8月句帳22016年08月21日

      8/11は山の日の祝日
     島津亜矢の「山河」を聴く
山の日や亜矢の「山河」の素晴らしき

      8/13大岩谷を溯る
秋の山叫んで熊を遠ざけよ
 
8月の緑なす谷溯る

べったりと岩に咲いてるいわたばこ

秋暑し汗だくだくと流れけり

新涼や滝しぶき浴び谷を行く

     もらった鈴虫の子が鳴き始める話
鈴虫が鳴いたとかまだとか話す

      8/15終戦日
終戦の日を狙うかにシナの船

終戦日桜井誠結党す

靖国を心に拝む終戦日

外国のどこも悪辣終戦日

平和とは備えて防ぐ終戦日

     8/20 仕事
月末の残る暑さの事務所かな

仕事など進まず残る暑さかな

地下駅を出れば街路にさるすべり

     8/21エレベーターで少年に問う
夏休み残り少なし宿題は

     8/21桜通りから名駅方面を仰ぐ
都会にも秋らしき青空のぞく

里山の話2016年08月18日

 午前10時、先月の「山の日」の広告企画で面識を得た広告社の社員の来訪に応対。新たな広告の企画しているので里山の活動の話を聞きたいとのこと。ざっくり話をするが組織の責任者に話をつないで終わった。只木良也の『森と人間の文化史』(NHKブックス)を読むように勧めておいた。
 かつての里山は豊かな森の恵みを得るために頻繁に入っていた。建築材、薪炭利用だけでなく、枯葉は肥料になったし、枯れ枝は薪として燃やした。何も無駄が出なかったのである。戦後、石油をふんだんに消費できる時代になると森に入らなくなり、雑木林は薪炭林としては無用になり、伐採して杉や桧を植えた。下草、間伐などの手入れを怠ると森は荒れた。
 それをかつてのアルピニストが借り受けた。ピッケルをふるった手にノコギリや鎌に持ち替えて、伐採、枝うちなどに精を出した。素人には無理ですよ、と拒否する愛知県の関係者の反対を押し切って「さなげの森づくりの会」の活動が始まったのである。
 最終的には人間に心地よい落葉広葉樹の森に復元するのだという。放置しておくと元来の森である照葉樹林に還ってしまうそうだ。だから人工的に干渉して雑木林でとどめるというのである。地味ながら知的な活動である。さてどんなことになりますやら。
http://www.shinrin-ringyou.com/shinrin_seitai/seni.php

インプラント治療は歯医者の敗北である2016年08月16日

週刊ポスト2016年8月19・26日号

「インプラント治療は歯医者の敗北である、という言葉をご存じですか? 患者の歯を守れなかったからインプラントになるわけですから、“自分はインプラントがうまい”と自慢している歯科医は根本的に間違えている。

 本来は歯を残すための、根管治療などが評価されるべきですよね。私は最後の手段としてインプラント手術を行なうこともありますが、まず歯を残すことに全力を尽くします。患者さんも気づいてほしいんですが、一般的な医療で安さを競うのは異常ですよね。美容整形とインプラントぐらいでしょう。
 
 そういうメンタリティの歯医者に手術を受けて、痛い目にあうというのは自業自得な面もあります。週刊ポストの記事に意味があると僕が感じるのは、こういった危険な落とし穴を一般の人が理解することに繋がるからです」
以上

・・・・最先端の治療技術全般に言えることだ。ブリッジですら根治ではないと今さら遅いのだが気づいた。治療箇所のメンテナンスの不完全さが次の破損につながるからだ。それに虫歯になる部分は義歯に覆われてメンテナンスそのものが行き届かない。歯間ブラシを使うが完全には取り除けていない。
 結局、口臭やぐらつきなどから判断して早めにブリッジを解体して掃除するとか消毒で治療することになるだろう。

