恵那山の山名をめぐる話・・・三遠地方民俗と歴史研究会2019年01月28日

 東海地方のどこからでも悠然とした山容を見せる恵那山。別名は舟覆山とも称されて、漁師からは忌み嫌われたらしい。それがいまでは名山として押しも押されぬ地歩を得た。
 恵那山の由来を調べようと、多くのガイドブックや山の本を渉猟してはみたが、アマテラスの胞を山頂に埋めたという伝説から一歩も踏み込まれることはなかった。江戸時代の地誌『新撰美濃誌』にも伝説の引用はある。しかしそれまでである。伝説は口承であるから人々の脳裏に刻まれた物語である。文献は残されず記憶に頼るからだ。
 深田久弥『日本百名山』も伝説の紹介だけであり、立松和平『百霊峰巡礼』には山名すらない。ほとんどは回避しているかに思える。
 それで暗礁に乗り上げていた時、ふと名古屋市中区生涯センターに置かれた愛知県埋蔵文化センターのチラシが目に留まった。そこには埋甕の展示が案内されていた。実は『埋甕』という本を読んで、明治時代半ばまでは胞は普通に埋設されていた。さらに調べると、徳川家康の胞が岡崎城に埋設されていると知った。松平家康として生れたのだから偉人になってからの記念碑的扱いである。
 こうして考えを巡らすと山頂に胞を埋めること自体は特殊なことではないと思われた。眺めの良い山には伊勢神宮の遙拝所がある。それでなくても、神話上の人物が祀られている。
 例えば奥三河の大鈴山は伊勢神宮の遙拝所だった。伊勢神峠はもともとは伊勢拝みの謂いだという。猿投山にはヤマトタケルの兄の墓所がある。鎌ヶ岳にもアマテラスが祀られている。
 特に信仰の山ではないのにだ。山自体が御神体ではなく、頂上からはるかに伊勢神宮を遙拝できることが重要なのだ。
 これまでの調べでは、地名としての恵那は惠奈として平安時代の和名抄という書籍に記録されている。
 思えば日本民族には言葉はあっても文字のない時代が長かった。そんな時代でも確実に子供は生れたから「エナ」という言葉はあったであろう。唐の時代に漢字を輸入して、一字一音で日本語に当てはめた。それが万葉仮名であった。エナは惠奈と書かれ、恵那になり、やがて漢字の胞が当てられた。岐阜県の胞山県立自然公園と称するように県は胞を使う。恵那は言わば雅字であろう。
 山麓の阿木にアマテラスの胞を洗った血洗池があり、中津川を隔てた湯舟沢はアマテラスが産湯を使ったという伝説。それで恵那山と呼ばれたというのである。この伝説は何ゆえに生れたのだろうか。
 阿木の奥には木地師の活躍があった、今もロクロ天井には木地師の墓がある。1471mの点名は阿木という。焼山は木地師が焼き畑農業で山を焼いて蕎麦、稗、粟などを栽培した名残りではないか。全山が花崗岩の山なので噴火はあり得ない。
 実際には今の恵那山に命名される前に、血洗池の源流の山に埋まる三角点888.3mの点名「血洗」の一帯を恵那山と呼んでいたのではあるまいか。恵那の地名はそこから起こったと考えると自然である。
 伊勢神宮の遷宮は7世紀に始まる。皇学館大学が編纂した御杣山の記録集でも詳細に記録されるのは江戸時代に入ってからのことだった。多分、記録の手段としての和紙の供給が不足していたであろう。江戸時代になると庶民でも出版できるほどに流通した。1340年には奥三河が1回だけ御杣山になったが、設楽山とするだけでどこの山とは特定されない。私は段戸山周辺と思うが・・・。三河の山と伊勢神宮が遷宮の用材切り出しでつながっているとは面白い。
 御杣山の記録集(全文漢字)には恵那山の北の湯舟沢山1620m、井出ノ小路山1840mの名前は出てくる。あの辺には伊勢山もあり伊勢神宮との密着度が高い。しかし、恵那山は出てこないから、中津川周辺から源流は神域であったと思う。用材切り出しは湯舟沢周辺の記録はある。阿木はない。阿木は人里に近く、木地師もいたから落葉樹林でおおわれていたと見る。
 信仰としての恵那山は後世に入ってからのことと思われる。中津川を中心に川上にある恵那神社の建立が象徴する。縁起は不明となっている。前宮登山道は役の行者様の石仏もあった。前宮から奥は今でも針葉樹林の森である。
 恵那山はどこから登っても遠い山である。庶民が親しく登る山ではなく、崇められたであろう。汚されたくないためと盗伐を防止することも重要であっただろう。アマテラスの胞を埋設した伝説を持ってきて、神聖な雰囲気を演出して、安易な入山を阻止したと考えても無理はない。尾張藩が管轄していた木曽の山では、木1本首1つ、と戒めた。それだけ盗伐が多かったのだろう。
 奥三河の段戸山周辺でも、徳川幕府成立から約60年後の寛文年間に天領になった。豊川市赤坂に番所が作られて幕府の管理下に置かれて、山の民はそれまで自由に出入りしてた山に入れなくなった。おそらく、木曽でも三河でもトラブルが相次いだ。木地師は主に落葉樹なので棲み分けはできただろう。桧となると建築用材として需要は数多あり、江戸時代の経済発展とともに盗伐は増加傾向だったと思われる。
 木曽の森林は尾張藩が管轄した。徳川幕府は天皇に権威を求めた。庶民への啓蒙としてアマテラスの胞の埋設の伝説を以って、神々の森への不可侵を広めた。こんなところだろうか。

