段戸山(鷹ノ巣山、出来山を含む)をめぐる沢、谷、洞2019年08月26日

 昨日は栃洞を遡行した。
 山一つ西は滝洞という。その西は鰻沢という。栃洞の東は西川谷、さらに東は弁天谷という。北へ椹尾谷、本谷がある。以上は豊川水系の支流になる。鷹ノ巣山の北側は矢作川水系になる。北西には井戸沢がある。寧比曽岳には沢名の記載がない。出来山の足助側には信玄沢、枯木沢があり、全体は信玄の金山の名残りとして金沢の地名がある。
 沢名は愛知県から木曽山脈、飛騨山脈の屏風の東側の名称である。西側は谷名になる。洞は岐阜県に多い気がする。意味は「大木や岩などの、うつろになったところ。ほら。ほらあな。」「崖(がけ)や岩の中の、うつろになった穴。ほら穴。」が一義的な意味だろう。確かに栃洞を歩いても岩のポットホール(甌穴)が多かった。
 それでは沢と谷が入り混じった川はどうなのか。例えば富山県側に入る黒部川の源流部は谷のはずだが、赤木沢、五郎沢、祖父沢、薬師沢など数々挙げられる。これらは東日本の信州側から多数の人が入って持ち込んだものだろう。黒部川を国境とする見解もあったらしい。
 結局愛知県の設楽町には沢、谷、洞が入り混じっているが、沢は信玄沢の名称でも推測できるように甲斐の人が多数入った証拠だろう。設楽町には縄文遺跡があることから東日本文化圏だったと思われる。洞はその形状から来るのだろう。
 すると弁天谷はどうか。愛知県尾張地方には弥生遺跡が出土している。谷の文化圏の関西からも多数の人が来たと思われる。
 コトバンクから引用すると
「弁才天 べんざいてん
仏教の守護神。
知恵,弁舌,技芸の女神。もとはヒンズー教の河神。8本の手で各種の武具をもつ座像,あるいは2手で琵琶(びわ)をもつ座像として表現される。日本では奈良時代から弁才天信仰がはじまり,江戸時代には弁財天ともしるされ,蓄財の神,七福神のひとりとして庶民の信仰をあつめた。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例」とあった。比較的新しい歴史がある。
 当貝津川と栗島川(上流で西川谷と弁天谷と変わる)の出合いには赤沢弁財天があり霊水をウリにしている。つまり信仰が由来だった。

伝説としての姥捨て、現実としての棄老2019年07月03日

 朝はどんより、雨が降らないだけまし。10時に合流して、高齢者福祉施設に向かう。道を間違えて本部に行ってしまうが、時間に余裕をもっていたために15分の遅刻で済んだ。相談者のご夫婦は首を長くして待っておられた。
 地銀の相談会で契約が成立。そのうちの1件は相続問題がこじれて、成年後見制度利用がらみの解決策を提案。すぐに依頼を受けた。ご夫婦は相続人ではなく、姻族になる。ご主人の亡父は実の親、後添いの妻つまり義母の相続の問題解決のために、ともかくご本人に面会する必要があり入居施設を訪問した次第。
 会ってお話を様々に振ってみた。生年月日も即答するし、とても認知症というほどではなく、法定後見の申し立ては無理か、と疑う。そこで任意後見を勧めるが、一方的な判断ではなく、施設側の医師の判定も勘案することとなった。
 義母さんはとても明るい性格、積極的に話を仕掛けて話題の中心になるようだ。ある意味では強気ともいえる。
 歩行は不自由であるが、笑顔が素敵で、歯並びもきれいなので自分の歯かどうか聞くと、全部自分の歯だった。これなら認知症でどうしようもなく、進むことはあるまい。認知症の人で入れ歯の人にインプラントの施術をすると認知症が改善すると聞いた。噛むことは脳の神経と強くつながっているのだろう。

 出身地が長野市というので、善光寺さん、黒姫山、戸隠山、飯綱山の地名を話すと乗ってこられた。そして顔の表情も明るくなった。「長野へ帰りたい」としきりに言われた。望郷の念ひとしお、という気がする。かといって、義母さんはは88歳になり、故郷にはもう身内は居ないのである。加賀城みゆきの「おさらば故郷さん」のフレーズが浮かぶ。

https://www.youtube.com/watch?v=LY6nc7DB5rc

 なんとも切ない歌詞である。

 あまり長居もできず、施設の責任者と情報交換することとし、以後の方針を立ててゆくことになった。正常で自分の判断が可能なら任意後見とし、とてもひどいなら法定後見とした。先ほどの元気と正常に見える様子は一時的ものかも知れない。普段から観察する人の判断が必須である。
 面会のお礼を述べて施設を後にした。
 姥捨山では老母はただ死あるのみであった。
 法治国家の現代は死の前に財産管理などの終活が必要になってきた。一筋縄ではいかない課題が山積する。

