大西暢夫『ホハレ峠』を読む2020年06月20日

彩流社刊

著者は  アマゾンから
大西/暢夫
1968年、岐阜県揖斐郡池田町育ち。東京綜合写真専門学校卒業後、写真家・映画監督の本橋成一氏に師事。1998年にフリーカメラマンとして独立。ダムに沈む村、職人、精神科病棟、障がい者など社会的なテーマが多い。2010年より故郷の岐阜県に拠点を移す。『ぶた にく』(幻冬舎)で第58回小学館児童出版文化賞、第59回産経児童出版文化賞大賞。映画監督作品:『水になった村』(第16回EARTH VISION地球環境映像祭最優秀賞受賞)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

出版社側のねらいは
編集者が明かす、ダムに沈んだ徳山村の本を出した理由 ―そこから見え隠れする近現代
https://note.com/sairyusha/n/naeff5f3e8d72

朝日新聞の書評は
(書評)『ホハレ峠 ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡』
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14511895.html?pn=3

 ■現金がのみ込んだ大地との生活

 ダムの底に沈んだ岐阜県揖斐郡徳山村。一五〇〇人ほど暮らしていた村民が次々と出ていく中、そのもっとも奥の集落・門入(かどにゅう)で、最後まで暮らしていた廣瀬ゆきえさん。

ここから続き
 山に入り、山菜を採り、日が暮れれば寝る。夫を村で看取(みと)り、たった一人で大地の恵みと呼吸するような生活に、強制的に終止符が打たれる。ダム建設に伴い立ち退きを余儀なくされた日、漬物小屋を解体する重機から目をそらすように遠くを見つめる写真が全てを物語る。「村の清流だった揖斐川の水が、自らこの大地を飲み込もうとしている」

 約三〇年前から村に通い、ゆきえさんと向き合い、その足跡を記録した。門入の住民は街に出るために、ホハレ峠を越えた。早朝に出たとしても着くのは夕方。わずか一四歳、家で育てた繭を運びながら峠へ向かう。峠の頂上から初めて「海」を見た。それは、初めて見る琵琶湖だった。

 北海道真狩村に嫁ぎ、やがて村に戻ると、山林伐採、ダム建設が忍び寄っていた。ダムの説明会に参加するだけでお金が支給され、集落の繋(つな)がりを巧妙に札束で崩していく国。「みんな一時の喜びはあっても、長い目で見たらわずかなもんやった。現金化したら、何もかもおしまいやな」

 転居した先のスーパーで特価品のネギを見て、「農民のわしが、なんで特価品の安いネギを買わなあかんのかなって考えてな。惨めなもんや」と漏らす。村を最後まで見届けたゆきえさんの人生は「点」でしかないが、その点は長く繋がってきた尊いもの。誰よりも本人がそのことを知っていた。

 台所で倒れ、亡くなったゆきえさん。口の中から一粒の枝豆が出てきた。ゆでた枝豆をつまみながら、ご飯を作っていたのだろう。時折さしこまれる写真の数々が、村の歴史、ゆきえさんの足跡を伝える。読みながら、本のカバーを何度も見返す。「現金化したら、何もかもおしまいやな」と繰り返し聞こえてきた。

 評・武田砂鉄(ライター)

