1等三角点研究会の例会山行に参加2017年05月28日

2009年の例会では六谷山に登山した。
 入会年月は東海白樺に続いて長く30年くらいになる。例会山行には中々出席できないが勉強になることが多い会である。文字通り研究会である。草創期は1等三角点がどの山なのか情報がなかった。登らないと分からなかった。登った人は会報で情報を公開する。それを共有するための会だった。
 例えば当時は段戸山(今の鷹ノ巣山)は20万地勢図で△記号があったので1等三角点と思われたが、実は100mほど低い出来山だと知った際はへーっと思ったものだった。
 それが今は一覧性のある専門書も数々出版されて情報は豊富になった。しかし、その希少性はなくならない。半島、離島や僻地の1等はまだ情報の価値は高い。懇親会でもある離島の1等三角点に行くからと同行者を募る話も出た。
 27日は自宅を15時に出て県道58号を走り、保見の先の交差点を左折して金泉閣に向かった。約1時間で着いた。早速受付を済ますと大槻会長と旧交を温めた。そばには同窓の早川総支配人もいて挨拶を交わした。事前に行くことを連絡していたからだ。
 懇親会では京都、滋賀、大阪を中心に富山県、静岡県、千葉県、横浜市、宮崎県、北九州市、山口県、茨城県などからから集結した39名が交流することになった。知っている人は富山県のYさんのほか3名くらいになった。草創期の会員は高齢化で亡くなったり、動けなくなったりしたようだ。つい先だっても古参の新潟のYさんが死亡されたメールを受け取ったばかりだった。
 27日夜は猿投温泉に宿泊して英気を養った。28日はまたとない素晴らしい五月晴れになった。38名が登山に向かう。猿投神社の駐車場まで見送って別れた。

一等三角点研究会会報『聳嶺』新世紀第九号 創立十周年記念号2016年12月17日

 創立10周年ということで多くの原稿が集まり197ページの大冊になった。登るだけでなく書くことも好きな山岳会である。1等三角点だけに特化しているが狭いかというと反対に深く広いのである。はまると船をチャーターして離島の1等三角点にも行く。
 会員数はいつしか178名に増加している。それに住んでいる周りに必ずあるから全国にまたがる。
 里山とか、名山とか、何とか百山とか、そんな分類にとらわれず、1等なら丘に埋まる三角点から3000m級の山でも行く。必ずしも最高点にあるわけではなく、一段低い尾根上にある例外も面白い。地形図制作のために置かれるから位置が大切なのである。日本最高峰の富士山にないのが証拠である。マニアックといえばそうだし、フェチシズムともいわれる。そんな魅力がある。
 巻頭は会長の挨拶、特集は全部で25本の論考で構成。資料として10年間の歩み、例会記録、総索引で構成。他にも多彩な論考があり充実の1冊で読み応えがある。

