三階峰と紅葉ドライブ2023年10月29日

 R153の寒原峠を左折、恩田から林道弓丿又線に右折すると頂上直下まで舗装された一本道である。軽く乗り越すと少し広めの道幅にクルマを停める。
 山頂への尾根には笹ヤブがかぶさるがわずかに切り開きがある。強引に笹を引っ張りながら登るとあっという間に山頂に着いた。6分。テレビのアンテナが立っているが意味不明。ヤブでさえぎられて展望はない。林道と平行する尾根にかすかな踏み跡があるので下って見た。林道との段差が縮まった辺りで林道に下る。マイカーに戻る。周回13分。散歩にもならないが2ヵ月のブランクの身にはにはこれで良い。
 せっかくなので紅葉を楽しむ林道ドライブにした。林道名が弓ノ又線という。弓ノ又川は恩田大川入山が源流で園原川の支流に当たる。新しく舗装されているので地形図にはないが園原方面につながっている見たい。12時前後は太陽が上にあり、ちょうど日光が当たり照り紅葉が素晴らしかった。
いつもと違う山が見える。最初は大川入山だろうと思った。大川入山は南西に右へ1900m前後の山なみのはずだ。北西に見えるし左右に均整がとれた山容は恵那山である。
 平谷村から根羽村は明るくなった気がする。多分全山カラマツ林でわずかに黄ばんできたからです。大川入山は全山黄葉に見えた。標高1400m前後が紅葉の真っ最中です。
 足助は来週以降ライトアップが始まる予定です。今日は天気が良かったせいか、車が多く、帰りは4時過ぎでもトンネル内から渋滞していました。

飯田街道の歴史と文化考2023年08月19日

 南北朝の時代には御醍醐天皇の皇子である宗長親王が浜松の井伊宮、大鹿村の信濃宮を拠点にした。その皇子の尹良親王(ゆきよし)は稲武に拠点を設けて三河宮とした。親王と家来が、伊那谷と三河の稲武、豊根村などを往来したであろう。そして浪合の地で襲われて自害。地形図にも印刷された立派な墳墓がある。戦記『浪合記』が残されている。大和政権がなぜ東国の南信州にまで進出したのか。大和政権は朝鮮半島からの襲来に備えて、防人の傭兵、年貢を納めさせて支配下にしたかったのではないか。東国で平和裏に暮らす山民にとっては迷惑な話で故に権力者への抵抗として襲ったのであろう。
 戦国時代には武田信玄が京都を目指して峠を越えた。蛇峠山には狼煙場を設けた。関所も作った。金山を求めて三河にも進出。杣路峠の近くに愛知県と長野県の県境があるが、尾根や沢ではなく、山腹にある。稲武の郷土史家によると根羽村は足助庄だったという。信玄に押されて信州になったという。金山だった設楽町の出来山の足助側には信玄沢の名が残る。近世末期には日本民俗学の草分けとなる『真澄遊覧記』を著す菅江真澄も峠を越えて故郷の豊橋市には帰ることもなく秋田県で死没。角館市には顕彰碑が建つ。塩の道の交易ルートになるのはその頃からであろう。
 3年位前に「山と溪谷」誌が山で食う団子の特集に協力した。愛知県の山なら当然五平餅になる。調べると飯田街道沿線は小判型、恵那地方は団子を串に刺すタイプだった。飯田市でも食える。一番遠方は四阿山の麓にある鳥居峠直下の売店でも五平餅を売っていた。ここは古東山道でもある。塩はたれになる味噌の発酵に欠かせない。
 サラリーマンのサラリーとは塩の事です。塩は身を養う栄養素のみならず、給料にもなった。俳人で東大の先生だった中村草田男は、学徒出陣する教え子に”勇気こそ地の塩なれや梅真白”と詠んだ。地味で目だたないが大切な働きを意味した。聖書に出てくる言葉でキリスト教徒らしい句です。