昭和天皇の終戦の御製2016年08月15日

爆撃にたおれゆく民の上をおもひいくさとめけり身はいかならむとも

身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて

国がらをただ守らんといばら道すすみゆくともいくさとめけり

外国(とつくに)と離れ小島にのこる民のうへやすかれとただいのるなり

以上
ブログ「日本の素晴らしい歴史」から
http://blogs.yahoo.co.jp/mozugoe/8557601.html

奥美濃・大岩谷2016年08月14日

 伊吹山地とは伊吹山の北の金糞岳辺りまでをカバーする1300m級の山なみをいうらしい。その間に地形図に山名がある山はない。それでも国見山、虎子山、ブンゲンと知る人ぞ知る山が連なる。よく整備された登山道のある山は伊吹山と金糞岳に限られる。一般の登山者から忘れられた言わば秘境的な山域である。
 中でもブンゲンは1269mの標高があるが好事家くらいしか登られない。しかし、沢に限れば岐阜県側でも滋賀県側でも花崗岩質のきれいな沢が突き上げる。岐阜県春日村は西谷という。西谷の右俣が竹屋谷、中俣が大岩谷という。その他にいくつもの沢が江美国境に突き上げる。中でも竹屋谷は滑や樋状の滝が美しく江美国境に突き上げる。
 今回登った大岩谷も両門の滝があって美しい渓相を競う。大岩谷には近年遊歩道まで整備されていて驚いた。以前、沢納めで遡行し、ブンゲンに登頂、また下降した。うっとりするような黄葉の谷に突然雪が舞ってきて驚いた。当時は伐採中で下山すると焚火をしていたのでしばらく当たらせてもらった。林道も未舗装だった。
 午前6時、一社駅前で2人を拾い出発。渋滞気味の名神一宮ICを経て大垣ICで降りる。すぐに揖斐川堤防道路を走り約100km、2時間弱で美束の奥の尾西に着く。右へ大平八滝の案内板に導かれて大平林道の大岩谷の入り口に着いた。完全舗装だから隔世の感がある。その上に山主は遊歩道を整備して観光地化するようだ。駐車場も2か所整備してありかなり本気である。
 身支度後、熊避けのドラム缶を鳴らして入渓。一の滝から遡る。久々の水に体が喜ぶ。周囲は落葉広葉樹の森の中を清冽な谷水がほとばしる。滝ごとにフィックスロープや巻き道もあるがなるだけ谷芯を行く。体のキレが悪いのは体重が減っていないためだ。二の滝、三の滝と続々遡り、八の滝で観光滝道は終わる。谷沿いの路を戻らなくてもいいように帰路も設けてある。
 さて、本格的な遡行領域に入った。周囲は二次林の落葉広葉樹の森である。緑一色の谷の中、滝は連続するが傾斜が立ってきた。スケールも若干大きい。直登を試みるが巻道も行く。次々突破する。大きな5m以上の滝を巻くとついに両門の滝に着いた。左から右からの谷が一つの滝になっている。奥秩父の両門の滝のスケールには及ばないがコンパクトなまとまりが良い。あの黄葉の時の感動には及ばないが、万緑の中のやや多い水量が迫力ある渓谷美を魅せる。これは右から滝上に巻く。
 巻いた後は平凡な渓相が続き、二股を分ける。地形図でチエック。水量は同じだが右がやや多く本流と見て直進する。再び二岐になる。左がブンゲンに突き上げる本流、水量の少ない右は1095mの独立標高点に突き上げる谷。明瞭な二岐である。11時になり、ここまで3時間経過したこと、ヤブが覆うようになったことを鑑みて遡行を終了。1095mの尾根に上がることとした。11時、早めの中食を済ます。
 岩っぽい谷だが中途ですぐに踏み跡が横切っていくのに遭う。桧林の中を忠実に辿り尾根の背に到達すると踏み跡が下ってゆく。しばらくは植林内を順調に下った。傾斜が大変強くなり、伐採はしたが傾斜の関係か、植林はせず、放置したままの二次林の中でストップ。植林が尽きて二次林の中のけもの道を追った。。なるだけ尾根を追いながら且つ浅い谷に下ってみた。困難さはなく、本流に合流した。
 八の滝へはすぐだった。地形図では本流沿いの尾根を下ったのだろう。若いお嬢さんと両親らしい親子3人づれが滝の探勝に来ていて驚く。こんなところでも軽装で来るのだ。あちらも「凄い」と驚いた。
 私たちはフィックスロープの垂れ下がる谷を下降していった。6から7滝付近で観光用探勝路を下った。そのまま歩くと駐車場に戻った。帰路は薬草風呂で一風呂浴びた。猛暑の名古屋へ帰った。もう少し沢の涼しさに浸っていたかったな、と贅沢な思いが募った。

