蟷螂の斧に終わった対馬市長選挙戦2020年03月02日

 3/1の長崎県対馬市長選挙は現職の比田勝さんと大阪から対馬の将来を想う荒巻さんの対決となりました。荒巻さんは電源三法で対馬にNUMOを誘致して財源確保の必要性を訴えた。対馬の住民はそれを承知しながらも現職支持で現状維持を結果で示した。
 現職には知恵を絞って対馬に尽くされたい。また蟷螂の斧で終わった荒巻さんと支持母体の日本第一党にもエールを送りたい。どちらにせよ、脱韓国人である。
 大阪市民の荒巻さんは地元に顔も売れておらず、徒手空拳で戦ったわけですが、有権者の多くが情弱の高齢者の現状ではユーチューブによる公約発信も得票の獲得に貢献しなかった。しかしそれでもよそ者に1908票を与えたのである。批判票というには頼りないがゼロではなかった。
 余りにも唐突な印象のあるNUMO誘致は住民の理解を得られなかった。結果、対馬市だけでは経済再建は無理なので国の助成金に依存することになるのだろう。北海道、沖縄と同様に地政学上の重要な拠点でもある対馬はどんな変革をしてゆくのか。
 地元の観光協会のHPによれば対馬観光はオーバーツーリズムの状況なのだそうだ。この需要にこたえて開発すると大切な自然が失われる。30人から40人規模の団体が楽しめる観光メニューを募っている。
 また私が訪ねた年末年始は公共観光施設がすべて閉鎖中であったから見学ができなかった。今回は12/29から1/5まで滞在したが万松院だけ訪問できた。私は1人で万松院、清水城址などを訪ねたがやっぱり年中無休のボランティアガイドが居ると助かる。万松院ではたまたまクラブツーリズムの団体客の添乗員のガイドを立ち聞きして面白かった。(笑)
 厳原港に1日3回くらいは対馬南部だけでも良いので格安な観光ガイドバスを走らせれば楽しいだろう。

応援歌として「対馬あんのうや」を聴く2020年02月29日

対馬市長崎鼻の観音岳139m
対馬あんのうや
https://www.youtube.com/watch?v=HAdVLZ45Www
・・・あんのうやは対馬弁であのねの意味らしい。

作詞・作曲:上野芳喜
https://www.facebook.com/yoshiki.ueno.10

対馬弁(対馬方言)bot 🐒共感RT♪
https://twitter.com/ilove_tsushima

〝生きたらよか〟(「帰らんちゃよか」の原曲) 作詞・作曲・歌 関島秀樹」が親の立場で都会に出て行った子供を思う歌になっている。俺たち老いた親を面倒をみるために「帰らなくてもいいよ」という内容である。これは熊本弁である。
https://www.youtube.com/watch?v=ivR_0tCli_k

対して、「対馬あんのうや」は対馬から出て行った友達を遠く想う気持ちを歌う。こちらは寂しくなったら対馬へ帰っておいで、という優しい内容になっている。対馬に残った親兄弟などのはらからと友達などの呼びかけである。

国境の島・対馬の山旅③観音岳と姫神山
http://koyaban.asablo.jp/blog/2019/12/30/9199017

2/28【荒巻靖彦】上対馬総合センター講演会その1
https://www.youtube.com/watch?v=aZhn-65lCTo

2/28【荒巻靖彦】上対馬総合センター講演会その2
https://www.youtube.com/watch?v=ZZN3hJAkyx8

電源三法交付金【荒巻靖彦対馬市長選挙】
https://www.youtube.com/watch?v=rglWF2mMjBU

応援歌として「ずんだれ - はじまりの朝〜夢この街〜」を聴く2020年02月28日

元旦厳原八幡宮に初詣後清水城址から有明山に登る
バラード調の親しみやすい歌

ずんだれ - はじまりの朝〜夢この街〜
https://www.youtube.com/watch?v=m2QEvLaP4qQ
・・・ずんだれは九州一帯で「だらしない」の意味だそうです。

