忘年山行2 伊勢山上と枡形山を歩く2019年12月01日

 朝6時30分起床。今朝も良く晴れている。窓からは錫杖ヶ岳が良く見える。あの山を借景にしているのだろう。布団を畳み、荷物を片付けて朝食に食堂へ行く。既に皆さんは食事を始めるところだった。朝はパン食と野菜、フルーツの洋食風になった。それも済ますとザックを1Fにおろし、出発の準備だ。ロッジの玄関前で記念写真を撮影。車を玄関に乗り込み運び入れると出発だ。11人参加。
 まずは関ICから一志嬉野ICへ。雲出川の支流の中村川に沿う地方道を源流に向かって走る。途中から飯福田川に分かれて走ると伊勢山上飯福田寺(いせさんじょういぶたじ)に着いた。

 ここは行場といって修験者の修業の場だったらしい。HPには「元々、修験者(山伏)のための霊場・修行の場でありましたが、明治時代以降一般の方にも開放され、多くの方々に入山していただいております。但し、命の危険を伴う場所も多く、入山される場合は、必ず当寺の受付にて入山心得をお聞き頂き、入山名簿にご記帳の上、入山料500円をお納め下さい。入山中の怪我・事故等につきましては、当寺は一切責任を負えませんので、ご了承いただける方のみご入山下さい。 」とあった。以前から聞いてはいたが来る機会が無かった。
 受付で500円を払ってもらい行場の説明を聞く。再びHPによると「当山は伊勢山上と称され、ご本尊は『薬師如来』。

 大宝元年(701年)、役小角(えんのおづぬ)により開創された霊場である。広大な表行場・裏行場を有し、古来より諸侯国司をはじめ、信奉の参拝者は多く、北畠家の祈願所として栄える。                 また、天正11年(1583年)には、織田信雄に寺領・百十五貫文を寄付されたが、松坂城主・蒲生氏郷により、当山の伽藍を壊し、その材を用いて松坂城を築くなど、衰退の止む無きに至る。その後、津藩主・藤堂家の信奉を得、寺運は興隆し、今多くの人々が修行と順拝に参詣している。」とあった。

 そうか、ここにも北畠氏の勢力範囲だったのか。あるHPには「大河内城跡についてーーー北畠満雅が応永22年(1415)に築いた城で、弟の顕雅を城主としました。永禄12年(1569)北畠具教はこの城に篭もって織田信長と戦いました。織田勢は力攻したが失敗、兵糧攻めに転じたため、具教はついに信長の次男信雄を養子とする条件で和睦。信雄が田丸城に入ったため廃城。
◎北畠具教(1528-76)戦国時代の武将。弓馬・兵法・和歌など文武に秀でた端将といわれています。永禄のはじめごろから織田信長の伊勢侵攻によって、多気・大河内両城を棄てて三瀬の古城に移り、1570年出家。」と案内。

 伊勢山上の説明によれば織田信長は北畠具教を攻めた際に伊賀忍者を使ったらしい。それに対抗するためにこちらも山岳僧を養成する道場だったというのだ。

 それで出発するといの一番に油こぼしの鎖場が出てきた。鎖を掴みながら登りきるとお堂のある窟屋に行く。ここもクライミング的な順路があるが、大勢なのでエスケープルートでずるした。ここを通過すると難所はなく雑木林の中の穏やかな山道になる。最高点らしいところで小休止。するとまた次の難所が出てきた。小尻返しとかいうのでロープを出して確保してもらった。岩場に慣れない新人もいるからだ。ここも突破、次はエスケープルートを回るともう難所はなくなりスタート地点に戻った。約2時間余りの岩場巡りだった。
 受付へ下山報告後、東屋で昼食とした。休憩後、次の枡形山登山口へ移動。中村川を下って平野部に出た。向山から大阿坂町に出て山際に建つ浄眼寺へ向かった。ここにも説明板はある。

 あるHPによれば「
「阿坂城跡(白米城)について
北畠満雅が築いた城。敵軍の水断ちに遭った際、白米で馬を洗い水がふんだんにあるように見せかけ、敵をあざむき退却させたという伝説から、白米城の名があると言われています。」とあった。寺のPから約40分と手ごろ。ここは子供のころから聞いていた白米城であった。昔は地形図にもそう印刷されていなかったか。

 一山やったばかりだが、また登山の準備で登りかかった。最初はセメントの狭い舗装道路を急登する。やがて地道になって緩急取り混ぜながら山頂に着いた。なるほど眺めが良い。三等三角点も萱の山上に埋まる。すぐ近くの南の山は堀坂山、西には中村川の谷を隔てて矢頭山、髯山(ひげ)、雨乞山が並ぶ。さらに向こうには尼ヶ岳(伊賀富士)が頭を出している。山頂の案内板には日川富士もある。これは観音岳の北西の508mの独立標高点を指すらしい。
 4人のパーティを組んで近鉄伊勢中川駅でタクシーを拾い、浄眼寺へ走り、枡形山から日川富士を経由、観音岳を登って下山し、またタクシーを呼んで松阪駅へ行けば手軽な縦走コースになる。

 戦国時代にこの地域を統括していた「北畠 具教(きたばたけ とものり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名・公家。伊勢国司北畠家の第8代当主。」

「永禄11年(1568年)以降、尾張国の織田信長が伊勢国に侵攻し、神戸氏・長野工藤氏など伊勢北中部の豪族を支配下に置いた。そして、永禄12年(1569年)に8月に信長自ら北畠領内への侵攻を開始した[2]。北畠軍は織田軍相手に奮戦したが、兵数に大きな差があり、具教の弟・木造具政が織田氏に寝返るなどの悪条件も重なり、次々と城を落とされた。具教は大河内城(現在の三重県松阪市)に籠城して死守するも、50余日に及ぶ抵抗の末に降伏する形で和睦した(大河内城の戦い)[2][3]。このとき、具教は降伏の条件として信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養嗣子として迎え入れることとなる」

