北畠家の系図2019年11月18日

北畠具行の墓所
 今年は北畠家の人物に巡り合うこと3人も居た。もちろん歴史上の話である。北畠家の家系図はこうなっている。

北畠氏学講座
http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake.html

北畠氏大詳細系図
 http://kitabatake.world.coocan.jp/kitabatake17.html

 3月 「田丸城跡は1336年(延元元年)北畠親房・顕信父子が南朝義軍の拠点として砦を築いた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%B8%E5%9F%8E

http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/03/28/9052863


 5月 北畠八穂の先祖は三重県の北畠親房の長男の顕家が東北(陸奥国)へ下向した、とあるように南朝方の公卿(くぎょう)で今風に言えば高級官僚であった。青森の北畠家はその血筋の流れを汲む浪岡氏の末裔
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%85%AB%E7%A9%82

http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/05/11/9071166

 10月 北畠親房「一命を以って先皇に報い奉る」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/10/01/9160106

 11月 辞世の和歌「消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%85%B7%E8%A1%8C

http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/12/05/9172795

 とまあ、偶然にも3人の北畠家の人物に遭遇した。
 そこで北畠家の系図でググると、きっちり調査された系図がヒットした。これによると北畠雅家を筆頭に、その子が北畠師親、その長男が北畠師重と続き、北畠親房になる。なので親房は雅家のひ孫になる。一方で北畠具行は北畠雅家の子の師親の弟の師行の子になる。
 祖父の弟は大叔父と呼ぶ。大叔父の子は父母より年上なら従伯父(じゅうはくふ、いとこおじ)で「自分の父または母の従兄(いとこ)」になる。年下なら従叔父(じゅうしゅくふ)で、「自分の父または母の従弟(いとこ)」という意味。
参考サイト
親戚・親族の呼び名早見表
https://www.e-keizu.com/info/family.html
「祖父の兄弟」って何て呼ぶの?家系図で解説!
https://famico.jp/article-zokugara-836/
「従伯父」とはどんな意味?家系図で解説!
https://famico.jp/article-jyuhakufu/

 すると、親房から見て、北畠具行は祖父の弟(4親等)の子。なので大叔父の子すなわち、従叔父(じゅうしゅくふ)です。ここまで離れると傍系親族になる。遠い昔の話である。
 一方で、北畠八穂は青森の産。山の作家・深田久弥の先妻だった。青森県近代文学館が発行した「北畠八穂特別展」のパンフには、祖父の三代前は新潟に住んでいた。父慎一郎は弘前裁判所に勤務、後に青森営林署に勤務。その後材木店を開業。
 例の系図では親房の子顕家の子(親房の孫)に浪岡姓を名乗る血筋が現れて続く。その顕家のひ孫にも浪岡姓が現れる。北畠を名乗る血筋は絶えるのである。
 そこで「青森 北畠」でググると浪岡氏がヒットする。
中世の津軽で大勢力を誇った「浪岡北畠氏」の謎【謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編】
https://serai.jp/tour/37771

浪岡城跡に行ってきたぞ〜北畠顕家の末裔が治めた北の御所
https://takatokihojo.hatenablog.com/entry/2017/07/06/091849

