門玲子『玉まつり』購読2020年06月17日

あの深田先生が何故・・・ 復員後の深田久弥が志げ子夫人と暮らした大聖寺・金沢で親しく夫妻の謦咳に接した著者には、思いがけぬ深田の噂は大きな謎となった。 作品を丹念に読み解くことで昭和文学史の真実に迫る。久弥、八穂、志げ子への鎮魂の書。
幻戯書房刊。2020.5.24

表紙は富士写ヶ岳

副題
深田久弥『日本百名山』と『津軽の野づら』と

門玲子(ウィキペディア)

門 玲子(かど れいこ、1931年3月24日[1]- )は、日本近世文学研究者。
石川県加賀市大聖寺生まれ。1953年金沢大学文学部卒。1980年『江馬細香 化政期の女流詩人』で第8回泉鏡花記念金沢市民文学賞受賞。1998年『江戸女流文学の発見』により毎日出版文化賞受賞。江馬細香など近世の女性漢詩人、只野真葛など近世の女性思想家について研究している。

幻戯書房NEWSから
 
深田久弥と同郷で、復員後の深田と身近に接した著者が、当時を回想し、深田と北畠八穂の作品を丹念に読み込み、昭和文学史の真実に迫る、鎮魂の長篇エッセイ。

●本文より
 深田は長患いの八穂のためにさまざまに心を砕いている。上林暁の《この夫婦は辛い夫婦だつた》という言葉が思い合わされた。

中日新聞書評
深田久弥の謎 読み解く 同郷の門玲子さん 長編エッセー出版
 石川県大聖寺町(現加賀市)出身で「日本百名山」の著者として知られる作家深田久弥(きゅうや)(一九〇三〜七一年)。戦前は鎌倉文士として名をはせた深田が、戦後は大聖寺や金沢市で七年半を暮らし、「山の文学者」となっていったのはなぜか−。同郷の出身で、久弥と妻志げ子とも親交のあった女性史研究家の門玲子さん(89)=愛知県大府市=が、作品を読み解きながらその謎に向き合った長編エッセー「玉まつり 深田久弥『日本百名山』と『津軽の野づら』と」(幻戯書房)を出版した。(松岡等)
 東京帝国大在学中に改造社の編集者となった深田は、懸賞小説の下読みで、後に作家、詩人となる北畠八穂(やほ)(一九〇三〜八二年)の応募してきた作品「津軽林檎」に才能を感じ、八穂の住む青森まで出向く。
 結ばれた二人は、千葉・我孫子、東京・本所、鎌倉と移り住み、深田は文壇で頭角を現していく。しかしその出世作ともいわれる「津軽の野づら」に収められた「あすならう」は「津軽林檎」を元にしており、当時発表された作品のいくつかは八穂の下書きを元にした「共同作業」だった。
 また深田は、初恋の人だった志げ子と再会し、鎌倉でカリエスに悩まされていた八穂を残して、志げ子との間に子をもうける。出征した中国から復員後、深田は文壇を離れ、志げ子との間に生まれた子どもたち家族と故郷に暮らしながら国内の山々に登り、ヒマラヤの文献などを集めて読み込み、「山の文学者」となっていく。
 八穂は深田と離別後に作家として独立。やがて戦前の深田名義の作品の多くが八穂の下書きした作品だったと主張し、それが通説のようになっていく。しかし門さんは、八穂が戦後に自身の名前で発表した作品群にみられる独特の比喩や詩的な飛躍のある文章を読み込み、深田の理知的な作風と比較。「津軽の野づら」「知と愛」「鎌倉夫人」など、八穂が自作であるとする少なくない作品は深田自身のものではと示唆する。
 金沢で暮らしていた間、文化人の中心にいた深田が「僕の心の中に七重に鍵をかけたものはあるが、その他はすべてオープンだ」と語っていたのを聞いていたという門さん。「深田自身は(八穂とのことについて)一言も弁解をしていない。地元の大聖寺でも、深田の傷のようにそっとしているのではないか。しかし、それでは(八穂が主張したことだけが)事実になってしまう。自分が感じたことは書き残しておかなければ、という気持ちを持ち続けていた」と語る。
 書名の「玉まつり」は、松尾芭蕉が寿貞尼をしのんで詠んだ「数ならぬ身となおもひそ玉まつり」から。志げ子さんとの会話の中でふいに出たその句に「ほのかな表現に哀れふかい弔いの心」を感じ取ったという。
 本書は、深田と八穂が暮らした鎌倉と我孫子を訪ねた紀行文で締めくくられる。二人に縁の場所を歩いた旅は、深田が生涯明かさずにいた思いを、門さん自身が納得するためだったようにも読める。
 四六判、二百二十六ページ。二千八百円(税別)。

