奥三河・滝洞を遡る2019年11月13日

3段25mの美しい滝
 今日は1年の沢登りを締めくくる沢納め。場所は設楽町の滝洞を選定した。今期4度目の設楽町の沢歩きである。
 地形図には名前はないが、滝の口川が正しい地名のようだ。林道は滝洞林道と呼ばれている。池ノシリの588m地点から入り、不動橋付近に駐車可。林道ゲートは三角点838.7mの左のくの字型の箇所にある。
 栃洞を遡行した際、下山は838.7mの三角点を経て豊邦の山里に下山した。そこで山の小母さんたちとのよもやま話が面白かった。草の生えないところへ行きたいとか、滝洞は奥入瀬みたい、11月中旬が良いよ、と推奨をされた。
 それでこの時期に沢納を兼ねて10時30分ごろ、不動橋にP、林道ゲートを過ぎてからしばらく歩き滝洞に入渓した。谷は鰻沢、栃洞に比して若干小規模だが小さくまとまった感じ。大した難所はないが核心部は2か所あった。最後は3段25mの美しい滝で締めくくる。標高883mの尾根の下がった辺り。この辺りまで来るとヤマモミジの紅葉が美しい。滝を過ぎると平凡になり林道の分岐まで歩いて12時30分ごろに昼食。
 滝洞林道を歩いて下山した。道中で雪蛍を見た。この虫が浮遊するとやがて雪が降ると言われる。Pに着いたのは13時30分ごろだった。手軽な溪谷ハイキングの趣がある。帰りは時間に余裕があり、足助町の百年草に入湯した。温泉ではないが温まる。300円。足助町の紅葉は今一で来週から月末にかけてごった返すかも知れない。すでに駐車場客獲得に大わらわである。
 段戸の山と谷のランキング
1 澄川  ◎  段戸山
2 栃洞  〇  出来山
3 滝洞  〇  出来山
4 鰻沢  △  出来山

奥三河・栃洞を溯行2019年08月25日

 豊川水系澄川、鰻沢に続いて、設楽町の栃洞を溯行。記録を検索するとここは7/11に豊川山岳会が遡行した記録がヒットした。東三河の宇連山、三ッ瀬明神山などの地域研究に実績がある山岳会である。
 https://toyokawa-ac.jp/sawanobori/19421
を見ると中々に素晴らしい渓相のようだ。但し伐採地があることと堰堤越えがあるので彼らが沢から上がった堰堤から上流を遡行することとした。もっとも興味があるのは上流の二又の左又の岩記号なのだ。そこに何があるのか。

