忘年山行・長者峰&高嶺2024年11月17日

 午前5時に起床。外は暗い。もたもたするうちに6時前に自宅を出た。ようやく東の空が焼け始めた。音聞橋から眺めると雄大に見える。天白の牛丼屋で朝定を食う。6時半に出る。
 今日は東の彼方の南信州の山で山岳会の新人歓迎会と忘年会である。
 R153からR301、そして松平橋を左折、県道を足助に向かう。紅葉期は過ぎたがまだ観光客は多いので早朝に足助の街を駆け抜けた。通行量はやはり多い。
 標高500mの稲武の道の駅「どんぐりの里 いなぶ」でトイレタイム。Pは早朝でも50%は埋まる。ナビをチエックすると残り30分くらいのドライブ。稲武はクロスロードなので飯田、豊橋、恵那へと分散する。飯田方面も少なくはないが今までよりは減った。
 R153は足助からは山坂が多くカーブも多い。オーバードライブのボタンをオフにして走る。エンジンの回転数を高めに保ち、トルクの強いところを維持する。以前の3000ccターボディーゼルは余り考えもしなかったが今のクルマは2500ccと500ccも減らしたからトルクも減ってトップギアの走行が不安定になった。
 日産のND350キャラバンの8年落を購入後、エンジンルームからの異音に気づいてファンベルトとテンショナーの部品を交換してもらった。低速域での使い勝手が悪くなった。最近になって気が付いたことは最小回転半径が4.9mから5.9mに大きくなったことである。だから回転や駐車にちょっと手間取る。
 現在販売中の日産キャラバンは2400CCとさらに100ccダウンサイジングしたために7速の変速機を使わざるを得ないのだろう。
 そうこう考えながら走るうちに根羽村を一気に駆け抜け、標高920mの
道の駅 信州平谷のPに着いた。午前8時30分過ぎだった。毛糸の帽子をかぶったリーダーが目に着いたのでそこへ走った。出発の準備中で私もさっそく支度にとりかかる。
 トイレを済まし、出発したのは午前9時5分。柳川を渡って右岸に諏訪神社を見て右折。しばらく車道を歩き養蜂農家の前を過ぎると左へ大きくカーブする。左から来る小沢の手前に登山口がある。舗装路から別れて砂利道に入るとすぐに1040mの独立標高点のある尾根へ渡渉する。この尾根は最初は植林だが尾根が急登になると自然林になる。足元にはどんぐりの実が一杯落ちている。しかも太っている。
 自然林に日光が当たって美しい。急登に耐えながら行くと山毛欅の古木があった。すぐに舗装された林道に飛び出す。30分ごとに林道を串刺しにしながら長者峰のPに着く。
 そこで先着の会員らが居た。目の前の小屋でさっそくお湯を沸かし肉まん&あんまんを蒸す準備に取り掛かる。小屋では宿泊と火器の禁止を謳うが、今日のイベントでお湯を沸かす許可は事前に断ってある。
 思いがけない冬晴れのお陰で360度のうち180度くらいは丸見えだった。しかも風もなく穏やかで小春日和といったところである。次々蒸し挙がる肉まんあんまんを食べて年忘れである。また車での登山組も3名登ってきた。
 山頂のPにはライダーが多数登ってきている。三角点のある所の展望台はガラス張りになっており先着の山のグループが占領していた。
 肉まんあんまんを食べ終えると高嶺へミニハイキングに行った。登山道は林道で山頂直下で笹薮の切り開きを登る。黒い柴犬を連れた親子夫婦が先着していた。眺めは西にちょっと開ける。
 長者峰に戻って下山である。車で来たグループはお迎えが来て帰って行った。我々は自分の足で登ってきた道を下る。若い60歳代のメンバーは素早い。それでも尾根の中間点で待機してくれていた。
 後期高齢者の私との差はやっぱり足腰と膝のバネだろう。今夏ジャンダルムへ登ってきた60代の女性2名は細い、軽い。足腰のバネがある。あっという間に登りあっという間に下ってしまう。かつて年長の人と富士登山で詠んだ拙句  
   遅れがちの老登山者に歩を合はす
が今では自画像になった。
 最後は待っていてもくれず、ただ一人急峻な尾根をとぼとぼ下る。道の駅のPで再会した。雑談しているとふわふわと白い虫が飛んでいる。雪虫であった。雪虫が飛ぶと1週間以内に降雪を見るという。冬の到来を告げる虫である。
 帰路はR153を辿り途中からR343、またR153,県道58で帰宅した。
 ヤマップのデータでは往復9.9km。登りは約2時間半。高嶺往復は25分。下りは1時間20分だった。平均ペース130~150%で速い。らしい。コース定数は18でふつう。らしい。