治部坂峠踏査2023年08月18日

 性懲りもなくまた治部坂峠を調査に行った。R153を走っていたら5時半、東郷町の交差点で反対車線で大事故があった。信号の柱はこっちがわに倒れ、エンジンルームは大破、ドライバーはタンカに乗せられた。どうなったやら。
 稲武まで快調、気温は23℃。以後も快適ドライブ。今日は治部坂峠のPから馬の背に登ったが微風快晴で50分の高原ハイク。さて下りは地形とGPSを見ながら平谷村と阿智村の境を探った。結果期待した成果無し。阿智村役場の図書館で資料に当たった。浪合村史によると治部坂峠は国道工事で13メートルも深く削られた。と分かった。
 万事休す、往時への郷愁はゼロ。調査完了。
 結果、平谷村の「中の土山」は清水沢と栄太沢の間にある別荘地から南下の地蔵二体の付近と断定した。峠から1kmと平谷村村誌の説明通り。恐らく林道の整備、拡幅で地形変更があった。その工事で消失したと思われる。
 『平谷村誌』の記述にも峠から1kmの場所が「中の土山」と指摘している。縮尺して定規で計測すると峠からぴったり1kmの位置にあるから間違いない。したがって『平谷村誌』には2ヶ所のミスがあった。峠川を清水沢とルビを振っている。別の絵図では別の位置に「中ノ山土」とあった。
 また場所は栄太沢の右岸側の台地とする点も間違っていた。只、未確認のままだが、「中の土山」の地蔵に続く塩の道はおそらく直下の林道工事で消失したと想像する。林道を歩いて見ると必要以上に広くなっているし、斜面が高いところまで削られている。もう一つは地蔵からV字形の清水沢をどう迂回したのか不明のままである。

津島の歴史遺産2023年01月10日

 御醍醐天皇の皇子の宗良親王から孫の尹良親王、その皇子の良王親王の戦記物語である『浪合記』のことを調べたら津島市の良王親王の良王神社を知った。
 舞台は伊那谷の
①大鹿村の信濃宮
②浪合村の尹良親王の墓
③稲武の三河宮などにまたがる。
④良王親王の足跡を追って昨年は津島市を訪ねて街歩きしてみた。
 良王神社は探したが細い路地の中の狭い敷地に肩をすぼめて御座した。PAもない。路地が狭いから車で探索することはできない。おそらく空爆を受けたことがないからだろう。津島市が歴史的に古い面影を残していることを知った。余り知られていない良王親王のことで津島市のHPに問うと観光に活かすとの回答だった。
 この記事を読むと現状を地道に調査されたらしい。加えて歴史上の伝承でも良いから紹介に努めてに欲しいものだ。皇族を預かる津島市のレガシーはもっと知られて良い。
https://www.yomiuri.co.jp/local/aichi/news/20230109-OYTNT50139/?fbclid=IwAR2Zpw_udTgPcvrxPeVD4QlaG6kaEsko1WGdLopQ5pDH_kDj-wmTQNFGG9k

南信の寂峰・丸山を歩く2022年12月31日

 12月31日。この山で山納めの積りだった。丸山の登山口の鈴ヶ沢へは当初は平谷村から五座小屋峠を越えていく道を走りました。人家が途絶えると途端に積雪が増えた。轍は続くものの引き返すポイントを探りながら走った。傾斜も出てきたため引き返した。平谷村の交差点からR418に左折。平谷峠を越えて売木村経由で行きました。迂回した林道もあちこちで凍結路になっている。
 丸山登山口のある鈴ヶ沢へは無住の村を走った。心強いのは宅配便と郵便車とすれ違ったことで人影は見ないが住んでいることは確認できた。
標高968mの鈴ヶ沢は一番奥の村になる。登山口はその手前の950m地点に大きな丸山高津神社の案内板とPがある。無雪期なら里宮まで車で行けるが地形図の神社までの車道は凍結路だった。
 大回りしたために時間ロスが大きいしモチベーションも下がった。NEXTか、行けるだけは行くか。まだ11時40分だからと重い足を向けた。Pから神社まで車で稼ぐ分も歩いたために2時間頑張ったが日没を考慮して比高5
0mまで迫ったが撤退し登頂はできず。(木曽山脈の東側よりは日足は長い)この時期の尾根は積雪もあるし落葉の水分も凍結している。(アイゼンなし)痩せた岩尾根には古びたフィックスロープもあった。引き返したポイントからは笹ヤブと雪がかぶさる。結構手強い山でした。踏み跡、赤テープはしっかりあるので道迷いはないだろう。