 一社駅前を6時半に出発、鞍ヶ池SICを出て足助からR420へ。新段戸トンネルを抜けると設楽町になる。鰻沢への道を左に見て、今日は栃洞なので豊邦橋から落合橋まで比高150m以上下る。
 8時過ぎ、落合橋で左折、生コン工場の廃墟を過ぎるとしばらくで木地師の山里である西川へ行く町道の分岐を左折する。すぐにゲートがある。ここが栃洞林道の入り口だ。
 栃洞林道をテクテク歩いて、伐採地を過ぎる。中流部にある堰堤から入渓した。三角点838.7mの北東辺りになる。比高約350mちょっと、平流に近いのでそんなに迫力はない。まあまあの変化はあった。ふたたび堰堤が現れたので一旦は林道に上がり再度入渓。しばらくすると地形図の二股から左へ。大規模な石組の崩壊地があり、谷に雪崩れて落ちている。右岸側に流れが変わり沢芯は大荒れである。荒れた谷底もすぐに落ち着いた。美しい滑が続くのです。
 そして苔むした石組はかつての森林鉄道の産業遺跡でした。美しい石垣が一部残っていました。今は木材運搬の役目は栃洞林道に引き継がれています。
 渓相は滑、地形図の岩記号は滑だった。金沢栃洞林道に架かる牛渡橋の手前から支流を遡り、標高点930m付近に上がった。林道を歩きながら行くと出来山登山口の看板があった。破線路は不明なのでその先の林道の二又を左折。ここは行き止まりになる。地形図にない林道なので伐採地を下って地形図の林道に降り立ちました。つまり破線路は今はもうない道です。
 林道から標高点942mへの破線路を探りながら歩くが、何となく切り開きはあったものの植林帯では面白くもないので林道をそのいまま辿りました。そして標高点880mを越えた破線路と林道の交差する地点から桑平に続く尾根に入ります。この切り分けはとても手入れされていて良い状態でした。三等三角点:豊邦に寄り道し下山。地形図の破線路は何とか今も生きている山道です。昔は牛や馬も歩いたんでしょう、カーブはS字形になって掘れこんでいます。牛に栃の板を運ばせたそうです。
 ところが一旦車道へ降りたものの墓地へ通ずる道でした。また破線路の旧道を下りましたがここはもう草深く廃道で、通電できる網があって道路は出れなかった。それで水路をくぐって車道へでた。しかしこの車道も私道に近い町道で左にある民家で行き止まり。老人に山の事情を伺って時間を過ごしました。森林軌道の仕事をしたことがあったそうです。昭和35年ごろのことと言います。結局、神社へは見過ごし、送電鉄塔の巡視路の道も見過ごしてしまい車道を歩くしかないと覚悟した。
 桑平から車道を歩き、途中でまた老農婦と立ち話。11月ごろの滝洞は奥入瀬みたいだ、勧めてくれました。車道を下り一旦R402へ出て落合橋を左折して車へ。約10時間。身支度して出発時は午後7時でもう暗くなりました。山は秋になったのです。生コンの工場は団子島製品事業所というようです。今は灯も消えて寂しいところです。

参考サイト
新城営林署の森林鉄道
http://nishimiyaushiro.web.fc2.com/haisen/shinshiro/shinshiro_ltop.html
上の一部
田峰森林鉄道栃洞線
http://nishimiyaushiro.web.fc2.com/haisen/shinshiro/tochihora_l1.html

田口線(田口鉄道)、今蘇る
http://www.tokai-mg.co.jp/taguchisentop.htm

奥三河・出来山へ鰻沢を遡る2019年07月21日

 朝6時30分一社駅前に5名が集合出発。すぐに名古屋ICに入り、鞍ヶ池SICを目指す。約30分で県道に出て足助町はすぐである。さらにR420から設楽町へ走り新段戸トンネルをくぐると豊邦大橋を渡る。この下が鰻沢と別の沢が合流して鰻ノ沢になる。下流は当貝津川で豊川になる。
 橋を渡り切ってすぐに左折するに林道になるが二又になる。両方とも先のゲートで進入はできず662m付近に駐車。先行車が1台止まっていた。
 身支度後左の林道を行くと鰻ノ沢の支流の鰻沢にかかる橋の上に立つ。橋のたもとから藪を分けて入渓する。最初に中々の美渓を思わす釜があった。しかし段差がない。岩質は不明ながらこの先ずっと磨かれたような岩の露頭が続く。
 しばらくで鰻沢林道の2号橋の下をくぐる。未確認だが入渓地点の橋が1号橋だろう。同行者の1人がまったりした良い沢だという。確かに圧倒するような滝はなく、飲み込まれそうな渕もない。迫力に欠ける。登山道と同様にどんどん遡る。時々斜瀑もあるが平凡な渓相に飽きたころ、3号橋?に到達。左の草むらを分けて林道に上がり、橋の上流に出る。
 ここで鰻沢林道は終わり、足助町から来る金沢栃洞林道になる。ふたたび入渓するとしばらくで850mの等高線の広がる二又になる。本流は水量の多い左又か。古い文献ではアンコ沢と鰻沢の分岐という。どっちか不明ながら左又よりやや水量で劣る右又に入る。
 ここで左又を探ると何とかつての森林鉄道段戸山線田峰鰻沢線の橋の残骸と石組の基礎を発見した。さすがにレールは撤去されてはいたが多分油分の多い木材の橋梁が朽ちたまま沢にまたがる。入渓地への林道は森林鉄道の廃線跡だったのだ。R420もそのままではないが少し上に廃線跡があるようだ。
 HPのトップは
http://www.tokai-mg.co.jp/taguchisentop.htm
その中の 田峰鰻沢線の6を貼り付ける  
http://www.tokai-mg.co.jp/unagisawasen6.html

