見た印が杣路峠の道標だった。プラスチック製のお粗末なものである。これで目的は完遂した。
 林道が四方に分かれている。885mの3等三角点畑ヶ洞は徒歩30分程度とみて帰りがけの駄賃に触りに行くことにした。展望、山頂標もなく、頂上らしくもないが、本来の山頂はこんなもので素っ気ない。ここで初めておにぎり一つを食した。久々の山行で軽登山ではあるが腹筋が締まって空腹感はないので水分はごくごく飲んでいる。
 後はそろそろと下山。県境に戻り、峠道の発見場所からは未知の峠道になる。まことに歩きやすく、ずいぶんカーブもしている。重い塩を背負った馬がゆっくりと体に負荷を減らすように緩やかなカーブになっている。一か所は決壊場所もあったが上から巻いた。問題の道迷いの分岐には大きな栃の木があった。直進すると枝道と分かった。そこで少し戻ってみたら栃の木のあるところで左へ急カーブしていた。ここだったんだ。
 道迷いの原因も判明して車に戻った。国道153号を走り、水別峠の手前で中馬記念館?に入館し塩の道をにわか勉強した。すべて終わり意気揚々と帰名。

稲武の歴史散策~後山を歩く2022年06月25日

 稲武の山と言えば、夏焼城ヶ山が有名である。稲武の山里からは端正な富士山の姿に見える。もっぱらハイカーの人気を独占している。麓の夏焼を冠して夏焼城ヶ山と呼ぶ。歴史的には山の西半分の麓を塩の道が通っていた。今は国道153号が平行する。忘れられた歴史の道である。
 もっと調べて見ると、御醍醐天皇の皇孫の尹良親王の隠れ済んだ山里としても一部の人には知られている。その名残は「御所貝津」町の地名にある。6/12、6/18、6/25と訪ねて見た。
・6/11は御所貝津町の笹平をドライブしただけに終わった。取り付く島がないと思った。確かに黒田川沿いに腰かけ岩はある。信憑性は?はどうかと思う。
・6/18は同じ道を走ってみて、振り返った時に発見があった。小雨模様だったが、単なる乗り越しであるが、車を降りて見て、乗り越しを振り返ると地域の足として走らせているバス停の名前に地蔵峠と書いてあった。これで地名を特定できた。周辺を歩いて見て山里の人に訪ねて見たら、「ユキヨシ様の祠ですか」「あそこにありますから案内します」との親切な申出があり、祠も特定できた。
・6/25は御所貝津のシンボル的な後山を歩いて見たのである。後山の地形図を見て、破線路につながる入り口を探した。東へ延びる尾根の末端の山形まで走ったが山への入り口は見つからない。南の桑原町の神田辺りから適当に地道を分け入った。ここは熊野洞と言い、後山に着き上げる沢である。武節古城の案内板があった。奥まで行くと車道は行き詰まる。Y家の物置と墓になっている。戻って、神社記号(熊野神社)との交差点にPスペースがあるのでここにデポした。とりあえず武節古城に行くと確かに古代の城跡の感じはある。
 戻って、車道を歩くと後山から真南に伸びる尾根に明瞭な掘れ込んだ山路があったので入ってみた。この山路は何の目的は不明ながらしばらく続いた。そして植林内でうやむやになったが尾根芯をたどれば歩ける。ずっと登ると左の久沢から来る尾根に合流。たどると山頂だった。頂上には三角点はなく、小屋が建っている。後ろには地図に無い携帯電話のアンテナが建っている。他には何もない。
 右に続く車道を下ると、稲武町の電波塔が建っていた。これは地形図にある。この前には破線路が登ってくるはずが何も見えない。下りきると秋葉山の参道とした新しい石碑があった。ここは火伏の神だったのか。駐車スペースの奥に地形図の実線の道があったが、これはよく踏み込まれた道であった。多分参道の続きだろう。一方で、東への尾根にも踏み跡が続いている。これが地形図の東尾根の入り口だろう。
 6/18は車でこの近くまで来たが雨で道路がぬかるんでいたから引き返したところである。このまま下ろうか、と思ったが山頂へ戻り、久沢からの尾根を下った。明瞭な尾根なので道はないが歩ける。最初の水田記号まで下ると水田へ下る道があり、下った。今は廃田で草生す平地が悲しい。そして久沢からの車道に出れた。
 久沢の山里を下ると6/18には不明だった4等三角点も分かった。標石ではなく、基準点だろうか。そのまま歩いて、九沢の媼に教えてもらった、桜の木の下の石仏も拝観した。南西への車道を歩き、乗り越しから628の独立標高点のあるコブに行く。登山道ではなく、踏み跡でもないが作業道があるので歩ける。628mのコブを取り囲むように歩き南へと下がってゆくところで、地蔵峠に行く尾根を過ぎてしまい、戻ってきた。ここも微かな踏み跡はあった。そして6/18に拝観した尹良親王夫妻の祠に出ることができた。地蔵峠に下って車道を歩き熊野洞のPに着いた。帰路は熊野神社に参拝した。立派なお社である。
 半日程度の散策だったが大汗をかいたのでどんぐりの湯で汗を流した。まだ少し時間があるので旧浪合村の尹良親王の墓を訪ねた。ここも地形図に記載されるだけはあり、立派な神社と宮内省管轄の菊の御紋のある墓も拝観できた。突然夕立に見舞われたが、治部坂峠を越えるとぱたっと気象が変わる。木曽山脈の東西で大きく変わる。

