富山・高岡市への雪のドライブ行~奥越の温泉入湯2017年02月22日

 2/21は富山県高岡市でシニア人材の交流会というので参加。富山までは約270kmあり道中は長い。交流会は午後からなので少し早出した。高速代を30%OFFするつもりで午前3時過ぎの出発を予定したが、1時過ぎに交通事故が発生し、東海北陸道の上下とも通行止めになった。吹雪いているらしいので結局午前7時前の出発に落ち着く。
 岐阜県に入るとさすがに降雪と言うほどではないが小雪が飛んでくる。郡上に入ると視界も悪い。白鳥からはもっと悪くなる。不思議なくらいなかった雪が出てきた。ひるがのSAで小休止。午前9時前で、荘川からR156へ出るつもりが雪崩のおそれで通行止めという。五箇山まで走りR156へ出た。高速道路でも路面は完全に除雪されているが凍結を恐れて先行車が時速60km前後でしか走らない。それなら国道でも同じというわけだ。
 ここから高速はR156と乖離して長いトンネルを抜けて一気に城端へ行く。R156は庄川の流れに沿いながらくねくね曲がり道を走る。国道は通行量がほとんどないせいか、雪道になった。1年に1回は雪道ドライブも味わいたい。今は10時前だ。13時まではまだ時間があるので開場した温泉を探した。道の駅で聞くと大崩島の新五箇山温泉 南砺市平ふれあい温泉センターを教えてもらった。(くろば温泉は火曜休み)R156から分岐する道を行くとより深い雪道になった。四輪駆動車が頼もしいと感じる。
 非常に広いPだが、先行者は2台だけだった。510円を券売機で支払う。良いお湯だった。少し温めだが芯まで温まる。30分もしないうちに汗がでてきた。効能書きを見ると膝関節症にも良さげである。そういえば車から降りた瞬間に零下5度くらいだろうか、悪い方の膝に血が通う感覚が無くなった。入湯後は血が通った気がした。長い間けい皮鎮痛薬で誤魔化してきたせいか膝の神経が再生されなくなったのか。血行を促すことは治癒を助けることと思う。ぽかぽかした後は寒い戸外でも平気だ。再び高岡市に向かった。
 庄川の左岸側には最新刊の『富山の百山』に収録された高坪山、袴腰山、高落場山、高清水山、赤祖父山などの1000m級の低山がごろごろしている。右岸側の牛岳もいつかは登らねばなるまい。林道を行けるところまで行って山頂に立つ。その後は安い宿に泊まり入湯するのも良い。
 R156の路面は完全に積雪路でガタガタと状況はよろしくないが行き違う車は殆どない。雪解け水を満々と湛えたダム湖で人家は少なく静まり返っている。庄川町を過ぎると突然、となみ野が広がった。雪は意外にもない。カラカラに乾いた冬田が広がっている。突然携帯が鳴った。中産連の担当からだった。名古屋からの参加なので心配したのだろう。高岡市内に着いて中食後、13時ちょうど、二上山の山麓に建つポリテクノセンター富山に着いた。
 そこは大門山を源流とする小矢部川の氾濫が運んだ沖積平野だった。富山湾の河口近くになると運んだ土砂の流れが停滞して蛇行を繰り返す。以前は水田だったと思われた。庄川も山間部を抜けてとなみ野を形成しながら小矢部川と隣り合う。水害の危険地帯だっただろう。それでも高岡市のような町が発展したのは標高52mの高台で水害を免れたからと思う。地名の高岡もなるほどと思う。水害を承知でこんな場所でも逃げないのは氾濫の度に土地が肥えるかららしい。
 交流会後、二上山をドライブしたかったが冬期は通行止めだった。二上山は万葉集の大伴家持ゆかりの名山である。ここには私が信奉する俳人・前田普羅の自筆の句碑が建つ。
  ”雪山に雪の降り居る夕べかな   前田普羅”
 万葉歴史記念館も今日は工事中だった。雨晴海岸からの立山連峰の眺めも冬型の気圧配置で曇り何も見えない。得るところなくそのまま帰名した。但し、白川郷まではR156を走った。