対馬のイメージソング 「夢・この街」
https://www.youtube.com/watch?v=M12MKTVOCZY
・・・やや音が小さいのが難点かな。

https://www.facebook.com/tsushima.nagasakipref/posts/1191651847601993/

歌い継がれて30年
 愛され続ける対馬の応援歌
http://www.city.tsushima.nagasaki.jp/live/kouhou/images/201805/kouhou201805_02.pdf

作詞・作曲 梅野昌宏
https://www.facebook.com/profile.php?id=100009197567828&lst=100002834854939%3A100009197567828%3A1582878837&sk=timeline


以下に歌詞を転載
夢・この街
1
都会に夢求めて 旅立つ人がいる
若さにまかせ生きていこうと
縛られることをこばみ続けて
どこかに行けば夢がかなうだろうと
だけど旅人この街にも
素晴らしい人がいる出会いがある
遠く離れてもふるさとは
君を忘れはしない
夢すりきれ さまよい 旅に疲れても
君の生まれた街に まだ君の夢がある
2
時のはやさにとまどい 人の波におされ
たった一人だと思える時
過ぎゆく日々に迷い続けて
悔しくこらえきれずに涙するとき
きっと旅人思い出すだろう
忘れかれた優しさ人のぬくもり
心やすらぐ『夢・この街』
それは君のふるさと
歩きつかれた都会 心傷ついても
君の愛した街は まだ君を待っている

荒巻靖彦対馬市長選挙街頭演説【厳原】2/28
https://www.youtube.com/watch?v=ivR_0tCli_k

小学4年生東亜紀ちゃんが歌う「対馬海峡」を聴く2020年02月28日

対馬空港(つしまやまねこ空港)
【対馬海峡】cover東 亜樹小学、四年生
https://www.youtube.com/watch?v=UBoTnrw3zDM

荒巻靖彦後援会
https://aramaki-yasuhiko.osaka-firstjp.com/


荒巻靖彦【対馬市長選を目指す】についてのインタビュー動画。続きは落合さんのチャンネルで
https://www.youtube.com/watch?v=2FvpVnvhCZQ

荒巻靖彦対馬市長選挙街頭演説【鑓川】
https://www.youtube.com/watch?v=Cn707ZmlPvI


2/25荒巻靖彦対馬市長選挙街頭演説
https://www.youtube.com/watch?v=KXay5TiAofg


2/26荒巻靖彦対馬市長選挙街頭演説【久和】
https://www.youtube.com/watch?v=nVh66HKeI6U

2/26荒巻靖彦対馬市長選挙街頭演説【尾浦】
https://www.youtube.com/watch?v=RjbuVLAcj-0

荒巻靖彦 厳原
https://www.youtube.com/watch?v=CzSPWvZUQmU

2/27荒巻靖彦対馬市長選挙街頭演説【豊玉スーパーサイキ前】
https://www.youtube.com/watch?v=vs_BLFdK1HM

応援歌として「対馬の祈り/歌 祥子」を聴く2020年02月27日

「長崎旅ネット」から
対馬の祈り/歌 祥子 作曲/編曲 松下寛史
https://www.youtube.com/watch?v=CbJvxkxlb9Q

曲想は荘厳なイメージです。やっぱり「祈り」とある以上はそうなるかな。たぶん神への祈りですが、その神は自然神です。

映像はわたつみ神社とか照葉樹林の杜、浅茅湾らしい海の景色、砲台跡など対馬を彷彿させる。

対馬市長選挙、現職と新人の一騎打ち [長崎県]
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200223-00003492-nbcv-l42

荒巻靖彦【対馬市長選挙・第一声!字幕あり】令和初の天皇誕生日!あらまき靖彦・電源三法交付金
https://www.youtube.com/watch?time_continue=7&v=IrsnWsUYNXg&feature=emb_logo

