中央アルプス・麦草岳目前で撤退!2017年10月02日

幸ノ川渡渉地から眺めた穂高連峰
 9/30は午前中は仕事、午後は句会とあわただしく、出発は夜9時になった。今回は麦草岳に挑戦する目的で福島Aコースを選んだ。2時間ほど走ると木曽路の大桑村に着く。R19から木曽川右岸に渡り、大桑スポーツ公園のPで車中泊する。公園なので照明あり、トイレあり、東屋ありで便利なところだ。よく通った頃はここを中継地にしていた。
 夜11時30分のR19の気温掲示は10℃だから相当寒い。名古屋の暑さになれた体は軽装になりやすい。長袖2枚を持ってきたのでそれを着こむ。シュラフもオールシーズンにしてよかった。車内の荷物スペースを整理するとフラットになり、手足を伸ばして眠れるバンは便利である。
 10/1の朝5時尿意で目覚め。夜が明けたのだ。おにぎりをお茶で流し込んで又走る。
 R19の木曽福島の外れに駒の湯の看板で右折、後は1本道でキビオ峠登山口に行ける。標高1200mはある。ここまで走れないことはないが、夏は良いが、秋は厳しい。予想以上に寒いので、長袖シャツの着替えも着こむ。さらに雨具の上着もヤッケ代わりにはおった。
 キビオ峠は今は舗装道路だが中山道以前に開通していた木曽古道の名残である。小さな園地になっていて、御岳山や乗鞍岳が一望できる展望台があり、トイレ、東屋もある。駐車場は結構広いし、テントを張る余地もあるので夏はいいだろう。
 6時40分、登山口の「熊出没注意」の看板に気が滅入るが、久々の中ア登山に勇気を鼓舞する。鈴を鳴らしながら一歩一歩登り始めた。最初は赤松のよく伸びた林の中を行く。白樺の美しい林になったと思うとすぐに雑木林になる。突然目の前を黒い獣が駆けあがっていった。熊か!とビビったが相当上部で振りかえり、こっちを見ている。何だ、カモシカだ。
 ジグザグの登山道を登りきると気持ちの良い木曽見台の分岐に着いた。7時30分。左折すると木曽見台、右へ尾根伝いに行くと登山道だ。笹の刈り払いはここまで。木曽駒高原スキー場が閉鎖されたためか、スキー場へ40分の道標が寂しく、登山道も笹に埋もれる。一方で地形図に描かれた破線路は今は笹に埋もれた廃道になり、尾根を直登するルートになった。
 登り始めは急で足に応えるのだが、周囲は原生林であり、特に大栃の樹木があり見事な自然美が癒してくれる。尾根を登りきった辺りでまた廃道に出会う。冬道は基本的に尾根を辿るから冬道が夏道になった気がする。
 尾根筋をたどってしばらくで山腹へ巻き始めた。1793mのコブを巻いたのだろう。わりあいはやく尾根に戻った。ここらになると岳樺の林になるが黄葉には早い。徐々に高まる尾根を歩くとまた巻き始める。赤林山だ。
 以前に山岳会でこの山に登山しに来たことがあった。登山道はないので南の痩せた尾根筋をたどって登頂し、コンパスで真北へ下れば登山道に出会うのでRFの練習になった。
 巻道は以前よりも荒れた気がする。道幅は細くなりアップダウンが多くなったように思う。記憶ではもっときれいな巻道だった。別人のスマホの軌跡をみると確かに標高差50mの違いがあった。
 赤林山の北で破線路は2050mまで登って巻き始め、南で2080m付近で尾根に戻る。軌跡は1910mで巻き始め、2030mで戻る。北の登りで140m、南で50mの下りを節約するためだろうが、山腹道は荒れやすいからかえって労力は増えている。新道?は歩きにくいものだが。
 赤林山の南の鞍部ではぱっと視界が広がったので一休みした。寒い風が吹き上げてくる。ここからは尾根に忠実に歩く。樹林の道が続く。ようやくの思いで6合目に着いた。道標は直進は麦草岳、左折は福島Bコースへの巻道になっている。時計は11時18分だ。ここまで4時間30分かかっている。麦草岳は2733mなので比高328mを1時間では登るのは難しい。上松コースと合流するまではやぶであるから1時間30分を見込むと12時50分登頂になる。休まず下って4時間とすると16時50分だ。山中で日没に捉まると厄介と考えてBコースを下山する周遊に計画変更した。
 幸ノ川の源流域を横断する登山道である。この道も若干荒れているが歩行に困難はなかった。幸ノ川を遡行すると登山道との交差地点で終了した。今日はちゃんと水が得られた。交差地点からは心なしか急に踏み跡が歩きやすくなった。
 避難小屋に着いたのは12時14分。小屋周辺は紅葉、黄葉できれいだ。1人ベンチで昼寝中だった。小屋の屋根に太陽電池パネルが追加した以外は変わりない。12時30分下山開始。力水には14時14分、渡渉地点は15時少し前、スキー場跡は15時30分過ぎになった。
 後から足音がするのでびっくりして振り返るとランニング登山の単独行で名古屋の人だった。軽装備でBコースを走り、麦草岳、牙岩、前岳、木曽駒、宝剣岳、三の沢岳を往復してきたそうな。どんな心臓と足をもっているやら。こういうのを韋駄天というのだろう。
 さて、韋駄天氏と立ち話している内に15時40分になった。ここからキビオ峠までは約3kmある。車道をスキー場から別荘地を抜けて一旦R19の分岐まで下り、ここから峠へ登り返した。30分から40分と見込んでいたが登りの疲れもあり、Pに着いたのは16時50分になった。1時間強かかった。平地のような感覚では歩けない。
 目的完遂のためにはもう2時間早く出発するべきだろう。5時には出発していないと登頂できない。膝痛を克服してからの試歩と思えばまずは良しとしたい。
 帰路は駒の湯に寄って入浴。650円也。以前は透明な源泉が噴き出すとすぐに鉄の錆びた色になりタオルも汚れたが、今はろ過して透明な色になった。その分効能も減った気がするが山の湯は良いものだ。
 木曽の夜は早い。まだ6時前だが目当てのソバ屋は閉店している。農協スーパーに寄って木曽の蕎麦を購入した。
 登山道で出会ったのはカモシカ、野兎、そして避難小屋の昼寝氏、韋駄天氏だけだった。
 それと雪虫が大量に浮遊していた。明日は雪が降るかも知れない。下山中の14時前、急に冷えてきて、赤林山にもガスがかかり、麦草岳は雲に隠れた。そして白いものがちらついた。霰だろうか。朝は素晴らしい日本晴れだったのに。秋山は急速に変化するから怖い。