「田峰鰻沢線は昭和6年から28年にかけて施設され33年に撤去された。田峰栃洞線は昭和7年から26年に施設され、昭和34年から37年にかけて撤去された。このように施設と撤去がほとんど同時に行われているのはおそらく施設しながら近くを伐採し、終わったら次々と先へ伸ばしていき、終点近くでの伐採が終われば、少しずつ撤去しながら残りの部分を伐採していったためだろう。」とある。
 私どもの駐車地点には地形図で民家の記号があったが今は廃村になり草地で植林されている。

 さて、二又を右へ振った。
 等高線が緩いので沢も穏やかなままである。倒木や藪が覆うこともなく出来山直下の奥の二又まで来てしまった。直登すると足助町との境界尾根に達するが、山頂へは遠ざかるから沢から離れて枯れ笹の覆う山腹の踏み跡を追っていくと標高1000mの林道に着いてしまった。山林は縞枯れ状に伐採(択伐)されている。比高53mしかないので5mの幅のある伐採跡を登ると1等三角点のある山頂だった。車デポ地点は8時過ぎで登頂は13時だった。5時間ほどのまったり沢登りであった。
 下山も同じ択伐地を下り林道をたどって左折、金沢栃洞林道に合流、林道をさっさとあるくと滝洞林道を分ける。そのまま下ると鰻沢林道に出て忠実に下るのみだった。
 結果、鰻沢とは何だったのか。鰻が生息するような環境ではないと思う。渓相も掴みどころのない鰻の寝床のようにどこまでも奥深く伸びる沢の意味か。土用の丑の日は昨日の20日だった。1匹でも見つかれば捕まえてみようと思ったが、当てが外れた。
 1日中天気はもって良かった。足助町の「百年草」(午後4時30分受付終了、300円)に入湯して帰名した。明るいうちに名古屋に着いた。

愛知県の設楽町で遭難事故2019年06月19日

 NHKラジオで朝7時からの三宅民夫のマイあさの番組から、設楽町の山で遭難事故が報じられた。荒尾に登山者が倒れていたが新城市の病院に運ばれたがその後死亡と伝えられた。場所は山名は語られず、荒尾(あろう)だけ聞き取れた。地形図で設楽町を選び、荒尾で検索すると岩古谷山付近がヒットした。

 ラジオらりる
https://www.nhk.or.jp/radionews/

 名古屋市緑区の人らしいので、設楽署に電話で聞いたが詳細は教えてくれない。個人情報の規制があるためらしい。名前からは関係者かどうかまでは不明である。

追記
 6/20付の朝刊で、やはり名古屋市緑区の広川敏彦(66)さんと報じられた。死因は肺挫傷とある。背中を強く打撲したのだろう。同じ年代だけに身にしみる事故である。
 お悔み申し上げます。

