松過ぎてまだまだ続く新年会 拙作2019年01月17日

 7日または15日過ぎを松過ぎという季語がある。新年会と季重なりになる。11日は業界団体の支部、13日は地域の俳句会、15日は業界団体の賀詞交歓会、昨夜は山岳会の新年会で14名集まった。久しく会う人もいて盛会になった。但し80歳代が1人不参加になったのが寂しい。
 料理はマスターの手作りがウリ。そのせいか、他の店に変えろ、という声がない。完全に指定の店になった。滅多に食えない甲焼も出た。
 気になるのは御馳走を食べて太る傾向なので体重増である。怖くて体重計に乗れない。
 先週、11日にござらっせ温泉に入湯した際には、1Kg弱増加していた。肥満を警戒して、粗食に戻すべく、5分突き米にした。これだと2時間後には排泄する。
 白米は糠がゼロで美味しいが炭水化物のみなので太りやすい。玄米は100%糠で覆われ、炊飯が面倒だし、消化も悪い。それで5分突きにしたら食味は若干落ちるが、消化が良くて、体調も良い。糠に残るV2やミネラル、繊維質が体に良い。ヨーグルトを食べなくても5分突き米で充分だ。炊飯も若干浸水時間を多めにするだけで良い。
 19日は100人規模の参加がある山岳会の新年会、2月は同窓会、知人関係の新年会と続く。来週は太り気味の体を絞りに久々に連泊でスキー旅行に行く。2月からは本格登山を再開する。仕事も獲りに行かねばならない。

知事選を否が応でも御慶かな 拙作2019年01月15日

 御慶は「① めでたいこと。およろこび。
② 新年の賀詞を述べること。また、新年を祝う挨拶の語。 [季] 新年。」
ソース:https://www.weblio.jp/content/%E5%BE%A1%E6%85%B6

 今夜は、愛知県行政書士会の賀詞交歓会。名駅前のキャッスルプラザで例年開催。開業以来参加することにしている重要なイベントである。

 たくさんの政治家や自治体の長があいさつを述べられた。中でもトップの愛知県知事の大村氏の御慶は力が入っていた。
 先に移民法が成立して、愛知県でも、多文化共生社会を支持するために包括的な協議会を2月にも結成するそうな。そして、最後には愛知県の人口が増加したことが自分が知事に就任してからだとちゃっかり述べられた。来る2/3の知事選に向けての号砲か。いや選挙戦は2日後だからフライングだが。否が応でも選挙戦を意識させられた賀詞交歓会になった。
 またかなり遅れて入場された河村市長は「日本一給料の安い市長だぎゃ」と強烈な名古屋弁で御慶を授かった。搦め手でモノを言わないと振り向いてもらえないために独自に考えたのだろう。メディアからはいろいろ批判される、紙面をにぎわすからそれがまた良い宣伝になっている。上手い政治家である。
 話は反れるが、来る2月の中国の春節で名古屋の栄で開催されるイベントの新聞広告があった。ここに大村知事のあいさつは掲載されるが、河村市長はないのが不思議だった。近年は副市長があいさつ文を寄せている。
 名古屋のど真ん中のイベントなのに市長のあいさつがないなんて。
 ここにも例の南京大虐殺はなかった発言が影を落とす。中国側が河村市長を嫌っているのだろう。当時のメディアは河村氏を批判したが市民は支持した。常に市民の支持(注目)を浴びるように意識してやっている。選挙に強いはずである。
 今は研究により南京大虐殺はなかったことが判明。中国の南京大虐殺記念館に展示されていた本多勝一氏の写真も撤去されたらしい。中国共産党にはますます旗色が悪い情勢である。嫌うと言うより恐れているのだろう。

