猿投山捜索行2017年12月16日

 今年の5月16日、猿投山で行方不明になったAさん。直後から警察や消防団の捜索活動が行われた。大部隊の捜索にも関わらず発見されなかった。そこで家族は山岳会に捜索協力を要請された。猿投の森の会が活動していたからだった。山岳会は検討した結果協力に応じることになった。6月末から7月にかけて動員した延べ人数は100名を軽く越えた。それでも何ら遺品一つも発見に至らなかった。
 捜索活動は暗礁に乗り上げた。関係者が協議の上、12月中旬から再開することとなった。夏季は暑いこともあって午前中のみであるが、冬は午前と午後のほぼ1日とした。16日は初日である。9時までに集合し、班分けして出動した。
 山道の散歩が日課と言う人だったので東大演習林内が濃厚という。
 一つの反省としてわれわれ山屋は藪尾根でも藪沢でも突っ込んで行ってしまう能力がある。山慣れもある。
 しかし、Aさんは実は山屋さんではない。靴はハイキングシューズではないし、食料や水なども無かった。まして地形図やコンパスも無かっただろう。だから同じ道をくりかえすのみであっただろう。近親者によればせいぜい2時間程度の行動の範囲ということだった。
 但し、Aさんは心臓ペースメーカーを入れていたらしかった。喘ぐような山坂を登ることも想像しにくい。するとどこかの尾根から転落が考えられるとして今日からは山腹に視点を当てることとなった。
 風化花崗岩の地質で崩壊した個所がいくつかある。沢も結構掘れてミニゴルジュになって険しい谷相である。残念ながらどの班も何も成果はなかった。
 これまでの山岳遭難の捜索活動の見聞から意外なところで発見されるということを学んでいる。何が意外なのかが分かりにくい。

また同じ隣の人ぞ忘年会2017年12月13日

 今年初の忘年会に出席した。会場は名古屋国際ホテル。母校の同窓が数十名集結。来賓としてはK学長、D同窓会会長やW市議らに加えて日舞の舞踊も加わり華やぎを添えた。
 さて、席は自由だが隣に昨年と同じ人が偶然に座られた。猿投温泉の支配人のH氏だった。配布された封筒の中に入湯券もあって嬉しいプレゼントだ。
 入湯券で思い出した。月末に再度、猿投山で行方不明の人を捜索する段取りになっていると話した。あの説明会にも同温泉の入湯券が配布されたのでどんなつながりか、不思議だった。何と、キーマンのSさんとは知り合いだと言うのだ。
 帰りに寄りますね、と約した。そんなわけで世間は狭いと感じた。

