岡崎城から大樹寺総門を経て松平往還を歩く(順路) ― 2026年04月29日
3/15は松平郷から大樹寺へ歩いた。廃道あり、消失あり、障害物ありの中々に手強い山岳古道であった。今回はその反省を元に順路を歩いて見た。
名古屋の自宅の最寄り駅は6時3分の始発に乗車、豊田市駅は定刻通りに着く。下車してペデストリアンデッキを急ぐと新豊田駅には6時37分発の電車に余裕で乗れる。中岡崎駅7時3分に到着。名古屋からは丁度1時間の車窓の旅だった。東側に席をとり、車窓から愛知高原の山々に見入る。天気は高曇りでぱっとしないが焙烙山と六所山の兄弟が並んでいる。
岡崎城信濃門跡から甲山に道草
岡崎城へはR248を通過して伊賀川を渡るとすぐに着く。乙川の流れに沿って県道39号線を左折。喫茶店に飛び込んでモーニングコーヒーとトーストを食べて出発。目指すは信濃門跡だがママさんは知らないそうだ。小ぶりの記念碑はすぐに見つかった。ここをヤマップの出発地にした。
前回はピークを一つも踏まなかったので今回は岡崎市内にポツンと隆起する甲山64.7mの2等三角点に道草した。但しヤマップは山と認めていないようだ。一座は一座なんだが。
大樹寺総門へ
下山後はまた39号線に戻る。目指したのは大樹寺総門である。AIは「総門(そうもん)は、寺院や邸宅の敷地外郭に位置する「第一の正門」や「表門」を指し、格式の高さを示す場所」と回答。前回は山門はチエックしたのになぜ総門があるのか、気になった。
別の回答は「総門と山門の主な違いは、寺院内での位置と役割(格式)です。総門(そうもん): 寺院の境内の一番外側にある正門。俗世と寺域の境界を示す入り口。山門(さんもん): 総門の先、仏殿の手前にある、寺を代表する格式高い門。修行の場へ入る心の準備を示す。一般的に、総門から入って山門へと進む構成になっており、山門の方が格式が上であることが多いです。」大樹寺小学校のグランドと校舎を隔てて山門が見えている。
ビスタラインを確認
南へは岡崎城の天守閣が見えるように障害物がない。ビスタラインという。「徳川三代将軍家光が、寛永18年(1641)、家康の十七回忌を機に、徳川家の祖先である松平家の菩提寺である大樹寺の伽藍の大造営を行う際に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、本堂から三門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城が望めるように伽藍を配置したことに由来」。「歴代の岡崎城主は、天守閣から毎日ここに向かって拝礼した」そうだ。
ちょっと詳しくなった。矢作川流域は下流が沃野なので18松平家が遍在している。幸田町の深溝松平家は今も研究されている。松平家の歴史は岡崎市を中心に西三河の文化の底荷になっているのだ。
松平往還の順路を往く
さて、総門を拝見後は前回のルートを反対に歩く。磯谷栄一『消えゆく松平往還を歩く』の案内を具にチエックしたが取りこぼしがあった。大沼街道(県道335号線)は立派な県道で交通量が多い。脇道に留意をしたがうっかり通り過ぎた箇所もある。東名高速の下は北に反れる旧道を歩けた。石仏が二ヶ所あった。滝団地の北の旧道は今回も見逃した。交差点を過ぎてすぐ左下に灯籠があったのでチエックすると石仏もあって旧道を確認。南北の新道で道路の落差2mほどが埋まっているのである。青木川の橋を渡るとすぐ朱塗りの瀧山寺三門が建つ。瀧山東照宮を経てすぐ「N'ma cafe」というお洒落な喫茶店でアイスコーヒーを飲んだ。すぐ先に三界の滝があった。県道は477号線になって米河内町に着いた。