俳句と越の小さな山旅2016年10月11日

 10月9日。所属結社「辛夷」のイベントに参加するため、早朝2時に自宅を出た。今年も天気の良くない連休になった。東海北陸自動車道の長良川沿いの道になると降雨が激しくなった。しかもトンネルが連続するのでワイパーの操作が面倒なほど。白鳥ICの手前では豪雨となった。時速60kmに減速し、4WDにONしておく。路面の水量次第で4WDでもハイドロプレーニング現象が起きる。対策は低速で走るしかない。高鷲ICからやや大人しくなる。ひるがのSAで仮眠。飛騨清見から高山ICまで走りR41へ。交通量は多め。
     大山歴史民俗資料館へ
 富山市内に入り立山方面へ右折、旧大山町から常願寺川を渡ると立山町だ。常願寺川はいつも見る氾濫河原が隠れるほどの濁流である。両岸の堤防はここから始まっている。両岸一杯に広がって海まで突進するようだ。
 下流の雷鳥大橋の河川内の標高は115m、左岸(西)の富山地鉄・月岡駅付近の三角点は86、9mですでに天井川になっている。右岸(東)の立山町側は123mで少し余裕がある。つまり、富山平野の東部は常願寺川の氾濫がもたらした。夥しい土砂は五色が原の鳶山の大崩が原因らしい。旧立山温泉は立ち入り禁止になり多くの砂防堰堤が建設されている。
 いつもの道の駅兼コンビニへは7時半に到着。9時まで時間をつぶす。目的地は亀谷温泉の大山歴史民俗資料館だが、小止みになったので雄山神社に寄る。境内を歩く。隣には富山県立山博物館がある。9時過ぎたので大山歴史民俗資料館に向かった。道を少し戻る。山猿が数匹民家の屋根に上ったり道路に下りて何かやっている。常願寺川にかかる小見への橋を渡る。砂防堰堤が滝のようになって奔流する。地響きが聞こえるようだ。小見から亀谷温泉へ右折。九十九折れの道を登りきると有峰林道ゲートの手前が目指す資料館だ。
 今まで登山の帰りに温泉に入湯することは度々あってもここへ寄ることはなかった。時刻少し前だが入館を許された。いきなり伊藤孝一が有峰がダムに沈む前に買い上げた狛犬を見たいと来観の意思を告げた。奥に展示してあるが順路と言うものがある。右回りに説明を聞きながら色々質疑応答して学ばせてもらった。
 想像した以上の山や向きの資料館だった。
 第一展示室では宇治長次郎、金山穆韶(ぼくしょう)、播隆上人が大山町の三賢人として顕彰されている。
 第二展示室は常願寺川の治水と発電、
 第三展示室は有峰、大山地域の鉱山・恐竜となっている。念願だった狛犬は全部で八体展示。太めの犬くらいの大きさで木質系の荒削りな造形である。円空仏のイメージにそっくりである。すると有峰の住民の先祖は単なる農民ではなく、落ち武者だろうか。円空は木地師とされているが、流れ者の木地師に彫らせたものか。
 放射性炭素年代測定という科学的検査で古いものは大体1300年頃と判明したらしい。いずれもひびが入り朽ち始めていることは確かである。パンフレットには
サル 2体 1334年鎌倉末 ヒノキ科
シシ  2体 1452年室町前 軟松類
ヌエ  2体 1531年戦国期 軟松類
クマ  2体 1814~1879年 江戸後~明治初  モクレン科
とあった。
 これを大正9年にダムに沈む前に名古屋のお金持ちで登山家の伊藤孝一が購入したという。一旦は名古屋に持ち出され、疎開で長野県の赤沼家へ一家とともに狛犬も移転した。これを赤沼氏が買い取って松本市民俗資料館に寄贈したという話。それを松本市から富山市は返還を希望して里帰り(有峰は水没したのでJターンというべきか)を果たしたのが平成になってからのことだった。
中々に存在感のある狛犬であった。結構長々と話をした。次の目的地の富山市電気ビルに走った。
      富山市俳句会へ
 13時から年次大会に入った。結社賞などの発表、投句の選評、その後の懇親会、句会など順調に運行された。40歳で入会したころは初代主宰の前田普羅から直接指導を受けた俳人もいた。年々鬼籍に入り、来賓席にならぶ古参俳人は当時の数名から2名にまで減った。1人は2代目主宰の中島正文(俳号:杏子、日本山岳会会員で山岳史家)の直系の俳人である。3代目の福永鳴風を支えた俳人たちが基盤を守って、4代目の現主宰・中坪達哉を支える。俳誌も現在は1080号を数える。来年は主宰継承後10周年となる。
 この10年間には東京のS女を病死で失い、続いて片腕というべきY氏の急死という波乱にも見舞われた。いずれも結社を支える実力は互角の有力俳人だった。3代目の福永鳴風は昭和55年「花辛夷守らせたまへ普羅杏子」と詠んで、指導者に徹する意味でレッスンプロを自認し、継承の決意を示した。鳴風が育てた若手4名のうち2名を失った。将来の発展のための布石を打つ時期が来たと言える。句会後は散会となる。
       氷見市/七尾市・蔵王山(点名:高坂山)へ
 10月10日。本当は7日から8日は毛勝三山の猫又山に登山の予定だった。天気不良、膝の痛みを警戒して大人しくした。10日は降雨は逃れそうなので昨年と同じ能登半島の1等三角点の山・高坂山507mを予定した。
 ホテルを出たのは寝過ごして8時40分となった。R8からR415へ行き、氷見市に向かう。なるだけ富山湾沿いにドライブした。氷見市の北部の阿尾から県道306号平阿尾線に入り七尾市との境界に近い平に向かった。平は氷見市最北の山村であった。つまり富山県最北でもある。入善町や朝日町とほぼ同じ。
 平とは名ばかりで傾斜地に山家が建つ。地形図では20戸を数えるが人の姿は殆どない。こんな僻村でも人が住んでいた。富山県知事選挙の公報があるからだ。どこにも登山口を見いだせないまま石川県まで走ってしまった。林道からは富山湾を見下ろす。雪の立山連峰など素晴らしいだろう。
 平へ戻って古老に山の話を聞くと意外なことを言う。三角点か、有名らしいなあ、大阪や京都からも大勢来る、この前は80歳の老婦人も来たよ、と言うではないか。同好の士である。この山はねえ、1等三角点という希少価値があるんです、と言うとおおそれだ、と答える。歯はほとんどないがはっきりしている。道はなあ、笹を刈ったと聞いている、剣主神社に車を置いて行けや、と教えてくれた。どうやら登れるらしい。
 神社の境内に駐車。12時10分。舗装された農道を登る。舗装が切れた辺りからは棚田の風景が広がったが休耕田もある。登山口の表示を探すがない。農道から山に通じそうな刈り払いがあったがなぜか足が進まなかった。
 高坂山は目前にあり、東尾根が伸びている。農道から草深い踏み跡に分け入り、尾根の根っこまで近づいて地形図にある破線路(用水路沿いの踏み跡)を歩きながら尾根と落差が縮まったところで杉の植林の中を尾根に這い上がった。12時28分。尾根には微かな踏み跡があった。但し倒木もあり度々道を外した。ヤブっぽくなると道に戻る。すると七尾市側の良い道と合流した。広くて浅い沢のようないわば街道を歩いた。山頂が近づくと再び細道になる。13時登頂。3m四方が刈り払われているきれいな山頂である。1等三角点本点である。周囲は雑木林で眺望はほとんどない。25分滞在後、平へ30分とある道標のある良い道を下った。最初は南尾根の樹林の道から山腹を横切り、芒の生い茂る湿地帯を行くとさっきの農道へ出た。何だ、この道か。印は何もない。Pへ着いたのは14時過ぎ。2時間ほどのハイキングだった。
     石動山(せきどうさん)を散策
 まだ時間があるので石動山へも行って見た。そこは山岳信仰の拠点だったという。最高点の564mの大御前に登拝してみた。小さなお社があった。白山宮という。そこから城跡を経て下山した。樹林の隙間から富山湾が見下ろせた。結局医王山、宝達山と来て本当は石動山に置くはずだったが先に神社があって三角点設置はならず、高坂山になったのだろう。資料館のスタッフは白山宮ははくさんぐうで良いが、白山をしらやまと言った。昔は加賀能登も越の国であった。だから越の白山(こしのしらやま)と呼んだ。相当古い歴史の山のようだ。
 さて、思いは果たした。県道306号を戻ってまた富山湾沿いに走った。虻ヶ島からの立山連峰の眺めが素晴らしいと宣伝する表示があった。
http://www.info-toyama.com/image/index.cfm?action=detail&id=1124
このサイトを見ると確かに素晴らしい眺めだ。剱岳を中心に左に毛勝三山、右に立山が見える。湾に浮かぶ島が前景で立山連峰が借景になっている。こんな時期に来たいものである。今日はあいにく厚い雲の中だ。
 R160をひたすら走る。いろいろな観光施設が新しい。R160からR415を走り高岡市に着いた。R156から砺波ICで北陸道へ。今回は米原経由で帰名。
 これで『一等三角点全国ガイド 改訂版』(ナカニシヤ出版)に収録された1等は愛知県、岐阜県、奈良県、富山県、福井県は完全踏破、石川県は穴水の河内岳、輪島の下山村(三蛇山)と鉢伏山、七尾の天元寺(遍照岳)、宇出津の沖波山、小松の清水山が未踏。離島の1等3座は行かない。三重県は大平尾村4.5mのみ未踏。長野県は大物では四方原山、長倉山、八風山、が残る。

