赤沼千尋『山の天辺』を読む2016年12月30日

 赤沼千尋は黎明期の北アルプスの燕岳に登山小屋を建設した人である。『山の天辺』(昭和50年、東峰書房)は折々に書いた随想集の体裁となっている。扉には畦地梅太郎の版画「雪渓に立つ」「燕山荘」が挿入されている。序文は『たった1人の山』の浦松佐美太郎が書いた。
 今回特に書き残したいのは、「山男と遭難」の文に山小屋経営者ならではの秀逸なエピソードがあるのを見つけたからだ。
抜粋すると
「人生ことごとく運である。
山岳遭難もまた運である。」

「ことに雪山、それは荒れた日には、眼も開けられぬ恐ろしさに総毛立つ魔者となり、晴れた日と雪崩と言う武器で、音もなく襲いかかる狡猾な肉食獣となることがある。登山する人間にとって、このような山の災厄から逃れられる唯一の道は、天候などの条件のよい日に登山する以外はない。
 そして、早く登山したいはやる心を押さえながら、良い天候を待ち続ける忍耐心と、待ちに待つ時間がとれるかどうかということが問題なのである。」

 黒部の一帯を映画に撮影した名古屋の登山家・伊藤孝一著『狸囃子』からの引用から
「流動を停止した雪崩は、人間の眼には解らないが、停止と同時に力強い圧縮を開始するものである。故に、雪崩れている最中か、又は停止直後に、雪の中から泳ぎ出るか、或いは助け出されルカでなければ、忌まわしい結果が生じる。以下略」
「その夜、(佐伯)平蔵が雪崩に衝かれたら、押されるままにしていてはならぬ。足は飛んだり跳ねたり、手は眼の前を掻いて泳ぐように動かし続けることを忘れるな、と戒めた語り草は、生新しい体験が生んだ不滅の金言として、炉辺に居並ぶ全員の心の髄まで染み込んだ。」

 次は百瀬慎太郎遺稿集『山を想えば』からの引用
「前略、雪崩れに遭った時はいちはやくスキーを脱ぐ事が肝要だと言われる。これが咄嗟の場合によく行われ得る事だろうか。山田二郎氏(筆者注:慶応大学山岳部OB,マナスル隊員、元JAC会長)もこの試みを直ちに実行しようとして、右足のスキービンディングを脱いだ瞬間やられたのであった。それほど雪崩のスピードは速いものであった・・・。」

 以上の引用の後で赤沼自身の言葉は
「こんなエキスパートでも責任感が厚く、良い人たちが雪山に消えて行ったのである。今時の装備と比べれば誠にプリミティブなものであったが、然し登山の熱意と鍛錬並びに事前の準備は大変なものであった。それにも拘らず遭難した。そこには何か抗し難い運命のようなものが感ぜられる。」
と結んだ。
 単に思い出話や自慢話に終始しないで山と人生を語った名著の予感がする。今のところ本書は古書でしか入手できない。(愛知県図書館の横断検索をかけても1冊も蔵書がなかった。)中公文庫、岩波文庫辺りが文庫本化して欲しい。
 他に登山史から忘れられたような伊藤孝一の親友でもある。伊藤は厳冬期の北アルプスを縦走且つ映画撮影行という破天荒な登山家だった。赤沼は黒部の精通者として百瀬慎太郎とともに案内人役で同行した証人である。

映画鑑賞『ロング・トレイル』2016年08月01日

 7/31に名古屋・ミリオン座で『ロング・トレイル』を鑑賞する。

http://www.long-trail.com/

 まず主演のロバート・レッドフォードであるが、演技力は良いとしても当年80歳の高齢で、アクティブな役柄には合わないなと思った。相棒のニック・ノルティも75歳でしかもアル中の役柄である。
 観ている最中はちょっとした動作がコミカルで笑わせる。コメディらしい運びは堪能した。但し、「人生はベストを尽くせばそれでいい!」の最後のセリフは素晴らしいが、そこへ収斂させるには荒っぽいドラマ展開である。

