那須町で高校生ら8人雪崩で死亡2017年03月27日

 栃木県那須町のスキー場でラッセルの訓練中に雪崩が起きて8人の高校生が死亡した。何ともショッキングなニュースに絶句する。亡くなられた生徒たちのご冥福をお祈りする。
 それにしても積雪33センチも新雪が降ったこと、1月から2月にかけての積雪の雪面がかたまり、その上に湿雪が積もれば雪崩れるのは必至だったはず。指導者たちの登山観はどうなっているのか。
 おそらく大学山岳部で鍛えられた先生だろう。厳冬の高山もこなしてきたに違いない。しかし、冬山の指導者足らんとするには最低でも20年は要するというのが持論である。18年から20年に1回は豪雪の年があり、雪崩れの遭難事件が多発する。こうした経験と観察で状況判断力が養われる。
 ところが大学山岳部出身者は一番危ないという説もある。実際、これまでに遭難で死亡した登山者はみな大学山岳部出身者だった。降雪中、降雪直後でも豪雪地帯の沢に滑り込んで行き、雪崩で亡くなった。もう一人も豪雪地帯の低山ながら切りたった崖の谷に突進して倒木の落下にあたり死亡、北アルプスの谷に午前10時頃入山して落石で死亡と枚挙に暇がない。登山技術以前の判断力の欠如である。
 かつて、私の所属する山岳会に入会した関東の若い転勤族がこう言ったものだ。「あなたは大学山岳部OBではない(社会人だ)から無理をしませんね」と。「えっ、他の会じゃそんなに無茶をしてるんかい」と返した記憶がある。結局、山岳雑誌の記事に刺激された読者は自分の力量を顧みず無茶をするのだ。悪天候を突いて登るのがアルピニズムとばかりに、中途半端な西洋からの登山思想を吹き込まれた大学山岳部OBの指導者がまだまだ多いのだろう。

句会と加古宗也ミニ研究2017年03月27日

 3/26午後、平針駅近くの喫茶店に集まる。今日は冬眠中だった2名が出席したが熱心なOさんが急用で欠席されたうまくいかないものです。しかし、久々ににぎわいを取り戻す。

 1人が古い写真をみせてくれた。いずれも俳句教室に通っていた頃のスナップで「若竹」の加古宗也氏が写っている。 地味ながら名古屋で人気の俳人である。
 ふらんす堂のHPの著者紹介から「1945年、愛知県西尾市生まれ。1970年、村上鬼城の高弟・富田うしほ、潮児父子に師事。「こころの俳句」を学ぶ。1977年、俳誌「若竹」編集長。1990年、富田潮児より「若竹」継承、主宰となる」とある。
 村上鬼城といえば、ウィキペディアの作風のページに「自らも不遇な環境に置かれていたため、困窮した生活や人生の諦念、弱者や病気への苦しみなど、独特の倫理観で憐れみ、哀しみを詠った句が多いのが特色である。また、本人も耳が不自由だったためか、身体障碍者に対する感情を詠ったものが多く(但し、今日では差別語として好ましくない表現を用いた句もあることを留意する必要がある)、阿波野青畝など影響を受けた俳人も多い。また、座右の銘が「心眼」ならぬ「心耳」であったことから、今日では「心耳の詠み人」と呼ばれる」と紹介される。
 いわゆる境涯性の強調された俳句が多い。自らの弱さをさらけ出す。私の脳裏にも
   冬蜂の死にどころなく歩きけり   鬼城
くらいの記憶はある。
 さて、加古宗也先生は作句指導のみならず書くこともできる俳人である。「俳壇」に連載していたものをまとめて書籍化した『定年からの俳句入門』は購読した。無難な内容であった。
 検索で主宰の書斎訪問というユーチューブを見つけた。
 https://www.youtube.com/watch?v=T0aKRB1ZehU
 俳句雑誌「若竹」は1000号を越えた。2015年8月のふらんす堂のブログにある。
 http://fragie.exblog.jp/m2015-08-01/
 俳句雑誌が1000号を越えた結社はそんなに多くないと思われる。前田普羅系の「辛夷」は2010年に1000号となった。当時でも10誌くらいと聞いた。ひたすら愚直に発行し続けることになる。
 先だってつるまい図書館で各誌のバックナンバーをまとめ読みした際、私が40歳から45歳まで投稿していた「武都紀」誌の短歌誌も含めて発行を休む結社誌が数誌はあった。主宰の死亡とともに結社を解散する話も聞く。高齢化の波が結社にも訪れている。
 加古主宰は1945年生まれで主宰としては若い方だ。4人に1人は高齢者になる高齢化社会では弱者が増加することになり、境涯性の俳句は増えるだろう。
「「俳句一筋、鬼城一本」この八字をもって「若竹」を歩んで来ました。
「若竹」はかたくなに村上鬼城一本でやって参りました。その頑固さ、頑なさでやってきた一方で、私などは本当に気楽に淡々にやってきました。力んでやった覚えは全然ありません。本当に有難いと思います。そんな中で一〇〇〇号を迎えられのは嬉しいことです。
 良い仲間に恵まれました。奇跡と言うべき仲間に恵まれて今日まできました。同時に俳壇の先輩、それから友人が本当に久しく声を掛けていただいて、今日も大勢の方が駆けつけてくれ、また「若竹」一〇〇〇号の記念号に多くの人が本気で原稿を書いてくれました。素晴らしくありがたいことだと感謝でいっぱいです。
 感謝を胸にこれからも「愚直に」次に進んでいきたいと思っております。ぜひ皆さまも何卒優しく見守ってくださればと思います。」
 主宰の人柄がよく現れた文である。「人を愛すること」という最後の言葉はどの主宰も同じことを言っている。人の支えがないと解散しかない。誌友、会員は投稿を通じて結社誌の発行を支え、又、資金源でもある。

