山岳古道⑨北畠が陸奥へと赴任した東山道2021年02月22日

 『神皇正統記』の著者の北畠親房の足跡を追う。

https://1000ya.isis.ne.jp/0815.html
「 北畠親房が『神皇正統記』を書いたのは、常陸の筑波山麓にたつ小田城の板の間でのことだった。同じころ吉田兼好が『徒然草』を書いていた。二人の執筆の姿勢はまことに対極的で、親房は日の本を背負い、兼好は草の庵を背負っていた。14世紀になってしばらくのこと、内乱の時代の只中である。」

「 こうした親房が『神皇正統記』をなぜ陣中で急いで書いたのかというと、これは東国武士に南朝への参加を説得するための分厚い政治パンフレットだったのだ。かつては後村上天皇のために書いたとされていたのだが、いまでは関東の“童蒙”(かんぜない君主)、すなわち結城親朝の説得のために書いたというのが定説になっている。
 けれどもその効果は出ずに、説得工作は失敗をする。しかもその直後に後醍醐の崩御を聞いた。親房は傷心のまま吉野まで帰ってくることになる。まだ十代の後村上天皇はさすがに親房の労をねぎらい、准大臣として迎えるのだが、親房は静かに黙考して、動かない人になっていた。つまり『神皇正統記』は後醍醐存命中にこそ流布されるべきレジティマシーのための一書パンフレットだったのである。」

「浪岡氏(なみおかし)または浪岡北畠氏(なみおかきたばたけし)は、村上源氏の一族北畠家の流れを汲む陸奥の国司の一族とされる。

「後醍醐天皇の命により国司として奥州を支配した北畠顕家の時代には、2度までも足利尊氏を危機に追い込むほど強勢を誇ったものの、顕家が2度目の上洛戦で戦死し、勢力を引き継いだ弟の顕信も、傘下の武士の離反や幕府より奥州に派遣された吉良氏や斯波氏のために勢力を衰退させていったという。顕信の後半生ですら不詳であり、それ以後の歴代当主の事跡は、戦国期に登場した具永(後述)以前のものは判然としてはいない。

当初は南朝ゆかりの南部氏に保護されて、稗貫から閉伊船越にいたようであるが、やがて三戸南部氏が北朝方についたため、根城南部氏の庇護のもと、浪岡に入部した[2]ものと推測されている。[3]

現在の地に15世紀後半に浪岡城が築城されたとみる説[4]が多い。北畠氏は浪岡を拠点としたことから「浪岡御所」と呼ばれて、浪岡の位置する津軽田舎郡から外浜・西浜にかけて勢力を維持することとなった。」

 北畠氏は14世紀に日本史に登場する。三重県で一代勢力を拡大した時期もあったが、親房は長男とともに奥州統括のために多賀城へ赴任する。その時の通路は東山道であっただろう。京都から神坂峠を越えて陸奥までほぼ東日本を縦断する幹線であった。
 不思議なのは青森県の北畠氏の存在である。浪岡氏が復姓したのだろうか。どうやって調べるのか見当がつかない。
 それでも青森に北畠八穂が生まれたことは確かであり、錯綜した歴史の中で流れ流れて青森に定着したのである。

森喜朗氏の辞任を考えるーヤマトタケルと言挙げ2021年02月12日

 結局、森氏は「言挙げ」してしまったのだ。マスコミの切り取りはあったにせよ、スキがあったのだ。以下の文に見る如く、ヤマトタケルも相手を軽く見たわけではないのに、自分の思いを正直に言葉にしてしまった。それが「言挙げ」であり、感受性の強い女性の神経にさわるのである。そしてマイナスに働き、屈強の神様も足が三重(三重県の由来)に曲がってしまった。鈴鹿市で力尽き、「大和は国のまほろば・・・」と詠って亡くなった。実に恐ろしきものは言挙げである。他人の癇に障る言葉は厳に慎まなくては。

 ブログ「和人」から
https://www.wabito.jp/ibukiyama-siroinosisi/
【古事記】倭建命(やまとたけるのみこと)「伊吹山(いぶきやま)の白猪」

