風雪の奥伊吹スキー場に遊ぶ2018年02月11日

 建国記念日の今日は朝5時集合ということだったが30分遅れて5時40分に山友宅を出発。高速を使えば一宮ICから関ヶ原ICだけなので地道を走った。東海大橋を渡って直進すると養老山麓を走る。雪は一片もない。牧田川を渡ると大垣市に入り、すぐに関ヶ原町に入る。
 関ヶ原古戦場をかすめるように行くと米原市だ。すぐにR365と分かれて伊吹山登山口の案内に従い、地方道に右折する。藤川、上平寺へと走る。
 藤古川を渡ると上平寺になる。この辺りが揖斐川(牧田川)水系と琵琶湖に注ぐ天野川水系との分水嶺になる。藤古川の源は伊吹山の最高点から流れる。県境は東の端をかすめるのだから近江の山に見えるが、この辺りに伊吹山は岐阜県の山という地勢の根拠があるのだろう。
 そもそも岐阜県は飛騨も美濃も慎ましい性格の土地柄である。県境について自己主張をしないのである。木曽川でも愛知県側の堤防は岐阜県側よりも高くしてあるそうだ。愛知県と岐阜県境でも所属争いが最近まであった。
 逆に石徹白のように美濃文化圏なのになぜか福井県であった。選挙で不便と言うので岐阜県に編入された。近年は長野県山口村も岐阜県に編入された。これは経済圏の問題であろう。
 白山は「加賀の白山」といい、御嶽は「木曽の御嶽」と他県にゆずる。阿寺山脈にしても長野県の木曽に対して、岐阜県側は裏木曽という。尾張藩が管理した木曽を重く見たのだろう。
 穂高だって長野県側の方が熱心に観光開発をしている。登山者間には槍穂高連峰で落ちるなら岐阜県側に落ちよ、とまでささやかれているそうだ。長野県警は判断によって結構有料のヘリに切り替えるからだ。しっかりしている。
 飛騨はかつては天領といった。幕府直轄だったからナショナリズムが発達しなかったのだろう。

 さて、伊吹山の麓まで来るとさすがに雪が多くなってスキー場へ行く気分が高まった。伊吹の交差点で右折。姉川に沿って走った。曲谷(まがたん)の地名が懐かしい。甲津原までくると雪国さながらの風景になった。スキー場手前の駐車料金ゲートで渋滞ができた。 無事駐車場に着いてやっとスペースを確保。すでに75%は埋まっている。関西ナンバーに混じって岡山、広島ナンバーもあった。
 トイレも、「アルカンデ」にも行列だ。歩かなくても済むがこちらは歩いてリフト券売り場に急いだ。当然、行列だ。今日は回数券だけにした。天気も悪い。それにこの来客ではゲレンデも混雑しそうだ。
 リフト設備は一新されていた。右側に乗ると2本目からは降雪がひどくなった。山スキーに必携のシールを玄関に干したまま忘れた。その上、寒風と横殴りの雪がブンゲンへのモチベーションを萎えさす。ともかくリフトのもっとも高いところへ降りた。約1200mはあるはずだ。寒気流は大体この高さで流れているらしい。早々に滑走に入った。
 このゲレンデはまずまずのコンディションだった。山友と話し合って、この悪天ではブンゲンは無理とあきらめた。
 それで4等三角点(点名:品又峠)日ノ出山1045.5mを提案。一旦、出発地点へ滑降、左側のリフト2基を乗り継いで終点に立った。風雪はそれほどでもない。比高150mの差である。
 ここでスキーを外す。鉄骨の展望櫓をめがけてキックステップで登り始めた。するとスキー場のパトロール員2名が注意喚起する。場外への滑走で行方不明事故が多発しているので挙動不審者には神経をとがらしているようだ。あの櫓へ、と山友が説明して不審を解いた。
 約50センチほどの深さはある斜面を蹴り込みながら登るのは快適であった。櫓付近は太ももまでもぐった。どこかに三角点があるが記憶がない。山友は櫓に登り始めた。上で踏板が外れていると分かって降りた。またゲレンデに下って、スキー板を履いた。
 品又峠に向って滑降を開始。かつて峠からは1230mの無名峰までリフト2本が設置されていたが今は廃止された。多分風雪が強いのだろう。揖斐高原スキー場から林道をたどり、品又峠からリフトに沿って登った。終点の廃屋付近でツエルトビバークをしたのもこの2月の連休だった。あの辺りはブナの原生林だったと思う。
 品又峠からは緩斜面のゲレンデを滑降。また最初に戻り、右のリフトを1本乗ると回数券は終わる。さらなる緩斜面に基礎スキーの技術チエックをしながら滑る。シュテムターン、シュテムギルランデなど、山で使う技術を意識して滑った。
 スキーのセンターまで来るとスキー客がびっしり埋める。うわ―、という感じで早々に板をはずしてPに戻った。時刻は12時30分くらいだっただろう。ちょっと早過ぎる気もするが混雑にはもまれたくない。それに朝は空いていた場所もクルマが埋まっていた。
 スキー場からの車道を下っても約6kmほどは渋滞中であった。おそらくキャパシティを越えているのではないか。最奥の甲津原もマイカーやバスで一杯だった。それからまだまだ渋滞は続いたのである。
 曲谷を過ぎて吉槻まで来ると急に明るくなった。それまでは裏日本の気候、ここからは表日本と言う感じだ。伊吹の道の駅で一休みしたらここも満杯だった。ようやく伊吹の麓を去った。朝の曇り空はよく晴れた。伊吹山も少し見えた。
 R365をたどり、関ヶ原、養老へ。養老ミートで気になっていた豚チャン1kgパックと他を購入した。温泉にでもと行ってみると800円の入湯料に引き返す。南濃町まで足を伸ばして南濃温泉 水晶の湯へ入湯。JAF会員は410円也。ああ、やっぱり本物の温泉は温まる。やっと帰宅する気になった。
 山友を送り、帰宅。自宅では早速、豚チャンを賞味した。フライパンに油を引き、にんにくのみじん切りを入れる。豚チャンを入れて、後でキャベツを大量に入れる。缶チューハイを片手に今日の反省をした。疲労と酔いで、横殴りの風雪を思いつつ間もなく睡魔に襲われるのであった。

