春尽きて乗鞍の山懐に 拙作2018年05月02日

枯松平休憩所(避難小屋)
 標高1635mに建つ枯松平休憩所の避難小屋でビバーク。春満月の夜で明るい。厳冬期のような凍えるような寒さもなし。朝一番で小鳥が啼き始める。
 話をしているといつの間にかコガラが寄ってくる。始めは高い枝を遠巻きに枝から枝を飛んでいながら慣れると段々我々に近づいてくる。好奇心の強い小鳥である。
 奥飛騨の標高1500m超の高原の一角で雪山の景色を楽しみつつ、また急速に去ってゆく春の山に起居する。本当はまだ芽吹き始めたばかりの早春のよそおいなのに。
 山麓の村では桜が咲き、ボタンザクラなども盛りであった。水芭蕉は少し朽ちかけていた。山村の春は花が恋しく美しい。神社では祭の子らが練り歩く。農事に忙しい初夏の到来を告げているかのように。

春の丸黒山と日影平山2018年05月01日

4/29 飛騨清見の道の駅で仮泊後、県道462を走って乗鞍青少年交流の家に行く。7時45分に出発。交流の家のスタッフに登山口を教えてもらう。しばらくは林道のような遊歩道を歩く。終点は日影峠になっている。ここから右はカブト山へ、左は日影平山へ道が分かれる。
 丸黒山へは二筋に分かれるが右の道をたどった。一旦は急降下してゆくが、すぐに1559mへ登り返す。乗り越すと1570mの平らなブナヶ平に着く。ここで地元の人らしい人と会った。丸黒山では1人行方不明があったと教えてくれた。これは手前に左に巻き道もあって回避できる。眺めのいいところがある。そのまま下るとブナヶ平と合流する。またしばらくで二筋に分かれる。右は旧道である。左は新道で1694mの枯松山を経由して、枯松平休憩所に下る。現在は文字通り喬木となった唐松の疎林である。
 旧道は枯松山の山腹を巻きながら休憩所へ行ける。この道は近道であり、アップダウンもない歩きやすい道である。水場も2箇所確認した。途中のほとんど平らなところに鉄の支柱が倒れていた。これは鉄条網の支柱と見られ、かつては牧場であった名残である。
 『飛騨百山』の執筆者は「放牧された牛が、われわれを見ると寄ってきた」と書く。彼等がテント場にした枯松平には立派な休憩所が建っている。
 一休みしてから一旦ゆるく下る。平坦な唐松林を歩く。最初の急登はガンバル坂という。がんばると階段の踊り場のような白山展望台に着く。真っ白な白山が見える。道標にもあるし、地形図にある青屋への破線路は笹薮に埋もれていた。すぐに根性坂に差し掛かる。ここをしのぐと雪が出てきた。1926mの主三角点に着いた。少し先で12時を回り、相談の結果、計画を進めて奥千町ヶ原避難小屋に行けても明日に無理がかかると判断して前途を中止。スキーやザックをデポして水だけ持って山頂を往復することとした。
 丸黒山で12時半過ぎになった。撤退をしたものの丸黒山からは乗鞍岳、笠ヶ岳、槍穂高連峰などの大展望に癒されました。御嶽、恵那山は木立に遮られて少ししか見えませんでした。
 青少年交流の家の若いスタッフらが登って来たので話を聞きました。丸黒山から先は登山道の整備がないため這い松の枝が伸びて歩行が困難だろうとのことでした。丸黒山頂から滑降予定の千町尾根を眺めると余り雪が残っていませんでした。スタッフも丸黒山にこんなに雪がないのは珍しいとのことでした。登山口の別のスタッフの話では先週は1mくらいあったそうです。今日は斜面に20センチ程度残っていました。雨とかで急速に融雪が進んだようです。千町尾根は熊が棲息しているそうです。
 当初の計画段階では記録の多い岩井谷を検討しましたが雪解けが早く、雪の塊の崩壊などを恐れて尾根にしたのですが、岩井谷の無雪期は入山禁止になっているそうです。
 丸黒山を下山後は枯松平休憩所の避難小屋で一泊しました。ログキャビン風のきれいな小屋で上質な毛布の備えもあって快適でした。水場は近くに沢水があります。
4/30 避難小屋を出てWさん未踏の日影平山(ぎふ百山)に寄って下山。県道を車で走る途中でも白山、笠ヶ岳、槍穂高連峰などの一級の山岳景観を楽しみました。
 帰りは美女峠の水芭蕉を散策。帰路に見座というところの金峰神社の祭礼の行列に出会いました。R41で帰名する途中、下呂温泉で一風呂浴びて行きました。