 倭建命(やまとたけるのみこと)は、尾張国(愛知県)の美夜受比売(みやずひめ)と結婚された後、伊吹山(滋賀県と岐阜県の境にある山)の神を討ちに出かけますが、その時、御刀である草薙剣(くさなぎの剣)を、美夜受比売(みやずひめ)の元に置いて、「この山の神は、素手で倒してやる!」

といい、持たずに出発しました。そして、その山に登った時、山の麓(ふもと)で白い猪に遭遇しました。その大きさは牛ほどあります。

そこで、倭建命(やまとたけるのみこと)は、言挙(ことあげ)して「この白い猪に化けているのは、その神の使者だな。今殺さずとも帰る時に殺してやろう!」と言い、そのまま山を登って行きました。

*言挙:自分の意思をあらわにし宣言すること。古代では言挙しその内容が間違いであった時、効力を失い自分の力をも失うとされ、禁句とされていたようです。

 すると、突然激しい雹(ひょう)や雨が降って来て、倭建命(やまとたけるのみこと)はその雹と雨に打たれ意識を失ってしまいます。実は、その白い猪は神の使者ではなく、山の神そのものだったのです。

 しかし、倭建命(やまとたけるのみこと)は「山の神の使者」と言挙してしまったので、その怒りを買いこのようにして気を失わせたのでした。
倭建命(やまとたけるのみこと)は、意識が混濁(こんだく)する中、その山からなんとか帰り下り、玉倉部の清水(たまくらべにある泉:所在未詳(滋賀県坂田郡米原町の醒が井あるいは、岐阜県不破郡関ヶ原町玉とも言われています)に着き、休みになっていると少し意識が回復しました。それで、その清水を居寤清水(いさめのしみず)といいます。

 そして、そこから倭建命(やまとたけるのみこと)は出発し、当芸野(たぎの:岐阜県養老町)の辺りに着いた時こう言いました。「私の心は、常に空を飛び翔けて行けると思っていた。しかし今は、私の足は歩くことも出来なくなり、たぎたぎしく(腫れてぼこぼこに)なってしまった」

 それで、この地を当芸(たぎ)といいます。

 そこから少し進むが、とても疲れ、なんとか杖をついてそろそろと歩きました。そこで、その地を杖衝坂(つえつきざか:三重県四日市市)といいます。
以下略

岩村忍『文明の十字路=中央アジアの歴史』を買う2021年02月04日

世界史の窓から「トルキスタン」
講談社学術文庫版
内容:
「ヨーロッパ、インド、中国、中東の文明圏の彼方で、生き抜いてきた遊牧民たちの領域が中央アジアである。絹と黄金を運んだ悠久の交易路シルクロード。多くの民族と文化の邂逅と衝突。アレクサンドロス大王とチンギス・ハーンの侵攻……。仏教・ゾロアスター教・マニ教・ネストリウス派そしてイスラムもこの地を経由した。中央アジアの雄大な歴史をコンパクトにまとめた入門書。(講談社学術文庫)


東西の文明交流の担い手=遊牧民族の3千年。東から絹を西から黄金を運んだシルクロード。世界の屋根に分断された東西トルキスタン。草原の遊牧民とオアシス農耕民との対立と共存を軸に、雄大な歴史を描く。」


アマゾンのコメントから
① 「この本が書かれたのは1977年だから、ソ連崩壊後の中央アジアの激動は反映されていないし、欧米列強進出後の中央アジアの近代史は駆け足で簡単に触れてある程度だが、古代から近世に至る部分は通史の概説書としてよくできている。
 中国史の一部として、あるいはシルクロードの東西交渉史として触れられることがほとんどの中央アジア史を、東西トルキスタンに焦点を当てて概説したものは少ないのではなかろうか。現在は東トルキスタンは中国の新疆ウイグル自治区、西トルキスタンはカザフスタン、キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、アフガニンスタンにほぼ該当する。
 東西を分けるものはチベットからつながるパミール高原の急峻な山岳地帯であるため、東西で歴史の経過が異なっている。
 点在するオアシス都市国家と草原を疾駆する騎馬遊牧民の歴史はまさしく「民族の興亡」というにふさわしく、繁栄と没落のダイナミックな展開に興味は尽きないが、著者は定住民と騎馬民族の攻防の局面よりも、交易による平和的共存の時代のほうが長かったという。
 ただ、中国の歴史書やチンギス・ハーンの遠征記、あるいは玄奘三蔵やマルコポーロの旅行記などの史料で埋まらない空白部分の存在があり、まだわからない部分が多いことも記されている。
 ソ連崩壊後の西トルキスタンの諸国家独立や近年の中国の一帯一路政策により中央アジアは政治的経済的に変貌を遂げつつある。近年の研究も踏まえた概説書が望まれるところである。