訃報 演歌界の名伯楽 船村徹先生2017年02月17日

 日本山岳会だよりのメールを開くと、船村徹先生の訃報を伝える内容だった。
【訃報】
船村 徹 様(14674)84歳
栃木支部 通常会員
2017年2月16日逝去されました。

通夜 22日午後6 時、
葬儀 23日午前11時から
会場 護国寺
   〒112-0012 東京都文京区大塚5-40-1
   電話 03-3941-0764
喪主 蔦将包(つた・まさかね)様(ご長男)
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
以上
 もう84歳にもなっていたことに驚いた。作曲家としての実力は知らない人は居ないだろう。とにかくヒット曲の多い人だった。あの曲が、あの曲も、というくらい数多い。演歌の大家だった。歌手にとっては船村徹作曲のデビュー曲が一生のヒット曲にもなっている。一人や二人ではないから演歌界の名伯楽と言えよう。

 そんな先生は意外にも「山の日」の制定に熱意を示した。日本山岳会の正規の会員でもあった。これを知ってからいっぺんにファンになった。
「「山の日」の言いだしっぺは船村徹さんか? 」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/08/12/7731748

 昨年の8月11日の「山の日」の制定を見届けて、力尽きたのだろうか。

  ふるさとの山河に還る二月かな   拙作

 心より故人のご冥福をお祈り申し上げます。

立岩トレーニング2017年02月11日

春浅し峨峨たる岩を攀ぢにけり

垂直の壁見上げれば春の空

クライマーの肩に舞ひ落つ春の雪

蝶々(てふてふ)が舞ふごとひらりと壁を攀づ

風花が舞ふ立岩の二月とて

ふるへつつ挑む岩壁余寒かな

冴へ返る森に笹鳴ひとしきり

立岩の天辺に立つ春寒し

絶壁の孤高の松や建国日

渡辺真知子「迷い道」を聴く2017年02月10日

 ソース:https://www.youtube.com/watch?v=XZlr800Q22Y

 「迷い道」なんてこんな歌が流行った時代もあったなあ。1977年というから昭和52年のことだった。もう40年も前だ。彼女が20歳くらいのデビューとか。すると今は60歳か。
 聴きはじめたら癖になりそうなくらい軽快なリズムが心地よい。今の時代を反映した歌詞にも感心する。渡辺氏の作詞作曲そして歌唱もなんて天才的な人だこと。
 韓国のパククネ大統領がロウソクデモの末に失脚した。その辺りからこの歌の歌詞の最後のフレーズを目にするようになった。なるほど♪迷い道くねくね♪だ。本当は別れた恋人への片思いの歌なんだけど・・・。
 トランプは迷いなくアメリカファーストを打ち出したけれど、欧州の指導者が迷っている。支那の指導者も同じだろう。日本を悪者にして、自国民の不満をそらすことに懸命だな。
 山の方の遭難も道迷いが増えている。♪ひとつ曲がり角ひとつ間違えて迷い道くねくね♪。まるで喜劇じゃないの、と不器用な自己を見つめる。否、山の道迷いは悲劇につながる。ライブに行きたくなった。

1月句帳2017年02月04日

玄関のまだ出番なきスキー板

雑炊の青き彩り野菜くず

大寒や松方弘樹死ぬニュース

締切が近づくばかり日脚伸ぶ

川の鳥いつしか消えて春隣

立春や六法を読む老いてなほ

北アルプス 大町登山案内人組合100年 日本最古PR2017年02月01日

 WEB版毎日新聞から
 長野県大町市の登山ガイド団体「大町登山案内人組合」が今年、発足100周年を迎える。日本初の登山ガイド組織として、楽しみで山に登る日本の近代登山の発展に大きく貢献してきた。組合は今年、市などと協力して記念事業を展開する計画で、関係者は「日本最古の登山ガイド団体はあまり知られていない。市の山岳文化をPRする機会にしたい」と話す。【稲垣衆史】

