原稿を送信2019年08月14日

 8/12に下山してやっと疲労が取れてきた。中区の郵便局へ留め置きの郵便物を受領に行く。事務所に行きたかったが今日は平日でPも有料しかないので引き返す。
 それから自宅で中経向けの山の原稿書きに着手する。実はほぼ書き終えていたが、登山の経験を加筆することにした。何分穂高岳がテーマなので古い記憶だけよりも新しい見聞を書いた方が良いに決まっている。但し、完全踏破とは行かず、天狗のコルでエスケープしたのでその部分は文学的脚色で書いた。果たして編集者に通じるか。

エミール・ジャべル『一登山家の思い出』(尾崎喜八・訳)を読む2019年08月13日

 今夏は穂高連峰に挑戦。敢え無く天狗のコルで敗退した。

 8/11の夜、岳沢小屋で瞑想した。この時、尾崎喜八の名訳でなる『一登山家の思い出』がふと浮かんだ。
 我々が敗退を決めたあの天狗のコルこそはジャベルの言う”コル・デ・パレッス(怠け者の峠)”ではないか、と。
 古書で買った文庫本が見つからず、検索で以下がヒットした。特に⑦を読むとヨーロッパアルプスであれ日本アルプスであれ、変わらないのだと、思う。

 ジャベルのことども
https://aach.ees.hokudai.ac.jp/xc/modules/Center/Review/trance2/arctic.html
 本書「一登山家の思い出」はジャベルの死後、その残した手記から友人のエドワール・ベラネック教授が登山紀行17編、随筆1編を選んで年代順に編纂して出版したものである。ジャベルはウィンパーやママリーやティンダルのような大登山家とはみなされていないが、山岳文学の古典として残る本書の著者としての地位は高い。友人のE.ランベールは序「エミール・ジャベル」で彼の登山について次のように述べている。

「ジャベルは山に対して一つの熱情を持っていた。彼には永くアルプスの脚下を離れて生きる事は出来なかった。アルプスは彼の上に一種の魔力をふるっていた。彼の心は平野の風景の魅力を等しく理解する程に自由だった。しかし、アルプスの自然が形と現象との種々相をもって人格的象徴の無尽蔵の世界を彼に提供した時、平野の風景は彼の眼には単に風景としか映らなかった。遥かに見える山頂、それは彼自身だった。あの別の山頂、それも亦彼自身だった。 ~中略~ 彼が山頂に達することは、学者が何かを発見する喜び、才能の士が追及して遂に至上の努力によって見出す喜び、それに似た喜びを手に入れる事だった。」

「トゥ―ル・ノワールの初登攀」の中の次の一文は、ジャベルのアルプス初登攀の感激を記したものであるが、山に対するほとばしる情熱を見ることができる。

「未だ何人の足も置かれた事のない或る山頂を踏むことには、単なる自負の満足意外に全く別な何物かがあるのである。其処には魂の奥底に直接触れる一つの痛々しい独特な感じがある。それは、これらの岩が最初に存在して、大空の下にその誇らかな裸体を掲げた数へ切れない時以来、何人も未だ其処を訪れず、如何なる眼も今君の見ている物を見ず、世界の開闢以来其処につづいていた沈黙を破った最初の声が君の声であり、そして人類の最初の代表者として此の野生の領域へ現れる特権を受けた者が、群衆の中から偶然にも選抜された人間、即ち君であるという事を、君が自分に言って聞かせる事に他ならない。~中略~
 我々の野蛮な祖先が、当時まだ森林におほわれていた、そして其処に今日では我々の耕作地や都会が広がっている土地を、初めて自分達の物にした頃、もしも或る小高い所へでも登るような事があると、彼らは一つの石の小山を積み上げた。古いケルト語を保存している英吉利の登山家達が、いまだ口にするあの積(ケ)石(ルン)を。同様に吾々も、自分達の山の処女山頂をきはめる度に、太古の伝統にしたがうというよりも寧ろ一種の本能から、同じ事をする。そしてその積(ケ)石(ルン)は、彼等祖先にとってと同様に吾々にとっても亦、単に個人的な虚栄心の記念碑ではないのである。それは何よりも先ず次のような事を意味する。『人間が此処へ来た。今日以後この一角は人間のものである。』」


http://www.ozaki.mann1952.com/index.html
詩人 尾崎喜八
1892〜1974
ジャベル『一登山家の思い出』からの転載です。

