例会~来年の干支の山2022年12月08日

 12/7は山岳会の例会でした。11月に入って山行回数が増えて山行報告もしっかり聞くことができた。まだあんまり本格的な登山は少ない。来年こそは再開されるだろう。
 来月の予定は1例しか書き込まれなかった。1月ということもある。今年は雪が遅いので雪山の話も出てこない。例年なら年末は八ヶ岳の小屋で年越しもあった。しかしそれも声が上がらなくなったのは高齢化もある。
 低山、里山でも無数にあるので山には不自由はない。そういえば来年の干支の兎年に因んだハイキングの話も出た。岐阜の金華山の近くに兎走山があるという。卯辰山も候補になる。川上山の別名は兎番場ともいう。昔はオサンババと言っていた山は中山の正式名称が定まった。しかし別名は兎馬場(うさんばば)がなまったという。
 手応えのある山としては、奥越の赤兎山、南アルプスの兎岳(赤石岳と聖岳の中間)も良い。長い尾根が登路に使える。
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 遠くの東北に行くと、光兎山、屹兎屋山などいずれもいずれも1三角点の山だからストックにある。

⑥四国の山旅~諭鶴羽古道を歩く2022年11月21日

 南あわじ市は淡路島の最大の市である。総人口は45000人ちょっと。 淡路市は20000人、洲本市は40000人。淡路島全体でも124000人の人口がある。
 先日の樋口季一郎は南あわじ市の阿万町の生まれという。福良とは目と鼻の先のである。
ソース:https://intojapanwaraku.com/culture/159110/
 北海道石狩市には樋口季一郎記念館があるという。また北へ旅心を刺激される。

「1888(明治21)年、兵庫県淡路島の阿万村(あまむら:現南あわじ市)に生まれた樋口季一郎(旧姓奥濱)。陸軍士官学校を経て、幹部養成機関である陸軍大学校を卒業。将来を嘱望され、陸軍将校としての道を歩み始めます。」

 道の駅「福良」は静寂である。月曜日ということもある。車中泊のクルマらしいワンボックス車が数台とキャンピングカーが1台止っていた。夜の内には車の屋根を叩く雨が降った。
 果たして21日の朝は止んでいたが山の上は雲がかかる。行くしかない。弁当を食べて、登山口のある諭鶴羽ダムまでは約20分の分かりやすい道だった。

 ダムと言っても標高600mの山なので降雨量は少ないだろう。築堤の規模も小さい、左岸側に登山口があった。8時20分入山。
 最初は比高約70mほどの急登に喘ぐ。右からの尾根に合うと緩やかになった。すぐに「神倉神社(かんのくら神社:修験道の修行の磐座。神様の乗られた鶴が羽を休めた由緒あるところ。)」に着く。ここで休むには早いが通り過ぎるには惜しい。
 後は道々石仏を眺めたり照葉樹林の中で激しく鳴く冬鳥の鳴き声を聞きながら歩を進めると自然に着いてしまった。10時登頂。
 眺めは南あわじ市の街や田畑が見下ろせる。すっきりはしないが雨よりは良い。撮影すると諭鶴羽神社へ下ってみた。道は広くてしっかりしている。一等三角点だけに四方に眺めが良いから電波施設が多い。
 境内は南の光がかがやくように明るさがあった。無人だったが軽自動車もあるし、御神灯も点灯している。境内の一角には登山者向きの休憩舎もあったし、眺めは海が見えて最高に良い。
 昨夕福良に向かっている際にオレンジ色にかがやく一面の明るさは夕日に輝く海だったのだろう。
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 この神社も
ソース:https://yuzuruha.jimdo.com/
「諭鶴羽神社 御創建 二千百五十年祭斎行
伊弉諾神 伊弉冊神 鶴の羽に乗り
諭鶴羽山に舞い遊ばれ
そして・・・    諭鶴羽神社をご創建

