愛知県の石巻山は神山(みわやま)と呼び、三輪山と同じ大己貴命を祀る2020年05月08日

ソース:https://iyakukeizai.com/beholder/article/1436

(2)『日本書紀』の第1回目の疫病大流行

『日本書紀』の崇神天皇・即位5年(3世紀前半か)に疫病が大流行し、人口の半分が亡くなった、と記されてある。原文は「五年、国内多疾疫、民有死亡者、且大半矣」である。疫病大流行の原因は、神様の意に背いたからであり、疫病対策は、神様の意に従うことであった。八百万の神々の中の「どの神様か」というと、「三輪山=大物主(大国主)=大神」である。念のため言っておきますが、天照大神ではありません。そのことは、『昔人の物語(62)・崇神天皇』をご参照ください。

 ともかくも、疫病対策とは、祈祷、神事であった。

ソース:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%89%A9%E4%B8%BB

崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れ、「こは我が心ぞ。意富多多泥古(大田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と告げた。天皇は早速、活玉依毘売の末裔とされる意富多多泥古を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。これが現在の大神神社である。

ソース:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB

大国主は多くの別名を持つ。(※名義は新潮社神名釈義[要説明]から) 同名の記載順は『古事記』、『日本書紀』、『風土記』、その他祝詞や神社とする。

・大物主神(おおものぬし-)
・地津主大己貴神(くにつぬしおおなむち の かみ)
・国作大己貴神(くにつくりおおなむちのかみ)

大国主神を祀る神社は非常に多く、全国の一宮を中心に無数に存在するため、ここでは主な神社を列挙する。

・南宮大社 境内 樹下神社(岐阜県不破郡)
摂末社
境内社
本殿回廊内

樹下神社
祭神:大己貴命
摂社。本殿に向かって右隣に鎮座。社殿は重要文化財。

・飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市)
摂末社祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)

・日吉大社 西本宮(滋賀県大津市坂本)
日吉大社は神代より比叡山にいらっしゃる神(大山咋神)として崇められ、崇神天皇7年、八王子山の麓にお迎えし創祀(東本宮)されました。その後、天智天皇が飛鳥より近江大津宮へ遷都した翌年である天智天皇7年(668)に、大和朝廷の守護神であった大和国三輪山より大己貴神(西本宮)を勧請しました。

西本宮のご祭神である大己貴神は、別名を大国主神・大物主神と呼ばれ、島根県の出雲大社や、奈良県の大神神社などで祀られる国造りの神様であり、我が国で最も貴い神様の1柱であると考えられます。

・建部大社(滋賀県大津市)
主祭神は次の通り。

本殿:日本武尊(やまとたけるのみこと)
本殿相殿神:天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
相殿神は、天照皇大神でなく天明玉命(あめのあかるたまのみこと)とする場合も見られる[1]。
権殿:大己貴命(おおなむちのみこと)
大神神社(大和国一宮)からの勧請。

・砥鹿神社(愛知県豊川市)・・・・奥宮は三河・本宮山
 里宮(奥宮も)本社には、大己貴命(おおなむちのみこと)をお祀りする。大国様(だいこくさま)と慕われる御祭神は、福徳の神・国土開拓の神・縁結びの神として尊崇せられ、交通安全・家運隆昌・厄難消除等の御神徳は、三河地方はもとより各方面からの篤い崇敬を受けている。