4月句帳4 花の舟伏山2017年04月25日

舟伏山に咲く岩桜
イハザクラただそれだけを見るために

ふみあとはイハザクラ見る分れ道

しぶとさを見習うべしやすみればな

寄りあって一人静は群れ咲きぬ

筒鳥の哀しき声の寂しさよ

百千鳥林に風の出でにけり

若草や雑木林は芽も吹かず

萌へいでし林一面ヤブレガサ

シロモジの芽吹きを見つつ下りけり

残雪のしるき能郷白山よ

春山や大白木山のこと言へり

一羽の蟻クレーターなめり穴を出る

何処へと羽蟻飛んでしまひけり

奥美濃・日永岳に登る2016年10月22日

マルバノキの紅葉
 天気予報では午前中は持つとの見通しなので午前6時に出発。高速をフルに利用すると武儀川と神崎川の合流する谷合まで約80kmあるが1時間で来れた。
 R418から神崎川に沿う道に右折すると後は広い道狭い道が交錯し連続する羊腸の道が続く。神崎を過ぎると舟伏山への登山口を見送る。奥へ進むに連れて遂に一車線の狭い道になった。2015年5月に来た時は伊往戸(いおど)で工事で通行止めをくらい引き返した。そしてタンポへと転戦した。今日はその雪辱戦である。
 最奥の仲越(なかごし)までは狭い道を走った。以前はあった廃校跡に着いたのは午前8時過ぎ。105km。ここからの林道は通行止めになっていたが荒れていないので入って見る。すると橋の所で工事中だった。土曜でも工事はあるかも知れず、ザックだけ置いて車は廃校跡に引き返す。徒歩で橋まで戻った。
 歩き始めたのは8時20分。熊避けの鈴を鳴らすためにザックに取りつけた。清冽な流れの谷川を見やりながら歩くとさっとアマゴらしい魚影が走った。もう産卵期に入っていると思う。途中で路肩工事中を過ぎてしばらく林道を歩いて終点へ。涸れ沢を渡渉して登山道に取りつく。樹齢数十年はあるような立派な杉の美林である。いきなりの急な道である。山腹のジグザグ道から尾根の端に着いたところで一服する。ここまで50分。尾根の急登に耐えながら山腹道へ来ると笹の刈り払いが見えた。最近刈ったばかりだ。ここからは杉の植林内の暗かった道も開けてやや明るくなる。傾斜も緩くなる。少しガレて登山道が壊れた箇所があったが何とかなる。遠くに鞍部に連なる山稜が見える。もうすぐだ。1090mのイタゴ洞への鞍部に着いて記憶が蘇った。

  奥美濃の巨渓西ヶ洞を溯る
http://koyaban.asablo.jp/blog/2007/09/30/1829494

 そうか、あの時は板取村の西ヶ洞からイタゴ洞を詰めて鞍部に登り、日永岳を往復したっけ。今日もあの日と同じで曇りである。幸いにも笹はきれいに刈り払われて歩きやすい。小ぶりの標石のマークが8の字に見える宮標石が埋まる。ここも御料林だったのか。
 やや急になって桧の大木の根っこに足場を置くようなところもあるが急登してゆくのが分かる。その上に黄葉が素晴らしくなってきた。持っていただけのカメラで撮影しながら後続を待った。
 山県市の最高峰、最北という看板の立つピークに着いた。板取村(現在は関市)と美山町(現在は山県市)の境界である。すぐに下って登り返すと電波反射塔を経て3等三角点の山頂だった。山頂はベニマンサク(マルバノキ)の紅葉とシロモジの黄葉に彩られていた。霧が流れて行く。西ヶ洞は霧の海になった。神崎谷はまだ少しは見える。舟が転覆したような巨体は舟伏山だろう。霧は山頂へも流れてきた。少し寒いのはそのせいだろう。滞在1時間も経たずに霧が降る山を下った。
 同じ道を戻る。林道では1時40分だったがこれから山頂に向かう単独行に出会った。1023mの三角点(点名:明神山)のクラソ明神のことを聞かれたがもう忘れた。相当なヤブ山好きである。お気をつけて、と別れた。谷川沿いに下っていると白い浮遊物が飛んでいた。あれは雪虫(雪蛍、綿虫)であった。1~2週間後には雪が降るという。この時節の風物詩である。
 橋の現場に工事関係者は居なかった。土曜は休みだったのだ。廃校跡に着いた。雨が降らずに済んでやれやれだ。秋山を堪能した気分に浸った。R418に戻って武儀川温泉を目指したが現在は改装中だった。大人しく帰名の途についた。