 結局北畠八穂(本名は美穂)の先祖がどうつながっているのかは突き止められなかった。

 ふと思い出したのは丸山学『先祖を千年、遡る (幻冬舎新書) 』だ。丸山先生の調査術であればたぶん分かるだろう。

西教寺と日吉大社へ〜大津・坂本、明智氏ゆかりの地を訪ねて2019年11月12日

 当会の秋の研修会として開催。大型バス1台を仕立てて豊橋、豊川から約40名が来られた。名古屋の私は刈谷ハイウェイオアシスで拾ってもらった。
 伊勢湾岸道から新名神を経由、大津で高速を出る。国道を走ってまずは西教寺へ行く。大型バスが狭い路地に入り込んでUターンするのに難儀したが見事なハンドル裁きで切り抜けた。西教寺のPへ入るのが大変なのだ。
 境内の紅葉はまだ色づいておらず3分くらいか。小春日に助けられて傾斜のある石段を登ると本堂の立つ西教寺に着く。裏手にまわり料金300円は幹事さんがまとめて支払う。住職さんからの案内で本堂に入らせてもらう。話によると天台真盛宗の総本山という。ウィキペディアの解説をいくら読んでも理解しがたい上にまた新たな宗派ときては混乱する。
 今日の目的の明智光秀は一族の墓として葬られている。明智の墓はあちこちにあるがここのは由緒ある墓だとか。菩提寺ともいう。
 ウィキペディアには「信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。また、境内には光秀の供養塔や光秀一族の墓が立っている。」と縁が深いことを思わせる。
 またバスで日吉大社に移動。すぐ近くにある。これもウィキペディアによると「文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見だが、これは、日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである[2]。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉大社は、崇神天皇7年に日枝山の山頂から現在の地に移されたという[2]。」
 ずいぶん古い歴史を持って居る。ウィキペディアに「元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降、天正14年(1586年)から慶長2年(1597年)にかけて再建されたものである。[4]信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は、当社の復興に尽力した[2]。これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であったことから、当社を特別な神社と考えたためである。」とあって、やっと秀吉との縁が結びつく。しかし光秀に絡む史跡はないので坂本の地にあるという縁だけで取り上げられるのだろう。
 ちなみに明智光秀の居城だった坂本城は城址のみで明智光秀像が立っているだけらしい。
 というわけで今日は観光気分で早足で名刹を回りました。西教寺で2句、日吉大社で2句即吟で投句してきました。
 投句作品は未発表作品なので書けないが、神の留守、小春日和、照り紅葉、冬紅葉、冬柿、実なんてん、冬日和、湯葉などの季語が浮かんだ。
 白洲正子の『近江山河抄』の”日枝の山道”を改めて読む。

白洲正子『近江山河抄』を読む2019年11月11日

 明日は歴研のバス旅の予定。日吉大社と西教寺である。はて、どこかにあったぞと書棚の本を取り出し、「日枝の山道」を読んだ。どちらも行ったことはないので予備知識を入れておこうと思う。日枝は”ひえだ”、ではなく”ひえ”と読ませる。『古事記』には日枝と書き、比枝、比叡と転じたと書く。
地形図を貼っておく。
<iframe frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" width="500" height="400" src="https://maps.gsi.go.jp/?hc=hifc#15/35.070627/135.858822/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0"></iframe>
 地形図を眺めると
 日枝の御神体山は八王子山381mである。この山は延暦寺境内へとつなぐ尾根の末端にあたる。そして真西には比叡山延暦寺の根本中堂がある。白洲さんの文には八王子山、牛尾山、小比叡(おびえ)というと紹介される。『古事記』にも登場する歴史の古い山なのである。
 そういえば、今年の夏珍しい仕事を手掛けた。名古屋近郊にある宗教法人様の規則変更であった。しかも天台宗なのでここが大本ではないか。書類には比叡山の事務局の印鑑も押印してあった。これは余談である。
 西教寺のことも少し書いてある。行ってみてまた読んでみる。