 というわけで、、大物主神は大国主であり、大己貴命なのです。

豊田市郷土資料館特別展「猿投山ー祈る山、観る山、登る山」2020年01月29日

 猿投山は私の住むマンションの窓から朝な夕なに眺める山である。右側に一段低くなる台地がありあそこがヤマトタケルの兄のオオウスノミコトの墳墓があるところであろう。まさに霊山である。
  親しい猿投山をどんな風に展示するのか興味深々で1/28に見学。一回りすると別室で動画もあり戦前のはげ山だったころの映像が視聴できる。文献の展示は学芸員の解説がないと楽しめないかも知れない。学芸員によるトークもあるので午後に尋ねるが良い。1/19から3/15の間、2時から2時30分間解説してくれる。ギャラリートークは2/15と2/29でともに午後2時から3時まで。講師は外部から招いた専門家。但し猿投山そのものではなく、石、名園に限る。
 今回は豊田市側のみに限る。どちらかと言えば猿投神社に重点が置かれた。猿投山の自然、民俗などが加味されればさらに充実する。この点は学芸員に注文をしておいた。例えば、猿投山の山名の由来である。景行天皇がいたずらする猿を投げたという伝説がもっぱら引用される。しかし、豊田市名誉市民の本多静雄氏は猿投山の「さな」は昔の製鉄に由来するという説を書いていました。こんな解説があれな尚興味は増すだろう。地名の語源辞典にもそう書いてある。
 また猿投山がはげ山だったというのは多分瀬戸市側ではないか。神社のある境内は樹齢200年はありそうな神杉が林立している。神域からちょっと離れると植林になり谷は荒れている。瀬戸物生産には大量の木炭を必要とした。約700年もの間伐採と自然生を繰り返してきたから東濃の窯元周辺の里山はほとんどはげ山になったのである。愛知県は地味の痩せた瀬戸市側の山を買い取り、植林はしたものの、育ちが悪かった。そこを日本山岳会東海支部が貸与してもらい、猿投の森づくりの会を立ち上げた。育ちの悪い植林を伐採し、林床に光を入れて雑木林の自然生を促し、ゆくゆくは市民が憩える雑木林になる。このまま放置すると元々の照葉樹林に戻るので、時々干渉して雑木林の状態を保つという。
 瀬戸市側の東大演習林側は行方不明者の捜索で許可を得て入山したことがある。さば土の尾根や谷にやっと植生が根付いたところである。今も松が残り杉桧の植林も不安定なままで崖崩れも多いので危険領域もある。活き活きした里山に回復するのはまだ数十年はかかるだろう。

対馬の嶺は下雲あらなふ上の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも 万葉集2020年01月11日

 林野庁のHPから
https://www.rinya.maff.go.jp/j/kokuyu_rinya/kokumin_mori/katuyo/reku/rekumori/ariakeyama.html

   地理的・地形的特徴
 対馬南部の有明山山系の丘陵地帯に位置し、有明山を中心として小峰が連なり、山頂部を除いて比較的急峻な地形となっています。フェリーで厳原港へ向かう途中、正面に最も大きく見える山が、有明山です。山頂部は平坦で草原が広がり、昼食や休憩などのんびり過ごすことができます。眼下には清水山城跡や厳原の町が広がり、また、山頂からは、矢立山(648m)や白嶽(515m)リアス式海岸の入り組んだ地形で風光明媚な浅茅湾(あそうわん)を望むことができます。
   歴史的・文化的特徴
 万葉集14巻3,516の防人の歌に、「対馬の嶺は下雲あらなふ上の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも」があります。この歌は故郷を離れた防人(朝鮮半島との戦いである633年の「白村江の戦い」の後、北九州(対馬、壱岐、福岡)を守るために遠方から、集められた兵士)たちが、故郷に残してきた家族や恋人に想いをはせる情景を詠んだものです。歌の中の「対馬の嶺」は有明山とは限らないのですが、厳原港から最も大きく見える山であることから、これが有明山であるとも考えられます。
 当時から、対馬は「国境の島」として、戦いの最前線の島として、近隣の国と重要な関係を持ってきましたが、国交が回復すると、今度は親交の島として歩んできました。
 眼下には、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際(1591年)に築城したと言われる「清水山城跡」があり、階段状の山城で全国的にも類を見ない城で国指定の記念物となっています。近隣には、石川県前田家墓地、山口県毛利家墓地と並び、日本三大墓地に数えられる対馬藩守護代宗家十万石の菩提寺「万松院」をはじめ、かつての対馬を偲ぶ多くの遺跡が残っています。時代の流れとともに、移り変わってきた激動の「国境の島・対馬」は歴史的、文化的に貴重な場所として注目されています。
気候等と植生・野生生物
 3月下旬から4月にかけて、日の当たる尾根筋や山頂近くで鮮やかなゲンカイツツジが、葉が展開する前に枝先に淡紅色の花を数輪つけ、冬枯れの寂しい風景のなかでひときわ美しい花を咲かせます。このころ、足元ではフデリンドウやシハイスミレなどの可憐な植物が開花し、対馬に春の訪れを告げます。梅雨時になるとヤマボウシの白い花が見頃を迎えます。
 登山道は一部ヒノキの人工林を通るところもありますが、スダジイやヤブツバキ、アカガシなどの照葉樹林も残り、林床ではアリドオシなどをよく見かけます。植林されたヒノキは、色合いや香りに独特の特徴のあるヒノキで、対州ヒノキと呼ばれており、ブランド展開されています。
・・・・以上の紹介記事を読むと今度行くなら緑の季節が良いと思う。今回のドライブと渡航で如何に遠い島かいうことはしっかり味わった。飛行機か高速船を使い、現地のレンタカーが合理的な旅のやり方であろう。乗りなれたマイカーが一番良いが不経済である。但し、有り余る時間があるなら高速を使わず、ホテルも泊まらずの車中泊が良いか。今回の旅で大方の地理勘はできたから水、食料、トイレさえ確保すればどこでも自由に旅を楽しめる。