「天正4年11月25日(1576年12月15日)、具教は信長と信雄の命を受けた旧臣(長野左京亮、加留左京進(藤方朝成の名代))の襲撃を受けて、子の徳松丸・亀松丸、および家臣の大橋長時・松田之信・上杉頼義ら(名が判明しているだけで14名の武士)共々殺害された[2][3]。享年49。同時に長野具藤はじめ北畠一門の主な者が信雄の居城・田丸城において殺害された。これにより戦国大名としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られた(三瀬の変)。」

 織田信長の年表を見ると戦いに忙しかった。34歳時の1567年は本拠を岐阜城に移転。42歳時の1575年は有名な長篠の戦いがあった。1576年には安土城を築く。1582年には信長も本能寺の変で自害。
 北畠家は伊勢国司家としては滅亡したとある。江戸時代以降も継承されたが「中院通勝の子親顕が北畠家の名跡を継承したが、寛永7年(1630年)、親顕が没し、跡継ぎがなく北畠家は断絶」した。しかしその後「1871年(明治4年)7月、久我建通の子通城が分家して北畠姓に改姓し、家名を再興した。後に北畠親房、顕家らを祭る霊山神社の宮司を務めた。」とあり、北畠家から分家筋が一旦名前を変更後、北畠を名乗るようになった。
 「北畠政郷の子・田丸顕晴が度会郡田丸城に入って田丸氏を名乗ったことに始まる。」田丸氏は知人にも同姓が居る。松山市出身だが、松山藩の徳川家に仕えた田丸氏の子孫だろうか。浪岡氏は青森県の北畠につながる。
 これで今年は3月の北畠親房(1293~1354)の田丸城見学、5月の青森の北畠八穂(1903~1982)の調査、11月の近江柏原の北畠具行(1290~1332)の墓見学、12月の北畠具教(1528~1576)の縁の山に登ったことで4人を知った。八穂は近代の人。北畠家系図を見ると親房と具行は同時代なんですね。天皇の政治から貴族の政治へ、平安時代は過ぎて、鎌倉時代の武家政治に変遷する中で登場してくる。具行は安土桃山時代の人。何となく分かりかけて来た。

恵那山の山名をめぐる話・・・三遠地方民俗と歴史研究会2019年01月28日

 東海地方のどこからでも悠然とした山容を見せる恵那山。別名は舟覆山とも称されて、漁師からは忌み嫌われたらしい。それがいまでは名山として押しも押されぬ地歩を得た。
 恵那山の由来を調べようと、多くのガイドブックや山の本を渉猟してはみたが、アマテラスの胞を山頂に埋めたという伝説から一歩も踏み込まれることはなかった。江戸時代の地誌『新撰美濃誌』にも伝説の引用はある。しかしそれまでである。伝説は口承であるから人々の脳裏に刻まれた物語である。文献は残されず記憶に頼るからだ。
 深田久弥『日本百名山』も伝説の紹介だけであり、立松和平『百霊峰巡礼』には山名すらない。ほとんどは回避しているかに思える。
 それで暗礁に乗り上げていた時、ふと名古屋市中区生涯センターに置かれた愛知県埋蔵文化センターのチラシが目に留まった。そこには埋甕の展示が案内されていた。実は『埋甕』という本を読んで、明治時代半ばまでは胞は普通に埋設されていた。さらに調べると、徳川家康の胞が岡崎城に埋設されていると知った。松平家康として生れたのだから偉人になってからの記念碑的扱いである。
 こうして考えを巡らすと山頂に胞を埋めること自体は特殊なことではないと思われた。眺めの良い山には伊勢神宮の遙拝所がある。それでなくても、神話上の人物が祀られている。
 例えば奥三河の大鈴山は伊勢神宮の遙拝所だった。伊勢神峠はもともとは伊勢拝みの謂いだという。猿投山にはヤマトタケルの兄の墓所がある。鎌ヶ岳にもアマテラスが祀られている。
 特に信仰の山ではないのにだ。山自体が御神体ではなく、頂上からはるかに伊勢神宮を遙拝できることが重要なのだ。
 これまでの調べでは、地名としての恵那は惠奈として平安時代の和名抄という書籍に記録されている。
 思えば日本民族には言葉はあっても文字のない時代が長かった。そんな時代でも確実に子供は生れたから「エナ」という言葉はあったであろう。唐の時代に漢字を輸入して、一字一音で日本語に当てはめた。それが万葉仮名であった。エナは惠奈と書かれ、恵那になり、やがて漢字の胞が当てられた。岐阜県の胞山県立自然公園と称するように県は胞を使う。恵那は言わば雅字であろう。
 山麓の阿木にアマテラスの胞を洗った血洗池があり、中津川を隔てた湯舟沢はアマテラスが産湯を使ったという伝説。それで恵那山と呼ばれたというのである。この伝説は何ゆえに生れたのだろうか。
 阿木の奥には木地師の活躍があった、今もロクロ天井には木地師の墓がある。1471mの点名は阿木という。焼山は木地師が焼き畑農業で山を焼いて蕎麦、稗、粟などを栽培した名残りではないか。全山が花崗岩の山なので噴火はあり得ない。
 実際には今の恵那山に命名される前に、血洗池の源流の山に埋まる三角点888.3mの点名「血洗」の一帯を恵那山と呼んでいたのではあるまいか。恵那の地名はそこから起こったと考えると自然である。
 伊勢神宮の遷宮は7世紀に始まる。皇学館大学が編纂した御杣山の記録集でも詳細に記録されるのは江戸時代に入ってからのことだった。多分、記録の手段としての和紙の供給が不足していたであろう。江戸時代になると庶民でも出版できるほどに流通した。1340年には奥三河が1回だけ御杣山になったが、設楽山とするだけでどこの山とは特定されない。私は段戸山周辺と思うが・・・。三河の山と伊勢神宮が遷宮の用材切り出しでつながっているとは面白い。
 御杣山の記録集(全文漢字)には恵那山の北の湯舟沢山1620m、井出ノ小路山1840mの名前は出てくる。あの辺には伊勢山もあり伊勢神宮との密着度が高い。しかし、恵那山は出てこないから、中津川周辺から源流は神域であったと思う。用材切り出しは湯舟沢周辺の記録はある。阿木はない。阿木は人里に近く、木地師もいたから落葉樹林でおおわれていたと見る。
 信仰としての恵那山は後世に入ってからのことと思われる。中津川を中心に川上にある恵那神社の建立が象徴する。縁起は不明となっている。前宮登山道は役の行者様の石仏もあった。前宮から奥は今でも針葉樹林の森である。
 恵那山はどこから登っても遠い山である。庶民が親しく登る山ではなく、崇められたであろう。汚されたくないためと盗伐を防止することも重要であっただろう。アマテラスの胞を埋設した伝説を持ってきて、神聖な雰囲気を演出して、安易な入山を阻止したと考えても無理はない。尾張藩が管轄していた木曽の山では、木1本首1つ、と戒めた。それだけ盗伐が多かったのだろう。
 奥三河の段戸山周辺でも、徳川幕府成立から約60年後の寛文年間に天領になった。豊川市赤坂に番所が作られて幕府の管理下に置かれて、山の民はそれまで自由に出入りしてた山に入れなくなった。おそらく、木曽でも三河でもトラブルが相次いだ。木地師は主に落葉樹なので棲み分けはできただろう。桧となると建築用材として需要は数多あり、江戸時代の経済発展とともに盗伐は増加傾向だったと思われる。
 木曽の森林は尾張藩が管轄した。徳川幕府は天皇に権威を求めた。庶民への啓蒙としてアマテラスの胞の埋設の伝説を以って、神々の森への不可侵を広めた。こんなところだろうか。

