国境の島・対馬の山旅⑥御岳と平岳、千俵蒔山2020年01月02日

 一等三角点の山歩きの締めは平岳(本点)。位置的には九州で最北になる。外国に一番近い一等三角点ともいえる。世界遺産に登録されて上陸できなくなった沖ノ島243m(本点)と有明山(本点)とはきれいな三角網を構成する。1等三角網図を見ると平岳は有明山と沖ノ島と結び、壱岐の岳ノ辻(本点)とも結ぶ。有明山は岳ノ辻と結び、岳ノ辻は沖ノ島と結んでいる。すると観音岳(補点)の役割が薄い。
 それは「一等三角測量を行うに際し,最初は本点(約45㌔間隔)測量を実施して大体の間隔を定め、ついで一等の補点(本点を含めて約25㌔間隔)の測量をして一等三角点網を完成させ、次に一等三角点を含めて約8㌔間隔に二等三角点を設定し、以下二等三角点を含めて約4㌔間隔に三等三角点を設け、更に以上を含めて約2キロ間隔に四等三角点を設けて、各基点から地形を20㍍の等高線に描写して地形図を製作した」を読むと分かる。つまり観音岳は有明山と平岳の中間を補う役目だった。

 R382を北上する。今日で5日目でこの道も慣れた。曲折が多く、トンネルも多い。これでも豊玉町までは改良されてきたのだろう。以北はところどころ道が細くなる。カーブもタイトになる。登山口のある上県町までは工事中の箇所もあるので今まさに改良の真っ最中である。山間部を走ることが多くなるのでツシマヤマネコの事故現場も表示してドライバーに注意喚起を促す。人間様より丁寧な扱いになっている。猫は飼い猫でも車の前を直進する癖があり、引き殺される。中々の自信家なので引き返すことはしないから犠牲になる。畜生の性である。
 さて、予め見当をつけていた御岳公園Pに着いた。どう坂から平岳に直登する登山口は見た目には分からないままここまで来た。車は1台もない。用足しを済ませてさらに奥へ走ると数台の先行車があった。意外に人気がある山と知る。
 鳥居のある登山口をくぐって谷沿いから急な中腹の登山道を登るとすぐに尾根道になる。先行者に追いついてしまった。聞くと地元の家族登山だった。主人と奥さんがふうふう言いながら登っている。やがて子供らのグループに追いつく。すぐに神社がある。ここではささやかながら谷水が出ていた。この先で御岳と平岳の分岐になり左折。常緑樹の深い森を急登すると山頂だった。三角点はないが蔵王権現の祠があり、他にも複数あった。海の見える山は蔵王権現と関係があるのか。愛知県田原市の蔵王山、衣笠山にも蔵王権現が祀ってあった。
 後続が続々登頂してきて賑やかになったので私は辞して、平岳に向かった。分岐から直進する。ゆるやかな稜線はすべて常緑樹の森におおわれている。ほとんど踏まれたことがないような登山道を落ち葉を踏みしめながら上り下りする。1等三角点もうっかり見過ごしてしまいそうなところだった。
 展望は無。測量時には高い櫓を建てて三角測量をしたであろう。
 国土地理院のHPには「明治15年には、この三角点の選点 100点が終了し、明治17年からは陸軍参謀本部測量局がこの測量を引き継ぎ、いよいよ全国的な三角測量が始まりました。参謀本部では、8年間のドイツ留学から帰朝した(明治15年)田坂虎之助が現在の測量作業規程に当たる「三角測量説約」を完成させ、本格的な一等三角測量に着手しました。この時点から測量は、フランス式からドイツ式に変更されました。
 一等三角測量はこうして実施に移され、大正2年にはひととおりの観測が終了し、一応の完成を見ました。その後、千島や、樺太、台湾といったいわゆる外地の測量が実施され」た。
 こうして対馬の一等三角点は全部踏破できた。往路を戻った。登山口に戻るとまだ2台はあった。結構人気のある山だ。
 さて下山後は、司馬さんの『街道をゆく13 壱岐・対馬の道』に出てくる千俵蒔山と地元の人に聞いた和多都美神社(わたづみじんじゃ)も訪ねたい。
 とりあえず、行くのは千俵蒔山である。さらに北上し佐護川の地域を左折、案内板で右折すると山頂近くまで車道が通じていた。山頂部は電波塔があり、全部はげ山だ。車を置いてカヤトの中の歩道を歩くと山頂であった。晴れた日には韓国の釜山が見えるという。今日は冬晴れの良い日だが韓国は目を凝らしても見えなかった。残念。山頂からは佐須奈湾が見える。ここも朝鮮との交渉史に関係がある。今度来るなら山頂でビバークするのも良い。夜は釜山の夜景が見えるかも知れない。
 前述の本に引用された金達寿『金達寿小説集』の中の「対馬まで」を読むと分断国家を母国とする在日朝鮮人の複雑な心境と望郷の心がよく表現されている。1973年8月と1974年10月下旬の2回にわたる対馬紀行である。著者は『日本の中の朝鮮文化』を著して日朝の古代史の識見が好評を得たようだ。山名の由来に関係するので私も全部揃えた。例えば全国にある駒ケ岳は高麗ヶ岳とする説である。山梨県以東の関東には朝鮮文化が濃厚なはずである。
 下山中には桧の植林の中に鹿が逃げ込むのを見た。山麓に降りてからはツシマヤマネコのセンターにも寄ってみた。まだ三が日で休業中とは知りつつも行ってみた。
 R382に戻ると次は豊玉町仁位まで走った。看板で左折。大きな鳥居をくぐるとすぐに神社に着いた。ここは烏帽子岳とセットで行くところだがさすがに疲れて気力はなく、参拝だけで済ませた。もう一つ気になった対馬一之宮の海神神社は今回は時間切れで割愛した。