徳山村は映画「ふるさと」にもなった。
以上

 個人的には、昨夜で粗方読破してしまった。奥美濃の山は登山の開始と同時進行である。山岳会に入会したのが昭和53(1978)年(28歳)であった。『鈴鹿の山』とか『秘境 奥美濃の山旅』を買って読んで山行のヒントにした。『ぎふ百山』を知るのはもう少し後になる。次々と登った山が増えてゆくのが楽しみになった。この後、サンブライト出版から森本次男『樹林の山旅』の復刻版が出た。すぐに買った。たちまち愛読書となった。
 足は月1回のレンタカーであった。入会した年の10月にトヨタ・スターレットというレンタカーで、馬越峠を越えた。初めての徳山村探訪になった。早暁、薄いガスの中に徳山谷が見え、紫色の煙が昇っていた。その時は冠山に登った。特に岐阜の山が面白く、当時は守山区に住んでいて、中日新聞の購読に加えて、岐阜新聞の東濃版を配達してもらった。昭和55(1980)年3月4日から『続・ぎふ百山』の連載が始まっていた。それが目的だった。昭和60(1985)年1月までのスクラップが残っている。切り抜きしたものを友人に託したらきれいな海賊版にしてくれた。何冊も印刷して仲間に配布したが後に岐阜新聞社から立派な装丁の『続 ぎふ百山』が出版された。海賊版は100山目で止まっていたが新版は130山もあった。
 昭和55(1980)年(30歳)にマイカーを買った。その車で、金ヶ丸谷の偵察に出掛けた。この時は揖斐川沿いに走り、西谷川を遡った。初めての門入との遭遇である。着いた門入では家の取り壊し中だった。墓には白い布をかぶせてあった。こんな情けない姿を先祖に見られたくないからだという。それで村人に金ヶ丸谷の熊の生息状況を聞いたら、いつぞやは京都の若い人が夜叉ヶ池から金ヶ丸谷を下降して遭難死したという。京都から親御さんがきて息子が帰らないから探してくれというので探したら谷の中で死んでいた。「あんたね、熊よりも谷の方が怖い。行かん方が良い」と諭してくれた。その日はそこで帰った。これが門入とのなれそめである。『ホハレ峠』P236には「たしかに昭和55年ということは、そろそろ徳山村から移転地へ引っ越しが具体的になってくるとき」とあるから記憶にまちがいはない。
 金ヶ丸谷の遡行は平成17(2005)年9月になった。偵察から実に25年の歳月が流れ、ダムの湛水が始まる前年だった。我ながらしつこく追いかけたものである。
 門入の予備知識としては安藤慶一郎編著『東海 ムラの生活誌』(昭和55年9月刊 中日新聞社)がある。5番目に「西美濃山村の生活と親族組織」がある。学者が書いただけに綿密に調査したのだろう。門入の特殊性は通婚関係と指摘している。閉ざされた狭いムラ社会ではそうせざるを得ないだろう。
 乙川優三郎『脊梁山脈』は木地師が主人公の小説である。しかも東亜同文書院の学生のまま兵隊にとられた設定。小説では長野県売木村の木地師と主人公が復員列車の中で出会うのだが、復員列車で親切を受けたお礼に売木村を訪ねると本人は居るのだが別人であった。出会った人は東北に住んでいたというトリックにも使われている。つまり東北の兄が結婚してすぐに出征したが戦死した。弟は無事で帰国できたので戸籍上は兄に成りすましたまま、兄の嫁と子を養う人生を送る。そんな筋書きだった。木地師の社会も他と交わりが少ないから近親婚になるのだろう。要するに限られた山奥の閉ざされた社会での家を守ったのである。
 著者も門入の婚姻関係の理解には相当な苦労をしている。P182辺りから明らかにされている。
 廣瀬ゆきえさんは大正7(1918)年生まれ。昭和7(1932)年14歳で初めてホハレ峠を越えたと、本書にある。昭和8年にはまたホハレ峠を越えて、更に鳥越峠を越えて彦根市のカネボウの紡績工場へ働きに出た。16歳までの冬はそこで働いた。17歳から24歳まで一宮市、名古屋市の紡績会社で働いた。
 著者の大西暢夫さんは門入が越前藩の領域だったことまでは調査されていないようだ。越前から見て最初のムラが門入、次は戸入、本郷である。古くはお坊さんも越前から迎えていた。福井県の日野川源流の廃村・大河内へ行く途中に二つ屋があり、そこから夜叉ヶ池に向かって登る尾根が街道の尾と言った。登りきると金ヶ丸谷の源流部に下る。そこからどのように道があったのかは明らかではない。
 ゆきえさんは昭和17(1942)年頃、24歳で結婚し北海道に渡った。『ぎふ百山』の千回沢山・不動山の項に入谷の人らは大正の初めに北海道へ渡ったことが書いてある。門入では明治36年から移住が始まっていたのである。戦争を経て昭和28年に北海道を引き揚げた。34歳になっていた。八ヶ岳山麓に一時的に身を置き、昭和30(1955)年に徳山村へ戻った。13年間はまさに転変流転の人生だ。廣瀬家から橋本家に嫁いだはずなのに夫がまた廣瀬家に戻した。もともと親戚同士の結婚だった。これが親族組織で成り立つ門入の特殊性である。
 愛読書の『樹林の山旅』には黄蘗(きはだ)の村(千回沢山と不動山)の項で門入が紹介される。きはだは薬になる木のことで、徳山会館で売っていた。
 森本は昭和10年頃の記録をまとめて昭和15年に発刊した。だから廣瀬ゆきえさんは18歳頃になり同時代を生きていたことになる。但しゆきえさんは一宮市の紡績工場に住み込みで働いているので遭遇はしなかった。森本は大滝屋という旅館に泊まって門入のめぼしい山と谷を跋渉した。ホハレ峠の話も出てくる。「あへぎあへぎ登る急な坂路は、太陽の光を顔に受けて峠に着いた時分には日焼けで頬がはれている。だから、ここはホヽハレ峠だという話を聞いたが、この峠の名前は街で信じてもらうにはふざけすぎている。だが私達は嘘だとは思わない。」
 栃や欅の原木を板に挽いてホハレ峠まで来ると余りの力仕事に頬が腫れるというのが由来のようだ。
 湛水が始まったころは遊覧船が浮かぶとか、門入へは県道が通るとかは仄聞したが今も実現していない。

西台山の行方不明事故は無事救出!2020年06月05日

NHニュースから
https://www3.nhk.or.jp/lnews/gifu/20200605/3080003935.html

 6月2日に岐阜県揖斐川町の山に入り行方がわからなくなっていた、愛知県春日井市の79歳の男性が5日午後、無事に警察に救助されました。

 春日井市高蔵寺の79歳の男性は、6月2日、揖斐川町の標高949メートルの西台山に登山に出かけたまま戻らず、警察や消防が捜索していました。
 その結果、5日午後2時ごろ、ヘリコプターで捜索していた警察官が、山頂から1.2キロ離れた谷で男性を見つけ、男性はまもなく救助されました。
腰や足に痛みを訴え病院に運ばれましたが、目立ったけがはなく、会話もできる状態だということです。
 警察官に対し、男性は「山に入った日に道に迷い、その翌日、5メートルぐらいの高さから滑落し動けなくなった」と話しているということです。
 警察は経験や体力に応じた無理のない計画を立て、十分な装備で登山に臨むよう注意を呼びかけています。

