緩和ケアの専門医の話(動画)2020年11月28日

https://www.youtube.com/watch?v=Jq5TQsbSz1A
【医者が聴いた】しておかないと死ぬときに本当に後悔すること5

1 ありがとうと伝えなかったこと。
・・・死期は選べない。喉元を過ぎれば忘れる。今、感謝の気持ちを伝える。

2 緩和ケアの医者を探しておかなかったこと。
・・・人は誰でも終末期を迎える。慢性病の末期には癌に限らず、痛みや苦痛が出る。この辛さを和らげるのが専門医という。

3 感情に振り回された一生を過ごしたこと。
・・・50歳代の女性の訴え。些細なことで悩んだ。大したことではない。感性が鋭いのも考え物だ。

4 やりたいことをやれなかったこと。
・・・自分の体は自由に出来なくなる。考えることすら気力がなくなる。思い立ったが吉日と思う。自分が時間を割いたことは何か。本当に今やりたいことは何かを知る。

5 仕事ばかりの人生だったこと。目の前のことで一生懸命だった。
・・・好きなこと、色んなことを平行してやってゆく。 

 緩和ケアの病院は名古屋では精霊病院を1つ知っている。検索すると3ヶ所ある。山岳会の先輩で医師だったが79歳で癌になり、末期はそこに入院された。意外にはやく亡くなられた。麻酔なども使ったとは聞いた。
 先生宅にお見舞いに行くと「君たちには世話になったな、僕はもう死ぬ。これまでありがとう」と言われた。こっちは「エッ、???」と絶句するばかりだった。世話になったのはこっちの方だったが、帝大医学部卒の社会のエリートだったのにフランクな性格だった。山の世界では社会的な序列はないので言いたいことを言い合い、放談を楽しんだ30年であった。
 あれからすぐに入院されたのだろう。先生を信奉する後輩(私には先輩)が世話をしていた。その方もすぐに病死された。医療を尽くしても治らないとなれば緩和ケアの専門医は重要な仕事である。自分も最期は世話になりたい。
 もしも6番目を挙げるなら、以前に聞いたことではあるが、遺言書を書かなかったことがある。病院のベッドで死を直前にした状況では中々に書けないだろう。但し、文案はこちらで考えるし、公正証書の場合でも公証人、証人とも病院や老人施設への出張が可能である。
 人生とは出会いと別れ。

令和2年度蓬左文庫講演会「名古屋城下町の町名のうつりかわり」を聞く2020年11月27日

日時:令和2年11月26日(木曜日)午後1時30分から3時

会場:徳川園ガーデンホール

講師:種田祐司氏(名古屋城調査研究センター 名古屋城調査研究員)

 この講演会で、江戸時代から明治維新までの名古屋城下町に、タイムスリップしてみる
のはいかがでしょうか!           主催:名古屋市蓬左文庫

 江戸時代初め、名古屋の城下町がつくられました。なんと、清須から町名ごと町人が引っ越してきたのです。その後、城下町は四方に拡大し、新しい町名が次々と誕生していきました。とりわけ、明治維新で町の名称や制度も大きく変わりました。今回は「名古屋城下町の町名のうつりかわり」をご案内します。あわせて、町人の暮らしにも触れていきます。

・・・というテーマで種田氏の話を拝聴しました。徳川園は27歳で名古屋に来て入園は初めて?と思う。しかし、40歳で短歌と俳句をやり始めた際、短歌会「武都紀」の創始者の浅野利郷の歌碑があるというので見に行った記憶が微かにある。見るためには入園する必要があるので40歳代に来たということになろうか。
 開演までに寸暇があったので庭園を少し散策。つわぶきの花、四季桜?も咲いていた。その後会場入り。検温、マスク着用チエック、スマホで入場証提示して着席。密にならない配慮がなされ少な目の入場者数であった。
 開演は女性の蓬左文庫長から告げられて、コロナ禍の第三波到来の恐れで一時開催を危うんだとあいさつされた。講師の種田氏は元市職員で、街づくり行政の専門家だったのだろう。清須越以来の市域、町名の変遷を説かれた。地名の保存にはこだわりはないといわれたのは意外だった。一人保存を叫んでも維持されるわけではなく、そこに住む人の愛着が必要という。ごもっともなことである。
 個人的には名古屋市は旧称は尾張国でありながら三河国との合併で愛知県と命名された。これは鮎千潟に由来するとのこと。名古屋市南部にあった干潟で万葉集に謳われた。
 しかしそれでも市名は愛知市とはならず、名古屋市になり、県名も名古屋県ともならなかった。名古屋城があるせいか、名古屋人にはとても愛着が強い。以前は弁護士会も一般的には県名を付けるが、名古屋弁護士会を名乗っていたほどである。ちょっと名古屋弁護士会でググると愛知県弁護士会がヒットする。
沿革
1893(明治26)年 - 弁護士法が制定され、名古屋弁護士会が設立される。
1977(昭和52)年 - 元会長・本山亨が最高裁判所裁判官に任命される。
2005(平成17)年 - 愛知県弁護士会に改称。
 とまだ最近のことである。事程左様に名古屋への愛着が強い土地柄である。
 日本で一番最後になった帝大の名古屋帝国大学は昭和14年の設立だが、やはり県名を名乗らず、名古屋になったのも当然のことだろう。他県では青森県の国立大学は弘前大学で、青森大学は私立だ。
 今日の話の本質は住民の地域への愛着が地名を末永く定着させることであろう。
 私も尾張藩御用達の名古屋商人の末裔という伊藤孝一(日本で初めて冬の黒部源流の山々を映画に収めた人)の評伝を書くために調べた。尾張商人では22万件余り、名古屋商人では180万件がヒット。林董一氏の名古屋商人史にも名前があり架空の人物ではないと知った次第。名古屋城への愛着が名古屋の地名を不動のものにしている。但し細目に至っては変遷著しいものがあるなと感じた話でした。

