北アルプス 大町登山案内人組合100年 日本最古PR2017年02月01日

 WEB版毎日新聞から
 長野県大町市の登山ガイド団体「大町登山案内人組合」が今年、発足100周年を迎える。日本初の登山ガイド組織として、楽しみで山に登る日本の近代登山の発展に大きく貢献してきた。組合は今年、市などと協力して記念事業を展開する計画で、関係者は「日本最古の登山ガイド団体はあまり知られていない。市の山岳文化をPRする機会にしたい」と話す。【稲垣衆史】

 組合は「大町登山案内者組合」として1917(大正6)年6月に設立された。前年に信濃鉄道大町駅(現・JR信濃大町駅)が開業し、北アルプスの地形図が整備されるなど、それまで知識人が中心だった登山が大衆化。大町も北アルプスの玄関口として年間1000人の登山者が訪れていたとされる。

 増加する登山者の要望に応えようと、組合を創設したのが市内で旅館「対山館(たいざんかん)」を営んでいた百瀬慎太郎(1892~1949年)だった。質の高い案内人を安定的に提供するため、地元の猟師ら山で働く人を中心に22人をガイドとしてまとめた。料金トラブルを避けるため定額料金を導入したり、心得や規約を作ったりし、資質の向上に努め、針ノ木小屋建設など針ノ木岳周辺の環境整備にも尽力した。こういった活動は模範となり、各地に同様の組合ができた。

 大町山岳博物館の関悟志・学芸員によると、百瀬は対山館を訪れる著名な登山家らと交流する中で、地元にいながらも新しい海外の登山文化などを取り入れていた。「組合の拠点だった対山館はサロンのような山の情報の交流・発信場になり、近代登山の発達に影響を与えた」と話す。

 戦時中、登山者が減り、対山館が廃業するなどして活動は一時休業状態になるなど存続の危機が何度もあったが、乗り越えてきた。現在、組合には市周辺に住む約40人が加入。登山ガイドだけではなく、北ア北部地区山岳遭難防止対策協会のメンバーも兼ねて遭難救助や見回りなどにも当たる。狩野正明組合長(68)は「100年で山の道具も環境も変わったが、受け継いだ組合の伝統は伝えていかなければならない。活動や意義を知ってもらい、見直す機会になれば」と話す。

 記念事業では、組合員のガイドによる針ノ木岳へのツアーの他、同博物館では百瀬らを中心とした地域の登山史を紹介する特別展を開催。11月17日には記念式典も開く予定。
以上
 山やには第一級のニュースですな。是非時間の都合をつけて行きたいものです。
 名古屋の伊藤孝一との交遊関係を調査するうちに百瀬慎太郎に触れないわけにはいかなかった。
 百瀬慎太郎遺稿集『山を想へば』を富山県立図書館経由で借りて、今も毎日読んでいる。宿泊客からの手紙や宿帳を抜粋した書簡集はさながらに近代登山のあけぼのを彷彿する一級の資料になっている。短歌は30歳代と40歳代が抜けているので完全に網羅されていない。散文も貴重な文献である。
 対山館は登山の拠点になっていた。今では一流と目される登山家が集まってきた。
 伊藤孝一は鹿島川を遡行するために来て泊まっている。俳人の河東碧梧桐一行はここに泊まって日本アルプス縦走に向かったのだなと分かる。名高い田部重治はまだ独身時代に南日重治の名前で泊まっている。伊藤孝一の手紙には時間があれば一緒に登りたいと懇願する手紙を出している。百瀬慎太郎の人柄の良さにひかれて交遊した期間は死ぬまでに30年に及んだ。赤沼千尋も同じだった。同書P90には登山案内人という言葉は大正初期にできたとあった。結局百瀬慎太郎あっての登山大衆化だったと思える。

