東濃の鶴岡山(すわがね)を歩く2026年03月08日

午前中の所用を済ませて名鉄電車で犬山駅に向かった。布袋駅辺りから東の車窓に雪嶺の御嶽山と中央アルプスが見えて良かった。約束の時間通り12時に合流できた。
 行先は東濃の明智駅の北西に座す「近年は人が近寄らず荒れ果ててしまっていましたが、地元の吉田地域活性化委員会が中心となり、2015年頃から整備を開始。この程、登山道や山頂などの整備が完了しました。」という鶴岡山(すわがね)と言う山へ向かう。
 先週の定例会で候補に上がった山でてっきり愛知県豊田市と岐阜県土岐市の県境にまたがる鶴岡山(愛知県からは西山、岐阜県では曽良山)かと思ったら違う。
 長年の沈黙から突然鶴岡山を名乗り出たニューフェイスと言うわけです。地形図で見ると確かに三角点もあって732mと里山にしては高い方だろう。ヤマップの記録では往復2時間とはかからない手軽さに午後から山歩きになった。
 三河湾の吉良が見えるので吉良見という地名がある。道は少し先の小泉からと大泉からの2本。どちらも登りが1時間以内。
 小泉登山口に行く手前に山頂への道標があり舗装された林道へ左折。新しい林道を走って行くと新しい黄色い旗のある登山口に着いた。往復はいくらもないので空身で散策。広い未舗装の林道を歩くと直ぐに展望台が見えて2等三角点の埋まる山頂に立った。三角点は改埋されて右書きでした。
 但し東への展望が素晴らしい。愛知県と長野県にまたがる茶臼山と萩太郎山が見える。良く晴れれば三河湾の吉良の方も見えるのだろう。
 案内板によれば織田信長が築いた砦趾という。2013年に兵庫県の竹田城祉が紹介されて以来の山城ブームの今、街おこしで十年前から整備。6年前の「2020年11月28日には、明智町の新たな観光名所としてPRするための開山式が行われ、明智太鼓保存会による出陣太鼓や戦国狼煙(のろし)が、すわがねの門出に花を添えました。」と。
 個人的には地形図に名前のある山はほとんど登った。三角点だけの無名の山も等高線が円錐形になった形が良い所を選んで登ってきた。この山は地形的に締まりが無いため食わず嫌いで見落としていた。4等三角点と思っていたが2等だったこともサプライズであった。
 埋もれた良い山がまだまだある。登山家にして生物学者の今西錦司は登山という道楽を畳のようなものと言った。叩いても叩いても埃の様に出て来ると解したが友人は登った山はみんな良い山と解した。死ぬまで止められない。