 それもそのはずで原作者はビル・ブライソンといい、1951年生まれというから団塊の世代に近い。アパラチャアントレイルを40歳前後で踏破している。2000年に翻訳も中央公論新社から出版されたが今は絶版になっている。原作はアマゾンで今でも取り寄せできる。

 原作のあらすじは日本語のコメントからコピペすると
「アメリカ東側に位置する3000kmは超えると言われるAppalachian trailを、60代の男二人がえっちらおっちら歩いていく話である。一人はBill Bryson、作者そのものの名前ですが、どちらかと言うとちょっとアタマのいい平均的なアメリカ人像。一方昔の同級生であるStephan Katzはどちらかというと、ちょっと足りない感じで、いろいろと騒動も起こす。ツッコミとボケの関係で、旅は続いていく。
 アメリカの大自然を描写する作風が主体であり、それに名所名所の歴史話が散りばめられる。また旅行記だけでなく、環境破壊、アメリカの動植物の変動、低体温の危険性、クマに遭遇したら・・・等々、おかたい話も挿入されている。
 AT周辺の聞いたこともないような地名がたくさん出てくるが、それをGoogle 画像でチェックしていくと、けっこう楽しい。すごいきれいな景色に出会えたり、こんなところなんだというのが実感として理解できます。
 今回初めてBill Bryasonの作品を手にしたが、ソフトな文体で、笑いやユーモアの記載も富んでいる。新宿紀伊国屋の洋書コーナーでpushするように置かれていたが、確かにimpressiveで良い本であったと思う。」

 翻訳本のコメントをコピペすると
 「ブライソンは自然歩道で何度も遭難しそうになりました。
文字が細かい上に分厚い本なので、初めは私も「読書の途中で遭難するのでは?」と思ったのですが、意外にも最後まで遭難すること無く、楽しく読むことができました。自然歩道を悪戦苦闘しながら行くブライソンとカッツの漫才のような会話は、とても楽しいものです。また、適当な間隔で、アメリカで進行する自然破壊、ハイカーが遭遇した事故や事件の状況などがデータと共に示され、「あなたは、どう思いますか?」という問いかけが行われるので、文明社会のあり方についても考えさせられます。笑いだけで終わらないところが、本書の良さだと思います。
ブライソンには、「こんな人が学校の先生だったら良いのに」と思わせるところが沢山あります。コメディアンとなっても十分成功したかもしれませんが、教師となっても大きな成功をおさめたのではないかと思います。単に批判するだけに終らないブライソンの文明観には素晴らしいものだと思います。また、成功した作家でありながら、一般庶民に近い経済感覚を失わない点も素敵です。食糧や装備補充のために立ち寄った店、食事をした店、宿泊した店、お金を払った全ての店に対して、著者は値段とサービスを検証し、「高い」「安い」で一喜一憂するのです。私も彼と一緒にアパラチア自然歩道を歩いているような気分になりました。とても楽しい本でした。」

 通りででねえ。つまり軽いアメリカンコメディとして見るなら損はない。上映中も笑いをかみ殺せなかった。観客も声を出して笑っていた。
 映画と原作の違いは上記によれば大自然の描写、歴史話、環境破壊などが割愛されていることだろう。たしか、お堅いセリフもあるにはあったが、コメディの中に吹き飛ばされてしまった。印象に残るセリフを思い出せない。
 トレッキングはクライミングと違って登頂の喜びはない。コースを歩き通す達成感にある。それを中途でリタイアしても「ベストを尽くせばそれでいい」と諦める。人生になぞらえているのだろう。ロングトレイルに挑戦する体力と気力、ヒマとカネがあるだけでも優に贅沢なこと。
 さて私はこの週末に五龍岳から唐松岳のショートトレイルに挑戦、月末には北アルプスの大キレット踏破に挑戦の予定。
 次は竹屋谷の沢登りに挑戦する。7/30に下見に行きましたが、伐採中だった場所も緑が茂り、大平林道は全線舗装、Pと遊歩道まで整備されていてビックリした。大栃のある竹屋谷を垣間見るとやっぱり素晴らしい渓谷でした。

