若狭駒ヶ岳の山旅余情2020年11月26日

 若狭駒の余情を楽しんでいる。筋肉痛が時間の経過でほぐれていくのと反対に、山旅の余韻は終わった後から後から湧いてくる。
 この山の紹介文の書誌学考察
A 昭和45(1970)年 伏木貞三『近江の山々』 (白川書院)

B 昭和47(1972)年 伏木貞三『近江の峠』(白川書院)

C 昭和59(1984)年 草川啓三『近江の山』(京都山の会出版局)

D 平成4(1992)年  山本武人『近江朽木の山』(ナカニシヤ出版)

F 平成11(1999)年 近江百山之会編著『近江百山』(ナカニシヤ出版)

G 令和2(2020)年 竹内康之「山と渓谷」誌11月号202Pのガイド記事

  駒ヶ岳の由来は

 Aは蔵書になく、検索で目次がヒットしたので見ると項目がない。

 Bには木地山から若狭へ越える峠道は3つあったと紹介し、木地山峠の項目を重点的に解説。駒ヶ岳については記載がなく、駒ヶ越と河内越の2本を簡単に紹介。下る予定だった尾根道は昔は池河内(木地山の真北)へ越えた峠道だったのだろう。河内越が2か所もあるので一方を駒ヶ越にしたのか。

 Cの本は駒の連想から駒ヶ岳由来を説く。したがって馬も通れる道だったと想像する。しかし、馬を通らせるにはS字形の道が必須であり、重量が重いから痕跡は残るだろう。奥三河の山間部の街道跡には残っている。(寺山)書きで寺山としてある。著者は若狭側から藪漕ぎで登っている。様子は今と大違いである。当時でも森林公園からの切り開きはあった。

 Dは写真のリアルさが際立つ良書。ここでは登山ルートとして上中町へ越えた河内越を紹介する。尚、若狭町は小浜市とばかり思っていたが、「2005年(平成17年)3月31日 - 三方郡三方町・遠敷郡上中町が合併し、三方上中郡の自治体として発足。」とあるので独立した自治体である。
 五万図熊川に残る破線路をトレースしているが藪漕ぎである。
麻生谷にかかる橋を渡るのは今も同じだが、杉は植えて20年くらいの若杉であり風景が違う。略図を見ると焼尾谷の対岸の道標にあった「ろくろ橋」は麻生川にかかる橋で昔はそこに登山口の道標もあったと思われる。
 ブナの疎林の落葉を踏みしめて歩いたが、写真で見ると当時は背の低い笹が茂っている。ブナも若く、日光が差し込んでいたのだろう。ここでも由来に触れているが、不明。
 寺山は若狭側の地名。ちなみに三角点の点名は寺山。木地山では河内越が正しい。駒ヶ岳山頂の写真は下は笹に覆われ、灌木が茂り、展望は皆無だろう。三角点は今は盛土の上に埋まるが当時は平地に埋まっていたと思われる。周囲の土砂が削られたのだろうか。Cでも三角点の周囲だけは同じである。

 Fでも由来に触れるが不明とする。ブナ林は千古斧鉞の森ではなく、炭焼きの際に切り残したという。つまり、ブナは良い炭にならず、意図的にブナを残して択伐していたのだ。
 確かに、ブナの文字は山毛欅、橅、椈、桕、橿と多い。2番目は国字ですが、木では無い、と有用な樹種ではなかった意味が込められている。水分が多いので曲がりやすく建築材にはならず、戦後はパルプ材になった。
 すると植林と同じ原理で間引き(間伐)することによって残ったブナは成長し易くなる。ブナは一番背が高くなるので成長とともに周囲の木や笹も発芽できず、ブナの純林になるのだろう。それを知らずに見て「ブナ林は良いなあ」と感動しているのである。
 今の登山口の近くにあるろくろ橋も昔は少し下流の分校跡から入山したらしいが、草深くなって今のところに移動した。するとあの道標は朽ちてもおらず、新しいように見えたが20年以上は経ったのか。
 結局駒ヶ岳の由来はどの本も言及されず、不明でした。それどころか、山名などなかったし、駒ヶ岳なんて初めて聞くと地元の人の話を紹介している。