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会津磐梯山に登る2019年05月17日

 奥会津の朝は濃霧の中にあった。今日は観光か、と訝りながら車で出発する。R252は六十里越えから田子倉ダムまでは急カーブの連続する山岳路であった。只見ダムからここまで来ると橋とトンネルで直線的になり広くて走りやすい。会津坂本でR49に合流すると幹線道路になる。そして会津坂下(あいづばんげ)まで出ると盆地になった。ここからまたスマホのナビに従った。R49を離れて田園地帯の農免道路のような道を走る。すると左手に美しい雪山が見えた。何だろう、水田の鏡面に逆さに映るので堪らずに車を止めて撮影した。飯豊連峰と分かった。
 朝霧が晴れると前方には美しい磐梯山が現れた。狙ったのは隣の猫魔ヶ岳という1等三角点の山だった。磐梯山は果たして登れるのか。急斜面の登山道は雪で閉ざされてはいまいか。ナビは八方台駐車場の登山口を目指した。両方の山の登山口でもある。着いてみると標高は約1200m。まだ8時だ、1800mの磐梯山へは比高600m、2時間半の登りである。山麓からは僅かな残雪しか見えなかった。方針は磐梯山に決めた。登山口で登山届を記入して投函した。
 出発は8時半過ぎとなった。美しいブナの森から始まる。中に小池が見える。沢は雪解け水が流れる。小鳥の鳴き声が美しい。夢のようなブナの森歩きを抜けると中の湯跡に着いた。温泉宿は廃屋で周囲には硫黄臭が漂う。ここから雪に覆われた登山道をゆく。とはいえ、潜ることはない。急な尾根道になる。山腹を巻くようなアップダウンもある。1640m弱の弘法清水小屋に着く。残雪の中からでも文字通り清水が沸いている。一杯飲むとうまい。雪解け水ではない。小屋に行くと女性の小屋番がおられた。こんな平日でも営業中なので百名山ゆえか。
 小屋から山頂まではほぼ一直線の急登である。しかも雪で曲がった枝が邪魔をする。難儀を強いられる。断崖のヘリを登るとすぐ山頂だった。11時ジャストなので休みを含めても2時間半程度。
 岩のゴロゴロした山頂であった。展望は360度。改めて飯豊連峰に目をやる。檜原湖などの湖が俯瞰される。山麓は高原性の平地でGWまで雪の平原だったと思う。目の前は残雪の飯森山、もうわずかな残雪の西吾妻連峰、一切経山が見える。真東は安達太良山、真南は那須連山だ。日光連山も視野に入るが見慣れない山々なので同定は難しい。会津は名山に囲まれた盆地であった。
 展望を堪能すると後は下山のみ。小屋に寄ってコーヒーを飲んだ。水のせいか、大変美味しい味がした。清水をペットボトルに詰めて往路を下った。登山口へは2時間もかからず、1時45分だった。
 帰路はR459で喜多方市へ行く。小屋で教えてもらったラビスパ裏磐梯に入湯した。JAFカード提示で50円引きの470円だった。R121で右折して米沢市へ向かう。大峠トンネルを抜けると米沢市であった。快適なR121であった。いったんは米沢市中心部をうろつくが、上杉神社など上杉氏関連の施設が目立つ。念願だった普門院をスマホに打ち込んだ。普門院は上杉鷹山が敬師と仰ぐ学者で細井平洲を迎えた名刹である。米沢市南部の山際にあった。奥羽本線関根駅にも近い。かつては福島から奥羽山脈の板谷峠を籠に乗って越えてきた最初の休み処であった。
 普門院の山門の前に愛知県東海市が寄贈した鷹山と平洲の出会いをモチーフにした人物像である。同じものが東海市の太田川駅前にもあるという。平洲を介在して友好都市になっているという。
 訪問すると自宅を訪ねよ、という案内があるので、「愛知県から来ました」と告げて、訪ねると和尚さんが出てこられて説明してくれたりして付き合ってくれた。東海市からも来たらしい。さらに平洲お手植えの椿も撮影して置きなさいと勧めてくれた。短時間だったが楽しい時間になった。普門院を辞した後は新しい道の駅へ行ってみたが、車が多すぎることと往来の多そうな道路に面しているのでスルー。
 遅くなったので、夕食は外食にした。米沢牛が有名であるが単価が高いのでジンギスカンにした。ビタミンが多いので疲れた体には良いだろうと。白味噌で味付けした羊肉とキャベツをかぶと型の鍋で焼く。味噌の下味がうまい。コメどころのご飯は肉以上にうまい。白味噌の味噌汁もうまい。1700円。
 夕食後はすっかり日も暮れて高畠町の道の駅に行く。ここは閑散として寂しいほどだったが車中泊には最適だ。カエルの合唱も気にならない。何しろ磐梯山に登れたのだ。