・・・ご無事で良かった。3ヶ月に及ぶ外出自粛の影響であろうと思う。登山に必要な何かが欠けるまま登山してしまい、下山できなくなった。何が欠けたのだろうか。今まで積み上げてきた登山の心得的なものかも知れません。何分低山ですから技術や体力がいるわけではない。登山道ははっきりしないところがある山ではあるが注意すれば迷うことはない。地形図とコンパスはあったのか。
 記事によれば山頂から1,2km離れた谷というからこの方も無駄に動き回ったことになる。左門岳でも迷ったと自覚したら山頂へ戻ることだった。西台山の登山者も同じである。
<iframe frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" width="500" height="400" src="https://maps.gsi.go.jp/?hc=hic#15/35.581786/136.565809/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0"></iframe>
縮尺は300mで2センチなので、
1.2km=1200m  300m=2センチ  2センチx(1200÷300)=8センチ
山頂から8センチポイントまで谷を下ったのだろう。一番悪いケースである。想像だが谷汲の飛鳥川源流に下ったのだろうか。もう少しで林道に出る辺りが約8センチくらいになる。

左門岳で道に迷った岐阜市の夫婦発見される!2020年05月29日

 昨日5/28の午後4時ごろ、24日以来、左門岳から下山できずに行方不明だった岐阜市の夫婦が4日ぶりに捜索中のヘリで発見された。場所は山頂から3.5km東の銚子滝の下で手を振る夫婦をヘリに発見され救助された。幸い軽傷で済んだという。
 なぜそんな見当違いの場所へ行ったのかは本人以外は不明である。地形図から考えられるのは
①山頂から南の尾根を忠実にたどり、明神山との鞍部まで下り、箱洞を下降した。
②山頂から北の銚子洞への踏み跡をたどりそのまま滝上まで来て強引に下降した。
③山頂から尾根と並行する大平への沢を下ってしまい、銚子洞に合流して下降した。
と思われる。
 4日間の天気は太平洋上に前線が張り出し、そこに吹く北からの風と南からの湿気で雨か霧だったと思われる。越美国境は日本分水嶺なので日本海の気候と太平洋の気候とがぶつかり合い、豪雨か豪雪になりやすい。当日は雨が多かったのではないか。したがって目視で山の同定はできず、地形図とコンパスで自分の位置をチエックする必要がある。
 しまった、迷ったぞ、と自覚すると気が動顛することがありやたら動き回り体力を消耗する。足腰が弱り、食料と水も尽きるので焦る。当日に下山できないと捜索隊が出動するので、基本は迷ったら山頂に戻ればいいのだが、動き回ってしまったらしい。
 今時は樹木の葉が茂り、ヘリから見下ろすと樹海に見える。上からの発見は容易ではない。銚子滝はその空間があるので発見されたわけだ。尾根でも沢の中でも樹海の下なのでヘリが飛び回っても空振りに終わったのだろう。
 それでも軽傷で済んだのは登山が共通の趣味の夫婦なので仲間割れせず、行動したからだ。山中でバラバラになるともっと悲惨である。外野席からは何でも言える。当人たちの道迷いの顛末を知りたい。

緊急事態宣言解除後の登山の心得2020年05月17日

 ニューズウィークWEB版はロイターの記事「安倍晋三首相は<5月>14日夕に会見し、東京など8都道府県を除く全国39県で緊急事態宣言を解除すると正式発表した。8都道府県についても21日にも専門家の見解を踏まえ、可能であれば緊急事態宣言の期限である31日を待たずに解除する意向を示した。

解除に当たっては1週間当たりの新規感染者が10万人あたり0.5人以下に低下したなど医療体制、検査体制を目安に判断したと説明。39県は今後、感染者の小集団(クラスター)対策で感染拡大を防止できるとの判断を示した。

もっとも、解除された地域でも、外出自粛は要請しないが「人との接触は減らして欲しい。県をまたいだ移動も控えて欲しい」と訴えた。」と報じた。

 39県には愛知県、岐阜県、三重県が入っているので、5月18日から徐々に経済活動が正常化を目指してゆく。それでも他県への移動はまだ控えて、という要望である。

 そこで足元の愛知県の山で過密ではない山を経験でピックアップしてみようと思ったが、逆に人気のある山をアップすることでそれ以外は過密な登山者の居ない山歩きができるだろうと思う。

*都会近郊の山は人気が高いので回避しよう。
尾張地区

瀬戸市/豊田市       猿投山

春日井市/多治見市    道樹山

*三河地区の山は車でほとんど登れてしまう。

岡崎市/豊川市       本宮山

新城市             鳳来寺山

根羽村/豊根村        茶臼山と萩太郎山

*人気があり、且つ遭難も多い山である。
設楽町             岩古谷山

豊田市             六所山と焙烙山

蒲郡市             五井山

*心得と作法
1 下山後は汗をかけば、帰り道の温泉場へ行きたくなるがしばらくは控える。コンビニ、公衆トイレに寄ったならば、帰宅後は手を洗うこととウガイすることである。衣服類も全部洗濯し、ザックはベランダに干す。

