シラタマホシクサ群落を見る2022年09月24日

葦毛湿原にて
 台風一過で久々に秋晴れを見る。新城市の会合は午後からなので少し早めに出て葦毛湿原のシラタマホシクサの群落を見学した。結構多くの散策者がいた。人気のある草花である。

 今日はコロナで沈滞していたサンエンケンの総会を3年ぶりにリアルで開催することとなった。会場はいつもの新城市富岡のふるさと会館。
 13時30分開会。会長あいさつ、各スタッフのあいさつや方向などが活発に話し合われた。3年間の事業萎縮期間中に会員の退会、高齢者の役員辞退など深刻な議題もあったがそれほど深まらず、進行した。
 経済活動がこれだけ自粛させられては沈滞してしまったのも無理はない。今後どう盛り返すか、である。
 今回の講演のゲストスピーカーは『江戸藩邸へようこそ 三河吉田藩「江戸日記」 (インターナショナル新書)』の著者の久住祐一郎氏を招いて行われた。この種の研究家はけっこう根強いものがあるなと感じた。
 過去にも2003年に磯田道史『武士の家計簿―「加賀藩御算用者」の幕末維新』が出て話題になった。加賀 樹芝朗『朝日文左衛門『鸚鵡篭中記』 (江戸時代選書)』などがある。

まだ未熟ながら初音を聴けとこそ 拙作2022年04月05日

 4/2の八曽山にて。登山口から歩き始めたらいきなり鶯が鳴いた。まだ鳴き方が下手なレベルで修業中であろう。声の方へ近づいても逃げず、一生懸命に啼いている。下手なところがおかしくもある。まるで私に聞いて欲しいわ、と訴えているかのようだ。

宙からの贈り物めくハルリンドウ 拙作2022年04月03日

八曽山の湿地に咲くハルリンドウ
 4/2の八曽山の湿地で見た植物。まるで宇宙から降ってきたかのような鮮やかな青い色の春竜胆の花は異色でした。

シデコブシ乙女がぽっと染まるごと 拙作2022年04月02日

八曽山のシデコブシ
古今集「仮名序」の原文

 やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
 世の中にある人、事業(ことわざ)、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。

 花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。

中略

 かくてぞ花をめで、鳥をうらやみ、霞をあはれび、露を悲しぶ心・言葉多く、さまざまになりにける。

 遠き所も、出で立つ足下より始まりて年月を渡り、高き山も、麓の塵泥よりなりて天雲棚引くまで生ひ上れるごとくに、この歌もかくのごとくなるべし。
以上
・・・八曽山にシデコブシを見に登った。昨年は5月過ぎだったから開花は終わっていたからこの時期を狙っていたのである。期待に違わず咲いていてくれた。本当に美しい花です。
 古今和歌集の序文の通り、歩み出すとツツジのピンクの花がお迎えしてくれた。藪になくウグイスは今はまだ新入社員教育のように練習中で鳴き方は下手だった。これからだ。山頂に登ってみたが濃尾平野は山霞に霞んで、伊吹山すら見えなかった。

白やピンクの彩り、シデコブシの花が見頃 愛知・田原市の藤七原湿地2021年03月22日

白やピンクの彩り、シデコブシの花が見頃 愛知・田原市の藤七原湿地
https://news.yahoo.co.jp/articles/28c02a61f8c1c70861561ca3ee6e41090706cbcf
 愛知、岐阜、三重県内にしか自生していないといわれるシデコブシが例年より早く、白やピンクの花が咲き始めました。

 シデコブシは例年、3月中旬ごろから花が咲き始めますが、愛知県田原市によると、同市田原町の藤七原湿地(とうしちばらしっち)では今年、春先の気温が高かった影響か、今月4日に咲き始めたということです。