岩木山登山2019年04月30日

 朝4時過ぎ、明るさに目が覚める。さっそく朝食に取り掛かる。あり合わせの野菜類を使った汁物で体を温める。片づけてPを出て、R101に戻る。青森まで120kmとの道路表示にかなり遠いのだと悟る。
 今日は午後から天気が悪いとの予報である。津軽半島への移動は止めて、岩木山を前倒しした。鯵ヶ沢から津軽岩木スカイラインの入り口に向けて右折。着いたらまだ7時なので8時までの時間は岩木山神社へ参拝に行った。令和を寿ぐ幟がたくさん立っていた。朝早いにもかかわらず岩木山神社は参拝客がもういた。
 また戻ってスカイラインに入った。通行料1800円のところ、JAFカード提示で200円引き。このスカイラインは69ものカーブをつけて1250mまで登る約10kmの山岳道路だ。Pには意外に多くの車が先着していた。しかも春スキーヤーの人らが多い。登山口の表示はあるがここから雪面ばかりである。比高390mあり、約1時間半の登りがある。但し踏み跡は見えない。先行者はシール登高してゆく。
 9時、ツボ足では見当が付かず、さらに登山リフト利用で登ることにした。往復900円である。リフトを降りると標高1470mくらいまで高度を上げる。硬い雪面を歩いて登山道に行く。いったんくだって岩の段々の急登をしのぐと1625mの山頂であった。
 たくさんの観光登山の登頂者であふれている。時に10時である。15分ばかりの滞在で下山する。
 登山リフトの乗り場まで来ると、もうガスが垂れ込めてきて山頂は見えなくなった。天候の悪化は山頂に寒気が来たことで分かる。
 スカイラインを下り、岩木山神社まで来る。地元のGSで給油して、良い温泉はないか、と聞くと百沢温泉を教えてくれた。350円だがJAFカード提示で50円引きになった。但し石鹸、シャンプーはない。非常に熱いお湯だった。長旅の疲れがほぐれて気持ちのいい湯加減に思えた。
 クルマの流れに任せて、弘前市内に入った。現在は桜まつりのたけなわで観光客と車でごった返していた。これはミスった。R339へ逃げて、竜飛岬を目指した。
 R339は津軽平野を貫通する。広大な田園風景が広がり、彼方に今しがた登ったばかりの岩木山が見えた。山体はほとんど雲に隠れていた。吉幾三の「津軽平野」はここが舞台か。真冬には一面雪に覆われると農作業はできないから出稼ぎに行く。そんな歌詞だった。
 途中、太宰治の出生地であることの案内(斜陽館)があり、心惹かれるがあまり時間はない。十三湖の道の駅の食堂ではしじみラーメンを食した。十三湊遺跡を見たり、港町の小泊では太宰治の文学館にも寄ったが、5時過ぎで、既に閉館していた。日本海に出て今夜は道の駅「こどまり」で車中泊になった。

富山県・南保富士を歩く2019年03月21日

 今年は岐阜県や長野県でも雪が少ない。それでTutomu hirakiさんの記事を見て白鳥山を計画した。
 3/19の夜、愛知岳連の理事会終了後、Wさん宅に車をデポし、10時発で20日の夜2時過ぎに入善町の園家山キャンプ場のPで仮泊。3時間の仮眠後6時に出発。
 園家山は標高17mの1等三角点のある山。これで3回目の訪問か。海の近くでも真水が湧水するので砂丘のような雰囲気のところに設けられたキャンプ場である。
 3/20、R8に出て、コンビニで乾電池などを購入したり、給油したりしながら新潟県境を越える。境川に沿って山奥に走る。山姥の里という。新潟県糸魚川市上路には7時30分ごろに着いた。車道の未除雪地点に1台あった。
 閑散とした上路には雪が道の脇に残る。車道の奥は除雪されていなかった。そこが終点になる。入り口を探すためにまた戻る。里人が1人だけ居られたので聞くと今年はやはり雪が少ないので藪が出てるよとのこと。それでも気持ちを奮い立たせて8時に出発。
 教えられた小脇谷と榀谷の間の林道の廃道を歩き終点から尾根にとりつく。標高300m付近まで登ったものの灌木の茂る藪尾根に断念。スキー板を抱えての登山は無理と9時に撤退。
 下山後は南保富士に転戦した。山頂は簡易トイレが埋まるほどの積雪にびっくりする。南保富士の山頂からの眺めは抜群で、白鳥山、犬ヶ岳、朝日岳、白馬方面まで見えた。すぐ近くの仁王山、黒菱山、初雪山、犬ヶ岳と山スキー向きの緩やかな雪稜が続いている。また剣岳、毛勝三山、僧ヶ岳の眺めも非凡。
 日本海は眼下に見え、入善町の扇状地も素晴らしい。沖には黒い巨船が北に向かって航海中だ。ふと歌謡曲の歌詞が浮かんだ。♪船を見つめていたあ、・・・上海帰りのリルリル♪と断片的ながら。歌手は入善町出身の津村謙のヒット曲。大いに山頂滞在を楽しんだ。
 往路を下山と思ったが、出会った地元の登山者から今年の干支の猪山490m経由を勧められたので540mのコブから北の尾根へ分かれる。道とはいえ、フィックスロープのあるやせ尾根で急降下、急登を繰り返す難路だった。七重滝の上ではカモシカに会った。滝への分岐から西山用水路跡の水平路を歩くがここも残雪でのり面が埋まりキックステップを余儀なくされて緊張した。
 無事に登山口に戻り、宇奈月町のバーデン明日(あけび)で一風呂浴びた。入善町のスーパーで夕食を調達、地下からの湧水を一杯汲んで園家山キャンプ場でテント泊。
 21日午前4時ごろから予報通り降雨。登山は止めて、入善町から魚津にかけてドライブ中、僧ヶ岳が立派に見える。魚津市の埋没林博物館と水族館、米騒動発祥の地を見学後は帰名。好展望の南保富士に登れたことで良しとした。