『浪合記』ノート②2022年12月19日

 津島市図書館で気になったのは『浪合記・桜雲記』という本だった。コピーに時間を取られて閲覧もできなかった。横断検索しても津島市にしかないのでまた再訪するか。
 ウィキペディアにもあった。
『桜雲記』(おううんき)は、南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立で、作者は書物奉行浅羽成儀と推測されている。書名は、南朝の舞台が吉野であることからして、雲かと見紛うばかりに咲き誇る吉野の桜花の叙景を念頭に置いて付けられたものと考えられる。

『南方紀伝』(なんぽうきでん)は、南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立とみられるが、作者は不詳である。書名に「紀伝」とあるとおり、あたかも天皇列伝の如き形態を採るが、内実は全て編年体の構成である。類書に『桜雲記』がある。南朝紀伝・南朝記とも。

*************************************************

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/namiai1.htm
南北朝動乱期の抹殺された宮将軍・尹良親王
              -『浪合記』の再検討-
                                   宝賀 寿男 

一 はじめに
 
 東大史料編纂所である系図史料を見ていたところ、南北朝動乱期に活動した人についての記事がかなり詳しくあり、それを見て、浪合合戦とそれを記す軍記『浪合記』について見直す必要を感じたので、種々検討のうえ、本稿を記した次第である。
 具体的には、その系図は『穂積姓井出氏系図前書』という駿河国富士郡の井出氏の江戸前期までの史料であり、そのなかの井出小源二郎重注(「注」は「経」のくずし字を誤読誤記したものではないかと推されるが、ここではそのママに記しておく)についての記事である。また、『浪合記』とは、南北朝末期ないし室町前期における後南朝の皇族尹良親王・良王親子二代の信濃国伊那郡浪合での遭難事件(「浪合合戦」と表示されることが多い)を中心にその前後の流浪の経緯や関係する南朝遺臣の後裔まで及ぶ軍記物である。
 
 『浪合記』のこれまでの取り扱われ方は、総じていうと、偽作か価値の乏しい史料とされ、浪合合戦自体も実際にあった事件のか疑問とされてきた。そうした評価をいくつかあげてみると、「現存本は、良王に従った者の子孫と称する天野信景が一七〇九年(宝永六)に書写したとされる本にもとづくが、史料としての信憑性には疑いがあり、史実または伝説をもとに信景が偽作したものと思われる。」(『日本史広辞典』山川出版社、1997年)、「本書は1488(長享二)年の著作となっており、1709(宝永六)年天野信景が美濃高須の松平家の本を写したというが、おそらくは信景が偽作したもので、その記事内容は信用できないというのが渡辺世祐の論文にみえる」(村田正志氏執筆。『日本歴史大辞典』河出書房新社、1985年)というのが代表的なところであろう。
 長野県の歴史研究者である小林計一郎氏は、多少トーンが違っていて、『浪合記』の根底に史実があったこと・南信濃・三河の国境地帯の各地に「ユキヨシ様」伝説が残っていることを認めつつも、同書の「記事は矛盾が多く信用できない。…(中略)…これらの伝説をもとにして、良王供奉の士の子孫と称する天野信景が偽作した可能性が強い」と記されており(『国史大辞典』)、偽作説ということではほぼ同様である。
 浪合村には戦死したと伝える地・宮の原に、尹良親王を祀る浪合神社が鎮座するが、その祭神の変遷過程などから、尹良親王の実在性については、『浪合記』等による作為・捏造だとみられている(平凡社『長野県の地名』463頁)。なお、神社の西に接して尹良親王陵(円墳)があり、現在、宮内庁書陵部の管理下にある。
 これらの事情のせいか、日本史の全集的な刊行物や『長野県史』など歴史学界の書物では、浪合合戦はまったくといってよいくらい取り上げられない。森茂暁氏の『闇の歴史、後南朝』でも言及がない事情にある。
 