 結局、文学というか、文芸の根幹はそれに尽きる。しかし、俳句は人間しか読まないのだから敢えていうことでもないと思っている。江戸時代の宗匠らは俳句はこう詠め、こう考えよ、と指導した。それを月並俳句と子規は批判した。
 https://jphaiku.jp/how/tukinami.html
 手厳しいが現代の主宰もこの傾向はあるように思う。

 「俳句研究」誌編集長として、山本健吉は人間探求派を唱えたのは若干28歳のころだった。当時は皆若かったから追随する俳人が多かったのだろう。現代俳句は駄句の山を築いたとも指摘される。草田男の結社は解散した。楸邨はどうなのか、波郷は?境涯性を追求する、人間愛を追及するのは真理とはいえ、心しておかねばなるまい。自分の弱点をさらけ出すのが境涯性ではないのである。モノに託すことが重要である。

 芭蕉の句のように自然を読みながら人間性が出ていることが重要であろう。普羅も自然を詠みながら人間がよく出ている。決して幸せな人生ではなかったのに境涯性を謳わず、自然の美に昇華した。これぞ文学である。だから何年たっても飽きることなく探求していける。

3月句帳22017年03月26日

   3/22
シモクレン街路の脇をはやすなり

   3/23
名城の木造決まり山笑ふ

   3/24 JACリーダー会議
白熱の議論となるや春の宵

路地裏の居酒屋探す春の夜

新参の人と飲みけり安酒場

朧夜の浮世酒場で山談義

   3/25
鳥曇りひっきりなしに飛機が行く

   3/20の橋幸夫コンサートの余韻未だありて
   土産の桜蝦せんべいを食うと 「いつでも夢を」
   を口ずさむなり 
せんべいを食へば鼻歌桜蝦

ホタルイカげに山陰の味したり

橋幸夫お茶親善大使就任記念スペシャルコンサート2017年03月21日

 3/20、静岡県菊川市の菊川文化会館アエルで行われた橋幸夫のコンサートに行った。名古屋を8時30分に出発、東名高速を走って菊川ICで降りてすぐにアエルに10時30分到着。早速チケットを購入。4000円也。高速代は往復で4600円。10000円の遠州路の行楽になった。