新年は浅間山と高社山へ登山2019年01月03日

 平成31年1月2日には高社山へ登ろうと、呼びかけたら2人が手を挙げてくれた。高社山と浅間山はともに多治見市の山である。交通の経路上、瀬戸市のKさん宅に寄り、刈谷市のYさんには愛環鉄道の瀬戸口駅に来てもらった。予定通りメンバーが揃った。
 高社山を選定するに当たっては山頂のすべてが多治見市内にある山としては最高峰であることと、山麓の町名が西山町というのも嬉しい。自分の持ち山ではないが悪い気はしない。また浅間山は可児市の最高峰、美濃富士であることだった。
 まづは浅間山を目指した。R248からR19へ、そして県道381号を走ると道なりに小名田町小滝に着く。ここで不動の滝の案内標柱があるので右折。少し奥へと行くと雑木林の中にフランス料理などのレストランがある。もちろん今日は休業中。
 ここでP。滝への道標すらない。しかし目標は不動明王の滝だから、建物群を左右に見ながら、行き詰まりで沢の流れに沿うことになる。8分も細い流れをさかのぼると滝があった。滝見台もあるが使われていない様子だ。
 山道は少し戻ると右岸側に巻く道が付いていた。余り踏まれていないが、ヤブではない。踏み跡を追いながら行くと一旦は沢に下りて、又離れる。左からの道に合した。これが地形図の破線路と思われる。少し行くと尾根に取り付く地点にテープのマーキングがあった。ここからは明るいが急な尾根道になった。日溜まりに寒さも和らぎ、汗をかかないように1枚脱いで調整した。
 何と言っても里山である。比高80mで稜線に出た。右は378mの2等三角点だが今日はカット。左折する。ちょっと歩くと岩山があり眺めが良い。山道から林道に出た。ほぼ稜線に平行する林道を歩く。ここで数人の家族連れに出会う。
 林道から左の山道に入ると木のベンチもあるがすぐに林道に下ってしまう。林道から分かれて行くと浅間山372mのミニプレートのある山頂だった。岩頭がありテーブルもあるのでランチにはいい。日溜まりの山頂からは眼下の桜ヶ丘の団地や遠くの春日井三山の山なみが見えた。
 子授け、子育ての信仰を集める浅間神社に参拝し往復した。正月と言うのに宮司の1人もいないが、何となく清められた雰囲気はある。淑気というものだろう。
 それから林道へショートカットする細道を下った。林道を歩くとかえって眺めがよくなり伊吹山も見えた。冬型なので奥美濃までは見えない。一の注連を見た。
 林道のゲート代わりの鳥居が建っている。ここが参道のクルマの終点で登山口らしい。軽四の四駆なら走れるだろう。
 下ってゆくと太陽光電のパネルがあった。左の沢を下って住宅団地へショートカットを試みたが電気柵で遮られていた。ささやかな冒険は失敗。参道を下ると住宅団地に出た。そのまま下るとマイカーに戻れないので左折。
 小滝団地内の山際を歩いた。すると新しい給水塔に着いた。団地の道路はつながっていないが、陶生苑から延長された車道が来ていた。目の前のコブの向こう側に不動滝があるので、ショートカットする山道がないか見たが見いだせなかった。更に陶生苑の近くから車道が下っていたので下って見たが堰堤で終わった。これも失敗。諦めて県道に出て迂回しPに戻った。
 まだ12時半、次の高社山へ向かう。根本町へ走った。ここも地道が錯綜して分かりにくい。とにかく山際に向って近づいた。割に良い道があるので流して見ると高社山登山口のミニ道標があった。ここか。
 道路から空き地に駐車。参道を登る。結構な急傾斜だ。2登目なので疲れもあるせいで後続も遅れがちになる。右は高社神社、左は山頂へとの分岐で左へ振る。良い道を歩いてゆくと空身の男性が下りてきた。何も言わずにすれ違う。
 俳人の山口誓子は御在所岳での所見をこう詠んだ。

   唯一人冬山を下りて来る人に会ふ 誓子
   
 ほとんど情緒の感じられない句である。即物的といわれる誓子の世界がある。冬は誰しも?寡黙になる。
 しばらくで右から来る道に合う。更に急登するとFMたじみの電波塔だ。すぐに反射板の建つ開放的な台地になる。山頂へはまだある。一旦は下って、左は山里へ下る道、山頂へは右へ登り返す。すると愛宕神社の小さな祠があった。
 地形図では高社山は台形ながら2つの山から成る。ここが山頂か、と思うが三角点はないので西進するとやっと保護石に囲まれた三角点のある山頂だった。展望はない。写真だけ撮って、反射板のある台地に戻った。
 ここからは恵那山が見えた。目を凝らすと東濃の山越しに茶臼山、段戸山等が見えた。南には春日井三山とその向こうには光る海が見えた。何より、多治見市を俯瞰できた。意外にも多くの高層ビルが立ち並ぶ。東濃の中核都市のシンボルだ。
 中央道をクルマがひっきりなしに流れている。中央線、R19号、中山道、まさに大動脈のごとく。2027年にはこのどこかの地下をリニア中央新幹線が開通する。東海道新幹線のバイパスとして建設中である。
 展望を欲しいままに楽しんで下山した。