東三河・葦毛湿原から神石山、石巻山縦走2016年07月02日

 昨日から暑くなった。昨夜は仕事仲間の会合の後結構飲んでしまった。ちょっと喉を潤すつもりがちょっとではおさまらない。2次会の誘いを断ち切って明日に備える。
 朝6時30分過ぎには起きた。梅雨曇りであるが出かける。7時過ぎ出発。行く先は葦毛湿原だ。豊川ICからR151,R362,県道31と走る。県道31はバイパスができたらしい。そっちへ流れていくので付いてゆく。乗小路トンネルが今年3月に開通して多米町へすっと抜ける。ということは葦毛湿原へも早くなったわけだ。県道31から県道4へ左折、多米峠に向かう。豊橋市民俗資料室収蔵室の辺りに葦毛湿原の道標があり右折。田園の中を突き抜けて山に当たると右折、そのまま行くと葦毛湿原の駐車場に着いた。第一駐車場はガラガラだが、入り口のある第二駐車場は満杯状態だ。時に9時30分である。
 湿原への歩道を行く。湿原への入り口で今日は右の木道を歩いて見た。そして、NHK二川中継所の案内に導かれて木道を終点まで登る。名も知らぬ小花が咲いている。低灌木に覆われた山道を登ると明るい桧林になる。途中で右へ急登する分かれ道があるが道標はない。そのまま歩いてゆくと小沢を渡り、すぐに湿原からの道に合流した。次々とハイカーに出会う。一息峠をパス。緑濃い照葉樹林の道は快適だ。豊橋自然歩道へ突き上げる階段道を登る。いわば稜線に着いた。涼しい風が通り抜けて行くが休むと蚊が多いことに気が付いてすぐに歩く。
 二川中継所まではちょっとした登りがある。樹林から解放されて豊橋平野、湖西が良く見渡せる。悪いと思った天気が晴れ間も出て良くなった。一息で中継所に着いた。以前は見晴が良かったが立木が成長して見晴は良くない。中継所を後にして神石山に向かう。小さなアップダウンを繰り返す。舟形山、普門寺峠まで快調に飛ばす。ハイカーがどんどん登ってくる。前後するハイカーも居て、銀座さながらである。神石山までの急登に耐えて11時50分、登頂すると大勢のハイカーが休んでいた。ここで私もおにぎりを食べた。
 昔は航空灯台だったという1等三角点の山であるが豊橋方面は見えない。静岡県側では湖西連峰というごとく浜名湖が俯瞰できる。
 昼食後は石巻山に向かって出発。いくつもの小さなコブのアップダウンを繰り返しながら多米峠に着いた。ここにもハイカーが休んでいたので話をすると地元の岩田のから来たという。多米自然歩道を下れば県道4号に降りる。
 先へ急ごう。先ほどから白い小花の花を見る。サラシナショウマかと思いきやオカトラノオだった。ところどころに群生している。ササユリは萎れていた。
 多米峠からの登りは長くちょっときつい。しかし、すぐに赤岩自然歩道分岐に着いた。左へ行けば多米町の交差点に出て葦毛湿原に戻れる。豊橋自然歩道は右へ急旋回してゆく。下ったり登ったりを繰り返すとようやく石巻の名前のある道標を見出す。最初は早過ぎてパス、2回目の分岐は高圧鉄塔の高みから左へ行くがパス。結局、大知波峠まで下った。ここは草地で廃寺跡の石碑と案内板が建っている。浜名湖もよく見える良い休み場だ。
 峠に戻ると長彦自然歩道の道標の上に石巻観光道路の道標が付いている。左には林道のように広い山道が通じているので下る。右カーブで豊橋自然歩道の分岐があるが意味不明なので道路をそのまま下る。下りきったところに鉄柵がある。石巻山からの林道(石巻観光道路)と合流した。
 そのまま歩くとまた石巻山へ登り返す感じで歩く。石巻神社の鳥居前で石巻観光道路は終わり、石巻自然歩道支線になって車道まで下っていく。ここで15時50分だった。
 車道は県道31の通行も見えるがそのまま山裾に沿って下り、登り返して住宅地を抜ける。県道31に近づいたところで県道に行く。そのまま歩くと乗小路トンネルに着いた。16時20分、ここまでで約30分、トンネルの右の歩道を歩く。630m歩くと多米町である。県道4号の交差点を左折。多米町の信号の交差点で16時50分。車道歩き1時間経過。ここを右折して田園地帯を歩き、「エムズ」という美容院を左折、2つ目の交差点を右折してすぐに葦毛湿原の駐車場に着いた。17時10分だった。
 80分なので平地歩行は時速4kmとすると5.5km位あったかな。昨夜のビールは山の中で出し、山で飲んだ水で汗だくになって車に戻った。着替えて帰名。体重は若干減ったが、膝痛は黄信号が出た。