新年は浅間山と高社山へ登山2019年01月03日

 平成31年1月2日には高社山へ登ろうと、呼びかけたら2人が手を挙げてくれた。高社山と浅間山はともに多治見市の山である。交通の経路上、瀬戸市のKさん宅に寄り、刈谷市のYさんには愛環鉄道の瀬戸口駅に来てもらった。予定通りメンバーが揃った。
 高社山を選定するに当たっては山頂のすべてが多治見市内にある山としては最高峰であることと、山麓の町名が西山町というのも嬉しい。自分の持ち山ではないが悪い気はしない。また浅間山は可児市の最高峰、美濃富士であることだった。
 まづは浅間山を目指した。R248からR19へ、そして県道381号を走ると道なりに小名田町小滝に着く。ここで不動の滝の案内標柱があるので右折。少し奥へと行くと雑木林の中にフランス料理などのレストランがある。もちろん今日は休業中。
 ここでP。滝への道標すらない。しかし目標は不動明王の滝だから、建物群を左右に見ながら、行き詰まりで沢の流れに沿うことになる。8分も細い流れをさかのぼると滝があった。滝見台もあるが使われていない様子だ。
 山道は少し戻ると右岸側に巻く道が付いていた。余り踏まれていないが、ヤブではない。踏み跡を追いながら行くと一旦は沢に下りて、又離れる。左からの道に合した。これが地形図の破線路と思われる。少し行くと尾根に取り付く地点にテープのマーキングがあった。ここからは明るいが急な尾根道になった。日溜まりに寒さも和らぎ、汗をかかないように1枚脱いで調整した。
 何と言っても里山である。比高80mで稜線に出た。右は378mの2等三角点だが今日はカット。左折する。ちょっと歩くと岩山があり眺めが良い。山道から林道に出た。ほぼ稜線に平行する林道を歩く。ここで数人の家族連れに出会う。
 林道から左の山道に入ると木のベンチもあるがすぐに林道に下ってしまう。林道から分かれて行くと浅間山372mのミニプレートのある山頂だった。岩頭がありテーブルもあるのでランチにはいい。日溜まりの山頂からは眼下の桜ヶ丘の団地や遠くの春日井三山の山なみが見えた。
 子授け、子育ての信仰を集める浅間神社に参拝し往復した。正月と言うのに宮司の1人もいないが、何となく清められた雰囲気はある。淑気というものだろう。
 それから林道へショートカットする細道を下った。林道を歩くとかえって眺めがよくなり伊吹山も見えた。冬型なので奥美濃までは見えない。一の注連を見た。
 林道のゲート代わりの鳥居が建っている。ここが参道のクルマの終点で登山口らしい。軽四の四駆なら走れるだろう。
 下ってゆくと太陽光電のパネルがあった。左の沢を下って住宅団地へショートカットを試みたが電気柵で遮られていた。ささやかな冒険は失敗。参道を下ると住宅団地に出た。そのまま下るとマイカーに戻れないので左折。
 小滝団地内の山際を歩いた。すると新しい給水塔に着いた。団地の道路はつながっていないが、陶生苑から延長された車道が来ていた。目の前のコブの向こう側に不動滝があるので、ショートカットする山道がないか見たが見いだせなかった。更に陶生苑の近くから車道が下っていたので下って見たが堰堤で終わった。これも失敗。諦めて県道に出て迂回しPに戻った。
 まだ12時半、次の高社山へ向かう。根本町へ走った。ここも地道が錯綜して分かりにくい。とにかく山際に向って近づいた。割に良い道があるので流して見ると高社山登山口のミニ道標があった。ここか。
 道路から空き地に駐車。参道を登る。結構な急傾斜だ。2登目なので疲れもあるせいで後続も遅れがちになる。右は高社神社、左は山頂へとの分岐で左へ振る。良い道を歩いてゆくと空身の男性が下りてきた。何も言わずにすれ違う。
 俳人の山口誓子は御在所岳での所見をこう詠んだ。

   唯一人冬山を下りて来る人に会ふ 誓子
   
 ほとんど情緒の感じられない句である。即物的といわれる誓子の世界がある。冬は誰しも?寡黙になる。
 しばらくで右から来る道に合う。更に急登するとFMたじみの電波塔だ。すぐに反射板の建つ開放的な台地になる。山頂へはまだある。一旦は下って、左は山里へ下る道、山頂へは右へ登り返す。すると愛宕神社の小さな祠があった。
 地形図では高社山は台形ながら2つの山から成る。ここが山頂か、と思うが三角点はないので西進するとやっと保護石に囲まれた三角点のある山頂だった。展望はない。写真だけ撮って、反射板のある台地に戻った。
 ここからは恵那山が見えた。目を凝らすと東濃の山越しに茶臼山、段戸山等が見えた。南には春日井三山とその向こうには光る海が見えた。何より、多治見市を俯瞰できた。意外にも多くの高層ビルが立ち並ぶ。東濃の中核都市のシンボルだ。
 中央道をクルマがひっきりなしに流れている。中央線、R19号、中山道、まさに大動脈のごとく。2027年にはこのどこかの地下をリニア中央新幹線が開通する。東海道新幹線のバイパスとして建設中である。
 展望を欲しいままに楽しんで下山した。

恵那山の胞伝説考2018年12月25日

 柳田國男全集 7 の伝説に関する著述を読む。
 伝説と昔話の違い

民俗資料を三部に分類
 ①有形文化  行為伝承  芸能、踊り、

 ②言語芸術  口頭伝承  昔話
                    
 中間に位置する        伝説

 ③信仰伝承  内部伝承  祭、講

伝説と昔話の特徴
1 伝説は人がこれを信じているのに対し、昔話には責任を負わない

2 伝説の中心には必ず記念物があるのに対し、昔話には記念物がない

3 伝説は語るときに定まった形式がないのに対し、昔話には定まった形式がある

 12/22は岐阜県立図書館で恵那山関係の文献を漁った。コピーしたのは『中津川市史』、神宮司廳編『神宮御杣山記録』昭和51年史料、
である。
 第1回式年遷宮は持統天皇の690年。1335年の第35回式年遷宮は三河の設楽山になったが山は特定できない。
 1709年(宝永6年)の第47回式年遷宮から、尾張藩の領地である木曽谷、裏木曽に御杣山は移動。徳川幕府成立から約100年後の元禄時代の後になる。
 恵那山の由来を漢文で著した松平 君山(まつだいら くんざん、元禄10年3月27日(1697年5月17日) - 天明3年4月18日(1783年5月18日))が出たのもこの頃である。
 