 原著はやや古いものだが、現代でも十分通用する質の高い内容である。」

以下は「世界史の窓」から
・・・ トルキスタンとは、イラン語で「トルコ人の地域」の意味で、中央アジアのパミール高原の東西に広がる広大な草原と砂漠地帯を言う。この地域をトルキスタンと言うようになったのは、ほぼ9世紀ごろにトルコ系民族のウイグルが定住生活を送るようになってからのことである。それ以前は、パミール高原の西のソグディアナを中心としたイラン系のソグド人がオアシスに定住しながら、東西交易に活躍していた。すでに6世紀にトルコ系の突厥が中国北部からこの地域を含め、西アジアに及ぶ大帝国を作ったが、彼らは遊牧生活を続けており、遊牧国家という性格を強く持っていた。

トルコ系民族の定住

 それに対して、もともとモンゴル高原にいたトルコ系ウイグル人の国家が、9世紀にキルギス人に滅ぼされて、その一部がタリム盆地のオアシス地帯に定住して西ウイグル王国を建ててから、この地域のトルコ化が進み、さらにトルコ系民族は西進して西アジア各地に広がっていった。これに押されて他のトルコ民族(カルルク人など)がパミール高原西部に移住するようになり、この地域もトルコ化が進んだ。
 先住民であるソグド人、サカ人、トハーラ人などのインドヨーロッパ語族のイラン系民族が、定住した支配者であるトルコ人の言語に同化されていった結果、この地はイラン語で“トルコ人の土地”を意味するトルキスタンと言われるようになった。トルキスタンは広大な範囲を指すが、パミール高原を中心にして、その東を東トルキスタン、西を西トルキスタンという。

コメント② 「中央アジアという地域はあまりなじみはないかもしれないが、東は中国、南はインド、西はギリシア、ペルシア、トルコ、北はロシア、モンゴルと接し、古代からさまざま文化、軍事勢力が群雄割拠し、カラフルな彩りを示してきた。世界史の縮図といってもよい密度の濃い歴史の舞台となってきた。

 本書は先史時代から現代に至るまで、この時代の歴史を誠実に描く。アレクサンドロス大王、感の武帝、チンギスハン、様々な英雄が織り成す活劇が展開され、あきることはない。

 この地域の歴史の入門書としては申し分ない。ただし、近年では特に現地の言語資料の解読や、歴史観、歴史理論の進展により、これらの地域の研究はさらに進歩が著しい。さらに研究を深めたいならば、杉山正明、岡田英弘といった名前や中央ユーラシアといったキーワードで最新の研究に進まれることを薦める。」

・・・世界史はモンゴルから始まったという岡田英弘の著作集は揃えてあるがいつ取り掛かれるやら。中央アジアすなわちイスラム社会は世界の中でもっとも分かりにくい地域である。
 中国、アメリカ、ロシアなどの大国が手を焼いて来た。今も中国がウイグル人をいじめているが、歴史的には中国は攻められていた側だろう。万里の長城も外敵から守るためだったが、自らを閉じ込める結果にもなった。
 この一帯は砂漠が広がる。最初から砂漠はあり得ないから、遊牧民の飼う羊により草も根っこから食うために砂漠化したのではないか。さらに煮炊きに使う木材もかつては森林があったと思われるが、伐採のみで植林しなかったから乾燥地帯になっていったのではないだろうか。この地域の自然史も知りたいものである。

長沢和俊『楼蘭王国』2021年02月03日

 1963年角川新書から加筆修正した1988年の徳間文庫版である。アマゾンにもレビューはなく取り付く島がない。本の内容をコピペすると
「内容説明
茫漠たる砂の海、白雪皚々の高原、七彩に輝く氷河や峡谷、それらを縫い、ラクダの白骨を目印にキャラバンが進んだシルク・ロード。1900年春、探検家ヘディンによって発見された楼蘭王国の王都クロライナは、かつてシルク・ロードの要衝として無類を繁栄を誇り、晋の西域進出とともに突如、廃墟と化したオアシスであった。夥しい装飾美術品、古文書等をもとに西域学の泰斗が神秘の国の全貌に迫る名著。