対馬一誠20周年感謝祭にて【荒巻靖彦 対馬への思い】
https://www.youtube.com/watch?v=sdekSOLwciI

2/25荒巻靖彦対馬市長選挙街頭演説【川東大了、石川くん、対馬一誠さん】
https://www.youtube.com/watch?v=yN0kSjWBWwE

2/26対馬市長選挙街頭演説【荒巻靖彦】久田道
https://www.youtube.com/watch?v=0C4ZEs_27BU

応援歌として「対馬旅情」を聴く2020年02月26日

対州は大山国やほととぎす 静雲
対馬旅情(香西かおり)
https://www.youtube.com/watch?v=WUcc3E_v3r8
香西かおりが歌う「対馬旅情」に、対馬市観光物産協会さんと長崎県観光連盟さん制作の対馬観光PR映像を載せてみました。
・・・映像が素敵ですね。龍良山のスダジイも出てきます。

対馬市長選の荒巻候補の主張です。

荒巻靖彦【対馬市長選挙・第一声!】令和初の天皇誕生日2020/2/23 あらまき靖彦
https://www.youtube.com/watch?time_continue=48&v=ZS91G7oDAYA&feature=emb_logo

荒巻靖彦【対馬市長選挙・第一声!2/23】令和初の天皇誕生日
https://www.youtube.com/watch?v=cnAFr-qtt70

荒巻靖彦【対馬市長選挙・第一声!字幕あり】令和初の天皇誕生日!あらまき靖彦・電源三法交付金
https://www.youtube.com/watch?v=IrsnWsUYNXg

荒巻靖彦・川東大了・応援演説【対馬市長選挙2/24】
https://www.youtube.com/watch?v=dZXyhmbPfFM

荒巻靖彦対馬市長選挙街頭演説【犬吠】
https://www.youtube.com/watch?v=QsuJoTUAjcI

出演:福山雅治 『もっと長崎の島々に、なる!対馬 篇』 青いぜ!長崎ブルーアイランズプロジェクト
https://www.youtube.com/watch?v=EnbhekZgqQw

【ドローン×登山女子】山旅日記Vol.12(対馬・白嶽)出演:藤田可菜 by YAMAP
https://www.youtube.com/watch?v=D8BqZ9vzfLo&t=745s

追記
対馬旅情~対馬一誠が唄う
https://www.youtube.com/watch?v=v3f6TJW8x7U

応援歌として「対馬海峡」を聴く2020年02月25日

九州百名山の白嶽
 関連動画
対馬市長選が告示 現新の一騎打ち、補選とともに3月1日投票
https://seijiyama.jp/article/news/el20200225-56.html
の中に対馬一誠さんも応援にかけつけています。

https://www.youtube.com/watch?v=nBSBKiuE8Rk
・・・いい内容の演説です。愛国者というよりは護国者です。というのは行ってみて思ったのは寺院よりは神社が圧倒的に多かったからです。

対馬海峡 プロモーションビデオ / 対馬一誠
https://www.youtube.com/watch?v=0r4DJUwhhRg


対馬一誠 対馬海峡 演歌百撰
https://www.youtube.com/watch?v=GYB05IyHh-I
・・・ステージの動画

対馬海峡 対馬一誠
https://www.youtube.com/watch?v=rYC32rt_QgQ
・・・海の上に航海する漁船が背景

対馬一誠(対馬海峡)
https://www.youtube.com/watch?v=p29BFRl45QM
・・・ステージで歌う動画


何と、名古屋在住の当時小学生4年の東亜紀ちゃんもカバーしていました。彼女も北九州出身だから縁歌ですね。必見の熱唱ぶりです。
https://www.youtube.com/watch?v=UBoTnrw3zDM

対馬市の市長選挙2020年02月07日

 アゴラに「対馬を学園都市にしてはどうか 〜 対馬市長選に想う --- 吉岡 研一」という論考があったので読んだ。行ってきたばかりの対馬市なので関心はある。厳原町の目抜き通りに民団長崎の事務所もあったからこの島でも在日韓国人が住民として何らかの権利確保を目指して活動中だろう。

http://agora-web.jp/archives/2044179.html
 これは日本第一党が対馬市長選挙に立候補する動きから出てきたものだろうと思われる。余りに唐突な荒巻氏の公約に対する論者の反論である。

緊急生放送 1/24】 日本第一党 対馬市長選挙への挑戦!
https://www.youtube.com/watch?v=8CQb8UaxGgg

https://blog.goo.ne.jp/88-64/e/86a0dd82e4ce9a3d945470b02934a159

良識ある日本人のみなさんこんにちは荒巻靖彦です。
日本第一党推薦候補者として長崎県対馬市長選挙へ立候補予定です。
https://aramaki-yasuhiko.osaka-firstjp.com/

