春雷を三度聞くなり飛騨の山 拙作2020年03月29日

 3/22の大鼠山スキー登山の途上、遠雷が鳴った。春は気圧が不安定な時期であり、上空5000m級の高層圏には冷たい空気が流れこみ、低空の温かい空気と触れ合って雷が起こる。「下山しろ、これから悪くなるぞ」というような嫌な音だ。雹か霰かが降ってきた。かといって引き返すわけでもなく遅々とした歩みで山頂へ向かった。

大鼠山スキー登山2020年03月22日

 3/22は飛騨市山之村の大鼠山へスキー登山を果たしました。
 2/9は1502mの地点で大雪のために撤退。今回はそのリベンジになります。3/21の午後3時30分、同行のWさんの職場から出発。名二環、名古屋高速から名神、東海北陸と使えるものはみな使って飛騨清見ICで飛騨入り。神岡町のスーパー「バロー」へ着いたら午後6時20分。バローで食材の買い物を済ますと山之村へ。神岡町の素晴らしい夜景をちらっと眼下に見て、つづら折れの県道を走り伊西トンネルを抜けると山之村に着く。
 荒涼とした風景の中を走る。それでも春は来ており、2/9には雪道走行だったが今は路上の雪はない。山はいわゆる斑雪山(はだれやま)になった。戦前のベストセラーの中河与一の小説『天の夕顔』の駅に着く。ここは天蓋山の登山口だが桑崎山や明日登る大鼠山の拠点にもなる。Pにも雪はほとんどない。軒先でビバークさせてもらう。少しばかりの酒とうどんすき焼きで体を温める。
 3/22の朝4時起き。食事、片づけて出発は6時20分になった。2/9はここからシールを張って歩いたが今日は車で1km先のスノーモービル置き場まで走り、出発。しかし、雪は林の中だけは残り、山之村牧場が見えるところでは路面の雪は解けたのでスキー板をかついで歩く。ここで7時25分経過。再び路面の雪ではスキーを履くが登山道になる林道の先でまた解けている。板を外して、また履いてを2回繰り返し、標高1300m付近からしっかり残雪の林道歩きになった。
 以前撤退した1502m地点は楽々通過出来、大鼠山の登山道のある地点まで一気に歩いた。ここに深洞湿原の道標を見た。地元の人の話では中々に良いところらしい。先行者のスキー跡があるのでそれを追うように登る。林道を離れると針葉樹、ブナ、ダケカンバ、ササ、低灌木の茂る混交林になる。登山道は雪に埋もれているが、ゆるやかな地形をたどると30分もかからず、1590mの最高点に着いた。11時2分。
 展望は北東に見えるがあいにくの曇天で山岳同定はできない。北ノ俣岳辺りが見えるとは思うが・・・。山名板があるのでここが終点かと思ったら実は三角点1584.5mはもう一つ隣のこぶだったのでまた腰をあげて歩いた。着いたものの三角点はまだ雪の下。いくらも滞在することもなく下山した。破線の登山道は1590mを迂回しているが実際には幹に赤ペンキでルートを示してある。三角点からの展望は北東だけで周囲は樹林にさえぎられる。どちらかと言えば最高点の方がよさそうだ。
 下山はわれわれが残したスキーの跡をたどるがリーダーが付けた赤布も回収する。林道に着いたがシールを外すのは1502m地点にした。途中にギャップがあるからだ。シールをはがして、滑走面の糊を溶剤で掃除してワックスを塗る。先回はこれをしなかったから滑走面に雪が付いて難儀した。滑らないスキー板は危険でさえある。それで今回は気持ちよく走ってくれた。登りは時速2km以下、下りは時速10km以上だから早い早い。あっという間に車道に出た。車道もところどころスキー板を付けたり外したりで忙しかったが楽しくリベンジ登山を終えた。
 今回の収穫は林道歩きが多かったが、1400m以上では残された山毛欅の大木に目を奪われたことだ。加えて山頂までシールを付けたまま登山できたこと。
 山頂周辺の山毛欅、針葉樹、ダケカンバなどの混交林も特筆される。日本海側の山では山毛欅の純林が多かったから意外な発見である。今回は登山に夢中で留意はしなかったが、点名は「大鼠、おおねず」からの想像であるが、ネズコ(黒部、黒檜、ネズコは幹が鼠色に由来)の大木の群生地だったのか。𣜌(木へんに鼠)とも書く。
 また今年の干支の鼠に因んだ山名の山に登れてやっと正月が祝えるねと笑った。帰路は飛騨市古川の桃源郷温泉「すぱーふる」に入湯。良い湯でした。

