武四郎の足跡②・・・尾鷲道2022年09月08日

 尾鷲道の古和谷を通過しなかったみたいだ。R425を矢所から尾鷲へ行くには小さな峠越えがある。今はトンネルだが昔の人でも疲れた足で最後の峠を越えるのを避けた。
 木津へ下れば海に近い町に出られる。武四郎は引本港から船で伊勢に帰ったらしい。京都の今西錦司も木津へ下ったが、便ノ山から馬越峠を越えて尾鷲に下った。そして船で伊勢に帰った。
 今の常識なら紀勢線で伊勢に出て、参宮線で関西線の亀山駅から奈良経由で京都へ回るのだが海路が中心だったらしい。
 歴史的には尾鷲道は新しい。上下動の少ない山腹の道が中心になる。武四郎道は尾根が中心になる。但し水が得られないから尾鷲道が開発されたのだろう。今ある尾鷲道の森も昔は原生林だったから湧き水も豊富だったと想像する。皆伐したがために特に西側は蛇抜けだらけになった。

武四郎の足跡①・・・木組峠2022年09月08日

 廃村・木組から木組峠に登り光山そして水無峠を越えて木津(こつ)へ。木津から便ノ山へ。そして引本浦港から海路を伊勢に帰った。

大台ヶ原山へ②2022年08月21日

 朝6時ごろ起きた。外はざーざーぶりの雨だった。計画が流れてゆく感じがした。朝7時の朝食をとる。焼鯖が旨い。ザックを整理して外に出るがまだ傘が要る。車の外で準備中に雨が止んできた。それじゃとカッパの上着のみ着て尾鷲辻への踏査を試みた。
           雨の尾鷲辻へ
 登山口は日出ヶ岳と同じだが少し先で右へ分かれた。昨日と同様にオーバーユースに備えてほとんどはコンクリートで固めてある。そしてほぼ水平の道である。日出ヶ岳から流れるシオカラ谷の流れは1540mなのでやや下り気味であり、1580mの尾鷲辻まではやや登り気味である。尾鷲辻には東屋が建っているので雨具のズボンも着用した。近くにはオレンジのテープが巻いてある。これは下部では尾鷲道の印、青色は松浦武四郎の歩いた標になっていた。
        尾鷲道をちょっと足を踏み入れる
 東屋を出ると今までの整備され過ぎた道とは違い途端に山道らしくなる。それに雨水も溜まって歩きにくい。比高80m下って1550m付近からジグザグの巻き道の下りに入る寸前で引き返した。できれば堂倉山の山頂でも踏めれば良いなと控えめの目標はあった。ここから1500mまで一気に下がり、さらに1450mまでだらだら下ると堂倉山との鞍部である。約20m登り返すと山頂だ。約150mの比高を登り返すのだが雨では止む無し。
 尾鷲道の道標のある下り道の始まりで引き返したが往きには気が付かなかった道標も見つかった。昭文社の地図でもこの先は未整備を示す破線路になっている。つまり古道のまま廃道の運命であり、わずかな好き者が歩いているに過ぎない。途中に避難小屋はなく、水場は地図にはあるが実際には流れていなかった。常水ではないので縦走には大量の水を担ぐから体力とRFの力が試されるコースである。
 山上に戻ってビジターセンターの軒先で濡れ物を脱いで乾いた着物に着替えた。雨は小止みになり大峰山脈付近には晴れ間も見えた。終わったら晴れたのだ。成果は挙げられなかったが尾鷲道への知見は若干でも深まった。
        名古屋へ帰る
 ワイパーを作動せずに帰路についた。朝方の大雨だとがけ崩れなども心配したのである。ドライブウェイを走ると稜線と路上が同じになるので川上村の山々が見えた。中でも雲海に浮かぶ白髭岳の三角錐の立派な山容が素晴らしかった。日出ヶ岳に登った際はついぞ気が付かなかった。1378mの標高は300m以上も低いので目立たないのだ。1403m辺りだろうか。同じ目線の高さで堂々と聳えている。今西錦司が83歳の時、1500山目に登った記念碑的な山である。
 伯母峰峠もまた来てみたいところだった。そこからぐんぐん高度を下げてR169に出た。後は同じ道をたどり帰名した。

