笹又から伊吹北尾根を歩く2015年04月26日

 新入会した3人と旧人の5人で伊吹北尾根に行った。登山口は笹又にした。さざれ石公園に着いたのは9時過ぎ。以前登った記憶が全く無い。トイレに登山届けポストがあるので、ここが登山口と思いきやどうも違う。登山口特有の雰囲気が感じられない。しかし、思いつきで選んだため、地図は用意したものの忘れた。他のメンバーも笹又のところが欠けた地図のコピーしかない。何でも、国見峠発のルートを考えていたらしい。ネットでのチエックでは4/12の時点で峠直前で道路決壊で工事中とのこと。
 とりあえず、舗装路の続く車道に戻って走った。タイトなカーブの連続する車道を行くと所々に登山道の標示があるのでどうやらこの道で良いらしい。獣避けネットの取り付け工事に村中で取り組んでいるようだ。急斜面だがのどかな感じのする笹又を通り抜けた。更に羊腸の道を登ると終点らしい駐車場に着いた。比高約280mあるので1時間弱は楽した。獣避けネットの扉を開けて登山道に入る。
 家は標高470m付近に構え、畑作は標高750m付近まで展開していた。南向き斜面で耕作には良い条件である。旧春日村を地形図で嘗め回してみても平地は殆ど無い。谷底の村は日照時間が少ないから畑作には不向きだ。南斜面、緩斜面、大きな谷が無いという条件はむしろ好条件であろう。
 暖かな陽光がふりそそぐ畑を耕す風景は「耕して天に至る。以って貧なるを知るべし。」の言葉が浮かぶ。日本に来た孫文か李鴻章の吐いた感動の言葉という。そして、「然るに我が国土広大なるも国力に劣れり」と続く。日本人の勤勉性を称えたのであった。蒋介石は中国人は砂、日本人は粘土に例えた。ぎゅっと握って手を広げると砂はバラバラになるが、粘土は固まる。日本人は一致協力して不利を補ってきた。登山口の「さざれ石」はその象徴かも知れない。
 俳人・山口誓子は瀬戸内海の畑を見て
   天耕の峯に達して峯を越す
という俳句があるが、それに近いかも知れない。映画「裸の島」では瀬戸内海の島に住む夫婦の日課は畑にまく水を確保し、本州から毎日運ぶことだった。
 笹又には伊吹山から流れる沢水があるのでその心配は無い。道すがらに眺めた畑には沢から引かれたビニールホースがあり、蛇口付近には水の詰まった2リットルのペットボトルが沢山置いてあった。干天時の備えだろうか。畑は750m付近を境に終わった。2回目の獣避けネットをくぐる。つくしが一杯生えていた。そして杉の植林、自然林の森の中の道を登る。土の道から石灰岩の道に変る。浅い沢をまたぎ、急傾斜の砂ザレの道を登る。冬は雪庇があっただろう、場所は草も生えていない。やっと尾根に達した。尾根道からは伊吹山のドライブウェイの下部のトラバース道を行く。良く見ると、今日の目的だったハクサンハタザオの小花が出迎えてくれた。
 静馬ヶ原の分岐から1149m峰へ右折。メンバーの1人が1149mが静馬ヶ原という。えっ、それは何かの間違いではないか。それならば静馬ヶ原山と呼称するべきでしょう。大台ヶ原山、那須ヶ原山が思いつく。
 983m峰を乗り越してゆるやかに御座峰1070mに登頂。約2時間20分かかった。ここからでも能郷白山、白山の一部、虎子山、金糞岳、貝月山、小島山、池田山等が見えた。他のメンバーは先へ行きたがったが、ここで引き返した。久々の山行でもう十分なアルバイトになった。
 新人さんらを見ていると体が軽そうだ。登山を連続的にやっていると強くなる。登山の実践に優るトレーニングはない。油の乗った重い体を引きずりながら往路を戻る。帰りは薬草湯に入って帰名。
メンバーの報告によると
・カタクリ 
・ハクサンハタザオ 
・ネコノメとボタンネコノメ(ヨゴレといったネコノメ) 
・フッキソウ 
・ヤマエンゴサク
・ヤマルリソウ(ワスレナグサといった花)
・キランソウ
・ハシリドコロ(御座峰北側)
・ザゼンソウ(コバイケイソウのようなはえ方をした大    
きな葉っぱ)
以上  
他に私の見立てであるが、
チゴユリを見たが上向きに咲いているので?
一人静
二輪草
スミレ
ヤシャブシ
ウマノアシガタ
麓ではシャガの花