赤沼千尋『山の天辺』を読む2016年12月30日

 赤沼千尋は黎明期の北アルプスの燕岳に登山小屋を建設した人である。『山の天辺』(昭和50年、東峰書房)は折々に書いた随想集の体裁となっている。扉には畦地梅太郎の版画「雪渓に立つ」「燕山荘」が挿入されている。序文は『たった1人の山』の浦松佐美太郎が書いた。
 今回特に書き残したいのは、「山男と遭難」の文に山小屋経営者ならではの秀逸なエピソードがあるのを見つけたからだ。
抜粋すると
「人生ことごとく運である。
山岳遭難もまた運である。」

「ことに雪山、それは荒れた日には、眼も開けられぬ恐ろしさに総毛立つ魔者となり、晴れた日と雪崩と言う武器で、音もなく襲いかかる狡猾な肉食獣となることがある。登山する人間にとって、このような山の災厄から逃れられる唯一の道は、天候などの条件のよい日に登山する以外はない。
 そして、早く登山したいはやる心を押さえながら、良い天候を待ち続ける忍耐心と、待ちに待つ時間がとれるかどうかということが問題なのである。」

 黒部の一帯を映画に撮影した名古屋の登山家・伊藤孝一著『狸囃子』からの引用から
「流動を停止した雪崩は、人間の眼には解らないが、停止と同時に力強い圧縮を開始するものである。故に、雪崩れている最中か、又は停止直後に、雪の中から泳ぎ出るか、或いは助け出されルカでなければ、忌まわしい結果が生じる。以下略」
「その夜、(佐伯)平蔵が雪崩に衝かれたら、押されるままにしていてはならぬ。足は飛んだり跳ねたり、手は眼の前を掻いて泳ぐように動かし続けることを忘れるな、と戒めた語り草は、生新しい体験が生んだ不滅の金言として、炉辺に居並ぶ全員の心の髄まで染み込んだ。」

 次は百瀬慎太郎遺稿集『山を想えば』からの引用
「前略、雪崩れに遭った時はいちはやくスキーを脱ぐ事が肝要だと言われる。これが咄嗟の場合によく行われ得る事だろうか。山田二郎氏(筆者注:慶応大学山岳部OB,マナスル隊員、元JAC会長)もこの試みを直ちに実行しようとして、右足のスキービンディングを脱いだ瞬間やられたのであった。それほど雪崩のスピードは速いものであった・・・。」

 以上の引用の後で赤沼自身の言葉は
「こんなエキスパートでも責任感が厚く、良い人たちが雪山に消えて行ったのである。今時の装備と比べれば誠にプリミティブなものであったが、然し登山の熱意と鍛錬並びに事前の準備は大変なものであった。それにも拘らず遭難した。そこには何か抗し難い運命のようなものが感ぜられる。」
と結んだ。
 単に思い出話や自慢話に終始しないで山と人生を語った名著の予感がする。今のところ本書は古書でしか入手できない。(愛知県図書館の横断検索をかけても1冊も蔵書がなかった。)中公文庫、岩波文庫辺りが文庫本化して欲しい。
 他に登山史から忘れられたような伊藤孝一の親友でもある。伊藤は厳冬期の北アルプスを縦走且つ映画撮影行という破天荒な登山家だった。赤沼は黒部の精通者として百瀬慎太郎とともに案内人役で同行した証人である。