大台ヶ原山へ①2022年08月20日

    晩夏の 大和路へ
 尾鷲道の踏査を目的に大台ケ原山へ向かった。久々のロングドライブになった。
 朝7時金山駅前を出発。東名阪から名阪国道へ。針ICから国道をつなぎながら晩夏の大和路を走った。名阪国道を針ICで出て、R370を走るとかつて登った貝ヶ平山の東の香酔峠を越える。玉立(とうだち)の交差点を左折してR370から離れる。榛原市街を迂回する地方道を抜けて宇陀川沿いで再びR370に戻る。ひたすら南下して窪垣外で吉野川に出る。ここは高見山からの高見川と大台ケ原山からの吉野川が合流する地点で、流れは複雑な地形通りに蛇行する。中央構造線の影響だろうか。活断層だから大きな地震に見舞われてきたことだろう。
 中央構造線と災害を結び付けると有名な寺社が建っていることが分かった。
 「奈良県吉野郡(よしのぐん)ほか。紀伊半島の中央部・吉野山(よしのやま)から大峰山(おおみねやま)にかけての山岳地帯のこと。古くから山岳信仰の地として知られてきました。

大滝ダムの建設で水没する前に発掘調査が行われた丹生川上神社上社(にうかわかみじんじゃかみやしろ)の境内では、11世紀ごろの祭壇跡だけではなく、縄文時代の祭祀遺構も見つかっています。

第40代天武天皇(てんむてんのう)は、この地域にある吉野宮に隠棲したのちに挙兵しました。また、第41代持統天皇(じとうてんのう)の行幸の記録も残っています。

天川村にある有名な天河大弁財天社(てんかわだいべんざいてんしゃ、通称は天河神社)は、役小角(えんのおづの)が創建したと伝わる古いお社。

芸能の神を祀る神社であるとともに、近年はパワースポットとしても有名ですよ。」とあった。
 R370は矢治から吉野川を渡る地道に入り、樫尾でR169に合流する。ここら中央構造線沿いの紀ノ川の源流の吉野川に沿う道になる。
 ここまで奈良市、宇陀市、吉野郡吉野町と南下してきた。つまり「南朝=吉野朝廷は、鎌倉幕府滅亡後に始まった建武の新政に失敗した後醍醐天皇などの大覚寺統の天皇が、京都の都を逃れ奈良県吉野郡吉野町や奈良県五條市西吉野町などを本拠とした朝廷」のエリアをドライブしてきた。
      名物の柿の葉寿司を仕入れる
 R169からは吉野川の険谷沿いの道になり。杉の湯の道の駅で柿の葉寿司を仕入れる。正岡子規が有名な
     柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
と詠んだごとく柿は奈良県の名産らしい。柿の実のみならず葉も寿司に利用するわけだ。葉の大抵はビタミンCが多く防腐剤になると言われる。鯖の生き腐れというのような鮮度の短い魚はすぐに塩でしめて柿の葉で包むことで発酵を促す。この時期は飛騨の朴葉寿司も同じ理屈だろう。近くには古刹丹生川上上社もあるが今回はパスした。
 登り一辺倒のR169はやがて入之波温泉への分岐をやり過ごす。標高400mの大迫ダムからループ式トンネルを通って標高700mの大台ケ原へのドライブウェイ入口になる。入ると途端に道が狭く薄暗くなる。対向車は殆どないが時々ぬっと現れる。伯母峰峠1000m位から周囲が開けて稜線の道になる。
      大台ケ原・標高1570mの冷涼な高原に着いた
 午前10時50分に到着。土曜日とあってPは閑散。とりあえず晴れているうちにと日出ヶ岳を往復した。山頂展望台からは熊野灘が見えた。往復1時間半程度。宿のチエックインは15時であるがまだスタッフも見えない。
 下山後は大台教会も訪れた。ここへの登拝の道が尾鷲道である。人影はないが御神灯は点いていたので参拝はさせてもらった。
 宿は心・湯池館。最初は7名で申し込んだが最終的には4名になったので大部屋に代えてもらった。大部屋は文字通り何十人もの布団がすでに敷いてあったが4名と隣のルームに女性の2人連れのみだった。若者の団体客も他には居た。多分別室を確保したのだろう。夫婦組は個室だった。
 ここで夕食の18時まで缶ビールで歓談した。夕飯のメニューは猪肉のミニ鍋が付いたごちそうが出た。夕食でもまたカップ酒にお付き合い。酒好きが2名も居たのだ。
 風呂に入って寝た。ビールのせいか夜中に3度小便に起きた。年寄りはただでさえ小便が近いのにビールは利尿剤なので尚更だ。

