寧比曽岳望岳それも春雪嶺 拙作 ― 2025年02月16日
2/15の登山は手軽な割には成果が大きかった。伊吹山から白山、御嶽山、乗鞍岳、奥穂高岳、恵那山、聖岳、赤石岳、荒川岳、奥茶臼岳、富士山などの雪をかぶった名峰が勢ぞろいしたからだ。
初めてチェーンスパイク(アイゼン)を使用してみた。寧比曽岳にはちょうど良かった。積雪量は深くもなく、しかし多くの登山者で踏み固められたアイスバーンなので短いピンがよく効いた。長いと躓く恐れもある。
初めてチェーンスパイク(アイゼン)を使用してみた。寧比曽岳にはちょうど良かった。積雪量は深くもなく、しかし多くの登山者で踏み固められたアイスバーンなので短いピンがよく効いた。長いと躓く恐れもある。
奥飛騨はしご辻は中止。 ― 2024年03月24日
今日は天気が悪い予報だったが外れた。メンバーは朝早く5時に出発。宿で終日時間をつぶした。高原のリゾート地での休養になった。
夕方になってメンバーが下山してきた。無事に登頂。新雪と急斜面に苦労したらしいがこの時期の雪山をゲットできて、しかも好天で北アルプスの名山を見て満足していた。
帰り支度して午後5時に帰名の途についた。
自分は課題を残したので新緑期に再訪したい。唐尾峠は鎌倉街道の古道だった。神通川は峡谷で通行困難だったためにこんな高原に道が開削された。そして山吹峠でまた高原川に降りた。乗鞍岳山麓からは旧安房峠を越えて、焼岳の北の峠越え、とアップダウンの多い困難な古道であった。
、
夕方になってメンバーが下山してきた。無事に登頂。新雪と急斜面に苦労したらしいがこの時期の雪山をゲットできて、しかも好天で北アルプスの名山を見て満足していた。
帰り支度して午後5時に帰名の途についた。
自分は課題を残したので新緑期に再訪したい。唐尾峠は鎌倉街道の古道だった。神通川は峡谷で通行困難だったためにこんな高原に道が開削された。そして山吹峠でまた高原川に降りた。乗鞍岳山麓からは旧安房峠を越えて、焼岳の北の峠越え、とアップダウンの多い困難な古道であった。
、
奥飛騨・和佐府ゼッコへ ― 2024年03月23日
朝4時起き、5時出発。登山口の和佐府へ行く。1006m地点から左折して林道入り口の手前の民家の除雪場に富まさせてもらった。ワカンに履き替えて出発。1063m地点の橋で左岸に渡り、右岸に渡る橋の所で積雪が凄いのでここから山腹を急登して1217mまで登った。
他のメンバー3名はスノウシューだが自分はワカンなので捗らない。というより運動不足からくるものだろう。遅れ気味である。1731mのゼッコへの尾根に着いた途端に右からの風雪が強くなった。帽子の耳あてを下ろし防寒に努める。
ここで撤退することにして他のメンバーは先行する。しばらく歩いた後来た道を戻った。
車で待機していたが暖房を入れても寒いので里を散策した。15時30分頃下山してきた。山頂は無事に踏んで来たからまあ良かった。1217mから先は地形がやや複雑で1562mへ。風雪が厳しく、新雪のラッセルは時に胸まで潜ったらしい。それでも登頂できたから価値はある。
宿へ帰還後は入浴、そして牛ホルモンの鍋焼きを楽しんだ。
他のメンバー3名はスノウシューだが自分はワカンなので捗らない。というより運動不足からくるものだろう。遅れ気味である。1731mのゼッコへの尾根に着いた途端に右からの風雪が強くなった。帽子の耳あてを下ろし防寒に努める。
ここで撤退することにして他のメンバーは先行する。しばらく歩いた後来た道を戻った。
車で待機していたが暖房を入れても寒いので里を散策した。15時30分頃下山してきた。山頂は無事に踏んで来たからまあ良かった。1217mから先は地形がやや複雑で1562mへ。風雪が厳しく、新雪のラッセルは時に胸まで潜ったらしい。それでも登頂できたから価値はある。
宿へ帰還後は入浴、そして牛ホルモンの鍋焼きを楽しんだ。
奥飛騨の山へ ― 2024年03月22日
15時30分。金山駅前の集合場所を出発。美濃市でメンバー1名をピックアップ。東海北陸道を経て飛騨清見から1年ぶりに神岡町山之村へ。伊西トンネルを抜けると降ったばかりの新雪で埋まっていた。昨年も泊ったりょうしの家で夕食の猪の焼肉に舌鼓を打った。
『飛騨國中案内 (大正6年の復刻版)』受領 ― 2023年08月13日
飛騨國中案内 (大正6年の復刻版)からP115の5の3
角川村より二ツ屋村え 一里
[角川村]高・反別共に先書に記置。角川より二ツ屋村迄之間道並、谷越所々有之、道の左右は山高く谷合故道悪敷候。
二ツ屋村より国境迄 二里
[二ツ屋村]高四石六斗二升六合、内田高二斗五合、畑高四石四斗一升六合、此反別三町九反一畝二十四歩、内一反三畝十四歩田方、三町七反八畝十歩畑方なり、田は稗田なり、非平地山畑同様の地面なり、中田二・下一・上畑二・中一・下一・下々一・山畑一、桑三十束、此反別二畝歩、十束に一、屋敷二の位、高に一ッ三分七厘内、屋敷大、小五軒あり、寺・宮森なし、
