晩秋の裏木曽・井出ノ小路山界隈を歩く2017年11月06日

 11/4の夜、世間ではもう寝るか、という10時過ぎ、メンバー4人が合流して名古屋市を出発。中央道を走って、中津川市から下呂への南北街道から付知峡に分け入ると、零時を回った。赤石園という小さな園地に幕営、空には都会では見られない青い月が微笑んでいた。月明かりだけでもテントは張れるほど明るい。おそらく零度近い気温に、ビールを飲む気になれず、ミニ宴会もなく5時起床とだけ約して1時30分に就寝。
 11/5、5時、非情の目覚ましベルに起床。簡単な朝食をとる。直ぐにテント撤収。登山口の林道ゲートまではすぐだった。身支度を整えて出発したのは6時20分となった。ゲートをくぐって林道を歩き始める。真弓峠への分岐を過ぎ、井出ノ小路橋を渡ると左岸に移る。合体木とか、神宮備林の案内板のあるところで美林橋になり右岸に渡る。しばらくはいい道だったがヘアピンを過ぎたころから路盤が荒れ始めてきた。谷が押し出されて埋まったところもあり、帰路、日没を想定してリーダーのW君が赤い布をべた打ちしてくれた。林道は延々続いたが突然、堰堤から下流の谷底がえぐられた箇所に来た。ここが事実上の登山口の茶屋小屋谷である。
 堰堤の左を巻いて谷芯に降りて遡行を開始した。遡行とはいえ、この時期は水は伏流して荒れた登山道を行くような感じで登攀の趣きである。かつて水が流れていたので岩は浮石が多く油断が出来ない。石車や抱き石に注意した。堰堤からしばらくは谷が立っているので高度は稼げる。厳しいところを過ぎて安定した谷相に入った。
 時計を見ながら鞍部へは予定通り着くかどうか。心配していると突然、明るい谷にも関わらず、右へ振るというリーダーの指示で笹を漕いで枝沢に移った。なるほど、上方からは明るい日差しが見えて今やっと日が昇ったかに思える。東南の方向へ振ったのである。
 苦労の末にたどり着いた鞍部は井出ノ小路山への鞍部ではなく、中の谷1806.4mへの鞍部であった。この時点で目的地への登山は断念せざるを得なかった。折角1700mまで高度を稼いだのだから中の谷の三角点を稼いで下山しようと提案したら乗ってくれた。この地点から下山すれば明るいうちに車に戻れるが手ぶらでは帰れないと誰しもが思ったのだろう。
 鞍部から中の谷への話は以下の通り。(東海白樺山岳会ブログ)
 井出ノ小路山と1806.4mの2等三角点の鞍部に詰める予定が、朝日が上がった方向(東南)を鞍部と勘違いして、その枝沢に乗り換えた。ここでコンパスを出して確認すべきだった。山勘だけに頼ると陥りやすいミスだ。ただし、現在位置は確認できたので、1806.4mの2等三角点「中の谷」だけでも踏んで下山することとした。間違った鞍部から激ヤブを漕いで中の谷に登った。途中、御嶽が至近距離に見え、遠く白山もみえて癒された。私は2回目で、中の谷は夕森山からヤブコギで往復した記憶がある。そばには抜き取られた御料局三角点が埋まり、桧の良材の宝庫だったことを彷彿させる。1806mから鞍部へは踏み跡もなく訪問者はきわめて限られた好事家しか登らないのだろう。鞍部も古い赤テープがあるだけで踏み跡は一切ない。
 井出ノ小路山は登山者のまれなヤブ山である。
 溝状の谷の下降も最初は急で神経を使う。半ばから少し傾斜が緩くなるがまた急になり、登る際には岩登りの感覚で登攀した箇所は右岸の笹薮の中のかすかな踏み跡をたどって下山した。堰堤から下流は谷底がえぐれて大変に荒れていた。蛇抜けであろう。日没前に林道に下れて良かったが、美林橋から上は荒れて谷の崩壊があり、押し出された土砂で埋まっていた。リーダーのW君は往きに日没がありうると想定し、危険箇所に赤い布をべた打ちしておいた。美林橋の手前から日没し、ヘッドランプで下山した。
 夜明けは6時16分ころで、ゲート前を朝6時20分に出発し、戻ったのは18時30分超で実に12時間以上の長丁場であった。日没の早いこの時期としては前夜発日帰り登山の限界を超えていた。中の谷を経由しなければ2時間は早く下山できただろう。中の谷をゲットできただけでも良しとしたい。
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 下山が遅れて温泉入湯は出来ず、夜自宅で入浴後、体重計に乗ると74.75kgを指した。少し前から1kgの減量となった。朝食はコンビニのおにぎり1個、バナナ1つ、カップ麺1杯、行動食としてミカン2個、餅を5つ、はちみつのスティック2本、300mmの牛乳1個、ドラ焼き1個を食べた。これだけ食べても空腹感があり、恵那峡SAでは夕食にビフテキカレーを平らげた。それでも減量したのだからいかに激しい運動量だったか分かる。ただし水は水出し麦茶1リットルで足りた。

