奥三河・滝洞を遡る2019年11月13日

 今日は1年の沢登りを締めくくる沢納め。場所は設楽町の滝洞を選定した。今期4度目の設楽町の沢歩きである。
 地形図には名前はないが、滝の口川が正しい地名のようだ。林道は滝洞林道と呼ばれている。池ノシリの588m地点から入り、不動橋付近に駐車可。林道ゲートは三角点838.7mの左のくの字型の箇所にある。
 栃洞を遡行した際、下山は838.7mの三角点を経て豊邦の山里に下山した。そこで山の小母さんたちとのよもやま話が面白かった。草の生えないところへ行きたいとか、滝洞は奥入瀬みたい、11月中旬が良いよ、と推奨をされた。
 それでこの時期に沢納を兼ねて10時30分ごろ、不動橋にP、林道ゲートを過ぎてからしばらく歩き滝洞に入渓した。谷は鰻沢、栃洞に比して若干小規模だが小さくまとまった感じ。大した難所はないが核心部は2か所あった。最後は3段25mの美しい滝で締めくくる。標高883mの尾根の下がった辺り。この辺りまで来るとヤマモミジの紅葉が美しい。滝を過ぎると平凡になり林道の分岐まで歩いて12時30分ごろに昼食。
 滝洞林道を歩いて下山した。道中で雪蛍を見た。この虫が浮遊するとやがて雪が降ると言われる。Pに着いたのは13時30分ごろだった。手軽な溪谷ハイキングの趣がある。帰りは時間に余裕があり、足助町の百年草に入湯した。温泉ではないが温まる。300円。足助町の紅葉は今一で来週から月末にかけてごった返すかも知れない。すでに駐車場客獲得に大わらわである。
 段戸の山と谷のランキング
1 澄川  ◎  段戸山
2 栃洞  〇  出来山
3 滝洞  〇  出来山
4 鰻沢  △  出来山

西教寺と日吉大社へ〜大津・坂本、明智氏ゆかりの地を訪ねて2019年11月12日

 当会の秋の研修会として開催。大型バス1台を仕立てて豊橋、豊川から約40名が来られた。名古屋の私は刈谷ハイウェイオアシスで拾ってもらった。
 伊勢湾岸道から新名神を経由、大津で高速を出る。国道を走ってまずは西教寺へ行く。大型バスが狭い路地に入り込んでUターンするのに難儀したが見事なハンドル裁きで切り抜けた。西教寺のPへ入るのが大変なのだ。
 境内の紅葉はまだ色づいておらず3分くらいか。小春日に助けられて傾斜のある石段を登ると本堂の立つ西教寺に着く。裏手にまわり料金300円は幹事さんがまとめて支払う。住職さんからの案内で本堂に入らせてもらう。話によると天台真盛宗の総本山という。ウィキペディアの解説をいくら読んでも理解しがたい上にまた新たな宗派ときては混乱する。
 今日の目的の明智光秀は一族の墓として葬られている。明智の墓はあちこちにあるがここのは由緒ある墓だとか。菩提寺ともいう。
 ウィキペディアには「信長による比叡山焼き討ちの後、近江国滋賀郡は明智光秀に与えられ、光秀はこの地に坂本城を築いた。光秀は坂本城と地理的にも近かった西教寺との関係が深く、寺の復興にも光秀の援助があったと推定されている。光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存している。また、境内には光秀の供養塔や光秀一族の墓が立っている。」と縁が深いことを思わせる。
 またバスで日吉大社に移動。すぐ近くにある。これもウィキペディアによると「文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見だが、これは、日吉大社の東本宮の祭神・大山咋神について記したものである[2]。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。日吉大社は、崇神天皇7年に日枝山の山頂から現在の地に移されたという[2]。」
 ずいぶん古い歴史を持って居る。ウィキペディアに「元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は安土桃山時代以降、天正14年(1586年)から慶長2年(1597年)にかけて再建されたものである。[4]信長の死後、豊臣秀吉と徳川家康は山王信仰が篤く、特に秀吉は、当社の復興に尽力した[2]。これは、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であったことから、当社を特別な神社と考えたためである。」とあって、やっと秀吉との縁が結びつく。しかし光秀に絡む史跡はないので坂本の地にあるという縁だけで取り上げられるのだろう。
 ちなみに明智光秀の居城だった坂本城は城址のみで明智光秀像が立っているだけらしい。
 というわけで今日は観光気分で早足で名刹を回りました。西教寺で2句、日吉大社で2句即吟で投句してきました。
 投句作品は未発表作品なので書けないが、神の留守、小春日和、照り紅葉、冬紅葉、冬柿、実なんてん、冬日和、湯葉などの季語が浮かんだ。
 白洲正子の『近江山河抄』の”日枝の山道”を改めて読む。