大鼠山は登頂ならず2020年02月09日

 朝5時に起きて湯を沸かす。昨日神岡町のバローで買ったアルミ鍋の白菜と豚肉入りうどんを食べる。お茶を飲んだりしているとすぐ時間がたつ。てきぱきとやって出発できたのは7時10分ごろか。
 クルマの天井には約30センチの積雪がある。道路もそれだけ降ったであろう。シールを付けて車道を歩く。実は入り口を行き過ぎて桑崎山の方へ行ってしまい戻る。林道奥深く歩いたところで空腹を覚えたので行動食を食べる。そこへなんと山スキーのグループがやってきた。男女3人から4人であるが1人は下山した。
 しばらくラッセルで先行していたが交代すると申し入れがありありがたく合同で林道のラッセルをした。助かったなあ。聞けば神岡町在住のバックカントリーの愛好者グループだった。この山域にも精通しているので様々な情報もいただいた。
 結局この思いがけない降雪で林道のラッセルは1502m地点で深さ50センチにもなり前途を諦めることになった。それでもここまで来れたのは貴方たちのお陰だ、と双方がたたえて別れた。我々はもう少しとラッセルしたものの下ってゆくのでやはり下山することにした。1502m地点はブナの原生林が林立しており芽吹きから青葉の頃も楽しいだろう。
 シールをはがす。林道のラッセル跡は中々滑らない。それでもなんとか車道に出て高原の駅まで下山した。
 帰路は流葉温泉に入湯して帰名する。体が冷えているせいもあってか、やや熱めのアルカリ性単純泉のいお湯だった。

厳冬の神岡町山之村へ2020年02月08日

 午後3時30分に名古屋市を出発。一宮ICから清見ICへ。奥飛騨の冬は久々に訪れる。古川町から神岡町へR41を走っても雪は見ない。今年は本当に雪が降らない。途中流葉スキー場を通過、ここも山頂部だけが営業中とかいう。神岡町に着いてバローの店で夕食や行動食などを購入する。ここは午後9時閉店と思っていたが最近は7時になった。30分ほどの時間でパッパッと買い物を済ませる。次は道の駅で冬山の服装に着替えた。コンビニではおにぎりを調達。これで神岡町の街から県道484に入り伊西トンネルまでの羊腸の山岳路を登る。上部では圧雪路になった。
 トンネルを抜けると標高900m以上の高原の山之村に着いた。家もほとんどない。一面真っ白な雪道を疾駆する。そして高原の駅「天の夕顔」に着いた。かつて天蓋山や桑崎山に登りに来た登山口である。
 ロードクリアランスが170センチの愛車もギリギリのラッセルに耐えて到着だ。今時はだれもいない。この一角でテントを設営だ。雪は一晩中降り続いた。