司馬遼太郎『北のまほろば―街道をゆく〈41〉』読了2019年06月22日

目次だけを見てもボリュームたっぷりだった。読みこなすのは大変なことだった。

古代の豊かさ
陸奥の名のさまざま
津軽衆と南部衆
津軽の作家たち
石坂の“洋サン”
弘前城
雪の本丸
半日高堂ノ話
人としての名山
満ちあふれる部屋
木造駅の怪奇
カルコの話
鰺ケ沢
十三湖
湖畔のしじみ汁
金木町見聞記
岩木山と富士山
翡翠の好み
劇的なコメ
田村麻呂の絵灯篭
二つの雪
山上の赤トンボ
志功華厳譜
棟方志功の「柵」
移ってきた会津藩
会津が来た話
祭りとえびすめ
鉄が錦になる話
恐山近辺
三人の殿輩
蟹田の蟹
義経渡海
龍飛岬
リンゴの涙
以上
・・・約400ページに圧縮され、非常に多彩なテーマを織り交ぜながら、青森県の歴史と文化を楽しませる。
 ことに興味深いのは愛知県豊橋市出身の菅江真澄の話が縦横に語られること。真澄の見聞が契機となって古代史に光が当たる。真澄の旅は物見遊山ではなく、国学で学んだこと、すなわち日本のことをもっと知りたい、日本人は何者だったのか、という学問的欲求だったと思われる。
 山のこともちょっぴりだが入っている。岩木山、八甲田山をベースにした文学の盛んなことも指摘。風土色の強い芸能も盛んである。
 青森県の歴史は津軽と南部の重層性が特殊である。津軽は南部から分かれた。津軽為信の野心が南部からの独立させた。弘前城の規模は徳川家康の許容範囲を超えたものらしい。それは関ケ原の戦いに際しての津軽為信の政治性の巧みを描く。
 その上に近代以降の会津藩の多層性もある。青森県の歴史と文化は一筋縄では解読できない複雑さがある。
 個人的な興味は三重県の北畠家が青森へ移ったことで、児童文学者・北畠八穂が生まれ、近代文学に華を添えた。
 この紀行自体は太宰治の『津軽』を下敷きにしている。太宰の視点で津軽の理解に努めた風だ。
 リンゴの涙の章の最後に小学生の詩を引いた。「リンゴの涙」と「でかせぎ」。「津軽や南部の言葉を聞いていると、そのまま詩だと思うことがある。」と。「この小さな津軽詩人の詩を借りて「北のまほろば」を終える。」と締めくくった。
 演歌歌手・吉幾三の「津軽平野」は1984年のリリース。歌詞にでかせぎ、岩木山が出てくる。美空ひばりの「津軽のふるさと」「りんご追分」など数々の名曲にはりんご、岩木山が出てくる。
 青森県自体が詩の国なのである。

 初出誌は1994年5月22日~1995年2月24日号の週刊朝日に連載された。

 この中の「湖畔のシジミ汁」には名古屋市の出身で、城郭考古学を専門とする奈良大学教授の千田 嘉博氏の学説も引用されている。名古屋城の解体、木造化で揺れている昨今、千田氏の言動に注目が集まる。上物の更新だけに傾倒した行政の前のめりの姿勢を批判し、石垣の保全に目を向けさせる。

鈴鹿・霊仙山を歩く2019年04月07日

 朝6時30分に出発。名二環から一宮ICを経て関ケ原ICで出る。R21をのんびり走る。今日は久々の鈴鹿の霊仙山である。醒ヶ井で左折。
 計画では阿弥陀山経由で周回の予定でしたが谷山谷が工事中で入れず、榑ヶ畑から汗拭峠経由で往復するだけになりました。落合コースもダメらしいので、このコースに集中したせいで、Pが満杯でした。ずっと下に戻って止めました。
 8:25出発、廃村跡の榑ヶ畑を経て杉林を登りきると汗拭峠で一休み。雑木林の急な尾根道をあえぐと傾斜が緩くなって歩きやすくなる。米原市展望台でまた一休み。周囲にはカレンフェルトが群がる。近くからキツツキのドラミングが聞こえてくる。小鳥の鳴き声も盛んである。
 腰を上げていっそう急な山道をジグザグに登り高度を稼ぐ。お猿岩に着くとスキー場のような緩斜面が広がっている。ここから立木はなくなり、今は雪が解けたばかりで地面も枯草色に染まる。そしてカルスト地形独特のカレンフェルトの白っぽい石が無数に広がる。雪解けの後の泥んこの途を避けて、草地をたんたんと歩いていくとお虎池に着いた。美しい水を湛えている。鳥居が立ち信仰の対象になっている。
 いったん下って経塚山へと登り返す。泥でぬかるんだやや急な道を登る。頂上の北面には残雪が結構ありました。経塚山からまたいったん下って登り返す。雪が結構残るが雪の上を歩くまでもない。
 11:00登頂。2等三角点が新しく埋め替えられた。約2時間半かかった。伊吹山が霞んで見える。琵琶湖も霞の彼方にある。遠望はなし。
 昼前でおにぎりを食うほど空腹ではない。アンパン1個で済ます。多数のしかし1人か2人パーティーが登ってきて休んでいる。中には焼き肉をする人、ラーメンを作る人、トーストをする人らがいて早めの昼食を楽しんでいた。風は微風程度だがじっとしていると寒い感じがする。
 11:17下山開始、経塚山と山頂の鞍部の谷沿いの踏み跡をたどるとお虎ヶ池の手前の登山道に合流できた。帰りがけに福寿草などの山野草を探したが無かった。またお猿岩ではカラスの群れが騒がしいので見に行くと雌の鹿が死んでいた。
 下山時でも雑木林では小鳥が大変にぎわっていた。きつつきのドラミングも盛んでした。美しい鳥が枝から枝へと導くように先を飛んで行く。夢のような光景である。少し膝に痛みがあるのでそろそろと下った。
 林道最奥の車はほとんど無くなったので下山したのだろう。Pへは13:20着。
 山上では昼食をしてないので、最奥の料理屋でニジマス料理を食してみた。4000円以上の結構なお値段である。2700円のリーズナブルな定食を頼んだ。刺身、フライ、甘露煮、お汁、付け出し、塩焼きと一応は揃っている。川魚料理好きには満足のいく水準である。

