佐久島サイクリング行2016年12月03日

 今年2月末に取材で行ったのだが写真のデータが不足していたので再度の佐久島行となった。今回は膝痛もあり早足で歩けないので自転車に乗って走り回った。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2016/02/28/8032740
http://koyaban.asablo.jp/blog/2010/01/24/4836588

 早朝に起床したが出発は7時半過ぎになった。実は昨日も2時間遅く行ったがR302とR1の交差点などで渋滞にはまり正午の船便に間に合わなかった。2時間早めて行くがやはりR1との交差点で渋滞する。やむなく間道を抜けていく。昨日の学習はあるがそれでも9時30分の出発10分前になった。わずか50km前後に2時間近くかかった。乗船して15分ほどで西港に着く。
 佐久島の海岸沿いのサイクリング道を時計回りに走ることにした。港でもらった観光地図で海岸沿いに道が案内されていた。波ヶ崎の灯台を過ぎるとすぐ近くで夫婦が漁船で何やら漁をしている最中だった。
 その先には1人で釣り人が居たので尋ねるとアイナメを釣っていた。どうやらこの海には多いようだ。先回来た際は民宿でアイナメの舟盛りを食べた。アイナメは足が速いので名古屋では食えない。浜に近い旅館で食うのだろう。
 サイクリング道は海よりも1mくらい高い位置でセメントで固められている。波に洗われた波打ち際の上に造成したのだろう。陸地側の崖には石蕗の花が沢山咲いている。松も植えられている。佐久島の北側には日光は殆どささないせいか、民家もない。民家は南側の日当たりのいい場所に集中して建っている。
 荒磯が多いが少しは浜辺もある。白浜という。佐久島の東西を分ける鞍部である。東に目的の富士山=ふじやまがあり、秋葉山、と無名の2等三角点がある。西には遠田山、大山(白山社)がある。いずれも40m以下で山というより丘である。サイクリング道は入ヶ浦へ回り込む寸前で止まった。高千谷といった。そこからは自転車を持ち上げてハイキング道に移る。少し高いところに展望丘がある。そこをパスしてかつて歩いた道を自転車でたどると38.1mの2等三角点の横を通過。三角点は探して撮影済だ。峠を越えたので砂利道だが自転車でゆるゆる下る。一旦下って登り返すと白山神社への道が分かれる。そのままでも通じている。
http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-3a-06/jiro1125k/folder/447862/70/11673970/img_3?1390529753
 下ってゆくと佐久島西港へと通じるがその前に都会人のオアシスのような農家が点在していた。クラインガルテンとかいう。ドイツ語で市民農園の意味。いくらかの賃貸料を払うと5年間は住めるとか。農業体験の家とか東屋、トイレ、自販機もあり休憩にもってこいだった。
 更に下って西港の上部にあるコールタールで防水と錆び止めを施した黒壁の家並を歩いて見た。狭い路地は自転車通行もままならない。漁網などがあり漁師町だろうか、佐久島の中心地である。そこから戻ってアスファルトの車道を東港に向かってサイクリングするのは気持ちが良い。何といっても車は殆どないから我が物顔で走れる。
 東港には島の観光の拠点になる飲食店が集中している。多分後から発展したのだろう。その内の食堂に入って刺身定食を注文する。魚種は不明ながら多分アイナメと思う。焼いた牡蠣、煮魚など潮のにおいがたっぷりの料理を味わった。
 食後は前回来た道を少し違えて富士山弘法道を自転車を引きながら辿った。古い看板には富士山32.5mとなっているが三角点はない。今も椿の花のトンネルになっている。念願の浅間神社の写真撮影で今日の目的は果たした。その後は入ヶ浦に下り、平坦路を戻る。東港からは大島へサイクリングした。鯨切なる浜辺があり、そこから富士山を撮影した。盛り上がりの全くない丘のような山である。
 この富士山は日本山岳会が日本一低いと認定した秋田県の明田富士35mよりも4m低い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1_(%E7%A7%8B%E7%94%B0%E7%9C%8C)
 東港から乗船して一色港へ向かう。西港へ寄ると多くの渡船客が並んでいた。今日はにぎわったらしい。船内は満員になった。海苔粗朶を右に見ると一色港は近い。三河湾の真ん中に浮かんだ楽園のような島だった。観光地化の進まない今こそその良さを味わうべきだろう。人生に疲れたら山奥も良いがこのような島も良い。
 そういえばあの食堂に今日の新聞はなかった。♪三日遅れの便りを乗せて♪という歌が流行ったが、島では郵便も新聞も1日遅れるのかな。そういえば体験農業の人の話ではTVは見られるがインターネットは出来ないとの話だった。
 9時半に一色港を乗船して東港を14時50分に乗船だから5時間は滞在できた。結構遊ばせてもらった。これで自転車代ともで2160円。レンタルサイクルもあるが1日1000円、1時間300円。私はバンなので楽に自転車を積めるがセダンタイプならレンタサイクルも良い。