白洲正子『近江山河抄』を読む2019年11月11日

 明日は歴研のバス旅の予定。日吉大社と西教寺である。はて、どこかにあったぞと書棚の本を取り出し、「日枝の山道」を読んだ。どちらも行ったことはないので予備知識を入れておこうと思う。日枝は”ひえだ”、ではなく”ひえ”と読ませる。『古事記』には日枝と書き、比枝、比叡と転じたと書く。
地形図を貼っておく。
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 地形図を眺めると
 日枝の御神体山は八王子山381mである。この山は延暦寺境内へとつなぐ尾根の末端にあたる。そして真西には比叡山延暦寺の根本中堂がある。白洲さんの文には八王子山、牛尾山、小比叡(おびえ)というと紹介される。『古事記』にも登場する歴史の古い山なのである。
 そういえば、今年の夏珍しい仕事を手掛けた。名古屋近郊にある宗教法人様の規則変更であった。しかも天台宗なのでここが大本ではないか。書類には比叡山の事務局の印鑑も押印してあった。これは余談である。
 西教寺のことも少し書いてある。行ってみてまた読んでみる。

ベレー帽似合ふ遺影や冬の菊 拙作2019年11月10日

 午後から葬儀に参列させてもらった。故人は成年後見のコスモスあいちで広報に相談会にと汗を流してきた同士の御母堂である。葬儀会場の場所は常滑市の青海というところ。
 もうちょっとでセントレアに行ける。それよりはR247,R155のいわゆる産業道路を走っていると鈴鹿山脈が良く見えた。伊勢湾をはさんで何ら障害物がないのでいい写真になる。飛行機の離陸と鈴鹿山脈を組み合わせたら面白いだろう。
 葬儀は1時間ほどで終わった。故人は90歳とのことで参列者も喪主の子息を除くとみな高齢者ばかりだった。宗派は臨済宗であった。お念仏は浄土真宗とかなり違う。鳴り物入りが多くちょっと派手な印象である。
 今日は初七日も済ませるとのこと。本葬が終わったあと常滑を後にした。

恵那の雪ひとまず消えし小春かな 松本たかし2019年11月09日

岡田日郎編『山の俳句歳時記』から。

 恵那山は森林におおわれた山である。北アルプスの森林限界は南北で違うけれど2300.m以上、南アルプスや中央アルプスは2500m以上ですから恵那山は山頂まで森林におおわれている。
 そんな恵那山は東海地方から眺めると真っ黒な山体になる。降雪してもしばらくするとまた真っ黒になる。白っぽいのは樹林を覆っている間だけになる。
 南からは恵那山を眺める場所も機会も余りない。愛知の茶臼山からは見える。しかし初雪はたいていは北面に残る。
 作者の松本たかしはどこから眺めたのだろうか。たぶん伊那谷北部辺りからと想像してみる。この作者にはもっと人口に膾炙した名句がある。
    玉の如き小春日和を授かりし
 しかしやっぱり地名の持つ確かさ安定感は良い。具象性があって然りだ。

出羽人も知らぬ山見ゆ今朝の冬 河東碧梧桐2019年11月08日

 特選 名著復刻全集 近代文学館  大須賀乙字選碧梧桐句集。
復刻版は昭和50年5月1日発行だが原典は大正5年2月5日の発行になる。発行所は俳書堂。
 序文は乙字が書いている。当時の俳句観を知るには貴重なので転記しておきたい。