 シデコブシの花は、来月上旬まで楽しめるということで、田原市は開花状況を市のホームページで案内しています。
以上

・・・いよいよ開花したようです。東濃のどこかの山へ見に行こうと思います。
1多治見市虎渓山町 虎渓山のシデコブシ群生地

2ー1瑞浪市大湫633m:開発の手が入っておらず、自然状態のシデコブシが観察できる。

2-2瑞浪市釜戸町「竜吟の森」:シデコブシ自生地。竜吟湖の周囲には移植されたシデコブシやタムシバがある。

3恵那市大根山751mの北麓:標高500~600mのところに自生するシデコブシの群落が見られる。比較的自然に近い状態で生育している。

4中津川市千旦林の岩屋堂シデコブシ群生地:モクレン属の落葉低木性植物であるシデコブシ(Magnoliastellata)は、伊勢湾を取り囲む丘陵帯の限られた地域に分布する地域固有種(東海丘陵要素)で、湿地周辺に生育している。しかし、近年、開発等により自生地の消失や分断化が急速に進み、絶滅危惧種に指定されている。
岐阜県の東濃地方は、「土岐砂礫層」の特性から、湿地群が連続し、これら湿地群を中心にシデコブシが生育し、他の分布域にはみられない大きな分布面積の自生地がある。
この群生地も、周囲の段丘部から染み出した地下水によって形成された湿地で、426本(154株)のシデコブシがあり、東濃地方を代表するシデコブシ自生地となっている。

5土岐市泉町:7,500本の県下随一の群落を形成している。

自粛疲れ?都会離れ「コロナ疎開」2020年04月06日

ソース:https://www.yomiuri.co.jp/national/20200406-OYT1T50058/
大見出し:自粛疲れ?都会離れ「コロナ疎開」…地方は困惑「本来ありがたいが」

 新型コロナウイルスの感染者の増加を受け、東京都や大阪府などの大都市から地方に旅行したり、一定期間滞在したりする人が目立っている。インターネット上では「コロナ疎開」との言葉も使われる。ウイルスからの避難や「自粛疲れ」などが背景にあるようだが、専門家からは感染拡大の危険性が指摘され、各地で困惑が広がっている。

中略

「3密」避け冷静対応を 専門家呼びかけ
 政府の専門家会議メンバーの押谷仁・東北大教授は、都市部から地方への避難について、「新型コロナウイルスが拡散する恐れのある行動で、避けてほしい」と呼びかける。

 地方都市の中には医療機関の備えが不十分なところが多く、高度な医療が提供できる施設も限られる。住民に高齢者が多いこともあり、都市部から感染が波及すると、大きな被害が出る可能性があるという。

 押谷教授は、「密閉、密集、密接が起こる環境を避ければ、感染者が増えている東京や大阪でも普通に生活できる」と説明し、冷静な対応を求めている。
以上

・・・・そういえば、名古屋市でも4/4(土)の朝8時過ぎは車が多かった。名二環から一宮JCT経由木之本ICまで利用したが、養老SA辺りまでは車が多かった。関ケ原ICを過ぎてから交通量は激減したかに思う。
 木之本ICからR8に出てもやはり車は多く、サイクリストも良く見た。JR永原駅のPは数台の車で閑散としていた。輪行袋を抱えたサークルも見かけたが数は少ない。私はより人の居ない山中へと分け入ったから「三密」は回避できている。万路越えから無名のコブで3人に会っただけ。
 海津大崎へ下山後は、予想ではマキノ町のHPで有名な花見のイベントを中止したから閑散としているかと想像したが、県道は一方通行で渋滞中であった。ナンバーは滋賀県が圧倒し、他に京都府、福井県くらいで都会からの他県ナンバーの「コロナ疎開」はなかったかに思える。交通監視員に聞くと、それでも例年よりはうんと少ないのだとか。
 こちらはマキノ駅から永原駅まで乗車したが、駅のホームでは私一人、車内の乗客も閑散。下車する人もちらほら。マイカーに戻るとあとは接触は地元スーパーでの買い物以外は自宅までほとんどない。一宮JCTではいつもの渋滞はなく、名二環もスムーズだった。愛知県民は自粛を守っているのだろう。帰路は早かった。帰宅後は手洗い、入浴、うがいをして就寝。
 自粛で室内にいると読書するくらいしかない。あるいは隅々の掃除とかはこの機会にやるが気は進まない。やっぱり人は他人との接触の中で生きている。そういう形で物事は進んでゆくものなんだな。