希代の登山家・伊藤孝一こぼれ話2016年04月26日

背後に鹿島槍が見えることから鷲羽岳と見られる
  伊藤孝一こぼれ話
 伊藤孝一は大正12年3月の立山、針の木峠越え、大正13年3月の真川から薬師岳、上ノ岳から鷲羽岳をスキーで縦走した。これを映画に撮影することで大きな功績を残した。案内人には赤沼千尋、百瀬慎太郎、撮影技師も名古屋から勝野銈四郎が同行。ヒマラヤ遠征に匹敵する1ヶ月に及ぶ登山だった。
 私は2009年1月に北ア・栂池にある赤沼健至氏経営のスキー宿で鑑賞した。その後も何かのイベントで年1回は上映されている。
 東海岳人列伝の候補として瓜生卓造『雪稜秘話 伊藤孝一の生涯』という小説以外の調査研究を進めるうちにとてつもない登山家像が浮かんできた。立山黒部で活躍した登山家なのに登山史から葬られていたとは。知られたのは近年のことだ。
 名古屋市の人だから何とか全体像を知りたかった。山岳映画を通して登山大衆化に貢献したことは疑いない。積雪期の北アルプス登攀記録はもっと高く評価されてもいい。加藤文太郎が活躍するのは数年後のことだ。
 伊藤孝一の学歴は旧制愛知一中だろうか。現在の丸の内三郵便局の敷地が愛知一中の校舎跡だから玉屋町(旧東海銀行本店の本町筋)なら徒歩で10分ほどで通学できる。

   参考資料を渉猟する
1 復刻版『山岳』日本山岳会   住所の事実確認
 入会年月は大正5年7月。弟ともに入会。住所が名古屋市西区玉屋町と知ることで清州越しの御用商人を半ば証明したことになり以後の調査が進んだ。大正3年から在名の会員十数名が納屋橋の料亭で集会を持つ。以後年に1回は集会があったが、八高の学生と半分はダブル。大正4年旧制八高山岳会が発足。大正5年6月には山岳講習会と晩餐会を開催。2500名も集まった。いよいよ名古屋の登山熱が高まる。山岳会も発足してまだ10年余りである。
 ただ、旧制八高の卒業生は昭和14年の名古屋帝国大学発足までは東京か京都などへ進学するしかなかった。八高でならしても他の大学に流出した。法学部ができたのは戦後のことである。東海支部の発足が昭和37年と遅かったのはこの辺の事情もあると思う。八高OBである石岡繁雄が呼びかけたのも歴史のめぐり合わせだ。

『山岳』17年第3号には「雪の上ノ岳へ」と題した榎谷徹蔵の大正12年12月25日から同年13年1月4日までのの紀行文がある。藤木九三ら朝日新聞の登山隊の様子がよく分かる。大多和峠を越えて、有峰へ。そして真川へと山越えする難儀な旅だった。真川には伊藤小屋があり、往時の小屋の贅沢三昧も活写されている。映画技師の勝野も同行している。上ノ岳の付近と黒部五郎岳の鞍部にも小屋がある。
黒部五郎の小屋は冠松次郎が利用している。冠松次郎『黒部渓谷』(平凡社ライブラリー)の双六谷から黒部川への中で、「この小屋は二間半に四間位の大きさでずいぶん太い材料と行き届いた設備で頑丈にできている。炉が二つに切ってあり、風呂もすえ、暖炉までも設けてあった。入り口の掛け板に五郎平ノ小屋としるしてある。名古屋の伊藤孝一氏がこの山稜を冬季に旅行するのを目的に建てられたもので、昨年十一月頃にようやく出来上がったのだということである。氷冷の夜臥を覚悟していた私はこの賚(たまもの)に感謝の意を表さないではいられなかった。」と激賞。大正13年8月5日のことだった。