2 医師、登山の指導者など識者の指導では登山中でもマスク着用を呼びかけるが非現実的である。別の障害が出るおそれがある。少人数で歩き、距離を置く。

3 目的の山は上記の人気の山は回避してガイドブックで不人気の山を探してみよう。ガイドブック以外に地形図を用意し、登る前に自宅でルートをチエックして置くことである。

4 道迷いを防止するには、地形図と実際の眼に見える地形とを常時チエックしておくことである。リーダー任せにしないでメンバーが各自責任を持つことである。
例えば何をチエックするかと言えば
a 地形図に描かれた崖、山の中の池、大きな岩、峠、小屋、鉄塔、電波塔、送電線等

・・・ここが地図に表現された崖崩れですよね。と他の人に声掛けすると関心を共有できる。

b 地形図に描かれた谷、沢の渡渉地点、尾根から沢、又はその逆に登山道が切り替わる地点

・・・暗くなると、登山道から沢を道と勘違いして上り下りしてしまうことがある。渡渉地では水場であることも多いので休むと同時に地図を確認する。

c 登山道の途中にある突起、コブ、三角点、凹地、

d 遠望した際、見えないはずの山や川が見える場合

・・・あら、あの山は何なの。見えたかしら。とつぶやくのも良い。

e 見えて当然の山や川が見えない場合

・・・もうそろそろあの山が見えるはずなのにまだ見えないね。とつぶやく。

f どれだけ歩いても目的地に着かない場合

g ずっと尾根道をたどってきたのに突然崖になり登山道が消失した場合はかなり手前で山腹に回り込むことが多い。その場合でも強引に尾根を辿ると戻れないことがある。

・・・分岐のポイントには赤布、ケルン、マーキングなどがある。

h これまで順調に歩いて来たのにどこからか、木の枝が顔に当たるようになったり、足元の踏み跡もしっかりしているのに、深い草や笹やぶがかぶって歩きにくくなった場合。

・・・獣道に迷い込んだ可能性を疑う。

i 登るときは遊歩道みたいに広かったのに、どこからか砂利道で歩きにくくなった場合

・・・メインの登山道から枝道に入ってしまった可能性がある。

※先ずは道に迷わないこと。道に迷った結果、石や木の根っこに躓いて転落する。焦ると時間が経過するのが早く感じて急ぎ足になり滑落しやすくなる。

※迷ったら、いったん休憩すること。そして頭脳の栄養分の糖分を補給する。飴、ブドウ糖、お茶、ジュース、はちみつ。

※携帯電話が通じれば親などに連絡する。110番通報でも良い。

※最悪はビバークする。持って居るものを全部着込む。上からはカッパを着る。足が寒ければザックを空にして足を突っ込む。買い物袋を靴下の上からかぶせてもいい。

※動き回らないこと。救助を待つこと。

※道に迷ったらメンバーは離れ離れにならないこと。

奥美濃・高丸(1200mまで)2020年03月01日

 2/29の夕方、小雨の中、メンバー3名で出発。夕食の食材と酒を買い込む。地道で揖斐川奥のR303へ。道の駅さかうちで仮眠の予定だったが昨年の」バイクランドもありで行ってみた。ここの方が人家がなく過ごしやすい。テントを張って夕食を共にする。早目に就寝。
 午前4時半、起床。朝食の準備などであわただしく過ぎてゆく。幸い空は晴れてゆく。残り1km余りを走ると椀戸谷に着く。ここで身支度して午前7時に出発した。林道にほとんど雪はない。周辺の山肌も斑雪で春の終わりの様相である。椀戸林道を詰めると標高730mの終点に着く。約1時間かかった。ここから尾根に取りつく。杉林の間はやや危険な崖っぷちをたどりブナ林へと進む。ブナ林は二次林だろう。やや急な尾根にかすかな踏み跡を求めるがやがて雪が出てきた。
 急斜面を喘ぎながら登る。すると若い登山者が追い付いて来た。スノーシューで烏帽子岳を目指してきたという。雪は段々深くなり、1114m付近で私はワカンを付け、2人はスノーシューを装着した。上部では藪を抑えるだけのまあまあの積雪にはなる。周囲の景色も良く見えてきた。近くの烏帽子岳、目的の高丸は三角錐の秀麗な山容を見せる。能郷白山が堂々と見える。明るい春日の差し込むブナ林を歩く。1200mのジャンクションピークで12時を回ってしまった。ワカンの私はここで撤退し、スノーシューの若い2人は高丸をトライしてもらった。ここからでも美濃俣丸、大河内山、笹ヶ峰、伊吹山、金糞岳、蕎麦粒岳などが見えた。すべて曾遊の山々になった。
 12時40分に下山を開始。雪上の踏み跡と赤い布を確認しながら安気に下れる。ワカンは登りの機動力でスノーシューに劣るが、下りでは爪があり、登山靴の踵の蹴り込みを使えるのでスノーシューよりは早いと思う。
 元のトレースを忠実にたどって林道に降り立った。後は林道を淡々と下るのみだ。途中で山菜採りの夫婦に出会った。彼らも奥美濃の山々を愛する人たちだった。話を投げ返すと再び投げ返されて長話になった。そのうちに若い登山者も烏帽子岳登頂してきたと話の間に入った。わが仲間は待っても来ないので下山した。帰路、道の駅で温泉に入湯して帰名した。