 最初の登山はもう何時だったか忘れた。確かに廃校がまだあった。あの時は林道のゲートまで入れた。そして2回目は廃校の所から先は入れず歩いた。柴犬を連れた猟師がいた。気性が荒いから近寄らないでくれと制された。サワグルミなどを見ながら登ったものだ。3回目は沢からで今日は4回目になった。

沢登り研修2016年09月04日

 山岳会会員の技術の底上げを狙いとして研修を企画された。沢登りの方は頼むというので当方がリーダーを務めることになった。指導するほどの高いレベルの知識・技術・経験などがあるわけではない。只、山行の年季だけは長い。毎月1回は山へ行く。これを40年近く休まず続けている。しかも一般登山のみならず、ヤブ山から沢登り、山スキーを一応はこなす。やらないのは本格的な冬山と海外遠征である。
 ヒマラヤ遠征とか若いころに一時的に本格的な冬山に打込んだ人は多いがほとんどは結婚や仕事の都合でリタイヤ、中断する。そんな人が50歳代になって山岳会に戻っても空白を埋めることはできない。大抵は理屈をいうだけになる。また、話をすると休日はゴルフ、テニスという人も多い。つまり登山をレジャーの中のスポーツという一面でしかとらえていない。山岳会の指導者層には案外こんな人が多いのだ。むしろ、ゴルフの話をしている時の方が楽しそうである。
 私の場合は登山をスポーツを含めた文化としてとらえる。
 沢登りは登山技術の一ジャンルというだけの把握では心もとない。岩登りが登山技術の基本とすれば、沢登りは登山文化の粋ではないかと思っている。尾根を伐開して道を開くまでは沢登りは登山の方法であった。登山技術の総合力を試される、という。即ち、滝を攀じ登るのは岩登り技術の応用である。途中でビバークする場合は幕営と生活技術が試される。
 その中の重要なものは焚火である。町中は当然であるが田舎でも焚火は堂々とやりにくい時代になった。ちょっとしたコツがわからなくなったのだ。
 古新聞紙を火種に枯葉、枯れ枝、流木を燃やすだけのことであるが、これが意外に難しい。時にはローソクやメタを使って火種の維持に努めるが中々に着火しない。焚火なしで寝るのは寒いし、着衣が濡れてはシュラフにも入れない。何とか100%のコツをつかみたいと思っていた。それで3個100円の料理用メタを常用したりもしてきた。
 着火の基本は火床になる地面に石を敷き詰めて地面からの水蒸気を遮断すると成功率が格段に上がると知った。たったこれだけのコツをつかむのに長年苦労したのである。これを知ってからはメタも不要になった。沢登りでツエルト張り終えて、料理の用意とともに焚火の枯れ枝集めは重要な仕事である。しかも明るいうちに集めねばならない。焚火は実用性ばかりでなく心を落ち着かせる効果もある。贅沢な時間の演出家であった。
 人類と獣の違いは第一に火を扱うことであった。火をコントロールすることであった。火の力は暖かい、焼く、煮る、乾かす、殺菌する、明るい、これは文化である。コントロールに失敗すると火事になる。焼失もする。軽量携帯のガスコンロ、石油コンロもあるが焚火はマッチ1本で自然にあるエネルギーを取り出し利用する。
 さて、一般登山では足を交互に動かせば先へ進める。沢登りは大抵は足場は濡れて滑りやすい。そこをバランスよく攀じる。また道標もないから読図力とRFが重要になる。総合力は随所で試されるのである。
 今回は台風の影響で急な増水を心配する向きもあった。しかし、栃を中心とする落葉広葉樹林の原生林は保水力が良いとされる。テントのフライを激しく叩く夜来の雨にも関わらず、顕著な増水はなかった。但し、日本アルプスなどの岩場の多い山では増水(鉄砲水)は必至であろう。ユメ入るべからずである。
 朝4時起床。前夜のうちに炊いて置いたご飯に鶏鍋を温めて朝食を済ます。テント撤収。林道を下って、6時前に入渓。最初はヤブっぽい渓相にがっかりするが1時間もしないうちに栃の原生林になって空が高くなった。しかも長々と滑滝になって奥へと続く。滝はすべて自力で越える。次は次はと期待して遡るうちに右岸に虎ロープが垂れ下がる滝に来た。これは滝の左を攀じ登った。ここでメンバーの1人が目に傷を負うアクシデントがあった。1人でリタイアさせたが、滝を登ったところで降雨があった。これ以上は雨雲の領域に突っ込んで行くことになる。
 昨日の偵察で、ここからの山道を辿れば林道終点に行けるので全員の撤退を決めた。行程の四分の一くらいだが、滑、滝、栃の原生林という美味しい部分は味わったのである。この先には溝状の滝が楽しみだったが後日に期することとした。
 山道は崩壊花崗岩の山の斜面を開削して開いた。林道に着いて国見峠方面を眺めると標高900m以上は雨雲に隠れていた。テント場まで下り、装備をはずし片づけた。池田温泉の開場は10時なのでそれまでの時間活用に揖斐川町の播隆上人ゆかりの一心寺の訪問を提案したら全員が乗ってきた。
 春日村美束で24℃の涼しい気温は平野部では32℃に上がった。台風の影響で亜熱帯独特の暑さにうんざりする。狭い路地を走り抜けて一心寺に到着した。少し歩いて城台山の城跡にも登った。一応頂上である。少し下に点名城台山4等三角点もあった。慰めにはなる。再び車で池田温泉に移動した。中々の名湯である。効験が顕著なのか朝から開場を待つ人もいた。ぬるぬるした成分がいかにもと思う。さっぱりした後は炎熱の名古屋に帰って解散した。とはいえ、まだ12時前だ。ベランダに濡れたテントとフライを干すと風にはためく。フエルト靴の泥を洗ってベランダに干す。次はまたどこの沢へ行けるのかな。

