忘年山行1霊山を歩く2019年11月30日

 朝8時過ぎ、私、M野、K,M本、T、I島の6人が集結し、金山駅前を出発。9時過ぎ亀山PA着。ここでIさんとSさんに合流し8名になる。東名阪高速を出て名阪国道(R25)へ行く。快調に飛ばして伊賀(柘植)ICを出る。スマホのナビで地理勘もなく霊山寺へ導かれる。
 霊山寺には数台の先行車が止まっていた。手軽なハイキングの山である。私たちも支度して出発。境内の長い階段を登ると本堂の横の大銀杏が黄金色に輝くような黄葉が素晴らしい。一度も吠えず老犬が見守ってくれる。登山道は左へ少し下った林道である。
 林道の終点から杉の植林の中の登山道が始まる。というより参詣の道だろうか。200mごとに号数が増える。とにかく異口同音に寒いと訴える。中腹まで登ると温まり一枚脱ぐ。
 中途には寺院遺跡のような名残りの名前がある。山頂直下には湿地帯もあったから夏は僅かでも湧水があるのだろう。山岳霊山が成立するには水源が大きな条件になる。

 伊賀上野観光協会のHPには霊山寺は「創建は古く、霊山山頂(765.8m)には、平安時代〜江戸時代にかけての一大寺院跡(面積11,200m2)があります。奥之院には、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)(延宝3年〈1675年〉)を安置し、石造台座には永仁3年(1295年)5月10日の銘があります。
 その後、霊山寺は現在のように霊山中腹に再興され、天台宗より黄檗(おうばく)宗に改宗されました。
本尊、十一面観世音菩薩は寄木造で、像高1.8m、江戸時代初期の作です。ほかに普賢(ふけん)菩薩や、平安時代の銅鏡が保管されています。」と約700年の歴史を誇る古刹である。

 山頂へは雑木林に変わった辺りから緩やかに登り石段を登ると萱とのの平らな山頂だった。南西の隅っこに一等三角点が埋まっていた。経塚を中心に塁が築かれている。そこに腰を下ろして休む。寒いのでやることもなく早々に下山した。
 本堂では俳句の投句箱があったので2句を即吟で投句しておいた。滋賀の大津市で4句、今日で2句と投句した。果たして結果は如何に。
 ゲストハウス関ロッジに行くにはまだ時間が早いので芭蕉公園を散策した。芭蕉は韜晦したので生まれた家、場所も定かではないらしい。そこで上野市は生家を具体的に挙げ、ここ柘植町にも生誕地を訴えます。
 観光資源になるほどの大物は違います。
 案内板には
「俳聖松尾芭蕉翁は、1644(正保1)年に伊賀国柘植郷拝野の里(現在の三重県阿山郡伊賀町大字柘植町)松尾儀左衛門の二男として生まれました。翁を偲び毎年11月12日に松尾家の菩提寺である萬寿寺などにおいて、しぐれ忌が開催されます。また、伊賀町内には句碑や像の他に、生誕地の碑・生誕宅址碑等が建てられ、翁の遺徳を讃えています。」
 園内には有名な

「古里や 臍のをに泣く としのくれ」

という、芭蕉が親不孝を詫びて詠んだ句碑が建っていました。旅の途中で訃報を聞いたにも関わらず死に目にも会えず、葬儀に来れなかった。兄からこれが母が大事に持って居たお前の臍の緒だと渡されて泣いたというのである。

その後、伊賀IC近くのレストランで蕎麦を食べて温まりました。そろそろ時間と関ロッジへ向かいました。このところ数年は常宿みたいになりました。自炊ながら風呂、布団もある立派なお宿です。
 今日は新人2名も含めて15名もの盛会になりました。かつては旧人ばかりだったこともあり10名前後で推移してきました。もう1名の新人候補もいたのですがあいにく風邪でドタキャンになりました。鋤鍋を囲んで今年の反省や来年の抱負など語らいました。例年になく充実した忘年山行になりました。その一方では70歳代後半から80歳代の3名の古参会員の退会を聞かされたので喜びも半ばですが。

