古城山捜索行②2020年11月14日

 11/3の山行後に地元の集団での捜索に参加、青波の林道から比較的手前の尾根を捜索した。11/8は自主的な捜索行でやはり青波から破線路の登山道を歩いて山頂直下の登山道に着いた。その後は曲輪群のある北西の尾根を下降して捜索した。ごみはいくつか発見して、実弟に不明の兄のものか問うも違うだろうと否定。
 本日も自主的に捜索してきました。今度ははじかみ林道の登山口から登り、メインルートに到達後は南西に歩き、伝「馬場」を経て、堀切に下る。ここからは確かに松の木が多い。期待半ばで踏み跡程度の道を320mのコブを越える。しかし松の木は手前の鞍部までだった。ここルートは赤テープや道標の残骸まであったから古い登山道だったのだろう。杉坂峠はどこかは知らないが、地形的には292mの鞍部だろう。
 320mのコブからは桧の植林が優勢になる。それで青波最奥の谷へ下った。踏み跡はないので照葉樹林の灌木の藪を避けながら下る。最初は水がないが出てくると少し段差や岩場も出てきて悪くなるので右に巻いた。すると等高線が緩んで平地に見えるのは廃田だろう。登山道はないので獣道みたいな跡をたどって林道の分岐に着いた。
 林道を歩いて標高170辺りから11/8に下降した尾根の踏み跡を探して登り返す。ここから370mのメインルートまで比高200mを登った。実際には少し手前で曲輪群の中を歩いた。下の方まで段々畑のように曲輪が見えた。メインルートにもっとも近づいたところで上がる。はじかみ林道への分岐はすぐだった。
 今日も何も得られなかった。獲物を追う猟師山を見ず、というように茸採り、山菜採りも自分が戻ることを想定せずに歩き回るから道迷いは必然ともいえる。それによく出る場所は親子でも言わないからどこへ行ったやらと思うばかりである。

古城山捜索行2020年11月08日

 出発は遅くなり朝9時。古城山の北麓の青波には10時50分。11/3には捜索本部のテントがあったゲートボール場に駐車して11時丁度に歩き出す。目的は87歳のきのこ採りの老人の捜索である。とはいえ、10/25に入山、その日に下山せず、息子さんが自力で10/31まで捜索したが、11/1に県警に捜索願を出して大掛かりな捜索が行われた。
 11/2は雨で警察だけで捜索したらしい。11/3に私が古城山を下山後に青波に回り、ボランティアで参加、警察10人地元民40人で行われたが手がかりなし。そこで公的な捜索は打ち切りになった。
 人生は自助、共助、公助の順だが、山岳遭難は逆で、まず警察に捜索願いを出すことに始まる。そのためにはルートなどを書いた入山届、登山届けが必須だが、山菜採り、きのこ採りには喧しく指導されない。この人もまつたけのよく獲れる自分の知っている場所へ行ったのだろう。勝手知ったる裏山だから本人以外に居場所は分からない。
 赤の他人だからほうっておいても良い。しかし、捜索後の解散のあいさつできのこ採りの長男氏(61歳)の涙ながらの話は身につまされる。ご遺体が発見されないと死亡届も出せず、相続も始まらない。長いこと山歩きをしてきた身には何とか本人の捨てたゴミでも落ちてやしないかと来てみた次第である。
 まずは地形図にある破線路を歩いてみた。分岐までは17分、ここで熊鈴が良く鳴るように位置を変えた。先回来たところからさらに奥まで車道の廃道が伸びていた。終点からも踏み跡程度の道が続く。廃田も残る。こちらの方が歴史的には古いのだ。
 登山道の稜線が見える。風が騒ぎ、木立が揺れると、はて、熊か、野猿かとどきっとする。単独は心細い。源流部には廃墟があったが曲輪(郭)だ。正しく古城である。稜線には12時ジャスト。標高360m。ゲートボール場(100m)から比高260mだから大したことはない。
 目的は伝「馬場」から西の日当たりの良い稜線か尾根を探る予定だったが、370mのコブからの北西尾根も気になる。北の直下にはきれいな道が見えるので注意して見ていると踏み跡が下っていく。よしここだと降りてみたら連続した曲輪の平地がここまで延びていた。どんどん下ると、がさごそと音が摺るので見上げると人だった。やれやれ。この人も捜索だった。Kさんという。
 付かず離れずで交互に捜索を続けた。この尾根は松が大変多い。日当たりも良いのでまつたけが出そうだ。そして飴を包んだゴミを発見。末端までに3枚撮影。加えてバナナの皮を入れた紙袋もあった。これがきのこ採りの老人のものなら一帯を集中捜索することになる。
 結局末端まで一緒に下ったがゴミ以外はなかった。Kさんは南へ林道を行き、馬場へ戻ってはじかみ林道の駐車場へ行くというので別れた。青波に戻って、老人の自宅を尋ねてみた。丁度実の弟さんが畑仕事の最中で話を聞いてみた。
1 行方不明の兄は独居ということ。妻は施設に入居。つまり兄の自宅は今は留守。
2 11/3のあいさつされた長男は名古屋市に住んでいること。
3 入山経路は青波ではなく、はじかみ林道の登山道からということ。
4 弟さん自身もまつたけのよく出る場所は分かっているので後日行くという。
5 北西尾根のゴミは兄のものじゃないということ。
6 近年は山に入る人が居ないのでよく知った人も居ないという。
 その他立ち話であるが、長々と世間話をして別れた。87歳の老人が長男と同居ではないことがちょっとショックだった。4月以降の外出禁止、面談禁止などで6月頃の兄はおかしかったとも言われた。他人と一切話をしないとそりゃおかしくなる。
 私が4月以降道迷い事故(山菜、きのこ採りを含む)の報道を集めてきたが、高齢者が多かったことは確かである。中には山の精通者もいるから精神的に参っていたのだろう。
 古城山の捜索は今は縁のある人らの自助と何も関係はないが心ある人の共助だけになった。もう一回だけ、山やとして気になる場所を探ってみたい。それまでに発見されることを願う。