東三河・本宮山 くらがり溪谷から登り風頭山へ下る2016年06月19日

           くらがり渓谷へ
 東名高速の岡崎ICから出て県道37を走るつもりがうっかりパスしてしまい、音羽蒲郡ICまで走った。本宿まで戻ってR473から樫山町月秋の交差点で県道37を右折しくらがり溪谷の駐車場に着いた。この際、新東名の岡崎東ICの傍を通った。高速で来るならここが一番近いと知った。
 地図上のイメージではもっと山深い気がしたから意外である。「岡崎東IC くらがり渓谷」で距離を検索すると旧岡崎市の東のよしの屋の岡崎東店からになるのはまだ認知されていないからだろう。名鉄の東岡崎駅もあり、しばらくは混乱する。そもそもここを岡崎東とするのは無理がある。額田なる歴史ある地名は地図から完全に抹消されたのは寂しい。せめて岡崎額田ICに変更を希望する。
          くらがり溪谷を歩く
 さて、午前6時50分に着いたが、駐車場の開場は午前9時からになる。待っても居れないので、鍵はないのでチェーンを外して入った。7時過ぎに静寂のくらがり渓谷を歩きはじめる。といっても山上まで車道の通過できる林道歩きである。渓相はうっそうとした樹木が日光を遮って文字通りくらがりである。
 地形図には漢字で「闇苅溪谷」とある。本宮山の三角点近くまで水線で突き上げるもっとも正統な溪谷である。源流部の楓橋には闇苅沢とあった。豊川市の宝川は砥鹿神社付近で消える。新城市側の境川も砥鹿神社で終わる。旧作手村も巴川(ともえがわ)の源流が突き上げるが傾斜が緩いので水線は表現されていない。くらがり渓谷は下流で男川(おとがわ)となり、乙川(おとがわ)に合流する。
 苅という字は草を刈ることに限定した国字という。槍ヶ岳山荘の創業者の穂苅三寿雄など信州系の地名や氏名と見る。谷は関西、沢は関東と言うから、闇苅沢の名称は関東か信州の影響下にあるだろう。
         くらがり山荘の歌碑・・・依田秋圃のこと   
 最初はバンガローとかキャンプ場などの観光向けの施設がある。杉はだれでも分かるが欅などは名札で初めて分かる。そんな樹種を見ながら歩いてゆくとくらがり山荘という大きな建物に着く。周囲は紅葉の名所のようだ。今は緑だが11月中旬以降は燃えるような彩になるのだろう。
 ここには奥三河の山と人を愛した依田秋圃の歌碑が建っている。東京帝大林学科を卒業後愛知県に赴任した林業技術者であった。後に浅野梨郷らと交わり、愛知歌壇の草分け的な存在だった。(http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/06/16/7670502

