恵贈!安藤忠夫著『底本 笈ヶ岳を行く』2015年09月07日

 9/6に山から帰宅すると、郵便受けに分厚い本が投函されていた。開封すると表記の本だった。
 著者の安藤氏は県立春日井工業高校の教員を長く勤められた。私家版だが、自製でもある。自分で製本を趣味としてやっている。近頃珍しい箱入りの布張りの美本に仕上げてある。日本山岳会、日本山書の会を通じても、山書の収集家は居るが製本にまで乗り出すような人は居るまい。
 笈ヶ岳は飛騨・越中・加賀の三国境に位置する1840m級の低い山に過ぎない。隣の一等三角点の大笠山の方が山容でも立派に見えるのになぜか、登山者の熱い視線を浴びてきた山だ。それは深田久弥の『日本百名』のあとがきの40座の中の1座に入ったからであろう。登っておれば日本百名山の1つに入れたほどの名山というわけだ。
 安藤氏は笈ヶ岳に1986年5月11日が初登であった。以来、2004年までの19年間にわたって研究的に各尾根ルートをトレースしてきた。その度に記録を残した。もちろん文献収集と研究は安藤氏の本来の志向である。本書はその集成である。
 山は数多あるのになぜこんなにも打込んだのか。名山なのに登山道や避難小屋もないことで、未知の探求心を満足させてくれたのである。元々、安藤氏は冬の北アルプスの単独登攀をエリアにしてきたが、何分、北アは困難であるが登山者が多い。情報も過多でもある。だから北アルプスに登る力がないから1000mも低い笈ヶ岳で代償として登山しているわけじゃないのだ。

 安藤先生との本を介した交友は長きに亘る。『名古屋からの山なみ』、『名古屋周辺山旅徹底ガイド』の正続では編集者になり、私も委員としてお手伝いした。平成7年に拙書『ひと味違う名古屋からの山旅』を共著で企画した際、安藤氏も高峰山、銚子ヶ峰、今淵ヶ岳、鑓ヶ先、横山岳、続編では、虎子山、権現山、平成山(へなりやま)などを引き受けていただいた。本書を読んだ友人等に感想を聞くと安藤先生の文が一番人気だった。登ること、書く事、製本すること。今西錦司、深田久弥、串田孫一ら先達もびっくりの山道楽を極められたのだ。
 こんなに優れた本なのに一般刊行されないのが惜しい。一山だけに絞ったいわゆる笈ヶ岳オタクにしか需要がないから商業ベースには乗らないのだろう。登ったらもう終わりで、次の山へと心変わりしてゆくのが一般的登山者というもの。
 『日本百名山』朝日文庫版の解説者として今西錦司が良い山だと知っても、秘すべきが山と私の約束だ、という登山家もいる。先輩の故・上田正さんは、知られざる良い山を本で紹介するのは手塩にかけて育てた娘を嫁にやる心境だとも表現した。山屋とはかくも複雑な心情である。すると安藤氏も箱入り娘を嫁に出す父親といったところか。大切にしたい。

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奥飛騨・天蓋山を歩く~文学山歩2015年05月01日

~不二樹浩三郎在住之地碑~
不二樹浩三郎は明治三十年二月十八日、
実業家 不二樹熊次郎の三男として大阪に生れ、
同志社大学を卒業した。
柔道を好む一方で、茶道や華道にも通じていた。
大学時代に知った「あの人」への思慕は、
時を経ても忘れられず、自己を高める為、
昭和九年晩秋、ここ山野村を訪れ、
以後西邦本等が新造した小屋で、二回の厳冬を過した。
数奇な運命、二十年にわたる恋愛譚を、
後に作家、中川与一に口述したことが、
昭和十三年発表の小説「天の夕顔」の誕生のきっかけとなった。
不二樹は後に自らも小説「冷たき地上」を書いたが、
平成二年四月十四日、神奈川県で、その浪漫に満ちた生涯を閉じた。
享年九十三歳。
以上
 地元の関係者の尽力で建立。モデルとしても存在感を示したい意思が強かった。それが実現して天国で満足しているかも知れない。
 美しい姉への恋、姉の結婚で、下宿屋の娘に恋するのは姉と同じ美人だったから。やがて娘も結婚し人妻になってしまう。葬儀での出会いをきっかけに20年にわたる悲恋になったのは事実だった。中河与一は姉のことは省略して人妻だけに単純化したことが大きい。
 それでも、彼の口述筆記の通りだったと主張し、印税の分け前を要求した。名作『天の夕顔』はベストセラーになったが故の作品のモデルと作家の確執になった。