司馬遼太郎・街道をゆく『壱岐・対馬の道』を読む2019年09月23日

 HPから目次をコピペする。
【壱岐・対馬の道】対馬の人/壱岐の卜部/唐人神/宅麿のこと/壱岐の田原/郷ノ浦/豆腐譚/曾良の墓/曽祖父の流刑地/神皇寺跡の秘仏/風濤/志賀の荒雄/厳原/国昌寺/対馬の〝所属〟/雨森芳洲/告身/溺谷/祭天の古俗/巨済島/山ぶどう/佐護の野/赤い米/千俵蒔山/佐須奈の浦

 この中の対馬の”所属”、雨森芳洲を読んだ。p165から申維翰(しんゆはん)の『海游録』(東洋文庫252)を引いて、朝鮮人と日本人の考え方の違いを解説する文は、現代にも通じる。芳洲はこの人物の扱いに困惑した。対馬藩主は申と会わずにことを治めた。
 申は現代でいえば、文大統領だ。申は朝鮮人官僚を自縄自縛してしまったというのだ。これもまた儒教の弊害であろう。福沢が「封建制は親の仇」と嘆いたのも儒教の毒が回った封建制のことである。新しい時代を開明してゆくには儒教は弊害になる。戦前の李氏朝鮮は日本が徹底的に儒教を叩き壊したから発展を見たがしょせん自分の頭ではなかったから今に至るまで抵抗がある。

 芳洲は長寿を得てこの対馬の土になった。長寿院に葬られた。「市指定史跡。江戸時代有数の儒学者として知られた人物の墓。」と紹介されている。
 対馬に曽良の墓があるとは意外だ。観光用HPには「江戸幕府の命により諸国の実態調査員である巡見使に任命された河合曽良は1710年、この任務のため壱岐に渡った際、病に倒れ、この地に没しました。」とあるからホントに死んだのだろう。

・・・対馬には1等三角点が3座あり、最高点の矢立山648m、白嶽なども良い山だ。いつかは登山と芳洲の墓を訪問する目的で行きたい。
 俳人の高浜虚子も訪れている。こんな句碑もある。
 
 「上見坂公園(かみざか、対馬市厳原町)にて、

     「対州は 大山国や ほととぎす」   虚子

島なので、海が見えると思って来てみたら、山ばっかりだった・・・と」

奥三河・出来山へ鰻沢を遡る2019年07月21日

 朝6時30分一社駅前に5名が集合出発。すぐに名古屋ICに入り、鞍ヶ池SICを目指す。約30分で県道に出て足助町はすぐである。さらにR420から設楽町へ走り新段戸トンネルをくぐると豊邦大橋を渡る。この下が鰻沢と別の沢が合流して鰻ノ沢になる。下流は当貝津川で豊川になる。
 橋を渡り切ってすぐに左折するに林道になるが二又になる。両方とも先のゲートで進入はできず662m付近に駐車。先行車が1台止まっていた。
 身支度後左の林道を行くと鰻ノ沢の支流の鰻沢にかかる橋の上に立つ。橋のたもとから藪を分けて入渓する。最初に中々の美渓を思わす釜があった。しかし段差がない。岩質は不明ながらこの先ずっと磨かれたような岩の露頭が続く。
 しばらくで鰻沢林道の2号橋の下をくぐる。未確認だが入渓地点の橋が1号橋だろう。同行者の1人がまったりした良い沢だという。確かに圧倒するような滝はなく、飲み込まれそうな渕もない。迫力に欠ける。登山道と同様にどんどん遡る。時々斜瀑もあるが平凡な渓相に飽きたころ、3号橋?に到達。左の草むらを分けて林道に上がり、橋の上流に出る。
 ここで鰻沢林道は終わり、足助町から来る金沢栃洞林道になる。ふたたび入渓するとしばらくで850mの等高線の広がる二又になる。本流は水量の多い左又か。古い文献ではアンコ沢と鰻沢の分岐という。どっちか不明ながら左又よりやや水量で劣る右又に入る。
 ここで左又を探ると何とかつての森林鉄道段戸山線田峰鰻沢線の橋の残骸と石組の基礎を発見した。さすがにレールは撤去されてはいたが多分油分の多い木材の橋梁が朽ちたまま沢にまたがる。入渓地への林道は森林鉄道の廃線跡だったのだ。R420もそのままではないが少し上に廃線跡があるようだ。
 HPのトップは
http://www.tokai-mg.co.jp/taguchisentop.htm
その中の 田峰鰻沢線の6を貼り付ける  
http://www.tokai-mg.co.jp/unagisawasen6.html