[口留番所]一ヶ所あり、高八合、此反別十二歩あり、高山より二ツ屋村迄七里三十一町有、二ツ屋村より国境迄二里二町有り、此間一里、行くて大峠あり、字[楢か峠]といふ、楢ヶ峠より境谷迄の間を原といふ、且又、古人の曰く、高麗に檳榔子(びんろうじ)きれたれは飛騨の白木ヶ原に有へし、かうらいに肉桂きれたらは白木か原に有へし、高麗に人参きれたらは飛騨の角川有峯に有へし。此角川有峯とは此境谷原の事なり、此白木か原は則此所の原にて候、左手の大山は[金剛ヶ嶽]右手の大山は[白木ヶ嶽]なり、上白木・下白木二山あり、唐の川とは前に記し置候通り、小鷹利郷の内谷村より、谷川上信包村より奥にて、黒内村山内なり、此二ヶ所を尋ね度もの歟(や)、古人の言傳は予より外に此事聞傳申間敷者也、穴賢々々。右原の内道より左手の山に[金山]一ヶ所あり、九十年餘以前に金山稼いたし候事なり、国境に石塚あり、字[境谷]といふ、二ツ屋村より楢ヶ峠まて一里、此間谷越八ヶ所あり、楢ヶ峠より境谷原の小屋場迄一里半、此間谷越三十三ヶ所あり、此小屋場は先年越・飛両国の境論有之節より山番小屋あり、その砌(みぎり)より往来の[改番所]も此所にあり、口留番所は其後二ツ屋村へ引る、山番所は御料所に成り、元禄九子の年引る、金山間歩ある所は此小屋場より左手の山にあり、此際に青兀といふはげ山あり、山の犬といふ獣晝夜に此所へ来、此兀山の土を喰ふことなり、此所に小谷あり、白水谷といふ、常に此水白し、小屋場の前に白き石磨一ッ有り、是は金土をひきたる磨の由、此所より境谷石塚ある所まて十丁餘、境石より越中切詰村迄二里、此間大難所の道筋なり、切詰よりすが平此次庵谷、此次に番所あり、此次はなつまい、此次は東原、此次は荒屋、次は西ヶ原、次は田の頭、次は水無、次は内名、次は島地、次はいちごぞうれ、次は二ツ屋、此次は横平、次は大だも、次は小畑、次は三ツ松、次はにんぶ、次はしんめう、次は元坂、此次は八尾なり、切詰より八尾迄五里、二ツ屋より以上八里有之候。先年飛騨國荒城郡小豆澤村・桑ヶ谷村・三川原村・角川村・二ツ屋村と、越中國婦負郡桐谷村・布谷村・荒屋村・須郷村と國境論有之、干時延寶二寅年の事、公儀御吟味の上國境相極、其節御評定之衆中両國の村々共に御朱印之寫、我等手前に所持す、外に繪圖一枚共有之候。
[二ツ屋]越中國長谷切詰え出る、高山より境迄十里三十町あり、二ツ屋村より切詰まで四里。
二ツ屋村より大無雁村へ戻り、下山中筋を記す。
・・・・・大正6年に出版された飛騨のガイドブックでした。8/5に車で通過した楢峠とか白木峰の様子がうかがえる。楢峠を越えても続くから二ツ屋はかなり広域の村だった。水系は富山側に流れるが岐阜県の中でした。
やはり国境論争があったのです。楢峠が国境かと思うのですが当時の力関係で万波川一帯が飛騨に組み込まれた。現在は白木峰が富山県と岐阜県の県境になっている。これはこれでそれらしい。金山があったからでしょう。
角川村より二ツ屋村え 一里
[角川村]高・反別共に先書に記置。角川より二ツ屋村迄之間道並、谷越所々有之、道の左右は山高く谷合故道悪敷候。
二ツ屋村より国境迄 二里
[二ツ屋村]高四石六斗二升六合、内田高二斗五合、畑高四石四斗一升六合、此反別三町九反一畝二十四歩、内一反三畝十四歩田方、三町七反八畝十歩畑方なり、田は稗田なり、非平地山畑同様の地面なり、中田二・下一・上畑二・中一・下一・下々一・山畑一、桑三十束、此反別二畝歩、十束に一、屋敷二の位、高に一ッ三分七厘内、屋敷大、小五軒あり、寺・宮森なし、
[口留番所]一ヶ所あり、高八合、此反別十二歩あり、高山より二ツ屋村迄七里三十一町有、二ツ屋村より国境迄二里二町有り、此間一里、行くて大峠あり、字[楢か峠]といふ、楢ヶ峠より境谷迄の間を原といふ、且又、古人の曰く、高麗に檳榔子(びんろうじ)きれたれは飛騨の白木ヶ原に有へし、かうらいに肉桂きれたらは白木か原に有へし、高麗に人参きれたらは飛騨の角川有峯に有へし。此角川有峯とは此境谷原の事なり、此白木か原は則此所の原にて候、左手の大山は[金剛ヶ嶽]右手の大山は[白木ヶ嶽]なり、上白木・下白木二山あり、唐の川とは前に記し置候通り、小鷹利郷の内谷村より、谷川上信包村より奥にて、黒内村山内なり、此二ヶ所を尋ね度もの歟(や)、古人の言傳は予より外に此事聞傳申間敷者也、穴賢々々。右原の内道より左手の山に[金山]一ヶ所あり、九十年餘以前に金山稼いたし候事なり、国境に石塚あり、字[境谷]といふ、二ツ屋村より楢ヶ峠まて一里、此間谷越八ヶ所あり、楢ヶ峠より境谷原の小屋場迄一里半、此間谷越三十三ヶ所あり、此小屋場は先年越・飛両国の境論有之節より山番小屋あり、その砌(みぎり)より往来の[改番所]も此所にあり、口留番所は其後二ツ屋村へ引る、山番所は御料所に成り、元禄九子の年引る、金山間歩ある所は此小屋場より左手の山にあり、此際に青兀といふはげ山あり、山の犬といふ獣晝夜に此所へ来、此兀山の土を喰ふことなり、此所に小谷あり、白水谷といふ、常に此水白し、小屋場の前に白き石磨一ッ有り、是は金土をひきたる磨の由、此所より境谷石塚ある所まて十丁餘、境石より越中切詰村迄二里、此間大難所の道筋なり、切詰よりすが平此次庵谷、此次に番所あり、此次はなつまい、此次は東原、此次は荒屋、次は西ヶ原、次は田の頭、次は水無、次は内名、次は島地、次はいちごぞうれ、次は二ツ屋、此次は横平、次は大だも、次は小畑、次は三ツ松、次はにんぶ、次はしんめう、次は元坂、此次は八尾なり、切詰より八尾迄五里、二ツ屋より以上八里有之候。先年飛騨國荒城郡小豆澤村・桑ヶ谷村・三川原村・角川村・二ツ屋村と、越中國婦負郡桐谷村・布谷村・荒屋村・須郷村と國境論有之、干時延寶二寅年の事、公儀御吟味の上國境相極、其節御評定之衆中両國の村々共に御朱印之寫、我等手前に所持す、外に繪圖一枚共有之候。