 牧之原市、御前崎市、掛川市、菊川市、島田市がバックアップして「橋幸夫「ちゃっきり茶太郎」コンサート実行委員会を立ち上げて実施された。会場のアエルは定員1200名であるがほぼ満席だった。
 昭和の歌謡界を一世風靡した橋幸夫も73歳となった。だが人気は未だ堅持されて集客力は抜群だった。1部はちゃっきり茶太郎カラオケ大会2部は橋幸夫スペシャルコンサートに分けて実施。
 カラオケ大会は全国から316名の応募があり、テープで審査されて、厳選された14名がステージに登壇して股旅物の新曲「ちゃっきり茶太郎」の1番を歌う趣向で競われた。選ばれた人は青森県、栃木県、神奈川県、三重県、千葉県、愛知県西尾市、岐阜県各務原市と地元もあった。年齢は32歳から70歳代まであり女性も2名居た。三重県の紀平さんは女性で骨折の身を押して参加された。紀平さんと聞いただけで、ああ、津市辺りの人と見当がついた。
 歌唱のレベルが高く、橋幸夫、ビクター社員、作詞家・鈴木紀代さんら審査委員も迷ったらしいが、青森から参加された人が5万円の賞をもらった。特別賞も紀平さん他2名が選定された。結構盛り上がった。
歌は
 https://www.youtube.com/watch?v=IPiwZbxVHNc
 乗りやすいリズムと歌詞はいわゆるふるさとソング、というかご当地ソングそのものだった。鈴木さんは長山洋子の作詞を手掛けてきたベテラン作詞家で、出身は浜松市の西遠女子学園高校の28回卒業生、今年67回生が卒業したというから、57歳?の働き盛りと見える。
 歌詞の最初に西行法師の名歌「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」の歌枕になっている小夜の中山を持ってくるから引き込まれてしまう。富士、牧之原、駿河湾、遠州といやがおうにもナショナリズムを掻きたてる仕掛けがある。だからといって地元が頼んだわけでもないのに、とのエピソードもどこかの市長が話された。人の縁が縁をつなぎ、今回の大使就任になり、お茶の販売促進の大役を担うことになった由。
 そのせいか、どうか、下は3歳から11歳の子供5人がたっての頼みで出演して「ちゃっきり茶太郎」を歌ったり、回転したりでパフォーマンスを繰り広げた。
 後援の地元5市長は開演直後にあいさつされたが、中盤の橋幸夫ショーからは静岡県知事の川勝平太氏も来場し、「370万人の県民を代表して・・・」とコメント。豊かな県勢にしては意外に少ないんだな。
 さて、肝心の橋幸夫は1943年生まれの御年73歳だそうな。私が中学生の頃から人気者であった。近所のお姉さんはTVの番組の橋さんにキャーと黄色い声をあげていたいたことを思い出す。彼女らも今はいいお婆ちゃんになったろう。会場の特等席にはファンクラブが充てられていた。皆70歳前後の婦人が多かった。ブラジルの日系人社会に招かれること3回という。「こんな年寄の橋幸夫のどこが良いんだろう・・・」とトークを交えながら笑いをとり、様々な話題を振りながら往年のヒット曲を歌った。落ち着いたステージはマイウェイを歌うフランクシナトラを彷彿させる。いや、日本独自の立派なエンターテイナーになったのだと思う。
 締めは永遠の名曲「いつでも夢を」の歌声が会場全体にひびいた。来て良かった。
https://www.youtube.com/watch?v=K7gUdZqgCJY
 菊川ICから西進した。朝も今も遠州路は春霞に閉ざされて富士山は見えなかった。

3月句帳2017年03月20日

  2/21 富山県高岡市を訪ねる
春雪の越の谷間の出湯かな

二上の山懐や春寒し

白川村二月の雪に埋もれたり

  2/23 豊橋市のアイプラザへ行く
往年の歌手も媼や春の夜

  2/26 句会
春愁メンバー減りて寂しさよ

  2/28 メディアの人と会う
新たなる企画ありけり二月尽

  3/1 鶴舞図書館へ本返却
三月や返さねば碧梧桐の本

  3/3 県民の森
雨上がり山も三寒四温かな

  3/6 仕事で某警察署の留置場へ行き、面会する
冴へ返る拘置中の人と会ふ

  3/8 確定申告
三月や期限まじかに申告す

  3/10 阿久比町役場、緑区役所へ行く
春みぞれ黒き凍て雲海を越え

  3/13 銀行で引き出して病院へ支払に行く
後見人の務めや春の日を浴びて

  3/14 拘置中の依頼人の件で某弁護士に会う
法律の壁厚くあり朧月

  3/17 大名古屋ビルヂング16Fに行く
春の朝勤めの人の足早に

山霞濃尾の果ての御嶽山

  3/18 定光寺でクライミング講習会に行く
暖かや細きザイルの頼もしき

春の風ザイルを肩に束ねけり

  3/20 静岡県菊川市 橋幸夫イベントで
春霞富士は見へねど遠州路

弁当にぼた餅を買ふ彼岸かな
・・・会場の「アエル」の内外には飲食店などないので菊川の町のスーパーで弁当を買う。ぼた餅も山積されている。そうか、今日は彼岸だ。

芸人に(橋幸夫)さすがお似合ひ春袷
・・・数多い芸能人でこれだけ和服の似合う役者も居ない。実家が呉服屋というからさも有りなん。節制して体型を保ってもいるのだろう。粋でいなせな江戸っ子だ。

むらさきの春袷げに着こなせり
・・・男性の紫は難しい色だ。いかにも玄人筋を思わせる。加藤耕子さんの「むらさきの帯を低めに二月礼者」の句を思い出す。橋さんは帯ではなく着物だから登場した途端オーラを発散している。

角帯の結びも粋な春袷

春の夢着流しの橋幸夫なる
・・・TVの歌番組で飽きるほど見てきた橋さんの着流し姿を生で見るのは夢みたい。

遅き日の一列になり出待ちかな
・・・出待ち=ひいき筋の芸人が楽屋から出て車に乗り込むまで見送る。反対に楽屋入りするまでは入り待ちになる。何時間も前から待つ。

春の宵輪郭しかと三河富士(三河本宮山)