 歴史的に対馬市は防人の島であった。島の至るところ、山地に朝鮮からの襲来に備えた城跡、日露戦争に備えた砲台遺跡があった。歴史的に見れば日本第一党の主張は唐突ではなく正論である。そこへ国の予算をつぎ込み、雇用も生まれるからいいアイデアには違いない。
 但し、時代は変わった。すぐ否定したくなるのは特アからのミサイルの標的になりやすいのではないか、ということである。島民はどんな投票活動を示すだろう。多分変革を好まないだろう。しかし今のままでは更なる人口減は避けられないことも確かである。日本全体の縮図でもある。
 えっ、私ならどうするか、うーん、例えば文学の島として売り込むことを提案する。万葉集にも歌われた長い伝統がある。島を観光や仕事で訪れた人が一首、または一句詠んで投稿する仕組みを作れないか。或いは村おこし的に対馬を詠んだ短歌と俳句を30首(句)投稿して1年に1回の対馬市内のイベントに招待するのも良い。
 例えば、短歌なら万葉歌人の名を冠する、俳句なら「河野静雲賞」、小説部門なら「吉田絃二郎賞」を創設して100枚以内の短編小説、ドキュメントを公募しても良い。高齢の歌人、俳人の旅にはちょうどいい規模の島である。

宮本常一『忘れられた日本人』より 「対馬にて」2020年02月01日

 対馬に関していろいろな本を読んでみたが、「忘れられた日本人」の中の以下の文は対馬は純然たる日本の村の風景と思える。沖縄はまだ行ってみたことはないが伝えられる写真など見てもいかにも中国風なのである。だから朝鮮に近い対馬は日本の中の異質な風景か、との先入観は実際に行ってみて打ち砕かれた。そしてこんな民俗学の走りのような文にもそれは伺える。防人の万葉歌に見る如く1400年もの昔から日本はこの島を死守してきたのだった。
 それが今、韓国人にちょっと土地を買われたからといって大騒ぎするまでもない。韓国が南下したらそれこそ日韓戦争になるだろう。あの美しい島を何とか守ってゆくにはどうするのか、考える時期が来たのである。
 ちなみに5万図の地形図を読んでも谷名になっている。沢名は一つもないので明らかに西日本の地名である。縄文時代からここは日本だったのである。大陸の文明を受容しながら例えば稲作、精錬などの技術を取り込んだ地域から弥生文化になったのではないか。そしてそれはほぼ愛知県でぴたりと止まった。対馬のように弥生文化になじまなかった地域が残った。
 対馬の緯度は東へ移すとほぼ東海地方で止まる。ここらが照葉樹林文化の東限だった。実際伊勢志摩などは対馬の植生の風景と似ている。伊勢といえば対馬には必要以上に神社が多かった。神道の島ともいえる。仏教は外来、神道は日本古来の信仰である。対馬は古代のままの日本の原風景なのかも知れません。

ソース:http://www1.ttcn.ne.jp/makime/mypage/1306/0630/tusimanite.html

            寄りあい

 伊奈の村は対馬も北端に近い西海岸にあって、古くはクジラのとれたところである。私はその村に三日いた。二目目の朝早くホラ貝の鳴る音で目がさめた。村の寄りあいがあるのだという。朝出がけにお宮のそばを通ると、森の中に大ぜい人があつまっていた。私はそれから、村の旧家をたずねていろいろ話をきき、昼すぎまたお宮のそばを通ると、まだ人々がはなしあっていた。昼飯もたべないではなしているのだろうかと思って、いったい何が協議せられているかに興をおぼえたが、その場できいても見ないで宿へかえり、午後区長の家をたずねた。区長はまだ若い人で寄りあいの席に出ており、家にはその父にあたる老人がいた。この村で区長をつとめるのは郷士の家の戸主にかぎられており、老人も若いときには区長をつとめていた。明治以前には下知役(げちやく)とよばれる役目であった。百姓は農中とか公役人とかいい、その代表は江戸時代には肝煎(きもいり)とよばれていたが、明治以後は総代といった。区長と総代がコンビになって村のいろいろの事をきめていくのである。