御嶽山噴火から10年2024年09月27日

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240927/k10014592781000.html

 死者・行方不明者が63人にのぼり、「戦後最悪の火山災害」となった御嶽山の噴火から27日で10年です。
ふもとの長野県王滝村では追悼式が行われ、遺族らが犠牲者に祈りをささげ、教訓を伝え続けることへの誓いを新たにしました。

 長野と岐阜の県境にある御嶽山では、10年前の2014年9月27日に最高峰・剣ヶ峰の南西側の斜面で突然、噴火が発生し、58人が死亡、5人が行方不明となりました。

 27日は、ふもとの王滝村で遺族や自治体の関係者など70人が出席するなか追悼式が行われ、噴火が起きた時刻と同じ午前11時52分に合わせて犠牲者に祈りをささげ、教訓を伝え続けることへの誓いを新たにしました。

 続いて、同じくふもとの木曽町の原久仁男町長が「噴火から10年の日、改めて人命の安全を第1に考え火山防災対策にまい進していくことを誓います」と述べました。

 また、父親を亡くした神戸市の松井登輝也さんは「長い年月をかけて徐々に気持ちの整理をつけることができたかもしれませんが、この傷は一生治ることはありません。父の思いを伝えていくこと、災害の教訓を伝承していくことが、与えられた使命だと思っています」と述べました。

 そして、遺族ら一人ひとりが、慰霊碑の前に設けられた献花台に花を供えました。

 長野と岐阜の県境にある御嶽山では、10年前の2014年9月27日に最高峰・剣ヶ峰の南西側の斜面で突然、噴火が発生し、58人が死亡、5人が行方不明となりました。

27日は、ふもとの王滝村で遺族や自治体の関係者など70人が出席するなか追悼式が行われ、噴火が起きた時刻と同じ午前11時52分に合わせて犠牲者に祈りをささげ、教訓を伝え続けることへの誓いを新たにしました。

 続いて、同じくふもとの木曽町の原久仁男町長が「噴火から10年の日、改めて人命の安全を第1に考え火山防災対策にまい進していくことを誓います」と述べました。

 また、父親を亡くした神戸市の松井登輝也さんは「長い年月をかけて徐々に気持ちの整理をつけることができたかもしれませんが、この傷は一生治ることはありません。父の思いを伝えていくこと、災害の教訓を伝承していくことが、与えられた使命だと思っています」と述べました。