累々と徳弧ならずの蜜柑哉 夏目漱石2019年01月14日

 岩波文庫ワイド版漱石俳句集(坪内稔典編)の明治29年の作品から

 徳弧ならず、は論語の里仁篇に「徳は弧ならず必ず隣有り」に由来か。

コトバンクから
デジタル大辞典:《「論語」里仁から》徳のある者は孤立することがなく、理解し助力する人が必ず現れる。

大辞林第三版:〔論語 里仁〕徳のある人は孤立することなく、必ずよき協力者にめぐまれる。

精選番日本国語大辞典:(「論語‐里仁」の「子曰、徳不レ孤必有レ隣」による) 徳ある人またはその行為は、孤立することなく、その感化を受けて追慕する人または追従する人の行為を生み出すことになる。道義を行なうものには、必ず理解者と助力者が集まるの意。徳の隣。

参考:Chikata.NET
俳句的転回
http://chikata.net/?p=2847

 論語の「子曰く、徳は孤ならず、必ず隣有り」(徳不孤、必有鄰)を使った一句。徳のある者は決して孤立することはなく、必ず隣に慕ってくる者がいるという意味です。ご存知の通り、漱石は「木曜会」をはじめとして、弟子が豊富で、後年「漱石山脈」と言われるほどでした。この句が読まれたのは熊本時代ですが、五校の学生が漱石を主宰にして、俳句結社(紫瞑吟社)を立ち上げるほど、すでにその「徳のある者」の傾向がみられます。

 たしかに、漱石が徳のある人物であったことは、疑いようがありません。しかし、老子の言葉に「上徳は徳とせず、是を以て徳あり」(上徳不徳、是以有徳)という言葉があるように、ほんとうに徳の高い人は徳にしばられることがないと言われます。なので「徳は弧ならず」と声高に言ってしまえば、有徳とは言えなくなってしまいます。そう考えると、この「蜜柑」が上手く効いていることがわかってきます。つまり、論語を上手く脱臼しているようにもとれます。

 つまり、この「蜜柑」はアレゴリーです。漱石が赴任した愛媛も熊本も蜜柑の名産地であり、もちろんその風土からきた素材ですが、この「蜜柑」にはそれだけではない、何らかの抽象性を帯びています。

 徳治主義、つまり徳のあるものが民を治めるべきだという考えは、儒教の政治思想です。そもそも論語が書かれた時代は戦国時代であり、国家の枠組みが流動的で、価値観も安定しない下克上の時代です。簡単に言えば、儒教は争い合っている統治者への批判でもあったわけです。儒教だけでなく、諸子百家による哲学はそういう時代に生まれたものです。

 漢学に通じていた漱石は、おそらく本来の徳治主義とは程遠い、明治政府に対して、違和感を持っていたのではないでしょうか。深読みすれば、そこに「徳孤ならずの蜜柑」を持ってきて、政権を批判しているようにもとれます。本当の徳を知るものたちは、政権のないところに累々と転がっているのだと。

 漱石は晩年、国家から文学博士の学位記を授与されますが、辞退しました。辞退の理由は「是から先もただの夏目のなにがしで暮らしたい」というものだったそうです。漱石の「自己本位」は、このように自由な存在=蜜柑であることを貫くことです。

 繰り返しますが、漱石には自然と弟子が集まってきて「漱石山脈」と呼ばれるような人のつながりを育てました。漱石は身分や権力によってではなく、自由な個人であることを貫いて生きてきたからこそ、人が慕ってきたわけです。結社もそういうものでなければならないと思います。
以上
 うーん!深い解説に深謝します。但し、単純な写生ではないから虚子の鑑賞はどうなのか知りたくもある。
 この句は論語の一部、徳は弧ならず、を切り取って引用しています。徳弧ならず、と助詞の「は」を省略しています。さらに徳弧ならず「の」と蜜柑に掛る格助詞でつなぐ。これは韻律を整えるための操作です。
 それにしても漱石は自分本位を貫いた人でした。○○賞、などと他人から頭を撫でられて、喜んでいる人ではなかった。芥川も勲章をもらって喜ぶ人を批判しています。作家としての気骨を示しています。