      「二夏の思い出」を編集しました。
① アレートを伝わって行くと高さ約一〇メートルばかりの絶壁の立っている地点へ達する。そこはかなり危険で、未熟な者だと助けなしには越えることができない。もっとも右手へ降りて捲いて行くこともできるが、岩登りの心得のある者にはおもしろい場所である。

② 熟練した者ならば、西方に面した岩組を攀じてたいした苦痛なしに直接山頂へ登ることができる。しかし、岩壁の透き間とか、踏みはずしやすい場所とか、岩庇とか、その他岩登り家の不思議な偶像に対してあまり執着を持たない人たちのためには、シュザンフを眼下に見てしばしば雪に被われている斜面の横腹を通って、そこから最後の肩へ達する方がいっそういい。サルヴァンのガイドたちはこの肩にコル・デ・パレッスー(怠け者の峠)という名をつけた。

③ シャンベリーのガイドは単にダン・デュ・ミディ峠と呼んでいる。しかし、怠け者峠の名こそ万才である!

④ 実際、人が楽々と坐っても、もうプラン・ネヴェの氷河や、六つの尖峰や、ペンニーンの連山や、トゥール・サリエールや、モン・ブランの球帽を眺めることのできるこの峠からは、反対に、ダン・デュ・ミディの最後の斜面がまだ長々と、疲労に顫えている脚膕ひつかがみや、使い果たされた肺臓に対してひどく長々と、かつは急角度に峙っているのが見られるのである!

⑤ 怠け者は顔を上げ、元気のない一瞥で距離を測り、杖や囊を投げ出し、それから身を倒して、もう先へは進まないと断言する。そして、こんなことは毎夏一度以上もあるのである。サルヴァンのガイドたちはばかではない。怠け者峠とは旨くつけたものだ。そうではないか?

⑥ 真の登攀家はそこでは立ちどまらない。しかし、大多数の登山者はそこで気持ちのいい駐屯をする。その後でたまたま一人の怠け者がまた顔を上げて仔細に距離を測り、最後の努力を試みようと勇敢な決心をし、途中二十度も足を停めて自分の決心を半分ぐらい後悔しながら。それでも結局他の山頂と同じように誇らかなその山頂へ達するのである。

⑦ しかし、親愛な読者諸君、もしも諸君にしてコル・デ・パレッスーは単にダン・デュ・ミディだけにあると信じるならばそれはまちがっている。モン・ローズにせよモン・ブランにせよ、またその他の山にせよ、すべて苦しい登路を持つ山嶽の大多数には、その半腹にこの峠があるのである。またあらゆる道徳的高所への途上に、学問の半途に、徳の半途に、この峠の存在することも事実ではなかろうか。勇気ある者は追求して、結局は到達する。臆病な者は斜面を測り、絶望し、中止する。そして、彼の努力はといえば、失敗の恥を贏(か)ち得ることに役立つだけである。
 ああ! 称うべきはコル・デ・パレッスーでのエネルギーである。