登山はベストを尽くせばそれでいい!2016年08月09日

 8/5の夜発で8/7まで北アルプスの唐松岳から五龍岳までを元気に縦走してきた。6人が参加。8/6は八方尾根から唐松山荘へは厳しい炎暑の下、ふーふー言いながらの登りである。小屋へは12時すぎに着いた。私は寝不足を回復するため休養したが元気な5人は不帰の剣の手前までお散歩として往復した。また1人は唐松の下りで筋肉を傷めるアクシデントがあった。縦走はとても無理というので、話し合いでKさんがYさんに付き添いで八方を下ることになった。Kさんは日本百名山をすべて踏破している。その心の余裕から生まれた親切である。それでもその優しさに感謝する。
 8/7は4人が5時に山荘を出発。今日も炎暑が予想された。五龍山荘まではアップダウンの多い縦走路を3時間で予定通り踏破。山荘で休憩後、五龍への登り道に取りつく。ガレの多い岩の路である。山頂直下は岩壁の岩登りになった。岩登りのトレーニングが生きるような登りである。山頂はすぐそこにあった。日本百名山踏破77山目か?
 これまで計画しても雨で中止することもあったし、五龍山荘で泊まって雨の遠見尾根を下山したこともあった。雪辱を果たすというとオーバーか。
 山荘まで下山。コーヒーを飲んで休憩。今度は雪辱を果たすべく、炎天の遠見尾根を下山した。八方に比べるとしばらくは鎖場の連続する岩場もあってやや荒っぽい登山道である。緑陰の岳樺の中に入るとほっとする。小遠見山まで来るとハイキングの路をアルプス平まで下る。リフト、ゴンドラを乗り継いで下山。振り返ると稜線は雲が漂う。もう気象の変化の兆しか。
 山麓の駅舎まで来て出ると故障組が先回りして待機してくれた。タクシーでマイカーを回収する時間が節約できて良かった。着替えの後、麓の温泉で汗を流して帰名した。
 足の筋肉痛の故障で下山したYさんは元々体力のない人だった。それでも唐松岳には登頂できたのだ。最近見た映画「ロング・トレイル」の印象的なセリフを思い出す。アパラチアントレイルを途中で目的を果たせずリタイアしても「人生はベストを尽くせばそれでいい」と言った。中ア・宝剣沢、黒部源流縦走などの実績はあるが今回は体力の限界に達したようだった。登山はベストを尽くせば良いじゃないか。諦めることも人生のうちである。

希代の登山家・伊藤孝一こぼれ話2016年04月26日

背後に鹿島槍が見えることから鷲羽岳と見られる
  伊藤孝一こぼれ話
 伊藤孝一は大正12年3月の立山、針の木峠越え、大正13年3月の真川から薬師岳、上ノ岳から鷲羽岳をスキーで縦走した。これを映画に撮影することで大きな功績を残した。案内人には赤沼千尋、百瀬慎太郎、撮影技師も名古屋から勝野銈四郎が同行。ヒマラヤ遠征に匹敵する1ヶ月に及ぶ登山だった。
 私は2009年1月に北ア・栂池にある赤沼健至氏経営のスキー宿で鑑賞した。その後も何かのイベントで年1回は上映されている。
 東海岳人列伝の候補として瓜生卓造『雪稜秘話 伊藤孝一の生涯』という小説以外の調査研究を進めるうちにとてつもない登山家像が浮かんできた。立山黒部で活躍した登山家なのに登山史から葬られていたとは。知られたのは近年のことだ。
 名古屋市の人だから何とか全体像を知りたかった。山岳映画を通して登山大衆化に貢献したことは疑いない。積雪期の北アルプス登攀記録はもっと高く評価されてもいい。加藤文太郎が活躍するのは数年後のことだ。
 伊藤孝一の学歴は旧制愛知一中だろうか。現在の丸の内三郵便局の敷地が愛知一中の校舎跡だから玉屋町(旧東海銀行本店の本町筋)なら徒歩で10分ほどで通学できる。

   参考資料を渉猟する
1 復刻版『山岳』日本山岳会   住所の事実確認
 入会年月は大正5年7月。弟ともに入会。住所が名古屋市西区玉屋町と知ることで清州越しの御用商人を半ば証明したことになり以後の調査が進んだ。大正3年から在名の会員十数名が納屋橋の料亭で集会を持つ。以後年に1回は集会があったが、八高の学生と半分はダブル。大正4年旧制八高山岳会が発足。大正5年6月には山岳講習会と晩餐会を開催。2500名も集まった。いよいよ名古屋の登山熱が高まる。山岳会も発足してまだ10年余りである。
 ただ、旧制八高の卒業生は昭和14年の名古屋帝国大学発足までは東京か京都などへ進学するしかなかった。八高でならしても他の大学に流出した。法学部ができたのは戦後のことである。東海支部の発足が昭和37年と遅かったのはこの辺の事情もあると思う。八高OBである石岡繁雄が呼びかけたのも歴史のめぐり合わせだ。