 ゐろり火に添ふるたきぎの音たてて燃ゆるに山の夜は更けにけり

周囲は闇苅国有林である。左岸側の尾根には宮標石が埋まっていたから戦前は御料林だった。樹木の太さからおよそ樹齢100年以上はある。100年前の1916年は大正5年。事業計画書は明治42(1909)年作成。この歌は歌集『山野』の大正12年「凍る夜」の第1首。林業地の事務所に泊まった時の歌。
 明治中期に旧宮崎村の山本源吉翁が山焼きで兀山だった村有地を植林に切り替えた。その植林事業の計画書を作成したのが林業技師の依田貞種だった。歌人だから歌集もあるが散文集『山と人とを想ひて』の中の「くらがりの蛭」に山本翁と村有林からくらがりの御料林を歩いた話が蛭の被害と共に語られている。場所の特定はできないがこの地に足跡のあったことは事実である。
           馬の背平へ
 さて、くらがり山荘を過ぎると人工的な施設は廃墟然とした一ぜん飯屋の東屋で終わる。これまでも景勝地にはそれぞれらしい名称を与えているが淵も滝も奇岩も中途半端な気がする。あえて名前を与えてまでハイカーの気を引くまでもない。圧倒するような滝もなく、吸い込まれそうな深淵もない。くらがり八景と称してまぼろしの滝に着いたがスケールが小さ過ぎだ。開発し過ぎである。
 林道を延々登ると前方が開けて来た。何と源流部は皆伐されている。楓橋を渡ると本流は左へと山頂に突き上げる。裏参道は急坂を喘いで馬の背平に着いた。ここからは既知のルートになる。再びセメントで固めた参道を登る。転がりそうなほど急な坂道を登りきると国見岩の赤い鳥居の階段道の中途に着いた。ふるさと公園の一角に着いたわけだ。
          本宮山の地形図の疑問
 地形図には岡崎市と豊川市の境界を挟んで、ふるさと公園から実線が豊川市側に連続して下っている。これがどうも階段道である。ところが国見岩と岩戸神社の記号がない。名勝地はドットを三点配する記号であるがここにないので実線が何を意味するか不明である。国土地理院の記号には石段がある。鳳来寺山はちゃんと石段の記号になっている。やはり大己貴命を祀るのだから国見岩(岩戸神社)の名称を入れ、破線路で表現するべきだ。もう1本細目の実線は女道のことだろう。
 鳥居から中段まで下ると左へ踏み跡があるので辿ると地形図の池に遭遇する。これは地形図のダム記号で表現されている。錦鯉が泳いでいる。ゆるやかに尾根を残すとまた沢をまたぐ。すぐに林道らしい道に出る。直進すると奥宮である。
 右へ緩やかに下る。うっそうとした社叢林が静寂境を作り出している。小鳥の鳴き声が盛んである。やがて東屋(地形図の林道がV字の底の部分)に着いたが緑の落葉樹が茂って下界は部分的にしか見下ろせない。休んでいる人に聞くとできたばかりの頃はよく見えたらしい。ここまでは1.5mから3m以内の実線で表現するのは妥当だ。少しづつ細くなって、急カーブする先を下って本宮山林道に降り立つ。この部分は1、5mもないので破線路であろう。結局本宮山林道は国見岩への登り口が終点だった。
 多分、小型重機で遊歩道を開削する際に傾斜の緩いところまでとして、急なところは人手で道づくりをしたのではないか。
 池からの分岐まで登り返す。奥宮にも参拝した。また戻る。林道ならぬ遊歩道は水芭蕉園(旧スケート場)まで続くが今日はパス。
        風頭山へ下る
 さて、国見岩を経て、馬の背平まで戻る。平からは電波塔記号のある690mのピークまで車道を登った。施設は今は利用されず廃墟然としている。金網柵の右から回り込んで尾根に出る。地形図では破線路になっているが踏み跡は一切ない。赤や黄色のテープで登山者の痕跡が分かる程度だ。ただし、樹林の影になるせいでこの時期でも下草はほとんどない。右は桧の林、左は常緑樹などの雑木林になる。
 腐葉土の柔らかい感触を感じながら下る。最初の鞍部で河原町へ下る分岐になる。ここまで来ると両側とも桧の林になり、尾根の幅一杯は防火帯のような広さの道ともいえないが道のように歩ける。
 ここから600m以上のピークを数えること9座も越える。破線路は662mまであるが651m三角点へも迷うことなく行ける。道標はないが、赤テープのマーキングが随所にある。600mに3m足りない風頭山に着いた。馬の背平10:40から約2時間40分かかって13:20に登頂。ここで初めてパン1個を食う。暑いせいでおにぎりは入りそうにない。岩場に降りて本宮山を眺める。はるばる来たぜ、と思う距離感がある。下り坂の山旅であるがほとんど下らない。100m前後の比高しかないから健脚向きである。
 風頭山は今から21年前の平成7年に出版した拙書『続・ひと味違う名古屋からの山旅』に初めて紹介。他のガイドブックにもガイドされて次第に知られるようになった。地元の小学生が遠足で登る山であり、山頂には児童らの置いて行った旗が残っていた。どこをどう登ったかの記憶はない。踏み跡を辿ると25分で林道に出、更に杉林を30分下ると登山口の車道に着いた。徒歩20分で千万町口のバス停に着く。15時20分の名鉄バスでくらがり渓谷に戻った。歩けば1時間強だがバスなら210円かかるが6分ほどだ。岡崎東ICから新東名を経て帰名。名古屋ICまで920円。高速43km+地道15km位で58kmほど。1時間くらいで来れる。