初冬の尾鷲道を歩き、マブシ嶺に登る2017年12月11日

 12月も半ばとなったが今冬は寒さが厳しい。12/9の午後4時にメンバー5人で名古屋を発った。名古屋・東別院ICから名古屋西を経てクルマはやや多めだが四日市市から鈴鹿市までの渋滞もなく実にスムーズに伊勢道に入れた。嬉野PAでうどんを食して伊勢道から紀勢道へ、そして暗くなった尾鷲北ICで降りた。R42へ出てイオンで若干の買い物をして、R425に戻る。R425は典型的な山岳路だった。
 今夜の仮泊に眼をつけたのはクチスボダム周辺だった。ところが暗闇の中で湖面を見落とし、クチスボの文字すら見落とした。それで池原ダムまで延々走ることになった。あまりにも遠いので、あそこじゃないか、と引き返した。よく見ればトイレもあるし園地もある。芝生の一角にテントを張って一夜を過ごした。 
 12/10は朝6時過ぎ起きて朝食に暖かいカップ麺を食べた。テントをたたみ出発したのは7時20分を過ぎてしまった。クチスボダムからR425を下ったところに県道760号との分岐があり左折。又口川に沿って走ると栃山木組林道へ入口があり、左折。意外にも舗装されている。
 12年前以上、2005年発売の『新日本山岳誌』の取材で橡山に登山しに来た際はまだ未舗装だったような気がする。舗装が新しいので最近だろう。この時間帯で下ってくる対向車もなかろうとタイトなカーブも快調に飛ばす。水無峠の記憶は一切ない。ただ、登山口の道標があった。この山も登山の対象になったのだろう。
 峠からはダートになった。左の崖から崩壊した土砂で荒れていた。路面も大雨で掘れて大そうな悪路である。タイヤのバーストに留意しながらそろそろと走った。ゲートが見えるとやれやれだ。
 身支度を整えて出発したのは7時56分。地蔵峠までは林道歩きである。軍手をはめても非常に寒い。峠からは山道に入るが、橡山に続く尾根を切通しされたために古い峠の趣はない。非常階段のような急登を強いられる。地元の篤志家らで転落防止のロープも張られている。尾根に届くと稜線歩きとなり山道も安定する。
 木立は落葉して見通しが良い。最初の道標は古和谷分岐である。ここからが古来からの尾鷲道である。下山路として今も歩けるのかどうかは不明だ。先へ進む。数分で又口辻だ。ここから山腹の水平道に入る。ふかふかの落葉の山道を歩く。北面には雪が積もっている。温暖なイメージの南紀の山にも寒波が来た。山腹の道、特に沢をまたぐ所は壊れやすく注意を要した。やがて新木組峠に着いた。ここは極端に寒かった。雪をかぶった大峰山脈が見渡せる。寒いはずである。峠の風下側に下ると若干寒さが和らぐ。少し食べたり飲んだりして休む。
 寒風に曝されながら落葉樹の冬木立の尾根を歩く。いかにも冬の山旅である。そうして木組峠に着いた。峠から破線路があるが尾鷲道は少し下る。先程ははげ山を越えたが山腹の尾鷲道は消失してしまったようだ。テープに導かれて山腹まで下ると再び道形を見出して歩いた。
 山腹を巻き終えると一本木の杭を見だした。あとは山頂までひと踏ん張りである。
 標高1216mの緩斜面に展開する雑木林は今は疎林となって平らかな別天地である。夏ならば緑濃き動物の楽園であろうか。
 山頂直下の疎林の中を歩く。北西からの寒風のせいか樹木はなべて矮小化している。余りの寒気に毛糸の手袋を出そう、雨合羽をはおろうと考えるうちに11時30分に三角点1411.0mに着いた。マブシ嶺である。
 紀勢線に名古屋から夜行列車がある頃から尾鷲道を歩いて見たかった。今回は三分の一くらいを歩いたことになった。大台ケ原山は高くはないが深い山域である。ヒマと交通の面で中々実行できなかった。伊勢道も久居ICまでしかなかった。R42を延々走ったものだ。名古屋から約230kmはあった。高速なら橋とトンネルでつないで180kmに短縮できる。
 大台の開拓を試みた松浦武四郎も奈良県側から入山し、下山は尾鷲道を下った。大杉谷を初遡行した大北聴彦と大西源一も下った歴史の道であった。
 以前はコブシ嶺(*1)と覚えていたが、このほど発刊の『分県登山ガイド 三重県の山』によれば松浦武四郎の紀行にマブシ嶺とあるのでそれに従ったという。私も松浦武四郎全集の中の絵図で確認した。どちらも由来までは言及はない。
 休憩の後、最高点まで行って12時30分に下山した。往きとは違い、寒気も和らぎ、陽光を一杯浴びて少し暑さも覚える日だまり山行の雰囲気になった。往路をそのまま戻り、15時10分ゲートに着いた。
 帰路はニホンジカ3頭に出会った。昨夜はタヌキ2匹を見た。けものが多い山域である。