老いの身で行方の知れぬ茸採り 拙作2020年11月04日

 昨日11/3は10/25に勝手知ったる山の松茸採りに行ったまま帰らざる人の捜索に協力した。山城の廃墟、奥山田も廃田となり杉が植えられた。小さな山なのですぐに発見されるだろうとの楽観は打ち消された。
 この山に精通しているはずなのだが山は広く深く、人の知らない部分はあるということだ。家族を残して忽然と消えた老人の足跡は分かっているのにつかめなかった。昔から獲物を追う猟師山を見ず、という。知っているようで知らないのが精通者というものである。
 父不見山という山名がある。由来は
http://www7a.biglobe.ne.jp/~n-baba/s-tetemiezuyama.html
にある。
「それにしても不思議な山名である。父不見と書いて「ててみず」「ててみえじ(ず)」「ててめーじ」等呼ぶ。この山にはいくつかの伝説がある。何れも、「父が見えない」と云う山名に由来する物語である。
 
  (1)昔、中平の寺僧が子供を捨てて逃げ、後を追った子供がこの山
    で父を見失った。(埼玉大百科事典    埼玉新聞社)
  (2)神流川を挟んで北側の桐ノ城にすむ武将の妻子が、戦いに出か
    けた父をいつ帰るのかと眺めていた方向にあった山である。 
              (群馬県百科事典 上毛新聞社)
  (3)平将門が戦死し、その子がまだ見ぬ父を慕って嘆いたと云う伝
    説による。(角川日本地名大辞典)」
 昔から猟師、茸採り、鉱山師など山に入った人は多かったから下山できない人も多かったであろう。マタギ、木地師、木こりなどは短期間でも場所を定めるから余程のことがないと帰れないことはなさそうだ。

美濃でフルセット・古城山周回・捜索協力・温泉・関市で鰻を食う2020年11月03日

 朝7時20分出発。名二環・植田から一宮へ、美濃JCTから関・広見まで高速。R418から登山口まで国道、地道で順調に着く。スマホのナビを使っても分かりにくい。明智光秀のドラマの影響で脚光を浴びたにしては案内が今一である。
 9時20分新設されたPを出発。山城研究のグループがたむろ、受付したり、今日は大勢が登るらしい。正規の登山道を行くとすぐ1人になった。登山道はよく整備されて歩きやすい。
 植生は植林である。その中に暖地性のシダ類が繁茂している。照葉樹林の艶々した緑の葉が美しい。落葉樹はなく、紅葉、黄葉は見られず。登ると30分で小休止。2ヶ月ぶりだから心肺も足も相当弱っている。
 尾根に出ると風があり涼しい。今日は木綿のシャツだが少し汗をかいたからひんやりする。高い山だと寒く感じるだろう。上から登山者の声が聞こえてくる。山頂は近いのだろう。登山口で110m、山頂で407mだから正味300mしかないから60分程度である。
 傾斜が立ってきたらまた尾根に出て二股に分かれた。馬場の地名があり、馬を馴らしたというが、馬場が山に多い。猿ヶ馬場山、川上岳の点名は兎番場(馬場)、山中山の旧称はオサンババと呼んでいたが、兎番場らしい。つまり山頂が馬の背のように丸く広いイメージである。こんな急峻な山で馬を馴らすなんて歴史の捏造です。
 そうこうするうちに頂上に着いた。最後はフィックスロープの助けで急な岩場の道をよじ登ると山頂直下のミニ広場に着いた。その先にミニのお城が建っている。またこんなものを。やりすぎである。
 城を経て登頂。三角点はあるが展望は限られる。少し休んで下山。はじかみ林道経由で下った。ここもずっと急でフィックスロープが張ってある。8/22も転落事故があり、カメラマンが落ちて背骨を骨折した事故があった。
 林道の登山口には多数の車が駐車。ここから30分なので登山をしない人はここから歩くのだろう。係りの人が何やらパンフを売っていた。その人に11/2報道された87歳の老人の行方不明事件を聞くとまだ見つからず今日も捜索中という。
 マイカーのPまでは徒歩で下ってもまだ12時前。途中で行方不明の現場へ行ってみる。パン1つをかじって昼食。現地では捜索隊を編成し、本格的なテントを張って本部を置いて範囲を検討中だった。私もボランティアを申し出て地元の人らと歩き出す。12時半。
 地形図で破線路のある一帯を調べていた。昔はここから登られたらしい。今は杉の植林だが、古い田んぼの跡がある。居宅もあったらしい。87歳の老人はこの山一帯で採れるまったけの権利を買ったとかいう。いわば精通者であった。それがどうしたものか。
 まったけは松の生える尾根に出るので適当に尾根を登った。確かに少ないが松が続く。しかし87歳の老人の足にはきつい気がする。それじゃどこへいったやら。別方向から捜索してきた人らと合流して藪の少ない斜面を下って元へ戻った。2時半になっていた。2時間の捜索であった。3時ちょうど本部まで戻り解散。息子さんらしい人が涙ながらに捜索へのお礼を述べられた。
 10/25に入山したが、行方不明となった。10/26から11/1に届けるまでは自力で捜したようだ。11/1に捜索願が出て警察が動き、今日で3日目で公的な捜索は終了した。後は親族とボランティアで捜すことになる。時間の経過でもう存命の望みはないが、ご遺体がないと相続もできない。
 解散後は、武芸川温泉に入浴。祝日は800円だった。その後まだ時間があるので関市のうなぎ屋に寄った。5時過ぎから営業するが、店は1卓を除いて満席だった。人気の店みたい。上丼を注文したが御飯が多かったから鰻が少なく感じた。久々に食ったから旨い。
 今日はフルセットで遊んでしまった。まあ偶には良い。

緊急事態宣言解除後の登山の心得2020年05月17日

 ニューズウィークWEB版はロイターの記事「安倍晋三首相は<5月>14日夕に会見し、東京など8都道府県を除く全国39県で緊急事態宣言を解除すると正式発表した。8都道府県についても21日にも専門家の見解を踏まえ、可能であれば緊急事態宣言の期限である31日を待たずに解除する意向を示した。