東三河・本宮山 くらがり溪谷から登り風頭山へ下る2016年06月19日

           くらがり渓谷へ
 東名高速の岡崎ICから出て県道37を走るつもりがうっかりパスしてしまい、音羽蒲郡ICまで走った。本宿まで戻ってR473から樫山町月秋の交差点で県道37を右折しくらがり溪谷の駐車場に着いた。この際、新東名の岡崎東ICの傍を通った。高速で来るならここが一番近いと知った。
 地図上のイメージではもっと山深い気がしたから意外である。「岡崎東IC くらがり渓谷」で距離を検索すると旧岡崎市の東のよしの屋の岡崎東店からになるのはまだ認知されていないからだろう。名鉄の東岡崎駅もあり、しばらくは混乱する。そもそもここを岡崎東とするのは無理がある。額田なる歴史ある地名は地図から完全に抹消されたのは寂しい。せめて岡崎額田ICに変更を希望する。
          くらがり溪谷を歩く
 さて、午前6時50分に着いたが、駐車場の開場は午前9時からになる。待っても居れないので、鍵はないのでチェーンを外して入った。7時過ぎに静寂のくらがり渓谷を歩きはじめる。といっても山上まで車道の通過できる林道歩きである。渓相はうっそうとした樹木が日光を遮って文字通りくらがりである。
 地形図には漢字で「闇苅溪谷」とある。本宮山の三角点近くまで水線で突き上げるもっとも正統な溪谷である。源流部の楓橋には闇苅沢とあった。豊川市の宝川は砥鹿神社付近で消える。新城市側の境川も砥鹿神社で終わる。旧作手村も巴川(ともえがわ)の源流が突き上げるが傾斜が緩いので水線は表現されていない。くらがり渓谷は下流で男川(おとがわ)となり、乙川(おとがわ)に合流する。
 苅という字は草を刈ることに限定した国字という。槍ヶ岳山荘の創業者の穂苅三寿雄など信州系の地名や氏名と見る。谷は関西、沢は関東と言うから、闇苅沢の名称は関東か信州の影響下にあるだろう。
         くらがり山荘の歌碑・・・依田秋圃のこと   
 最初はバンガローとかキャンプ場などの観光向けの施設がある。杉はだれでも分かるが欅などは名札で初めて分かる。そんな樹種を見ながら歩いてゆくとくらがり山荘という大きな建物に着く。周囲は紅葉の名所のようだ。今は緑だが11月中旬以降は燃えるような彩になるのだろう。
 ここには奥三河の山と人を愛した依田秋圃の歌碑が建っている。東京帝大林学科を卒業後愛知県に赴任した林業技術者であった。後に浅野梨郷らと交わり、愛知歌壇の草分け的な存在だった。(http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/06/16/7670502

