三遠研の総会 ― 2024年04月20日
豊橋市方面に向かう時に県道56号から片側2車線のR155に右折。このままでは知立へ行くので左折、地道を抜ける内に三河線をまたぐ。伊勢湾岸道へ左折して並行線から離れてようやく矢作川を渡った。
岡崎市市街地も混雑気味である。岡崎IC手前でR1に合流。その先で喫茶店で一休み。モーニングサービスはオプションだったがコーヒー代プラス180円、360円、500円とうぉっという価格設定だった。しっかり腹づくりしたい人には良いかも。赤坂付近から東の空を見るとどんより雲が厚そうである。今日も黄砂が降っているのだろうか。
R1から左折して御油駅周辺の渋滞を回避。山間部を迂回して本宮山の山懐を走り、豊川を渡った。秀麗な山容の吉祥山が目の前に見える。13時まではまだ時間があるので新城市図書館へ寄った。地域資料コーナーの中で研究輯録の創刊以来のバックナンバーをチエックした。2号の目次に響くものがあったので閉架図書の開示請求をして閲覧。読んでみると資料解釈が精細すぎてこなれていない。研究者の域を出て作家的な視点で書いてないと素人には読みづらい。
時間が迫ったので富岡ふるさと会館に行く。総会なので令和5年度の事業報告と会計報告、次年度の事業計画と予算案の読みあげと説明があった。特に会計では現金不足が深刻である。印刷した『研究輯録10』が売れて資金回収できないとカネが回らない。
これは山岳会の上部団体でも資金不足で幹部は資金調達に苦労している。どこもコストダウンに知恵を絞る。
続いて、「ええじゃないかの始まりと広がり」と題して、豊橋市二川宿本陣資料館館長の和田 実氏の講演があった。江戸時代の末期に全国規模で起きた狂乱的な民衆運動だった。その中でも豊橋市に的を絞っている。
余談メモ
名古屋市博物館のHPから
https://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/owari_joyubi_news/eejyanaika/index.html
「ええじゃないか150年
平成29年9月27日(水)~10月22日(日)
いまから150年前の慶応3年(1867)7月14日、三河国渥美郡牟呂村(現豊橋市)へ伊勢神宮のお札が降り、二夜三日の祭礼が行われました。人々はお札降りを神仏の出現ととらえて祭礼を行います。お札降りが連続するとお祭りも連続し、日常生活が麻痺する熱狂的な騒ぎへ発展します。これが幕末に流行した「ええじゃないか」です。
全国に伝播した「ええじゃないか」ですが、名古屋へは8月末に伝わり11月まで続きました。名古屋では、お札が降ると町奉行所へ届けて祭礼を行います。町奉行で集計されたお札は三千枚を超え、いかに「ええじゃないか」の騒ぎが大きかったかがうかがえます。加えて、名古屋の「ええじゃないか」祭礼は七日七夜にわたり、降札による祭礼の連続、祭礼の長期化が城下を祝祭空間に変えてしまったのです(図1)。
こうしてみると「ええじゃないか」は、お札降りを口実に人々が勝手に遊びくるったようなイメージをもつかもしれません。しかし、名古屋の「ええじゃないか」祭礼は、地域の伝統的な祭礼のルールのもとで行いました。名古屋城下茶屋町をみてみると、町で管理する屋根神の中へ「ええじゃないか」のお札を納め、関係の寺社へとお礼参りをして「ええじゃないか」の一連の行事は終了しました。」以下略。
慶応3(1867)年は日本が近世(封建制)から近代に生まれ変わった年でした。
・坂本竜馬、新政府綱領八策(しんせいふこうりょうはっさく)を起草
・大政奉還(たいせいほうかん)
・王政復古(おうせいふっこ)の大号令
慶応4(1868)年は
・鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)を機に戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まる
・江戸を東京と改称し、年号を明治とする
今の日本の世相と幕末はよく似ていると思います。消費税率が打出の小槌のようにアップしてきた。大企業には減税しているし、諸外国にカネをばらまくわでいい顔したがる岸田政権。江戸時代の大衆も重税に悩んでいた。
昨年春から長良川や津保川流域の里山を歩いていると郡上一揆の石碑を多数発見します。
郡上一揆は18世紀半ばに起きた農民の減税運動でした。
農民は結束し秘密裏にことを進めめ公事(今の弁護士で宿泊所付きの法律事務所)に頼んで籠訴を準備。しかし籠訴は首謀者は獄門晒し首の掟がある。首謀者の実家の墓に行ったこともある。
これは大衆への見せしめには効果があった。権力に逆らうと只では済まんぞ。というわけだ。その後に下流の美濃市で流行った大衆芸能の「美濃流しにわか」では時事、世相批判が材料で藩(支配者)をチクる。証拠を残さないために一回限りとした。おそらくですが権力への忖度があったのでしょう。
さらに時代が下がると「ええじゃないか」が起こる。権力者を批判するでもない。戦後の学生運動は左翼運動でしたから大衆の支持を得られないままに終焉した。ええじゃないかは徳川幕府をつぶすためでもなかった。
マルクスは「万国の労働者よ団結せよ」、と共産党宣言(1848年)を書いたが、そんな高邁な思想はない。
江戸時代の大衆は絶望感の共有から変革への願望がええじゃないかにつながり、明治維新が生まれた。変わるべくして変わった。
岡崎市市街地も混雑気味である。岡崎IC手前でR1に合流。その先で喫茶店で一休み。モーニングサービスはオプションだったがコーヒー代プラス180円、360円、500円とうぉっという価格設定だった。しっかり腹づくりしたい人には良いかも。赤坂付近から東の空を見るとどんより雲が厚そうである。今日も黄砂が降っているのだろうか。
R1から左折して御油駅周辺の渋滞を回避。山間部を迂回して本宮山の山懐を走り、豊川を渡った。秀麗な山容の吉祥山が目の前に見える。13時まではまだ時間があるので新城市図書館へ寄った。地域資料コーナーの中で研究輯録の創刊以来のバックナンバーをチエックした。2号の目次に響くものがあったので閉架図書の開示請求をして閲覧。読んでみると資料解釈が精細すぎてこなれていない。研究者の域を出て作家的な視点で書いてないと素人には読みづらい。
時間が迫ったので富岡ふるさと会館に行く。総会なので令和5年度の事業報告と会計報告、次年度の事業計画と予算案の読みあげと説明があった。特に会計では現金不足が深刻である。印刷した『研究輯録10』が売れて資金回収できないとカネが回らない。
これは山岳会の上部団体でも資金不足で幹部は資金調達に苦労している。どこもコストダウンに知恵を絞る。
続いて、「ええじゃないかの始まりと広がり」と題して、豊橋市二川宿本陣資料館館長の和田 実氏の講演があった。江戸時代の末期に全国規模で起きた狂乱的な民衆運動だった。その中でも豊橋市に的を絞っている。
余談メモ
名古屋市博物館のHPから
https://www.museum.city.nagoya.jp/exhibition/owari_joyubi_news/eejyanaika/index.html
「ええじゃないか150年
平成29年9月27日(水)~10月22日(日)
いまから150年前の慶応3年(1867)7月14日、三河国渥美郡牟呂村(現豊橋市)へ伊勢神宮のお札が降り、二夜三日の祭礼が行われました。人々はお札降りを神仏の出現ととらえて祭礼を行います。お札降りが連続するとお祭りも連続し、日常生活が麻痺する熱狂的な騒ぎへ発展します。これが幕末に流行した「ええじゃないか」です。
全国に伝播した「ええじゃないか」ですが、名古屋へは8月末に伝わり11月まで続きました。名古屋では、お札が降ると町奉行所へ届けて祭礼を行います。町奉行で集計されたお札は三千枚を超え、いかに「ええじゃないか」の騒ぎが大きかったかがうかがえます。加えて、名古屋の「ええじゃないか」祭礼は七日七夜にわたり、降札による祭礼の連続、祭礼の長期化が城下を祝祭空間に変えてしまったのです(図1)。
こうしてみると「ええじゃないか」は、お札降りを口実に人々が勝手に遊びくるったようなイメージをもつかもしれません。しかし、名古屋の「ええじゃないか」祭礼は、地域の伝統的な祭礼のルールのもとで行いました。名古屋城下茶屋町をみてみると、町で管理する屋根神の中へ「ええじゃないか」のお札を納め、関係の寺社へとお礼参りをして「ええじゃないか」の一連の行事は終了しました。」以下略。
慶応3(1867)年は日本が近世(封建制)から近代に生まれ変わった年でした。
・坂本竜馬、新政府綱領八策(しんせいふこうりょうはっさく)を起草
・大政奉還(たいせいほうかん)
・王政復古(おうせいふっこ)の大号令
慶応4(1868)年は
・鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい)を機に戊辰戦争(ぼしんせんそう)が始まる
・江戸を東京と改称し、年号を明治とする
今の日本の世相と幕末はよく似ていると思います。消費税率が打出の小槌のようにアップしてきた。大企業には減税しているし、諸外国にカネをばらまくわでいい顔したがる岸田政権。江戸時代の大衆も重税に悩んでいた。
昨年春から長良川や津保川流域の里山を歩いていると郡上一揆の石碑を多数発見します。
郡上一揆は18世紀半ばに起きた農民の減税運動でした。
農民は結束し秘密裏にことを進めめ公事(今の弁護士で宿泊所付きの法律事務所)に頼んで籠訴を準備。しかし籠訴は首謀者は獄門晒し首の掟がある。首謀者の実家の墓に行ったこともある。
これは大衆への見せしめには効果があった。権力に逆らうと只では済まんぞ。というわけだ。その後に下流の美濃市で流行った大衆芸能の「美濃流しにわか」では時事、世相批判が材料で藩(支配者)をチクる。証拠を残さないために一回限りとした。おそらくですが権力への忖度があったのでしょう。
さらに時代が下がると「ええじゃないか」が起こる。権力者を批判するでもない。戦後の学生運動は左翼運動でしたから大衆の支持を得られないままに終焉した。ええじゃないかは徳川幕府をつぶすためでもなかった。
マルクスは「万国の労働者よ団結せよ」、と共産党宣言(1848年)を書いたが、そんな高邁な思想はない。
江戸時代の大衆は絶望感の共有から変革への願望がええじゃないかにつながり、明治維新が生まれた。変わるべくして変わった。
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