東山道を考える①2022年11月28日

 11/27の松沢山の下山後は気になっていた帚木館ビジターセンターを見学してきた。ここは園原と言い、東山道の拠点である。西から神坂峠を越えて信濃へ、と言うよりは東国への第一歩を踏み入れる土地である。
 ウィキペディアには「東山道は『日本書紀』の「東ノヤマノ道」あるいは『西宮紀』の「東ノ道」にあたると考えられている[2]。

 律令時代の東山道は、畿内から陸奥国へ至る東山道諸国の国府を結ぶ駅路で[3]、現在の東北地方へ至る政治・軍事面で重要な最短距離路だった[注釈 1][注釈 2]。」の記載がある。

 年代的には8世紀初め。

  又してもウィキペディアに「中央官制、税制と地方行政組織

 大宝律令の制定によって、律令制国家ができあがった。中央官制は、二官八省と弾正台と五衛府から構成されていた。地方の行政組織は、国・郡・里で統一された。里はのちに郷とされた。さらに道制として、畿内と東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道に区分され、その内部は66国と壱岐嶋・対馬嶋の2嶋が配分された(令制国一覧参照)。軍団は各国に配置され、国司の管轄下におかれた。また田と民は国家のものとされる公地公民制を取り入れ、戸籍により班田が支給された。税は、租庸調と雑役から構成されていた。

 742年(天平14年)大宰府を廃止。翌年、筑紫に鎮西府を置いたが、745年(天平17年)には太宰府が復された。

 東北地方では多賀城、出羽柵等が設置され、蝦夷征討と開発、入植が進められた(既述)。

  農地拡大政策と律令国家

 律令国家は、高度に体系化された官僚組織を維持するため、安定した税収を必要とした。」

 東国とは
「「日本」という国号が定められる前、「ヤマト」がそのまま国全体を指す言葉として使われていた当時――7世紀中葉以前の古代日本においては、現在の東北地方北部はまだその領域に入っておらず、東北地方南部から新潟県の中越・下越地方及び九州南部は未だ完全に掌握できていない辺境であり、ヤマトの支配領域は関東地方・北陸地方から九州北部までであった。つまり、「アヅマ」とは、「ヤマト」の東側――特にその中心であった奈良盆地周辺より東にある地域を漠然と指した言葉であったと考えられている(ただし、初めから「アヅマ」を東の意味で用いていたものなのか、それとも元々は別の語源に由来する「アヅマ」と呼ばれる地名もしくは地域が存在しておりそれがヤマトの東方にあったために、後から東もしくは東方全体を指す意味が付け加えられたものなのか、については明らかではない)。

「アヅマ」や「アヅマノクニ」という語は元から漠然としたもので、確かな定義をもって用いられてきたわけではないため、時代が進むにつれてそれらを指す地理的範囲について様々な考え方が生じたのである。」
「坂東と区別して東北地方は蝦夷(えみし)あるいは陸奥(みちのく)と呼ばれる」

http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/yamatotakeru.htm
ヤマトタケルの東征

 「ヤマトタケルの東征物語は大和朝廷の東国への勢力拡大を象徴する四世紀頃の、ある程度事実を反映した物語である。
 『古事記』が和銅五年(712年)、『日本書紀』が養老四年(720年)に編纂され、ヤマトタケル伝承はそれより四百年もさかのぼる遠い昔の話であり、それも大和の側の視点で書かれた物語でありそのまま史実とはみなせないが、当時の情勢を推測することができる。
 ヤマトタケルは第12代景行天皇の子供であり天皇の命により、南九州の熊曾建くまそたけるや出雲の出雲建いずもたけるを討つ西征をした後、東国の蝦夷えみし征服の東征を行った。
 なお、ヤマトタケルは古事記では倭建命であり、日本書紀では日本武尊である。」

・・・・ざっと読めば神坂峠は東国への入り口だったのだ。東国の人々は天皇の支配に抵抗しして従わない人々である。だから東征と言う言葉にもなる。
 東国とは天皇が支配する大和の国とは違う異国であった。当然租税も納めなかった。そこで多賀城を拠点にみちのく支配が強まってゆく。この中には北畠一族がいた。北畠親房は御醍醐天皇に仕えて『神皇正統記』を著した。つまり日本は天皇の国とした。
 北畠の末裔は今も青森県に生きている。浪岡姓を名乗ることもある。文化は辺境に残るのである。
 