「田峰鰻沢線は昭和6年から28年にかけて施設され33年に撤去された。田峰栃洞線は昭和7年から26年に施設され、昭和34年から37年にかけて撤去された。このように施設と撤去がほとんど同時に行われているのはおそらく施設しながら近くを伐採し、終わったら次々と先へ伸ばしていき、終点近くでの伐採が終われば、少しずつ撤去しながら残りの部分を伐採していったためだろう。」とある。
 私どもの駐車地点には地形図で民家の記号があったが今は廃村になり草地で植林されている。

 さて、二又を右へ振った。
 等高線が緩いので沢も穏やかなままである。倒木や藪が覆うこともなく出来山直下の奥の二又まで来てしまった。直登すると足助町との境界尾根に達するが、山頂へは遠ざかるから沢から離れて枯れ笹の覆う山腹の踏み跡を追っていくと標高1000mの林道に着いてしまった。山林は縞枯れ状に伐採(択伐)されている。比高53mしかないので5mの幅のある伐採跡を登ると1等三角点のある山頂だった。車デポ地点は8時過ぎで登頂は13時だった。5時間ほどのまったり沢登りであった。
 下山も同じ択伐地を下り林道をたどって左折、金沢栃洞林道に合流、林道をさっさとあるくと滝洞林道を分ける。そのまま下ると鰻沢林道に出て忠実に下るのみだった。
 結果、鰻沢とは何だったのか。鰻が生息するような環境ではないと思う。渓相も掴みどころのない鰻の寝床のようにどこまでも奥深く伸びる沢の意味か。土用の丑の日は昨日の20日だった。1匹でも見つかれば捕まえてみようと思ったが、当てが外れた。
 1日中天気はもって良かった。足助町の「百年草」(午後4時30分受付終了、300円)に入湯して帰名した。明るいうちに名古屋に着いた。

うつくしま百名山・半田山を歩く2019年05月19日

 朝7時過ぎ、朝食後に班分けをして29名が分乗。飯坂温泉福住旅館を出発した。ルートはナビ通りではなく、R4の東の農地を迂回するように走った。西に半田山の容姿が見えた。一番良い形のところを選んだのだろう。粋な計らいである。そうして半田山自然公園を目指した。
 公園への道は車でごった返していた。バスとの行き違いもありしばらく進めなかった。今日は山開きの日。その会場のPへ着くと想像以上に車が止まっている。もう歩き出していた。今日の参加者は500名という。さっきのバスも送迎だったのだ。
 登山口の林道終点まで走るが、狭い道にハイカーの行列が続くので注意深く走った。Pでさっさと身支度して出発だ。頂上へは比高300mもないからすぐだった。山頂へは参加者へバッジを渡すために渋滞していた。しばらく落ち着いてから登頂し、すぐ記念写真を撮って下山した。
 桑折町(かおり)の広報課のスタッフが記念写真を撮影中で、我々の記念写真のシャッターも押してもらった。下山後はPで解散となった。あっけない例会であった。しかし、語り草になりそうな登山ではあった。分乗者2名をJR桑折駅まで送って別れた。

 解散後はいったんR4を二本松市まで走った。安達太良山の麓をR459からR115へ走る。

 かつては30歳代の正月休みにJRを使って南東北の1等三角点だけを狙った変態的なスキーの山旅を思い出す。
 初日の男体山は強風で頂上直下で撤退、二日目は野岩鉄道で移動し南会津の七ヶ岳をスキー登山成功、3日目は鉄道で会津若松駅まで移動し、会津磐梯山のスキー登山に失敗、4日目は郡山駅から磐越東線で青谷駅へ移動し、スキー一式は駅に預けて、阿武隈山地の大滝根山に登頂するが、自衛隊の基地内のためフェンスの外から眺めるだけに終わった。
 さらにJR東北本線二本松駅の旅館で一泊後朝一のバスで安達太良山に向かった。最奥のスキー場からスキー登山で登頂した。これが3
つ目の成果だった。白河駅から三本槍ヶ岳を目指すもバスでPに降りた途端に道が凍結するほど寒気が厳しく、登山に挑戦することもなくすごすごと帰った。
 あの頃は登山技術も情報収集調査も不足して3座登頂、3座失敗の成果で終わった。男体山はその後グループで登った。磐梯山は5/17に雪辱を果たした。日本百名山は北海道で5座、東北で10座、関東甲信越で4座、関西で1座、四国で1座、九州で2座、未踏は合計23座になった。