病は口より入り禍は口より出ず2020年11月25日

 チャイナウイルスの第三波が襲ってきた。GOTOトラベルを促進し、観光業界を救済するためには外国人観光客を呼べ、というので中国人、韓国人は11/1からチエックなしで入国させている。東京都、愛知県、大阪府などの大都市圏で感染者が急増した背景には外国人の入国急増があると思われる。
 政府がやることを個人で批判しても始まらないので防御する必要がある。感染は回避できないの発症しないことに尽きる。そのためにはどうするか。
 昨年初冬においてはインフルエンザ防止を念頭に置いて咳止め対策をしてみた。
1 ビタミンCの集中的摂取・・・・虫歯予防のためには飴をなめない。
2 うがい特に歯磨きの励行・・・以前は朝は磨いたがそれは夕食後の汚れだった。朝食後は磨かなかった。今は就寝前に磨き、朝食後も歯磨き粉を付けずにブラッシングだけやる。
3 栄養摂取
これが大きな効果を挙げた。チャイナウイルスの感染防止にもなった。

 今後も留意することは怠惰になりがちな食後の歯磨きである。サワイ健康推進課のHPから引用すると
「うがいとマスクで感染予防
風邪をひかないための工夫は、体内にウイルスや細菌を侵入するのを防ぐことになるので、すべての咳予防に有効です。
 まずうがいは、水でのうがいが有効です。うがい薬を使うと正常な細菌叢(そう)も殺菌してしまいます。うがい薬は風邪を引いてのどが腫れているときや痛みがあるときに使いましょう。
 次にマスクでくしゃみや咳によるウイルスの飛沫感染を予防します。風邪を引いている人、風邪をうつされたくない人、両方がマスクをしていればウイルスの感染予防に役立ちます。

歯磨きも効果的

 口の中の雑菌は寝ている間に増えています。咳のもととなる口内細菌が体内に侵入しやすいので、就寝前と起きてすぐの歯磨きを。
 インフルエンザをはじめとした、ウイルスや細菌からの感染対策によいでしょう。
 もちろん、食後の歯磨きも大切です。起床時、朝食後、昼食後、夕食後、就寝前のうち、起床時と就寝前を含めて1日4回以上、歯を磨きましょう。」
以上
 ウイルスにせよ、あらゆる病菌はほとんどは経口です。口は災いの元ですが、病は口から入るのです。病は口より入り禍は口より出ず=病気は飲食物とともに入り、災いは言葉とともに出る。 口は慎まなければいけないということ。

毛100%のセーターの虫食い穴2020年11月24日

 寒冷期の登山には非常用の衣類として毛100%のセーターを持つ。寒い時は直接上着にもなり防風衣と合わせると強力である。重ね着することで衣類内の空気が増えて温まりやすい。
 山用衣類メーカーはレイヤリング」などと言ってさも新しいアイテムのごとく宣伝するが重ね着である。
 今回は低山ではあるが日本海側の山でもあるから強風も考慮して低温化の行動を考えた。山間部を走るR367の気温計でも6℃だったから上は寒いのは当然だ。
 幸い、風は無風なので休憩を少なくして歩き通したら着る場面はなかった。単独行だから自在に歩ける。
 ところが温泉に入湯後の着替えに取り出したら、何と虫食いだらけになっていた。それでも着用したが虫が居ると思うと気が気ではないので、本当はドライでクリーニングに出すべきだが、ウール専用剤で普通に水洗いした。これで虫が流されてしまうと思う。
 そして、洗う前に虫食いの場所は直径が10ミリ程度なので同じ色の糸で補修しておいた。人前で着るものではないのでまあこれで良いか、と思う。ググってみると虫食い防止は薬剤を使うとか風を入れるとかのメンテナンスが必須である。
 同じセーターで色違いは虫食いではないのは薬剤入りのタンスに収納しているからだろう。一方でこちらはナイロン袋に入れっぱなしだから無防備であった。