 木曽山脈は西日本と東日本の分水界だった。同時に文化も違った。木曽山脈を境に西は沢と言い、東は谷と言う。西に沢があるのは東国の人が入った証である。黒部川は西国だが薬師沢がある。谷もあるので混じっている。
 東は縄文遺跡の歴史が長い。約15000年前という。西は清洲の弥生遺跡でも2400年前という。明らかに縄文人の方が長い。弥生人は日本列島の新参者であろう。
 但し、金属を製錬する技があり武器や農機具を生産できたから農業は発展したであろう。西から次々に弥生人が縄文人と同化してきて最後の壁が木曽山脈だった。
 諏訪、八ヶ岳山麓の縄文遺跡からは胞衣が大切に扱われた。胞衣は境界の印。恵那山は実は東日本はここからは東国という印で胞衣を埋設したのではないか。
 西の湯舟沢は伊勢神宮の遷宮の用材の産地だった。だから伊勢神宮側の神話だと思われた。実際、アマテラスの赤ちゃんを洗った血洗い池がある。血洗神社もある。湯船沢川もアマテラスの湯船の伝承がある。てっきり伊勢神宮側の話と思われた。

三角点「貝戸」に登る2022年08月06日

天白を8時に出発。名古屋は晴れていた。R153経由でやまのぶから左折し足助への県道に走る。足助から先は間欠ワイパーをONする小雨で不安定な天気でした。
 水別峠から見える稲武の盆地は雲海とまでは言えないが、ガスの中に埋もれていました。少雨なので喫茶店で時間をつぶすうちに晴れてきたので出発。最初は笹平への村道を走って矢竹を探ったが案内板などはない。民家に訪ねようも人が居る気配がない。黒田川まで戻った。
 4等三角点「東乳母ヶ入」547mの近くの床屋さんで目的地の真弓山のことを聞いた。この背後の一帯が真弓山だという。地形図には720mの独立標高点しかない。ここに城跡があるらしい。乳母ヶ入りは正寿寺の跡地らしい。ここには供養塔と宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っているらしい。
 また目指す御所屋には歌碑が建っているらしい。とりあえずの目的地は駒山の東にある4等三角点の「貝戸」835m。
 R153を逆に走り黒田から正寿寺への案内に誘われて右折。正寿寺から先の寺洞林道も舗装されていて快適。急峻な地形でカーブはタイトである。ところどころ崖崩れがあるが除去されている。
 峠でクルマを置き、林道の廃道から破線路の道を行くと14分で三角点でした。中電の電波反射板が建っていた。山上は植林帯の疎林で平らかでうろついていたら夕立のような土砂降りの降雨が来たので急いで下山。ずぶぬれになったのでどんぐりの里の稲武温泉で汗を流して帰名。成果は三角点のみに終わった。

水草の里を訪ねて~尹良親王の祠発見2022年06月18日

 古橋和夫『写真が語る 三河宮尹良親王ー稲武の尹良親王とその周辺』(発刊 昭和62(1987)年。印刷 桃山書房)は多分稲武の尾形誠意堂で買ったものだろう。1200円。 
 三河宮があったのは稲武の後山(710m)界隈であった。ここを水草の里という。しかし、この本に示された地図の地名は現在の地図には反映されていない。そこで徒手空拳で捜す。
 先週もここだろうと、車を走らせたが徒労に終わった。九沢を経めぐって地形を把握したに過ぎない。第一地蔵峠がどこなのか。最初は塩の道の地蔵峠との間違いか、とも思われた。
 18日に走ってみて、峠を通過して、徒歩で探ってみた。車を降りて峠を振り返ると地域のバスの停車場がありそこに地蔵峠と書かれていた。地蔵峠はあったのだ。これで謎が解けてゆく。
 乗り越し部分の西側に枝道があるので歩いてみた。そこに尹良親王の両尊像を祀った祠がないか。しかし、無かった。そのまま下ると里へ行く。石仏が10体以上集まったところがあるので見ると馬頭観音もあった。
 久々に人を見た。他所から嫁いできただろう女性だったが聴いてみた。ユキヨシ様の祠を探していると伝えるとやっぱり峠にあった。細道があるというのでもう一人が案内してくれた。心細い道だったがあった。但し祠を開けることはできず、他日に期待した。
 後は九沢に走った。後山に続く山路の登山口を探すためだった。降雨があり、舗装から地道になったが粘土質なので引き返した。九沢の四等三角点を探したがGPSの示す場所には発見できなかった。
 媼が一人道を徒歩で歩いていたので聞いた。世間話に終始した。一軒家で一人暮らしだという。水道は引いてあるので、都会的な生活は想像できる。昔なら山水を引いて風呂也、甕なりに汲み置きしなければならない。薪を割り、芝を集めておかねばならないが、それはない。燃料はガスだろう。何となっている。
 もう80歳を越えたという。夫は7年前に死んだ。息子は3人いるが豊田市、日進市、北海道にそれぞれ出て行った。もう戻らないだろうという。一度都会生活を味わうともう戻れない。特にTVで都市を知るとなおさらだ。家が壊れるか、自分が死ぬかどっちが先か、笑えない冗談を言う。
 視野に入る田畑がみな休耕田なのでもう跡継ぎが居ないんですね、と聞いたら、この辺の家屋は皆住人がいないとも言われた。全国的に問題になっている空き家である。九沢では2軒だけが生活している。家は人が済まないとあっという間に荒れてしまう。屋根の根田が腐って抜けてしまう。廃屋化して行くが今なら間に合う。
 30分も話しただろうか。名古屋へ帰ることを告げて九沢の媼と別れた。ここにはまだなんども来る予定である。今度は後山に登ろうと思う。