梅雨晴れの冠山を歩く2013年06月16日

 朝7時、友人と合流して揖斐川町の冠山へと走る。冠山峠に着いたのは9時半だった。早いものである。

 古い時代を知るものには隔世の感がある。いたずらに昔を懐かしむのは年を取った証拠だろうけれど、28歳ころ、レンタカーに乗って、馬坂峠を越えて、本郷へ下った。徳山村は明けたばかりであった。下りの道から朝餉の支度の煙が昇るのが見えた。徳山村初見であった。そして冠山に登るために峠へと走った。

 本郷から最奥の村、塚の更に奥に聳えていた。冠山は奥美濃のマッターホルンと呼ばれていた。特異な山容がそういわせたのであろう。奥美濃の初の登山だった。あれから35年の歳月が経過して、目ぼしい山はみな登った。励谷は登っていたが、湖底に沈む前にと競うように赤谷、金ヶ丸谷、根洞谷なども踏破できた。前夜発沢中一泊で切り抜けた。

 冠山はだから原点の山といってもいい。

 映画「ふるさと」に描かれた山村風景の懐かしさ。『徳山村史』を読んで歴史の古さを知った。

 今は東洋一というダム湖が出現した。渇水が言われるが、ここは満水に近い喫水線を維持していた。かつては羊腸の道を走ったが、今はトンネルと橋でつないであっという間に冠山峠に行ける。

 峠の福井県側、岐阜県側とも想像以上に多数のマイカーが止まっていた。梅雨時最後のチャンスと見たか。多くのハイカーが登ってゆく。登山道は一旦ピークを踏んで結構下って登りかえす。途中のブナの原生林に霧が流れて素晴らしい。朴の花が遠くに見える。アザミの花、タニウツギ、ユキザサの花、ギンリョウソウも見える。やがて、冠平への道を分けて山頂へは最後の登りが待っている。北アルプスの岩場のような登りが続いて、薮に隠れた道を登ると山頂だった。
 しばらくすると徳山ダム湖も俯瞰、冠平も小さく見えた。山頂を辞して下り、冠平へ行くと、ニッコウキスゲの花が美しく咲いている。これからの花である。登山道に戻って、往路を引き返す。
 峠に下って、R417を走る。徳山会館に寄った。職員としばし雑談に花を咲かせた。きはだの話をした。森本次男『樹林の山旅』にでてくるキハダの村のこと。キハダならあるよ、と教えてくれた。何と試食もできて、苦味を味わうことができる。世界に土産物多々あれど、苦味で売るのはこれだけであろう。一袋300円。ウツに悩む友人に買った。以前、よくキハダのことを書いていた。山でキハダを見つけると嬉しがった記憶がある。
 藤橋村の道の駅で入浴。駐車場には一杯の車が溢れていた。その帰りにはアユ料理をと、道草にも熱心だった。揖斐川沿いにはなく、根尾川沿いにでてヤナの店に入って賞味できた。
 