『山岳』17年第3号には「雪の上ノ岳へ」と題した榎谷徹蔵の大正12年12月25日から同年13年1月4日までのの紀行文がある。藤木九三ら朝日新聞の登山隊の様子がよく分かる。大多和峠を越えて、有峰へ。そして真川へと山越えする難儀な旅だった。真川には伊藤小屋があり、往時の小屋の贅沢三昧も活写されている。映画技師の勝野も同行している。上ノ岳の付近と黒部五郎岳の鞍部にも小屋がある。
黒部五郎の小屋は冠松次郎が利用している。冠松次郎『黒部渓谷』(平凡社ライブラリー)の双六谷から黒部川への中で、「この小屋は二間半に四間位の大きさでずいぶん太い材料と行き届いた設備で頑丈にできている。炉が二つに切ってあり、風呂もすえ、暖炉までも設けてあった。入り口の掛け板に五郎平ノ小屋としるしてある。名古屋の伊藤孝一氏がこの山稜を冬季に旅行するのを目的に建てられたもので、昨年十一月頃にようやく出来上がったのだということである。氷冷の夜臥を覚悟していた私はこの賚(たまもの)に感謝の意を表さないではいられなかった。」と激賞。大正13年8月5日のことだった。

2安川茂雄『近代日本登山史』
伊藤孝一の登山記録がないことの確認

3『目で見る日本登山史』 山と渓谷社
伊藤孝一の登山記録の記載の確認

4 杉本誠『山の写真と写真家達』ーもう一つの登山史ー  講談社
山岳映画(写真)の歴史

5 林董一『名古屋商人史』 中部経済新聞社
 名古屋城築城以来の有名無名の名古屋商人のルーツと消長を詳述。小説で紹介された京屋吉兵衛(伊藤吉兵衛)が実際に存在したことの事実確認。御用商人のランクの調査に役立つ。この本で秘話の出自の部分で事実と虚構があることが判明した。

6 「名古屋古地図」名古屋市博物館
 幕末の古地図で中区錦三丁目、中区丸の内二丁目、三丁目界隈の調査。清州越しの御用商人は優遇され、敵の襲撃に備えて周辺を尾張藩士の屋敷で取り囲むように配置。明治時代になり、名古屋経済の進展で、一等地になった。
 明治維新後、没落する武士や商人から土地を買い、運用することで資産家になったと想像する。1回の山行に20億円も浪費できた源泉は土地だった。
 これも想像であるが、維新後の激動期には失業武士があふれ、尾張藩への貸付が焦げ付いて、経済は停滞。恐慌状態になっただろう。その後はインフレになったと見られ、幕末の激変を経験した先代は子孫に事業をやらせず、資産運用のみをやらせた。土地(モノ)とカネへの執着の強い名古屋商人の原像が浮かぶ。無借金経営にこだわるのも銀行借入があれば激変に耐えられないことを肌で知ったのだろう。借金の返済原資は利益なので売上が激減すると破産になる。
 余談であるが名古屋コーチンは失業した尾張藩士の起業から生まれた。激動期の今も嘆いてばかりではなく、失業武士のひそみに倣おう。
http://www.nagoya-cochin.jp/02_about/02_01_growth/index.html
  
7 立山博物館 2004年7月企画展解説図録
「山岳映画の先駆者、伊藤孝一没後五〇年『山嶽活寫― 大正末、雪の絶巓にカメラを廻す』」  
 登山史から久しく忘れられた伊藤孝一の名前であるが、山岳映画で検索するとヒットする。こんな企画を立てられたのも伊藤孝一の功績を忘れない人がいたから。記録を立てた大正12年は1月に槇有恒が遭難したので、発表を控えたか、金持ちの道楽として無視されたのか。伊藤孝一の建てた小屋は藤木九三も利用して上ノ岳(北ノ俣岳)にスキー登山している。(榎谷の紀行と同じ。)
 
8 名古屋新聞縮刷版 名古屋市立図書館
 大正12年2月22日の大沢小屋から針の木越え、立山温泉への横断計画の記事の確認。遭難の憶測記事に伊藤自身も困惑し、大沢小屋から撤退後、無事だから新聞記事は信用するなと家族に電報を打つところが当時を思わせる。新聞の捏造記事が遭難騒ぎを起こす。その後も各紙の憶測記事で悩まされている。