国境の島・対馬の山旅⑤有明山と矢立山2020年01月01日

 元旦はよく晴れた。ホテルを出てすぐに向かったのは近くの八幡宮神社だった。対馬国一宮にあたり格式が高い。但し島のせいか広大な敷地ではなく、山の斜面に面して建てられている。平地は駐車場に利用されている。元旦にしては朝がはやいせいか初詣客は少ない。
 八幡宮を出ると有明山の案内板を探しながら路地を歩いた。どの細道も清水山の斜面にびっしり建っている住宅地に行くようで登山道らしさはどこにもない。一旦は万松院の通りまで出てみたが街角の地図にも見ないので困った。ガイドブックを頼りに行くと八幡宮辺りから出発するので今少し丁寧にみると何と八幡宮の近くに古ぼけた案内板が掛かっていた。住宅地の中を登ると清水山城祉の入り口に着いてやれやれだ。ここからはしっかりした道標がある。
 まずは城跡の中の少し荒れ気味の道を登った。正しく山城であった。豊臣秀吉は織田信長が明智光秀にやられるとすぐに光秀を討った。そして天下統一を果たす。しかし、この後が順調には進展しなかった。功績のあった家臣にボーナスとして領地を与えたいがすでに国内は既得権ばかりだった。秀吉の力を以てしても難しいとなれば朝鮮侵略にと考えが飛躍する。国内は臨戦態勢のまま外国へ出ることになった。しかし、侵略は失敗。撤退することになった。これが後々にまで尾を引く。やられた方はいつまでも恨みを忘れない。
 秀吉の後を担った家康は朝鮮との国交回復に尽力する。これが12回続いた朝鮮通信使であった。この地の長寿院の墓地に眠る雨森芳洲は対馬にあって朝鮮語を不自由なく話せて対馬藩の外交官としての役割を担った。否江戸幕府からも信頼をされたであろうが、史書は江戸幕府の次官級のトップだった新井白石との確執(パワハラ)に遭い、不仲になったと書く。幕府に召されるほどの出世は出来なかった。一地方の専門分野でのベテラン渉外掛かりの役人のままで終わった。その生涯は不遇であった。
 不遇な文学者、儒者、芸能人には今でも当時でも男色が居た。能の世阿弥は足利義満の寵愛を受けるしか芸道を守れなかったのだろう。芭蕉は現在の御園座の敷地にあった坪井杜国を愛した。杜国は米穀の商いで財を築いたが、幕府が嫌がり禁じていた米の空売りで所払いになったという。雨森芳洲もまた男色に耽るしかなかったのだろう。朝鮮通信使の役人からも批判されている。(志岐隆重『十二回の朝鮮通信使』(長崎文献社))
 今回の山旅は雨森芳洲の墓の見学も含まれた。隣には夫人など家族の墓もある。別に女嫌いではなかったのだ。
 清水城跡を脱すると桧の森を通り、常緑樹の中の道を登る。登山道は比較的広く歩きやすい。ずっと展望のない常緑樹の下を歩くとちょっと緩やかなところに着く。そこから明るい尾根道になってカヤトの山頂に出た。かつては対州馬の草地だったとか。
 360度の展望の一等三角点の埋まる山頂だが南にはより高い矢立山が悠然と聳える。厳原港が俯瞰できる。少し小さな池があるところまで行くと白嶽も見える。縦走路もあるらしい。
 往路を下山。城跡はパスして街中へ下った。歴史資料館の脇の車道もルートであった。但し入山の印や道標はない。
 ホテルに戻るとマイカーで矢立山に向かった。明日以降の登山に備えて下見で行ってみたが車道から林道へ入ると奥深く走る。小茂田への下りで一部不通になっていたが矢立山登山口まで行けた。比高150mしかなく、また長い林道を走るのも大変なので登ってみたら15分で登頂になった。ここも360度の大展望だ。さっきまでいた有明山も下に見下ろす。本当ならこっちに一等三角点を持ってきても良いはずだが、三角測量は必ずしも最高点からとは決まっていない。第一富士山は一等でない。常念岳は前常念、穂高でも奥穂ではなく前穂に埋まる。例外はあるのだ。1日で2座も登ってしまった。八幡様のご利益か。