*1コブシ嶺=この山だけを目指す登山ガイドは前掲の本が初めてだろう。過去のガイドブックを調べた。手持ちの書籍では
 ①昭和54(1979)年刊行の仲西政一郎編『近畿の山』(山と渓谷社)の大台の山と谷の地図に掲載。北の鞍部は雷峠になっている。点名は雷峠1である。雷峠から東の川へ本谷沿いに破線路が示されている。木組峠も木組谷をからむ山腹に破線路があり廃村木組がある。
 ②平成10(1998)年の小島誠孝『台高の山と谷』には尾鷲道が独立して章建てされている。ここでもコブシ嶺と書かれている。取材当時は伐採跡だったらしい。木組峠から古和谷へは猛烈なブッシュだったという。 
 ③『台高の沢』の見ひらき地図にもコブシ嶺とあったから関西岳人はコブシ嶺を踏襲しているのだろう。
 三重県の岳人らが調査して出来た書籍には
 ④平成21年(2008)年の津・ラ・ネージュ山岳会選『三重の百山』もコブシ嶺になっている上に大台ヶ原からの往復コースになっている。この当時は写真を見ると木立に囲まれて展望はないとある。今とはえらい違いである。以南は廃道化しつつあると案内してある。
 ⑤平成25(2013)年の伊勢山の会『宮川源流53山』には、大台ケ原からの往復ルートで紹介。まぶし嶺とある。この本では「展望360度の絶景の山である」と書いてある。写真にも高い樹木はない。
 
 コブシ嶺とマブシ嶺は2008年ころから変化したらしい。ネットの検索では以下が詳細である。最近ではマブシ嶺(コブシ嶺)と書いてあったりする。南から1411mのマブシ嶺に突き上げる光谷からか光山ともされる。(但し今の道標では1184mの山に当てられる。)
眩しき大展望・マブシ嶺【台高】
http://genge-do.at.webry.info/200801/article_6.html

大台ケ原 尾鷲道 地名まとめ(マブシ峠~新木組峠) その1
http://amaimonoko.at-ninja.jp/s-mtdata/ki/odai-owase/time2-1.htm

つるまい図書館へポタリング2017年12月05日

 12/4の編集会議で石岡繁雄の列伝の記事を書きなおすことになった。石岡氏はいわゆるナイロンザイル事件の当事者である。それで資料として『氷壁・ナイロンザイル事件の真実―石岡繁雄が語る』を借りるために自宅から鶴舞まで運動不足解消を兼ねてポタリングした。
 まず天白川沿いのサイクリングロードを走ると両岸とも工事中で通しで走れず、早目に平地に下った。山崎川沿いのサイクリングロードから路地裏を抜けて広い車道に出て図書館に着いたら何と休館日だった。折角、月曜から休館日明けを狙って来たが残念。やむなく自転車をデポして愛知県図書館へは地下鉄で往復した。県の図書館にもある。
 また自転車のデポ地に戻って自宅へ帰った。
 ついでにイヴォン・シュイナード『社員をサーフィンに行かせよう パタゴニア経営のすべて』も借りた。アメリカのアウトドア用品メーカーだ。ここも登山家のハーネスの使い方が悪くて墜落事故があり、遺族は資金力のない登山ガイドからは損害賠償は取れないのでハーネスのメーカーのシュイナード・イクイップメントに請求してきた。アメリカの弁護士はいちゃもんでも堂々と訴訟を起こすから大変だ。シュイナードは設備を社員に譲渡、ブラックダイアモンド・イクイップメントを立ち上げて製品の生産は続行させた。
 ナイロンザイル事件は戦後まもなく前穂高岳で起きた事件で、井上靖『氷壁』のモデルになった。映画にもなった。石岡氏はザイルの研究を続けて、安全なザイルの啓蒙に努めた。PL法制定の契機になった。その顛末を詳細に記載した本である。
 ナイロンザイルの強度を蒲郡の工場で切断試験をした。報道陣にも公開された。試験結果は切断せず、だった。ところがおかしいと思った石岡氏側の人がこっそり工場に忍び込んで試験器具を調べたら角を丸めてあることが判明して大騒ぎになった。
 ザイルメーカーは東京製綱、ザイルの素材メーカーは東洋レーヨンであった。事前に口裏を合わせて切断されないように角を丸めた確信犯だった。こちらはいちゃもんではなく実証済みである。実験の責任者だった篠田軍治氏はあれは登山用ザイルではなく魚網の試験だったと言い逃れた。
 鋭角で切断する欠点ははっきりした。これだけはっきりするとメーカーはもう言い逃れできない。東京製綱はいつしか消えた。東洋レーヨンは1970(昭和55)年に東レと名称変更した。企業はつくづくメンツ(利益)を重んじて、たとえ多数の人命が失われても真実を隠蔽するものだという原点のような企業だ。
 試験後もザイルの強度を信じて使用した登山者が次々墜落死したのだった。東海地方だけでも名大山岳部、名古屋山岳会、愛大山岳部の3名が死んでいる。
 ひところ、企業の社会的責任論が広まったが今再び無責任な企業が表面化してきた。東レも再び聞いた。