 梅雨時というのに崩れそうにない良い天気で終わった。

続・北アルプス・剣岳に登る2012年07月31日

雷鳥も眠りから覚めた。
 7/29(日)午前3時過ぎ、目覚める。3時半に起床、3時45分に小屋を出発。ヘッドランプを点けて登り出す。すでに先をあるく人もいる。剣沢からのヘッドランプが列を成して向かってくる。
 一服剣までは一と登りの行程だ。頂上2618mに着くと先行者は出発して行くし、休まずに行く人もいる。薄明かりの中を次々に登ってくる。そんな慌しさにも関わらず、朝食の弁当を食べた。富山県の小屋の米は抜群にうまい。コシヒカリの本場だからか?
 さて、後続者が途切れたところで、ヘッドランプを仕舞って出発だ。山頂からは岩場を降りてゆく。鞍部に降りると右から武蔵谷の雪渓が上がっている。前剣への湾曲した稜線を登る。岩場のざくざくした登山道を登ると皆が騒いでいた。雷鳥が砂場で砂浴びをしていたのだ。2mほどに近づいても逃げない。氷河期の生き残りというが性質は大人しく、何故そんな生命力があるのか不思議だ。多分、生存に最適な環境ではないところで、競争相手が居なかったからか。体毛は冬は白く、夏は枯れ木、岩の色の羽で覆われる。外敵から目立たないように身を守っている。
 ダーウインの法則によれば進化するものしか生存できないことになるが、今西学による、住み分け理論にかなっていると思う。賢い、強い、カネがある、人脈がある、政府に保護されているような企業でも生き残れない。時代、環境に適応できる企業が生き残れるのは生物界の原理を応用した考え方だ。雷鳥に学ぶのは「恵まれている」ことは生存の絶対条件ではないのである。
 鎖は何箇所もあるが番号がある。ここでは3番だ。鎖があるということは急俊な地形になったことである。遠望しても岩を筋肉に例えたいくらい隆々とした岩尾根であった。あっという間に一服剣が眼下に納まってゆく。
 前剣への登攀の難場を過ぎて又難場を通過する。蟹の横ばい、縦ばいといった名前のついた箇所はクライミングの要素が強い。ザイルではなく、鎖で固定してあるから安心だがボルトの足場を踏み外すと転落する。重症か死亡の危険大である。前剣の頂上でももう随分高度感はあるが眼前に頂上を見るとまたファイトを維持する。前剣を過ぎると有名な平蔵谷の雪渓が登ってくる。隣は源次郎尾根だ。かつて若いクライマーの血を滾らせた尾根である。但し、今西さんは「初登山」の中で、すでに山頂が踏まれた後での尾根の初登攀の価値には疑問を呈していた。わずかXmか違っても、初登攀という記録至上主義は幼い精神と思う。
 早月尾根の分岐の道標を左に見ると山頂は近い。多くの登山者が休んで記念写真に余念がない。我々も他の人にシャッターを押してもらって記念写真に納まった。少し離れたところには3等三角点が埋まっていた。以前はなかったものだ。
 残念だが今日は霧に包まれて何も見えない。昨日はよく見えたのにもう水蒸気が増えたのである。日本海に近い条件がそうさせるのだろう。晴れるのを待っていることも出来ないので下山した。往路を何箇所かで下り専用のルートを設けてある。
 一服剣まで来ると剣山荘が見えた。美しい雪渓の縞模様の剣沢が俯瞰できた。この周辺は北アルプスの中でも秘境といっていいだろう。11時半、剣山荘に着いて、すぐにデポしておいた荷物をパッキングをし直し、外のテラスで昼食とした。再登とはいえ、ささやかな安息、満足感に浸る。
 12時過ぎ、別山乗越に向かって重い足を向けた。途中でこのまま雷鳥沢の小屋で泊まる3人と名古屋へ帰る3人とを分けた。少し、ピッチを上げた。終バスは17時40分、(後で16時もあった)に乗り遅れてはいけない。室堂へは快調に飛ばし、15時半に着いた。16時のバスに何とか乗れたのである。
 立山駅に着いてからは、ウドンを食べたりして休憩をとった。行くときは騒然としていた駅周辺も今は閑散としている。車にのってまずは亀谷温泉に向かった。白樺ハイツで一風呂浴びた。600円也。ようやく人心地ついた気になった。