大文字山2021年10月23日

 10月23日~24日にかけて所属の一等三角点研究会の創立(実は再生)15周年記念の総会と記念登山が行われた。計画段階では実施できるのかどうか半信半疑だったが、10月になってコロナの沈静化をうけて諸規制も緩和された。めでたくリアル会合が実施出来た。
 10/23は未明に出発、R23で桑名ICまで走り、東名阪から新名神経由で京都東ICへ。山科駅前で最大700円/最大のコインPに駐車。そこから7時半過ぎに歩き出した。
 毘沙門堂までは閑静な住宅街の中を貫く直進の車道歩きだ。途中で琵琶湖疎水が横切る。大津市辺りで標高85m、京都市南禅寺辺りで65mなので比高20mの差を利用して琵琶湖の水を引いている。明治維新で1000年の古都は東京へ移転し、人口も3分の1になったという。このままでは寂れるとの危惧の念を救済するために北垣国道府知事が計画した。今は日本遺産になった。
 毘沙門堂は赤い門が見え、立ち寄りたかったが、時間がない。用足しで少し道を間違えて如意ヶ岳への登山道に入り修正。大文字山の南側の沢沿いの登山道を歩いたが今年8月の風水害で杉の風倒木が折り重なっていた。それでも赤テープがあり強者の山屋さんは通過しているので危険を冒しながら歩いた。
 上流に行くに従い風倒木はなくなり歩きやすい。一休みしていたら子犬を連れたハイカーが下ってきた。まるで散歩風である。「あそこは犬を抱いて下るんですか」、と聞くと「ええ」、とのことだった。蹴上からの尾根に合流すると良い道になりハイカーも増えた。登頂すると京都盆地が一杯に広がった。彼方には愛宕山も見える。
 充分な展望を楽しんだ後は蹴上駅に向けて下った。尾根の一本調子の下りだった。登ってくるハイカーの多いこと。季節も良いし、コロナ以後のレジャーを求めてのことであろう。
 蹴上駅に近づいたが登山道の道標を見落として尾根をたどって南禅寺境内へと下った。ここはもう観光客があふれていた。蹴上駅までは境内から車道を歩いた。地下鉄で山科駅へ移動。13時、喫茶店で一服して、15時の宿泊先まで時間があるので嵯峨嵐山の落柿舎へドライブ、戻って京大の近くの山岳書専門の軟弱古古書店に立ち寄る。4畳半くらいの小さな店だった。
 15時30分、宿泊先の南禅会館に到着。西日本中心に全国から47名が参集。夜は隣の「順正」で講演会と宴会。八木透氏(仏教大学教授)から愛宕山の火まつり行事の信仰と民俗学の歴史話を拝聴した。宴会会場では顧問の斎藤惇生氏(京大医学部OB,JAC元会長)から今西錦司翁の昔話を聞きながら宴会になった。

古都の山旅への準備2021年10月22日

 明日からの山旅に備えてパッキングする。登山と宿泊の両方があるので念入りにやる。
 当初は大津市周辺の山(金勝山か笹間ヶ岳)と石山寺を計画した。京都には距離があるので変更し、大文字山にした。南禅会館の在りよう、山の情報もチエックした。俳人にとっては聖地のような落柿舎の方もチエックしたが特別な情報は得られなかった。
 芭蕉の高弟の向井去来の庵である。小さいといわれる去来の墓もあり、虚子も来訪した。
 最終的には大文字山の南の山科駅のコインPを拠点に登ることにした。近くには天智天皇の御陵もあるのでこれからも来たいと思う。地図を見ていると古代から近現代までの歴史がいくつもの層に重なっているのが京都であると今更に気づかされる。