奥三河・澄川を遡る2019年06月16日

澄川のミニゴルジュ
 午前6時半、一社駅前を出発。すぐ高速に入り、東海環状道・鞍ヶ池SIから出る。約30分で三河に来れる。足助を経てR420から設楽町へ走る。新段戸トンネルを抜けると路面がまだ濡れている。三都橋を左折、裏谷を経て、豊川水系の源流部から最奥の村・宇連へと下る。
 宇連で駒ヶ原宇連林道へ左折。標高760mの澄川にかかる中山橋まで走ると通行止めのチエーンがかかっていた。目的地はここまでなのでP。身支度して、9時30分澄川に入渓する。空模様は小雨がパラつくが午後はよくなるとの予報を頼りに実施。
 雨が降り続いたので当然増水しているが水はきれいである。大きな岩がゴロゴロしている。岩をかむように奔流が続く。しばらくすると落差のある滝も出てきて、地形図から想像する穏やかな渓相と違い、かなり悪いと言える。
 水量が少なければ直登できそうな小滝も今日は巻くことにする。巻き道も自然に踏まれている。そうして巻くうちに意外なものを発見した。桟橋である。非常に古い朽ちた桟橋がかかっていた。かつては溪谷探勝の遊歩道でもあったのだろうか。そのうちに新しい堰堤がでてきた。これは左から越えた。
 左へ明瞭な支流が分かれる。本流を行くとしばらくで伐採地にでて突然明るくなった。ここから先へ進むとまたも意外なミニゴルジュが現れた。二股で左は支流、本流は斜瀑が二筋に分かれて落ちていた。中央の恐竜の背中のような岩稜をたどって偵察するとさらに奥に2m程度の滝が奔流となってしぶきを上げる。5人ものメンバーでは突破が困難なので支流から巻いた。
 支流を高く登り、本流にトラバースして下った。どうやら950mの標高に達したらしい。ここから橋までは平流となった。それでも飽きることはなかった。いよいよ澄川林道にかかる橋に着いたので川から上がった。12時だった。2時間半の沢歩きだった。
 ここは返り水林道との分岐であり、段戸山(現在は鷹ノ巣山)登山口の古い案内板が立っていた。昔はここから登ったのである。
 鷹ノ巣山往復は止めて車に戻ることにした。先週の長丁場があるので登頂を追うと遅くなる気がしたのであろう。澄川林道を駒ヶ原宇連林道との分岐まで歩き、クルマに戻った。約1時間で14時。木材を満載したトラックが山奥から来た。チエーンはその為だったのだ。
 稲武地区のこまどりの湯に入湯を希望多数であった。宇連からさいの神峠を越えて名倉へ出た。こまどりの湯は近い。久々の広い湯船に体を浸した。こんな沢歩きも良いものだ。こまどりの湯を出たのは午4時だった。明るいうちに名古屋に帰れるのも久々だ。

常寒山と三遠研総会2019年04月20日

常寒山と石の祠
 午後から三遠研の総会参加を兼ねて近隣の常寒山登山に出掛けた。朝5時30分に自宅を出発。東名三好ICから高速で新城ICへ。弁天橋を渡って吉川の里を走る。吉川峠を越えるとゆったり下り、中山間地域の田園が広がる。しばらくで左へ上ると西竹ノ輪、さらに小さな乗り越しを越えると東竹ノ輪に着く。
 地形図の破線路はここから上がっているので登山口を探る。左に古い常寒山登山口の標柱が立っている。よく見ると(高塚山)と書いてあった。左折して行けるところまで行ったがPはないので戻る。公民館の前も空いているが集会でもあればと思うとはばかられる。乗り越しまで戻ると何と登山者向けの駐車場の看板があった。日吉神社の境内の一角である。7時40分からここに止めて歩き出す。
 さきほどマイカーで詰めまで走った。その先へ行くが新しい林道や堰堤工事の道の跡もあって迷う。地形図で人里からしばらくは谷を行き、尾根に乗り換える。そんな山道はないので堰堤を越えて進んだが踏み跡は一切ない。左岸側を探りながら下ってみた。すると2m幅の先ほどの林道と合流する。
 実は登ってみて分かったのは、破線路をなぞるように林道を作ったらしい。途中で左へ尾根を巻いてゆく山道と林道は幅を狭めて右へ行く。尾根を行くと再び林道に出た。左へは下ってゆくので右へ振った。すると平坦な林道は450m付近に着いた。ここに石仏が一体あった。いわゆる稜線に着いた。林道は左へ振って行くが、稜線の道も歩きやすいので山道を選んだ。結局山道と林道は常寒山へ平行してながら登ってゆく。林道と接する箇所は2か所あるのでどちらでも良い。
 山頂直下で下ってくる人にあった。大平(おおびら)の住民で、山上に紫蘭を植栽中で面倒を見るために毎日登山しているそうだ。寒いので育ちが遅いとか。紫蘭にも野生があるのか問うと栽培種だという。人と別れて山頂の手前の鳥居に一礼して9時30分に登頂。なるほど紫蘭が20mほどの列で植栽中であった。まだつぼみで1週間後だろうか。
 山頂は平らで石仏が3体あるのみで三角点はない。展望もないので水を飲んで縦走路を行くことにした。467mまですぐだった。ここにはまた石の祠があった。吉川峠よりにあるが分かりにくい。縦走路は右へ直角に曲がってゆく。古い案内板を拾っておいた。この辺りは地形図でよくチエックしたいところだ。
 467mから南東尾根を下れば東竹ノ輪に下れる。405mからやや複雑な尾根をRFしてもPへダイレクトに下れる。吉川峠への尾根と確認すると防火帯の約3m幅の歩きやすいところを歩くことになる。踏み跡はないし、赤テープの類もない。但し、黄色の紐が切らずに伸ばしてあった。405mから南東へ振っても西竹ノ輪に下れたが、三角点312mへ真南に下った。三角点をチエック後は左へ南東にくだった。踏み跡は一切ないが下草がなく藪もないために歩きやすい。但し急斜面であった。バイク音が聞こえて県道の峠道が近いことが分かった。その音に引かれて下ると吉川峠の300m下の車道に出た。ここから峠を越え、日吉神社のPまで約30分歩いた。11時30分だった。
 その後富岡ふるさと会館に行き、三遠研総会に出席した。総会は式次第で進行。鳳来寺山東照宮の宮司さんを招いての講演になった。鳳来寺山の歴史から説き起こし、東照宮としての来歴を語られた。結構重層的な歴史を持つゆえに古刹といわれるのだ。総会後は豊橋平野をドライブ。今は石巻周辺の柿園が一斉に若葉となって広がった。豊川河川敷まで下りて本宮山と組み合わせて写真を撮影した。まだ明るいので音羽蒲郡ICまで地道を走って高速入した。1日遊んだ。