「山の日」に聞く歌は「山河」♪2016年08月11日

 作詞:小椋 佳、作曲:堀内孝雄。オリジナルは五木ひろしだが島津亜矢の歌唱力が断然素晴らしい。コンサートで生で聴いたがコブシがなく素直に歌い上げる。
https://www.youtube.com/watch?v=wWVyGQ-QLYg

8月句帳2016年08月10日

炎天の八方尾根をありくかな

緑陰の路根曲りの岳樺

そそり立つ不帰ノ嶮壁夏の空

雪渓や三角錐の剣岳

人人でごった返すや登山小屋

ビール飲む例えれば実(げ)に甘露かな

山涼し信越の国境行く

夏の山かぶさるごとく聳へけり

岩攀じて天に至れば五龍岳

お花畑通るべからず遠見尾根

山麓のお湯に癒され夏おはる

味の濃き肉を食ひたし普羅忌かな

登山はベストを尽くせばそれでいい!2016年08月09日

 8/5の夜発で8/7まで北アルプスの唐松岳から五龍岳までを元気に縦走してきた。6人が参加。8/6は八方尾根から唐松山荘へは厳しい炎暑の下、ふーふー言いながらの登りである。小屋へは12時すぎに着いた。私は寝不足を回復するため休養したが元気な5人は不帰の剣の手前までお散歩として往復した。また1人は唐松の下りで筋肉を傷めるアクシデントがあった。縦走はとても無理というので、話し合いでKさんがYさんに付き添いで八方を下ることになった。Kさんは日本百名山をすべて踏破している。その心の余裕から生まれた親切である。それでもその優しさに感謝する。
 8/7は4人が5時に山荘を出発。今日も炎暑が予想された。五龍山荘まではアップダウンの多い縦走路を3時間で予定通り踏破。山荘で休憩後、五龍への登り道に取りつく。ガレの多い岩の路である。山頂直下は岩壁の岩登りになった。岩登りのトレーニングが生きるような登りである。山頂はすぐそこにあった。日本百名山踏破77山目か?
 これまで計画しても雨で中止することもあったし、五龍山荘で泊まって雨の遠見尾根を下山したこともあった。雪辱を果たすというとオーバーか。
 山荘まで下山。コーヒーを飲んで休憩。今度は雪辱を果たすべく、炎天の遠見尾根を下山した。八方に比べるとしばらくは鎖場の連続する岩場もあってやや荒っぽい登山道である。緑陰の岳樺の中に入るとほっとする。小遠見山まで来るとハイキングの路をアルプス平まで下る。リフト、ゴンドラを乗り継いで下山。振り返ると稜線は雲が漂う。もう気象の変化の兆しか。
 山麓の駅舎まで来て出ると故障組が先回りして待機してくれた。タクシーでマイカーを回収する時間が節約できて良かった。着替えの後、麓の温泉で汗を流して帰名した。
 足の筋肉痛の故障で下山したYさんは元々体力のない人だった。それでも唐松岳には登頂できたのだ。最近見た映画「ロング・トレイル」の印象的なセリフを思い出す。アパラチアントレイルを途中で目的を果たせずリタイアしても「人生はベストを尽くせばそれでいい」と言った。中ア・宝剣沢、黒部源流縦走などの実績はあるが今回は体力の限界に達したようだった。登山はベストを尽くせば良いじゃないか。諦めることも人生のうちである。