 菫程な小さき人に生れたし  漱石

も同様な背景を感じます。人の心が見え過ぎて世の中を渡るのが辛かったかも知れません。
 
 累々と実る蜜柑のようにあの中の1つであれば良いんですよ、と謙虚な心の中を描いたのです。

伊勢の鼓ヶ岳を歩く2019年01月12日

 朝6時30分に自宅を出た。R23を通しで走る。津市河芸町でR23の中勢バイパスの案内で移動。宮川大橋を渡るまでは快適なドライブになった。外宮の案内でR23を出て向う。やや渋滞気味だったがスムーズに参拝を済ます。
 外宮から県道32を走り、再びR23に合流するが、渋滞で内宮のPへは入れず、宇治浦田町まで戻り、鼓ヶ岳から北西に伸びる尾根の末端の墓地に走る。墓地の裏側のPになる。ここから地形図にはないが、良い道がある。11時10分から登り始める。最初はセメントで固められた道だが、次第に地道になった。
 一帯は桧の植林と照葉樹の雑木林になっている。植物景観はほとんど変化もないまま、五本松神社の分岐に着いた。その手前に内宮から道が登って来ている。誰も参拝に来た感じがしない寂れた神社を5分で往復。戻って登山道に付く。そのまま道なりに登るといい看板の立つ山頂だった。ちょうど12時だった。あいにく折からの時雨れ模様で俯瞰する景色も霞んでいる。宮川の奥には伊勢湾が見える。
 少し休んでいると体が冷えてきたので、前山に向って見た。踏跡はやや荒れている。伊勢西IC方面に下る道の分岐があった。更に下って登り返すが、段々荒れてきたので引き返す。途中に天狗岩への分岐があったので行って見ると、足元は悪いが視界の良い展望台になっていた。ちょっと危険ではある。
 さらに戻る途中でやや歩きやすい山腹を行くと、赤テープがあったが、踏み跡はほとんどない。これが地形図の五十鈴川に下る破線路であろう。山頂に戻って五本松神社分岐まで下り、内宮への登山道に振った。フィックスロープが連続する急降下道ではあるが、しっかりしている。内宮に近づくと照葉樹林が増えて緑っぽくなった。青い屋根が見えて公益社団法人修養団青少年研修センターのPの裏手に出た。R23へ出て、内宮に向った。
 宇治橋周辺はいつものことだが参拝客でごった返していた。宇治橋の上からは登ったばかりの鼓ヶ岳が見えた。混雑の中に混じって内宮を参拝してきた。
 宇治橋から五十鈴川左岸の道路の偵察に行く。境内からサイクリストの姿も見えたからだ。一般道なので今でも自由に走行可能らしい。ただ今は混雑時なので交通制限で入れない。
 奥に宇治神社があったので参拝した。足神様もあった。この神様は日進市の足王社と同じ神だろうか。足の無難を願う人が多い。
 山際に歩くと、大水神社と饗土橋姫神社に挟まれた参道の奥に合格神社もあった。御祭神は「尾崎咢堂(がくどう)翁」という。憲政の神様という。道路のすぐ近くなのに何でこんなに寂れたのか。結局は知る人が居なくなったのだ。清廉潔白と言われる半面、借りたカネを返さなかったらしい。何とか言う都知事も「借金」で地位を追われた。
 読売新聞の記事に「尾崎行雄「人生の本舞台は常に将来に在り」」がヒット。
 「1890年(明治23年)の第1回総選挙から連続25回当選、1953年(昭和28年)まで63年間も衆院議員を務めた尾崎行雄。号は「咢堂がくどう」。晩年94歳になってもなお、震える筆で「人生の本舞台は――」としたためた。その書は、国会議事堂の前に立つ憲政記念館に掲げられている。
 尾崎が「議会政治の父」「憲政の神様」と呼ばれるのは、記録的な当選回数と在任期間の長さゆえではない。藩閥や軍部など、議会をないがしろにする勢力と常に対決してきたからだ。