百船の泊つる対馬の浅茅山時雨の雨にもみたひにけり2020年01月08日

 国境の島、対馬。平城京の都(現在の奈良市)から遠く離れた地でありながら、万葉集には多数の歌が詠まれているという。6月の晴れ間、万葉研究の第一人者、中西進さん(89)と、歌の原風景を求めて島をめぐった。(横山由紀子)

島を包む太古の蒼

 長崎空港からプロペラ機で30分余り。緯度は大阪と変わらないのに、緑深い原生林やエメラルド色の海が広がる。南方の島にいるかのようだ。

 南北に延びた島の中央部を深くえぐる浅茅(あそう)湾は、7~9世紀、遣唐使・遣新羅使船の停泊地だった。「海の色は青じゃなくて蒼という表現がぴったりだね。色合いも太古そのもの」と中西さん。

 《百船(ももふね)の泊(は)つる対馬の浅茅山(あさぢやま)時雨(しぐれ)の雨にもみたひにけり》 巻15-3697

 (多くの船が泊まる港の対馬の浅茅山は、時雨の雨に美しく色づいてきたことよ)

 「対馬」という名前の由来は諸説あるが、「ツシマは“津の島”、つまり湊の島という意味ですね。それに『対馬』の文字があてられたのは、古代朝鮮の国家、馬韓(ばかん)に相対する島、ということかもしれません」と中西さんは思いを馳せる。

◇遊女が見送る船出

古代の山城・金田城跡に残る石塁(石の砦)。防人が配置されていた
その他の写真を見る(2/4枚)
 対馬を南北に貫く国道382号を車で走っていると、中西さんは標示板に「玉調(たまづけ)」という地名を見つけて、「止めて、止めて」と声をあげた。中西さんによると、玉調の「調」は古代の租税の租庸調の調だという。対馬では真珠の養殖が盛んだが、古代も真珠が採れ、それを特産品として納めたために、玉調という地名ができたのだろうと。
・・・・五万図で地形と地名を眺めても楽しい。学殖が深ければなおも楽しいだろう。対馬の地名は韓国側からはテマドと呼んだ。二つの島の意味である。対馬は日本が自ら命名したわけではないようだ。
 あるブログから引用すると
「対馬がはじめて歴史書に登場するのは3世紀頃、中国の三国志時代の「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)です。

「始めて一海を渡ること千余里、對馬(対馬)国に至る。 其の大官は卑狗、副は卑奴母離と曰う。居る所絶島、方四百余里可。土地は山険しく深林多く、路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海の物を食べ自活、船に乗りて南北に市糴(=交易)す。」

 断崖絶壁が多く、山が深く、道は獣道のように細い。また、水田が少なく、海産物を食し、朝鮮半島や大陸と日本本土を小船で行き来して交易を行っていた・・・。

 この記述は、当時の対馬の状態を簡潔・的確に描写しています。現在でも対馬の島土の約89%は森に覆われており、農耕地は少なく、戦後に道路網が整備されるまで集落間の移動に船を用いることも多かったようです。」とあった。
 当時の唐が命名したのであろうか。なにしろ文字もなかった時代に耳に入る言葉「tsushima」に対馬を当てた。