西濃・池田山2017年09月23日

 昨日の雨も上がった。今日なら登山も可能と久々に池田山に行くことにした。先だって長久手古戦場へ行った際、池田恒興(勝入)、元助父子の塚を見学した。
 大垣城の城主。元々は織田信長と親近な関係だった。信長死後、秀吉側について、小牧城を落として城主になったが、岩崎城攻めの失敗で徳川+織田信雄側に首級を挙げられた。
 しかし、次男の輝政が家督を相続、大垣城主になる。秀吉の仲介で家康の次女をめとる。そのために秀吉死後は家康側について姫路城主となる。徳川幕藩体制は300年続いたが、池田家も代々繁栄した。徳川家との縁組のおかげである。
 めとった際に、父を討ち取った永井直勝を召しだし、父の最期を語らせたという。身上が5000石と知って家康に加増するように言上して倍増させた。大物の武士に討たれたなら父も名誉と考えたのか。武士道の考えなのか。子孫には三島由紀夫、永井荷風がいるという。
 10/28には姫路城へ1日旅行する予定。輝政が今の大規模な姫路城に修築したという。長久手、大垣+池田町、兵庫・姫路と結ぶ歴史の旅になる。みな偶然の結びつきである。
 池田家は戦国時代を生き延びたなかなかの名門と知る。2人が主要人物と知って調べたら池田町に墓地があると分かった。それなら池田山登山とかねて行ってみることにした。
 名神高速の一宮IC付近で3重衝突の事故が発生。その影響で1時間30分遅れて10時30分出発になった。登山口は2年前に開通した大津谷登山口である。登山道の取り付きは急な尾根の一歩から始まる。植林の中の疎林をジグザグを切りながらぐんぐん高度をあげる。たちまち汗がふきだす。しかし、風があるため汗がすぐ冷えて爽やかだ。
 20分したところで小休止。又歩き出すと4等三角点に着く。さらに急登が続く。やれやれの思いで林道の端に着いた。林道を登ると霞間ヶ渓からの車道と合流してこの登山道2.84kmに一区切り。ここからは傾斜もゆるみ稜線伝いになった。宮標石があった。
 車道と並行しながら山頂に向うと車道の終点に有人の売店があった。売店から山頂へもひと登りあった。20分ほどで13時前に山頂に着いた。老夫婦の先着と入れ代ると静寂な山頂になった。展望台は周囲の樹木が伸びて台無しだ。13時15分、早々に下山した。
 大津谷登山道との合流地から霞間ヶ渓へ下山。車道とからみながら下る。途中からは車道と離れて静かな道になった。登山口には15時過ぎに着いた。少ししゃべっているうちに15時30分になり、大津谷登山口に向って車道を歩き始めた。やや登り気味で3km、約30分ほどでマイカーに戻った。
 池田町内に戻って池田恒興・元助父子の墓を探すが見つからず。龍徳寺も墓の案内板も見いだせなかった。あまり力を入れていないのだろうか。池田温泉に入湯して帰名する。