恵贈!安藤忠夫著『底本 笈ヶ岳を行く』2015年09月07日

 9/6に山から帰宅すると、郵便受けに分厚い本が投函されていた。開封すると表記の本だった。
 著者の安藤氏は県立春日井工業高校の教員を長く勤められた。私家版だが、自製でもある。自分で製本を趣味としてやっている。近頃珍しい箱入りの布張りの美本に仕上げてある。日本山岳会、日本山書の会を通じても、山書の収集家は居るが製本にまで乗り出すような人は居るまい。
 笈ヶ岳は飛騨・越中・加賀の三国境に位置する1840m級の低い山に過ぎない。隣の一等三角点の大笠山の方が山容でも立派に見えるのになぜか、登山者の熱い視線を浴びてきた山だ。それは深田久弥の『日本百名』のあとがきの40座の中の1座に入ったからであろう。登っておれば日本百名山の1つに入れたほどの名山というわけだ。
 安藤氏は笈ヶ岳に1986年5月11日が初登であった。以来、2004年までの19年間にわたって研究的に各尾根ルートをトレースしてきた。その度に記録を残した。もちろん文献収集と研究は安藤氏の本来の志向である。本書はその集成である。
 山は数多あるのになぜこんなにも打込んだのか。名山なのに登山道や避難小屋もないことで、未知の探求心を満足させてくれたのである。元々、安藤氏は冬の北アルプスの単独登攀をエリアにしてきたが、何分、北アは困難であるが登山者が多い。情報も過多でもある。だから北アルプスに登る力がないから1000mも低い笈ヶ岳で代償として登山しているわけじゃないのだ。

 安藤先生との本を介した交友は長きに亘る。『名古屋からの山なみ』、『名古屋周辺山旅徹底ガイド』の正続では編集者になり、私も委員としてお手伝いした。平成7年に拙書『ひと味違う名古屋からの山旅』を共著で企画した際、安藤氏も高峰山、銚子ヶ峰、今淵ヶ岳、鑓ヶ先、横山岳、続編では、虎子山、権現山、平成山(へなりやま)などを引き受けていただいた。本書を読んだ友人等に感想を聞くと安藤先生の文が一番人気だった。登ること、書く事、製本すること。今西錦司、深田久弥、串田孫一ら先達もびっくりの山道楽を極められたのだ。
 こんなに優れた本なのに一般刊行されないのが惜しい。一山だけに絞ったいわゆる笈ヶ岳オタクにしか需要がないから商業ベースには乗らないのだろう。登ったらもう終わりで、次の山へと心変わりしてゆくのが一般的登山者というもの。
 『日本百名山』朝日文庫版の解説者として今西錦司が良い山だと知っても、秘すべきが山と私の約束だ、という登山家もいる。先輩の故・上田正さんは、知られざる良い山を本で紹介するのは手塩にかけて育てた娘を嫁にやる心境だとも表現した。山屋とはかくも複雑な心情である。すると安藤氏も箱入り娘を嫁に出す父親といったところか。大切にしたい。