七草がゆを食う会2020年01月07日

 朝6時代の地下鉄に乗る。今日はまだラッシュではないが座れない。伏見駅で下車。名古屋観光ホテルの3F桂の間へ。着席後すぐ七草がゆが運ばれてくる。魚の切り身、フルーツ、漬物など豪華な朝食である。
 今日のテーマは愛知大文学部教授・和田明美氏を招き、「新元号 令和を寿ぐー出典『万葉集』の「序文」と「梅花の歌」についての講話。元号は令和で初めて国書の万葉集から採用されたというお話。わずかな時間でかいつまんで何となく分かった気になった。
 万葉集巻5所収の梅花の歌の序の中の「初春令月 気淑風和」に由来する。和田先生の核心はこの序文には唐詩(漢詩)の「帰田賦」にルーツがあると解説。この序文に「仲春令月 時和気清」を手本にしている。換骨奪胎というか謂わばオマージュなのである。
 唐詩の内容は都で出世もできず、田舎に落ちぶれて帰るうらぶれた内容である。唐詩に範を求めても万葉集では日本的に「変奏」しているというのだ。仲春は初春に変わり、「詩」ではなく、やまと歌の「短詠」へと変容。「受容と変容の日本文化を具現した」したと解説する。

 そうですね。芥川龍之介「神々の微笑」(1922年)の中の
「日本の霊として現れた老人が日本で布教しているキリスト教の神父に対してこういう。

「…(日本人は)何人でも(キリスト教に)帰依するでしょう。
ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人(日本人)は大部分悉達多(シッダールタ=釈迦)の教えに帰依しています。
しかし我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」

※出典 青空文庫 小説「神神の微笑」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html

 和田教授の話の核心はここだろう。朝の短い時間ではぎりぎりの講話だった。日本は作り変えてゆく国であり、元号ももうシナの古典ではなく、国書から採用しますよ、という文化的属国からの脱却のメッセージにもとれる。
 してみると、この春中国の習主席を国賓(新天皇との接遇には反対意見が多い)で来日する話で持ち切りだが、令和への改元のタイミングとしては策士として安倍首相の深謀遠慮に注目したい。否ちょっと政治的な解釈に傾き過ぎたか。

北畠家の系図2019年11月18日

北畠具行の墓所
 今年は北畠家の人物に巡り合うこと3人も居た。もちろん歴史上の話である。北畠家の家系図はこうなっている。

北畠氏学講座
http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake.html

北畠氏大詳細系図
 http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake17.html

 3月 「田丸城跡は1336年(延元元年)北畠親房・顕信父子が南朝義軍の拠点として砦を築いた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%B8%E5%9F%8E

http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/03/28/9052863


 5月 北畠八穂の先祖は三重県の北畠親房の長男の顕家が東北(陸奥国)へ下向した、とあるように南朝方の公卿(くぎょう)で今風に言えば高級官僚であった。青森の北畠家はその血筋の流れを汲む浪岡氏の末裔
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%85%AB%E7%A9%82

http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/05/11/9071166

 10月 北畠親房「一命を以って先皇に報い奉る」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/10/01/9160106

 11月 辞世の和歌「消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%85%B7%E8%A1%8C

http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/12/05/9172795

 とまあ、偶然にも3人の北畠家の人物に遭遇した。
 そこで北畠家の系図でググると、きっちり調査された系図がヒットした。これによると北畠雅家を筆頭に、その子が北畠師親、その長男が北畠師重と続き、北畠親房になる。なので親房は雅家のひ孫になる。一方で北畠具行は北畠雅家の子の師親の弟の師行の子になる。
 祖父の弟は大叔父と呼ぶ。大叔父の子は父母より年上なら従伯父(じゅうはくふ、いとこおじ)で「自分の父または母の従兄(いとこ)」になる。年下なら従叔父(じゅうしゅくふ)で、「自分の父または母の従弟(いとこ)」という意味。
参考サイト
親戚・親族の呼び名早見表
https://www.e-keizu.com/info/family.html
「祖父の兄弟」って何て呼ぶの?家系図で解説!
https://famico.jp/article-zokugara-836/
「従伯父」とはどんな意味?家系図で解説!
https://famico.jp/article-jyuhakufu/