解除に当たっては1週間当たりの新規感染者が10万人あたり0.5人以下に低下したなど医療体制、検査体制を目安に判断したと説明。39県は今後、感染者の小集団(クラスター)対策で感染拡大を防止できるとの判断を示した。

もっとも、解除された地域でも、外出自粛は要請しないが「人との接触は減らして欲しい。県をまたいだ移動も控えて欲しい」と訴えた。」と報じた。

 39県には愛知県、岐阜県、三重県が入っているので、5月18日から徐々に経済活動が正常化を目指してゆく。それでも他県への移動はまだ控えて、という要望である。

 そこで足元の愛知県の山で過密ではない山を経験でピックアップしてみようと思ったが、逆に人気のある山をアップすることでそれ以外は過密な登山者の居ない山歩きができるだろうと思う。

*都会近郊の山は人気が高いので回避しよう。
尾張地区

瀬戸市/豊田市       猿投山

春日井市/多治見市    道樹山

*三河地区の山は車でほとんど登れてしまう。

岡崎市/豊川市       本宮山

新城市             鳳来寺山

根羽村/豊根村        茶臼山と萩太郎山

*人気があり、且つ遭難も多い山である。
設楽町             岩古谷山

豊田市             六所山と焙烙山

蒲郡市             五井山

*心得と作法
1 下山後は汗をかけば、帰り道の温泉場へ行きたくなるがしばらくは控える。コンビニ、公衆トイレに寄ったならば、帰宅後は手を洗うこととウガイすることである。衣服類も全部洗濯し、ザックはベランダに干す。

2 医師、登山の指導者など識者の指導では登山中でもマスク着用を呼びかけるが非現実的である。別の障害が出るおそれがある。少人数で歩き、距離を置く。

3 目的の山は上記の人気の山は回避してガイドブックで不人気の山を探してみよう。ガイドブック以外に地形図を用意し、登る前に自宅でルートをチエックして置くことである。

4 道迷いを防止するには、地形図と実際の眼に見える地形とを常時チエックしておくことである。リーダー任せにしないでメンバーが各自責任を持つことである。
例えば何をチエックするかと言えば
a 地形図に描かれた崖、山の中の池、大きな岩、峠、小屋、鉄塔、電波塔、送電線等

・・・ここが地図に表現された崖崩れですよね。と他の人に声掛けすると関心を共有できる。

b 地形図に描かれた谷、沢の渡渉地点、尾根から沢、又はその逆に登山道が切り替わる地点

・・・暗くなると、登山道から沢を道と勘違いして上り下りしてしまうことがある。渡渉地では水場であることも多いので休むと同時に地図を確認する。

c 登山道の途中にある突起、コブ、三角点、凹地、

d 遠望した際、見えないはずの山や川が見える場合

・・・あら、あの山は何なの。見えたかしら。とつぶやくのも良い。

e 見えて当然の山や川が見えない場合

・・・もうそろそろあの山が見えるはずなのにまだ見えないね。とつぶやく。

f どれだけ歩いても目的地に着かない場合

g ずっと尾根道をたどってきたのに突然崖になり登山道が消失した場合はかなり手前で山腹に回り込むことが多い。その場合でも強引に尾根を辿ると戻れないことがある。

・・・分岐のポイントには赤布、ケルン、マーキングなどがある。

h これまで順調に歩いて来たのにどこからか、木の枝が顔に当たるようになったり、足元の踏み跡もしっかりしているのに、深い草や笹やぶがかぶって歩きにくくなった場合。

・・・獣道に迷い込んだ可能性を疑う。

i 登るときは遊歩道みたいに広かったのに、どこからか砂利道で歩きにくくなった場合

・・・メインの登山道から枝道に入ってしまった可能性がある。

※先ずは道に迷わないこと。道に迷った結果、石や木の根っこに躓いて転落する。焦ると時間が経過するのが早く感じて急ぎ足になり滑落しやすくなる。

※迷ったら、いったん休憩すること。そして頭脳の栄養分の糖分を補給する。飴、ブドウ糖、お茶、ジュース、はちみつ。

※携帯電話が通じれば親などに連絡する。110番通報でも良い。

※最悪はビバークする。持って居るものを全部着込む。上からはカッパを着る。足が寒ければザックを空にして足を突っ込む。買い物袋を靴下の上からかぶせてもいい。

※動き回らないこと。救助を待つこと。

※道に迷ったらメンバーは離れ離れにならないこと。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の舞台の山を歩く2019年12月17日

 NHK大河ドラマの「麒麟がくる」は主演女優の沢尻エリカのスキャンダルで一気に注目を浴びてしまいました。TVドラマは見ないのですが戦国時代の伏兵とも言える明智光秀には少なからず関心はあります。
 今年3月には滋賀県の明智家の菩提寺・西教寺の墓と日吉神社、坂本へバスツアーに行って来たばかりです。そこでも「麒麟がくる」の幟がはためきムードを盛り上げていました。

① さて、明智さんの出生地の岐阜県では?と調べるとあちこちでNHK大河ドラマに乗っていました。明智光秀ゆかりの地としてピックアップすると。
 HP「まいまいあけち」から
明智光秀

本能寺の変で有名な戦国武将、明智光秀(1528年〜1582年)。
諸説ありますが、ここ明智町も光秀公生誕の地と言い伝えがあります。
町の南側に位置する小高い丘、千畳敷には光秀公産湯の井戸と伝わるものが現在も残っています。
また、明知遠山家の菩提寺の龍護寺には、光秀公のお墓とされる供養塔があります。光秀公に関する碑はその悲痛な想いからことごとく割れるといった通説の通り、供養塔とされる碑にも斜めに大きくひび割れが入っています。
他にも、光秀公が幼少期に学問を学んだと伝わる天神神社、光秀公が柿本人麻呂を祀り建立したとされる人麻呂神社と光秀公手植えの楓、光秀公の母お牧の方のお墓があります。

1明知城址(白鷹城址)

