五平餅わが食ふ手つき可笑しとて皆が打ち笑ふわらわば笑へ 依田秋圃2021年01月19日

鳳来寺山 おかめ茶屋の五平餅
 五平餅を口いっぱいにほおばるのは楽しい。

奥三河の山と人を愛した林業技術者にして歌人の依田秋圃に

  ”五平餅わが食ふ手つき可笑しとて
         皆が打ち笑ふわらわば笑へ”

(「歌集 山野」から明治44年)という歌がある。明治44年は1911年なので110年前の歌である。
 たぶん、五平餅の大きさは大人の手のひらくらいはあるから口の周りに味噌だれがついてしまう。それを笑われたのである。なるだけ付けないように持ち方を変える。そこをまた笑われるというのだろう。

鳳来寺山と深田久弥2021年01月17日

 おかめ茶屋の店主は今年91歳という。2021年の91年前は1930年というから昭和5年。そうか私の母親と変わりない年代になる。店内に新聞のスクラップの掲示があったので尋ねると25歳から五平餅を作り始めたらしい。すると1955年になり昭和30年だ。門前町が栄えてていた時代は観光バスが来て旅館も繁盛していた。自分も手伝いに行ったという。
 観光にテコ入れするかのようにパークウェイが開通したのは1971年のことで昭和46年になる。
 参道を歩くと確かに廃業したらしいお店が多かった。わずかに名産の硯石の店は2軒残っていた。旅館の「桔梗屋」さんは休業中の札が下がっていたがこのご時世では廃業に近いだろう。もう一軒も少し奥に大きな合掌造りの建物と別館があり往時の隆盛が偲ばれる。あのお婆さんがお手伝いに行ったのはここだろうか。別のブログ「江戸時代には、代官屋敷があり、旅館60軒、芝居小屋2軒があった」らしい。それも今は昔のこと。
 『山頂の憩い』で深田さんは名古屋での講演会を終えるとともに登山用具店を営むデカさんとジャコさんを誘って鳳来寺山へ行く。当時は東名高速も岡崎ICで降りると後はR1を走る。豊橋市から豊川、新城と北上。長篠で山道に入り、一日がかりで門前町へ着く。「教えられた宿は、坂になった一筋町の一番上にあった。昔の茅葺の建物を改装したらしく、すべての作りが鷹揚で、柱も梁も戸も黒く光って重厚、近代まがいの嫌いな私には心地よかった」と書く。1969年のことである。
 「民芸と山菜」を売り物にしていると書いてあるので多分あの大きな旅館の雲竜荘に泊まったのは間違いない。
 雲竜荘のHP
 http://www.unryuso.co.jp/index.html
 1964年(昭和39年)発刊の『日本百名山』がベストセラーになると山の作家としての知名度が上がった。あれから5年後の1969年には名古屋でも講演会に呼ばれた。
 余談だが、昭和39年3月には朝日新聞カルチャーセンターの登山教室で日本山岳会東海支部の講師に交じって「山の話」を担当している。1903年生まれなので61歳になっていた。そして鳳来寺山に登山したのは66歳になっていた。亡くなったのは1971年のことだからパークウェイが開通した年だった。そうか今年は没後50年になるのだ。

鳳来寺山を歩く2021年01月16日

 鳳来寺山の歴史は古い。ネットで断片的な情報を集めてみた。

  鳳来寺は、歴史ある「真言宗五智教団」の寺院。703年「利修仙人」が祈祷により天皇の御病気を治し、そのお礼として創建されたと伝わるお寺です。1648年には、鳳来寺を家康誕生ゆかりの地として崇める徳川家光によって、日本三大東照宮とも言われる鳳来寺山東照宮が建設されました。(ヤマハックのHPから)

・・・愛知県のうちの三河の三霊山は猿投山、六所山、三河本宮山である。「三河国三霊山とは、三河国、今の愛知県豊田市・豊川市にある三つの山の総称で、古来より御神体あるいはそれに準じる神聖な山として、信仰の対象になってきた山々。本宮山・猿投山・六所山の三つで、それぞれの山頂や山麓には砥鹿神社・猿投神社・六所神社が鎮座する。
 三河国なので当然ではあるが、松平氏、徳川氏との関わりが深く、徳川家康などが崇敬した、あるいは参拝したことでも知られる古社となっている。」以下に列挙すると。