越美国境・笹ヶ峰から下山2019年09月16日

 滝ヶ谷を登り詰めて笹ヶ峰の北方のピーク(ab1270m)でビバークを決断。Wリーダーがビバークに最適な砂地の平な一角を見つけた。そこで二張りのツエルトを設営。濡れたものを乾かすために焚火を試みたが着火に失敗。不快なままだったが疲労困憊の体ですぐ就寝できた。
 夜は多少は寒かった。足の冷えは資源ごみの袋を足ごと包み、ザックにすっぽり入れて寝たら快適だった。防寒としては羽毛のベストが軽くて快適だった。
 朝4時か、目覚ましが朝を知らせる。周囲は濃霧に包まれている。それでも6時ごろになると東の空から太陽が昇るのが見えた。能郷白山、イソクラなども同定できた。(Wさん)気温が上昇すると霧は晴れた。スマホも使えたので午後から天気が悪くなるとの予報は聞こえた。
 さて、6時過ぎ、霧に包まれる笹ヶ峰を目指す。何とか獣道を探しながらも笹と低灌木の藪のからむ稜線の藪漕ぎは著しく体力を消耗させる。我慢我慢の藪漕ぎをすること40分で登頂できた。
 笹ヶ峰の三角点周辺はきれいに刈り込まれているので登山者があるのだろう。ここからロボット(ab1280m)のピークまでは藪山好きの登山者がつけてくれた踏み跡に期待したが、笹と低灌木の藪漕ぎは続いた。ここでもかすかに残る獣道を探しながら越美国境稜線の縦走を続ける。この山の登頂者は残雪期が多く、稜線もスキー向きなほど広いから期待したほどの踏み跡はなかった。
 先頭を行くWリーダーが1294mの夏小屋丸の南のコブから不動山へRFを間違えた。が、Wさんが下がりすぎと、気が付いたのですぐにGPSでチエックしてもらったらやはりミスだった。『秘境奥美濃の山旅』のガイドはここから不動山往復をしている関係で踏み跡ができてしまったのだろう。
 ビバーク地から約6時間後、やっとロボットに着いた。12時10分に廃村大河内に向かって下山する。この尾根道も白谷山までは藪が絡む。しかし獣道ではなく、ロボットのために付けられた登山の道の廃道なので途切れず、下るペースは確保できる。白谷山を過ぎてから尾根は急降下する。途中で熊4頭に遭遇し、Wさんが笛を鳴らして知らせる。疲れた体をかばいながら何とか白谷の水場へ着いた。不足していた水分を思いきり補給して人心地ついた。
 橋を渡るとマイカーのあるPへはすぐだ。時に4時半。着替えて廃村大河内を後にした。帰路、林道に立ちすくむ鹿と遭遇する。登山者が去れば獣天国に還る。今庄の宿で有名な今庄そばを賞味できた。温泉には時間切れで入湯できなかった。沢から山頂を踏んで、稜線を縦走して夢のようだ、とWさん。三度目の正直か。失敗しないと性根が座らないのは私も同じだ。しかし奥美濃でこんなに山深く秘境的雰囲気を楽しめる山は貴重だ。究極の登山であった。

滝ヶ谷から越美国境・笹ヶ峰へ登頂2019年09月15日

 廃村大河内へは何度も来た。30歳代から40歳代でも山スキーが目的で越美国境稜線にスキーを走らせる夢を見ていた。美濃俣丸以外はついに達成はできなかった。GWに気象ロボットのあった1280m峰まで登りそこでツエルトを張って、笹ヶ峰と大河内山を往復した。
 今回は沢登りで「ぎふ百山」をねらうWリーダーの伴走を務めた。昨年は長トコ谷の大滝を越えられずに敗退。その後日時を違えてロボットまでの往復登山を果たした。大河内の林道は終点まで問題なく走れた。熊1頭、鹿2頭に遭遇した。テントはPになっている空き地に張った。先行車のハイエースの釣り師が帰っていくと我々3人だけになった。3連休というのこの静寂さは?
 9/15の朝4時起床、長トコ谷出合までは既知の谷相であるが今回は滝ヶ谷を遡行してみた。名前通り滝が多くててこずった。しかし、長トコ谷の魚止め滝(70m)ほどの難儀はせず、みな直登したり、巻いて遡行できた。3段100mの滝の2段目の草付きの高巻きがいやらしかった。ロープを張ってもらい無難に通過できた。
 標高約900mの分岐の遡行終了点からは水のない空洞になり、チョックストンが塞ぎ、周囲が垂直の壁になる谷に進退極まった。時間が過ぎてゆくばかりなので少し後退して左岸尾根へ攀じ登り、獣道を見出した。明瞭な獣道は途中から谷へ下ったがそのまま笹ヶ峰の北峰へ詰めあがった。背を越す笹薮と根曲がりの低灌木の密叢の藪漕ぎに精力を使い果たした。
 ロボットまでは行ける、あわよくば暗くなる前に大河内に着けるだろうと勝手に思っていたが現実は厳しい。少し漕いでは休み、また漕いでは休むという繰り返しだった。徒労といえば徒労である。もうすぐ70歳を前にする登山者としては限界に挑む感じである。
 平坦になり着いたところは1270mの北峰であった。霧が出ていて視界はなかった。そこでビバークになった。