 組合は「大町登山案内者組合」として1917(大正6)年6月に設立された。前年に信濃鉄道大町駅(現・JR信濃大町駅)が開業し、北アルプスの地形図が整備されるなど、それまで知識人が中心だった登山が大衆化。大町も北アルプスの玄関口として年間1000人の登山者が訪れていたとされる。

 増加する登山者の要望に応えようと、組合を創設したのが市内で旅館「対山館(たいざんかん)」を営んでいた百瀬慎太郎(1892~1949年)だった。質の高い案内人を安定的に提供するため、地元の猟師ら山で働く人を中心に22人をガイドとしてまとめた。料金トラブルを避けるため定額料金を導入したり、心得や規約を作ったりし、資質の向上に努め、針ノ木小屋建設など針ノ木岳周辺の環境整備にも尽力した。こういった活動は模範となり、各地に同様の組合ができた。

 大町山岳博物館の関悟志・学芸員によると、百瀬は対山館を訪れる著名な登山家らと交流する中で、地元にいながらも新しい海外の登山文化などを取り入れていた。「組合の拠点だった対山館はサロンのような山の情報の交流・発信場になり、近代登山の発達に影響を与えた」と話す。

 戦時中、登山者が減り、対山館が廃業するなどして活動は一時休業状態になるなど存続の危機が何度もあったが、乗り越えてきた。現在、組合には市周辺に住む約40人が加入。登山ガイドだけではなく、北ア北部地区山岳遭難防止対策協会のメンバーも兼ねて遭難救助や見回りなどにも当たる。狩野正明組合長(68)は「100年で山の道具も環境も変わったが、受け継いだ組合の伝統は伝えていかなければならない。活動や意義を知ってもらい、見直す機会になれば」と話す。

 記念事業では、組合員のガイドによる針ノ木岳へのツアーの他、同博物館では百瀬らを中心とした地域の登山史を紹介する特別展を開催。11月17日には記念式典も開く予定。
以上
 山やには第一級のニュースですな。是非時間の都合をつけて行きたいものです。
 名古屋の伊藤孝一との交遊関係を調査するうちに百瀬慎太郎に触れないわけにはいかなかった。
 百瀬慎太郎遺稿集『山を想へば』を富山県立図書館経由で借りて、今も毎日読んでいる。宿泊客からの手紙や宿帳を抜粋した書簡集はさながらに近代登山のあけぼのを彷彿する一級の資料になっている。短歌は30歳代と40歳代が抜けているので完全に網羅されていない。散文も貴重な文献である。
 対山館は登山の拠点になっていた。今では一流と目される登山家が集まってきた。
 伊藤孝一は鹿島川を遡行するために来て泊まっている。俳人の河東碧梧桐一行はここに泊まって日本アルプス縦走に向かったのだなと分かる。名高い田部重治はまだ独身時代に南日重治の名前で泊まっている。伊藤孝一の手紙には時間があれば一緒に登りたいと懇願する手紙を出している。百瀬慎太郎の人柄の良さにひかれて交遊した期間は死ぬまでに30年に及んだ。赤沼千尋も同じだった。同書P90には登山案内人という言葉は大正初期にできたとあった。結局百瀬慎太郎あっての登山大衆化だったと思える。