伊勢の鼓ヶ岳を歩く2019年01月12日

 朝6時30分に自宅を出た。R23を通しで走る。津市河芸町でR23の中勢バイパスの案内で移動。宮川大橋を渡るまでは快適なドライブになった。外宮の案内でR23を出て向う。やや渋滞気味だったがスムーズに参拝を済ます。
 外宮から県道32を走り、再びR23に合流するが、渋滞で内宮のPへは入れず、宇治浦田町まで戻り、鼓ヶ岳から北西に伸びる尾根の末端の墓地に走る。墓地の裏側のPになる。ここから地形図にはないが、良い道がある。11時10分から登り始める。最初はセメントで固められた道だが、次第に地道になった。
 一帯は桧の植林と照葉樹の雑木林になっている。植物景観はほとんど変化もないまま、五本松神社の分岐に着いた。その手前に内宮から道が登って来ている。誰も参拝に来た感じがしない寂れた神社を5分で往復。戻って登山道に付く。そのまま道なりに登るといい看板の立つ山頂だった。ちょうど12時だった。あいにく折からの時雨れ模様で俯瞰する景色も霞んでいる。宮川の奥には伊勢湾が見える。
 少し休んでいると体が冷えてきたので、前山に向って見た。踏跡はやや荒れている。伊勢西IC方面に下る道の分岐があった。更に下って登り返すが、段々荒れてきたので引き返す。途中に天狗岩への分岐があったので行って見ると、足元は悪いが視界の良い展望台になっていた。ちょっと危険ではある。
 さらに戻る途中でやや歩きやすい山腹を行くと、赤テープがあったが、踏み跡はほとんどない。これが地形図の五十鈴川に下る破線路であろう。山頂に戻って五本松神社分岐まで下り、内宮への登山道に振った。フィックスロープが連続する急降下道ではあるが、しっかりしている。内宮に近づくと照葉樹林が増えて緑っぽくなった。青い屋根が見えて公益社団法人修養団青少年研修センターのPの裏手に出た。R23へ出て、内宮に向った。
 宇治橋周辺はいつものことだが参拝客でごった返していた。宇治橋の上からは登ったばかりの鼓ヶ岳が見えた。混雑の中に混じって内宮を参拝してきた。
 宇治橋から五十鈴川左岸の道路の偵察に行く。境内からサイクリストの姿も見えたからだ。一般道なので今でも自由に走行可能らしい。ただ今は混雑時なので交通制限で入れない。
 奥に宇治神社があったので参拝した。足神様もあった。この神様は日進市の足王社と同じ神だろうか。足の無難を願う人が多い。
 山際に歩くと、大水神社と饗土橋姫神社に挟まれた参道の奥に合格神社もあった。御祭神は「尾崎咢堂(がくどう)翁」という。憲政の神様という。道路のすぐ近くなのに何でこんなに寂れたのか。結局は知る人が居なくなったのだ。清廉潔白と言われる半面、借りたカネを返さなかったらしい。何とか言う都知事も「借金」で地位を追われた。
 読売新聞の記事に「尾崎行雄「人生の本舞台は常に将来に在り」」がヒット。
 「1890年(明治23年)の第1回総選挙から連続25回当選、1953年(昭和28年)まで63年間も衆院議員を務めた尾崎行雄。号は「咢堂がくどう」。晩年94歳になってもなお、震える筆で「人生の本舞台は――」としたためた。その書は、国会議事堂の前に立つ憲政記念館に掲げられている。
 尾崎が「議会政治の父」「憲政の神様」と呼ばれるのは、記録的な当選回数と在任期間の長さゆえではない。藩閥や軍部など、議会をないがしろにする勢力と常に対決してきたからだ。