青嵐八風峠風止まず 拙作2022年05月14日

 朝7時金山駅前に集合。8人で2台に分乗して出発。往きは東名阪が工事中で混むので伊勢湾岸経由で行く。1台は菰野ICから田光を経て八風峠登山口へ、もう1台は大安ICから石榑トンネルを経て近江側の登山口へ向かった。
 私は伊勢側の旧知の街道を歩いた。田光川に沿う山道を行くと新緑の今は山が一番美しい季節に思う。キャンプ場を過ぎると、小鳥が叫び、飛び交う山奥に入る。全山生命力にあふれている。登山口まで乗り入れるて、準備を終え、ヤマップのGPSを作動させてからゆっくりと歩き出す。
 当面は林道の廃道のような広いが石ころが多い道が続く。後続があさっそくヤマヒルが出てきたと騒いでいる。広い山路にふさわしくない鳥居もある。今までなら無関心で通り過ぎたが今回は古道調査なので写真を撮影しておく。結構いくつもの被写体があった。お旅所旧跡なんて今まであったのかと思う。
 左手の栗木谷を見ながら歩くがいくつもの砂防堰堤が見える。580m付近で大きな堰堤は終り、そこから右岸に渡り細い山路に入った。この細道にも旧跡があり、撮影していった。何よりも喜ばせたのはシロヤシオの花盛りだったことだ。少しだがシャクナゲの花も見える。足元には岩鏡の小花が咲き乱れている。
 天気予報では午前6時からは20%の降雨率で晴れる見込みだったが、登山口から峠までずっと曇りであり、山霧が風に吹かれて流れていく。少し寒いから北からの風であろうか。南に梅雨前線が並び、中国大陸の高気圧が張り出し、北には低気圧がある。鈴鹿山脈は低気圧圏内にあるから北から風が吹き込みやすいのだろう。
 久々の八風峠だ。20年ぶりだろうか。記憶にない新しい鳥居が建っている。昔、友人と登ったとき、友人が足元で古銭を拾った。江戸時代のものだったと記憶している。
 滋賀県との県境稜線に立つと日本海側の低気圧からの強風で小さな嵐だった。俳句歳時記では青嵐に相当する。登山口から約2時間後の11時に登頂だ。
 近江側のパーティを待った。霧と強風で安楽な気がしない。それでも軽い中食と飲み物を飲んで休んだ。峠周辺はシロヤシオの林であった。待っても中々来ないから大声でコールして見た。くる気配はしなかった。1時間後に道中で会うことにして下山を開始した。
 県境から鞍部に下ると八風谷の道標があった。ここはもの凄く寒かった。こここそ本当の峠(鞍部)なので風を集めるからだ。合羽を着こんで置いて良かった。誰かが低体温症になるぞ、と警告している。本当だ。こんなところで60歳代から70歳代のおじさんおばさんが低温で倒れたら、だから言わんこっちゃない、と散々叩かれるだろう。
 少し下った辺りで近江側と合流できた。ほっとした。伊勢側の運転者は戻り、近江側の運転者も八風峠は初めてゆえに頂上を踏みに行った。
 近江側も伊勢側と同様の風化花崗岩の崩れやすい地質だった。崩れやすく滑りやすい路肩に留意しながらゆっくり下った。ある程度まで来たら運転者が戻ってきた。下るにつれて渓相も安定し、沢登りしたくなるような美しい渓谷になった。
 杉の植林帯に入ると踏み跡も安定してきた。道も平坦になり、歩きやすくなる。旧跡というものは見当たらなかった。広い氾濫川原が見えた。砂防堰堤で河原が広がったらしい。対岸へ渡渉するところがあったが、右岸の破線路が街道だろうと、廃道同然の破線路にしたがった。踏み跡は殆どないが迷うと現れるから不思議だ。路肩が崩壊しているところもあるし、倒木もあるしで難路である。とかく谷沿いの山道は壊れやすい。
 舗装道路へ出た時はほっとした。確かにこの辺りは分かりにくい。歴史の古道として整備することはないのだろう。八風谷橋でR421のPに着いた。石榑トンネルはすぐ右だ。峠を越えていた時代には想像もつかないくらいのクルマが往来している。しかもすごいスピードである。
 八風街道はわずかに残された歴史の断片である。