奥美濃・大岩谷2016年08月14日

 伊吹山地とは伊吹山の北の金糞岳辺りまでをカバーする1300m級の山なみをいうらしい。その間に地形図に山名がある山はない。それでも国見山、虎子山、ブンゲンと知る人ぞ知る山が連なる。よく整備された登山道のある山は伊吹山と金糞岳に限られる。一般の登山者から忘れられた言わば秘境的な山域である。
 中でもブンゲンは1269mの標高があるが好事家くらいしか登られない。しかし、沢に限れば岐阜県側でも滋賀県側でも花崗岩質のきれいな沢が突き上げる。岐阜県春日村は西谷という。西谷の右俣が竹屋谷、中俣が大岩谷という。その他にいくつもの沢が江美国境に突き上げる。中でも竹屋谷は滑や樋状の滝が美しく江美国境に突き上げる。
 今回登った大岩谷も両門の滝があって美しい渓相を競う。大岩谷には近年遊歩道まで整備されていて驚いた。以前、沢納めで遡行し、ブンゲンに登頂、また下降した。うっとりするような黄葉の谷に突然雪が舞ってきて驚いた。当時は伐採中で下山すると焚火をしていたのでしばらく当たらせてもらった。林道も未舗装だった。
 午前6時、一社駅前で2人を拾い出発。渋滞気味の名神一宮ICを経て大垣ICで降りる。すぐに揖斐川堤防道路を走り約100km、2時間弱で美束の奥の尾西に着く。右へ大平八滝の案内板に導かれて大平林道の大岩谷の入り口に着いた。完全舗装だから隔世の感がある。その上に山主は遊歩道を整備して観光地化するようだ。駐車場も2か所整備してありかなり本気である。
 身支度後、熊避けのドラム缶を鳴らして入渓。一の滝から遡る。久々の水に体が喜ぶ。周囲は落葉広葉樹の森の中を清冽な谷水がほとばしる。滝ごとにフィックスロープや巻き道もあるがなるだけ谷芯を行く。体のキレが悪いのは体重が減っていないためだ。二の滝、三の滝と続々遡り、八の滝で観光滝道は終わる。谷沿いの路を戻らなくてもいいように帰路も設けてある。
 さて、本格的な遡行領域に入った。周囲は二次林の落葉広葉樹の森である。緑一色の谷の中、滝は連続するが傾斜が立ってきた。スケールも若干大きい。直登を試みるが巻道も行く。次々突破する。大きな5m以上の滝を巻くとついに両門の滝に着いた。左から右からの谷が一つの滝になっている。奥秩父の両門の滝のスケールには及ばないがコンパクトなまとまりが良い。あの黄葉の時の感動には及ばないが、万緑の中のやや多い水量が迫力ある渓谷美を魅せる。これは右から滝上に巻く。
 巻いた後は平凡な渓相が続き、二股を分ける。地形図でチエック。水量は同じだが右がやや多く本流と見て直進する。再び二岐になる。左がブンゲンに突き上げる本流、水量の少ない右は1095mの独立標高点に突き上げる谷。明瞭な二岐である。11時になり、ここまで3時間経過したこと、ヤブが覆うようになったことを鑑みて遡行を終了。1095mの尾根に上がることとした。11時、早めの中食を済ます。
 岩っぽい谷だが中途ですぐに踏み跡が横切っていくのに遭う。桧林の中を忠実に辿り尾根の背に到達すると踏み跡が下ってゆく。しばらくは植林内を順調に下った。傾斜が大変強くなり、伐採はしたが傾斜の関係か、植林はせず、放置したままの二次林の中でストップ。植林が尽きて二次林の中のけもの道を追った。。なるだけ尾根を追いながら且つ浅い谷に下ってみた。困難さはなく、本流に合流した。
 八の滝へはすぐだった。地形図では本流沿いの尾根を下ったのだろう。若いお嬢さんと両親らしい親子3人づれが滝の探勝に来ていて驚く。こんなところでも軽装で来るのだ。あちらも「凄い」と驚いた。
 私たちはフィックスロープの垂れ下がる谷を下降していった。6から7滝付近で観光用探勝路を下った。そのまま歩くと駐車場に戻った。帰路は薬草風呂で一風呂浴びた。猛暑の名古屋へ帰った。もう少し沢の涼しさに浸っていたかったな、と贅沢な思いが募った。