 それは、どんな弾圧を受けても尾崎を衆議院に送り出してくれる強固な地盤があってこそできたことだった。」
以上
 なるほど、神様に祀り上げられるには、人物への確固たる信仰が必要なのだ。三ヶ根山のA級戦犯を祀る殉国七士廟、松阪市の本居宣長の本居神社、全国に400カ所ある家康を祀る東照宮、秀吉は豊国神社、そして持統天皇を皇祖神として祀る伊勢神宮。
 境内にまで漂ってくる匂いは「一升瓶」屋の焼き肉の匂いだった。帰路に立ち寄って、食した。その後、R23を歩き、浦田の墓地内を登るとPに出た。15時、帰名の途についた。

御杣山のルーツの神路山(うちの鼓ヶ岳)を訪ねて2019年01月10日

 神路山(かみじやま)は三重県伊勢市宇治にある山域で、伊勢神宮の内宮(皇大神宮)から南へ流れる、五十鈴川上流域の流域の総称である。

 東は五十鈴川支流の島路川流域の島路山と稜線を共有する。伊勢神宮の他の森林と合わせ、神宮林と呼ぶ。

 神路山は他の神宮林と同様に、古くは神宮式年遷宮に用いるヒノキを調達する御杣山(みそまやま)であったが、これらの森林のヒノキが枯渇したため御杣山は年代により変遷し、江戸時代から木曽と美濃が御杣山となっている。神宮では大正末期から神宮林で檜の植林を行なっているが、間伐材を除けば遷宮に使えるようになるのは2125年からと予定されている。(ウィキペディア)

 式年遷宮では、多くの祭典と行事が行われる。
遷宮の最初の行事「山口祭(やまぐちさい)」用材を切り出す御杣山の山口にある神を祭る儀式。
 現在、用材は木曽山中から切り出すが、この儀式は古来のまま内宮は神路山、外宮は高倉山と、いずれも境内背後の山で行われる。
以上

 ホームページ「やまとうた」からコピペ

 関東に住んでいる私が伊勢をお参りするときは、いつも新幹線を名古屋で降りて近鉄に乗り換える。近鉄特急はたちまち木曾川を渡って三重県に入り、すぐまた揖斐川の鉄橋を越えると、もうそこは伊勢平野である。それは伊勢湾に沿って弓なりに長く長く続く平野である。
 車窓は単調な眺めが続くが、大神宮が近づくと、ようやく青い山々が視界に入る。伊勢神宮の背後を取り巻く山々である。内宮(ないくう)南方の山々は、神路山と呼ばれ、古くから神宮の社殿の用材を伐り出す山として神聖視されてきた。

 奈良や京都から伊勢をめざし、伊賀の山地を越えた古人にとっても、広漠とした伊勢の野で最初に出逢う山がこの神路山であった。山々に囲まれて暮らしていた古京の人の目に、神路山の緑はさぞ懐かしく清々しく映ったに違いない。
                   *
 治承四年、源平争乱のさなか、高野山を出た西行法師は伊勢に移り、二見浦の山中に庵を結んだ。すでに六十を越えていた法師であったが、この地で伊勢の神官荒木田満良らと親交をむすび、その詩想はいっそうの深みと清澄さを加えたように思われる。

深く入りて神路のおくを尋ぬればまた上もなき峰の松風(千載集)

神路山岩ねのつつじ咲きにけり子らが真袖の色に触りつつ(夫木)

神路山月さやかなる誓ひありて天が下をば照らすなりけり(新古今)

 西行を称賛し追慕してやまなかった二人の歌人、後鳥羽院と藤原定家には、上にあげた最後の歌に和したかのような詠がある。

ながめばや神路の山に雲消えて夕べの空を出でむ月かげ(後鳥羽院[新古今])

照らすらん神路の山の朝日かげあまつ雲居をのどかなれとは(定家)

 神路山の上から天下をあまねく照らすさやかな月の光を詠んだ西行の歌を受けて、定家は神路山を照らす朝日を歌い、雲上界―宮廷―の悠久平穏なることを祈ったのである。神路山は一名天照山(あまてるやま)とも呼ばれた。
引用以上

 神路山は御杣山の嚆矢であった。
 別名は天照山とも呼ばれた。神宮の御用材を切り尽くすと他の地域の山から伐り出すようになった。 御杣山の条件は伐採した木材を流送する谷川が必須である。
 ある時代は奥三河の設楽山という記録がある。設楽山は多分、段戸山(現在の鷹の巣山)周辺であろう。伐り出してすぐに寒狭川に落とし、やがて豊川河口から筏を組んで神宮まで運ばれたであろう。
 またある時代は美濃からも伐り出された。その時代はどこの山なのか、記録がない。推測すると、美濃の御杣山は多分、焼山であろう。伐採し、阿木川に落とし、木曽川で筏を組んで河口まで運んだと思われる。それからさらなる奥山の木曽へと開発が進んだ。そして阿木山の御杣がモデルになって、落合川の源流の湯舟沢に移ったと思われる。
 木曽の御杣山の最初は湯舟沢山で、現在の中央道・恵那山トンネルの上の一帯である。湯舟沢も条件に適う。源流は温川(ぬるまがわ)と冷川と言う。温川は信濃と美濃の国境になっている。恵那山の山頂とは微妙に違う。阿木川よりも流程が短くて搬送が楽だったと思われる。つまり、急流である程度水量があることが合理的な条件を満たす。伐採すると落合川に落とし、筏を組んで木曽川で運び、河口から伊勢湾を筏で流し、神宮へと搬送された。