加藤耕子ミニ研究22017年03月19日

産経抄から
芭蕉を学ぶ国の危機 2月24日
ソース:http://www.sankei.com/world/news/140224/wor1402240018-n1.html

 ▼日本から遥か彼方にある国の小学生は、なんと国語の授業で、松尾芭蕉の俳句を勉強している。元ウクライナ大使の馬渕睦夫さんによると、独立以来国語教育に特に力を入れてきた、ウクライナの学習指導要領にはこうある。

 ▼「自然を描写して気持ちを表す日本人の国民性を学ぶことにより、ウクライナとは違った文化をもつ日本と日本人に対する尊敬の念を養う」。芭蕉を学ぶ子供たちに、救援の手を差し伸べるすべはないものか。
以上

 以上は加藤耕子句集『空と海』のあとがきにあった話に共通する。あとがきには「ウクライナの小学校の教科書には、シェークスピア、ゲーテと並んで芭蕉が世界の三大詩人の一人に取り上げられています。東洋の、日本の文化の奥深さと同時に世界の人々の指針ともなるべき俳句・HAIKUの持つ精神力、物の見方、詩型の確かさ、短い故の言葉の力を強く思った次第です。」とある。

 中杉弘の大説法と言うブログにも
「元駐在ウクライナ大使の馬渕睦夫さんの話を聞いていくと分かることが色々あります。この人の考え方は僕の考え方とほとんど一致しています。
 まず、第一番「私は世界人です」という人は、相手にされません。国際の社交会に出て「貴方は何人ですか?」と聞かれて「私は、世界人です。国際人です」と言ったら相手にされません。「私は日本人です」と言うと相手にされるのです。
 世界人などいないのです。「日本人です」と言うから世界人として扱われるのです。日本人を飛ばして「世界人だ」などと言ったら通用しないのです。それぞれの個性を主張して、それぞれの歴史と文化を担って、国際の社交場に出て行って、初めて国際人です。国際人をつくっているものは、日本人です。このようなことになるのですが、このような教育が日本では行われていないのです。
 英語をしゃべるのが、国際人ではないのです。日本文化を知って歴史と伝統を学び、アメリカ人と日本人は違います。日本人と朝鮮人と中国人は違います。「どのように違うのか」「どのような物の考え方が違うのか」ということが、説明できないと日本人にはなれないのです。
 馬淵さんがウクライナの駐在大使をやっている時に、小学校の5年生の教科書を見せてもらったのです。日本のことがびっちり書いてあったので、馬渕さんがびっくりしたのです。
 日本ではウクライナなどあまり知られていない国ですが、日本について非常に懇切丁寧に書いてあるのです。一番印象に残ったのは、日本は物質文明と精神文明を融合させている国です。松尾芭蕉の句を、小学校5年生に徹底的に教えるのです。馬渕さんも知らなかった句を小学校5年生で習うのです。
 「自分が知らないではずかしい思いをしました」と言っていました。16ページくらい使って日本のことを紹介してあるのです。」

馬渕睦夫氏のユーチューブ「朝鮮戦争とグローバリズム」
https://www.youtube.com/watch?v=wxVjJcTme3s
・・・ウクライナの小学生が松尾芭蕉の俳句を9ページを割いて学ぶ。自然はインスピレーションの源泉。

 世界はわれわれが知っている以上に日本文化を学んでいるようだ。とりわけ俳句を学んでいるのは不思議な気がする。加藤耕子はその潮流を見て行動しているのだ。どんな結実を見るのか。今後も加藤耕子の発信から目を離せない。