目次
序章 シルク・ロードのほとり
第1章 幻の古都を尋ねて
第2章 さまよえる湖
第3章 ローラン王国の繁栄
第4章 カローシュティー文書は語る
第5章 底辺に生きた人々
第6章 砂漠をおおう戦火
第7章 クロライナの夢のあと
第8章 東西文化の交流」
以上

 著者についてはウィキペディアからコピペすると
「略歴
1957年(昭和32年)、早稲田大学第二文学部卒業、早稲田大学大学院文学研究科博士課程を修了。東海大学講師、鹿児島短期大学教授を歴任する。
1966年(昭和41年)、シルクロード踏査隊の副隊長として、現地史跡を調査する。

・・・日中国交正常化は1972年のこと。当時は中国へは入国できないからパミール以西ということになった。
 この踏査隊は深田久弥(1903年~1971年、作家)、長沢和俊(1928年から2019年、学者)、鈴木重彦(1933年~2001年、日本山岳会東海支部)、藤原一晃(白水社)、朝日新聞が援助した関係で社会部高木正幸記者、カメラマンの関沢保治、朝日テレビの吉川尚郎の7名の自動車旅行であった。
 後に共著で『シルクロード 過去と現在』(白水社)を出版。パミール以西のシルクロードものの嚆矢だったと思われる。

1975年(昭和50年)、早稲田大学第一・第二文学部教授。
1980年(昭和55年)、『シルク・ロード史研究』にて、文学博士(早稲田大学)の学位を取得。定年後は早稲田大学名誉教授。就実女子大学教授に就任。
著書
『シルクロード 東西文化のかけ橋』 (校倉書房、1962年/校倉選書(増補版)、1979年)
『シルクロード』 講談社学術文庫、1993年 ISBN 4061590863。再訂版
『楼蘭王国』(角川新書、1963年/新版 レグルス文庫:第三文明社、徳間文庫)
『敦煌』(筑摩書房(新書)、1964年/新版 レグルス文庫:第三文明社、徳間文庫)
『チベット 極奥アジアの歴史と文化』 校倉書房、1964年
『ネパール探求紀行』角川新書、1964年
『日本の探検隊』早川書房(新書)、1966年
『シルクロード踏査記』 角川新書、1967年
『シルクロード遍歴』角川選書、1985年 増補版
『日本人の冒険と探検』(白水社、1975年、新装版1998年)
『パゴダの国へ ビルマ紀行』(NHKブックス、1977年)
『世界探検史』(白水社、1978年、新装版1996年/講談社学術文庫、2017年)
『シルクロードの終着駅 正倉院への道』(講談社現代新書、1979年)
『シルクロード史研究』国書刊行会、1979年
『東西文化の交流 新シルクロード論』白水社、1979年、新版1986年
『探検学 未知の世界に挑んだ男たちの記録』大陸書房、1980年
『シルクロード 歴史と文化』角川選書、1983年
『シルクロード文化史』全3巻、白水社、1983年
『シルクロード踏査行』くもん出版、1983年
『西安からカシュガルへ』旺文社文庫、1986年
『シルクロード博物誌』青土社、1987年
『シルクロードの旅人』徳間文庫、1988年
『海のシルクロード史 四千年の東西交易』中公新書、1989年
『楼蘭古城にたたずんで』朝日新聞社、1989年
『楼蘭王国史の研究』雄山閣出版 1996年 ISBN 4639013477
『シルクロード波瀾万丈』 新潮社 2000年 ISBN 9784104341016
『遥かなるシルクロード スケッチガイド 北京からイスタンブールまで』里文出版、2000年。画文集
共編著
『シルクロード 過去と現在』深田久弥共著、白水社、1968年
以下略
・・・以上のデータからほぼ生涯をシルクロード探求に掛けた学者だった。