 安達太良山はいかにもスキー向きのなだらかな山容が良い。大方雪は解けた。そんな馬鹿なことを思い出しながら典型的な山岳路を走った。R115は安達太良山の北麓を抜け出すと目の前に素晴らしい山が忽然と現れた。登ったばかりの磐梯山だった。磐梯の東から南へ回った。5/17に利用した道の駅にまた立ち寄った。
 最後は会津若松市の鶴ヶ城を見学した。駐車場から天守閣は見えず、場内に入ってから見上げた。名古屋城や姫路城をイメージしているからそのコンパクトさに拍子抜けする。松本城もそうだった。今の時代は市を睥睨するほどの威圧感は薄れた。場内には有料で入れるが外から眺めるだけにした。
 山本八重(新島八重)の和歌が展示してあった。何年か前の島津亜矢主演の「 御園座初座長公演 会津のジャンヌ・ダルク~山本八重の半生」を思い出す。Pの入り口には司馬遼太郎の文学碑がでんと構えていた。
 刻まれた言葉は「「歴史を紀行する」や「王城の護衛者」から抜粋した文章が碑に刻まれています。

『会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える。「歴史を紀行する」一九六八(昭和四十三)年より』
『容保が、京を戦場に死のう、といったとき、慟哭の声がまず廊下からあがった。この声は またたくまに満堂に伝播し、みな面を蔽って泣いた。
「君臣、相擁 し、声を放って哭けり」と、この情景を、劇的な表現で会津藩の古記録は語っている。「王城の護衛者」一九六八(昭和四十三)年より』

 このうちの松平容保は、美濃高須藩の出。帰ったら「街道をゆく〈33〉奥州白河・会津のみち、赤坂散歩 (朝日文芸文庫)」も読まなきゃ。

 その後、市内からナビに従い、R252に出て、福島県最奥部をドライブ。六十里越えトンネルを越えて新潟県へ、そしてR117から上信越道に入り帰名。鶴ヶ城見学に要した2時間分、帰宅が午前様になった。

まほろばの里から北蔵王・雁戸山へ行く2019年05月18日

 夜明けとともに目覚める。曇りがちだがまた晴れるだろう。名古屋で用意したうどんと豚肉、カット野菜を使って肉うどんを朝食にした。初夏になると食品が傷みやすいのでその日に消費したいもの。
 明るくなった高畠町内を走ると「まほろば」の語彙が目につく。青森を「北のまほろば」とネーミングした司馬遼太郎の「街道をゆく」のと同じだが旅の感動を表現したのに対し、地元の方は売り込みが強い気がした。しかし、これも歌人の短歌に基づいていると知って納得する。

 高畠町観光協会のHPには「まほろばの里たかはた
山形が生んだ歌人、結城哀草果は

「置賜は国のまほろば菜種咲き 若葉茂りて雪山も見ゆ」と詠みました。

山形県置賜地方の東部に位置する高畠の歴史は、縄文草創期の土器が発見された日向洞窟など、一万年前までさかのぼることができます。
そして、町内全域に広がる古墳群は、この地に人びとが定着し、次第に集落を形成してきた事の何よりの証となっています。