尾鷲旧道研究①~木組と木津を結んだ生活道路~2022年07月07日

左古和谷? 右きぐみ?
 きくみ(木組)とは木組峠の西を流れる東の川の山懐にあった木組村のことだ。地蔵峠の道標に「きくみ」と彫ってあった。きとみははっきりしている。くはみを囲むような表示だが、「木組」のことだろう。地名は濁らない表記もある。左は古和谷だろうか。古の字は行書体である。後が判明しがたい。
①豊川 
川のの読み方はとよがわ、
地名はとよかわ
②豊田
地名はとよたし
人名はとよだ
③豊橋
橋の名前はとよばし
地名はとよはし
④松阪
人名はまつざか
地名はまつさか

続 『今西錦司 初期山岳著作集 初登山』の補遺2022年07月05日

6/20の続き
  尾鷲道を調べていたら今西錦司が戦前に縦走していたことをしった。それで記録の掲載された斎藤清明編『今西錦司 初期山岳著作集 初登山』を取り寄せた。古書が届いたのでさっそくひもとくと、1922(大正11)年10月に3泊4日で登っていた。20歳の時だから京大生だった。京都を出発し柏木で一泊。入之波の大台辻から入山し、大台教会に一泊。面白いのは三日目の行程だ。なんと、牛石ヶ原からトロッコに乗せてもらっている。
トロッコの行き先は樫山958m三角点まで便乗し、不動谷と岩井谷の合流点に下山した。溪谷でもトロッコ道を歩き便ノ山に出て、馬越峠を越えて、夜10時半尾鷲港に下った。尾鷲港から船で荒波の中を鳥羽まで行き、汽車で帰京。
紀州は木材生産が盛んだがもうそんな時代からトロッコが行き交いしていたことに驚いた。8月には大台ケ原からマブシ領往復の計画なので堂倉山辺りをよく観察してみたい。トロッコ道が残っているはずだ。検索すると「堂倉山山頂を南側に下り立ったところは「シラサコ(白カケ)」と呼ばれており、小さな平地に陽光がよく通っている。この付近は、大蛇嵓の方から伸びてきたトロッコ道跡があり、時に尾鷲道と重なっている。枕木やレールの取り除かれた線路跡をイメージしてもらうとわかりやすいが、登山道としては贅沢な1~2m幅の道が緩やかな傾斜で伸びている。ただ、このトロッコ道はいつまでも尾鷲道に寄り添っているわけではなく、巨岩帯を通り抜けたあたりからやがて森林の中に埋もれ視認できなくなる。」とあった。
「「白崩(しらくえ)」と呼ばれている岩礁で、その下の谷が「白崩谷」である。三度にわたって大台ヶ原に入山した松浦武四郎は、木津(三重県)に下りているため、ほとんど尾鷲道を使っていないが、3回目の入山時には、大蛇嵓から堂倉山西側をまいてこの白崩谷を使って東ノ川まで下りている。」
 「「尾鷲道」は、尾鷲の林業家・土井 與八郎が大台教会開殿後、. 紀州の信者の参詣道として1915(大正4)年に寄進され、 大台ヶ原. への登山路として尾鷲」の人々に利用された。という。
  今西が歩いた時代は大台教会の信者も登拝に来ていただろう。
因みに大杉谷の初遡行は「遡行は明治45(1912)年5月。大西源一は櫛田川河口に近い多気町弟国の出身。大北聡彦は松阪市。桃の木小屋は昭和15年完成というから、鍋、米、味噌を携えて、焚き火を起こし炊飯する野営の旅だった。」
 松浦武四郎が入山したのは67歳(明治18年)というから如何に探検的な登山だったか。大川嵩の入山は武四郎没後に1891年62歳でした。