シルクロードに思うこと2021年02月02日

 シルクロードは世界史の誕生でできた古道ということ。岡田英弘『世界史の誕生』のアマゾンのレビューに寄せられたコメントが簡明で要を得た内容なので引用させてもらうと

 「「西洋史」「東洋史」の2つの世界を同時に学ぶのが高校の「世界史」だったが、独立した関連性のない(ように見える)2つの世界について学ぶのは、正直なところ苦痛だった。
 しかし、中国を舞台にした歴史小説、あるいはローマ帝国を舞台にした塩野七生の小説を読むと、日本史にはないダイナミズムに満ちていて、実に面白い。世界史で学んだことのつまらなさとのギャップはいったいどこから来るのだろうという、どこか納得しきれない部分はずっとあった。

 岡田氏の論考は、この2つの世界を縦糸とするなら、遊牧民という横糸が合わさることで、世界史という1つの布を織りなしていることを証明するものである。「東洋史」を貫く思想が中華思想であり、「西洋史」を貫くのがローマ帝国やキリスト教を柱にする地中海(優越思想と言っても良い)史観だが、そこでは遊牧民の存在は矮小化、あるいは悪役視されている。
 しかし、大興安嶺からモンゴル高原、さらに中央アジアに至る地域に住む遊牧民の活動こそが、実は東西の歴史に重要な影響を与えてきたのであり、それはモンゴル帝国の成立によりその過程が完成したという著者の論考は、知的刺激に満ちている。

 一方で、著者の説は歴史学界において、完全に異端視されている。なぜなら、著者は「中国」が優越するとする中華思想が、実は遊牧民に抑えつけられ続けた中国人による一種のファンタジーであることを容赦なく暴いている。
 さらに、欧州(特に東欧)世界が、ロシア史の言うようなタタールのくびきから抜け出した栄光あるものではなく、実はモンゴルの延長線でしかないことを、さまざまな歴史的事実を用いて説明している。
 これは、既存の東洋史・西洋史の学者には到底受け入れられないだろう。歴史研究は史書を基盤にするが、その史書がよって立つところの虚妄を暴かれては、学者の反発も無理からぬモノがある。

 とはいえ、文献の少ない遊牧民の歴史を丁寧に調べ上げることで著者が見せた全く新しい世界観は、実にわかりやすく、そして魅力的だ。歴史の見方が根本的に変わる本書は、ある意味怖い本でもあるが、多くの人に手にとって欲しい、そう思えてならない1冊である。」

・・・中央アジアは欧州大陸と中国大陸のはざまにある。ゆえに中央だが、中心ということではなかった。そこをモンゴル族が欧州へと騎馬民族らしい移動を続けたことで世界史がなった。
 レーニンはモンゴル人の血とユダヤ人の混血というのも世界的な規模で見るとモンゴル人の隆盛を見る思いがする。

 その上で、中央アジア探検史の目次だけを眺めても膨大な時間の流れにため息がでる。かつては陸地の移動しかできなかった時代の東西の交流の中で発展と衰退を繰り返して来た中央アジアを貫く古道である。登山家たちはそんな経路にそびえる天山を見逃さなかった。そこに何があるか行ってみたい、という極地でないが、文化的な極地への憧憬だろうか。いかにも作家・深田久弥らしい取り組みではある。

遠州・小笠山を歩く2021年01月09日

 朝5時起きし、出発。大高町の丸の内の交差点で県道59号からR23に左折するところをうっかり直進してしまったので戻って入り直す。早朝というのに大型トラックがひっきりなしに疾走してゆく。文字通り日本の大動脈である。ここはスマホのナビに留意しながら右寄りに行く。知多道路、名二環、伊勢湾岸道、最後は豊明でR1に分かれるとR23のみとなる。蒲郡で一旦R247に出て再びR23に合流。豊橋市の外れで豊橋バイパスの高架に入ると豊橋市の南の工業地帯、農村地帯を大きく迂回し静岡県の境で再びR1と合流。小高い丘からは黒い富士山が見える。
 後は静岡県になるとR1を走り潮見坂を経由しながら東進。浜名湖の今切口をまたいぐ浜名バイパスを行く。天竜川に沿って大きく左旋回すると浜松市に入る。天竜川を渡ると磐田バイパス、袋井バイパスと続く。適当な出口で出て、袋井市街地を目指すと吉野家があったので温かい朝食をと思ったが、7時開店なのに7時30分でも開店していない。8時まででもまだ準備中だった。別の牛丼屋へ行った。スマホを法多山に指示して向かう。
 参道の入り口付近は有料駐車場があって手招きで誘う。ハイキングで半日くらいは止めさせてくれるか、と聞くと皆ノーであった。参道に近いところのPで、半日止めても良いか、というとOKを出してくれた。一番奥へと案内された。もう正月は過ぎたというのにひっきりなしに参拝客が押し寄せてくる。