神又谷異聞2019年06月10日

 20万地勢図「岐阜」を見ていたら、池ノ又林道通行止め地点から尾根に上がり、747mを越えて中ツ谷に下り、1048mへの独立標高点に登り、1196m(左千方)まで行って、尾羽梨川へ下る破線路があります。『坂内村誌』によれば中尾嶺越というようだ。1050.2mは中尾嶺ともいう。(滋賀県地名大辞典)
 私のは昭和48年12月現在の地図です。田戸の奥の尾羽梨は廃村です。昔は近江の村と結ぶ山道があったのです。

 坂内村誌(民俗編)には
 神又谷は昭和10年代は木材搬出の道があったそうです。古くは江州谷とよばれたほど滋賀県側から木炭や、薪材を切り出しに来ていたらしい。近江は金糞岳があり、土倉鉱山もあり金属精錬が盛んだった。魚を焼く、お茶を淹れる、暖房、炊事など需要は旺盛だった。
 それで近江だけでは足りず、山越えで炭を生産したのでしょう。そしてリッカ谷から1050.2mの南の鞍部を越えて、神又谷と往来があったらしい。あの見事なブナ林は二次林なんですね。それにしては注意していたが炭焼き窯跡は見つからなかった。

 皆さんと眺めたブナ原生林は他の樹種が混じらない純林と呼ばれる。
 ウィキぺディアには「森林の樹木群集がほとんど陰樹で構成されるようになり、それ以降樹種の構成がさほど変化しない状態になったことを「極相に達した」といい、極相に達した森林を極相林という。 また、主に極相林で生育する樹木種を極相種という。」
 つまり下山の際に見た無尽蔵に林立していたあのブナ林は極相に達しているのです。
 だから眺めて美しいし、青森県の白神山地も同じく極相林でしたから、あそこにいる限りは白神山地と変わりない環境だったのです。
 
 滋賀県の廃村・奥川並(おくこうなみ)は川上の人等が峠を越えてつくった村でした。ですから中津谷との交流の道もあったのです。1060mは多分ですが、中津山かも知れません。するとあの尾根は中津尾かな。坂内村誌はそこまで記載はないが詳細な山名考証がある。昔は近江と美濃の山村民は縦横に山を歩いていたのでしょう。

 点名の大岳は滋賀県側の名称です。前述したように中尾嶺も文献に出ている。

 木炭の生産は江戸時代から盛んだった。秀吉は薪炭材の本数を把握するために1000本の紐を作り、山の木に巻いて残った本数を引いて実際の本数を把握したという。知恵者です。

 古くはヤマトタケルの時代、伊吹山の魔物を征伐するために出かけますが、死に至るケガをさせられて退散します。伊吹神は金属の神様で南宮大社も金属の神様を祭っています。伊吹山の北には金糞岳があります。金属の精錬には木炭が必須です。長浜市は鉄砲の生産で有名です。鉄砲鍛冶にも大量の木炭が必要です。大量の木炭を消費する環境だったことは想像できます。今と違って往時は山に多くの人が入っていたでしょう。今は野生動物の天国です。

 戦後に石油の輸入が再開されると木炭の生産は急激に淘汰されてしまいます。この山も需要の急減した木炭の原料として利用価値のない(文字どうり、ブナは木で無い、橅があてらる)山になった。伸びるままに伸びて、戦後は74年間に他の樹種を抑えて極相に達した。

奥美濃・神又峰を歩く2019年06月09日

 今年2月滋賀県側から田土まで入れた。スキー登山を試みたが中津谷の終点で時間切れで撤退。さらに3月にも入山したが田土へは工事中で全面通行止めになったので賤ヶ岳に変更した。そして沢登りシーズンになったので岐阜県側から挑んだ。

 6/8に夏山フェスタ会場を辞して、16時に集合場所へ行く。仮泊は池の又林道の通行止めに近い坂内バイクランドの一角で仮泊。6/9、暗いうちに起き、軽く朝飯を取り出発。夜叉ヶ池への林道の通行止め地点が神又峰の入り口だった。既に1台止まっていて聞くと蝶々の採集のようだ。身支度を整えていると夜叉ヶ池に向かう若者等も来た。