北アルプス・剣岳に登る2012年07月30日

剣岳
 7/27夜、やってもやって湧いてくるという仕事を断ち切ってS君と合流できたのは午後10時30分くらいだっただろうか。今時、仕事がなくて困っている人が多いの言うのに消費増税を見込んですでに動き出しているそうだ。車中でしばし、そんな世間話をしながら立山へと向かった。
 東海北陸道のどこかで12時になるSAかPAで車中泊と決めていたが、S君は夜通し走りたいという。現地で車中泊としたいらしい。が、それをやると運転の興奮でもう眠れないし、寝入った頃に夜明け、続々入ってくる車と人の周囲の騒々しさが経験的に蘇る。結果、ひるがのSAが比較的空いているのでそこに決める。標高800mの高原の気温は18℃と小寒いくらい。猛暑の名古屋が信じられない。ここで2時間弱、仮眠した。そして又走る。立山ICを出て、立山駅のPには4時半着。がら空きの臨時Pでまた1時間ほど体を横にした。起きてみると周囲は満杯の状況だった。
 7/28、午前6時発のケーブルカーに乗車して出発。美女平からはバスで室堂へ。もの凄い人人人の群れ。朝食をとってから剣山荘へ向かう。雷鳥沢キャンプ場までは下り気味の遊歩道を歩く。色とりどりのテントが懐かしい。ここまではキャンパー、ハイカーも混じるがこの先は登山者の世界になる。道も遊歩道からザクザクした登山道へ変わった。別山乗越に向かった。すでに日は高く上がり、夏の陽光が容赦なく降り注ぐ。わずかにある日影でほっとする。
 別山乗越に着くと雄山方面の縦走路と交差する人で賑わう。我々はここから剣沢を下った。雪渓が意外なほど多い。北面ということもあるが今年は雪が多かったそうだ。雪渓を横切り、ハイマツの切り分けを歩く。雪渓の端からは雪解け水がサラサラと流れ出し、涼味満点である。手を浸すと切れるように冷たい。
 ハイマツの間には様々な高山植物の花が咲いている。2ヶ月ほどの春と夏と秋を足したような夏を謳歌するのである。チングルマの一部はもう花が落ちて綿毛になっている。これに水滴が着くと花よりも美しい。シナノキンバイ、ハクサンフウロ、クロユリ、ナナカマド、ヨツバシオガマなど他にも知らない花が一杯咲く。
 一と山を越えた長い登山道を歩き終えた。剣山荘が眼下に見える。一度壊れて新築されたらしい。もはや登山小屋というよりは立派な構えの旅館である。実際、下界の旅館の1年分の売上を登山小屋は夏山の期間中に稼いでしまうそうだ。1泊2食で9000円也。「ちんぐるま」という個室をあてがってもらえた。ザックを室内に持ち込めるのがありがたい。
 お昼ごろに着いたが、とりあえずやることは寝不足を取り返すことだった。明日のパッキングをしたり、シャワーも浴びて、体もすっきりして、夕飯までぐっすり寝た。気温も低いし、快適な自然環境にある。こんな贅沢はないかも知れない。

 約34~5年前、山岳会に入会してすぐの夏山合宿は剣岳だった。あの頃は、高山線の夜行に乗り、富山駅で地鉄に乗り換え、立山駅から後は今と同じルートであったと思う。テントにキスリング、ニッカーホースのズボン?、ホエーブス、使い込まれた凸凹のコッヘルなどどれも懐かしい。自分達で担ぎ上げた食料を調理して食べた。剣沢のテントサイトで一夜を明かした。
 今は楽して小屋泊まり。雲泥の差がある。
 そして、翌朝4時、テントを出て驚いた。何と、ヘッドランプの行列が一服剣の方へ連なっていたのだった。唖然として眺めた。エー!という感じだった。今も昔も登山者に大人気の山であった。それが新田次郎の小説に題材を得て、映画にもなった。映画になってから人気が出たわけではないのだ。
 今回も恐らく、ほとんど同じルートを往復したが難所での行列は昔と変わりないだろう。若い人が多かった。

中央アルプス・摺古木山を歩く2011年08月06日

 夏のハイキングの条件は樹林の山であること、即ち緑陰を得られること、花の山、水の多い山、標高が高い山などから選ぶことになる。話を持ちかけられてとっさに思いついたのは摺古木山だった。かつて家族連れハイキングでも好評でスイカを持参して喜ばれた。今回もスイカを持ち上げた。6名が参加。
 山道の草刈られおり登山口