「新設楽発見伝5」(平成30年度設楽ダム関連の発掘調査報告会)に参加2019年03月03日

ソース:https://www.facebook.com/events/2266817310199731/

 船着山を下山後、まだ時間が有り余るので、R151から東栄町の「とうえい温泉」に向った。途中、東栄インターが開通準備中でした。午後4時と書いてあった。早速ユーチューブにアップされていた。
https://www.youtube.com/watch?v=NoTQEJVcC8U
現在は断続的だが、佐久間ダム直下まで行ける。山で言えば日本ヶ塚山や南アルプスの深南部へのアクセスが改善される。
 久々のとうえい温泉である。10時からの開業に少し前に着いた。入湯を待っている車も10台くらいはあった。ファンがいるのだろう。朝風呂でさっぱりしたところでR473を走って田口へ。この道も大幅に改良された。岩古谷トンネルが開通したからだ。
 田口でもまだ時間に余裕があり、近くの喫茶店で昼食。関係者が沢山入っていた。そうか、考古学にこんなにも関心を持たれているのか。
 13時前に会場入り。ざっと100座席はあるだろうか。それがほぼ満席に近い。横の壁には発掘作業の写真を展示、後には発見されたモノを展示してあった。私は(胞の埋め甕に使われたと見られる)素焼きの壺の発見以来関心を持ってきたので一度はのぞきたかった訳である。
 考古学の話は岩石の知識も必須で、かなり消化不良を起こして終わった。何分1万年前という時代の単位に驚く。素人には無理もない。黒曜石は諏訪地方に特産し、三河にも運ばれているから想像以上に流通していたのである。縄文人は想像以上に広範囲に移動していた。一宮市に多いのは650万年前の木曽川は東海湖(現在の鷲ヶ岳山麓まで湖)という湖で移動をストップしたのであろう。6000年前でも大垣市は湖だったらしい。