雪蛍2015年11月06日

朝日浴ぶ装ふ山のまだらなり

秋冷や久しく人の住まぬ里

冷まじや廃屋朽ちて屋根も落つ

根尾谷の猿も焚き火を恋しかろ

初雪の白山見へし峠かな

捕まえて見れば寂しき雪蛍

廃村の大河原なり芒原

黄葉に至らぬままに枯れており

天然の真珠のごと実むらさき

国境の稜線はみな黄落す

歴史ある雑木黄葉の道歩く(ありく)

鳴く鹿のたれも応えぬ無人境

秋蝶も北から山を越へにけり

代わる代わる焚き火の番や長き夜

山猿の咆哮を聞く秋の夕

道道で柿売る露店数多なり(本巣市)

晩秋の蠅帽子嶺に登る2015年11月01日

            地元の本巣市で買い物
 10/31から11/1にかけて旧根尾村の奥山に遊んだ。10/31の朝10時にIKさんと金山駅前で合流し、一路、美濃路へ向かう。R157へ入るのが一苦労で、何とか本巣市に着いた。ここでもう1人のINさんとも合流した。最初の寄り道先は本巣市の大きなスーパーに入る。今夜の夕食の食材の調達である。白菜一束、鶏肉、キノコ類、副食類を買う。3人分で2800円ほどになった。後はお好みでビール、行動食などを買う。名産の柿も美味しそうだが、帰路の土産に買うことにする。
             根尾谷の奥へ
 R157を2台で旧根尾村の能郷白山の麓の大河原に向かった。現在はうすずみ温泉までは二車線の立派な国道だ。その先は車の幅一杯の酷道に豹変する。根尾能郷を過ぎると、いつもの倉見七里の険路を走る。飛び石連休のせいか温見峠から来る車もかなり多く、すれ違いに冷や冷やする。難所を通過すると廃村黒津に着いた。屋根が抜けて朽ちて行くばかりの哀れな廃屋が点在する。そして最奥の廃村大河原も閑散としていた。もう出作りの旧村民も山を下りたのか。
 その先の猫峠の道は全面通行止めだった。ハエ帽子峠の登山口の標示のある分岐に来た。今夜の寝場所探しになった。平地、水の確保、道路から隠れる、湿地でないこと、それに焚き火の枯木があることを条件に少し先まで走って見つかった。太い雑木林の木立の雰囲気が良い。早速、テントを張った。周辺から枯木や枯れ枝を集めた。枯れ枝を箒代わりにして落ち葉を掃きながらうずたかく盛り上げた。IKさんは川へ水汲みに行く。食材を並べて準備もした。少し早いが、落ち葉の山に古ダンボール紙をちぎって、着火した。湿り気はあるがすぐに着火してくれた。小枝を乗せ、火が乗り移ると、太い木や濡れた木もかぶせる。火力で湿気も蒸発する。何とか勢いがついた。
            山猿の咆哮
 近くで、山猿の、遠くには鹿の咆哮を聞いた。特に山猿は対岸の山腹がコロニーであるらしい。集団で吼えている。気味が悪い。火を使う我々を警戒中とも思う。鹿は妻恋の叫びだろう。

      ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿     芭蕉

 野生のプンプンする山奥の闇の中で、白菜、鶏肉、うどんを煮込んで食事を楽しんだ。どんな話も楽しい。
            焚き火は寂しがり屋 
 時々は焚き火の火加減を見た。焚き火は寂しがり屋なのである。枯木を追加してやり、時にはウチワで仰いで酸素を強制的に送ってやらないと元気がなくなる。焚き火は何よりも人間の話を聞くのが好きなのである。焚き火を囲んで取り留めの無い話をするとまた勢いを取り返す。どんな話でも喜んで聞いてくれる。火力の衰えは話を催促するかのようだ。
 そのうちに小型のパトカーが温見峠に向かって疾走していった。しばらくすると救急車、消防車が赤い回転灯を点けながら走ってゆく。何事か事故が起きたようだ。焚き火が終わりかけた頃、救急車が警笛を鳴らしながら町に向かって疾走していった。消防車などは回転灯は消灯して普通に還って行く。事故処理は終わったようだ。こんな人里離れた僻遠の地でどんな事故があったのか。