 醒ヶ井に出ると、加茂神社に寄った。ヤマトタケルの像が立っている。

「居醒の清水(醒井宿)概要: 居醒の清水は案内板によると「景行天皇の時代に、伊吹山に大蛇が住みついて居醒の清水旅する人々を困らせておりました。そこで天皇は、日本武尊にこの大蛇を退治するよう命ぜられました。※尊は剣を抜いて、大蛇を切り伏せ多くの人々の心配をのぞかれましたが、この時大蛇の猛毒が尊を苦しめました。やっとのことで醒井の地にたどり着かれ体や足をこの清水で冷やされますと、不思議にも高熱の苦しみもとれ、体の調子もさわやかになられました。それでこの水を名づけて「居醒の清水」と呼ぶようになりました。」とあります。」※剣はミヤズヒメのもとに置いてきたので素手で戦います。

 ここは昔中山道の宿だった。狭いがよく整備された街道が続いているので車で走ると元の交差点に戻った。道沿いの小川の水がきれいで、ハリヨが生息している。

 この後で、ヤマトタケルは伊勢に向かう。四日市辺りで、痛みがひどくなり、「ヤマトタケルが東征の帰途、伊吹山の神との戦いで病に倒れ、弱った体で大和帰還を目指して剣を杖代わりにしてこの急坂を登り、
『吾足如三重勾而甚疲』 (わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)
-- 私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れた --『古事記』と言ったとされる。これが「杖衝坂」と「三重」の名前の由来といわれる。
 そして、鈴鹿市または亀山市で、有名な和歌を詠んで亡くなる。

 倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭しうるわし

「三内丸山遺跡センター」が6日オープン2019年04月05日

ソース:http://www.mutusinpou.co.jp/news/2019/04/54995.html

 青森市の国特別史跡・三内丸山遺跡と隣接する縄文時遊館が6日、教育機関「三内丸山遺跡センター」としてオープンする。これに先立って4日、記念式典と関係者向けの内覧会が開かれ、三村申吾知事は「縄文ここにありということを世界に発信できる拠点が完成した。縄文の持つ深み、広さ、素晴らしい価値観を感じてもらいたい」と語り、今後の活用に期待を寄せた。
 同遺跡と縄文時遊館は同遺跡を含む「北海道・北東北の縄文遺跡群」の世界遺産登録を見据え遺跡の積極的な保存活用の取り組みを進めるために教育機関とすることとし、観覧料を徴収する。
 オープンを記念し、6日には記念講演会を開催するほか、企画展示室では6日から6月9日までオープン記念特別展「縄文の色―縄文人が見せられた魔法の石・黒曜石―」を開催。縄文時代の交易品の代表とされる黒曜石などの出土品約110点を展示し、魅力を知ってもらう狙いだ。

ソース:青森 NEWS WEB
三内丸山遺跡 展示施設を整備
https://www3.nhk.or.jp/lnews/aomori/20190404/6080004350.html