市街地の東側、山の頂きに位置する明知城址(別名、白鷹城址)は、明知遠山氏代々の居城の城址です。
明知城は、標高530mの山に築かれた地形を巧みに利用した山城で、今もなお大小23箇所の土盛砦が原型のまま残っており、県の指定文化財となっています。
宝治元年(1247年・鎌倉時代)、遠山景重により築城されました(遠山景重は、源頼朝の重臣加藤景廉の孫にあたる)。
交通の要所であった為、戦国時代には何度か攻め入られ落城しましたが、関ヶ原の合戦(1600年)の際に遠山家が奪還しました。
その後、元和元年(1615年)一国一城令により廃城となり、行政は城下大手門近くの明知陣屋にて明治の大政奉還まで代官が行いました。
現在は、市民ボランティアが中心となり、草刈り作業など散策道の整備を行っています。
市街地から徒歩でも行けますが、オススメは県道33号線脇の明知城址駐車場(明智学校給食センター向かい)からの散策です。ここからですと山道を100mほど登ると本丸跡に着きます。
 
・四等三角点494.6mの点名は千畳敷公園です。

・これだけでは物足りない場合は2等三角点732.1mの大泉村があります。明智町杉野には4等三角点の大平720.1mがあります。

②明智光秀の出生地を標榜するのは明智町ばかりではなかった。何と可児市にもあった。
 HP「可児市の乱」には
 土岐明智氏の出自の地であり、明智光秀を生んだ地との伝承を持つ。『美濃国諸旧記』には、康永元年(1342)、「長山」に土岐頼兼が城を築き、弘治2年(1556)に明智光秀の叔父光安・光久が城主であった時、稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受けて落城したとする。

 と紹介されている。

 名鉄広見線には明智駅もあり本気度は高そうです。 岐阜県可児市瀬田1238−3の住所をチエックすると、175.2mの3等三角点羽崎があった。しかも住宅団地に隣接するので興趣はなさそう。最寄の山は御嵩町の290mの八王子山がある。

③またまた意外なゆかりの地は瑞浪市も名乗りをあげています。

 明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族が、土岐郡に土着した際に最初に居館(一日市場館:ひといちばやかた)を構えた場所と伝わる。本殿の裏には土塁と思しい遺構が確認でき、周辺では鎌倉時代を中心とする陶磁器片なども多数採集されている。
 一日市場の地名は周辺で定期市が開かれていたことに因むと考えられ、付近には大門・古屋敷・馬屋ヶ崎など、居館の存在をうかがわせる地名も残されている。
 なお、八幡神社は土岐一族の創建・勧請と伝わるが詳細は不明。現在の本殿は江戸時代の安政7年(1860)に建築されたものであるが、立川流の見事な彫刻が彫られている。
 古くは高野と呼ばれた地で、美濃源氏・土岐一族発祥の地とされ、八幡神社境内には土岐氏の一族である「明智光秀の像」がある。

 どの説明にも「明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族の流れをくむ」の枕が冠せられている。直接関係はなさそうだ。

 念のため、一日市場館をチエックすると4等三角点174.0mがあり、点名もずばり、一日市場でした。行って見て無駄ではないです。他には食指をそそる山はない。

④最後は山県市の桔梗塚です。ここは2度ならぬ3度はお邪魔しました。山県市のHPはこんな紹介です。

 2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公明智光秀の前半生は謎に包まれており、岐阜県内各地にゆかりの地とされるところが数多くあります。山県市もそのひとつで、明智光秀は清和源氏土岐氏の流れをくむ美濃国守護土岐氏の支流の武将でもあり、その縁から光秀の母が身ごもった際に祈ったという「行徳岩」、明智光秀の墓と伝承される「桔梗塚」があります。

 また市内にはほかにも、美濃国守護土岐氏の最後の居館「大桑城(おおがじょう)跡」が現存する古城山(山県市大桑)や土岐氏ゆかりの史跡が多く現存しています。ぜひ、歴史を感じるまちをめぐってみてはどうでしょうか。

うぶ湯の井戸跡と行徳岩(ぎょうとくいわ)
 明智光秀の生誕地として伝承される山県市中洞地区にある白山神社には、光秀の母がうぶ湯を汲んだとされる井戸があります。また、神社近くの武儀川には、光秀の母が懐妊したとき、「生まれる子が男の子なら、3日でよいから天下を取るような立派な男の子を授けてください」と祈ったと伝えられる「行徳岩」があります。

桔梗塚
 白山神社に隣接する林の中にある桔梗塚は明智光秀の墓とされています。光秀は、本能寺の変の後に身代わりとなった影武者「荒」木山城守行信に恩の「深」さを感じ荒深小五郎と姓名を改めたとされています。その後、関ケ原合戦で徳川家康に従軍しようと藪川(現・根尾川)を馬で越えようとしたときに洪水に巻き込まれ溺死しました。従者たちは光秀の遺品を持ち帰り、墓を建てたと伝えられており、現在も地域住民により毎年供養祭を行っています。
 なお、明智家の家紋は「桔梗紋」で、土岐氏の家紋「水色桔梗紋」から用いたのではないかとされており、この桔梗紋にちなんで「桔梗塚」と呼ばれるようになりました。また、山県市合併当初、市民により選ばれた市の花も「キキョウ」であり歴史が脈々と受け継がれていることを感じられます。

 小和田哲男氏が来市されたと

 11月14日、小和田哲男静岡大学名誉教授が来市され、美濃国守護土岐氏の最後の居館「大桑城(おおがじょう)」跡が現存する古城山(山県市大桑)と土岐氏支流の武将の一人である明智光秀の伝承地などを訪れました。実際に古城山を登山し、尾根と尾根の斜面を平らにならして造られた曲輪(くるわ)や主郭部や竪堀などの遺構、当時の様子を感じられる大桑地区を山頂から眺望いただきました。

 小和田名誉教授は、大河ドラマなどの数多くの時代考証や歴史番組での解説を担当。戦国武将などの史実に照らし合わせ、現代の世を生き抜くヒントを分かりやすい言葉で伝えるなど、戦国時代史の第一人者のひとりです。