2安川茂雄『近代日本登山史』
伊藤孝一の登山記録がないことの確認

3『目で見る日本登山史』 山と渓谷社
伊藤孝一の登山記録の記載の確認

4 杉本誠『山の写真と写真家達』ーもう一つの登山史ー  講談社
山岳映画(写真)の歴史

5 林董一『名古屋商人史』 中部経済新聞社
 名古屋城築城以来の有名無名の名古屋商人のルーツと消長を詳述。小説で紹介された京屋吉兵衛(伊藤吉兵衛)が実際に存在したことの事実確認。御用商人のランクの調査に役立つ。この本で秘話の出自の部分で事実と虚構があることが判明した。

6 「名古屋古地図」名古屋市博物館
 幕末の古地図で中区錦三丁目、中区丸の内二丁目、三丁目界隈の調査。清州越しの御用商人は優遇され、敵の襲撃に備えて周辺を尾張藩士の屋敷で取り囲むように配置。明治時代になり、名古屋経済の進展で、一等地になった。
 明治維新後、没落する武士や商人から土地を買い、運用することで資産家になったと想像する。1回の山行に20億円も浪費できた源泉は土地だった。
 これも想像であるが、維新後の激動期には失業武士があふれ、尾張藩への貸付が焦げ付いて、経済は停滞。恐慌状態になっただろう。その後はインフレになったと見られ、幕末の激変を経験した先代は子孫に事業をやらせず、資産運用のみをやらせた。土地(モノ)とカネへの執着の強い名古屋商人の原像が浮かぶ。無借金経営にこだわるのも銀行借入があれば激変に耐えられないことを肌で知ったのだろう。借金の返済原資は利益なので売上が激減すると破産になる。
 余談であるが名古屋コーチンは失業した尾張藩士の起業から生まれた。激動期の今も嘆いてばかりではなく、失業武士のひそみに倣おう。
http://www.nagoya-cochin.jp/02_about/02_01_growth/index.html
  
7 立山博物館 2004年7月企画展解説図録
「山岳映画の先駆者、伊藤孝一没後五〇年『山嶽活寫― 大正末、雪の絶巓にカメラを廻す』」  
 登山史から久しく忘れられた伊藤孝一の名前であるが、山岳映画で検索するとヒットする。こんな企画を立てられたのも伊藤孝一の功績を忘れない人がいたから。記録を立てた大正12年は1月に槇有恒が遭難したので、発表を控えたか、金持ちの道楽として無視されたのか。伊藤孝一の建てた小屋は藤木九三も利用して上ノ岳(北ノ俣岳)にスキー登山している。(榎谷の紀行と同じ。)
 
8 名古屋新聞縮刷版 名古屋市立図書館
 大正12年2月22日の大沢小屋から針の木越え、立山温泉への横断計画の記事の確認。遭難の憶測記事に伊藤自身も困惑し、大沢小屋から撤退後、無事だから新聞記事は信用するなと家族に電報を打つところが当時を思わせる。新聞の捏造記事が遭難騒ぎを起こす。その後も各紙の憶測記事で悩まされている。

9 瓜生卓造『雪稜秘話 伊藤孝一の生涯』  東京新聞
伝記小説の形をとるが、文中のカタカナ表記のメモは遺族から借用されたらしく、事実とみられる。伊藤はメモ魔だったらしく丁寧に書き残した。作品の骨格たる登山記は伊藤のメモとメモをつなぐ。この空白部分が瓜生の登山体験から生まれたリアルな表現で埋められている。事実に忠実な小説であるが、創作にせざるを得なかったところだ。上梓後、瓜生も黄泉の国へ旅立った。