 出発したのは5時15分。地形図にもある左岸の林道の廃道を進むとすぐ堰堤で行き止るので少し戻って巻き道に入る。明瞭な道で釣り師か山菜取りだろう。堰堤を越えると河原に降り立つ。しばらくは平らな河原歩きが続き、流れの膨らんだ草深い踏み跡をたどった。そのうち明瞭な林道の廃道を歩く。奥にまだ堰堤があるからだ。
 二股になった。地形図には土蔵岳から北へ流れる谷の水を塞き止めた池がある。その池に廃道は続く。歩いてきた廃道はセメントの基礎部分を残して草むらに消えた。ここからは本流の水に浸して溯る。辺りはうっそうとしたブナ林、栃の巨樹、沢ぐるみが見られる。以前にも書いたが、まるで緑のうわばみに吸い込まれて行くようだ。
 地形図を食い入るように見ながら周囲の地形をチエックする。今、自分たちはどの辺か。やがて標高700mの二股に着いた。右へ。谷が立ち始めて750m付近で滝を8mと5mくらいのを2つ突破。また平流が続く。ぬるぬるとしたいやらしい滝をWリーダーのみ右岸を大きく高巻きして、ザイルで確保してもらって登攀する。そうしないと軟弱な地盤なので落石が頻繁にあるからだ。
 ザイルが滝つぼに落ちると岩魚がびっくりして浅瀬に踊り出てきた。右往左往しているのが分かる。すまん、脅かすつもりは無かった。850m付近の奥の二股も右へ。どこまでも水流のある谷を本流として溯ったが水も絶えた。空谷になったので荒れた登山道のように登って行ける。谷の窪みも無くなり藪が絡んできた。稜線らしい高みに達した。Wリーダーが先行して三角点を発見。1050.1mの大岳に登頂した。今度は5時間で登れた。どんな藪山でもある山頂標がここはない。これが本来の山頂の風景であろう。
 あいにく周囲はブナ林でしかも霧が深い。藪も絡んで山頂らしい開放感はない。写真だけを撮るとすぐに下山する。まだ長い尾根の下山が待っているからだ。
 ここが滋賀県との県境という表示、赤テープは一切無い。しかし、事前の検索で、1060mとの鞍部までは滋賀県側の中津谷へたどれる踏み跡があった、との情報を記憶していたので、探ると微かな踏み跡が認められる。そこをたどるとスイスイ歩ける。小枝が多少は絡むがこのまま続いて欲しいとの錯覚に陥る。
 三角点・大岳から約400mで1060mの広大な北峰に着いた。そして北東へのやぶこぎが始まる。1000mのコブまでは迷走しながらルートを探る。等高線がゆるいのでヌタバが多い。ここからほぼ真東に方向を定めると獣道ではなく、人間が拓いた道が現れた。枝を鋸で切断した跡があったからだ。踏み跡程度だが歩きやすい。しかし、倒木があるとそこだけ他の樹種が繁茂して踏み跡を乱す。突破するとまた現れる。こんなことを繰り返した。1012mを越え、923m辺りまで来ると高度が下がり始めて踏み跡も明瞭に成る。倒木地帯では相変わらず、迷走するが慣れた。
 地形図で神又谷の印刷のある鞍部まで到達するともう尾根の末端だと安心させられる。ところが747mのコブを越えようとするとピーク付近のシャクナゲの藪に絡まれて前進を阻まれた。時はもう6時が迫る。日没までは1時間ほどだ。どうする、と鳩首会議。懸垂で神又谷に下降しようとなった。こんなところでビバークはできない。河原まで降りれば流木を集めて焚き火を起こし、ツエルトをかぶって一夜をしのぐこともできる。風の通りやすい鞍部では寒いだけだろう。
 ハーネスを装着し、Wリーダーは30mザイルを2本準備した上で、690mの鞍部から580mの神又谷へ比高110mの急斜面を小枝、笹をつかみながら下った。ザイルを出す場面はなかったから案外スピーディーに下れた。約20分。
 人生でも仕事でもそうだが、案ずるよりは有無が安しである。いわんや山においておや。無謀な冒険はいけないが、頭であれこれこねくり返しても進まない。やってみるきゃないと腹をくくることだ。
 河原にくだると、メンバーも安堵した。すぐに既視感のある場所に出た。それからはピッチが早い。廃道だから歩くだけだ。堰堤を越えるとクルマが見えたと女性陣が騒いだ。もう暗くなった車道に着いたのは7時を大きく回っていた。こちらは東側なので日没すると残照はなく真っ暗になる。すぐに着替えて帰路に着いた。今回も「藤橋の湯」に入れなかった。全員が無事に下山できたことをお土産にして帰名した。

奥美濃・黒津山~激登13時間、戦い済んで日が暮れて2019年05月26日

 黒津山なんて聞いたこともない山名だった。調べてみると五蛇ヶ池山と天狗山の中間に座す1197mの独立標高点だった。
 五万図「横山」の地図には黒津山と書き込みがある。2.5万図「美濃広瀬」(昭和48年測量。現地調査は昭和48(1983)年6月)には4等三角点 黒津山と書き込みしてる。この山は以前は無名の独立標高点でしかなかった。それがこの時期から4等三角点(点名は黒津)に昇格し、標石が埋設された。標高も1193.4mと変わった。山名の記載はないが登山の対象としては比較的新しい山である。

 藤橋村の最高点(徳山村と合併前の)という以外は食指も動かない。よく同行する人と行く先を検討するとお互いに登っていないという条件にはまるには黒津山になった。
 記録としては日比野和美編『記録 奥美濃の山と谷 百山百渓』(1986.10.08 私家版)があるのみ。まずは2011年3月に親谷側からスキー登山を試みたが見事に敗退させられた。次は2018年2月にわかん山行を試みたがこれも6時間、12時までに登頂できなければ下山の掟にしたがって下山のやむなきに至った。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2018/02/19/8790659