国境の島・対馬の山旅③観音岳と姫神山2019年12月30日

 昨夜のうちに考えたのは今日も天気がよくないので、とりあえず超低山の観音岳をやることにした。139mのミニだが1等三角点がある。しかも登山道がない。しかし所詮は比高140mに満たないのだから何とかなる。と、オテド(落土)を目指す。美津島町と豊玉町の境に来たら右折、すぐに右折して小さな峠を越すと見世浦に着く。行けるところまで行くがオテドへの入り口が見えない。戻ってまた来てみるとバス亭の「落土」が目に止まった。ここを入ると小さくのり越す。着いたところが細い入り江が食い込むオテドだった。マイカーは空き地に止めて、北へ湿地帯を奥へ行くとテープ類がぶら下がる。右手の北東の林に入り小さな鞍部を越える。ここからは海とは小さな自然の堤に囲まれた草地(夏は湿地)の中の踏み跡とテープを追う。さっきと同じ北東に林を分け入る。ここも小さな鞍部があり、右にもテープがあるので違うとは思うが行ってみたら小さなコブだった。海がよく見える。そして北を見ると目指す観音岳が尖がっている。鞍部に下り、前衛に向かうがかすかに踏み跡はある。まずは高いところへヤブコギで登った。すると潅木の切り開きがあるのでそれをたどると目前に観音岳が見えた。切り開きをそろそろ下って鞍部から急登すると山頂だった。10寺30分に出発して約1時間かかった。
 対馬の中間にあり、北の平岳、南の有明山と結ぶ三角測量の基幹である。沖ノ島(一ノ嶽:宗像市243.6m)と有明山、平岳で△網になる。観音岳は補点かも知れません。
 下山は比較的踏み跡がよく見えて早く下れた。上陸第一号なのでこのまま帰るのも詰まらないのでオテドを散策してみた。近くの家は留守らしい。最奥まで行くと、Oさん宅で行き止まり。入り口の戸が開いていたので声をかけたら奥さんが出てこられた。
 今、観音岳に登ってきたばかりです、と自己紹介。すると奥へ観音岳に行ってきたそうだよ、とご主人に声をかけていた。出てきたご主人は如何にも海の男らしく赤銅色の顔だった。島津亜矢の歌「海鳴りのうた」に出てきそうな漁師さんであった。しばらくは観音岳談義になった。曰く、以前に行方不明騒ぎがあったこと、途中の電信柱は自分等が工事したこと、その柱にしたがって行けば行けるが忠実に行くと長崎鼻へ行ってしまうとのことだった。
 観音岳談義が終わると、家族の話に移った。愛知県から対馬の山に登りに来たんです、と言うと内の息子もみよし市に住んでおり、アイシンに勤務しているとのことだった。みよし市なら私の自宅からは近いね、と。じゃあ、もうこの家には帰らないね、1人10万円はかかるからな、と。しかしこの家は残してくれと(息子は)言うそうだ。夏になれば孫たち19人が帰ってきて目の前の浅瀬で海に潜って遊ぶとか。
 このオテドも昔は20軒あったが今は2軒だけ残った。いずれ限界集落として立ち退くことになるだろう。しかし、あそこの海で20m潜ってあわびを採ったとか、台風が来ると屋根まで波がかぶるとか、そんな野性的な生活はできまい。都会生活になるとトイレの水も有料になる暮らしになる。自然から遠ざかるなんて耐えられないだろうに。もう70代になるとか、島津亜矢の「帰らんちゃよか」の歌を思い出す。
 そこまでで世間話を打ち切ってオテドを後にした。姫神山の砲台跡を見学して宿に戻った。いい一日だった。

忘年山行1霊山を歩く2019年11月30日

 朝8時過ぎ、私、M野、K,M本、T、I島の6人が集結し、金山駅前を出発。9時過ぎ亀山PA着。ここでIさんとSさんに合流し8名になる。東名阪高速を出て名阪国道(R25)へ行く。快調に飛ばして伊賀(柘植)ICを出る。スマホのナビで地理勘もなく霊山寺へ導かれる。
 霊山寺には数台の先行車が止まっていた。手軽なハイキングの山である。私たちも支度して出発。境内の長い階段を登ると本堂の横の大銀杏が黄金色に輝くような黄葉が素晴らしい。一度も吠えず老犬が見守ってくれる。登山道は左へ少し下った林道である。
 林道の終点から杉の植林の中の登山道が始まる。というより参詣の道だろうか。200mごとに号数が増える。とにかく異口同音に寒いと訴える。中腹まで登ると温まり一枚脱ぐ。
 中途には寺院遺跡のような名残りの名前がある。山頂直下には湿地帯もあったから夏は僅かでも湧水があるのだろう。山岳霊山が成立するには水源が大きな条件になる。