さへずりや二筋はしる平湯徑 前田普羅2019年04月23日

句集「飛騨紬」から
 平湯道とは乗鞍岳の山麓を上下して高山と松本を結んでいた街道である。松本からは白骨温泉を経て安房峠を越えて平湯に降りた。今のR158とは違う。この俳句では平湯側であろう。二筋はしるの意味は分岐であろうが今一分らない。
 大胆な想像をすると安房峠への道と十石山(峠ともいう)を経て白骨温泉へ下った道の分岐ではないか。今は平湯温泉から平湯尾根を経て権現社に至り、右折すれば乗鞍岳への登山道にもなっている。この分岐ともいえる。
 安房峠も現在の位置ではなく安房山と十石山の鞍部を越えていたらしい。W.ウエストン『日本アルプス登山と探検』にはウエストン一行が平湯を基点に乗鞍岳登山を楽しんだり、安房峠を越えて上高地入りする紀行文がある。そして峠の標高は1920m(現在の地形図では2050m。現在の安房峠は1790m)と書き、「中部日本で一番よい眺め」と称賛している。続いて「飛騨と信州の境を示す小さな標柱の立つ峠の頂上を降りて、その東の方の支稜を廻って行くと」中略。北の方には穂高山が現れ、右の遥か下には白骨温泉が見えたのだ。東の支稜が今も整備される十石山登山道である。あれはウエストンの道だったのか。
 乗鞍岳の広大な山麓の古い街道を歩いていたら分れ道になった。行ける所までは歩いてみるか。森林限界は2300m付近なので深い森を彷徨いながら歩いた。よく晴れた日の春の朝早く、梢では盛んに小鳥の囀りが聞こえる。もう一句「紺青の乗鞍の上に囀れり」の方がよく採り上げられるが平湯を入れることで飛騨の地貌への執着が見える。
 普羅はアルペンシュトック(ピッケルの原形で柄の長い杖)や輸入された登山靴も所有していたから雪道も登る心得と登山技術はあった。だから晩春の乗鞍岳登山の俳句と解してもいい。
 ちなみに『日本アルプス登山と探検』の翻訳は昭和8年であり、普羅も手に入れた可能性はある。但し、明治18年生まれの普羅はすでに40歳になるので現実的ではない。小島烏水の『山水無尽蔵』は明治39年刊行なので普羅21歳となり、読んだ可能性が高い。この本は槍ヶ岳探検記が主だけど浅間山、乗鞍岳、飛騨紀行もあり普羅に与えた影響は大きいだろう。

烏帽子岳スキー登山はヤブで撤退2019年02月05日

 2/5の朝、未明の6時過ぎに出発。しかし、予想以上にクルマが多い。そうか、今日は平日なんだ、多分通勤の車である。高速道路が普通に通勤に利用されている。名二環の松川を過ぎてようやく東の空から日が昇った。一宮JCTを経て東海北陸へ。まだクルマは多い。
 郡上八幡ICを出てまた渋滞、トンネルを出て左折したが、道間違いと遅れた。本当は2つ目のトンネルだ。通いなれたはずの奥美濃ではあったがもう記憶から遠くなった。途中でリーダーのYさんに遅刻の連絡。スキー場に向うのに雪がほとんどない。やれるのかな。
 10分遅れでめいほうスキー場に着いた。すぐに着替えて、結局出発は30分遅れてしまった。リフト2本を乗りついで頂上へ。スキー場トップは幸い雪晴れの好天である。御嶽、中ア、乗鞍、北ア、白山、三方崩山、ほぼ360度雪山で囲まれる。
 シールを貼っているとスキー場の係りの人が近寄って来た。登山届を出せ、という。岐阜県警には届けてあるとYリーダー。計画書のコピーを渡して届けた。オフピステ否スキー場外滑走禁止の立て札はないが、どこのスキー場でも粉雪を求めるスキーヤーの事故が多く、苦慮されているのだろう。
 男性はYリーダー、IS、KI、IT、私の5人。最年少、紅一点のSさんが山スキ―に染まっていたとは知らなかった。計6人で笹やぶの隙間をぬう林間を歩き始める。周囲は細幹の岳樺や大き目のブナなどが生い茂る高原である。緩斜面を行き、オサンババにつながるポイントから別れると大きく下降する。最初の鞍部に到達する。またゆるやかに1553mのコブに登り、下降する。2つ目の鞍部までは笹やぶの密度が濃くなり難渋する。鞍部でYリーダーが口火を切って鳩首協議する。4等三角点「床辺山」へはもっとブッシュが濃くなり、雪もはげている感じに見えた。烏帽子岳ははるかなる高みに見える。結果、全行程の5分の1も消化しないで撤退を決めた。天気は良いのだが。
 ふたたび笹やぶを分けて登り返す。スキー場トップ(4等三角点で点名は山中峠)へはゆるやかな登りである。つまりはじめて登った。トップに戻ってシールを剥がし、ゲレンデを滑降。雪質は硬く、アイスバーンの状態であった。多分、暖かいから雪も解けるので、夜間はスノーマシンで雪を確保しているのだろう。
 センターに戻り、Pへ。帰路は久々に名宝温泉に入湯した。R472,R156を美濃ICまで走り高速に入る。大した渋滞も無く帰宅。土日と違い、絶望的な渋滞はないのでスキーは平日が良い。但し、高速料金の割引がない。
 帰宅後は庫内で解凍のラム肉をジンギスカン鍋で焼いての焼き肉で空腹を満たす。山中ではパン2個をかじっただけであった。行動中はのんびりと食べて居れず、また腹筋がしまるせいか、空腹を感じにくいので飲み物だけになった。