 病葉を手によく見ればナナカマド

 木曽からの夏の山霧越えて行く

 高原の吹き上げる風山涼し

 うなだれる一薬草の花白し

 リンドウの花重たげに咲き初めし

 八月やアキノキリンソウ今盛り

 登頂す四方を遮る霧の山

 頂上や美味し美味しとスイカ食う

 山清水両手で掬い飲み干せり

 炎天のナゴヤの街に帰りけり

礼文島のエゾカンゾウ2011年08月02日


黄色が鮮やかでした。


雌阿寒岳のコマクサ2011年07月29日



霧雨を喜ぶように可憐に咲く

北の山旅・船旅-後半2011年07月13日

7/7 千歳空港でSAKUさんを見送り、SAKAさん、KUさんを出迎えた。空港内のレストランで夕食をとって前半と後半の入れ替えを行った。取って返して道東道をひた走る。途中帯広付近で燃料が不安になり、SAの緊急電話で深夜でも給油してくれるスタンドを紹介して貰い、高速を降りて市中で給油した。道東道にはSAといえどもまだ給油サービスがない。その後も高速に戻り足寄まで走ってR241に出る。コンビニで明日の行動食を買いながら深夜の国道を突進。午前1時過ぎ、目標の阿寒湖畔のホテルに着いた。未明6時まで仮泊。
7/8 6時ホテルを出発。6時45分登山口を出発。雌阿寒岳登頂後、知床半島を目指す。途中スーパーで買い物を済ます。羅臼岳登山口にある木下小屋に入る。木下小屋では自炊となる。今回は野菜と肉の炒め物に不足しがちな青い野菜を多めに摂った。小屋は太陽電池採用とのことだったが持参した電気釜を使うことができた。このためにご飯を炊くことができた。明日のおにぎりも手作りとなる。
7/9 3時起床4時出発。急登の後は極楽平と呼ぶ平坦な尾根を漫歩する気分で歩けた。大沢出会いからは雪渓歩きとなり涼しい気分を味わった。ここも花の山だった。沢の詰めの急登後、羅臼平に着く。ハイマツの海だった。
 ここから岩清水を経て山頂へは小さな雪渓を登り、岩間の道を攀じ登って1時間弱で登頂。山頂にはオーストラリヤからの外人登山者も再び出合う。来日して7年目だが流暢な日本語と心理面でも理解が深く賢そうな若者だった。
 羅臼岳登頂後、同じ道を下山する。木下小屋に別れを告げて斜里岳登山口の清岳荘を目指す。途中スーパーで買い物を済ます。
7/10 3時起床するも朝から雨。午後には止むの予報もあるが帰名の日である。止む無く断念する。代替案として旭岳のロープウェイで姿見池でお茶を濁すことにする。
 大型の観光バスが次々入れ違いに登って行く。ツアーの団体だ。管理人の話では毎日数台以上来るらしい。百名山詣でである。我々もそうなんだが・・・。複雑な気持ち。管理人の仲介でやっぱり登頂を断念した男性を1名便乗させてJRの最寄の清里町駅まで送る。駅名をナビに入力したが町が一字抜けていてもあの小海線の清里駅しか出てこない。駅から再び道内を経巡るロングドライブの始まりだ。雨、小雨、大降り、小止みと変化が著しい北の空だ。
 松尾芭蕉の「名月や北国日和定めなき」は北陸の天気の不安定さを嘆いたのだがわたしなら「荒梅雨や蝦夷に似合わぬ山日和」かな。忠別川の濁流を横目に大雪山のロープウェイ乗り場に着く。
 往復2800円也。雨の中にしては多きハイカーだった。駅では福島県の被災者夫婦も居てスイカのおすそ分けに預った。美味い。
 下山後は山麓の温泉で汗を流す。その後は苫小牧港に走るが西港に行ってしまい東港へ移動するハプニングも。23時30分出航。
7/11 日本海を終日航海後午後8時半敦賀港着。帰名は夜10時過ぎとなった。船内は蒸し暑く、裸で就寝するが次第に冷房が効きはじめて小寒くなる。しまった、と思ったときはもう風邪を引き始めていた。夏風邪というよりは冷房病に近い。帰名すると38℃の高熱があった。変なことになったなと思って医院に直行。今日はもう36.7度まで下がりましが・・・。
  夏の風邪治れば思う蝦夷の山   拙作