司馬遼太郎『北のまほろば―街道をゆく〈41〉』読了2019年06月22日

目次だけを見てもボリュームたっぷりだった。読みこなすのは大変なことだった。

古代の豊かさ
陸奥の名のさまざま
津軽衆と南部衆
津軽の作家たち
石坂の“洋サン”
弘前城
雪の本丸
半日高堂ノ話
人としての名山
満ちあふれる部屋
木造駅の怪奇
カルコの話
鰺ケ沢
十三湖
湖畔のしじみ汁
金木町見聞記
岩木山と富士山
翡翠の好み
劇的なコメ
田村麻呂の絵灯篭
二つの雪
山上の赤トンボ
志功華厳譜
棟方志功の「柵」
移ってきた会津藩
会津が来た話
祭りとえびすめ
鉄が錦になる話
恐山近辺
三人の殿輩
蟹田の蟹
義経渡海
龍飛岬
リンゴの涙
以上
・・・約400ページに圧縮され、非常に多彩なテーマを織り交ぜながら、青森県の歴史と文化を楽しませる。
 ことに興味深いのは愛知県豊橋市出身の菅江真澄の話が縦横に語られること。真澄の見聞が契機となって古代史に光が当たる。真澄の旅は物見遊山ではなく、国学で学んだこと、すなわち日本のことをもっと知りたい、日本人は何者だったのか、という学問的欲求だったと思われる。
 山のこともちょっぴりだが入っている。岩木山、八甲田山をベースにした文学の盛んなことも指摘。風土色の強い芸能も盛んである。
 青森県の歴史は津軽と南部の重層性が特殊である。津軽は南部から分かれた。津軽為信の野心が南部からの独立させた。弘前城の規模は徳川家康の許容範囲を超えたものらしい。それは関ケ原の戦いに際しての津軽為信の政治性の巧みを描く。
 その上に近代以降の会津藩の多層性もある。青森県の歴史と文化は一筋縄では解読できない複雑さがある。
 個人的な興味は三重県の北畠家が青森へ移ったことで、児童文学者・北畠八穂が生まれ、近代文学に華を添えた。
 この紀行自体は太宰治の『津軽』を下敷きにしている。太宰の視点で津軽の理解に努めた風だ。
 リンゴの涙の章の最後に小学生の詩を引いた。「リンゴの涙」と「でかせぎ」。「津軽や南部の言葉を聞いていると、そのまま詩だと思うことがある。」と。「この小さな津軽詩人の詩を借りて「北のまほろば」を終える。」と締めくくった。
 演歌歌手・吉幾三の「津軽平野」は1984年のリリース。歌詞にでかせぎ、岩木山が出てくる。美空ひばりの「津軽のふるさと」「りんご追分」など数々の名曲にはりんご、岩木山が出てくる。
 青森県自体が詩の国なのである。

 初出誌は1994年5月22日~1995年2月24日号の週刊朝日に連載された。

 この中の「湖畔のシジミ汁」には名古屋市の出身で、城郭考古学を専門とする奈良大学教授の千田 嘉博氏の学説も引用されている。名古屋城の解体、木造化で揺れている昨今、千田氏の言動に注目が集まる。上物の更新だけに傾倒した行政の前のめりの姿勢を批判し、石垣の保全に目を向けさせる。

神又谷異聞2019年06月10日

 20万地勢図「岐阜」を見ていたら、池ノ又林道通行止め地点から尾根に上がり、747mを越えて中ツ谷に下り、1048mへの独立標高点に登り、1196m(左千方)まで行って、尾羽梨川へ下る破線路があります。『坂内村誌』によれば中尾嶺越というようだ。1050.2mは中尾嶺ともいう。(滋賀県地名大辞典)
 私のは昭和48年12月現在の地図です。田戸の奥の尾羽梨は廃村です。昔は近江の村と結ぶ山道があったのです。

 坂内村誌(民俗編)には
 神又谷は昭和10年代は木材搬出の道があったそうです。古くは江州谷とよばれたほど滋賀県側から木炭や、薪材を切り出しに来ていたらしい。近江は金糞岳があり、土倉鉱山もあり金属精錬が盛んだった。魚を焼く、お茶を淹れる、暖房、炊事など需要は旺盛だった。
 それで近江だけでは足りず、山越えで炭を生産したのでしょう。そしてリッカ谷から1050.2mの南の鞍部を越えて、神又谷と往来があったらしい。あの見事なブナ林は二次林なんですね。それにしては注意していたが炭焼き窯跡は見つからなかった。