岳沢小屋から上高地、新穂高へ2019年08月12日

 老鶯の鳴き声で目が覚めた。すぐ近くまで来ているようだ。なんと優雅な山小屋であることか。
 昨夜は夕食は食べたが朝食は依頼しなかった。相棒はコーヒー好きなので淹れ立てのコーヒーを頼んでパンをかじった。それが朝食である。のんびりと岳沢小屋からの一級の山岳景観を楽しんだ。
 さてと重い腰を上げた。重太郎新道を上高地へ向かって下った。小岩のごろごろした歩きにくい一般登山道ではあるが昨日の悪路と比較すると何と歩きやすいことか。
 樹林の中の道をようやく車道と交差した。上高地の一角に着いたのだ。途端に観光客が増えた。気温も高くなった。遊歩道を歩くと清流が美しい。梓川の流れに岳沢の伏流水も混じるのだろう。
 平坦で安楽な道を行くと森の奥に瀟洒な建物が見えた。あれが日本山岳会の上高地山岳研究所か。相棒と別れて立ち寄ることにした。管理人さんが1人と他の客など数名がザックなど置いてあった。セルフだがお茶をいただく。すると見たことがある男性と出会った。岐阜支部のSさんとKさんたちだった。Kさんとは笈ヶ岳に登ったことがある。しきりに昔話になった。
 上高地山岳研究所を辞して河童橋まで歩く。そこからの穂高連峰は絵になる風景だ。何度も見たがやはりカメラに収めた。そして相棒と出会い、BSへ。平湯行きに間に合った。平湯では新穂高に連絡した。新穂高では鍋平に自力で登る元気はなくまたロープウェイのお世話になった。車に戻って一段落。槍見橋の手前の登山者専用をうたう温泉入浴と昼食を済ませた。R41で帰名した。

西穂山荘から天狗のコル2019年08月11日

 朝3時、相棒はもう起床していた。売店へ移動して朝食代わりの弁当をとるがあまり食欲はなくおにぎり1個のみ食べた。そのうち、JACのOさんが名乗って私にあいさつされた。同じ委員会のメンバーであり、奥穂へ向かうという。彼らはさっさと弁当を食べて出発していった。早いパーティは2時半に出発、続々とヘッドランプが続いていた。山荘前の賑わいが途絶えたところでようやくこちらロートル組は4時30分に出発した。もちろん「まだへっとランプが要る。早目に出たいがどこかでもたついて邪魔になることへの忖度もある。
 丸山、西穂独標、西穂までは一般登山道を行く。山頂が近づくと登山者の往来が増えてきた。鎖場では登攀と下降組で譲り合いになる。登山者が多いとそういうことになる。団子になってゆくともっともたつくだろう。
 さて、約3時間で西穂に到達すると、すぐに下降が始まる。ストックを畳んでパックする。鎖場になるのでスピーディには行かない。慎重に下降する。間ノ岳、天狗岩、天狗の頭を登攀したり、下降したりを繰り返す。緊張で喉がカラカラになるのでしばし休憩を入れて水を飲む。カメラ撮影は余裕がなく1枚も撮れなかった。
 実は検索すると8/11に上高地から西穂山荘へ登り、私たちを追い抜いてジャン、奥穂、岳沢小屋、上高地と1日でトレースした韋駄天が居ました。その人の写真の時刻ではヘリが飛んできたのは10時過ぎでした。天狗のコルへは10時49分と記録。われわれは12時過ぎですから抜かれてしかも1時間以上早いペースで歩いています。
 我々は天狗岩付近から奥穂の遭難者を救助体制にあるヘリを見ています。韋駄天氏らの写真では山名板のない頂上を天狗の頭としています。われわれはここはどこなんだろうと、訝っていました。結局天狗の頭だったんですね。しかも韋駄天氏らは西穂から2時間30分で到達。我々はコルに着くのが12時過ぎですから4時間はかかった。すると天狗の頭は1時間引いても4時間かかった。圧倒的な彼らの登攀力に舌を巻く。
 岩稜の連続のみならず、脆弱な岩質、へつり、垂直の鎖場、ナイフリッジ、直射日光をまともに受けながら、緊張で乾いた喉を飴でごまかすがかえってねばついて飴が溶けなかった。
 それでも60代後半のロートル組2人は天狗のコルまでは辿り着けた。ここでは初めてルートの選択ができる。前進か、エスケープか。12時過ぎであり、ジャンにはガスが立ちこめる。遭難者の救助でホバリング中のヘリもガスが晴れないとみて引き返していった。結果、奥穂の小屋まで後4時間というか、午後5時になってでも行くか、どうか。2人で検討した結果、岳沢小屋へ下る方を選択した。相棒がかつて岳沢小屋から往復したことがあったことも心強い。
 前途変更を決心するともう気楽な気分になり1時まで大休止。どんどんガスが湧いてくる。これは靉靆というのだろう。
 13時過ぎ、左手の倒壊したコンクリートで補強した小さな避難小屋を見た。がれきの急斜面を下降する。地図上では廃道で破線路は削除されているが、白いペンキの〇印と矢印でしっかり残っている。とはいえ、浮石の連続で歩きにくい。岩雪崩を起こさないようにゆっくり踏みながら下降する。下部では傾斜も緩んで道型が出てきた。ガスは少しぽつりと来たが降雨ということではない。幸い雷雲の活動は収まっている。
 意外にも前から2人パーティーとすれ違う。クライミングだろう。やがて草付きの尾根上の斜面に乗りストックを出してペースを上げる。地形図では間ノ沢と天狗沢の間のわずかな盛り上がりに見える。草付きになるとシモツケ、フウロソウ、キンバイ、トリカブト、アザミなど多彩な高山植物の群落になった。そしてまた意外にも後方から軽装のクライマー2人に抜かれた。聞くとジャンから下ってきたという。
 草付きの緩斜面から天狗沢を横切り、無名の小沢を横切る。そして長い草付きの斜面をたどると岳沢小屋が見えてきた。 (多分)、コブ沢を横切ると小屋に着いた。約3時間で16時を回った。一方で韋駄天氏らは16時38分に河童橋にゴールインしたそうな。
 小屋ではまず缶チューハイ1本を仰ぐように飲み干す。そして静かな山荘の生活になじんでいく。とても良いロケーションの小屋である。乗鞍岳が素敵な姿で見える。近くには六百山を従えた霞沢岳がやたらに大きくそびえる。背後は西穂からジャン、奥穂、前穂、明神の岩峰の大伽藍である。
 気になる天狗のコルから奥穂へは他人の記録では最大の難関ルートでありロープを出す場面もあるとか。