「我国にはもと傑れたる叙景詩はなかったのである。芭蕉は叙情詩人たる素質の人であるが、十七字に客観的内容を取って僅少の名句を得たのである。蕪村は芭蕉の完成したるものに憑って俳句を純然たる叙景詩にしたのである。蕪村の叙景は、しかしまだ概念的なところがあって、現在の感覚に触れた生々としたものではない。子規の冩生になって初めて客観的具象化を遂げたのである。しかし子規の寫生は部分的感覚に執してはゐない、纏った気分を把握して天然に向って居る。理知的按排の巧妙な芸術を築き上げて居るのである。子規の進んだ跡を最も正直に行った者は碧梧桐である。
 感覚の鋭敏さにおいては碧梧桐は稀有の人である。子規の判断は純理知の働きに近いものであったけれど、碧梧桐の判断は感覚的要素が基礎となって居たから、子規の感化が薄らげば危険であるべき将来を持って居たのである。此句集を讀めば誰でも「ものの感じを掴む驚く可き鋭敏さ」に感服しないものはなかろう。藝術の為の藝術としての俳句は子規碧梧桐に至って完成されたといってもよいのである。
 子規にも模倣句は可なりあるが、碧梧桐にもそれは少なくない。しかも良い調子にこなされて居るから、なかなか気の付く人はないのである。調子のうまいことも碧梧桐の特色に數へなければならぬ。
 文泉子は「碧梧桐は調子の天才だ」といった。音調も感覚的要素であるから碧梧桐の立場がそこにある事は愈々明らかである。碧梧桐の句といへば桔据難解のやうに世間では思って居るが、決してさうでないことは此句集が證する。初期の句は、どうしても概念的であるを免れないが、歴史的位置を占めて居る句として掲げて置いた。佳句は明治三十八九年頃より四十一年頃までのものに多い。殊に東北行脚中のものには、なかなかの絶唱がある。
 一度新傾向の聲に驚いてから碧梧桐は、局分されたる感覚に瞑想を加へて横道に外れて了った。さすがに行脚をして居るから實境の見る可き句もあるけれど、四十三年以後になると、殆ど拾ふ可き句がない。俳人碧梧桐を再び見ることは出来ないと思ふ。信に惜しいことである。其故にこれは序文にして又弔文である。
  
 大正四年十二月五日   於千駄谷寓居  乙 字 識」
 
・・・・碧梧桐も乙字も忘れられた俳人である。俳論家の乙字らしく理詰めの碧梧桐押しである。碧梧桐は調子の天才と評したのは俳句は韻律詩であることを証明している。芭蕉も舌頭に千転せよ、と論じたから俳句の骨法である。


 掲載の俳句は冬の部 立冬の句にある。

 出羽人はヤフー知恵袋の回答に「出羽国の人間の事だと思います。
出羽国とは今の秋田県と山形県を合わせた地域です。」とある。

 今朝の冬は「立冬の日の朝。引き締まった寒さの感慨をいう語。 [季] 冬。」ですが今まで使ったことはない。

ブログ「水牛歳時記」の立冬から抜粋すると、

「二十四節気の一つで、太陽が黄経二二五度の点を通過する時点を言う。新暦では十一月八日頃になる。暦の上ではこの日から「冬」である。「りっとう」という言葉の響きが硬いせいか、俳句では「冬立つ」「冬に入る」「冬来たる」と用いられることも多い。また立冬の朝を「今朝の冬」と言うこともある。」

・・・はてどこの山を指すのか、興味津々です。何度も口にして読むと確かに調子が良い。なるほど納得です。
 今朝も猿投の山がくっきり見えている。窓からは雲一つない快晴の朝です。北は曇りがちだが東は段戸高原の山々が見えている。確かに立冬よりも今朝の冬の方が使いやすい。今は神無月で2019年の場合は10月28日(月)~11月26日(火)に当たる。
  神留守の猿投の山に対面す    拙作
  くっきりと猿投山見ゆ今朝の冬  拙作