 皆さんと眺めたブナ原生林は他の樹種が混じらない純林と呼ばれる。
 ウィキぺディアには「森林の樹木群集がほとんど陰樹で構成されるようになり、それ以降樹種の構成がさほど変化しない状態になったことを「極相に達した」といい、極相に達した森林を極相林という。 また、主に極相林で生育する樹木種を極相種という。」
 つまり下山の際に見た無尽蔵に林立していたあのブナ林は極相に達しているのです。
 だから眺めて美しいし、青森県の白神山地も同じく極相林でしたから、あそこにいる限りは白神山地と変わりない環境だったのです。
 
 滋賀県の廃村・奥川並(おくこうなみ)は川上の人等が峠を越えてつくった村でした。ですから中津谷との交流の道もあったのです。1060mは多分ですが、中津山かも知れません。するとあの尾根は中津尾かな。坂内村誌はそこまで記載はないが詳細な山名考証がある。昔は近江と美濃の山村民は縦横に山を歩いていたのでしょう。

 点名の大岳は滋賀県側の名称です。前述したように中尾嶺も文献に出ている。

 木炭の生産は江戸時代から盛んだった。秀吉は薪炭材の本数を把握するために1000本の紐を作り、山の木に巻いて残った本数を引いて実際の本数を把握したという。知恵者です。

 古くはヤマトタケルの時代、伊吹山の魔物を征伐するために出かけますが、死に至るケガをさせられて退散します。伊吹神は金属の神様で南宮大社も金属の神様を祭っています。伊吹山の北には金糞岳があります。金属の精錬には木炭が必須です。長浜市は鉄砲の生産で有名です。鉄砲鍛冶にも大量の木炭が必要です。大量の木炭を消費する環境だったことは想像できます。今と違って往時は山に多くの人が入っていたでしょう。今は野生動物の天国です。

 戦後に石油の輸入が再開されると木炭の生産は急激に淘汰されてしまいます。この山も需要の急減した木炭の原料として利用価値のない(文字どうり、ブナは木で無い、橅があてらる)山になった。伸びるままに伸びて、戦後は74年間に他の樹種を抑えて極相に達した。

みちのくの山を漂泊・・・書籍編2019年05月22日

 4月末から5月中旬にかけて、青森県一円の山旅と南東北の山旅でほぼ2週間を費やした。帰宅後は一度は読んだ本を反芻するかのようにまた読む。新たな本も漁って読む。
 司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズの「北のまほろば」、「羽州街道ほか」、「陸奥のみち ほか」、「会津のみち ほか」で東北は網羅される。このなかには司馬さんの人物像と歴史観が混在し、わかりやすく、あるいは難解にディープな見解が述べられる。
 例えば、その中に、菅江真澄、上杉鷹山、蒲生氏郷、松平容保などが出てくるから関連の書籍をまた読む、といった具合で、鶴ヶ城のPの脇にあった司馬遼太郎の文学碑の「最後の藩主、松平容保を描いた小説「王城の護衛者」」も読まねばならない。
 特に福島県は海に面した県のイメージが強くある。そのために会津はどこの県との意識もなかった。今回は裏口から福島県入りしてみた。地形図を眺めてはため息をついてきた福島県の会津地方。それでその西に食い込んだ県域の広さと山の深さを実体験できたのだ。
 井上ひさしは「福島県は東北じゃないんです」と言ったというが、実際に実感する。しかしそうとも言い切れない。3000級の山こそないが、日本のもっとも深い山岳地域である。
 今回は会津磐梯山に登れたことが大きな収穫であった。実はこの山は2回目で、30年前にスキー登山で挑んで撤退した。どこから眺めても磐梯山は存在感がある。会津は磐梯山あってこその盆地であろう。
 乙川優三郎の小説『脊梁山脈』も木地師が主役で、長野県売木村と東北の木地師の山村を舞台に戦争に翻弄された運命の不思議を描く。脊梁とはまさに木曽山脈の末端にあたる売木村であり、奥羽山脈のことだった。また読み返してみたい本である。東北の山村へ、名山でもない山へと誘う。