 それは、どんな弾圧を受けても尾崎を衆議院に送り出してくれる強固な地盤があってこそできたことだった。」
以上
 なるほど、神様に祀り上げられるには、人物への確固たる信仰が必要なのだ。三ヶ根山のA級戦犯を祀る殉国七士廟、松阪市の本居宣長の本居神社、全国に400カ所ある家康を祀る東照宮、秀吉は豊国神社、そして持統天皇を皇祖神として祀る伊勢神宮。
 境内にまで漂ってくる匂いは「一升瓶」屋の焼き肉の匂いだった。帰路に立ち寄って、食した。その後、R23を歩き、浦田の墓地内を登るとPに出た。15時、帰名の途についた。

御杣山のルーツの神路山(うちの鼓ヶ岳)を訪ねて2019年01月10日

 神路山(かみじやま)は三重県伊勢市宇治にある山域で、伊勢神宮の内宮(皇大神宮)から南へ流れる、五十鈴川上流域の流域の総称である。

 東は五十鈴川支流の島路川流域の島路山と稜線を共有する。伊勢神宮の他の森林と合わせ、神宮林と呼ぶ。

 神路山は他の神宮林と同様に、古くは神宮式年遷宮に用いるヒノキを調達する御杣山(みそまやま)であったが、これらの森林のヒノキが枯渇したため御杣山は年代により変遷し、江戸時代から木曽と美濃が御杣山となっている。神宮では大正末期から神宮林で檜の植林を行なっているが、間伐材を除けば遷宮に使えるようになるのは2125年からと予定されている。(ウィキペディア)

 式年遷宮では、多くの祭典と行事が行われる。
遷宮の最初の行事「山口祭(やまぐちさい)」用材を切り出す御杣山の山口にある神を祭る儀式。
 現在、用材は木曽山中から切り出すが、この儀式は古来のまま内宮は神路山、外宮は高倉山と、いずれも境内背後の山で行われる。
以上

 ホームページ「やまとうた」からコピペ

 関東に住んでいる私が伊勢をお参りするときは、いつも新幹線を名古屋で降りて近鉄に乗り換える。近鉄特急はたちまち木曾川を渡って三重県に入り、すぐまた揖斐川の鉄橋を越えると、もうそこは伊勢平野である。それは伊勢湾に沿って弓なりに長く長く続く平野である。
 車窓は単調な眺めが続くが、大神宮が近づくと、ようやく青い山々が視界に入る。伊勢神宮の背後を取り巻く山々である。内宮(ないくう)南方の山々は、神路山と呼ばれ、古くから神宮の社殿の用材を伐り出す山として神聖視されてきた。

 奈良や京都から伊勢をめざし、伊賀の山地を越えた古人にとっても、広漠とした伊勢の野で最初に出逢う山がこの神路山であった。山々に囲まれて暮らしていた古京の人の目に、神路山の緑はさぞ懐かしく清々しく映ったに違いない。
                   *
 治承四年、源平争乱のさなか、高野山を出た西行法師は伊勢に移り、二見浦の山中に庵を結んだ。すでに六十を越えていた法師であったが、この地で伊勢の神官荒木田満良らと親交をむすび、その詩想はいっそうの深みと清澄さを加えたように思われる。

深く入りて神路のおくを尋ぬればまた上もなき峰の松風(千載集)

神路山岩ねのつつじ咲きにけり子らが真袖の色に触りつつ(夫木)

神路山月さやかなる誓ひありて天が下をば照らすなりけり(新古今)

 西行を称賛し追慕してやまなかった二人の歌人、後鳥羽院と藤原定家には、上にあげた最後の歌に和したかのような詠がある。

ながめばや神路の山に雲消えて夕べの空を出でむ月かげ(後鳥羽院[新古今])

照らすらん神路の山の朝日かげあまつ雲居をのどかなれとは(定家)

