飛騨の山と「高校三年生」の歌詞のハルニレ2020年09月12日

 猪臥山の原稿を書いているとき、不図思い出したのが、下山路で見た「ハルニレ」の木だった。これは中学2年か3年のころ大ヒットした「高校三年生」の歌詞の2節目に出てくる♯ニレの木陰に♪のニレであると知った。それで『東海・北陸の200秀山』を読むと何と私が書いていた。そしてニレのことも書いているではないか。
 今度の原稿にも是非書いておかねばなるまい。作詞したのは丘灯至夫(1917年2月8日 - 2009年11月24日)で、福島県田村郡小野新町(現小野町)の出身なので、ニレが普通に生えているのだろう。
 小野町ではきちんと「丘灯至夫記念館」とホームページを設けて顕彰している。
 略歴をコピペさせてもらう。
大正 6年 0歳 2月8日福島県田村郡小野新町(現小野町)に西田屋旅館(現存)に西山亀太郎、モトの六男として生まれる
昭和 4年 12歳 福島県郡山市金透小学校尋常科を卒業
昭和 7年 15歳 福島県郡山市立郡山商工学校(現・福島県立郡山商業高等学校)商業科を卒業
昭和10年 18歳 詩人・西條八十に師事 詩、歌謡、童謡などの作詞の道に入る
昭和16年 24歳 日本放送協会(NHK)郡山放送局に入局 17年退社
昭和17年 25歳 毎日新聞社(東京)に入社 福島支局記者として勤務
昭和24年 32歳 日本コロムビア株式会社専属作詞家となる
昭和38年 46歳 「高校三年生」(舟木一夫・歌)他の作詞により日本レコード大賞作詞賞を受賞
昭和39年 47歳 童謡「ワン・ツー・スリー・ゴー」(交通安全の歌)補作により日本レコード大賞童謡賞を受賞
昭和47年 55歳 毎日新聞社を定年退職 出版局特別嘱託となる(終身名誉職員)
昭和57年 65歳 地方自治功労により福島県田村郡小野町特別功労表彰を受ける
昭和63年 71歳 芸術文化功労により勲四等瑞宝章受賞
平成 2年 74歳 県外在住功労者知事表彰を受ける
平成13年 85歳 福島県小野町 名誉町民第1号
平成21年 92歳 11月24日永眠
以上
 次はハルニレです。
 国土交通省北海道開発局のHPには
「ハルニレは北海道を代表する木のひとつで、「エルム」ともよばれる落葉樹。川沿いなどの湿った土地によく育ちます。豊頃町を流れる十勝川河川敷に立つハルニレは、樹齢が130年以上にもなり、まちのシンボルとなっています。紅葉も終わり、すっかり葉を落としたハルニレは、どこかホッとしているように見えました。」とありました。
 どうやら北の木なんですね。

 木の情報発信基地には
「ニレ科ニレ属。落葉高木。北海道、本州、四国、九州さらにサハリン、朝 鮮、中国などに分布する。高さ20-25m、直径50-60cmになる。大きなものは高さ30m、直径100cmに達する。ハルニレは、アイヌのユーカラ神話では、美しい女神とされていて、それにみとれた雷神が足をすべらせ、その上に落ち、女神は身ごもり、人の祖先であるアイヌラックが生まれたとされている。
 また、別名アカダモとも呼ばれ、元来東北地方から入った方言名である。ヤチダモあるいはアオダモの類ではと勘違いしかねないが、まったく関係はない。葉は互生、長さ3-12cm、葉縁に二重きょ歯がある。花は早春に黄緑色の小さい花を葉に先立って古枝の先に咲かせる。翼果は長さ10-16mmの膜質の倒卵形で、種子は翼上部にある。年輪が明瞭な環孔材。心材は暗褐色、辺材は褐色をおびた灰白色である。木理がはっきりしているので、コブや根に近い箇所にはとくに美しい杢が出る。重く硬い。切削・加工はやや困難であるが、曲げに強いので、曲木には適している。耐朽・保存性は高くない。用途として、家具、器具、車輌、単板などがある。淡泊な木材が好まれる場合には、ムクの木材として、また天然木化粧単板の材料としても使われる。」

訃報 渡哲也さん 享年782020年08月14日

NHKニュースから

 渡哲也さんが亡くなったことについて、石原プロモーションは「長きにわたり病との闘いの末去る令和2年8月10日午後6時30分に肺炎のため都内の病院にて旅立ちました。ここに生前のご厚誼を深く感謝いたしますとともに、謹んでお知らせ申し上げます」とするコメントを14日午後7時半すぎ公式のツイッターに掲載しました。

 この中で、葬儀については静かに送ってほしいという故人の強い希望により、14日、家族葬という形で執り行い、お別れの会やしのぶ会なども行わないとしています。

 また、香典や弔電などの儀も故人の遺志により、辞退するとのことです。

 そのうえで、「何卒、故人の遺志をご理解いただけますようお願いいたします。皆様のお心の中にて故人への祈りを捧げていただけますことを心よりお願い申し上げます」としています。
以上

・・・つい先だって、FBの友達が「くちなしの花」をアップしたので「渡哲也のヒット曲の「くちなしの花」の動画をアップしたばかりだった。
 お悔やみ申し上げます。
 裕次郎が石原プロを作った際に渡哲也も入社した。すると裕次郎は無名の新人の渡哲也にもお辞儀して丁重に扱ってくれたことに感動したらしい。あの有名な裕次郎さんが自分に頭を下げて迎えてくれたというのだ。そんなエピソードを何かで読んだ。
 78歳とは早いとも言えないがもう少し活躍してくれても良かったと思う。

認知症サポーター養成講座を受講2020年07月03日

 夕方6時から東区生涯学習センターで認知症サポーター養成講座を受講した。
内容:認知症サポーター養成講座

講師:東いきいき支援センター 認知症サポーターキャラバン・メイト 2名

概要:●認知症を理解する(1)

●認知症を理解する(2)