 御杣山とは

神宮のHPから
 「宮域林は、内宮のご鎮座当時から神路山・天照山・神垣山などと呼ばれ、大御神の山として崇められていました。天武(てんむ)天皇の御代に式年遷宮の制度が確立され、第1回式年遷宮(690)が行われた際、宮域林は御造営用材を伐り出す「御杣山(みそまやま)」として定められました。その後、御用材の欠乏により御杣山は他の場所に移りましたが、今でも式年遷宮の最初のお祭りである山口祭やまぐちさい・木本祭このもとさいは宮域林で行われており最も神聖な「心御柱しんのみはしら」もここから伐り出しています。

 このように宮域林は、古くから神宮の境内地として管理されてきた由緒のある森林です。」

 神宮備林のウィキぺディアから
「伊勢神宮で20年毎に行なわれる式年遷宮は、大量のヒノキが必要である。その用材を伐りだす山(御杣山・みそまやま)は、第34回式年遷宮までは、3回ほど周辺地域に移動したことはあるものの、すべて神路山、高倉山という内宮・外宮背後の山(神宮林)であった。
しかし、1回の遷宮で使用されるヒノキは1万本以上になり、神宮林のヒノキでは不足しだす。その為、内宮用材は第35回式年遷宮から三河国に、外宮用材は第36回式年遷宮から美濃国に移り、第41回式年遷宮から第46回式年遷宮までは、伊勢国大杉谷に移る。
しかしながら、原木の枯渇による伐り出しの困難さから、1709年(宝永6年)の第47回式年遷宮から、尾張藩の領地である木曽谷、裏木曽に御杣山は移動する。この地域は尾張藩により木材(木曽五木)が保護され、許可の無い伐採が禁じられていた。
正式に指定、伐採が始まったのは、1798年(寛政10年)からである。
現在でも式年遷宮用の用材は、この旧神宮備林から調達されている。」

「歴史
1380年(天授6年・康暦2年):第36回式年遷宮で美濃国のヒノキが使用される。
1709年(宝永6年):第47回式年遷宮で、尾張藩領木曽のヒノキが使用される。
1798年(寛政10年):伊勢神宮により御杣山に指定される。
1843年(天保12年):守護神として護山神社が創建される。
1868年(明治元年):尾張藩から明治政府に移管される。御料林となる。
1906年(明治39年):帝室林野局により「神宮御造営材備林制度」が制定され、この地域の御料林が神宮備林に指定される。この後、大正時代にかけてその地域を拡大する。
1921年(大正10年):ダム建設の影響で、木曽川、付知川などを使用した筏による材木運搬が中止。森林鉄道による運搬が始まる。
1947年(昭和22年):帝室林野局は農林省林野庁となる。神宮備林は廃止され、国有林の一部となる。」

「式年遷宮は続く」から
https://www.sengukan.jp/wp/wp-content/themes/sengukan/media/pdf/record/h29/20170630-zuroku.pdf

「しかし内宮の第35回式年遷宮の準備を進めていた延元(えんげん)4年( 暦(りゃく)応(おう)2 年、1339)江馬山から御用材を運ぶ宮川流域が武装勢力の支配下に置かれたため供給が止まります。
 朝廷は御杣山を伊勢国外に求めるか、式年遷宮を延期するか議論の末、軒廊御卜が行われて三河国・設楽(しだら)山(やま)(現在の愛知県北設楽郡設楽町付近)に移動する事が決まりました。選ばれた理由は、山間を流れる豊川水系の河口部には老津(おいつ)・大津という良港があったこと、大津には平安時代後期から伊勢神宮の神(かん)戸(べ)が置かれていたこと、伊勢国大(おお)湊(みなと)との海上輸送が行われており安定した供給が行えたことが挙げられます。緊急の措置であったため三河国から御用材を得たのはこの一度限りです。」

恵那山のウィキペディアから
「信仰対象としての恵那山

山頂部にある恵那神社奥宮
恵那山周辺地域ではこの山に天照大神が産まれた時の胞衣 (えな) を納めたという伝説が残っており、この山の名前の由来ともなっている。また古事記で日本武尊が科野峠 (神坂峠) で拝したのも恵那山の神である。」

・木曽の湯舟沢はアマテラスの産湯をつかった伝説
・美濃の血洗池はアマテラスの胞を洗った伝説

 湯舟沢川から右岸(木曽側)は御杣山として伐採された。すると湯舟沢川の左岸から阿木川にかけては、伐採はされず、昔は神域だったのだろうか。現在の恵那山の美濃側に当たる地域は今でこそ国有林として奥深く林道が開通している。登山道は前宮にあった。

 阿木川の源流の焼山は木地師の煮炊きの煙、山中で焼き畑農業をする際の煙から由来と想像する。ロクロ天井の山の名前もあり、木地師の墓もある。
 血洗池の伝説は木地師が広めた可能性が高い。木地師のルーツは皇族にさかのぼる。その点で無理がない。

 湯船沢の伝説も木地師が広めた可能性はある。南沢山の周辺の山中には木地師は入っていた。中でも大平峠の夏焼山は木地師の焼き畑農業に関係する。今でも南木曽町には木地師が営業を続けている。

 恵那山周辺の山村は木地師が遍在していたのは事実である。売木村も木地師が活躍していた。

 恵那山をアマテラスの記念物としての胞を埋めたという伝説を付して胞山、恵那山と名付けたのは皇室につながる木地師ではなかったか。ご綸旨を根拠に木地師は山中でほとんど一生を過ごす。山中での死亡は各地で墓を見たのでわかる。おそらく出産にも立ちあった。その際の胞は家の周りの地中に埋めた。山中の湧水で溜まる小池は便利な洗い場になった。また湯船沢川の右又の温川(ぬるかわ)の源流は恵那山の頂上に近く湧く。文字通り温泉が混じるのだろう。
 山上にアマテラスの胞を埋めた伝説を広めることで、木地師は自分らの権益(木地原木の落葉広葉樹)と尾張藩が担う木曽山林(桧、翌檜などの針葉樹の木曽五木)の伐採権との棲み分けを実現させたのではないか。
 伝説の流布によって棲み分けに成功すると式年遷宮の切り出しもスムーズに行ったであろう。原木の良材を求めて木曽にたどり着いた神宮と尾張藩は木曽川を運搬路につかって木材資源を開発して行った。
江戸時代中期以降人口の増加で木地製品の需要も伸びた。住宅建築の需要も盛んになったと思われる。両者が利益を得たのである。
 その頃、松平君山は得意の漢文で恵那山の伝説を書き残した。『新撰美濃志』の編者にも明らかに重要な伝説であった。