 神路山の上から天下をあまねく照らすさやかな月の光を詠んだ西行の歌を受けて、定家は神路山を照らす朝日を歌い、雲上界―宮廷―の悠久平穏なることを祈ったのである。神路山は一名天照山(あまてるやま)とも呼ばれた。
引用以上

 神路山は御杣山の嚆矢であった。
 別名は天照山とも呼ばれた。神宮の御用材を切り尽くすと他の地域の山から伐り出すようになった。 御杣山の条件は伐採した木材を流送する谷川が必須である。
 ある時代は奥三河の設楽山という記録がある。設楽山は多分、段戸山(現在の鷹の巣山)周辺であろう。伐り出してすぐに寒狭川に落とし、やがて豊川河口から筏を組んで神宮まで運ばれたであろう。
 またある時代は美濃からも伐り出された。その時代はどこの山なのか、記録がない。推測すると、美濃の御杣山は多分、焼山であろう。伐採し、阿木川に落とし、木曽川で筏を組んで河口まで運んだと思われる。それからさらなる奥山の木曽へと開発が進んだ。そして阿木山の御杣がモデルになって、落合川の源流の湯舟沢に移ったと思われる。
 木曽の御杣山の最初は湯舟沢山で、現在の中央道・恵那山トンネルの上の一帯である。湯舟沢も条件に適う。源流は温川(ぬるまがわ)と冷川と言う。温川は信濃と美濃の国境になっている。恵那山の山頂とは微妙に違う。阿木川よりも流程が短くて搬送が楽だったと思われる。つまり、急流である程度水量があることが合理的な条件を満たす。伐採すると落合川に落とし、筏を組んで木曽川で運び、河口から伊勢湾を筏で流し、神宮へと搬送された。

 恵那山に湧く中津川はなぜか、伝説も無い。神域であろうか。伝説は中津川を挟んでいる。即ち、阿木周辺のアマテラスの誕生の際に胞を洗った血洗池の伝説、湯舟沢はアマテラスが産湯を使った伝説だ。
 誰が伝えたのか。神宮の御師(おんし)か。御師は江戸時代はアマテラス信仰即ち、私ども日本人とは何者か、その皇祖神をお祭りしていると普及に歩いた。そしてお陰参りを広めた。或いは木地師だったか。菊の御紋とご綸旨をタテに山林の自由な伐採の権原(けんげん又はけんばら)とした。或いは山岳信仰の山伏か。恵那山への前宮登山道には役の行者(えんのぎょうじゃ)の石仏があったからその信者か。
 今となっては伝説の彼方に隠れて真実は不明である。

有朋自遠方来 不亦楽2019年01月09日

 昨日は早朝から同窓会のクラブ愛知の集いがあった。七草がゆを食した。一流ホテルのおかゆは上品である。また、昨夜は私的な打ち合わせがあり、名駅付近の酒場で少し酒も飲んで愉しかった。アルコールの勢いも手伝って今朝まで良く眠った。起きると雑用がはかどる。
 年賀状の返礼もその一つ。豊田市の人だが思いついた時くらいしか交流はなかった。交友はとても長く20歳くらいからだからもうかれこれ50年にはなる。共通の友人が宮崎県から来名したので名古屋市内は2人でもてなし、また別の友人のところで歓待されて別れた。その後、豊田市へ行かれたのだから、話題に出たのだろう。
 返礼には型どおりのあいさつに添え書きしたのが、論語の一節の「有朋自遠方来 不亦楽 」の日本読み「朋有り、遠方より来たる。亦た楽しからずや。」だった。古い友人がこうして名古屋の自分を当てにして遊びに来てくれる。そんな楽しいことはない。
 メールを明けると、俳句結社の編集部からも返礼があった。毎月の投稿に加えて、随筆を著して追加した。金子兜太の本を読んでいて、思うところがあった。弟子筋にはアンチ虚子を装いながら、実は伝統俳句の愛好家だった。