東三河・本宮山・・・宝川源流を登り、表参道を下る2016年05月28日

 7時30分、自宅を出る。空は曇りがちだ。東名はやや通行量が多い。豊川ICを出て旧一宮町舎の信号を左折。県道21の交差点で右折。ウォーキングセンターへは8時30分に着くがまたも駐車スペースがなく右往左往する。遅かったのだ。人気の山は遅出には厳しい。そこで宝川の方へ直接行くこととした。県道21へ戻り、宝円寺のシダレサクラの案内板で右折。2車線の道を走ると里のはずれで1車線に狭まる。やがて新東名のトンネルをくぐる。右へ曲がると林道が続くが、未舗装になった辺りでUターンして駐車。
 9時30分林道を歩き出す。延々と続く林道だがところどころには道標もあって確認できる安心感がある。勾配が急になった先で終点。右岸へ木の橋が渡してある。滑りやすい板に注意しながらわたる。ここも結構広く林道の残存かと思われる。しかし、いよいよ沢に近づくと山道になる。
 岩をからむ道を行くと前方に滝が見える。また左岸へ渡渉する。滝は左岸から巻き、右から落ちてくる沢を注意しながら渡渉する。勾配はますます急になったがちょっとした平らな休み場に着いた。480mという。駐車地点で見た二人連れが休んでいた。
 国見岩まであと0.5kmとある。炭焼き窯の跡がしっかり残っている。戦後、石油が輸入されるまでは木炭は高く売れたという。だからこんな高い山奥まで炭を焼きに来たのだろう。
 ここから右の源流の音を聞きながら登ってゆく。かなりの勾配である。木の階段でステップを踏みやすく整備されているから安心である。そして、鎖場の連続するもっとも勾配の急な斜面をよじ登る。鎖は最初は2本で終わった。落石に注意しながら登ってゆくとまた鎖が現れた。大きな岩を直登するコースと迂回するコースに分かれたので迂回する方向に振った。その先にも道標が立っている。一方は林道へ、国見岩へと分岐する。その先でも鎖場をしのぎながら行くと鎖の三叉路になった。さっきの直登コースが上がってきたところだ。上から下山してきたので譲ると直登コースを下る。聞くと下に岩戸神社があるという。それなら見逃すわけにはいかないと迂回コースを下って直登コースに上がるとなるほど岩の間に何か祀ってあり、水が出ている。ちょっと拝んでから直登の鎖をつかんで攀じ登る。左へ急斜面を登ってゆくと国見岩に着いた。短いながら手ごたえ十分のルートであった。
 ガイドによればこの岩の下部に岩戸神社があると説明されている。さっきのは岩戸神社じゃなかったのだ。
 赤い鳥居をくぐって山頂直下の広場に着く。更に奥宮順拝路へ行くと山頂へ左折して橋を渡る。すぐに山頂だった。表参道を下ると多くの登山者とすれ違った。さすがはメインルートだけはある。大杉の林立する厳かな雰囲気を味わいながらくだった。途中に水場は2箇所あり、登りでも下りでも水筒の要らない山だなと思う。そのせいか、砥鹿神社境内の自販機は100円だった。
 基本的に展望のない尾根の一本調子の登り下りになる。それに飽きさせない工夫かどうかは知らないが、山姥の足跡、蛙岩、梯子岩、馬の背岩などの仕掛けをしてあった。
 ウォーキングセンターに着いて、マイカーデポ地まで行く。素戔嗚神社を経て宝円寺を見て歩く。農婦としばし世間話する。本宮山松源院の話も聞く。更に歩くと新東名も見えてきた。やれやれだ。W・Cから約40分だった。本宮の湯で汗を流した。帰路は県道21、R1、県道57、県道56とつないで走った。それでもまだ明るい。夏至が近づいてきたなと思う。