 しかし、設楽の山間部に縄文遺跡が発見されたという事実は地名を考える上で重要である。
 宇連山の別称ガンゾモチフデ山は最初は振草村誌から発見。振草村の廃村宇連が東栄町と設楽町に分かれた際設楽町になったので設楽町誌を見るとガンドゥとあった。ガンドもチエックすると北アのガンドウ尾根、冠山の福井県側のガンドウ尾根、奈良県の大峰山系のガンドウ尾が見つかった。岳人3月号に掲載された蔵王連峰の雁戸山のガイド記事はガンドと読み、ギザギザの頂稜の特徴を表現していた。
 縄文遺跡は愛知と福井の東に多いので地名にもつながりはある。
 さらに胞についても『埋甕』には主に東日本のデータで偏りがあった。それは当然の結果であったが、こうして愛知県の山間部から一宮市に至るまで縄文遺跡があると知れば、あの恵那山が単なるアマテラスへの信仰だけではないと想像する。
 胞を素焼きの甕に入れて埋めるということが縄文文化であると知った。アマテラスへの信仰が持統天皇以後のことと思えば、信仰にも重層性があるのだろう。
1 神坂峠には縄文遺跡がある。山頂に胞を埋設したという伝説。
2 役(えん)の行者などの修験道の時代があった。
3 アマテラスの胞とされた。
4 恵那神社は岐阜県側にしかない。血洗池、産湯を使った湯舟沢も岐阜県側にある。

東三河・船着山を歩く2019年03月02日

 朝5時過ぎ出発。日進市に行くと南の空には金星と三日月が浮かんでいる。R153から東名三好ICに入る。名古屋IC経由よりも8km近いし、料金で180円安い。
 新城ICを出ると豊川の左岸への橋でうろうろしてしまった。弁天橋まで迂回して吉川の里へ走った。道路に「船着山へ」の案内板があり以降はそれにしたがうと無事に登山口に着いた。標高180mもあるので比高247mの登りである。
 登山口付近の道は以前は山畑だったのか、石垣が残る。何が植えてあったかは知らないが今は照葉樹の青い葉の木が育っている。南斜面なので蜜柑だろうか。
 山畑をぬうと直ぐに尾根に出て後は一本調子で登る。400m級の里山ゆえか全山隙間なく植林で展望は一切なく、雑木林すらもなく、草花も無い。早春の山らしさは見つからなかった。尾根を登りきると分岐を左折すると山頂へはすぐだった。登りは35分であった。山名の由来を書いた大きな看板がある。
 船着は”ふなつけ”と読む。昔は船着村があった。明治39年に日吉村と乗本村が合併してできた。村名は山に由来するから逆である。ウィキには「江戸時代、豊川の舟運の中継地として栄えた地域」とある。地形図の豊川右岸をよく見ると、中小河川が7本も流れ込んでいる。今は水田の記号だが水量の多かった時代即ち江戸時代は大きな水たまりではなかったか。少し下流には有名な桜渕、鰹渕、更に下流には西入船、東入船の地名も残る。
 http://www1.cts.ne.jp/~fleet7/によれば「言うまでも無く、港に入港してきたその向きのまま着桟するのが入船。
対して、向きを変えて着けるのが出船である。
出船にするためには、船首の向きを変える、すなわち、回頭しなければならないため、入港作業に手間と時間がかかる。
入港、下船等を急ぐ場合には、入船が好ましいが、出港時に回頭しなければならないため、出港作業に手間と時間がかかる。
逆に、出船にしておけば、直ぐに出港できるため、艦艇や警備用船舶には向いている。」
と明解である。
 これにならって、靴の揃え方にも入船出船があり、玄関に入ってそのまま脱げば入船、反対に揃えれば出船という。
 今では新城市の庁舎が立つ東入船ですが、昔は水上交通(船運)で栄えたのでしょう。信州往還への入り口でもあった。新城は別所街道、伊那街道、遠州街道の中継地点でした。塩のような重い物資は船で運んだのでしょう。
 三角点(点名:日吉村2)が妙に存在感がある。1月に登った南西の風切山356mの点名は日吉村1なので図らずも1,2と連続した。
 山頂は強い北風でとにかく寒かった。少し降りてテルモスの熱い白湯を飲んだ。常寒山往復は寒さと風景の味気無さにモチベーションを喪失して往路を下山した。不老長寿の泉とかにも寄ったが渇水期の今はしずく程度だった。下山後、沢で手を洗ったが、青っぽい板状節理が露頭していた。これは安山岩というから古い火山であろう。
 次の機会には常寒山に登ろう。竹ノ輪という美しい名前の山里から道があるようだ。吉川峠に下る南尾根も歩いてみたい。