1 猿投山
 『日本書紀』には、大碓命は景行天皇に東征を命じられたが、これを恐れて逃亡したため美濃国に封じられたとある。宝亀10年(779年)に編纂された縁起書によれば、大碓命は景行天皇52年に猿投山中で蛇毒のために42歳で死去し、山上に葬られたという。猿投山西峯にある西宮の背後に大碓命の墓がある。社伝によれば、仲哀天皇元年に勅願により現在地に創建。

2 六所山
 六所山は古来より猿投山・本宮山と共に三河国三霊山のひとつとされ、山自体が神体とされて大山積神(オオヤマツミ)など6柱の祭神が奉祀されていた。現在でも字金姓の小台地にたたずむ一の鳥居は、六所山を遙拝するのに最も適した場所にあり、古代、この地に最初期の遙拝所が建てられたものとも推察し得る。後に社殿の築造という仏教文化に由来する概念が国内に浸透し、六所山山頂にも社殿が築かれることになるのは遅くとも平安時代末期頃。

3 三河本宮山
 砥鹿神社は,文武天皇(もんむてんのう)の時代,701年(大宝元)天皇の使者としてこの地に来た草鹿砥公宣卿(くさかどきんのぶきょう)が本宮山の山中で不思議な老人に会い,その指示で創建されたものと伝わっている。本宮山頂には砥鹿神社の奥宮がまつられている。その神は大己貴命(おおなむちのみこと)でいつのころからか三河国の一宮とされ,10世紀初頭に書かれた延喜式(えんぎしき)の中にも記載されている。

・・・今回登った鳳来寺山は703年とあり、三河三霊山に入るべき歴史がある。立松和平『百霊峰巡礼』(東京新聞出版局)には本宮山と鳳来寺山は入っているが猿投山と六所山は除外された。

4 鳳来寺山
 文武天皇が病にかかられたときには、鳳凰に乗って都に行き、祈祷によって天皇のご病気を治したため、大宝3年(703年)に天皇からお礼に寺を立てられ、この寺を鳳来寺と命名し鳳来寺が誕生したとされています。 大宝3年(703年)、理趣(利修)仙人によって開かれた真言宗の古刹。
 ウィキペディアでは「寺伝では大宝2年(702年)に利修仙人が開山したと伝える。利修は霊木の杉から本尊・薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、四天王を彫刻したとも伝わる。文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承があり、鳳来寺という寺名及び山名の由来となっている。利修の17日間の加持祈祷が功を奏したか、天皇は快癒。この功によって伽藍が建立されたという。」
 鳳来寺山のメインコースとなる表参道の特徴は、なんと言っても1425段もの石段を越えていくところ。そのため標高は低いですが、登りごたえは十分です。山中では霊山らしい史跡や寺社をはじめ松尾芭蕉や若山牧水の句碑や歌碑も多く点在。見どころが多いので、登山客を飽きさせることのないコースになっています。
以上

・・・どの山もいずれ劣らぬ古い歴史を誇る。中でも本宮山は標高も高く、山麓から見えることが信仰を集める大きな要素であろう。三河富士の秀麗な山容も大きい。猿投山も三河の山とはいえ、尾張からランドマークのようによく見える。名古屋のテレビ塔のような存在に等しい。しかしながら鳳来寺山は今でこそドライブウェイで簡単に行けるが往時は深山の趣があったであろう。4座の中では一番険路である。六所山は存在感が一番希薄である。
1本宮山789m
2鳳来寺山684m
3猿投山630m
4六所山611m
と標高でも歴史でも見劣りする。何で霊山と崇められたか、といえば徳川(松平)発祥の地ということが大きいだろう。つまり政治的なバックアップがあったのでしょう。
 この四霊山の中で門前町を構えたほどの盛り上がりがあったのは鳳来寺山だけだった。本宮山は何ら痕跡はない。猿投山もない。六所山もない。そしてドライブウェイが出来たのも鳳来寺山と本宮山だけだった。
 しかし、禍福は糾える縄のごとし、たくさんの参拝客が増えたので東照宮や鳳来寺はお賽銭が増えただろう。社屋の改築も車道で楽にできるようになった。ところが1971年(昭和46年)の鳳来寺パークウェイの開通と同時に門前町は寂れてゆくことになった。
 1969年(昭和44年)というから開通する2年前に作家の深田久弥が登っている。『山頂の憩い』という本の中に鳳来寺山の紀行がある。1425段の石段を登り切って、鳳来寺の新設の堂を見ている。
 ウィキには「大正3年(1914年)に本堂を焼失したが、昭和49年(1974年)に再建」とある。5年ほどのずれがある。パークウェイの建設と本堂の再建は同時進行していた気がする。まず物資を運ぶ道路を建設させて堂を建設にかかる。作業員も通いやすい。道路を作業のためにだけではもったいないから観光道路化しようというアイデアかも知れん。
 歴史的には徳川のバックアップで東照宮も作られた。その管理は鳳来寺の住職らが担っていた。ところが明治維新でいきなり廃仏毀釈の洗礼を浴びる。鳳来寺は廃れ、東照宮は延命する。石段の途中には数多くの僧坊跡があったが衰退の一途をたどったのである。
 門前町の入り口にあたる「三の門」の駐車場は実は田口鉄道の鳳来寺駅跡だったのである。今も名残りをとどめるのは角にある「おかめ茶屋」さんである。