 岐阜市と山県市の文化財担当者から説明を受けた小和田名誉教授からは、「戦国時代に権力を持っていた土岐氏の拠点である大桑城跡をようやく見ることができた。当時のまま、壊れることなく遺っているところも見られて貴重な体験ができました。」と述べられました。
以上

 4箇所ある中では4番目の古城山407.4mが一番登り甲斐もあるようです。既登ですが改めて登りたい気になります。

恵那山の山名をめぐる話・・・三遠地方民俗と歴史研究会2019年01月28日

 東海地方のどこからでも悠然とした山容を見せる恵那山。別名は舟覆山とも称されて、漁師からは忌み嫌われたらしい。それがいまでは名山として押しも押されぬ地歩を得た。
 恵那山の由来を調べようと、多くのガイドブックや山の本を渉猟してはみたが、アマテラスの胞を山頂に埋めたという伝説から一歩も踏み込まれることはなかった。江戸時代の地誌『新撰美濃誌』にも伝説の引用はある。しかしそれまでである。伝説は口承であるから人々の脳裏に刻まれた物語である。文献は残されず記憶に頼るからだ。
 深田久弥『日本百名山』も伝説の紹介だけであり、立松和平『百霊峰巡礼』には山名すらない。ほとんどは回避しているかに思える。
 それで暗礁に乗り上げていた時、ふと名古屋市中区生涯センターに置かれた愛知県埋蔵文化センターのチラシが目に留まった。そこには埋甕の展示が案内されていた。実は『埋甕』という本を読んで、明治時代半ばまでは胞は普通に埋設されていた。さらに調べると、徳川家康の胞が岡崎城に埋設されていると知った。松平家康として生れたのだから偉人になってからの記念碑的扱いである。
 こうして考えを巡らすと山頂に胞を埋めること自体は特殊なことではないと思われた。眺めの良い山には伊勢神宮の遙拝所がある。それでなくても、神話上の人物が祀られている。
 例えば奥三河の大鈴山は伊勢神宮の遙拝所だった。伊勢神峠はもともとは伊勢拝みの謂いだという。猿投山にはヤマトタケルの兄の墓所がある。鎌ヶ岳にもアマテラスが祀られている。
 特に信仰の山ではないのにだ。山自体が御神体ではなく、頂上からはるかに伊勢神宮を遙拝できることが重要なのだ。
 これまでの調べでは、地名としての恵那は惠奈として平安時代の和名抄という書籍に記録されている。
 思えば日本民族には言葉はあっても文字のない時代が長かった。そんな時代でも確実に子供は生れたから「エナ」という言葉はあったであろう。唐の時代に漢字を輸入して、一字一音で日本語に当てはめた。それが万葉仮名であった。エナは惠奈と書かれ、恵那になり、やがて漢字の胞が当てられた。岐阜県の胞山県立自然公園と称するように県は胞を使う。恵那は言わば雅字であろう。
 山麓の阿木にアマテラスの胞を洗った血洗池があり、中津川を隔てた湯舟沢はアマテラスが産湯を使ったという伝説。それで恵那山と呼ばれたというのである。この伝説は何ゆえに生れたのだろうか。
 阿木の奥には木地師の活躍があった、今もロクロ天井には木地師の墓がある。1471mの点名は阿木という。焼山は木地師が焼き畑農業で山を焼いて蕎麦、稗、粟などを栽培した名残りではないか。全山が花崗岩の山なので噴火はあり得ない。
 実際には今の恵那山に命名される前に、血洗池の源流の山に埋まる三角点888.3mの点名「血洗」の一帯を恵那山と呼んでいたのではあるまいか。恵那の地名はそこから起こったと考えると自然である。
 伊勢神宮の遷宮は7世紀に始まる。皇学館大学が編纂した御杣山の記録集でも詳細に記録されるのは江戸時代に入ってからのことだった。多分、記録の手段としての和紙の供給が不足していたであろう。江戸時代になると庶民でも出版できるほどに流通した。1340年には奥三河が1回だけ御杣山になったが、設楽山とするだけでどこの山とは特定されない。私は段戸山周辺と思うが・・・。三河の山と伊勢神宮が遷宮の用材切り出しでつながっているとは面白い。
 御杣山の記録集(全文漢字)には恵那山の北の湯舟沢山1620m、井出ノ小路山1840mの名前は出てくる。あの辺には伊勢山もあり伊勢神宮との密着度が高い。しかし、恵那山は出てこないから、中津川周辺から源流は神域であったと思う。用材切り出しは湯舟沢周辺の記録はある。阿木はない。阿木は人里に近く、木地師もいたから落葉樹林でおおわれていたと見る。
 信仰としての恵那山は後世に入ってからのことと思われる。中津川を中心に川上にある恵那神社の建立が象徴する。縁起は不明となっている。前宮登山道は役の行者様の石仏もあった。前宮から奥は今でも針葉樹林の森である。
 恵那山はどこから登っても遠い山である。庶民が親しく登る山ではなく、崇められたであろう。汚されたくないためと盗伐を防止することも重要であっただろう。アマテラスの胞を埋設した伝説を持ってきて、神聖な雰囲気を演出して、安易な入山を阻止したと考えても無理はない。尾張藩が管轄していた木曽の山では、木1本首1つ、と戒めた。それだけ盗伐が多かったのだろう。
 奥三河の段戸山周辺でも、徳川幕府成立から約60年後の寛文年間に天領になった。豊川市赤坂に番所が作られて幕府の管理下に置かれて、山の民はそれまで自由に出入りしてた山に入れなくなった。おそらく、木曽でも三河でもトラブルが相次いだ。木地師は主に落葉樹なので棲み分けはできただろう。桧となると建築用材として需要は数多あり、江戸時代の経済発展とともに盗伐は増加傾向だったと思われる。
 木曽の森林は尾張藩が管轄した。徳川幕府は天皇に権威を求めた。庶民への啓蒙としてアマテラスの胞の埋設の伝説を以って、神々の森への不可侵を広めた。こんなところだろうか。