●認知症サポーターとは

●認知症サポーターのできること
以上。
 すでに知っていることも多々あったしごく常識的な内容でもあった。認知症の動画を見たが何となく不自然で作為的な内容だったので、受講後、メイトさんには映画「ふるさと」を紹介した。
 ダム湖に沈んだ徳山村を舞台にした。認知症の老人と孫(子供)、家族のきづなをテーマにした。ウィキには「『ふるさと』は、1983年公開の神山征二郎監督、加藤嘉主演の日本映画。揖斐川の上流部、徳山ダムの建設でやがて湖底に沈みゆこうとしている岐阜県揖斐郡徳山村(現揖斐郡揖斐川町)を描く。
 徳山村の出身で、同地で分校の先生をしていた平方浩介の著書『じいと山のコボたち』(童心社)を映画化したもの。痴呆症の老人と少年の親交を描きながら、消え行く徳山村の美しい自然を表現している。」と紹介された。老人は名優加藤嘉、長門裕之、樫山文枝、樹木希林、前田吟らが主演した。
 封切り当時は徳山村が永遠に消えてしまうことへのノスタルジーで見たが、今は認知症が身近になり、その視点で再評価されてもいい映画になった。

大西暢夫『ホハレ峠』を読む2020年06月20日

彩流社刊

著者は  アマゾンから
大西/暢夫
1968年、岐阜県揖斐郡池田町育ち。東京綜合写真専門学校卒業後、写真家・映画監督の本橋成一氏に師事。1998年にフリーカメラマンとして独立。ダムに沈む村、職人、精神科病棟、障がい者など社会的なテーマが多い。2010年より故郷の岐阜県に拠点を移す。『ぶた にく』(幻冬舎)で第58回小学館児童出版文化賞、第59回産経児童出版文化賞大賞。映画監督作品:『水になった村』(第16回EARTH VISION地球環境映像祭最優秀賞受賞)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

出版社側のねらいは
編集者が明かす、ダムに沈んだ徳山村の本を出した理由 ―そこから見え隠れする近現代
https://note.com/sairyusha/n/naeff5f3e8d72

朝日新聞の書評は
(書評)『ホハレ峠 ダムに沈んだ徳山村 百年の軌跡』
https://digital.asahi.com/articles/DA3S14511895.html?pn=3

 ■現金がのみ込んだ大地との生活

 ダムの底に沈んだ岐阜県揖斐郡徳山村。一五〇〇人ほど暮らしていた村民が次々と出ていく中、そのもっとも奥の集落・門入(かどにゅう)で、最後まで暮らしていた廣瀬ゆきえさん。

ここから続き
 山に入り、山菜を採り、日が暮れれば寝る。夫を村で看取(みと)り、たった一人で大地の恵みと呼吸するような生活に、強制的に終止符が打たれる。ダム建設に伴い立ち退きを余儀なくされた日、漬物小屋を解体する重機から目をそらすように遠くを見つめる写真が全てを物語る。「村の清流だった揖斐川の水が、自らこの大地を飲み込もうとしている」

 約三〇年前から村に通い、ゆきえさんと向き合い、その足跡を記録した。門入の住民は街に出るために、ホハレ峠を越えた。早朝に出たとしても着くのは夕方。わずか一四歳、家で育てた繭を運びながら峠へ向かう。峠の頂上から初めて「海」を見た。それは、初めて見る琵琶湖だった。

 北海道真狩村に嫁ぎ、やがて村に戻ると、山林伐採、ダム建設が忍び寄っていた。ダムの説明会に参加するだけでお金が支給され、集落の繋(つな)がりを巧妙に札束で崩していく国。「みんな一時の喜びはあっても、長い目で見たらわずかなもんやった。現金化したら、何もかもおしまいやな」

 転居した先のスーパーで特価品のネギを見て、「農民のわしが、なんで特価品の安いネギを買わなあかんのかなって考えてな。惨めなもんや」と漏らす。村を最後まで見届けたゆきえさんの人生は「点」でしかないが、その点は長く繋がってきた尊いもの。誰よりも本人がそのことを知っていた。

 台所で倒れ、亡くなったゆきえさん。口の中から一粒の枝豆が出てきた。ゆでた枝豆をつまみながら、ご飯を作っていたのだろう。時折さしこまれる写真の数々が、村の歴史、ゆきえさんの足跡を伝える。読みながら、本のカバーを何度も見返す。「現金化したら、何もかもおしまいやな」と繰り返し聞こえてきた。

 評・武田砂鉄(ライター)