 国生みをなされた 伊弉諾(いざなぎ)伊弉冊(いざなみ)お二柱の神様が、天つ国より鶴の羽に乗られて、この山で舞い遊ばれていました。この神聖な山に一人の狩人が掟を破って入り込み狩りをしてしまいます。
 あろうことか、狩人、二柱の神様が乗られた鶴めがけて矢を射ってしまいます。羽に傷を負った鶴は、頂上のカヤの大樹にとまり、二神は、人のお姿となって狩人の前に現れます。 
 『私は、伊弉諾 伊弉冊である。国家安全・五穀豊穣成就を守るためにこの山に留まるなり、これよりは諭鶴羽大神となる』
 狩人、涙を流して神様に謝ります。伊弉諾(いざなぎ)伊弉冊(いざなみ)お二柱の神様は、狩人を許し、村人とともに力を合わせてお社を建てることを命じました・・・このお社が、諭鶴羽神社です。
 今も、二柱の神様の乗られた二羽の鶴は、この山の上を仲睦まじく飛び続けられ、国の安寧と人々の暮らしを見守って下さっています。
(諭鶴羽山縁起より)
 諭鶴羽山の頂上には、頂上社として二神をお祀りし、奥の院は、最初に諭鶴羽神社がご創建された元の諭鶴羽神社として、二神をお祀りしています。」

「歴史の道『諭鶴羽古道』

 諭鶴羽古道は当神社を起点として灘黒岩へ十八町(表参道)又、神代浦壁へ三十町(裏参道)の二つのルートがあります。一町は、約109m、一町ごとにお地蔵さん(町目地蔵)が迎えてくれ、その表情も様々。季節ごとに豊かにその様子を変えていく山の表情ともあいまって、山歩きの醍醐味をお楽しみいただけます。」
以上
 何とまあ。昨日の伊弉諾神宮と同様のご神体が祭ってある。今回は裏参道を歩かせてもらった。歩きやすい山路でした。
 下山すると12時。ダムのベンチで昼食。田園地帯まで下ると温泉施設があったので入湯した。65歳以上は520円也。
 これで旅の目的は達成し終わった。しかしさっさと帰る気にもなれない。北淡町の野島断層記念館に道草した。平成7年の地震は強烈だった。あれでできた地面の断層がもろに残してある。730円。
 更に明石海峡真下の道の駅にも寄って海峡を往来する船舶を眺めた。海峡の中程が震源地である。夕暮れが迫りようやく帰名の途に付いた。

④四国の山旅~屋島ハイキング2022年11月20日

 ハイキングは景勝地の屋島の北嶺と南嶺を歩いた。8時30分集合だったが早かったので屋島寺を散策した。ここは84番目の巡礼のお寺だった。信者は専用の衣装を着て般若心経を唱えていた。
 ブログには「源平の合戦ゆかりの地と知られる屋島には、佐渡の三郎狸、淡路の芝衛狸とともに日本三名狸といわれる、狸太三郎が本堂横の蓑山大明神に祭られています。霧深い屋島で迷った空海を蓑笠姿の老人に変化し道案内をしたとの伝説があります。」とあった。
 集合後、最初は北嶺を経めぐる。先端からは瀬戸内海が俯瞰できて眺めは最高である。島の山歩きは良いです。小豆島も見えた。次はあの島の星ヶ城山も良い。植生は照葉樹林で覆われるが少しは紅葉する樹木がある。
 次は南嶺に回る。高松市内の全景が見渡せる。少し観光地化が進んでいる。ここは施設も多い。292mの一等三角点は案内板はなく地元のリーダーのお陰で踏めた。但し樹林に囲まれて展望は皆無。東へ横断するように道に出た。かつてはロープウェイが主役だったがドライブウェイが開通すると寂れて今は撤去されて、ホテルも廃墟になった。するとまた大きな駐車場に戻って散会となった。