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奥飛騨・天蓋山を歩く~文学山歩2015年05月01日

~不二樹浩三郎在住之地碑~
不二樹浩三郎は明治三十年二月十八日、
実業家 不二樹熊次郎の三男として大阪に生れ、
同志社大学を卒業した。
柔道を好む一方で、茶道や華道にも通じていた。
大学時代に知った「あの人」への思慕は、
時を経ても忘れられず、自己を高める為、
昭和九年晩秋、ここ山野村を訪れ、
以後西邦本等が新造した小屋で、二回の厳冬を過した。
数奇な運命、二十年にわたる恋愛譚を、
後に作家、中川与一に口述したことが、
昭和十三年発表の小説「天の夕顔」の誕生のきっかけとなった。
不二樹は後に自らも小説「冷たき地上」を書いたが、
平成二年四月十四日、神奈川県で、その浪漫に満ちた生涯を閉じた。
享年九十三歳。
以上
 地元の関係者の尽力で建立。モデルとしても存在感を示したい意思が強かった。それが実現して天国で満足しているかも知れない。
 美しい姉への恋、姉の結婚で、下宿屋の娘に恋するのは姉と同じ美人だったから。やがて娘も結婚し人妻になってしまう。葬儀での出会いをきっかけに20年にわたる悲恋になったのは事実だった。中河与一は姉のことは省略して人妻だけに単純化したことが大きい。
 それでも、彼の口述筆記の通りだったと主張し、印税の分け前を要求した。名作『天の夕顔』はベストセラーになったが故の作品のモデルと作家の確執になった。

 本作を何度も読み返し、研究書なども読んでみたが、私は作家中河与一の流麗な淀みなく滑るような文体と文学的な修辞の巧さに尽きると思う。編集されないままだったら作品ではない。あの柳田國男の『遠野物語』も別人の下書きがあったが、簡潔な文語文体にすることで昔話が文学になった。但し、原作があると、ことわりを入れている。

 第5章からの岐阜県神岡町の山之村での冬篭りの場面、薬師岳登山の物語は口述どおりにするほかなかったようだ。中河与一は日本山岳会会員だが、入会は57歳で、戦前は病弱な文学の徒だったという。
 P65からP95まではこの作品の圧巻ではないか。第4章までは求愛しても拒絶される、の繰り返しであることがもどかしい。そりゃそうだろう、人妻ゆえに生活を破壊するわけにはいかない。7つ違いというのも躊躇うだろう。

 P65の名文は原文通りなのか、中河の創作なのか。
 
 いっそ天に近いところに行って自分の悲しい生命を終わったほうがいい。

 天に近い清浄の雪の中に、自分の身と心を置いて、自分は自分の思いを高めよう。

 この名文は昭和24年発表の井上靖の作品『通夜の客』にも影響を与えたかも知れない。処女詩集『北国』には「そこは山奥というより、天に近いといった感じの部落で・・・」とある。