新年は浅間山と高社山へ登山2019年01月03日

 平成31年1月2日には高社山へ登ろうと、呼びかけたら2人が手を挙げてくれた。高社山と浅間山はともに多治見市の山である。交通の経路上、瀬戸市のKさん宅に寄り、刈谷市のYさんには愛環鉄道の瀬戸口駅に来てもらった。予定通りメンバーが揃った。
 高社山を選定するに当たっては山頂のすべてが多治見市内にある山としては最高峰であることと、山麓の町名が西山町というのも嬉しい。自分の持ち山ではないが悪い気はしない。また浅間山は可児市の最高峰、美濃富士であることだった。
 まづは浅間山を目指した。R248からR19へ、そして県道381号を走ると道なりに小名田町小滝に着く。ここで不動の滝の案内標柱があるので右折。少し奥へと行くと雑木林の中にフランス料理などのレストランがある。もちろん今日は休業中。
 ここでP。滝への道標すらない。しかし目標は不動明王の滝だから、建物群を左右に見ながら、行き詰まりで沢の流れに沿うことになる。8分も細い流れをさかのぼると滝があった。滝見台もあるが使われていない様子だ。
 山道は少し戻ると右岸側に巻く道が付いていた。余り踏まれていないが、ヤブではない。踏み跡を追いながら行くと一旦は沢に下りて、又離れる。左からの道に合した。これが地形図の破線路と思われる。少し行くと尾根に取り付く地点にテープのマーキングがあった。ここからは明るいが急な尾根道になった。日溜まりに寒さも和らぎ、汗をかかないように1枚脱いで調整した。
 何と言っても里山である。比高80mで稜線に出た。右は378mの2等三角点だが今日はカット。左折する。ちょっと歩くと岩山があり眺めが良い。山道から林道に出た。ほぼ稜線に平行する林道を歩く。ここで数人の家族連れに出会う。
 林道から左の山道に入ると木のベンチもあるがすぐに林道に下ってしまう。林道から分かれて行くと浅間山372mのミニプレートのある山頂だった。岩頭がありテーブルもあるのでランチにはいい。日溜まりの山頂からは眼下の桜ヶ丘の団地や遠くの春日井三山の山なみが見えた。
 子授け、子育ての信仰を集める浅間神社に参拝し往復した。正月と言うのに宮司の1人もいないが、何となく清められた雰囲気はある。淑気というものだろう。
 それから林道へショートカットする細道を下った。林道を歩くとかえって眺めがよくなり伊吹山も見えた。冬型なので奥美濃までは見えない。一の注連を見た。
 林道のゲート代わりの鳥居が建っている。ここが参道のクルマの終点で登山口らしい。軽四の四駆なら走れるだろう。
 下ってゆくと太陽光電のパネルがあった。左の沢を下って住宅団地へショートカットを試みたが電気柵で遮られていた。ささやかな冒険は失敗。参道を下ると住宅団地に出た。そのまま下るとマイカーに戻れないので左折。
 小滝団地内の山際を歩いた。すると新しい給水塔に着いた。団地の道路はつながっていないが、陶生苑から延長された車道が来ていた。目の前のコブの向こう側に不動滝があるので、ショートカットする山道がないか見たが見いだせなかった。更に陶生苑の近くから車道が下っていたので下って見たが堰堤で終わった。これも失敗。諦めて県道に出て迂回しPに戻った。
 まだ12時半、次の高社山へ向かう。根本町へ走った。ここも地道が錯綜して分かりにくい。とにかく山際に向って近づいた。割に良い道があるので流して見ると高社山登山口のミニ道標があった。ここか。
 道路から空き地に駐車。参道を登る。結構な急傾斜だ。2登目なので疲れもあるせいで後続も遅れがちになる。右は高社神社、左は山頂へとの分岐で左へ振る。良い道を歩いてゆくと空身の男性が下りてきた。何も言わずにすれ違う。
 俳人の山口誓子は御在所岳での所見をこう詠んだ。

   唯一人冬山を下りて来る人に会ふ 誓子
   
 ほとんど情緒の感じられない句である。即物的といわれる誓子の世界がある。冬は誰しも?寡黙になる。
 しばらくで右から来る道に合う。更に急登するとFMたじみの電波塔だ。すぐに反射板の建つ開放的な台地になる。山頂へはまだある。一旦は下って、左は山里へ下る道、山頂へは右へ登り返す。すると愛宕神社の小さな祠があった。
 地形図では高社山は台形ながら2つの山から成る。ここが山頂か、と思うが三角点はないので西進するとやっと保護石に囲まれた三角点のある山頂だった。展望はない。写真だけ撮って、反射板のある台地に戻った。
 ここからは恵那山が見えた。目を凝らすと東濃の山越しに茶臼山、段戸山等が見えた。南には春日井三山とその向こうには光る海が見えた。何より、多治見市を俯瞰できた。意外にも多くの高層ビルが立ち並ぶ。東濃の中核都市のシンボルだ。
 中央道をクルマがひっきりなしに流れている。中央線、R19号、中山道、まさに大動脈のごとく。2027年にはこのどこかの地下をリニア中央新幹線が開通する。東海道新幹線のバイパスとして建設中である。
 展望を欲しいままに楽しんで下山した。

恵那山の胞伝説考2018年12月25日

 柳田國男全集 7 の伝説に関する著述を読む。
 伝説と昔話の違い

民俗資料を三部に分類
 ①有形文化  行為伝承  芸能、踊り、

 ②言語芸術  口頭伝承  昔話
                    
 中間に位置する        伝説

 ③信仰伝承  内部伝承  祭、講

伝説と昔話の特徴
1 伝説は人がこれを信じているのに対し、昔話には責任を負わない

2 伝説の中心には必ず記念物があるのに対し、昔話には記念物がない

3 伝説は語るときに定まった形式がないのに対し、昔話には定まった形式がある

 12/22は岐阜県立図書館で恵那山関係の文献を漁った。コピーしたのは『中津川市史』、神宮司廳編『神宮御杣山記録』昭和51年史料、
である。
 第1回式年遷宮は持統天皇の690年。1335年の第35回式年遷宮は三河の設楽山になったが山は特定できない。
 1709年(宝永6年)の第47回式年遷宮から、尾張藩の領地である木曽谷、裏木曽に御杣山は移動。徳川幕府成立から約100年後の元禄時代の後になる。
 恵那山の由来を漢文で著した松平 君山(まつだいら くんざん、元禄10年3月27日(1697年5月17日) - 天明3年4月18日(1783年5月18日))が出たのもこの頃である。
 