句会初めに想うことども2017年01月30日

 1/29は今年最初の句会だった。参加者は4人中2人になった。1人は俳句が作れないと嘆き、1人は限界を感じたのか。ちょっと寂しい新年句会になった。女性3人は皆80歳を越えた。7年前に発足したときは70歳代でも元気な感じだったが、ここへ出席するだけも大変らしい。
 しかし、俳句は80歳を越えてからだろうに。皆さん夫を亡くした。本来は孤独な身辺であるが俳句の趣味があるから赤の他人ともつながるし、575と考える時間がある間は孤独感はない。
 たとえ2人になっても続けられるうちは続けたいと思う。これまでの7年もよく続いたものである。その秘訣は
・結社は主宰が絶対の存在である。”蝿叩き一誌持たねば仰がれず”の世界である。主宰たるもの雑誌を発行する、句集を何冊も出す、文芸評論が書けることが条件になる。事実、人気俳人の多くはこの条件にに適う。だから結社に及ばずながら俳話会とした。
・俳句教室は講師が一方的に薀蓄をたれ流す。受講生を下に置くやりかたではなく双方向で句講を進めることであろう。
要するに少人数で深い話をしたのである。
 この方法もここにきて頓挫した感がある。欠席の1人が夏井いつきのような講話を要望したからだ。結局6年以上やってきて何も理解していないのだった。
 プレパトは大人気の番組だが、あれは夏井さんもプロであるし、酷評される側もギャラをもらうからプロである。視聴者を面白がらせる役目である。視聴率をアップして、スポンサーを喜ばす電波芸者の役目である。
 俳句の俳は人に非ずと書く。もともとは芸能人のような被差別の卑賤な意味があったようだ。俳優は優れて人を面白がらせる職業というわけだ。今はタレントであるが戦前は川原乞食であった。決して名誉な仕事ではなかった。
 俳人も同じことだったが、芭蕉が出てきて、言葉遊びだった俳諧で人生を詠むことから俳聖とまで仰がれた。芭蕉の背景には支那の古典がある。杜甫や李白の漢詩である。杜甫は詩聖といわれた。夏目漱石の俳句が高く評価されるのは漢詩に熱心だったからといわれる。
 今はそこまで高邁な教養を高める人はほとんどいない。そこまで指導したところで同じように学ぶことは無理だ。明治時代は新聞に漢詩選があったが大正6年頃に無くなった。人々の日常から漢文は失われたのである。
 俳句は結局江戸時代の町人大衆のレベルまで下がってしまうのだろう。現代俳句は「駄句の山」と評した主宰がいた。俳句全体が女性化してしまった。人生を詠めとか指導する余り感情のみ優先されてしまうからだろう。句会ではなるだけ自然詠を採るようにしている。視野の広がりを期待する。自然を詠んでも人生をにじませることはできるからだ。

恵贈!『山その大いなる旅Ⅱ』同志社大学山岳部・山岳会2017年01月22日

 1/21の新年会で和田豊司元支部長から恵贈を受けた。A4サイズ、244ページの立派な製本である。
 同志社大学山岳部の前身のスキー部が1925(大正14)年に創設されて、2015年で90周年を迎えたことから編纂された記念誌である。旧制大学発足は1920(大正9)年だから山岳部はその5年後に創部された。
 日本の近代史とともに歩んだ歴史のある大学と理解する。2011年に創立者の新島襄の妻の八重を主人公にした舞台劇は観たことがある。少しは同志社の歴史をかじったのである。
 また私の所属する山岳会にも同志社大学法学部OBで名古屋高裁に勤める会員がいた。女性でも転勤させるから優秀な官吏だったのだろう。
 私のようなものにも恵贈されたのは目次を一覧して東海支部に縁のある登山隊との関係だったと理解した。クビ・ツアンポ源流域学術登山隊の報告をメインに編纂されている。私にはヒマラヤの遠征経験もなく、少しでも理解をしようと、岩波文庫『ツアンポー峡谷の謎』という本を読んだことも思い出した。読んだだけではだめで、この本と合わせて読めばヒマラヤの秘境を知ることができるだろう。
 2007年のクビ・ツアンポ源流域学術登山隊では和田豊司氏が隊長となって率いた。隊員の千田敦司氏も支部員であった。このイベントがP26~P107まで三分の一強を占める。次は2010年の同志社大学ネパール登山隊、2015年の同志社大学極西ネパール登山隊(仙田裕樹隊長)がP183まで続く。
 以後、国内活動の報告があり、P229のブロッケンの章に2006年ローツェ南壁冬季登山隊(尾上昇総隊長、田辺治隊長)の思い出を千田敦司氏(副隊長)が4ページにわたって綴る。これは東海支部にとっても3回もアタックし続けた壮絶な登山隊だった。こんな難しい登山を遂げても山は非情なもので、田辺治氏は今もダウラギリの雪の下で永遠の眠りについている。千田氏には忘れ得ぬ登攀だったであろう。
 ともあれ、若い人にとって人生は忙しい。あっと言う間に年をとる。体力と技術、信頼の置ける隊員を得て、かつ暇とカネを工面してこのようなイベントに参加して、一書を綴れたら幸運というものである。