 こうして『浪合記』とその研究状況について概観してみると、問題点は多少重複するが、次の四点ほどになってくると思われる。
 ① 『浪合記』の史料的価値はどのようなものか。天野信景の偽作か、たんなる写本か。
 ② 根底に史実があったのか、まったくの虚構か。
 ③ 浪合合戦があったとしたら、それは何時起きた事件だったのか、合戦は何度あったのか(『浪合記』では尹良親王親子が各々経験したとある)。
 ④ 事件関係者の具体的な名前は解明できるのか(尹良親王の実在性などの問題も絡む)。それらの後裔はどうなったのか(三河、尾張などに残って繁衍したのか)。
 こうした問題意識を持ちつつ、以下に具体的な検討を加えていきたい。上記の問題は、徳川家やその譜代家臣諸氏の起源問題とも深く絡んでおり、江戸期に新井白石も注目した書物であったのが、偽書説が広く知られるようになって、大正期の大著『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』(信濃教育会著、1939年)より後では、『浪合記』についても浪合合戦についても十分な検討がなされてこなかった事情にもある。従って、本稿でも『信濃勤王史攷』の記事を基礎に考えていきたい。
 
 最近、インターネットで『浪合記』がいくつか取り上げられ、同書の内容やこの関係の情報が提供されているので、注意をもたれる読者がおられるかもしれない。管見に入った代表的なHPをあげておくと、次のようなものがあり、適宜参照されたい(両HPのご教示等にも感謝申し上げます)。

 a 志岐専弘氏による「中世日本紀略」のなかの 「俗書類従」の「『浪合記』(原初本)」
     http://f25.aaa.livedoor.jp/~zflag/mirrors/kiryaku/namiaiindex.html

 b 芝蘭堂さんによる「軍記で読む南北朝・室町」のなかの「浪合記」
     http://homepage1.nifty.com/sira/

中略

(今後、さらに補記すべき点が出てきたときは、追加を考えたいと思っています)
 
   (06.8.14掲上。9.13追補修正)
 
 ウィキペディアによると
宝賀 寿男(寶賀 壽男、ほうが としお、1946年4月17日 - )は、日本及び北東アジアの古代史・系譜の研究者。日本家系図学会及び家系研究協議会の会長。元大蔵省(現財務省)の官僚。2003年から弁護士(第一東京弁護士会、第二東京弁護士会等)。正式な歴史学者ではなく、古代史のアマチュア研究者である。