早春の古城山を歩く2026年02月22日

 2月になってやっと山に来れた。ゴホンゴホンと咳き込んで絶不調が続いて一ヶ月ぶりのハイキングは美濃には3ヶ所ある古城山のうちの長良川左岸に聳える437mの山。
 今回は犬山遊園駅で合流。こっちは上小田井駅まで地下鉄鶴舞線で往き犬山線に乗換。約1時間と車よりも早く交通費も安い。
 登山口の運動場のPに止めて歩き出す。古城山への道標が無いのでヤマップを見て最初は運動場の端を歩き車道に降りた。そこに道標があった。先へ行くと毛鹿洞池があるが渇水期の今を利用して何やら工事中だった。俳句歳時記の冬の季語に池普請がある。
 いよいよ登山道らしいところに道標があった。植林内を歩くと林道に合い左折、二俣は谷筋へ直進した。道標はマメにあるから安心だ。岩山のせいか水涸れるの季語通り小さな谷にも流れがない。谷から出て本格的な山道に入る。少し身体が温まってきたので衣服を調整した。
 一ヶ月のブランクで鈍った身体の血液が循環して全身を巡る。温かい血液が足の筋肉の収縮でポンプになり全身に運ばれる。体温が上がると免疫力も上がる。気分も高揚してくる。山歩きの健康効果である。
最初の東屋に着いた。ここからはわずかに南方面にひらけている。風もなく穏やかだ。”のどかさや”・・・と一句詠みたいが後がでない。
ここから階段の道を連続的に登るようになった。登って下ってを繰り返すと2等三角点のある山上だった。城趾らしく広い。
 永禄、天正年間にできた山城という案内板が建っている。
 「古城山の古名は鉈尾山(なたおやま)。 この山の山頂に、戦国末期の佐藤氏三代の城(鉈尾山城)の城跡がございます。この城は永禄六年(1563)に佐藤六左衛門清信により築かれたといわれています。鉈尾山の由来は、四方を釣壁で構えられ、鉈一丁で壁を切り落とせば何千騎も防ぐことができたことに由来するといわれています。」
 尾張藩が編纂した江戸時代末期の地誌『新撰美濃志』に当たると「上有知村」の項目に「鉈尾山」は直高十五町程、根廻り二里八町餘の山なり。と簡単に紹介。ちょっと後に「佐藤氏古城は鉈尾山にあり。佐藤將監、其の子六左衛門、其の子才二郎、三代すみしが、慶長五年の亂れに才二郎岐阜中納言秀信に随ひ、岐阜没落しければ此城を退きしのち廃して小倉山にうつせり。その後は「金森五郎が織田豊臣の両公に従ひ、数度戦功をあらわして飛騨国と共に領して鉈尾山の上に城をうつせり」とある。しかし金森氏の子孫は郡上一揆で失策。改易された。
 ネットからのコピペですが
中世の主な元号(年号)
鎌倉時代:建久、建仁、承久、貞永、文永、弘安
室町時代:建武、延文、応安、明徳、応永、永享、嘉吉、応仁、文明
戦国時代:大永、天文、永禄、天正
※この期間は、武士の力が増大し、荘園制が崩壊して寄生地主制へと変化した、日本の大きな転換期です。
以上
 人の世は虚し=1467年の応仁の乱以後、天皇家の権威をバックにした宮廷の政治から武家の政治へと大転換。日本中世史には宮廷が武家を冷遇したからだと解説。藤原氏も政治が巧みだったわけではなかった。つまり身分の低い武士でも武力で政権の座に付けるチャンスと見られた。乱世を究めた下剋上の戦国時代は1603年の徳川幕府成立まで100年以上も続いた。
      春浅し佐藤氏三代夢の跡 拙作
 南西に展望が広がる。美濃は長良川が作った沖積平野だ。その奥には金華山らしい山が見えた。すると手前の右は百々ヶ峰か。船伏山、兎走山も見えているはず。伊吹山は春霞で見えない。
 充分な休憩後、下山開始。山で会った人は階段が多かったと言いながら元の道を戻った。確かに急で階段が多く疲れるが早い。運動場に着いて登って来た山を見上げた。
 こんな里山にも「しかるに何事ぞ、天変甚速にして、かくのごとく盛大をいたせし」鉈尾山も「ついに槿花一朝の栄に過ぎざりしや。」の歴史に思いを致した。