吉田悦之『宣長にまねぶー志を貫徹する生き方』を読む2021年06月25日

致知出版社。平成29年刊。

 アマゾンのキャッチコピー
「35年もの歳月をかけ、『古事記伝』44巻を著した知の巨人・本居宣長。幻の書を千年の眠りから目覚めさせた学問的功績は広く知られていますが、本書では、宣長を一人の生活人としても捉え、志を成し遂げるための条件を学びます。
著者は宣長研究40年、本居宣長記念館館長を務める吉田悦之氏。「宣長に学ぶことは尽きることがない」という氏が、膨大な研究資料を丹念に読み込み、その学問的姿勢や、昼間は医師として生計を立てた生活姿勢を浮き彫りにします。
生まれた地や系図を徹底的に調べ上げ、自分の誕生の日まで遡って日記を書く。師・賀茂真淵との千載一遇のチャンスを逃さぬ情報分析など、その歩みには志を成し遂げるための強い意志や工夫が満ち溢れています。
学ぶとは真似ること。本書はその具体的ヒントを示して余りあります。宣長入門としても最適の書。」

 6/19に三度、松坂城址の本居宣長記念館を訪ねた。1度目の見学は12歳のころ、母親に連れられて、まだ街中にあった頃だった。鈴の屋の鈴を振った記憶がある。二度目は奥つ城を訪ねた時に帰路、立ち寄ったと思う。宣長には先祖伝来の墓地の墓と自分が遺言で作らせた奥つ城の2か所ある。三度目が6/19に企画展「もののあはれ」で学芸員による展示物の説明会があるという記事をWEB伊勢新聞で読んで知った。
 あいにく雨の伊勢路ドライブになった。来館者は約10名はいただろう。うち女性は1名だった。過去に来た際、館内を一応は見て回った。だが予備知識や説明もないから見に来ただけで終わった。未消化のままである。今日は学芸員の説明があるという。11時から12時きっかりで早口で展示物の説明を聞き終わった。
 本書はその余韻が買わせたのである。「宣長に関心を持つ人は、間違いなく一流の人である。」と宣長学の泰斗・岩田隆の言葉があとがきに引用されている。

 宣長に関心を持つ人はみな一流である。だが時に全く逆の者の口を借りその真実を伝えることもある。歴史というものは不思議である。

「必ず人を以て言を捨つることなかれ。文章書き様は甚だ乱りなり・・これまた言を以て人を捨つることなからん事を仰ぐ」

・・・書いたもので評価してくれという。
https://aokmas.exblog.jp/9751844/
「宣長の言葉・その意味
9・20
 本居宣長が、自著の『紫文要領』の後書きで、、この著作について、こんなことをいっている。

 年頃、丸が心に思ひ寄りて、此の物語を繰り返し心ひそめて読みつつ考へ出せる所にして、全く師伝の趣にあらず、又諸抄の説と雲泥の相違也。見む人怪しむ事なかれ。よくよく心をつけて物語の本意をあぢわひ、此の草子と引き合せ考へて、丸が言ふ所の是非を定むべし。必ず人をもて言を捨つる事なかれ。かつ文章書きざまはなはだ乱り也。草稿なる故に省みざる故なり。重ねて繕写するを待つべし。これまた言をもて人を捨つることなからんことを仰ぐ。

 独自に心を潜めて読みこむ者の言葉になっている。けれども、いってみれば、言い訳めいていて、余計なことなのだ。その弱さがこっちに共鳴してくるのは、せつない。「師伝の趣にあらず、諸抄の説と雲泥の相違」を読みだしてしまう者は、自説の孤絶さにおどろき、つい心弱くなるのだろう。そしてこれを読む者もまた、「丸が言ふ所の是非を定むべし。必ず人をもて言を捨つる事なかれ」とつづく。書いた者の人柄で判断せず、書かれたものの是非で評価してくれ、と念をおしているのが、オカシイ。やはり昔もまた、人はなかなか「読む」ことをしなかったのである。代わりにその人の噂で、書かれたものを評価していたのだと納得する。

 宣長の論敵、上田秋成は、自分の著作は自分でも杜撰だと思うし、もとより読む人は信ずるはずもないものだといって、だからもう私にバチが当たっているじゃないか、とサインしている。これもまた、ひねりのきいた言い訳だから、こういう自己弁護は、孤独な自立者にとっても、不可避なのだろう。

 大野晋は「私のような名もない人間が言ったからとて、この言葉を捨てないでほしい」と読みとっている。つまり人柄や名声ではなく、書かれたことの是非で評価してほしい、と正しく理解しているにもかかわらず、宣長の学問のリアリテイを、彼の隠れた恋愛体験を掘り起こして、そこで動機づけをしているのは、不審だ。他人から見て、どんなつまらないことでも、動機づけになりうるからである。ましてもっともらしい動機づけほど怪しいものはない。動機は作品そのものに換えることはできないし。理解にもならない。