 長い山旅でしばらく事務所へ行っていないので今日の午後は雑務処理に時間を割く。

「新設楽発見伝5」(平成30年度設楽ダム関連の発掘調査報告会)に参加2019年03月03日

ソース:https://www.facebook.com/events/2266817310199731/

 船着山を下山後、まだ時間が有り余るので、R151から東栄町の「とうえい温泉」に向った。途中、東栄インターが開通準備中でした。午後4時と書いてあった。早速ユーチューブにアップされていた。
https://www.youtube.com/watch?v=NoTQEJVcC8U
現在は断続的だが、佐久間ダム直下まで行ける。山で言えば日本ヶ塚山や南アルプスの深南部へのアクセスが改善される。
 久々のとうえい温泉である。10時からの開業に少し前に着いた。入湯を待っている車も10台くらいはあった。ファンがいるのだろう。朝風呂でさっぱりしたところでR473を走って田口へ。この道も大幅に改良された。岩古谷トンネルが開通したからだ。
 田口でもまだ時間に余裕があり、近くの喫茶店で昼食。関係者が沢山入っていた。そうか、考古学にこんなにも関心を持たれているのか。
 13時前に会場入り。ざっと100座席はあるだろうか。それがほぼ満席に近い。横の壁には発掘作業の写真を展示、後には発見されたモノを展示してあった。私は(胞の埋め甕に使われたと見られる)素焼きの壺の発見以来関心を持ってきたので一度はのぞきたかった訳である。
 考古学の話は岩石の知識も必須で、かなり消化不良を起こして終わった。何分1万年前という時代の単位に驚く。素人には無理もない。黒曜石は諏訪地方に特産し、三河にも運ばれているから想像以上に流通していたのである。縄文人は想像以上に広範囲に移動していた。一宮市に多いのは650万年前の木曽川は東海湖(現在の鷲ヶ岳山麓まで湖)という湖で移動をストップしたのであろう。6000年前でも大垣市は湖だったらしい。

 しかし、設楽の山間部に縄文遺跡が発見されたという事実は地名を考える上で重要である。
 宇連山の別称ガンゾモチフデ山は最初は振草村誌から発見。振草村の廃村宇連が東栄町と設楽町に分かれた際設楽町になったので設楽町誌を見るとガンドゥとあった。ガンドもチエックすると北アのガンドウ尾根、冠山の福井県側のガンドウ尾根、奈良県の大峰山系のガンドウ尾が見つかった。岳人3月号に掲載された蔵王連峰の雁戸山のガイド記事はガンドと読み、ギザギザの頂稜の特徴を表現していた。
 縄文遺跡は愛知と福井の東に多いので地名にもつながりはある。
 さらに胞についても『埋甕』には主に東日本のデータで偏りがあった。それは当然の結果であったが、こうして愛知県の山間部から一宮市に至るまで縄文遺跡があると知れば、あの恵那山が単なるアマテラスへの信仰だけではないと想像する。
 胞を素焼きの甕に入れて埋めるということが縄文文化であると知った。アマテラスへの信仰が持統天皇以後のことと思えば、信仰にも重層性があるのだろう。
1 神坂峠には縄文遺跡がある。山頂に胞を埋設したという伝説。
2 役(えん)の行者などの修験道の時代があった。
3 アマテラスの胞とされた。
4 恵那神社は岐阜県側にしかない。血洗池、産湯を使った湯舟沢も岐阜県側にある。

東三河・船着山を歩く2019年03月02日

 朝5時過ぎ出発。日進市に行くと南の空には金星と三日月が浮かんでいる。R153から東名三好ICに入る。名古屋IC経由よりも8km近いし、料金で180円安い。
 新城ICを出ると豊川の左岸への橋でうろうろしてしまった。弁天橋まで迂回して吉川の里へ走った。道路に「船着山へ」の案内板があり以降はそれにしたがうと無事に登山口に着いた。標高180mもあるので比高247mの登りである。
 登山口付近の道は以前は山畑だったのか、石垣が残る。何が植えてあったかは知らないが今は照葉樹の青い葉の木が育っている。南斜面なので蜜柑だろうか。
 山畑をぬうと直ぐに尾根に出て後は一本調子で登る。400m級の里山ゆえか全山隙間なく植林で展望は一切なく、雑木林すらもなく、草花も無い。早春の山らしさは見つからなかった。尾根を登りきると分岐を左折すると山頂へはすぐだった。登りは35分であった。山名の由来を書いた大きな看板がある。
 船着は”ふなつけ”と読む。昔は船着村があった。明治39年に日吉村と乗本村が合併してできた。村名は山に由来するから逆である。ウィキには「江戸時代、豊川の舟運の中継地として栄えた地域」とある。地形図の豊川右岸をよく見ると、中小河川が7本も流れ込んでいる。今は水田の記号だが水量の多かった時代即ち江戸時代は大きな水たまりではなかったか。少し下流には有名な桜渕、鰹渕、更に下流には西入船、東入船の地名も残る。
 http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/によれば「言うまでも無く、港に入港してきたその向きのまま着桟するのが入船。
対して、向きを変えて着けるのが出船である。
出船にするためには、船首の向きを変える、すなわち、回頭しなければならないため、入港作業に手間と時間がかかる。
入港、下船等を急ぐ場合には、入船が好ましいが、出港時に回頭しなければならないため、出港作業に手間と時間がかかる。
逆に、出船にしておけば、直ぐに出港できるため、艦艇や警備用船舶には向いている。」
と明解である。
 これにならって、靴の揃え方にも入船出船があり、玄関に入ってそのまま脱げば入船、反対に揃えれば出船という。
 今では新城市の庁舎が立つ東入船ですが、昔は水上交通(船運)で栄えたのでしょう。信州往還への入り口でもあった。新城は別所街道、伊那街道、遠州街道の中継地点でした。塩のような重い物資は船で運んだのでしょう。
 三角点(点名:日吉村2)が妙に存在感がある。1月に登った南西の風切山356mの点名は日吉村1なので図らずも1,2と連続した。
 山頂は強い北風でとにかく寒かった。少し降りてテルモスの熱い白湯を飲んだ。常寒山往復は寒さと風景の味気無さにモチベーションを喪失して往路を下山した。不老長寿の泉とかにも寄ったが渇水期の今はしずく程度だった。下山後、沢で手を洗ったが、青っぽい板状節理が露頭していた。これは安山岩というから古い火山であろう。
 次の機会には常寒山に登ろう。竹ノ輪という美しい名前の山里から道があるようだ。吉川峠に下る南尾根も歩いてみたい。