 ゐろり火に添ふるたきぎの音たてて燃ゆるに山の夜は更けにけり

周囲は闇苅国有林である。左岸側の尾根には宮標石が埋まっていたから戦前は御料林だった。樹木の太さからおよそ樹齢100年以上はある。100年前の1916年は大正5年。事業計画書は明治42(1909)年作成。この歌は歌集『山野』の大正12年「凍る夜」の第1首。林業地の事務所に泊まった時の歌。
 明治中期に旧宮崎村の山本源吉翁が山焼きで兀山だった村有地を植林に切り替えた。その植林事業の計画書を作成したのが林業技師の依田貞種だった。歌人だから歌集もあるが散文集『山と人とを想ひて』の中の「くらがりの蛭」に山本翁と村有林からくらがりの御料林を歩いた話が蛭の被害と共に語られている。場所の特定はできないがこの地に足跡のあったことは事実である。
           馬の背平へ
 さて、くらがり山荘を過ぎると人工的な施設は廃墟然とした一ぜん飯屋の東屋で終わる。これまでも景勝地にはそれぞれらしい名称を与えているが淵も滝も奇岩も中途半端な気がする。あえて名前を与えてまでハイカーの気を引くまでもない。圧倒するような滝もなく、吸い込まれそうな深淵もない。くらがり八景と称してまぼろしの滝に着いたがスケールが小さ過ぎだ。開発し過ぎである。
 林道を延々登ると前方が開けて来た。何と源流部は皆伐されている。楓橋を渡ると本流は左へと山頂に突き上げる。裏参道は急坂を喘いで馬の背平に着いた。ここからは既知のルートになる。再びセメントで固めた参道を登る。転がりそうなほど急な坂道を登りきると国見岩の赤い鳥居の階段道の中途に着いた。ふるさと公園の一角に着いたわけだ。
          本宮山の地形図の疑問
 地形図には岡崎市と豊川市の境界を挟んで、ふるさと公園から実線が豊川市側に連続して下っている。これがどうも階段道である。ところが国見岩と岩戸神社の記号がない。名勝地はドットを三点配する記号であるがここにないので実線が何を意味するか不明である。国土地理院の記号には石段がある。鳳来寺山はちゃんと石段の記号になっている。やはり大己貴命を祀るのだから国見岩(岩戸神社)の名称を入れ、破線路で表現するべきだ。もう1本細目の実線は女道のことだろう。
 鳥居から中段まで下ると左へ踏み跡があるので辿ると地形図の池に遭遇する。これは地形図のダム記号で表現されている。錦鯉が泳いでいる。ゆるやかに尾根を残すとまた沢をまたぐ。すぐに林道らしい道に出る。直進すると奥宮である。
 右へ緩やかに下る。うっそうとした社叢林が静寂境を作り出している。小鳥の鳴き声が盛んである。やがて東屋(地形図の林道がV字の底の部分)に着いたが緑の落葉樹が茂って下界は部分的にしか見下ろせない。休んでいる人に聞くとできたばかりの頃はよく見えたらしい。ここまでは1.5mから3m以内の実線で表現するのは妥当だ。少しづつ細くなって、急カーブする先を下って本宮山林道に降り立つ。この部分は1、5mもないので破線路であろう。結局本宮山林道は国見岩への登り口が終点だった。
 多分、小型重機で遊歩道を開削する際に傾斜の緩いところまでとして、急なところは人手で道づくりをしたのではないか。
 池からの分岐まで登り返す。奥宮にも参拝した。また戻る。林道ならぬ遊歩道は水芭蕉園(旧スケート場)まで続くが今日はパス。
        風頭山へ下る
 さて、国見岩を経て、馬の背平まで戻る。平からは電波塔記号のある690mのピークまで車道を登った。施設は今は利用されず廃墟然としている。金網柵の右から回り込んで尾根に出る。地形図では破線路になっているが踏み跡は一切ない。赤や黄色のテープで登山者の痕跡が分かる程度だ。ただし、樹林の影になるせいでこの時期でも下草はほとんどない。右は桧の林、左は常緑樹などの雑木林になる。
 腐葉土の柔らかい感触を感じながら下る。最初の鞍部で河原町へ下る分岐になる。ここまで来ると両側とも桧の林になり、尾根の幅一杯は防火帯のような広さの道ともいえないが道のように歩ける。
 ここから600m以上のピークを数えること9座も越える。破線路は662mまであるが651m三角点へも迷うことなく行ける。道標はないが、赤テープのマーキングが随所にある。600mに3m足りない風頭山に着いた。馬の背平10:40から約2時間40分かかって13:20に登頂。ここで初めてパン1個を食う。暑いせいでおにぎりは入りそうにない。岩場に降りて本宮山を眺める。はるばる来たぜ、と思う距離感がある。下り坂の山旅であるがほとんど下らない。100m前後の比高しかないから健脚向きである。
 風頭山は今から21年前の平成7年に出版した拙書『続・ひと味違う名古屋からの山旅』に初めて紹介。他のガイドブックにもガイドされて次第に知られるようになった。地元の小学生が遠足で登る山であり、山頂には児童らの置いて行った旗が残っていた。どこをどう登ったかの記憶はない。踏み跡を辿ると25分で林道に出、更に杉林を30分下ると登山口の車道に着いた。徒歩20分で千万町口のバス停に着く。15時20分の名鉄バスでくらがり渓谷に戻った。歩けば1時間強だがバスなら210円かかるが6分ほどだ。岡崎東ICから新東名を経て帰名。名古屋ICまで920円。高速43km+地道15km位で58kmほど。1時間くらいで来れる。