9 瓜生卓造『雪稜秘話 伊藤孝一の生涯』  東京新聞
伝記小説の形をとるが、文中のカタカナ表記のメモは遺族から借用されたらしく、事実とみられる。伊藤はメモ魔だったらしく丁寧に書き残した。作品の骨格たる登山記は伊藤のメモとメモをつなぐ。この空白部分が瓜生の登山体験から生まれたリアルな表現で埋められている。事実に忠実な小説であるが、創作にせざるを得なかったところだ。上梓後、瓜生も黄泉の国へ旅立った。

北アルプス・十石山を歩く2015年09月12日

 9/11の夜8時、北アルプスの槍穂高連峰の大キレットの踏破を目的に出発。高山市清見の道の駅で仮眠。9/12朝5時30分過ぎ出発。途中のレストランで朝食をかきこむ。天気予報はまたまた大きく崩れて、9/12は快晴だが、9/13は崩れて降雨もあるとのことで、急遽中止した。別の山に転戦することを検討した。候補として錫杖ヶ岳が挙がったが、あそこはクライマーの死者の霊がさまようところなので気合を入れて行きたい。気楽な低山も数々あるが、健脚3人の山婆様が納得しないだろうと、登りでがあり、登り甲斐、展望も良い、アクセスも良いと十石山を選定した。

http://maps.gsi.go.jp/?ll=36.161335,137.608266&z=15&base=std&vs=c1j0l0u0

 標高も2525mあるが、恵那山より高いものの、周囲の名峰の乗鞍岳、穂高連峰に囲まれて、格落ちする。しかし、人の多い槍や乗鞍よりも静寂な原生林の森をぬう登山道と展望は素晴らしい記憶があった。

 清見からr158を辿り、平湯温泉から安房トンネルをくぐって、白骨温泉に向かう。登山口はスーパー林道から登った記憶を頼りに、今は使われなくなった林道の料金所ゲートを通過した。急なカーブをこなしながら進むと工事中の現場で通行止めになった。その先の下った辺りとうろ覚えしていたので、通行止めの前に駐車して歩く準備中に工事関係者が来て退去。1人に聞くと少し下ったところの登山口を教えてもらったので移動。メンバーにスマホで「十石山 白骨温泉」で検索してもらうと、地形図もヒットしたので、この道にまちがいないと確信した。
 なるほど、十石山の登山口の看板はないが、それらしい道標はあり、登山道が続いている。ここは急カーブの膨らんだ左端で、地形図では温泉から来る登山道とはつながっていないが実際にはつながっている。標高1420M辺りになる。pはないが5台は置けるスペースがある。
 8:30過ぎ、出発。最初は唐松の植林内を登る。喬木の針葉樹が林立する平になると、15分くらいでスーパー林道から来る登山道との三叉路に着いた。林道からの登山道は笹がかぶり整備はされていないようだ。
 ここから左折して急斜面の森の中の登山道をジグザグを切りながら登る。白樺の大木もあり素晴らしい原生林である。ジグザグを終わると平らかに成り、1835Mの山腹を巻くような平坦な登山道になる。ここらあたりは樹高30M以上はある原生林で鬱蒼としている。平坦な道が終わるとはっきりした尾根道を登り、眼下には梓川の谷間も見える。樹高も段々に低くなってきた。
 途中で休みを取りながら高度を稼ぐと樹間から穂高の一角が見えた。不思議なもので少しは苦労が報われた気になって疲れが軽減された。一本調子の登りが続く。周囲にはナナカマドの紅葉と赤い実が目立つようになった。足元にはツルリンドウが見える。
 周囲の樹木がみな低くなって、草地が開け、ナナカマドの潅木帯になった。ここのナナカマドは実は赤いが葉が青い。夏は高山植物の花々の咲き乱れた風景が想像される。地質は風化花崗岩で一部風化して崩れた箇所もあった。そこは初夏でも雪渓が残りそうで水が取れるだろう。ここから十石峠小屋はすぐだった。小屋は堅固に造られ立派なものである。
 山頂へはハイマツの稜線を乗鞍岳に向かう。登山道は風化して崩壊しているところとぎりぎりで通る。いくらもアルバイトすることなく三角点のある山頂だった。その先は登山道ははっきりしているがハイマツが立って歩きにくい。ここで首に巻いたタオルを献上したようだ。?
 小屋に戻る途中、焼岳よりの小高い丘に寄ると一層眺めの良い場所に着いた。小屋に戻って中に入るときれいに使われている。一と晩泊まってみたい。水は桶に貯めた天水が利用できる。
 下山は往路を戻った。s君が膝の故障を訴えたのでテーピングした。登山口の手前で山猿の大群に出会った。驚いたが、山猿の方がもっと驚いただろう。ボス猿が警告の叫び声を発して、素早く、大木を逆さまに下りた。ぞろぞろと猿の群れで山がざわめいた。登山口には約2時間半ちょっと。往復6時間の手応えたっぷりのワンデイ登山だった。
 町営の露天風呂(510円)に入湯。車道から階段を相当くだった。湯沢と湯川の合流する手前にある。白濁はしていないがいいお湯であった。帰路は久々に境峠を越え、r19経由で帰名。