ヤマケイ文庫 伊藤正一『底本 黒部の山賊 アルプスの怪』を読む2019年02月14日

 先日、丸善で購入。帰宅時に地下鉄車内で読み始めたら面白くて、一と駅先まで乗り越した。徒歩圏で良かった。夕食後、寝床に入ってからも一気に読み込んだ。最近にない面白い本であった。
 ヤマケイ文庫 2019.2.14刊行
 
 定本というのはこれまでに刊行された本があって、再編集されているということ。それは良く売れた本の証拠でもある。

①1964年 初版 黒部の山賊 アルプスの怪 実業の日本社

②1994年 新版 黒部の山賊 アルプスの怪 実業の日本社

③2014年 定本 黒部の山賊 アルプスの怪 山と渓谷社
内容紹介
 北アルプスの最奥部・黒部原流域のフロンティアとして、長く山小屋(三俣山荘、雲ノ平山荘、水晶小屋、湯俣山荘)の経営に携わってきた伊藤正一と、遠山富士弥、遠山林平、鬼窪善一郎、倉繁勝太郎ら「山賊」と称された仲間たちによる、北アルプス登山黎明期、驚天動地の昔話。
 また、埋蔵金伝説、山のバケモノ、山岳遭難、山小屋暮らしのあれこれなど、幅の広い「山の話題」が盛り込まれていて、読む者をして、まるで黒部の奥地にいるような気持ちにさせてくれる山岳名著の一書です。
 1964年に実業之日本社から初版が刊行されたときは、多くの読者からの好評を得ました。
 近年は、山小屋でのみ購入できたこの幻の名作が、『定本 黒部の山賊』として、山と溪谷社から刊行されることになりました。
新規原稿も一話加え、底本未掲載の貴重な写真も盛り込んでいます。
巻末には、高桑信一氏と高橋庄太郎氏による『黒部の山賊』へのオマージュも掲載。 以上はコピペ。

④2019年 ヤマケイ文庫 黒部の山賊 アルプスの怪 山と渓谷社

・・・・特に③はよく売れたようです。アマゾンのコメント90件は山岳書としては多い。しかも、③では①②で採用された畦地梅太郎の版画の表紙を変えています。多くの読者を獲得した勢いで、今年は早くも文庫化されています。しかし文庫化にあたっては初版の表紙にもどされました。

 著者の伊藤正一(1923~2016)さんは三俣小屋の利権を林野庁と争っていた記憶しかなかった。本書を読んで、松本深志高校卒(旧制)で物理学者を目指していたこと、日本勤労者山岳連盟の創立者であることも知った。
 社会の仕組みをよく知っていて、権力にただ盲従、服従しない点は岩波茂雄と同郷の人だけはあると思った。信州人は反骨の精神が強い。したがって左翼のシンパになったり、日本共産党の支援もあったかに思われる。

 今度の読書で何でこんなに面白く読めたのか。山を始めた当初は折立から太郎平を経て黒部五郎岳へ縦走、折立から薬師岳を経て立山へ縦走、薬師岳往復くらいしか山歴はなかった。鷲羽岳は遠い山であった。
 本書に書いてあるような黒部源流に奥深く入ったのは2009年の盆休みに雲の平を経て読売新道を歩いたことだ。同年の9月には上の廊下を突破した。2010年8月には赤木沢を遡行、2013年の8月にはついに黒部源流を遡行する。
 そして三俣山荘に宿泊した。この時はすでに同書が置いてあり販売もしていたように記憶するが、購入にまでは至らなかった。伊藤さんは2016年に死去されたからこの年はまだ存命だったことになる。
 要するに雲の平に象徴するような別天地を知ったら黒部の魅力は忘れえないものになる。伊藤さんは黒部の語り部たらんと本書を著したのだ。非日常の世界を平易な文章でわれわれ都会人に知らしめた。
 そうか、柳田國男の『遠野物語』『山の人生』も怪異な話だった。黒部源流に人生を送った山男・山賊らの物語なのである。