 伊賀上野観光協会のHPには霊山寺は「創建は古く、霊山山頂(765.8m)には、平安時代〜江戸時代にかけての一大寺院跡(面積11,200m2)があります。奥之院には、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)(延宝3年〈1675年〉)を安置し、石造台座には永仁3年(1295年)5月10日の銘があります。
 その後、霊山寺は現在のように霊山中腹に再興され、天台宗より黄檗(おうばく)宗に改宗されました。
本尊、十一面観世音菩薩は寄木造で、像高1.8m、江戸時代初期の作です。ほかに普賢(ふけん)菩薩や、平安時代の銅鏡が保管されています。」と約700年の歴史を誇る古刹である。

 山頂へは雑木林に変わった辺りから緩やかに登り石段を登ると萱とのの平らな山頂だった。南西の隅っこに一等三角点が埋まっていた。経塚を中心に塁が築かれている。そこに腰を下ろして休む。寒いのでやることもなく早々に下山した。
 本堂では俳句の投句箱があったので2句を即吟で投句しておいた。滋賀の大津市で4句、今日で2句と投句した。果たして結果は如何に。
 ゲストハウス関ロッジに行くにはまだ時間が早いので芭蕉公園を散策した。芭蕉は韜晦したので生まれた家、場所も定かではないらしい。そこで上野市は生家を具体的に挙げ、ここ柘植町にも生誕地を訴えます。
 観光資源になるほどの大物は違います。
 案内板には
「俳聖松尾芭蕉翁は、1644(正保1)年に伊賀国柘植郷拝野の里(現在の三重県阿山郡伊賀町大字柘植町)松尾儀左衛門の二男として生まれました。翁を偲び毎年11月12日に松尾家の菩提寺である萬寿寺などにおいて、しぐれ忌が開催されます。また、伊賀町内には句碑や像の他に、生誕地の碑・生誕宅址碑等が建てられ、翁の遺徳を讃えています。」
 園内には有名な

「古里や 臍のをに泣く としのくれ」

という、芭蕉が親不孝を詫びて詠んだ句碑が建っていました。旅の途中で訃報を聞いたにも関わらず死に目にも会えず、葬儀に来れなかった。兄からこれが母が大事に持って居たお前の臍の緒だと渡されて泣いたというのである。

その後、伊賀IC近くのレストランで蕎麦を食べて温まりました。そろそろ時間と関ロッジへ向かいました。このところ数年は常宿みたいになりました。自炊ながら風呂、布団もある立派なお宿です。
 今日は新人2名も含めて15名もの盛会になりました。かつては旧人ばかりだったこともあり10名前後で推移してきました。もう1名の新人候補もいたのですがあいにく風邪でドタキャンになりました。鋤鍋を囲んで今年の反省や来年の抱負など語らいました。例年になく充実した忘年山行になりました。その一方では70歳代後半から80歳代の3名の古参会員の退会を聞かされたので喜びも半ばですが。

司馬遼太郎・街道をゆく『壱岐・対馬の道』を読む2019年09月23日

 HPから目次をコピペする。
【壱岐・対馬の道】対馬の人/壱岐の卜部/唐人神/宅麿のこと/壱岐の田原/郷ノ浦/豆腐譚/曾良の墓/曽祖父の流刑地/神皇寺跡の秘仏/風濤/志賀の荒雄/厳原/国昌寺/対馬の〝所属〟/雨森芳洲/告身/溺谷/祭天の古俗/巨済島/山ぶどう/佐護の野/赤い米/千俵蒔山/佐須奈の浦

 この中の対馬の”所属”、雨森芳洲を読んだ。p165から申維翰(しんゆはん)の『海游録』(東洋文庫252)を引いて、朝鮮人と日本人の考え方の違いを解説する文は、現代にも通じる。芳洲はこの人物の扱いに困惑した。対馬藩主は申と会わずにことを治めた。
 申は現代でいえば、文大統領だ。申は朝鮮人官僚を自縄自縛してしまったというのだ。これもまた儒教の弊害であろう。福沢が「封建制は親の仇」と嘆いたのも儒教の毒が回った封建制のことである。新しい時代を開明してゆくには儒教は弊害になる。戦前の李氏朝鮮は日本が徹底的に儒教を叩き壊したから発展を見たがしょせん自分の頭ではなかったから今に至るまで抵抗がある。

 芳洲は長寿を得てこの対馬の土になった。長寿院に葬られた。「市指定史跡。江戸時代有数の儒学者として知られた人物の墓。」と紹介されている。
 対馬に曽良の墓があるとは意外だ。観光用HPには「江戸幕府の命により諸国の実態調査員である巡見使に任命された河合曽良は1710年、この任務のため壱岐に渡った際、病に倒れ、この地に没しました。」とあるからホントに死んだのだろう。