佐久島サイクリング行2016年12月03日

 今年2月末に取材で行ったのだが写真のデータが不足していたので再度の佐久島行となった。今回は膝痛もあり早足で歩けないので自転車に乗って走り回った。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2016/02/28/8032740
http://koyaban.asablo.jp/blog/2010/01/24/4836588

 早朝に起床したが出発は7時半過ぎになった。実は昨日も2時間遅く行ったがR302とR1の交差点などで渋滞にはまり正午の船便に間に合わなかった。2時間早めて行くがやはりR1との交差点で渋滞する。やむなく間道を抜けていく。昨日の学習はあるがそれでも9時30分の出発10分前になった。わずか50km前後に2時間近くかかった。乗船して15分ほどで西港に着く。
 佐久島の海岸沿いのサイクリング道を時計回りに走ることにした。港でもらった観光地図で海岸沿いに道が案内されていた。波ヶ崎の灯台を過ぎるとすぐ近くで夫婦が漁船で何やら漁をしている最中だった。
 その先には1人で釣り人が居たので尋ねるとアイナメを釣っていた。どうやらこの海には多いようだ。先回来た際は民宿でアイナメの舟盛りを食べた。アイナメは足が速いので名古屋では食えない。浜に近い旅館で食うのだろう。
 サイクリング道は海よりも1mくらい高い位置でセメントで固められている。波に洗われた波打ち際の上に造成したのだろう。陸地側の崖には石蕗の花が沢山咲いている。松も植えられている。佐久島の北側には日光は殆どささないせいか、民家もない。民家は南側の日当たりのいい場所に集中して建っている。
 荒磯が多いが少しは浜辺もある。白浜という。佐久島の東西を分ける鞍部である。東に目的の富士山=ふじやまがあり、秋葉山、と無名の2等三角点がある。西には遠田山、大山(白山社)がある。いずれも40m以下で山というより丘である。サイクリング道は入ヶ浦へ回り込む寸前で止まった。高千谷といった。そこからは自転車を持ち上げてハイキング道に移る。少し高いところに展望丘がある。そこをパスしてかつて歩いた道を自転車でたどると38.1mの2等三角点の横を通過。三角点は探して撮影済だ。峠を越えたので砂利道だが自転車でゆるゆる下る。一旦下って登り返すと白山神社への道が分かれる。そのままでも通じている。
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-3a-06/jiro1125k/folder/447862/70/11673970/img_3?1390529753
 下ってゆくと佐久島西港へと通じるがその前に都会人のオアシスのような農家が点在していた。クラインガルテンとかいう。ドイツ語で市民農園の意味。いくらかの賃貸料を払うと5年間は住めるとか。農業体験の家とか東屋、トイレ、自販機もあり休憩にもってこいだった。
 更に下って西港の上部にあるコールタールで防水と錆び止めを施した黒壁の家並を歩いて見た。狭い路地は自転車通行もままならない。漁網などがあり漁師町だろうか、佐久島の中心地である。そこから戻ってアスファルトの車道を東港に向かってサイクリングするのは気持ちが良い。何といっても車は殆どないから我が物顔で走れる。
 東港には島の観光の拠点になる飲食店が集中している。多分後から発展したのだろう。その内の食堂に入って刺身定食を注文する。魚種は不明ながら多分アイナメと思う。焼いた牡蠣、煮魚など潮のにおいがたっぷりの料理を味わった。
 食後は前回来た道を少し違えて富士山弘法道を自転車を引きながら辿った。古い看板には富士山32.5mとなっているが三角点はない。今も椿の花のトンネルになっている。念願の浅間神社の写真撮影で今日の目的は果たした。その後は入ヶ浦に下り、平坦路を戻る。東港からは大島へサイクリングした。鯨切なる浜辺があり、そこから富士山を撮影した。盛り上がりの全くない丘のような山である。
 この富士山は日本山岳会が日本一低いと認定した秋田県の明田富士35mよりも4m低い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1_(%E7%A7%8B%E7%94%B0%E7%9C%8C)
 東港から乗船して一色港へ向かう。西港へ寄ると多くの渡船客が並んでいた。今日はにぎわったらしい。船内は満員になった。海苔粗朶を右に見ると一色港は近い。三河湾の真ん中に浮かんだ楽園のような島だった。観光地化の進まない今こそその良さを味わうべきだろう。人生に疲れたら山奥も良いがこのような島も良い。
 そういえばあの食堂に今日の新聞はなかった。♪三日遅れの便りを乗せて♪という歌が流行ったが、島では郵便も新聞も1日遅れるのかな。そういえば体験農業の人の話ではTVは見られるがインターネットは出来ないとの話だった。
 9時半に一色港を乗船して東港を14時50分に乗船だから5時間は滞在できた。結構遊ばせてもらった。これで自転車代ともで2160円。レンタルサイクルもあるが1日1000円、1時間300円。私はバンなので楽に自転車を積めるがセダンタイプならレンタサイクルも良い。