東三河・本宮山に立つ2016年05月15日

 今日も遅れがちの出発になった。右ひざの疼痛が気になるが晴れているので行ってみることにした。
 新東名を走った後で東名を走るとずいぶん路面が荒れていることに気が付く。新東名は滑るように走って行ける。クルマの性能がよくなったみたいだ。東名は凹凸があるわ継ぎ目の音がするしで長年の酷使に耐えてきたんだと思う。
 豊川ICで降りる。R151を走り、北へ向かうと、薄いガスがかかるが、本宮山が立派に見える。砥鹿神社近辺からは三河富士というように左右に均整のとれたいい姿になる。
 そろそろ梅雨の季節に入る頃だ。
 コンビニで買い物をする。レジのシートには合計789円とある。店員に「あれっ、今日は本宮山に来たんだけれどこの数字は標高と同じ」、と言ったら笑っていた。偶然の一致とはこのことだ。但し、登山口まで来るには来たが、Pは満車だった。平日でも登山者の多い山とは聞いていたがこれほどとは。結局、右ひざが悪いことにかこつけて休戦とした。
 そのまま帰るにはもったいないのでスカイラインを経て山頂だけでも踏んで帰ることにした。R151からR301を走ると新東名の下をくぐる。本宮山の山裾をトンネル9箇所が貫通していて、雁峰第一トンネルから観音山トンネルまで1/9から9/9とナンバーが振ってある。一番長いのが本宮山トンネルで2km余りある。信仰の山もズタズタにされた。
 R301からスカイラインに左折すると山上へ登る。こっちの道の方がもっとダメだ。駐車場からは砥鹿神社に行けるが今日はパスして、1等三角点を拝みに行く。頂上にはまだ天測点が設置されていた。奥美濃の大洞山は撤去されたというから貴重な存在である。一等三角点の標石も右書きになり新しく、改理された。標高も古いガイドブックなどは789.2mであるが、0.1mアップして789.3mになった。多くの登山者が続々登ってきた。やはり人気の山である。Pに戻り、くらがり溪谷に下った。こちらも結構な観光客を迎えていた。
 一等三角点の山は信仰の名山であること、展望がいいことから観光開発が盛んである。近年は電波塔も林立する。伊吹山、越戸大山、養老山、御在所山、大台ヶ原山、乗鞍岳、、鉢盛山など人気者ゆえに犠牲も多い。

佐久島の山巡り2016年02月28日

離島への遠足のため船に乗る

春の日や佐久島へ行く海の旅

島影の霞て見へし日間賀島

延々と知多半島の霞けり

水仙や富士山へ道著(しる)きかな

媼二人大鍋で煮る鹿尾菜かな

佐久島のいち早く咲く初桜

老いてなほ白い椿紅い椿も咲かせけり

蝌蚪を見るためにうつ伏せとなり

春の鳥古代の森に住まふべし

舟盛りは大鮎魚女(あいなめ)の刺身かな

茹で蛸を切るや剪定はさみめく

つるつると啜るに生の水雲かな

海苔粗朶が見へて港に近づけリ

敦賀の歴史と俳句紀行2015年03月09日

これが敦賀富士でしょうか
  敦賀市のシンボル

野坂岳高みに残る雪多(さは)に

春雲(しゅんうん)に隠されてゐる野坂岳

  野坂岳を借景として設計された江戸時代の柴田氏庭園を訪ねる

庭園の彼方に聳ゆ斑雪山(はだれやま)