哀悼!女優・原節子さん2015年11月26日

朝日新聞から
ソース:http://www.asahi.com/articles/ASHCT7KPNHCTUCLV01B.html?iref=comtop_pickup_01
戦前から戦後にかけて銀幕のトップスターとして活躍し、42歳の若さで突然引退した後は「伝説の女優」といわれた原節子(はら・せつこ、本名会田昌江〈あいだ・まさえ〉)さんが9月5日、肺炎で死去していたことがわかった。95歳だった。葬儀は近親者で営んだ。

原節子さん、内なる美追求 孤高の生涯半世紀
特集:原節子さん
 同じ敷地に暮らしていた親族によると、原さんは8月中旬、神奈川県内の病院に入院。亡くなった日は、5人ほどの親族に見守られながら息を引き取った。それまでは「大きな病気もなく過ごしていた」といい、亡くなった時点での公表を控えたのは「あまり騒がないでほしい」との遺志を尊重したためという。

 横浜市生まれ。女学校2年の時に義兄の熊谷久虎監督に女優の道を勧められ、1935年、日活多摩川撮影所に入社。「ためらふ勿(なか)れ若人よ」でデビューした。芸名の「節子」はこの時の役名からとった。

 山中貞雄監督の「河内山宗俊」など清純な美しさとかれんな演技で注目を浴び、36年、アーノルド・ファンク監督から、日独合作映画「新しき土」の主役に抜擢(ばってき)された。

 東宝系の会社に移籍。戦争映画への出演を経て、戦後の46年、黒澤明監督の「わが青春に悔なし」で、生の輝きに満ちた新しいヒロイン像を演じて注目を集めた。第2次東宝争議の最中、組合の政治闘争主義に反発し、長谷川一夫、高峰秀子らとともに組合を脱退し、47年3月に創立した新東宝に参加。この年の6月にフリーとなった。

 以降、「安城家の舞踏会」「お嬢さん乾杯!」「青い山脈」などに主演。みずみずしい美貌(びぼう)と着実に成長した演技力を発揮した。49年の小津安二郎監督の「晩春」では、大学教授の父(笠智衆)と暮らす、婚期が遅れた娘のこまやかな愛情を好演。この年の毎日映画コンクールの女優演技賞を受けた。

 「白痴」「麦秋」「めし」「東京物語」「山の音」など、戦後映画を代表する作品にたて続けに出演した。54年には、白内障の手術を受けたが、翌年、「ノンちゃん雲に乗る」で鰐淵晴子の母親役で再起した。

 その後も、「東京暮色」「秋日和」「小早川家の秋」など小津作品や、「智恵子抄」などで活躍したが、62年、「忠臣蔵」を最後に突然引退した。

 その後は神奈川県鎌倉市の自宅で静かに暮らし、パーティーなどの公の場には一切登場せず、マスコミなどの取材にも応じていなかった。それがかえって神秘的なイメージを生んだ。
以上

 往年の名女優・原節子さんが95歳で死去。各メディアが一斉に大々的に報じた。死去の連絡に供えて予定稿が準備してあったかのような詳細な評伝も掲載された。

 何といっても、小津映画の紀子三部作が良かった。あれで鎌倉へ行きたくなって、ハイキングを兼ねて何度か観光旅行した。すぐそこの谷戸の一角の小さな家に原さんが住んでいる気がした。ひょっとすると小津さん亡き後の家を購入して住まわれたのではないか。それは私の妄想である。
 『東京物語』『晩春』『麦秋』という俳句の季語を映画の題名に与えていかにも小津さんらしい。『東京物語』には戦争への批判と皮肉が込められていた。『安城家の舞踏会』も良かった。原さんの凜とした美貌が生かされた。佐野周二と原節子共演の『お嬢さん乾杯』も楽しく可笑しい映画だった。また、鎌倉を歩いてみたい。

ユーチューブで「伝説の女優 原節子」がヒットしたので追記しておく。
https://www.youtube.com/watch?v=HBtziiAaN-g
以上によると、92歳のころに編集されたようで、都内の介護付マンションにて健在である、とある。実際は鎌倉市のおいの家の敷地内に住んで居られたらしい。