来年は犬年の山へ!2017年12月01日

 早いものでもう12月。年賀状の売り込みには犬のデザインをあしらったきれいな絵柄が多い。そうか、犬の山名をリストアップしておかねば、と思う。イヌの文字は犬、戌、狗がある。
 思い出すままに挙げると、愛知県の地名にはずばり犬山がある。鈴鹿山系の滋賀県側の地名に犬上川がある。ポピュラーな動物なので全国各地にあると思われる。
 山名では富山県の犬ヶ岳か。北アルプスの栂海新道をたどると通過する山である。
 静岡県の山犬段はマニア向きだ。山系は違うが同じ山域の山住神社に参拝するのもいい。山犬信仰だから。但し、冬は通行できるかどうか。
 検索すると全国的には多々あるが、東海地方では犬の名前がつく山名は少ない。
 イレギュラーな把握だが、豊田市の天狗棚も挙げていいだろう。すると鈴鹿の伊勢側の狗留孫岳、近江側の天狗塔がある。奥美濃の天狗山も視野に入る。八ヶ岳まで足を伸ばすと天狗岳がある。

忘年山行(那須ヶ原山~唐木岳)兼新人歓迎会2017年11月26日

 11/25から11/26にかけて山岳会恒例の忘年山行と1名の入会者があったので新人歓迎会を催した。場所は鈴鹿南部のゲストハウス関ロッジ。かつては国民宿舎だった宿だ。観光の目玉がない亀山市周辺では経営が覚束ないのか数年前に閉鎖してしまった。今回は7月ごろにリニューアルオープンしたが、一度利用した実績もあり、また使ってみることにした。
 但し、料理は自分らの自炊ということになった。メニューはすきやきにして食材調達は会の幹事が担った。
 ともかく午後5時ごろにはメンバー13名がそろった。テーブルにコンロ3台、あらかじめ切ってある食材を並べて調理してゆく。アルコールはビールは館内自販機で買うのが条件。焼酎は持ち込み可能というのでずらっと並んだ。差入れの日本酒もあって山屋にふさわしい宴会になった。自己紹介から始め、あとはもう宴たけなわとなるや気が付いたら布団に寝ていたという次第。1名が宴会後帰宅して12名が泊った。
 26日は帰宅組と山行組に分かれて行動。山行組は6名が残り、R1から滋賀県入り、蟹坂から大原貯水池を目指す。参道橋の先にいいPがあって2台を止めた。
 参道橋まで戻り、舗装の林道を登り始めた。荒れた林道の終点から山道が始まる。黒滝の手前の小屋に2合目とあった。参道橋といい、2合目の表示といい、那須ヶ原山へのメインルートだった証拠だ。登るにつれて傾斜が増す。谷から尾根を伝い高度があがった。枯れすすきが晩秋の山のシンボルのようになびく。遠くには綿向山、雨乞岳、御在所岳、鎌ヶ岳と鈴鹿を代表する1000m級の名山が横に並ぶ山容が圧巻である。
 2回目のネットをくぐると山頂は近い。約1時間ほどで登頂。簡素な祠を風雨や風雪から守るために建物で囲ってある。その下も避難小屋か登拝者の休憩室が設けてある。三角点は建物の後にあった。
 ここから81歳の長老と女性は下山し、我々4人はミニ縦走の道に入った。稜線は土が痩せているせいか、つつじ科のあせびのトンネルになっている。春の開花期には白い米粒のような花を咲かせる。
 三つ頭山、唐木岳へは標高差はないが、細かいギャップが続く。キレットを通過、小笹山に立ち寄り、さらに坂下峠への道を下降した。峠道は三重県側へ下る。若干登り返す。災害で荒れた道を歩くときれいな舗装の林道に出てPに戻った。
 山上でリーダーのスマホに連絡があったが電池切れでキャッチできなかった。下山後、宿に寄ると布団の中に時計の忘れものがあったと知った。メンバーの1人だったので良かった。管理人の計らいで無料で入浴を勧められた。もちろん、ありがたく入浴させてもらった。
 これで万事終了であったが、リーダー同行でもう一つ立ち寄りたいところがあった。今夏訪ねた亀山市の能褒野(のぼの)にあるヤマトタケルの墳墓と鈴鹿市の加佐登神社と白鳥塚を訪ねた。後はR1,R23を経て帰名した。