 すると、親房から見て、北畠具行は祖父の弟(4親等)の子。なので大叔父の子すなわち、従叔父(じゅうしゅくふ)です。ここまで離れると傍系親族になる。遠い昔の話である。
 一方で、北畠八穂は青森の産。山の作家・深田久弥の先妻だった。青森県近代文学館が発行した「北畠八穂特別展」のパンフには、祖父の三代前は新潟に住んでいた。父慎一郎は弘前裁判所に勤務、後に青森営林署に勤務。その後材木店を開業。
 例の系図では親房の子顕家の子(親房の孫)に浪岡姓を名乗る血筋が現れて続く。その顕家のひ孫にも浪岡姓が現れる。北畠を名乗る血筋は絶えるのである。
 そこで「青森 北畠」でググると浪岡氏がヒットする。
中世の津軽で大勢力を誇った「浪岡北畠氏」の謎【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】
https://serai.jp/tour/37771

浪岡城跡に行ってきたぞ〜北畠顕家の末裔が治めた北の御所
https://takatokihojo.hatenablog.com/entry/2017/07/06/091849

 結局北畠八穂(本名は美穂)の先祖がどうつながっているのかは突き止められなかった。

 ふと思い出したのは丸山学『先祖を千年、遡る (幻冬舎新書) 』だ。丸山先生の調査術であればたぶん分かるだろう。

西教寺と日吉大社へ〜大津・坂本、明智氏ゆかりの地を訪ねて2019年11月12日

 当会の秋の研修会として開催。大型バス1台を仕立てて豊橋、豊川から約40名が来られた。名古屋の私は刈谷ハイウェイオアシスで拾ってもらった。
 伊勢湾岸道から新名神を経由、大津で高速を出る。国道を走ってまずは西教寺へ行く。大型バスが狭い路地に入り込んでUターンするのに難儀したが見事なハンドル裁きで切り抜けた。西教寺のPへ入るのが大変なのだ。
 境内の紅葉はまだ色づいておらず3分くらいか。小春日に助けられて傾斜のある石段を登ると本堂の立つ西教寺に着く。裏手にまわり料金300円は幹事さんがまとめて支払う。住職さんからの案内で本堂に入らせてもらう。話によると天台真盛宗の総本山という。ウィキペディアの解説をいくら読んでも理解しがたい上にまた新たな宗派ときては混乱する。
 今日の目的の明智光秀は一族の墓として葬られている。明智の墓はあちこちにあるがここのは由緒ある墓だとか。菩提寺ともいう。
 ウィキペディアには「信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。また、境内には光秀の供養塔や光秀一族の墓が立っている。」と縁が深いことを思わせる。
 またバスで日吉大社に移動。すぐ近くにある。これもウィキペディアによると「文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見だが、これは、日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである[2]。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉大社は、崇神天皇7年に日枝山の山頂から現在の地に移されたという[2]。」
 ずいぶん古い歴史を持って居る。ウィキペディアに「元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降、天正14年(1586年)から慶長2年(1597年)にかけて再建されたものである。[4]信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は、当社の復興に尽力した[2]。これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であったことから、当社を特別な神社と考えたためである。」とあって、やっと秀吉との縁が結びつく。しかし光秀に絡む史跡はないので坂本の地にあるという縁だけで取り上げられるのだろう。
 ちなみに明智光秀の居城だった坂本城は城址のみで明智光秀像が立っているだけらしい。
 というわけで今日は観光気分で早足で名刹を回りました。西教寺で2句、日吉大社で2句即吟で投句してきました。
 投句作品は未発表作品なので書けないが、神の留守、小春日和、照り紅葉、冬紅葉、冬柿、実なんてん、冬日和、湯葉などの季語が浮かんだ。
 白洲正子の『近江山河抄』の”日枝の山道”を改めて読む。

白洲正子『近江山河抄』を読む2019年11月11日

 明日は歴研のバス旅の予定。日吉大社と西教寺である。はて、どこかにあったぞと書棚の本を取り出し、「日枝の山道」を読んだ。どちらも行ったことはないので予備知識を入れておこうと思う。日枝は”ひえだ”、ではなく”ひえ”と読ませる。『古事記』には日枝と書き、比枝、比叡と転じたと書く。
地形図を貼っておく。
<iframe frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" width="500" height="400" src="https://maps.gsi.go.jp/?hc=hifc#15/35.070627/135.858822/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0"></iframe>
 地形図を眺めると
 日枝の御神体山は八王子山381mである。この山は延暦寺境内へとつなぐ尾根の末端にあたる。そして真西には比叡山延暦寺の根本中堂がある。白洲さんの文には八王子山、牛尾山、小比叡(おびえ)というと紹介される。『古事記』にも登場する歴史の古い山なのである。
 そういえば、今年の夏珍しい仕事を手掛けた。名古屋近郊にある宗教法人様の規則変更であった。しかも天台宗なのでここが大本ではないか。書類には比叡山の事務局の印鑑も押印してあった。これは余談である。
 西教寺のことも少し書いてある。行ってみてまた読んでみる。