[二ツ屋]越中國長谷切詰え出る、高山より境迄十里三十町あり、二ツ屋村より切詰まで四里。
二ツ屋村より大無雁村へ戻り、下山中筋を記す。
・・・・・大正6年に出版された飛騨のガイドブックでした。8/5に車で通過した楢峠とか白木峰の様子がうかがえる。楢峠を越えても続くから二ツ屋はかなり広域の村だった。水系は富山側に流れるが岐阜県の中でした。
やはり国境論争があったのです。楢峠が国境かと思うのですが当時の力関係で万波川一帯が飛騨に組み込まれた。現在は白木峰が富山県と岐阜県の県境になっている。これはこれでそれらしい。金山があったからでしょう。
小白木峰を歩く ― 2023年08月05日
8/4の夜に出発。深夜割引を意識してひるがの高原SAで時間を調整し飛騨清見は12時過ぎに出た。
8/5は道の駅いぶしで車中泊。2台の先行者がいた。トラックはいないので静かに寝られた。4時30分に出発R41に出てR360に入り、R471,R472に右折。一車線分の酷道で、狭い、タイトなカーブでした。
地蔵様が2体が並ぶ楢峠を越えて登山口の取水口に着いたのは6時を回ってしまった。6時20分に出発、沢沿いに渡渉をして山腹に取り付く。直登の尾根までもそれからも急登の連続。
しばしば休憩をとった。それでも小白木峰に着くと池塘あり、展望ありで癒された。三角点の先に展望台があった。乗鞍岳、槍ヶ岳も見えた。ここで8時40分となり、往復4時間と下山2時間を見込むと6時間はかかる。15時近くになるので極楽坂の集合15時に間に合わずに断念。小白木峰周回に変更。10時半過ぎに下山できた。富山県側へは道が悪いとのことで結局宮川に戻りR360を走った。R41に出て割石温泉に入湯。極楽坂へは充分に間に合った。
余談ですが、ロッジ太郎は太郎平小屋のオーナーの五十嶋一晃氏が経営。愛大の薬師岳遭難から60周年ということで、五十嶋オーナーを招いて慰霊祭を行った。当時のNHKのビデオ「遭難」を見ると昭和38年に新婚早々の五十嶋さんが13人のご遺体を発見するシーンそのままの思い出話に涙ながらに語られて目頭が熱くなった。
ほとんどは5月から6月の雪解けと同時に発見されたが、鈴木俊彦(JAC会員の鈴木重彦の弟)と鳶田さん(春日井市)が未発見だった。2人は東南尾根の黒部川上の廊下側へ多分雪庇を踏み抜いて落ちたという想定で捜索されて10月に入ってからやっと発見された。上の廊下の立石奇岩付近に落ち込むガレ沢の上部だった。
2009年に渡邊リーダー他2人で上の廊下を遡行した際に地形図でここだろうと立ち止って合掌したことを思い出した。地形図を見ると北西の季節風で風下へとおしながされていったのだろう。後知恵になるが、肉眼で見える距離に標識旗を建てて下山ルートを確保しないと道を誤る。
しかし他の大学パーティが薬師平までは愛大生のラッセルを利用してさっさと往復して行ったのを見てせっかくだからと登頂に向かった。先には他の大学パーティの足跡もあり標識旗は立てなかった。吹雪かれるとたちまち雪で埋もれる。いくつものミスと判断力の結果だった。
38豪雪の凄さは鉄道、道路、スキー場など皆止まったのである。ただでさえ豪雪の北アルプスの山中で的確な判断を求めるのは酷であろう。13人の遭難死を風化させないための慰霊祭であった。
山行記は過去のものを貼り付けた。
2010年
http://koyaban.asablo.jp/blog/2010/08/02/5262666
2012年
http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/08/06/6532244
2013年
http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/07/29/6927586
北ア・薬師岳慰霊登山 ― 2015-08-03
https://koyaban.asablo.jp/blog/2015/08/03/7723885
薬師岳・晴天に恵まれた慰霊登山
https://dekakeruhi.exblog.jp/24512108/
8/5は道の駅いぶしで車中泊。2台の先行者がいた。トラックはいないので静かに寝られた。4時30分に出発R41に出てR360に入り、R471,R472に右折。一車線分の酷道で、狭い、タイトなカーブでした。
地蔵様が2体が並ぶ楢峠を越えて登山口の取水口に着いたのは6時を回ってしまった。6時20分に出発、沢沿いに渡渉をして山腹に取り付く。直登の尾根までもそれからも急登の連続。