  こんな寒い日でも山麓の法多山尊永寺は多くの参拝者で賑わっていた。参道の入り口で自動で体温チエックし、マスク着用で参道を歩き、参拝しました。途中で団子売りばへ立ち寄った。登山前なので荷物になるものは買えないので後にした。
 本堂の屋根が蒼穹の空に映えて美しい。1300年の歴史を誇るだけのことはある。
 その後登山道を探すために本堂の裏にも回ったが分からない。地形図をよく見ると墓地の間を抜けるようだ。入り口が分かりにくいが奥ではよく踏まれた道になりました。小笠山は尊永寺から北の尾根に取り付き、172mのコブに上がった。ここには宮標石がある。また愛野駅からの道標もありこちらがメインルートと思われる。
 樹齢のある常緑樹のかぶさる登山道を行くと三ッ峯への分岐になり往復。後は小刻みなアップダウンを繰り返す。腹擦峠で一休みした。登り返すと221mに到達。東経138度展望台は富士山を眺められる。浜松市から島田市まで東西の展望が良い。掛川駅からのハイキングルートと合流。小笠山はすぐだった。樹林に囲まれて展望はない。400m下ると小笠神社に行く。戻って、地蔵尾根(中尾根)を下山した。162mとの鞍部から北へ急坂を下る。滑落しそうなくらい滑りやすい。県道へ出て法多山へ登り返すと無事周回登山を果たして下山しました。Pの叔父さんにお礼を述べて帰った。
 後は名物の団子を買うのだが、車では境内に入れさせてもらえず、おじさんに聞くとPから下ると製造元があるからそこで買えるよと教えてくれた。首尾よく買えてほっとした。600円。賞味期限は1/10で日持ちしないのが玉に瑕。
 ヤマップの累積標高は830m、5時間50分で11.1km歩きました。

考古学者・森浩一の東海学の提唱2020年12月19日

 朝日遺跡に行った際にたくさんの知見を得た中に森 浩一「(もり こういち、1928年7月17日 - 2013年8月6日)は、日本の考古学者。」の提唱した東海学がある。氏は春日井シンポジュウムを主導し、たくさんのシンポを主宰し、成果は10冊以上の書籍にまとめられた。
 柳田国男はたくさんの著書を著し、柳田学から後には日本民俗学と呼ばれた。今西錦司は探検、登山での観察による知見を著書に著し、自然学を提唱した。民俗学の赤塚氏は「東北学(とうほくがく)は、民俗学者の赤坂憲雄が提唱した東北地方の、文化、地理、歴史、経済的な学際的総合研究の方法で、その呼称。」をまとめた。
 専門領域だけにとどまっていては分からないこともシンポで多面的な人材が参加することで全体像が明らかになる。今ここに考古学の成果を東海学という学問にまとめた事を知った。
 19日はそんな成果を見たくて直接春日井市立図書館に行った。郷土資料コーナーは膨大な書籍で埋まっている。そこにシリーズの書籍が並んでいた。欠本もあった。隣には春日井市内の古墳の発掘資料の冊子も並んでいた。森氏が春日井市に入れ込んだのは古墳があったせいかと思われた。
 森氏は今は亡く、蔵書は春日井市に寄贈され、中央公民館に森浩一文庫として整理されているらしい。一度は拝見して見たい。
 考古学は書斎や研究室にこもってなせる学問ではない。フィールドワークが重要である。縄文時代、弥生時代と来て、古墳時代がある。
 東海学という書名の本の目次を眺めてみて、関心のある東山道の項目だけを拾い読みしてみた。その中の地図で時代の変遷で街道がどう変わったかが図示されて興味深い。
 東海道は大阪から鈴鹿峠を越えて伊勢を北上し、熱田の渡しで名古屋に入る。愛知県からは主に遠州灘沿いに東進する。箱根越えはするがずっと南よりなので海道というわけだ。
 反対に山中を縫うようにあるから東山道というのである。海を見る街道から山を眺める街道である。
 1300年前の尾張国の絵図には一宮と清洲は島だった。昔は島伝いに古東山道があったはずである。津島辺りで熱田の渡しのある桑名へ南下し、東海道に合流したらしい。また関ヶ原方面の中山道にも分かれただろう。
 文化は辺境に残るというから今は神の神坂峠辺りが名残りとしてある。岐阜県側は車道でズタズタだが長野県側は少しは原型をとどめているだろう。地質学でいえば、神坂峠には古代の歴史(地層)の露頭が観られるのである。あそこは古代遺跡もあったはずである。