存分に空焼かせたり秋の嶺 山口誓子2019年11月07日

2冊の中央右寄りは御在所山、左の鋭峰は鎌ヶ岳
 昨日は冬並みに寒かった。風邪を引きそうになった。日中は夏の服のままであったが夕方からの定例会には一旦自宅に帰って冬服に着替えた。とっくりの薄手のセーター、ウールのジャケット、厚手の繊維のズボンで固めるとちょっと暖かくなった。私もすでに老人なので若いころのようなわけにはいかない。自覚はあるが・・・。
 今日も猿投山ははっきり見えるがやや霞んでいる。冬霞である。恵那山方向は白い雲が沸いているから冬型の気圧配置が変わって緩んだのだろう。小春日和の季節が恋しい。

 さて掲題の俳句は鈴鹿山脈の夕焼けを彷彿させる。誓子は四日市市の海辺付近に住んでいた。戦前に患い戦後は療養のためだった。あそこからは鈴鹿山脈が良く見えるだろう。特に空気が乾燥した今時は夕焼けが映える。詠んだ時期も今頃と思う。誓子には慰めであり、やがてはその御在所岳に登頂するまでに健康を回復してゆく。
 いかにも誓子らしいのは空焼かせたり、と把握したところ。実はこの風景は日本山岳会東海支部で編纂した『東海・北陸200秀山』上下の表紙になった。上下で一枚の写真になるので上下ともお買いください、というメッセージが込められている。2009年中日新聞社から発刊したからもう10年になる。

消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき北畠具行2019年11月06日

 霊仙山で遭難騒ぎがあり地形図を眺めていたら登山口の柏原と梓河内の間に北畠具行の墓所を発見した。今年は3月の北畠親房、5月の北畠八穂と北畠づいているのでつい注目したわけです。日の短い晩秋の山歩きに良さげな気がします。
 鎌倉幕府も元寇に防人として働いてくれた武士らのために財政難となって崩壊した。防人は出征するために自分の領地を売ってカネに替えて旅に出る。軍資金をもって家来に食わせながら赴いたと言います。当然借金もあった。それで帳消しにする徳政令の政策もしたが幕府はもたなかった。
 現代でも軍備のためにアメリカの財政は青息吐息だそうな。中国も韓国も財政事情はもっと悪いだろう。日本も良いとは言えないが債権国ではある。外国が破綻すれば焦げ付く。債権というのは信用で成り立つ虚構である。それでも生きてゆくことに違いない。実体のある経済を見るしかない。日本人が株式や金よりも土地に価値を見出すのは過去の教訓であろう。
 さて北畠家の末裔は今も健在であった。医業、薬局など手堅い仕事でヒットする。代々の土地が温存(継承)されてきたからだろう。
 個人は露のごとく消えても倒幕のために尽くした自分の人生は何だったのか。
辞世の歌の意味は重い。

 歌意は「消えかかっている露の如くはかない自分の命の最後はもうわかってしまった。それにしても鎌倉幕府の末路を知って死にたかったものだ。」
 北畠 具行(きたばたけ ともゆき、正応3年(1290年) - 正慶元年/元弘2年6月19日(1332年7月12日))は、鎌倉時代末期の公卿。村上源氏北畠家庶流・北畠師行の次男。兄に雅行。

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 北畠家初代の北畠雅家の孫にあたり、北畠宗家4代目の北畠親房は具行の従兄弟違(従兄弟の子供)にあたる。親房と共に後醍醐天皇に仕えて、従二位権中納言に昇進する。和歌にも優れており、「君の恩寵も深かりき」と評される程の側近となった。また、親房が世良親王急死の責任を取って出家すると、宗家は幼少の顕家が継いだために、具行はその後見人となった。

 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が倒幕計画を立てると、具行も中心的存在の一人となる。このときの計画は失敗したため、具行も鎌倉幕府軍に捕えられた(元弘の変)。翌2年(1332年)、京極高氏(佐々木道誉)により鎌倉へ護送される途中、幕府の命により近江国柏原(現在の滋賀県米原市)で処刑された。