春尽きて乗鞍の山懐に 拙作2018年05月02日

枯松平休憩所(避難小屋)
 標高1635mに建つ枯松平休憩所の避難小屋でビバーク。春満月の夜で明るい。厳冬期のような凍えるような寒さもなし。朝一番で小鳥が啼き始める。
 話をしているといつの間にかコガラが寄ってくる。始めは高い枝を遠巻きに枝から枝を飛んでいながら慣れると段々我々に近づいてくる。好奇心の強い小鳥である。
 奥飛騨の標高1500m超の高原の一角で雪山の景色を楽しみつつ、また急速に去ってゆく春の山に起居する。本当はまだ芽吹き始めたばかりの早春のよそおいなのに。
 山麓の村では桜が咲き、ボタンザクラなども盛りであった。水芭蕉は少し朽ちかけていた。山村の春は花が恋しく美しい。神社では祭の子らが練り歩く。農事に忙しい初夏の到来を告げているかのように。

春の丸黒山と日影平山2018年05月01日

4/29 飛騨清見の道の駅で仮泊後、県道462を走って乗鞍青少年交流の家に行く。7時45分に出発。交流の家のスタッフに登山口を教えてもらう。しばらくは林道のような遊歩道を歩く。終点は日影峠になっている。ここから右はカブト山へ、左は日影平山へ道が分かれる。
 丸黒山へは二筋に分かれるが右の道をたどった。一旦は急降下してゆくが、すぐに1559mへ登り返す。乗り越すと1570mの平らなブナヶ平に着く。ここで地元の人らしい人と会った。丸黒山では1人行方不明があったと教えてくれた。これは手前に左に巻き道もあって回避できる。眺めのいいところがある。そのまま下るとブナヶ平と合流する。またしばらくで二筋に分かれる。右は旧道である。左は新道で1694mの枯松山を経由して、枯松平休憩所に下る。現在は文字通り喬木となった唐松の疎林である。
 旧道は枯松山の山腹を巻きながら休憩所へ行ける。この道は近道であり、アップダウンもない歩きやすい道である。水場も2箇所確認した。途中のほとんど平らなところに鉄の支柱が倒れていた。これは鉄条網の支柱と見られ、かつては牧場であった名残である。
 『飛騨百山』の執筆者は「放牧された牛が、われわれを見ると寄ってきた」と書く。彼等がテント場にした枯松平には立派な休憩所が建っている。
 一休みしてから一旦ゆるく下る。平坦な唐松林を歩く。最初の急登はガンバル坂という。がんばると階段の踊り場のような白山展望台に着く。真っ白な白山が見える。道標にもあるし、地形図にある青屋への破線路は笹薮に埋もれていた。すぐに根性坂に差し掛かる。ここをしのぐと雪が出てきた。1926mの主三角点に着いた。少し先で12時を回り、相談の結果、計画を進めて奥千町ヶ原避難小屋に行けても明日に無理がかかると判断して前途を中止。スキーやザックをデポして水だけ持って山頂を往復することとした。
 丸黒山で12時半過ぎになった。撤退をしたものの丸黒山からは乗鞍岳、笠ヶ岳、槍穂高連峰などの大展望に癒されました。御嶽、恵那山は木立に遮られて少ししか見えませんでした。
 青少年交流の家の若いスタッフらが登って来たので話を聞きました。丸黒山から先は登山道の整備がないため這い松の枝が伸びて歩行が困難だろうとのことでした。丸黒山頂から滑降予定の千町尾根を眺めると余り雪が残っていませんでした。スタッフも丸黒山にこんなに雪がないのは珍しいとのことでした。登山口の別のスタッフの話では先週は1mくらいあったそうです。今日は斜面に20センチ程度残っていました。雨とかで急速に融雪が進んだようです。千町尾根は熊が棲息しているそうです。
 当初の計画段階では記録の多い岩井谷を検討しましたが雪解けが早く、雪の塊の崩壊などを恐れて尾根にしたのですが、岩井谷の無雪期は入山禁止になっているそうです。
 丸黒山を下山後は枯松平休憩所の避難小屋で一泊しました。ログキャビン風のきれいな小屋で上質な毛布の備えもあって快適でした。水場は近くに沢水があります。
4/30 避難小屋を出てWさん未踏の日影平山(ぎふ百山)に寄って下山。県道を車で走る途中でも白山、笠ヶ岳、槍穂高連峰などの一級の山岳景観を楽しみました。
 帰りは美女峠の水芭蕉を散策。帰路に見座というところの金峰神社の祭礼の行列に出会いました。R41で帰名する途中、下呂温泉で一風呂浴びて行きました。