これまでの記事
http://koyaban.asablo.jp/blog/2018/11/27/9003915
『新撰美濃志』の中の恵那山

http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/08/06/8641325
中津川市阿木の旧跡・(アマテラスの)血洗池~血洗神社~恵那神社~根の上高原へドライブ

http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/10/18/8708216
「埋甕」を見に弥富市の愛知県埋蔵文化センターへ行く

http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/08/19/8650783
奥三河・須山御岳山

『新撰美濃志』の中の恵那山2018年11月27日

 『新撰美濃志』の成立は江戸時代末期。一信社版(訂正版)は昭和6年の刊行、復刻版は昭和47年に岐阜市の大衆書房から刊行された。
 緒言には尾張藩の岡田啓の遺稿という。天保初年頃から彼の晩年に到るまで前後実に三十年の星霜を閲して出来上がったのが、この『新撰美濃志』三十巻である。」と。
 その中の恵那山に関する歴史民俗の記事を抜粋した。

阿木村は冨田の北にあり。和名類聚抄に「惠奈郡安岐」とある旧郷、また美濃神名記に「惠奈那從四位上阿岐明神」としるしたるもここなり。「岩村領千五百八十九石六斗四升」「阿木川」は当村の山より出でて大井宿の方へ流る。
 「阿木風穴」阿木山にあり。「血洗社」は阿木山の麓大野平にあり。神代のむかしある御神ここにて御子を産み給ひ、胞衣を洗ひ給ひし跡なりといひ傳へ、血洗池という古跡ものこり、また惠奈山の名もそれより興りしより里老いへり。

・・・・ウィキペディアによると「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。」だから古い。
 恵那は平安時代からあった古い地名である。阿木山は現在の地形図からは特定できない。

 検索にヒットした「安岐郷誌」によれば「あぎやまとは阿木の生活域から東方向に見られる山の総称。焼山付近までを含む阿木の山岳地域一帯を示す言葉として使われることが多い。ただし正確な定義はなく、狭義には天狗森山や橋ヶ谷山、あるいは焼山などを示す場合にも使われ、その意味する所は人や世代によって様々である。阿木の生活や歴史に深く関わってきた山である。」さらに焼山は「やけやまは上矢作・長野との境界近くに位置する山の名前。全国にある他の焼山と区別するために美濃焼山と呼ばれる事もある。焼山という名は山のあちこちで炭焼きの煙が立ち上っていた事に由来している[1]。」という。

ソース:「安岐郷誌」http://agimura.net/index.php5/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

 個人的には、焼山ではないか、と思っている。agiyamaとyaki(ke)yamaの耳から入る地名の違いか。焼山の南西の無名の三角点は通称ロクロ天井といい、点名は阿木である。麓に木地師の墓がある。
 安岐郷誌は炭焼きの煙と書くが、木地師の炊飯の煙とも言えるし、彼らの食料になった蕎麦、粟、稗などを生産するために山を焼いたから、その煙ともいえる。春に山焼きをして種を蒔き、夏に刈り取る。夏になっても焼いて採れる山は夏焼の地名が残る(稲武町など)。木曽峠にはずばり夏焼山がある。

 R363のキャンプ場(現在は廃止された)の近くの三角点の点名が血洗という。
 血洗は当然エナを洗ったことに因む。明治時代以前のエナは何かに包んで、素焼きの底なしの壷に入れて埋設されていた。これは埋甕といった。
 ウィキペディアによると「埋甕(うめがめ)は、縄文時代の深鉢形土器を土中に埋納した施設。
 縄文中期から後期にかけて関東平野や中央高地で見られる習俗で、縄文後期には中央高地では衰退し、関東平野では継続した。
 埋甕は住居の内部(出入口部)に営まれる住居内埋甕と住居外に営まれる住居外埋甕があり、複数営まれる場合もある。土器は煤などが付着されていることから日常的に使用されているものが転用され、特に口縁部が平なものが選ばれる。正位または逆位で配置され、正位の場合は石蓋があることもあり、口縁部や底部が破損または底部が意図的に穿孔されている。
 住居内埋甕は民俗事例などから乳幼児の埋葬施設や、幼児の健やかな成長を祈念し胎盤(胞衣)を埋納した胞衣壺であると考えられている(木下忠による)。内部の埋納物は例外的に土器や石器が含まれることがあるか明確に確認された例がなく、残留脂肪酸分析も行われているが胞衣が含まれているかは不確定である。以下略」
 実は設楽ダム建設の現場に近いところでも愛知県埋蔵文化センターの発掘事業が行われていて、素焼きの甕が発掘された。意外なところにも縄文文化の遺跡があったものである。
 エナの埋蔵は非常に普遍的な文化の所産だった。
 その文化がアマテラスのエナを山頂に埋蔵する伝説にまで発展させたのは一体なぜなんだろう。