・・・対馬には1等三角点が3座あり、最高点の矢立山648m、白嶽なども良い山だ。いつかは登山と芳洲の墓を訪問する目的で行きたい。
 俳人の高浜虚子も訪れている。こんな句碑もある。
 
 「上見坂公園(かみざか、対馬市厳原町)にて、

     「対州は 大山国や ほととぎす」   虚子

島なので、海が見えると思って来てみたら、山ばっかりだった・・・と」

奥三河・出来山へ鰻沢を遡る2019年07月21日

 朝6時30分一社駅前に5名が集合出発。すぐに名古屋ICに入り、鞍ヶ池SICを目指す。約30分で県道に出て足助町はすぐである。さらにR420から設楽町へ走り新段戸トンネルをくぐると豊邦大橋を渡る。この下が鰻沢と別の沢が合流して鰻ノ沢になる。下流は当貝津川で豊川になる。
 橋を渡り切ってすぐに左折するに林道になるが二又になる。両方とも先のゲートで進入はできず662m付近に駐車。先行車が1台止まっていた。
 身支度後左の林道を行くと鰻ノ沢の支流の鰻沢にかかる橋の上に立つ。橋のたもとから藪を分けて入渓する。最初に中々の美渓を思わす釜があった。しかし段差がない。岩質は不明ながらこの先ずっと磨かれたような岩の露頭が続く。
 しばらくで鰻沢林道の2号橋の下をくぐる。未確認だが入渓地点の橋が1号橋だろう。同行者の1人がまったりした良い沢だという。確かに圧倒するような滝はなく、飲み込まれそうな渕もない。迫力に欠ける。登山道と同様にどんどん遡る。時々斜瀑もあるが平凡な渓相に飽きたころ、3号橋?に到達。左の草むらを分けて林道に上がり、橋の上流に出る。
 ここで鰻沢林道は終わり、足助町から来る金沢栃洞林道になる。ふたたび入渓するとしばらくで850mの等高線の広がる二又になる。本流は水量の多い左又か。古い文献ではアンコ沢と鰻沢の分岐という。どっちか不明ながら左又よりやや水量で劣る右又に入る。
 ここで左又を探ると何とかつての森林鉄道段戸山線田峰鰻沢線の橋の残骸と石組の基礎を発見した。さすがにレールは撤去されてはいたが多分油分の多い木材の橋梁が朽ちたまま沢にまたがる。入渓地への林道は森林鉄道の廃線跡だったのだ。R420もそのままではないが少し上に廃線跡があるようだ。
 HPのトップは
http://www.tokai-mg.co.jp/taguchisentop.htm
その中の 田峰鰻沢線の6を貼り付ける  
http://www.tokai-mg.co.jp/unagisawasen6.html

「田峰鰻沢線は昭和6年から28年にかけて施設され33年に撤去された。田峰栃洞線は昭和7年から26年に施設され、昭和34年から37年にかけて撤去された。このように施設と撤去がほとんど同時に行われているのはおそらく施設しながら近くを伐採し、終わったら次々と先へ伸ばしていき、終点近くでの伐採が終われば、少しずつ撤去しながら残りの部分を伐採していったためだろう。」とある。
 私どもの駐車地点には地形図で民家の記号があったが今は廃村になり草地で植林されている。

 さて、二又を右へ振った。
 等高線が緩いので沢も穏やかなままである。倒木や藪が覆うこともなく出来山直下の奥の二又まで来てしまった。直登すると足助町との境界尾根に達するが、山頂へは遠ざかるから沢から離れて枯れ笹の覆う山腹の踏み跡を追っていくと標高1000mの林道に着いてしまった。山林は縞枯れ状に伐採(択伐)されている。比高53mしかないので5mの幅のある伐採跡を登ると1等三角点のある山頂だった。車デポ地点は8時過ぎで登頂は13時だった。5時間ほどのまったり沢登りであった。
 下山も同じ択伐地を下り林道をたどって左折、金沢栃洞林道に合流、林道をさっさとあるくと滝洞林道を分ける。そのまま下ると鰻沢林道に出て忠実に下るのみだった。
 結果、鰻沢とは何だったのか。鰻が生息するような環境ではないと思う。渓相も掴みどころのない鰻の寝床のようにどこまでも奥深く伸びる沢の意味か。土用の丑の日は昨日の20日だった。1匹でも見つかれば捕まえてみようと思ったが、当てが外れた。
 1日中天気はもって良かった。足助町の「百年草」(午後4時30分受付終了、300円)に入湯して帰名した。明るいうちに名古屋に着いた。