五竜捜索隊の解散式2015年08月27日

 8/26、夜、支部ルームに大勢の若い人たちが集まった。去る4/11に結成された五竜捜索隊の解散式ということである。若い会員等の無償の働きがあった。その中に老齢のわが身もある。雪の尾根や谷を縦横に探し回る体力はないが多年の経験から何とか埋没地点を予測することができた。
 4月、5月GWと行ったが見つからなかった。6月半ばに残雪の谷の中で3人は遺体で発見されたのである。これは早大山岳部OBの連中で意地に掛けても探し出した。その執念が実った。大町警察署も驚くほどスピーディな発見らしかった。先年の御池岳も長期に亘ったが執念で探し出した。遺体の発する電波のようなものが強いのだろうか。
 7月には遺族のお別れ会が催されて私も出席した。大半は勤務先の東京海上火災の社員だった。しめやかではなく、賑やかに行われた。
 そして、8月になり、捜索隊の解散式になり、けじめをつけた。支部長Oさんも出席。今後の遭難対策についても話し合った。愛知岳連の遭難対策口の話もしておいた。鈴鹿の遭難者の60%以上は愛知県民であり、増加傾向にあるからだ。
 解散式の後は、近くの飲食店でミニ宴会になった。久々の顔ぶれに話も弾んで酒量がオーバーしてしまった。地下鉄に乗ったところまでは覚えているが、気が付いたら米野木駅だった。すでに12時を回っている。電車までオーバーしてしまった。終電だったのでやむなくタクシーで帰宅した。名鉄運賃260円とタクシー代3700円余りを払った。宴会での飲み代は某筋の配慮で無料だったが、トンだところで支出してしまった。
関連記事
http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/07/09/7703946
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西穂高岳2015年08月10日

 8/8~8/9。新人3人組の要望に応えて、各務原の伊木山での岩登りのトレーニングに続き、西穂高岳に登山を果たす。最終目的は槍穂高連峰の大キレットのトレースになる。

午前4時起きて支度や普羅忌なり

奥飛騨に来ればさはやか槍も見ゆ

ハイマツの尾根はただただ残暑厳し

竜胆や岩を攀づれば西穂高

西穂高岳に立つ行く雲の秋めきて

灯火親し福島訛と相部屋に

北ア・薬師岳慰霊登山2015年08月03日

 今年も同窓会富山県支部の幹事の方から電話で薬師岳慰霊登山へのお誘いを受けて即決で参加することにした。今回はブログで知った兎夢さんが同窓と知り、行事の案内をしたら同行することになった。。
 名古屋を7/31の夜発ち、岐阜各務原で兎夢さんと合流。沢の話、奥美濃の山の話で盛り上がった。ひるがのSAで仮眠。あるぺん村に集結。
 8/1から8/2にかけて9人が登山。幸い2日とも好天に恵まれてアクシデントも無く無事に下山した。余談だが、毎々、太郎坂の急登は足にこたえる。今回も足の痙攣に備えて持参した「芍薬甘草湯」が9人中3人の役に立った。