東三河・本宮山・・・宝川源流を登り、表参道を下る2016年05月28日

 7時30分、自宅を出る。空は曇りがちだ。東名はやや通行量が多い。豊川ICを出て旧一宮町舎の信号を左折。県道21の交差点で右折。ウォーキングセンターへは8時30分に着くがまたも駐車スペースがなく右往左往する。遅かったのだ。人気の山は遅出には厳しい。そこで宝川の方へ直接行くこととした。県道21へ戻り、宝円寺のシダレサクラの案内板で右折。2車線の道を走ると里のはずれで1車線に狭まる。やがて新東名のトンネルをくぐる。右へ曲がると林道が続くが、未舗装になった辺りでUターンして駐車。
 9時30分林道を歩き出す。延々と続く林道だがところどころには道標もあって確認できる安心感がある。勾配が急になった先で終点。右岸へ木の橋が渡してある。滑りやすい板に注意しながらわたる。ここも結構広く林道の残存かと思われる。しかし、いよいよ沢に近づくと山道になる。
 岩をからむ道を行くと前方に滝が見える。また左岸へ渡渉する。滝は左岸から巻き、右から落ちてくる沢を注意しながら渡渉する。勾配はますます急になったがちょっとした平らな休み場に着いた。480mという。駐車地点で見た二人連れが休んでいた。
 国見岩まであと0.5kmとある。炭焼き窯の跡がしっかり残っている。戦後、石油が輸入されるまでは木炭は高く売れたという。だからこんな高い山奥まで炭を焼きに来たのだろう。
 ここから右の源流の音を聞きながら登ってゆく。かなりの勾配である。木の階段でステップを踏みやすく整備されているから安心である。そして、鎖場の連続するもっとも勾配の急な斜面をよじ登る。鎖は最初は2本で終わった。落石に注意しながら登ってゆくとまた鎖が現れた。大きな岩を直登するコースと迂回するコースに分かれたので迂回する方向に振った。その先にも道標が立っている。一方は林道へ、国見岩へと分岐する。その先でも鎖場をしのぎながら行くと鎖の三叉路になった。さっきの直登コースが上がってきたところだ。上から下山してきたので譲ると直登コースを下る。聞くと下に岩戸神社があるという。それなら見逃すわけにはいかないと迂回コースを下って直登コースに上がるとなるほど岩の間に何か祀ってあり、水が出ている。ちょっと拝んでから直登の鎖をつかんで攀じ登る。左へ急斜面を登ってゆくと国見岩に着いた。短いながら手ごたえ十分のルートであった。
 ガイドによればこの岩の下部に岩戸神社があると説明されている。さっきのは岩戸神社じゃなかったのだ。
 赤い鳥居をくぐって山頂直下の広場に着く。更に奥宮順拝路へ行くと山頂へ左折して橋を渡る。すぐに山頂だった。表参道を下ると多くの登山者とすれ違った。さすがはメインルートだけはある。大杉の林立する厳かな雰囲気を味わいながらくだった。途中に水場は2箇所あり、登りでも下りでも水筒の要らない山だなと思う。そのせいか、砥鹿神社境内の自販機は100円だった。
 基本的に展望のない尾根の一本調子の登り下りになる。それに飽きさせない工夫かどうかは知らないが、山姥の足跡、蛙岩、梯子岩、馬の背岩などの仕掛けをしてあった。
 ウォーキングセンターに着いて、マイカーデポ地まで行く。素戔嗚神社を経て宝円寺を見て歩く。農婦としばし世間話する。本宮山松源院の話も聞く。更に歩くと新東名も見えてきた。やれやれだ。W・Cから約40分だった。本宮の湯で汗を流した。帰路は県道21、R1、県道57、県道56とつないで走った。それでもまだ明るい。夏至が近づいてきたなと思う。

東三河・本宮山に立つ2016年05月15日

 今日も遅れがちの出発になった。右ひざの疼痛が気になるが晴れているので行ってみることにした。
 新東名を走った後で東名を走るとずいぶん路面が荒れていることに気が付く。新東名は滑るように走って行ける。クルマの性能がよくなったみたいだ。東名は凹凸があるわ継ぎ目の音がするしで長年の酷使に耐えてきたんだと思う。
 豊川ICで降りる。R151を走り、北へ向かうと、薄いガスがかかるが、本宮山が立派に見える。砥鹿神社近辺からは三河富士というように左右に均整のとれたいい姿になる。
 そろそろ梅雨の季節に入る頃だ。
 コンビニで買い物をする。レジのシートには合計789円とある。店員に「あれっ、今日は本宮山に来たんだけれどこの数字は標高と同じ」、と言ったら笑っていた。偶然の一致とはこのことだ。但し、登山口まで来るには来たが、Pは満車だった。平日でも登山者の多い山とは聞いていたがこれほどとは。結局、右ひざが悪いことにかこつけて休戦とした。
 そのまま帰るにはもったいないのでスカイラインを経て山頂だけでも踏んで帰ることにした。R151からR301を走ると新東名の下をくぐる。本宮山の山裾をトンネル9箇所が貫通していて、雁峰第一トンネルから観音山トンネルまで1/9から9/9とナンバーが振ってある。一番長いのが本宮山トンネルで2km余りある。信仰の山もズタズタにされた。
 R301からスカイラインに左折すると山上へ登る。こっちの道の方がもっとダメだ。駐車場からは砥鹿神社に行けるが今日はパスして、1等三角点を拝みに行く。頂上にはまだ天測点が設置されていた。奥美濃の大洞山は撤去されたというから貴重な存在である。一等三角点の標石も右書きになり新しく、改理された。標高も古いガイドブックなどは789.2mであるが、0.1mアップして789.3mになった。多くの登山者が続々登ってきた。やはり人気の山である。Pに戻り、くらがり溪谷に下った。こちらも結構な観光客を迎えていた。
 一等三角点の山は信仰の名山であること、展望がいいことから観光開発が盛んである。近年は電波塔も林立する。伊吹山、越戸大山、養老山、御在所山、大台ヶ原山、乗鞍岳、、鉢盛山など人気者ゆえに犠牲も多い。