 以下は駒ヶ岳異聞というか小説である。
 金達寿『日本の中の朝鮮文化』(講談社文庫)シリーズの長野県か山梨県辺りのどこかに駒ヶ岳は高麗ヶ岳という説を紹介している。いつの時代か、渡来人が大挙して日本に来たのだろう。ウィキペディアには「10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだが、1259年に高宗の時代に複数に渡る元の侵略で降伏・皇帝号喪失で元の属国になった。」とあるから乱世を逃れて日本に来たのかも知れない。
 確かに山梨県には北巨摩郡があり、甲斐駒がある。埼玉県には高麗神社がある。高麗の地名は意外に多い。但し、全国の駒ヶ岳の場所からのイメージでは一つにくくれない。北海道の駒は説明できないからだ。朝鮮人作家ならではの視点ではある。
 私の連想では、若狭には熊川宿(くまがわ)があり、韓国の釜山には熊川(ウンチョン)がある。百里ヶ岳は韓国の釜山とは500kmの距離にある。江戸時代の蕪村の俳句に「方百里」という言葉があるが、多分中国由来だろう。今の日本の換算では1里は約4kmなので400kmになる。実際は500kmもあるが誤差の範囲に入れても良い。
 昔の戦乱や乱世を嫌った職能集団は渡来人として対馬海流に任せて若狭湾にたどり着き、山越えで近江に流れ込んだ。
 他方で敦賀湾からも渡来人が流入してきた。敦賀はおつむの意味という。仏教徒や文人も来たのだろう。湖東にも朝鮮文化がある。
 演歌歌手の前田卓司の「小浜旅情」の歌詞には「御食国」の語彙があるが、皇室などへ海産物などを貢いでいた地域という。そういうルーツを持つ人々が遠い朝鮮半島の故郷を思い命名したのか。
 日本語の文字が発明され、普及するのは平安時代以降になる。和紙の普及も一般人には手に入らないから書き残すことはできず、口伝のみでは伝承できなかったのだろう。

大西暢夫『ホハレ峠』を読む2020年06月20日

彩流社刊

著者は  アマゾンから
大西/暢夫
1968年、岐阜県揖斐郡池田町育ち。東京綜合写真専門学校卒業後、写真家・映画監督の本橋成一氏に師事。1998年にフリーカメラマンとして独立。ダムに沈む村、職人、精神科病棟、障がい者など社会的なテーマが多い。2010年より故郷の岐阜県に拠点を移す。『ぶた にく』(幻冬舎)で第58回小学館児童出版文化賞、第59回産経児童出版文化賞大賞。映画監督作品:『水になった村』(第16回EARTH VISION地球環境映像祭最優秀賞受賞)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

出版社側のねらいは
編集者が明かす、ダムに沈んだ徳山村の本を出した理由 ―そこから見え隠れする近現代
https://note.com/sairyusha/n/naeff5f3e8d72

朝日新聞の書評は
(書評)『ホハレ峠 ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡』
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14511895.html?pn=3

 ■現金がのみ込んだ大地との生活

 ダムの底に沈んだ岐阜県揖斐郡徳山村。一五〇〇人ほど暮らしていた村民が次々と出ていく中、そのもっとも奥の集落・門入(かどにゅう)で、最後まで暮らしていた廣瀬ゆきえさん。

ここから続き
 山に入り、山菜を採り、日が暮れれば寝る。夫を村で看取(みと)り、たった一人で大地の恵みと呼吸するような生活に、強制的に終止符が打たれる。ダム建設に伴い立ち退きを余儀なくされた日、漬物小屋を解体する重機から目をそらすように遠くを見つめる写真が全てを物語る。「村の清流だった揖斐川の水が、自らこの大地を飲み込もうとしている」

 約三〇年前から村に通い、ゆきえさんと向き合い、その足跡を記録した。門入の住民は街に出るために、ホハレ峠を越えた。早朝に出たとしても着くのは夕方。わずか一四歳、家で育てた繭を運びながら峠へ向かう。峠の頂上から初めて「海」を見た。それは、初めて見る琵琶湖だった。

 北海道真狩村に嫁ぎ、やがて村に戻ると、山林伐採、ダム建設が忍び寄っていた。ダムの説明会に参加するだけでお金が支給され、集落の繋(つな)がりを巧妙に札束で崩していく国。「みんな一時の喜びはあっても、長い目で見たらわずかなもんやった。現金化したら、何もかもおしまいやな」

 転居した先のスーパーで特価品のネギを見て、「農民のわしが、なんで特価品の安いネギを買わなあかんのかなって考えてな。惨めなもんや」と漏らす。村を最後まで見届けたゆきえさんの人生は「点」でしかないが、その点は長く繋がってきた尊いもの。誰よりも本人がそのことを知っていた。

 台所で倒れ、亡くなったゆきえさん。口の中から一粒の枝豆が出てきた。ゆでた枝豆をつまみながら、ご飯を作っていたのだろう。時折さしこまれる写真の数々が、村の歴史、ゆきえさんの足跡を伝える。読みながら、本のカバーを何度も見返す。「現金化したら、何もかもおしまいやな」と繰り返し聞こえてきた。

 評・武田砂鉄(ライター)