『兜太』(Tota)を読む2019年01月05日

 昨年暮に購入。平積みで異様な表紙に引かれてしまった。1977年の講談社現代新書『小林一茶』を読んでからが兜太との出会いである。以後,目につくかぎりは読んで来た。それで俳句はと読むとユニークな形だった。最初はなじめなかったが少しは分かるようになった。しかし、自分で同じような発想で作句はできない。技術的な解説書もあるが、発想の飛躍があり、天才的なところが学んでも追随はできない。それがまた存在感を示す元である。兜太の俳句は碧梧桐、山頭火、放哉に並ぶ一代限りの詩形である。
 本書には多数の兜太論が凝縮している。本人を交えた座談会もある。当初は兜太の存命を前提にした季刊だった。本人の死去、「海程」の終わりで以下のように主旨が変わった。

〈編集主幹〉黒田杏子 〈編集長〉筑紫磐井 〈名誉顧問〉金子兜太
〈編集委員〉井口時男/伊東乾/坂本宮尾/中嶋鬼谷/橋本榮治/横澤放川/藤原良雄
A5並製 200ページ
ISBN-13: 9784865781908
刊行日: 2018/09
定価: 1,296円
現役大往生した、俳人金子兜太。その思想を探る“生きる勇気が湧く”雑誌、創刊!
去る2月20日、98歳で急逝した俳句界の巨星、金子兜太(1919-2018)。
社会性俳句に始まり、造型俳句、前衛俳句、定住漂泊、荒凡夫、ふたりごころ、いきもの諷詠、アニミズムと境を深め、戦後俳句界の重要な現場に常に立ち会ってきた金子兜太氏。その精神と肉体の融合が結晶する「存在者」の思想を継承し、俳句界を超えて広く文芸・文化・思想関係の方々の参加による「総合誌」を創刊する。
【年2回刊予定】
〈編集主幹〉黒田杏子
〈編集長〉筑紫磐井
〈編集委員〉井口時男/伊東乾/坂本宮尾/中嶋鬼谷/橋本榮治/横澤放川/藤原良雄
〈編集顧問〉ドナルド・キーン/瀬戸内寂聴/芳賀徹/藤原作弥
〈名誉顧問〉金子兜太
以上は藤原書店のHPからコピペ。

 藤原書店といえば岡田英弘著作集を1から6までは買った。手堅い出版社だが、俳句まで出すとは。おそらく藤原社長が兜太ファンなのだろう。スポンサーというか、道楽半分である。

小屋番の山日記から
「金子兜太を考える 」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2018/05/06/8846273
「俳句と歴史の見方 」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2018/05/10/

「座談会」にもあるが、虚子を評価していなかった。学ぶことは何もないそうだ。秋桜子門ー加藤楸邨ー金子兜太の師系を考えるとアンチ虚子は無理もない。
 中日新聞・東京新聞の「平和の俳句」は読者大衆の支持を得たという。3年で10万句の句が集まったのも兜太の影響だった。兜太亡き後も継続できるか。結局はメディアによって増幅された巨人だったか。自らは虚人という。とにかく面白い冊子である。生インタビューは特に面白い。