※2006年は平成18年なので、廣瀬重見氏の平成27年の論考は2015年になるから9年間の研究の差がある。

ちはやぶる神の御坂に幣奉り 斎ふいのちは母父がため2022年12月14日

20221210神坂峠遺跡
愛国百人一首
http://nagaraushi.g1.xrea.com/ai-kooshio.html

<歌意・鑑賞>
 「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞。「神の御坂」(かみのみさか)は、神を祭って行路の 平安を祈って越える坂のことで、いわゆる「峠」である。信濃国伊那郡から美濃国恵那郡に越え る現在の神坂峠と呼ばれる地であると言われている。「母父」は「おもちち」と読む。
 神を祀ってある山坂に、幣を捧げて平安を祈る命は私のためではなく、父母のためである。
<コメント>
 防人の歌。作者は信濃国の埴科郡の出身で、主張(ふみひと)という郡の書記職にあったといわ れる。しかし、郡の中でのそれだけの地位にある人物が防人になったのかという疑問もあり、 主張丁の「丁」の字が落ちたのではないかとも言われている。「主張丁」ならば、主張が差し 出した丁ということになる。正丁といえば成人男子をさす。その丁である。
 しかし、郡司の主張ではなく防人部領使に所属した主張があったも考えられる。そう考えれば 部領使の下で書記役を務めることができた防人とも考えられる。
 いずれにしても、これだけの歌を詠めたのであるから、書記をつとめられるくらいの素養が あったとしてもおかしくない人物であったのであろう。

http://agimura.net/index.php5/%E7%A5%9E%E5%9D%82%E5%B3%A0
歴史
神坂峠は遺跡の出土品から畿内と東国とをつなぐ道として古代からの通行の要所となっていた。

古事記 (712年/奈良) において日本武尊やまとたけるのみことの東方遠征で「科野の坂の神を言向けて尾張国に還り来て」とは東山道の神坂峠と言われている。
また 755年 (天平勝宝7年/奈良)、防人に立った信濃国埴科郡神人部子忍男かむとべのこおしおが

「ちはやぶる 神の御坂に幣奉り 斎ふ命は母父のため」

と旅の無事を祈った歌が「万葉集」(巻20) に納められている。

815年 (弘仁6年/平安) には天台宗の開祖である伝教大師 (最澄) が東国巡化の折に神坂峠を通行したが、このあまりの難所ぶりを目の当たりにし、通行人の難儀を救うために広済院 (中津川側) と広拯院 (阿智側) という布施屋を建てた。

阿智村の東山道から富士見台へ2022年12月10日

 日照時間が1年で一番短い時期なので出発は予定より1時間半早めました。阿智村の園原は恵那山の東の谷底の村なので日没も早いという計算です。5時起き、現地は7時30分着。すでに10台の先着者がいました。
 7時36分出発。神坂神社の標高は1050m。右手の登山道を歩き、ブナの木コースとの分岐を右にとる。カラマツコースは急登に次ぐ急登でした。ふうふう言いながら登り終えると1471mの平坦な山に着く。標高1400m付近のから5㎝程度の積雪。日当たりの良い所は無雪でした。気温は高く凍結はなかった。スリーシーズン用の登山靴でもOK。まだアイゼンは要らない。
 1471mの平坦なコブを過ぎて鞍部の分岐に着いた。地形図で確認すると三角点を見てない。また登り返した。登山道に露出しているわけではなく、隣の笹薮の盛り上がりが臭いとにらんだが行きがけなので藪の中の三角点探しはパスした。
 鞍部の標高1450mからゆっくりと標高をあげながら1600mの万岳荘まで登る。1570m付近は沢をまたぐので水も得られる。植生も中央アルプスの一角らしく針葉樹も出てくる。針葉樹林の向こうに建物が見えた。万岳荘だ。閉鎖中で静まり返っている。
万岳荘まではマイカー登山者も来ていました。
神坂山は登山口が分からずパス。実は万岳荘の手前にありましたが道標はなし。
 11時20分、富士見台へ登頂。既登の山ですが初めて登った気がする。登山者も思いがけないほど多数いた。360度の大展望でした。
 白山から御嶽、乗鞍、穂高、美ヶ原、八ヶ岳、中ア、南アと名山がずらりと並んだが壮観の一言。11/27の松沢山からは真っ白な南アルプスでしたが雪が解けて黒っぽい。しかし白山は文字通り真っ白で喜ばせた。
 富士見台から1720mのコブの西を巻く道から神坂峠に下り、神坂峠の遺跡を見学。ここにも8台くらいのクルマがあった。
 万岳荘には車道の東山道を歩いて戻り、園原へ下山。帰路はブナの木コースを下った。登りはカラマツコースだったがこっちの方が半分くらいで短い。それにブナの木コースは東山道ではない。
 15時頃に神坂神社のPに戻った。まだ明るかったが日は西に傾いている。予定より1時間30分早めに出て30分早く下山した。早出早着。お陰で時間の余裕ができて、阿智村村営の「湯ったりーな昼神」に入湯。800円。その後R153で帰る予定だったが長時間の登山で疲労したので園原ICから帰名。