 対岸の山腹から、再び山猿の咆哮が聞こえた。焚き火を処理してテントに入った。うるさいから早く寝ろ、と言わんばかりに聞こえる。

            11/1は歴史の山路へ 
 寒い夜だった。テント内はびっしょり濡れている。冬用羽毛シュラフでも手を出していると寒い。もう初冬の寒さであろう。6時に起きてすぐに食事の支度に入る。昨夜の残り汁に白菜の残りなどを入れてまた煮込む。うどん汁の追加をすると味が良くなった。食べられるか心配したが殆ど残さずに平らげた。テントを撤収。ゴミともマイカーに積み込んで出発する。分岐付近の駐車地で準備中に尾張小牧ナンバーの単独登山者が着いた。早朝に出発したらしい。行先は同じだ。
 登山口まではすすきや笹が刈り払われて4WD車なら何とか走れそうな車道を下る。難なく登山口に着いた。この切り開きは昨年の2014年は水戸天狗党の事件から150周年のイベントのためだったのだろうか。
 ここから対岸まではロープが張ってある。事前に渡渉があることは伝えてあるのでそれぞれが工夫して渡渉した。名古屋市指定のゴミ袋を2重に登山靴の上から履いた人、ビニール製買い物袋を両足に掃いた人、単独の人は胸まである釣師御用達のゴム長、私は膝まであるゴム長だったが、渇水期なのでゴム長でも水は入らずに渡れた。
            武田耕雲斎らの辿った山路
 対岸で登山靴に履き替える。杉の大木の横の乳くれ地蔵を横目に長い尾根の末端に取り付く。全山自然林である。藪がややかぶさる程度の野生味のある登山道はかつての記憶そのままである。
 水戸天狗党の武田耕雲斎ら800名は150年前の12月初旬にこの山路を乗り越して、越前国に入り、山伝いの村落をつなぎながら、敦賀市まで苦難の旅を続けた。800人というから先頭から最後尾まで1人分1m超の間隔とすると、ほぼ1kmの隊列になっただろう。馬もいたし、大砲も分解して運んだという。徒労といえば徒労の旅だった。苦労も空しく京都の徳川慶喜には会えず、越前藩は優遇してくれたが徳川幕府方に渡ると鯡倉に押し込められてその後は斬首にされた日本刑法史上最悪の結果になった。日本の夜明け前の暗さを反映したような事件だった。
            シロブナの純林の道
 ジグザグの急登が終わると、地形図に表現された尾根を忠実に辿る道と山腹を巻いてゆく道に分かれる。そこに朽木が横たわるが、知らないとそのまま山腹道を辿る。我々も往きは山腹を歩いた。標高が高まるとブナの自然林になった。木肌の奇麗なシロブナという。日本海側の樹種で純林を構成する。
 気温が低いせいか、汗をかいているはずなのに爽やかな気分である。周囲は鮮やかな黄葉というわけではない。今年は雨が少なかったせいか、黄葉する前に枯れている葉も多い。十分な水分を吸いあげておればもっと美しいだろう。
 シロブナの純林を堪能しながら歩いていくと、やがて、943mの道標を見た。傾斜が緩くなって歩きやすい。純林はここからが本番だった。そして県境に近づくと尾根がやせてきて、傾斜も急になった。峠道は尾根の左へ振る。すぐに稜線へ上がる近道の目印もあった。急な傾斜の山腹を横切るように歩く。すると谷にも道標があり県境へ行けるようだ。以前はここへ下りた記憶がある。
 峠道は今までと違って、藪が繁り、歩きにくくなった。同行者らは野生味があると喜んではいたが・・・・。県境に沿うように横切って行くと地蔵が祀られている蠅帽子峠に着いた。水戸天狗党のことを書いた道標が立っていた。まだ新しい。そこで一休みした。峠に着く気分は格別である。

    峠見ゆ十一月の空しさに    細見綾子

 福井県側の山々は枯れ切っていた。IKさんが、あっ、あれは白山、と叫んだ。樹林越しに荒島岳も見えたが、冠雪した白山が見えて我々山旅人を喜ばせた。十一月の山ならでは風景である。空しいどころか、我々には嬉しい。部子山銀杏峰、姥ヶ岳、道斉山、堂ヶ辻山、屏風山も見える。越前側は完全な廃道らしい。かの天狗党は越前側に下るが、村々の家は焼かれていたという。係わり合いになるのを恐れたのか。
           蠅帽子嶺の三角点へ
 峠の越前側から尾根へ踏み跡が上がっている。これが三角点1037mに登る踏み跡だ。踏み跡はすぐに消える、又現れる、激しい藪に前途を阻まれながら3つばかりのピークを超えると三角点だった。先行の単独行者がいてあいさつした。落葉しているので見晴らしは良い。能郷白山が大きい。比高600mはあるから当然だ。
 単独行者はコンロを片付けるとさっさと下山していった。又静寂が戻った。3人だけの世界になった。するとどこからか一頭の大型の蝶が飛来してきた。アサギマダラだった。まだこんな山奥に居るのかと驚いた。先だって三河の三ヶ根山で見たばかりである。秋の蝶は弱弱しいというが何のそのという感じだ。
 我々も下山の時が来た。先ほど見つけた下山の尾根に下るポイントに戻り、激しいヤブ尾根を辿った。踏み跡程度だが結構な道のように思える。谷に直降するルートは見つからず、尾根を辿ると峠道に戻れた。地形図どおりである。漫歩気分でブナの純林の街道を下った。943mポイントをチエックした。IKさんが痙攣を起こして遅れたので休憩を取った。鞍部から右は先の方で倒木で塞がれていたから908mポイントへ軽く登った。誰もが記憶の無い道標だった。地形図の尾根を辿る旧来の道だった。広いために踏み跡が分散し、見失い勝ちになるが何とか凹んだ道形を探し、つないで下った。すると見覚えのある元の山腹道に合流できた。908mのピークを避ける道は後から付けられたのだろう。道の凹みは多くの旅人の足跡であろう。
 合流地点からはしばらくでジグザグの道を下った。長い気がした。やがて谷の音が聞こえると、長い峠道も終わる。再び各自のやり方で渡渉した。車に戻ったのが14時10分。出発は8時10分だから丁度6時間のアルバイトだった。また膝の痛みがぶり返すかなと思いつつも充実した山旅を堪能した喜びが優った。
 帰路は再び道の駅「綾部の里」に寄り、名産の柿の一袋を購入した。晩秋の美濃を後にした。