西三河の2座をへめぐる2018年03月19日

      猿投山の北一色ルート2本
 猿投山のバリルートの探索行シリーズである。正規のルートを歩くとあちこちから道が合わさる。その道にも好奇心が湧くから限がないほどである。今回は前回の最高点につながる赤テープがどこにつながっているのかの調査であった。地形図に破線のない豊田市北一色町の尾根を踏破してみた。1本は最高点の632mから北東に伸びる尾根を登りにとった。もう1本は最高点と三角点の間にある630mのピークから北東に伸びる尾根を下った。
 北一色町へはR419から県道に左折。飯野川の手前で左折するとあとは1本道になる。奥深くまで走ると舗装が切れる。そこが終点になっているが、まだ未舗装の林道が二手に分かれる。
 8:04.標高300mの地点にクルマを止めて向って右(南西)へ歩きだす。5分で林道が分かれるが左へ進む。8:11.すぐの終点に山の神の石碑が建っている。ここから渡渉して尾根に取り付く。しばらくはジグザグの急登が続く。8:17.450mの等高線の尾根に着く。ここからは薄い踏み跡をたどる。枝道があるが尾根通しに登る。周囲は桧の植林であるが常緑樹が混じり日がささず若干薄暗い。8:40.我慢して登るうちに先回の分岐に着いた。直進すれば分岐で左折して最高点になる。
 今日は先回と反対に東尾根への巻道を歩いた。9:01.東尾根分岐に着く。左は東の宮の道標あり、東尾根を直進する。するとすぐに右へマーキングが目立つように見える。このルートが最高点への踏み跡だった。9:15登頂。下から約1時間強かかった。すぐに東の宮に下り、東海自然歩道を三角点に向う。地形図で630mの等高線の無名のピークに登る。良い踏み跡が続く。9:36.山頂にはベンチが設置されて展望台になっている。遠望は恵那山、左へ中ア、御嶽が並ぶらしい。
 踏み跡は北東へ細々と続き赤テープやペンキなどのマーキングに助けられて沢の右岸に下った。堰堤工事のための林道の廃道を下った。地形図には水線も実線も描かれていないが堰堤の記号はある。実線のある林道と交わると右折。しばらくで車止めだった。10:15だった。
猿投山を登り終えるとまだ10時過ぎだった。帰名するには早過ぎるので、入湯と兼ねて曽良山へ向った。

       小原町松名の俳人・杉田久女の婚家の句碑を再訪
 R419を走る。松名の地名が懐かしい。数年前に俳句仲間と訪ねたことがある。それ以前にも何度も来たが、滅多に来れないので再訪する。歌舞伎門前のしだれ桜はまだ咲いていない。ちょっと右の白梅が盛りである。白は清浄な色である。久女の性格にふさわしい。
 立派な歌舞伎門の通用口をくぐる。左に写真付きの説明板があった。昔は屋敷だったのだろう。今は更地になり石碑が建つ。その背後の桜はまだ一分咲きだった。
 観音像が建つ。その横に「灌浴の浄法身を拝しける」の句碑。いつ来ても新しい花が活けてある。ファンがいるのだろう。さらに娘の石昌子の墓も建つ。
 石昌子は『アルプス登攀記』の訳者の石一郎に嫁いだ。それだけに山歩きも楽しんだ。
 久女はここ杉田家に嫁いだ。美術教師の夫にともない北九州へ赴任。英彦山に登って高浜虚子選に「谺して山ホトトギス欲しいまま」が入選。一躍名を知られた。
 「花衣脱ぐやまつわる紐いろいろ」と女性の目線で佳吟を多く残した。夫宇内が将来は画家になるとの期待空しく「足袋つぐやノラともならず教師妻」と詠んで夫を怒らせた。ノラとはあるサイトから転載「イプセンの戯曲「人形の家」の女主人公。一個の独立した人間として生きようとする,新しい女性の典型とされた。 」
 気位(プライド)の高い女性を妻にすると厄介なものだと思う。久女は俳句に人生をかけてゆく。宇内は優しく受け止めるが、56歳の若さで死去。晩年の宇内は久女の遺骨を抱いてまたここに戻った。そして猟師を趣味として生きる。杉田家の墓は少し奥にある。

      曽良山に登る
 曽良山は愛知県側は西山と呼ぶ2等三角点の山。西三河では最高峰になる。岐阜県側も昔はまだ整備されず、測量櫓の建つ素朴な山頂であった。
 R419に戻り、岐阜県を目指す。途中県道354に左折。県境で県道11号になり、R363に合流。バーデンパークはすぐだ。曽木公園を右へ右折し、大草の山里にある曽良山の道標に従って山道を走ると舗装路の終点になる。先も走れそうだが未舗装で路面が荒れているので畑仕事の人に断ってここに置く。
 11:55に出発。林道を道なりに歩くと3人連れとすれ違った。30人パーティだが足の故障で引き返したとの話。林道から分かれて広い山道を登る。途中で林道に3か所位寸断されている。山道が沢沿いの道になれば道標であと20分とか10分と出てくる。鞍部を経て右へ緩やかに登ると12:30.山頂だ。
 眺望は左から猿投山、折平山、アンテナの林立する三国山である。12:45.休んだら元の道を戻った。バーデンパークに入湯して帰名した。

       猿投神社に寄る
 気になっていたのは東の宮の社殿の千木の内削ぎのこと。里宮はどうなっているのか見ると内削ぎになっている。売店の女性に聞くと年代によって違うとのこと。内削ぎは女性神、外削ぎは男性神という決まりはないそうだ。