東三河・本宮山 くらがり溪谷から登り風頭山へ下る2016年06月19日

           くらがり渓谷へ
 東名高速の岡崎ICから出て県道37を走るつもりがうっかりパスしてしまい、音羽蒲郡ICまで走った。本宿まで戻ってR473から樫山町月秋の交差点で県道37を右折しくらがり溪谷の駐車場に着いた。この際、新東名の岡崎東ICの傍を通った。高速で来るならここが一番近いと知った。
 地図上のイメージではもっと山深い気がしたから意外である。「岡崎東IC くらがり渓谷」で距離を検索すると旧岡崎市の東のよしの屋の岡崎東店からになるのはまだ認知されていないからだろう。名鉄の東岡崎駅もあり、しばらくは混乱する。そもそもここを岡崎東とするのは無理がある。額田なる歴史ある地名は地図から完全に抹消されたのは寂しい。せめて岡崎額田ICに変更を希望する。
          くらがり溪谷を歩く
 さて、午前6時50分に着いたが、駐車場の開場は午前9時からになる。待っても居れないので、鍵はないのでチェーンを外して入った。7時過ぎに静寂のくらがり渓谷を歩きはじめる。といっても山上まで車道の通過できる林道歩きである。渓相はうっそうとした樹木が日光を遮って文字通りくらがりである。
 地形図には漢字で「闇苅溪谷」とある。本宮山の三角点近くまで水線で突き上げるもっとも正統な溪谷である。源流部の楓橋には闇苅沢とあった。豊川市の宝川は砥鹿神社付近で消える。新城市側の境川も砥鹿神社で終わる。旧作手村も巴川(ともえがわ)の源流が突き上げるが傾斜が緩いので水線は表現されていない。くらがり渓谷は下流で男川(おとがわ)となり、乙川(おとがわ)に合流する。
 苅という字は草を刈ることに限定した国字という。槍ヶ岳山荘の創業者の穂苅三寿雄など信州系の地名や氏名と見る。谷は関西、沢は関東と言うから、闇苅沢の名称は関東か信州の影響下にあるだろう。
         くらがり山荘の歌碑・・・依田秋圃のこと   
 最初はバンガローとかキャンプ場などの観光向けの施設がある。杉はだれでも分かるが欅などは名札で初めて分かる。そんな樹種を見ながら歩いてゆくとくらがり山荘という大きな建物に着く。周囲は紅葉の名所のようだ。今は緑だが11月中旬以降は燃えるような彩になるのだろう。
 ここには奥三河の山と人を愛した依田秋圃の歌碑が建っている。東京帝大林学科を卒業後愛知県に赴任した林業技術者であった。後に浅野梨郷らと交わり、愛知歌壇の草分け的な存在だった。(http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/06/16/7670502