木曽川水系岩倉川をさかのぼる2017年09月04日

 9/2から9/3の久々の沢登りです。しっかり水を浴びてきました。
 中アの沢は何本か遡行してきましたが、木曽川右岸の支流ははじめてでした。岩倉川ももちろん初めてですが、支度中に、関東ナンバー2台、8人くらいのパーティがきました。知る人ぞ知る沢なんでしょう。
 私達4人は本流を遡行しましたが、もたついていても追いつかれず、別の沢に入ったようです。本流の沢のグレードは1級から2級らしいです。適度な滝が次々現れ、なめもあって楽しめる沢でした。懸垂は無くほとんど直登できました。特に本流の滝に支流が2本滝となって落ちている所はなかなかの見所です。ここは支流2本滝上を巻いて本流に出ました。堰堤が2か所あること以外は自然のまんまです。平流になって遡行を打ち切り、林道を歩いて下れました。登頂できないのはちょっと寂しい。
 帰路は柿其温泉に入湯しました。冷泉の加温です。湯船に浸かっていると汗がでてきます。泉質は単純弱放射能冷鉱泉です。メンバーの1人が湯あたりするほどですから効能があったのでしょう。放射能泉は湯あたりしやすいそうです。翌朝の私の膝痛もなんともなく歩行や自転車も痛みなく過ごせています。温泉の効能かも知れません。
 気になったのは沢の浅瀬で岩魚が弱弱しく泳いでいたことです。警戒心の強い岩魚ですからすぐ逃げるはずです。多分、産卵後で体力を使い果たしでいたのだろう。岩魚は水面が凍るくらいになると孵化するそうです。それとどの稲田も穂を垂れて美しい山村の風景でした。これも秋ならではの風景です。
 R19に出る手前、大きなドーム型の山が見えました。最初は糸瀬山か、と思いましたが南木曽岳でした。方向によって大きく違うんですね。山口村まで来ると秋空にくっきりと恵那山がそびえていました。いい1日でした。

中津川市阿木の旧跡・(アマテラスの)血洗池~血洗神社~恵那神社~根の上高原へドライブ2017年08月06日

 午前中は原稿の推敲を行う。いよいよ脱稿したいが、今一、補完的な写真が欲しいと午後から撮影ドライブになった。暑いとはいえ、高原だから少しは涼しいだろうとの期待を込めて。
 12時20分に出発、途中で燃料補給。県道58から県道283、R419を経て岐阜県に越境し、R363に入る。エアコンを切っても結構涼しい感じがする。R363は山間部の谷合いを貫通している。交通量は少なく快適なドライブである。最終的には中津川市川上に行くが、途中でメインの血洗池と血洗神社に寄る。岩村の田園地帯を抜けて、山間部に入ると血洗神社が見つかった。村社ゆえか地味で案内板もなく見過ごしそうだった。血洗池が近くにありそうだがない。神社の横の山道を10分ほど登ってみた。林道に出たので右折すると解体中のキャンプ場に着いた。ゲートを越えるとR363で血洗神社はすぐだ。おかしいので山道を今度は下ったが見いだせない。マイカーに戻って神社の裏に埋まった池でもないか、探したがない。
 1台の車が止まったので聞くと下に関係ありそうな場所があると言うので行ってみた。血洗池だった。是こそ探していたところだった。
 血洗池は、恵那山の山名の由来になったアマテラスの胞(えな)を洗った池だという伝説がある。そんな謂れを書いた看板も立ち、旧跡血洗池の石碑まである。胞をここで洗ってから山頂まで運んで埋設したというのだ。それで胞山と呼ばれたのだ。池は砂で埋まっていた。そして、かなり離れた落合川の上流の湯船沢で産湯をつかったというのだ。湯船はそれが由来という。現在でも岐阜県は胞山県立自然公園を名乗る。恵那は雅字だろう。看板には漢字導入以前の神代文字のほつま文字にも記録があるそうな。
 次は恵那神社へ向かった。R363は最高地点の870mの峠を過ぎると途端につづら折れの酷道になる。狭くてタイトなヘアピンカーブが連続する。しかし、こんな道こそ運転の面白さを楽しめる。3速オートマだが、セカンドギアにして、エンジンブレーキを利かせると、FRなので、ハンドルが素直に曲がる。
 中津川市川上に着いた。しばらく下流に走ると橋があり、渡って右に行く。ウェストン広場なる園地ができ、川遊びの家族連れが多かった。中津川は花崗岩の美しい川である。すぐに恵那神社へ左折。山田と山家をぬいながら走ると正ヶ根谷へ行く林道で通行止めのゲートがあった。前宮ルート入口まで1kmとある。
 恵那神社へは左折すると大きなPがあった。誰もいないので正面まで乗り入れて、参拝をした。無人であるが、大きな杉が生えて荘厳な雰囲気がある。拝殿、社殿がある。千木はないが鰹木はある。しっかりした造りである。
 辞して、ふと前を見ると鳥居越しに恵那山が見えた。あいにく曇天だが、晴れれば素晴らしい景色だろう。今日の目的は終えたのでまたR363を登り返した。根の上高原国民宿舎にも寄ってみた。山岳会の忘年山行の宴会の会場探しだ。
 ここなら少し遠いが、天狗森山、三森山がある。国民宿舎を拠点に保古山970、1mならば40分だそうな。高原内には無名ながら3等三角点936、3m(餅穴)、R363の入り口の反対側に3等三角点888、3m(血洗)がある。三角点の点名まで胞に因むのか。好事家の会員が喜びそうだ。すべての目的を終えてまた往路を戻った。