地味豊かな当地は、さくらんぼ、ぶどう、りんご、ラ・フランスなど、多くの果物が生産されています。

また、自然のおりなす山容も、蛭沢や観音岩に見られる当地方特有の凝灰岩の巨岩に恵まれ屹立する様態は、まさに「まほろばの里」にふさわしい景観となっています。

※“まほろば”とは、「周囲が山々に囲まれた平地で、実り豊かな住みよい所」の意」
以上
 ある観光サイトに「さて、「置賜」の地名が初めて記録に出てくるのは、持統天皇3年(689年)の『日本書紀』です。陸奥の国・優嗜曇郡の蝦夷が僧になりたいとの申し出を、天皇の詔により許可したと記述されています。優嗜曇は「ウキタム」、または「ウキタミ」と読ませており、承平4年(934年)頃に編纂された『和名類聚抄』では、「於伊太三(おいたみ)」の字があてられています。
 「置賜は国のまほろば」と詠まれたように、この地域は、豊かな土地であったと思われます。それは、この地に天皇領や摂関家、後白河法皇の領地(本所)であったことからも推測できるものです。置き賜う=興玉=オギタマ(伊勢の二見ケ浦には興玉神社がある。)という名前からも、当時の権力者は、条件の良い豊かな土地を自分のものにしていたと考えられるからです。
 さらにこの地方は、西東北における蝦夷と大和朝廷との境にあたり、国土防衛線の意味もあったと言われます。このことは、西東北地方における前方後円墳の分布においても、当地の南陽市に存在する稲荷森古墳の特異性からも伺うことができます。蝦夷集落を管理しなければならない最前線であったとすれば、置賜は「日置郡、置部(へきべ)」に関した名前とも考えられる。「へき部」とは、古代出雲族から出た氏族の名前であるが、その後役職名となり、「住民の戸数を調べる仕事で、税務と行政」を司る意味に使われるようになったと言われています。」紹介されている。
 思い付きで命名していることではなかったのである。司馬遼太郎の「街道をゆく」10の羽州街道にも置賜にふれている。 

 道の駅の接するR113からR13へ右折。置賜平野を北上する。山形市からR286へ右折。山形自動車道関沢ICまで良い道が続く。ICを過ぎると突然1車線の狭隘な山岳路に急変する。タイトなカーブは笹谷峠まで連続した。
 906mの峠に着いた。濃霧が景観を奪い、強い風が吹いている。駐車場は約30台から50台は入る広さがある。トイレもあって設備は良い。身支度後、登山口を探るが見当たらず、宮城県境まで歩くと道標があった。明確ではなく、何となく右へ下がってみたら、R286の県境ゲートの宮城側に出た。その先に小さく北蔵王と古い道標がありそれに従う。思い直して山形県境も探るが分からず。
 地形図では宮城県内から破線路が続くが山形県境も絡めながら歩くようだ。そのうち有耶無耶関跡なる道標のある場所に着いた。宮城県側からの沢道が上がってきている。さらに進むと登山道が錯綜している。笹谷峠側に少し戻ると三差路になり左折すると雁土山への道標になっていた。狐につままれたような迷走山路である。
 雁土山へ振ると見事なブナの森の中の山道になる。地形図にあるような緩斜面で高度は上がらず。4等三角点「八丁平」は見落とした。何分登山口から濃霧で見通しはきかない。登山道はやや傾斜を高めながらゆっくり登り始めた。足元の道は掘れこんでいるいるから利用者は多いのだろう。上に行くと残雪が道の溝を埋めている。
 中途で小休止。クマへの恐れから、ブナ林では休まず歩いたせいで大汗をかいた。登山口で厚着し、その上に雨がっぱも着込んだから当然だ。カッパを脱ぎ、厚めの上着も脱いで体温を下げた。そしてぐったりする疲労感に襲われた。
 濃霧も晴れて、前衛のカケスヶ峰へ登頂。360度の展望がある。雁戸山は名前の通り鋸刃のような山容である。疲労した体で蟻の戸渡のような危険個所は歩けない。往復1時間半はかかる。4時頃までに飯坂温泉へ行かねばらなず、少し急がないと間に合わない。カケスヶ峰で登頂を断念して関沢コース経由から笹谷峠へ下山した。
 こちらも同等のブナはないが、つるつるの滑りやすい登山道の状況であった。但し明るいのが幸いだ。峠が近くなると登山道がいくつかに分岐している。直感で電波塔?の方へ行くと舗装路になっていた。直進すると地元の高校の山小屋に通じていただろう。舗装路との連絡路もあった。登山口は駐車場からすぐの電波塔への舗装路の入り口であった。明確な道標ではない。名山ではあるがマイナーだとこんな扱いなのだ。
 小屋で一緒になった女性ハイカーに道々教えてもらった。今日は山形神室への手前のはまぐり山を往復したらしい。眺めが良く楽だとのこと。神室山は二つもあったのだ。
 駐車場で支度後、R286を下る。山形市内に戻り、物産展示場を見学。そこから仰ぐ雁戸山は立派な姿に見えた。R13で米沢市内まで戻り上杉鷹山関係の伝国の杜に入館(本日は無料)して鷹山の業績を学んだ。R13で福島の飯坂温泉に向かった。
 福島県境の手前で県道に右折。峠駅を見学に行く。奥羽本線は新幹線化されたが、かつてはスイッチバックで知られた。そこの名物の「峠の力餅」を買うためだった。ここも1車線の狭い山岳路であった。人気の秘境駅だったので今もドライバーが行きかう。
 峠駅は残っていた。今は山形新幹線の強力なモーターで牽引されて走り抜けてゆく。R13は西栗子と東栗子トンネルの2本を貫通させ、東北中央自動車道は長いトンネルを貫通させたというのに、ここは産業遺産めく駅を残した。
 R13を下るとあとは道草もなく飯坂温泉の旅館を目指した。摺上川に面した老舗旅館だった。玄関を入ると懐かしい会長らが待っていた。受付を済ませてようやく30名の会員仲間の一員になった。