徳山村は映画「ふるさと」にもなった。
以上

 個人的には、昨夜で粗方読破してしまった。奥美濃の山は登山の開始と同時進行である。山岳会に入会したのが昭和53(1978)年(28歳)であった。『鈴鹿の山』とか『秘境 奥美濃の山旅』を買って読んで山行のヒントにした。『ぎふ百山』を知るのはもう少し後になる。次々と登った山が増えてゆくのが楽しみになった。この後、サンブライト出版から森本次男『樹林の山旅』の復刻版が出た。すぐに買った。たちまち愛読書となった。
 足は月1回のレンタカーであった。入会した年の10月にトヨタ・スターレットというレンタカーで、馬越峠を越えた。初めての徳山村探訪になった。早暁、薄いガスの中に徳山谷が見え、紫色の煙が昇っていた。その時は冠山に登った。特に岐阜の山が面白く、当時は守山区に住んでいて、中日新聞の購読に加えて、岐阜新聞の東濃版を配達してもらった。昭和55(1980)年3月4日から『続・ぎふ百山』の連載が始まっていた。それが目的だった。昭和60(1985)年1月までのスクラップが残っている。切り抜きしたものを友人に託したらきれいな海賊版にしてくれた。何冊も印刷して仲間に配布したが後に岐阜新聞社から立派な装丁の『続 ぎふ百山』が出版された。海賊版は100山目で止まっていたが新版は130山もあった。
 昭和55(1980)年(30歳)にマイカーを買った。その車で、金ヶ丸谷の偵察に出掛けた。この時は揖斐川沿いに走り、西谷川を遡った。初めての門入との遭遇である。着いた門入では家の取り壊し中だった。墓には白い布をかぶせてあった。こんな情けない姿を先祖に見られたくないからだという。それで村人に金ヶ丸谷の熊の生息状況を聞いたら、いつぞやは京都の若い人が夜叉ヶ池から金ヶ丸谷を下降して遭難死したという。京都から親御さんがきて息子が帰らないから探してくれというので探したら谷の中で死んでいた。「あんたね、熊よりも谷の方が怖い。行かん方が良い」と諭してくれた。その日はそこで帰った。これが門入とのなれそめである。『ホハレ峠』P236には「たしかに昭和55年ということは、そろそろ徳山村から移転地へ引っ越しが具体的になってくるとき」とあるから記憶にまちがいはない。
 金ヶ丸谷の遡行は平成17(2005)年9月になった。偵察から実に25年の歳月が流れ、ダムの湛水が始まる前年だった。我ながらしつこく追いかけたものである。
 門入の予備知識としては安藤慶一郎編著『東海 ムラの生活誌』(昭和55年9月刊 中日新聞社)がある。5番目に「西美濃山村の生活と親族組織」がある。学者が書いただけに綿密に調査したのだろう。門入の特殊性は通婚関係と指摘している。閉ざされた狭いムラ社会ではそうせざるを得ないだろう。
 乙川優三郎『脊梁山脈』は木地師が主人公の小説である。しかも東亜同文書院の学生のまま兵隊にとられた設定。小説では長野県売木村の木地師と主人公が復員列車の中で出会うのだが、復員列車で親切を受けたお礼に売木村を訪ねると本人は居るのだが別人であった。出会った人は東北に住んでいたというトリックにも使われている。つまり東北の兄が結婚してすぐに出征したが戦死した。弟は無事で帰国できたので戸籍上は兄に成りすましたまま、兄の嫁と子を養う人生を送る。そんな筋書きだった。木地師の社会も他と交わりが少ないから近親婚になるのだろう。要するに限られた山奥の閉ざされた社会での家を守ったのである。
 著者も門入の婚姻関係の理解には相当な苦労をしている。P182辺りから明らかにされている。
 廣瀬ゆきえさんは大正7(1918)年生まれ。昭和7(1932)年14歳で初めてホハレ峠を越えたと、本書にある。昭和8年にはまたホハレ峠を越えて、更に鳥越峠を越えて彦根市のカネボウの紡績工場へ働きに出た。16歳までの冬はそこで働いた。17歳から24歳まで一宮市、名古屋市の紡績会社で働いた。
 著者の大西暢夫さんは門入が越前藩の領域だったことまでは調査されていないようだ。越前から見て最初のムラが門入、次は戸入、本郷である。古くはお坊さんも越前から迎えていた。福井県の日野川源流の廃村・大河内へ行く途中に二つ屋があり、そこから夜叉ヶ池に向かって登る尾根が街道の尾と言った。登りきると金ヶ丸谷の源流部に下る。そこからどのように道があったのかは明らかではない。
 ゆきえさんは昭和17(1942)年頃、24歳で結婚し北海道に渡った。『ぎふ百山』の千回沢山・不動山の項に入谷の人らは大正の初めに北海道へ渡ったことが書いてある。門入では明治36年から移住が始まっていたのである。戦争を経て昭和28年に北海道を引き揚げた。34歳になっていた。八ヶ岳山麓に一時的に身を置き、昭和30(1955)年に徳山村へ戻った。13年間はまさに転変流転の人生だ。廣瀬家から橋本家に嫁いだはずなのに夫がまた廣瀬家に戻した。もともと親戚同士の結婚だった。これが親族組織で成り立つ門入の特殊性である。
 愛読書の『樹林の山旅』には黄蘗(きはだ)の村(千回沢山と不動山)の項で門入が紹介される。きはだは薬になる木のことで、徳山会館で売っていた。
 森本は昭和10年頃の記録をまとめて昭和15年に発刊した。だから廣瀬ゆきえさんは18歳頃になり同時代を生きていたことになる。但しゆきえさんは一宮市の紡績工場に住み込みで働いているので遭遇はしなかった。森本は大滝屋という旅館に泊まって門入のめぼしい山と谷を跋渉した。ホハレ峠の話も出てくる。「あへぎあへぎ登る急な坂路は、太陽の光を顔に受けて峠に着いた時分には日焼けで頬がはれている。だから、ここはホヽハレ峠だという話を聞いたが、この峠の名前は街で信じてもらうにはふざけすぎている。だが私達は嘘だとは思わない。」
 栃や欅の原木を板に挽いてホハレ峠まで来ると余りの力仕事に頬が腫れるというのが由来のようだ。
 湛水が始まったころは遊覧船が浮かぶとか、門入へは県道が通るとかは仄聞したが今も実現していない。