秋冷の権兵衛峠2014年10月05日

色付き始めた紅葉が白樺の白い樹肌に目立つ
 小川路峠遊歩から撤退したもののまだお昼前だ。そのまま帰名するのは惜しい、と飯田市界隈の喫茶店に向かった。飯田市には営業中の喫茶店は一軒もなかった。やむなく、R153を走って権兵衛峠に向かった。伊那市から羽広へ行く県道87を行き、途中から左折してR361に合流。そのまま走れば木曽に行ける。以前は走れた権兵衛峠への道は伊那側は通行止めになったのでトンネルをくぐって番所に行く。そこから以前の車道を峠に走る。分水嶺付近で車止めのゲートがあった。そこはトイレもあって南アルプスの眺めもよいが今日は霧で霞んでいた。それでも飯田市付近よりは見通しはいい。
 そこに車をとめて峠まで150mの道標に導かれて歩くと白樺の木と紅葉の紅とがマッチして美しい。下ると待望久しい権兵衛峠だった。今は遊歩道が両側から整備されて歩きやすい。今、歩いた道も笹が刈り払われたばかりだった。
 峠にはいろいろのモニュメントが設置されていたが、気にしていた木曽用水の案内板もあった。
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2002.7.12~7.14の奈良井川の白川を遡行した記録文
ソース
http://koyaban.asablo.jp/blog/2010/10/10/5395164
未編集なので部分的に引くと
前略
翌朝は快晴とはならなかった。梅雨空に戻っただけである。盛り沢山の朝食を摂って満足した。今日はピークを踏まないので将棋頭山の登頂を提案した。雨具を着けて出発した。ガスの中では何も見えない。山荘に戻って分水嶺からは胸突き八丁の尾根を下った。左側が昨日の沢である。どおりで沢の傾斜もきついはずである。どんどん下る。大樽小屋を経て分岐から権兵衛峠を目指したが笹が繁茂した辺りで前途を見限った。戻って白川へ下った。林道にはトラックが入っていた。この用水路はトンネルを通って伊那へ供給されていた。天竜の水は落差の関係で利用出来ず木曽から引いていた。伊那の米は木曽の水で育ったものであった。権兵衛峠を越えて木曽へ運ぶ米は伊那の余り米・・・と俗謡に唄われた時代から相互に補完しあう時代になっていたのだ。終点に着いて帰り支度した。帰路、萱ヶ平に寄った。世に忘れられたような山村である。話をした主婦も松本に住んで今日だけ畑仕事らしい。グミの実がたわわになっていたのが印象的であった。今回は凄い滝の登攀こそ無かったがピークも踏み静かな山小屋に一泊して満ち足りた気分で終わった。
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 実に12年ぶりになる。記述には一部間違いもあるが、そのとき以来気になっていた。
 誰一人居ない峠は静寂そのものだった。すると伊那側の奥からしじまを破るように熊避けの鈴の音が聞こえてきた。約20名はいただろうか。男女の団体登山者であったが、目的は権兵衛峠の木曽山用水の歴史を訪ねるハイキングだった。
 リーダーの解説者がいたので私も「為替水」の水桝の現場に同行せさせてもらい、一緒に受講生になった。
 水桝とは12km先の奈良井川源流の白川から取水した水を木の水路(桝)を流れさせ、水路の上に棒を渡す。すると溢れる水量は元の奈良井川に落ちる仕掛けである。峠からは北沢に流し、下流の小沢川から同じ水桝で取水するという。
 水利権を巡って140年間もの争いの結果、生み出された知恵だった。その顛末は以下に詳しい。
http://www.cbr.mlit.go.jp/tenjyo/think/heritage/pdf/025.pdf
 