しばしば休憩をとった。それでも小白木峰に着くと池塘あり、展望ありで癒された。三角点の先に展望台があった。乗鞍岳、槍ヶ岳も見えた。ここで8時40分となり、往復4時間と下山2時間を見込むと6時間はかかる。15時近くになるので極楽坂の集合15時に間に合わずに断念。小白木峰周回に変更。10時半過ぎに下山できた。富山県側へは道が悪いとのことで結局宮川に戻りR360を走った。R41に出て割石温泉に入湯。極楽坂へは充分に間に合った。
余談ですが、ロッジ太郎は太郎平小屋のオーナーの五十嶋一晃氏が経営。愛大の薬師岳遭難から60周年ということで、五十嶋オーナーを招いて慰霊祭を行った。当時のNHKのビデオ「遭難」を見ると昭和38年に新婚早々の五十嶋さんが13人のご遺体を発見するシーンそのままの思い出話に涙ながらに語られて目頭が熱くなった。
ほとんどは5月から6月の雪解けと同時に発見されたが、鈴木俊彦(JAC会員の鈴木重彦の弟)と鳶田さん(春日井市)が未発見だった。2人は東南尾根の黒部川上の廊下側へ多分雪庇を踏み抜いて落ちたという想定で捜索されて10月に入ってからやっと発見された。上の廊下の立石奇岩付近に落ち込むガレ沢の上部だった。
2009年に渡邊リーダー他2人で上の廊下を遡行した際に地形図でここだろうと立ち止って合掌したことを思い出した。地形図を見ると北西の季節風で風下へとおしながされていったのだろう。後知恵になるが、肉眼で見える距離に標識旗を建てて下山ルートを確保しないと道を誤る。
しかし他の大学パーティが薬師平までは愛大生のラッセルを利用してさっさと往復して行ったのを見てせっかくだからと登頂に向かった。先には他の大学パーティの足跡もあり標識旗は立てなかった。吹雪かれるとたちまち雪で埋もれる。いくつものミスと判断力の結果だった。
38豪雪の凄さは鉄道、道路、スキー場など皆止まったのである。ただでさえ豪雪の北アルプスの山中で的確な判断を求めるのは酷であろう。13人の遭難死を風化させないための慰霊祭であった。
山行記は過去のものを貼り付けた。
2010年
http://koyaban.asablo.jp/blog/2010/08/02/5262666
2012年
http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/08/06/6532244
2013年
http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/07/29/6927586
北ア・薬師岳慰霊登山 ― 2015-08-03
https://koyaban.asablo.jp/blog/2015/08/03/7723885
薬師岳・晴天に恵まれた慰霊登山
https://dekakeruhi.exblog.jp/24512108/
残雪の北尾根から桑崎山に登る② ― 2023年04月02日
起床は午前4時。靴下はウールの厚手の物に履き替え、下着は冬山用に着替えた。厚手のアウターと冬用のヤッケなどに身支度をを整え宿の2階から降りて車に乗る。出発は5時19分。登山口までは車で移動。これまで2回来ているのですぐ分かる。2回とも夕顔の駅からスキーで歩いたが今回はその分楽できた。
キックステップで残雪の尾根の登攀を楽しむ
ザックを整えて5時36分に出発。計画ではアイゼン、ピッケル必携だったが、自己判断でスリーシーズンの登山靴とスパッツとストックにした。残雪期でも凍結はある。むしろ日中の気温で溶けた表面がクラストするので凍結しやすい。それでも重たい重登山靴にアイゼンはやや装備過剰かと思った。キックステップで身軽に登りたい。
林道をしばらくは土が出ていたが最初のカーブから残雪におおわれていた。雪が解けたところにはフキノトウが沢山でていた。早くも下山時には採取する話をしていた。雪面は風の当たるところはクラストして沈まないが日当たりのいい所では多少沈んだ。1400m地点で長い林道歩きも終わった。
地形図のヘアピンカーブで他のメンバーはやおらアイゼンを装着した。ヘアピンカーブは小沢になっていて雪解け水が音を立てて流れている。地形図の破線路が1568mに続く尾根への林道になっているがWリーダーは北側に拘り、杉の木立に分け入り、すぐに渡渉して破線路のある尾根の一本北側の尾根に取り付いた。
ブナ、ミズナラの原生林の風景に酔う
杉木立で日陰になるせいか残雪はつながっていた。両側の谷は意外に深く雪解け水が流れている。滑落すると急斜面を滑って谷に落ちる。慎重な登りになる。何とか無事に1568m峰にたどり着いた。太い幹の一本だけの桧がたっている。この間も赤布を付けて下山の目印を怠らない。
1568mから桑崎山につながる等高線の緩やかな尾根はブナ、ミズナラなどの原生林が広がった。夢のような源流地帯である。金木戸川の支流の深洞の源流は物差しで10㎝縮尺2㎝で300mなので約1.5mは緩斜面のブナの疎林の源流地帯が広がっているはずだ。また来る機会が得られるだろうかと後ろ髪惹かれる思いで尾根をたどった。