記録
https://visitmatsumoto.com/tokotoko/%E8%A5%BF%E7%A9%82%E9%AB%98%E5%B2%B3%EF%BD%9E%E5%A5%A5%E7%A9%82%E9%AB%98%E5%B2%B3%E3%80%81%E5%B2%A9%E7%A8%9C%E7%B8%A6%E8%B5%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%88%E8%B8%8F%E7%A0%B4/

トレイルラン
遥かなる穂高の呼び声 西穂~ジャン~奥穂~上高地 周回
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1967695.html

新穂高から西穂山荘へ2019年08月10日

 8/9の夜10時岐阜の可児市で合流後、東海北陸道で高山市、平湯を経由して新穂高へ8/10の深夜到着。県道沿いはオーバーしていて入れず、鍋平の登山者用Pへ誘導される。暗くて分からないが、なんとかスペースを確保してP。車内を整理して2人が横になれるスペースを作る。
 今日は西穂山荘へ行くだけなのでゆっくり起きて準備。ロープウェイ駅へ歩く。朝一から満員である。2番目の箱に乗れた。駅に着いてからも相棒は朝食を食べている。入山届をチエックされて外にでてゆっくり樹林帯の道を登る。日陰とはいえすぐに汗が噴き出す。
 小屋へは1時間40分で到着。何度目の宿泊だろうか。焼失する前の小屋に泊まって初の西穂登山を果たした。隣の人は朝3時ごろからごそごそし出して奥穂へと向かっていった。私はまだ30歳代、そのころは西穂がやっとのことであった。
 これまでにこのルートを踏破したいという山岳会会員は居なかった。しかし先輩や中途入会のベテラン会員は登っているのでいつかはトレースしたかった。今回ようやく30年ぶりにその夢がかなえられるかと来た。
 小屋では夕食タイムまでゆっくり寛いだ。