晩秋の裏木曽・井出ノ小路山界隈を歩く2017年11月06日

 11/4の夜、世間ではもう寝るか、という10時過ぎ、メンバー4人が合流して名古屋市を出発。中央道を走って、中津川市から下呂への南北街道から付知峡に分け入ると、零時を回った。赤石園という小さな園地に幕営、空には都会では見られない青い月が微笑んでいた。月明かりだけでもテントは張れるほど明るい。おそらく零度近い気温に、ビールを飲む気になれず、ミニ宴会もなく5時起床とだけ約して1時30分に就寝。
 11/5、5時、非情の目覚ましベルに起床。簡単な朝食をとる。直ぐにテント撤収。登山口の林道ゲートまではすぐだった。身支度を整えて出発したのは6時20分となった。ゲートをくぐって林道を歩き始める。真弓峠への分岐を過ぎ、井出ノ小路橋を渡ると左岸に移る。合体木とか、神宮備林の案内板のあるところで美林橋になり右岸に渡る。しばらくはいい道だったがヘアピンを過ぎたころから路盤が荒れ始めてきた。谷が押し出されて埋まったところもあり、帰路、日没を想定してリーダーのW君が赤い布をべた打ちしてくれた。林道は延々続いたが突然、堰堤から下流の谷底がえぐられた箇所に来た。ここが事実上の登山口の茶屋小屋谷である。
 堰堤の左を巻いて谷芯に降りて遡行を開始した。遡行とはいえ、この時期は水は伏流して荒れた登山道を行くような感じで登攀の趣きである。かつて水が流れていたので岩は浮石が多く油断が出来ない。石車や抱き石に注意した。堰堤からしばらくは谷が立っているので高度は稼げる。厳しいところを過ぎて安定した谷相に入った。
 時計を見ながら鞍部へは予定通り着くかどうか。心配していると突然、明るい谷にも関わらず、右へ振るというリーダーの指示で笹を漕いで枝沢に移った。なるほど、上方からは明るい日差しが見えて今やっと日が昇ったかに思える。東南の方向へ振ったのである。
 苦労の末にたどり着いた鞍部は井出ノ小路山への鞍部ではなく、中の谷1806.4mへの鞍部であった。この時点で目的地への登山は断念せざるを得なかった。折角1700mまで高度を稼いだのだから中の谷の三角点を稼いで下山しようと提案したら乗ってくれた。この地点から下山すれば明るいうちに車に戻れるが手ぶらでは帰れないと誰しもが思ったのだろう。
 鞍部から中の谷への話は以下の通り。(東海白樺山岳会ブログ)
 井出ノ小路山と1806.4mの2等三角点の鞍部に詰める予定が、朝日が上がった方向(東南)を鞍部と勘違いして、その枝沢に乗り換えた。ここでコンパスを出して確認すべきだった。山勘だけに頼ると陥りやすいミスだ。ただし、現在位置は確認できたので、1806.4mの2等三角点「中の谷」だけでも踏んで下山することとした。間違った鞍部から激ヤブを漕いで中の谷に登った。途中、御嶽が至近距離に見え、遠く白山もみえて癒された。私は2回目で、中の谷は夕森山からヤブコギで往復した記憶がある。そばには抜き取られた御料局三角点が埋まり、桧の良材の宝庫だったことを彷彿させる。1806mから鞍部へは踏み跡もなく訪問者はきわめて限られた好事家しか登らないのだろう。鞍部も古い赤テープがあるだけで踏み跡は一切ない。
 井出ノ小路山は登山者のまれなヤブ山である。
 溝状の谷の下降も最初は急で神経を使う。半ばから少し傾斜が緩くなるがまた急になり、登る際には岩登りの感覚で登攀した箇所は右岸の笹薮の中のかすかな踏み跡をたどって下山した。堰堤から下流は谷底がえぐれて大変に荒れていた。蛇抜けであろう。日没前に林道に下れて良かったが、美林橋から上は荒れて谷の崩壊があり、押し出された土砂で埋まっていた。リーダーのW君は往きに日没がありうると想定し、危険箇所に赤い布をべた打ちしておいた。美林橋の手前から日没し、ヘッドランプで下山した。
 夜明けは6時16分ころで、ゲート前を朝6時20分に出発し、戻ったのは18時30分超で実に12時間以上の長丁場であった。日没の早いこの時期としては前夜発日帰り登山の限界を超えていた。中の谷を経由しなければ2時間は早く下山できただろう。中の谷をゲットできただけでも良しとしたい。
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 下山が遅れて温泉入湯は出来ず、夜自宅で入浴後、体重計に乗ると74.75kgを指した。少し前から1kgの減量となった。朝食はコンビニのおにぎり1個、バナナ1つ、カップ麺1杯、行動食としてミカン2個、餅を5つ、はちみつのスティック2本、300mmの牛乳1個、ドラ焼き1個を食べた。これだけ食べても空腹感があり、恵那峡SAでは夕食にビフテキカレーを平らげた。それでも減量したのだからいかに激しい運動量だったか分かる。ただし水は水出し麦茶1リットルで足りた。

西濃・池田山2017年09月23日

 昨日の雨も上がった。今日なら登山も可能と久々に池田山に行くことにした。先だって長久手古戦場へ行った際、池田恒興(勝入)、元助父子の塚を見学した。
 大垣城の城主。元々は織田信長と親近な関係だった。信長死後、秀吉側について、小牧城を落として城主になったが、岩崎城攻めの失敗で徳川+織田信雄側に首級を挙げられた。
 しかし、次男の輝政が家督を相続、大垣城主になる。秀吉の仲介で家康の次女をめとる。そのために秀吉死後は家康側について姫路城主となる。徳川幕藩体制は300年続いたが、池田家も代々繁栄した。徳川家との縁組のおかげである。
 めとった際に、父を討ち取った永井直勝を召しだし、父の最期を語らせたという。身上が5000石と知って家康に加増するように言上して倍増させた。大物の武士に討たれたなら父も名誉と考えたのか。武士道の考えなのか。子孫には三島由紀夫、永井荷風がいるという。
 10/28には姫路城へ1日旅行する予定。輝政が今の大規模な姫路城に修築したという。長久手、大垣+池田町、兵庫・姫路と結ぶ歴史の旅になる。みな偶然の結びつきである。
 池田家は戦国時代を生き延びたなかなかの名門と知る。2人が主要人物と知って調べたら池田町に墓地があると分かった。それなら池田山登山とかねて行ってみることにした。
 名神高速の一宮IC付近で3重衝突の事故が発生。その影響で1時間30分遅れて10時30分出発になった。登山口は2年前に開通した大津谷登山口である。登山道の取り付きは急な尾根の一歩から始まる。植林の中の疎林をジグザグを切りながらぐんぐん高度をあげる。たちまち汗がふきだす。しかし、風があるため汗がすぐ冷えて爽やかだ。
 20分したところで小休止。又歩き出すと4等三角点に着く。さらに急登が続く。やれやれの思いで林道の端に着いた。林道を登ると霞間ヶ渓からの車道と合流してこの登山道2.84kmに一区切り。ここからは傾斜もゆるみ稜線伝いになった。宮標石があった。
 車道と並行しながら山頂に向うと車道の終点に有人の売店があった。売店から山頂へもひと登りあった。20分ほどで13時前に山頂に着いた。老夫婦の先着と入れ代ると静寂な山頂になった。展望台は周囲の樹木が伸びて台無しだ。13時15分、早々に下山した。
 大津谷登山道との合流地から霞間ヶ渓へ下山。車道とからみながら下る。途中からは車道と離れて静かな道になった。登山口には15時過ぎに着いた。少ししゃべっているうちに15時30分になり、大津谷登山口に向って車道を歩き始めた。やや登り気味で3km、約30分ほどでマイカーに戻った。
 池田町内に戻って池田恒興・元助父子の墓を探すが見つからず。龍徳寺も墓の案内板も見いだせなかった。あまり力を入れていないのだろうか。池田温泉に入湯して帰名する。