 為替なんてやや小難しい表現である。もっぱら金融用語としてしか知らなかった。日本の江戸時代には為替の金融システムが完成していた。
 ウィキによれば「日本の「かわせ」の語は中世、「交わす」(交換する)の連用形「かわし」と呼ばれていたものが変化したものである。日本で「為替」という言葉が生まれたのは、鎌倉時代である。」という。
 お金は共通のものだから、江戸で受けた現金を大阪へ送金する手段として為替が利用された。A振出人(Bの債権者でCの債務者)、B引受人(Aに対する債務者)、C受取人(Aに対する債権者)の三者が絡む為替手形は今でも流通する。最近も郵便局の小為替を利用したが、小銭を直接送金するのではなく、名古屋の郵便局で小為替を発行してもらって封筒にいれて送る。現金の代わりに受け取った側は当地の郵便局で換金できる仕組みだ。
 水も同じ事である。愛知用水の水源は牧尾ダムとよく聞く。愛知用水水源管理所のHPによると「愛知用水の水を取り入れる愛知用水取水口は、牧尾ダムから木曽川を約120km下った「岐阜県加茂郡八百津(やおつ)町」にあります。

 愛知用水取水口では、牧尾ダムからの放流水のほかに、「阿木川ダム」、「味噌川ダム」の放流水と木曽川沿川で降った雨(自流水)を3つのゲートから毎秒最大30m3取り入れます。」とある。
 以前は牧尾ダムから直接水道管で引いていると思っていたが上記の通り、放流した分を下流で取水をする、言わば為替水ということになる。すると牧尾ダムは現代の水桝ということになる。水系が違っても原理は同じである。
 鉢盛山でも木曽川の水源を水路で引き、朝日村側へ落としていた。災害で短期間にだめになった。
 伊那用水(木曽山用水)は12kmの水路が伊勢湾台風で打撃をうけて、現在は南沢へ隧道で落としているという。私が見たのは新しい水路だった。件の白川で会った管理員は大水が出るたびに見に来る、と言っていた。

 峠からカラマツの巨木があるところまでいい道がある。烏帽子山(南沢山)1894mにも1時間ほどで登れるようだが、靴が不首尾で又来ることにした。

霧閉ざす小川路峠への道2014年10月05日

ゲートの近くに立つ小川路峠への案内板
 最初の目的は飯田市の小川路峠だったが霧が立ちこめて撮影条件がよろしくない。降雨率ゼロ%には違いないが、だまされた気がする。東シナ海に熱帯低気圧があるとこうも上昇気流の影響を受けやすいものか。長野県南部は太平洋の気流が天竜川を溯って最初に冷気を受ける地域なのだろう。昨年も撮影に難儀したことを思い出す。
 おまけに以前はなかった獣避けの金属柵が設けられて立入りがたい。鍵は開いていたので入ってみたが地元の人らが仕事で入っているのだろう。用が済むと施錠して立ち去ることになるので袋小路になりかねない。それに人が入らないから路面は良いが頭上からの枯れ枝が下がり走りにくい、というわけで1170m付近で撤退した。
 ただ、観世音堂のある一番観音は水場を設け、東屋を設置して、整備されていた。スン坂も地元の小学校辺りが歩いているようだ。それは良いことである。スン坂のスンは、愛知県額田町の寸五郎坂の寸と同じだろうと想像する。屋根の勾配の用語で10寸で5寸上がる勾配という意味。馬に登らせる山坂としては急勾配である。

恵那山秋色2014年09月29日

 9/27(土)は30才代の若い男女3名の同行を得て恵那山に登った。士業の同業であるY君とその事務員のO女、彼氏のNさん。かねてからどこか山に行こう、と誘っていた。9月始めの白山は天気不良で流れたので、恵那山になった。
 事務所前を7時に出発。園原ICから広河原の登山口を目指す。本谷川沿いの道を行けば良いのだが、地形図を忘れて右往左往した。地元でインフォメーションをもらって無事到着。林道は工事中でゲートがあった。Pにはすでに20台が止まっているし、路駐も数台あった。我々も隙間に場所を確保。
 午前9時半、仕度後出発。さすがに若い人は服装からして違う。2名がタイツにパンツスタイルだ。これは先年、北アルプスで見た。ひざが軽いので運動性は良いだろう。林道を約30分歩くと本来の登山口に着く。本谷川を橋で渡る。かつて増水中に渡り、落ちて死亡した事故があった。
 対岸に渡ると登山道は左にゆっくり登ってゆく。周囲は唐松林であるが今は青い。1ヶ月もすると金色に輝くような黄葉になるだろう。単調な唐松の植林内をほぼ直登するから急登になる。尾根らしい末端に取り付くと少し傾斜も緩む。多少は自然の植生になってきた。このまま緩むかと思った尾根道は再び急登になった。開けたところからは伊那の街が見えたが、飯田市だろう。
 完全に原生林の趣になってきた。高度計を見るとまだまだの標高である。着実に高度を稼ぐと山頂の一角になった。周辺に紅葉が見られる。何の植物か走らないが山頂はいち早く秋になった。人影が見えると高い展望櫓の建つ山頂であった。13時登頂。快適なペースだった。
 但し、ガスで何も見えない。

   頂上や霧深くとも櫓に立つ     拙作

 昼食などするうちに下山となった。急登の尾根を振り返るようにこんな傾斜をよく登ってきたもんだと思う。谷川にもすぐ下山した。谷水で汗を拭いた。林道歩きの後マイカーに戻った。早速、スマホ使いの誰かが、御嶽山が噴火したと、情報を話してくれた。「えーっ」というばかり。
 ここまで来たからには昼神温泉へと走った。天下の名湯で知られる下呂温泉と同じ泉質らしく人気が高い。とある温泉施設もスマホで検索して探してくれた。
 入湯したら、湯船に使っているとなりの人が本当は御嶽山に行く予定だったという。京都の登山者だった。ニュースで地元の旅館をキャンセルして、こちらに避難してきたらしい。明日は恵那山に変更したのだという。間一髪で災難を逃れたのだ。
 登山後の入湯は疲労回復に効果的だった。