穂高連峰縦走へ2019年08月09日

 台風が2つも太平洋上でさまよっている。天気図に台風が見えたら山に行くなとは新田次郎の小説の中の格言的なセリフである。8/7には南アルプスの北岳で落雷で死んだ登山者が報じられた。お盆が近づくとそろそろ雷の季節になる。
 これから行く西穂高岳でも過去に大きな被雷の死亡事故があった。「1967年8月1日の気象状態は、本州を挟む形で高気圧が2つ並んでおり、南海上には台風があったため、大気の不安定な状態となっていた。」(ウィキ)
 ウィキにある当時の天気図とよく似ている。左様、今も台風が2つあり、東の高気圧が強いために東進をはばまれている状況か。しかもシベリア大陸寄りに低気圧が並んでいて冷たい空気を運ぶ。亜熱帯と亜寒帯の気団が列島を挟んで均衡を保っている。気団の勢力の駆け引き次第で、均衡が崩れると落雷をともなう荒れた天気になる。気圧配置はそっくりだ。
 西穂高に登ったら奥穂まではエスケープルートが1本あるとはいえ、簡単には逃げられない。高い尖峰、岩塔、高い樹木、自分自身も落雷の通り道になる。それなので黒い雷雲を見たら引き返すか、なるだけ午前中に奥穂の小屋へ駆け込めるか。

山名と点名の違い2019年04月11日

 5月掲載予定の鹿島槍ヶ岳の原稿を書き終えた。
 北アルプスには槍ヶ岳が3ヶ所もある。涸沢槍も入れると4か所か。それで点名もWEBで調べてみた。点名は三角点測量のデータを集めたいわば戸籍簿のような書類である。昔は会社の休みをとって国土地理院中部地方測量部へ行って許可を得て調査したものだった。点の記の写しは有料で取得したが今はWEBから無料で調べることができるから便利だ。
 鹿島槍は鹿島入だった。入(いり)は奥の意味がある。矢作川源流の大川入山、木曽川支流の大棚入山がある。大平峠の飯田市側に廃村になった松川入があった。気を付けておればあちこちに見いだせる。山民は単に鹿島の奥とだけ説明したのだろう。山名は昔からあるのは鶴ヶ岳、背比べ岳、鹿島大岳があった。
 鹿島槍ヶ岳と命名したのはいつだったのか。明治31年の北安曇郡の地図には印刷されていたらしい。
 槍ヶ岳の点名は何と鎗ヶ岳と国字が使ってあった。爺ヶ岳は祖父岳、五龍岳は平川入だった。平川は白岳に突き上げる川名である。八方尾根と遠見尾根の間の沢である。 
 意外なのは白馬三山の鑓ヶ岳であった。何と本家と同じ鎗ヶ岳になっていた。普通は同じだとⅠ、Ⅱと冠するものだが、まったく同じだった。例えば愛知県の鷹ノ巣山は段戸山Ⅰ、寒狭山は段戸山Ⅱ、風切山は日吉村1、船着山は日吉村2という具合だ。
 そこで地形図には槍ヶ岳が使えず、鑓ヶ岳の文字を使ったのだろう。それでも読み方は同じなので白馬鑓とした。鹿島鎗も当用漢字の槍の文字にした。多分ある時期から当用漢字への切り替えが行われたと見た。
 国字の鎗は岐阜県の鎗ヶ先の例がある。点名も同じで一致する。なぜか国字のままである。

ヤマケイ文庫 伊藤正一『底本 黒部の山賊 アルプスの怪』を読む2019年02月14日

 先日、丸善で購入。帰宅時に地下鉄車内で読み始めたら面白くて、一と駅先まで乗り越した。徒歩圏で良かった。夕食後、寝床に入ってからも一気に読み込んだ。最近にない面白い本であった。
 ヤマケイ文庫 2019.2.14刊行
 