 詩の一節を『通夜の客』に取り込み、P198には
 「天に近い天体の植民地のような村の、悲しみも喜びもみんな揮発してゆくような虚しさは・・・」

 剽窃とまでは言えないが、偶然でもないだろう。

 モデルの不二樹浩三郎は登山が好きだったようだ。ただ富裕層なので案内人を雇ったり、小屋を作らせたりしている。作品には生活臭が一切ないのでそのためか。

奥飛騨・天蓋山を歩く2015年05月01日

 朝3時、自宅を出発。東海・北陸道から中部縦貫道の高山ICへ。古川から羊腸の大坂峠への県道76号を走る。すると、見座に着き、R471に合流。高原川と金木戸川の落ち合う所から山之村へ行く山吹峠にすぐつながる道に入れる。登山口のある「夕顔の駅」に着いたのは7時半。7時50分に出発。天気は上々でピッチも早まる。
 バンガロー村を終点まで行くと登山標識があり、白樺の森に入る。途端に残雪を踏む。沢沿いの道にはたっぷりの残雪があった。少しづつ高度を上げながら奥へ登る。途中で沢から離れて急な尾根を辿る。まだ葉をつけていないせいか、林内がとても明るい。残雪が増えて、解けた水が尾根道の真ん中を流れている。左右どちらかに流す「土木工事」をしながら歩く。
 急登が終わると別の尾根を乗り越して先ほどの沢の源流部へ下ってゆく。一面の雪になって道が消えた。踏み跡もなく、自然にしたがって歩く。沢の凹みを渡って傾斜の緩い源流部を回りこみながら登りきると山吹峠からの踏み跡に出た。右へ行くと1380mの雀平の標があるコブに着く。雪が付いていないので初めて小休止。ここからの眺めも秀逸で、笠ヶ岳はすぐ東に聳え、槍穂高連峰が近い。本来の道筋は、沢を登り切らずにまたいで直登するようだ。
 雀平からはまた残雪の平なところを高みに向かうが道標はないので山勘である。それでも雪の切れた地面には登山道が見えているので方向は間違っていない。急登を登りきると山頂の手前のコブに着いたが、ちょっと下ってまた登り返すと天蓋山だった。
 この眺めは何十年ぶりだろうか。
 山之村の周辺の山では大鼠山が未踏であるがちょくちょく来ている。最近では折立から薬師沢小屋を経て赤木沢経由で北ノ俣岳に登り、夜の神岡新道を下った。メンバーの強者が車を回収するためただ1人で折立に下ってくれた。翌朝、車を見てほっとした。
 山頂からの眺めは360度の大展望であった。飛騨国の展望台でもある。飛騨国を囲む山々のすべてが見える。

 雪付けし飛騨の国見ゆ春の夕    前田普羅
 乗鞍のかなた春星かぎりなし
 てり返す峰々の深雪に春日落つ
 山吹や根雪の上の飛騨の徑
 
等々、句集『飛騨紬』の中の名句である。飛騨は山国との思いが深まる俳句である。
 展望を堪能後、下山。夕顔の駅で聞くと今年は雪が多かったそうだ。
身支度を終えて、名作『天の夕顔』の文学山歩に移る。今までのブランクの間に大きな変化が見られた。作品のモデルとなった不二樹浩三郎の記念碑が道沿いに建立されていた。実姉への恋心を忘れるために有峰に行くが、なじめず、薬師岳を間近に見るこの地に引っ越したという。
続く

初スキー行2015年02月01日

 1/31、夜9時に合流。久々のスキー行である。日帰り可能な飛騨の朴の木平スキー場であるが、あえて前夜発にした。東海北陸を北上し、高山市の一角で車中泊。
 翌朝5時にまた出発した。24時間営業の店でゆっくり朝食をとってもまだ早い。スキー場まで26kmとあるが、凍結路なので時速40kmでソロソロ走る。市内で方向を間違えて富山市へ向かってしまった。道路の拡張で地理勘が働かない。ナビがないとこうなる。
 やっと丹生川村辺りまで来ると小学生が集団登校中だった。後で知ったが、今日は高山市合併10周年記念日らしい。そこで小学生も何かイベントであるのか。
 朴の木平スキー場は始めてのこと。ゲレンデのレイアウトは他とそう違わない。但し、上部のゲレンデ外が滑走可能となっていた。他のスキー場はコース外滑走禁止になっているがここはOKだった。上部の雪質は絶好のコンディションだった。圧雪バーンでも10センチ程度の新雪が乗っており、上手くなったような錯覚を覚えた。コース外の深い雪、未整備の雪ながら抵抗がなく滑走が楽しめた。山スキーヤーでも楽しめるスキー場である。
 今日は午前中ゲレンデ、午後は輝山の前山辺りまでスキーハイキングの積もりだったが、相棒がシールを忘れたというのでゲレンデオンリーになった。おそらく3kgは体重増加したはずで、転倒しないように滑るのがやっとだった。次回は体重を減らして行きたい。
 帰りは恵比寿の湯で疲れを癒して帰名した。

飛騨・流葉山春スキー2014年02月12日

冴え返るテントに寝覚む飛騨の国

春寒や飛騨流葉の山の上

凍て雲の流るる山や春スキー

如月や真白な黒部五郎岳

春雪嶺空母のごとき乗鞍岳

山だけの飛騨の国見ゆ風光る

樹氷咲くごと白い珊瑚めく

雪垣は未だ解かれず飛騨の国

山峡の田畑に残る雪厚し

雪焼けの顔なでてゐる山のお湯(桃源郷温泉)