矢作川源流の雪山歩き2座(鉢盛山と牛ヶ鼻)2020年12月21日

 矢作川の源流というと大川入山辺りと聞いていたが、正確には支流の上村川である。支流の方が高くて長い流域になっている。矢作川は地形図を読むと長野県根羽村と愛知県豊根村と設楽町にまたがる山稜から流れる。
 今日は根羽村の西に位置する鉢盛山と矢作川の支流の浅間川の源流である牛ヶ鼻に登った。牛ヶ鼻は1175mの三角点の点名になり山名は不明である。12年前の干支の丑年に登った。
 山域はすべて愛知県内だが山に降った雨は北は浅間川に流れ矢作川になる。南へは津具川へと流れる。つまり天竜川水系になる。山の稜線が必ずしも県境にならず、丸山周辺は長い間、どんな理由か知らないが県境が決まらなかった。
 朝6時30分出発。R153を走って池の平へ上がる県道に左折。しばらく登ると県道は左へカーブするが、目指す山は林道を直進する。ところが林道は凍結しており4WD車でも全輪が滑って前進しないので入り口付近に駐車した。登山の準備をして9時30分に出発。
 地形図通りに舗装された林道を歩く。やっぱり雪が多い。山頂から南西尾根に取り付く。辺りは桧の植林帯で、右は自然林との境になっている。尾根に乗ったところから雪を踏みながらの登高になる。やや笹薮があるが密ではないので楽だ。雪に隠れた倒木や石に注意しながら順調に高度を上げた。ところどころに営林署のピンクのテープがあるので分かりやすい。無雪期は多分踏み跡はあるのだろう。
 登頂。雪に隠れた三角点を掘り出した。保護石は頭をだしているのですぐ分かる。展望は北東に横岳と治部坂峠のスキー場がある蛇峠山が見えた。往路を忠実に下山。
 次は愛宕山に向かったが、根羽村役場付近を調べたり役所に聞いたが登山口が不明だったので中止した。ヤブ覚悟で尾根をめがけて行けば良いが、先ほどの膝の疲れと痛みがある。次の機会のために登山口だけは見当を付けておいた。
 次は檜原川に沿う県道を走った。浅間川の源流へ乗り越す車道を見ると雪で通行不可だった。茶臼山高原道路まで上がった。そこから見当を付けて走ると標高1084mのパーキングが一番比高が少ない。わずか91mほどだ。ここにPして雪の斜面をよじ登ると登山靴らしい足跡がある。これをどこまでも追随してみた。1175mの南尾根に回り込む感じである。中々高度を上げなかったが突然尾根を上がった。あちこちから同じような踏み跡があるがこれは獣道だろう。
 山頂手前で踏み跡は突然消えた。結果すべて獣道だろう。複数の鹿が歩いたのだろう。山頂の三角点は雪に埋まっている。先行者があれば掘り出しているはずだ。三角測量の航空標識の残骸があったのでその付近を掘ってみたらあった。
 下山は車の位置を目標にして尾根を東に振った。コブの手前で斜面を下るとほぼマイカーの位置に下れた。
 茶臼山高原道路はところどころアイスバーンで気を使いながら名倉へ下りR257から稲武へ出た。道の駅「どんぐりの里いなぶ」のどんぐりの湯で冷えた体を温めて帰名した。