 青森市の三内丸山遺跡で、6日新たな展示施設が整備されてリニューアルオープンするのを前に、4日、記念の式典が開かれました。

 三内丸山遺跡は、国の重要文化財に指定されている貴重な土器や石器を展示する施設を整備し、この春「三内丸山遺跡センター」として新たにスタートします。
 4日は、青森県の三村知事や県教育委員会の関係者などおよそ40人が出席して記念の式典が開かれ、地元の小中学生と一緒にテープカットを行い6日のオープンを一足早く祝いました。
 このあと、出席者は黒曜石をテーマにした特別展を見学し、北海道の遺跡で出土した黒曜石の矢じりなどを眺めて縄文人の暮らしぶりに思いをはせていました。
 三内丸山遺跡は、これまで入場が無料でしたが、施設の維持管理や遺跡の保存費用を工面するため今月から有料となります。
三内丸山遺跡センターの佐藤英紀所長は「有料化したから入館者が減ったと言われないよう、魅力ある施設づくりやサービスの向上に努めていきたい」と話していました。

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・・・・縄文文化がブームになる。
 愛知県清須市の朝日遺跡も来年は公園化されて再オープンする。こちらは弥生遺跡だが。設楽町のダム工事現場の流域でも縄文遺跡が発掘された。新設楽発見伝を見学に行ったばかりだった。現在は弥冨市の愛知県埋蔵文化財調査センターでイベント開催中である。

 皇紀2679年とも2800年ともいわれるが、朝日遺跡は2400年前なのですっぽりかぶることになる。この時代に日本人が生まれ、日本語が考案されて、日本という国家が誕生した。
 しかし、弥生人が縄文人を征服したということではない。縄文人が弥生人の先進的な知識や技術を受け入れながら、弥生人が同化していったのだろうと考えられている。
 愛知県から北の木曽山脈、飛騨山脈を境に、東日本は縄文文化が色濃く残った。西日本は谷、東日本は沢にほぼ分かれる。言葉も縄文語が基礎になっているとみられる。

 さて青森県の三内丸山遺跡が世界に知られることになった。令和元年にふさわしい。
 東日本は詩歌が発達している。日本語の書き言葉が考案されるまでは人々は歌謡といって同じことばを繰り返して、リフレインで記憶に努めた。口承文芸である。それはアイヌ文学の骨格でもある。
 梅原猛は東北に詩人が多いことを挙げた。石川啄木、宮沢賢治、太宰治、奥の細道、遠野物語の舞台にもなった。奥の細道は俳句文学の古典になった。遠野物語は詩人だった柳田国男が文語体で書いたから名もなき山人の叙事詩に思う。東北には縄文文学の基層がある。
 演歌でも東北、北海道はヒット曲が多い。演歌歌手は全国規模で広がりがあるが、歌詞は東北から北が好まれている。東北の民謡は本場でありあまたある。民謡もまたリフレインの縄文文化が基盤であろう。
 例えば、「津軽海峡冬景色」の作詞家の阿久悠は兵庫県淡路島出身だし、歌手の石川さゆりは熊本県であるから西日本の文化なのになぜか東北の人かと思ってしまう。縄文人は日本列島全域に亘って広く分布していただろう。弥生人の渡来で西日本が変質したのだ。
 弥生文化の影響の少なかった東北はその分縄文文化が残ったのだろう。三内丸山遺跡はその証拠である。
 江戸時代末期、豊橋市出身の菅江真澄が28歳で故郷を後にして東北の旅に出たのは、縄文文化の調査だったのではないか。物見遊山ではなく、学問的な好奇心だったといわれる。秋田市に住まい、青森、岩手に旅している。故郷に還らず、角館に没した。