映画鑑賞『ロング・トレイル』2016年08月01日

 7/31に名古屋・ミリオン座で『ロング・トレイル』を鑑賞する。

http://www.long-trail.com/

 まず主演のロバート・レッドフォードであるが、演技力は良いとしても当年80歳の高齢で、アクティブな役柄には合わないなと思った。相棒のニック・ノルティも75歳でしかもアル中の役柄である。
 観ている最中はちょっとした動作がコミカルで笑わせる。コメディらしい運びは堪能した。但し、「人生はベストを尽くせばそれでいい!」の最後のセリフは素晴らしいが、そこへ収斂させるには荒っぽいドラマ展開である。

 それもそのはずで原作者はビル・ブライソンといい、1951年生まれというから団塊の世代に近い。アパラチャアントレイルを40歳前後で踏破している。2000年に翻訳も中央公論新社から出版されたが今は絶版になっている。原作はアマゾンで今でも取り寄せできる。

 原作のあらすじは日本語のコメントからコピペすると
「アメリカ東側に位置する3000kmは超えると言われるAppalachian trailを、60代の男二人がえっちらおっちら歩いていく話である。一人はBill Bryson、作者そのものの名前ですが、どちらかと言うとちょっとアタマのいい平均的なアメリカ人像。一方昔の同級生であるStephan Katzはどちらかというと、ちょっと足りない感じで、いろいろと騒動も起こす。ツッコミとボケの関係で、旅は続いていく。
 アメリカの大自然を描写する作風が主体であり、それに名所名所の歴史話が散りばめられる。また旅行記だけでなく、環境破壊、アメリカの動植物の変動、低体温の危険性、クマに遭遇したら・・・等々、おかたい話も挿入されている。
 AT周辺の聞いたこともないような地名がたくさん出てくるが、それをGoogle 画像でチェックしていくと、けっこう楽しい。すごいきれいな景色に出会えたり、こんなところなんだというのが実感として理解できます。
 今回初めてBill Bryasonの作品を手にしたが、ソフトな文体で、笑いやユーモアの記載も富んでいる。新宿紀伊国屋の洋書コーナーでpushするように置かれていたが、確かにimpressiveで良い本であったと思う。」

 翻訳本のコメントをコピペすると
 「ブライソンは自然歩道で何度も遭難しそうになりました。
文字が細かい上に分厚い本なので、初めは私も「読書の途中で遭難するのでは?」と思ったのですが、意外にも最後まで遭難すること無く、楽しく読むことができました。自然歩道を悪戦苦闘しながら行くブライソンとカッツの漫才のような会話は、とても楽しいものです。また、適当な間隔で、アメリカで進行する自然破壊、ハイカーが遭遇した事故や事件の状況などがデータと共に示され、「あなたは、どう思いますか?」という問いかけが行われるので、文明社会のあり方についても考えさせられます。笑いだけで終わらないところが、本書の良さだと思います。
ブライソンには、「こんな人が学校の先生だったら良いのに」と思わせるところが沢山あります。コメディアンとなっても十分成功したかもしれませんが、教師となっても大きな成功をおさめたのではないかと思います。単に批判するだけに終らないブライソンの文明観には素晴らしいものだと思います。また、成功した作家でありながら、一般庶民に近い経済感覚を失わない点も素敵です。食糧や装備補充のために立ち寄った店、食事をした店、宿泊した店、お金を払った全ての店に対して、著者は値段とサービスを検証し、「高い」「安い」で一喜一憂するのです。私も彼と一緒にアパラチア自然歩道を歩いているような気分になりました。とても楽しい本でした。」

 通りででねえ。つまり軽いアメリカンコメディとして見るなら損はない。上映中も笑いをかみ殺せなかった。観客も声を出して笑っていた。
 映画と原作の違いは上記によれば大自然の描写、歴史話、環境破壊などが割愛されていることだろう。たしか、お堅いセリフもあるにはあったが、コメディの中に吹き飛ばされてしまった。印象に残るセリフを思い出せない。
 トレッキングはクライミングと違って登頂の喜びはない。コースを歩き通す達成感にある。それを中途でリタイアしても「ベストを尽くせばそれでいい」と諦める。人生になぞらえているのだろう。ロングトレイルに挑戦する体力と気力、ヒマとカネがあるだけでも優に贅沢なこと。
 さて私はこの週末に五龍岳から唐松岳のショートトレイルに挑戦、月末には北アルプスの大キレット踏破に挑戦の予定。
 次は竹屋谷の沢登りに挑戦する。7/30に下見に行きましたが、伐採中だった場所も緑が茂り、大平林道は全線舗装、Pと遊歩道まで整備されていてビックリした。大栃のある竹屋谷を垣間見るとやっぱり素晴らしい渓谷でした。