根の上高原の保古山、餅穴、血洗の三角点を訪ねる!2017年08月13日

 朝7時、会員2名を同乗して、金山駅前を出発。今日は東濃の根の上高原の三角点探しを名目に避暑ドライブとなった。
 8時50分ころ、根の上高原に着く。あいにくの曇天にがっかりするが、まずは保古山を目指す。池の周辺道路をのろのろ走る。秋はさぞや紅葉がきれいだろうと思わせる落葉樹の林の中を走る。林道の状況がよろしくて山頂まで着いてしまった。直下に車を止めて三角点がありそうな場所へ行くと2等三角点があった。北の方は青空も見えたが見晴らしはゼロ。
 戻って、林道分岐のところにあった展望台の看板に従う。車を置き、約200mゆったりと歩く。笹が刈ってあり歩きやすい。鉄骨製の展望台にはすぐに着いたが何も見えず。続いて本命の3等三角点の餅穴を探しながら笹藪の高原を歩く。直感的には高見を目指すが何も手がかりはなかったので、根の上体育館に通じる別の道を下って車に戻った。過日の下見のおかげである。
 さらに、R363まで走り、旧キャンプ場の中にある3等三角点の血洗を目指す。車はゲートがあるため、入口に置き、ゲートの横から車道に入る。登りきった辺りから左へ細道が登っている。それを辿るとすぐに三角点が埋まっていた。これで2つ目をゲットした。
 餅穴が気になるが、国民宿舎恵那山荘へ行ってコーヒーを注文。水が良いせいか、コーヒーの味が美味しい。スタッフに根の上高原のウォーキングマップをコピーしてもらう。地形図をベースに地元ならでは地名や施設名、建物名などを表現してある。これに935.8mの三角点の位置も判明したので参考になる。
 先程は下山に使った林道を逆に登って、根の上体育館の近くに車を置いた。登り返すと地図と首っ引きで地形の特徴を把握に努めた。等高線が大きくゆるみ、その北が急な斜面になるところまで下った。すると桧の植林の中なのにぽっかりと空間があり、薄が生えているところがあった。メンバーがそこじゃないかと指摘するので探すと笹に埋もれた三角点を見出した。標柱には漂泊したテープが巻いてあり、好事家が来ていることを示す。
 どの山もほぼ10分以内でゲットした。帰路は中津川市の車屋の蕎麦でしめた。

 それにしても餅穴は珍名だ。福井県大野市には持穴がある。岐阜県には鼠餅(ねずもち)の地名がある。笠ヶ岳に突き上げる穴毛谷なる地名もある。血洗は下流の血洗池に由来することは違いない。
 ところで、餅穴でぐぐると
http://www.windsnet.ne.jp/column_n/colum.php?day=20170314812
がヒットした。以下に引用すると
 「今のところ、郡上で「餅穴」は那比でしか確認していない。小字として二、通称地名として一、「焼-餅穴(やき-もちあな)」と句の一部として使われる例が一、計四か所である。まだその内、一か所しか踏査していない。これに関わる伝承や、民話などは聞こえてこない。
 四か所もあるわけだから、面白半分につけられたはずはないので、ほとほと困った。
 そこで、けっこう前から福井県和泉村にあった「持穴村」との関連を考えてきたが、なかなか繋がらない。
 また岐阜県の中津川にも「餅穴」という字があるものの、大蛇の住む穴へ餅を供えるというような話になっており、那比の分布と符合しないように思われる。というようなわけで、糸口すら掴めず月日が経ってしまった。
 この間、友人に那比四か所のうち通称地名で「餅穴」と呼ばれるところへ案内してもらった。全体として大きく窪んだ地形になっており、周囲の一部にうず高く割石が積み上げられていた。中に赤茶けた石があり、薄い褐鉄鉱らしきものが付着しているだけなので確信を持てないけれども、これに着目すれば製鉄と関連するかなあという印象がある。褐鉄鉱の良質な部分をとった後の欠片とすれば、タタラの遺跡かもしれない。
 それからもう一つ。五六十年ほど前、餅穴の川向いに水路を掘るため発破した時にけっこう黄銅鉱が出たそうである。岩盤が続いているようなので、この穴は黄銅鉱を露天で掘り、石を細かく割った残骸を積み上げた結果と考えれば、つじつまが合うような気がしてきた。この場合、「餅穴」の「餅」は銅ないし鉄が溶けたもの。「穴」には解釈が二つあり、一つは鉱物を掘った穴、一つは炉としての穴である。」
以上
 郡上に点在しているのだから普遍性はあるのだろう。
 もうひとつ粘って、鏡味完二・鏡味明克の『地名の語源』を引くと、モチには
(1)菱餅形の土地
(2)小さい盆地、谷
(3)平坦地
 地名の例が紹介してあり、北海道以外の全国に分布とある。
 展望台から三角点一帯は等高線がゆるみ、(3)の平坦地であることは確かである。
 三河の宇連山の別称のガンゾモチフデはガンゾ(設楽町誌の絵図ではガンドゥ)は鋸歯の意味。これは何本かある岩脈をイメージする。
 モチフデが分からなかった。川合国有林の看板の地名にはモチフデの記載があった。モチは平坦地というなら棚山の地形に合う。フデは筆で土地の単位であるがしっくりしない。