追悼 高倉健さん2014年11月19日

NHK NEWSWEBから

昭和の映画の最盛期を支えた看板スターで、寡黙な男性を演じて、日本を代表する俳優として国際的に活躍した高倉健さんが今月10日、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で亡くなりました。
83歳でした。

高倉さんは福岡県中間市に生まれ、明治大学を卒業したあと東映のニューフェイスにスカウトされ、昭和31年に俳優としてデビューしました。
昭和40年代、「網走番外地」や「昭和残侠伝」などのシリーズで、東映の任侠路線のスターとして爆発的な人気を得ました。また、映画の主題歌をみずから歌い、「網走番外地」や「唐獅子牡丹」は大ヒットしました。
昭和51年に東映を退社したあと、「幸福の黄色いハンカチ」で不器用な生き方しかできない刑務所帰りの男を演じ、国内のさまざまな映画賞で主演男優賞を受賞しました。
硬派でシリアスな演技を得意としているほか、コマーシャルで使われた「不器用ですから」のセリフが代名詞的な存在になるなど、謙虚な人柄が多くの人に共感を与え、男女の別や世代を超えて人気を博しました。
さらに、「ザ・ヤクザ」や「ブラックレイン」などハリウッドの映画にも出演したほか、平成11年に公開された「鉄道員」でモントリオール映画祭の主演男優賞を受賞するなど、国際的に知名度の高い日本を代表するスターとしても活躍してきました。
こうした功績が評価され、平成10年に紫綬褒章を受章したほか、平成18年には文化功労者、そして平成25年に文化勲章を受章しています。高倉さんはおととし、降旗康男監督の映画「あなたへ」で、6年ぶりに映画に出演して注目されました。
所属事務所によりますと、高倉さんは次回作の準備の途中で体調を崩し、入院して治療を受けていたということですが、容体が急変し今月10日午前3時49分、東京都内の病院で悪性リンパ腫のため亡くなりました。
以上

 前科もの演じて逝くや十一月

 名場面浮かべて悼む十一月

映画『ビヨンド・ザ・エッジ 歴史を変えたエベレスト初登頂』2014年07月06日

公式サイト
http://tss1962.blog.fc2.com/blog-entry-160.html

 7/5に名古屋でも公開。今日鑑賞してきました。地下鉄矢場町駅下車。パルコの東館8F。

 いや-!もう退屈する場面が一つもなくて1時間30分緊張感の連続でした。特にヒラリーステップという難所を切り抜けて登頂への場面が圧巻。題名のビヨンドザエッジの意味はこの場面だったのですね。急な岩稜とエッジのような雪の壁にはさまれた場面を攀じ登った。その先には何度もコブのアップダウンがあるが、愚直に一歩一歩下を見て登るのみ。いつしかもうこれ以上高いところがない山頂に立っていた。
 1953年5月29日はヒラリーとテンジンの人類初登頂だった。あれから60年というわけだ。それにしてもご本人かと思うほどそっくりな俳優がよくいたものだ。しかもニュージーランド人という。観て損は無い傑作だった。