うつくしま百名山・半田山を歩く2019年05月19日

 朝7時過ぎ、朝食後に班分けをして29名が分乗。飯坂温泉福住旅館を出発した。ルートはナビ通りではなく、R4の東の農地を迂回するように走った。西に半田山の容姿が見えた。一番良い形のところを選んだのだろう。粋な計らいである。そうして半田山自然公園を目指した。
 公園への道は車でごった返していた。バスとの行き違いもありしばらく進めなかった。今日は山開きの日。その会場のPへ着くと想像以上に車が止まっている。もう歩き出していた。今日の参加者は500名という。さっきのバスも送迎だったのだ。
 登山口の林道終点まで走るが、狭い道にハイカーの行列が続くので注意深く走った。Pでさっさと身支度して出発だ。頂上へは比高300mもないからすぐだった。山頂へは参加者へバッジを渡すために渋滞していた。しばらく落ち着いてから登頂し、すぐ記念写真を撮って下山した。
 桑折町(かおり)の広報課のスタッフが記念写真を撮影中で、我々の記念写真のシャッターも押してもらった。下山後はPで解散となった。あっけない例会であった。しかし、語り草になりそうな登山ではあった。分乗者2名をJR桑折駅まで送って別れた。

 解散後はいったんR4を二本松市まで走った。安達太良山の麓をR459からR115へ走る。

 かつては30歳代の正月休みにJRを使って南東北の1等三角点だけを狙った変態的なスキーの山旅を思い出す。
 初日の男体山は強風で頂上直下で撤退、二日目は野岩鉄道で移動し南会津の七ヶ岳をスキー登山成功、3日目は鉄道で会津若松駅まで移動し、会津磐梯山のスキー登山に失敗、4日目は郡山駅から磐越東線で青谷駅へ移動し、スキー一式は駅に預けて、阿武隈山地の大滝根山に登頂するが、自衛隊の基地内のためフェンスの外から眺めるだけに終わった。
 さらにJR東北本線二本松駅の旅館で一泊後朝一のバスで安達太良山に向かった。最奥のスキー場からスキー登山で登頂した。これが3
つ目の成果だった。白河駅から三本槍ヶ岳を目指すもバスでPに降りた途端に道が凍結するほど寒気が厳しく、登山に挑戦することもなくすごすごと帰った。
 あの頃は登山技術も情報収集調査も不足して3座登頂、3座失敗の成果で終わった。男体山はその後グループで登った。磐梯山は5/17に雪辱を果たした。日本百名山は北海道で5座、東北で10座、関東甲信越で4座、関西で1座、四国で1座、九州で2座、未踏は合計23座になった。

 安達太良山はいかにもスキー向きのなだらかな山容が良い。大方雪は解けた。そんな馬鹿なことを思い出しながら典型的な山岳路を走った。R115は安達太良山の北麓を抜け出すと目の前に素晴らしい山が忽然と現れた。登ったばかりの磐梯山だった。磐梯の東から南へ回った。5/17に利用した道の駅にまた立ち寄った。
 最後は会津若松市の鶴ヶ城を見学した。駐車場から天守閣は見えず、場内に入ってから見上げた。名古屋城や姫路城をイメージしているからそのコンパクトさに拍子抜けする。松本城もそうだった。今の時代は市を睥睨するほどの威圧感は薄れた。場内には有料で入れるが外から眺めるだけにした。
 山本八重(新島八重)の和歌が展示してあった。何年か前の島津亜矢主演の「 御園座初座長公演 会津のジャンヌ・ダルク~山本八重の半生」を思い出す。Pの入り口には司馬遼太郎の文学碑がでんと構えていた。
 刻まれた言葉は「「歴史を紀行する」や「王城の護衛者」から抜粋した文章が碑に刻まれています。

『会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える。「歴史を紀行する」一九六八(昭和四十三)年より』
『容保が、京を戦場に死のう、といったとき、慟哭の声がまず廊下からあがった。この声は またたくまに満堂に伝播し、みな面を蔽って泣いた。
「君臣、相擁 し、声を放って哭けり」と、この情景を、劇的な表現で会津藩の古記録は語っている。「王城の護衛者」一九六八(昭和四十三)年より』

 このうちの松平容保は、美濃高須藩の出。帰ったら「街道をゆく〈33〉奥州白河・会津のみち、赤坂散歩 (朝日文芸文庫)」も読まなきゃ。

 その後、市内からナビに従い、R252に出て、福島県最奥部をドライブ。六十里越えトンネルを越えて新潟県へ、そしてR117から上信越道に入り帰名。鶴ヶ城見学に要した2時間分、帰宅が午前様になった。