ワークマンのパンツを買う2020年11月20日

 今や売れに売れているワークマンのロードショップに寄った。ネットで盛んに流れてくる新製品が狙いだったが、2店舗めぐってもなかった。しかし、フィールドコアという銘柄で、冬物バージョンが出ていた。2500円と安かったのでつい買ってしまった。履いてみると綿入りのせいで温かく過ごせる。但し汚れや引っ掻きには弱い。山には不向きか。冬の部屋着か外出着に使えそうだ。一方で狙いの新製品は通販専用であった。これは擦れにも強そうなので山用に使える。

落葉期は登山道上の落葉での滑落に気を付けよう。2020年11月19日

落葉期は登山道上の落葉での滑落に気を付けよう。
http://tss1962.blog.fc2.com/blog-entry-1496.html

 鈴鹿の八風峠で滑落死された78歳の地元四日市市の登山者のニュースが今もメールのアラートにヒットしてくる。反響が大きいと見る。

 共同通信の記事「 17日午後5時半ごろ、三重県菰野町の八風峠で、遭難した後に四日市西署の山岳警備隊とともに下山していた同県四日市市の無職佐藤一雄さん(78)が足を滑らせて滑落し、死亡した。同署は「必要な救助方法だったが、事故に至ったことは誠に残念」と話した。

 同署によると、同日午後2時40分ごろ、八風峠登山道周辺の山中で佐藤さんから「道に迷った」と110番通報があった。同5時ごろ、駆け付けた山岳警備隊員3人とともに下山を開始したが、約30分後、約20メートル下の岩場に滑落した。

 同署は、佐藤さんが登山経験が豊富で、周囲も暗くなっていなかったことから、下山できると判断した。」

 今年は春からステイホームとコミュニケ-ションが断絶された。感染拡大を防ぐためにはやむを得なかった。ところが個々には体は鈍るし、対人関係から疎遠になると精神的にもおかしくなる。佐藤さんもそんなお一人かと想像している。
 あの古城山に消えた87歳の松茸採りの老人も裏庭みたいなものだった。弟さんの話では、兄は独居であり、6月ごろからおかしかったと言っておられた。妻は施設に入居し、茶飲み話の相手もいないから精神的にまいっていたのかと想像する。
 この方も詳細は報じられないが同様に体はフレイル、精神は集中力を欠く状況かと。

 それ以外に考えられるのは、表記のように落ち葉によるスリップ事故である。若い人ならリカバリーができるが高齢で疲れているとそのままずるずると滑ってしまう。

 遭難の原因は一つではなく、複合的なものだろう。年をとって弱ってくるとちょっとしたことが大事になってしまう。

相変わらず多いフレイルが原因の滑落事故2020年11月18日

 今年は春からステイホームとコミュニケ-ションが断絶された。感染拡大を防ぐためにはやむを得なかった。ところが個々には体は鈍るし、対人関係から疎遠になると精神的にもおかしくなる。
 共同通信の報道から
「17日午後5時半ごろ、三重県菰野町の八風峠で、遭難した後に四日市西署の山岳警備隊とともに下山していた同県四日市市の無職佐藤一雄さん(78)が足を滑らせて滑落し、死亡した。同署は「必要な救助方法だったが、事故に至ったことは誠に残念」と話した。

 同署によると、同日午後2時40分ごろ、八風峠登山道周辺の山中で佐藤さんから「道に迷った」と110番通報があった。同5時ごろ、駆け付けた山岳警備隊員3人とともに下山を開始したが、約30分後、約20メートル下の岩場に滑落した。」
 
 事故原因は滑落とだけ事実のみ報じられる。背景を探ると前述のようなコロナ禍を回避するためにとられたステイホームからくるフレイルであろうと思う。亡くなった佐藤さんもそんなお一人かと想像している。
 山県市のあの古城山に消えた87歳の松茸採りの老人も裏庭みたいなものだった。弟さんの話では、兄は独居であり、6月ごろからおかしかったと言っておられた。妻は施設に入居し、茶飲み話の相手もいないから精神的にまいっていたのかと想像する。
 佐藤さんも詳細は報じられないが同様に体はフレイル、精神は集中力を欠く状況かと。以て他山の石としたい。