徳山村は映画「ふるさと」にもなった。
以上

 個人的には、昨夜で粗方読破してしまった。奥美濃の山は登山の開始と同時進行である。山岳会に入会したのが昭和53(1978)年(28歳)であった。『鈴鹿の山』とか『秘境 奥美濃の山旅』を買って読んで山行のヒントにした。『ぎふ百山』を知るのはもう少し後になる。次々と登った山が増えてゆくのが楽しみになった。この後、サンブライト出版から森本次男『樹林の山旅』の復刻版が出た。すぐに買った。たちまち愛読書となった。
 足は月1回のレンタカーであった。入会した年の10月にトヨタ・スターレットというレンタカーで、馬越峠を越えた。初めての徳山村探訪になった。早暁、薄いガスの中に徳山谷が見え、紫色の煙が昇っていた。その時は冠山に登った。特に岐阜の山が面白く、当時は守山区に住んでいて、中日新聞の購読に加えて、岐阜新聞の東濃版を配達してもらった。昭和55(1980)年3月4日から『続・ぎふ百山』の連載が始まっていた。それが目的だった。昭和60(1985)年1月までのスクラップが残っている。切り抜きしたものを友人に託したらきれいな海賊版にしてくれた。何冊も印刷して仲間に配布したが後に岐阜新聞社から立派な装丁の『続 ぎふ百山』が出版された。海賊版は100山目で止まっていたが新版は130山もあった。
 昭和55(1980)年(30歳)にマイカーを買った。その車で、金ヶ丸谷の偵察に出掛けた。この時は揖斐川沿いに走り、西谷川を遡った。初めての門入との遭遇である。着いた門入では家の取り壊し中だった。墓には白い布をかぶせてあった。こんな情けない姿を先祖に見られたくないからだという。それで村人に金ヶ丸谷の熊の生息状況を聞いたら、いつぞやは京都の若い人が夜叉ヶ池から金ヶ丸谷を下降して遭難死したという。京都から親御さんがきて息子が帰らないから探してくれというので探したら谷の中で死んでいた。「あんたね、熊よりも谷の方が怖い。行かん方が良い」と諭してくれた。その日はそこで帰った。これが門入とのなれそめである。『ホハレ峠』P236には「たしかに昭和55年ということは、そろそろ徳山村から移転地へ引っ越しが具体的になってくるとき」とあるから記憶にまちがいはない。
 金ヶ丸谷の遡行は平成17(2005)年9月になった。偵察から実に25年の歳月が流れ、ダムの湛水が始まる前年だった。我ながらしつこく追いかけたものである。
 門入の予備知識としては安藤慶一郎編著『東海 ムラの生活誌』(昭和55年9月刊 中日新聞社)がある。5番目に「西美濃山村の生活と親族組織」がある。学者が書いただけに綿密に調査したのだろう。門入の特殊性は通婚関係と指摘している。閉ざされた狭いムラ社会ではそうせざるを得ないだろう。
 乙川優三郎『脊梁山脈』は木地師が主人公の小説である。しかも東亜同文書院の学生のまま兵隊にとられた設定。小説では長野県売木村の木地師と主人公が復員列車の中で出会うのだが、復員列車で親切を受けたお礼に売木村を訪ねると本人は居るのだが別人であった。出会った人は東北に住んでいたというトリックにも使われている。つまり東北の兄が結婚してすぐに出征したが戦死した。弟は無事で帰国できたので戸籍上は兄に成りすましたまま、兄の嫁と子を養う人生を送る。そんな筋書きだった。木地師の社会も他と交わりが少ないから近親婚になるのだろう。要するに限られた山奥の閉ざされた社会での家を守ったのである。
 著者も門入の婚姻関係の理解には相当な苦労をしている。P182辺りから明らかにされている。
 廣瀬ゆきえさんは大正7(1918)年生まれ。昭和7(1932)年14歳で初めてホハレ峠を越えたと、本書にある。昭和8年にはまたホハレ峠を越えて、更に鳥越峠を越えて彦根市のカネボウの紡績工場へ働きに出た。16歳までの冬はそこで働いた。17歳から24歳まで一宮市、名古屋市の紡績会社で働いた。
 著者の大西暢夫さんは門入が越前藩の領域だったことまでは調査されていないようだ。越前から見て最初のムラが門入、次は戸入、本郷である。古くはお坊さんも越前から迎えていた。福井県の日野川源流の廃村・大河内へ行く途中に二つ屋があり、そこから夜叉ヶ池に向かって登る尾根が街道の尾と言った。登りきると金ヶ丸谷の源流部に下る。そこからどのように道があったのかは明らかではない。
 ゆきえさんは昭和17(1942)年頃、24歳で結婚し北海道に渡った。『ぎふ百山』の千回沢山・不動山の項に入谷の人らは大正の初めに北海道へ渡ったことが書いてある。門入では明治36年から移住が始まっていたのである。戦争を経て昭和28年に北海道を引き揚げた。34歳になっていた。八ヶ岳山麓に一時的に身を置き、昭和30(1955)年に徳山村へ戻った。13年間はまさに転変流転の人生だ。廣瀬家から橋本家に嫁いだはずなのに夫がまた廣瀬家に戻した。もともと親戚同士の結婚だった。これが親族組織で成り立つ門入の特殊性である。
 愛読書の『樹林の山旅』には黄蘗(きはだ)の村(千回沢山と不動山)の項で門入が紹介される。きはだは薬になる木のことで、徳山会館で売っていた。
 森本は昭和10年頃の記録をまとめて昭和15年に発刊した。だから廣瀬ゆきえさんは18歳頃になり同時代を生きていたことになる。但しゆきえさんは一宮市の紡績工場に住み込みで働いているので遭遇はしなかった。森本は大滝屋という旅館に泊まって門入のめぼしい山と谷を跋渉した。ホハレ峠の話も出てくる。「あへぎあへぎ登る急な坂路は、太陽の光を顔に受けて峠に着いた時分には日焼けで頬がはれている。だから、ここはホヽハレ峠だという話を聞いたが、この峠の名前は街で信じてもらうにはふざけすぎている。だが私達は嘘だとは思わない。」
 栃や欅の原木を板に挽いてホハレ峠まで来ると余りの力仕事に頬が腫れるというのが由来のようだ。
 湛水が始まったころは遊覧船が浮かぶとか、門入へは県道が通るとかは仄聞したが今も実現していない。

哀悼!登山が好きだった八千草薫さん死去2019年10月28日

若かりし頃の八千草薫さん
 往年の美人女優の八千草薫さんが24日に88歳で死去と報じられた。ご冥福をお祈り申し上げます。
 八千草薫さんの出演された映画で今も記憶にあるのは1957年豊田史郎監督の「雪国」(原作:川端康成)。主演は池辺良(島村役)と岸恵子(駒子)で駒子の義妹役が八千草薫さんだった。ちょっとくらい役目だが活き活きと演じる姿は印象に残る。あの当時はまだ冬のスポーツのスキーも活発ではなかったから雪国の生活は大変だった。そういう貧しい雪国の愛の物語である。
 川端が逗留し執筆していた高半旅館(現:雪国の宿 高半)の部屋も保存されて見学したことがある。
 映画のはじめは国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。という書き出しの通り、蒸気機関車に引っ張られた客車の中に池部良と八千草薫が座っている場面がある。

【「雪国」 川端康成】
 国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
 向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん」
 明りをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻で鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
 もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鉄道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。
「駅長さん、私です、御機嫌よろしゅうございます」
「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ」
「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話さまですわ」
以上
 この中の葉子役である。「駅長さあん」と叫ぶのが八千草さんだった。段々思い出してきた。1957年封切りなのであの頃で26歳だった。ちょうど谷口監督と結婚し山歩きをし始めたころだ。DVDが出てきたらまた観てみよう。