中央アルプスの沢・摺古木山の黒川源流を探る2014年09月15日

布滝を越えても尚、滑滝は続いていた
 何度も登らせてもらった中央アルプス南部の摺古木山であるが、沢登りに初挑戦した。水がとてもきれいで飯田市の水源にもなっている黒川。黒木の山から流れるから黒川か。その秘密を探るために溯った。
 9/13の朝8時、クルマに行くともう2人のメンバーが来ていた。今シーズンは今回が初めてで道具類が揃わないので少し慌てた。無事、出発して中央道へ入ると車が渋滞気味でハザードランプを何度か点滅させた。恵那SAに入ろうとしたが、満杯で入れず、また車線に戻った。
 中津川ICを出て、今夜の夕食などの買い物にスーパーに行く。団塊の男3人が好きなものを買い物籠に入れてゆく。今夜は鶏の寄鍋風、煮込みウドンとした。再びR19から妻籠を経て、大平宿跡へ登る。今日は3連休とあって他県ナンバーの来客が多い。そのまま、摺古木山の案内板に従って左折。唐松林を抜けるとしばらくで、荒れた林道になる。ロデオよろしく揺られながら、行くと路面の凹凸が激しいところに来た。1人に下りてもらい、誘導してもらった。
 すぐに通行止めのクサリがかかるPへ着いた。ここから沢の入溪地まではかなりあるはずなので、とりあえず、昼食後、徒歩で偵察に行った。入渓地まで約1時間歩いた。附近の平地はテント場に使えそうだ。というので戻ったら、偶然、同じ目的の会員パーティのクルマに出会った。適地を伝えて今夜は同じ夢をみることになりそうだ。
 マイカーに戻り、適地まで走るともうテントの用意やら食事の用意に大わらわだった。焚き火の枯れ木を集めて、小石を敷き詰め、着火するとしぶしぶ燃え始めた。昨夜までの雨で湿っているのだろう。野菜を調理するために沢に行く。沢も増水気味であるが、明日は減水するはず。四方山話に花を咲かせて、久々のテント生活になった。夜8時、星月夜という素晴らしい夜空を眺め終えて就寝。信州の夜空はひと味もふた味も違う。
 9/14、4時起床。朝露でびっしょり濡れている。そういえば昨夜も夜露が凄かった。昨日の残りの野菜を入れ、うどん4袋も入れ、たれで煮込む。ちょっと多いかなと思ったがきれいになくなった。
 テントを畳み、身支度する。6時10分に出発できた。沢までは2分。標高1800mの水の冷たさは格別である。水量は予想した通り大幅に減水した。大岩、小岩を避けながら溯ると、前方に白い布を垂らしたような滝が見えた。布滝という。左から巻いた。斜瀑の落差30mはあろうか。乗り越えても延々、ナメが続いている。素晴らしい溪谷に喜んだ。
 しばらくすると河原歩きになり、唐松の樹林に入る。頻繁に地形図、コンパスを出して方向をチエックする。沢の左岸にある崩壊面が地形図に表現されているので、そこが道標になる。2168m三角点に突き上げる本流は右へ。我々が目指すアザミ岳の沢は左へ、と判断。文字通りアザミの花が多い。どこまでも水流を追いかけた結果、支流のアザミのコルにつながる枝沢の入り口を見過ごしてしまった。それは、南に恵那山を眺められる位置で確認した。アザミのコルへ向かっておれば見えない景色であった。
 それで協議の末、主峰でもある摺古木山を目指すことに転換した。元々、成功率は50%であり、黒川源流を探る目的からは外れていない。1995mの独立標高点附近に近づくと一段と明るくなった。沢の傾斜がほとんどなくなり、せせらぎの流れになった。まるで日本庭園のような美しい源流の風景だった。再び、樹林の中に入ると、沢の流れも細くなった。笹に覆われて水脈尽きるかと思えばまた水が湧いている。とことどころにはミニナメ滝もあって最後まで飽きることがなかった。
 倒木や木の枝がうるさく行く手を阻む。ついに水の一滴も絶えた。谷の様相も溝状となり、笹の尾根が迫ってきた。直感で左へ笹をこいでゆくと、古い刈払いの道に出た。11時10分だった。5時間の源流行を堪能させてもらった。
 すぐ上の高まりに重い足を運ぶと5分ほどで2130mのコブであった。地形図ではここに摺古木山と印刷されている。宮の字をデザインして、8の字に見える宮標石が埋まっている。ここで休憩。オレンジを切って皆さんに食べてもらう。ああ、もう安全圏に来ているという安堵感は何ものにも代え難い。
 ここから腰をあげて休憩舎への道を分ける自然園のピークを踏む。そしてコブを越えると1等三角点と御料局三角点のある山頂だった。誰も居ない山頂で景色を楽しんだ。人の声が風に乗って聞こえてきた。昨日林道で見かけたパーティーだ。安平路山へ行ってきたという。日本三百名山の追っかけが多くなった。登山道の状況が悪くても、遠方でもかまわずに来る。今日は関東勢だった。
 我々も本流に沿う登山道を下った。どこかに仲間のパーティが溯っているはずだ。声を出したが反応はなかった。ドンドンくだるとあっという間に林道終点の休憩舎に着いた。そこから入渓地まではいくらもなかった。身支度を整えて再び林道を走った。帰りには大平宿の大蔵家を訪ねた。昨日朝よりももっと来訪者がいた。大賑わいの宿を後にした。