春の池水面に跳ねて波紋かな

  水戸天狗党は尊王攘夷の大義を掲げて、八百余名が大砲
  などを持ち臨戦態勢で上京。1864年、水戸市から48日間
  をかけて、清内路峠、蠅帽子峠をも越えて越前を経由して
  大雪の敦賀に着くも幕府方に降伏。1865年3月、
  来迎寺(らいこうじ)の処刑場で353名が斬首された。
  2年後の1867年に大政奉還、王政復古、明治維新となった。
  五万図にも武田耕雲斎等墓と印刷され人々の脳裏に
  永遠に刻まれた。夜明け前の日本を思い、命をかけた
  ロングトレイルだった。
  (な忘れそは忘れないで下さいの意。てふはと言うの意)

春浅し水戸な忘れそてふ烈士塚

  水戸烈士の篤い思いを大切にする梅の名所水戸市からの
  献木の梅が境内に植えられている。

日本を見守りたまへ水戸の梅

深田久弥山の文化館2014年10月16日

加賀温泉駅に近いスーパーの屋上から富士写ヶ岳を眺める
 北陸の山と俳句の旅も今日で終わる。中々行けない加賀市を回って帰名することにした。以前にも再び三度訪れたことはある。

 『日本百名山』ですっかり有名になった深田久弥は石川県加賀市の紙屋の生まれだった。長男だったが文学に目覚めたために家業は継がず作家になった。
 昭和21年、43歳で神奈川県浦賀港に復員船に乗って帰国。船内では田端義夫の「かえり船」が流されただろう。

  みな大き袋を負えり雁渡る    西東三鬼

文学上の同志として、児童文学者の北畠八穂との出逢いと別れ、初恋の志げ子との再会から八穂を捨てて志げ子と結婚。昭和22年、離婚届けと結婚届けを出す。そんな人生でもっとも波乱のあった昭和の戦前戦後を生きた。

一家が水入らずで過ごしたのは「湯沢の1年」かも知れない。湯沢には志げ子夫人が疎開していた。復員するとすぐに湯沢に向かったという。八穂を裏切ったことで鎌倉文壇から追われるという痛切な出来事があった。もう普通に作家としては生きて生きない。但し、深田には山があった。山の文を書いて生きていく。湯沢の1年はそう決断せしめただろう。

 http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/05/21/6817509

 湯沢に疎開中、朝日新聞から小説の注文があった。それで郷里の加賀市へ帰った。そして昭和39年、『日本百名山』が刊行される。何度かの名山ブームを起こして名著になった。今年は刊行後50周年の年回りという。ベストセラーかつロングセラーになったのだ。
 富士写ヶ岳は深田久弥の初登山の山だった。942mと標高も低く、マイナー山であるが、富士形の姿は美しい。文化館で教えてもらったJR加賀温泉駅からのパノラマ写真を参考に撮影ポイントを探ったが、駅の隣のスーパーの屋上がもっとも均整が取れて富士に似た形に見えた。台風前で天気が今一だったのが残念だ。

鈴鹿・三子山に登る 忘年山行2013年12月10日

 明星ヶ岳を登り終えて、国道1号に出た。鈴鹿峠に行く。最近の工法は山を削らず、橋とトンネルで理想のカーブを描きながら建設されるから結構早く滋賀県に着いた。トンネルを出てすぐに左折し、茶畑に登る農道をUターンすると目指す石灯篭があった。旧東海道時代の名残だが、工事に伴いここに移設したと説明板にあった。トイレもあってちょっとした園地になっている。ここでもう1つの仲間のクルマを待った。
 渋滞で大幅に遅れてしかも行き過ぎたりで遅れに遅れたという。13時半過ぎ、冬の花咲く茶畑の中の道標に従い、北への登山道を歩く。茶畑を過ぎると植林帯に入り、一切眺めはなくなった。その上に長くきつい階段道が続き、いかにも東海自然歩道に来たという気がした。
 ab500mの最初のコブに達すると東海自然歩道は左折し、西へ下り、近江の山里の山女原(あけびはら)を通り、安楽峠を越えて再び三重県へ下り、石水峡を下る。まるでこの三子山を迂回するようなコースになっている。我々は三子山を目指す。一旦下り、また登り返すと最初のab540mのピークに立つ。個々も眺めはないのですぐにパス。ところが、西へ尾根を下るので、おかしい、と気づいた先行者が戻ってきた。これは鉄塔巡視路で鉄塔で行き詰まるか、関坂下に下るだろう。
 やっぱり、最初の分岐の赤テープのところが縦走コースであり、目の前に中間のピークが見えている。ここも急坂を下りすぐに登りかえす。556mの独立標高点であるが、何も見えないのでパスして先へ行く。三子山の北峰が568mの最高点になる。ここには山名板もあり、四方草山も指呼の間であるがギャップが大きい。指導標には約70分とある。今までの60分以上もかかるのだ。出発が遅れたこともあってここで前途中止とし引き返した。登山口に戻ると3時半になっていた。宿に向かうには丁度いい時刻だ。それに1日で5つもの山に登った。小山でも数を稼げば満足感はある。
 国民宿舎関ロッジは以前、山岳会50周年記念行事の会場として探りにきたことがある。山の中の山荘という雰囲気は悪くない。宿は3室を確保。6時半からの宴会までに入浴など済ます。名古屋から直接会場へ来た会員らも続々着いた。宴会時には全員揃った。メニューは石狩鍋という。初体験の味だった。ビール、焼酎も出て飲んだ。終わる頃には鍋もきれいに片付いた。山やさんの宴会はこうでなくっちゃね。
 会場の座敷からは目の前に池を挟んで関富士が見えた。ははん、これがウリなんだねえ。