②四国の山旅~徳島港から竜王山へ2022年11月19日

 仮眠中に車体を浮かせるような地震が2回あった。紀の川は中央構造線の上を流れる。大断層の上だからだろうか。東南海地震が数十年中にあるという。ここは震源地に近そうなところである。
 和歌山港は2時40分に出航。徳島港へ4時55分きっかりに入港。船から出るとまずは腹ごしらえに牛丼屋を探す。スマホのナビで導かれるままに入る。食べ終わってもまだ暗い。真西にある眉山を南周りに迂回してR192に入った。脇町ICへ導かれて美馬ICでR438に出た。野田ノ井から藤宇を経て阿讃山脈に沿う山道を走ると竜王山の直下まで来た。
 駐車場が3ヶ所あるので登山口はここだろう。身支度して出発。阿波竜王へはあっけなく着いた。4等三角点、展望台がある。ここから笠形山への道標を分けると一旦980mまで下る。痩せているうえに左は急傾斜の斜面でスリルがある。鞍部から急登をあえぐと讃岐竜王である。ここは図根点が埋まる。あれっ、1等三角点はどこだ。と地図を再点検すると何と南の1013mだった。
 駐車場に戻ると地元ハイカーが7人くらいはいただろうか。1等三角点の場所を問うとやはり1013mである。時間があれば香川県まんのう町の横畑を起点に竜王山、一等三角点を周回すると面白い。
 結局地図にはないが竜王峠まで車で移動し、竜王峠から2分で三角点にタッチできた。中型バスの運ちゃんが暇そうに待っていた。多分どこかのハイカー集団を浅木原まで送り、ここまで下ってくるのを待機中か。これで行きがけの駄賃の目的は達成した。
 次は高松市内のホテルである。10時半に着いたが交通機関が意外に不便だった。JR高松駅から栗林公園北口駅まで乗車。下車して稲荷山の北を回り栗林トンネル口から鞍部に登りイベント会場まで歩く予定だったが、時間に遅れそうなのでスタッフに電話して送迎してもらった。

大台ヶ原山へ①2022年08月20日

    晩夏の 大和路へ
 尾鷲道の踏査を目的に大台ケ原山へ向かった。久々のロングドライブになった。
 朝7時金山駅前を出発。東名阪から名阪国道へ。針ICから国道をつなぎながら晩夏の大和路を走った。名阪国道を針ICで出て、R370を走るとかつて登った貝ヶ平山の東の香酔峠を越える。玉立(とうだち)の交差点を左折してR370から離れる。榛原市街を迂回する地方道を抜けて宇陀川沿いで再びR370に戻る。ひたすら南下して窪垣外で吉野川に出る。ここは高見山からの高見川と大台ケ原山からの吉野川が合流する地点で、流れは複雑な地形通りに蛇行する。中央構造線の影響だろうか。活断層だから大きな地震に見舞われてきたことだろう。
 中央構造線と災害を結び付けると有名な寺社が建っていることが分かった。
 「奈良県吉野郡(よしのぐん)ほか。紀伊半島の中央部・吉野山(よしのやま)から大峰山(おおみねやま)にかけての山岳地帯のこと。古くから山岳信仰の地として知られてきました。

大滝ダムの建設で水没する前に発掘調査が行われた丹生川上神社上社(にうかわかみじんじゃかみやしろ)の境内では、11世紀ごろの祭壇跡だけではなく、縄文時代の祭祀遺構も見つかっています。