朝日遺跡ミュージアムを見学②2020年12月15日

猿投神社所蔵の絵図は1300年前。
 朝日遺跡がこの位置にあること、2400年前の人たちの生活の場だったことで、想像力を巡らせて頭で考えることは大変に楽しい。雑駁な知識、断片的な知識がくっつきあってまとまってゆく好奇心が刺激されます。
 何でこの清州の位置に、というのは2400年前は干潟が広がっていたというのです。そうか、今の五条川も自然河川ではなく、木曽川の古い流れの1つという。「一方、尾張側では、この御囲堤の完成で木曽側の氾濫は無くなりましたが、逆に尾張平野はそれまで派川であった五条川、青木川、日光川、三宅川、領内川などの八流が無くなり水不足になる」(水問題研究所:木曽川物語から)ので取込み口を設けて用水化したのです。
 地質学の本には東海湖という絵図があります。今の白鳥町あたりまで長良川は入江だった。鷲ヶ岳山麓の阿多岐では藻が珪藻土になり切り出してコンロに利用されています。「美濃白鳥湖に堆積した成分が重なって,約300万年~150万年前に形成」されたので相当古い話です。
 時代が進んで、最後にアップした猿投神社所蔵の717年(古事記は712年、日本書紀は720年)の絵図になると1300年前の地形になります。清須(清洲)も津島も水っぽい地名ですが実際に昔は島だった。それも木曽川の氾濫で、長良川は西に押し出されて、沖積平野になります。秀吉の頃から尾張国側は堤防を高くして囲い込みます。前述の通り濃尾平野は巨大な造成地になった。
 愛西市教委の学芸員、石田泰弘さんは「東方からやってきた人たちが道中、尾張国と伊勢国を行き来する際、七里の渡しを使った記載があったのはわずか五十五点。最多は、同県清須市付近から甚目寺(同県あま市)を経て同県津島市に至る津島街道で、実に三百九十五点もあ」ったとして津島街道が主流だったことを明らかにされた。古代史と古絵図からの推移を見てもむべなるかな、と思います。4月ごろ、中区丸の内の事務所から津島神社(疫病退治の神様)までサイクリングして参拝しましたが緩やかな下り坂でした。往きは休まず走ったが帰りは喫茶店で一休みしました。
 こうしてたかが遺跡ではあるが、雑駁な知識が積り重なって、それはまるで地層のように、想像を膨らませることができるようになってきた。それと改めて再発見したのは西日本には陶器の産地が多いのに東日本にはほとんどない。これも弥生文化を考えるヒントになります。瀬戸市の猿投山山麓の赤津は有名ですが、なんでこんな山奥に津の地名があるのか不思議でした。しかし猿投神社の絵図には掲載されています。海に面していたのです。
 赤津、瀬戸市(陶器生産の本場)、日進市(陶土採取場がある)、東郷町(古窯がある)、常滑市(常滑焼がある)と陶土の地質が続いているそうです。これが海浜だったのか。