日本はどのように生まれたか(岡田英弘メモ)2019年04月04日



 日本では『万葉集』が編纂される八世紀より前から、舎人の柿本人麻呂のような天武天皇に仕えた歌人たちが出てきて、彼らのような漢字を使いこなせる人たちが、漢字を使って倭人の言葉を書き表わす工夫をする。
 漢文で書いたものを、土着の倭人の言葉に置き換える方法で、新たに「日本語」の開発を始めた。一連の日本文化、日本のアイデンティティを作り上げる作業は、日本の建国と同時に始まった。万葉歌人の中には、山上憶良のように明らかな華人もおり、日本建国初期のアイデンティティづくりに貢献する。倭王家を取り巻く華人の存在は、予想以上に大きかった。
 「日本人」とは何か。それは倭人、新羅人、百済人、高句麗人、仁那人、漢人など、日本列島に雑居していた諸種族の総称で、それを全部カバーする新しいアイデンティティとして「日本」という概念が生み出された。「日本」という国号は「倭」という古いアイデンティティを超越した、他種族統合の象徴だったのである。

元号とは何か(岡田英弘著作集・Ⅲ日本とは何か)2019年04月04日

 P386~P387の「日本とは何か」から

・元号は言うまでもなくシナ起源のものである。

・元号とは本来、シナの皇帝が宇宙の支配者であるとともに、時間の支配者でもあることを宣言するものであった。

・それに対してシナ以外の国が元号を持つのは、シナ皇帝の権威を否定し、シナと対等の国家であることを主張する意味があった。

・元号とはシナ以外の国では、反シナ、自主独立の象徴なのである。

以上

 いやあ、誠に明解です。

初春の令月(れいげつ)にして 気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ 梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き 蘭は珮後(はいご)の香を薫(かお)らす2019年04月01日

 5月1日からの新しい元号が発表された。出典は万葉集の梅の花の和歌に由来する「令和」になった。”りょうわ”かと思いきや”れいわ”と読む。

弥生人渡来説の嘘! 〜なぜ弥生時代に生活が質素になったのか〜【CGS 日本の歴史 1-10】2019年03月26日

  朝日遺跡を見てきたばかりなので分かりやすい動画です。以下のコメントを読んでも定説はない。歴史は断続せず、連続的だった。共生ではなく、すみわけていた。特に愛知県は弥生と縄文の住み分けがあっただろう。
 濃尾平野はヤマト政権の東の果てで東征の拠点になった。

ソース:https://www.youtube.com/watch?v=QwgK9s42Oxk

 第1章最後の回は、前回の「稲作が縄文時代から始まった」という事に続き、弥生人は渡来人という定説のウソを暴きます。
 よく言われるのが横長の顔の骨格が縄文人、縦長・平たいのが弥生人、のように骨格に差があるとされてきましたが、実は骨格の差はなかった様です。そしてそこには「捏造の歴史」がありました。
 いわゆる自虐的な歴史観はこの時代からもう存在していたのでしょうか。
以上

 気になるコメントから

①NHKスペシャルでの「ジャパンデビュー」を企画したディレキターは韓国人。彼は、「朝鮮半島人が兄で日本人は弟」という狂信的な小中華思想の持主だった。これは単に、彼特有のものではなく、韓国の指導階級(政界に多い元李氏朝鮮の両班階級)に共通するもので、それはさ更に上級の支配層のによる計画的な国家的戦略の一環によるものだと、思う。つまり「朝鮮が兄で日本は弟なのだから、日本は永遠に韓国に対して朝貢外交(経済援助・協力)するのが当然。(日本は韓国にとってATM存在だ。借金は踏み倒せ。)」という国家的戦略の一つだと思える。

②そもそも縄文時代、弥生時代とかいう時代区分がおかしいのではないか。

・・・お説の通りです。弥生時代はつまるところ神話時代に重なる。皇紀2800年ですから。大川周明は『二千六百年史』の中で、神話時代を日本人がどこから来たかを忘れてしまったからと記述する。天孫降臨とはまさに弥生人の渡来を示唆する。弥生人は縄文人の文化に飲み込まれたのではないか。但し、社会の支配構造は上書きされた。唐から逃避してきたのが弥生人であり、唐の属国からの自立が大化の改新だったのです。
 縄文語(日本語)の書き言葉を模索してやっとできたのが『古事記』で、唐の人に分かりやすい漢語で書いたのが『日本書紀』。
 戦後にGHQの影響下、大量のアメリカ文化がなだれ込んだが、定着したものは少ない。アメリカ文化は日本文化の基幹システムの上で動くアプリに過ぎない。GHQが作った憲法ですらいまだに擦り合わせがうまくいかないのは当然。