西三河・蚕霊山434.9mと茶臼山418.2mの三角点を歩く2020年05月24日

豊田市の茶臼山418.2m
 緊急事態宣言で外出自粛が続き、「巣ごもり」生活の結果、肉体的に疲れることはないためか、夜型人間になってしまった。午前3時、4時まででも起きてしまう。すると一旦眠れるが8時、9時に起きても朝食の食欲は余りないことになり、ぐずぐずと昼前まで雑務に明け暮れる。結局出かけるのは午後遅く、早くても14時になる。その結果中途半端に終わったピークハントがあった。サイクリングとハイキングを兼ねて行った5/5の蚕霊山と昨日の東萩平の茶臼山だ。
 そこで今日は午前中に出発することを第一にした。まず豊田市小原町の蚕霊山である。クルマで山頂付近まで登れてしまうのでハイキングの要素はない。かつては登ったがもう記憶の彼方になった。頂上は蚕霊神社の境内でそこの隣に宮司さんたちも住んでいるのだろう。三角点は隣の小さな神社の石碑の奥に埋まっていた。それでも来る人はいて山頂板がぶら下がっている。 

 蚕霊神社の案内板には、もともとは御嶽大明神が祀られ江戸時代から信者も多かったという。明治20年に小原村に伝染病は流行、それを契機に伊勢神宮外宮より、大気都比亮命(オオゲツヒメ)を勧請して蚕霊神社の建立となった、という。
 
 明治20年とはどんな時代だったのか。これも検索してみた。
https://say-g.com/topics/609
①1822(文政5)年8月14日 日本で初めてコレラの感染が確認

「「日本の細菌学の父」と呼ばれる北里柴三郎が、1887(明治20)年に、第6回万国衛生会議で行った口頭発表をまとめた「日本におけるコレラ」によると、
「長崎とジャワ島との間を往復する一隻のオランダ船が、この伝染病を最初にわれわれのもとへもたらした。長崎は当時の日本において異国人、すなわち清国(中国)人とオランダ人と貿易取引を行うただひとつの都市であった。コレラはまずそこで発生し、長崎を取り囲む日本の南西部に広がったが、数ヶ月後に日本の内陸部へと到達し、間もなく大流行となった」と記しています。

※オランダ人が不潔だった証拠に江戸川柳がある。

登城する紅毛にハエのついていき

紅毛というのは当時のヨーロッパ人をいうが、「1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」」の時代はオランダ人を指す。「オランダだけは「人悪し、国もまた悪し」」だったらしい。

②日本国内で2度目のコレラ大流行となった1858(安政5)年
長崎で発生したコレラは数ヵ月の後に江戸へと至り、8月下旬から数ヵ月で10万人以上の死者を出したと伝えられています。加えて江戸にとどまらず、京都・大阪にも被害が拡大。深刻な打撃を与えています。

このときの大流行はとどまるところを知らず、「1859年から1861年にかけて、この流行は時には局所的に、時には国内至るところで発生し」た。

③1878(明治11)年〜1879(明治12)年の流行

④当時の防疫知識を総動員して対応にあたってはいたものの、コレラの猛威には対抗できず、1886(明治19)年にも、10万人を超える死者が出た。

・・・小原村の伝染病はコレラだったのだ。これを封じるためにこの神様が勧請されたというわけだ。今回のコロナ禍も1回では終息せず、何度も感染するのだろう。専門家と称する人は群盲巨象をなでるごとく、薬の開発は途上だし、治療法も確立していないのだ。

 大気都比亮命は日本神話の神様。
ウィキペディアには
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%B2%E3%83%84%E3%83%92%E3%83%A1

「高天原を追放された須佐之男命は、空腹を覚えて大気都比売神に食物を求め、大気都比売神はおもむろに様々な食物を須佐之男命に与えた。それを不審に思った須佐之男命が食事の用意をする大気都比売神の様子を覗いてみると、大気都比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。須佐之男命は、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、大気都比売神を斬り殺してしまった。すると、大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。 これを神産巣日御祖神が回収した。」

・・・頭から蚕が生れたというところがミソだな。

 次の東萩平に向かった。この山は周囲が車道に囲まれているので南回りに走った。結構な急斜面に山家が張り付くように建っている。谷もないのに水はどうしているんだろう。そういえば頂上の家も水がない。しかし地形図をよく見ると標高350m付近は水線ががあり、湧き水があると思われる。小さな谷間に水田もあった。案外水は恵まれているのだろう。大規模な谷は土木技術が無いと制御できないが家族が暮らせる程度の水は不自由しないのだ。