恵那山の山名をめぐる話・・・三遠地方民俗と歴史研究会2019年01月28日

 東海地方のどこからでも悠然とした山容を見せる恵那山。別名は舟覆山とも称されて、漁師からは忌み嫌われたらしい。それがいまでは名山として押しも押されぬ地歩を得た。
 恵那山の由来を調べようと、多くのガイドブックや山の本を渉猟してはみたが、アマテラスの胞を山頂に埋めたという伝説から一歩も踏み込まれることはなかった。江戸時代の地誌『新撰美濃誌』にも伝説の引用はある。しかしそれまでである。伝説は口承であるから人々の脳裏に刻まれた物語である。文献は残されず記憶に頼るからだ。
 深田久弥『日本百名山』も伝説の紹介だけであり、立松和平『百霊峰巡礼』には山名すらない。ほとんどは回避しているかに思える。
 それで暗礁に乗り上げていた時、ふと名古屋市中区生涯センターに置かれた愛知県埋蔵文化センターのチラシが目に留まった。そこには埋甕の展示が案内されていた。実は『埋甕』という本を読んで、明治時代半ばまでは胞は普通に埋設されていた。さらに調べると、徳川家康の胞が岡崎城に埋設されていると知った。松平家康として生れたのだから偉人になってからの記念碑的扱いである。
 こうして考えを巡らすと山頂に胞を埋めること自体は特殊なことではないと思われた。眺めの良い山には伊勢神宮の遙拝所がある。それでなくても、神話上の人物が祀られている。
 例えば奥三河の大鈴山は伊勢神宮の遙拝所だった。伊勢神峠はもともとは伊勢拝みの謂いだという。猿投山にはヤマトタケルの兄の墓所がある。鎌ヶ岳にもアマテラスが祀られている。
 特に信仰の山ではないのにだ。山自体が御神体ではなく、頂上からはるかに伊勢神宮を遙拝できることが重要なのだ。
 これまでの調べでは、地名としての恵那は惠奈として平安時代の和名抄という書籍に記録されている。
 思えば日本民族には言葉はあっても文字のない時代が長かった。そんな時代でも確実に子供は生れたから「エナ」という言葉はあったであろう。唐の時代に漢字を輸入して、一字一音で日本語に当てはめた。それが万葉仮名であった。エナは惠奈と書かれ、恵那になり、やがて漢字の胞が当てられた。岐阜県の胞山県立自然公園と称するように県は胞を使う。恵那は言わば雅字であろう。
 山麓の阿木にアマテラスの胞を洗った血洗池があり、中津川を隔てた湯舟沢はアマテラスが産湯を使ったという伝説。それで恵那山と呼ばれたというのである。この伝説は何ゆえに生れたのだろうか。
 阿木の奥には木地師の活躍があった、今もロクロ天井には木地師の墓がある。1471mの点名は阿木という。焼山は木地師が焼き畑農業で山を焼いて蕎麦、稗、粟などを栽培した名残りではないか。全山が花崗岩の山なので噴火はあり得ない。
 実際には今の恵那山に命名される前に、血洗池の源流の山に埋まる三角点888.3mの点名「血洗」の一帯を恵那山と呼んでいたのではあるまいか。恵那の地名はそこから起こったと考えると自然である。
 伊勢神宮の遷宮は7世紀に始まる。皇学館大学が編纂した御杣山の記録集でも詳細に記録されるのは江戸時代に入ってからのことだった。多分、記録の手段としての和紙の供給が不足していたであろう。江戸時代になると庶民でも出版できるほどに流通した。1340年には奥三河が1回だけ御杣山になったが、設楽山とするだけでどこの山とは特定されない。私は段戸山周辺と思うが・・・。三河の山と伊勢神宮が遷宮の用材切り出しでつながっているとは面白い。
 御杣山の記録集(全文漢字)には恵那山の北の湯舟沢山1620m、井出ノ小路山1840mの名前は出てくる。あの辺には伊勢山もあり伊勢神宮との密着度が高い。しかし、恵那山は出てこないから、中津川周辺から源流は神域であったと思う。用材切り出しは湯舟沢周辺の記録はある。阿木はない。阿木は人里に近く、木地師もいたから落葉樹林でおおわれていたと見る。
 信仰としての恵那山は後世に入ってからのことと思われる。中津川を中心に川上にある恵那神社の建立が象徴する。縁起は不明となっている。前宮登山道は役の行者様の石仏もあった。前宮から奥は今でも針葉樹林の森である。
 恵那山はどこから登っても遠い山である。庶民が親しく登る山ではなく、崇められたであろう。汚されたくないためと盗伐を防止することも重要であっただろう。アマテラスの胞を埋設した伝説を持ってきて、神聖な雰囲気を演出して、安易な入山を阻止したと考えても無理はない。尾張藩が管轄していた木曽の山では、木1本首1つ、と戒めた。それだけ盗伐が多かったのだろう。
 奥三河の段戸山周辺でも、徳川幕府成立から約60年後の寛文年間に天領になった。豊川市赤坂に番所が作られて幕府の管理下に置かれて、山の民はそれまで自由に出入りしてた山に入れなくなった。おそらく、木曽でも三河でもトラブルが相次いだ。木地師は主に落葉樹なので棲み分けはできただろう。桧となると建築用材として需要は数多あり、江戸時代の経済発展とともに盗伐は増加傾向だったと思われる。
 木曽の森林は尾張藩が管轄した。徳川幕府は天皇に権威を求めた。庶民への啓蒙としてアマテラスの胞の埋設の伝説を以って、神々の森への不可侵を広めた。こんなところだろうか。