恵贈!安藤忠夫著 画文集『絵本 わが山の日々』~山道も下山に入って~2017年01月22日

 1/21の新年会でご当人から恵贈を受けた。著者の安藤忠夫氏は愛知県足助町の産と聞いた。愛知県立高校の教諭の職のかたわら登山を継続してきた。JACの他に日本山書の会の会員であり、東海支部きっての教養人である。現在は仕事から完全にリタイアして信州・安曇野の一角に新居を構えて夫人とともに暮らしている。
 目次を読むと23本の章立てからなり、北アルプスを主に、御嶽、中央アルプス、八ヶ岳の山名が並ぶ。もちろんガイドではなく、随想集である。そのページに自筆の彩色の絵をちりばめた。ゆえに絵本と言うのだろう。
 眺めているとふと気づいた。安藤氏のもっとも好きな奥美濃は一遍もないことだった。しかし、あとがきを読むと、そんな脂ぎった山行記からは脱して来し方を振り返る趣向なのである。そして本書は饅頭本のつもりと別記する。古来希成りを過ぎて73歳という。いよいよお迎えの声を聞いたのだろうか。
 ちょっとは中身にも触れよう。P62の百瀬慎太郎著『山を想へば』から、の項。今も私が読んでいる最中だからつまみ読みしてみた。
 実は東海岳人列伝で取り上げた「伊藤孝一」の友人という立場で第一級の資料として、読んでいる。愛知県図書館を経由して、富山県図書館所蔵の同著を借りている最中である。今は古書が安いのでアマゾンをクリックして購入するが同著は33000円もするので借りた。借りた本も鉛筆書きされた38000円の値付けが読み取れる。山岳書としても名著にして稀覯本の類に入る。こんな本を安藤氏は蔵書に加えているのである。
 槇有恒の序文を読むと、百瀬は隻眼とあった。子供の頃は辛い思いで育ったようだ。旅館業も彼が好きで継承したわけではなかったという。「この自分の職業にむしろ批判的であった彼は、打算に疎くその深い教養によってかえって広く多くの友人との交誼を得たと思う。」と書いた。その通りである。
 中でも名古屋の伊藤孝一、燕小屋の赤沼千尋とは30年にわたる水魚の交わりを得たのである。そして、登山史に残る山岳映画撮影行として針ノ木峠越え、真川から薬師岳積雪期初登頂、上ノ岳から槍ヶ岳初縦走を記録した。遺稿集に伊藤孝一もあとがきの前の追憶蘭に書く地位を得た。「山を語り得た人」である。別格の扱われ方である。
 短歌蘭には50歳の時の回想の一首があった。
 ”此の山の真冬の深雪踏みしだき心しまりし昔思ひいづ”
     (大正12年2月、立山針の木峠越え)

 病中雑吟にも佳吟がある。3人の友情の溢れた一首だ。
 ”友垣の情けうれしも菊の花菜の花などをとりそへたまふ”
 (伊藤孝一夫妻、赤沼君)
 ”北陸の旅の便りもともしかりまして和倉の塩のいで湯は”
 (伊藤孝一氏)
 ”神風の伊勢の入海舟ゆき黒鯛釣ると羨まし黒鯛”
 (名古屋伊藤孝一氏)
 曾遊回顧の中から
 ”知多の海内海の浜にみさけりし鈴鹿の山の姿はおぼろ”