司馬遼太郎『北のまほろば―街道をゆく〈41〉』読了2019年06月22日

目次だけを見てもボリュームたっぷりだった。読みこなすのは大変なことだった。

古代の豊かさ
陸奥の名のさまざま
津軽衆と南部衆
津軽の作家たち
石坂の“洋サン”
弘前城
雪の本丸
半日高堂ノ話
人としての名山
満ちあふれる部屋
木造駅の怪奇
カルコの話
鰺ケ沢
十三湖
湖畔のしじみ汁
金木町見聞記
岩木山と富士山
翡翠の好み
劇的なコメ
田村麻呂の絵灯篭
二つの雪
山上の赤トンボ
志功華厳譜
棟方志功の「柵」
移ってきた会津藩
会津が来た話
祭りとえびすめ
鉄が錦になる話
恐山近辺
三人の殿輩
蟹田の蟹
義経渡海
龍飛岬
リンゴの涙
以上
・・・約400ページに圧縮され、非常に多彩なテーマを織り交ぜながら、青森県の歴史と文化を楽しませる。
 ことに興味深いのは愛知県豊橋市出身の菅江真澄の話が縦横に語られること。真澄の見聞が契機となって古代史に光が当たる。真澄の旅は物見遊山ではなく、国学で学んだこと、すなわち日本のことをもっと知りたい、日本人は何者だったのか、という学問的欲求だったと思われる。
 山のこともちょっぴりだが入っている。岩木山、八甲田山をベースにした文学の盛んなことも指摘。風土色の強い芸能も盛んである。
 青森県の歴史は津軽と南部の重層性が特殊である。津軽は南部から分かれた。津軽為信の野心が南部からの独立させた。弘前城の規模は徳川家康の許容範囲を超えたものらしい。それは関ケ原の戦いに際しての津軽為信の政治性の巧みを描く。
 その上に近代以降の会津藩の多層性もある。青森県の歴史と文化は一筋縄では解読できない複雑さがある。
 個人的な興味は三重県の北畠家が青森へ移ったことで、児童文学者・北畠八穂が生まれ、近代文学に華を添えた。
 この紀行自体は太宰治の『津軽』を下敷きにしている。太宰の視点で津軽の理解に努めた風だ。
 リンゴの涙の章の最後に小学生の詩を引いた。「リンゴの涙」と「でかせぎ」。「津軽や南部の言葉を聞いていると、そのまま詩だと思うことがある。」と。「この小さな津軽詩人の詩を借りて「北のまほろば」を終える。」と締めくくった。
 演歌歌手・吉幾三の「津軽平野」は1984年のリリース。歌詞にでかせぎ、岩木山が出てくる。美空ひばりの「津軽のふるさと」「りんご追分」など数々の名曲にはりんご、岩木山が出てくる。
 青森県自体が詩の国なのである。

 初出誌は1994年5月22日~1995年2月24日号の週刊朝日に連載された。

 この中の「湖畔のシジミ汁」には名古屋市の出身で、城郭考古学を専門とする奈良大学教授の千田 嘉博氏の学説も引用されている。名古屋城の解体、木造化で揺れている昨今、千田氏の言動に注目が集まる。上物の更新だけに傾倒した行政の前のめりの姿勢を批判し、石垣の保全に目を向けさせる。