 やはり書物は書かれたことのリアリテイしか、その価値を保証しない、著者をめぐる噂は、どこまでも作品のナマの言葉にかなわない。つまり宣長のいうとおり、「繰り返し心をひそめて読みつつ、考え出だせる所」しか信ずべきものはない。

 宣長が源氏「物語」も「歌」とおなじく、「歌ノ本体、政治ヲタスクルタメニモアラズ、身ヲオサムル為ニモアラズ、タダ心ニ思フ事ヲイフヨリ外ナシ」といって、文学のような自己表現の本質論を展開したことはよくしられている。

 だが、その「心に思ふ事をいふ」というのは、なんのことなのか。「コレガ歌ノ本然ノヲノヅカラアラハルル所也。スベテ好色ノ事ホド人情ノフカキモノハナキ也」 として「心に思う事」を、恋心・好色に限定したことが、今日まで深い禍根を残している。性的な自意識に限定してしまったのだ。近代個人主義なのである。
 「心に思う事」の普遍的な根は、自分自身の意識をこえたところにある。狭い自意識をはるかに越えた類的なものなのだ。恋心の本源は、男女の恋愛といった、個体間の性的な意識像という近代の共同観念を越えている。なのに、心も歌・物語も、そして『源氏物語』じたいも、近代主義の狭い恋愛観念に閉じこめられてしまった。

 「千人万人ミナ欲スルトコロナルユヘニ、コヒノ歌ハ多キ也」と宣長はいう。政治や道徳よりも好色が「人情」だったからだというのだが、そうではない。「心ニ思フ事をイフヨリ外ナシ」というのは、人類の実存であり、ただたんに歌や物語のことではない。人類史とともに根底的なのだ。人心はすべて自己表出であり、我らは原始・アジア的な、母界幻想をもって「千人万人ミナ欲スルトコロ」としてきた。だからそれが後の時代からみると、恋心の表現のように観念されてきただけなのだ。「恋の歌」には、自己表現すべてがこめられていた。政治や道徳といった観念は、国家やその自己意識ととも古代以後に現れたのだから、それより古くからある心や歌は恋の歌が多い、というだけなのだ。

 だから「恋の歌」というのは、今日いうところの個人どうしの性的な意識をさすのではない。もっと深く広い、【自己】意識以前の自己の表現だった。安息する場に溶けている心や自分、を表していた。「ふるさとになりにし奈良の都にも 色はかはらず花は咲きけり」。人はいざ知らず、花は古里に安息して色も変わらずに咲いている。いま人にとって古里となったところは、花にとって古里ではないことが感じとられている。つまり自分が生きてある場、【母界】そのものなのだ。生命場の像。

 「恋」、「好色」「色欲」などの限定された漢語観念で、性的な「人情」を指そうとすれば、このような前自己の、場に生きる心を意味するところへいきつく。そこでまさしく「歌ハオモフ事ヲ程ヨクイヒ出る物也」になる。そこではじめて「程ヨクイヒ出た」とおもえるものになるのだ。

 「我心ニモ心ハ制シガタキハ世の常なり。されば克己トイフコト昔ヨリナリガタキ事也」という宣長の指摘は、自己意識の土台には、深い心・「母界」像があり、それはとうてい限られた観念的な自己意識で抑止したりできるはずのない、根底的な類的自己なのだという根拠からきている。
「千人万人ミナ欲スルトコロ」は、自己意識や自己抑制をこえた、【母界】にある。そこで花は色も変わらずに咲くことができる。」

特別展「壬申の乱」を見学・・・岐阜市歴史博物館2021年04月28日

 壬申の乱は、天武天皇元年(672)に天智天皇(626~672)の皇子・大友皇子(648~672)に対し、天智の弟で大友の叔父にあたる大海人皇子(?~686)が兵を挙げた、日本の古代史上最大の戦乱と言われています。
 美濃国を拠点とし、この戦いに勝利した大海人皇子は天武天皇となり、律令制度の整備や中央集権化を推し進めました。
 本展では、考古・歴史資料などから壬申の乱の経緯をたどるとともに、天武天皇のもとで戦った美濃国の豪族たちや、律令制度が整備されていく中での美濃国の様子にも迫ります。