北の山旅・船旅-前半2011年07月12日

7/1から7/11までの北海道の山旅を無事終えた。

7/1 夜新潟港23時発のフェリーに乗船
7/2 は洋上生活
7/3 早朝小樽港上陸。これで四度の小樽の朝はいつも早々と通過するのみである。いつか再び訪れることがあれば夜の小樽の旅情も味わいたい。
 周囲の山々はすべて若い緑に満ちている。白い北海道しか知らなかった目には新鮮である。7月の北海道は万緑の大地。
 高速道路、一般国道をひた走り、ハマナスの花を横目にホロベツ原野も通り抜けて稚内市を目指して北上。稚内市に午前中に着いて予定より一時刻早い船に乗船できたので礼文島経由で利尻島に上陸。
 礼文島ではわずかな梅雨の晴れ間に恵まれて花を愛でる束の間のミニハイキングを楽しむ。近くには利尻富士の立派な山容が洋上に浮かぶ。浮雲が山頂を取り巻く。その後、礼文島から利尻島に移動して投宿。
 4月に新築されたばかりのペンションだった。露天風呂からは利尻を眺められて利尻尽くしの宿になっている。登山口にも近い。
7/4 3時起床。4時、登山口まで女将さんがマイクロバスで送ってくれる。登山口は4時15分出発。道警のお巡りさんから1名の行方不明者の捜索に協力を依頼される。まもなく行方不明者と思われる高年の登山者に遭い、捜索されている旨を告げて別れる。
 登山道は針葉樹林の森の中で本州の北アルプスと同じ植生の中にある。緩やかな山麓の道を登ると植生も低潅木の中を歩くようになる。ウツギ、ナナカマドなどが花を咲かせる。長官山への急登を終えるとしばらくは緩やかなアップダウンになり、避難小屋に着く。
 避難小屋からは霧が濃い。周囲の景色は何も得られぬままひたすら尾根を登る。9合目からはロープが頻繁に出てきて、登山道も深く掘れて荒れている。傾斜は非常に急になり、足場もますます悪い。
 登頂は10時15分。約6時間の長丁場だった。登頂の喜びは要した苦労の関数という。そうではあるが霧で何も見えなくては単なる満足感でしかない。滞在時間も短くすぐに下山を決めた。すれ違いに多数のツアー登山一行、個人登山者が登って行く。降り始めた雨もなんのそのである。
 避難小屋で12時となり、昼食。雨で避難して混雑していたがゆっくりしているとツアー一行も下山して我々のみになる。入れ替わりにまたツアー一行が来たので小屋を出て下り始めた。長官山では1等三角点を探した。目に付くところにはないのでロープで閉鎖された踏み跡に分け入るとあった。最北のといいたいが礼文岳に次ぐ北の1等三角点である。
 ずぶぬれになりながら狭い登山道を下った。登山道には水が溜まり、濁流となって流れている。たびたび左右どちらかへ水を逃がしてやった。ようやく治まったのは針葉樹林帯まで来てからだった。いつだって森の中は安らぐ。
 傾斜も緩くなり、登山口が近づいた。日本百名水の名水も過ぎて登山口に着いたのは16時10分。約12時間の山旅だった。宿に連絡して迎えに来てもらった。風呂に入り、夕食でもてなしてくれる宿はありがたい。
前夜のメインディッシュは焼き魚、ミニ鍋中心、二泊目の今夜はウニ丼である。女将からはサービスのワインも供された。
7/5 早朝朝食をたっぷり摂って宿を出た。すぐ定期船で渡らねばならないからだ。日本百名山をいくつもの踏破を目指す旅では離島でゆっくりもして居れない。
 下船するとすぐに次の目的地=十勝岳山麓白銀荘までロングドライブの開始だ。広大な農地の中の国道を突進する。
 美瑛町まで来て、スーパーで買い物も済ませる。白銀荘に来るとすぐに食事の支度である。ここはかつて正月休みに来て泊まった。旧山荘時代を含めて2回利用している温泉付き自炊旅館。海産物中心の鍋物にした。
7/6 3時起床4時30分出発。実は山荘の開門は午前5時とのこと。ベルで管理人を起こしてしまったから不機嫌な顔をしながらも開錠してくれた。小雨の中を出発するが十勝岳登山口などの看板はない。それでまたうろうろ。起きていた人から聞いてようやく出発した。山スキーならばシュプールの跡を追っていけば検討が着くが登山道があると入り口をしっかりチエックしないと大変だ。登山口だけでなくすぐの渡渉地点でもわずかな違いで登山道から離れてしまった。地形図で爆発記念碑を確認し、やや下って小さな沢を渡るのだが・・・。
 これから高い所へ登ろうとする人間の気持ちは自ずと上流へと向かうので渡渉地点も上流を探すことになる。しかし、踏み跡は上流へと向かっていない。私はちょっと戻って対岸に看板と踏み跡を見たので飛んでみた。かすかな踏み跡はある。歩いてみると上部で道で藪に消える。他の人も追随してきたが自信を得られず渡渉地点まで戻った。大体こんな超有名な山でRFに苦しむなんておかしいのだ。いくら濃霧であってもだ。
 そのうちKさんが石に白いペンキの印を見つけて行ってみるとそこが登山道だった。目と鼻の先にある。濃霧だとこんなものでも見えないのである。
 避難小屋に着いて一休み。そこからは寒気を覚える風と霧の中を黙々登るのみだった。かつての正月休みには白い霧とホワイトアウトの中に消えてゆくスキーヤーの背中を見ながらここで引き返した。
 今夏道を登って見ると急で目標物に乏しく、風が強い中では引き返す判断は間違っていなかった。無雪期の地形を知っている人ならいいが初めての登山者には難しい。
 ようやく十勝岳に登頂したものの濃霧で何も見えず。昼食もそこそこに下山した。避難小屋で昼食とした。わたしが山スキーで訪れた時の小屋は雪崩で倒壊し、新たに地元山岳会などが再建した。まだ新しいものだった。
 下山後は十勝岳温泉凌雲閣に泊まる予定で上げ膳据え膳であるがチエックインまで時間が余るので車で山を下って美瑛の観光お花畑などを見学して時間をつぶす。
7/7 3時起床4時出発。一般登山道を辿って登りはじめる。すでに駐車場は満杯だ。安政火口を経て山裾のトラバースする道を辿るとまだ雪が残る。登山道の脇には豊富な高山植物が愛らしい。花の山らしい。富良野岳登頂後、周囲を見晴るかす大展望を楽しんだ。
 ある年の元旦、たった一人でこの頂上に立った時は白暟暟の白い大地だった。それが今は若い緑の大地だ。足元には短い夏を争うように高山植物が咲き競う。展望と花を堪能した後は下山。宿で入浴した後は千歳までの大移動がある。一旦、岩見沢へ出て千歳に向かった。