 御杣山とは

神宮のHPから
 「宮域林は、内宮のご鎮座当時から神路山・天照山・神垣山などと呼ばれ、大御神の山として崇められていました。天武(てんむ)天皇の御代に式年遷宮の制度が確立され、第1回式年遷宮(690)が行われた際、宮域林は御造営用材を伐り出す「御杣山(みそまやま)」として定められました。その後、御用材の欠乏により御杣山は他の場所に移りましたが、今でも式年遷宮の最初のお祭りである山口祭やまぐちさい・木本祭このもとさいは宮域林で行われており最も神聖な「心御柱しんのみはしら」もここから伐り出しています。

 このように宮域林は、古くから神宮の境内地として管理されてきた由緒のある森林です。」

 神宮備林のウィキぺディアから
「伊勢神宮で20年毎に行なわれる式年遷宮は、大量のヒノキが必要である。その用材を伐りだす山(御杣山・みそまやま)は、第34回式年遷宮までは、3回ほど周辺地域に移動したことはあるものの、すべて神路山、高倉山という内宮・外宮背後の山(神宮林)であった。
しかし、1回の遷宮で使用されるヒノキは1万本以上になり、神宮林のヒノキでは不足しだす。その為、内宮用材は第35回式年遷宮から三河国に、外宮用材は第36回式年遷宮から美濃国に移り、第41回式年遷宮から第46回式年遷宮までは、伊勢国大杉谷に移る。
しかしながら、原木の枯渇による伐り出しの困難さから、1709年(宝永6年)の第47回式年遷宮から、尾張藩の領地である木曽谷、裏木曽に御杣山は移動する。この地域は尾張藩により木材(木曽五木)が保護され、許可の無い伐採が禁じられていた。
正式に指定、伐採が始まったのは、1798年(寛政10年)からである。
現在でも式年遷宮用の用材は、この旧神宮備林から調達されている。」

「歴史
1380年(天授6年・康暦2年):第36回式年遷宮で美濃国のヒノキが使用される。
1709年(宝永6年):第47回式年遷宮で、尾張藩領木曽のヒノキが使用される。
1798年(寛政10年):伊勢神宮により御杣山に指定される。
1843年(天保12年):守護神として護山神社が創建される。
1868年(明治元年):尾張藩から明治政府に移管される。御料林となる。
1906年(明治39年):帝室林野局により「神宮御造営材備林制度」が制定され、この地域の御料林が神宮備林に指定される。この後、大正時代にかけてその地域を拡大する。
1921年(大正10年):ダム建設の影響で、木曽川、付知川などを使用した筏による材木運搬が中止。森林鉄道による運搬が始まる。
1947年(昭和22年):帝室林野局は農林省林野庁となる。神宮備林は廃止され、国有林の一部となる。」

「式年遷宮は続く」から
https://www.sengukan.jp/wp/wp-content/themes/sengukan/media/pdf/record/h29/20170630-zuroku.pdf

「しかし内宮の第35回式年遷宮の準備を進めていた延元(えんげん)4年( 暦(りゃく)応(おう)2 年、1339)江馬山から御用材を運ぶ宮川流域が武装勢力の支配下に置かれたため供給が止まります。
 朝廷は御杣山を伊勢国外に求めるか、式年遷宮を延期するか議論の末、軒廊御卜が行われて三河国・設楽(しだら)山(やま)(現在の愛知県北設楽郡設楽町付近)に移動する事が決まりました。選ばれた理由は、山間を流れる豊川水系の河口部には老津(おいつ)・大津という良港があったこと、大津には平安時代後期から伊勢神宮の神(かん)戸(べ)が置かれていたこと、伊勢国大(おお)湊(みなと)との海上輸送が行われており安定した供給が行えたことが挙げられます。緊急の措置であったため三河国から御用材を得たのはこの一度限りです。」

恵那山のウィキペディアから
「信仰対象としての恵那山

山頂部にある恵那神社奥宮
恵那山周辺地域ではこの山に天照大神が産まれた時の胞衣 (えな) を納めたという伝説が残っており、この山の名前の由来ともなっている。また古事記で日本武尊が科野峠 (神坂峠) で拝したのも恵那山の神である。」

・木曽の湯舟沢はアマテラスの産湯をつかった伝説
・美濃の血洗池はアマテラスの胞を洗った伝説

 湯舟沢川から右岸(木曽側)は御杣山として伐採された。すると湯舟沢川の左岸から阿木川にかけては、伐採はされず、昔は神域だったのだろうか。現在の恵那山の美濃側に当たる地域は今でこそ国有林として奥深く林道が開通している。登山道は前宮にあった。

 阿木川の源流の焼山は木地師の煮炊きの煙、山中で焼き畑農業をする際の煙から由来と想像する。ロクロ天井の山の名前もあり、木地師の墓もある。
 血洗池の伝説は木地師が広めた可能性が高い。木地師のルーツは皇族にさかのぼる。その点で無理がない。

 湯船沢の伝説も木地師が広めた可能性はある。南沢山の周辺の山中には木地師は入っていた。中でも大平峠の夏焼山は木地師の焼き畑農業に関係する。今でも南木曽町には木地師が営業を続けている。