 本作を何度も読み返し、研究書なども読んでみたが、私は作家中河与一の流麗な淀みなく滑るような文体と文学的な修辞の巧さに尽きると思う。編集されないままだったら作品ではない。あの柳田國男の『遠野物語』も別人の下書きがあったが、簡潔な文語文体にすることで昔話が文学になった。但し、原作があると、ことわりを入れている。

 第5章からの岐阜県神岡町の山之村での冬篭りの場面、薬師岳登山の物語は口述どおりにするほかなかったようだ。中河与一は日本山岳会会員だが、入会は57歳で、戦前は病弱な文学の徒だったという。
 P65からP95まではこの作品の圧巻ではないか。第4章までは求愛しても拒絶される、の繰り返しであることがもどかしい。そりゃそうだろう、人妻ゆえに生活を破壊するわけにはいかない。7つ違いというのも躊躇うだろう。

 P65の名文は原文通りなのか、中河の創作なのか。
 
 いっそ天に近いところに行って自分の悲しい生命を終わったほうがいい。

 天に近い清浄の雪の中に、自分の身と心を置いて、自分は自分の思いを高めよう。

 この名文は昭和24年発表の井上靖の作品『通夜の客』にも影響を与えたかも知れない。処女詩集『北国』には「そこは山奥というより、天に近いといった感じの部落で・・・」とある。

 詩の一節を『通夜の客』に取り込み、P198には
 「天に近い天体の植民地のような村の、悲しみも喜びもみんな揮発してゆくような虚しさは・・・」

 剽窃とまでは言えないが、偶然でもないだろう。

 モデルの不二樹浩三郎は登山が好きだったようだ。ただ富裕層なので案内人を雇ったり、小屋を作らせたりしている。作品には生活臭が一切ないのでそのためか。

奥飛騨・天蓋山を歩く2015年05月01日

 朝3時、自宅を出発。東海・北陸道から中部縦貫道の高山ICへ。古川から羊腸の大坂峠への県道76号を走る。すると、見座に着き、R471に合流。高原川と金木戸川の落ち合う所から山之村へ行く山吹峠にすぐつながる道に入れる。登山口のある「夕顔の駅」に着いたのは7時半。7時50分に出発。天気は上々でピッチも早まる。
 バンガロー村を終点まで行くと登山標識があり、白樺の森に入る。途端に残雪を踏む。沢沿いの道にはたっぷりの残雪があった。少しづつ高度を上げながら奥へ登る。途中で沢から離れて急な尾根を辿る。まだ葉をつけていないせいか、林内がとても明るい。残雪が増えて、解けた水が尾根道の真ん中を流れている。左右どちらかに流す「土木工事」をしながら歩く。
 急登が終わると別の尾根を乗り越して先ほどの沢の源流部へ下ってゆく。一面の雪になって道が消えた。踏み跡もなく、自然にしたがって歩く。沢の凹みを渡って傾斜の緩い源流部を回りこみながら登りきると山吹峠からの踏み跡に出た。右へ行くと1380mの雀平の標があるコブに着く。雪が付いていないので初めて小休止。ここからの眺めも秀逸で、笠ヶ岳はすぐ東に聳え、槍穂高連峰が近い。本来の道筋は、沢を登り切らずにまたいで直登するようだ。
 雀平からはまた残雪の平なところを高みに向かうが道標はないので山勘である。それでも雪の切れた地面には登山道が見えているので方向は間違っていない。急登を登りきると山頂の手前のコブに着いたが、ちょっと下ってまた登り返すと天蓋山だった。
 この眺めは何十年ぶりだろうか。
 山之村の周辺の山では大鼠山が未踏であるがちょくちょく来ている。最近では折立から薬師沢小屋を経て赤木沢経由で北ノ俣岳に登り、夜の神岡新道を下った。メンバーの強者が車を回収するためただ1人で折立に下ってくれた。翌朝、車を見てほっとした。
 山頂からの眺めは360度の大展望であった。飛騨国の展望台でもある。飛騨国を囲む山々のすべてが見える。

 雪付けし飛騨の国見ゆ春の夕    前田普羅
 乗鞍のかなた春星かぎりなし
 てり返す峰々の深雪に春日落つ
 山吹や根雪の上の飛騨の徑
 
等々、句集『飛騨紬』の中の名句である。飛騨は山国との思いが深まる俳句である。
 展望を堪能後、下山。夕顔の駅で聞くと今年は雪が多かったそうだ。
身支度を終えて、名作『天の夕顔』の文学山歩に移る。今までのブランクの間に大きな変化が見られた。作品のモデルとなった不二樹浩三郎の記念碑が道沿いに建立されていた。実姉への恋心を忘れるために有峰に行くが、なじめず、薬師岳を間近に見るこの地に引っ越したという。
続く