第40代天武天皇(てんむてんのう)は、この地域にある吉野宮に隠棲したのちに挙兵しました。また、第41代持統天皇(じとうてんのう)の行幸の記録も残っています。

天川村にある有名な天河大弁財天社(てんかわだいべんざいてんしゃ、通称は天河神社)は、役小角(えんのおづの)が創建したと伝わる古いお社。

芸能の神を祀る神社であるとともに、近年はパワースポットとしても有名ですよ。」とあった。
 R370は矢治から吉野川を渡る地道に入り、樫尾でR169に合流する。ここら中央構造線沿いの紀ノ川の源流の吉野川に沿う道になる。
 ここまで奈良市、宇陀市、吉野郡吉野町と南下してきた。つまり「南朝=吉野朝廷は、鎌倉幕府滅亡後に始まった建武の新政に失敗した後醍醐天皇などの大覚寺統の天皇が、京都の都を逃れ奈良県吉野郡吉野町や奈良県五條市西吉野町などを本拠とした朝廷」のエリアをドライブしてきた。
      名物の柿の葉寿司を仕入れる
 R169からは吉野川の険谷沿いの道になり。杉の湯の道の駅で柿の葉寿司を仕入れる。正岡子規が有名な
     柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
と詠んだごとく柿は奈良県の名産らしい。柿の実のみならず葉も寿司に利用するわけだ。葉の大抵はビタミンCが多く防腐剤になると言われる。鯖の生き腐れというのような鮮度の短い魚はすぐに塩でしめて柿の葉で包むことで発酵を促す。この時期は飛騨の朴葉寿司も同じ理屈だろう。近くには古刹丹生川上上社もあるが今回はパスした。
 登り一辺倒のR169はやがて入之波温泉への分岐をやり過ごす。標高400mの大迫ダムからループ式トンネルを通って標高700mの大台ケ原へのドライブウェイ入口になる。入ると途端に道が狭く薄暗くなる。対向車は殆どないが時々ぬっと現れる。伯母峰峠1000m位から周囲が開けて稜線の道になる。
      大台ケ原・標高1570mの冷涼な高原に着いた
 午前10時50分に到着。土曜日とあってPは閑散。とりあえず晴れているうちにと日出ヶ岳を往復した。山頂展望台からは熊野灘が見えた。往復1時間半程度。宿のチエックインは15時であるがまだスタッフも見えない。
 下山後は大台教会も訪れた。ここへの登拝の道が尾鷲道である。人影はないが御神灯は点いていたので参拝はさせてもらった。
 宿は心・湯池館。最初は7名で申し込んだが最終的には4名になったので大部屋に代えてもらった。大部屋は文字通り何十人もの布団がすでに敷いてあったが4名と隣のルームに女性の2人連れのみだった。若者の団体客も他には居た。多分別室を確保したのだろう。夫婦組は個室だった。
 ここで夕食の18時まで缶ビールで歓談した。夕飯のメニューは猪肉のミニ鍋が付いたごちそうが出た。夕食でもまたカップ酒にお付き合い。酒好きが2名も居たのだ。
 風呂に入って寝た。ビールのせいか夜中に3度小便に起きた。年寄りはただでさえ小便が近いのにビールは利尿剤なので尚更だ。

尾鷲道研究②~古川崇とは~2022年07月01日

 多くの信仰を集める古川崇(かさむ)とはどんな宗教者だったのか。研究書は以下の通り出版されている。


①大台ヶ原開山記―古川嵩伝記 単行本 – 2001/7/1
豊かな自然を持つが故に、昔から「魔の山」「迷いの山」と恐れられた大台ケ原を開いた古川嵩。自然界と人間の融合による環境保護に警鐘を鳴らした、彼の生涯と開山の足跡をたどる。
鈴木/林
1926年三重県津市生。1943年白子海軍航空隊学徒動員。1945年陸軍通信兵現役入隊。1946年電気通信省勤務。1985年日本電信電話公社退職(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

②大台ヶ原山 知られざる謎
内容説明
奈良県吉野郡と三重県多気郡の境にある、山域「大台ヶ原山」に息づく“日本の文化の原風景”を明らかにする。

目次
1 松浦武四郎と大台ヶ原山(大台ヶ原山の神秘;大台ヶ原山の開発;霊山と怪性の住居;自然への敬意;自然観と宗教観)
2 古川嵩と大台教会(嵩の目指す宗教;大台ヶ原山での修行;大台教会と神習教)
3 大台ヶ原山の隠れた背景(大峰の修行者が立ち入らない大台ヶ原山;江戸時代から明治にかけて大台ヶ原山に入っていた人々)
4 大台ヶ原山で語り継がれる伝承(大台教会第二代故田垣内政一教長の夜話;大台ヶ原山に関わる伝承と言い伝え)

著者等紹介
大川吉崇[オオカワヨシタカ]
1941年生。高野山大学文学部仏教学科卒業。三重高等学校で日本史を4年間担当、のち大川学園に移籍。現在、学校法人大川学園理事長・社会福祉法人自由学苑福祉会理事長。三重県山岳連盟顧問・三重県レクリエーション協会会長・三重県私立幼稚園協会常任相談役。加盟学会は、日本民俗学会・日本環境教育学会・日本調理科学会(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
http://ohkawa-a.cocolog-nifty.com/blog/cat36483120/index.html

③癒しの山 大台ヶ原 : 開山行者の生涯 Kindle版
開拓者精神!! 