まほろばの里から北蔵王・雁戸山へ行く2019年05月18日

 夜明けとともに目覚める。曇りがちだがまた晴れるだろう。名古屋で用意したうどんと豚肉、カット野菜を使って肉うどんを朝食にした。初夏になると食品が傷みやすいのでその日に消費したいもの。
 明るくなった高畠町内を走ると「まほろば」の語彙が目につく。青森を「北のまほろば」とネーミングした司馬遼太郎の「街道をゆく」のと同じだが旅の感動を表現したのに対し、地元の方は売り込みが強い気がした。しかし、これも歌人の短歌に基づいていると知って納得する。

 高畠町観光協会のHPには「まほろばの里たかはた
山形が生んだ歌人、結城哀草果は

「置賜は国のまほろば菜種咲き 若葉茂りて雪山も見ゆ」と詠みました。

山形県置賜地方の東部に位置する高畠の歴史は、縄文草創期の土器が発見された日向洞窟など、一万年前までさかのぼることができます。
そして、町内全域に広がる古墳群は、この地に人びとが定着し、次第に集落を形成してきた事の何よりの証となっています。

地味豊かな当地は、さくらんぼ、ぶどう、りんご、ラ・フランスなど、多くの果物が生産されています。

また、自然のおりなす山容も、蛭沢や観音岩に見られる当地方特有の凝灰岩の巨岩に恵まれ屹立する様態は、まさに「まほろばの里」にふさわしい景観となっています。

※“まほろば”とは、「周囲が山々に囲まれた平地で、実り豊かな住みよい所」の意」
以上
 ある観光サイトに「さて、「置賜」の地名が初めて記録に出てくるのは、持統天皇3年(689年)の『日本書紀』です。陸奥の国・優嗜曇郡の蝦夷が僧になりたいとの申し出を、天皇の詔により許可したと記述されています。優嗜曇は「ウキタム」、または「ウキタミ」と読ませており、承平4年(934年)頃に編纂された『和名類聚抄』では、「於伊太三(おいたみ)」の字があてられています。
 「置賜は国のまほろば」と詠まれたように、この地域は、豊かな土地であったと思われます。それは、この地に天皇領や摂関家、後白河法皇の領地(本所)であったことからも推測できるものです。置き賜う=興玉=オギタマ(伊勢の二見ケ浦には興玉神社がある。)という名前からも、当時の権力者は、条件の良い豊かな土地を自分のものにしていたと考えられるからです。
 さらにこの地方は、西東北における蝦夷と大和朝廷との境にあたり、国土防衛線の意味もあったと言われます。このことは、西東北地方における前方後円墳の分布においても、当地の南陽市に存在する稲荷森古墳の特異性からも伺うことができます。蝦夷集落を管理しなければならない最前線であったとすれば、置賜は「日置郡、置部(へきべ)」に関した名前とも考えられる。「へき部」とは、古代出雲族から出た氏族の名前であるが、その後役職名となり、「住民の戸数を調べる仕事で、税務と行政」を司る意味に使われるようになったと言われています。」紹介されている。
 思い付きで命名していることではなかったのである。司馬遼太郎の「街道をゆく」10の羽州街道にも置賜にふれている。 