 ゐろり火に添ふるたきぎの音たてて燃ゆるに山の夜は更けにけり

周囲は闇苅国有林である。左岸側の尾根には宮標石が埋まっていたから戦前は御料林だった。樹木の太さからおよそ樹齢100年以上はある。100年前の1916年は大正5年。事業計画書は明治42(1909)年作成。この歌は歌集『山野』の大正12年「凍る夜」の第1首。林業地の事務所に泊まった時の歌。
 明治中期に旧宮崎村の山本源吉翁が山焼きで兀山だった村有地を植林に切り替えた。その植林事業の計画書を作成したのが林業技師の依田貞種だった。歌人だから歌集もあるが散文集『山と人とを想ひて』の中の「くらがりの蛭」に山本翁と村有林からくらがりの御料林を歩いた話が蛭の被害と共に語られている。場所の特定はできないがこの地に足跡のあったことは事実である。
           馬の背平へ
 さて、くらがり山荘を過ぎると人工的な施設は廃墟然とした一ぜん飯屋の東屋で終わる。これまでも景勝地にはそれぞれらしい名称を与えているが淵も滝も奇岩も中途半端な気がする。あえて名前を与えてまでハイカーの気を引くまでもない。圧倒するような滝もなく、吸い込まれそうな深淵もない。くらがり八景と称してまぼろしの滝に着いたがスケールが小さ過ぎだ。開発し過ぎである。
 林道を延々登ると前方が開けて来た。何と源流部は皆伐されている。楓橋を渡ると本流は左へと山頂に突き上げる。裏参道は急坂を喘いで馬の背平に着いた。ここからは既知のルートになる。再びセメントで固めた参道を登る。転がりそうなほど急な坂道を登りきると国見岩の赤い鳥居の階段道の中途に着いた。ふるさと公園の一角に着いたわけだ。
          本宮山の地形図の疑問
 地形図には岡崎市と豊川市の境界を挟んで、ふるさと公園から実線が豊川市側に連続して下っている。これがどうも階段道である。ところが国見岩と岩戸神社の記号がない。名勝地はドットを三点配する記号であるがここにないので実線が何を意味するか不明である。国土地理院の記号には石段がある。鳳来寺山はちゃんと石段の記号になっている。やはり大己貴命を祀るのだから国見岩(岩戸神社)の名称を入れ、破線路で表現するべきだ。もう1本細目の実線は女道のことだろう。
 鳥居から中段まで下ると左へ踏み跡があるので辿ると地形図の池に遭遇する。これは地形図のダム記号で表現されている。錦鯉が泳いでいる。ゆるやかに尾根を残すとまた沢をまたぐ。すぐに林道らしい道に出る。直進すると奥宮である。
 右へ緩やかに下る。うっそうとした社叢林が静寂境を作り出している。小鳥の鳴き声が盛んである。やがて東屋(地形図の林道がV字の底の部分)に着いたが緑の落葉樹が茂って下界は部分的にしか見下ろせない。休んでいる人に聞くとできたばかりの頃はよく見えたらしい。ここまでは1.5mから3m以内の実線で表現するのは妥当だ。少しづつ細くなって、急カーブする先を下って本宮山林道に降り立つ。この部分は1、5mもないので破線路であろう。結局本宮山林道は国見岩への登り口が終点だった。
 多分、小型重機で遊歩道を開削する際に傾斜の緩いところまでとして、急なところは人手で道づくりをしたのではないか。
 池からの分岐まで登り返す。奥宮にも参拝した。また戻る。林道ならぬ遊歩道は水芭蕉園(旧スケート場)まで続くが今日はパス。
        風頭山へ下る
 さて、国見岩を経て、馬の背平まで戻る。平からは電波塔記号のある690mのピークまで車道を登った。施設は今は利用されず廃墟然としている。金網柵の右から回り込んで尾根に出る。地形図では破線路になっているが踏み跡は一切ない。赤や黄色のテープで登山者の痕跡が分かる程度だ。ただし、樹林の影になるせいでこの時期でも下草はほとんどない。右は桧の林、左は常緑樹などの雑木林になる。
 腐葉土の柔らかい感触を感じながら下る。最初の鞍部で河原町へ下る分岐になる。ここまで来ると両側とも桧の林になり、尾根の幅一杯は防火帯のような広さの道ともいえないが道のように歩ける。
 ここから600m以上のピークを数えること9座も越える。破線路は662mまであるが651m三角点へも迷うことなく行ける。道標はないが、赤テープのマーキングが随所にある。600mに3m足りない風頭山に着いた。馬の背平10:40から約2時間40分かかって13:20に登頂。ここで初めてパン1個を食う。暑いせいでおにぎりは入りそうにない。岩場に降りて本宮山を眺める。はるばる来たぜ、と思う距離感がある。下り坂の山旅であるがほとんど下らない。100m前後の比高しかないから健脚向きである。
 風頭山は今から21年前の平成7年に出版した拙書『続・ひと味違う名古屋からの山旅』に初めて紹介。他のガイドブックにもガイドされて次第に知られるようになった。地元の小学生が遠足で登る山であり、山頂には児童らの置いて行った旗が残っていた。どこをどう登ったかの記憶はない。踏み跡を辿ると25分で林道に出、更に杉林を30分下ると登山口の車道に着いた。徒歩20分で千万町口のバス停に着く。15時20分の名鉄バスでくらがり渓谷に戻った。歩けば1時間強だがバスなら210円かかるが6分ほどだ。岡崎東ICから新東名を経て帰名。名古屋ICまで920円。高速43km+地道15km位で58kmほど。1時間くらいで来れる。