 恵那山に湧く中津川はなぜか、伝説も無い。神域であろうか。伝説は中津川を挟んでいる。即ち、阿木周辺のアマテラスの誕生の際に胞を洗った血洗池の伝説、湯舟沢はアマテラスが産湯を使った伝説だ。
 誰が伝えたのか。神宮の御師(おんし)か。御師は江戸時代はアマテラス信仰即ち、私ども日本人とは何者か、その皇祖神をお祭りしていると普及に歩いた。そしてお陰参りを広めた。或いは木地師だったか。菊の御紋とご綸旨をタテに山林の自由な伐採の権原(けんげん又はけんばら)とした。或いは山岳信仰の山伏か。恵那山への前宮登山道には役の行者(えんのぎょうじゃ)の石仏があったからその信者か。
 今となっては伝説の彼方に隠れて真実は不明である。

「第21回企画展 幕末維新を生きた旅の巨人 松浦武四郎」へ行く2018年09月17日

 16日の朝8時過ぎ、天白の自宅を出発。R23へ入り、津市の三重県総合博物館を目指した。天気は曇り時々篠つく雨で鈴鹿山脈も雲の中だった。
 津市の官庁街にまで南下してしまったのでナビでチエックすると少し来過ぎた。津駅前で北上し、近鉄線、伊勢線をわたって県道10号へ出るとすぐに博物館に着いた。三重県出身者だがここは初めてのところだ。チケットも第3日曜は20%引きの640円だった。
 館内に入ると蝦夷のアイヌ人のくらしの説明ブースがある。そこで少しばかりタイムスリップしてから順路に入る。武四郎は旅の人だが、旅は即見聞を広めて、観察して、記録してと知的好奇心を満たすものだった。

 この軌跡は豊橋市出身の菅江真澄に似ている。生没年は宝暦4年(1754年) - 文政12年7月19日(1829年8月18日)なので、武四郎の生没年、文化15年2月6日(1818年3月12日) - 明治21年(1888年)2月10日)に重ねると、11年間は同時代を生きたことが分かる。菅江真澄も旅と人々の暮らしの観察者であり、記録の旅人に生きた。武四郎はその後輩になる。

 旅の巨人の展示は即ち著した文物が中心である。最後の段階で大台ケ原山に至る。したがって地味なものである。一巡して何かスパイスが足りない気がした。一旦館を出て昼食。午後から始まるトークに期待した。大川吉崇氏のミニレクチャーのテーマは「松浦武四郎と大台ケ原登山の謎」。
 13時30分から開始。講師の大川氏が開口一番今日は10人も入れば良い、と思っていたそうだ。席は満席になって満足そうだった。
 自分の名前を冠した大川学園を経営した教育者らしく、78歳の高齢者らくしくない熱弁をふるわれた。三重岳連の顧問であり、登山への情熱は若いころからのことで人後に落ちない。武四郎への思いも一入の人である。
 著書も紹介された書名はずばり『大台ケ原登山 知られざる謎』でレクチャーのテーマそのままであった。要旨は当時は秘境だったということ。そんな場所へ入山した武四郎の心理を探りたいのが大川氏の狙いである。結論は推測の域を出ないままである。
 熱弁の後は会場へ再入場させてもらい、ギャラリートークが始まった。博物館の学芸員から文物についての解説を走りながら伺った。最後の大台ケ原でやや丁寧な説明にやはり学芸員の解説がいないと素通りしてしまいそうな展示であると思った。
 やや満足になったので館を出て県道10号で北上。前方には錫杖ヶ岳の尖峰、経ヶ峰が見えた。北には鈴鹿山脈が横並びに見えた。三子山から仙ヶ岳の双子峰、鎌ヶ岳、御在所も南からの角度で見ると3つに並ぶ。釈迦ヶ岳を認めた辺りからはいつもの鈴鹿山脈の姿になった。R23へ迂回して帰名した。
 帰宅後はアイヌの文化再考になった。武四郎はアイヌ語を覚えたと言うが、アイヌ語の原文からの翻訳物はない。これまでにも他の学者、研究者にもない。その点を大川氏や学芸員に質問したが回答はなかった。無関心なのだろうか。
 一つの民族において文字がないとはどういうことなのか。
 大和民族も文字を持たなかった。大和言葉を漢文で書き著した。これを整理したものが『古事記』である。『古事記』を解説したのは松阪市出身の本居宣長であった。また外国に対してアイデンティティを示すために日本の国号を冠した歴史書『日本書紀』は唐の人らにも理解できるレベルの漢文で書かれたらしい。
 アイヌのユーカラはアイヌ語で語られた叙事詩であるが、原文は無く、日本語のカタカナで書かれている。
 武四郎もアイヌ人から地名を「ピーエ」と聞くと「美瑛」と漢字で書いた。一事が万事そんな調子である。要するにアイデンティティがないのである。文字を持たなかった民族は歴史を記録できず、他民族に同化または滅ぼされた。北米インディアン、エスキモーなど。
 武四郎はアイヌ人とその文化を愛したが和人としては当時のロシアの南下に備える重大な目的があった。そのための蝦夷の探検であった。それがアイヌ民族を滅ぼす結果になった。
 所詮、アイヌは採集生活者であった。栽培せずに山川からの恵みで命をつないできた。言葉や文化は口承で間に合ったのだろう。文字が無ければ教育も充分ではない。
 記憶の民族よりも(文字による)記録の民族が優るのである。