越前・金比羅山の三座を歩く2011年06月19日

 武生ICに入る前に越前蕎麦を賞味。名物のおろし蕎麦。近くにある湧き水を利用した調理にこだわる小さな店ながら満席だった。

 南条SAで仮眠後、福井ICまで走り、まず625mの金比羅山に向かう。かなりの複雑な道を紆余曲折しながら目的地へ。登山口には比較的立派な道標があって登山道もしばらくは草生す感じだが登ると広くなり良くなる。右に左に振りながら尾根に達すると風が心地よい梅雨時の山歩きです。
 至近距離の梢にはホトトギスが盛んに鳴いています。遠くではドラミングの音も聞こえます。近くの小枝をバタバタコガラらしい小鳥が騒ぎます。
 山頂には最近電波反射塔が設置されて周囲の樹木が伐採されて見晴らしは良かった。左から部子山銀杏峯をはじめ南へ能郷白山などの越美山地の山々が雲に浮かんで見えました。
 尾根には珍しい植物があり、名前を知らない花が咲き誇っていました。二人静に出会えるなんて嬉しいものです。樹上に一杯咲き誇る白い花は何?ヒメシャラ?ナツツバキ?
 おなじみのヤマボウシ、ガクアジサイも。

 次は347mの金比羅山へ。これも地図と首っ引きで紆余曲折を経て登山口に辿りついた。林道工事中の人に道を乞うたが知らないという。
 地形図とチエックするが車を止めた辺りに的を絞って尾根を登ると竹林の中に山道が見える。新しい林道は登山道を拡幅する感じである。そうと分かれば登山道に下りて合流する。
 いい道を辿ると壊れかかった社と建て替えられた社が建つ山頂だった。三角点が薮を分けてすぐの高みに見つかった。余りハイカーも訪れることもないようだ。
 下山はある程度下って行きに目処をつけた尾根の踏み跡を下った。最初うろついた林道に降り立った。ここには笹百合が咲いていた。


 最後は帰る途中偶然見つけた金比羅山宮の看板に引かれて入ってみた。山間の美しい田園地帯から山の深みに登って行くと駐車場がある。そこから境内を登ると立派な金比羅宮が祭られていた。日本海の漁の関係者の尊敬を集める神様のようだった。
南西に聳える顕著な独立峰は鬼ヶ岳533m。いい山だ。

 越前のドライブというと高速道路かR8周辺になる。一歩日本海側の山地に分け入ると美しい山間の田園風景が広がる中に信仰心の篤い人々の山里に心が洗われる思いがする。
 実は金比羅山宮の前には織田信長の先祖を祭る剣神社にお参りしてきたのであった。織田家は代々この神社の神官だったようだ。織田家発祥の地というふれこみである。そんなわけで尾張とも縁が深い。