 さて私は老人からいろいろ話をきいている間に、この村には古くから伝えられている帳籍があり、その中に区有文書がはいっていることを知った。そこでそれを見せてくれないかとたのんでみると、自分の一存ではいかぬという。帳箱には鍵(かぎ)がかかっており、その鍵は区長が保管しているが、総代立ち会いでないとあけられないという。それでは二人立ち会いの上で見せていただけないかとたのむと老人は人をやって寄りあいの席から二人をよんで来た。事情をはなすと開けて見せる位ならよかろうと、あけてくれた。その夜は宿で徹夜でその主要なものをうつしたが、実は旅のつかれがひどいので能率はあがらない。翌朝になって、
「この古文書をしぱらく拝借ねがえまいか」
と老人の家へいってたのむと、老人は息子にきいてみねばという。きけば今日も寄りあいのつづきがおこなわれていて息子はその席へ出ているとのことである。そしてまた人をやってよんで来てくれた。すると息子はそういう間題は寄りあいにかけて皆の意見をきかなければいけないから、借用したい分だけ会場へもっていって皆の意見をきいてくるといって、古文書をもって出かけていった。しかし昼になってもかえって来ない。午後三時をすぎてもかえって来ない。
「いったい何の協議をしているのでしょう」
ときくと、
「いろいろとりきめる事がありまして……」
という。その日のうちに三里ほど北の佐護まで行きたいと思っていた私はいささかジリジリして来て、寄りあいの場へいってみることにした。老人もついていってくれる事になった。

 いってみると会場の中には板間に二十人ほどすわっており、外の樹の下に三人五人とかたまってうずくまったまま話しあっている。雑談をしているように見えたがそうではない。事情をきいてみると、村でとりきめをおこなう場合には、みんなの納得のいくまで何日でもはなしあう。はじめには一同があつまって区長からの話をきくと、それぞれの地域組でいろいろに話しあって区長のところへその結論をもっていく。もし折り合いがつかねばまた自分のグループヘもどってはなしあう。用事のある者は家へかえることもある。ただ区長・総代はきき役・まとめ役としてそこにいなければならない。とにかくこうして二日も協議がつづけられている。この人たちにとっては夜もなく昼もない。ゆうべも暁方近くまではなしあっていたそうであるが、眠たくなり、いうことがなくなればかえってもいいのである。

 ところで私の借りたい古文書についての話しあいも、朝話題に出されたそうであるが、私のいったときまだ結論は出ていなかった。朝から午後三時まで古文書の話をしていたのではない。ほかの話もしていたのであるが、そのうち古文書についての話も何人かによって、会場で話題にのぼった。私はそのときそこにいたのでないから、後から概要だけきいた話は、
「九学会連合の対馬の調査に来た先生が、伊奈の事をしらべるためにやって来て、伊奈の古い事を知るには古い証文類が是非とも必要だというのだが、貸していいものだろうかどうだろうか」
と区長からきり出すと、
「いままで貸し出したことは一度もないし、村の大事な証拠書類だからみんなでよく話しあおう」
ということになって、話題は他の協議事項にうつった。そのうち昔のことをよく知っている老人が、
「昔この村一番の旧家であり身分も高い給人(郷士)の家の主人が死んで、その子のまだ幼いのがあとをついだ。するとその親戚にあたる老人が来て、旧家に伝わる御判物(ごはんもの)を見せてくれといって持っていった。そしてどのように返してくれとたのんでも老人はかえさず、やがて自分の家を村一番の旧家のようにしてしまった」
という話をした。それについて、それと関連あるような話がみんなの間にひとわたりせられてそのまま話題は他にうつった。しばらくしてからまた、古文書の話になり、
「村の帳箱の中に古い書き付けがはいっているという話はきいていたが、われわれは中味を見たのは今が初めであり、この書き付けがあるのでよいことをしたという話もきかない。そういうものを他人に見せて役に立つものなら見せてはどうだろう」
というものがあった。するとまたひとしきり、家にしまってあるものを見る眼のある人に見せたらたいへんよいことがあったといういろいろの世間話がつづいてまた別の話になった。