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仮にわれわれが溯った沢を黒川左俣、仲間のルートは右俣としておく。

木曽山脈・横川山(湯舟沢山)を歩く2014年05月02日

 自宅を出たのは朝8時。遅いのはどこへ行くのか迷っていた。先日、カメラのバッテリーが上がり、量販店で買おうとしたら在庫を置いていない。もう1店も同じだった。沢山あるカメラの消耗品でもあるバッテリーは在庫を抱えにくいと知り、アマゾンで注文。着荷するまでは遠出はできず、日帰りの範囲で探したのが横川山だった。
 今日はまだ平日なので中央高速道路は通行量多め。恵那SAはトラック、バス、マイカーで大混雑だった。中津川で下りて、R19から清内路峠を越えるR256を走る。整備されて走りやすくなった。峠を越えるとすぐにふるさと自然園の看板が目に付き右折。園内はバンガローが建ちリゾート地に成っている。それでもGWにしては静かである。駐車料金500円を求める看板があるので受付で支払う。登山道の様子を聞くが地図がない。、登山道は沢コースと尾根コースがあるが尾根コースを勧められた。園内の道を走るとすぐに大蔵貢の胸像があった。
 大蔵貢(1899~1978)は南木曽町の南沢で木地師の家に生まれた。後に清内路村に移る。兄弟は9人もいたが5人が貧しさの中で死んでいった。一家は東京へ移住。働きながら小学校へ通ったが、無声映画の弁士になる仕事を得て成功した。トーキーの時代を見越して、蓄財し、映画興行に転じ、これも成功。後に大蔵映画を創業。村では成功者として顕彰。大蔵貢も大蔵公園を寄贈した。
 東京でも弟が生まれた。大蔵敏彦(1918~1992)というが、歌手の近江俊郎で知られる。先祖が近江・永源寺町から出た木地師なので芸名には近江をつけた。そうと知って「山小屋の灯」を聞くとしみじみとした味わいがある。

https://www.youtube.com/watch?v=yIQvIgZa3wg

 園内を流れる稗畑沢を左折し、橋を渡ると駐車場に着く。稗畑なんていう地名も何となく木地師の焼畑農業を思わせる。冷涼な高原では米作は不可能だったから主食として栽培された。かつて宮崎県から市房山を越えて熊本県の人吉に着いた。そこの旅館で初めて稗飯を食べた。宮崎県椎葉村にはひえつき節があり、稗畑山なる山名もある。だからといって稗が貧しさの象徴かといえばそうではなかった。当時としては当たり前の生活であった。そして飽食の今は健康食品になっている。実は豊かさの象徴でもある。

 標高1000mの登山口にはすでに10台以上が駐車。すぐに身支度する。10:45に出発。笹に覆われ気味の浅い谷の山道を登る。桧の植林帯なので見通しは悪くしばらくは忍従の登りに耐える。笹が多いので最近は刈払いされていないようだ。道は左の尾根へと続く。枝道が意外に多いのは園内の散策道だろうか。といっても道標はない。
 高みに来ると赤いテープをぐるぐる巻いた辺りに来た。ここは尾根コースとの分岐(合流)のようだ。Pからのルートが笹が多いのは歩かれていないせいか。文字通りの尾根コースは笹も開かれている。尾根コースがあるなんてPには案内がなく、ただ、南沢山の登山口の表示があっただけだった。Pからもう少し走れば尾根コースだったのである。しかし、この赤テープは明らかに駐車場へ下るように示唆している。
 合流地点を過ぎると中間地点の表示があった。どうやら1440mのコブに達した。すぐに下ると鞍部からまた道が分かれていた。これが沢コースのようだ。笹は刈られている。そして南沢山への道を登りかえす。1414mの鞍部から登りきったコブが木曽山脈で、逆L字形に北へ分かれてゆく。南沢山へは西進する。ここからは植林帯を脱し、雑木林になる。標高も1500mになり、細い岳樺の林になる。時々、落葉松も混じる。山道は尾根にに忠実ではなく、山腹を巻くようにゆるやかに付けられて歩きやすい。
 やがて、恵那山が東西に根張りを広げて待っていた。南北にも東西にも大きな恵那山である。12:30、待望の南沢山へ着く。かつて登った南木曽町からの道は笹が深そうだった。今では歩かれていないように思える。ここには三角点もなく、引き返すのは欲がなさ過ぎるので横川山へ足を伸ばした。笹原の高原の山道を気持ちよく歩く。急登だが比高150mほどなので頑張ることもなく、あっけなく登頂した。 
 横川岳1620mへは500mほどを25分だった。意外なほどの大展望に酔う。残雪の御岳、乗鞍岳、南アルプス全山、中央アルプスなど360度の大展望の山道である。休んでいるパーティも3パーティ10名はいただろうか。恵那山は何度眺めても素晴らしい。中央アルプスは北からも南からも眺めたが木曽駒ヶ岳が統べている。大きな山塊に見える。
 この横川岳は以前は湯舟沢山と言ったが、今は横川山で定着したものか。ここもかつて富士見台から自然園へ縦走した際に踏んでいるはずだが記憶はまったくない。ただ既登のみ記憶している。岐阜県側に落ちる水が湯舟沢川というので美濃側の山名であろう。地形図では無名になっているのが不思議だ。ここも昔は良材の宝庫で御料林だったと思う。
廃線奇行から
http://nishimiyaushiro.web.fc2.com/haisen/yubunezawa1.html
 そういえば、山道の途中で、宮の字を8の字に彫った御料局の標石を見かけた。丁寧に歩けば御料局三角点も見つかるだろう。
 往路を戻った。途中、同じ会の女性に遭遇した。女性ばかり4名できていたらしい。しばらく同行し、沢コースを下った。彼女らは高山植物の愛好家らしく色んな草花を知っていた。エンレイソウなんて気がつかなかった。稗畑沢へは急降下する。右岸の怪しげな道を辿ると朽ちた桟橋や道標があって廃道と知った。沢身に下ると、踏み跡も少ない。ピンクのテープの目印があって何となく沢を渡渉できた。左岸に廃道があり、朽ちた桟橋、ハシゴをやり過ごして林道に着いた。そこで別れた。
 林道を延々あるいてPに着いた。すでに3台となっていた。
 R256に出て、次は流浪の俳人・種田山頭火の句碑を訪ねるドライブになった。6箇所の句碑のうち、3箇所を訪ねた。旧清内路村のHPから
【七々平】
山深く蕗のとうなら咲いている