加藤耕子句集『空と海』鑑賞とミニ研究2017年03月19日

 俳人加藤耕子の名前をメディアで知ったのはかなり前のことだ。俳句と英語を結び付けて、世界一短い詩である俳句を世界に発信しようという試みを続けてこられた異色の俳人でもある。
 自註現代俳句シリーズ加藤耕子集の略歴によると、昭和61(1986)年に日本の俳句と世界のHAIKUをつなぐため「耕の会」発足。俳句と文章誌「耕」「kō」という英文誌も創刊している。しかも名古屋の人なので名前だけは知っていた。
 作者の生まれは昭和6(1931)年なので55歳で一念発起したわけだ。私は俳句を始めたのは40歳なので「耕」の3年後の1989年のことになる。多分、新聞で取り上げられた記事を読んで記憶に残ったのである。「耕」も31歳になったのだ。
 最近になって、所属俳誌の主宰のあとがきに加藤耕子の名前を見た。俳人協会の評論賞の選考委員にも加わっているのだ。おそらく俳句で認められた俳人ではなく、むしろ評論分野に業績があったのだろう。略歴を読むと愛知県立女子短大英文科、同志社大英文科、名古屋市の英語教師を経て昭和44(1969)年に俳句開眼。主に水原秋桜子の師系の結社で俳句修業。
 男性が女性に絶対敵わないのは女性のもつ一途な勉学心であろう。この一途さが俳句と英語俳句を結び付けるという途方もない、徒労ともいうべき、句業につながっている。これは何なのか。
 作者は終戦時、14歳の多感な少女時代、そして英文科に進む。英語圏かつキリスト教文明に対するコンプレックスを抱いたのか。日本にも俳句というものがありますのよ、と英語でHAIKU(俳句)を詠む人達との交流を通じて、日本の心を発信する。
 ロマン・ロラン(1866~1944)は外国語を学ぶ者は母国語をより深く知る、という意味のことを言った。これはエスペラントのテクストにあった断片で記憶違いがあるかも知れない。加藤耕子もこの例にもれず、かえって深く日本の古典文学に目覚めたと言える。
 英文学が専門の夏目漱石は俳句の業績も評価が高い。素養は漢詩にあると思うが英語を深く知ったことが刺激になったであろう。前田普羅も早稲田の英文科であるが文明開化の進む東京をみて俳句に目覚めたであろう。実際、戦後になって『飛騨紬』の句集を編んだ動機も高山線の開通によって飛騨の山村文化が壊れて行くことを案じたことにあった。
 本題の鑑賞に入る。平成14年から平成21年の俳句をまとめた。作者71歳から78歳になる。昨年3月に発刊された。本阿弥書店。

向ひ合ふ齢となりぬ福寿草 
・・・何に向かい合うかと言えば、古希なので死であろう。但し、福寿草という新年のめでたい季語を持ってくるところに作者の都会的な明るさがある。孫に囲まれて幸せな正月の風景のなかにもちゃんと人生の節目を詠む。

樹の姿あらはに寒の山匂ふ
・・・如月の候、梅園にでも吟行したであろう。それも観光地化された名園や遊園ではなさそうだ。寒の山とあるからだ。私には奥三河の新城市海老の奥の川売辺りの廃田に植えられた梅を思う。狭い谷間の山里を1500本の梅の木の匂いが漂う。

月待ちの岩に冠さる橅若葉
・・・伊勢8句の前書きがある。はたして伊勢の山に橅が生えていたのかどうか。明神平辺りまで登れば見られる。あるいは大台ヶ原山へマイカー登山だろうか。71歳の老婦人ながらお元気そのものだ。

金銀の名もつ峠の崖清水
・・・これも伊勢8句の一つ。筏場道に確かに金明水の水場がある。

山めぐるとは老鶯をめぐること
・・・鶯は冬は笹薮の中でチェチェと鳴く。春はお馴染みの鳴き声になり、夏になると高い山に移る。鈴鹿の稜線に登るとうるさいほど鳴いている。

原生林蛭に身の血を分ち合ひ
・・・伊勢8句とはどうも夏の大台ケ原山を歩いた嘱目吟と見える。私も台高山脈縦走中、大台辻の近くの沢筋で休憩中、上から、下から山蛭の歓迎を受けたことがあったことを思い出した。しかし、作者は蛭に吸血されても、身の血を分ち合い、と平然としている様子が諧謔を呼ぶ。

ひぐらしや焦土のころを墓の前
・・・作者は14歳で終戦を迎えた。空襲を受けたのは名古屋だけではない。祖母の話では三重県津市も受けた。約10km以上離れた在所からでも夜が焼夷弾で明るかったと興奮を交えて話を聞いた。14歳とはいえ、もう感性は備わっている。岐阜空襲は昭和20年7月9日だった。岐阜市が焦土と化した記憶はひぐらしの鳴き声とともに作者の脳裏にしまわれている。左翼のように平和とか反戦とか言わないで反戦を詠む。

伊吹嶺に夕日を納む墓参かな
・・・これも岐阜6句の一つ。俳人、歌人は名山に対して尊敬の念を込めて山ではなく、嶺を使う。栗田やすし主宰の「伊吹嶺」は俳誌の名前に採用するし、句集、歌集に採用されてもいる。単純に五音に合わせているからではない。筑波嶺、富士ヶ嶺、立山ヶ根、阿夫利嶺(大山)等。

むらさきの帯を低めに二月礼者
・・・平成15年の作品。粋筋の役者の普段着を目撃しての嘱目吟。結句の収まりが今一だが、帯を低めに、という中句が動かせない、となれば窮屈だが破調もやむなしだ。先駆する作品は前田普羅の「面体をつゝめど二月役者かな」がある。