西三河・蚕霊山434.9mと茶臼山418.2mの三角点を歩く2020年05月24日

豊田市の茶臼山418.2m
 緊急事態宣言で外出自粛が続き、「巣ごもり」生活の結果、肉体的に疲れることはないためか、夜型人間になってしまった。午前3時、4時まででも起きてしまう。すると一旦眠れるが8時、9時に起きても朝食の食欲は余りないことになり、ぐずぐずと昼前まで雑務に明け暮れる。結局出かけるのは午後遅く、早くても14時になる。その結果中途半端に終わったピークハントがあった。サイクリングとハイキングを兼ねて行った5/5の蚕霊山と昨日の東萩平の茶臼山だ。
 そこで今日は午前中に出発することを第一にした。まず豊田市小原町の蚕霊山である。クルマで山頂付近まで登れてしまうのでハイキングの要素はない。かつては登ったがもう記憶の彼方になった。頂上は蚕霊神社の境内でそこの隣に宮司さんたちも住んでいるのだろう。三角点は隣の小さな神社の石碑の奥に埋まっていた。それでも来る人はいて山頂板がぶら下がっている。 

 蚕霊神社の案内板には、もともとは御嶽大明神が祀られ江戸時代から信者も多かったという。明治20年に小原村に伝染病は流行、それを契機に伊勢神宮外宮より、大気都比亮命(オオゲツヒメ)を勧請して蚕霊神社の建立となった、という。
 
 明治20年とはどんな時代だったのか。これも検索してみた。
https://say-g.com/topics/609
①1822(文政5)年8月14日 日本で初めてコレラの感染が確認

「「日本の細菌学の父」と呼ばれる北里柴三郎が、1887(明治20)年に、第6回万国衛生会議で行った口頭発表をまとめた「日本におけるコレラ」によると、
「長崎とジャワ島との間を往復する一隻のオランダ船が、この伝染病を最初にわれわれのもとへもたらした。長崎は当時の日本において異国人、すなわち清国(中国)人とオランダ人と貿易取引を行うただひとつの都市であった。コレラはまずそこで発生し、長崎を取り囲む日本の南西部に広がったが、数ヶ月後に日本の内陸部へと到達し、間もなく大流行となった」と記しています。

※オランダ人が不潔だった証拠に江戸川柳がある。

登城する紅毛にハエのついていき

紅毛というのは当時のヨーロッパ人をいうが、「1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」」の時代はオランダ人を指す。「オランダだけは「人悪し、国もまた悪し」」だったらしい。

②日本国内で2度目のコレラ大流行となった1858(安政5)年
長崎で発生したコレラは数ヵ月の後に江戸へと至り、8月下旬から数ヵ月で10万人以上の死者を出したと伝えられています。加えて江戸にとどまらず、京都・大阪にも被害が拡大。深刻な打撃を与えています。

このときの大流行はとどまるところを知らず、「1859年から1861年にかけて、この流行は時には局所的に、時には国内至るところで発生し」た。

③1878(明治11)年〜1879(明治12)年の流行

④当時の防疫知識を総動員して対応にあたってはいたものの、コレラの猛威には対抗できず、1886(明治19)年にも、10万人を超える死者が出た。

・・・小原村の伝染病はコレラだったのだ。これを封じるためにこの神様が勧請されたというわけだ。今回のコロナ禍も1回では終息せず、何度も感染するのだろう。専門家と称する人は群盲巨象をなでるごとく、薬の開発は途上だし、治療法も確立していないのだ。

 大気都比亮命は日本神話の神様。
ウィキペディアには
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%B2%E3%83%84%E3%83%92%E3%83%A1

「高天原を追放された須佐之男命は、空腹を覚えて大気都比売神に食物を求め、大気都比売神はおもむろに様々な食物を須佐之男命に与えた。それを不審に思った須佐之男命が食事の用意をする大気都比売神の様子を覗いてみると、大気都比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。須佐之男命は、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、大気都比売神を斬り殺してしまった。すると、大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。 これを神産巣日御祖神が回収した。」

・・・頭から蚕が生れたというところがミソだな。

 次の東萩平に向かった。この山は周囲が車道に囲まれているので南回りに走った。結構な急斜面に山家が張り付くように建っている。谷もないのに水はどうしているんだろう。そういえば頂上の家も水がない。しかし地形図をよく見ると標高350m付近は水線ががあり、湧き水があると思われる。小さな谷間に水田もあった。案外水は恵まれているのだろう。大規模な谷は土木技術が無いと制御できないが家族が暮らせる程度の水は不自由しないのだ。