【長田屋商店前】
おだやかに水音も暮れてヨサコイヨサコイ
死ぬるばかりの水は白うながれる
なんとかたいつぼみでさくら音頭で

【一番清水】
山しずかなれば笠をぬぐ

 ただ、飯田市へ行くために徒歩で、清内路峠を越えて、一泊しただけのことだが、それが観光の拠点にもなった。山頭火も有名に成ったものである。熱心な支持者(ファン)がおればこそである。

 1番好きな句は

 分け入っても分け入っても青い山

韓国人の中ア遭難事故の反響2013年08月03日

 インターネットでも大きな反響を呼んでいる。中にはこんな情報もあった。

「630 : <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[sage] 投稿日:2013/07/31(水) 09:37:30.70 ID:sKYODNCu ?
今朝のNHKラジヲでたまたま(?)
山岳救助隊指導員の人が出演してて、

「11人がバラバラになったのが一番の問題ですが、報道には言えない理由がありまして」

とさらっと流してたけど、韓国人連中は一体何やらかしたの?

650 : <丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´  )さん[sage] 投稿日:2013/07/31(水) 09:42:05.41 ID:BnvHyJkq ?
>>630
警察の取り調べで供述せざるを得ないし、どうせ記者発表されるのに
なにを隠しとんのや人が死んでんねんで

639 : ぱぱ ◆BWv2julAoY0T [sage] 投稿日:2013/07/31(水) 09:39:54.86 ID:2pXr0zKQ ?
>>630
あくまで伝聞・・・・

なんと40代の連中が70代の被害者の着衣を奪ったらしい。

641 : ぱぱ ◆BWv2julAoY0T [sage] 投稿日:2013/07/31(水) 09:40:36.33 ID:2pXr0zKQ ?
ソース元:救助隊近辺の人 」

以下は
http://www.news-us.jp/article/370942794.html
でチエック。

 中国人や韓国人は 溺れた犬を叩く、と言われる。

あるサイトから、「日本と中国、溺れた犬は棒で叩くのか、助けるのか。

2012年09月21日 | 国際外交の真実
★日本と中国・韓国との文化差。
「溺れた犬は棒で叩け」という中国と韓国。
それに対して日本は、「窮鳥、懐に入れば、これを助く」。
これは日本とアチラの決定的な彼我の差だな。

長い間、豊かな日本文化で育てられた、お人好しの日本人は、中国人や韓国人の思考法が理解できない。
相手を慮(おもんぱかる)助け合いの日本文化と、隙あらば相手の弱点を突き、止(とどめ)を刺そうとする弱肉強食の中国・韓国文化との違いが理解できない日本人。」

 こんな文化の違いを見ても、檜尾岳で弱った同行者の着衣(雨具)を奪ったという「伝聞」は真実味を帯びる。元山と溪谷社の社員だった節田さんは、トムラウシ遭難の事故検証をやられたが、死亡者の着衣については個人の秘密ということで検証させてもらえなかったそうだ。着衣は最後の生命線であり、重要な情報である。富士山で起きた雪崩遭難でも生還できた人の着衣はウールの下着であったことが注目された。以来ウールが定番化してゆく。メンテナンスや価格の問題もあって、今はポリエステルの極細繊維で吸汗、速乾機能下着が全盛である。
 今回も真相に迫ることなく、幕引きされそうだ。

 ブログ「韓流研究室」では、着衣の貧弱さを日本人の雨具と比較して槍玉にあげている。普段は、コメントはほとんど無いか、2,3件程度がこの遭難に関しては10件をカウント。
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-2580.html

 ブログ「正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現」は普段は東亜の批判記事が多いが、今回の遭難事故もこの視点で紹介されている。コメント数は101件と反響が大きかった。
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-5147.html
一部を転載すると
「山に対し火病を発症
>「韓国人はささいなことですぐ殴るから」

よくわかるよ、すご~くよくわかる(笑)

2013/07/31(水) 10:01:11 | URL | 名前を書いてください #- [ 編集 ]
早速のエントリー。仕事がはやいっwwww
夏場に低体温症で昇天とは。後悔しながらお亡くなりになったと見ますが、彼らの思想のなかに「自己責任」という4文字はないんでしょうね。
成果をもぎ取ればじぶんのもの、うまく行かなければ他人のせい。付きあうのはもともと難しい民族なのですから、今回の件を教訓に、厳しい規制をかけるべきでしょうね。とにかく、「自己責任」なのだということを念書でも何でもとって、分からせることから始めていかないとダメかもしれません。