亡くなられた登山者にはご冥福を祈ります。

『山・自然との対話』 日本山岳写真協会東海支部 創設40周年記念写真展を見学2020年11月17日

 愛知県美術館8Fで今日から開催された山岳写真展を見学してきました。いずれ劣らぬ大作、力作、傑作、佳作揃いでした。入場無料。11月23日まで。Kさん、Sさんらが対応に大わらわでした。Hさん(女性)にもお会いしました。こんなイベントでもないと中々会えません。
 Kさんの話ではFさん(女性)が9月に亡くなられたと知りました。山岳写真が大好きな88歳くらいだったと思います。それもそのはずで、父親は登山家で毎日新聞の有名なカメラマンでした。名古屋生まれの富豪で山岳映画の嚆矢として冬の黒部の山岳景観を映画化した伊藤孝一の映画フィルムを発掘したことで知られています。

名古屋市と近代文学の不毛2020年11月12日

 朝は小寒い。オーバーが欲しいがまだ我慢の範囲である。といっても風邪を引いたら何にもならない。咳をしない、マスクをする、保温に努める、栄養補給するなど留意したい。名古屋市にも第三波が来たようだ。

 さて、昨日の続きである。
 名古屋では近代文学の蓄積がない。四迷からいきなり三郎に飛ぶ。それはなぜか。考えてみると、戦前に文系の旧制大学が一つもなかったことに尽きる。
 ヤフー知恵袋によると
「旧制大学についてです。

1920年4月15日に、

明治大学
法政大学
中央大学
日本大学
國學院大學
同志社大学


この順番で、登録されたのでしょうか?順番はありますか?

回答
『官報』1920年4月16日付けによると、

文部省告示 第265号・第266号・第267号・第268号・第269号・第270号の各号で、設立認可した旨公示されています。

265号から270号までは、すべて4月15日認可16日公示です。
告示号数順序と、質問に書かれた大学名の順序とは一致しています。

歴史

●五大法律学校の設立
東京法学社(1880年、法政大学)
専修学校(1880年、専修大学)
明治法律学校(1881年、明治大学)
東京専門学校(1882年、早稲田大学)
英吉利法律学校(1885年、中央大学)

これらは五大法律学校と呼ばれ、他の私立専門学校とは一線を画す別格の社会的地位がありました。当時は大学は東大ただひとつでしたので、この五大法律学校の卒業生は「学士サマ」に次ぐ社会的ステータスがありました。」

というわけで、明治初期から存在した。文学部ができたのはいつかは知らないが、早稲田大学は相当古いだろう。中退者も活躍した。

 1880年から新制大学発足まで1951年まで実に66年のブランクがあった。これでは名古屋市に文人は育たないわけである。いたとしても東京か関西の大学を出た。また出版文化も少ないから勢い東京で活動することになっただろう。

”小酒井不木 この男がいなかったら江戸川乱歩はなかったかもしれない展”に行く2020年11月11日

 愛知県庁の仕事が担当者の休みで時間が空いた。それで名古屋市市政資料館へ出向いた。11/1から11/15まで開催中の「小酒井不木 この男がいなかったら江戸川乱歩はなかったかもしれない展」に行ってみた。
 何でこんな無名の人を知ったのか、自分のブログを検索してみたがヒットしない。何年か前には、御器所の小酒井不木の旧宅跡の前を通り過ぎたことがある。それだけなら偶然であるが、蟹江町の小酒井不木資料室まで足を伸ばしている。
 俳句だろうか。小酒井は中日新聞に掲載される「ねんげ句会」の発起人だった。それで調べて見たのだろうか。もう記憶がない。
人の検索で関連付けると

 小酒井不木、横溝正史、江戸川乱歩ではヒットしなかった。森下雨村だと以下。

 茶の花を心に灯し帰郷せり 村越化石
http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/03/31/8436380

 映画「小島の春」鑑賞
http://koyaban.asablo.jp/blog/2007/08/16/1729307

 蟹江町のHPには「小酒井不木は、医学博士という科学的な知識を生かし、探偵小説の草分け的な存在といえる人です。江戸川乱歩をはじめ、探偵小説(後の推理小説・ミステリー小説)で活躍する後輩を育成しました。また、俳句にも情熱を注いだ彼は「ねんげ句会」の発起人でもあります。
そこで、魅力ある人物 小酒井不木の一生を紹介します。」と紹介されるが、蟹江町に関連付けてもヒットしない。

 新たな情報は蟹江町にある鹿嶋神社の句碑か。

 いつとんで来たか机に黄の一葉   小酒井不木

文学苑
鹿嶋神社の境内南側には、蟹江の風景を読んだ26基の句碑が並ぶ「文学苑」がある。蟹江町出身の建築家である黒川巳喜は小酒井不木が創立した「ねんげ句会」の同人でもあり、1968年(昭和43年)から18年間をかけて、私財を投じて故郷に「文学苑」を建設した。

 市会議員の横井利明氏のブログにもアップ
http://blog.livedoor.jp/minami758/archives/2490508.html