 そういうところへ私はでかけていった。区長がいままでの経過をかいつまんでひととおりはなしてくれて、なるほどそういう調子なら容易に結論はでないだろう。とにかくみんなが思い思いの事をいってみたあと、会場の中にいた老人の一人が
「見ればこの人はわるい人でもなさそうだし、話をきめようではないか」
とかなり大きい声でいうと外ではなしていた人たちも窓のところへ寄って来て、みんな私の顔を見た。私が古文書の中にかかれていることについて説明し、昔はクジラがとれると若い女たちが美しい着物を着、お化粧して見にいくので、そういうことをしてはいけないと、とめた書きつけがあるなどとはなすと、またそれについて、クジラをとったころの話がしばらくつづいた。いかにものんびりしているように見えるが、それでいて話は次第に展開して来る。一時間あまりもはなしあっていると、私を案内してくれた老人が
「どうであろう、せっかくだから貸してあげては……」
と一同にはかった。
「あんたが、そういわれるなら、もう誰も異存はなかろう」
と一人が答え、区長が
「それでは私が責任をおいますから」
といい、私がその場で借用証をかくと、区長はそれをよみあげて
「これでようございますか」
といった。
「はァそれで結構でございます」
と座の中から声があると、区長は区長のまえの板敷の上に朝からおかれたままになっている古文書を手にとって私に渡してくれた。私はそれをうけとってお礼をいって外へ出たが、案内の老人はそのままあとにのこった。協議はそれからいつまでつづいたことであろう。

 私にはこの寄りあいの情景が眼の底にしみついた。この寄りあい方式は近頃はじまったものではない。村の申し合せ記録の古いものは二百年近いまえのものもある。それはのこっているものだけれどもそれ以前からも寄りあいはあったはずである。七十をこした老人の話ではその老人の子供の頃もやはりいまと同じようになされていたという。ただちがうところは、昔は腹がへったら家へたべにかえるというのでなく、家から誰かが弁当をもって来たものだそうで、それをたべて話をつづけ、夜になって話がきれないとその場へ寝る者もあり、おきて話して夜を明かす者もあり、結論がでるまでそれがつづいたそうである。といっても三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結諭が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理窟をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。

 このような協議の形式はひとり伊奈の村ばかりでなく、それから十日ばかりの後おとずれた対馬の東岸の千尋藻(ちろも)でも、やはり古文書を見せてもらうのに千尋藻湾内四ヵ浦の総代にあつまってもらったことがあり、会議がどれほど大切なものであるかをしみじみ知らされたのである。この四カ浦総代会は四百年以上もまえからつづいているとのことであった。それは四ヵ浦が共同して湾内でイルカをとるようになって以来のことである。四ヵ浦共有の文書を見たいと私がいい出したら、千尋藻の総代が、
「それでは四カ浦総代に使いを立てましょう」
といってくれたので、のんきにかまえて、ただ
「どうもありがとう」
ですましてしまった。ところが使いは小舟にのって湾奥の村の総代の家まで行かねばならない。片道一里はある。申しこんでから三時間ほどたって使いがかえり、他の三カ浦の総代に連絡がついたと知らせてくれた。地図をひろげて見て大へんな迷惑をかけたことに気がついた。