各務原市の伊木山で岩登りトレ2016年04月09日

登攀中のSさん
 朝7時30分、名古屋を出る。伊木山は木曽川右岸にある低山で、夕暮れ富士の異称もある景勝の地だ。
 天気は気温が高いせいか、春らしく曇天である。周囲の低山も萌えあがるような新緑に包まれて、まさに山笑う季節になった。木曽川は濁っている。上流では雨が降ったようだ。
 伊木山のPには10分ほど前に着いた。メンバーはすでに到着していた。後から来たメンバーとも合流してゲレンデに向かう。今日はキューピー岩という岩場だった。
 参加者は10名で1名はドタキャンになったが、9名もそろったのは偉観である。うち3名は旧人6名が新人の女性たちだ。岩登りのトレを強く望むのは日本アルプスはいうに及ばず、鈴鹿級の低山でも岩場の通過を無難にこなしたいがためである。殊勝な心がけである。謙虚な心がけを忘れなければ遭難などあるはずがない。
 ベテランでも遭難するのは素直な心を忘れたからだ。○△山岳会の会員ならこのルートは登れて当然と難ルートを攻撃するから痛い目に遭う。わざわざ遭難するためにルートを選んだとしか思えない遭難事故も見聞する。
 初心忘れるべからず。
 クライミングシューズではなくロープで確保しながら登山靴で登攀した。2ルートにロープを張り、一人2回はやれたはずだ。最後はゲレンデから岩稜の痩せ尾根をよじ登り。キューピーの鼻へ登った。電車組とは犬山遊園駅で解散。クルマ組は犬山の秘湯「さら・さくらの湯」に入湯。市営なので500円、65歳以上は300円と嬉しい。快い汗を流して帰名した。

笹又から伊吹北尾根を歩く2015年04月26日

 新入会した3人と旧人の5人で伊吹北尾根に行った。登山口は笹又にした。さざれ石公園に着いたのは9時過ぎ。以前登った記憶が全く無い。トイレに登山届けポストがあるので、ここが登山口と思いきやどうも違う。登山口特有の雰囲気が感じられない。しかし、思いつきで選んだため、地図は用意したものの忘れた。他のメンバーも笹又のところが欠けた地図のコピーしかない。何でも、国見峠発のルートを考えていたらしい。ネットでのチエックでは4/12の時点で峠直前で道路決壊で工事中とのこと。
 とりあえず、舗装路の続く車道に戻って走った。タイトなカーブの連続する車道を行くと所々に登山道の標示があるのでどうやらこの道で良いらしい。獣避けネットの取り付け工事に村中で取り組んでいるようだ。急斜面だがのどかな感じのする笹又を通り抜けた。更に羊腸の道を登ると終点らしい駐車場に着いた。比高約280mあるので1時間弱は楽した。獣避けネットの扉を開けて登山道に入る。
 家は標高470m付近に構え、畑作は標高750m付近まで展開していた。南向き斜面で耕作には良い条件である。旧春日村を地形図で嘗め回してみても平地は殆ど無い。谷底の村は日照時間が少ないから畑作には不向きだ。南斜面、緩斜面、大きな谷が無いという条件はむしろ好条件であろう。
 暖かな陽光がふりそそぐ畑を耕す風景は「耕して天に至る。以って貧なるを知るべし。」の言葉が浮かぶ。日本に来た孫文か李鴻章の吐いた感動の言葉という。そして、「然るに我が国土広大なるも国力に劣れり」と続く。日本人の勤勉性を称えたのであった。蒋介石は中国人は砂、日本人は粘土に例えた。ぎゅっと握って手を広げると砂はバラバラになるが、粘土は固まる。日本人は一致協力して不利を補ってきた。登山口の「さざれ石」はその象徴かも知れない。
 俳人・山口誓子は瀬戸内海の畑を見て
   天耕の峯に達して峯を越す
という俳句があるが、それに近いかも知れない。映画「裸の島」では瀬戸内海の島に住む夫婦の日課は畑にまく水を確保し、本州から毎日運ぶことだった。
 笹又には伊吹山から流れる沢水があるのでその心配は無い。道すがらに眺めた畑には沢から引かれたビニールホースがあり、蛇口付近には水の詰まった2リットルのペットボトルが沢山置いてあった。干天時の備えだろうか。畑は750m付近を境に終わった。2回目の獣避けネットをくぐる。つくしが一杯生えていた。そして杉の植林、自然林の森の中の道を登る。土の道から石灰岩の道に変る。浅い沢をまたぎ、急傾斜の砂ザレの道を登る。冬は雪庇があっただろう、場所は草も生えていない。やっと尾根に達した。尾根道からは伊吹山のドライブウェイの下部のトラバース道を行く。良く見ると、今日の目的だったハクサンハタザオの小花が出迎えてくれた。
 静馬ヶ原の分岐から1149m峰へ右折。メンバーの1人が1149mが静馬ヶ原という。えっ、それは何かの間違いではないか。それならば静馬ヶ原山と呼称するべきでしょう。大台ヶ原山、那須ヶ原山が思いつく。
 983m峰を乗り越してゆるやかに御座峰1070mに登頂。約2時間20分かかった。ここからでも能郷白山、白山の一部、虎子山、金糞岳、貝月山、小島山、池田山等が見えた。他のメンバーは先へ行きたがったが、ここで引き返した。久々の山行でもう十分なアルバイトになった。
 新人さんらを見ていると体が軽そうだ。登山を連続的にやっていると強くなる。登山の実践に優るトレーニングはない。油の乗った重い体を引きずりながら往路を戻る。帰りは薬草湯に入って帰名。
メンバーの報告によると
・カタクリ 
・ハクサンハタザオ 
・ネコノメとボタンネコノメ(ヨゴレといったネコノメ) 
・フッキソウ 
・ヤマエンゴサク
・ヤマルリソウ(ワスレナグサといった花)
・キランソウ
・ハシリドコロ(御座峰北側)
・ザゼンソウ(コバイケイソウのようなはえ方をした大    
きな葉っぱ)
以上  
他に私の見立てであるが、
チゴユリを見たが上向きに咲いているので?
一人静
二輪草
スミレ
ヤシャブシ
ウマノアシガタ
麓ではシャガの花