鎌田則雄山岳写真展「遥かなる日本の山々」開催2019年05月14日

 朝6時半ごろの地下鉄に乗る。この時間帯はまだ辛うじて座れた。もう少し後になるほどすし詰めになり呼吸も困難なほどに混む。伏見駅で下車して名古屋観光ホテルへ。ちょっと早すぎてまだ閑散としているがぼつぼつ集まりだしてはいた。
 早朝に朝食を一緒に食べて、共通の話題で1年間の会合を持つ。今日はクラブAの総会(大学の同窓会)である。約50名以上は集まったと思われる。事業報告、決算予算など報告され議事進行する。
 終わった後、若い弁護士のMさんが声をかけてくれた。3月のスピーチで、登山40年・・・山歩き人生40年・・・登った、読んだ、書いた・・・を聞いて何がしかの印象を持ったらしい。コーヒーを飲みながら山談義した。
 その後、広小路通りを徒歩で栄まで歩く。少し見ぬ間にも、丸善ビルの取り壊しに続き、今は東海銀行本店ビルが取り壊し中だった。次は丸栄も囲まれて取り壊し工事が進んでいるようだ。そして親しまれた中日ビルまでもが一部を囲まれて取り壊しに入っている。
 中でも東海銀行本店ビルの消滅は、東海銀行山岳部の知友20名くらいと交流していただけに一時代が終わってゆく寂しさがある。最後まで親しくしていたNさんも昨秋に亡くなった。
 東海地方の金融センターの崩壊は三和に吸収、三菱に吸収される形であった。その影響で資本的には兄弟のような松坂屋もおかしくなった。最近ではユニーが外部資本の傘下に入った。東海地方に本社を置く会社の地盤沈下が激しいのはなぜだろうか。
 名大の地元占有率が高く、親元から通学、親元から通勤する傾向になり、変化を望まない風土があるからか。いわゆる名大閥である。国立大学が大量に優秀な人材を供給するのは使命ではあるが偏在は良くない。
 かつては親族でなければ出世できないと、オリエンタル中村は三越に経営権を奪われた。名大卒でないと出世できないと知れば社員の意欲は削がれる。これが地元資本の会社の沈没につながる気がする。
 そんなことを思いながら、中区役所に着いた。9時半の開催時刻とほぼジャスト。会場ではまだ梱包の整理やら、お祝いの胡蝶蘭の展示に大わらわであった。
 
2019年 5/14 ~ 5/19
名古屋 市民ギャラリー栄 8階 (第6/7/8室)  総数137点
講演 : 山の構図セミナー 5/19 13:00~14:30 (無料)

 一回りした。ブースを3室も使って137点の作品を展示してありました。 想像以上に見ごたえがあり、圧巻というべし。
 個展開催を祝う仲間からの胡蝶蘭などが次々運び込まれて大変なことになっていました。
 となりの展覧会の人が何人で出品されたんですか、というので、いや、個展ですから1人ですよ、といったら驚かれました。
 一言言えば、制作年月日順に展示されるとこの作家の成長過程がわかってもっと良かった。
 当初は雪山、鋭鋒の構図重視でしたから絵葉書的になりやすかった。鋭鋒の雪山は外国の巨峰に比すれば見劣りする。それが段々テーマが広がり、今は足元の山野草にも注目する。マクロからミクロへ、静から動へ、またその組み合わせとなる。
 雷鳥を撮影するにしても雄の婚姻色である赤い肉冠にフォーカスするなど動物写真家への転換か、と思わせる。
 今後は歴史、民俗、社会などへのテーマ展開の可能性がある。愛知県には東松照明など異色の写真家がいた。単なる風景ではないモノへのフォーカスを期待する。

 小雨模様になってきた。地下街を抜けて、久屋大通駅へ行くと大雨になっていた。濡れるのを覚悟で事務所へ駆け込んだ。若干の雑務の処理。あっという間に正午が迫る。また駅まで行き植田駅へ。自宅に戻って、損保の手続きをした。ネットの見積もりサイトで見積もると10000円も安くなった。やってみるもんだ。