パッキング2019年05月15日

 明日からまた三泊四日で東北の山を歩くのでパッキングをする。車内を整理する。東北では念願だった山形県米沢市に行くこととした。

残雪の八甲田山を歩く2019年05月04日

 朝4時過ぎ、目が覚めると周囲には結構な車の台数が埋まっていた。夜遅く着いたのだろう。近隣の県ならそれでも良い。ここでも岩木山と同様に山スキーヤーが非常に多い。春の八甲田山は色んな変化のあるコースがあって、春スキーのメッカともいえる。
 さて、朝食後に、出発の準備をする。残雪が多いので重登山靴を用意した。ところが、靴底が壊れてゴム底がはがれるというアクシデントがあった。出発前で良かった。以前から水の染み込みが早くなったのは靴底の革が割れていたためだった。そこで無雪期用の登山靴に履き替えた。これだとアイゼンが使えないがやむなし。
 食料、水、衣類などパッキングに念を入れてロープウェイ駅まで歩く。白神岳では軽ピッケルにした。岩木山では冬用のピッケルを使ったがここではストック2本とした。
 ロープウェイはもう稼働していた。観光客が多いので臨時便を出したのだ。2番目の箱に乗れた。終点で降りると一面の雪の平だ。1326mの建物のあるピークを緩く越す。すると地形図では湿地帯になっているが今は一面の雪の平に下ってゆく。しかし、長い竹の棒が赤倉岳の登山道につながって刺してあるので万一ガスられても迷うことはない。数名から10名以上の山スキーヤーのパーティの後を追うようについてゆく。雪面が少しは固くなるから楽だ。
 こうして赤倉岳を登ったが、スキーヤーとはルートが違うために、途中から藪を漕いで、登山道に出た。そして1527mの井戸岳を経て1440mの避難小屋に下る。比高144m登り返すと八甲田山の最高峰の大岳に登頂。1等三角点がある。意外にも登頂者は少なく5名くらいか。あれだけいたお客はほとんどが観光客であり、山スキーであった。ツボ足で登頂だけを目的の登山者は少ないのだった。
 展望の広大さはいうまでもない。岩木山と違って広さがある。これゆえに大規模な遭難事件が起きたのだ。ほぼ南に予定していた戸来岳の三山が見える。確かではないが、階上岳も視野に入っているだろう。しかし、もうこれで良いと満足し、明日は帰名することとした。
 滞在15分で下山した。元来た道をたどった。往きは2時間半、帰りは2時間くらいか。またロープウェイで下る。
 帰路はスマホのナビがR103、R394,R102,R454、R7とつないだ。道の駅「碇ヶ関」で車中泊とした。ここには温泉がありありがたく入湯した。ところが、夜になって国道沿いの騒音の激しさがきになり眠れなくなった。それで3時間ほど睡眠後の11時半にまたドライブになった。