 というわけでまた県道11に下り、笹戸へ行って矢作川左岸に移る。市平からヘアピンの山道を走る。ゴルフ場があるために道案内があり、簡単に水上に着いた。今日は茶臼山の「登山口」付近にデポした。お須原山との鞍部になる。ちょっと探すと赤いひもがぶら下がっており、蜘蛛の巣を払いながら廃道の山道を辿る。登山口のヤブ、枯れ枝、倒木の散乱状態を抜け出ると落ち着いていて、赤いテープも見える。とはいえ、418mの山である。山頂近くになると踏み跡もしっかりしてきた。赤テープが二重に巻いてあるところからすぐで山頂だった。四等三角点が埋まる近くに山つつじが咲いている。展望は樹林の中なので皆無である。

 帰路は尾根を戻るつもりだったが赤テープを二重に巻いたところは谷へ下る踏み跡が比較的明瞭だったので小さな冒険を試みてみた。源頭では倒木や枯れ枝が散乱し荒れ気味だった。大きな岩が散乱する谷の左岸に不明瞭な踏み跡が続き、辿ると車道に出た。クルマにはすぐに戻ったが時間はあるのでお須原山に登った。風が心地よい。初夏の使者かというホトトギスが近くに来て鳴きながら去って行った。もうすぐ夏だよ、という。

 緊急事態宣言はもう解除されたものの愛知県独自にはしばらくは続けるという。コロナウイルスを完全には封じ込めることは出来ない。しかし、こんな三密ではない山歩きなら健康維持になりこそすれ病気にはなるまい。
 帰名の途次、矢作川河畔の「うな武」で遅い中食を取った。健康のためにうな丼3350円を奮発。近場で高速料金も掛からず、ガソリン代も知れてる。その分食事に回す。カーエアコンを利かせながら帰名した。

豊田市郷土資料館特別展「猿投山ー祈る山、観る山、登る山」2020年01月29日

 猿投山は私の住むマンションの窓から朝な夕なに眺める山である。右側に一段低くなる台地がありあそこがヤマトタケルの兄のオオウスノミコトの墳墓があるところであろう。まさに霊山である。
  親しい猿投山をどんな風に展示するのか興味深々で1/28に見学。一回りすると別室で動画もあり戦前のはげ山だったころの映像が視聴できる。文献の展示は学芸員の解説がないと楽しめないかも知れない。学芸員によるトークもあるので午後に尋ねるが良い。1/19から3/15の間、2時から2時30分間解説してくれる。ギャラリートークは2/15と2/29でともに午後2時から3時まで。講師は外部から招いた専門家。但し猿投山そのものではなく、石、名園に限る。
 今回は豊田市側のみに限る。どちらかと言えば猿投神社に重点が置かれた。猿投山の自然、民俗などが加味されればさらに充実する。この点は学芸員に注文をしておいた。例えば、猿投山の山名の由来である。景行天皇がいたずらする猿を投げたという伝説がもっぱら引用される。しかし、豊田市名誉市民の本多静雄氏は猿投山の「さな」は昔の製鉄に由来するという説を書いていました。こんな解説があれな尚興味は増すだろう。地名の語源辞典にもそう書いてある。
 また猿投山がはげ山だったというのは多分瀬戸市側ではないか。神社のある境内は樹齢200年はありそうな神杉が林立している。神域からちょっと離れると植林になり谷は荒れている。瀬戸物生産には大量の木炭を必要とした。約700年もの間伐採と自然生を繰り返してきたから東濃の窯元周辺の里山はほとんどはげ山になったのである。愛知県は地味の痩せた瀬戸市側の山を買い取り、植林はしたものの、育ちが悪かった。そこを日本山岳会東海支部が貸与してもらい、猿投の森づくりの会を立ち上げた。育ちの悪い植林を伐採し、林床に光を入れて雑木林の自然生を促し、ゆくゆくは市民が憩える雑木林になる。このまま放置すると元々の照葉樹林に戻るので、時々干渉して雑木林の状態を保つという。
 瀬戸市側の東大演習林側は行方不明者の捜索で許可を得て入山したことがある。さば土の尾根や谷にやっと植生が根付いたところである。今も松が残り杉桧の植林も不安定なままで崖崩れも多いので危険領域もある。活き活きした里山に回復するのはまだ数十年はかかるだろう。