恵那山の山名をめぐる話・・・三遠地方民俗と歴史研究会2019年01月28日

 東海地方のどこからでも悠然とした山容を見せる恵那山。別名は舟覆山とも称されて、漁師からは忌み嫌われたらしい。それがいまでは名山として押しも押されぬ地歩を得た。
 恵那山の由来を調べようと、多くのガイドブックや山の本を渉猟してはみたが、アマテラスの胞を山頂に埋めたという伝説から一歩も踏み込まれることはなかった。江戸時代の地誌『新撰美濃誌』にも伝説の引用はある。しかしそれまでである。伝説は口承であるから人々の脳裏に刻まれた物語である。文献は残されず記憶に頼るからだ。
 深田久弥『日本百名山』も伝説の紹介だけであり、立松和平『百霊峰巡礼』には山名すらない。ほとんどは回避しているかに思える。
 それで暗礁に乗り上げていた時、ふと名古屋市中区生涯センターに置かれた愛知県埋蔵文化センターのチラシが目に留まった。そこには埋甕の展示が案内されていた。実は『埋甕』という本を読んで、明治時代半ばまでは胞は普通に埋設されていた。さらに調べると、徳川家康の胞が岡崎城に埋設されていると知った。松平家康として生れたのだから偉人になってからの記念碑的扱いである。
 こうして考えを巡らすと山頂に胞を埋めること自体は特殊なことではないと思われた。眺めの良い山には伊勢神宮の遙拝所がある。それでなくても、神話上の人物が祀られている。
 例えば奥三河の大鈴山は伊勢神宮の遙拝所だった。伊勢神峠はもともとは伊勢拝みの謂いだという。猿投山にはヤマトタケルの兄の墓所がある。鎌ヶ岳にもアマテラスが祀られている。
 特に信仰の山ではないのにだ。山自体が御神体ではなく、頂上からはるかに伊勢神宮を遙拝できることが重要なのだ。
 これまでの調べでは、地名としての恵那は惠奈として平安時代の和名抄という書籍に記録されている。
 思えば日本民族には言葉はあっても文字のない時代が長かった。そんな時代でも確実に子供は生れたから「エナ」という言葉はあったであろう。唐の時代に漢字を輸入して、一字一音で日本語に当てはめた。それが万葉仮名であった。エナは惠奈と書かれ、恵那になり、やがて漢字の胞が当てられた。岐阜県の胞山県立自然公園と称するように県は胞を使う。恵那は言わば雅字であろう。
 山麓の阿木にアマテラスの胞を洗った血洗池があり、中津川を隔てた湯舟沢はアマテラスが産湯を使ったという伝説。それで恵那山と呼ばれたというのである。この伝説は何ゆえに生れたのだろうか。
 阿木の奥には木地師の活躍があった、今もロクロ天井には木地師の墓がある。1471mの点名は阿木という。焼山は木地師が焼き畑農業で山を焼いて蕎麦、稗、粟などを栽培した名残りではないか。全山が花崗岩の山なので噴火はあり得ない。
 実際には今の恵那山に命名される前に、血洗池の源流の山に埋まる三角点888.3mの点名「血洗」の一帯を恵那山と呼んでいたのではあるまいか。恵那の地名はそこから起こったと考えると自然である。
 伊勢神宮の遷宮は7世紀に始まる。皇学館大学が編纂した御杣山の記録集でも詳細に記録されるのは江戸時代に入ってからのことだった。多分、記録の手段としての和紙の供給が不足していたであろう。江戸時代になると庶民でも出版できるほどに流通した。1340年には奥三河が1回だけ御杣山になったが、設楽山とするだけでどこの山とは特定されない。私は段戸山周辺と思うが・・・。三河の山と伊勢神宮が遷宮の用材切り出しでつながっているとは面白い。
 御杣山の記録集(全文漢字)には恵那山の北の湯舟沢山1620m、井出ノ小路山1840mの名前は出てくる。あの辺には伊勢山もあり伊勢神宮との密着度が高い。しかし、恵那山は出てこないから、中津川周辺から源流は神域であったと思う。用材切り出しは湯舟沢周辺の記録はある。阿木はない。阿木は人里に近く、木地師もいたから落葉樹林でおおわれていたと見る。
 信仰としての恵那山は後世に入ってからのことと思われる。中津川を中心に川上にある恵那神社の建立が象徴する。縁起は不明となっている。前宮登山道は役の行者様の石仏もあった。前宮から奥は今でも針葉樹林の森である。
 恵那山はどこから登っても遠い山である。庶民が親しく登る山ではなく、崇められたであろう。汚されたくないためと盗伐を防止することも重要であっただろう。アマテラスの胞を埋設した伝説を持ってきて、神聖な雰囲気を演出して、安易な入山を阻止したと考えても無理はない。尾張藩が管轄していた木曽の山では、木1本首1つ、と戒めた。それだけ盗伐が多かったのだろう。
 奥三河の段戸山周辺でも、徳川幕府成立から約60年後の寛文年間に天領になった。豊川市赤坂に番所が作られて幕府の管理下に置かれて、山の民はそれまで自由に出入りしてた山に入れなくなった。おそらく、木曽でも三河でもトラブルが相次いだ。木地師は主に落葉樹なので棲み分けはできただろう。桧となると建築用材として需要は数多あり、江戸時代の経済発展とともに盗伐は増加傾向だったと思われる。
 木曽の森林は尾張藩が管轄した。徳川幕府は天皇に権威を求めた。庶民への啓蒙としてアマテラスの胞の埋設の伝説を以って、神々の森への不可侵を広めた。こんなところだろうか。