東山道を考える①2022年11月28日

 11/27の松沢山の下山後は気になっていた帚木館ビジターセンターを見学してきた。ここは園原と言い、東山道の拠点である。西から神坂峠を越えて信濃へ、と言うよりは東国への第一歩を踏み入れる土地である。
 ウィキペディアには「東山道は『日本書紀』の「東ノヤマノ道」あるいは『西宮紀』の「東ノ道」にあたると考えられている[2]。

 律令時代の東山道は、畿内から陸奥国へ至る東山道諸国の国府を結ぶ駅路で[3]、現在の東北地方へ至る政治・軍事面で重要な最短距離路だった[注釈 1][注釈 2]。」の記載がある。

 年代的には8世紀初め。

  又してもウィキペディアに「中央官制、税制と地方行政組織

 大宝律令の制定によって、律令制国家ができあがった。中央官制は、二官八省と弾正台と五衛府から構成されていた。地方の行政組織は、国・郡・里で統一された。里はのちに郷とされた。さらに道制として、畿内と東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道に区分され、その内部は66国と壱岐嶋・対馬嶋の2嶋が配分された(令制国一覧参照)。軍団は各国に配置され、国司の管轄下におかれた。また田と民は国家のものとされる公地公民制を取り入れ、戸籍により班田が支給された。税は、租庸調と雑役から構成されていた。

 742年(天平14年)大宰府を廃止。翌年、筑紫に鎮西府を置いたが、745年(天平17年)には太宰府が復された。

 東北地方では多賀城、出羽柵等が設置され、蝦夷征討と開発、入植が進められた(既述)。

  農地拡大政策と律令国家

 律令国家は、高度に体系化された官僚組織を維持するため、安定した税収を必要とした。」

 東国とは
「「日本」という国号が定められる前、「ヤマト」がそのまま国全体を指す言葉として使われていた当時――7世紀中葉以前の古代日本においては、現在の東北地方北部はまだその領域に入っておらず、東北地方南部から新潟県の中越・下越地方及び九州南部は未だ完全に掌握できていない辺境であり、ヤマトの支配領域は関東地方・北陸地方から九州北部までであった。つまり、「アヅマ」とは、「ヤマト」の東側――特にその中心であった奈良盆地周辺より東にある地域を漠然と指した言葉であったと考えられている(ただし、初めから「アヅマ」を東の意味で用いていたものなのか、それとも元々は別の語源に由来する「アヅマ」と呼ばれる地名もしくは地域が存在しておりそれがヤマトの東方にあったために、後から東もしくは東方全体を指す意味が付け加えられたものなのか、については明らかではない)。

「アヅマ」や「アヅマノクニ」という語は元から漠然としたもので、確かな定義をもって用いられてきたわけではないため、時代が進むにつれてそれらを指す地理的範囲について様々な考え方が生じたのである。」
「坂東と区別して東北地方は蝦夷(えみし)あるいは陸奥(みちのく)と呼ばれる」

http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/yamatotakeru.htm
ヤマトタケルの東征