龍太師に会ふひぐらしの声の中
・・・平成16年の作。毎月一枚の投句はがきに5句、4000名の弟子の2万句を選句していたという「雲母」の主宰飯田龍太。甲斐を旅したのであろう。平成4(1992)年「雲母」を900号で終刊させた。これは新聞にも掲載された俳壇の事件として記憶がある。平成19(2007)年2月25日に亡くなる。平成16年に会ったのか、回想句なのかは分からない。

冠着とは姥捨のこと夏の萩
・・・築北三山の一つで冠着山のこと。この山のみ登り残している。近々のうちに登りたい。
 加齢にしたがい、旅吟が増える。平成17年の作。姥捨伝説が気になるのだろう。私も『楢山節考』を読み、映画も見たことがある。長寿とはいうが、生きるって、目出度いばかりではないのだ。現代は終活が大流行りだ。人生をどう終わらせるか。悩ましい課題だ。

寒晴や伊吹遠尾根荒荒し
・・・遠い尾根って表現は初見。墓参で岐阜市へ行っての所見だろう。岐阜市からなら伊吹北尾根が見えるだろう。比高差は少ないがノコギリの歯のように見えるかも知れない。

葉桜の空茫々と時彦忌
・・・平成18年の作。平成15年には「魂離るこの世に瀧の音残し」と追悼句がある。草間時彦(1920~2003)は5月26日に没。私の脳裏には「甚平や一誌持たねば仰がれず」の句のみある。

川となる沢幾筋ぞ山若葉
・・・「耕・kō」20周年の前書きがある。嘱目吟のようでいて、ぞで切って、継続は力なりを実感する思い。川の源流は一滴の水から始まり、せせらぎとなり、谷になり、川に育っていく。結社を支えた同僚や弟子のお陰で20年継続できた感懐を込めた。創業は易し継続は難し。

楝(おうち)咲く見えゐる花の遠さかな
・・・栴檀の花のことである。地味な花だからそう把握したのだ。普羅の句集にもあったが思い出せない。俳号の普羅はフラワーに由来する。若いころは植物研究会に入っていたから花にも詳しかった。

雲しんと筑波嶺閉ざす半夏生
・・・前述したように筑波山を筑波嶺と詠んだ。1000m以下の低山ながら日本百名山の一つ。関東平野のランドマークと言ってよい。半夏生のころだから梅雨末期で雲しんと、という表現も納得。

老鶯やかつて隠田いま捨田
・・・私がよく歩く奥三河の設楽町に落目という谷合の隠田があった。江戸時代、検地で役人の目から落ちたので目落ちといったが、あからさまなので落目の隠語になって地名として定着した。先祖が苦労の末に開拓した田も圃場整理されて整然としたのに、米作を継ぐ人がなくて廃田になった。

昭和二十年焦土の上の油照り
・・・回想と前書きがある。作者は境涯を句に反映させないタイプだが、この句を読むと油照りとともに少女時代の記憶がよみがえるのだろう。

初秋の空のみづいろ金華山
・・・説明を要しない明快な句。私には長良右岸の園地から眺めた青い空に金華山の尖峰がくっきりと浮かぶ。

みちゆきの足袋もむらさき中村屋
・・・中村屋は歌舞伎の名門。中村勘三郎のこと。平成24年12月5日57歳で没。
 顔見世や通夜の日に舞う勘九郎  寺崎杜詩緒
「誰の通夜かといえば、平成二十四年十二月五日、五十七歳で逝った父の勘三郎であった。通夜は十二月十日に自宅で、近親者のみとの断りにもかかわらず、七百名を超えたという。ファンならずとも耳目を集めた死去であった。」

龍太なき山河春月赤く出づ
・・・平成19年の作。同年2月25日没。龍太の出世作「紺絣春月重く出でしかな」を踏まえての追悼句。オマージュというか、中々こうは詠めない佳作。

葉桜や雨のきらひな雨男
・・・平成20年の作。時彦忌 逗子の前書きがある。時彦忌なら「薔薇垣に薔薇の百花や時彦忌」があるが、単に5/26というだけのこと。掲句の方が修している。

老鶯の声の広がる切通し
・・・切通し、谷戸の語彙が入るといかにも鎌倉で読まれたと拝察する。

夏霞翼をひろぐ岩木山
・・・日本百名山の一座。津軽富士の別称がある。翼をひろぐというのは根張りの優美さを表現しているのだろう。未踏だがそろそろ登山に行かねばなるまい。