 というわけでまた県道11に下り、笹戸へ行って矢作川左岸に移る。市平からヘアピンの山道を走る。ゴルフ場があるために道案内があり、簡単に水上に着いた。今日は茶臼山の「登山口」付近にデポした。お須原山との鞍部になる。ちょっと探すと赤いひもがぶら下がっており、蜘蛛の巣を払いながら廃道の山道を辿る。登山口のヤブ、枯れ枝、倒木の散乱状態を抜け出ると落ち着いていて、赤いテープも見える。とはいえ、418mの山である。山頂近くになると踏み跡もしっかりしてきた。赤テープが二重に巻いてあるところからすぐで山頂だった。四等三角点が埋まる近くに山つつじが咲いている。展望は樹林の中なので皆無である。

 帰路は尾根を戻るつもりだったが赤テープを二重に巻いたところは谷へ下る踏み跡が比較的明瞭だったので小さな冒険を試みてみた。源頭では倒木や枯れ枝が散乱し荒れ気味だった。大きな岩が散乱する谷の左岸に不明瞭な踏み跡が続き、辿ると車道に出た。クルマにはすぐに戻ったが時間はあるのでお須原山に登った。風が心地よい。初夏の使者かというホトトギスが近くに来て鳴きながら去って行った。もうすぐ夏だよ、という。

 緊急事態宣言はもう解除されたものの愛知県独自にはしばらくは続けるという。コロナウイルスを完全には封じ込めることは出来ない。しかし、こんな三密ではない山歩きなら健康維持になりこそすれ病気にはなるまい。
 帰名の途次、矢作川河畔の「うな武」で遅い中食を取った。健康のためにうな丼3350円を奮発。近場で高速料金も掛からず、ガソリン代も知れてる。その分食事に回す。カーエアコンを利かせながら帰名した。

西三河・お須原山ミニハイキング2020年05月23日

お須原山からの寧比曽岳と筈ヶ岳
 猿投公園を基点のサイクリングは矢作川の一周でポタリング程度で終わったので、マイカーで東萩平町のお須原山+茶臼山にドライブしました。県道11を上流に向かい、月原(わちはら)町へ右折。阿摺川を走ると小町の先でお須原山と笹戸CCの案内板が見える。ヘアピンカーブの連続する山道である。登りきると東萩平という美しい地名の山村に着く。お須原山へは丁寧に案内板が設置されてまようことはない。最後の民家の手前の案内板の前に軽トラが止まっているのでその後ろに止めて歩き出す。時に17時40分である。豊田市の日没は18時55分なので1時間以上はある。
 農道を登ってゆくと道端の花がきれいだ。あれはヒオウギアヤメかな。知らない野草の花がいっぱい咲いている。途中に安産の神様がある。二股を右へ行くと、ものの10分で登山口に着いた。頂上は見えているので急登をこなすと明るい頂上に出る。猿投山その他の展望図もあり楽しめる。隣のこぶには縁結びの神様を祀る神社もあり手を合わす。下ると茶臼山との鞍部になる。
 茶臼山の登山口を探したが見つからず。鞍部から少し戻った辺りのアカヒモかな。しかし、今は18時を回ったので登頂は断念。(若いころに登ったことがある)また最後の民家まで下ると、主人がにこやかに話しかけて来られた。
 この山は住友系の会社の従業員が整備したらしい。会社からは整備費も寄付されたとか。このご主人はゴルフもやるという。笹戸のゴルフ場で住友のえらいさんに会ったことが機縁という。そしてこの村の空き家が目立ち始めた頃、若い夫婦を呼び寄せる運動をして今はほとんど埋まったらしい。一気に人口が増えたとか。そういえば山村には珍しい子供の姿が見える。最初はゴルフ場の従業員かと思ったがこのご主人の顔や話しぶりから農民ではなく、大会社を定年退職した元部長級に思えてきた。百姓がたとえ隣とはいえ、カネとヒマと友人の要るゴルフなんぞ楽しむこともないだろうに。そう思いながら帰名の途に着いた。

緊急事態宣言解除後の登山の心得2020年05月17日

 ニューズウィークWEB版はロイターの記事「安倍晋三首相は<5月>14日夕に会見し、東京など8都道府県を除く全国39県で緊急事態宣言を解除すると正式発表した。8都道府県についても21日にも専門家の見解を踏まえ、可能であれば緊急事態宣言の期限である31日を待たずに解除する意向を示した。