 一時間ほどたって三人の総代が舟できた。それぞれきちんと羽織を着て扇子をもっている。夏のことだから暑いのだが、総代会というのは厳重なものであるらしい。しばらくの間協議がしたいというので、私はその間別の家へ話をききにいっていたら、夜九時頃総代の宅まで来てくれという。いってみると表の間に四人があつまっていて夕はんもたべずに協議していた。さて、
「持ちかえることはゆるされないが丸一日だけお目にかけようということに話がきまりました」
と千尋藻の総代から話があった。その理由は帳面の中には四ヵ浦共有の網での魚のとれ高もしるされており、そういうものが外にもれるといけないからというのである。まことにもっともなことで、
「それで結構です」
と答えると、千尋藻の総代が、帳箱にしるしてある封印をきって蓋(ふた)をあけ、中の冊数をしらべて私に渡してくれた。それからお膳が出て夕飯になった。私もまだだったのでお相伴(しょうばん)にあずかった。折敷膳の漆塗(うるしぬり)の古びたもので、お膳の上には、ご飯に、ズイキの茎の煮たものとナスのつけものがのっている。こういうあつまりには昔からこの程度のふるまいがあるという。さて、食べながら四人からひとしきり昔のイルカとりの話が出たのであるが、おそらく五時から九時までの間の協議というのも、こうした話がつづけられたのであろう。その席にいたとしたら一々書きとめておきたいような話ばかりであったらしい。

 私はその夜もまた徹夜で帳面を写したのだが……そして私にはいささかの悲痛感があったのだが、外はよい月夜で、家のまえは入海(いりうみ)、海の向うは低い山がくっきりと黒く、海は風がわたって、月光が波に千々(ちぢ)にくだけていた。その渚(なぎさ)のほとりで、宿の老婆は夜もすがら夜なべの糸つむぎをしていた。
「月がよいので……」
と月の光をたのしみ、夜風のすずしさをたのしんで仕事をしていた。私は昼間も写しものに追われ、夕方やっと仕事をおえて総代の家へかえしに行き、夜はまた旧家をおとずれて話をきいた。その夜三人の総代はまた千尋藻の総代の家へあつまり、帳簿を帳箱に入れて封印し、夜十二時頃それぞれの浦へかえっていった。私が聞書を終えて、宿へもどると、渚の方で人声がして松火(たいまつ)のもえるのが見えるので、渚まで出てみると、ちょうど総代たちが家へかえるため船にのるところであった。私のために二日ほどたいへん迷惑なめにあわされたわけで、ほんとうに申しわけないことをしたが、総代たちに会食の酒代をといって包んだ金も、
「これは役目ですから」
といってどうしても受け取りもしなかったのだった。船が出るとき
「ご迷惑をかけてどうもありがとうございました」
とお礼をいうと、
「いや、これで私の役目も無事にすみました」
といって月夜の海の彼方へ船をこいでいった。

 こうした話を細々と書いたのは、昔の村の姿がどのようなものであったか、村の伝承がどのような場で、どんな時に必要であったか、昔のしきたりを語りあうということがどういう意味をもっていたかということを具体的に知っていただきたいためであった。

 日本中の村がこのようであったとはいわぬ。がすくなくも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄りあいが古くからおこなわれて来ており、そういう会合では郷士も百姓も区別はなかったようである。領主-藩士-百姓という系列の中へおかれると、百姓の身分は低いものになるが、村落共同体の一員ということになると発言は互角であったようである。
 同じ対馬の北端に近いところで、古文書を見ていたら、三百年近いまえの文書に宗(そう)氏の一族にあたる郷士の家が寄りあいに下男ばかり出すのはけしからぬと非難した文書があった。するとそういう会合に普通なら郷士の旦那(だんな)も出ていって一人まえの顔をして話しもし人の言い分もきかなければならなかったものと思われる。郷士が被官や卒士(そし)を持っておれば、それらの従属者にはずいぶん威張りもしたであろうが、一般村人となれば、別に主従関係はないのだし、寄りあいをサボれば村人から苦惜の出るのはあたりまえである。
 といって郷士と百姓は通婚できなかったり、盆踊りに歌舞伎芝居の一齣(ひとこま)のできるのは郷士に限られていたり、両者にいろいろの差別は見られたのである。差別だけからみると、階級制度がつよかったようだが、村里内の生活からみると郷士が百姓の家の小作をしている例もすくなくなかったのである。そしてそれは決して対馬だけのことではなかった。

 そうなると村里の中にはまた村里としての生活があったことがわかる。そしてそういう場での話しあいは今日のように論理づくめでは収拾のつかぬことになっていく場合が多かったと想像される。そういうところではたとえ話、すなわち自分たちのあるいて来、体験したことに事よせて話すのが、他人にも理解してもらいやすかったし、話す方もはなしやすかったに違いない。
 そして話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんなが考えあい、最後に最高責任者に決をとらせるのである。これならせまい村の中で毎日顔をつきあわせていても気まずい思いをすることはすくないであろう。と同時に寄りあいというものに権威のあったことがよくわかる。