「ばさら」と呼ばれた道誉は、公家である具行の事を嫌悪していたが、死に臨んでの具行の態度に道誉も感服し、柏原宿の徳源院に一ヶ月ほど留め、幕府に対して助命を嘆願したが叶わず、その別れを惜しんだと伝わる。6月18日夜、二人は暫く談笑し、翌19日具行は剃髪後に処刑されたが、処刑前に道誉に対し、丁重な扱いに感謝の言葉を述べたと伝わる。[1]

「増鏡」によれば、辞世の歌は「消えかかる露の命の果ては見つさてもあづまの末ぞゆかしき」[2]

墓所として、米原市柏原に貞和三年(1347年)建立の宝篋印塔が残り、「北畠具行墓」の名称で国の史跡に指定されている。
以上はウィキから

秋晴れ2019年11月05日

 今日はは清々しい朝。わが窓から猿投山もいつもよりくっきり見える。黒々としている。もうすぐ山眠る季節に入るがすでに寝ているようだ。空気中の水蒸気が減ったのだろう。もしやと御嶽山の方向に目を凝らすとかすかに見える。間違いなく御嶽山の輪郭である。但し今は冠雪していないのだろう。だから黒っぽい。自転車の空気が減って今日はポタリングを休止したがこれからは良い季節になる。いやむしろ小寒いくらいだ。昨夜は原稿を2本書き上げた。あと少しで外に出かけられる。

老人性低体温症2019年11月04日

遭難を考える講演会
 このところの冷え込みで秋山遭難が増えてきた。北アでは72歳の老登山者が低体温症で死亡した。 
 登山の基本は、温かい衣料(行動中は軽く、休止中は防風対策、冷えに対策して工夫)、十分な水と食料(非常食も含む)、後不時露営に備えて、ツエルト、防寒着、体力が許せばコンロ、コッヘルで暖を取れる準備を固めていきたい。これらの装備をいつでも使えるようにしておくことも大切だ。
 今時は携帯電話など連絡手段も必須になった。秋山は早く日没する。早出早着きが常識。これから冬至までは日照時間が少なくなる一方なので行動時間が限られることも念頭に置きたい。

 テルモという医療器具のメーカーのHPから
 高齢者では暑さ、寒さに対する感覚が鈍くなり、身体の反応も弱くなっています。具体的には、暑くても汗をかきにくく、汗の量も少なくなります。また暑いと皮膚の血流が増えて体内の熱を逃がそうとするはずですが、高齢者の場合、暑くても皮膚の血流量が増えにくくなります。
 逆に寒くなっても皮膚の血流量があまり減らないため、体内の熱を逃がしてしまい、体を冷やしやすくなります。
 老人性低体温症
寒いとき、高齢者の手に触ると、温かく感じることが多いと思います。本来、寒いときは皮膚の血管が縮まって血流量が少なくなり、体内から熱が逃げるのを防ぐ仕組みがあります。しかし若い人にくらべて高齢者の皮膚血管はその反応が鈍いため、体内から熱が奪われやすくなります。
 さらに体内で熱を作り出す反応も高齢者では弱いため、体が冷えてしまいます。
 寒いときに体の中心部の体温が35℃以下に下がった状態を「偶発性低体温症」といいますが、高齢者の体温が低くなったときの状況をとくに「老人性低体温症」と呼びます。
以上
・・・・こんな老人の生理を考慮して秋山冬山に対応する必要がある。2012年のGWの白馬岳の稜線をTシャツ1枚だけで登っていた中高年のパーティ6人が全員低体温症で死亡している。
 「豊後ピートのブログ」から
「GWの白馬岳で6人が凍死 4」
https://blog.goo.ne.jp/bongo-pete/e/2b0dc77309ffd5dee6f12fe543b436f5#comment-list

 結局は当ブログの右に掲げたコラムにある跡部昌三さんの箴言に尽きると思う。
「悪天候は人を死地に追い込むためにあるのではないということである。厳冬1月も寒冷さ、風雪の狂う高所では、人の生存を拒否しているようであるがそこへ登ろうとするものは、それがどのようなものかは、すでに分かっているはずである。また、それに立ち向かう自由と、さける自由は登山者自身に許されている」

 自分の限界を知っておく。所詮自然の猛威には勝てない。頑張って褒められるのは人間界の虚構の中での話である。