東濃・天瀑山を歩く2015年03月28日

 余りにも天気が良さそうなので撮影のチャンスとばかりに出かけた。交通量はかなり多く、あちこちで渋滞が発生中だ。恵那ICで下りてR19からR257へ。
 懐かしい岩村町に来ると、天瀑山への登山口への案内に、佐藤一斎の町、とあって、へえーいつから売り出したのだろう。多分、小泉純一郎さんが首相時代に佐藤一斎の『言志四録』の一節を引用されてからかな。しかし、真新しい。
 そして坂を登って行くとまた案内板があり左折。終点Pが登山口になっていた。ここから40分とあったのでカメラのみ持参して歩く。但し、遊歩道ではなく、完全な山道だった。しばらくは谷沿いの山道で、松葉、桧の落ち葉で滑りやすいし、砂地でちょっとやばい感じがする。谷からジグザグで尾根に上がる。一部から雪の御嶽山が見えた。岩村の町も俯瞰できた。約20分で佐藤一斎の詩碑にきた。折角なので撮影するが暗くて分かりにくい。ここを後にまた急登する。更に10分で山頂に着いた。4等三角点が埋まっていた。標高はぞろ目の777mで縁起が良い。
 展望は何もないのですぐ下山した。やっぱり水くらいは持参すべきだった。Pに戻るとウグイスの鳴き声だ。今春初めてなので初音ともいう。山を下って、次は岩村城へ向かった。城まで800mとあるので徒歩で登城した。中々に急な坂道であった。しかも石畳なので足には堪える。ここからも御嶽山が良く見える。やがて植林内に入った。大勢の観光客とすれ違う。やや明るくなると本丸址に着いた。平らになって建物はなく、明治維新で廃城になったという。城主が松平姓だから徳川直系になる。薩長から見れば敵方だから謀反を起こされないようにということか。
 ここからは斑雪(はだれ)の恵那山が良く見えた。風格があっていい山である。下山後は歴史資料館に入った。佐藤一斎の学習のためだが、館員さんは佐藤一斎は1回来ただけという。しかも天瀑山に登ってそれっきりだったが、本家のあった美濃市にはしばしば立ち寄ったそうだ。中山道からは山奥になるし、遠いし、で来れなかったのだろう。歴史資料館のPの一角に佐藤一斎の塑像が建っていた。やっぱり、小泉さんの筆になる文字が揮毫されていた。
 岩村の町へ。佐藤一斎の詩を書き付けた看板や詩碑を良く見かける。小泉さんも良いことをしたもんだ。今や大もてなんだろう。どんなことばを残したのか。HPから山や向きの言葉を拾うと

・山に登ったり、川をわたったり、長い旅をしたり、時には野宿したり、時には飢えたり、時には寒さに凍えたりということは生きた学問である。これに比べて、綺麗な机に座って本を読むなどは、力があまりつかないことだ。

・・・・そうか、登山、沢登り、縦走、山でのビバークは生きた学問になるのか。確かに畳の上の水練とか言って、いくら練習しても実際の流れのある川では泳げない。やってみて、苦労してみて、知恵を付けて行くのである。