尾鷲道研究②~古川崇とは~2022年07月01日

 多くの信仰を集める古川崇(かさむ)とはどんな宗教者だったのか。研究書は以下の通り出版されている。


①大台ヶ原開山記―古川嵩伝記 単行本 – 2001/7/1
豊かな自然を持つが故に、昔から「魔の山」「迷いの山」と恐れられた大台ケ原を開いた古川嵩。自然界と人間の融合による環境保護に警鐘を鳴らした、彼の生涯と開山の足跡をたどる。
鈴木/林
1926年三重県津市生。1943年白子海軍航空隊学徒動員。1945年陸軍通信兵現役入隊。1946年電気通信省勤務。1985年日本電信電話公社退職(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

②大台ヶ原山 知られざる謎
内容説明
奈良県吉野郡と三重県多気郡の境にある、山域「大台ヶ原山」に息づく“日本の文化の原風景”を明らかにする。

目次
1 松浦武四郎と大台ヶ原山(大台ヶ原山の神秘;大台ヶ原山の開発;霊山と怪性の住居;自然への敬意;自然観と宗教観)
2 古川嵩と大台教会(嵩の目指す宗教;大台ヶ原山での修行;大台教会と神習教)
3 大台ヶ原山の隠れた背景(大峰の修行者が立ち入らない大台ヶ原山;江戸時代から明治にかけて大台ヶ原山に入っていた人々)
4 大台ヶ原山で語り継がれる伝承(大台教会第二代故田垣内政一教長の夜話;大台ヶ原山に関わる伝承と言い伝え)

著者等紹介
大川吉崇[オオカワヨシタカ]
1941年生。高野山大学文学部仏教学科卒業。三重高等学校で日本史を4年間担当、のち大川学園に移籍。現在、学校法人大川学園理事長・社会福祉法人自由学苑福祉会理事長。三重県山岳連盟顧問・三重県レクリエーション協会会長・三重県私立幼稚園協会常任相談役。加盟学会は、日本民俗学会・日本環境教育学会・日本調理科学会(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
http://ohkawa-a.cocolog-nifty.com/blog/cat36483120/index.html

③癒しの山 大台ヶ原 : 開山行者の生涯 Kindle版
開拓者精神!! 

現在社会で死語になっている言葉。

「俺も助かる、世間の人々も助かる」
これが人間究極の人生だ!
この本の主人公、若き行者、古川嵩が己の命をかけて魔の山「大台ヶ原」に立ち向かう姿は、やれストレスや・うつ病やなどと悩み苦しむ現代人に強烈なパンチをくらわす。人生の唯一無二の生き様を我が身をもってしめした希有のストーリーだ。

並外れた彼の精神力と不動の信念。彼を取り巻く人々の驚嘆もさることながら、大台の王と呼ばれ恐れられた日本オオカミでさえ彼の心を射止めた。
「若き行者と二頭のオオカミ」の交流も見所だ。