津軽山地・算用師峠を歩く2019年05月01日

 令和元年をつつがなく迎えた。
 天気予報通り、霧の中にあり、よろしくない。津軽山地の大倉岳は明日にして、算用師峠に変更した。雨でも歩けるように考えてあった。吉田松陰が越えたというので「みちのく松陰道」として整備されている歴史の道である。他にも愛知県豊橋市出身の紀行家で民俗学の草分けである菅江真澄も越えて蝦夷に渡った。
 R339を走って、傾り石(かたがりいし)まで行くと案内が建っている。右折して林道に入る。奥へ行くほどに悪路になって心配になる。足元にはキケマンの花が群れ咲く。悪路をこなしてなんとか登山口にたどり着く。広い沢の出合いである。
 算用師とは分水嶺辞典というサイトに「「算用師」とはその名のとおり算術で生計をたてた職業の一つ。読み書きが普及していなかった江戸時代、村の算用をひきうけたそうだ。しかしながらここ算用師峠の名前の由来はこの職ではなく、アイヌ語の「サニウシ(sani-usi)」であるという(江戸時代に東北を游歴した文人・菅江真澄の日記に古名がさにうしであることが記されている)。これは「昇り降りをする場所」という意味で、まさに峠口であるからこの名があったのである。このように東北にもアイヌ語の転化した地名が広く分布しているのだ。」とある。
 山田 耕一郎『青森県山岳風土記』の増川岳には昔、三厩村にはアイヌがいたと書いてあるので蓋然性は高い。
 7時40分、登山口からゴム長を履いて歩き始めた。霧は深いが雨は降っていないのでストック代用で傘を持った。入り口から山野草の宝庫であることを期待させる。イチリンソウ、シラネアオイ、エンレイソウなどが惜しげなく繁茂していた。右岸から左岸にかけて森林鉄道の残骸が残されていた。青森名産のヒバは翌桧のことで、ヒバで作った架橋の跡である。アスナロは風呂桶に使われる。油分が多いので腐食しにくいのだろう。
 せせらぎのような穏やかな流れに沿う小径を歩く。イチリンソウの大群落の中を行くと、前方に一段高く巻いてゆく小径へと登ってゆく。しばらくでまた緩やかな道になる。とにかく一面が若葉青葉で覆いつくされた美しい。足元には山野草が絶えず出てくるから飽きが来ない。枝沢を渡る際にはアップダウンがあるが最後の渡渉を終えるとあとは峠に向かうのみとなる。8時50分峠に着いた。道標は倒れていた。三厩側は笹が刈られている。峠道は短いが、林道は長い。峠で10分休んで引き返す。
引用
 吉田松陰が歩いた「みちのく松陰道」
江戸に留学中、ロシアの船が北方の海に出没することを知った松陰は、その防備状況を確かめるべく、脱藩覚悟で東北へ旅立った。嘉永4年(1851)の旧暦12月、弱冠22歳の時である。

翌年3月、彼は熊本藩士宮部鼎蔵とともに津軽半島に達した。
『東北遊日記』に「真に好風景なり」と書かれているのは、中里の十三湖岸の景色のことだ。

3月5日、2人は小泊から海岸沿いに北上し、途中から山道に入る。当時津軽藩は旅人がこの道を通ることを禁じて道をつくっていなかった。谷間をのぼり、膝まで水に漬かりながらあちら側、こちら側と沢を幾度も越えてようやく算用師峠の頂上に至る。嶺を下ると、二、三尺も雪が残っており、雪の中を歩き、さらに雪解け水が大流となっている川を何度も渡って、「困苦太甚し」という苦行の末に、やっと三厩の海岸に出たという。

その途中詩作している。「去年今日発巴城(去年の今日巴城を発し)…」で始まる詩文は、昭和41年竜飛崎に建立された「吉田松陰詩 碑」に刻まれている。
2人は、三廐から海沿いに今別へ向かう。袰月海岸の波打ちぎわにある洞門は、彼がここを通り抜けたことから「松陰くぐり」の名がつい た。

袰月に宿をとった松陰は、竜飛崎と松前間の狭い津軽海峡を外国船が堂々と往来するのを許しているのは、日本の存亡にかかわる重大なことであると悲憤している。

松陰が翌日訪ねた平舘には、砲台があった。「大砲が7個あるが普段は備えていないこと、下北半島とわずか3里の海を隔てたこの要衝の地に砲台があるのはすこぶる佳いこと、また4年前に外国船がやって来て、5、6人の異人が上陸したこと」などを日記に書き残している。
出典:弘前国道維持事務所「幕末の志士が辿った[みちのく松陰道]」

 R339まで戻ると竜飛岬に向かった。海岸線からきついカーブをこなして稜線へ上ってゆく。しかも濃霧の中であった。ヘッドライトは点けたままである。道の駅と青函トンネル記念館がある。ここでちょっとコーヒータイム。記念館の中の見学はスルーした。さらに先へ走る。Pから濃霧の中を散策。何も見えないが、燈台へ行ってみた。すると渡海三角点を見た。
 説明板には「この渡海三角点は青函トンネル竜飛側の基準点であり、青函トンネル工事の偉業とともに測量の精度を紹介するものである。