お千代保稲荷へ初詣2014年01月03日

  元旦  愛知県護国神社へ夕刻に初詣

寂寞の神社に祈る初詣

年賀状束を手にする重さかな

  2日  海津市 お千代保稲荷初詣

伊吹は雲多度養老の山眠る

冬川の流れぬやうな川面なり

木曽三川隔てし堤枯野道
  
お千代保さんごった返すも初詣

ロウソクと油揚げ買い初詣

晴れ着など誰一人見ずお千代保さん

串揚げに人だかりするお正月

   海津温泉初湯

洗い場の次を待つなり初湯かな

ぬるま湯といえど温まる初湯かな

   中川区で映画「永遠のゼロ」を鑑賞

最後まで飽かぬ映画や二日なり

愛知岳連・第17回遭難を考える講演会ー救える命を救いたいー大城和恵氏2013年11月29日

 講師:医学博士、国際山岳医 大城和恵氏
 長野県出身、心臓血管センター北海道大野病院勤務。2011年北海道警察山岳遭難救助アドバイザー医師に就任。

http://www.sangakui.jp/

 19時過ぎから20時45分まで1時間30分を越える熱弁に加盟山岳会員、一般の約100名の人が聞き入った。

 大きなテーマは高齢登山者を安全に登らせる話と事例に学ぶ低体温症である。今日的なテーマに山の好きな医師として何が出来るか、と考えて、山岳医という新分野を開拓された。
 限られた時間で重要な話をかなり端折って早口で話されたためにメモを取るのも追いつかなかった。映像(パワーポイント?)を見ながらなので視覚的には理解できそうだが、専門用語も若干混じるので充分な理解は無理である。そこで、走り書きしてきたメモをランダムに列挙しておく。

登山における死因
・疲労、低体温症
・心筋梗塞
・雪崩
・道迷い
中でも心筋梗塞は50%をしめる。心臓死が多い傾向。

中高年は心筋梗塞から突然死する←不整脈が原因
・胸が締め付けられる
・重い
・圧迫感がある
・吐き気
数分以上突然起きる
この時点で、もう血管が腐っている。

どんな人がなりやすいか
・高コレステロール血症が54%
・狭心症が17%
・34歳以上の男性が90%以上
・糖尿病+タバコ=動脈硬化になりやすい
・普段から規則正しく運動をしている31%、していない58%
   年間14日以上の運動する目安
時間帯
・初日
・午前10時ころ
心臓の負担を考えて「ゆっくり」登る、体が慣れていないので休憩をとりながら登る

・ストレスの影響がある
・炭水化物の不足、脱水、睡眠不足をとる  
・ごはん、ぱん、ぶどう糖など

この先は救急医療なので省略。

突然死のまとめ
 予防に尽きる
  ・規則的な運動
  ・心肺機能のチエック
 ゆっくり登る
 炭水化物をとる
  2時間ごとに食べる、飲む、水は2Lを用意するが500CCは登山前に飲んでおく。

 辛くないペースで歩く

低体温症の話をまとめると
・体を濡らさない  防水
・風を避ける    防風
・頭と首から15%の熱が逃げるのでスカーフなどで守る
・毛糸の帽子を被る
胸と腹を温める
・カロリーをとる

 こうして書き終わると、何のことはない。突然死は生活習慣病の人がたまに山にでも登るか、というケースにあてはまる。
 低体温症は、充分な食料を担ぎ、ザックの底に暖かい衣料を忍ばせて置く。加えて、ツエルト、コンロがあればビバークになっても低体温症を避けられる。重くなるからそれだけの体力もいる。
 高齢者の場合、朝飯を食わない、水を呑まない、人のアドバイスを聞かない、体力がない、持病がある、等々で、低体温症になる条件が揃っている。おまけに山をなめている人がいるから遭難は必然だろう。
 雪崩は基本的に谷の登高、下降は回避することで予防できる。森林限界以上の高山の場合、尾根でも雪崩れるが、降雪直後は避けることだ。過去の遭難を他山の石として学ぶ。
 道迷いは永遠の課題だ。道に迷うと思い、赤い布をぶら下げて行きながら下山路を確保することだ。そのためにたまにはふりかえって、反対の風景も見ておく。下山時にあれ、こんな景色は見たことがない、とチエックがきく。往復でない場合は、地図でよく確かめること。事前のシュミレーションが大切である。行く手にどんな特徴があるか、何が見えるか、まで見当しておく。道に迷った、と思うとあわててしまい気が動顛する。飴でもなめて落ち着くしかない。
 当会の人もリングワンダリングして道迷いに気づいた。沢を下るか悩んだが、沢登り経験者なので、沢の恐さを知っていた。そこでビバークを決意した。
 先日、映画「岳」を鑑賞したが、長野県警山岳救助隊の活躍がテーマだった。これでもかこれでもかと遭難の事例があった。娯楽作として見てもいいが、事実に近い遭難の事例研究になる。事実の方がもっと残酷であろう。
 よく食べるのでちょっと太り気味だ。生活習慣病を近づけないためにも山には登らねば・・・。