地形図では細い尾根に見えるが残雪のせいか自在に登って行ける。尾根の端緒には雪面に大きな熊の足跡がくっきり残っていた。途中若干痩せ尾根になるが雪のお陰でスムーズに登れる。山頂直下の尾根の広がった辺りではキックステップで斜登高を楽しみながら登った。辿り着いた平坦な山頂は疎林の広がる高原風だった。
9時50分、GPSで三角点付近に到達を確認したが山頂標らしい目印は皆無だった。先行していた人が南東の尾根の広いところへ行って展望が良いと叫んでいる。皆もそこへ行った。
無風快晴の飛騨の展望を楽しむ
弥、すごい景色が広がった。遠望することの多い北アルプスの名峰群がここからは指呼の間に見える。
約10kmの至近距離にあって、かぶさるような黒部五郎岳はやや丸みのある三角錐。スレンダーな三角錐は笠ヶ岳で、約10kmの至近距離にある。何枚もシャッターを押してしまった。それだけではない。
槍ヶ岳が真っ黒な三角錐で存在感を押し出している。たおやかな乗鞍岳、チャオスキー場が傷跡に見えた御嶽山、黒っぽく見える恵那山のドーム、西には白山がほほ笑む。
あれは金剛堂山かと目を凝らす。地形図に物差しを当てると約27㎝、2.5㎝で3kmなのでちょうど30kmの距離にある。
山頂滞在が久々に長居になった。それだけ楽しんだ。初めての残雪の桑崎山を堪能できた女性メンバーも大いに喜んだことは言うまでもない。出発前にはっさくの皮を剥いて実だけをパックにしておいたおやつを提供したら喜んで摘まんでもらった。春山は意外に喉が渇くから酸味がある柑橘系のフルーツの果汁が嬉しい。2個分のはっさくがあっというまに平らげた。
さて、まだ11時20分である。山頂への名残り惜しい気持ちを抑えてそろそろ下山となった。Wリーダーが付けた赤布が寸分の迷いもなく下山ルートをたどれる。GPS利用以前の間違いのない山の歩き方である。
桑崎山の山頂直下はしばらくは残雪の上を自在に下れるが尾根は次第に痩せてくるので自然と急にもなる。そしてあのゆるやかな源流地帯へと下る。
1568mへ登り返すといくつかある尾根のうち赤布を付けた尾根へと導かれる。途中でアイゼンを外す。待っている間に風に乗って獣の臭いがただよう。近くに熊でもいるのか、と。
残雪が段々少なくなって笹や枝をつかみながら下る。小さな渡渉を終えると林道に出た。フキノトウを摘みながら下山した。14時18分に登山口に到着。オーナーは留守だったが宿で入浴もさせてもらった。宿ではゆったり休んだ。20時無事に帰名。
キックステップで残雪の尾根の登攀を楽しむ
ザックを整えて5時36分に出発。計画ではアイゼン、ピッケル必携だったが、自己判断でスリーシーズンの登山靴とスパッツとストックにした。残雪期でも凍結はある。むしろ日中の気温で溶けた表面がクラストするので凍結しやすい。それでも重たい重登山靴にアイゼンはやや装備過剰かと思った。キックステップで身軽に登りたい。
林道をしばらくは土が出ていたが最初のカーブから残雪におおわれていた。雪が解けたところにはフキノトウが沢山でていた。早くも下山時には採取する話をしていた。雪面は風の当たるところはクラストして沈まないが日当たりのいい所では多少沈んだ。1400m地点で長い林道歩きも終わった。
地形図のヘアピンカーブで他のメンバーはやおらアイゼンを装着した。ヘアピンカーブは小沢になっていて雪解け水が音を立てて流れている。地形図の破線路が1568mに続く尾根への林道になっているがWリーダーは北側に拘り、杉の木立に分け入り、すぐに渡渉して破線路のある尾根の一本北側の尾根に取り付いた。
ブナ、ミズナラの原生林の風景に酔う
杉木立で日陰になるせいか残雪はつながっていた。両側の谷は意外に深く雪解け水が流れている。滑落すると急斜面を滑って谷に落ちる。慎重な登りになる。何とか無事に1568m峰にたどり着いた。太い幹の一本だけの桧がたっている。この間も赤布を付けて下山の目印を怠らない。
1568mから桑崎山につながる等高線の緩やかな尾根はブナ、ミズナラなどの原生林が広がった。夢のような源流地帯である。金木戸川の支流の深洞の源流は物差しで10㎝縮尺2㎝で300mなので約1.5mは緩斜面のブナの疎林の源流地帯が広がっているはずだ。また来る機会が得られるだろうかと後ろ髪惹かれる思いで尾根をたどった。
地形図では細い尾根に見えるが残雪のせいか自在に登って行ける。尾根の端緒には雪面に大きな熊の足跡がくっきり残っていた。途中若干痩せ尾根になるが雪のお陰でスムーズに登れる。山頂直下の尾根の広がった辺りではキックステップで斜登高を楽しみながら登った。辿り着いた平坦な山頂は疎林の広がる高原風だった。
9時50分、GPSで三角点付近に到達を確認したが山頂標らしい目印は皆無だった。先行していた人が南東の尾根の広いところへ行って展望が良いと叫んでいる。皆もそこへ行った。
無風快晴の飛騨の展望を楽しむ
弥、すごい景色が広がった。遠望することの多い北アルプスの名峰群がここからは指呼の間に見える。
約10kmの至近距離にあって、かぶさるような黒部五郎岳はやや丸みのある三角錐。スレンダーな三角錐は笠ヶ岳で、約10kmの至近距離にある。何枚もシャッターを押してしまった。それだけではない。