東三河・風切山を歩く2019年01月27日

 冬型の気圧配置で西は大雪、東は快晴である。午後から新城市に用事があるので、午前中に登れる山を探すと風切山が見つかった。豊川ICを出てR151を走り、豊川左岸へ橋を渡ると吉祥山が聳える。昨年登ったので今度はその北にある風切山356mの山にした。どのルートも短いので浅間峠からにした。
 ところが現地を探ると峠へ行く道が分からない。地形図では地方道の印になっているが、最奥の民家の奥で未舗装になった。林道は狭く、Uターンが不安なので、北の登山口を探った。うろうろ走ると案内板があった。新城市老人福祉センターに行くとPに1台あった。センターは静かで誰もいないようだ。ここへ駐車。準備中に桜渕公園からという2人連れが来た。立岩観音の案内表示をおしえておいた。続いて、後を追った。
 センターの建物をぐるりと回り込むように登山道があった。フェンスはなくまたPからも来れた。展望台で先行者に追いついた。新城市街を俯瞰する良い場所だ。山道には石仏が3体から4体並び、短い間隔で続いて行く。
 そうか、信仰の山だったのか。 立岩お堂と八十八か所巡り。
http://www.net-plaza.org/KANKO/shinshiro/tera/tateiwa-kannon/densetsu.html
 によれば石仏は280体あるという。
 上から空身の犬を連れた老夫婦が下って来た。先程のクルマの人だった。そこからは追いつ追われつで登頂した。Pを10時に出発して45分だった。山頂は2等三角点が埋まる。先着のマウンテンバイクの2名が居た。展望は南東は高い樹林が覆い、北西面に限る。本宮山の他、遠く豊橋平野も見える。
 下山中にはクラブツーリズムのパーティ20名余りとばったり行き違いになった。全国各地の名山だけでなく、こんな超低山の企画もあるんだ。あっという間に立岩観音に着いた。