 そして、遺族ら一人ひとりが、慰霊碑の前に設けられた献花台に花を供えました。

 27日、遺族などは登山者に安全な登山を呼びかけました。

 呼びかけを行ったのは、御嶽山の噴火による犠牲者の遺族などで作る「山びこの会」のメンバー9人です。

 御嶽山は長野と岐阜の県境にあり、27日朝は、長野県王滝村にある登山口で山頂などを目指す登山者に「登山前の情報収集」、「万全な装備」などとメッセージが書かれたキーホルダーを手渡しながら、安全を呼びかけていました。
以下略
・・・・噴火、地震の予測はできない。遺族らは国に訴訟しているがちょっと違うんじゃないか。
 個人的にはスキー場開発の過剰な開発行為だろう。若い頃は標高1900m地点でリフトを降りて、今の三笠山山麓は巨木のシラビソの間をスキーで登った。ここを開発してゴンドラを掛けた。巨木を伐採するだけではなく、根っ子をダイナマイトで吹き飛ばし、クレーターのような穴が空く。そこは雪だまりになるから、解けて地中に浸透して行く。三笠山の山腹だから中は溶岩が溶けている。そこに水が到達すると水蒸気爆発する。
 長野県のスキー場は他に二ヶ所、岐阜県も遅れて千間樽の原生林を伐採してスキー場が開発された。これは2800m近くまで達する。こうした開発を長い期間にやったから丸裸になったわけだ。
 知っていて開発したのか。知らなかったのか、とにかく自然への畏怖が無かったことだけは確かである。

南信州・フロヤ沢遡行②2024年08月19日

 朝5時に起きて朝食を済ます。テントをたたんでフロヤ沢の入渓地に行く。身支度を整えて大きな堰堤を右から越えると平凡な沢に入った。しばらくは滝もなく平流が続き、実線で示す林道の終点にある大きな堰堤を右から巻いた。ちょっと高いので短いロープで懸垂下降して沢に下る。
 両岸が迫りV字形の谷相に変わる。小さな直登できる滝が現れていよいよ沢歩きらしい。特に困難な滝はないままに終わるか、と思っていたら標高1550m付近に直瀑10mの滝が立ちふさがった。遡行は不能、右も左も巻けない。それでも左にけもの道が岩の尾根に続いている。フエルトシューズでは角付けが不安定だがけものの歩いた後は結構しっかり足場になる。上部では岩が脆く支点が頼りないのでお助けロープを出してもらった。
 岩のやせ尾根に乗って先を見るとそこで断崖になるので左の流れのない空谷にそろそろと降りて小岩の散乱する谷を適度に登ってまた尾根に登り返した。40mのロープぎりぎりで懸垂下降で滝の落ち口に立った。再び遡行を再開。二岐を何度もやり過ごし、ついに水流が絶えた。と同時に地形図に表現された土の崖が見えたので笹の斜面を漕いで登山道に出た。リーダーの大声が聞こえる。右へいくとすぐに山頂だった。曇りでもあるのでアルプス展望台は割愛(先週行ったので)した。
山頂にが飯田市から若いカップルが休んでいた。人気の山だが平日はさすがに少ない。
 休憩後12時過ぎに五座小屋峠に向けて下山を開始。阿南町と平谷村の境界尾根である。最初から笹と灌木のからむヤブの尾根を下る。両方とも急峻な源頭だ。転落すると100mくらいはあっという間に滑落するだろう。笹や灌木の枝をつかみながら足元で探りながらゆっくりくだった。それでも登るよりは楽だ。
 途中にあるコブでルートから平谷村側に下る尾根に外れるのでその度に左へ笹の海を泳ぐかのように戻った。
1500mのコブが二つあるところで町村尾根と別れて九十度西に降る。しばらく笹薮を漕いだが鞍部で良い道が突然現れた。しかも赤テープが高い頻度で出てきた。無名の尾根を歩く好事家はいるものである。後は踏み跡を歩くだけだ。まもなく林道終点に着いた。もうRFの苦労から解放された。
 林道の入り口から若干登り返すと五座小屋峠だ。若い頃はこの峠から千本立に登ったが記憶はない。その他源四山にも登ったという記憶はある。
 別荘地への入り口2ヶ所を過ぎるとあとは下るのみ。クルマが見えると9時間45分の長丁場の「バリ山行」も終わった。
 ひまわりの湯に浸かる。またR153を名古屋に向けてハンドルを交代しながら帰った。

