希代の登山家・伊藤孝一こぼれ話2016年04月26日

背後に鹿島槍が見えることから鷲羽岳と見られる
  伊藤孝一こぼれ話
 伊藤孝一は大正12年3月の立山、針の木峠越え、大正13年3月の真川から薬師岳、上ノ岳から鷲羽岳をスキーで縦走した。これを映画に撮影することで大きな功績を残した。案内人には赤沼千尋、百瀬慎太郎、撮影技師も名古屋から勝野銈四郎が同行。ヒマラヤ遠征に匹敵する1ヶ月に及ぶ登山だった。
 私は2009年1月に北ア・栂池にある赤沼健至氏経営のスキー宿で鑑賞した。その後も何かのイベントで年1回は上映されている。
 東海岳人列伝の候補として瓜生卓造『雪稜秘話 伊藤孝一の生涯』という小説以外の調査研究を進めるうちにとてつもない登山家像が浮かんできた。立山黒部で活躍した登山家なのに登山史から葬られていたとは。知られたのは近年のことだ。
 名古屋市の人だから何とか全体像を知りたかった。山岳映画を通して登山大衆化に貢献したことは疑いない。積雪期の北アルプス登攀記録はもっと高く評価されてもいい。加藤文太郎が活躍するのは数年後のことだ。
 伊藤孝一の学歴は旧制愛知一中だろうか。現在の丸の内三郵便局の敷地が愛知一中の校舎跡だから玉屋町(旧東海銀行本店の本町筋)なら徒歩で10分ほどで通学できる。

   参考資料を渉猟する
1 復刻版『山岳』日本山岳会   住所の事実確認
 入会年月は大正5年7月。弟ともに入会。住所が名古屋市西区玉屋町と知ることで清州越しの御用商人を半ば証明したことになり以後の調査が進んだ。大正3年から在名の会員十数名が納屋橋の料亭で集会を持つ。以後年に1回は集会があったが、八高の学生と半分はダブル。大正4年旧制八高山岳会が発足。大正5年6月には山岳講習会と晩餐会を開催。2500名も集まった。いよいよ名古屋の登山熱が高まる。山岳会も発足してまだ10年余りである。
 ただ、旧制八高の卒業生は昭和14年の名古屋帝国大学発足までは東京か京都などへ進学するしかなかった。八高でならしても他の大学に流出した。法学部ができたのは戦後のことである。東海支部の発足が昭和37年と遅かったのはこの辺の事情もあると思う。八高OBである石岡繁雄が呼びかけたのも歴史のめぐり合わせだ。

『山岳』17年第3号には「雪の上ノ岳へ」と題した榎谷徹蔵の大正12年12月25日から同年13年1月4日までのの紀行文がある。藤木九三ら朝日新聞の登山隊の様子がよく分かる。大多和峠を越えて、有峰へ。そして真川へと山越えする難儀な旅だった。真川には伊藤小屋があり、往時の小屋の贅沢三昧も活写されている。映画技師の勝野も同行している。上ノ岳の付近と黒部五郎岳の鞍部にも小屋がある。
黒部五郎の小屋は冠松次郎が利用している。冠松次郎『黒部渓谷』(平凡社ライブラリー)の双六谷から黒部川への中で、「この小屋は二間半に四間位の大きさでずいぶん太い材料と行き届いた設備で頑丈にできている。炉が二つに切ってあり、風呂もすえ、暖炉までも設けてあった。入り口の掛け板に五郎平ノ小屋としるしてある。名古屋の伊藤孝一氏がこの山稜を冬季に旅行するのを目的に建てられたもので、昨年十一月頃にようやく出来上がったのだということである。氷冷の夜臥を覚悟していた私はこの賚(たまもの)に感謝の意を表さないではいられなかった。」と激賞。大正13年8月5日のことだった。

2安川茂雄『近代日本登山史』
伊藤孝一の登山記録がないことの確認

3『目で見る日本登山史』 山と渓谷社
伊藤孝一の登山記録の記載の確認

4 杉本誠『山の写真と写真家達』ーもう一つの登山史ー  講談社
山岳映画(写真)の歴史

5 林董一『名古屋商人史』 中部経済新聞社
 名古屋城築城以来の有名無名の名古屋商人のルーツと消長を詳述。小説で紹介された京屋吉兵衛(伊藤吉兵衛)が実際に存在したことの事実確認。御用商人のランクの調査に役立つ。この本で秘話の出自の部分で事実と虚構があることが判明した。