槍ヶ岳が真っ黒な三角錐で存在感を押し出している。たおやかな乗鞍岳、チャオスキー場が傷跡に見えた御嶽山、黒っぽく見える恵那山のドーム、西には白山がほほ笑む。
あれは金剛堂山かと目を凝らす。地形図に物差しを当てると約27㎝、2.5㎝で3kmなのでちょうど30kmの距離にある。
山頂滞在が久々に長居になった。それだけ楽しんだ。初めての残雪の桑崎山を堪能できた女性メンバーも大いに喜んだことは言うまでもない。出発前にはっさくの皮を剥いて実だけをパックにしておいたおやつを提供したら喜んで摘まんでもらった。春山は意外に喉が渇くから酸味がある柑橘系のフルーツの果汁が嬉しい。2個分のはっさくがあっというまに平らげた。
さて、まだ11時20分である。山頂への名残り惜しい気持ちを抑えてそろそろ下山となった。Wリーダーが付けた赤布が寸分の迷いもなく下山ルートをたどれる。GPS利用以前の間違いのない山の歩き方である。
桑崎山の山頂直下はしばらくは残雪の上を自在に下れるが尾根は次第に痩せてくるので自然と急にもなる。そしてあのゆるやかな源流地帯へと下る。
1568mへ登り返すといくつかある尾根のうち赤布を付けた尾根へと導かれる。途中でアイゼンを外す。待っている間に風に乗って獣の臭いがただよう。近くに熊でもいるのか、と。
残雪が段々少なくなって笹や枝をつかみながら下る。小さな渡渉を終えると林道に出た。フキノトウを摘みながら下山した。14時18分に登山口に到着。オーナーは留守だったが宿で入浴もさせてもらった。宿ではゆったり休んだ。20時無事に帰名。
残雪の北尾根から桑崎山に登る① ― 2023年04月01日
岐阜県飛騨市の北にある漆山岳の予定だった。残雪の山歩きがねらいだったが雪不足で急遽、桑崎山に変更された。未踏の山に行きたいのは山々であるが、宿を「猟師の家」にとることと知って既登の桑崎山の計画に乗った。
4/1は午後3時に集まって「猟師の家」に泊まった。この宿は2020年2月9日に大鼠山にスキーで登った際に大雪で1500m地点で引き返した。この時後から追いついて来た地元のグループと交代でラッセルしながら道々山の話をしたときに進められて知った。
それをWリーダーが覚えていてこの際に宿泊を申し込み、続いて桑崎山の残雪の状況も聞きだした。標高1400m地点から1568mの独標に登り北尾根をたどれば残雪の山歩きができるということだった。
東海北陸道から高山IC、そしてR41も相当な交通量だった。そこで大坂峠に迂回し山岳路から神岡町に下った。R471に出て山之村への伊西トンネルを抜ける道に入った。そこからも大変な山岳路を経てやっと「猟師の家」にたどり着いた。Fさんは先着していた。
夕食は別の店で経営するジビエの焼肉がウリだった。山之村産のハム、ソーセージ、野菜が出された後、盛り沢山の猪の焼肉を食べた。生ビールを片手に夢中で食べた。メンバー5人分の食材はあっという間に平らげた。熊の胆をお茶で溶いたものを出された。一口だが口中に広がる苦みが凄い。なるほど胃の薬になりそうだ。アケボノソウ、せんぶり、竜胆も苦みが健胃薬とされる。
ネットには「熊の胆は何に効きますか?
鎮痛、健胃、強心、消炎、胆汁分泌促進などに用いる。 富山の猟師の間では、二日酔い、解熱、目薬、歯痛、胃痛など、万病に効くと伝えられました。 ちなみにほかの動物の胆に比べて、クマノイの効果はめざましく優れているとのこと。」
新潟県の民宿では熊肉の鍋、福井県の鉱泉では熊のルイベのような刺身を食べたことがある。
今回は熊の胆を味わった。人生の苦渋に耐え忍んで生きる力を与えられた。ちょっとオーバーですが。
2020.02.09
https://koyaban.asablo.jp/blog/2020/02/09/
2020.03.22
https://koyaban.asablo.jp/blog/2020/03/22/9227457
4/1は午後3時に集まって「猟師の家」に泊まった。この宿は2020年2月9日に大鼠山にスキーで登った際に大雪で1500m地点で引き返した。この時後から追いついて来た地元のグループと交代でラッセルしながら道々山の話をしたときに進められて知った。
それをWリーダーが覚えていてこの際に宿泊を申し込み、続いて桑崎山の残雪の状況も聞きだした。標高1400m地点から1568mの独標に登り北尾根をたどれば残雪の山歩きができるということだった。
東海北陸道から高山IC、そしてR41も相当な交通量だった。そこで大坂峠に迂回し山岳路から神岡町に下った。R471に出て山之村への伊西トンネルを抜ける道に入った。そこからも大変な山岳路を経てやっと「猟師の家」にたどり着いた。Fさんは先着していた。
夕食は別の店で経営するジビエの焼肉がウリだった。山之村産のハム、ソーセージ、野菜が出された後、盛り沢山の猪の焼肉を食べた。生ビールを片手に夢中で食べた。メンバー5人分の食材はあっという間に平らげた。熊の胆をお茶で溶いたものを出された。一口だが口中に広がる苦みが凄い。なるほど胃の薬になりそうだ。アケボノソウ、せんぶり、竜胆も苦みが健胃薬とされる。
ネットには「熊の胆は何に効きますか?