初スキー行2015年02月01日

 1/31、夜9時に合流。久々のスキー行である。日帰り可能な飛騨の朴の木平スキー場であるが、あえて前夜発にした。東海北陸を北上し、高山市の一角で車中泊。
 翌朝5時にまた出発した。24時間営業の店でゆっくり朝食をとってもまだ早い。スキー場まで26kmとあるが、凍結路なので時速40kmでソロソロ走る。市内で方向を間違えて富山市へ向かってしまった。道路の拡張で地理勘が働かない。ナビがないとこうなる。
 やっと丹生川村辺りまで来ると小学生が集団登校中だった。後で知ったが、今日は高山市合併10周年記念日らしい。そこで小学生も何かイベントであるのか。
 朴の木平スキー場は始めてのこと。ゲレンデのレイアウトは他とそう違わない。但し、上部のゲレンデ外が滑走可能となっていた。他のスキー場はコース外滑走禁止になっているがここはOKだった。上部の雪質は絶好のコンディションだった。圧雪バーンでも10センチ程度の新雪が乗っており、上手くなったような錯覚を覚えた。コース外の深い雪、未整備の雪ながら抵抗がなく滑走が楽しめた。山スキーヤーでも楽しめるスキー場である。
 今日は午前中ゲレンデ、午後は輝山の前山辺りまでスキーハイキングの積もりだったが、相棒がシールを忘れたというのでゲレンデオンリーになった。おそらく3kgは体重増加したはずで、転倒しないように滑るのがやっとだった。次回は体重を減らして行きたい。
 帰りは恵比寿の湯で疲れを癒して帰名した。

飛騨・流葉山春スキー2014年02月12日

冴え返るテントに寝覚む飛騨の国

春寒や飛騨流葉の山の上

凍て雲の流るる山や春スキー

如月や真白な黒部五郎岳

春雪嶺空母のごとき乗鞍岳

山だけの飛騨の国見ゆ風光る

樹氷咲くごと白い珊瑚めく

雪垣は未だ解かれず飛騨の国

山峡の田畑に残る雪厚し

雪焼けの顔なでてゐる山のお湯(桃源郷温泉)