南信州・フロヤ沢遡行①2024年08月18日

 8/18(日)の夜8時ごろ平谷村へ向けて出発。目的地は8/13に幼児を連れて登ったばかりの蛇峠山。
 ミニハイキングから今度は芥川賞を受賞した「バリ山行」である。バリ山行が純文学になる。
 矢作川の源流は根羽村の茶臼山であるが長さで言えば平谷村の大川入山に突き上げる柳川である。三河湾まで約200kmある。以前から遡行の機会を狙って記録を調べると一日がかりで私の体力では沢中一泊になる。そこで蛇峠山を、と記録を調べるとヒットしない。それじゃ、とフロヤ沢を遡行して蛇峠山になった。この時期にふさわしい名前の沢だ。
 平谷村に付いてR153から靭にそれる。ここは飯田街道が塩の道と呼ばれたころの古い宿屋がまだ残っている。最奥の村だ。その三差路を右折するとフロヤ沢に沿う県道になる。入渓地点付近で仮泊の適地を探したがないので靭の奥の林道ゲートまで行ってテント設営。12時を回ったのでミニ宴会は止めて就寝。

三階峰と紅葉ドライブ2023年10月29日

 R153の寒原峠を左折、恩田から林道弓丿又線に右折すると頂上直下まで舗装された一本道である。軽く乗り越すと少し広めの道幅にクルマを停める。
 山頂への尾根には笹ヤブがかぶさるがわずかに切り開きがある。強引に笹を引っ張りながら登るとあっという間に山頂に着いた。6分。テレビのアンテナが立っているが意味不明。ヤブでさえぎられて展望はない。林道と平行する尾根にかすかな踏み跡があるので下って見た。林道との段差が縮まった辺りで林道に下る。マイカーに戻る。周回13分。散歩にもならないが2ヵ月のブランクの身にはにはこれで良い。
 せっかくなので紅葉を楽しむ林道ドライブにした。林道名が弓ノ又線という。弓ノ又川は恩田大川入山が源流で園原川の支流に当たる。新しく舗装されているので地形図にはないが園原方面につながっている見たい。12時前後は太陽が上にあり、ちょうど日光が当たり照り紅葉が素晴らしかった。
いつもと違う山が見える。最初は大川入山だろうと思った。大川入山は南西に右へ1900m前後の山なみのはずだ。北西に見えるし左右に均整がとれた山容は恵那山である。
 平谷村から根羽村は明るくなった気がする。多分全山カラマツ林でわずかに黄ばんできたからです。大川入山は全山黄葉に見えた。標高1400m前後が紅葉の真っ最中です。
 足助は来週以降ライトアップが始まる予定です。今日は天気が良かったせいか、車が多く、帰りは4時過ぎでもトンネル内から渋滞していました。

飯田街道の歴史と文化考2023年08月19日

 南北朝の時代には御醍醐天皇の皇子である宗長親王が浜松の井伊宮、大鹿村の信濃宮を拠点にした。その皇子の尹良親王(ゆきよし)は稲武に拠点を設けて三河宮とした。親王と家来が、伊那谷と三河の稲武、豊根村などを往来したであろう。そして浪合の地で襲われて自害。地形図にも印刷された立派な墳墓がある。戦記『浪合記』が残されている。大和政権がなぜ東国の南信州にまで進出したのか。大和政権は朝鮮半島からの襲来に備えて、防人の傭兵、年貢を納めさせて支配下にしたかったのではないか。東国で平和裏に暮らす山民にとっては迷惑な話で故に権力者への抵抗として襲ったのであろう。
 戦国時代には武田信玄が京都を目指して峠を越えた。蛇峠山には狼煙場を設けた。関所も作った。金山を求めて三河にも進出。杣路峠の近くに愛知県と長野県の県境があるが、尾根や沢ではなく、山腹にある。稲武の郷土史家によると根羽村は足助庄だったという。信玄に押されて信州になったという。金山だった設楽町の出来山の足助側には信玄沢の名が残る。近世末期には日本民俗学の草分けとなる『真澄遊覧記』を著す菅江真澄も峠を越えて故郷の豊橋市には帰ることもなく秋田県で死没。角館市には顕彰碑が建つ。塩の道の交易ルートになるのはその頃からであろう。
 3年位前に「山と溪谷」誌が山で食う団子の特集に協力した。愛知県の山なら当然五平餅になる。調べると飯田街道沿線は小判型、恵那地方は団子を串に刺すタイプだった。飯田市でも食える。一番遠方は四阿山の麓にある鳥居峠直下の売店でも五平餅を売っていた。ここは古東山道でもある。塩はたれになる味噌の発酵に欠かせない。
 サラリーマンのサラリーとは塩の事です。塩は身を養う栄養素のみならず、給料にもなった。俳人で東大の先生だった中村草田男は、学徒出陣する教え子に”勇気こそ地の塩なれや梅真白”と詠んだ。地味で目だたないが大切な働きを意味した。聖書に出てくる言葉でキリスト教徒らしい句です。