現在社会で死語になっている言葉。

「俺も助かる、世間の人々も助かる」
これが人間究極の人生だ!
この本の主人公、若き行者、古川嵩が己の命をかけて魔の山「大台ヶ原」に立ち向かう姿は、やれストレスや・うつ病やなどと悩み苦しむ現代人に強烈なパンチをくらわす。人生の唯一無二の生き様を我が身をもってしめした希有のストーリーだ。

並外れた彼の精神力と不動の信念。彼を取り巻く人々の驚嘆もさることながら、大台の王と呼ばれ恐れられた日本オオカミでさえ彼の心を射止めた。
「若き行者と二頭のオオカミ」の交流も見所だ。

彼は、うつ病に取り憑かれた。その治療のため父の主導で御嶽山修行した。過酷な修行のある日、不動明王やその他の神々に出会う。修行を終えた時には病は消滅。

「俺の人生目的は大台ヶ原開山だ」

 最愛の妻や家族と今生の別れ。金剛杖で力強く大地をはたき、単身大台へ。二頭の日本オオカミと共に完全燃焼した古川嵩行者の壮絶なる生き様。

大願成就の暁に「神武天皇銅像」を建立したことはあまりにも有名だ。時節柄、銅像撤去に来た進駐軍の上官が
「これぞフロンティアスピリッツだと感激し、後生に残し置こう」」と言い放ったことは知る人ぞ知る史実。現在も牛石ヶ原に聳え立つ神武銅像は光彩を放っている。

今は「日本百名山」という名誉を頂き、多くの登山者の訪れる関西では否世界中の登山家の「心を癒やす山」として賑わっている。

この本は、克明な史実をもとに書かれた原書、郷土史家、鈴木林著の大台ヶ原開山記【古川嵩伝記】を氏の承諾を得て、三重熊野市在住の郷土史家、杉岡昇氏がリライト、よしいふみとが編集したもので。今後二度と世に出ることの無い貴重本である。

(もくじ)
はじめに
プロローグ、梅雨の一夜
古川嵩行者の生涯
厄年の児、商人の道へ、 大台ヶ原開山への旅立ち、信頼、池峰明神参籠、大台ヶ原入山、単独行動、再会としばしの別れ、教会設立活動、越冬の修行、教会建設、気象観測、有線電話架設、神武天皇銅像建立、自然崇拝と自然破壊、旅立ち
今、発行元の山の辺書房自分史編集室では、より多くの人に膾炙するため英語版「FRONTIER SPIRITS」を制作中。
​日本語版はAmazon電子書籍本サイト。
杉岡昇
杉岡昇プロフイール

 一九六一年、和歌山県立新宮高等学校卒。日本国有鉄道OB・新宮山の会OB。 日本百名山の一つ、大台ヶ原に魅せられ登山を続けるうち、稀有の大自然を多くの人に知ってもらいたいという思いから『大台ヶ原・開山行者、古川嵩の生涯』と、続編「大台ヶ原、妖怪一本足たたら伝説」を、乏しい資料を求めて数年がかりで纏め上げ、自伝出版専門の山の辺書房自分史編集室から出版。
現在紙本第三刷となり、さらに電子書籍としてアマゾンで販売している。これは、ロングセラー作品となった。

 二〇一一年、和歌山県南部を襲った台風十二号で住み慣れた我が家を喪失。失意の避難生活の末、終の住み家を求めて奔走。苦難の末三重の山峡に移住する。自然植物研究家・ラン愛好家・登山家・執筆家・陶芸など多彩な趣味の持ち主。