・登山では上りは倒れないが、下りでつまずくことが多い。失敗というのは順調な時の油断に生じる。

・・・・中々に真理を突いている。50歳で天瀑山に登ったからいわゆる中高年登山の悲哀を共感する。当年とって10歳は違うから今なら60歳から65歳くらいだ。体験からにじみ出たんだろう。

・春風のような優しさで人に接し、冬の霜のような厳しい態度で自分を正すのがよい。

・・・・・登山口の看板にもこの詩が紹介してあった。折りしも今は春だ。確かに春風は優しい。冬のように身を縮めることもない。他人には優しく、自分には厳しくだ。

 R19へ戻って帰名。帰路、最近ガンで入院するとかいう友人宅に寄ったが、留守だった。岩村名物のカステラを買ったのに残念でした。帰宅後電話すると奥さんが出て、すでに入院したらしい。春風のように優しく接する積りが空振りに終わった。

東濃・寿老の滝からの屏風山2014年10月10日

 今日は65歳の誕生日。ということで今日から老人の仲間入り。どうせなら元気で長生きしたいものです。平日であったが、何かの記念にと、恵那市に近い寿老の滝から屏風山に登った。峰山林道終点まで車で上がった。今日は曇り空で恵那山、御嶽山、中央アルプスの眺望はなかった。
 他に養老の滝からの養老山、美濃の誕生山、遠く足を延ばせば京都丹波の長老ヶ岳などがある。平日でもあり、近場で済ました。
 寿老とは多分、七福神の一神からの借用であろう。目出度いことには違いない。
 往きに弁当を買うのを忘れたので道の駅で朴葉寿司を買った。結構美味いものです。加えてご当地の新米も購入した。

裏木曽・高時山を歩く2014年09月30日

高時山頂上からの御嶽山
 9/27、御嶽山が水蒸気爆発を起こして3日目。懸命の捜索救助活動が続けられている。にもかかわらず、危険な火山ガスの発生で長時間は滞在できず、限定的なようだ。鈴鹿なら応援に行けるが特殊な高山では邪魔になるだけであろう。
 なるだけ近いところから御嶽を眺めたいと探したのが裏木曽の高時山である。検索するとランプの宿として知られる渡合温泉への林道は4月に修復し開通していることが分かった。加子母側の長い林道走行は避けたいから温泉から登ることにした。
 R257から付知峡へ入る。R257自体は昔は南北街道と言ったらしい。わざと古い町並みの街道を走ったこともある。そして、さらに驚くのがこの県道である。
 明治時代初期には御嶽信仰の登拝の道として開削された。主導者は私財を投入して完成させ、感謝されたが、家運は傾いた。中央線はまだ開通しておらず、白巣峠を越えて王滝へ行く方が近道にもなった。そんな歴史を刻んだ石碑があった。中央線の開通とともにこの道の登拝道としての役目を終えて廃れた。もっぱら林道として利用されている。
 渡合温泉への道は遠かった。県道から林道へ、そして未舗装の道へと進む。そのどん詰まりに温泉はあった。かつて1度、入湯させてもらったことはある。あの時は林道を走れるだけ走ってそこから歩いたから楽な山歩きだった。木曽越峠の歯痛地蔵だけは記憶がある。
 渡合温泉は夫婦で経営されているようだ。朝早く着くと主人がどこかへ出かけるようだったので、山道のインフォメーションをもらった。親切に紙に書いて教えてくれた。まづ滝を見学しなさい、と。というので旧道を歩くことになった。この道は初見であった。滝までは良い道があった。滝からは利用者も余りないせいで踏み跡程度になった。古い道標はそこかしこに残っているので何とか迷わずに歩けた。基本的には谷沿いに歩くが、一部崩壊箇所もあり、薮に覆われていたりする。初心者向きではない。約1時間もしただろうか、林道へ上がった。しばらく林道を歩くとまた道標で山道に導かれた。ここもススキで覆われて分かりにくいが突破すると何となく山道に開かれて行く。ヒノキの植林内を急登してトラバース気味に行くと木曽越峠だった。
 峠は加子母側の林道と付知側の林道がゲートで遮断されて行き来はできないが、開発し過ぎである。かつて慈しんだ峠の歯痛地蔵は辛うじて保存されていた。
 峠から一旦林道に下り、又登ると御嶽展望台があった。間じかに噴煙を上げる御嶽を眺めた。そこからしばらくでまた林道に下り、登り返した。この尾根はヒノキ、トチノキの大木が残る素晴らしいものだが、自然破壊がやり切れない。尾根伝いに登ってゆくと御料局の8の文字のある標石があった。付知側は国有林だからかつては御料林だったのか?
 1434mを経てさらに長い釣り尾根を登りかえすと御嶽山に開かれた山頂だった。2等三角点が埋まる。これだけ良い眺望であるが、御岳信仰の祠などはない。
 今も多くの登山者が山頂付近で心肺停止のままで救助を待っている。未発見の登山者もいるかも知れない。朝方から捜索救助のヘリコプターの音がひっきりなしに聞こえてきたが、可及的速やかな捜索救助を祈る。遭難された登山者を思い、手を合わせた。
 高時山は御嶽山の南南西の位置にある。噴煙を噴き上げる火口が良く見える。噴煙は北西の風に流されて東に流れてゆく。右に三笠山、左の継母岳も良く見える。継母岳は崩壊しそうなほど鋭角に聳えている。何事もなければ豪快な山岳風景であるが遭難者や家族を思うと心が痛む。
 25分ほど滞在して下山。峠からは山道を下ったが、旧道へは降りずに林道を下った。長い林道歩きだった。温泉に戻ると奥さんにあいさつして帰った。

恵那山秋色2014年09月29日

 9/27(土)は30才代の若い男女3名の同行を得て恵那山に登った。士業の同業であるY君とその事務員のO女、彼氏のNさん。かねてからどこか山に行こう、と誘っていた。9月始めの白山は天気不良で流れたので、恵那山になった。
 事務所前を7時に出発。園原ICから広河原の登山口を目指す。本谷川沿いの道を行けば良いのだが、地形図を忘れて右往左往した。地元でインフォメーションをもらって無事到着。林道は工事中でゲートがあった。Pにはすでに20台が止まっているし、路駐も数台あった。我々も隙間に場所を確保。
 午前9時半、仕度後出発。さすがに若い人は服装からして違う。2名がタイツにパンツスタイルだ。これは先年、北アルプスで見た。ひざが軽いので運動性は良いだろう。林道を約30分歩くと本来の登山口に着く。本谷川を橋で渡る。かつて増水中に渡り、落ちて死亡した事故があった。
 対岸に渡ると登山道は左にゆっくり登ってゆく。周囲は唐松林であるが今は青い。1ヶ月もすると金色に輝くような黄葉になるだろう。単調な唐松の植林内をほぼ直登するから急登になる。尾根らしい末端に取り付くと少し傾斜も緩む。多少は自然の植生になってきた。このまま緩むかと思った尾根道は再び急登になった。開けたところからは伊那の街が見えたが、飯田市だろう。
 完全に原生林の趣になってきた。高度計を見るとまだまだの標高である。着実に高度を稼ぐと山頂の一角になった。周辺に紅葉が見られる。何の植物か走らないが山頂はいち早く秋になった。人影が見えると高い展望櫓の建つ山頂であった。13時登頂。快適なペースだった。
 但し、ガスで何も見えない。

   頂上や霧深くとも櫓に立つ     拙作

 昼食などするうちに下山となった。急登の尾根を振り返るようにこんな傾斜をよく登ってきたもんだと思う。谷川にもすぐ下山した。谷水で汗を拭いた。林道歩きの後マイカーに戻った。早速、スマホ使いの誰かが、御嶽山が噴火したと、情報を話してくれた。「えーっ」というばかり。
 ここまで来たからには昼神温泉へと走った。天下の名湯で知られる下呂温泉と同じ泉質らしく人気が高い。とある温泉施設もスマホで検索して探してくれた。
 入湯したら、湯船に使っているとなりの人が本当は御嶽山に行く予定だったという。京都の登山者だった。ニュースで地元の旅館をキャンセルして、こちらに避難してきたらしい。明日は恵那山に変更したのだという。間一髪で災難を逃れたのだ。
 登山後の入湯は疲労回復に効果的だった。

初登山は美濃・南宮山と南宮大社初詣+アルファ2013年01月02日

 予定では干支の山で長野県南部の”蛇峠山”に登ることにしていたが、あいにく天気が思わしくないので中止。天気図を見ると東海地方では午前中だけは晴れそうだったので初詣を兼ねてのハイキングを探した結果南宮山に決めた。
 午前6時半、起床。7時すぎには自宅を出発できた。名古屋ICには7時半に入り、大垣ICから地方道、国道21号を辿り、南宮大社へ行く。三が日は交通規制中で、看板にしたがう。無料Pがいくつか用意されている。神社の上手、本殿の裏側に停めることができた。山登りが主なので早目に出発してきて良かった。
 現在位置を確認するために、一旦、本殿に参拝し、バス停まで歩くと人も車も一杯だった。このPは午前11時から規制される。キョロキョロすると、南宮山へのハイキングコースの道標が建っている。それを追うとちゃんと車に戻れた。
 空は気温が高いせいか快晴とはいかず、靄がかかっている。雪は一かけらもない。クリスマスのころに降っただけという。8時20分にPを出発。小さな鳥居が沢山並んだ道をゆっくり登った。奥社の手前で左折するとため池に着いた。ここでコースは二俣に分岐。尾根道を選んだ。
 下ってくる人もいる。皆空身なので地元民が散歩がてらに登っているらしい。コース案内の看板を見ると頂上まで1時間とあった。とにかく尾根を登り出す。するとたちまち息が苦しい。12月半ばから運動不足に食べているからやや体重が重め。そこを我慢しながら登ってゆく。厚着しているので2枚脱いだ。その間に追い抜かれた。
 尾根道は単調で詰まらないものであるが、高山神社に着くと松林の綺麗な林になる。松の落葉散り敷く山路である。登りきると「境」という石碑を2体見る。最後の境の立つところは象鼻山への尾根を分ける。傾斜が緩むと山頂である。ここは山頂というより、歴史の人物に因む展望広場になっていて望遠鏡まで設えてあった。東屋も2ヶ所ある。
 さっき追い抜かれたハイカーが先着していて世間話をした。大抵の人はここで引き返すという。ここまでが9時20分ごろ。南宮山の三角点を見に行く。とたんに踏み跡程度の道になり、緩やかに下る。小さなコブを終えると右へ急カーブして下る。下りきると又登り出す。10時、周囲は木立に囲まれた山頂に着いた。改埋された新しい二等三角点があった。小休止。
 空を仰ぐと薄い雲が流れている。予報通り午後から悪化の兆しか?昼食にも早いし、おまけに車に忘れてきた。テルモスの熱いお茶を飲んで下山する。最低鞍部まで下ると、またハイカーにすれ違った。三角点まで来る人もいるのだ。登り返すと中間のコブを越える。そこからまただらだら歩くと展望広場に戻れた。
 往路を下る。空身の親子連れ4人とすれ違った。結構、ヒマを持て余しているらしい。ダックスフンドを連れて気楽に登ってくる。そのまま下るとため池に戻った。ここからは山道から解放されて、普通の未舗装の車道である。さっきは誰も居なかった奥社に人が居て焚き火をしている。こんな奥社でも次次参拝客がある。私も参拝して辞した。連続する鳥居をくぐると瓦塚のPに着いた。11時20分。往復3時間でした。
 小用を足すためにまた本殿に行くと朝にも増して善男善女がずらーっと行列していた。さすが2日である。朝見たPは満車であったが11時からの規制で入らせないせいか数台のみ残る。立ち並ぶ屋台には美味しそうな食べ物がそろう。足の踏み場もないほど混雑している。そこを抜けてマイカーに戻り、看板の帰路に従って帰った。外に出ると駐車場につながる道路には参拝客の車が渋滞中だった。
 美濃一の宮のご利益は大したものである。金の神様という。マネーではなく、金属の意味だろう。いやあの金もゴールドという貴金属である。

 さて、まだ正午にならず、帰名には少し早い。そこでおちょぼ稲荷に寄ることにした。順調に行けた。但し、駐車場に入る車がここでも大渋滞で一旦引揚げた。約10km南の海津温泉に入湯しに行く。幸い今日から営業でいわば”初湯”を楽しむ。入浴客も混雑気味であった。又戻って様子を見ると混雑は治まっていない。
 そこで窮余の策で、農道の一角に停めた。無数の車が駐車してある。名古屋ナンバーの人と同時に停めて話すと以前はもっとひどかった、きょうはまだ良いほうという。
 大鳥居のある入り口に行くと正規の駐車場には120分待ちと朱書きしてあった。境内へは両脇に常設の店と露店が交互に並ぶ。そこをもの凄い人数の参拝客が歩く。幅3mもあるかないかの雑踏の街である。境内の手前で入場制限中で時々歩みが止まる。やっと境内へ。それも人を押し分けて拝むような始末。何でこんな無理な初詣をするのか。キャパシティが圧倒的に不足している。かといって分散でということもできない。
 ともあれ、”商売繁盛”を祈願した。農道から振り替えると室町時代以来というにしては天を突く神杉や南宮大社のように威圧するような建築物があるわけでもない。大抵はそれなりの雰囲気があるものだが、何が魅力でそんなに弾きつけるのか。不思議な感想を抱いた。2本つまみ食いした串カツは美味かった。娯楽としての初詣かな。