東三河・越戸大山を歩く2016年05月09日

 5/5は大渋滞を予測できず、田原市内で昼過ぎになり、山に登るモチベーションがなくなった。それで写真撮影のみで帰名したのである。今日は気合を入れて朝6時に出発した。東名は込まないが、一般道に出てから混むので早朝の走行しかない。
 自宅からR302、R23に入ると高速道路なみに走れる。この道路は豊田市、刈谷市、田原市のトヨタの工場群と下請け企業を結ぶ産業道路だから休日は空いている。連休の最後とあって家族ドライブも少なくなったようだ。1時間ほどで豊橋市に着いた。
 天気は今日もゼロ%であるが、田原市に来ると半島の先が霞んでいる。太平洋側から海霧が流れているようだ。また悪い予感がしてきた。近づけば薄い霧が流れている。それでも上空は青空であるから、朝霧は女の腕まくりという天気の俚諺を思い出して、気を取り直す。登山口には8時に着いた。
 大山トンネル北口に登山口があり、Pも以前と変わりない。まだ誰も居ない。支度を整えて出発だ。登山口の目印から山側に沿った古い林道の廃道に入る。道は雨で荒れている。右に沢の音を聞くようになると細い山道になる。杉の植林であるが、林床にはシダ類がびっしり生えて、西南日本の植生を思わせる。傾斜が強くなると水音もはっきりしてくる。本流は右に分かれ、枝沢はもうお湿り程度しかない。この分かれ際に何とフィックスロープが張ってあった。ここからは大山と椛峠(なぐさ)を結ぶ稜線まで喘登を強いられる。
 夢中で上り詰めた稜線の植生もいつしか照葉樹に変わっている。ウバメガシに代表される西南日本の樹種である。樹高は高くないが、多分、原生林であろう。分岐からも急登は続くが広いので歩きやすい。小さな岩の突起に名前を付けて展望台になっている。すぐに小広い平地に着いた。昔のヘリポート跡地だろう。左から大山神社の参道が登ってくる。山頂はすぐ先にある。一等三角点本点である。
 かつて、柳田國男が旧姓の松岡國男だった頃、この山に登ったことを「遊海東記」に書いている。
 以前は通信施設の向こう側に行けば好展望が得られたが、今は、防護ネットで行けず、その代わりに鉄骨の展望台が建っていた。2011年3月に建ったらしい。標高も古い地形図では327.9mであるが、国地院のHPには328.0mとあり0.1mアップしている。あの自衛隊ヘリ離着陸問題の時も反対運動が盛り上がり中止になった。わずかな期間に小さな変化はあったのである。
 そのうち、4人パーティーが登ってきた。聞くと大山神社からで35分かかったとのこと。懐かしい三河弁の会話についつい話の輪に入った。やはり豊橋の人らだった。会話の中身や所作が初心者とかハイカーではないので、どちらからともなく、山岳会を名乗る。東三河山歩会と知って、三ッ瀬明神山の尾根や谷のルート16本を踏査した地域研究書『私たちの明神山』の本の件になる。その本買いましたよ、と急に話が弾んだ。
 その後、『東三河の山』、『本宮山』も出たとのこと。『本宮山』はまだ豊橋市内の山用具店「モンタニア」に在庫があるとのことだった。HPからも買えるらしいが、折角なので、帰名のついでに「モンタニア」に寄り道することとした。
 次は雨乞山へ向かうというので、椛峠まで同行することとした。山頂からは一気に下る。ところどころの突起した岩場で眺めを楽しむ。狼煙山で彼らは昼食タイムになったので、そこで分かれた。およそ山中にふさわしくない鉄塔に出会うと椛峠はすぐだった。約15分でシデコブシの自生地に着いた。
 途中で雨乞山に直登する登山路があった。これも以前には無かった。椛峠からも踏み跡は登っていたが、雨乞山に登った後で、どうするか。以前は148m三角点を経て用水路施設付近に下り車道を歩いて大山トンネル北口まで戻った。この新ルートを下りに使えば椛のシデコブシ自生地に下り、徒歩15分で北口に戻れる。

初詣登山2016年01月01日

 新年明けましておめでとうございます!

 早起きして、名古屋駅8時37分発の近鉄特急宇治山田行きで宇治山田駅へ行き、普通に乗りかえて朝熊駅で下車。10時50分、駅から伝統のある朝熊岳への登拝道を歩きました。途中で87歳の高齢のハイカーを抜きました。元気そのものです。いつまでも登山できる体力を維持していきたい。昔のケーブルの軌道跡を橋で渡る。尚も植林の中の道を登る。上から単独の人や家族連れが空身で降りてきた。
 朝熊峠で12時となり、とても眺めが良いので昼食。ここには昔、東風旅館という山宿もあったとか。峠から555mの山頂へ最後の登り。山上からは大展望でした。
 一旦下って金剛證寺に向かう。掃き清められた境内は淑気が漂う。ここで靴を脱いで、登壇し、参拝した。奥の院はパス。経塚の建つ経ヶ峰540mへ登り返し、朝熊ヶ岳の山腹を巻いて峠に戻った。
 峠からは狭い車道を歩く。これは昔の宇治岳道。子供の頃、小学生の同学年の母子づれで、よく鳥羽や伊勢に連れて行ってもらった。この山も多分、この道をバスに乗せてもらって登った気がする。所々には石垣が残り、茶屋の跡らしい。
 冬木立の中に1等三角点と天測点を見つけた。現在では利用されないが、地形図の測量史上、希少価値がある。少し先に御料局の標石を見た。この先はスカイラインと交差しながら、照葉樹林の木立の中の登拝道をだらだら下る。途中には小型トラックが放置してあった。下りきると、伊勢神宮を司る神宮司庁の境内に入る。道標はないので、地図で確かめて、職員等のマイカーが駐車してある建物を通り抜けると善男善女で溢れる参道に出た。遷宮時には参拝できなかったので、今日が初めてである。
 帰りにはお神酒をいただき、宇治橋を渡り、赤福餅を賞味した。おかげ横丁を横目に見て、近鉄五十鈴川駅までの徒歩は足に応える。約16kmの道のりを踏破した。17時10分の名古屋行き特急に乗車。