 たった今読んでいた本にこうあった。

「記憶の働きというのは不思議です。人は二度死ぬと言います。一度は息を引き取ったとき、二度目はその人のことを記憶する者が居なくなったときです。中略。誰からも忘れられたとき、人は二度死ぬのです」
                                   渡部昇一氏

 死者から見て世の中から忘れられて行くのが一番辛いことです。ですからお彼岸やお盆の行事もあるでしょう。靖国神社や護国神社も戦争で亡くなった人を忘れないためです。

 薬師岳で死んだ愛知大生13人を慰霊するのは今はもう直接関係のない人ばかりになりました。しかも若い頃、登山をしていたわけではなく、ふと気づいたら自分の住んでいる富山県の山で大先輩達が亡くなったことを知った。経験者でも辛い3000m峰に登ってせめてもの慰霊をしたい。そんな気心を持った人ばかりです。
 こうしたアクティブにして稀有な行事が継続されるのは富山県人が真宗の徒だからといえるだろう。地味ながら北陸地方の片隅で人生を刻んでいく同窓の活動に敬意を表する。

 山行記は過去のものを貼り付けた。
2010年
http://koyaban.asablo.jp/blog/2010/08/02/5262666
2012年
http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/08/06/6532244
2013年
http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/07/29/6927586

さあ!Iさんの捜索行が始まる2015年04月12日

 去る1月19日、北アルプスの五龍・遠見尾根の一角で山スキーを楽しみに来ていたIさんと仲間2人が行方不明となった。47スキー場のマイカー内に残された山スキーの資料の内、村尾根の部分が無い事から、逆にそこへ行ったのではないかと、推測されている。
 4月11日夜、ルームに集まった会員は21名、それ以外にも10名以上が協力する意思を取り付けているという。支部長Oさんの挨拶後、出席者の自己紹介、これまでの経過説明があって協議に入った。
 中心的なYさんの説明では1月の事故直後は大町署は捜索行動そのものを制限された。何しろ一晩で1m近く積雪があり、天候不順でもあった。2月、3月も有志が少数で捜索に入っているが成果はない。
 捜索行動の面で若手の中心になるT君からは家族との連絡状況の話もあった。生存可能な間は頻繁にヘリが飛ばされたが、絶望的になった後は飛ばないことに焦燥感もあるようだ。
 豪雪地帯の遭難救助の困難さが理解できないのだ。
 今、4月になって、5月半ばまでが捜索の適期になったと思われる。雪が解ければ、村尾根滑降はできなくなり、山が緑に包まれると目視が困難になる。発見されても遺体を運ぶことすらも困難になる。雪の中で凍結していると見られる今がきれいな状態で家族に対面させられる適期と思われる。
 まず、組織的にコントロールされた中でやろうということになった。二重遭難を回避するためにも無理はしないで、複数でパーティを組み行動すること、捜索に行く際は届け出る、という基本的な枠組みを確認した。メンバー表作成、交通費など捜索資金の会計管理もする事務局を立ち上げていくことにした。
 捜索ポイントとして、私がにらんでいるのは村尾根の中間地点の緩斜面の辺りだ。急斜面を滑降して、緩斜面に突入し、また、狭い尾根にルートファインディングしながら突入する。そして平川に着く。平川についても左岸林道は雪崩の巣のような箇所がある。緩斜面で右か左の沢に迷い込むとより雪崩を誘発しやすくなる。
 平川はすでに雪解けの水で濁流と化しているそうだ。スキー板、ストック、帽子、ヤッケ、ザック、手袋と証拠品の発見も大切なポイントになる。鈴鹿の御池岳の捜索では手袋1つで発見に結びついた。延べ700人以上が協力し、2月半ばから4月末までの大捜索に終止符を打った。
 まず手がかりの1つでも発見に努めるべく、5月GWも返上して、参加することにした。5月16日の総会までに報告できればいいが・・・。