Never too late.・・・・映画「Edie(エディー)」から2019年10月25日

 2020年1月に83歳の主婦がスイルベン山頂へ!映画「イーディ、83歳 はじめての山登り」が公開される。何と83歳である。

 歌は世につれ、世は歌につれ、じゃないけど映画も高齢社会の影響を受ける。アメリカ映画「ロングトレイル」は60歳の男性作家が3000kmを超えるトレイラーとして挑戦するが挫折する話。今度は83歳の女性初心者の話。

 私の山岳会にも60歳代から70歳台の元主婦は多くいる。男性は80歳代に達した。中でも60代半ばで入会してきた某は元日銀OLで夫も日銀支店長として全国を転勤していた転勤族である。妻として身の回りの世話のためにあちこち転居してきた。日々の生活に明け暮れて、2人の子育てもきっちりやった。夫の定年退職を機に遊び始めた。まずは卓球だった。その友達が入会してきた縁で連れ立って入会した。
 名古屋近郊の低山歩きにはしっかり参加して熱心に歩いたので力が付いた。予定がなくても催促があると適当に設定して連れて行った。ある年、三泊四日の夏山縦走の計画が持ち上がった。男性2名女性1名だったが寂しいのでもう1人誘うことにして某に声掛けすると乗ってきた。途中でバテたら小屋の荷揚げのヘリで救助を依頼しますからと。
 折立、薬師岳、五色ヶ原、立山と縦走して無事に下山。まるで発狂するかに興奮した。達成感で感動を越えてしまったのである。室堂の土産物店で物色していると何でも買いなさい、お勘定は私が払う、と言って聞かない。気丈な性格は承知であるがこの時は申し入れをありがたく受け入れた。
 その後、主婦仲間にこの縦走を話すと羨ましがられたという。某には誇らしい人生経験になったのだ。平凡とばかりに思っていた老後にこんな素晴らしい経験ができるとは思わなかったと感謝された。
 某は伊那の低山で不覚にも転倒し右腕を骨折したのを機に退会し登山からも引退された。夫は妻の骨折が直る間は自分で家事をこなすことになったからもう止めてくれと泣きつかれたのだろうか。
 何事も始めるのに遅すぎることはないが、リスクもある。
 映画「エディー」はどんな話になるのか。高齢社会は世界の趨勢であるから注目されるだろう。

以下はニュージーランド在住の日本人女性「自然大好きトレッキング大好き写真大好きなニュージーランド在住のネイチャーフォトグラファーyumiM」の映画の感想記の一部です。2018の夏の記載です。英国では2017年に公開されています。

https://ameblo.jp/izumi-483/entry-12394709489.html

映画のあらすじはというと、

舞台は現在のイギリス。

支配的な夫と結婚して以来、自分の魂の声、自由な心、情熱、夢を失って生きてきたエディー。

30年の介護生活の末に夫の死を迎え、今まで「妻」でいたという義務感だけで生きてきた彼女にとっては生きる意味さえもわからない日々。

夫の死後3年後に、娘がエディーをお年寄りの施設に入居させようとするがエディーは気に入らない。

そんな時、幼少時代に父から送られてきた一枚の絵ハガキを手にしてスコットランドのSuilvenという有名な山に登るという、封印してきた夢を思い出す。

ある日、町のフィッシュアンドチップス屋さんでランチを食べ後終わりそうな頃、「今からフライドポテトを注文しても良い?」と注文したエディーに対し、「手遅れなんてことは全然ないよ。(Never too late)」と答えた店員。

Never too late.

この言葉にピンときたエディーは、山に登る決意をし、行動を起こすのであった。
以上

【人権問題特別講演会】「杉原千畝の功績 歴史から学ぶ」を考える2019年07月20日

 名古屋市中区の中生涯学習センターで13時30分から15時30分。表記の講演会に出席した。

講座名 杉原千畝の功績 歴史から学ぶ
     ~命のビザが救った多くの人々の人権~

【 講師 】元岐阜県八百津町国際交流員 ハニト リバーモア

★あらまし★
幼少期に中区平和小で過ごした杉原千畝は、中区の誇れる偉人です。命のビザで知られる杉原千畝の功績を歴史から学び、社会にある人権問題の解決に向けて一緒に考えてみませんか?

・・・テーマは人種としてのユダヤ人側から見たホロコーストの迫害の歴史話であった。講師の夫の父が当事者らしく、人権上の切実な訴えに近い。
 かつて杉原幸子著『新版 六千人の命のビザ』を読んで以来関心を持ってきた。また、映画「夜と霧」も見た。ただ、ホロコーストを知っていますかとハニトが言ったので挙手して「映画」で見たよ、と。どんな映画か、と問われたが咄嗟に答えられなかった。調べると「夜と霧」に違いない。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2018/04/06/8819943

http://koyaban.asablo.jp/blog/2018/04/02/8817543

以下、ユダヤ人はなぜ迫害を受けるほどに嫌われてきたのか。ネットから拾ってみた。

 ヨーロッパは国単位で考えるなというのは多分馬渕睦夫氏だったと思う。ユダヤ教、キリスト教の確執も分かりにくい。以下にあげる欧州の革命の度にユダヤ人が勢力を広げてきたことが分かる。他国の王政を壊し、ユダヤの息の掛かった政権をたてて、金融財務を握り、言わば、ディープ・ステーツを形成してきた。他、司法、新聞、芸能などに食い込んだ。

***17世紀 英国革命***

「ピューリタン革命はユダヤ人受入のための革命だった」ということです。

それまでイギリスは、400年近くに亘ってユダヤ人入国禁止としていました。それに対して、オランダのユダヤ人金融資本家が、クロムウェルに資金提供し実現させた革命とのことです。

その後、イギリスに宮廷ユダヤ人が入り込み徐々に勢力を拡大していきます。そして次に、彼らの意向が通るように王政から議会政治への道を開いたのが、いわゆる名誉革命(1688年~1689年)です。