秋雨前線2015年09月08日

   瓢ヶ岳
粥川の谷を高きに登りけり

頂上やどうしようもなき秋の雨

秋雨を集めて滝のほとばしる

徒渡る谷一杯の秋出水

ホトトギス咲くや雨足弱まりぬ

   星宮神社
秋の灯の下にテントを張りて寝る

一と缶の酒をちびりと夜長かな

長き夜を遡行プランの話する

渓声にかきけされたる虫時雨

   円空ふるさと館
秋冷や笑みを浮かべし木の仏

  美しい田園風景の一角に円空仏が建つ粥川の山里
数多おはす円空仏の稲田かな

御仏に見守られたる稲田かな

  9/8 台風の前兆(9/11は220日)
あと三日二百二十日に山に発つ

奥美濃・粥川谷から瓢ヶ岳へ2015年09月06日

 以前から行きたい粥川谷だった。ネットでチエックするとかなり良い沢である。9/20から9/22の北アルプス・金木戸川支流・打込谷遡行のトレーニングでどうしても1回は水を浴びておきたいので粥川谷を提案したら乗ってきた。
 9/4の夜9時合流。今年2回目の粥川谷奥の星の宮神社に行く。途中のバンガロー村が大賑わいだったのは意外だった。終点のPでテントビバークする。周囲に民家がないので気が楽だ。軽く1本空けて就寝。午前4時ごろ、テントのフライを打つ雨音がした。夜が明けてくるが地面は左程ぬれていない。小夜時雨だったのか。山時雨か。ともかく起きねば成らない。朝食は空腹でもないのでお菓子を摘んだだけ。とりあえず、目的はトレーニングにあるので出発することにした。午後の降雨率は50%以上だが山だから確率は高い。しかし、沢登りなので濡れて元々。6時半過ぎ、テントを片付けて出発。登山口は7時過ぎに出発。林道を歩かずいきなり沢に入渓する。一旦林道に横切られることと沢が荒れているので少し上流まで歩いて再び入渓した。
 すると意外なくらいの美渓に嬉しくなる。天然の造形にしては美しすぎるS字形の滝を突破、三枚滝に着くと今度は登山道に合流した。これもやり過ごして沢芯を辿る。登山道から離れて行く。この谷は最初から立っているので滝が非常に多い。小滝を次々突破しながら溯渓を続ける。
 林道の下のトンネルをくぐる前に雨が降り出したので合羽を着用した。やがて右か左かの分岐だが右に振る。水も無くなって笹を漕ぐと奥瓢ヶ岳付近のの登山道に出た。11時55分。山頂へは12時5分だった。大雨だった。ランチタイムどころではないので早々に下山した。下山は新しく開削された沢沿いの登山道を辿る。
 見覚えのある滝を見た。水量が多いので登山道か沢かの区別ができなかった。本当はここで遡行を打ち切って登山道から登っても良かったのだが分からないまま遡行を続けたのである。
 登山道は旧来からの尾根道と合流した。沢道のほうが若干長かった。下山は尾根主体となりぐんぐん下りだす。三枚滝の手前まで下ると沢は奔流となってきた。増水するとヤバイところだ。我々はザイルがあるから何とか成る。一般登山者は雨になると渡渉地点の増水で万事休すになる。減水まで待機することになる。
 三枚滝を過ぎて黙々下山。一旦林道に下りてまた林内を下る。足元には秋の草花のホトトギスの花が咲いていた。林道に下りると後は車まで歩くだけになった。
 下山後は円空ふるさと館に入館して円空仏を拝観した。穏やかさ、温かさのにじみ出た造形は円空特有のものである。他のコーナーには木地師の小屋などもあり、山屋には勉強になる。係員に粥川のうなぎの話を聞くと今でも多いとか。獲ると罰金だそうだ。道理で川のそこかしこにうなぎの禁漁の警告があった。粥川谷の人々は今でもうなぎを食わないという。伝説の神の使い手のうなぎを律儀に守っている。
 更に大雨になっていた。R156に出て子宝の湯に入湯した。やけにお客さんが多いのでWさんが聞くと長良川のラフティングの大会があったそうな。それで若い人が多かったのだ。美濃市まで来ると朝から本格的な食事をしていないことに気づいて夕食をとった。以前に来たことがあるうなぎ屋だった。大で2700円。冷たい水の中に住む魚の脂ならば沢登りの体つくりに役立つだろう。うなぎはともかく、秋刀魚、鰯、鯖など脂が乗った青魚を本番までせっせと食べて行きたい。美濃ICから高速に入り帰名。