鈴鹿・明星ヶ岳に登る 忘年山行2013年12月09日

 毎年の忘年山行を今年も実施することができた。年々会員数の減少で実施が難しくなっているが9名の参加を得た。宿泊は亀山市の国民宿舎関ロッジだ。ここは関富士242.3mを借景に建っている山好きには格好のお宿である。

 12/8の朝、8時30分に亀山PA集合であったが、名物の大渋滞を忘れて15分ほど遅刻した。3台を連ねて、スマートICを出た。まずは明星ヶ岳549.0mを目指した。過去に1度は登ったがすっかり忘れている。5年登らなければ、もう詳細な記憶は忘れる。国分寺の山寺の山門でP。そこから車道を歩いて25分ほどでお寺に着いた。和尚さんらしい人とおじさんが談笑中であいさつするとにこやかに迎えてくれた。山の斜面に建つ小さな寺である。明日は集会があるとかで準備に大わらわであった。
 お寺を後にして裏手の急な山道を登ると尾根に出て小さなコブ393mを越えて、90度左折し、一旦は鞍部へ下る。そこからは又喘登に次ぐ喘登であった。1ヶ月ぶりの登山で太ももがはり、ふくらはぎがパンパンになる。汗もかくので、しばし水を飲んで調整した。しばらくするとアンテナが見えたがまだ山頂ではなかった。少しばかり緩く登ってやっと三角点のある山頂に着いた。ここは東峰で、西峯というより北峰があるようなのですぐに腰をあげて登る。一旦下って、登り返すと579mの山名板がぶら下がる山頂だった。約1時間20分だった。
 むしろこちらこそが正統な山頂であって、三角点峰は前山に過ぎない。狭いが展望は360度に開けている。鈴鹿南部の山々の眺めは素晴らしい。これから登る三子山568mも三つ並んで見えている。明日の予定の臼杵山、四方草山(しおそ)667.4mも指呼のところに見えている。あれは高畑山、錫杖ヶ岳、笠取山、経ヶ峰か、などと山岳同定を楽しむ。
 四方草山、三子山は三角点がなかったり、地図に山名もないせいで、30数年、モチベーションが湧かず放置してきたが、今回ようやくまな板にあげることができた。至近距離で見ると中々いい形の山であり、食わず嫌いだったな、と反省した。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.html?meshcode=52362350
 元の道を下る。三角点との鞍部から右に下る道がある。435mの尾根をたどるらしい。すると西峰にダイレクトに登るルートもあるわけだ。急斜面を下って行くと10名くらいの団体にあった。北陸の山の予定から天気が悪く転戦してきたらしい。
 国分寺に戻って小休止。石段を下って、車道終点には3台あったから彼等の車か。我々はいま少し歩いて下った。次は鈴鹿峠から三子山の予定である。