志賀重昂ノート2016年07月26日

ウィキペディアから
文久3(1863)年12月25日 岡崎市康生町に誕生

明治元(1868)年 6歳の時、父・重職死去。
父は岡崎藩の儒学者で佐幕派。没後は家禄は没収される。母・淑子の実家の松下家で育つ。
・父は明治維新で失業した上に死去。
・志賀重昂は逆境に育つ環境にあった。
・後々に上司とトラブルを起こすこと度々は反骨精神もこ時期のものか。

父重職(しげつね)が明治元年、京都の藩邸で病死しました。志賀 5歳です。跡継が 15歳未満のため家禄没収となり、母の手で生計を立てる貧しいもので、父の門人の援助で志賀は学校へ行けたのです。

明治7年(1874年)11歳より攻玉社で英学・数学・漢学を修めて同11年(1878年)に退学。
・漢詩文の素養はこの時期の学習による。

明治11年 大学予備門(東大の前身)に進み、約2年間学ぶ。

明治13年(1880年)、札幌農学校に転じた。理由は家禄没収による経済難からか。札幌農学校は学費が安いことも理由。
「少年よ大志を抱け」で有名なクラークは去ったあとでしたが、札幌農学校を卒業しました。官立の大学です。一高にあたります東大予備門に入学しましたが、東京大学へは進まず、札幌農学校へ進学したのです。その当時には東京大学と札幌農学校しか大学はなかったのですが、授業料も寮費も国庫で給付してくれる制度があったので札幌農学校へ進んだのです。心のどこかに薩長藩閥の中央官庁での立身出世はできなかろうと思っていたかも知れません。
・反骨精神を養った。

明治17年(1884年)、17歳で札幌農学校を卒業
県立長野中学では植物科を担当し、長野県中学校教諭も務め、また長野県師範学校講師として地理科を教えた。だが、酒席での県令・木梨精一郎とのトラブルで翌年辞職し、上京して丸善に勤めた。郷土の先輩、父の門人の小柳津要人(おやいずかなめ)が丸善書店の支配人になっており、小柳津さんを頼って東京へ行きました。
丸善では和英辞書の出版を企画していましたので、英語のできる志賀は辞書の校正係になりました。

同年末、海軍兵学校の練習艦「筑波」に便乗してイギリスの巨文島占領の状況を探り、領土問題で緊張していた対馬周辺を視察した。

明治19年(1886年)、23歳で再び筑波に便乗して南太平洋の諸島(カロリン諸島、オーストラリア、ニュージーランド、フィジー、サモア、ハワイ諸島)を10ヶ月にわたって巡り、

翌年に出版した『南洋時事』で、列強の植民地化競争の状況を報じて警世した。この著により、東京地学協会の終身名誉会員に推された。

明治21年(1888年)4月、同人らと政教社を組織し、編集人として、機関誌『日本人』を創刊

「三河男児歌」は明治 22年 10月 1日のみかは新聞に掲載されたのが初出です。そうすると志賀 26歳の作です。
「汝見ずや段戸の山は六千尺。
絶巓天に参はりて終古碧なり。
又見ずや矢矧の水は三十里。
急湍石を噬みて矢より疾し」
とあります。東公園の碑文はそうではないですね。「汝見ずや段戸の山は五千尺。雲巓天に参はりて終古碧なり」とあります。
推敲を重ねたものが碑に刻まれています。

明治27年(1894年)8月からの日清戦争。松野鉄千代と結婚。31歳で『日本風景論』を出版した。
・漢詩文で科学的な紹介文で書かれた。
・江山洵美是吾郷
わがふるさとの山や川は洵(まこと)に美しい。