山小屋での迷惑行為は、彼らのデフォなので当方から言うことなし。逝ってよしwwww
2013/07/31(水) 10:08:46 | URL | マツキヨ #- [ 編集 ]
山で遭難すると結構な捜索費用が掛かるのは日本人なら大概知っていること今回も支払いで揉めるんじゃないかと不安です
山小屋でも他の日本人に迷惑をかけているようだし本当に迷惑な連中。神社でもお寺でも温泉でも迷惑行為ばかり 。家族が箱根へ行ったら中国朝鮮人ばかりで不快だったので二度と行かないと言っていました 。結局韓国人観光客なんて日本人にとってはマイナスにしかならないと思います
入国禁止大賛成
2013/07/31(水) 10:09:20 | URL | トラトラ #- [ 編集 ]

 今後は、円安もあって日本への外人客が増えると思われる。観光客誘致にも熱心だが、コメントに見るように不評も多い。自然体で臨んで欲しいものである。ことさらに熱心な姿勢を見せると、今回のように韓国からの登山者に非常用携帯電話を持たせろ、との要求につながる。
地元紙には韓国の「恥さらし」と書かれたらしい。韓国に「恥」なんてあったのか、「恨」の国ではなかったか。

韓国人の中ア遭難事故に思う2013年08月01日

 中央アルプスの檜尾岳附近での、韓国人グループの遭難報道には驚かされた。4名の死亡という痛ましい結果になった。低体温症で3人、転落で1人とある。パーティを割るな、という鉄則を知ってか知らずか勢いのある元気な人は先行し、無事下山している。
 20人という大人数、軽装、日本人ガイドなし、通信手段なし、高齢者、小屋の人の警告を無視して強行したらしい。高齢者の落伍を無視して行ってしまったのか。ツアー登山では、人間関係も希薄とはいえ、弱った同行者を放置するのは非常識だろう。
 結局は連れてってもらうひとばかりだった。ニュースでは山岳会に所属するベテランもいたというが。日本をみても分かると思うが、気象の変化の速さはヒマラヤの比ではないという。ヒマラヤ登山経験者でも簡単に遭難死するのが日本の山の恐さである。
 要するに個人的に鍛錬して高まるような狭義の登山技術よりも、観天望気を含めた広い意味の登山の常識が身を助けることになる。

 長野県知事は外国公館へ日本の山に登山する際の注意喚起をするようだ。一刻も早いほうがよい。

 剱岳の道標にハングルがあったが、無いほうがよい。あれば単独でも登ってしまう可能性があり、かえって危険だ。日本人ガイドなしで行動できないようにする方が親切だろうに。

 JACの知人らが朝鮮半島の白頭山に登山した際、韓国のツアー会社が同行し、ソウルから中国に飛んで、現地の朝鮮族のガイドをつけたらしい。これと同じで郷に入れば郷に従え、ということだ。日本人は優しくし過ぎてかえって不興を買う。

 今回でも、新潟の韓国領事館の偉い様が入山制限があれば登らなかったと文句を言っている。責任転嫁も甚だしい。もちろん日本人でもあった。
   http://freeride7.blog82.fc2.com/blog-entry-3046.html

 昨年6月のマッキンリーで雪崩で4人が亡くなった。リーダーだけが自力で下山したが、当局の雪崩発生への警告があれば行かなかったと言っていた。今年5月の白馬大雪渓での雪崩事故でも地元では警告を発していたが、知らなかったという。自分で判断するから山は面白い。厳しいようだが、登山は所詮道楽である。結果は自己責任である。

 http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/06/24/6491001

 但し、韓国人の責任転嫁は国民性だと思う。あらゆるルートを通じて、日本の山の恐さと対応方法、遭難時の救助体制を周知しておくことだ。山では何が起きるか分からない。だから充分な食料と暖かい衣料、風雨を凌ぐツエルトくらいは用意したい。ビバークすると高齢者から順に死んでしまうそうだ。軽量化が喧しい時代だが高齢者は1枚余分に持つ必要があろう。加齢すると低温に鈍くなるそうだ。しまった、と思ったらもう死が隣り合わせだ。若い同行者がいてもそこが理解できない。ベテランだからゆっくりでもついてくるでしょう、というもんだろう。若い人に放っておかれてもいいように自分の命は自分で守りたい。

WEB版産経新聞から
2013.8.1 11:58
 長野県の中央アルプス檜尾岳(2728メートル)周辺で7月29日に発生した遭難事故で、県警は1日、死亡した男性4人を韓国人ツアー登山客の一員と確認し、氏名を発表した。

 県警によると、パク・ムンスさん(78)、イ・グンスさん(72)、パク・インシンさん(70)、イ・チョンシクさん(62)。イ・チョンシクさんは滑落で、他の3人は低体温症で死亡したとみられ、それぞれ別々の場所でみつかった。

 長野県の阿部守一知事は1日、険しく天候が変わりやすい日本の山の特徴を各国の政府関係者に伝えたり登山口に外国語のチラシを置いたりして、外国人登山客に注意を呼び掛ける意向を示した。外国人の遭難防止対策を話し合う県の検討会議も設置するとした。

 ツアーには韓国南部・釜山周辺で暮らす40代から70代の男女計20人が参加。空木岳(2864メートル)近くの山荘から檜尾岳を経由し宝剣岳(2931メートル)の山荘までの道中、悪天候で散り散りになった。