根の上高原の保古山、餅穴、血洗の三角点を訪ねる!2017年08月13日

 朝7時、会員2名を同乗して、金山駅前を出発。今日は東濃の根の上高原の三角点探しを名目に避暑ドライブとなった。
 8時50分ころ、根の上高原に着く。あいにくの曇天にがっかりするが、まずは保古山を目指す。池の周辺道路をのろのろ走る。秋はさぞや紅葉がきれいだろうと思わせる落葉樹の林の中を走る。林道の状況がよろしくて山頂まで着いてしまった。直下に車を止めて三角点がありそうな場所へ行くと2等三角点があった。北の方は青空も見えたが見晴らしはゼロ。
 戻って、林道分岐のところにあった展望台の看板に従う。車を置き、約200mゆったりと歩く。笹が刈ってあり歩きやすい。鉄骨製の展望台にはすぐに着いたが何も見えず。続いて本命の3等三角点の餅穴を探しながら笹藪の高原を歩く。直感的には高見を目指すが何も手がかりはなかったので、根の上体育館に通じる別の道を下って車に戻った。過日の下見のおかげである。
 さらに、R363まで走り、旧キャンプ場の中にある3等三角点の血洗を目指す。車はゲートがあるため、入口に置き、ゲートの横から車道に入る。登りきった辺りから左へ細道が登っている。それを辿るとすぐに三角点が埋まっていた。これで2つ目をゲットした。
 餅穴が気になるが、国民宿舎恵那山荘へ行ってコーヒーを注文。水が良いせいか、コーヒーの味が美味しい。スタッフに根の上高原のウォーキングマップをコピーしてもらう。地形図をベースに地元ならでは地名や施設名、建物名などを表現してある。これに935.8mの三角点の位置も判明したので参考になる。
 先程は下山に使った林道を逆に登って、根の上体育館の近くに車を置いた。登り返すと地図と首っ引きで地形の特徴を把握に努めた。等高線が大きくゆるみ、その北が急な斜面になるところまで下った。すると桧の植林の中なのにぽっかりと空間があり、薄が生えているところがあった。メンバーがそこじゃないかと指摘するので探すと笹に埋もれた三角点を見出した。標柱には漂泊したテープが巻いてあり、好事家が来ていることを示す。
 どの山もほぼ10分以内でゲットした。帰路は中津川市の車屋の蕎麦でしめた。

 それにしても餅穴は珍名だ。福井県大野市には持穴がある。岐阜県には鼠餅(ねずもち)の地名がある。笠ヶ岳に突き上げる穴毛谷なる地名もある。血洗は下流の血洗池に由来することは違いない。
 ところで、餅穴でぐぐると
http://www.windsnet.ne.jp/column_n/colum.php?day=20170314812
がヒットした。以下に引用すると
 「今のところ、郡上で「餅穴」は那比でしか確認していない。小字として二、通称地名として一、「焼-餅穴(やき-もちあな)」と句の一部として使われる例が一、計四か所である。まだその内、一か所しか踏査していない。これに関わる伝承や、民話などは聞こえてこない。
 四か所もあるわけだから、面白半分につけられたはずはないので、ほとほと困った。
 そこで、けっこう前から福井県和泉村にあった「持穴村」との関連を考えてきたが、なかなか繋がらない。
 また岐阜県の中津川にも「餅穴」という字があるものの、大蛇の住む穴へ餅を供えるというような話になっており、那比の分布と符合しないように思われる。というようなわけで、糸口すら掴めず月日が経ってしまった。
 この間、友人に那比四か所のうち通称地名で「餅穴」と呼ばれるところへ案内してもらった。全体として大きく窪んだ地形になっており、周囲の一部にうず高く割石が積み上げられていた。中に赤茶けた石があり、薄い褐鉄鉱らしきものが付着しているだけなので確信を持てないけれども、これに着目すれば製鉄と関連するかなあという印象がある。褐鉄鉱の良質な部分をとった後の欠片とすれば、タタラの遺跡かもしれない。
 それからもう一つ。五六十年ほど前、餅穴の川向いに水路を掘るため発破した時にけっこう黄銅鉱が出たそうである。岩盤が続いているようなので、この穴は黄銅鉱を露天で掘り、石を細かく割った残骸を積み上げた結果と考えれば、つじつまが合うような気がしてきた。この場合、「餅穴」の「餅」は銅ないし鉄が溶けたもの。「穴」には解釈が二つあり、一つは鉱物を掘った穴、一つは炉としての穴である。」
以上
 郡上に点在しているのだから普遍性はあるのだろう。
 もうひとつ粘って、鏡味完二・鏡味明克の『地名の語源』を引くと、モチには
(1)菱餅形の土地
(2)小さい盆地、谷
(3)平坦地
 地名の例が紹介してあり、北海道以外の全国に分布とある。
 展望台から三角点一帯は等高線がゆるみ、(3)の平坦地であることは確かである。
 三河の宇連山の別称のガンゾモチフデはガンゾ(設楽町誌の絵図ではガンドゥ)は鋸歯の意味。これは何本かある岩脈をイメージする。
 モチフデが分からなかった。川合国有林の看板の地名にはモチフデの記載があった。モチは平坦地というなら棚山の地形に合う。フデは筆で土地の単位であるがしっくりしない。