青函トンネルは、海底23.5kmを有する全長53.85kmの世界最長の海底トンネルです。このトンネルの建設にあたっては、いかに計画ルートどおりに掘削し貫通させるかが大きな課題の一つでした。(地球は丸い-高精度測量が必要) 青函トンネルがあまりにも長いので、地球の曲率(丸み)を考えた驚くほど高精度な測量を行う必要がありました。

①と北海道の抗口における水平位置と高さを精密に関連づける基準点の設置から始めました。(精密三角測量、渡海水準測量、昭和40年開始)
②これらの基準点を拠点として、トンネル掘進に伴う坑内での測量が行われました。(坑内トラバース測量、昭和42年開始)

昭和58年1月先進導坑が貫通しました。この貫通出会差は距離2cm、高低20cm、左右64cmのわずかな誤差でトンネルを貫通し得た。(貫通精度確認測量、昭和58年開始)

ここにその記録をとどめ長く保存するものである。」とあった。
 専門的には
http://uenishi.on.coocan.jp/k680seikan.html
に詳しい。
 石川さゆりのデビュー曲にして大ヒットした「津軽海峡冬景色」の歌碑もあった。ごらんあれが竜飛岬、と歌詞に謳われているからだろうが、ボタンを押すと歌声まで流れるのはやりすぎである。
 竜飛観光を終えて、またR339を戻り、小泊の太宰治文学館で行った。ここは太宰の幼年時の養母が嫁いだところだった。太宰が信頼し心を寄せていた女性である。その縁をこの地ではとても大切にして記念館を建てた。名作『津軽』(新潮文庫)の重要な舞台になった。
 ここでは地元の女性が津軽弁で語り部となり、「津軽」の一節を聞かせてくれた。同席した夫婦のうち秋田県から来たという女性は涙を流して聞いていた。しかし私には耳慣れない津軽弁は外国語同然である。 但し、語り部さんへの返礼には
   行く春や津軽言葉で聞く「津軽」
と即興の句を贈った。
 語り部さんはこちらが席を立とうとすると話をして帰らせまいとする気がした。普段はあまり見学者もないことだろう。僻村ゆえに観光客も立ち寄りにくい位置にあるのが残念だ。文学館を辞して、R339を今泉まで戻って、県道を走って外ヶ浜町の蟹田へ行く。左折してR280を北上し、道の駅「たいらだて」に着いた。がらんとしている。これは竜飛への道が県道14号がバイパスみたいに良い道になり寂れたのだろう。車中泊はここに決めて、若干戻り、湯ノ花温泉に入湯した。ぐっすり眠れた。

白神山地・白神岳を歩く2019年04月29日

 朝4時過ぎ、明るさで目が覚めた。さっそく朝食をとる。温かいうどんに白菜などのカット野菜を放り込んで食した。いろいろ雑事をこなすと出発は6時過ぎになった。隣の若い人は5時半頃に出発して行った。やることが早い。
 最初は林道を10分ほど歩くと旧来の登山口があり、登山届を書いておく。本格的な山道を歩きだす。林道周辺は針葉樹の植林だったが落葉樹に変わる。周囲の雑木林の若葉が美しい。323mとの小さな乗り越しを行くと途端に足元の山野草が増えた。イチリンソウ、カタクリ、エンレイソウ、それにシラネアオイまで見えた。撮影に忙しい。山腹を伝う山道を歩くと二俣に着いた。直進の沢コースと左へ蟶山経由の尾根コースに分かれた。左折する。白神川の枝谷の源流部を迂回するイメージで高度を上げていく。小さな水場が続き、「最後の水場」の表示で文字通り水場が絶える。ここからジグザグの急登になり雪も出てきた。
 急登を喘いで蟶山分岐に着いた。大峰川側は一面の残雪に覆われた。そしてブナの巨木が林立する尾根に立ったことを思う。最初は緩やかな尾根を雪を踏みしめて歩く。気持ちの良い尾根歩きだ。新緑期、黄葉期とも素晴らしいだろう。途中2回ほど小休止を取りながら重い体を持ち上げる感じで登る。十二湖からの長い稜線に合流するまでの直前が喘がされた。しかし、背後には日本海が広がりピッチは軽い。
 稜線には一段と積雪量が増えた。もうこれ以上の高い山はなく、山頂は目前である。1235mのコブで千葉県の若い人と出会った。既に登頂後である。彼はなんと沢コースを登ったという。道が不明瞭で大変なルートだったという。
 山頂には避難小屋とトイレが別に建っていた。山頂はすぐ先だ。数名が休んでいた。11時登頂。約5時間かかった。1等三角点の標石を触る。先行パーティが去ると独りになった。
 周囲は360度の大パノラマだ。岩木山、八甲田山、その他見知らぬ山々ばかりの新鮮な眺めに見入った。
 11時30分下山開始。来た道を下った。残雪の道は登山靴の踵をけりながら、時には滑らせながら高度を下げるから楽で効率が良い。登山口には3時だった。2時間30分かかった。快適なピッチだった。
 3時から移動しても車中泊の適地は分からず、もう一泊した。