恵贈 川端守・東紀州10マウンテンの会『東紀州の山々』2018年04月10日

 2018年4月1日 風媒社刊。315ページもある。 副題には<東紀州の10マウンテンの会>18年の記録となっている。川端会長がこまめに記録された。出版を機に会は解散するともいう。
 私とはナカニシヤ出版の『新日本山岳誌』(2005年)の取材が始まったころに知己を得た。当時は松阪市以南に日本山岳会会員が居なかったこともあり、『鈴鹿の山』(風媒社)の山中保一氏から尾鷲市の山に精通した川端氏を紹介された。1998年ころだからかれこれ20年の長きにわたる交誼を得てきた。
 出版を終えてもガイドブックの取材の度に尾鷲市馬越町の喫茶店「山帰来」に立ち寄ったりした。山談義に花を咲かせたことがあった。その際に東紀州10マウンテンの会のことは聞かされていた。それがもう1冊の本にまとまり、しかも解散になるというのである。潔い性格に尊敬もする。収録された山座のうち16座は登った。
 最近登ったマブシ嶺も記録されている。大台周辺の前衛峰がいくつか食指が湧くので参考にしたいと思う。

初冬の尾鷲道を歩き、マブシ嶺に登る2017年12月11日

 12月も半ばとなったが今冬は寒さが厳しい。12/9の午後4時にメンバー5人で名古屋を発った。名古屋・東別院ICから名古屋西を経てクルマはやや多めだが四日市市から鈴鹿市までの渋滞もなく実にスムーズに伊勢道に入れた。嬉野PAでうどんを食して伊勢道から紀勢道へ、そして暗くなった尾鷲北ICで降りた。R42へ出てイオンで若干の買い物をして、R425に戻る。R425は典型的な山岳路だった。
 今夜の仮泊に眼をつけたのはクチスボダム周辺だった。ところが暗闇の中で湖面を見落とし、クチスボの文字すら見落とした。それで池原ダムまで延々走ることになった。あまりにも遠いので、あそこじゃないか、と引き返した。よく見ればトイレもあるし園地もある。芝生の一角にテントを張って一夜を過ごした。 
 12/10は朝6時過ぎ起きて朝食に暖かいカップ麺を食べた。テントをたたみ出発したのは7時20分を過ぎてしまった。クチスボダムからR425を下ったところに県道760号との分岐があり左折。又口川に沿って走ると栃山木組林道へ入口があり、左折。意外にも舗装されている。
 12年前以上、2005年発売の『新日本山岳誌』の取材で橡山に登山しに来た際はまだ未舗装だったような気がする。舗装が新しいので最近だろう。この時間帯で下ってくる対向車もなかろうとタイトなカーブも快調に飛ばす。水無峠の記憶は一切ない。ただ、登山口の道標があった。この山も登山の対象になったのだろう。
 峠からはダートになった。左の崖から崩壊した土砂で荒れていた。路面も大雨で掘れて大そうな悪路である。タイヤのバーストに留意しながらそろそろと走った。ゲートが見えるとやれやれだ。
 身支度を整えて出発したのは7時56分。地蔵峠までは林道歩きである。軍手をはめても非常に寒い。峠からは山道に入るが、橡山に続く尾根を切通しされたために古い峠の趣はない。非常階段のような急登を強いられる。地元の篤志家らで転落防止のロープも張られている。尾根に届くと稜線歩きとなり山道も安定する。
 木立は落葉して見通しが良い。最初の道標は古和谷分岐である。ここからが古来からの尾鷲道である。下山路として今も歩けるのかどうかは不明だ。先へ進む。数分で又口辻だ。ここから山腹の水平道に入る。ふかふかの落葉の山道を歩く。北面には雪が積もっている。温暖なイメージの南紀の山にも寒波が来た。山腹の道、特に沢をまたぐ所は壊れやすく注意を要した。やがて新木組峠に着いた。ここは極端に寒かった。雪をかぶった大峰山脈が見渡せる。寒いはずである。峠の風下側に下ると若干寒さが和らぐ。少し食べたり飲んだりして休む。
 寒風に曝されながら落葉樹の冬木立の尾根を歩く。いかにも冬の山旅である。そうして木組峠に着いた。峠から破線路があるが尾鷲道は少し下る。先程ははげ山を越えたが山腹の尾鷲道は消失してしまったようだ。テープに導かれて山腹まで下ると再び道形を見出して歩いた。
 山腹を巻き終えると一本木の杭を見だした。あとは山頂までひと踏ん張りである。
 標高1216mの緩斜面に展開する雑木林は今は疎林となって平らかな別天地である。夏ならば緑濃き動物の楽園であろうか。
 山頂直下の疎林の中を歩く。北西からの寒風のせいか樹木はなべて矮小化している。余りの寒気に毛糸の手袋を出そう、雨合羽をはおろうと考えるうちに11時30分に三角点1411.0mに着いた。マブシ嶺である。
 紀勢線に名古屋から夜行列車がある頃から尾鷲道を歩いて見たかった。今回は三分の一くらいを歩いたことになった。大台ケ原山は高くはないが深い山域である。ヒマと交通の面で中々実行できなかった。伊勢道も久居ICまでしかなかった。R42を延々走ったものだ。名古屋から約230kmはあった。高速なら橋とトンネルでつないで180kmに短縮できる。
 大台の開拓を試みた松浦武四郎も奈良県側から入山し、下山は尾鷲道を下った。大杉谷を初遡行した大北聴彦と大西源一も下った歴史の道であった。
 以前はコブシ嶺(*1)と覚えていたが、このほど発刊の『分県登山ガイド 三重県の山』によれば松浦武四郎の紀行にマブシ嶺とあるのでそれに従ったという。私も松浦武四郎全集の中の絵図で確認した。どちらも由来までは言及はない。
 休憩の後、最高点まで行って12時30分に下山した。往きとは違い、寒気も和らぎ、陽光を一杯浴びて少し暑さも覚える日だまり山行の雰囲気になった。往路をそのまま戻り、15時10分ゲートに着いた。
 帰路はニホンジカ3頭に出会った。昨夜はタヌキ2匹を見た。けものが多い山域である。