下北半島・吹越烏帽子を歩く2019年05月03日

 道の駅「よこはま」は人気のエリアだった。ほとんどびっしり車で埋まり、みなさん車中泊組だっただろう。道の駅の混み具合は人気の差か。
 今日も夜明けとともに起きた。トイレで洗顔、歯磨き、その後の朝食を手早く済ませる。スマホに山名を入力してドライブを開始。R279からすぐに農道に左折。ナビに従うとまた失敗した。
 山頂の真西になる林道の入り口は閉鎖されている。しかし、そこに登山口の表示はない。おかしいので先まではしるがそれらしいものはない。農道の分岐まで戻り、山そのものを見て走った。吹越烏帽子の南西方向まで走った。登るより下ってしまうので怪しいと思いながらも行くと、やっと登山口の標柱が立っていた。やれやれである。
 クルマを止めて歩き出す。松林の平坦な中の山道を歩くと小沢を渡り、段々高度を上げてゆく。松林から小さな尾根になると展望も開けてきた。
 南には六ケ所村の原発と風力発電所がたくさん並ぶ。そういえば青森県は風が強い。そのせいであちこちで風力発電所が建っている。
 登山口から約1時間で登頂だ。周囲は360度の大展望である。わずかに508mの低山でも周囲に高い山がないので見晴らしは抜群である。感動させたのは南西に見える八甲田山であった。その山の広大さは堂々としている。東海地方の山域をコンパクトにするとこんな形になるか。乗鞍岳は八甲田山とし、岩木山は御嶽山とみえる。
 青森県はまるで箱庭的なコンパクトな美しさがある。2つの半島に取り囲まれたむつ湾、それぞれの半島の山々、南半分は山岳地帯、その水源の恵みを受けて広がる津軽平野。司馬遼太郎は人気の『街道をゆく』のシリーズで青森県をして、「北のまほろば」と名付けた。実にその通りだ。うまいキャッチだ。そう見えるし大げさではない。縄文時代から今日まで曲折はあるが、山海の珍味に恵まれてきた。
 登山はあっという間に終わった。下山後は下北半島の最高峰の釜臥山にドライブ登山を企てたが道路は途中まででしか行けなかった。恐山まで下りて上辺だけ見てきた。大湊市では溜まった汚れ物をコインランドリーで洗った。1週間もの着替えはちょっとある。後3日も旅を続けるし、都市部は今日だけだった。買い物を済ませると後は八甲田山ロープウェイ駅まで向かう。
 R279から下北縦貫道に入り、野辺地でR4に出る。七戸の道の駅は満杯だ。ここも東北新幹線の駅があるからだろう。R4からR394へ右折。八幡岳の南麓を通る。登山口から少し入ったがまだ融雪が進んでいなかった。
 R394から八甲田山の一角に入る。広大な火山性高原台地を快適に走った。右折して八甲田温泉を経てR103に入る。ロープウェイ駅のPに着いた。今夜はここで車中泊とした。トイレが駅舎内にしかないのが不便であり、水も使えない。そのためか、車中泊する車は数台もない。

津軽山地・大倉岳は断念2019年05月02日

 朝は例によって4時台に目が覚めた。空は明るく晴れた。むつ湾の向こうに下北半島も見えたから今日は大倉岳に立てるかと思い、段取りを終えて、南へ東津軽郡の蓬田へ向かった。
 大倉岳は津軽山地の1等三角点の山である。最高峰は丸屋形岳718m、2位は増川岳だが、眺めが良い山らしい。大倉岳、赤倉岳、袴腰岳の蓬田三山の最高峰になる。小説「津軽」にも出てくる。
 R280のバイパスに入り、蓬田に着いて、阿弥陀川に沿う道を探したが中々に手間取った。スマホのナビには山名を入力したためか、つながっていない道でもダイレクトにガイドする。行きつ戻りつして探したものの、降雨後か雪解け後か、泥濘の泥んこ道の悪路をかなり奥まで走ったが、標高が上がらず、不安になって引き返す。それで、隣の袴腰岳から登ることを思いついた。両山を結ぶ尾根の道は藪らしいが、踏み跡はあるだろうとの読みである。何しろ三山である。
 蓬田川に沿う林道を走ってゆくと前方にトラックが走っている。こりゃまずい。それでも可能性は捨てずに奥へノロノロ走るが、帰ってくるトラックも見えてどうやら伐採中であり搬出の作業であった。先ほども林道の途中で伐採作業中だったから、津軽山地は雪解けの直後であり、閉ざされた冬の山には仕事で入っているのだ。撤退を決めた。すると同時に空が黒くなり、雨が吹き降りとなった。予報では午後3時以降晴れ間が出るとのこと。
 結果、蓬田三山は中止とした。時間はあるので再び竜飛岬へ向かった。県道へ左折、今別へ行く県道に右折。岬に近づくにつれて降雨が激しくなる。
 津軽線津軽二股駅と北海道新幹線奥津軽いまべつ駅が併設され、道の駅があった。ここでしばらく休んだ。ここに車を置いて、ちょっと函館まで一泊二日の旅もできる。
 今別では終点の三厩駅を見た。本州最果ての駅である。緯度的には下北半島の大湊駅がちょっと北になる。
 そこから増川川に沿う林道も走ったが6月までは閉鎖されていて奥へは行けなかった。戻って、R280を行くと、R339になった。海沿いの狭い道だった。昨日歩いた算用師峠に源がある算用師川を渡る。ここにもみちのく松陰道の看板があった。結局竜飛港までは行ってみたが見どころは特になく、太宰治が泊まったという元旅館を活用した観光案内所と太宰の文学碑があって見学した。ストーブがある寒いところだった。
 竜飛燈台へ上ってゆく県道もあるがここで引き返す。R280、県道14を走り、R280で青森市へ行く。
 青森県近代文学館を見学し、北畠八穂のイベントのパンフを購入。平成6年10月25日から11月30日まで、同館で、北方のメルヘン作家ー展として北畠八穂特別展があった。蔵書の『津軽の野づら』の作品も閲覧した。
 ここからR4、R279と走って、下北半島に行く。野辺地から東半分は青森県だが南部藩だったらしい。道の駅「よこはま」で車中泊した。