 平成二十七年秋、思いもよらぬ膀胱ガン発症。三度の手術を受け快癒。現在経過観察中。度々の人生の節目に遭いながらも、著者の人生哲学的思考――災難のどん底に居ても常に生き甲斐を見つける――事を本分とし、日々著述や多くの趣味に意識を移しポジティブに力強く生を満喫している

[主な著作] 「大台ヶ原・開山行者、古川嵩の生涯」「続編大台ヶ原、妖怪一本足たたら伝説」「平成の大洪水」これは…NHKで放映され反響を呼ぶ。その後矢継ぎ早に「膀胱ガン闘病記」「熊野の里山今昔噺、第一巻、第二巻を出版(アマゾン電子書籍)。

比叡山2021年10月24日

 24日は一等三角点の比叡山848mへの記念登山である。往復とも歩くのは私1人で、登るだけの18名、残りは車でドライブして、山頂だけ行く人に分かれた。
 登山口は修学院離宮のあるところで、きらら坂登山口である。2台分のスペースがありそこにP。結構急な尾根歩きに終始したが、多くが80歳超の高齢者にもかかわらず無事登頂した。72歳の私などは若手の部類か。
 こうして2日間ともいい天気に恵まれて秋の古都をめぐる山旅を終えました。京都市内は観光客のマイカーであふれていた。
 帰名には時間に余裕があったので大津市の石山寺も経めぐるが散策には時間がない。「石山寺は『更級日記』『蜻蛉日記』『枕草子』『和泉式部日記』などの文学作品に描かれ、紫式部が『源氏物語』の着想を得た場所とも伝えられます。近江八景の一つ「石山秋月(いしやまのしゅうげつ)」も有名です。」
 紫式部は白楽天の漢詩も愛読していたという。和歌と漢詩にも通じるなんて、多分ですが渡来人と日本人の混血ではないか、とさえ思います。
 瀬田川のゆったりした流れに見とれた。「琵琶湖哀歌」に謳われた瀬田の唐橋も通った。R1とR8が錯綜して分かりにくい。近江富士の右へ反れてやっと帰名の途についた。

出羽三山の山旅①月山2021年10月07日

 計画では
10/6夜出発
 
10/7 羽黒山
10/8 月山
10/9 湯殿山
だったが、8日は天気が崩れそうなので前倒しして、7日に登った。8合目は標高約1390mあるから比高600mくらいしかない。2時間歩けば登頂できる。弥陀ヶ原の池塘は今は草黄葉で覆われている。そこへ赤いナナカマドの実が美しく映える。
 さほど高低差はないがやはり山路である。整地してある箇所は良いが、荒れたところは歩きにくく足に負荷がかかる。1740mの佛生池小屋はすでに閉鎖されていた。ここから頂上までも等高線は緩く歩きやすい。先ずは月山神社に登拝し、いったん降りて1等三角点にも登った。
 後は往路を戻るだけだが、弥陀ヶ原の岐路から鳥居のある歩道に入った。日本海に傾きかけた太陽が草黄葉に当たり鈍く光る。まるでビロードのような感じだった。
 Pに下って、羽黒山の麓の出羽三山神社の近くにある多聞坊という旅館に泊まった。

門玲子『玉まつり』購読2020年06月17日

あの深田先生が何故・・・ 復員後の深田久弥が志げ子夫人と暮らした大聖寺・金沢で親しく夫妻の謦咳に接した著者には、思いがけぬ深田の噂は大きな謎となった。 作品を丹念に読み解くことで昭和文学史の真実に迫る。久弥、八穂、志げ子への鎮魂の書。
幻戯書房刊。2020.5.24

表紙は富士写ヶ岳

副題
深田久弥『日本百名山』と『津軽の野づら』と

門玲子(ウィキペディア)