夏焼~夏焼城ヶ山~837m~地蔵峠~塩の道2022年05月03日

  4/20に続いて、稲武の山里を訪れた。今回も飯田街道(塩の道)の踏査が狙いである。但し、今回は城ヶ山の山裾にわずかに残る山路の踏査のみで峠越えはない。往復も芸がないので夏焼城ヶ山に登り、ブナの木峠ルートをたどり、ブナの木峠を確認したら、少し戻って、837mの独立標高点のある北尾根をたどり地蔵峠に降り立った。北尾根は登山道はなく、杣の踏み跡も赤テープもなくGPSで確認しながらのルートファインディングを楽しみながらの下降である。上部で広い尾根が主尾根と思ったが外してしまい、斜面をよじ登って主尾根に戻った。
  地蔵峠は現在は地図からも消えたが、かつては飯田街道の難所だった。多分、拡幅のために7m位切り下げたとある。要するに昔をしのぶ地蔵峠はもうないから消えたのだろう。それでも数体の地蔵様が並んで10mくらい下をひっきりなしに通過する車を見守っている。
 飯田街道の旧道は地蔵の下から始まり、地形に沿いながら沢を渡ったり、尾根を、山腹をたどりながら夏焼へと続いていた。旧道は舗装路に寸断されてしまったがやむを得ない。山口さん宅の前の庭を通過するのでお声がけして通らせてもらった。昔は塩や荷物を積んだ馬が往来していたのである。ここは国道153号だよ、と説明された。車が通れない山路でも国道なのである。
 今でも伊那谷から遠山谷へ越える小川路峠は国道256号の印刷がしてある。車は通れないのにだ。廃林道のような感じで延々歩くと朝方の道に出合った。こてで踏査は終わった。
 時間があったので越田和から林道を行けるだけ行って、4等三角点「夏焼」790.1mに登った。「古橋」の標石も埋まるから持山だろうか。登路はなく、伐採跡の斜面をよじ登った。約10分かかった。下山は急斜面は危ないので尾根を東にたどり林道ともっとも近づいた辺りをそろっと下った。
 帰りはまた中馬資料館に寄った。水草の里のことを聞いたが係りは何も知らなかった。大昔の事はもう忘れられてゆくのみだ。古橋和夫『三河宮尹良親王~稲武の尹良親王そその周辺』も知られていない。
 天気の良いGWのせいでR153は交通量が多く、往きも帰りも混んでいた。久々のコロナ終息過程での外出である。