治部坂峠踏査2023年08月18日

 性懲りもなくまた治部坂峠を調査に行った。R153を走っていたら5時半、東郷町の交差点で反対車線で大事故があった。信号の柱はこっちがわに倒れ、エンジンルームは大破、ドライバーはタンカに乗せられた。どうなったやら。
 稲武まで快調、気温は23℃。以後も快適ドライブ。今日は治部坂峠のPから馬の背に登ったが微風快晴で50分の高原ハイク。さて下りは地形とGPSを見ながら平谷村と阿智村の境を探った。結果期待した成果無し。阿智村役場の図書館で資料に当たった。浪合村史によると治部坂峠は国道工事で13メートルも深く削られた。と分かった。
 万事休す、往時への郷愁はゼロ。調査完了。
 結果、平谷村の「中の土山」は清水沢と栄太沢の間にある別荘地から南下の地蔵二体の付近と断定した。峠から1kmと平谷村村誌の説明通り。恐らく林道の整備、拡幅で地形変更があった。その工事で消失したと思われる。
 『平谷村誌』の記述にも峠から1kmの場所が「中の土山」と指摘している。縮尺して定規で計測すると峠からぴったり1kmの位置にあるから間違いない。したがって『平谷村誌』には2ヶ所のミスがあった。峠川を清水沢とルビを振っている。別の絵図では別の位置に「中ノ山土」とあった。
 また場所は栄太沢の右岸側の台地とする点も間違っていた。只、未確認のままだが、「中の土山」の地蔵に続く塩の道はおそらく直下の林道工事で消失したと想像する。林道を歩いて見ると必要以上に広くなっているし、斜面が高いところまで削られている。もう一つは地蔵からV字形の清水沢をどう迂回したのか不明のままである。

津島の歴史遺産2023年01月10日

 御醍醐天皇の皇子の宗良親王から孫の尹良親王、その皇子の良王親王の戦記物語である『浪合記』のことを調べたら津島市の良王親王の良王神社を知った。
 舞台は伊那谷の
①大鹿村の信濃宮
②浪合村の尹良親王の墓
③稲武の三河宮などにまたがる。
④良王親王の足跡を追って昨年は津島市を訪ねて街歩きしてみた。
 良王神社は探したが細い路地の中の狭い敷地に肩をすぼめて御座した。PAもない。路地が狭いから車で探索することはできない。おそらく空爆を受けたことがないからだろう。津島市が歴史的に古い面影を残していることを知った。余り知られていない良王親王のことで津島市のHPに問うと観光に活かすとの回答だった。
 この記事を読むと現状を地道に調査されたらしい。加えて歴史上の伝承でも良いから紹介に努めてに欲しいものだ。皇族を預かる津島市のレガシーはもっと知られて良い。
https://www.yomiuri.co.jp/local/aichi/news/20230109-OYTNT50139/?fbclid=IwAR2Zpw_udTgPcvrxPeVD4QlaG6kaEsko1WGdLopQ5pDH_kDj-wmTQNFGG9k