*1コブシ嶺=この山だけを目指す登山ガイドは前掲の本が初めてだろう。過去のガイドブックを調べた。手持ちの書籍では
 ①昭和54(1979)年刊行の仲西政一郎編『近畿の山』(山と渓谷社)の大台の山と谷の地図に掲載。北の鞍部は雷峠になっている。点名は雷峠1である。雷峠から東の川へ本谷沿いに破線路が示されている。木組峠も木組谷をからむ山腹に破線路があり廃村木組がある。
 ②平成10(1998)年の小島誠孝『台高の山と谷』には尾鷲道が独立して章建てされている。ここでもコブシ嶺と書かれている。取材当時は伐採跡だったらしい。木組峠から古和谷へは猛烈なブッシュだったという。 
 ③『台高の沢』の見ひらき地図にもコブシ嶺とあったから関西岳人はコブシ嶺を踏襲しているのだろう。
 三重県の岳人らが調査して出来た書籍には
 ④平成21年(2008)年の津・ラ・ネージュ山岳会選『三重の百山』もコブシ嶺になっている上に大台ヶ原からの往復コースになっている。この当時は写真を見ると木立に囲まれて展望はないとある。今とはえらい違いである。以南は廃道化しつつあると案内してある。
 ⑤平成25(2013)年の伊勢山の会『宮川源流53山』には、大台ケ原からの往復ルートで紹介。まぶし嶺とある。この本では「展望360度の絶景の山である」と書いてある。写真にも高い樹木はない。
 
 コブシ嶺とマブシ嶺は2008年ころから変化したらしい。ネットの検索では以下が詳細である。最近ではマブシ嶺(コブシ嶺)と書いてあったりする。南から1411mのマブシ嶺に突き上げる光谷からか光山ともされる。(但し今の道標では1184mの山に当てられる。)
眩しき大展望・マブシ嶺【台高】
http://genge-do.at.webry.info/200801/article_6.html

大台ケ原 尾鷲道 地名まとめ(マブシ峠~新木組峠) その1
http://amaimonoko.at-ninja.jp/s-mtdata/ki/odai-owase/time2-1.htm

台高山脈・迷岳~東尾根往復2016年11月01日

口迷岳への尾根(下山時)に映える紅葉
 愛車キャラバンの登録は平成15年。ふとメーターを見ると20万kmを越えていた。長いマイカー歴でも断トツの長寿と距離を達成した。名馬は千里を走るというがほんとにこの鉄の馬は疲れない。乗用車タイプよりも背中が立っていて腰の負担が少ないからだろう。商用車であるがこれぞ名馬と言う気がする。トヨタのハイエースは20万kmを越えても90万円の値が付くというがキャラバンははどうか。丈夫な車は結局安くつくのだ。

 10/29は午後3時出発というゆとりの山旅になった。上社南ICから名二環に入り、伊勢湾岸道では横風がすごくて揺れた。時速70kmに落として四駆にセットして走行。橋脚に当たる強風の乱気流で揺れるようだ。四日市から亀山間も午後はゆったり流れる。第二名神ができるまでは渋滞が続く。亀山から伊勢道は高速らしい走行になった。嬉野で一服。大宮ICで降りて道の駅、イオンの店で夕飯や行動食を仕入れる。夕飯は美味しそうな秋刀魚寿司を買った。ここまで約140km、2時間と早い。
 宮川に沿う道をひたすら走る。カラスキ谷公園のPに車を乗り入れた。早速テントを張って今夜のねぐらを設営。不要なものはトイレの着替え室に仮に置く。東屋にコンロ、コッヘルを持ち込んでお湯を沸かす。めいめいが好きなものを食べた。寝るには早いが午後7時には就寝。
 10/30は5時過ぎには起きた。朝もお湯を沸かし、味噌汁、コーヒーなどめいめいが持ってきたものを飲んだり食べたりしてブレークファーストを終える。片づけ、テントを撤収して出発。今来た道を戻る。橋を2つ渡りかえし、左折する。するとトンネル工事中の現場に着いた。トンネル近くの谷の手前に八知山林道の入り口があった。始は舗装だがすぐに悪路となった。4駆にセットしてゆっくり走る。落石は少ないが鋭角の石には要注意だ。羊腸の林道を登ってぐんぐん高度を上げる。林道の二岐が広くなっている。アウトバックが駐車されている。公園で見た車だ。3台来て、1台は別、もう1台が同乗して、この1台で出て行ったから大熊三山かなと思う。
 われわれもPにした。登山の準備を終えて出発。林道を左へ歩く。再び二岐になる。ここの100m右には正式なPがあるみたい。左へ振る。しばらくで右に誘う道標を見て右折。ジグザグの登山道に入った。これが地形図の実線(幅3m以内)で表示された道である。
 この辺りから杉の植林帯から解放されて二次林の美しい林の中を歩く。まだ緑一色であるが黄葉するとなお美しいだろう。地形図通りのジグザグを繰り返しながらガレて明るくなった辺りが1194mの下になる。少し下ったところに登山口の道標を見出す。林内から明るくなった斜面を登りきると1194と1210の鞍部に着く。ここにも道標がある。
 この先は口迷岳まではプロムナードコースであった。ブナ、ヒメシャラなどの疎林を歩く。口迷岳1224mからは一旦下って、尾根もやせてくる。左側に樹林越しの眺めが得られる。林相も喬木が多くなり、原生林と思われる。やがて核心部の桃の木平に入る。二重山稜になり地形が複雑になった。赤テープを確認しつつ、振り返って不足気味のところにはメンバーが手持ちの赤布を付けている。霧が出たらいやらしいところである。
 唐谷川源流部の見事な林相を堪能しながら尾根に取りつく。地形図の町界通りではなく、北の東に張り出した尾根を登っているような気がする。大熊谷側の尾根から北西(左上)へ二重山稜を横断するのはそのためではないか。急登の尾根は痩せているが黄葉が素晴らしい。一段と展望がよくなる。しばらく上ると山頂に着いた。先行者は居ないのでやっぱり大熊三山周回だろう、と話す。
 元気3人は大熊の頭をピストンするという。待機組は2人は尾根の開けた陽だまりのところで大杉谷方面の眺めを楽しんだ。あれっというくらい早く戻ってきた。山頂によって下山する。Pにいくまでにバイク1台が追い抜いて行った。1台の車が向かって来た以外は静かな山である。アウトバックはまだ置いてあった。再び林道を下って車道に戻る。
 帰路は伊勢フォレスト宮川温泉に立ち寄った。事故渋滞の情報で亀山から桑名へ迂回したりして手間取ったが名古屋へは午後7時過ぎ帰還。往復370kmの山旅でした。