第20回名古屋モーターショーへ行く2017年11月24日

 朝、マイカーに自転車を積んで名古屋モーターショーの会場・ポートメッセなごや (名古屋市国際展示場)へ行く。以前に稲永まで自転車でポタリングしたが、交通量の多さ、信号の多さで疲れた。稲永までマイカーで行き、ポートメッセまでポタリングと計画したが、距離が少ない。荒子川公園からの距離は9.3kmと出たので荒子川公園のPに駐車した。
 Pは午前中ながら数台は空きがあった。早速、走りだす。稲永までは既視感があるのは当然だ。稲永からは企業の配送センター、倉庫、工場がならぶ。ほぼ一直線の道を走るとやがてポートメッセに着く。マイカー組はPに入るため行列中だった。自転車を適当な場所に固定。入り口まで行くとチケット売り場も行列だった。
 当方は前売り券ですいすい入場、まずはマツダのブースへ。目当ては12月中旬発売の新型CX-8に注目。幅1840、長さ4900とあってかなり大きいという印象である。運転席、後席、3列目にも試乗させてもらった。運転席は深深として、前方視界が悪い。フロントを見下ろす感じがなく、前方のみ視界が広がり、車両感覚がつかみにくかった。特に左側の死角はハイウェイ走行以外は気になる。着座ポイントをかなり高くしないと解消しないだろう。ここがどう評価するか。タイトなカーブの山道走行は厳しい。左側が絶壁の道も怖い気がした。
 次は三菱車のブースだ。D-5に試乗してみた。幅1795、最小回転半径5.6mはCX-8より20センチ短いから扱いやすい。アイポイントが高く死角は気にならない。外から見て肩から腕が15センチ見えるか隠れるかで死角は改善される。アウトランダ―と姉妹車も良い。
 スバルのブースではレヴォーグに試乗してみたが、これはかなり良いデザインであった。SUVの先進的なメーカーと思わざるを得ない。但し、ガソリン車しかない。
 ディーゼルはD-5,CX-8がラインアップするのみ。
 日産のブースは見るべきクルマがなかった。エクストレイルは旧型はあったディーゼルを排してハイブリッド化してしまった。丸いデザインは大きな車体を小さく見せるから扱いが厄介である。
 鈴木のブースの参考出品車のクロスビーは1000ccながら楽しいクルマのようだ。長距離走行をやらなければこれで十分だろう。トヨタ、ホンダ、ダイハツとも見るべきクルマはない。
 それにしても日本人はクルマが大好きなんだ。連休の谷間でも皆さん休暇をとって車を見に来たんだろう。だから1億人余の市場なのにトヨタ、日産、ホンダ、スバル、マツダ、三菱、ダイハツ、鈴木などが相当な売上を確保している不思議。
 3号館に移動。愛工大のブースに置かれていた初代カローラを見て懐かしかった。日産サニーの1000ccに比べて、プラス100CCの余裕とか日本のハイコンパクトカーとかいう宣伝を思い出す。他の見学者とともにこんなに小さかったかなあ、と話した。シンプルな運転席にも目を見張った。
 2号館はヨーロッパ車専門のブースだった。どの車も一回り大きい。そんな中でルノーはかなり日本車にちかくコンパクトであった。それを係員に話したら日産と組んでいるから最近のルノーはクルマ作りがうまくなりました、という。車台を共通に使用しているのかも知れません。ルノーは倒産しかかっていたところをゴーン社長が乗りこんで再建している。日産も同じだった。ゴーン社長のすご腕というべき経営術を尊敬したい。約3時間見て回って退場した。また自転車をこいで荒子川公園に戻った。