峰に雪龍太甲子雄の霊ねむり
・・・平成21年の作。龍太は飯田龍太、甲子雄は福田甲子雄(1927~2005)のこと。飯田蛇笏に師事、蛇笏死後は龍太に投句。龍太亡き後は継承誌廣瀬直人主宰「白露」の同人として活躍。その2人も今は居ない。峰というのは多分、御坂山地だろう。甲州へ旅するも親しんだ龍太も甲子雄も居ない。山には雪があるばかりの空虚さをどう埋めようか。
   雪の峯しづかに春ののぼりゆく  龍太

鉄線や昭和一桁一途者
・・・知性が光る句のオンパレードであった。生活の匂いの無さ、境涯性のなさを感じるが、この句が自画像というべし。

木犀の香を入れ棺を閉ざしけり
・・・身内の死去に寄せた句。数えたわけではないが、切れ字のやは多用するが、かなとけりは少ない。秋桜子系ゆえだろうか。ところが掲句のように追悼句にはけりが使われる。「耕」の22周年記念でもけりが使われた。梅白し佐藤和夫の忌なりけり、と。心が改まると詠嘆の心境になるのだ。
 平成15年に戻るが、石田波郷の故地を訪ねている。波郷は「霜柱俳句は切字響きけり」と詠んだほど、秋桜子系にあってホトトギス派を自認した。
 「清洲橋扇橋風凍てにけり」も、わざわざけりを使った石田波郷へのオマージュなんだと思う。私も小津安二郎の映画を見るために上京した際に同じ江東区なので波郷の砂町を歩いたことがある。庶民の町であった。

はちみつで吹き出物が治った!2017年03月14日

 前田京子『ひとさじのはちみつ 自然がくれた家庭医薬品の知恵 』を店頭で目にしてぱらぱら立ち読みすると有益なことが書いてあったので購入。
 早速、はちみつの医薬品としての著効を試す機会があった。唇の上に吹き出物ができて、腫れてきた。つぶれて膿がでてきたので、はちみつを塗っておいたら腫れが止まり、疵口が凹んで固まった。
 はちみつの殺菌力を目の当たりにした気がする。次いで、歯茎の腫れにも試した。以前に異様に腫れて歯科医で治したがまだ少し腫れて完治した気がしない。口内なので塗っても唾液に溶けてしまうが根気よく続けてみたい。
 一般的な傷にも効くのだろう。それなら登山の常備品にしても良い。行動食としてパンに塗って食べてもいいが、ある時は非常食、ある時は医薬品にもなる。主成分はブドウ糖と果糖という。すぐにエネルギーに変わる。こんな優れた食品はない。
 私の35歳先輩(故人)の登山愛好家は戦中、激戦のニューギニアで戦い、多くが戦死したが、先輩ははちみつをなめて奇しくも生き延びて帰国できたという。その生命力は確か96歳の寿命を得たことでも分かる。
書籍
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みつばち健康科学研究所
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絶景!上臈岩からの三ッ瀬明神山2017年03月04日

上臈岩から眺めた三ッ瀬明神山
 締切日を気にしながらガイドブック制作も佳境に入った。写真の整理中に気付いたのは宇連山の全体を収める全景写真がない。うわっと3/3に出かけた。新東名高速道路の新城ICから県民の森へ行く。
 駐車場は平日とあってガラガラだ。モリトピアのPから歩き出す。大津谷林道は途中で伐採作業中のために右岸側の歩道に迂回した。林道に戻るとすぐに195m地点の林道分岐だ。
 高度計では215mなのでまだ低気圧が抜けないのだろう。午後になるともっと晴れる気配だ。名古屋でもフロントのワイパーを一かきした。現地でも路上はまだ濡れているから上がったばかりだった。
 シュートン沢という不思議な地名のある林道に分け入る。地形図ではまだ破線路だから整備されたばかりだろう等高線の高まる220m付近まで続いて山道に入った。ところが鉄製のメッシュの階段が続いているのには驚いた。初見である。それだけ急坂であった。右の沢から激しい滝の音が聞こえるでもないが急である。
 30分ほど登ると東尾根に着いた。軽く汗をかいた。一休みして東へ尾根を歩いた。北尾根東尾根の看板がある。上臈岩へは左折する。しっかりした踏み跡と太い赤テープが巻いてあって、浜松のGAKU双の案内図までぶら下がっていた。知る人ぞ知る秘峡のようだ。
 展望のない痩せ尾根を下るが中々着かない。辛抱して下ると馬の背という白砂青松の絶景ポイントに着いた。素晴らしい!三ッ瀬明神山の山容である。赤テープはまだ先もあるので行って見るとついに岩の突端まで来たようだ。
 地形図の456の独立標高点で、確かに岩の記号がある。岩登りや沢登りの好きな人は岩記号即ち毛虫を地形図から探し出すらしい。沢ならゴルジュがあるということである。それにしてもロッククライミングの現場ならボルトの類の1本でもありそうだが見つからなかった。余り知られていないのだろうか。馬の背からまだ先に薮道があったが、今日の目的は宇連山の撮影ポイント探しなのでここで引き返す。
 北尾根東尾根まで戻ると東尾根を南下。三角点を過ぎてアップダウンすると東尾根の展望台に着いた。領家変成帯の露岩からの宇連山の絶景のポイントであった。ここから若干下ると中尾根へ右折。この尾根も領家変成帯の露岩が痩せ尾根となって続いた。キャンプ場へ下った。モリトピアはすぐだ。