小津安二郎生誕110年没後50年!2013年11月20日

小津安二郎の無芸荘にて
 来る2013年12月12日(木)松竹の映画監督だった小津安二郎が生誕110年没後50年を迎える。
 それを記念して行事が盛り沢山である。岡山県、三重県松阪市、長野県諏訪市、東京都など、多忙で何処にも顔を出せないが、せめて映画の1本は見たいと考えていたら、神保町シアターで、11/23から1/13まで現存する全作品を上映する、と知った。
 誕生日で命日の12/12には出演者の香川京子(昭和6(1931)~)がトークにゲスト出演することになっている。評論家の川本三郎が『君美わしく 戦後日本映画女優讃』(文芸春秋、平成8(1996)年)の中で”白いブラウスの似合う先生”、と表現した清楚な佳人も12月5日の誕生日で、もう82歳の高齢である。お元気なことで何よりである。「東京物語」で若き日のその姿が見られる。前にみたことがあるが、大きなスクリーンで見たいものである。
神田神保町シアター
http://www.shogakukan.co.jp/jinbocho-theater/

東京国立近代美術館フィルムセンターでも「小津安二郎の図像学」の特集を行っている。
http://www.momat.go.jp/FC/ozu2013/index.html
2013.12.12~2014.3.30 展示室にて

 関連
朝日新聞の藤田明氏の記事
http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/09/11/6978112
無芸荘を訪ねた記事
http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/08/26/6959282

小津安二郎生誕110年!2013年09月11日

数々の名作が生まれた無芸荘
 今朝の朝日新聞地域総合版22に生誕110年小津安二郎監督 上が掲載された。執筆者は小津ネットの藤田明氏。テーマは小津と戦争のことである。
 「だが、戦争の影も見せない「晩春」(49年)の後、「麦秋」「東京物語」では原節子の役などに戦争の影を伴わせたのである」という藤田明氏の論点は明解である。
 「東京物語」では戦死した次男の嫁役の原節子は籍を抜かないまま戦争未亡人であり続ける。一方で他の映画では戦争未亡人が口紅を塗って色気を出している云々のセリフが出てくる。あれじゃ、あいつも浮かばれないよ、という、戦友のセリフに小津の皮肉がこもる。いずれの映画も戦後10年くらいだから癒されている人は居なかっただろう。
 小津はまたこうも言った。戦後の映画に多い反戦という言葉を嫌った。これ見よがしの皮相、表装的な言葉を信じなかった。映画の中で反戦を主張するのではなく、人物を丁寧に描けばいい、と。
 例えば、『小津安二郎新発見』(講談社+α文庫)のP8に「社会性がないといけないと言う人がいる。人間を描けば社会が出てくるのに、テーマにも社会性を要求するのは性急すぎるんじゃないか。ぼくのテーマは”ものの哀れ”という極めて日本的なもので、日本人を描いているからにはこれで良いと思う。」がある。
 小津の映画には戦争を直接批判するセリフは出なかったように思う。人をして語らしめる。「東京物語」の終盤で「私ずるいんです、(貞淑そうに見えるが)いい人ではない」と原節子扮する戦争未亡人は言い、笠智衆扮する義父は「好きな人が居れば自由に(結婚)していいんだよ」と優しく諭す。二人をこんな会話に追い詰めたのは戦争である。充分な戦争批判になっている。ここが藤田氏がいう戦争の影である。
 小津はこれからも忘れられることなく語られ続けるだろう。
 次回は9/25掲載。