7 か月前
実際は弥生時代なんてなく縄文が長かったのが定説になりつつありま③す。定説にしないといけないですね。

4 か月前
④勉強するには、一応区分けしないと覚えづらいでしょうがね。この動画は、弥生人という人種がいたわけではないという話です。


⑤水田の遺跡が見つかって、地層から年代が縄文時代までさかのぼったのは何十年か前だったような。
大陸から渡来人がきて稲作を始めたわけじゃないのは確かなこと。

⑥弥生人と縄文人は頭蓋骨の形が違うというのは嘘です。というのは頷けます。
縄文人が沢山住んでいるところへ少数の大陸の難民が来て混血したとしても縄文人のすべての頭蓋骨が変わるような激変は起こりようがないと思います。
最近のことを考えてみると判りますが大東亜戦争の敗戦で白人がたくさん来た結果、少数の混血の人は生まれましたが日本人のすべてが混血になり頭蓋骨の形が変わるようなことは起きませんでした。
又、もう一つ別の場合の考えですが大陸の渡来難民が縄文人を全滅させて渡来難民(弥生人?)だけが残ったというようなことは起こらなかったのではないかと思います。
ですから弥生人と縄文人は頭蓋骨の形が違うというのは嘘です。というのは頷けます。
私は現在の日本人のルーツは基本的には縄文人ではないかと思います。

⑦大陸の動乱で平和な縄文日本に武装難民がやってきた。ー北米にイギリス人が来てインディアンが虐殺されたようなこと。ー「渡来人=優れた文化を持ち込んだ先進的人々」という刷り込みですね。

・・・お説の通りだと思います。

⑧考古学は遺物実証主義だから、それができない。
まず、遺物から考えるのが考古学だからないと、できないんですよ。

⑩Kenneth McHale 古代に於いては、帰化人と渡来人は厳然と区別されていました。
帰化人とは、朝鮮半島に住んでいた倭人(縄文期に入植し、百済、任那、新羅‣・等の国を作りました)です。前記諸国は、倭国に朝貢もしていました。
この時に倭国の籍を得たのが帰化人です。朝鮮半島が、朝鮮人に奪われた時、沢山倭国に亡命してきています。
渡来人とは、外国人です。当時のシナ人や朝鮮族です。文化も歴史も違います。
尚、現代に通俗的に言われている在日は韓国籍の韓国人です。

3 年前
⑪+Kenneth McHale 上田正昭氏は2016年春に亡くなりました。そうであっても、「河内王朝」を提唱した人です。仁徳天皇陵を中心に奈良盆地でなく生駒山地を下った現東大阪市に巨大古墳が分布しているためです。
じっさいには大和盆地以外に皇城を置いた形跡はありません。上田の主張の根幹は、古代、朝鮮人が日本文化に大きな影響を与えたという点です。
 これは誤りです。朝鮮半島には、いっさい縄文弥生土器は出ません。銅鐸もなく、銅鏡は数面、百済王墓から出土しただけです。そもそも朝鮮半島に銅山は存在しません。
 上田正昭こそ戦争直後、マルクス主義史観のもと、大陸優位説を唱え、渡来人用語を始めた張本人です。さらに仁徳天皇陵と呼ぶのを止め、「大仙陵」と呼ぼうと言い出しました。仁徳天皇陵と呼ぶことは室町時代には始まっています。
 マルクス主義・京大以外、取柄のない人の言説に無条件で従うのは誤りです。

・・・お説の通りです。国立大学の教授の説=権威は困ったものです。

⑫日本人のルーツをどうしても濊族朝鮮人にしたい勢力が、マスコミや大学に沢山工作員を贈っているということですね。。。

7 か月前
⑬日本が朝鮮半島を統治していたなんてありえないってことにしたいわけですw7世紀まで朝鮮は九州などと同様に倭国の一部でした。これを消したい勢力がいます。