初詣登山2016年01月01日

 新年明けましておめでとうございます!

 早起きして、名古屋駅8時37分発の近鉄特急宇治山田行きで宇治山田駅へ行き、普通に乗りかえて朝熊駅で下車。10時50分、駅から伝統のある朝熊岳への登拝道を歩きました。途中で87歳の高齢のハイカーを抜きました。元気そのものです。いつまでも登山できる体力を維持していきたい。昔のケーブルの軌道跡を橋で渡る。尚も植林の中の道を登る。上から単独の人や家族連れが空身で降りてきた。
 朝熊峠で12時となり、とても眺めが良いので昼食。ここには昔、東風旅館という山宿もあったとか。峠から555mの山頂へ最後の登り。山上からは大展望でした。
 一旦下って金剛證寺に向かう。掃き清められた境内は淑気が漂う。ここで靴を脱いで、登壇し、参拝した。奥の院はパス。経塚の建つ経ヶ峰540mへ登り返し、朝熊ヶ岳の山腹を巻いて峠に戻った。
 峠からは狭い車道を歩く。これは昔の宇治岳道。子供の頃、小学生の同学年の母子づれで、よく鳥羽や伊勢に連れて行ってもらった。この山も多分、この道をバスに乗せてもらって登った気がする。所々には石垣が残り、茶屋の跡らしい。
 冬木立の中に1等三角点と天測点を見つけた。現在では利用されないが、地形図の測量史上、希少価値がある。少し先に御料局の標石を見た。この先はスカイラインと交差しながら、照葉樹林の木立の中の登拝道をだらだら下る。途中には小型トラックが放置してあった。下りきると、伊勢神宮を司る神宮司庁の境内に入る。道標はないので、地図で確かめて、職員等のマイカーが駐車してある建物を通り抜けると善男善女で溢れる参道に出た。遷宮時には参拝できなかったので、今日が初めてである。
 帰りにはお神酒をいただき、宇治橋を渡り、赤福餅を賞味した。おかげ横丁を横目に見て、近鉄五十鈴川駅までの徒歩は足に応える。約16kmの道のりを踏破した。17時10分の名古屋行き特急に乗車。

    伊勢の海航跡白し初御空

    山寺に踏み入れて満つ淑気かな

    朝熊より内宮駈ける初詣

    冬の日を浴びて嬉しき石仏

    登山後の体に甘きお神酒かな

    乙女げに少なくなりし春着かな

七月の俳句 東吉野村 山河万緑吟詠2014年08月10日

明神平で草を食む鹿
   伊予の旅

 7/19 名古屋から550kmのハイウェイのロングドライブの後、子規記念博物館を訪ねる。渋滞に大幅に遅れるが入館できた。

はるばると子規を訪ねし夏の夕  

長旅やことにビールのうまさかな

  7/20

夏の朝並びて温泉(おゆ)に入りけり

ふるさとの友と出会うや伊予の夏(松山市出身の同行者)

思わずもなまりなつかし夏の旅

夏雲の頂上に登るなり(高縄山)

夏の霧瀬戸内海も隠されし(同)

あじさいや句の献辞あり高縄寺

  子規の顕彰振りに比べれば・・・。しかし、子規は松山市だけのことで、虚子は各地で顕彰される。

炎天や虚子の石碑の寂しさよ

   東吉野村

群山の中の青田やうまし国

天然の池とうのごとき青田道

夏川に歓声母と子ら遊ぶ

  天誅組の石碑あり

近代にタイムスリップ夏の村

登山道谷を左右に徒渡る

あいさつも多々高校の登山隊

細々と長々と落つ明神滝

手でくめば何杯も飲む山清水

高原や天地もなべて緑なす

鹿が食む平の草地夏の山

東屋にしばし盛夏の風を知る

  三重県内最高峰の檜塚奥峰に登る

この先に高き山なし夏木立

大台の彼方夏雲湧き起こる

静かさやあるか無きかの登山道

じっとして休む間もなし夏の虫

山の湯に村人と汗を流しけり