サングラスかけても春の雪目かな

建国の日の旗ぞ飛騨の山家こそ

早春の飛騨の山家に人気なし

  スッピンだがきりっとした高貴な顔立ちの女性と話す
飛騨人に春スキーのこと聞きしかな

凜とした飛騨の女や春浅し

猿ヶ馬場山の滑降シーン2013年03月23日

ブナ林を滑降するWさん

猿ヶ馬場山の滑降シーン2013年03月23日

ブナ林を滑降するYさん

飛騨・猿ヶ馬場山スキー登山2013年03月20日

 3/19、愛知岳連の理事会が終わって午後8時。Wさんと西庁舎で合流する。Yさんは先行して、登山口の状況を偵察してもらう。高速に乗れたのは9時前後だったかな。東海北陸道を北へひた走る。白川ICを降りて、道の駅の一角でテントビバーク。就寝は午前1時。午前5時に目覚ましが鳴る。お湯を沸かし、インスタントのウドンを流し込む。
 午前6時過ぎ、Yさんに挨拶し、登山口へ誘導してもらう。白川郷も今は静かである。萩町にある登山口は車1台分の幅のある車道から杉林に続く林道の出発点になっている。そこに辛うじて2台をデポできた。 スキー板にシールを貼って出発。かなり急な斜面であるが、林道をショートカットする先行者のシュプールが残っており、それがルート案内にもなる。急斜面をジグザグに登りきり、林道に上がるとあとは谷の中を登ってゆく。するとまた林道に合うのでしばらくは林道上を歩く。所々デブリがある。
 左に宮谷源流と合う。帰雲山への尾根はパスしてそのまま直進すると、素晴らしい栃の大木、ブナ、その上ではダケカンバの疎林となって絶好の滑走場を提供してくれる。ここをまたジグザグを切りながら高度を稼ぐ。高木泰夫氏の「登山の喜びは登山に要した苦労の関数である」という言葉がよぎる。
 急斜面の登りから開放されて、帰雲山と猿が馬場を結ぶ稜線に出た。高度計が1700m以上を指示して1875mに近づいたことを感じる。視野が広がる。緩斜面の雪原が広がる。山頂は近そうだが、ここからが結構遠かった。前方に先行した2人が止まっている。あそこが山頂か。
 矮小化したシラビソの樹林の間を抜けて、ようやく山頂に立った。残念ながら北アルプスは見えない。白山も見えないが、大笠山らしき山は見えた。三ヶ辻山、金剛堂山も山霞の中に白い美しい山容を見せた。
 登頂はこれで2度目。いつぞやの4月下旬、栗ヶ谷川の横谷から籾糠山へ尾根を辿り、1818m峰を経て登った。下山は雪の詰まった谷を横断して籾糠山に戻った記憶がある。
 近くでは御前岳が見える。1等三角点の山でありながら、『ぎふ百山』、『続・ぎふ百山』にも採用されなかった。近くに猿が馬場山が飛騨高地の最高峰の栄誉を享け、日本三百名山に採用されているため不遇を託つことになった山である。しかも登山道がない。が、登る人は登っている。私は測量のために伐開された藪を分けて登頂した。更にスキーで森茂峠から再登を目指したが、栗ヶ岳で引き返した。登りがたい山である。
 山頂滞在は30分未満。シールをはがして滑降開始。緩斜面のうちはシュプールの跡を辿り、赤い布を外しながら進む。宮谷源流から待望のブナ林の疎林の中の滑走を楽しむ。自在に。あっという間に終わる。後は来たルートをほぼそのまま滑走。登りには5時間半ほどかかったが、約2時間超で下山できた。スキーの威力である。
 萩町を後にして平瀬温泉で一風呂浴びて帰名した。

両白山地・銚子ヶ峰を歩く2012年07月22日

 朝日カルチャー登山教室の実技講習として実施。その指導員というお役目をいただいたので久々に夏の石徹白からの白山登山道を歩いた。人数は20名余り、5名の指導員が付き添う。山歴は殆どないから神鳩の避難小屋で引き返す組も想定してあるという。
 午前5時半、名古屋の自宅を出るときは傘を差して出発した。予報では福井県の降雨率は20%とあるのでそれに掛ける。集合場所の金山駅前からは中型バスで出発するが、天気の不安定さから一旦、大日ヶ岳に変更した。しかし、白鳥IC手前の観天望気では雲が上がって行くのでまた銚子ヶ峰に戻した。
 桧峠付近はガスがかかり心配したが、石徹白に下るまでには明るくなった。石徹白は青田が文字通り青々としている。隣に植えてあるトウモロコシも良く育っている。ここの名産という。冷涼な気候風土が甘みのあるトウモロコシを育てるのだろう。白山中居神社を経て、登山口への林道を走る。
 登山口の東屋は近年整備された。トイレ、水場、駐車場もある。これは白山というより、銚子ヶ峰への登山の便宜だろうか。それとも石徹白大杉を観光として売り出すのだろうか。別荘といい、スキー場といい、観光開発が進んでいる。駐車場は満杯の車があり、溢れて、路駐しているほどだ。聞くと、学校登山らしい。先ほど冷や冷やして通過した土砂崩れの場所もこのために応急措置されたのだと理解した。
 9時30分に出発。石段を登る。ブナ林のやや暗いが美しい緑の中を登って行く。十数分で石徹白大杉に着いた。草刈の真っ最中だった。栃の葉が一部赤くなっている。あれは病葉(わくらば)だろう。足元には銀竜草も見えた。おたけり坂の急登に差し掛かる。ぐんぐん高度を稼ぐと、平坦になり、あれっと思うほど早く、神鳩の避難小屋に着いた。笹百合が咲いている。水場へ汲みに下る。急坂を25m下ると冷たい水が得られた。急いで戻る。
 ここからは急登もない。笹と潅木の中の道を行くと笹だけになり、にょっきりとニッコウキスゲが咲いている。見通しもよい。あいにく、ガスで遠くは見えない。母御石を経て山頂はすぐだった。12時半、登頂。丁度3時間の好タイムである。足に不安の多かった受講生全員が登頂できたことを喜んだ。
 銚子ヶ峰は白山への縦走途上に通過する山であって、従来は単品で登る山ではなかった。山スキーで登るか春山が殆どであった。展望盤が設置されて、日帰りの山として整備されていることが分かる。東海北陸道が完成して、こんな奥山でも日帰りが可能になったのだ。休んでいるとパラパラと降雨があったのでカッパをはおり、記念写真に納まった。
 そうのんびりもできず、食事を済ますと、すぐ下山となった。往路を戻る。高齢の1名が痙攣で心配であるが何とか無事に下れた。登山口の水場で泥に汚れた靴を洗い、満天の湯に急いだ。ここでは再び不順な天気に見舞われた。さっぱりした後は、白鳥ICから順調に走り、帰名できた。