彼は、うつ病に取り憑かれた。その治療のため父の主導で御嶽山修行した。過酷な修行のある日、不動明王やその他の神々に出会う。修行を終えた時には病は消滅。

「俺の人生目的は大台ヶ原開山だ」

 最愛の妻や家族と今生の別れ。金剛杖で力強く大地をはたき、単身大台へ。二頭の日本オオカミと共に完全燃焼した古川嵩行者の壮絶なる生き様。

大願成就の暁に「神武天皇銅像」を建立したことはあまりにも有名だ。時節柄、銅像撤去に来た進駐軍の上官が
「これぞフロンティアスピリッツだと感激し、後生に残し置こう」」と言い放ったことは知る人ぞ知る史実。現在も牛石ヶ原に聳え立つ神武銅像は光彩を放っている。

今は「日本百名山」という名誉を頂き、多くの登山者の訪れる関西では否世界中の登山家の「心を癒やす山」として賑わっている。

この本は、克明な史実をもとに書かれた原書、郷土史家、鈴木林著の大台ヶ原開山記【古川嵩伝記】を氏の承諾を得て、三重熊野市在住の郷土史家、杉岡昇氏がリライト、よしいふみとが編集したもので。今後二度と世に出ることの無い貴重本である。

(もくじ)
はじめに
プロローグ、梅雨の一夜
古川嵩行者の生涯
厄年の児、商人の道へ、 大台ヶ原開山への旅立ち、信頼、池峰明神参籠、大台ヶ原入山、単独行動、再会としばしの別れ、教会設立活動、越冬の修行、教会建設、気象観測、有線電話架設、神武天皇銅像建立、自然崇拝と自然破壊、旅立ち
今、発行元の山の辺書房自分史編集室では、より多くの人に膾炙するため英語版「FRONTIER SPIRITS」を制作中。
​日本語版はAmazon電子書籍本サイト。
杉岡昇
杉岡昇プロフイール

 一九六一年、和歌山県立新宮高等学校卒。日本国有鉄道OB・新宮山の会OB。 日本百名山の一つ、大台ヶ原に魅せられ登山を続けるうち、稀有の大自然を多くの人に知ってもらいたいという思いから『大台ヶ原・開山行者、古川嵩の生涯』と、続編「大台ヶ原、妖怪一本足たたら伝説」を、乏しい資料を求めて数年がかりで纏め上げ、自伝出版専門の山の辺書房自分史編集室から出版。
現在紙本第三刷となり、さらに電子書籍としてアマゾンで販売している。これは、ロングセラー作品となった。

 二〇一一年、和歌山県南部を襲った台風十二号で住み慣れた我が家を喪失。失意の避難生活の末、終の住み家を求めて奔走。苦難の末三重の山峡に移住する。自然植物研究家・ラン愛好家・登山家・執筆家・陶芸など多彩な趣味の持ち主。

 平成二十七年秋、思いもよらぬ膀胱ガン発症。三度の手術を受け快癒。現在経過観察中。度々の人生の節目に遭いながらも、著者の人生哲学的思考――災難のどん底に居ても常に生き甲斐を見つける――事を本分とし、日々著述や多くの趣味に意識を移しポジティブに力強く生を満喫している

[主な著作] 「大台ヶ原・開山行者、古川嵩の生涯」「続編大台ヶ原、妖怪一本足たたら伝説」「平成の大洪水」これは…NHKで放映され反響を呼ぶ。その後矢継ぎ早に「膀胱ガン闘病記」「熊野の里山今昔噺、第一巻、第二巻を出版(アマゾン電子書籍)。