 12月21日夜伊藤孝一氏への手紙書きつつ浮かび出るままに31首の中から
 ”二十年はすでに経ちにし冬山の思い出の文書かむとするも”
 ”若かりし頃のゆたけき思い出を思ひつつ寂しわが五十一”
 ”深雪を蹴立てて来る時じくも芦倉の猛者八人来る”
 ”榾の火にいつくしき面火照らせつ平蔵が酌む茶碗酒かな”
 ”板倉さんの飯盒の蓋が火にとけしとしみじみとして八郎は語る”
 ”平蔵がどっかと雪に腰下し板倉さんは此処ですといふ”
 
 昭和19年 52歳 16首
   伊藤孝一の令閨死去
 ”愁しみを胸につつみて山を下る足下にふと龍胆の花”
  
 以下の歌は師匠が旅と酒と短歌に生涯を送った若山牧水であることを思うと苦笑を禁じ得ない。
 ”酒に生き酒に傷つく我にして忘れがたかる酒の味かも”
 百瀬は昭和24年、58歳で逝った。同い年の伊藤は昭和29年に62歳で逝き、赤沼は83歳の長命を得て、昭和54年に逝った。黎明期の北アルプスを知る生き証人を失った。「山を語り得た」百瀬の死は早過ぎた気がする。
 ”喘ぎつつ登り来たりてわが齢老けしを思ひ心寂しむ”
 50歳代にしてこんなに弱っていたのか。年は違えどだれにもこんな歌境になる時期が来る。

 安藤氏の住居は針ノ木峠にも近い。百瀬慎太郎に想いを寄せつつ、コマクサの花をめでる。そして、蓮華岳とはコマクサの群落に由来するのではないかと夢想する。コマクサの色はなるほどレンゲソウの赤紫の濃い色に似ている。それもあり得る。私は前田普羅の名句”霜強し蓮華とひらく八ヶ岳”のように寒い朝、眺めた山容に蓮華を見たのではないか。神々しさを想像する。新潟からの白馬岳は大蓮華山と呼ばれたごとしである。またそんな話をしに行きたいと思う。

新年会2017年01月21日

 1月21日はいくつもの新年会が重なるのはやむを得ない。その中で山岳会は30年近く続けてきたから最優先することになる。しかも年頭から続いた新年会もほぼ終わる。後は同窓会とか個人的なカテゴリーに関係するものはある。小正月も過ぎれば世間はそろそろ動き出すからだ。
 今年は山岳会ルームに隣接する高砂殿が解体した結果、ウイル愛知に変更された。ちょっと不便になった。16時30分過ぎに会場入りするが何となく手狭な感じがする。セミナールームだから縦型の間取りになりやむなしだ。
 高橋支部長の挨拶に始まった。支部長としては48歳とかなり若い。いやかつてはみんな若かったのだ。若い会員の入会がないので年々平均年齢が上がり、今や70歳代になった。ここからどうやってかつての勢いを取り戻すかは彼の手腕にかかっている。
 続いて毎年、外部から講師を招いての講演になった。今年はNHK山岳班指導員、関裕一氏。明治大学山岳部コーチとして活躍中とのこと。テーマは「山岳番組の舞台裏」であった。これまでの映像のさわりを挿入しながらあっと言う間に終わった。
 山岳番組は視聴率がとれるそうだ。それは以前にも同じNHKから招いた講師も言っていた。あれは田部井さんの番組だったが滅多にない再放送の要望が非常に多かったことを聞いた。根強いファンがいるのである。日本百名山をTVで放映してブームにしたのもNHKであった。最近ではデナリ(マッキンリー)からの大滑降とか、大岩壁の登攀が好評という。非日常の世界を茶の間で味わうことが好きなのだろう。
 歴史番組はドラマであれ、ドキュメントであれ、バイアスが入るから山岳を舞台にした番組はリアルで迫力に富むところが人気を呼ぶ。
 但し、単なる事実だけではだめで、最近は高性能なカメラ機材を活用したり、ドローンも使って人間の視点では得られないアングルからの映像も使われる。中々に苦労の多い舞台裏を見せてもらった。
 その後は懇親会で旧知の友人らとの話に花を咲かせた。