これらを主導していたのが、主にオランダの金貸しで、有力者に資金援助したり、借金させたりして、その弱みに付け込んで、自分達の意のままの体制をつくってきたということです。

その5年後の1694年には、ついに本格的な中央銀行として、イングランド銀行が設立されました。

中央銀行は、「通貨は負債から生まれる」つまり「国王等が借金すればするほど通貨が発給される仕組み」で運営される錬金術機関です。その後、金貸しは世界各国に次々に中央銀行を設立していきます。
世界各国の民主化への戦争や変革、自由な経済活動推進への動きは、中央銀行設立とそれによる国家支配の動きといっても過言ではありません。

***18世紀 フランス革命***

フランス革命はフランスユダヤ革命だったのです 日本の明治維新が明治ユダヤ維新だったことです 日本を商人国家とすることだったのです。

***20世紀 ロシア革命***

 ロシアの社会主義運動の中心部にいたのは、ユダヤ人だった。19世紀末ロマノフ朝圧制下のロシアで、ユダヤ人はポグロムと呼ばれる虐待・虐殺を受けた。多数のユダヤ人が出国してアメリカ等に移民した。ユダヤ人に対する迫害を阻止するには、ロマノフ王朝を打倒しなければならないとする急進的な革命思想が広がった。将来のパレスチナへの移住よりも、現在の体制からの解放が追求された。そのため、多くのユダヤ人が革命運動に参加するようになった。シオニズムより共産主義という選択である。

***ドイツ革命***

『第二次大戦時、ユダヤ人はなぜドイツで迫害されたのか』
ユダヤ人がホロコーストでいかに甚大な被害を受けたのか、を説明する本は多々あるが(図書館のドイツ史コーナーに行くと、そんな本ばかりである)、なぜユダヤ人がそのような迫害を受けるに至ったかを簡易に説明する本は少ないと思う。

この記事では、戦前の日本で発行された本などを参考に、ユダヤ人がどのようにしてドイツで恨みを買い、迫害される原因を作ったかを簡単に書いていきたい。

第一次世界大戦においてドイツは連合国(イギリス・フランス・ロシアなど)と戦った。その戦争中に、ドイツ内のユダヤ人は各方面で勢力を拡大した。

商業においては、他国のユダヤ人と協力して物資調達を行い、商業上の地位を上げ、また巨利を得た。窮乏しそうな物品(食糧など)があれば先回りして買い占め、隠匿し、値段を釣り上げて売却した。このような行為は取締りにあったが、法曹界にユダヤ人が多かったことから、ユダヤ人商人はほぼ罰せられず、ドイツ人商人は厳罰にあった。

ユダヤ人左翼は戦時下においても革命の準備を着々と進めていた。新聞はユダヤ人経営だったので、新聞を通じて世論を左傾させ、他国においてはドイツへの憎悪を煽った。ドイツの左翼は、自分達の革命が成功するためには、ドイツの敗戦が必要であると宣伝していた。

第一次世界大戦末期の1918年、ユダヤ人を中心とする左翼はドイツ革命を成功させ、ドイツを共和国にした。この新政府要職の多数をユダヤ人が占め、さらに教育、司法、警察などのトップにもユダヤ人が就いた。

敗戦後のパリ講和会議に出たドイツ代表もユダヤ人だった。

第一次世界大戦敗戦でドイツは多額の債務を背負い、苦しい生活を送ることになった。ドイツ人にしてみれば、自分達が祖国のために戦っている間に、他民族に国を陥れられ、戦争に負け、長い窮乏生活を送らされる破目になったのである。

日本人に置き換えて状況を想像してみてほしい。命をかけて戦争に赴いていたら、国内の少数の異民族が撹乱工作を為し、戦争のロジスティクスを操作して暴利をむさぼり、新聞を支配して言論を操作し、戦争中にもかかわらず国家を転覆し、政体を変えてしまう。新政府の要人はすべて異民族に占められ、経済、教育、法、通信、芸術などがその異民族に好きにされる。一方で自分達は戦後賠償のために奴隷のような困窮生活を送る。これで怒らない民族はいないだろう。

このような状況に対する怒りが、国粋的政党(ナチス)に対する熱狂的な支持を生むに至った。ユダヤ人は、郊外にピクニックに行った人が突然の雨に逢ったかのように迫害されたのではなく、迫害される原因を自ら作っていたのである。

またこのような状況は、他国においても歴史上繰り返されてきたことで、ユダヤ人は紀元前から同様のパターンを各地で繰り返している。

ユダヤ人がこのようなパターンを繰り返さず、平和裏に他民族と共生できたのは、ユダヤ人の権利が制限されている社会においてだった。ユダヤ人は教育・司法の職についてはならない、などの制限があった社会ではユダヤ人の台頭も限定的だったので、ユダヤ人への迫害も起こらなかった。

ナチスのユダヤ人への仕打ちを肯定するわけではないが、現在のナチスとユダヤ人への言論はあまりに一方的であり、ユダヤ人は再び迫害に至る途を辿っているように見える。どんなに法律を制定しても、ネット上での言論を取り締まっても、AfDなどの政党は支持者を増やすだろう。

「陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず」というが、ユダヤ人の知恵にはこれが欠けている。
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『全ての不幸の元は旧約聖書』

2000年以上前に書かれた『旧約聖書』の記述をほとんど唯一の根拠として、欧米の白人系ユダヤ教徒(アシュケナジー)によって中東のパレスチナの地に人工的に建国された宗教国家が、『イスラエル』と言う名の紀元前の古代国家と同名であるが勿論何の関係も無い。

この『ユダヤ教』という宗教によって作られた国家(イスラエル)ほど、パスカルの『人間は宗教的信念をもってするときほど、喜び勇んで、徹底的に、悪を行うことはない。』という言葉の正しさを証明して見せているものはない。