 対馬ではどの村にも帳箱があり、その中に申し合せ覚えが入っていた。こうして村の伝承に支えられながら自治が成り立っていたのである。このようにすべての人が体験や見聞を語り、発言する機会を持つということはたしかに村里生活を秩序あらしめ結束かたくするために役立ったが、同時に村の前進にはいくつかの障碍(しょうがい)を与えていた。

吉田絃二郎の文学碑『島の秋』2020年01月31日

ソース:file:///C:/Users/user/Downloads/%E5%90%89%E7%94%B0%E7%B5%83%E4%BA%8C%E9%83%8E%E3%81%AE%E7%94%9F%E6%B6%AF%20(2).pdf

吉田絃二郎(1886~1956)の生涯から

    対馬時代 兵役期 (1906-1908 年)
 念願の早稲田大学文学科に入学するが対馬要塞砲兵大隊に入隊。国境の孤島での兵役生活をおくる。
明治 36 年佐賀工業学校卒業後、佐世保海軍工廠に働くが 38 年1月・向学心に燃える絃二郎は貧苦の中上京を決意し、ついに早稲田大学第二高等予科に入学。39 年9月待望の早稲田大学文学部入学。同年、徴兵検査の結果甲種合格。12 月1年志願兵として対馬要塞鷄知砲兵大隊に入隊。
 つづいて、41 年見習士官として重砲兵大隊に入る。陸軍砲兵少尉任官。国境の地対馬の練兵は激しかったが、生活は安定し幸福な時代であった。ただ、夜となく昼となく寒い朝鮮風が吹き荒れて、山は鳴り海は吼える玄海の孤島での日々は、度々郷愁に取りつかれることもあったが、これを慰めてくれるのはアルバイト先の東京神田の設計事務所で知り合った女性、後の明枝夫人からの便りや慰問の品々であった。
 後に、文学者として確乎たる位置づけをした短編小説「磯ごよみ」・「島の秋」はここを舞台としたもので、昭和 32 年上見坂公園内に、島の秋文学碑が建立され、対馬の人々の絃二郎に寄せる真情が窺われる。
■「島の秋」・・・自作について 絃二郎
 「対馬の兵営生活時代に、漫々たる玄海の波を眺め日から日、夜から夜と孤島の山の背をたどりながら行軍をつづけたころ感じた島の印象を叙情詩的な気分で描いてみようと試みた。」 私は、解剖のメスを持つ科学者の眼で人生を見ないで、直感の境に於いて自然と瞑合する詩人の心を持って人生を見たい。
 この心から出発して静観した私の人生はいつも死と悲哀と流転の相を背景として、刹那より無限に暗い一路を辿っているものであった。
以上
 対馬の地政的な経緯と吉田の動きを時系列に並べてみた。対馬の要塞化の経緯が分かる。吉田は山歩きも好きだった。山の随筆も残している。これも『日本風景論』の影響である。同時代の文人に俳人・前田普羅がいる。山岳俳句で一世を風靡した。友人には俳人・飯田蛇笏も要る。吉田、前田、飯田は偶然だが早稲田大学英文学の出だった。大正昭和の激動の時代の空気を一杯吸いながら文学に生きた。

明治23年 有明山の一等三角点選点
明治24年 御岳の一等三角点選点
明治24年 観音岳の一等三角点選点
*対馬の五万分の一の地形図作成のための三角点測量がはじまった。
明治27年 志賀重昂『日本風景論』発刊
*約15年間のロングセラー、15刷を重ねた。
明治32年 要塞地帯法制定
明治37~38年 日露戦争
明治38年 日本山岳会設立
明治39年 吉田絃二郎 早大に進学
明治39年 吉田絃二郎 志願兵として対馬に入営
明治43年 朝鮮併合
大正元年 五万図「厳原」等測量
大正5年 『島の秋』を早稲田文学に発表