新年は浅間山と高社山へ登山2019年01月03日

 平成31年1月2日には高社山へ登ろうと、呼びかけたら2人が手を挙げてくれた。高社山と浅間山はともに多治見市の山である。交通の経路上、瀬戸市のKさん宅に寄り、刈谷市のYさんには愛環鉄道の瀬戸口駅に来てもらった。予定通りメンバーが揃った。
 高社山を選定するに当たっては山頂のすべてが多治見市内にある山としては最高峰であることと、山麓の町名が西山町というのも嬉しい。自分の持ち山ではないが悪い気はしない。また浅間山は可児市の最高峰、美濃富士であることだった。
 まづは浅間山を目指した。R248からR19へ、そして県道381号を走ると道なりに小名田町小滝に着く。ここで不動の滝の案内標柱があるので右折。少し奥へと行くと雑木林の中にフランス料理などのレストランがある。もちろん今日は休業中。
 ここでP。滝への道標すらない。しかし目標は不動明王の滝だから、建物群を左右に見ながら、行き詰まりで沢の流れに沿うことになる。8分も細い流れをさかのぼると滝があった。滝見台もあるが使われていない様子だ。
 山道は少し戻ると右岸側に巻く道が付いていた。余り踏まれていないが、ヤブではない。踏み跡を追いながら行くと一旦は沢に下りて、又離れる。左からの道に合した。これが地形図の破線路と思われる。少し行くと尾根に取り付く地点にテープのマーキングがあった。ここからは明るいが急な尾根道になった。日溜まりに寒さも和らぎ、汗をかかないように1枚脱いで調整した。
 何と言っても里山である。比高80mで稜線に出た。右は378mの2等三角点だが今日はカット。左折する。ちょっと歩くと岩山があり眺めが良い。山道から林道に出た。ほぼ稜線に平行する林道を歩く。ここで数人の家族連れに出会う。
 林道から左の山道に入ると木のベンチもあるがすぐに林道に下ってしまう。林道から分かれて行くと浅間山372mのミニプレートのある山頂だった。岩頭がありテーブルもあるのでランチにはいい。日溜まりの山頂からは眼下の桜ヶ丘の団地や遠くの春日井三山の山なみが見えた。
 子授け、子育ての信仰を集める浅間神社に参拝し往復した。正月と言うのに宮司の1人もいないが、何となく清められた雰囲気はある。淑気というものだろう。
 それから林道へショートカットする細道を下った。林道を歩くとかえって眺めがよくなり伊吹山も見えた。冬型なので奥美濃までは見えない。一の注連を見た。
 林道のゲート代わりの鳥居が建っている。ここが参道のクルマの終点で登山口らしい。軽四の四駆なら走れるだろう。
 下ってゆくと太陽光電のパネルがあった。左の沢を下って住宅団地へショートカットを試みたが電気柵で遮られていた。ささやかな冒険は失敗。参道を下ると住宅団地に出た。そのまま下るとマイカーに戻れないので左折。
 小滝団地内の山際を歩いた。すると新しい給水塔に着いた。団地の道路はつながっていないが、陶生苑から延長された車道が来ていた。目の前のコブの向こう側に不動滝があるので、ショートカットする山道がないか見たが見いだせなかった。更に陶生苑の近くから車道が下っていたので下って見たが堰堤で終わった。これも失敗。諦めて県道に出て迂回しPに戻った。
 まだ12時半、次の高社山へ向かう。根本町へ走った。ここも地道が錯綜して分かりにくい。とにかく山際に向って近づいた。割に良い道があるので流して見ると高社山登山口のミニ道標があった。ここか。
 道路から空き地に駐車。参道を登る。結構な急傾斜だ。2登目なので疲れもあるせいで後続も遅れがちになる。右は高社神社、左は山頂へとの分岐で左へ振る。良い道を歩いてゆくと空身の男性が下りてきた。何も言わずにすれ違う。
 俳人の山口誓子は御在所岳での所見をこう詠んだ。

   唯一人冬山を下りて来る人に会ふ 誓子
   
 ほとんど情緒の感じられない句である。即物的といわれる誓子の世界がある。冬は誰しも?寡黙になる。
 しばらくで右から来る道に合う。更に急登するとFMたじみの電波塔だ。すぐに反射板の建つ開放的な台地になる。山頂へはまだある。一旦は下って、左は山里へ下る道、山頂へは右へ登り返す。すると愛宕神社の小さな祠があった。
 地形図では高社山は台形ながら2つの山から成る。ここが山頂か、と思うが三角点はないので西進するとやっと保護石に囲まれた三角点のある山頂だった。展望はない。写真だけ撮って、反射板のある台地に戻った。
 ここからは恵那山が見えた。目を凝らすと東濃の山越しに茶臼山、段戸山等が見えた。南には春日井三山とその向こうには光る海が見えた。何より、多治見市を俯瞰できた。意外にも多くの高層ビルが立ち並ぶ。東濃の中核都市のシンボルだ。
 中央道をクルマがひっきりなしに流れている。中央線、R19号、中山道、まさに大動脈のごとく。2027年にはこのどこかの地下をリニア中央新幹線が開通する。東海道新幹線のバイパスとして建設中である。
 展望を欲しいままに楽しんで下山した。