 恵那山周辺の山村は木地師が遍在していたのは事実である。売木村も木地師が活躍していた。

 恵那山をアマテラスの記念物としての胞を埋めたという伝説を付して胞山、恵那山と名付けたのは皇室につながる木地師ではなかったか。ご綸旨を根拠に木地師は山中でほとんど一生を過ごす。山中での死亡は各地で墓を見たのでわかる。おそらく出産にも立ちあった。その際の胞は家の周りの地中に埋めた。山中の湧水で溜まる小池は便利な洗い場になった。また湯船沢川の右又の温川(ぬるかわ)の源流は恵那山の頂上に近く湧く。文字通り温泉が混じるのだろう。
 山上にアマテラスの胞を埋めた伝説を広めることで、木地師は自分らの権益(木地原木の落葉広葉樹)と尾張藩が担う木曽山林(桧、翌檜などの針葉樹の木曽五木)の伐採権との棲み分けを実現させたのではないか。
 伝説の流布によって棲み分けに成功すると式年遷宮の切り出しもスムーズに行ったであろう。原木の良材を求めて木曽にたどり着いた神宮と尾張藩は木曽川を運搬路につかって木材資源を開発して行った。
江戸時代中期以降人口の増加で木地製品の需要も伸びた。住宅建築の需要も盛んになったと思われる。両者が利益を得たのである。
 その頃、松平君山は得意の漢文で恵那山の伝説を書き残した。『新撰美濃志』の編者にも明らかに重要な伝説であった。

これまでの記事
http://koyaban.asablo.jp/blog/2018/11/27/9003915
『新撰美濃志』の中の恵那山

http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/08/06/8641325
中津川市阿木の旧跡・(アマテラスの)血洗池~血洗神社~恵那神社~根の上高原へドライブ

http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/10/18/8708216
「埋甕」を見に弥富市の愛知県埋蔵文化センターへ行く

http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/08/19/8650783
奥三河・須山御岳山

『新撰美濃志』の中の恵那山2018年11月27日

 『新撰美濃志』の成立は江戸時代末期。一信社版(訂正版)は昭和6年の刊行、復刻版は昭和47年に岐阜市の大衆書房から刊行された。
 緒言には尾張藩の岡田啓の遺稿という。天保初年頃から彼の晩年に到るまで前後実に三十年の星霜を閲して出来上がったのが、この『新撰美濃志』三十巻である。」と。
 その中の恵那山に関する歴史民俗の記事を抜粋した。

阿木村は冨田の北にあり。和名類聚抄に「惠奈郡安岐」とある旧郷、また美濃神名記に「惠奈那從四位上阿岐明神」としるしたるもここなり。「岩村領千五百八十九石六斗四升」「阿木川」は当村の山より出でて大井宿の方へ流る。
 「阿木風穴」阿木山にあり。「血洗社」は阿木山の麓大野平にあり。神代のむかしある御神ここにて御子を産み給ひ、胞衣を洗ひ給ひし跡なりといひ傳へ、血洗池という古跡ものこり、また惠奈山の名もそれより興りしより里老いへり。

・・・・ウィキペディアによると「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。」だから古い。
 恵那は平安時代からあった古い地名である。阿木山は現在の地形図からは特定できない。

 検索にヒットした「安岐郷誌」によれば「あぎやまとは阿木の生活域から東方向に見られる山の総称。焼山付近までを含む阿木の山岳地域一帯を示す言葉として使われることが多い。ただし正確な定義はなく、狭義には天狗森山や橋ヶ谷山、あるいは焼山などを示す場合にも使われ、その意味する所は人や世代によって様々である。阿木の生活や歴史に深く関わってきた山である。」さらに焼山は「やけやまは上矢作・長野との境界近くに位置する山の名前。全国にある他の焼山と区別するために美濃焼山と呼ばれる事もある。焼山という名は山のあちこちで炭焼きの煙が立ち上っていた事に由来している[1]。」という。

ソース:「安岐郷誌」http://agimura.net/index.php5/%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8

 個人的には、焼山ではないか、と思っている。agiyamaとyaki(ke)yamaの耳から入る地名の違いか。焼山の南西の無名の三角点は通称ロクロ天井といい、点名は阿木である。麓に木地師の墓がある。
 安岐郷誌は炭焼きの煙と書くが、木地師の炊飯の煙とも言えるし、彼らの食料になった蕎麦、粟、稗などを生産するために山を焼いたから、その煙ともいえる。春に山焼きをして種を蒔き、夏に刈り取る。夏になっても焼いて採れる山は夏焼の地名が残る(稲武町など)。木曽峠にはずばり夏焼山がある。

 R363のキャンプ場(現在は廃止された)の近くの三角点の点名が血洗という。
 血洗は当然エナを洗ったことに因む。明治時代以前のエナは何かに包んで、素焼きの底なしの壷に入れて埋設されていた。これは埋甕といった。
 ウィキペディアによると「埋甕(うめがめ)は、縄文時代の深鉢形土器を土中に埋納した施設。
 縄文中期から後期にかけて関東平野や中央高地で見られる習俗で、縄文後期には中央高地では衰退し、関東平野では継続した。
 埋甕は住居の内部(出入口部)に営まれる住居内埋甕と住居外に営まれる住居外埋甕があり、複数営まれる場合もある。土器は煤などが付着されていることから日常的に使用されているものが転用され、特に口縁部が平なものが選ばれる。正位または逆位で配置され、正位の場合は石蓋があることもあり、口縁部や底部が破損または底部が意図的に穿孔されている。
 住居内埋甕は民俗事例などから乳幼児の埋葬施設や、幼児の健やかな成長を祈念し胎盤(胞衣)を埋納した胞衣壺であると考えられている(木下忠による)。内部の埋納物は例外的に土器や石器が含まれることがあるか明確に確認された例がなく、残留脂肪酸分析も行われているが胞衣が含まれているかは不確定である。以下略」
 実は設楽ダム建設の現場に近いところでも愛知県埋蔵文化センターの発掘事業が行われていて、素焼きの甕が発掘された。意外なところにも縄文文化の遺跡があったものである。
 エナの埋蔵は非常に普遍的な文化の所産だった。
 その文化がアマテラスのエナを山頂に埋蔵する伝説にまで発展させたのは一体なぜなんだろう。