門 玲子(かど れいこ、1931年3月24日[1]- )は、日本近世文学研究者。
石川県加賀市大聖寺生まれ。1953年金沢大学文学部卒。1980年『江馬細香 化政期の女流詩人』で第8回泉鏡花記念金沢市民文学賞受賞。1998年『江戸女流文学の発見』により毎日出版文化賞受賞。江馬細香など近世の女性漢詩人、只野真葛など近世の女性思想家について研究している。

幻戯書房NEWSから
 
深田久弥と同郷で、復員後の深田と身近に接した著者が、当時を回想し、深田と北畠八穂の作品を丹念に読み込み、昭和文学史の真実に迫る、鎮魂の長篇エッセイ。

●本文より
 深田は長患いの八穂のためにさまざまに心を砕いている。上林暁の《この夫婦は辛い夫婦だつた》という言葉が思い合わされた。

中日新聞書評
深田久弥の謎 読み解く 同郷の門玲子さん 長編エッセー出版
 石川県大聖寺町(現加賀市)出身で「日本百名山」の著者として知られる作家深田久弥(きゅうや)(一九〇三〜七一年)。戦前は鎌倉文士として名をはせた深田が、戦後は大聖寺や金沢市で七年半を暮らし、「山の文学者」となっていったのはなぜか−。同郷の出身で、久弥と妻志げ子とも親交のあった女性史研究家の門玲子さん(89)=愛知県大府市=が、作品を読み解きながらその謎に向き合った長編エッセー「玉まつり 深田久弥『日本百名山』と『津軽の野づら』と」(幻戯書房)を出版した。(松岡等)
 東京帝国大在学中に改造社の編集者となった深田は、懸賞小説の下読みで、後に作家、詩人となる北畠八穂(やほ)(一九〇三〜八二年)の応募してきた作品「津軽林檎」に才能を感じ、八穂の住む青森まで出向く。
 結ばれた二人は、千葉・我孫子、東京・本所、鎌倉と移り住み、深田は文壇で頭角を現していく。しかしその出世作ともいわれる「津軽の野づら」に収められた「あすならう」は「津軽林檎」を元にしており、当時発表された作品のいくつかは八穂の下書きを元にした「共同作業」だった。
 また深田は、初恋の人だった志げ子と再会し、鎌倉でカリエスに悩まされていた八穂を残して、志げ子との間に子をもうける。出征した中国から復員後、深田は文壇を離れ、志げ子との間に生まれた子どもたち家族と故郷に暮らしながら国内の山々に登り、ヒマラヤの文献などを集めて読み込み、「山の文学者」となっていく。
 八穂は深田と離別後に作家として独立。やがて戦前の深田名義の作品の多くが八穂の下書きした作品だったと主張し、それが通説のようになっていく。しかし門さんは、八穂が戦後に自身の名前で発表した作品群にみられる独特の比喩や詩的な飛躍のある文章を読み込み、深田の理知的な作風と比較。「津軽の野づら」「知と愛」「鎌倉夫人」など、八穂が自作であるとする少なくない作品は深田自身のものではと示唆する。
 金沢で暮らしていた間、文化人の中心にいた深田が「僕の心の中に七重に鍵をかけたものはあるが、その他はすべてオープンだ」と語っていたのを聞いていたという門さん。「深田自身は(八穂とのことについて)一言も弁解をしていない。地元の大聖寺でも、深田の傷のようにそっとしているのではないか。しかし、それでは(八穂が主張したことだけが)事実になってしまう。自分が感じたことは書き残しておかなければ、という気持ちを持ち続けていた」と語る。
 書名の「玉まつり」は、松尾芭蕉が寿貞尼をしのんで詠んだ「数ならぬ身となおもひそ玉まつり」から。志げ子さんとの会話の中でふいに出たその句に「ほのかな表現に哀れふかい弔いの心」を感じ取ったという。
 本書は、深田と八穂が暮らした鎌倉と我孫子を訪ねた紀行文で締めくくられる。二人に縁の場所を歩いた旅は、深田が生涯明かさずにいた思いを、門さん自身が納得するためだったようにも読める。
 四六判、二百二十六ページ。二千八百円(税別)。