ビデオを視聴
壬申の乱と東海地域
講師/元岐阜大学教授 早川万年さん
開催日時/4月24日(土)14:00~15:30

・・・というわけで、小雨の中午前中は地道を走ったのですが、意外に車が多くて難儀した。
 歴史は文物で過去を知るものとばかり思っていた頭には割れた皿などの展示品は意外にも発掘物が多くとまどいました。まるで古代遺跡の展示かと思った。
 ざっと見た感想では、女性が天皇の地位にあることはその時代は決して幸福な平和な時代ではないな、と思った。本郷和人『乱と変の日本史』によると、乱は戦争に次いで大きな闘いであり、国全体を揺るがすような大きな闘いを「乱」とし、影響が限定的で規模の小さな戦いを「変」と定義づけています。ただ本郷さんは中世に絞ったので壬申の乱は取り上げていません。
 地政学的な観点では岐阜県美濃の木曽川右岸が歴史の舞台になったのは、古代の伊勢湾の俯瞰図が証明しています。清須市と一宮市は島であり、後は海の底だった。木曽川は犬山辺りからは伊勢湾に流れ込むイメージでした。各務原アルプスの固い地層で木曽川の流れが南へ誘導されて、岐阜で長良川を合わせ、今の大垣市以南は揖斐川と長良木曽の氾濫で成立した沖積平野と思う。当然、古代の都市成立も木曽川右岸が中心になったわけである。

楊海栄『逆転の大中国史』~ユーラシアの視点から~を読む2021年04月09日

文春文庫。
著者は、ペンネームは中国名、 大野 旭(日本名)
生誕 オーノス・チョクト(モンゴル名)
 56歳というからまだ若い。

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 中華人民共和国「内モンゴル」で生まれ、北京で文化人類学を学んだ著者は、「漢民族」が世界の中心だという中華文明の価値観に、次第に違和感を覚える。
 日本に留学、梅棹忠夫氏に師事。ユーラシア草原を調査するうち、従来の常識とは全く違う、価値観の逆転した中国史が形成される。
 それは「中国四千年の歴史」という漢民族中心の一気通貫的な歴史観からの逆転である。ユーラシア草原に勃興した様々な民族こそが「中国史」の主役であり、漢人はそのなかのひとつに過ぎない。
 従来、日本人は「遊牧民族たちは、豊かな中華を強奪する野蛮人である」と教えられてきた。
 しかし、現代の中国人がほ文明をひらいた漢民族の子孫であるというのは、実は幻想なのだ、と筆者は説く。
 黄河に文明が花開いていたころ、北の草原にはまったく別個の独立した文明が存在した。北方の遊牧民と黄河の農耕民は対等の存在であり、漢人がシナを支配して「漢帝国」を称していた時代にすら、北方には別の国家が存在していた。漢人の国家が中国全土を支配していたことはなく、つねにいくつかの帝国が東ユーラシアに並立あるいは鼎立していた。その主役はスキタイ、匈奴、鮮卑、ウイグル、チベット、モンゴルといった周辺の遊牧民族である。
 我々が漢民族国家の代表、中国の代名詞と考える「唐」ですら、実は鮮卑の王朝である。いわゆる中華の文化が発展するのは、そうした周辺諸民族出身の王朝が世界に開かれた政策を取っていた時期であり、長城をめぐらし「壁の中に閉じこもる」のが習性の漢人によるものではないのだ。
 現在の中国人は、こうした真実の歴史を覆い隠し、自分たち「漢民族」が世界の支配者であったという幻想にしがみつき、周辺民族を弾圧する。今の中国を解くキーワードは「コンプレックス」だ。正しい中国史を正視しない限り、中国は歴史に復讐されるだろう。