解除に当たっては1週間当たりの新規感染者が10万人あたり0.5人以下に低下したなど医療体制、検査体制を目安に判断したと説明。39県は今後、感染者の小集団(クラスター)対策で感染拡大を防止できるとの判断を示した。

もっとも、解除された地域でも、外出自粛は要請しないが「人との接触は減らして欲しい。県をまたいだ移動も控えて欲しい」と訴えた。」と報じた。

 39県には愛知県、岐阜県、三重県が入っているので、5月18日から徐々に経済活動が正常化を目指してゆく。それでも他県への移動はまだ控えて、という要望である。

 そこで足元の愛知県の山で過密ではない山を経験でピックアップしてみようと思ったが、逆に人気のある山をアップすることでそれ以外は過密な登山者の居ない山歩きができるだろうと思う。

*都会近郊の山は人気が高いので回避しよう。
尾張地区

瀬戸市/豊田市       猿投山

春日井市/多治見市    道樹山

*三河地区の山は車でほとんど登れてしまう。

岡崎市/豊川市       本宮山

新城市             鳳来寺山

根羽村/豊根村        茶臼山と萩太郎山

*人気があり、且つ遭難も多い山である。
設楽町             岩古谷山

豊田市             六所山と焙烙山

蒲郡市             五井山

*心得と作法
1 下山後は汗をかけば、帰り道の温泉場へ行きたくなるがしばらくは控える。コンビニ、公衆トイレに寄ったならば、帰宅後は手を洗うこととウガイすることである。衣服類も全部洗濯し、ザックはベランダに干す。

2 医師、登山の指導者など識者の指導では登山中でもマスク着用を呼びかけるが非現実的である。別の障害が出るおそれがある。少人数で歩き、距離を置く。

3 目的の山は上記の人気の山は回避してガイドブックで不人気の山を探してみよう。ガイドブック以外に地形図を用意し、登る前に自宅でルートをチエックして置くことである。

4 道迷いを防止するには、地形図と実際の眼に見える地形とを常時チエックしておくことである。リーダー任せにしないでメンバーが各自責任を持つことである。
例えば何をチエックするかと言えば
a 地形図に描かれた崖、山の中の池、大きな岩、峠、小屋、鉄塔、電波塔、送電線等