南信の寂峰・丸山を歩く2022年12月31日

 12月31日。この山で山納めの積りだった。丸山の登山口の鈴ヶ沢へは当初は平谷村から五座小屋峠を越えていく道を走りました。人家が途絶えると途端に積雪が増えた。轍は続くものの引き返すポイントを探りながら走った。傾斜も出てきたため引き返した。平谷村の交差点からR418に左折。平谷峠を越えて売木村経由で行きました。迂回した林道もあちこちで凍結路になっている。
 丸山登山口のある鈴ヶ沢へは無住の村を走った。心強いのは宅配便と郵便車とすれ違ったことで人影は見ないが住んでいることは確認できた。
標高968mの鈴ヶ沢は一番奥の村になる。登山口はその手前の950m地点に大きな丸山高津神社の案内板とPがある。無雪期なら里宮まで車で行けるが地形図の神社までの車道は凍結路だった。
 大回りしたために時間ロスが大きいしモチベーションも下がった。NEXTか、行けるだけは行くか。まだ11時40分だからと重い足を向けた。Pから神社まで車で稼ぐ分も歩いたために2時間頑張ったが日没を考慮して比高5
0mまで迫ったが撤退し登頂はできず。(木曽山脈の東側よりは日足は長い)この時期の尾根は積雪もあるし落葉の水分も凍結している。(アイゼンなし)痩せた岩尾根には古びたフィックスロープもあった。引き返したポイントからは笹ヤブと雪がかぶさる。結構手強い山でした。踏み跡、赤テープはしっかりあるので道迷いはないだろう。

『浪合記』ノート②2022年12月19日

 津島市図書館で気になったのは『浪合記・桜雲記』という本だった。コピーに時間を取られて閲覧もできなかった。横断検索しても津島市にしかないのでまた再訪するか。
 ウィキペディアにもあった。
『桜雲記』(おううんき)は、南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立で、作者は書物奉行浅羽成儀と推測されている。書名は、南朝の舞台が吉野であることからして、雲かと見紛うばかりに咲き誇る吉野の桜花の叙景を念頭に置いて付けられたものと考えられる。

『南方紀伝』(なんぽうきでん)は、南北朝時代における南朝の盛衰とその後胤(後南朝)を扱った史書・軍記。江戸時代前期の成立とみられるが、作者は不詳である。書名に「紀伝」とあるとおり、あたかも天皇列伝の如き形態を採るが、内実は全て編年体の構成である。類書に『桜雲記』がある。南朝紀伝・南朝記とも。

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http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/namiai1.htm
南北朝動乱期の抹殺された宮将軍・尹良親王
              -『浪合記』の再検討-
                                   宝賀 寿男 

一 はじめに
 
 東大史料編纂所である系図史料を見ていたところ、南北朝動乱期に活動した人についての記事がかなり詳しくあり、それを見て、浪合合戦とそれを記す軍記『浪合記』について見直す必要を感じたので、種々検討のうえ、本稿を記した次第である。
 具体的には、その系図は『穂積姓井出氏系図前書』という駿河国富士郡の井出氏の江戸前期までの史料であり、そのなかの井出小源二郎重注(「注」は「経」のくずし字を誤読誤記したものではないかと推されるが、ここではそのママに記しておく)についての記事である。また、『浪合記』とは、南北朝末期ないし室町前期における後南朝の皇族尹良親王・良王親子二代の信濃国伊那郡浪合での遭難事件(「浪合合戦」と表示されることが多い)を中心にその前後の流浪の経緯や関係する南朝遺臣の後裔まで及ぶ軍記物である。
 