鎮痛、健胃、強心、消炎、胆汁分泌促進などに用いる。 富山の猟師の間では、二日酔い、解熱、目薬、歯痛、胃痛など、万病に効くと伝えられました。 ちなみにほかの動物の胆に比べて、クマノイの効果はめざましく優れているとのこと。」
新潟県の民宿では熊肉の鍋、福井県の鉱泉では熊のルイベのような刺身を食べたことがある。
今回は熊の胆を味わった。人生の苦渋に耐え忍んで生きる力を与えられた。ちょっとオーバーですが。
2020.02.09
https://koyaban.asablo.jp/blog/2020/02/09/
2020.03.22
https://koyaban.asablo.jp/blog/2020/03/22/9227457
飛騨・美濃の里山三座を歩く ― 2023年03月19日
今日は1日で三座を歩く予定なので朝5時30分に出発。もたついているうちに5時50分になった。外に出ると外気温が低い。冷えるかも知れないな。またとない好天になる。
関市の岳山へ
名古屋からはR41を走って上麻生で左折。七宗町役場のある狭い街道筋を走る。ここは昔は飛騨西街道といった。今は下呂、金山につながる県道である。狭い峡谷から広い谷間の神渕に来たら左折して関市方面へ行く。平成こぶし街道というらしい。奥田の地名に注意しながら走ると均整の取れた岳山がちらっと見えた。ここで右折し奥田川に沿う細い道を行くと二股に道標があった。一軒の家に導かれるが家人に聞くと「4ダブか」と聞く。道は悪いがまだ奥に行ける。未舗装になると確かに悪路であるが駐車場はすぐだった。
岳山を歩く
親切な道標は細かく導いてくれる。Pから新しい林道を歩くとまもなく登山口だった。植林内の山路を行くと沢を渡り尾根道になる。ここからが急登に次ぐ急登だった。低灌木の中に松の大木が残っている。昔はまったけが採れたのだろう。530m付近から傾斜がゆるくなってもしばらくは平坦な道を行く。腰を下ろしたいのを我慢して行くと頂上だった。約40分。日章旗があった。祠もあるので信仰の山である。2等三角点は祠の後ろにあった。展望は南に開けている。
東へ踏み跡が続いているので行くとここは御嶽山の遥拝所と思われた。方角的には北東に聳える。右側の前衛山脈は裏木曽の小秀山だろう。左には不完全ながら乗鞍岳も白い山容が見えた。右には黒っぽい恵那山がドーム形の特長ある山容を見せている。遥拝所から続く踏み跡は上八日市に下るそうだ。(家人の話)
下山後、帰りがけに奥の家の主婦と山の話をしてもらった。晴れたら名古屋の巨大ビル群が見えるよ、と自宅から写真を持ってきて教えてくれた。今日も好天だが名古屋はもう霞で見えなかった。再び神渕に戻り左折、高岡山に向かった。
高岡山を歩く
平成こぶし街道と謳うだけありコブシが一部咲き始めていた。昔は難所だったという袋坂峠はトンネルで抜ける。袋坂の小村を見送り、菅田笹洞へ左折した。笹洞白山神社を経て、左へ左へと行く。廃屋が2軒ある。三差路のスペースに車を停めた。
林道は走れないことも無いがUターンの見極めが難しいので歩いた。林道は終点近くで山抜けにより崩壊していた。押し出された土砂を慎重に横切り、尾根に突き当たる。ここからは微かな踏み跡やヤブの少ない歩きやすい所を選んで適当に登った。588.8mの4等三角点大地ヶ洞を確認。やや緩斜面の雑木林の広がるところだった。山頂へと歩みを進めるが山頂標は朽ちたものがあった。そこを山頂とした。
最高点と三角点が一体でないと締まりが悪いものだ。最高点一帯は雑木の密林で休む気分にはなれず三角点まで下って小休止した。
下山も適当にヤブを避けながら下った。林道の終点の手前に新しい崩壊箇所がありそこからの御嶽山の眺め絶品だった。
撮影後また下って終点に下りた。後は林道を歩いて車に戻った。笹洞白山神社に参拝した。
結局高岡山は標高も低く、山頂からの展望もなく、登山道も整備されないために登山者には愛されない山だった。信仰の歴史もない。不遇な存在と知った。
県道58号線に戻り次は御前ヶ岳に向かった。貝洞という最奥の村を目指す。
御前ヶ岳を歩く
御前ヶ岳というからには御嶽山の御前であろうか。この山は山頂直下まで車道が通じていたのでマイカーで登った。貝洞で住民に林道の状態を問うと獣除けのゲートの開け閉めを注意された。林道に入ってすぐにゲートがあった。道路は特に四駆でなくとも走れるくらい路面状態は良かった。落石、枯れ枝等の障害もなく頂上直下まで来れた。駐車場から三角点(桐洞)までは往復10分だった。山頂には石仏が並んでおりかつては信仰の山だった。当然御嶽山の方向を向いていたから御嶽信仰だろうか。
下ってゆく途中伐採跡にも寄ったが樹林越しに乗鞍岳が良く見えた。また白山も真っ白に光っているが撮影には難があった。結局山岳悪路のドライブで終わった。
関市の岳山へ
名古屋からはR41を走って上麻生で左折。七宗町役場のある狭い街道筋を走る。ここは昔は飛騨西街道といった。今は下呂、金山につながる県道である。狭い峡谷から広い谷間の神渕に来たら左折して関市方面へ行く。平成こぶし街道というらしい。奥田の地名に注意しながら走ると均整の取れた岳山がちらっと見えた。ここで右折し奥田川に沿う細い道を行くと二股に道標があった。一軒の家に導かれるが家人に聞くと「4ダブか」と聞く。道は悪いがまだ奥に行ける。未舗装になると確かに悪路であるが駐車場はすぐだった。
岳山を歩く
親切な道標は細かく導いてくれる。Pから新しい林道を歩くとまもなく登山口だった。植林内の山路を行くと沢を渡り尾根道になる。ここからが急登に次ぐ急登だった。低灌木の中に松の大木が残っている。昔はまったけが採れたのだろう。530m付近から傾斜がゆるくなってもしばらくは平坦な道を行く。腰を下ろしたいのを我慢して行くと頂上だった。約40分。日章旗があった。祠もあるので信仰の山である。2等三角点は祠の後ろにあった。展望は南に開けている。