鈴鹿・奥草山を歩く2019年12月21日

 鈴鹿の奥草山に登って来ました。
 名古屋を出たのは予定より30分遅れの7時30分になった。武平峠を越えて滋賀県土山町大河原のかもしか壮に着いたのは8時30分。伊勢湾岸道、新名神のお陰で約1時間ともの凄く早い。1250円也。
 かもしか壮のPから仰ぐとこれから行く山なみが見える。かもしかにPの承諾を得て、出発は9時になった。PからR477へ出て右折、R477の手前で右に入る車道を行く。最初は舗装だったが未舗装になる。標高450mの峠で車道は終わる。ここから尾根の踏み跡を探しながら歩き始める。すると左から良い道が合わさり、そのまま行くと537mのコブを巻くイメージで登った。さらに急な切り開きを攀じ登る。東西に横切る幅2mくらいの作業道に合う。そこも横切って急登にあえぐと820mの奥草山に着いた。
 まだ11時前だし、寒いのでそのまま歩く。雑木林を下って小さなコブを越え、右折して下ったところに政子3等三角点があった。点名は鶏岩という。ピンクや黄のテープが多い。11時になった。ここから一段と下って南のコブに行く。ピンクのテープが花が咲いたように見えるほどたくさん結んであった。矢印まである。明瞭な尾根を下る。標高620m付近でやっと12時を回ったので昼食にした。
 山頂と違って風もない。尾根は広くなった。雑木林から植林内へ入ると下枝もない。黄のテープが小まめに巻いてありそれを追う。途中、二重巻きがあって分岐らしいが尾根を忠実に下った。最後は堰堤の取り付け道路の終点に下れた。途中で下ると車道の山側の金網が越えられないだろう。堰堤まですぐだった。
 近道になると思い、ちょっと堰堤の階段を下ってみたが対岸で鍵がありしかも鉄条網で出られず袋小路になっていたのでまた戻ることになった。これは失敗。立入禁止の看板はなかったが事実上そうなっている。またR477へ出てかもしか壮へ戻った。13時30分頃か。
 一風呂浴びた。65歳以上は400円とシニアに優しい。旧宿舎以来久々の入浴である。コンパクトながら手ごたえはあった。
 奥草山は赤松の古木が多かった。樹齢は150年くらいか。かつては東海道を往来する馬の秣(まぐさ)を生産する草山だったのだろう。秣の需要が無くなると松を植えた。松は草山で養分が流れたやせた土地に強い。倒木が多いのは雑木林で落葉が養分となり地味が肥えたために枯れたのだろう。放っておけば落葉広葉樹の薪炭林になる。薪炭の需要も無くなると今度は皆伐して杉桧の植林山になった。
 里山の森林文化史を歩いているようだった。奥草山とは言いえて妙である。奥三河の萩垂山、萱場山は伊那街道の草山だったし、木曽上松の風越山は中山道の秣生産の山だった。

段戸山(鷹ノ巣山、出来山を含む)をめぐる沢、谷、洞2019年08月26日

 昨日は栃洞を遡行した。
 山一つ西は滝洞という。その西は鰻沢という。栃洞の東は西川谷、さらに東は弁天谷という。北へ椹尾谷、本谷がある。以上は豊川水系の支流になる。鷹ノ巣山の北側は矢作川水系になる。北西には井戸沢がある。寧比曽岳には沢名の記載がない。出来山の足助側には信玄沢、枯木沢があり、全体は信玄の金山の名残りとして金沢の地名がある。
 沢名は愛知県から木曽山脈、飛騨山脈の屏風の東側の名称である。西側は谷名になる。洞は岐阜県に多い気がする。意味は「大木や岩などの、うつろになったところ。ほら。ほらあな。」「崖(がけ)や岩の中の、うつろになった穴。ほら穴。」が一義的な意味だろう。確かに栃洞を歩いても岩のポットホール(甌穴)が多かった。
 それでは沢と谷が入り混じった川はどうなのか。例えば富山県側に入る黒部川の源流部は谷のはずだが、赤木沢、五郎沢、祖父沢、薬師沢など数々挙げられる。これらは東日本の信州側から多数の人が入って持ち込んだものだろう。黒部川を国境とする見解もあったらしい。
 結局愛知県の設楽町には沢、谷、洞が入り混じっているが、沢は信玄沢の名称でも推測できるように甲斐の人が多数入った証拠だろう。設楽町には縄文遺跡があることから東日本文化圏だったと思われる。洞はその形状から来るのだろう。
 すると弁天谷はどうか。愛知県尾張地方には弥生遺跡が出土している。谷の文化圏の関西からも多数の人が来たと思われる。
 コトバンクから引用すると
「弁才天 べんざいてん
仏教の守護神。
知恵,弁舌,技芸の女神。もとはヒンズー教の河神。8本の手で各種の武具をもつ座像,あるいは2手で琵琶(びわ)をもつ座像として表現される。日本では奈良時代から弁才天信仰がはじまり,江戸時代には弁財天ともしるされ,蓄財の神,七福神のひとりとして庶民の信仰をあつめた。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例」とあった。比較的新しい歴史がある。
 当貝津川と栗島川(上流で西川谷と弁天谷と変わる)の出合いには赤沢弁財天があり霊水をウリにしている。つまり信仰が由来だった。

伝説としての姥捨て、現実としての棄老2019年07月03日

 朝はどんより、雨が降らないだけまし。10時に合流して、高齢者福祉施設に向かう。道を間違えて本部に行ってしまうが、時間に余裕をもっていたために15分の遅刻で済んだ。相談者のご夫婦は首を長くして待っておられた。
 地銀の相談会で契約が成立。そのうちの1件は相続問題がこじれて、成年後見制度利用がらみの解決策を提案。すぐに依頼を受けた。ご夫婦は相続人ではなく、姻族になる。ご主人の亡父は実の親、後添いの妻つまり義母の相続の問題解決のために、ともかくご本人に面会する必要があり入居施設を訪問した次第。
 会ってお話を様々に振ってみた。生年月日も即答するし、とても認知症というほどではなく、法定後見の申し立ては無理か、と疑う。そこで任意後見を勧めるが、一方的な判断ではなく、施設側の医師の判定も勘案することとなった。
 義母さんはとても明るい性格、積極的に話を仕掛けて話題の中心になるようだ。ある意味では強気ともいえる。
 歩行は不自由であるが、笑顔が素敵で、歯並びもきれいなので自分の歯かどうか聞くと、全部自分の歯だった。これなら認知症でどうしようもなく、進むことはあるまい。認知症の人で入れ歯の人にインプラントの施術をすると認知症が改善すると聞いた。噛むことは脳の神経と強くつながっているのだろう。