関連記事
たまゆらの恋なりき君はセルを着て 深田久弥
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深田久弥山の文化館
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『津軽の野づら』の原作と出版の著作権
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北畠親房「一命を以って先皇に報い奉る」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/10/01/

北畠家の系図
http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/11/18/9178611

消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき北畠具行
http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/12/05/9172795

北畠八穂・・・津軽言葉の文学者
http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/05/11/9071166

研究輯録-三遠の民俗と歴史 第8号発刊!
http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/08/28/

「日本百名山」
»〈ふたり〉へ深田久弥と志げ子―石川・大聖寺、白山
http://www.asahi.com/travel/traveler/TKY200611250173.html

吉田絃二郎の文学碑『島の秋』2020年01月31日

ソース:file:///C:/Users/user/Downloads/%E5%90%89%E7%94%B0%E7%B5%83%E4%BA%8C%E9%83%8E%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF%20(2).pdf

吉田絃二郎(1886~1956)の生涯から

    対馬時代 兵役期 (1906-1908 年)
 念願の早稲田大学文学科に入学するが対馬要塞砲兵大隊に入隊。国境の孤島での兵役生活をおくる。
明治 36 年佐賀工業学校卒業後、佐世保海軍工廠に働くが 38 年1月・向学心に燃える絃二郎は貧苦の中上京を決意し、ついに早稲田大学第二高等予科に入学。39 年9月待望の早稲田大学文学部入学。同年、徴兵検査の結果甲種合格。12 月1年志願兵として対馬要塞鷄知砲兵大隊に入隊。
 つづいて、41 年見習士官として重砲兵大隊に入る。陸軍砲兵少尉任官。国境の地対馬の練兵は激しかったが、生活は安定し幸福な時代であった。ただ、夜となく昼となく寒い朝鮮風が吹き荒れて、山は鳴り海は吼える玄海の孤島での日々は、度々郷愁に取りつかれることもあったが、これを慰めてくれるのはアルバイト先の東京神田の設計事務所で知り合った女性、後の明枝夫人からの便りや慰問の品々であった。
 後に、文学者として確乎たる位置づけをした短編小説「磯ごよみ」・「島の秋」はここを舞台としたもので、昭和 32 年上見坂公園内に、島の秋文学碑が建立され、対馬の人々の絃二郎に寄せる真情が窺われる。
■「島の秋」・・・自作について 絃二郎
 「対馬の兵営生活時代に、漫々たる玄海の波を眺め日から日、夜から夜と孤島の山の背をたどりながら行軍をつづけたころ感じた島の印象を叙情詩的な気分で描いてみようと試みた。」 私は、解剖のメスを持つ科学者の眼で人生を見ないで、直感の境に於いて自然と瞑合する詩人の心を持って人生を見たい。
 この心から出発して静観した私の人生はいつも死と悲哀と流転の相を背景として、刹那より無限に暗い一路を辿っているものであった。
以上
 対馬の地政的な経緯と吉田の動きを時系列に並べてみた。対馬の要塞化の経緯が分かる。吉田は山歩きも好きだった。山の随筆も残している。これも『日本風景論』の影響である。同時代の文人に俳人・前田普羅がいる。山岳俳句で一世を風靡した。友人には俳人・飯田蛇笏も要る。吉田、前田、飯田は偶然だが早稲田大学英文学の出だった。大正昭和の激動の時代の空気を一杯吸いながら文学に生きた。

明治23年 有明山の一等三角点選点
明治24年 御岳の一等三角点選点
明治24年 観音岳の一等三角点選点
*対馬の五万分の一の地形図作成のための三角点測量がはじまった。
明治27年 志賀重昂『日本風景論』発刊
*約15年間のロングセラー、15刷を重ねた。
明治32年 要塞地帯法制定
明治37~38年 日露戦争
明治38年 日本山岳会設立
明治39年 吉田絃二郎 早大に進学
明治39年 吉田絃二郎 志願兵として対馬に入営
明治43年 朝鮮併合
大正元年 五万図「厳原」等測量
大正5年 『島の秋』を早稲田文学に発表