 定本というのはこれまでに刊行された本があって、再編集されているということ。それは良く売れた本の証拠でもある。

①1964年 初版 黒部の山賊 アルプスの怪 実業の日本社

②1994年 新版 黒部の山賊 アルプスの怪 実業の日本社

③2014年 定本 黒部の山賊 アルプスの怪 山と渓谷社
内容紹介
 北アルプスの最奥部・黒部原流域のフロンティアとして、長く山小屋(三俣山荘、雲ノ平山荘、水晶小屋、湯俣山荘)の経営に携わってきた伊藤正一と、遠山富士弥、遠山林平、鬼窪善一郎、倉繁勝太郎ら「山賊」と称された仲間たちによる、北アルプス登山黎明期、驚天動地の昔話。
 また、埋蔵金伝説、山のバケモノ、山岳遭難、山小屋暮らしのあれこれなど、幅の広い「山の話題」が盛り込まれていて、読む者をして、まるで黒部の奥地にいるような気持ちにさせてくれる山岳名著の一書です。
 1964年に実業之日本社から初版が刊行されたときは、多くの読者からの好評を得ました。
 近年は、山小屋でのみ購入できたこの幻の名作が、『定本 黒部の山賊』として、山と溪谷社から刊行されることになりました。
新規原稿も一話加え、底本未掲載の貴重な写真も盛り込んでいます。
巻末には、高桑信一氏と高橋庄太郎氏による『黒部の山賊』へのオマージュも掲載。 以上はコピペ。

④2019年 ヤマケイ文庫 黒部の山賊 アルプスの怪 山と渓谷社

・・・・特に③はよく売れたようです。アマゾンのコメント90件は山岳書としては多い。しかも、③では①②で採用された畦地梅太郎の版画の表紙を変えています。多くの読者を獲得した勢いで、今年は早くも文庫化されています。しかし文庫化にあたっては初版の表紙にもどされました。

 著者の伊藤正一(1923~2016)さんは三俣小屋の利権を林野庁と争っていた記憶しかなかった。本書を読んで、松本深志高校卒(旧制)で物理学者を目指していたこと、日本勤労者山岳連盟の創立者であることも知った。
 社会の仕組みをよく知っていて、権力にただ盲従、服従しない点は岩波茂雄と同郷の人だけはあると思った。信州人は反骨の精神が強い。したがって左翼のシンパになったり、日本共産党の支援もあったかに思われる。

 今度の読書で何でこんなに面白く読めたのか。山を始めた当初は折立から太郎平を経て黒部五郎岳へ縦走、折立から薬師岳を経て立山へ縦走、薬師岳往復くらいしか山歴はなかった。鷲羽岳は遠い山であった。
 本書に書いてあるような黒部源流に奥深く入ったのは2009年の盆休みに雲の平を経て読売新道を歩いたことだ。同年の9月には上の廊下を突破した。2010年8月には赤木沢を遡行、2013年の8月にはついに黒部源流を遡行する。
 そして三俣山荘に宿泊した。この時はすでに同書が置いてあり販売もしていたように記憶するが、購入にまでは至らなかった。伊藤さんは2016年に死去されたからこの年はまだ存命だったことになる。
 要するに雲の平に象徴するような別天地を知ったら黒部の魅力は忘れえないものになる。伊藤さんは黒部の語り部たらんと本書を著したのだ。非日常の世界を平易な文章でわれわれ都会人に知らしめた。
 そうか、柳田國男の『遠野物語』『山の人生』も怪異な話だった。黒部源流に人生を送った山男・山賊らの物語なのである。

剣岳の風雪のビバークから生還2018年12月31日

ソース:https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181231/k10011764221000.html?utm_int=all_side_ranking-social_002
北アルプス 剱岳 2人を救助
以上
 富山県警の山岳救助隊のヘリがお見事でした。一瞬の冬型の気圧配置のゆるみを見逃さず救助に向った。
 剣岳の山の天気で気温などチエックすると、朝9時現在で、標高3000m付近でマイナス13、2℃、2000m付近はマイナス11.7℃。風も1秒間に11m以上ですから正に風雪のビバークです。
 しかし、冬の剣岳を目指そうとする登山者にはそれが分かっていたはずです。
 なぜ捕まったのか、天気図を12/25までさかのぼると、良い天気で池の平山まではスイスイ登攀ができたと思われる。しかし25日から天気が悪くなった。また雪が重くてラッセルに疲労したかも知れません。そこで救助の電話をかけた。
 ビバークだけで7日間も良く持った。暖かい衣料と充分な食料・水、雪洞を掘る技術と体力もあった。加えて通信手段を確保していたことも大きい。体力や技術的には問題はなかったにせよ、年末にかけて天候の悪化の読みができなかった。
 天気図を書く知識はあったのだろうか。悪くなると予想したらすばやく懸垂に次ぐ懸垂で下降する。低山域まで下れば風雪はやわらぐ。元旦には冬の剣の登頂を考えていたんだろう。まあ無事で良かった。