現在ガザで行われている悲惨で愚かな蛮行の出発点、根本原因とは何か。?
それは、猛烈に不愉快な一つの神を持つ一部族の『カルト』だったユダヤ教と、そのカルトの教義を記した『旧約聖書』にその原因の本質があった。

『旧約聖書とは何か』

ユダヤ教の教典で有るばかりでなく、欧米世界で最も影響力が有るキリスト教の教典の一つでも有る『旧約聖書』の、病的ともいえる悪行を為す残忍な鬼畜のような『神』の存在抜きにして今のイスラエルの蛮行を説明するのは難しい。
引用は以上

 ハニトさんは被害者意識一辺倒であった。ユダヤ人というだけで子供も殺害された。その数600万人という。うち子供は150万人という。ユダヤ人の立場からみればまさに迫害だ。しかし、上に上げた革命のうちロシア革命では2000万人のロシア人を殺害しているという。
 なぜユダヤ人が迫害されるのか知っていても言えない。これは止む無し。ユダヤ人が公平には学問的に客観的に述べられる立場にはならないだろう。これはユダヤ人たる彼女の限界である。
 人権問題の講演会としては消化不足であった。ハニトさんをはじめとするユダヤ人が私どもも悪かったのよ、と虚心坦懐になれば反ユダヤ問題すなわち人権問題は無くなる。人権問題には狂信性がある。ユダヤ人は賢いが、どこか間が抜けても居る。間が抜けているのはカルトといわれるユダヤ教徒ゆえであろう。ユダヤ人たるマルクスが言ったという「宗教は阿片だ」という言葉。理知も何もないのだ。

司馬遼太郎『北のまほろば―街道をゆく〈41〉』読了2019年06月22日

目次だけを見てもボリュームたっぷりだった。読みこなすのは大変なことだった。

古代の豊かさ
陸奥の名のさまざま
津軽衆と南部衆
津軽の作家たち
石坂の“洋サン”
弘前城
雪の本丸
半日高堂ノ話
人としての名山
満ちあふれる部屋
木造駅の怪奇
カルコの話
鰺ケ沢
十三湖
湖畔のしじみ汁
金木町見聞記
岩木山と富士山
翡翠の好み
劇的なコメ
田村麻呂の絵灯篭
二つの雪
山上の赤トンボ
志功華厳譜
棟方志功の「柵」
移ってきた会津藩
会津が来た話
祭りとえびすめ
鉄が錦になる話
恐山近辺
三人の殿輩
蟹田の蟹
義経渡海
龍飛岬
リンゴの涙
以上
・・・約400ページに圧縮され、非常に多彩なテーマを織り交ぜながら、青森県の歴史と文化を楽しませる。
 ことに興味深いのは愛知県豊橋市出身の菅江真澄の話が縦横に語られること。真澄の見聞が契機となって古代史に光が当たる。真澄の旅は物見遊山ではなく、国学で学んだこと、すなわち日本のことをもっと知りたい、日本人は何者だったのか、という学問的欲求だったと思われる。
 山のこともちょっぴりだが入っている。岩木山、八甲田山をベースにした文学の盛んなことも指摘。風土色の強い芸能も盛んである。
 青森県の歴史は津軽と南部の重層性が特殊である。津軽は南部から分かれた。津軽為信の野心が南部からの独立させた。弘前城の規模は徳川家康の許容範囲を超えたものらしい。それは関ケ原の戦いに際しての津軽為信の政治性の巧みを描く。
 その上に近代以降の会津藩の多層性もある。青森県の歴史と文化は一筋縄では解読できない複雑さがある。
 個人的な興味は三重県の北畠家が青森へ移ったことで、児童文学者・北畠八穂が生まれ、近代文学に華を添えた。
 この紀行自体は太宰治の『津軽』を下敷きにしている。太宰の視点で津軽の理解に努めた風だ。
 リンゴの涙の章の最後に小学生の詩を引いた。「リンゴの涙」と「でかせぎ」。「津軽や南部の言葉を聞いていると、そのまま詩だと思うことがある。」と。「この小さな津軽詩人の詩を借りて「北のまほろば」を終える。」と締めくくった。
 演歌歌手・吉幾三の「津軽平野」は1984年のリリース。歌詞にでかせぎ、岩木山が出てくる。美空ひばりの「津軽のふるさと」「りんご追分」など数々の名曲にはりんご、岩木山が出てくる。
 青森県自体が詩の国なのである。

 初出誌は1994年5月22日~1995年2月24日号の週刊朝日に連載された。

 この中の「湖畔のシジミ汁」には名古屋市の出身で、城郭考古学を専門とする奈良大学教授の千田 嘉博氏の学説も引用されている。名古屋城の解体、木造化で揺れている昨今、千田氏の言動に注目が集まる。上物の更新だけに傾倒した行政の前のめりの姿勢を批判し、石垣の保全に目を向けさせる。

ヒトラーとチャーチルの映画の通低はユダヤ人2018年04月06日

 『夜と霧』と『ウインストン・チャーチル』の2本を観た。どちらも根底にはユダヤ人が問題としてある。被害者としてユダヤ人が強調されている。
 以下のHPの主張を観るとチャーチルはユダヤ金融財閥の代理人だった。英国のためにではなく、ロスチャイルド家のために戦争をしたのである。
 映画では英国と世界を救ったなどと英雄視される。ハリウッド映画はユダヤ人のものゆえに真実は描かれないわけだ。ヒトラーを悪者として描く。ユダヤ人をホロコーストに導いたのはユダヤ人側にも原因があった。
 ロシア革命でもロシアの国民が皇帝を倒したのではなく、アメリカからロシアに移住したユダヤ人がロシア人を大量虐殺して成立したロシア・クーデターと言われる。その後はユダヤ人がソ連建国へと導く。
 いわばチャーチルとソ連指導者は仲間内だ。ドイツを叩けば欧州の半分はソ連に盗られる。根底にはユダヤ人の利益になる。
 あの映画が尻切れトンボで終わるのもこうした背景があるがらだろう。

 https://www.youtube.com/watch?v=S6Ey_NZPGiQ
 馬渕睦夫 世界規模で隠されるロシア革命の謎!!馬渕睦夫が徹底解説!!