池田輝政と姫路城までの軌跡2017年11月19日

姫路城2017.10.28雨
 11/9に豊橋市に所用で行った際、駅前の精文館書店で『三遠の民俗と歴史7号』(三遠地方民俗と歴史研究会編)を購入した。立ち読みしたら、中野豊光氏の「池田輝政の飛躍は吉田城にあった」という論考が目についたからだった。
 テーマは「豊臣秀吉によって愛知県豊橋市の吉田城に入り、徳川家康によって姫路に移った」ことである。冒頭にメインテーマを掲げて、後で肉付けしてゆく。
 輝政は時に27歳にして15万2千石に取り立てられる。そして吉田城を10年間にわたって城下町とともに拡張してゆくのである。
 輝政31歳にして、何と家康の娘督姫(30歳)を娶る。秀吉の死後、1599年の関ヶ原の戦いでは当然、家康につく。これで52万石の加増となり姫路城に移った。本書はここまでの記述で終わる。
 輝政の吉田城時代の仕事ぶりが秀吉のみならず、家康の目にも留まったであろう。秀吉の一声で督姫を娶らされるが、それが一大転機となった。姫路城の改築には吉田城での経験が良い試練になった。
 輝政の才覚もさることながら池田家には相当先の読める家臣がいたにちがいない。織田家+家康を相手の長久手の戦いでは家来に戦に行くのを止められた運、秀吉の指示で吉田城を任された運、家康の娘と縁を結んだ運、関ヶ原の戦いでは家康の計らいで実戦には加わらず、大切にされたことが伺える。
 人生はことごとく運である。とはいえ、どんな人間性だったのか。運ははこぶものだ。信長には勇断と細心を学び、秀吉には細かい配慮と深謀遠慮を学んだだろうし、家康からは待つこと=辛抱(運が巡ってくるまでの)と愚直を学んだか。輝政の生涯には三英傑の人生の知恵が詰まっているかに思う。

 話は前後するが、10月28日は行政書士の支部旅行で姫路城へ行った。あいにく雨にたたられたが、立派な城だった。ガイドさんの解説の名前に本多などの名前が出てくるとここは尾張と三河勢で固めてあると知った。もう一度丁寧に歩きたいものだ。
 退城後は日本料理屋の「生松」で美味しい御馳走をいただき、さらに酒蔵も見学して新幹線で帰名した。
    秋雨や生松の味旅の味    拙作