 「ヤマトタケルの東征物語は大和朝廷の東国への勢力拡大を象徴する四世紀頃の、ある程度事実を反映した物語である。
 『古事記』が和銅五年(712年)、『日本書紀』が養老四年(720年)に編纂され、ヤマトタケル伝承はそれより四百年もさかのぼる遠い昔の話であり、それも大和の側の視点で書かれた物語でありそのまま史実とはみなせないが、当時の情勢を推測することができる。
 ヤマトタケルは第12代景行天皇の子供であり天皇の命により、南九州の熊曾建くまそたけるや出雲の出雲建いずもたけるを討つ西征をした後、東国の蝦夷えみし征服の東征を行った。
 なお、ヤマトタケルは古事記では倭建命であり、日本書紀では日本武尊である。」

・・・・ざっと読めば神坂峠は東国への入り口だったのだ。東国の人々は天皇の支配に抵抗しして従わない人々である。だから東征と言う言葉にもなる。
 東国とは天皇が支配する大和の国とは違う異国であった。当然租税も納めなかった。そこで多賀城を拠点にみちのく支配が強まってゆく。この中には北畠一族がいた。北畠親房は御醍醐天皇に仕えて『神皇正統記』を著した。つまり日本は天皇の国とした。
 北畠の末裔は今も青森県に生きている。浪岡姓を名乗ることもある。文化は辺境に残るのである。
 
 木曽山脈は西日本と東日本の分水界だった。同時に文化も違った。木曽山脈を境に西は沢と言い、東は谷と言う。西に沢があるのは東国の人が入った証である。黒部川は西国だが薬師沢がある。谷もあるので混じっている。
 東は縄文遺跡の歴史が長い。約15000年前という。西は清洲の弥生遺跡でも2400年前という。明らかに縄文人の方が長い。弥生人は日本列島の新参者であろう。
 但し、金属を製錬する技があり武器や農機具を生産できたから農業は発展したであろう。西から次々に弥生人が縄文人と同化してきて最後の壁が木曽山脈だった。
 諏訪、八ヶ岳山麓の縄文遺跡からは胞衣が大切に扱われた。胞衣は境界の印。恵那山は実は東日本はここからは東国という印で胞衣を埋設したのではないか。
 西の湯舟沢は伊勢神宮の遷宮の用材の産地だった。だから伊勢神宮側の神話だと思われた。実際、アマテラスの赤ちゃんを洗った血洗い池がある。血洗神社もある。湯船沢川もアマテラスの湯船の伝承がある。てっきり伊勢神宮側の話と思われた。

伊那谷の松沢山を歩く2022年11月27日

 去る11/5に時間切れで登れなかった松沢山。又とない好天が来たから再度行ってみた。今回も日の短い時期なのと伊那谷は木曽山脈が高い分日暮れがはやいので中央道で早立ちしました。
 今日も瑞浪と神坂付近で対面通行でちょっと遅れたが渋滞はなかった。
 予定通り日の入峠から松沢山に登った。1時間45分。標高1300m付近までは植林内で急登を強いられる。余り面白味はないが、1400mに近くなるとなんと自然林が広がった。太平洋型のブナ、カンバ類、くぬぎなどの大木もあり原生林の雰囲気のあるいい山でした。但し樹林に囲まれて展望はない。落葉期なので遠くに白い山は見えた。
 登る際に左から2本の枝道があった。原生林と植林の境付近、山頂付近です。境付近の道は1177mの尾根を下る記録があったので明瞭でもあり時間もあるので下山してみた。北青見平という美しい地名の高原に無事下山できました。1177mからはやせ尾根であり傾斜がきつく踏み跡も不明瞭ですがピンクのテープを頼りに下れた。分岐も迷いそうなところが2ヶ所あった。
 下った北青見平は開拓の村、別荘もあるが南アルプスの眺めがすこぶる良かった。高原の標高800mから日の入峠へは比高100mの登り返しになる。
 山頂からの枝道は地形図を見ると谷に食い込む林道(終点は1000m位)に下れる気がする。ここから登っても面白そうです。(未確認)周回して6.8km、約4時間20分とほどほどの強度です。登りは1時間45分、下りは2時間半でした。