 出身地が長野市というので、善光寺さん、黒姫山、戸隠山、飯綱山の地名を話すと乗ってこられた。そして顔の表情も明るくなった。「長野へ帰りたい」としきりに言われた。望郷の念ひとしお、という気がする。かといって、義母さんはは88歳になり、故郷にはもう身内は居ないのである。加賀城みゆきの「おさらば故郷さん」のフレーズが浮かぶ。

https://www.youtube.com/watch?v=LY6nc7DB5rc

 なんとも切ない歌詞である。

 あまり長居もできず、施設の責任者と情報交換することとし、以後の方針を立ててゆくことになった。正常で自分の判断が可能なら任意後見とし、とてもひどいなら法定後見とした。先ほどの元気と正常に見える様子は一時的ものかも知れない。普段から観察する人の判断が必須である。
 面会のお礼を述べて施設を後にした。
 姥捨山では老母はただ死あるのみであった。
 法治国家の現代は死の前に財産管理などの終活が必要になってきた。一筋縄ではいかない課題が山積する。

司馬遼太郎『北のまほろば―街道をゆく〈41〉』読了2019年06月22日

目次だけを見てもボリュームたっぷりだった。読みこなすのは大変なことだった。

古代の豊かさ
陸奥の名のさまざま
津軽衆と南部衆
津軽の作家たち
石坂の“洋サン”
弘前城
雪の本丸
半日高堂ノ話
人としての名山
満ちあふれる部屋
木造駅の怪奇
カルコの話
鰺ケ沢
十三湖
湖畔のしじみ汁
金木町見聞記
岩木山と富士山
翡翠の好み
劇的なコメ
田村麻呂の絵灯篭
二つの雪
山上の赤トンボ
志功華厳譜
棟方志功の「柵」
移ってきた会津藩
会津が来た話
祭りとえびすめ
鉄が錦になる話
恐山近辺
三人の殿輩
蟹田の蟹
義経渡海
龍飛岬
リンゴの涙
以上
・・・約400ページに圧縮され、非常に多彩なテーマを織り交ぜながら、青森県の歴史と文化を楽しませる。
 ことに興味深いのは愛知県豊橋市出身の菅江真澄の話が縦横に語られること。真澄の見聞が契機となって古代史に光が当たる。真澄の旅は物見遊山ではなく、国学で学んだこと、すなわち日本のことをもっと知りたい、日本人は何者だったのか、という学問的欲求だったと思われる。
 山のこともちょっぴりだが入っている。岩木山、八甲田山をベースにした文学の盛んなことも指摘。風土色の強い芸能も盛んである。
 青森県の歴史は津軽と南部の重層性が特殊である。津軽は南部から分かれた。津軽為信の野心が南部からの独立させた。弘前城の規模は徳川家康の許容範囲を超えたものらしい。それは関ケ原の戦いに際しての津軽為信の政治性の巧みを描く。
 その上に近代以降の会津藩の多層性もある。青森県の歴史と文化は一筋縄では解読できない複雑さがある。
 個人的な興味は三重県の北畠家が青森へ移ったことで、児童文学者・北畠八穂が生まれ、近代文学に華を添えた。
 この紀行自体は太宰治の『津軽』を下敷きにしている。太宰の視点で津軽の理解に努めた風だ。
 リンゴの涙の章の最後に小学生の詩を引いた。「リンゴの涙」と「でかせぎ」。「津軽や南部の言葉を聞いていると、そのまま詩だと思うことがある。」と。「この小さな津軽詩人の詩を借りて「北のまほろば」を終える。」と締めくくった。
 演歌歌手・吉幾三の「津軽平野」は1984年のリリース。歌詞にでかせぎ、岩木山が出てくる。美空ひばりの「津軽のふるさと」「りんご追分」など数々の名曲にはりんご、岩木山が出てくる。
 青森県自体が詩の国なのである。

 初出誌は1994年5月22日~1995年2月24日号の週刊朝日に連載された。

 この中の「湖畔のシジミ汁」には名古屋市の出身で、城郭考古学を専門とする奈良大学教授の千田 嘉博氏の学説も引用されている。名古屋城の解体、木造化で揺れている昨今、千田氏の言動に注目が集まる。上物の更新だけに傾倒した行政の前のめりの姿勢を批判し、石垣の保全に目を向けさせる。

神又谷異聞2019年06月10日

 20万地勢図「岐阜」を見ていたら、池ノ又林道通行止め地点から尾根に上がり、747mを越えて中ツ谷に下り、1048mへの独立標高点に登り、1196m(左千方)まで行って、尾羽梨川へ下る破線路があります。『坂内村誌』によれば中尾嶺越というようだ。1050.2mは中尾嶺ともいう。(滋賀県地名大辞典)
 私のは昭和48年12月現在の地図です。田戸の奥の尾羽梨は廃村です。昔は近江の村と結ぶ山道があったのです。