恵贈!安藤忠夫著『底本 笈ヶ岳を行く』2015年09月07日

 9/6に山から帰宅すると、郵便受けに分厚い本が投函されていた。開封すると表記の本だった。
 著者の安藤氏は県立春日井工業高校の教員を長く勤められた。私家版だが、自製でもある。自分で製本を趣味としてやっている。近頃珍しい箱入りの布張りの美本に仕上げてある。日本山岳会、日本山書の会を通じても、山書の収集家は居るが製本にまで乗り出すような人は居るまい。
 笈ヶ岳は飛騨・越中・加賀の三国境に位置する1840m級の低い山に過ぎない。隣の一等三角点の大笠山の方が山容でも立派に見えるのになぜか、登山者の熱い視線を浴びてきた山だ。それは深田久弥の『日本百名』のあとがきの40座の中の1座に入ったからであろう。登っておれば日本百名山の1つに入れたほどの名山というわけだ。
 安藤氏は笈ヶ岳に1986年5月11日が初登であった。以来、2004年までの19年間にわたって研究的に各尾根ルートをトレースしてきた。その度に記録を残した。もちろん文献収集と研究は安藤氏の本来の志向である。本書はその集成である。
 山は数多あるのになぜこんなにも打込んだのか。名山なのに登山道や避難小屋もないことで、未知の探求心を満足させてくれたのである。元々、安藤氏は冬の北アルプスの単独登攀をエリアにしてきたが、何分、北アは困難であるが登山者が多い。情報も過多でもある。だから北アルプスに登る力がないから1000mも低い笈ヶ岳で代償として登山しているわけじゃないのだ。

 安藤先生との本を介した交友は長きに亘る。『名古屋からの山なみ』、『名古屋周辺山旅徹底ガイド』の正続では編集者になり、私も委員としてお手伝いした。平成7年に拙書『ひと味違う名古屋からの山旅』を共著で企画した際、安藤氏も高峰山、銚子ヶ峰、今淵ヶ岳、鑓ヶ先、横山岳、続編では、虎子山、権現山、平成山(へなりやま)などを引き受けていただいた。本書を読んだ友人等に感想を聞くと安藤先生の文が一番人気だった。登ること、書く事、製本すること。今西錦司、深田久弥、串田孫一ら先達もびっくりの山道楽を極められたのだ。
 こんなに優れた本なのに一般刊行されないのが惜しい。一山だけに絞ったいわゆる笈ヶ岳オタクにしか需要がないから商業ベースには乗らないのだろう。登ったらもう終わりで、次の山へと心変わりしてゆくのが一般的登山者というもの。
 『日本百名山』朝日文庫版の解説者として今西錦司が良い山だと知っても、秘すべきが山と私の約束だ、という登山家もいる。先輩の故・上田正さんは、知られざる良い山を本で紹介するのは手塩にかけて育てた娘を嫁にやる心境だとも表現した。山屋とはかくも複雑な心情である。すると安藤氏も箱入り娘を嫁に出す父親といったところか。大切にしたい。