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乗鞍岳の徳河谷パーティは無事だった!2014年09月07日

 東京から来た沢登りの5人パーティが、北アルプス・乗鞍岳に突き上げる徳河谷に入渓して、その日に下山しなかったために車を駐車されたキャンプ場の管理人が心配して警察に届けた。ヘリで捜索の結果、発見されたらしい。パーティは遭難したわけではないと、救助を断り、自力下山すると伝えたそうだ。
 駐車場の管理人は駐車を沢登りは危険だからと、断ったらしい。それでも1泊分の料金を払って出発していったとのこと。この報道では登山届云々は書いてないので、不明である。5人の代表からすれば、自己責任だから、と届けなかったものか?
 実際、沢登りは救助する側の方にも危険が大きい。岩登りは垂直なので捜索救助は専門的になるが、範囲は狭い。徳河谷の地形図を眺めても距離は長いし、範囲も広い。組織された山岳会ならば救助体制もあったと思われる。
 それに、東京からわざわこんな遠方の沢に来るのだからよく研究しているはず。沢中1泊の予定ならば、技術も体力もあるのだろう。捜索されているなんて思いもよらないことだったと思われる。
 ではなんでこんな大騒ぎになったのか?
 やっぱり、管理人に登山計画書を渡すか、口頭で、万全の体制で遡行するんだ、と説明するべきだったのではないか。

 捜索する側と当事者とのすれ違いは私にも経験がある。
 木曽のスキー場を2ヶ所つないでスキーツアーをしたが、メンバーが谷に落ちてしまった。事なきを得たが、谷底から稜線に戻るために、時間が大幅に遅れた。下山予定のスキー場で待機していたメンバーが約束の時間に帰らない為に、心配してパトロールに届けた。そのために捜索隊がスノーモービルで救助に向かい、林道を滑走中に出会った。その際の第一報が「遭難者を発見」であった。我々は発見されたのか、とがっくりした。当方には遭難したという意識はなく、救助を求めたわけではなかったからだ。それでもすっかり暗くなったスキー場の1室でパトロール員に謝礼を言って帰った。
 もう一つは、
 これも中央アルプス南部の安平路山に突き上げる大西沢を遡行したときのこと。廃村・松川入には誰も居なかった。大堰堤を越えて、大西の大滝も見た。順調に遡行し終えた。安平路山の頂上を踏んで、避難小屋に泊まった。翌朝、摺古木山を経て大平宿に下った。その際、飯田市からジャンボタクシーがお客を乗せて来たので、帰りに松川入まで寄ってくれと、交渉すると気持ちよく格安に乗せてもらえた。
 松川入りに着くと、無事下山できた喜びも束の間で、そこに御影工業高校の遭難碑の管理をしていた老人がいた。その人の話では夜通し、爆竹を鳴らしたり、花火をあげたりして、下山を待っていたと聞かされた。車が1台ぽつんと置いてあるので、もしや遭難しているのではないかと訝ったのである。
 「待つ身は辛い」とよく言われるが、大西沢の沢登りとは露知らず、待っていたのである。そこで、我々は丁重に謝礼を述べて、老人の仮設小屋に入って山の話をとっぷり聞くことになった。老人が入れてくれたコーヒーを飲みながら「遭難して、誰も慰霊に来ないのは寂びしがる」から花を植えたりして管理しているという。まして高校生と教師を含む7人の遺体はあがっていないから尚更だろう。元消防署員で、遭難事故当時は捜索にも加わった。定年後は誰もいない廃村に来て見守っているのだという。
 今回の騒ぎにせよ、自分の体験にせよ、われわれ、登山者は社会に対して随分心配をさせている。社会とつながっているので、そうさせない心がけが大切だと思う。マイカーの見えるところに登山計画書を置くとか、沢中でビバークすることが分かるようにするとか。今年の夏は谷での死亡事故が続出しているので、関係者はまたか、と肝を冷やしただろう。
 今回は無事で良かったですね。