元旦の針名にひびく太鼓かな 拙作2019年01月01日

 初詣にははじめての針名神社を目指した。普段はポタリングでよく行くランドマークにしている神社である。いつもは閑散としているが今日は違った。マイカーは渋滞を予想したとおりPは満杯だった。それでポタリングにしたが、初詣客が何と鳥居の近くにまで及んでいた。
 新春の心を鼓舞するかのごとき太鼓も鳴り響き、淑気に満ちた針名神社の元旦の風景を目に収めた。地域で有数の参拝客を誇るだけのことはある。
 早朝は多いので午後遅くにしたのだが天気が良かったせいで予想以上に外へ出たのだろう。行列に並ぶ手もあったが、本殿までぐるっと周って心の中だけの参拝を果たした。
 元旦から割り込みは避けたいので・・・。
  金輪際わりこむ婆や迎え鐘  川端茅舎
という有名な俳句もある。句意は「迎鐘の行列に婆が割り込んでくる。
婆さん順番だ、と教えても耳が遠い振りなどして結局割り込んで鐘をついた。金輪際」は仏教用語で大地の底の底。どこまでも、という意味。」
 
 自宅までもどって地下鉄で丸の内へ。中区三の丸の愛知県護国神社へ初詣した。ここは官庁街とあって閑散としている。境内もちらほらといるだけでスムーズに参拝を済ませた。

 徒歩で久屋大通りの事務所へ入って、年賀状を整理する。新規は20枚、返信用にとっておいた10枚では足りないので買い足すことになる。
 明日は初登山で多治見市の最高峰の高社山416mへ。山上の高社神社へ初詣する予定。明日も晴れますように。

島津亜矢唄う「時代」2019年01月01日

本年もどうぞよろしくお願いいたします
皆様にとって今年が素敵な一年となりますよう
お祈りいたします

中島みゆき「時代」を島津亜矢が唄う。
ソース:https://www.youtube.com/watch?v=YA40ZYNFWdM
12/31のアップ前は38000件、アップ時は44448件だったが、あっという間に45000件を超えた。1/1の10時過ぎには53400件を越えていた。
御世代わりもあり、選曲が良かった。
亜矢の歌のうまさがあいまって人気化した。
この分では10万件突破は時間の問題である。

追記 1/15の朝、125,804件に急増している。

2018年の紅白でも大好評
http://news.livedoor.com/article/detail/15816651/

2018年のレコード大賞曲も高評価
https://www.youtube.com/watch?v=QRucIY-AmaE

この「山河」も島津亜矢が歌うとスケールが一回り大きくなった気がする。五木ひろしのオリジナルも良いのだが、コブシを利かせない島津の歌い方が素直に思える。
https://www.youtube.com/watch?v=wWVyGQ-QLYg

一方で、新たな新人候補もいる
現在は名古屋市の小学校に通う11歳だが天才少女歌手と言われる東亜樹ちゃんだ。
かつての島津亜矢も九州地区の素人のど自慢大会でトップだったとか。当時の亜矢ちゃんも今の亜樹ちゃんのように天才といわれたという。そして13歳で上京して星野哲郎門下に入る。実力NO1に大成。
亜樹ちゃんもがんばって欲しいね。
「時代」をお聞きしましょう。
https://www.youtube.com/watch?v=TQXty4a_whk