6 「名古屋古地図」名古屋市博物館
 幕末の古地図で中区錦三丁目、中区丸の内二丁目、三丁目界隈の調査。清州越しの御用商人は優遇され、敵の襲撃に備えて周辺を尾張藩士の屋敷で取り囲むように配置。明治時代になり、名古屋経済の進展で、一等地になった。
 明治維新後、没落する武士や商人から土地を買い、運用することで資産家になったと想像する。1回の山行に20億円も浪費できた源泉は土地だった。
 これも想像であるが、維新後の激動期には失業武士があふれ、尾張藩への貸付が焦げ付いて、経済は停滞。恐慌状態になっただろう。その後はインフレになったと見られ、幕末の激変を経験した先代は子孫に事業をやらせず、資産運用のみをやらせた。土地(モノ)とカネへの執着の強い名古屋商人の原像が浮かぶ。無借金経営にこだわるのも銀行借入があれば激変に耐えられないことを肌で知ったのだろう。借金の返済原資は利益なので売上が激減すると破産になる。
 余談であるが名古屋コーチンは失業した尾張藩士の起業から生まれた。激動期の今も嘆いてばかりではなく、失業武士のひそみに倣おう。
http://www.nagoya-cochin.jp/02_about/02_01_growth/index.html
  
7 立山博物館 2004年7月企画展解説図録
「山岳映画の先駆者、伊藤孝一没後五〇年『山嶽活寫― 大正末、雪の絶巓にカメラを廻す』」  
 登山史から久しく忘れられた伊藤孝一の名前であるが、山岳映画で検索するとヒットする。こんな企画を立てられたのも伊藤孝一の功績を忘れない人がいたから。記録を立てた大正12年は1月に槇有恒が遭難したので、発表を控えたか、金持ちの道楽として無視されたのか。伊藤孝一の建てた小屋は藤木九三も利用して上ノ岳(北ノ俣岳)にスキー登山している。(榎谷の紀行と同じ。)
 
8 名古屋新聞縮刷版 名古屋市立図書館
 大正12年2月22日の大沢小屋から針の木越え、立山温泉への横断計画の記事の確認。遭難の憶測記事に伊藤自身も困惑し、大沢小屋から撤退後、無事だから新聞記事は信用するなと家族に電報を打つところが当時を思わせる。新聞の捏造記事が遭難騒ぎを起こす。その後も各紙の憶測記事で悩まされている。

9 瓜生卓造『雪稜秘話 伊藤孝一の生涯』  東京新聞
伝記小説の形をとるが、文中のカタカナ表記のメモは遺族から借用されたらしく、事実とみられる。伊藤はメモ魔だったらしく丁寧に書き残した。作品の骨格たる登山記は伊藤のメモとメモをつなぐ。この空白部分が瓜生の登山体験から生まれたリアルな表現で埋められている。事実に忠実な小説であるが、創作にせざるを得なかったところだ。上梓後、瓜生も黄泉の国へ旅立った。

コメント

_ 原田 久美 ― 2018年12月23日 14時13分56秒

私は伊藤孝一の孫です。
母は伊藤の娘です。 10人兄弟がいたようですが現在は母の姉と母のみになりました。母は数年前から認知症を患い最近のことはすぐ忘れてしまいますが昔のことはよく話してくれます。
祖父のことを書いていただいてありがとうございます。たまたま検索して見つけました。

_ 小屋番 ― 2018年12月25日 08時58分01秒

嬉しいコメントをありがとうございます。東海地方で活躍した登山家を取材し、JAC東海支部の支部報に「東海岳人列伝」を連載しました。中でも圧巻は伊藤孝一さんです。それで、山と渓谷社『分県登山ガイド 愛知県の山』のコラムにダイジェスト版を掲載。本部年報『山岳』(2018年8月)により詳細な「黒部の山と人を愛した伊藤孝一伝」を投稿。母堂様の都留子様にはお会いしたいと思っていました。

_ 三上勝昭 ― 2019年04月09日 13時57分24秒

1003座と一等三角点を登っています 単独行が多いです
最近は丸くなりました ヒントがなければ平ケ岳と思います

_ 小屋番 ― 2019年04月09日 14時28分21秒

 コメントありがとうございます。平ヶ岳は未踏です。70歳を境にそろそろ名山に登っていこうと思います。GW以後は東北の1等三角点を5座登る予定です。

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