サングラスかけても春の雪目かな

建国の日の旗ぞ飛騨の山家こそ

早春の飛騨の山家に人気なし

  スッピンだがきりっとした高貴な顔立ちの女性と話す
飛騨人に春スキーのこと聞きしかな

凜とした飛騨の女や春浅し

猿ヶ馬場山の滑降シーン2013年03月23日

ブナ林を滑降するWさん

猿ヶ馬場山の滑降シーン2013年03月23日

ブナ林を滑降するYさん

飛騨・猿ヶ馬場山スキー登山2013年03月20日

 3/19、愛知岳連の理事会が終わって午後8時。Wさんと西庁舎で合流する。Yさんは先行して、登山口の状況を偵察してもらう。高速に乗れたのは9時前後だったかな。東海北陸道を北へひた走る。白川ICを降りて、道の駅の一角でテントビバーク。就寝は午前1時。午前5時に目覚ましが鳴る。お湯を沸かし、インスタントのウドンを流し込む。
 午前6時過ぎ、Yさんに挨拶し、登山口へ誘導してもらう。白川郷も今は静かである。萩町にある登山口は車1台分の幅のある車道から杉林に続く林道の出発点になっている。そこに辛うじて2台をデポできた。 スキー板にシールを貼って出発。かなり急な斜面であるが、林道をショートカットする先行者のシュプールが残っており、それがルート案内にもなる。急斜面をジグザグに登りきり、林道に上がるとあとは谷の中を登ってゆく。するとまた林道に合うのでしばらくは林道上を歩く。所々デブリがある。
 左に宮谷源流と合う。帰雲山への尾根はパスしてそのまま直進すると、素晴らしい栃の大木、ブナ、その上ではダケカンバの疎林となって絶好の滑走場を提供してくれる。ここをまたジグザグを切りながら高度を稼ぐ。高木泰夫氏の「登山の喜びは登山に要した苦労の関数である」という言葉がよぎる。
 急斜面の登りから開放されて、帰雲山と猿が馬場を結ぶ稜線に出た。高度計が1700m以上を指示して1875mに近づいたことを感じる。視野が広がる。緩斜面の雪原が広がる。山頂は近そうだが、ここからが結構遠かった。前方に先行した2人が止まっている。あそこが山頂か。
 矮小化したシラビソの樹林の間を抜けて、ようやく山頂に立った。残念ながら北アルプスは見えない。白山も見えないが、大笠山らしき山は見えた。三ヶ辻山、金剛堂山も山霞の中に白い美しい山容を見せた。
 登頂はこれで2度目。いつぞやの4月下旬、栗ヶ谷川の横谷から籾糠山へ尾根を辿り、1818m峰を経て登った。下山は雪の詰まった谷を横断して籾糠山に戻った記憶がある。
 近くでは御前岳が見える。1等三角点の山でありながら、『ぎふ百山』、『続・ぎふ百山』にも採用されなかった。近くに猿が馬場山が飛騨高地の最高峰の栄誉を享け、日本三百名山に採用されているため不遇を託つことになった山である。しかも登山道がない。が、登る人は登っている。私は測量のために伐開された藪を分けて登頂した。更にスキーで森茂峠から再登を目指したが、栗ヶ岳で引き返した。登りがたい山である。
 山頂滞在は30分未満。シールをはがして滑降開始。緩斜面のうちはシュプールの跡を辿り、赤い布を外しながら進む。宮谷源流から待望のブナ林の疎林の中の滑走を楽しむ。自在に。あっという間に終わる。後は来たルートをほぼそのまま滑走。登りには5時間半ほどかかったが、約2時間超で下山できた。スキーの威力である。
 萩町を後にして平瀬温泉で一風呂浴びて帰名した。