朝のポタリング~遠くの喫茶店へ新聞を読みに行く2017年02月25日

 自宅に居ると運動不足になりやすいので久々にポタリングで近辺を走り回った。帰路は入ったことがない喫茶店に立ち寄った。もちろん、モーニングのパンは断る。減量を心掛けているが一向に減らない。膝痛も一進一退だ。今のところ、飲み薬が効能を著すまでの我慢だ。
 新聞に目を通しても明るい話題はなし。東芝はメモリ会社を分社化して株式を売った利益で赤字の穴埋めにするらしい。徳俵一枚の攻防戦を見る思いだ。
 安倍政権を引きずりおろそう、河村市政を批判したり、あえて民意で選ばれたトップの政治に背く記事が多い。
 本山市政は行政の停滞を招いたし、松原市政はハコモノ重点且つ内内の決定が多かったと記憶する。
 これに対して河村市政の人気の秘密はヤフー知恵袋から借りると
「孔子は言った。人々を頼らせることは容易だろう。しかし、理解してもらうのはむずかしい。 」
意味は「為政者たるもの、民に信頼され親しまれるように努めなければいけない、しかしその気持ちをわからせるのは難しい。」
と言ったことだろう。有権者に分かりやすい行政手腕が批判的に報じられているわけだ。
 自分の報酬を下げだけでなく、更に市議さんたちの報酬、市職員の給与までカットした。10%の減税公約の原資とした。実施できたのは5%だったが公約は果たした。これは分かりやすいが、ポピュリズムの批判も受けやすい。大衆迎合主義である。かつて佐藤栄作がマスコミを嫌ったのと同じでちょっとした隙を突いて批判合戦を繰り広げるから為政者にはたまったものではない。
 河村市長への批判の文脈を言い換えると
 思いつき・・・・ひらめき、アイデア、独創
 思い込み・・・・政治哲学、信念
 減税廃止・・・・増税、報酬アップ、給与アップで財政悪化
 減税は金持ち優遇・・・・貧乏人も少しは負担せよ
 減税を廃止して福祉に回す・・・・子育てを優遇
 
 対立候補の岩城氏との確執もあるのだろう。
「関係者によると、5月に解任された前副市長で弁護士の岩城正光氏は、和解案を受け入れるよう市長を説得したことが解任につながった一因という。副市長は現在1人で、来春の市長選まで空席となる見通しで市政への影響は大きい。

 岩城氏は6月の自民市議の市政報告会で「昨年から和解案を受け入れるよう河村市長を説得したが、応じてもらえなかった。自らの判断で生じた(費用が増加したことの)責任を取っていない」と市長を批判した。」(2016.7.15読売新聞)

 名古屋市の市長がそんなに自由に職員を振り回すほど独断専行する権限があるのだろうか。まして、工事を中断して再考を促す判断が市長の責任一択というのは名古屋市の副市長として報酬を得ている身分でこの説得(進言)は利益相反にもなる。名古屋市に税金を支払わせ、日立製作所側の弁護士に勝たせる行為は公職の身分の逸脱のそしりをまぬかれない。
 しかし、岩城氏を批判する論評は見たことがない。結局、これは、ポリティカル・コレクトネスなんだな。
 岩城氏の弁護士活動で培われた正義感と弱い立場の人をサポートする人権主義はメディアの立場と一致する。
 争点は減税廃止か。選挙戦は競り合いになるだろう。
 名古屋城の木造で再建する計画は支持する。減税で利益を得た市民が寄付する、ふるさと納税の仕組みを生かせないか、国内産木材市況を活性化させるなどが理由。
 鉄筋コンクリートの建設は寿命が来た際は廃棄処分になるが木材なら廃材再利用が可能だ。伐採後も植林すればまた育ってくる。ところがセメント材の石灰岩は採掘しても再生はできない。藤原岳や伊吹山の採掘場を見ると痩せる一方である。鉄鉱石も同じ。木造は山の景観保全にも環境にも優しい。実は火災にも強い。
 と山のことに落ち着いたところでペンを置く。