・・・・目からうろこの史観でした。

 とはいえ、日本の国学者の本居宣長は『唐意』(からごころ)で江戸時代に指摘している。長谷川三千子『からごころ』も同じ。岡田英弘『世界史の誕生』も同じだった。

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 岡田英弘は
 なぜ歴史が必要なのか?ヘイドン・ホワイトは「なぜ、国家や社会共同体は、歴史を専門に研究する職人に税金を払うのか?」と疑問を呈した。
 中国(共産党)と韓国(旧両班)は、戦後たなぼた的に得た支配権を正当化するために、日本を悪者にしなければならなかった。政治の最終的勝者が、「歴史」を好き勝手に書く特権によって、「国民国家民族イデオロギー」扇動政治の形態を確立した。
 尖閣諸島の領有権で争っている最中に、中国政府が出した証拠「西太后の勅書」なるものを、著者らが偽作と見破ったことがある。満州語しか書けない西太后が漢文でしかも勅書を出すなど不可能だ、というわけだ。
 また、朝鮮民族文化と呼びうるものが成立するのは、新羅王国が半島南部を統一した7世紀後半以降で、日本の建国と同時期かそれ以降だった、にも関わらず韓国歴史家は、まだ成立していない朝鮮文化が日本文化の源流であり、帰化人(渡来人)=韓国人であるかのような歴史認識を主張している。
 岡田氏は、このような国家間・異文化間の史実認識(解釈)のギャップを憂い、後世覇権者の創作が入り込む余地のない史料文献を、共通認識議論の基礎にするような文献学に拘った。「国家間を越えた真実に到達するにはどうすれば良いのか」。
 これが歴史学における彼の不変の課題となった。一般読者は、古代ミステリーや英雄豪傑の武勇伝、江上波夫の北方騎馬民族征服説や司馬遼太郎の歴史ファンタジーに惹きつけられるが、彼は容赦なく切り捨てた。
 中略
 中国共産党は、「漢民族こそ炎帝と黄帝の子孫」という雅称を正当化させ、1950年以降、漢民族優生意識を植え付ける「民族識別工作」を進めている。
 新疆ウイグル自治区、チベット自治区に対する漢民族同化策や自然消滅政策は、仮想敵であるセム系ヘブライ族に対抗する政策の一環である。セム系ヘブライ族が、古代中国王朝(周、秦、漢)を植民地支配していたことが徐々に明らかになり始め、漢民族の優越性を貶めてしまうという危機感を持った中国共産党は、2016年に秦の始皇帝陵の発掘調査を今後30~50年間禁止すると発表した。
 『日本書紀』は司馬遷『史記』をユダヤ教的に天皇を神格化アレンジした借史であり、その日本古代天皇自身がセム系ヘブライ人、土着倭人は植民奴隷だった。
 「大和:Yamato」とは、ヘブル・アムル語の「ヤハウェの民:Ya-umato」が訛ったもので、ヤハウェとはユダヤ教における唯一絶対の神である。カタカナ、ひらがなは、ヘブル・アムル語をそのままあるいは変形した語で、まさに発音まで類似している。
 満州文字やモンゴル文字もヘブル・アムル語の変形である。高度な土木技術を持つ秦氏が渡来した時期に、大型古墳(天皇陵)が多数建立され内蔵物の調査が急がれるが、2010年宮内庁は、衆議院質問書の回答書で、896の陵墓(古墳)を封印し、一般学者による考古学調査を正式に禁止すると宣言した。
 明治維新時に『日本書紀』から創作した天皇史(単一日本民族の象徴)を守り続けなければならないからだ。宮内庁は、現在も明治維新の時に天皇を御守りすると誓った薩長なりあがり貴族の子孫によって構成されている。

司馬遼太郎『モンゴル紀行』の中のウイグル2021年03月08日

朝日文庫の街道をゆくシリーズの5巻目。
1972年9月の日中国交正常化で、モンゴルへの旅も正常化したのだろうか。大学ではモンゴル語を学んだという異色の作家ならではの紀行文である。
ウィキペディアには
「 旅のコース
新潟空港(新潟で1泊) → ハバロフスク(ヴォストークホテルで1泊) → イルクーツク(1泊) → ウランバートル(ウランバートルホテルで1泊) → 南ゴビ(数泊)
 少年のころから北方の非漢民族の興亡の歴史や広大なユーラシア大陸に広がる大草原、シルクロードなどに憧れとロマンを抱いていた司馬は文壇デビュー前に、『ペルシャの幻術師』や『戈壁の匈奴』(戈壁:ゴビはモンゴル語で「草の育ちの悪い砂礫地」の意)といった短編を書いていた。

 日本とモンゴルが国交を回復した翌年に、三十年来憧れてきた地に、「お伽の国にゆく感じ」で向かうことになった。

 同行者はみどり夫人、挿絵の須田剋太、司馬の恩師でありモンゴル語の権威の棈松源一。

 モンゴルでは案内役のツェベックマが登場する。なお司馬は後に『草原の記』(新潮社のち新潮文庫)で彼女の生涯を描いた。

 行きの飛行機で司馬が学徒出陣で戦車十九連隊にいたとき同じだった難波康訓に出会う(当時帝人輸出部長。イルクーツクで司馬一行の窮状を救うことになる)。」とあり、モンゴルとも国交を正常化したのだ。

 多岐にわたる紀行の中で「匈奴」の一節を読む。
・中国の周辺国家というのは、ことごとくといっていよいほど中華の風を慕い、中国文明を取り入れた。朝鮮とベトナムにおいてもっとも濃厚で、日本もその例外ではない。
 もっともひどいのは、東胡系(ツングース)の半農半牧の異民族で、かれらは五胡十六国の時代以来、中国内部に侵入して国を樹でることしばしばで、ときに金帝国のように強大なものも樹て、最後には清朝のようなものまでも作ったが、そのすべてが中国文明に同化し、その固有の俗をすてたばかりでなく民族そのものまでが大陸のるつぼの中で溶け果ててしまった。