岩木山登山2019年04月30日

 朝4時過ぎ、明るさに目が覚める。さっそく朝食に取り掛かる。あり合わせの野菜類を使った汁物で体を温める。片づけてPを出て、R101に戻る。青森まで120kmとの道路表示にかなり遠いのだと悟る。
 今日は午後から天気が悪いとの予報である。津軽半島への移動は止めて、岩木山を前倒しした。鯵ヶ沢から津軽岩木スカイラインの入り口に向けて右折。着いたらまだ7時なので8時までの時間は岩木山神社へ参拝に行った。令和を寿ぐ幟がたくさん立っていた。朝早いにもかかわらず岩木山神社は参拝客がもういた。
 また戻ってスカイラインに入った。通行料1800円のところ、JAFカード提示で200円引き。このスカイラインは69ものカーブをつけて1250mまで登る約10kmの山岳道路だ。Pには意外に多くの車が先着していた。しかも春スキーヤーの人らが多い。登山口の表示はあるがここから雪面ばかりである。比高390mあり、約1時間半の登りがある。但し踏み跡は見えない。先行者はシール登高してゆく。
 9時、ツボ足では見当が付かず、さらに登山リフト利用で登ることにした。往復900円である。リフトを降りると標高1470mくらいまで高度を上げる。硬い雪面を歩いて登山道に行く。いったんくだって岩の段々の急登をしのぐと1625mの山頂であった。
 たくさんの観光登山の登頂者であふれている。時に10時である。15分ばかりの滞在で下山する。
 登山リフトの乗り場まで来ると、もうガスが垂れ込めてきて山頂は見えなくなった。天候の悪化は山頂に寒気が来たことで分かる。
 スカイラインを下り、岩木山神社まで来る。地元のGSで給油して、良い温泉はないか、と聞くと百沢温泉を教えてくれた。350円だがJAFカード提示で50円引きになった。但し石鹸、シャンプーはない。非常に熱いお湯だった。長旅の疲れがほぐれて気持ちのいい湯加減に思えた。
 クルマの流れに任せて、弘前市内に入った。現在は桜まつりのたけなわで観光客と車でごった返していた。これはミスった。R339へ逃げて、竜飛岬を目指した。
 R339は津軽平野を貫通する。広大な田園風景が広がり、彼方に今しがた登ったばかりの岩木山が見えた。山体はほとんど雲に隠れていた。吉幾三の「津軽平野」はここが舞台か。真冬には一面雪に覆われると農作業はできないから出稼ぎに行く。そんな歌詞だった。
 途中、太宰治の出生地であることの案内(斜陽館)があり、心惹かれるがあまり時間はない。十三湖の道の駅の食堂ではしじみラーメンを食した。十三湊遺跡を見たり、港町の小泊では太宰治の文学館にも寄ったが、5時過ぎで、既に閉館していた。日本海に出て今夜は道の駅「こどまり」で車中泊になった。