 https://www.youtube.com/watch?v=tZfDtuZO5oU
 【おそロシア】(馬渕睦夫 解説)学校で学んだロシア革命は完全に嘘である!隠されたユダヤ人の正体とは?!

 
 http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hc/a6fhc622.html
  ロスチャイルド家の代理人  チャーチルの反撃

 ヒトラーが1936年に立てた計画では、1938年にオーストリア、チェコスロバキア、ポーランドを併合、そして後にソ連を占領し、作戦は1943年に終了する予定になっていたという。しかもその間、イギリス、フランスは無干渉でいるだろうと計算していたらしい。
 そして、ヒトラーが計画していた「ユダヤ人問題の最終的解決」とは、「ユダヤ人の絶滅」ではなく、ユダヤ人たちを東方地域へ移住させることだったという。

 しかし、計算が狂ってしまった。特に1940年5月11日にイギリスの宥和派であるチェンバレン首相が解任され、チャーチル首相が登場すると、大きく計算が狂ってしまったという。

 イギリスの対ヒトラー政策を、「宥和」から「全面対決」へ突然変えた男、チャーチル。彼はナチスの脅威からヨーロッパを救った平和の使者だったのか? それとも……
             中略
 以上はソースにアクセス

 このスターリンとの対決の前に、ドイツはオランダだけでなく、ベルギー、ルクセンブルクを占領し、破竹の勢いでイギリス海峡に到達。さらにムッソリーニのイタリアが南からイギリス・フランスに宣戦布告し、フランスを挟撃する形を取った時には、フランス政府は逃げ出してしまったのである。

 1940年6月14日、ドイツ軍がパリへ無血の入城を果たし、かの憎むべき屈辱の条約を締結したヴェルサイユ宮殿に、いまはクレマンソーの姿はなく、ヒトラーの有頂天にのぼりつめる姿が代わりにあった。パリ陥落……
        〈中略〉

 ユダヤ人にとってただひとつ残された希望、それはイギリスのほかになかった。ウィンストン・チャーチルの両肩にすべての責任が重くのしかかってきた。ところがこの好戦家は、周囲に重厚な人材を揃えていたため、たじろぐどころか身を乗り出して戦闘を呼びかけた。
 ヒトラーが休戦を申し入れても、それを蹴ったのがチャーチルであった。チャーチルは、イギリスの敗北を避けるための首相ではなく、ナチズムを倒すための首相、として選ばれていたからである。チャーチルに与えられた任務は、戦勝に向かう道であった。

 それまで石炭を使っていた軍用船に石油を使うよう海軍を大改革した最初の男、それがチャーチルであった。史上空前の海軍予算を使い、海軍大臣としてヴィッカースやアームストロングの造船事業に莫大な金を投じてきた。空を見上げれば、航空大臣としてイギリス空軍の生みの親がチャーチルであれば、軍需大臣として戦車という動く兵器を戦場で自ら考案したのも同じチャーチルであった。しかもこれら機動部隊への燃料補給のため、中東の石油会社の株をイングランド銀行の金で買収させてしまった。

 近年の企業番付では、ヨーロッパ1位が「シェル」、2位が「ブリティッシュ・ペトロリアム」(英国石油)という順位が不文律となっている。後者はBPと略して呼ばれ、つい先年、1987年に株が民間に公開された時には史上最大規模のためロンドン・シティーが大騒動となった。石油王ロックフェラーの本拠地「スタンダード石油オハイオ社」を完全買収し、鉱山王グッゲンハイム家が支配してきた世界最大の産銅会社「ケネコット」も買収したのが1980年代のBPの姿だ。このBPの株を海軍に買わせたのが、ほかならぬチャーチルだったのである。そのためウォール街では今日でも、チャーチルは世界一の投資家とみなされている。

 チャーチルは戦争が面白くてならなかった。インド、エジプト、南アという大英帝国植民地の3C拠点で、原住民を苦しめ抜いた戦争のなかから誕生したチャーチルが、今や独裁者ヒトラーを倒して自ら英雄になろうという野望を抱いていた。


               ◆


 ところがこの人物、単純な戦争屋ではなかった。ほかに別の目的をもって活動してきた。侵略の急先鋒として、植民省のナンバー2「次官」から商務院に移って総裁のポストに就くと、ロスチャイルド一族の貿易のために走り回り、次いで情報機関のボスとして内務大臣を務めたあと、海軍大臣となっては艦船を激増させ、軍需大臣となっては戦車の生産に没頭した。さらに陸軍大臣・航空大臣・植民大臣と軍事世界のトップを歴任したが、いずれのポストにあっても、ほかに類のない軍備増強の足跡を残してきた。細菌爆弾の研究さえ命じたことが明らかにされている。

 この男が大蔵大臣という要職を手にしたのが1924年、その翌年にチャーチルが何をしたかと言えば、シティーのロスチャイルドやゴールドシュミットなど五大金塊銀行がボロ儲けをした金本位制の復活という一大経済政策であった。第二次大戦の開戦と共に直ちに海軍大臣となってしきりに腕をさすってみたが、チェンバレンのドイツ融和政策の前になす術もなく、首相を猛烈に批判してきたチャーチルである。悲願であった首相のポストを手にして、そのうえ国防大臣を兼務することになったのであるから、戦争屋にはこたえられなかった。

                ◆

 チャーチルは間違ってもヒトラーを倒した英雄ではなかった。イギリスの軍需産業に火を付け、そのためヒトラーとナチズムを生み出した戦争の挑発者、特にナチズムに対するドイツ国民の共感を誘発した男、第二次大戦の要因を自らの手で生み出した男、それがチャーチルの過去であった。そして自分で蒔いた種は、自分で刈り取らねばならなかった。その男の出番が到来したのである。