猿投山の北尾根と戸越峠界隈を歩く2017年11月19日

北尾根で見つけた滑子
 余りの暑さに負けて撤退した7/15の再挑戦である。8時30分に県道33号から沢に伸びる車道に入る。7月はムンムンした草いきれと水滴でびしょぬれになったが、今は落葉し草も枯れて踏み跡も明瞭になって歩きやすい。車道終点から沢に下りる。沢歩きといっても沢足袋などは使わず、登山靴のまま渡渉するのである。
 最初は傾斜も緩くどんどん遡る。すると最初の堰堤に当たるので左岸から巻く。また沢床に下りて溯ると最初の分岐に出た。左又へ行く。先月の台風でまだ緑の葉をつけた灌木が倒れてやや歩きにくい。7月には見なかった赤テープがあるので好事家が入渓しているのだろう。
 7月には右岸の高巻をしたが、今回はゴルジュに入った。風化花崗岩の地質であるが、両岸が切り立っているからゴルジュと言える。左岸の山腹の根こそぎの倒木が沢一杯落ちて前途を阻んだ。小滝もあるので右岸から巻いた。巻きあがった所は7月に左岸から北尾根にエスケープした所だった。ここで一旦ゴルジュは途切れた。
 ゴルジュは滝の後退という。その通りである。滝が落ちて浸食が進むと沢が削られて、溝状になるのだ。
 今回はエスケープ地点からも沢を進んだ。ゴルジュではないがV字形の険しい渓谷であある。猿投山の秘渓といいたいが、高巻道はあるし、山腹に古い道形が残っているので知る人ぞ知る溪であろう。第一、二次林や植林の山では自然味は少ない。険しさだけが取り柄である。
 二股ではスマホでチエックをしてもらったが、必ずや赤いテープのマーキングがあった。これを信じて進めば問題ない。とはいえ、先蹤者にもミスはあるので注意するにこしたことはない。
 どんどん進むうちに沢が立ってきて傾斜が強くなった。元々細かった水流も途絶えた。稜線が明るくなってきた。落石に注意しながら這うように登った。源流が広がり右手の尾根に乗り移ると踏み跡や赤テープがあった。たどっていくと北尾根の界標131に達した。10時30分、2時間が経過していた。ここで小休止。
 南へ歩くと、赤テープを2重に巻いた分岐に着いた。これが地形図の破線路の道だが、7月はここから踏み跡をたどったがすぐに見失い、藪尾根を強引に下って東大演習林の林道に下りて県道に出た。
 分岐から南へは独立標高点480mへ行き、猿投山に達する。11時となり、登頂すると往復2時間、下山1時間30分を見込むと日没につかまる恐れがあるので引き返した。
 再び、沢からあがった地点に戻り、北尾根の急斜面の山腹とやせ尾根のマーキングをたどりながら北進する。地形図の戸越峠の「越」のところのコブには左を巻く赤テープと直進に分かれた。左は峠へ行くのだろう。直進してコブに達し、右折した。このコブから右(東)への踏み跡やマーキングがあった。明瞭な尾根であったから不安なく下れた。最初の右又と左又の分岐だった。沢床を行くと2回目の堰堤があり左から越える。すると良い道がまた沢に下っていく。さらに最初の堰堤も左から越えてすぐに車道に出会った。後はマイカーまで戻った。帰路につくと間欠ワイパー程度の小雨になった。猿投山は黒い雲に巻かれていた。時雨模様の寒い1日だった。
 帰路は保見から長久手市に周り、「ござらっせ」で入浴して体を温めて帰名した。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/07/15/8621285

塩味論争2017年11月10日

 http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171026-OYT8T50009.html?page_no=2
 記事中の「一方、給食が「まずい」理由として、塩味があまり強くない薄味であることをあげる人がいますが、これには同意できません。子どもが塩分を取りすぎないように配慮して、味付けをしているからです。こうした味に慣れておくことは将来の生活習慣病の予防にもつながります。また、薄味なら、食材そのものの味を楽しむことができます。」というのですが、サンデー毎日11/19号に反論が掲載されていました。
 飲食店の味噌汁を飲むと、出しをきかせる汁と味噌味だけの汁とに分かれます。薄味なら出しをきかせればいいのですが、コストの制約があるのでしょう。出しは結構高くつきます。
 私がごく親しくしていた医者からも塩分と高血圧に因果関係はないと言いました。なぜこんな混乱が生じているんでしょうか。
 2年前に入院した病院でも西山さんは血圧が高いからと降圧剤の処方を勧められましたが断りました。食事指導にしてくれ、といいました。年相応に高血圧になることと降圧剤そのものが飲むと習慣になり止めるとやがて死にいたることがあるのです。知人2名が降圧剤の服用をやめて後に死んでいます。栄養士との雑談では本音を言いました。医者と製薬会社の癒着があることです。過去の健康情報は間違いだらけです。
 スポーツ面からでも塩分補給は大切です。塩分が少なくなると死にいたることがあります。スポーツマンが意外に早死にするのも塩分はじめミネラルの不足と思われます。
 執筆者が栄養指導の実務家であり専門家でも鵜呑みにはできません。粗食がブームになりましたがやはり下火になりました。長命で粗食の人はいないそうです。
 ある山寺の僧の墓をみるとみな40歳代でした。塩分の不足に思います。南アルプスの獣らには塩をなめる場所があるようです。塩は大切な栄養源なのです。塩分摂取に関する正しい知識を得たいものです。