恵那山の胞伝説考2018年12月25日

 柳田國男全集 7 の伝説に関する著述を読む。
 伝説と昔話の違い

民俗資料を三部に分類
 ①有形文化  行為伝承  芸能、踊り、

 ②言語芸術  口頭伝承  昔話
                    
 中間に位置する        伝説

 ③信仰伝承  内部伝承  祭、講

伝説と昔話の特徴
1 伝説は人がこれを信じているのに対し、昔話には責任を負わない

2 伝説の中心には必ず記念物があるのに対し、昔話には記念物がない

3 伝説は語るときに定まった形式がないのに対し、昔話には定まった形式がある

 12/22は岐阜県立図書館で恵那山関係の文献を漁った。コピーしたのは『中津川市史』、神宮司廳編『神宮御杣山記録』昭和51年史料、
である。
 第1回式年遷宮は持統天皇の690年。1335年の第35回式年遷宮は三河の設楽山になったが山は特定できない。
 1709年(宝永6年)の第47回式年遷宮から、尾張藩の領地である木曽谷、裏木曽に御杣山は移動。徳川幕府成立から約100年後の元禄時代の後になる。
 恵那山の由来を漢文で著した松平 君山(まつだいら くんざん、元禄10年3月27日(1697年5月17日) - 天明3年4月18日(1783年5月18日))が出たのもこの頃である。
 

 御杣山とは

神宮のHPから
 「宮域林は、内宮のご鎮座当時から神路山・天照山・神垣山などと呼ばれ、大御神の山として崇められていました。天武(てんむ)天皇の御代に式年遷宮の制度が確立され、第1回式年遷宮(690)が行われた際、宮域林は御造営用材を伐り出す「御杣山(みそまやま)」として定められました。その後、御用材の欠乏により御杣山は他の場所に移りましたが、今でも式年遷宮の最初のお祭りである山口祭やまぐちさい・木本祭このもとさいは宮域林で行われており最も神聖な「心御柱しんのみはしら」もここから伐り出しています。

 このように宮域林は、古くから神宮の境内地として管理されてきた由緒のある森林です。」

 神宮備林のウィキぺディアから
「伊勢神宮で20年毎に行なわれる式年遷宮は、大量のヒノキが必要である。その用材を伐りだす山(御杣山・みそまやま)は、第34回式年遷宮までは、3回ほど周辺地域に移動したことはあるものの、すべて神路山、高倉山という内宮・外宮背後の山(神宮林)であった。
しかし、1回の遷宮で使用されるヒノキは1万本以上になり、神宮林のヒノキでは不足しだす。その為、内宮用材は第35回式年遷宮から三河国に、外宮用材は第36回式年遷宮から美濃国に移り、第41回式年遷宮から第46回式年遷宮までは、伊勢国大杉谷に移る。
しかしながら、原木の枯渇による伐り出しの困難さから、1709年(宝永6年)の第47回式年遷宮から、尾張藩の領地である木曽谷、裏木曽に御杣山は移動する。この地域は尾張藩により木材(木曽五木)が保護され、許可の無い伐採が禁じられていた。
正式に指定、伐採が始まったのは、1798年(寛政10年)からである。
現在でも式年遷宮用の用材は、この旧神宮備林から調達されている。」

「歴史
1380年(天授6年・康暦2年):第36回式年遷宮で美濃国のヒノキが使用される。
1709年(宝永6年):第47回式年遷宮で、尾張藩領木曽のヒノキが使用される。
1798年(寛政10年):伊勢神宮により御杣山に指定される。
1843年(天保12年):守護神として護山神社が創建される。
1868年(明治元年):尾張藩から明治政府に移管される。御料林となる。
1906年(明治39年):帝室林野局により「神宮御造営材備林制度」が制定され、この地域の御料林が神宮備林に指定される。この後、大正時代にかけてその地域を拡大する。
1921年(大正10年):ダム建設の影響で、木曽川、付知川などを使用した筏による材木運搬が中止。森林鉄道による運搬が始まる。
1947年(昭和22年):帝室林野局は農林省林野庁となる。神宮備林は廃止され、国有林の一部となる。」