・・・ここが地図に表現された崖崩れですよね。と他の人に声掛けすると関心を共有できる。

b 地形図に描かれた谷、沢の渡渉地点、尾根から沢、又はその逆に登山道が切り替わる地点

・・・暗くなると、登山道から沢を道と勘違いして上り下りしてしまうことがある。渡渉地では水場であることも多いので休むと同時に地図を確認する。

c 登山道の途中にある突起、コブ、三角点、凹地、

d 遠望した際、見えないはずの山や川が見える場合

・・・あら、あの山は何なの。見えたかしら。とつぶやくのも良い。

e 見えて当然の山や川が見えない場合

・・・もうそろそろあの山が見えるはずなのにまだ見えないね。とつぶやく。

f どれだけ歩いても目的地に着かない場合

g ずっと尾根道をたどってきたのに突然崖になり登山道が消失した場合はかなり手前で山腹に回り込むことが多い。その場合でも強引に尾根を辿ると戻れないことがある。

・・・分岐のポイントには赤布、ケルン、マーキングなどがある。

h これまで順調に歩いて来たのにどこからか、木の枝が顔に当たるようになったり、足元の踏み跡もしっかりしているのに、深い草や笹やぶがかぶって歩きにくくなった場合。

・・・獣道に迷い込んだ可能性を疑う。

i 登るときは遊歩道みたいに広かったのに、どこからか砂利道で歩きにくくなった場合

・・・メインの登山道から枝道に入ってしまった可能性がある。

※先ずは道に迷わないこと。道に迷った結果、石や木の根っこに躓いて転落する。焦ると時間が経過するのが早く感じて急ぎ足になり滑落しやすくなる。

※迷ったら、いったん休憩すること。そして頭脳の栄養分の糖分を補給する。飴、ブドウ糖、お茶、ジュース、はちみつ。

※携帯電話が通じれば親などに連絡する。110番通報でも良い。

※最悪はビバークする。持って居るものを全部着込む。上からはカッパを着る。足が寒ければザックを空にして足を突っ込む。買い物袋を靴下の上からかぶせてもいい。

※動き回らないこと。救助を待つこと。

※道に迷ったらメンバーは離れ離れにならないこと。

愛知県の石巻山は神山(みわやま)と呼び、三輪山と同じ大己貴命を祀る2020年05月08日

ソース:https://iyakukeizai.com/beholder/article/1436

(2)『日本書紀』の第1回目の疫病大流行

『日本書紀』の崇神天皇・即位5年(3世紀前半か)に疫病が大流行し、人口の半分が亡くなった、と記されてある。原文は「五年、国内多疾疫、民有死亡者、且大半矣」である。疫病大流行の原因は、神様の意に背いたからであり、疫病対策は、神様の意に従うことであった。八百万の神々の中の「どの神様か」というと、「三輪山=大物主(大国主)=大神」である。念のため言っておきますが、天照大神ではありません。そのことは、『昔人の物語(62)・崇神天皇』をご参照ください。

 ともかくも、疫病対策とは、祈祷、神事であった。

ソース:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%89%A9%E4%B8%BB

崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れ、「こは我が心ぞ。意富多多泥古(大田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と告げた。天皇は早速、活玉依毘売の末裔とされる意富多多泥古を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。これが現在の大神神社である。

ソース:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB

大国主は多くの別名を持つ。(※名義は新潮社神名釈義[要説明]から) 同名の記載順は『古事記』、『日本書紀』、『風土記』、その他祝詞や神社とする。

・大物主神(おおものぬし-)
・地津主大己貴神(くにつぬしおおなむち の かみ)
・国作大己貴神(くにつくりおおなむちのかみ)

大国主神を祀る神社は非常に多く、全国の一宮を中心に無数に存在するため、ここでは主な神社を列挙する。

・南宮大社 境内 樹下神社(岐阜県不破郡)
摂末社
境内社
本殿回廊内

樹下神社
祭神:大己貴命
摂社。本殿に向かって右隣に鎮座。社殿は重要文化財。

・飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市)
摂末社祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)

・日吉大社 西本宮(滋賀県大津市坂本)
日吉大社は神代より比叡山にいらっしゃる神(大山咋神)として崇められ、崇神天皇7年、八王子山の麓にお迎えし創祀(東本宮)されました。その後、天智天皇が飛鳥より近江大津宮へ遷都した翌年である天智天皇7年(668)に、大和朝廷の守護神であった大和国三輪山より大己貴神(西本宮)を勧請しました。

西本宮のご祭神である大己貴神は、別名を大国主神・大物主神と呼ばれ、島根県の出雲大社や、奈良県の大神神社などで祀られる国造りの神様であり、我が国で最も貴い神様の1柱であると考えられます。

・建部大社(滋賀県大津市)
主祭神は次の通り。

本殿:日本武尊(やまとたけるのみこと)
本殿相殿神:天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
相殿神は、天照皇大神でなく天明玉命(あめのあかるたまのみこと)とする場合も見られる[1]。
権殿:大己貴命(おおなむちのみこと)
大神神社(大和国一宮)からの勧請。

・砥鹿神社(愛知県豊川市)・・・・奥宮は三河・本宮山
 里宮(奥宮も)本社には、大己貴命(おおなむちのみこと)をお祀りする。大国様(だいこくさま)と慕われる御祭神は、福徳の神・国土開拓の神・縁結びの神として尊崇せられ、交通安全・家運隆昌・厄難消除等の御神徳は、三河地方はもとより各方面からの篤い崇敬を受けている。