朝日遺跡ミュージアムを見学2020年12月12日

 以前に整備中の朝日遺跡を訪れたことがあるが、このほど整備されてオープンしたというので行ってみた。植田インターから名二環で清州まですぐの距離である。
 入館料は300円。入館するとなぜか家族連れが多かった。展示室にはいると照明を落としてあるが分かりやすくなっている。とはいえ、ここもボランティアで良いので解説員が欲しかったな。予備知識がないと楽しめないのは先週行った愛知県陶磁美術館と同じである。団体には付くそうだが個人にも配慮が欲しい。
 旧館にも行ってみた。展示は変わらないが、参考書籍類が見るものがあった。中でも春日井市は古跡に力を入れていることが分かった。春日井シンポジュウムという。森浩一氏が提唱した東海学という言葉にも初めて接した。書籍化された本は流通している。
1継体大王と尾張の目子媛
2ヤマトタケル
3壬申の乱
4渡来人
5古代史のなかの女性たち
6旅の古代史
7継体王朝
8東海学の創造をめざして
9東海学が歴史を変える
10東海学と日本文化
11地域学から歴史を読む
12水とまつりの古代史
13伝説に歴史を読む
14海人達の世界
15日本の食文化に歴史を読む
16東海の神々をひらく
 今日の新聞にも豊田市に縄文遺跡があり展示中と報じられた。尾張地域は弥生遺跡の西の境界、三河地域は縄文遺跡の東の境界か。すると東西文化の間の山としての猿投山の持つ意味は大きい。
 東海地方にヤマトタケルを祭る神社が多いのも東征の出発地なのだ。恵那山の胞衣を埋設する伝説も西日本の境界なのだろう。あの山脈で谷と沢の文化に分かれる。愛知県三河地方に混在しているのは相互に行き来があったのだ。
 焼き物(瀬戸物)の産地の分布を見ても愛知県以西の西日本に濃密で東日本は極めて少ない。文化の伝播がシナ、コリアから来たのだろう。手に職のある異邦人は受け入れられ易かったとみている。

中国王朝史と日本神話時代そして渡来人と弥生文化2020年12月08日

 中国王朝史を見ると目まぐるしく易姓革命を繰り返している。日本では神話時代と重なっている。さらに考古学の成果で最近は弥生時代の遺跡、遺物が姿を現し、縄文文化も語られることが多くなった。

 日本海側の若狭湾、敦賀湾などは朝鮮半島の文化の取り入れ口みたいに渡来人が流れ着いた。王朝毎に違う政治の仕組みの変化にほとほと疲れた職能人の群れは母国を捨てて別天地を求めて船に乗り日本海に出た。対馬海流に流されて着いた白砂清松の砂浜は歩きやすかった。

 住みやすい平地はすでに先住者がいたから渡来人は奥地が当てられた。こうして明神谷に住んで焼き物を作った。手に職があれば外国でもすぐ受け入れられる。

 熊野市は聖地と言われる。大和朝廷の先祖は太平洋の黒潮に乗った。水稲耕作の技術を持っていた集団は熊野川沿いに遡り、奈良盆地に定住し始めた。大和は国のまほろばの始まりである。

 琵琶湖周航の歌の歌詞を吟味すると、わずか26歳の京大生が作詞したとは思えない。文語体で拡張高く歌いあげる。何か原作がありその漢詩なり和歌を換骨奪胎した気がする。
 琵琶湖を日本海を漂流する先祖に例えた。白砂清松は朝鮮半島の風景に重なる。作詞の小口太郎は諏訪の人だが手本の原作は朝鮮にルーツをもつ人なのではないかとさえ思える。

1 われは湖(うみ)の子 さすらいの
旅にしあれば しみじみと
昇る狭霧(さぎり)や さざなみの
志賀の都よ いざさらば
2 松は緑に 砂白き
雄松(おまつ)が里の 乙女子は
赤い椿の 森陰に
はかない恋に 泣くとかや
3 波のまにまに 漂えば
赤い泊火(とまりび) 懐かしみ
行方定めぬ 波枕
今日は今津か 長浜か
4 瑠璃(るり)の花園 珊瑚(さんご)の宮
古い伝えの 竹生島(ちくぶじま)
仏の御手(みて)に 抱(いだ)かれて
眠れ乙女子 やすらけく
5 矢の根は深く 埋(うず)もれて
夏草しげき 堀のあと
古城にひとり 佇(たたず)めば
比良(ひら)も伊吹も 夢のごと
6 西国十番 長命寺
汚(けが)れの現世(うつしよ) 遠く去りて
黄金(こがね)の波に いざ漕(こ)がん
語れ我が友 熱き心