鈴鹿・霊仙山を歩く2019年04月07日

 朝6時30分に出発。名二環から一宮ICを経て関ケ原ICで出る。R21をのんびり走る。今日は久々の鈴鹿の霊仙山である。醒ヶ井で左折。
 計画では阿弥陀山経由で周回の予定でしたが谷山谷が工事中で入れず、榑ヶ畑から汗拭峠経由で往復するだけになりました。落合コースもダメらしいので、このコースに集中したせいで、Pが満杯でした。ずっと下に戻って止めました。
 8:25出発、廃村跡の榑ヶ畑を経て杉林を登りきると汗拭峠で一休み。雑木林の急な尾根道をあえぐと傾斜が緩くなって歩きやすくなる。米原市展望台でまた一休み。周囲にはカレンフェルトが群がる。近くからキツツキのドラミングが聞こえてくる。小鳥の鳴き声も盛んである。
 腰を上げていっそう急な山道をジグザグに登り高度を稼ぐ。お猿岩に着くとスキー場のような緩斜面が広がっている。ここから立木はなくなり、今は雪が解けたばかりで地面も枯草色に染まる。そしてカルスト地形独特のカレンフェルトの白っぽい石が無数に広がる。雪解けの後の泥んこの途を避けて、草地をたんたんと歩いていくとお虎池に着いた。美しい水を湛えている。鳥居が立ち信仰の対象になっている。
 いったん下って経塚山へと登り返す。泥でぬかるんだやや急な道を登る。頂上の北面には残雪が結構ありました。経塚山からまたいったん下って登り返す。雪が結構残るが雪の上を歩くまでもない。
 11:00登頂。2等三角点が新しく埋め替えられた。約2時間半かかった。伊吹山が霞んで見える。琵琶湖も霞の彼方にある。遠望はなし。
 昼前でおにぎりを食うほど空腹ではない。アンパン1個で済ます。多数のしかし1人か2人パーティーが登ってきて休んでいる。中には焼き肉をする人、ラーメンを作る人、トーストをする人らがいて早めの昼食を楽しんでいた。風は微風程度だがじっとしていると寒い感じがする。
 11:17下山開始、経塚山と山頂の鞍部の谷沿いの踏み跡をたどるとお虎ヶ池の手前の登山道に合流できた。帰りがけに福寿草などの山野草を探したが無かった。またお猿岩ではカラスの群れが騒がしいので見に行くと雌の鹿が死んでいた。
 下山時でも雑木林では小鳥が大変にぎわっていた。きつつきのドラミングも盛んでした。美しい鳥が枝から枝へと導くように先を飛んで行く。夢のような光景である。少し膝に痛みがあるのでそろそろと下った。
 林道最奥の車はほとんど無くなったので下山したのだろう。Pへは13:20着。
 山上では昼食をしてないので、最奥の料理屋でニジマス料理を食してみた。4000円以上の結構なお値段である。2700円のリーズナブルな定食を頼んだ。刺身、フライ、甘露煮、お汁、付け出し、塩焼きと一応は揃っている。川魚料理好きには満足のいく水準である。

 醒ヶ井に出ると、加茂神社に寄った。ヤマトタケルの像が立っている。

「居醒の清水(醒井宿)概要: 居醒の清水は案内板によると「景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて居醒の清水旅する人々を困らせておりました。そこで天皇は、日本武尊にこの大蛇を退治するよう命ぜられました。※尊は剣を抜いて、大蛇を切り伏せ多くの人々の心配をのぞかれましたが、この時大蛇の猛毒が尊を苦しめました。やっとのことで醒井の地にたどり着かれ体や足をこの清水で冷やされますと、不思議にも高熱の苦しみもとれ、体の調子もさわやかになられました。それでこの水を名づけて「居醒の清水」と呼ぶようになりました。」とあります。」※剣はミヤズヒメのもとに置いてきたので素手で戦います。

 ここは昔中山道の宿だった。狭いがよく整備された街道が続いているので車で走ると元の交差点に戻った。道沿いの小川の水がきれいで、ハリヨが生息している。

 この後で、ヤマトタケルは伊勢に向かう。四日市辺りで、痛みがひどくなり、「ヤマトタケルが東征の帰途、伊吹山の神との戦いで病に倒れ、弱った体で大和帰還を目指して剣を杖代わりにしてこの急坂を登り、
『吾足如三重勾而甚疲』 (わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)
-- 私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れた --『古事記』と言ったとされる。これが「杖衝坂」と「三重」の名前の由来といわれる。
 そして、鈴鹿市または亀山市で、有名な和歌を詠んで亡くなる。

 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭しうるわし