熱田宝物館「熊野三山と紀伊半島の神話」の見学2024年01月22日

 久々に熱田さんにお参りしてきました。三が日に参拝すると牛歩見たいなゆったりした動きでした。どこもそうですが。以来混雑期は行ってない。
 本日は熱田宝物館のイベントで「熊野三山と紀伊半島の神話」の見学が目的です。今年は山岳会の120周年の山岳古道事業の締めくくりで熊野神社に集中登山があります。GW以後5月18日が打ち上げ。
 私も個人的に大峰山脈主峰に足跡を残したい。というわけで熊野古道の予備知識を仕入れにきた。しかし展示品は専門性が高く学芸員の案内が欲しいと感じた。

大台ヶ原山を歩く②・・・マブシ嶺から古和谷2023年05月02日

          新木組峠へ
 5/2 尾鷲市の夜明けは5時6分。少し前から東の空が朝焼けになった。出発予定の午前5時の1時間前に起きてガスコンロでお湯を沸かして熱いお茶をすする。朝飯の柿の葉寿司も食えるだけ食う。遠くから小鳥の鳴き声が聞こえる。風も小康状態だ。外に出てパッキングする。山頂に戻ると地面が凍結していた。昨日は泥だったのに一晩で冷気に晒されて霜柱が立っている。寒い訳である。5時過ぎにマブシ領を発つ。比高200mほど下ると平らな雑木林になる。風はほとんど吹いてこない。穏やかである。本当はここらで幕営したかった。しかし適地はすべて熊の生息地と重なる。昨夜も蚊取り線香を焚いて熊に知らせた。青嵐で熊も落ち着かなかったのだろう。熊鈴を鳴らしながら巡礼者のように素敵な自然林の中を歩く。木組峠に着く。ここからまた若干の登りになる。登りついたところから光山の分岐を後にする。1250m前後のコブを上下しながら新木組峠に着いた。ここでも水を飲み、若干は食べた。昨年5月中頃に仲間と訪れた際は木組峠の稜線道を登り帰りは尾鷲道(リスク大)を通過した。反対に帰路は1297.6mに登って又口辻に下りた。これが松浦武四郎らが通った道だった。
          古和谷分岐へ  
 今回は横断的な尾鷲道を行く。落葉が多くふわっと重なっている。ザックが重いので転滑落には要注意だ。靴先で落葉に隠れた石ころを探りながら歩いた。神明水は流水があった。3回目でやっと水の流れを見た。しかし今日は寒いし水はあるので通過。中間地点まで来たところで左足に痙攣が走った。ヤバいな、と小休止し、芍薬甘草湯を水とともに流し込む。苦くもなく少し甘めのながら薬効は即効だ。再び危険な横断道を歩く。篤志家らが張ってくれたフィックスロープが非常にありがたい。その内に又口辻、そして古和谷分岐に着いた。
         古和谷へ下る
 9:30。小休止の後、未踏の古和谷道に下る。杉や桧の植林内のよく歩かれている感じの尾根道が続く。分岐から張り出した尾根の1053mの手前の鞍部から谷へ急降下。ここでも中間地点でまた痙攣が走った。芍薬甘草湯を服用して治まるのを待つ。なるだけゆっくりと下り、ようやく古和谷の流れを眼下に見たときはほっとした。左岸の植林内に細々とした山路が続く。思った以上に歩きやすい感じだ。後ろに人気を感じて振り返ると半袖の若い登山者が追い付いてきた。しばし情報交換して先に行ってもらう。今日尾鷲辻から下ってきてもう追いつかれたのである。一体何時に出発したんだろう。ヤマッパーらしい。あっという間に視野から消えた。韋駄天とは彼みたいな男をいうのだろう。そろそろ足を労わりながら重荷を担ぐより、寝具、食料など省いて軽量にして駆け抜けるのも一案である。渡渉地点でちょうど昼時になり、ザックを下ろした。先を急ぎたい気持ちより山に浸る方に重きを置いた。河原でガスコンロをだし、お湯を沸かし、お茶を楽しみ、カップ麺を食った。その後石飛で右岸に渡る。左岸より右岸の方が悪い。森林軌道の跡らしいが、橋が落ちたところは高巻きする。目印はあるものの上下、左右に留意した。河原に近い箇所はレールの残骸がある。朽ちた桟橋をいくつか恐る恐るわたると尾鷲道の登山口は近い。13:40に車道に出た。ここからが長い長い林道歩きだ。県道に着くまで2時間はかかった。
          思いがけない親切に深謝
 計画では2時30分に尾鷲駅到着だったが、到底無理。昨年泊った民宿に電話しようとしたが圏外だった。その内、後続がまた一人とトレランが下山してきた。どうしようか、と考えていると釣り師が親切にも駅まで乗せてってあげると申出があった。渡りに船と便乗させてもらった。名古屋へ帰る旨話すと鈴鹿市在住なので自宅に近い白子駅まで乗せてもらえた。感謝感謝であった。

参考データ
大台ヶ原山 尾鷲道 その1 尾鷲辻~又口辻~古和谷林道終点
https://amaimonoko.at-ninja.jp/s-mtdata/ki/odai-owase/1.htm
・JACの古道調査です。
・GPSの信号はヤマップを通じてWさんのスマホに送信されます。
・天候:1年に400日雨が降る、とか弁当忘れても傘忘れるなという尾鷲市から大台ヶ原一帯の俚諺です。
一般的な天気予報は5/1~5/4の降雨率20%、5/5以降は70%以上にアップ)
・非常に不安定な天気です。

大台ヶ原山を歩く①・・・・尾鷲辻~マブシ嶺2023年05月01日

          新緑の大台ヶ原ドライブウェイ
 5/1 近鉄名古屋駅5:58発のアーバンライナーに乗車。4070円。(4/30に地下鉄桜通線名古屋駅から近鉄地下改札口に直通の通路を検分)近鉄大和八木駅に定刻通りに着く。奈良交通のバス乗り場で8:15発の大台ヶ原行きのバスを待つ。道の駅杉の湯で休憩中に柿の葉寿司を調達。新伯母峰トンネルをくぐって和佐又山キャンプ場で降車させて、このバスは大峰山脈の山上ヶ岳への縦走にも利用できるわけだ。新伯母峰トンネルを戻り大台ヶ原ドライブウェイに行く。
 伯母峰峠を越えて上北山村に来た途端に新緑に彩られた自然に魅了された。これだけを見て帰っても満足するだろう。伯母峰峠の標高は991m、そこから比高450mもの高原に来るとまた冬景色に戻る。針葉樹の中に少し落葉樹があるが芽吹いたばかりである。大台ケ原ビジターセンターのある山上広場は標高1570m程度。バスは定刻通りに到着。11:20前後。ここで登山届を出す。ベンチでパッキングを見直し装備の点検。中食。12時少し前に出発。山頂は昨年8月に登ったので省略。尾鷲辻への水平の道を急ぐ。ここではバードウォッチャーが大型カメラを手にシャッターチャンスを狙っている。
      未知の尾鷲道を歩く
 尾鷲辻に着いた。昨年8月は雨の中到着しここでカッパを着た。尾鷲道を少しだけ覘いた。今日は好天に恵まれた。40年前紀勢線に「名古屋23:58発、紀伊勝浦行夜行急行「紀州5号」というのがあっ」た頃、尾鷲駅から尾鷲道の計画を立てては断念してきた。紀勢線の夜行もすでに1984年に廃止。2005年発刊の『新日本山岳誌』に登山の対象ではない栃山、保色山等をとりあげた。取材山行で尾鷲道の最新の情報を知った。マブシ嶺が名古屋から前夜発で往復できると知って2017.12.10に登った。ブログに「木立は落葉して見通しが良い。最初の道標は古和谷分岐である。ここからが古来からの尾鷲道である。下山路として今も歩けるのかどうかは不明だ。先へ進む。数分で又口辻だ。」と書いた。
今回は高齢の自分には長大な尾鷲道を踏破する最後の機会になるかも知れない。
 堂倉山も往復したかったがエネルギー温存のために断念。別の日に山上から往復する機会を狙う。堂倉山の南の鞍部は平らで一晩過ごしたい。1414mの無名の山からマブシ嶺までは1400mの稜線の西側(上北山村内)をアップダウンの少ない道になっている。ところどころに山抜け(蛇抜け)の痕が痛々しい。そこだけは尾鷲道も寸断されるからう回路を設けてある。地元の篤志家グループのお陰で迷うことはない。
        山の花を楽しむ
 ホンシャクナゲの開花期に巡り合い、淡いピンク、濃いピンク色の花が美しい。花に酔っていると下から5名のパーティに出会った。マブシ領の往復だった。今日人に出会ったのはこの組だけだった。1402mの独立標高点に行く踏み跡があるが道標は左折となる。下るだけだと思ったが1450mの無名のコブに登った。地倉山の道標があった。ちらっと平らなビバークの適地を見たが熊の生息域との警告もある。下り気味の道ながら少しは登り返す。15:30頃、見覚えのあるマブシ嶺に着いた。砂礫の殺風景な平は大峰山脈の展望を欲しいままに楽しめる。大峰南部の釈迦ヶ岳の鋭鋒は既登ゆえにランドマークになっている。
        マブシ嶺のビバーク
さてビバーク予定地の木組峠、又は新木組峠まではまだ時間がかかる。ビバーク地の適地ではないがマブシ嶺にした。雑木林の近い所の小さな凹地にツエルト張った。ザックの軽量化のために支柱は2本のストックにした。立木の枝、木の根っこ、石などに張り綱を結ぶ。これで今夜の寝処が完成。同じくシュラフも止めて羽毛のジャケットとズボンで冷えに備えた。加えてシュラフカバーでOK。シュラフは一度潜ってしまうと用足しに外に出るのが億劫になる。羽毛服なら着たまま用足しできる。
         青嵐のビバーク      
 さて、午後6時頃までは大峰山脈が見えていたが、簡単な夕食を済ませて寝ていると外が風で騒がしくなってきた。なんだこの風は?とスマホで尾鷲市の天気情報を見ると晴天で降雨率は10%である。春山特有の天気の急変だろう。俳句の季語にある青嵐(あおあらし、せいらん)は「青々とした草木や野原の上を吹き渡っていく風を青嵐(あおあらし)と言います。嵐の字が使われているように、やや強く吹く風です。上空に寒気が流れ込むと突風やひょうが降ることもあり、青嵐となります。5月は全般に快適な季節ではありますが、寒気の流入には注意が必要です。」と説明される。遠くで春雷も聞こえて来た。強風でフライが飛ばされ、ツエルトがなぎ倒されるような環境に一句作る心の余裕はない。只一人、まんじりともしない山の夜を過ごした。時間の経過とともに冷えてくる。ツエルト内の空間は外の冷気から自分を守る大切な空間である。合羽を着て外気に晒されると低体温症になるから登山の装備に必須となった。

山岳古道会議2023年01月14日

 17時からは山岳古道の件で会議を開催。メンバー東京本部から3名、関西1名、東海から4名の8名。約2時間ほど熊野古道のイベントについて議論を交わした。主旨は全国の会員に熊野本宮へと歩かれた時代を偲び、古道の存在をアピールして山岳古道調査事業を盛り上げる。他に小川路峠、青崩峠の合同の踏査も盛り込んだ。その後は中華料理店で反省会をやった。

神風の伊勢路に来れば懐かしき伊勢三山の黒き山なみ2022年10月08日

 10/6の出張の折に見た伊勢路の風景は秋の刈り取りが終わり一面の刈田が広がっていた。農家の安堵の見えるような気がした。


・三重県は見渡す限り刈田跡美し国なり御食つ国なり

・神風の伊勢三山は魚獲る船頭達の陸の灯台

・ピラミダルな局ヶ岳に目を惹かれ白猪の山に堀坂の山

八風街道の文献調査2022年10月05日

 10月2日は秋日和でした。
 中央アルプスの寂峰を予定していたがキャンセルに。八風街道の文献調査の宿題を片付けるために菰野町と東近江市の図書館をはしごするドライブに行く。
 先ずは菰野町図書館へ。午前中というのに既に暑い。司書さんに来館の目的を告げると親切に立ち合って出してくれた。菰野町史はコピーを依頼、後はスマホに撮影。
 次はいなべ市のR421から石榑トンネルをくぐり東近江市湖東町へ。道の駅はごった返していたのでパス。R307から西堀栄三郎記念館へ。湖東町に何の縁か、親が近江商人でこの地で商売していたらしい。知恩院で西堀さんの墓を見たことがあったが近江の人だったのだ。
 八風峠について書いた文だったか「峠は高い程良い。高い分高く売れる。」と近江商人の心意気を書いた文を思い出した。数ある鈴鹿の峠でも高く険しい。
 ビジネスとアルピニズムは一脈通じる。リスクとは日々の糧を得るという意味のアラビア語だが、高い程リスクもあるが満足感や儲けも大きい。
 盟友の今西さんも展示されていた。
 隣の湖東町図書館で調べたが核心的な史料はない。永源寺町図書館へ移動。やはり永源寺町史は核心を突くのでコピーを依頼した。
 R421を走ると永源寺そばを謳う蕎麦屋に吸い込まれた。昼ご飯を食べていなかったからだ。天ざる蕎麦1300円也。この蕎麦は美味しい。
 杠葉尾の山家をぬうように狭い旧街道を走ると八風街道の面影を残す「左 いせ」の道しるべを発見。伊勢参りにはこんな険しい八風峠も越えたんだ。来た甲斐があった。

大台ヶ原山へ②2022年08月21日

 朝6時ごろ起きた。外はざーざーぶりの雨だった。計画が流れてゆく感じがした。朝7時の朝食をとる。焼鯖が旨い。ザックを整理して外に出るがまだ傘が要る。車の外で準備中に雨が止んできた。それじゃとカッパの上着のみ着て尾鷲辻への踏査を試みた。
           雨の尾鷲辻へ
 登山口は日出ヶ岳と同じだが少し先で右へ分かれた。昨日と同様にオーバーユースに備えてほとんどはコンクリートで固めてある。そしてほぼ水平の道である。日出ヶ岳から流れるシオカラ谷の流れは1540mなのでやや下り気味であり、1580mの尾鷲辻まではやや登り気味である。尾鷲辻には東屋が建っているので雨具のズボンも着用した。近くにはオレンジのテープが巻いてある。これは下部では尾鷲道の印、青色は松浦武四郎の歩いた標になっていた。
        尾鷲道をちょっと足を踏み入れる
 東屋を出ると今までの整備され過ぎた道とは違い途端に山道らしくなる。それに雨水も溜まって歩きにくい。比高80m下って1550m付近からジグザグの巻き道の下りに入る寸前で引き返した。できれば堂倉山の山頂でも踏めれば良いなと控えめの目標はあった。ここから1500mまで一気に下がり、さらに1450mまでだらだら下ると堂倉山との鞍部である。約20m登り返すと山頂だ。約150mの比高を登り返すのだが雨では止む無し。
 尾鷲道の道標のある下り道の始まりで引き返したが往きには気が付かなかった道標も見つかった。昭文社の地図でもこの先は未整備を示す破線路になっている。つまり古道のまま廃道の運命であり、わずかな好き者が歩いているに過ぎない。途中に避難小屋はなく、水場は地図にはあるが実際には流れていなかった。常水ではないので縦走には大量の水を担ぐから体力とRFの力が試されるコースである。
 山上に戻ってビジターセンターの軒先で濡れ物を脱いで乾いた着物に着替えた。雨は小止みになり大峰山脈付近には晴れ間も見えた。終わったら晴れたのだ。成果は挙げられなかったが尾鷲道への知見は若干でも深まった。
        名古屋へ帰る
 ワイパーを作動せずに帰路についた。朝方の大雨だとがけ崩れなども心配したのである。ドライブウェイを走ると稜線と路上が同じになるので川上村の山々が見えた。中でも雲海に浮かぶ白髭岳の三角錐の立派な山容が素晴らしかった。日出ヶ岳に登った際はついぞ気が付かなかった。1378mの標高は300m以上も低いので目立たないのだ。1403m辺りだろうか。同じ目線の高さで堂々と聳えている。今西錦司が83歳の時、1500山目に登った記念碑的な山である。
 伯母峰峠もまた来てみたいところだった。そこからぐんぐん高度を下げてR169に出た。後は同じ道をたどり帰名した。

大台ヶ原山へ①2022年08月20日

    晩夏の 大和路へ
 尾鷲道の踏査を目的に大台ケ原山へ向かった。久々のロングドライブになった。
 朝7時金山駅前を出発。東名阪から名阪国道へ。針ICから国道をつなぎながら晩夏の大和路を走った。名阪国道を針ICで出て、R370を走るとかつて登った貝ヶ平山の東の香酔峠を越える。玉立(とうだち)の交差点を左折してR370から離れる。榛原市街を迂回する地方道を抜けて宇陀川沿いで再びR370に戻る。ひたすら南下して窪垣外で吉野川に出る。ここは高見山からの高見川と大台ケ原山からの吉野川が合流する地点で、流れは複雑な地形通りに蛇行する。中央構造線の影響だろうか。活断層だから大きな地震に見舞われてきたことだろう。
 中央構造線と災害を結び付けると有名な寺社が建っていることが分かった。
 「奈良県吉野郡(よしのぐん)ほか。紀伊半島の中央部・吉野山(よしのやま)から大峰山(おおみねやま)にかけての山岳地帯のこと。古くから山岳信仰の地として知られてきました。

大滝ダムの建設で水没する前に発掘調査が行われた丹生川上神社上社(にうかわかみじんじゃかみやしろ)の境内では、11世紀ごろの祭壇跡だけではなく、縄文時代の祭祀遺構も見つかっています。

第40代天武天皇(てんむてんのう)は、この地域にある吉野宮に隠棲したのちに挙兵しました。また、第41代持統天皇(じとうてんのう)の行幸の記録も残っています。

天川村にある有名な天河大弁財天社(てんかわだいべんざいてんしゃ、通称は天河神社)は、役小角(えんのおづの)が創建したと伝わる古いお社。

芸能の神を祀る神社であるとともに、近年はパワースポットとしても有名ですよ。」とあった。
 R370は矢治から吉野川を渡る地道に入り、樫尾でR169に合流する。ここら中央構造線沿いの紀ノ川の源流の吉野川に沿う道になる。
 ここまで奈良市、宇陀市、吉野郡吉野町と南下してきた。つまり「南朝=吉野朝廷は、鎌倉幕府滅亡後に始まった建武の新政に失敗した後醍醐天皇などの大覚寺統の天皇が、京都の都を逃れ奈良県吉野郡吉野町や奈良県五條市西吉野町などを本拠とした朝廷」のエリアをドライブしてきた。
      名物の柿の葉寿司を仕入れる
 R169からは吉野川の険谷沿いの道になり。杉の湯の道の駅で柿の葉寿司を仕入れる。正岡子規が有名な
     柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
と詠んだごとく柿は奈良県の名産らしい。柿の実のみならず葉も寿司に利用するわけだ。葉の大抵はビタミンCが多く防腐剤になると言われる。鯖の生き腐れというのような鮮度の短い魚はすぐに塩でしめて柿の葉で包むことで発酵を促す。この時期は飛騨の朴葉寿司も同じ理屈だろう。近くには古刹丹生川上上社もあるが今回はパスした。
 登り一辺倒のR169はやがて入之波温泉への分岐をやり過ごす。標高400mの大迫ダムからループ式トンネルを通って標高700mの大台ケ原へのドライブウェイ入口になる。入ると途端に道が狭く薄暗くなる。対向車は殆どないが時々ぬっと現れる。伯母峰峠1000m位から周囲が開けて稜線の道になる。
      大台ケ原・標高1570mの冷涼な高原に着いた
 午前10時50分に到着。土曜日とあってPは閑散。とりあえず晴れているうちにと日出ヶ岳を往復した。山頂展望台からは熊野灘が見えた。往復1時間半程度。宿のチエックインは15時であるがまだスタッフも見えない。
 下山後は大台教会も訪れた。ここへの登拝の道が尾鷲道である。人影はないが御神灯は点いていたので参拝はさせてもらった。
 宿は心・湯池館。最初は7名で申し込んだが最終的には4名になったので大部屋に代えてもらった。大部屋は文字通り何十人もの布団がすでに敷いてあったが4名と隣のルームに女性の2人連れのみだった。若者の団体客も他には居た。多分別室を確保したのだろう。夫婦組は個室だった。
 ここで夕食の18時まで缶ビールで歓談した。夕飯のメニューは猪肉のミニ鍋が付いたごちそうが出た。夕食でもまたカップ酒にお付き合い。酒好きが2名も居たのだ。
 風呂に入って寝た。ビールのせいか夜中に3度小便に起きた。年寄りはただでさえ小便が近いのにビールは利尿剤なので尚更だ。

続 『今西錦司 初期山岳著作集 初登山』の補遺2022年07月05日

6/20の続き
  尾鷲道を調べていたら今西錦司が戦前に縦走していたことをしった。それで記録の掲載された斎藤清明編『今西錦司 初期山岳著作集 初登山』を取り寄せた。古書が届いたのでさっそくひもとくと、1922(大正11)年10月に3泊4日で登っていた。20歳の時だから京大生だった。京都を出発し柏木で一泊。入之波の大台辻から入山し、大台教会に一泊。面白いのは三日目の行程だ。なんと、牛石ヶ原からトロッコに乗せてもらっている。
トロッコの行き先は樫山958m三角点まで便乗し、不動谷と岩井谷の合流点に下山した。溪谷でもトロッコ道を歩き便ノ山に出て、馬越峠を越えて、夜10時半尾鷲港に下った。尾鷲港から船で荒波の中を鳥羽まで行き、汽車で帰京。
紀州は木材生産が盛んだがもうそんな時代からトロッコが行き交いしていたことに驚いた。8月には大台ケ原からマブシ領往復の計画なので堂倉山辺りをよく観察してみたい。トロッコ道が残っているはずだ。検索すると「堂倉山山頂を南側に下り立ったところは「シラサコ(白カケ)」と呼ばれており、小さな平地に陽光がよく通っている。この付近は、大蛇嵓の方から伸びてきたトロッコ道跡があり、時に尾鷲道と重なっている。枕木やレールの取り除かれた線路跡をイメージしてもらうとわかりやすいが、登山道としては贅沢な1~2m幅の道が緩やかな傾斜で伸びている。ただ、このトロッコ道はいつまでも尾鷲道に寄り添っているわけではなく、巨岩帯を通り抜けたあたりからやがて森林の中に埋もれ視認できなくなる。」とあった。
「「白崩(しらくえ)」と呼ばれている岩礁で、その下の谷が「白崩谷」である。三度にわたって大台ヶ原に入山した松浦武四郎は、木津(三重県)に下りているため、ほとんど尾鷲道を使っていないが、3回目の入山時には、大蛇嵓から堂倉山西側をまいてこの白崩谷を使って東ノ川まで下りている。」
 「「尾鷲道」は、尾鷲の林業家・土井 與八郎が大台教会開殿後、. 紀州の信者の参詣道として1915(大正4)年に寄進され、 大台ヶ原. への登山路として尾鷲」の人々に利用された。という。
  今西が歩いた時代は大台教会の信者も登拝に来ていただろう。
因みに大杉谷の初遡行は「遡行は明治45(1912)年5月。大西源一は櫛田川河口に近い多気町弟国の出身。大北聡彦は松阪市。桃の木小屋は昭和15年完成というから、鍋、米、味噌を携えて、焚き火を起こし炊飯する野営の旅だった。」
 松浦武四郎が入山したのは67歳(明治18年)というから如何に探検的な登山だったか。大川嵩の入山は武四郎没後に1891年62歳でした。

伊勢・貝吹山に登る2022年06月02日

 出張も今日で完了の見込み。結構忙しかったから遠方へは登りに行けなかった。手近なところで90mながら貝吹山に登ってみることにした。伊勢自動車道の伊勢ICの北東に位置する。また北から西はR23が通過している。取り残された感がある。
 出発地は倉田山公園のP。松尾観音寺に少し寄りながら行くと右下に坂道が下りている。下ると地方道に合うのでR23を横断する。地形図を見ながら住宅地を通過して角地にじっと見ると赤テープが巻いてあり、丸葉の下草を踏んで分け入ると浅い谷の踏み跡を行く。すぐに鞍部、右折すると山頂までは尾根をたどる。
 頂上までは尾根通しになり、よく整備されている。山頂直下は急登を強いられる。三等三角点のうまる山頂だ。山頂からは鼓ヶ岳を眺めることができる。往路を戻る。
 植生はほとんど照葉樹林が占める。なので周囲の展望はない。