春の丸黒山と日影平山2018年05月01日

4/29 飛騨清見の道の駅で仮泊後、県道462を走って乗鞍青少年交流の家に行く。7時45分に出発。交流の家のスタッフに登山口を教えてもらう。しばらくは林道のような遊歩道を歩く。終点は日影峠になっている。ここから右はカブト山へ、左は日影平山へ道が分かれる。
 丸黒山へは二筋に分かれるが右の道をたどった。一旦は急降下してゆくが、すぐに1559mへ登り返す。乗り越すと1570mの平らなブナヶ平に着く。ここで地元の人らしい人と会った。丸黒山では1人行方不明があったと教えてくれた。これは手前に左に巻き道もあって回避できる。眺めのいいところがある。そのまま下るとブナヶ平と合流する。またしばらくで二筋に分かれる。右は旧道である。左は新道で1694mの枯松山を経由して、枯松平休憩所に下る。現在は文字通り喬木となった唐松の疎林である。
 旧道は枯松山の山腹を巻きながら休憩所へ行ける。この道は近道であり、アップダウンもない歩きやすい道である。水場も2箇所確認した。途中のほとんど平らなところに鉄の支柱が倒れていた。これは鉄条網の支柱と見られ、かつては牧場であった名残である。
 『飛騨百山』の執筆者は「放牧された牛が、われわれを見ると寄ってきた」と書く。彼等がテント場にした枯松平には立派な休憩所が建っている。
 一休みしてから一旦ゆるく下る。平坦な唐松林を歩く。最初の急登はガンバル坂という。がんばると階段の踊り場のような白山展望台に着く。真っ白な白山が見える。道標にもあるし、地形図にある青屋への破線路は笹薮に埋もれていた。すぐに根性坂に差し掛かる。ここをしのぐと雪が出てきた。1926mの主三角点に着いた。少し先で12時を回り、相談の結果、計画を進めて奥千町ヶ原避難小屋に行けても明日に無理がかかると判断して前途を中止。スキーやザックをデポして水だけ持って山頂を往復することとした。
 丸黒山で12時半過ぎになった。撤退をしたものの丸黒山からは乗鞍岳、笠ヶ岳、槍穂高連峰などの大展望に癒されました。御嶽、恵那山は木立に遮られて少ししか見えませんでした。
 青少年交流の家の若いスタッフらが登って来たので話を聞きました。丸黒山から先は登山道の整備がないため這い松の枝が伸びて歩行が困難だろうとのことでした。丸黒山頂から滑降予定の千町尾根を眺めると余り雪が残っていませんでした。スタッフも丸黒山にこんなに雪がないのは珍しいとのことでした。登山口の別のスタッフの話では先週は1mくらいあったそうです。今日は斜面に20センチ程度残っていました。雨とかで急速に融雪が進んだようです。千町尾根は熊が棲息しているそうです。
 当初の計画段階では記録の多い岩井谷を検討しましたが雪解けが早く、雪の塊の崩壊などを恐れて尾根にしたのですが、岩井谷の無雪期は入山禁止になっているそうです。
 丸黒山を下山後は枯松平休憩所の避難小屋で一泊しました。ログキャビン風のきれいな小屋で上質な毛布の備えもあって快適でした。水場は近くに沢水があります。
4/30 避難小屋を出てWさん未踏の日影平山(ぎふ百山)に寄って下山。県道を車で走る途中でも白山、笠ヶ岳、槍穂高連峰などの一級の山岳景観を楽しみました。
 帰りは美女峠の水芭蕉を散策。帰路に見座というところの金峰神社の祭礼の行列に出会いました。R41で帰名する途中、下呂温泉で一風呂浴びて行きました。