東へ踏み跡が続いているので行くとここは御嶽山の遥拝所と思われた。方角的には北東に聳える。右側の前衛山脈は裏木曽の小秀山だろう。左には不完全ながら乗鞍岳も白い山容が見えた。右には黒っぽい恵那山がドーム形の特長ある山容を見せている。遥拝所から続く踏み跡は上八日市に下るそうだ。(家人の話)
下山後、帰りがけに奥の家の主婦と山の話をしてもらった。晴れたら名古屋の巨大ビル群が見えるよ、と自宅から写真を持ってきて教えてくれた。今日も好天だが名古屋はもう霞で見えなかった。再び神渕に戻り左折、高岡山に向かった。
高岡山を歩く
平成こぶし街道と謳うだけありコブシが一部咲き始めていた。昔は難所だったという袋坂峠はトンネルで抜ける。袋坂の小村を見送り、菅田笹洞へ左折した。笹洞白山神社を経て、左へ左へと行く。廃屋が2軒ある。三差路のスペースに車を停めた。
林道は走れないことも無いがUターンの見極めが難しいので歩いた。林道は終点近くで山抜けにより崩壊していた。押し出された土砂を慎重に横切り、尾根に突き当たる。ここからは微かな踏み跡やヤブの少ない歩きやすい所を選んで適当に登った。588.8mの4等三角点大地ヶ洞を確認。やや緩斜面の雑木林の広がるところだった。山頂へと歩みを進めるが山頂標は朽ちたものがあった。そこを山頂とした。
最高点と三角点が一体でないと締まりが悪いものだ。最高点一帯は雑木の密林で休む気分にはなれず三角点まで下って小休止した。
下山も適当にヤブを避けながら下った。林道の終点の手前に新しい崩壊箇所がありそこからの御嶽山の眺め絶品だった。
撮影後また下って終点に下りた。後は林道を歩いて車に戻った。笹洞白山神社に参拝した。
結局高岡山は標高も低く、山頂からの展望もなく、登山道も整備されないために登山者には愛されない山だった。信仰の歴史もない。不遇な存在と知った。
県道58号線に戻り次は御前ヶ岳に向かった。貝洞という最奥の村を目指す。
御前ヶ岳を歩く
御前ヶ岳というからには御嶽山の御前であろうか。この山は山頂直下まで車道が通じていたのでマイカーで登った。貝洞で住民に林道の状態を問うと獣除けのゲートの開け閉めを注意された。林道に入ってすぐにゲートがあった。道路は特に四駆でなくとも走れるくらい路面状態は良かった。落石、枯れ枝等の障害もなく頂上直下まで来れた。駐車場から三角点(桐洞)までは往復10分だった。山頂には石仏が並んでおりかつては信仰の山だった。当然御嶽山の方向を向いていたから御嶽信仰だろうか。
下ってゆく途中伐採跡にも寄ったが樹林越しに乗鞍岳が良く見えた。また白山も真っ白に光っているが撮影には難があった。結局山岳悪路のドライブで終わった。
津保川流域のドライブ ― 2023年03月05日
深夜までスマホをいじるうちに就寝が遅くなり起床もずれた。名古屋出発は2時間遅れになった。高速を小牧東まで使ったが地道は信号待ちのロスが大きい。厚曽に着いたのは100kmほどで2時間以上かかった。それでも田舎道に入ると交通量は激減するから効率よく走れた。
津保川源流域に来るとフロントガラスに小雨が来た。やれやれ雨か。モチベーションはダダ下がりになり予定が飛んでいった。厚曽は変わらずひっそりとしていたが一台の軽があった。老人が仕事をしていた。先週来た際に空き家が多い中でもそこはガラス窓がピカピカの家だった。後で山の話を聞くと日曜日だけ子供に送迎してもらっているとか。
今日は奥まで走ってみた。R41から美濃加茂から左折して上之保の地名を追いながら走った。道の駅平成の案内が出てくればもう迷わない。下呂市厚曽まで一直線に県道63号線、県道85号をひらすら走ると放生峠を越えた。
厚曽の古老は黒岳への登山道はないと言い切った。昔は山頂にあった祠も今は地元に引っ越したという。厚曽に祀られている。だから山から遠くなるわけである。
厚曽の廃村を後に橋を渡るとトランクの置き場がある。その先は通行止めの表示があったがさらに林道の奥まで行くとまた橋を渡った。右手の谷が大きく伐採中で林道が伸びていた。古老はこの谷をどこまでも登れというのである。但し地元の精通者が案内しないと分からないだろうという。
522mの尾根に取り付くために392mまで行って見た。ここは送電鉄塔の巡視路が通っているとの期待があった。しかし中電の道標はあったが対岸には踏み跡すら見いだせなかった。結果成果は得られなかった。しかし古老はこの山域は夏になるとヤマビルが出ると教えてくれた。今が一番いい時期だ、とは言ってくれた。往路を戻った。
津保川源流域に来るとフロントガラスに小雨が来た。やれやれ雨か。モチベーションはダダ下がりになり予定が飛んでいった。厚曽は変わらずひっそりとしていたが一台の軽があった。老人が仕事をしていた。先週来た際に空き家が多い中でもそこはガラス窓がピカピカの家だった。後で山の話を聞くと日曜日だけ子供に送迎してもらっているとか。
今日は奥まで走ってみた。R41から美濃加茂から左折して上之保の地名を追いながら走った。道の駅平成の案内が出てくればもう迷わない。下呂市厚曽まで一直線に県道63号線、県道85号をひらすら走ると放生峠を越えた。
厚曽の古老は黒岳への登山道はないと言い切った。昔は山頂にあった祠も今は地元に引っ越したという。厚曽に祀られている。だから山から遠くなるわけである。
厚曽の廃村を後に橋を渡るとトランクの置き場がある。その先は通行止めの表示があったがさらに林道の奥まで行くとまた橋を渡った。右手の谷が大きく伐採中で林道が伸びていた。古老はこの谷をどこまでも登れというのである。但し地元の精通者が案内しないと分からないだろうという。
522mの尾根に取り付くために392mまで行って見た。ここは送電鉄塔の巡視路が通っているとの期待があった。しかし中電の道標はあったが対岸には踏み跡すら見いだせなかった。結果成果は得られなかった。しかし古老はこの山域は夏になるとヤマビルが出ると教えてくれた。今が一番いい時期だ、とは言ってくれた。往路を戻った。
最近のコメント