南飛騨・茂谷を溯って八尾山へ2012年06月10日

茂谷最大の滝を登る
 6/9(土)夕方、W君とは6時栄で合流する。お買い物を済ませて久々に中津川ICからR257を走る。あいにく小雨模様で、仮眠場所に難儀する。道の駅の一角で車中泊する。
 6/10(日)は5時少し前に起きた。W君は仕事疲れを引きづったままのせいかぐっすり眠ったという。いつものミニ宴会もパスして寝覚めはいい。そこから登山口の茂谷までは大して時間はかからない。
 地形図で現在地を確認し、午前6時半に出発した。いきなり冷水に浸るがそれが沢登りである。最初は大きなゴーロの間をすり抜けて溯った。錆びたワイヤーロープや粗大ごみがあって興ざめであったが、高度を上げると、岩盤が出てきた。
 これが濃飛流紋岩といわれる岩体だろうか。近くには景勝・中山七里がある。それも濃飛流紋岩という。地質は堅く、侵食に強いそうである。まるで熊手で引っかいたような岩の面で沢足袋のグリップもいい。花崗岩のような脆弱性はないので、支点も決まりやすい。砂地もほとんどない。直登しながら高度を上げてゆく。
 すると次々に見せ場がでてきた。沢の上部は万緑で覆われているので少し暗い感じがする。それでも渓相は美しい。地形図の表現通り、緩やかな傾斜である。それだからといって気を緩めていると、手応えのある滝に圧倒される。
 茂谷最大の滝が現れた。ザイルで推測15mくらいか。遠くで見ると圧倒されそうに見えたが近づくとやや傾斜しながら水を撒くような美しい滝だった。直登可能と判断して、ザイルを出した。トップはW君が右岸の水流に沿って登った。一旦、小さな立ち木にスリングをセットし、今度は私がリードしていった。支点はあり、難度はさほどでもない。しかし、見下ろすと中々のスリルがある。
 気分を良くして登って行くと、工事中の林道に出会った。谷の景観が台無しだ。美渓もこれまでか。
 気を取り直して遡行を続けた。どこまでも林道工事が並行してついてくる。上部ではボサで谷も埋まっている。万事休す。歩きにくいボサの中を溯った。自然林の中へ吸い込まれていくように見えたが谷は荒れたままで終わった。尾根へ飛び出すと柿坂峠からの登山道に出会った。一と登りで山頂だった。青葉若葉の美しい山頂である。
 樹林の中で何も見えず。一段低い平らなところで休憩。涼しい風が吹きぬけてゆく。その後、下山は尾根を下ろうと行くと、もう一つの山頂を「発見」した。八尾山の石碑、石で囲った簡単な祠もあった。八尾権現というらしい。少し下ると巨岩に支えられていることが分かった。岩の上からは位山三山がかろうじて眺められた。御岳は雲に隠れたままだった。いつぞや登った若栃山とも再会した。
 金属製の箱には地元の愛好家らのノートも詰まっていた。意外に良く登られている。中には代参という言葉もある。代わりに登ってもらい、ご利益を得ようというのだろうか。
 そのまま尾根を下ると、地元民のピンクのテープと道標があり、このまま下ることにした。よく整備されていたがなんと、新しい林道に降り立った。往くときには気がつかなかったが、八尾権現の登山口の道標もあったのだ。さてどうするか。地形図と相談して、大平山から茂谷へ下る送電鉄塔巡視路を下ることにして林道歩きを続けた。林道の途上、三角錐の美しい山容の八尾山が眺められた。こんな山容だからこそ信仰の対象にもなるのだろう。
 二分する林道を右折し、大平山に入って、鉄塔の根元に来た。ところが当てにしていた巡視路はなかったのである。特別歩きにくい尾根でもないので強引に下ることにした。足元には藪はなかった。終始、杉、檜の植林内を下る。最後は古い畑、山葵田跡に降りた。それを伝うと人家に下れた。家の人につかまり、おまえ達を心配していた、という。朝7時ころに出てまだ帰らないので警察に通報する心の準備中だったそうだ。しばらくは山びとと四方山話を楽しんだ。私達は4時半、下山した。