蓼科山の天高し!2012年11月05日

 11/3から11/4は信州・蓼科高原に遊んだ。山岳会の2名の有志が、日本百名山の全山踏破を達成した。9名がそのお祝いに参加し、総勢11名の山行になった。友人の蓼科高原・緑の村にある別荘を利用させてもらっての楽しい2日であった。
 朝4時起床。友人宅で合流しながら、蓼科山登山口を目指した。天気が良いせいか、早朝から交通量が多かった。駒ケ岳SAで休憩し、朝食をとる。
 とりあえずは別荘の入り口で車を2台に集約して再出発。高原は登るにつれて、紅葉になるが、時既に遅し、の感あり。北斜面は落葉している。草つきも枯れている。山は晩秋から初冬に向かっている。
 登山口は以前に登ったことがある大河原峠である。ここからも雪化粧した北アルプスが見える。10マイルマラソンの中継地になっているようだ。
 ここで2000mを越えている。標高差は250mくらいだから2時間程度か。支度して出発。いきなり、樹林帯の中の岩のむき出した悪路に入る。霜柱も立つ。長年の登山によって荒れてきてしまったようだ。ほぼ直線に登ってゆくと2380mの前掛山最高点に着いた。ここは地形図で見る通り平らな山頂になっている。赤谷の分岐で、右へ細道をたどってみたが、2353.6mの三角点は見つからなかった。帰宅後調べると、昭和51年の五万図/蓼科山にはあったが、ネットの地形図では・2354の独立標高点に格下げされていた。亡失か廃止か。
 一旦、蓼科山荘のある鞍部まで下り、急な斜面の岩場を登りきると山頂であった。山頂は広く、展望は広大であった。三角点を確認後、一段下の石社まで下って昼食にした。有志2名はこの蓼科山で完全に踏破した。全員で記念写真を撮影後は下山した。蓼科山荘は11/4で小屋じまいとか。窓に戸を打ち付けて冬支度である。
 Pに着くと、マラソンランナーが来てはまた走ってゆく。過酷なレースである。しかし、徒労とは言うまい。
 下山して、別荘に向かい、買い物班と入浴班に分けて行動した。山麓まで下ると「河童の湯」があり、400円で入浴できる。さほど発汗はしていないが、冷えた身体が温まる。
 管理棟のゲートを入ると小川を挟んで、様々なデザインの別荘が建つ。灯が灯る別荘には人恋しい雰囲気がある。
 会場となる別荘別荘に着いた。瀟洒なデザインの木造家屋である。ダンボールの食材を運び入れる。暖炉に火入れ、男女数名が厨房に入って、買い出した食材を次々調理してゆく。まるで飯場である。出来上がった料理をテーブルに並べると、食べるのを待つばかり。先ずは百名山完全踏破達成の乾杯!だ。
 その後は、山談義のうちに夜が過ぎてゆく。
11/4。今朝はパンと飲み物、野菜、など豪華な朝食に目覚める。片付け、掃除、点検を済ませると、別荘域内から富士山を眺めるためにミニドライブとなった。行き止まりまで上り、朝の富士山の眺めを拝んだ。
 別荘を出て、ビーナスラインへの道に向かう。車山の南にある駐車場からは富士山が雄大に見える。そこを出て、八島湿原に向かう。ここから鷲ヶ峰に登った。360度の大パノラマである。この山からは中部日本の多くの名山が見える。蓼科山よりは広大である。
 雪化粧した北アルプスが特に目を引く。白馬までは見えず、五竜らしい山が頭だけだしている。浅間山の北東には遠く、白い山が見えるが、地図がないため山岳同定は難しい。北関東辺りの独立峰か?赤城山かなど山名がでるが不明。
 下山後は、買い物組みと帰名組に分かれて解散した。
 茅野市のJAでは「シナノゴールド」というりんご、小津安二郎が脚本を書くときは、ここ蓼科の野田高梧(愛知一中→早稲田大学→松竹・脚本家)の別荘「無芸荘」にこもって書き上げたという。その際に愛飲したのが「ダイヤ菊」という清酒だった。蓼科山の伏流水で醸造した地酒である。その酒も買った。昨夜食べて食感のよかったパリパリのレタスも味噌も買った。何しに来たのかというくらい買い物も楽しめた。