「式年遷宮は続く」から
https://www.sengukan.jp/wp/wp-content/themes/sengukan/media/pdf/record/h29/20170630-zuroku.pdf

「しかし内宮の第35回式年遷宮の準備を進めていた延元(えんげん)4年( 暦(りゃく)応(おう)2 年、1339)江馬山から御用材を運ぶ宮川流域が武装勢力の支配下に置かれたため供給が止まります。
 朝廷は御杣山を伊勢国外に求めるか、式年遷宮を延期するか議論の末、軒廊御卜が行われて三河国・設楽(しだら)山(やま)(現在の愛知県北設楽郡設楽町付近)に移動する事が決まりました。選ばれた理由は、山間を流れる豊川水系の河口部には老津(おいつ)・大津という良港があったこと、大津には平安時代後期から伊勢神宮の神(かん)戸(べ)が置かれていたこと、伊勢国大(おお)湊(みなと)との海上輸送が行われており安定した供給が行えたことが挙げられます。緊急の措置であったため三河国から御用材を得たのはこの一度限りです。」

恵那山のウィキペディアから
「信仰対象としての恵那山

山頂部にある恵那神社奥宮
恵那山周辺地域ではこの山に天照大神が産まれた時の胞衣 (えな) を納めたという伝説が残っており、この山の名前の由来ともなっている。また古事記で日本武尊が科野峠 (神坂峠) で拝したのも恵那山の神である。」

・木曽の湯舟沢はアマテラスの産湯をつかった伝説
・美濃の血洗池はアマテラスの胞を洗った伝説

 湯舟沢川から右岸(木曽側)は御杣山として伐採された。すると湯舟沢川の左岸から阿木川にかけては、伐採はされず、昔は神域だったのだろうか。現在の恵那山の美濃側に当たる地域は今でこそ国有林として奥深く林道が開通している。登山道は前宮にあった。

 阿木川の源流の焼山は木地師の煮炊きの煙、山中で焼き畑農業をする際の煙から由来と想像する。ロクロ天井の山の名前もあり、木地師の墓もある。
 血洗池の伝説は木地師が広めた可能性が高い。木地師のルーツは皇族にさかのぼる。その点で無理がない。

 湯船沢の伝説も木地師が広めた可能性はある。南沢山の周辺の山中には木地師は入っていた。中でも大平峠の夏焼山は木地師の焼き畑農業に関係する。今でも南木曽町には木地師が営業を続けている。

 恵那山周辺の山村は木地師が遍在していたのは事実である。売木村も木地師が活躍していた。

 恵那山をアマテラスの記念物としての胞を埋めたという伝説を付して胞山、恵那山と名付けたのは皇室につながる木地師ではなかったか。ご綸旨を根拠に木地師は山中でほとんど一生を過ごす。山中での死亡は各地で墓を見たのでわかる。おそらく出産にも立ちあった。その際の胞は家の周りの地中に埋めた。山中の湧水で溜まる小池は便利な洗い場になった。また湯船沢川の右又の温川(ぬるかわ)の源流は恵那山の頂上に近く湧く。文字通り温泉が混じるのだろう。
 山上にアマテラスの胞を埋めた伝説を広めることで、木地師は自分らの権益(木地原木の落葉広葉樹)と尾張藩が担う木曽山林(桧、翌檜などの針葉樹の木曽五木)の伐採権との棲み分けを実現させたのではないか。
 伝説の流布によって棲み分けに成功すると式年遷宮の切り出しもスムーズに行ったであろう。原木の良材を求めて木曽にたどり着いた神宮と尾張藩は木曽川を運搬路につかって木材資源を開発して行った。
江戸時代中期以降人口の増加で木地製品の需要も伸びた。住宅建築の需要も盛んになったと思われる。両者が利益を得たのである。
 その頃、松平君山は得意の漢文で恵那山の伝説を書き残した。『新撰美濃志』の編者にも明らかに重要な伝説であった。

これまでの記事
http://koyaban.asablo.jp/blog/2018/11/27/9003915
『新撰美濃志』の中の恵那山

http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/08/06/8641325
中津川市阿木の旧跡・(アマテラスの)血洗池~血洗神社~恵那神社~根の上高原へドライブ

http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/10/18/8708216
「埋甕」を見に弥富市の愛知県埋蔵文化センターへ行く

http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/08/19/8650783
奥三河・須山御岳山