 道の駅の接するR113からR13へ右折。置賜平野を北上する。山形市からR286へ右折。山形自動車道関沢ICまで良い道が続く。ICを過ぎると突然1車線の狭隘な山岳路に急変する。タイトなカーブは笹谷峠まで連続した。
 906mの峠に着いた。濃霧が景観を奪い、強い風が吹いている。駐車場は約30台から50台は入る広さがある。トイレもあって設備は良い。身支度後、登山口を探るが見当たらず、宮城県境まで歩くと道標があった。明確ではなく、何となく右へ下がってみたら、R286の県境ゲートの宮城側に出た。その先に小さく北蔵王と古い道標がありそれに従う。思い直して山形県境も探るが分からず。
 地形図では宮城県内から破線路が続くが山形県境も絡めながら歩くようだ。そのうち有耶無耶関跡なる道標のある場所に着いた。宮城県側からの沢道が上がってきている。さらに進むと登山道が錯綜している。笹谷峠側に少し戻ると三差路になり左折すると雁土山への道標になっていた。狐につままれたような迷走山路である。
 雁土山へ振ると見事なブナの森の中の山道になる。地形図にあるような緩斜面で高度は上がらず。4等三角点「八丁平」は見落とした。何分登山口から濃霧で見通しはきかない。登山道はやや傾斜を高めながらゆっくり登り始めた。足元の道は掘れこんでいるいるから利用者は多いのだろう。上に行くと残雪が道の溝を埋めている。
 中途で小休止。クマへの恐れから、ブナ林では休まず歩いたせいで大汗をかいた。登山口で厚着し、その上に雨がっぱも着込んだから当然だ。カッパを脱ぎ、厚めの上着も脱いで体温を下げた。そしてぐったりする疲労感に襲われた。
 濃霧も晴れて、前衛のカケスヶ峰へ登頂。360度の展望がある。雁戸山は名前の通り鋸刃のような山容である。疲労した体で蟻の戸渡のような危険個所は歩けない。往復1時間半はかかる。4時頃までに飯坂温泉へ行かねばらなず、少し急がないと間に合わない。カケスヶ峰で登頂を断念して関沢コース経由から笹谷峠へ下山した。
 こちらも同等のブナはないが、つるつるの滑りやすい登山道の状況であった。但し明るいのが幸いだ。峠が近くなると登山道がいくつかに分岐している。直感で電波塔?の方へ行くと舗装路になっていた。直進すると地元の高校の山小屋に通じていただろう。舗装路との連絡路もあった。登山口は駐車場からすぐの電波塔への舗装路の入り口であった。明確な道標ではない。名山ではあるがマイナーだとこんな扱いなのだ。
 小屋で一緒になった女性ハイカーに道々教えてもらった。今日は山形神室への手前のはまぐり山を往復したらしい。眺めが良く楽だとのこと。神室山は二つもあったのだ。
 駐車場で支度後、R286を下る。山形市内に戻り、物産展示場を見学。そこから仰ぐ雁戸山は立派な姿に見えた。R13で米沢市内まで戻り上杉鷹山関係の伝国の杜に入館(本日は無料)して鷹山の業績を学んだ。R13で福島の飯坂温泉に向かった。
 福島県境の手前で県道に右折。峠駅を見学に行く。奥羽本線は新幹線化されたが、かつてはスイッチバックで知られた。そこの名物の「峠の力餅」を買うためだった。ここも1車線の狭い山岳路であった。人気の秘境駅だったので今もドライバーが行きかう。
 峠駅は残っていた。今は山形新幹線の強力なモーターで牽引されて走り抜けてゆく。R13は西栗子と東栗子トンネルの2本を貫通させ、東北中央自動車道は長いトンネルを貫通させたというのに、ここは産業遺産めく駅を残した。
 R13を下るとあとは道草もなく飯坂温泉の旅館を目指した。摺上川に面した老舗旅館だった。玄関を入ると懐かしい会長らが待っていた。受付を済ませてようやく30名の会員仲間の一員になった。

パッキング2019年05月15日

 明日からまた三泊四日で東北の山を歩くのでパッキングをする。車内を整理する。東北では念願だった山形県米沢市に行くこととした。

残雪の八甲田山を歩く2019年05月04日

 朝4時過ぎ、目が覚めると周囲には結構な車の台数が埋まっていた。夜遅く着いたのだろう。近隣の県ならそれでも良い。ここでも岩木山と同様に山スキーヤーが非常に多い。春の八甲田山は色んな変化のあるコースがあって、春スキーのメッカともいえる。
 さて、朝食後に、出発の準備をする。残雪が多いので重登山靴を用意した。ところが、靴底が壊れてゴム底がはがれるというアクシデントがあった。出発前で良かった。以前から水の染み込みが早くなったのは靴底の革が割れていたためだった。そこで無雪期用の登山靴に履き替えた。これだとアイゼンが使えないがやむなし。
 食料、水、衣類などパッキングに念を入れてロープウェイ駅まで歩く。白神岳では軽ピッケルにした。岩木山では冬用のピッケルを使ったがここではストック2本とした。
 ロープウェイはもう稼働していた。観光客が多いので臨時便を出したのだ。2番目の箱に乗れた。終点で降りると一面の雪の平だ。1326mの建物のあるピークを緩く越す。すると地形図では湿地帯になっているが今は一面の雪の平に下ってゆく。しかし、長い竹の棒が赤倉岳の登山道につながって刺してあるので万一ガスられても迷うことはない。数名から10名以上の山スキーヤーのパーティの後を追うようについてゆく。雪面が少しは固くなるから楽だ。
 こうして赤倉岳を登ったが、スキーヤーとはルートが違うために、途中から藪を漕いで、登山道に出た。そして1527mの井戸岳を経て1440mの避難小屋に下る。比高144m登り返すと八甲田山の最高峰の大岳に登頂。1等三角点がある。意外にも登頂者は少なく5名くらいか。あれだけいたお客はほとんどが観光客であり、山スキーであった。ツボ足で登頂だけを目的の登山者は少ないのだった。
 展望の広大さはいうまでもない。岩木山と違って広さがある。これゆえに大規模な遭難事件が起きたのだ。ほぼ南に予定していた戸来岳の三山が見える。確かではないが、階上岳も視野に入っているだろう。しかし、もうこれで良いと満足し、明日は帰名することとした。
 滞在15分で下山した。元来た道をたどった。往きは2時間半、帰りは2時間くらいか。またロープウェイで下る。
 帰路はスマホのナビがR103、R394,R102,R454、R7とつないだ。道の駅「碇ヶ関」で車中泊とした。ここには温泉がありありがたく入湯した。ところが、夜になって国道沿いの騒音の激しさがきになり眠れなくなった。それで3時間ほど睡眠後の11時半にまたドライブになった。