 久々に沢初めを奥美濃の沢でやろうということになった。それじゃ、2度時間切れで敗退した黒津をやろうとなった。
 5/25の夜、地道で揖斐川に沿う国道を走る。テントで仮泊の予定だった道の駅「ふじはし」は若い人たちがたむろして異様ににぎわっていた。スルーして横山ダムを過ぎるとPにも若者らが集まって今にも暴走族の走りそうな雰囲気だった。
 奥へ走ると、新川尻橋に替わって新しく川尻橋が架かり、川尻トンネルが貫通していた。ダム湖も無名だったが今は奥いび湖に命名された。夜の国道では鹿が2頭見た。彼女らも大変化についていけるだろうか。
 結局適地を得られず、親谷に入った。ところが奥までは行けず、地形図で建物の記号の山家のある少し先で杉の倒木が道を防いでいた。ああ、これでは明日の登山に黄色信号が灯った気がした。粛々とテントを張って缶酎ハイを飲んでシュラフにもぐりこんだ。
 5/26、4時起床。薄明るい中で小鳥たちが朝の寝覚めに鳴き始めた。自然のままの暮らしはこうであっただろう。コンビニで買った寿司を食べ、白湯を飲んでテントをたたんで出発したのは5時20分であった。ちょっと遅いかな、という気もした。
 林道から沢にもっとも近づく標高730mの入渓地まではおよそ10kmはある。ハイエースの残骸のある渡渉地まで1時間強、さらにジグザグを切りながら入渓地へ急ぐ。林道は今は草地で真っ青である。クマかサルの糞が多い。鈴を鳴らしながら行く。
 入渓地へは林道から明瞭な踏み跡があった。これは獣道か、登山者だろうか。多分登山者だろう。谷名は日比野さんの本ではケツロ谷の名前があった。入渓した途端に涼しくなった。段差の大きな滝はなく、みな直登が可能である。しかも高度がぐんぐん上がってゆく。沢登りのだいご味である。
 順調に詰めてゆくと二俣になり、左へ。ところがしばらくで伏流になる。荒れた登山道という感じでどんどん登るとまた水が出てきたが長くは続かなかった。この空洞(からほら)はさらに見上げるような高さにまで続いてゆく。さっきから風の音かと聞いてきたが、隣の谷の流れの音だった。一輪だけのシャクヤクの花に癒された。
 音のする隣の谷へ踏み跡があった。辿ると何とミズゴケの緑に満ちた谷が続いていた。ここを遡ることにした。但し水は冷たかった。源流に残雪でもあるかと思った。高度差は大してなく、順調に遡る。すると1000m付近で突然15mの美しい滝が現れた。右から確保支点はあり、先ずはWリーダーがフリーで登攀した。私はザイルを出してもらい手の切れるような冷水の滝を登攀仕切った。
 ところが登りあがった所は土の中からの湧き水だけであった。多分GWのころは残雪があっただろう。谷はそこで終わった。時刻は10時。比高200m、2時間あればなんとか登れる。左の空洞に戻るか、藪を突破するか。リーダーは藪ルートを選んだ。赤布は付けないから闇雲である。コンパスで方向は見る。すると突然、目の前に現れたのはまた空洞だった。そこに降りて、登り返すとやっと稜線に着いた。完全な藪の稜線だが笹はないので漕ぎやすい。ようやく黒津山の看板のある山頂に着いたのは12時前になった。しかし三角点がない、とRがいうので、4等三角点は必ずしも最高所にはなく、少し北の低いところに埋設されていた。時は12時になった。昼食タイムもなく、撮影するとすぐ下山である。
 下山ルートは林道の終点に下ることだった。先ず南東の1180mのコブに着いて、方向を見て尾根に乗った。ところが左(西)に地形図に表現されてない明確な溝(空洞)がある。これは何だ、と協議した結果、上りなおして、林道をパスして登ってきた谷に戻ることも考慮しながら左側に振りながら、笹薮と格闘しながら激下降した。
 やや笹が空いて来た辺りから林道がある尾根が視野に入り、今度は右寄りに振って下降。するとあの冷たい水の谷につながった。ああ、これで下れる。
 適当に下降しながら見覚えのあるところを空洞へ移動すると正しく登ってきた谷になった。これを下った。やっぱり谷は早い。そして入渓地に付けた赤い布が見えてほっとする。後はもう林道を延々下るだけだ。車に戻ったのは13時間後の18時40分になった。3度目のトライでようやく落ちた。執念が実った。

 反省点は、山頂直下の地形図にない空洞と登りにとった空洞はつながっていると思った。しかし、現地では逆に戸惑いになった。私には真東のテーブルランドが雷倉とすぐわかった。尾根の方向の先の目の前の山はミノマタだ。
 だから現在地の確信は持ったがW君は不安そうだった。よく読図技術というが、違うと思う。周囲の山を見て自己の位置を判断するのだから、地図を読むのではなく、地形を読むのである。
 ミノマタも鏡山も登っているからそう判断できる。但し、雷倉を同定したのだからその先は能郷白山ということは決まっている。しかし、イソクラが判然としないので一縷の疑問はあった。あの良い山は何だろうと。帰宅して20万地勢図でチエックすると、そのはずだ、完全に重なっていたのだ。少し靄っていたのも原因だ。地勢図も持つべきだったというのが反省点になる。