明治30年(1897年)、34歳で農商務省山林局長に就いたが、内閣を批判して懲戒免官にされた。

明治37年 41歳で日露戦争を仁川、京城、旅順で約半年観戦した。主に第三軍司令部において、外交顧問や通訳などに従事し、軍司令官の乃木希典の知遇を受けた。松本君平の東京政治学校の講師を務めた。
・乃木大将の漢詩を見る。
中日新聞1992年5月19日朝刊 16面

「乃木大将直筆の漢詩見つかる  岡崎出身地理学者 故志賀重昂氏に添削依頼」
爾霊山とは、旅順戦の203高地である。
 この漢詩について「坂の上の雲」では、乃木から渡された漢詩を読み志賀重昂が「これは神韻だ」と感動したくだりがある。

  爾霊山嶮豈難攀

  男子功名期克艱

  鉄血覆山々形名

  万人斉仰爾霊山


明治43年(1910年)、47歳で巡洋戦艦「生駒」に便乗し、世界を巡った。

明治44年(1911年)、48歳で早稲田大学教授とな、その死まで在職した。日本山岳会の名誉会員に推された。

大正元年(1912年)に、カリフォルニア州とハワイ諸島へ、

日本ラインの名は、大正2年(1913年)、50歳の重昂の命名

同3年(1914年)に、ハワイ諸島・カナダ・ワシントンD.C.・キューバ、メキシコを巡り、

同4年(1915年)、満州・蒙古に講演旅行をした。

大正6年(1917年)、54歳で英国王立地学協会の名誉会員になった。

大正11年(1922年)、南部アフリカ・南アメリカを巡回した。

大正12年(1923年)、60歳でインド・中近東・ヨーロッパ・北米を巡り、中東の石油事情とアラブ - イスラエル問題とに注目した。

恵那峡の名は、大正12年(1923年)、重昂の命名

昭和2(1927)年4月6日 63歳で死去
以上は事実を列挙しただけです。
・幼少にして漢詩文の素養を養う。父が儒学者だったこともあるが6歳で死んでいるから影響は少なかっただろう。

・札幌農学校で英語力を養う。これはアメリカ人のネイティブスピーカーから学んだことが大きい。

・明治18年に福沢諭吉の脱亜論が発表される。

・23歳で欧米列強の植民地政策の現場をリアルに見聞して『南洋時事』を著した。このことで国粋主義になるが排外主義ではない。世界に伍して行くには日本がしっかりしないと植民地にされるという危機意識である。

・この考えが熟し、日清戦争と同時に『日本風景論』を出版。名声が高まった。今から見ると性急だが当時は風雲急を告げる感じだっただろう。

・日清戦争に勝利すると支那人の留学生が増加する。明治37(1904)年、魯迅が国費留学生として来日。

・言文一致の国語が普及すると同時に漢詩文の文語文が衰退。文語文の持つ扇動的な文脈も衰える。

・明治29年にW・ウェストンの『日本アルプスの登山と探検』がイギリスで出版される。

・前書きに「今日の日本において、世界はまのあたりに、国民的な威信をなおそこなわないで保ちながら西洋文明に同化適応する力を発揮している東方一国民の、類い稀な例証を見ることが出来る。その上、この注目すべき民族が、現在では予測できないほど将来豊かに発展することは、ほとんど疑問がない。この民族は、国民的な威信の向上のためには、恐らくどんな自己犠牲も払えるのである」とある。

・日本へは宣教師として来たが布教活動よりも登山に熱心だったようだ。それにこの前書きを読むと社会観察もしっかりしている。日清戦争を見聞している。英国人から見ても日本人には付け入る隙がないと見えたのだろう。

・明治37年日露戦争勃発。従軍記者として観戦する。この時も漢詩文の素養が生きて乃木将軍の漢詩を添削する機会に遭遇。

・明治38年日本山岳会が創立される。

・明治44年に名誉会員となる。

・結局、子供の時に養った基礎的な教養ー漢詩文と英語ーが一生を支配する典型的なケースであろう。
・世界を股に掛けた行動力、言葉による表現力、逆境で培った反骨精神旺盛な明治人の典型を見る。