雪とグルメと温泉の釜ヶ谷山2026年01月11日

 気象予報では雨が降るようで芳しくない。今回は久々に2名になったので冬の雨は嫌だな、と思いつつ出かけた。名古屋を5時には出る。すき家で朝定をかき込んで名二環に入り、名古屋高速一宮線で北上、R22に降りてR156へ、岩戸トンネルを抜けてすぐ左折、鵜飼い大橋で長良川を渡ると百々ヶ峰に突き当たる。R256に入って如来ヶ岳山麓を北上、県道79号を西へ行くと伊自良川と交差するので県道91号に右折。集合はてんこもり農産物直売所へ午前7時だがチエーンがあっては入れない。まだ薄暗いが相棒はコンビニで待っていていた。すぐ伊自良湖へ向かった。立ち寄りたいたい所があったが下山後だ。
 下山後に江戸時代の地誌『新撰美濃志』を読んでみた。伊自良郷と呼ばれていたが伊自良村はなく、長瀧村の項目があった。伊自良は十郷あってそれぞれ字があった。・・・『釜嶽』は濃陽志略に「里民呼曰釜溪ト連互數里ニ絶頂有池四時不涸、此山雑樹葱岩石岣最爲奇也」と見えたり。『長瀧山、岸見山』伊自良の高山なり。伊自良川は此の山中より出づ。常は水なく、砂川にて洪雨の時水出づ。略。『甘南美寺』は臨済宗にて白華山と號す。開基は高阿彌、名知阿彌。本尊は千手十一面観音、脇立不動毘沙門なり。當國三十三所十三番に配す。引用は以上。
 長瀧村の名残りは伊自良湖のすぐ下流の里の地名に見る。伊自良湖の湖面が見えると多数のボートが浮かんでいた。恋人同士が朝早くからデート?多分公魚釣りか、疑問のまま登山口の臨時Pに着いた。地形図で116m地点。あいにく小雨模様だ。オーバーヤッケで防寒と小雨対応の身支度を整えて出発。最初は舗装路を分け入ると杉の高木が生える森の中である。番号入りの観音の石仏が立っている。バンガローのような施設は今は冬のもの寂しい雰囲気である。しばらくは車道を歩くと二又に別れる。右は釜ヶ谷に沿う林道で赤谷の出合い迄続く。堰堤記号が三か所連続してあった。我々は釜ヶ谷本流に沿いながら直進。左へ上がって四阿などの施設で舗装路は終わった。ここからは未舗装の林道歩きだが次第に山路になった。途端に谷が立って来て傾斜が強まる。岩がごろごろした歩きにくい山路をこなしてゆくと優しい道になり、山頂からの南東尾根の端に立つ四阿に着いた。残念ながら展望はない。途中から小雨が降雪になった。一種の感動とともに不安も伴う。ここで雪に備えて雨具でザックをカバー。尾根の道からみぞれ谷の枝谷の源流を迂回すると奥の院に着いた。社殿は穴だらけだ。中をのぞくと座禅した板間があった。穴は多分風通しを良くして腐食を避けるためか、人が使わない建物は内にこもった湿気で腐る。雨の時は膨張して外からの湿気を防ぎ、乾燥した時は縮んで隙間風を入れてやる校倉造が理想ですが高額の建設費がかかる。
 さて出発だ。左に丁度33番目の石仏が建っていた。美濃三十三観音霊場の十三番目の霊場だ。ここを後に登るとすぐに神社が建っていた。ここはおそらく明治維新で「仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する」という仏教の信仰や施設を否定する運動の影響か。説明を読むと明治3年とある。祖神は皇祖神のアマテラスだった。
 地形図で等高線が密にになり、急登を強いられた。行者岩に到達、上に登ると、最近登った百々ヶ峰と金華山が見えた。ちょっと荒れ気味の登山道を登ると龍神コースへの分岐に着いた。降ったり止んだりしていたが標高640mまで来ると冷気が違う。一面真っ白になった。小さなコブを巻くと待望の山頂だった。千把小屋という避難小屋まである。扉がないので雪が吹き込んで床は白い。小屋の四隅の角は丁度腰掛に良いのがあって少し休めた。
 休憩中にもどんどん降って来る。眺めもなく止みそうにないので往路の下山を決めた。連続的に降雪路を下る。桧の林に下っても断続的に雪がある。滑落しないようにゆっくり慎重に下った。東屋まで下るとやっと落ち葉の道になり安定的に歩ける。車道に着いてほっと一安心。そこから余裕で石仏の番号を見ながら下ってPに戻った。
 帰りは甘南美寺に寄って参拝。池の鯉の大きさに見とれた。もう一ヶ所、「伊自良湖 FISHING & ADVENTURE PARK」に寄った。公魚(わかさぎ)の天ぷらはあるか、聞いたらフライはあるとの回答。13時だったがラーメンと公魚のフライ(二人で一つ)を注文。朝6時半から釣りボートを営業するから恋人のデートではなかった。疑問が解けた。待っている間にも車にどんどん積もって来た。雪とグルメの冬日和を楽しめた。
 もう一つおまけに帰りがけに約30分の所にある武芸川温泉に寄って入湯した。900円と高くなったにもかかわらず、そして大雪というのに大勢のお客が詰めかけて来た。これには驚いた。