・ところがモンゴル人のみが例外なのである。彼らは古来中国文明を全くと言っていいほどに受け付けず、むろん姓をつける真似もせず、また衣服その他風俗を変えず、言語の面でも多少の借用語があっても、その数は極めて少ない。彼らは大陸内部においてを元帝国をつくったが
、その時も中国文明を拒絶した。元帝国がほろぶと温暖の中国に愛着を持たず、さっさと集団で朔北の地に帰った。ふしぎな民族というほかない。

・が、モンゴル人から見れば、元来、農耕を卑しむために、特に元時代は農耕民である漢民族を賤奴のようにあつかった。むしろ商売をするウイグル人やイラン人あるいはアラビア人を漢民族より上等の民族として上の階層に置いた。

・・・ウイグル人も羊とともに移動する遊牧民であるが、乾燥地帯に位置するために草原が少なく、流砂のために川の流れも変わるという不毛地帯だった。モンゴル人は交易はなく、草原に生きることに知恵を絞ってきた。位置的に北と東はシベリア、南は中国なので通商の道は発達しなかった。今は大国のはざまで息をひそめて生きてるような印象である。ウイグル人は青い瞳の西欧系の人種であり、イスラム教であることからも漢民族とは合わないだろう。
 ため息が出るような中央アジアの現在と昔ではある。

山岳古道⑨北畠が陸奥へと赴任した東山道2021年02月22日

 『神皇正統記』の著者の北畠親房の足跡を追う。

https://1000ya.isis.ne.jp/0815.html
「 北畠親房が『神皇正統記』を書いたのは、常陸の筑波山麓にたつ小田城の板の間でのことだった。同じころ吉田兼好が『徒然草』を書いていた。二人の執筆の姿勢はまことに対極的で、親房は日の本を背負い、兼好は草の庵を背負っていた。14世紀になってしばらくのこと、内乱の時代の只中である。」

「 こうした親房が『神皇正統記』をなぜ陣中で急いで書いたのかというと、これは東国武士に南朝への参加を説得するための分厚い政治パンフレットだったのだ。かつては後村上天皇のために書いたとされていたのだが、いまでは関東の“童蒙”(かんぜない君主)、すなわち結城親朝の説得のために書いたというのが定説になっている。
 けれどもその効果は出ずに、説得工作は失敗をする。しかもその直後に後醍醐の崩御を聞いた。親房は傷心のまま吉野まで帰ってくることになる。まだ十代の後村上天皇はさすがに親房の労をねぎらい、准大臣として迎えるのだが、親房は静かに黙考して、動かない人になっていた。つまり『神皇正統記』は後醍醐存命中にこそ流布されるべきレジティマシーのための一書パンフレットだったのである。」

「浪岡氏(なみおかし)または浪岡北畠氏(なみおかきたばたけし)は、村上源氏の一族北畠家の流れを汲む陸奥の国司の一族とされる。

「後醍醐天皇の命により国司として奥州を支配した北畠顕家の時代には、2度までも足利尊氏を危機に追い込むほど強勢を誇ったものの、顕家が2度目の上洛戦で戦死し、勢力を引き継いだ弟の顕信も、傘下の武士の離反や幕府より奥州に派遣された吉良氏や斯波氏のために勢力を衰退させていったという。顕信の後半生ですら不詳であり、それ以後の歴代当主の事跡は、戦国期に登場した具永(後述)以前のものは判然としてはいない。

当初は南朝ゆかりの南部氏に保護されて、稗貫から閉伊船越にいたようであるが、やがて三戸南部氏が北朝方についたため、根城南部氏の庇護のもと、浪岡に入部した[2]ものと推測されている。[3]

現在の地に15世紀後半に浪岡城が築城されたとみる説[4]が多い。北畠氏は浪岡を拠点としたことから「浪岡御所」と呼ばれて、浪岡の位置する津軽田舎郡から外浜・西浜にかけて勢力を維持することとなった。」

 北畠氏は14世紀に日本史に登場する。三重県で一代勢力を拡大した時期もあったが、親房は長男とともに奥州統括のために多賀城へ赴任する。その時の通路は東山道であっただろう。京都から神坂峠を越えて陸奥までほぼ東日本を縦断する幹線であった。
 不思議なのは青森県の北畠氏の存在である。浪岡氏が復姓したのだろうか。どうやって調べるのか見当がつかない。
 それでも青森に北畠八穂が生まれたことは確かであり、錯綜した歴史の中で流れ流れて青森に定着したのである。