奥三河・三ツ瀬明神山を歩く~そのⅡ2018年09月05日

 9/2から9/3にかけてN局の山番組の本番の録画登山を行った。中々好評らしいので関わった1人として何より嬉しいことである。
 8/28に監督さんと下見の登山に同行してポイントはつかんである。それでも台風の接近で日程のやりくりが厳しい。9/1から9/2の沢登りはキャンセルして、録画登山に合わせた。台風の接近は9/4の予定である。この日程でこなせないと放映がずれてしまう。天気予報を見ると9/3は幸いにも雨ではない。台風が天気図にあるときは山に向かうな、というのは山屋の鉄則である。しかし、台風の影響で擬似晴天が現れるのが9/3であればこれはチャンスである。
 9/2のうちに大きな見所である乳岩周遊の録画を済ませた。日曜日だけにハイカーが多かった。Pも満車状態で少し遅いと遠くへ止めることになった。夜は近場の旅館に素泊まりとした。
 9/3は午前4時起床、4時半に集った。降雨だったが一応出発するが、奥へ進むほどに降雨が激しいので旅館に戻った。1時間後、2時間後と空模様を眺めながら出発を遅らせて8時に出発。
 但し、乳岩口から登ると登頂に5時間以上かかるので、三ツ瀬口からを提案。登頂に1時間以上は節約できる。車で走る時間にはロスもあるが、労力の節約が大きいと判断した。
 結局三つ瀬を10時に出発、乳岩分岐で12時。ここから撮影開始。ミヤマママコナ以外にツルリンドウの花も見つかった。登頂は13時半を回った。14時からの下山は中道を採った。栃ノ木沢道は山道の崩れがあったからだが、この道も廃道で沢のところはみな崩壊していた。但し道標だけはしっかりして迷うことはなかったのは幸いであった。
 そして、台風の影響で南からの湿った気流の影響で、三つ瀬の谷でもこの中道でも大量の山蛭の襲来に困惑させられた。三河でもこんなにも山蛭が増えたのは驚きである。
 栃ノ木沢道分岐、鬼石分岐を経て鬼石に着くともう下山も射程距離に入った。順調に撮影を進めながら鬼石を出発。急峻な山道に疲れた足を運んだ。
 乳岩分岐を過ぎて後は桟敷岩を滑落しないように慎重に歩く。18時過ぎ、既に薄暮となった駐車場に三ツ瀬口から回ってくれたバスが待っていた。山頂からバスに携帯が通じたので助かった。通じなければ誰かが単独で下る手はずだったがその労力が省けた。
 18時を回り、30分に近い頃、続々とスタッフが車に着いた。皆さん山慣れない人ばかりなのでお疲れの様子だった。苦労の多い録画登山だったが、きっと感動的な画像に編集されると思う。
 私は複数の人に「登山の喜びは登山に要した苦労の関数である」となんどもはなしたことがある。登り甲斐のある山はそれだけ苦労も多いことである。
 高速で走る際、足首がもぞもぞするので触ると芋虫みたいな太い山蛭がいたのでズボンの上からぎゅっとつぶした。上郷SAのトイレで足首を点検すると、ぽろっと太い山蛭が落ちた。靴下、ズボンの裾が血で真っ赤に汚れた。左足からもぽろっと落ちた。他にも傷口があり、一杯血を吸われたようだ。そうか、他のスタッフと合わせると結構な量の献血を強いられたのである。
       秋山の彼方に光る三河湾