http://koyaban.asablo.jp/blog/2011/09/05/6089703

http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/10/01/6589916

http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/10/15/7009823

奥飛騨・天蓋山を歩く~文学山歩2015年05月01日

~不二樹浩三郎在住之地碑~
不二樹浩三郎は明治三十年二月十八日、
実業家 不二樹熊次郎の三男として大阪に生れ、
同志社大学を卒業した。
柔道を好む一方で、茶道や華道にも通じていた。
大学時代に知った「あの人」への思慕は、
時を経ても忘れられず、自己を高める為、
昭和九年晩秋、ここ山野村を訪れ、
以後西邦本等が新造した小屋で、二回の厳冬を過した。
数奇な運命、二十年にわたる恋愛譚を、
後に作家、中川与一に口述したことが、
昭和十三年発表の小説「天の夕顔」の誕生のきっかけとなった。
不二樹は後に自らも小説「冷たき地上」を書いたが、
平成二年四月十四日、神奈川県で、その浪漫に満ちた生涯を閉じた。
享年九十三歳。
以上
 地元の関係者の尽力で建立。モデルとしても存在感を示したい意思が強かった。それが実現して天国で満足しているかも知れない。
 美しい姉への恋、姉の結婚で、下宿屋の娘に恋するのは姉と同じ美人だったから。やがて娘も結婚し人妻になってしまう。葬儀での出会いをきっかけに20年にわたる悲恋になったのは事実だった。中河与一は姉のことは省略して人妻だけに単純化したことが大きい。
 それでも、彼の口述筆記の通りだったと主張し、印税の分け前を要求した。名作『天の夕顔』はベストセラーになったが故の作品のモデルと作家の確執になった。

 本作を何度も読み返し、研究書なども読んでみたが、私は作家中河与一の流麗な淀みなく滑るような文体と文学的な修辞の巧さに尽きると思う。編集されないままだったら作品ではない。あの柳田國男の『遠野物語』も別人の下書きがあったが、簡潔な文語文体にすることで昔話が文学になった。但し、原作があると、ことわりを入れている。

 第5章からの岐阜県神岡町の山之村での冬篭りの場面、薬師岳登山の物語は口述どおりにするほかなかったようだ。中河与一は日本山岳会会員だが、入会は57歳で、戦前は病弱な文学の徒だったという。
 P65からP95まではこの作品の圧巻ではないか。第4章までは求愛しても拒絶される、の繰り返しであることがもどかしい。そりゃそうだろう、人妻ゆえに生活を破壊するわけにはいかない。7つ違いというのも躊躇うだろう。

 P65の名文は原文通りなのか、中河の創作なのか。
 
 いっそ天に近いところに行って自分の悲しい生命を終わったほうがいい。

 天に近い清浄の雪の中に、自分の身と心を置いて、自分は自分の思いを高めよう。

 この名文は昭和24年発表の井上靖の作品『通夜の客』にも影響を与えたかも知れない。処女詩集『北国』には「そこは山奥というより、天に近いといった感じの部落で・・・」とある。

 詩の一節を『通夜の客』に取り込み、P198には
 「天に近い天体の植民地のような村の、悲しみも喜びもみんな揮発してゆくような虚しさは・・・」

 剽窃とまでは言えないが、偶然でもないだろう。

 モデルの不二樹浩三郎は登山が好きだったようだ。ただ富裕層なので案内人を雇ったり、小屋を作らせたりしている。作品には生活臭が一切ないのでそのためか。