円空と和歌2015年08月16日

 8/15はお千代保稲荷のお参りを終えてから、まだ帰名するには早いので、高賀山の麓の洞戸の円空記念館に出向いた。先週の8/8には円空の第二回歌集展が開催されてシンポもあったが山行でいけなかった。気になっていたシンポであるが文書には残されなかった。その代わり、円空和歌集という小冊子が発行された。(500円)15首ていどの和歌を見開き2ページで4首掲載し、簡単な解説を加えて、自筆原文の写真も併載された。
 閉館間際で、さっさと巡っただけであるが、私1人だけだった。原文は解読不能で、解説者が欲しいね、と言ったら、係員が気を利かして色々解説をしてくれた。とわいえ、専門家ではないので断片的な話に終始するが、それでも脳髄を刺激するヒントは得られた。来た甲斐があったというものである。

 ”立上る天の御空の神なるか高賀山の王かとそ念”

の作品の解釈は雨上がりの高賀山の風景の美しさを詠んだとされる解釈になっている。もっと踏み込んでブロッケン現象を見た感動を書きとめたのではないか、と言ったら、登山したことがある人はそういう解釈もできるね、と賛同いただいた。
ソースは草加の山の会のHP
http://www.soka-yamanokai.com/study/study09.html
から一部転載すると
(1823年8月5日に笠ヶ岳に登り、)「夕方山頂に着き、播隆上人と信者達は燈明を捧げ、焼香三拝していると太陽が西の空の雲に隠れようとした時、ブロッケン現象が現れ、これを「一心念仏の中、不思議なるかな阿弥陀仏雲中より出現したまう。」と「加多賀岳再興記」には記してある。ブロッケン現象とは大きな丸い虹の様な光の輪が雲の中に出来、その中に登山者の影が映るのだが播隆上人や信者達は阿弥陀様が雲の中に出てくれたものと大変感激し、笠ガ岳を霊山として開く為より登山道を整備することとした。」
 播隆上人は和歌は残していない。笠ヶ岳は高山だからとも思ったが、ブロッケン山(ドイツ)は標高1141mだから高賀山(1224m)よりも低い。板取川と長良川に挟まれて山霧が発生しやすい。山頂にビバークして確かめたいものである。

 来館者からは円空の和歌の解釈本が欲しいとねだられるそうだ。私も欲しいと思う。

 今まで気が付かなかったのは仏像のみならず、人麻呂像も彫っていたことだった。しかも写真には愛知県で発見されたことが分かる。これは何を意味するのだろうか。円空の和歌修業はどうやら愛知県に居て、人麻呂の和歌を解釈できる高僧ではなかっただろうかという推測は成り立つ。
 
 愛知県の荒子観音は円空研究は荒子に始まり荒子で終わるというほど豊富なんだとか。このことからも円空のスポンサーは愛知県にいたことは想像できようか。毎月第二土曜日に開陳されるので一度は拝観したい。

 円空の和歌は古今和歌集(905年成立)に学んだ気がする。古今和歌集にも人麻呂は歌聖として崇められる立場にあった。人麻呂の塑像は歌聖として自らの和歌のお手本にしたと思われた。
 その根拠は万葉仮名で書かれた万葉集は平安中期以降は読めなくなっていた。951年から訓読みの作業が始まったとされる。いつ終わったのかは不明。

円空の和歌は
 ”わが母の命に代る袈裟なれや法のみかげは万代をへん” 
 ”世に伝ふ歓喜ぶ神は我なれや口より出る玉のかつかつ(注:数々)
柿本人麻呂の和歌は
 ”山の間ゆ出雲の子等は霧なれや吉野の山の嶺にたなびく”

とあって、技巧的に取り込まれたのだろう。

 土屋文明『萬葉集入門』によると、「人麿とその模倣者」の見出しで、
・細部まで完成されて未熟、未完成というべきところはない。
・人麿は広く模倣されている。
・人麿後の萬葉集は皆人麿の模倣と見てよい。
・人麿を越える人はいなかった。
・萬葉集は人麿において頂点に達し、人麿に終わっている。
以上を読むと歌聖といわれるはずだ。円空の時代でも既にそんな評価だったのである。

 仏像の制作をもって遍く旅した円空であるが、江戸時代には珍しくなかった。

 菅江真澄は愛知県豊橋市で生まれ30歳で東北の旅に出た。旅の途上で薬草を採集しながら地もとの医者に売って路銀を得ていた。また宿泊のお礼に絵図を書き残した。

 松浦武四郎は三重県松阪市の生まれ。北海道へ旅するが宿泊先では篆刻の技術が役立った。主に篆刻を彫って置いていった。アイヌの部落では薬草の知識が役立った。

 円空の場合は大衆への祈りの心を形に残したと言える。しかし和歌に傾注したのは何だったのだろうか。仏像だけでは表現しきれない繊細な心は言葉にして残すしかなかった。韻文と言う形で高貴な階級とも交流があったのではないか。解明が待たれる。