⑭歴史は征服者の都合で幾らでも改竄が出来ると知るべきですよね。
三内丸山遺跡の出土が大きく縄文時代は豊かだと証明されましたからね。
今の日本の現状は考えれば分かりますよねww

⑮紀元前の段階で日本には製鉄技術があった。
4世紀高句麗にとって倭国は、新羅、百済など比較にならない程の脅威だった。

⑯弥生人、縄文人も人種じゃない

⑰弥生人のDNAが採取された事実は、ありません。
縄文人からは、偏りのあるミトコンドリアDNAではない”核DNA“”を抽出しています。
その結果、縄文人が独自のDNAを持つ人種として特定されたのが事実です。

⑱共同通信が海外で配信している記事には。江戸時代の人は縄文人より胴長短足だったと、国立科学博物館の海部陽介研究チームが11月13日に発表したと書いてあります。私は小名木さんの解説を信じていますが、まだまだ嘘、でたらめを言う権威者が多いのだなと、がっかりします。

⑲縄文人と弥生人は人種さえ違った説明は嘘なんですね。学者がめちゃくちゃなことを言っても、派閥で賛成者が多ければ言ったとおりになる典型的な話ですね。人種が入れ替わったとすれば争い事が多くあったはずですが、日本列島にそんな形跡はないなら少数の渡来人が移って来ただけで、和をもって混血になった。学者の行ってる人種の入れ替わりなんてあるはずがない。かってに学者が別の人種と言ってるだけ。でたらめな歴史を勝手に作る学者が多かった。今でもそうかもしれないね。ねつ造してデーダを作ったNHKもそのおせん棒を担いだ代表者だね。

⑳弥生時代に渡来人が稲作を日本人に伝授したなど真っ赤なウソだったんだな。伝授するどころか日本中を荒らしまわったっていうことだ。支那や朝鮮のやることは今も昔も同じだな。なお、弥生時代の捏造には日教組も関与してるでしょうな。

㉑稲作は縄文時代から行われてきた、という考え方がバカ過ぎて笑える。単に弥生時代の始まりが遡っただけの話であり、それは大陸から先進文化が伝わった西日本より緩やかに始まったと解釈すべき。

6 か月前
㉒そもそもそれまで弥生時代の定義とされていたことが縄文時代にすでに行われていたことが次々とわかっている
ゆえに弥生時代が遡るのではなく弥生時代そのものがなくなりそうといったほうが正しい

㉓縄文土器と弥生土器の背景思想は、まるで違います。
 縄文土器は呪術的思考の産物ですが、弥生土器は合理主義的産物です。また、技術的な連続性がありません。つまり、縄文土器が弥生土器へと進化した訳でも、退化した訳でもない事は技術的には明らかです(因みに筆者は作陶家で、古陶研究家です)。
 技術的には弥生土器はより優れているので、縄文土器にとって代わるのは必然の事なのです。弥生土器製作技術集団が、移入して来たと見るのが妥当なのです。水稲水田栽培、弥生式土器、銅器が弥生文明の三点セットでありますから、弥生文明は北方由来の文明でない事は明らかです。揚子江流域由来の文明であると、筆者は考えます。
 日本の古代は、文明のバロメーターである焼物を見れば明らかにできます。日本の古代は、焼物を指標にすると、縄文時代、弥生時代、須恵器時代に分類できます。(弥生土器と須恵器にも、直接の技術的連続性がありません。須恵器は半島由来で、北方系です。ここで言う須恵器時代は、いわゆる古墳時代で、炭化焼き締め陶器、鉄器、馬が新三点セット)
 現在の日本語が、母音を五つしか持たないのは、母体の言語がオーストロネシア語族である証であり、縄文人の言語だったのではないでしょうか。文法が朝鮮語とほぼ同じなのは、須恵器時代に半島の言語が一部で公用化されたが、文法は生き残ったが、音は母系には勝てず縄文化された物と考えます。日本は、縄文、弥生、須恵器、三文明の三階構造で成り立っており、日本人とは、多勢の縄文人と弥生系渡来人と、須恵器系渡来人の混血民族と考えます。