年末の百々ヶ峰を歩く2025年12月13日

 濃尾平野の一角から晴れた日の早朝名古屋高速から一宮線を北上する。平地よりも高い位置を行くので目の前に広がる景色が素晴らしい。左から鈴鹿、養老、伊吹山、冠雪した能郷白山、乗鞍岳、今日は見えないが御嶽山と恵那山、猿投山と大パノラマを楽しむ。
 高い山岳以外にも金華山のような口山も見えて来る。背後には曾遊の小津三山、高賀三山、等々が迎えてくれる。一宮線は途中でR22に降りる。それでも能郷白山に近づいて行く。思わず降りて撮影した。
 R22はR156になり、金華山を右(東)から迂回して長良川に架かる鵜飼大橋を渡る。目の前(北)の山が百々ヶ峰である。今度は左(西)から回り込んで三田洞を目指す。目的地はながら川ふれあいの森 三田洞駐車場。今までは登山の対象としては考慮していなかった山だった。
 駐車場に着くとすでに80%くらいは埋まっていた。外れ迄行って止められた。身支度を整えて出発。東海自然歩道を経由して権現山を目指した。ユンボで開削したような1.5m幅の登山道は砕けていない露岩がゴツゴツして歩きにくい。露岩の正体はチャートという。展望台まで約30分でジグザグの坂道を登って暖まる。オーバーヤッケはザックに括り付け体温調整。一旦下って権現山への登り返しは急で且つ階段道なので一息入れながら登った。権現山は展望もなく平凡な山頂だった。西から南から枝道が分かれている。南へ急な道を下ると舗装路に降りた。トイレがあり、クルマが登って来た。ここからまた百々ヶ峰への尾根に取り付く。いくらも登ることなく418mの山頂に着いた。三角点に触れて登った証にする。
 多数のハイカーが休んでいた。木製の展望台もあるのでザックを下ろして登って見る。正に濃尾平野の展望台である。眼下には長良川の蛇行が光る。金華山もここからは前衛でしかない。更に南には木曽川の彼方に名駅の巨大ビル群が霞む。養老山地の彼方には鈴鹿の御在所山と鎌ヶ岳が遠望できる。充分に堪能した後、百々ヶ峰の西峰に下った。この道も幅が広く歩き易いがチャート特有のゴツゴツ感がある。西峰は四等三角点があるだけの簡素な山頂だった。少し戻って、送電鉄塔の保守路への道に入る。遊歩道ではないので極端に狭いがこれが普通である。延々下って、未舗装の車道に降り立つ。道標に従い右へ下る。枝道が多数あるが最終的には右に三田洞キャンプ場の入り口に着いた。左折して大堰堤の下流に下り駐車場へ登り返す。
 帰路は温泉に入って行きたかったが、用意が無かったので断念。調べると60歳以上は490円とリーズナブルでした。
 【営業時間】
 3月~10月  午前10:00~午後5:00
 11月~2月  午前10:00~ 午後4:00

《休館日》
 毎月1日・毎週水曜日・年末年始(12/29~1/3

美濃の里山・文殊山で忘年会2025年12月07日

 昨日は西三河の遠望峰山、今日は美濃の文殊山と連ちゃんでハイキング。今日は山岳会の年忘れ山行というので山頂の一角で恒例の肉まんあんまんを蒸してくれた。会長が13名分の食材、ガスコンロ、蒸し器などを背負子に荷造りして歩荷してくれた。
 岐阜県の風物を飛山濃水という。飛騨は山の国、美濃は川の国というわけだ。岐阜県のある山屋さんは否飛山濃山だ、と反論していた。なるほど飛騨には高峰が多く低山がないから是とする。
 岐阜県と長野県の奥深くから流れて揖斐川、長良川、木曽川の木曽三川がまるで一つの川にまとまる様に見える。これらの氾濫が濃尾平野になった。木曽三川には濃尾平野との境に口山と呼ばれる低山が数多ある。
 文殊山は口山の一つである。展望台の一角から南を眺めると揖斐川の支流の根尾川の流れと大野地域が俯瞰できる。
 美濃の由来を検索すると「「三つの野」説:大野(揖斐郡大野町)、青野(大垣市青野)、各務野(各務原市)が「三野」を形成し、これが美濃国の一帯を指したとされます。」というので眼下には大野を見おろしている。これが口山ハイキングの良さであろう。
 今日はまたとない冬日和だった。風のない穏やかな一日。口山には珍しい雑木林がふんだんに残されている。山路に堆積する新しい落ち葉を踏みながら冬紅葉をたっぷり楽しんだ。杉の植林の林床には常緑照葉樹林が生えている。伐採して放置して置くと常緑樹の山に戻って行く。これらは黄葉しない。
 並行する隣の山並みは全山杉山だ。ここは何らかの意図があって落葉広葉樹の山に育ててきたと思う。古くはエネルギー源として薪炭林に維持していただろう。そして今は都会に住む一般人が登って楽しめる山にして来たのだ。
 帰路は道の駅織部の里もとすに寄った。そう言えば山中に古田織部の生誕地の石碑があった。名産の富有柿が並んでいたが何時も買うのはお茶葉、ドクダミ茶だ。更に南のぬくい温泉で一風呂浴びた。山仲間との年忘れの一日だった。

新緑の江美国境を歩く2025年05月05日

 朝6時出発。ナビが名古屋高速3号大高線を指示するので誘導されるままに高辻ICから入った。なるほどこのルートだと都心環状線へ迂回するロスはない。瑞穂区内も朝6時台なら渋滞はない。一宮線から一宮IC経由で関ヶ原ICを出る。久々に伊吹山山麓を間近に眺めながら懐深く姉川源流の村である甲津原に向かった。スキーシーズンも終わり、雪も消えて新緑の季節になっている。甲津原アグリコテージの入り口のPに車を停めて歩き出す。
 姉川は甲津原で向山谷を分けて、更に中津又谷と瀬戸山谷に別れる。流路の長さから見て中津又谷が姉川本流であろう。
 甲津原アグリコテージへの入り口付近にP。歩き出すと最初は舗装道路だがコテージへの道を分けると奥は未舗装になる。軽ならまだ走れそうだ。1台だけ軽を見た。
 林道は645m付近で姉川(中津又谷)を直角に曲がると林道も700m地点で終点。ここから赤や黄色のテープのマーキングを見て踏み跡(古道)になる。歩き易い右岸左岸を選んで渡り返しながら行くと二又になる。杉の植林からすべて新緑の自然林になりここからテープで尾根に導かれる。最初は根曲りの枝で藪っぽいがよく踏まれた尾根道である。標高800m付近に風化した石仏が置かれていた。今日の目的の一つはこれを見る事だった。遠くに金糞岳が見えた。ここから更に奥は先ほど別れた二又の右の谷が眼下に迫り、10m位の滝が見える。踏み跡は谷に近づいて法面が無くなり、注意深く登る。炭焼釜跡を越すとしばらくで流れに降りた。石仏は滝を尾根に大高巻きさせるための目印であろうか。登山靴でも水に浸ることはなく、上流に行くとまたテープが現れて、支尾根を急登させられた。ここにも炭焼釜跡があり、右へ登ると昨年6/1に来て1年ぶりの新穂峠だった。新緑とタムシバが咲いて素晴らしい。休憩していると沢登りの2人が来た。岐阜の人で中津又谷を遡行したらしい。
 峠路の荒れ様に疲労したので本命の新穂山(アリノカミノ岳)往復は断念した。往復3時間かかる上に再びあの微妙な風化花崗岩の崩れた山道を下るリスクを考えて品又峠への周回コースを優先した。このルートもギャップは多いがブナの大木が残っており新緑とタムシバが素晴らしい。無名の三角点のピークは瀬戸山というらしい。ここから品又峠までは約1000m以上の美濃と近江の国境稜線を歩く。
 終点と思ったが大きく地形がえぐられてコルになっているのでロープで降りると奥伊吹スキー場のゲレンデの一角である。日の出山へはゲレンデを歩いて回り込んだところに歩道が登っていく。以前にスキーに来た際に雪の上を登ったことがあるが今は笹に覆われて歩きにくい。錆びた鉄骨の展望台の向こうに三角点があった。
 ゲレンデに戻り、芝生の上を雷光型に下った。後は管理用の車道を下る。スキー場のセンターハウス等の多数の建物がある。。ここからはブンゲンの登山口らしいが案内板は気が付かなかった。ハウスからは県道40号線をてくてく歩くとコテージのPに着く。16時30分でした。
 帰路は久々に伊吹薬草の里の薬草風呂に入浴した。620円(JAFカード提示で50円引き)と安い。入浴後体重計に乗ると69.4kgだった。やっと70kgを割った。高速は渋滞なので東名阪まで南進して帰宅した。

揖斐川歴史民俗資料館2025年04月20日

 正午から再び美濃へ出かけた。名二環から名古屋高速に入り、R22に降りた。R156沿いのガソリンスタンドで軽油を給油。141円/リットルと激安なので目を付けていた。そこから本巣市の図書館を目指す。探し求めるのは根尾谷の歴史の本だがなかった。
 それで揖斐川歴史民俗資料館へ移動。そこにはすぐにお目当ての資料が見つかった。先ずは発見したのは揖斐川、根尾川などにまたがった江戸時代の絵図である。
 大野郡はやっぱり根尾川と揖斐川に挟まれた、というか能郷白山に端を発する雷倉山脈が大野郡だった。
 近世の根尾谷の大部分は本巣郡のエリアだった。ウィキペディアには「山口村、神海村、佐原村、木倉村、川内村、奥村、金原村、平野村、板所村、市場村、神所村、中村、越卒村、門脇村、長嶺村、天神堂村、長島村、黒津村、越波村、上大須村、下大須村、松田村、西小鹿村、東小鹿村、東板屋村、西板屋村、口谷村、奥谷村、樽見村、内野村、木知原村、日当村」が入っている。
 絵図にない能郷村は旗本領寺社領として徳山出羽守の下にあったので別格だった。同じく大河原村は美濃大垣藩のエリアにある。
 もう一つの目的の水戸天狗党の件は水戸方面から1000人の武装集団は揖斐川町に来たという。彼らの宿泊だけでも大変な世話が必要だった。そこは棚橋天籟の活躍があってのことだった。同館に『筑波の嵐』が復刻版で頒布されていたので購入(500円)した。その中のはじめにを天籟の曽孫(ひまご)の棚橋嘉明氏が書いている。顛末が簡潔に書いてあるので転載しておきたい。
「天狗党の乱というのをご存知だろうか。時は幕末、元治元年常陸国筑波山で挙兵した水戸天狗党千人余の大砲、小銃で武装した軍勢は、京都にいた十四代将軍家茂後見役で水戸藩主六男一橋慶喜を頼って尊王攘夷を訴えるべく中山道を上京。十二月一日、戦を避けて間道を通った一行には幕府より追討命令が出され、行く手を阻まれることとなった。十二月一日揖斐宿で一泊することになった。揖斐宿では近くに大垣藩の鉄砲隊が出陣していて大騒動となったが、天狗党の軍勢と折衝し、双方の応戦次第では宿場が火の海となるところを救い、被害を最小限に止めるため奔走したのが棚橋衡平(こうへい。天籟)である。天狗党の総大将武田耕雲斎はその夜衡平の助言もあって、根尾を抜け、蠅帽子峠の難関を突破。越前の敦賀にたどりついた一行を待ち受けていたのは、頼りとする慶喜が禁裏御守衛総督として天狗党を逆賊としたことに愕然となり加賀藩に投降。逆賊として三百五十二名の斬首という残忍な結末となった。
 これが天狗党の乱といわれる事件だがその悲劇は歴史の表舞台には登場しない。しかし、この事件はやがて歴史の転換期明治維新の先駆けになったともいわれる。
以下略。
 天狗党は苦労して越前へ峠越えしたのにその先の民家は焼き払われていたという。敦賀で命運尽きた悲劇である。その後揖斐川町立図書館にも寄って『棚橋天籟翁』の小冊子を発掘した。

明知鉄道沿線の歴史①2025年03月09日

 『新撰美濃志』の恵奈郡から
阿木村
は富田の北にあり。和名類聚鈔に「恵那郡安岐」とある舊郷・・・以下略。

東野村
は飯沼の北にあり。『花無山』は鍋山の続きなり。西行法師ここに住みて
 思えただ花のなからむ木の本に何をかげにてわが身住まなむ
とよみしいひ伝えたれど、山家集この歌の詞書きに「落花のうたあまたよみにけるに」とありて、ここにてよみしといふ事見えず。また
 花無の峯にすみける鶯のおのれと鳴きて春をしらする
といふ古歌も此の山の歌なるよしいへど、共にただしきつたへなし。
花無山といふ名のふるければ付会せし物なるべし。以下略

 というわけで花無山は西行の歌に詠まれた伝説がある山らしい。機会があれば行きたい。できれば明知鉄道の飯沼駅下車で登り、東野駅へ下る。歌碑も見る。

じねんじょ列車に乗る2025年03月06日

 山岳会の友人Wさんが明知鉄道企画の「じねんじょ列車」に乗ろうという話を持ち掛けて来た。明知鉄道は一度くらいは乗ったのか一部か記憶がない。モノは試しに計画に乗った。
 3/5の例会後にWさんの車に便乗して中津川市のビジネスホテルに一泊。朝早くは午前中は余裕があるので木曽川右岸の飯地高原の秋葉山にハイキングの予定でいた。朝食バイキングを食べた後出発。登山口に着いたがナビが下山口にガイド。おかしいと正規の登山口に着いたが時間的に遅いので止めた。ところがメンバーのSさんが行くと言いだして一人すたすたと登って行った。約30分くらいなのでそのうち戻るだろうと待機。
ぶつぶつ言いながら下って来た。今日は雲が厚いので展望はなかっただろう。結局計画通り登ったのはSさんだけだった。
 その後恵那駅に行ってPに駐車。明知鉄道の恵那駅に行くと時間が迫るにつれて予約客が続々集まって来た。中には着物姿のグループもいた。一列車27名、三両編成と聞いたので60名くらいは乗ったのであろう。
 我々は先頭車両に座った。机には折箱が並んでいた。ゆっくり動き出すと麦ごはんにじねんじょを掛けてくれる。お茶のサービスもある。地元の食材の寒天なども使った料理屋の仕出し弁当プラスじねんじょであった。
 東濃の約浜井場の標高350mから飯沼駅の標高450mまでで約100mもの登る。ゆっくり50分かけて明智駅に着いた。HPには「岐阜県恵那市大井町(中央線恵那駅)を起点に、日本大正村で有名になった恵那市明智町に至る東美濃地方の高原地帯を縫って南下する全長25.1kmの路線」とある。通常運行は始発から終点まで各駅停車で約50分かかるが12:25発の急行仕立てはビュッフェ形式なので駅を4ヶ所パスして54分で運行している。
 料理は運賃含みの5000円と高め。味は美味しかったが、昨夜は夜食の牛丼で食いながら深夜まで雑談していた。朝も6時に起こされてバイキングの朝食を楽しんでしまったのであまり食欲はなかった。それでも残すわけにはいかないので完食した。
 下車後は自由時間になり、初めて大正村を歩き、歴史を楽しんだ。明治村のような囲い込んだ博物館と違って、一般人が生活する場も含めて歴史を振り返る拠点を設けてある。私の実家を髣髴させる古い家屋もあった。春寒し大正は遠くなりにけり、である。
 大正ロマン館では懐かしい名前を二つ見た。一つは大正村創設の提案者の写真家・澤田正春と尾上 隆治((おのえ たかはる、1914年11月14日 - 2005年1月5日)は、株式会社尾上機械の3代目経営者。また様々なコレクターとしても有名である。)元日本山岳会会長の尾上昇の父である。
 駅前の土産物店で熱いコーヒーを飲んでまた列車で恵那駅へ。PからはR19、県道33、R363と走って瀬戸市経由で帰名。

苗木城址から浅間山を周遊2025年01月25日

 東濃の未踏の里山を探して見た。既登の山の前衛とか、隠れたところに意外な山がある。今回は高峰山(945m)の南西に位置する浅間山(551m)が良さげと思った。等高線が山頂に向かって絞り込まれて尖峰に見える。記録は古くからありヤマップでも城山(苗木城址)とセットで歩かれている。直線距離も約2kmだから周回もできる。
 中央道を恵那山に向かって走る。うっすら雪化粧している。全山黒木で覆われるから真っ白にはならない。むしろ左の方に真っ白な山々が見えている。
 中津川ICを出て、10時過ぎに市街地を走るが遅いついでにコンビニではなく、スーパーで食料と飲み物を買いだした。R257で木曽川に架かる城山大橋を渡るとすぐ右折して苗木城址である。一度は来ているが記憶はない。
 東濃は尾張藩の所領だがここは苗木藩が治めていた。
「苗木藩 財源」の検索でAIは「苗木藩の財源には、藩札や御用金、領地からの収入などがありました。」との回答。藩札は今では県債、公債である。他に山林からの収益があった。小藩といえども城を経営することができたのだろう。決して楽な経営ではなかっただろう。
 恵那山を仰ぐPに停めて天守閣に向かって歩き出した。天守閣に立つと好展望が広がった。恵那山、木曽山脈、周囲には笠置山、二ッ森山などが取り囲む。木曽川、付知川とその支流が無数に流れている。中津川市苗木に生まれた俳人の吉田冬葉は
   岳雪のあざやかなるに麦を踏む 冬葉第一句集 吉田冬葉
と詠んでいる。岳雪とは恵那山の雪であろう。
 城から大手門跡へ四十八曲がりの急坂を下山。地道に出て山の田川にかかる上地橋に行くと右岸沿いに飛騨街道(南北街道)への道標があった。上には旧北恵那鉄道の鉄橋が錆びて冬空に晒されたままだ。
 12時30分、飛騨街道に進んだ。両側ともきれいに刈られて歩き易い。やや登り気味にお化け岩なるところを過ぎると車道に出て案内板は終わった。・374の民家を見て、右折。実線の道を歩いて新谷の里へ行く。やや広い道へ左折、また実線の私道のような道から民家の横を通過して二車線の市道苗木205号線へ出た。浅間山の破線路の登山口へたどるために新谷の田園地帯と・342の民家の私道も通らせてもらって車道に出た。ここから右折、工場のような建物から左折、やっとクランク状の登山口に着いた。
 地形図に破線路は示されているがきちんと整備はされていないいわゆる廃道状態であった。踏み跡へおもむくまま登って行った。先へ踏み跡が続いていたが岩尾根を攀じ登って行ったら「せんげの森」の四阿に付いてGPSを見ると破線路から外れていた。しかし良くしたもので本来の旧遊歩道への連絡路が残っていた。ここからは藪が覆う廃道をRFしながら登った。
 大手門跡を12時30分に出発して約2時間の14時36分に登頂できた。小休止後は北へ踏み跡を追う。雑木林の疎林の中で見失いそうになるとGPSで位置確認。先蹤者の付けた白っぽくなった荷造りひものマーキングが見つかる。510mのコブまで来ると良い道の跡が出て来た。
たどると15時17分、舗装路へ飛び出した。苗木城址のPまで約1時間のウォーキングが待っていた。浅間山だけなら山頂をかすめるだけだが城山と合わせて5時間とはかからない結構ハードなハイキングになった。