 坂内村誌(民俗編)には
 神又谷は昭和10年代は木材搬出の道があったそうです。古くは江州谷とよばれたほど滋賀県側から木炭や、薪材を切り出しに来ていたらしい。近江は金糞岳があり、土倉鉱山もあり金属精錬が盛んだった。魚を焼く、お茶を淹れる、暖房、炊事など需要は旺盛だった。
 それで近江だけでは足りず、山越えで炭を生産したのでしょう。そしてリッカ谷から1050.2mの南の鞍部を越えて、神又谷と往来があったらしい。あの見事なブナ林は二次林なんですね。それにしては注意していたが炭焼き窯跡は見つからなかった。

 皆さんと眺めたブナ原生林は他の樹種が混じらない純林と呼ばれる。
 ウィキぺディアには「森林の樹木群集がほとんど陰樹で構成されるようになり、それ以降樹種の構成がさほど変化しない状態になったことを「極相に達した」といい、極相に達した森林を極相林という。 また、主に極相林で生育する樹木種を極相種という。」
 つまり下山の際に見た無尽蔵に林立していたあのブナ林は極相に達しているのです。
 だから眺めて美しいし、青森県の白神山地も同じく極相林でしたから、あそこにいる限りは白神山地と変わりない環境だったのです。
 
 滋賀県の廃村・奥川並(おくこうなみ)は川上の人等が峠を越えてつくった村でした。ですから中津谷との交流の道もあったのです。1060mは多分ですが、中津山かも知れません。するとあの尾根は中津尾かな。坂内村誌はそこまで記載はないが詳細な山名考証がある。昔は近江と美濃の山村民は縦横に山を歩いていたのでしょう。

 点名の大岳は滋賀県側の名称です。前述したように中尾嶺も文献に出ている。

 木炭の生産は江戸時代から盛んだった。秀吉は薪炭材の本数を把握するために1000本の紐を作り、山の木に巻いて残った本数を引いて実際の本数を把握したという。知恵者です。

 古くはヤマトタケルの時代、伊吹山の魔物を征伐するために出かけますが、死に至るケガをさせられて退散します。伊吹神は金属の神様で南宮大社も金属の神様を祭っています。伊吹山の北には金糞岳があります。金属の精錬には木炭が必須です。長浜市は鉄砲の生産で有名です。鉄砲鍛冶にも大量の木炭が必要です。大量の木炭を消費する環境だったことは想像できます。今と違って往時は山に多くの人が入っていたでしょう。今は野生動物の天国です。

 戦後に石油の輸入が再開されると木炭の生産は急激に淘汰されてしまいます。この山も需要の急減した木炭の原料として利用価値のない(文字どうり、ブナは木で無い、橅があてらる)山になった。伸びるままに伸びて、戦後は74年間に他の樹種を抑えて極相に達した。

みちのくの山を漂泊・・・書籍編2019年05月22日

 4月末から5月中旬にかけて、青森県一円の山旅と南東北の山旅でほぼ2週間を費やした。帰宅後は一度は読んだ本を反芻するかのようにまた読む。新たな本も漁って読む。
 司馬遼太郎の『街道をゆく』シリーズの「北のまほろば」、「羽州街道ほか」、「陸奥のみち ほか」、「会津のみち ほか」で東北は網羅される。このなかには司馬さんの人物像と歴史観が混在し、わかりやすく、あるいは難解にディープな見解が述べられる。
 例えば、その中に、菅江真澄、上杉鷹山、蒲生氏郷、松平容保などが出てくるから関連の書籍をまた読む、といった具合で、鶴ヶ城のPの脇にあった司馬遼太郎の文学碑の「最後の藩主、松平容保を描いた小説「王城の護衛者」」も読まねばならない。
 特に福島県は海に面した県のイメージが強くある。そのために会津はどこの県との意識もなかった。今回は裏口から福島県入りしてみた。地形図を眺めてはため息をついてきた福島県の会津地方。それでその西に食い込んだ県域の広さと山の深さを実体験できたのだ。
 井上ひさしは「福島県は東北じゃないんです」と言ったというが、実際に実感する。しかしそうとも言い切れない。3000級の山こそないが、日本のもっとも深い山岳地域である。
 今回は会津磐梯山に登れたことが大きな収穫であった。実はこの山は2回目で、30年前にスキー登山で挑んで撤退した。どこから眺めても磐梯山は存在感がある。会津は磐梯山あってこその盆地であろう。
 乙川優三郎の小説『脊梁山脈』も木地師が主役で、長野県売木村と東北の木地師の山村を舞台に戦争に翻弄された運命の不思議を描く。脊梁とはまさに木曽山脈の末端にあたる売木村であり、奥羽山脈のことだった。また読み返してみたい本である。東北の山村へ、名山でもない山へと誘う。

 長い山旅でしばらく事務所へ行っていないので今日の午後は雑務処理に時間を割く。