 “チャーチル首相の閨閥”を系図でみると、従兄のチャールズ・チャーチルが、19世紀全米一の富豪で鉄道王ヴァンダービルトの娘と結婚していたため、首相は一文無しのような顔をしながら、一族には金がうなっていた。従姉リリアン・チャーチルは、イングランド銀行総裁とモルガン・グレンフェル創業者のグレンフェル一族と結婚し、これまたロスチャイルド家とモルガン家という世界二大富豪を掌中にしていた。チャーチル本人はマルボロ(モルバラ)公爵家に属する最高位の貴族ファミリーで、1953年にガーター勲章を授けられて、サーの称号で呼ばれるようになり、チャーチル夫人は、“レディー”と呼ばれるようになった。

                ◆

 チャーチルは若くして、ロスチャイルド一族に惚れ込み、南アのボーア戦争に参戦する直前、21歳のときにロスチャイルド邸のパーティーに招かれていた。

 「ロスチャイルド卿は素晴しい感覚の持主で、まことに博識です。このように賢い人に会って話を聞くことができるというのは、実に貴重な体験です」

 このようにしたため、母に手紙を出していた。この文面にあるロスチャイルド卿は、MI5“スパイキャッチャー”ヴィクター・ロスチャイルドをパーティーの14年後に生み落とす家族、当時のイギリス政界を動かしていたユダヤ王の当主だった。

 チャーチルの惚れ込みようは尋常なものでなく、終生ロスチャイルド家の代理人として働いたが、戦後、南アの「アングロ・アメリカン」や「リオ・チント」の資金を糾合してカナダに巨大発電プロジェクトを成功させ、アンソニー・ロスチャイルドとエドマンド・ロスチャイルドを感激させたのが、チャーチルだった。

 「私が老いても友情がこわれないというのは嬉しいことです」

 チャーチルはその時ロスチャイルド宛てにこう手紙を書いたが、この開発事業というのが、カナダのチャーチル河にあるチャーチル滝のダム建設で、これがのちにロスチャイルドの原子力帝国を築く出発点となり、わが国のウラン輸入に大きな道を拓くのである。ロスチャイルド家の誠実な代理人で好戦家、これがチャーチルの隠された最大の特質であった。ロスチャイルド財閥のメンバーとして、この男が首相の座についた瞬間、イギリス国内の反ユダヤ勢力は一掃され、上流社会の動揺は遂に鎮静された。ロスチャイルド財閥は崩壊していなかったのである。

以上、広瀬隆著『赤い楯』(集英社)より

映画「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」観賞2018年04月02日

 前評判の高い表記の映画を見に行った。映画館は昨年開館した日進市赤池にある『プライムツリー赤池』4FのTOHOシネマズである。天気も良いのでポタリングで行った。調べると約3.5kmくらいだった。14時30分に出て15分で着いた。
 映画COMの解説「名優ゲイリー・オールドマンがイギリスの政治家ウィンストン・チャーチルを演じ、第90回アカデミー賞で主演男優賞を受賞した歴史ドラマ。チャーチルの首相就任からダンケルクの戦いまでの知られざる4週間を、「つぐない」のジョー・ライト監督のメガホンで描いた。
 第2次世界大戦初期、ナチスドイツによってフランスが陥落寸前にまで追い込まれ、イギリスにも侵略の脅威が迫っていた。連合軍が北フランスの港町ダンケルクの浜辺で窮地に陥る中、就任したばかりの英国首相ウィンストン・チャーチルの手にヨーロッパ中の運命が委ねられることに。
 ヒトラーとの和平交渉か徹底抗戦か、究極の選択を迫られるチャーチルだったが……。チャーチルを支える妻クレメンティーンに「イングリッシュ・ペイシェント」のクリスティン・スコット・トーマス、秘書エリザベス役に「ベイビー・ドライバー」のリリー・ジェームズ、英国王ジョージ6世役に「名もなき塀の中の王」のベン・メンデルソーン。
 脚本は「博士と彼女のセオリー」のアンソニー・マッカーテン。アカデミー賞では主演男優賞のほか、オールドマンの特殊メイクを担当した日本人メイクアップアーティストの辻一弘らがメイクアップ&ヘアスタイリング賞を受賞した。」とあり、日本人のメイクアップが話題になった。オールドマンがこんなにも変わるのかというサプライズがあった。
 出演者が数名に絞られているが、中身は大きな歴史のうねりを描いた。名政治家は演説がうまい。言葉で多数の人を動かす。敵役にされたヒトラーの演説も中々のものだ。
https://www.youtube.com/watch?v=T2jhno1BL3w
 ドイツ国民を奮い立たせる扇動者の見本である。WW1で敗戦後のワイマール体制からの脱却を訴える。
 一方、受けて立つチャーチルはどうか。
チャーチルの肉声が聞こえる演説
https://www.youtube.com/watch?v=BYddUT_547A
チャーチルの人物像をまとめた
 https://www.youtube.com/watch?v=s_ssvsIY7Oo&t=1s

 映画を見て思ったことはチャーチルの偉さは困難から逃げなかったこと。
 それは英国の宣教師で登山家だったW・ウエストンは『日本アルプス 登山と探検』のまえがきの「今日の日本において、世界はまのあたりに、国民的な威信をなおそこなわないで保ちながら西洋文明に同化適応する力を発揮している東方一国民の、類い稀な例証を見ることが出来る。
 その上、この注目すべき民族が、現在では予測できないほど将来豊かに発展することは、ほとんど疑問がない。この民族は、国民的な威信の向上のためには、恐らくどんな自己犠牲も払えるのである」 ウォルター・ウェストン(1861-1940)『日本アルプス 登山と探検』(平凡社ライブラリー) 」と書いた。
 騎士道の国が武士道の国を認めたのである。
 アルピニズムの国らしく困難から逃げずドイツに挑んだ。騎士道の国ゆえに困難から逃げなかった。日本は負けたが欧米の奴隷になるまいと思って戦った。日本は多大な犠牲をはらい、絶滅寸前まで戦ったから国体が守られた。
 チャーチルもまた英国にドイツの国旗が立っても良いのかと、問うた。「never」と叫んだ。多くの犠牲を生んだが国を守る気概を示した。言葉一つで流れが変わったのだ。
 一見の価値があります。