尾鷲道研究①~登拝の道~2022年06月30日

    山岳古道の第二回目の会議を開催(18:00~20:00)
 8月以降の古道の踏査の予定日を揉んでみた。大台教会と尾鷲を結ぶ道の踏破を第一に話し合った。そもそも尾鷲道は大台教会への巡礼の登拝の道だったのだ。8月半ば以降に実施を決めた。大台山上とまぶし嶺を往復することにした。
 猛暑の8月だがお盆を過ぎると少しは涼しくなってくる。一日の日照時間が減ってゆくからだ。
奈良県のデータは
7月1日は夜明け4:47、日没19:14。8月20日は夜明けは5:20、日没は18:39になる。朝は30分以上遅くなり、日没は41分早くなる。大台教会は6時、尾鷲辻は7時に出発し往復する。15時までに戻れれば名古屋へは20時には帰れる。
 これが完遂してやっと60%くらい。古和谷道、木組峠とまぶし領間がある。結構長期的な取り組みである。
 尾鷲道の古和谷ルートは秋から初冬をめどにを歩くことにしたい。水無木組林道終点でテント泊し、光山経由でまぶし嶺往復の難関コースも残る。ここが実は武四郎も歩いた道らしい。水無峠から木津へのルートも歩いておきたい。武四郎は3回とも木津へ下っている。そして船で伊勢に帰った。
 
大台教会とは
https://www.yamareco.com/modules/yamainfo/ptinfo.php?ptid=43097

大台ケ原 ―― 神武天皇像 古川嵩の足跡
http://www.stomo.jp/3k_kiji/3k150214.html

心・湯治館: 大台ケ原の宿泊施設
https://www.cocoro-toujikan.com/

 尾鷲道は最初は又口辻が出発地になったが尾鷲に遠いためか、古和谷ルートに変更されたらしい。古川崇なる人物のことも知らねばなるまい。あれだけの道を歩いて信仰させる何かがある。
 かつての御嶽教も中央西線がなかった頃は白巣峠を越える登拝の道があった。中央線が木曽福島まで開通したら寂れたという。尾鷲道も大台へドライブウェイが開通したら忘れられた。そして荒廃した。それが今や篤志家の活躍でよみがえった来た。
 山抜けの危険個所にはロープが張られて、道標も整備された。何の機運か知らないが、今後は多数の登山者を集めるのだろう。

『今西錦司 初期山岳著作集 初登山』を受領2022年06月20日

上北山村のHPから大台ヶ原の山上図
 古書店に注文してあった斎藤清明編『今西錦司 初期山岳著作集 初登山』(ナカニシヤ出版 平成6(1994)年刊)が届いた。早速中身を見たのは1922(大正11)年20歳の未発表の山行記録の中の大台ヶ原山だった。足どりをたどってみた。

①10/28 京都駅から柏木の朝日屋に泊まる。

・・・入之波は温泉がある。奥吉野の南朝の旧跡を訪ねた。大台辻は台高山脈の縦走路に入る。ここから川上辻を経て秀ヶ岳までは2時間である。昔歩いたが強風で川上辻からバス停に行き帰った。

②10/29 柏木から多分歩きで入ノ波(しおのは:入之波)~筏場~大台辻~大台教会に着く。

大台教会とは・・・「大台教会

ここは神習教大台ケ原大教会という神道の教会である。神習教は「自然の中に自分をゆだね、山をあるいてもらえればよい」というおおらかな宗教とされる。

1891(明治24)年、御嶽山で修業した美濃出身の行者・古川 嵩(かさむ)が大台ケ原を霊場として開山しようと入山、1899(明治23)年教会が設立された。

大台ケ原山の山中で、2匹の夫婦狼と寝起きし終業に励んだとされる古川は、越冬も経験しながら、地元の人々に大台ケ原の素晴らしさを伝えながら修行を続け開山にこぎつけた。大正に入って、大台ケ原に登山する人も増え、教会は宿泊施設としての役割も持った。1922(大正22)年には、西堀栄三郎、今西錦司などの4名が泊まっている。1961(昭和36)年の大台ケ原ドライブウエイ開通までは、山に上ってくる人のよりどころであった。