各務原市の伊木山で岩登りトレ2016年04月09日

登攀中のSさん
 朝7時30分、名古屋を出る。伊木山は木曽川右岸にある低山で、夕暮れ富士の異称もある景勝の地だ。
 天気は気温が高いせいか、春らしく曇天である。周囲の低山も萌えあがるような新緑に包まれて、まさに山笑う季節になった。木曽川は濁っている。上流では雨が降ったようだ。
 伊木山のPには10分ほど前に着いた。メンバーはすでに到着していた。後から来たメンバーとも合流してゲレンデに向かう。今日はキューピー岩という岩場だった。
 参加者は10名で1名はドタキャンになったが、9名もそろったのは偉観である。うち3名は旧人6名が新人の女性たちだ。岩登りのトレを強く望むのは日本アルプスはいうに及ばず、鈴鹿級の低山でも岩場の通過を無難にこなしたいがためである。殊勝な心がけである。謙虚な心がけを忘れなければ遭難などあるはずがない。
 ベテランでも遭難するのは素直な心を忘れたからだ。○△山岳会の会員ならこのルートは登れて当然と難ルートを攻撃するから痛い目に遭う。わざわざ遭難するためにルートを選んだとしか思えない遭難事故も見聞する。
 初心忘れるべからず。
 クライミングシューズではなくロープで確保しながら登山靴で登攀した。2ルートにロープを張り、一人2回はやれたはずだ。最後はゲレンデから岩稜の痩せ尾根をよじ登り。キューピーの鼻へ登った。電車組とは犬山遊園駅で解散。クルマ組は犬山の秘湯「さら・さくらの湯」に入湯。市営なので500円、65歳以上は300円と嬉しい。快い汗を流して帰名した。

笹又から伊吹北尾根を歩く2015年04月26日

 新入会した3人と旧人の5人で伊吹北尾根に行った。登山口は笹又にした。さざれ石公園に着いたのは9時過ぎ。以前登った記憶が全く無い。トイレに登山届けポストがあるので、ここが登山口と思いきやどうも違う。登山口特有の雰囲気が感じられない。しかし、思いつきで選んだため、地図は用意したものの忘れた。他のメンバーも笹又のところが欠けた地図のコピーしかない。何でも、国見峠発のルートを考えていたらしい。ネットでのチエックでは4/12の時点で峠直前で道路決壊で工事中とのこと。
 とりあえず、舗装路の続く車道に戻って走った。タイトなカーブの連続する車道を行くと所々に登山道の標示があるのでどうやらこの道で良いらしい。獣避けネットの取り付け工事に村中で取り組んでいるようだ。急斜面だがのどかな感じのする笹又を通り抜けた。更に羊腸の道を登ると終点らしい駐車場に着いた。比高約280mあるので1時間弱は楽した。獣避けネットの扉を開けて登山道に入る。
 家は標高470m付近に構え、畑作は標高750m付近まで展開していた。南向き斜面で耕作には良い条件である。旧春日村を地形図で嘗め回してみても平地は殆ど無い。谷底の村は日照時間が少ないから畑作には不向きだ。南斜面、緩斜面、大きな谷が無いという条件はむしろ好条件であろう。
 暖かな陽光がふりそそぐ畑を耕す風景は「耕して天に至る。以って貧なるを知るべし。」の言葉が浮かぶ。日本に来た孫文か李鴻章の吐いた感動の言葉という。そして、「然るに我が国土広大なるも国力に劣れり」と続く。日本人の勤勉性を称えたのであった。蒋介石は中国人は砂、日本人は粘土に例えた。ぎゅっと握って手を広げると砂はバラバラになるが、粘土は固まる。日本人は一致協力して不利を補ってきた。登山口の「さざれ石」はその象徴かも知れない。
 俳人・山口誓子は瀬戸内海の畑を見て
   天耕の峯に達して峯を越す
という俳句があるが、それに近いかも知れない。映画「裸の島」では瀬戸内海の島に住む夫婦の日課は畑にまく水を確保し、本州から毎日運ぶことだった。
 笹又には伊吹山から流れる沢水があるのでその心配は無い。道すがらに眺めた畑には沢から引かれたビニールホースがあり、蛇口付近には水の詰まった2リットルのペットボトルが沢山置いてあった。干天時の備えだろうか。畑は750m付近を境に終わった。2回目の獣避けネットをくぐる。つくしが一杯生えていた。そして杉の植林、自然林の森の中の道を登る。土の道から石灰岩の道に変る。浅い沢をまたぎ、急傾斜の砂ザレの道を登る。冬は雪庇があっただろう、場所は草も生えていない。やっと尾根に達した。尾根道からは伊吹山のドライブウェイの下部のトラバース道を行く。良く見ると、今日の目的だったハクサンハタザオの小花が出迎えてくれた。
 静馬ヶ原の分岐から1149m峰へ右折。メンバーの1人が1149mが静馬ヶ原という。えっ、それは何かの間違いではないか。それならば静馬ヶ原山と呼称するべきでしょう。大台ヶ原山、那須ヶ原山が思いつく。
 983m峰を乗り越してゆるやかに御座峰1070mに登頂。約2時間20分かかった。ここからでも能郷白山、白山の一部、虎子山、金糞岳、貝月山、小島山、池田山等が見えた。他のメンバーは先へ行きたがったが、ここで引き返した。久々の山行でもう十分なアルバイトになった。
 新人さんらを見ていると体が軽そうだ。登山を連続的にやっていると強くなる。登山の実践に優るトレーニングはない。油の乗った重い体を引きずりながら往路を戻る。帰りは薬草湯に入って帰名。
メンバーの報告によると
・カタクリ 
・ハクサンハタザオ 
・ネコノメとボタンネコノメ(ヨゴレといったネコノメ) 
・フッキソウ 
・ヤマエンゴサク
・ヤマルリソウ(ワスレナグサといった花)
・キランソウ
・ハシリドコロ(御座峰北側)
・ザゼンソウ(コバイケイソウのようなはえ方をした大    
きな葉っぱ)
以上  
他に私の見立てであるが、
チゴユリを見たが上向きに咲いているので?
一人静
二輪草
スミレ
ヤシャブシ
ウマノアシガタ
麓ではシャガの花