信州の古道~杣路峠2022年04月20日

 山岳古道の調査のために歩いた。江戸時代は飯田街道と呼ばれた。今の国道153号である。名古屋市から豊田市足助町、稲武町、長野県飯田市へと通じる。三河湾で取れた塩を足助まで運び、荷馬に載せて塩尻市まで運んだから塩の道ともいう。今回は飯田街道のうち、昔のままに残されている峠の山道を歩いた。
 最初は伊勢神峠を上下した。ここは東海自然歩道に整備されて道標が建ち、誰でも手軽にハイキングが楽しめる。多くの峠が車道になる中でここは古い時代に一車線分の幅のトンネルが掘られて峠越えはない。更に下にトンネルが掘られている。そして新たに大型車がすれ違える幅の新トンネルが工事中である。
 伊勢神峠は斃れた荷馬を弔うための馬頭観音も建っていた。塩は重いから馬も喘ぎ喘ぎ上り下りしたであろう。歴史遺産とも言える。結構太い杉木立がいい雰囲気の峠道だった。ここは短いので早く下山したから次の目的地の杣路峠の入り口に向かった。
 国道153号を東へ向かい稲武を通過、木地山の先に入り口がある。しばらくは林道を歩くが少しで沢沿いの山路に入る。伊勢神峠道と違ってここはまったくの未整備だから、道幅は狭く、沢に架かる橋も壊れそうだ。やがて沢から離れるが、道は左折するところを直進してしまった。途端に道らしい雰囲気はなくなり、右往左往して道の痕跡を探す。沢の左岸に石仏を眺めると峠道とすっかり信じた。それでも道らしい気はしない。地形図では沢から離れ山腹の破線路に描かれる。結局、おかしいので左へ左へと徒労とも思えるトラバースをしてやっと峠道と確信できる踏み跡に到達した。そこからすぐに愛知県と長野県境の境の道標の建つ所に着いた。ab780m付近。信じられないほど緩やかな蛇行を繰り返して大きなブナの木のあるユキヨシ親王の社に着いた。ここは以前、長野県側から来たことがある。そうして新たな林道をたどると待望の杣路峠だった。とはいえ、新たな林道の工事で切通しになり、石仏ははるか上に見え、峠によくある道標はなく、通り過ぎた。メンバーの一人が何気なく見た印が杣路峠の道標だった。プラスチック製のお粗末なものである。これで目的は完遂した。
 林道が四方に分かれている。885mの3等三角点畑ヶ洞は徒歩30分程度とみて帰りがけの駄賃に触りに行くことにした。展望、山頂標もなく、頂上らしくもないが、本来の山頂はこんなもので素っ気ない。ここで初めておにぎり一つを食した。久々の山行で軽登山ではあるが腹筋が締まって空腹感はないので水分はごくごく飲んでいる。
 後はそろそろと下山。県境に戻り、峠道の発見場所からは未知の峠道になる。まことに歩きやすく、ずいぶんカーブもしている。重い塩を背負った馬がゆっくりと体に負荷を減らすように緩やかなカーブになっている。一か所は決壊場所もあったが上から巻いた。問題の道迷いの分岐には大きな栃の木があった。直進すると枝道と分かった。そこで少し戻ってみたら栃の木のあるところで左へ急カーブしていた。ここだったんだ。
 道迷いの原因も判明して車に戻った。国道153号を走り、水別峠の手前で中馬記念館?に入館し塩の道をにわか勉強した。すべて終わり意気揚々と帰名。
 資料を見ても植生についての記述はない。しかし、ユキヨシ社の大ブナといい、最後に見た唯一の大栃も樹齢200年はあるだろう。あの石仏は寛政年間だった。220年前の徳川家斉の時代だ。当時は栃、ブナ、ケヤキなどの自然林の森であっただろう。あの大木は象徴的に残されたと思う。
 石仏はおそらくは岡崎市の石屋かも知れない。稲武の駒山には馬が列をなしたという。多数の馬が塩だけでなく石仏を運んだであろう。
 樹齢200年といえば、設楽町の学術参考林に残された原生林も200年位だった。ブナ、トチ、ケヤキなどの大木が多かった。
 段戸の国有林は戦前は御料林であり、江戸時代は天領だったから勝手に伐採は出来なかった。山周りのお役人も居たらしい。明治維新後に古橋が政府に伐採のお伺いをたてて井山が伐採された。杉、桧が植林された。