現在、教会は信者の宿泊施設として利用され、一般登山者は教会の隣の「たたら亭」を憩いの場としている。≪大峰・大高より抜粋≫」


③10/30 教会~日出岳~牛石ヶ原~大蛇岩~木津(こつ:紀北町)~便ノ山~馬越峠~尾鷲

・・・大蛇岩は現在の大蛇嵓。ここからいきなり紀北町の木津に下っている。ルートが簡略過ぎるので文を読むと、「大蛇岩から引き返してトロッコ道を下り、小屋で昼食す。
 そこへちょうどトロッコがきたので皆材木の上に乗って、二ノ俣国有林の秋色を賞しながら地図に樫山とある三角点の尾根まで運んでもらった。それから岩井谷と不動谷の合流点近くに下りた時にはもう月の光が美しく谷間にさしていた。中略。
 銚子川に沿うて便の山まで下り馬越峠に上った。尾鷲の燈火がちらちらと輝いた。十時半尾鷲に下りた。以下略。その後は汽車で帰京するのではなく、鳥羽までは船に乗った。時化がひどく悲惨だったらしい。

 何のことはない、「1915(大正4)年に尾鷲の土井與八郎によって拓かれた」尾鷲道はすでに開通していたが、そこを歩かずにトロッコに乗って楽している。

 二ノ俣谷は尾鷲道と樫山と堂倉山をつなぐ稜線に挟まれた谷である。不動谷の本流になる。

④10/31 鳥羽~宇治山田~大廟参拝~宇治山田~木津(きづ:関西線の木津駅)~帰京

木組峠まで2022年05月26日

 5月22日尾鷲市の宿を朝7時に出発。再び水無峠を目指す。林道終点まで乗り入れP。ジムニーの先客あり。しばらくは林道歩き後、切通しで残されたような場所にある地蔵さんのあるところへ登る。
  林道へ戻り、地蔵峠の道標から非常階段みたいな急坂を登り稜線に急登した。すると散策路のように気持ちの良い山路になった。尾鷲道の古和谷分岐から又口辻、山腹のう回路を歩く。2017年12月は冬だから枯れていた神明水には今回も水を得られなかった。新木組峠に着く。ここから尾根通しに登り稜線分岐から光山への道が分かれる。木組峠に下った。すると2人パーティに出会い情報をもらう。
 NTRCのテープは青は松浦武四郎の通った道、オレンジは尾鷲道と使い分けしていると聞いた。
  木組峠口まで下って、尾鷲道の旧道を探す。蛇抜けの谷に下るロープ(NTRC整備)を伝って谷芯に降りた。対岸へは踏み跡を探して攀じ登った。着いたところはブナの平らな素敵なところだった。後続の6人は少し戻って浅い谷上部を渡った。平まで下って何となく踏み跡をたどると尾鷲道がしっかりしてきた。NTRCの道標では高リスクとあったが、ついに蛇抜けのところに遭遇した。ここもロープがあって安全に対策してあった。80歳の高齢者もいるので恐る恐る見守ったが無事に通過。次もその次も無難に通過できた。すぐに新木組峠だった。
 ここから1297mの三角点西原(中の嶺)を踏んで行く。ピークは展望の良い細又谷の頭1305m峰、シロヤシオに包まれた西原(中の嶺)1297m峰、太平洋側に開けた竜辻山1260m峰のおよそ3ヶ所あり、アップダウンが激しい。これだから山腹のう回路が開削されたのだろう。
かつて、伊勢辻山から大台ケ原山までツエルトビバーク3泊で縦走したが、山頂を巻くことが多かった。山仕事や生活道路の道としては合理的である。
 又口辻の道標を見ると周回の目的を果たす。古和谷分岐から地蔵峠は快調に飛ばす。林道に降り立つとやれやれ感が漂うが、まだ林道歩きが待っていた。
 今回の踏査で分かったことは尾鷲道と武四郎の踏破した道は新木組峠までは重なるが、以南はバラバラに分かれて踏破している。バイパス的な光山経由水無峠から木津へ下山し、引本港から船で帰った。又口辻から柳ノ谷へ下山、今回分かったのは竜の辻からも下山したことがNTRCの道標で知った。武四郎は尾鷲道の古和谷ルートは歩かなかったのか。また調べ物が増えた。
※NTRCは熊野大杉谷ガイド協会の野中太郎氏の略か。