 『浪合記』のこれまでの取り扱われ方は、総じていうと、偽作か価値の乏しい史料とされ、浪合合戦自体も実際にあった事件のか疑問とされてきた。そうした評価をいくつかあげてみると、「現存本は、良王に従った者の子孫と称する天野信景が一七〇九年(宝永六)に書写したとされる本にもとづくが、史料としての信憑性には疑いがあり、史実または伝説をもとに信景が偽作したものと思われる。」(『日本史広辞典』山川出版社、1997年)、「本書は1488(長享二)年の著作となっており、1709(宝永六)年天野信景が美濃高須の松平家の本を写したというが、おそらくは信景が偽作したもので、その記事内容は信用できないというのが渡辺世祐の論文にみえる」(村田正志氏執筆。『日本歴史大辞典』河出書房新社、1985年)というのが代表的なところであろう。
 長野県の歴史研究者である小林計一郎氏は、多少トーンが違っていて、『浪合記』の根底に史実があったこと・南信濃・三河の国境地帯の各地に「ユキヨシ様」伝説が残っていることを認めつつも、同書の「記事は矛盾が多く信用できない。…(中略)…これらの伝説をもとにして、良王供奉の士の子孫と称する天野信景が偽作した可能性が強い」と記されており(『国史大辞典』)、偽作説ということではほぼ同様である。
 浪合村には戦死したと伝える地・宮の原に、尹良親王を祀る浪合神社が鎮座するが、その祭神の変遷過程などから、尹良親王の実在性については、『浪合記』等による作為・捏造だとみられている(平凡社『長野県の地名』463頁)。なお、神社の西に接して尹良親王陵(円墳)があり、現在、宮内庁書陵部の管理下にある。
 これらの事情のせいか、日本史の全集的な刊行物や『長野県史』など歴史学界の書物では、浪合合戦はまったくといってよいくらい取り上げられない。森茂暁氏の『闇の歴史、後南朝』でも言及がない事情にある。
 
 こうして『浪合記』とその研究状況について概観してみると、問題点は多少重複するが、次の四点ほどになってくると思われる。
 ① 『浪合記』の史料的価値はどのようなものか。天野信景の偽作か、たんなる写本か。
 ② 根底に史実があったのか、まったくの虚構か。
 ③ 浪合合戦があったとしたら、それは何時起きた事件だったのか、合戦は何度あったのか(『浪合記』では尹良親王親子が各々経験したとある)。
 ④ 事件関係者の具体的な名前は解明できるのか(尹良親王の実在性などの問題も絡む)。それらの後裔はどうなったのか(三河、尾張などに残って繁衍したのか)。
 こうした問題意識を持ちつつ、以下に具体的な検討を加えていきたい。上記の問題は、徳川家やその譜代家臣諸氏の起源問題とも深く絡んでおり、江戸期に新井白石も注目した書物であったのが、偽書説が広く知られるようになって、大正期の大著『建武中興を中心としたる信濃勤王史攷』(信濃教育会著、1939年)より後では、『浪合記』についても浪合合戦についても十分な検討がなされてこなかった事情にもある。従って、本稿でも『信濃勤王史攷』の記事を基礎に考えていきたい。
 
 最近、インターネットで『浪合記』がいくつか取り上げられ、同書の内容やこの関係の情報が提供されているので、注意をもたれる読者がおられるかもしれない。管見に入った代表的なHPをあげておくと、次のようなものがあり、適宜参照されたい(両HPのご教示等にも感謝申し上げます)。

 a 志岐専弘氏による「中世日本紀略」のなかの 「俗書類従」の「『浪合記』(原初本)」
     http://f25.aaa.livedoor.jp/~zflag/mirrors/kiryaku/namiaiindex.html

 b 芝蘭堂さんによる「軍記で読む南北朝・室町」のなかの「浪合記」
     http://homepage1.nifty.com/sira/

中略

(今後、さらに補記すべき点が出てきたときは、追加を考えたいと思っています)
 
   (06.8.14掲上。9.13追補修正)
 
 ウィキペディアによると
宝賀 寿男(寶賀 壽男、ほうが としお、1946年4月17日 - )は、日本及び北東アジアの古代史・系譜の研究者。日本家系図学会及び家系研究協議会の会長。元大蔵省(現財務省)の官僚。2003年から弁護士(第一東京弁護士会、第二東京弁護士会等)。正式な歴史学者ではなく、古代史のアマチュア研究者である。

※2006年は平成18年なので、廣瀬重見氏の平成27年の論考は2015年になるから9年間の研究の差がある。