東三河・本宮山・・・宝川源流を登り、表参道を下る2016年05月28日

 7時30分、自宅を出る。空は曇りがちだ。東名はやや通行量が多い。豊川ICを出て旧一宮町舎の信号を左折。県道21の交差点で右折。ウォーキングセンターへは8時30分に着くがまたも駐車スペースがなく右往左往する。遅かったのだ。人気の山は遅出には厳しい。そこで宝川の方へ直接行くこととした。県道21へ戻り、宝円寺のシダレサクラの案内板で右折。2車線の道を走ると里のはずれで1車線に狭まる。やがて新東名のトンネルをくぐる。右へ曲がると林道が続くが、未舗装になった辺りでUターンして駐車。
 9時30分林道を歩き出す。延々と続く林道だがところどころには道標もあって確認できる安心感がある。勾配が急になった先で終点。右岸へ木の橋が渡してある。滑りやすい板に注意しながらわたる。ここも結構広く林道の残存かと思われる。しかし、いよいよ沢に近づくと山道になる。
 岩をからむ道を行くと前方に滝が見える。また左岸へ渡渉する。滝は左岸から巻き、右から落ちてくる沢を注意しながら渡渉する。勾配はますます急になったがちょっとした平らな休み場に着いた。480mという。駐車地点で見た二人連れが休んでいた。
 国見岩まであと0.5kmとある。炭焼き窯の跡がしっかり残っている。戦後、石油が輸入されるまでは木炭は高く売れたという。だからこんな高い山奥まで炭を焼きに来たのだろう。
 ここから右の源流の音を聞きながら登ってゆく。かなりの勾配である。木の階段でステップを踏みやすく整備されているから安心である。そして、鎖場の連続するもっとも勾配の急な斜面をよじ登る。鎖は最初は2本で終わった。落石に注意しながら登ってゆくとまた鎖が現れた。大きな岩を直登するコースと迂回するコースに分かれたので迂回する方向に振った。その先にも道標が立っている。一方は林道へ、国見岩へと分岐する。その先でも鎖場をしのぎながら行くと鎖の三叉路になった。さっきの直登コースが上がってきたところだ。上から下山してきたので譲ると直登コースを下る。聞くと下に岩戸神社があるという。それなら見逃すわけにはいかないと迂回コースを下って直登コースに上がるとなるほど岩の間に何か祀ってあり、水が出ている。ちょっと拝んでから直登の鎖をつかんで攀じ登る。左へ急斜面を登ってゆくと国見岩に着いた。短いながら手ごたえ十分のルートであった。
 ガイドによればこの岩の下部に岩戸神社があると説明されている。さっきのは岩戸神社じゃなかったのだ。
 赤い鳥居をくぐって山頂直下の広場に着く。更に奥宮順拝路へ行くと山頂へ左折して橋を渡る。すぐに山頂だった。表参道を下ると多くの登山者とすれ違った。さすがはメインルートだけはある。大杉の林立する厳かな雰囲気を味わいながらくだった。途中に水場は2箇所あり、登りでも下りでも水筒の要らない山だなと思う。そのせいか、砥鹿神社境内の自販機は100円だった。
 基本的に展望のない尾根の一本調子の登り下りになる。それに飽きさせない工夫かどうかは知らないが、山姥の足跡、蛙岩、梯子岩、馬の背岩などの仕掛けをしてあった。
 ウォーキングセンターに着いて、マイカーデポ地まで行く。素戔嗚神社を経て宝円寺を見て歩く。農婦としばし世間話する。本宮山松源院の話も聞く。更に歩くと新東名も見えてきた。やれやれだ。W・Cから約40分だった。本宮の湯で汗を流した。帰路は県道21、R1、県道57、県道56とつないで走った。それでもまだ明るい。夏至が近づいてきたなと思う。

東三河・本宮山に立つ2016年05月15日

 今日も遅れがちの出発になった。右ひざの疼痛が気になるが晴れているので行ってみることにした。
 新東名を走った後で東名を走るとずいぶん路面が荒れていることに気が付く。新東名は滑るように走って行ける。クルマの性能がよくなったみたいだ。東名は凹凸があるわ継ぎ目の音がするしで長年の酷使に耐えてきたんだと思う。
 豊川ICで降りる。R151を走り、北へ向かうと、薄いガスがかかるが、本宮山が立派に見える。砥鹿神社近辺からは三河富士というように左右に均整のとれたいい姿になる。
 そろそろ梅雨の季節に入る頃だ。
 コンビニで買い物をする。レジのシートには合計789円とある。店員に「あれっ、今日は本宮山に来たんだけれどこの数字は標高と同じ」、と言ったら笑っていた。偶然の一致とはこのことだ。但し、登山口まで来るには来たが、Pは満車だった。平日でも登山者の多い山とは聞いていたがこれほどとは。結局、右ひざが悪いことにかこつけて休戦とした。
 そのまま帰るにはもったいないのでスカイラインを経て山頂だけでも踏んで帰ることにした。R151からR301を走ると新東名の下をくぐる。本宮山の山裾をトンネル9箇所が貫通していて、雁峰第一トンネルから観音山トンネルまで1/9から9/9とナンバーが振ってある。一番長いのが本宮山トンネルで2km余りある。信仰の山もズタズタにされた。
 R301からスカイラインに左折すると山上へ登る。こっちの道の方がもっとダメだ。駐車場からは砥鹿神社に行けるが今日はパスして、1等三角点を拝みに行く。頂上にはまだ天測点が設置されていた。奥美濃の大洞山は撤去されたというから貴重な存在である。一等三角点の標石も右書きになり新しく、改理された。標高も古いガイドブックなどは789.2mであるが、0.1mアップして789.3mになった。多くの登山者が続々登ってきた。やはり人気の山である。Pに戻り、くらがり溪谷に下った。こちらも結構な観光客を迎えていた。
 一等三角点の山は信仰の名山であること、展望がいいことから観光開発が盛んである。近年は電波塔も林立する。伊吹山、越戸大山、養老山、御在所山、大台ヶ原山、乗鞍岳、、鉢盛山など人気者ゆえに犠牲も多い。

佐久島の山巡り2016年02月28日

離島への遠足のため船に乗る

春の日や佐久島へ行く海の旅

島影の霞て見へし日間賀島

延々と知多半島の霞けり

水仙や富士山へ道著(しる)きかな

媼二人大鍋で煮る鹿尾菜かな

佐久島のいち早く咲く初桜

老いてなほ白い椿紅い椿も咲かせけり

蝌蚪を見るためにうつ伏せとなり

春の鳥古代の森に住まふべし

舟盛りは大鮎魚女(あいなめ)の刺身かな

茹で蛸を切るや剪定はさみめく

つるつると啜るに生の水雲かな

海苔粗朶が見へて港に近づけリ