 というわけで、、大物主神は大国主であり、大己貴命なのです。

豊田市・蚕霊山を目指して2020年05月05日

 名古屋市を14時過ぎに出発。豊田市の猿投公園へ行く。クルマはそこにデポして、14時半ごろに自転車に乗り替えて出発。ネットで指示したルートを走るがアップダウンが激しく引き返したくなる。
 西広瀬工業団地への4車線の良い道だがアップダウンが大きくて自転車で走るにはペダルが忙しい。その上、自粛の中で体中に脂肪が回り太めになったから切れも悪い。それで自転車を降りて徒歩で稼ぐはめになった。トホホだ。
 工場はみな休業中でトラックは1台も通らない。だから安全ではある。T字路で右折、飯野川に豪快にダウンする。気持ちは良いがブレーキ操作が重要だ。すぐに右折して、名古屋グリーンゴルフ場入り口までまた降りて高度を稼ぐ。入り口からダウンすると犬伏川に下る。ここで標高120m。ここから緩やかな山村の田園風景の中を犬伏川上流にさかのぼる。R419との合流地で217mあるので比高97mを登ることになった。基本的に山里はゆるやかで漕げるが、離れると急坂になり、降りることしばしばだった。
 R419の蔵屋敷に着いてすぐ冷えたドリンクを買って飲み干す。猿投公園からこの間は自販機が無かった。持参すべきでした。R419mo基本緩やかでなるだけ乗って進むが降りたところもあった。小原町は旧役所のあったところでコンビニもありドリンクを買って一休みした。
 ここからは小字が「登り」とあるごとくR419も急で、最初から降りて歩いた。「登り」で矢作川へ行く村道に右折するとまた一段と急坂になり、峠を越す。これが下りが危険なほど急でカーブもきつい。
 西細田町の地点で三差路になり道標がある。神社マークのここで右折する。お堂が神社の意味だろう。石碑に蚕の文字が浮かぶのでここが登山口と思われる。比高60mほど歩いて峠道を登ると分かれ道があり、右へ蚕霊神社の道標があった。キジの雄が大きな声で逃げてゆく。今はもう午後5時を回り時間切れなので登拝はカットした。
 二つ田という山間の小里に下り、左折、平畑町まで急坂を下る。矢作川右岸の町道をしばらく走るが、川原では多くの人がBQを楽しんでいた。簗平で笹戸から来る県道11に出て矢作川沿いに走るだけになる。
県道11は下り一辺倒かと思うが少しは登りもあった。概ね快適な道である。枝下(しだれ)からは少しづつ登りがあって降りた。御船川沿いに北へ行き、東海環状道の下をくぐると朝走った道を反対に行く。Pまでは少し歩かされるが気持ちの良い疲労感に襲われる。少しは脂肪を燃焼しただろうか。

豊田市郷土資料館特別展「猿投山ー祈る山、観る山、登る山」2020年01月29日

 猿投山は私の住むマンションの窓から朝な夕なに眺める山である。右側に一段低くなる台地がありあそこがヤマトタケルの兄のオオウスノミコトの墳墓があるところであろう。まさに霊山である。
  親しい猿投山をどんな風に展示するのか興味深々で1/28に見学。一回りすると別室で動画もあり戦前のはげ山だったころの映像が視聴できる。文献の展示は学芸員の解説がないと楽しめないかも知れない。学芸員によるトークもあるので午後に尋ねるが良い。1/19から3/15の間、2時から2時30分間解説してくれる。ギャラリートークは2/15と2/29でともに午後2時から3時まで。講師は外部から招いた専門家。但し猿投山そのものではなく、石、名園に限る。
 今回は豊田市側のみに限る。どちらかと言えば猿投神社に重点が置かれた。猿投山の自然、民俗などが加味されればさらに充実する。この点は学芸員に注文をしておいた。例えば、猿投山の山名の由来である。景行天皇がいたずらする猿を投げたという伝説がもっぱら引用される。しかし、豊田市名誉市民の本多静雄氏は猿投山の「さな」は昔の製鉄に由来するという説を書いていました。こんな解説があれな尚興味は増すだろう。地名の語源辞典にもそう書いてある。
 また猿投山がはげ山だったというのは多分瀬戸市側ではないか。神社のある境内は樹齢200年はありそうな神杉が林立している。神域からちょっと離れると植林になり谷は荒れている。瀬戸物生産には大量の木炭を必要とした。約700年もの間伐採と自然生を繰り返してきたから東濃の窯元周辺の里山はほとんどはげ山になったのである。愛知県は地味の痩せた瀬戸市側の山を買い取り、植林はしたものの、育ちが悪かった。そこを日本山岳会東海支部が貸与してもらい、猿投の森づくりの会を立ち上げた。育ちの悪い植林を伐採し、林床に光を入れて雑木林の自然生を促し、ゆくゆくは市民が憩える雑木林になる。このまま放置すると元々の照葉樹林に戻るので、時々干渉して雑木林の状態を保つという。
 瀬戸市側の東大演習林側は行方不明者の捜索で許可を得て入山したことがある。さば土の尾根や谷にやっと植生が根付いたところである。今も松が残り杉桧の植林も不安定なままで崖崩れも多いので危険領域もある。活き活きした里山に回復するのはまだ数十年はかかるだろう。