    伊勢の海航跡白し初御空

    山寺に踏み入れて満つ淑気かな

    朝熊より内宮駈ける初詣

    冬の日を浴びて嬉しき石仏

    登山後の体に甘きお神酒かな

    乙女げに少なくなりし春着かな

能登半島は秋時雨2015年10月12日

 10/11(日)は毎年恒例の所属俳句結社(本部・富山市)の年次大会である。その前後に登山を組み込む。天気予報ではあいにく、よろしくない空模様になっている。それで本格的なピークハントは止めて、10/12のみ能登半島の1等三角点のピークハントとした。殆ど車で登るからドライブ登山になる。

       神岡町はノーベル賞受賞で祝賀ムード
 10/11は朝から雨。高速道路も速度制限ありなので小牧からR41で北上する。ついでに神岡町の道の駅に寄った。小さな谷間の町はノーベル物理学賞を受賞した梶田隆章氏の祝賀ムードで一杯だった。狭い商店街の間には高く祝賀の看板を挙げ、商店の入り口にも受賞を祝う張り紙が目立った。道の駅のPは朝早い時間にもかかわらず、お祝いの観光客のマイカーで埋まっていた。梶田氏の功績は人類の生活にどんな利益をもたらしたものか、何度読んでも理解できない。交通量は多めなので会場へ急ぐ。

       富山市の電気ビルへ  
 13時過ぎ、大会が始まる。40歳で入会したからこれで26年目になる。毎年のように出席してきた。多くが高齢者なので将来が心配になるが、それはどこでも同じこと。山岳会も高齢化を心配しているが決め手はないのが現状だ。それにしても、顔ぶれは5年単位ですっかり入れ替わる気がする。知っている人は亡くなったり、退会されたか。知らない人が増えているからだ。
 辛夷賞などを発表。その後の主宰の心ばかりの講評は恒例になっているがこれがあればこそ会員の帰属意識を繋ぎとめられる。拙作は珍しく一句が佳作に入った。

 淡白なただそれだけの鱧の味

主宰の講評・趣旨・・・京都を代表する味覚として余りにも有名。裏話的に言えば、京都は食材が豊かではないから骨きりのワザで売っているんだとか。富山湾は魚介類の生簀というほど豊富なのでわざわ高いカネをだしてありがたがる人はいない。名古屋でもそれほどの人気ではない。京都人には見せられない俳句。

 大会後は懇親会になる。横浜市、横須賀市、前橋市、八王子市など関東圏からの参加者が多かったのは北陸新幹線効果だろうか。それぞれミニスピーチを披露。最後は地元俳人の恒例の八尾の風の盆の踊りでしめる。その後も残心句会があり、終わったのは8時過ぎ?だったか。
 山の句材は高齢女性には縁が無いために得点は殆ど入ったためしはない。今回は2点もらった。沢登りでは焚き火がありがたいので目に見えるかぎり流木や枯木をかき集める。そして燃やし尽くす。パンツも濡れるので尻も当てて乾かす。それを詠んだ。但し、枯木は冬の季語なので木切れか木っ端がよろしいとの講評があった。

 あるだけの枯木を燃やし夜長かな

       能登半島は秋時雨
 10/12は雨か、と思いきや晴れている。しめしめと思いながら、6時30分に富山市のビジネスホテルを出る。R8から北高岡ICを経て、能登半島へ行く高速道路に入る。ところが能登半島の道は縦横に迷走気味でナビの必要を感じる。地理勘がないので道路地図と首っ引きとなった。その上に時雨模様で大雨が降ったり止んだりする。日本海に突き出した半島の気象は変化しやすいようだ。11時にようやく、宝立山トンネルまで来れた。

        宝探しのような三角点探し
 そこから宝立山469mの1等三角点までは地道に入る。舗装道路だったが電波塔への分岐に間違った道標があり、未舗装の道だが、ぬかるみもあって、4WDでもスリップしてヤバイ感じ。やっと高みに行くがあるはずが無い。道標は全く反対を示していたのだ。結局、地形図をよくみれば簡単だった。分岐からわずか2分で登頂した。展望はない。しかし、能登半島最北端の1等三角点に来れて満足する。大降りになったので輪島市の鉢伏山、氷見市の高坂山は断念した。成果は1座で終わった。
 帰路も迷走した。徳田大津JCTから南の幹線道路は金沢市系統と富山県系統に別れているからだろう。北ではのと里山海道と能登自動車道が重なるのにここから南はのと里山海道は金沢市へ行く。うっかり、のと里山海道を行くと金沢市に行くと分かって、R415から氷見市へ迂回し、能登自動車道へ戻った。
 迷走気味だったが、雲に隠れがちな立山連峰らしい山なみも見えた。半島から眺めるのも素晴らしいだろう。次は立山に雪がある頃が良いだろう。