前回は忠魂碑があるところを旧道としていた。案内書でチエックすると実は松平往還は八幡宮を経由する。一歩手前で左折するようだ。今回は何となくヤゲ川沿いに歩けたがもっと北西から大きく迂回する旧道がある。後日クルマで再度行ってみたい。
山里を離れるとヤゲ川左林道、右は松平往還になり直進。ヤゲ川は小さな沢で余り清流でもない。セメント舗装だが荒れている。標高180mの小さな峠を越える。左に射撃場のゲート、右は幸果園の果樹園が広がり新東名が見える。幸果園の入り口手前にも石仏がある。すぐ新東名をくぐる。二岐は左折、松平往還の案内板がある。鉄塔が建っているところから地道と舗装路の二岐は右の地道を下ると舗装路と出合う。安戸町への車道は左折、すぐ二岐は右へ、民家の手前に句碑があるので右の地道を辿ると小さな峠を越えて本光寺の右の小径を下る。すると県道339号線(真福寺道)に出合う。ここが駒立町だ。大堰堤が見えるので直進して見ると金属の獣害除けのフェンスが見えて断念。案内書では✖になっている。
渡通津町への山越え
やむなく車道を経てマルタ園への道標がある道に入る。山側の田圃では代掻きが終わって苗を植えたばかりだった。6月ころには青田になっているだろう。マルタ園も果樹園である。観光バス用のPもあって団体客を集めている。延々硬い舗装路を歩いてきたが地形図で241ポイント辺りから右に松平往還が現れる。ここからはしばらくは土の道の上を歩ける。一旦は途切れて林道に出るが右に別れていく。車道は左に並行している。中間に細道があるので入る。すると右から来る道に出合う。松平往還は林道で削られたようだ。
しばらくは快適に歩ける。石の道標がある。下に車道が見える。そのまま山路を進んで下ると左へ曲がって車道に下る。渡津通町の山里が俯瞰できる。そのまま下って行くと十字路に着く。ここにも松平往還の説明板がある。また覚書みたいな帳面がビニールに包まれてあった。車道を北上すると廃屋、廃車が見えて寂れていく雰囲気がある。まもなくお堂があり、右の山路に誘導する道標がある。指示通り山路を登ってゆく。やや急だがすぐに平坦になる。やがて渡通津町と日影町の境の峠に着く。ここにも案内板がある。右へ行く踏み跡は鉄塔巡視路だ。301mの三角点日影に行ける。
日影町へは法面が狭い山路を慎重に行く。この先はカーブしながら下る。良い感じの自然の中にある。そして問題の県道への下り方が険しい所に来た。注意していると右に鉄塔巡視路の道標が二手に分かれている。これがポイントになる。念のために約数mも下ってみたが県道の拡幅工事で削られた斜面に出る。ここは雨で浸食されないために左下にセメントの溝が掘ってある。一段右下にもセメントの溝が見える。そこへ薄い踏み跡も続いて強引に下れないこともなさそうだ。しかし、さきほどの巡視路の道標迄戻って踏み跡を辿る。前はここを登ったから分かっている。谷まで下ると左折。右は谷間の廃田である。左は竹藪が枯れて鬱陶しい。ピンテープも二つあった。車道が近くなると先ほどのセメントの溝を跨ぐ。溝は落ち葉が詰まっている。そして県道へ下れる。日影町の山里を右に広い県道を歩くと最初の細い橋が見えたら渡る。旧道は山寄りに残っている。
豊田市瀧脇町へ
郡界川を渡ると豊田市瀧脇町になる。急な坂道を登り、専光寺の左側の道を行く。左へ反れていくと瀧脇陣屋跡の案内板がある。そのまま車道を直進すると行き止まりだが。民家との間に2m幅の山路が見えるので車道から離れる。これは地形図にも実線で表現されている。前回は降り口が分からず見逃した。県道338号線に合流。上に瀧脇小学校があるせいか、車道と歩道が分離されている。もちろん歩道を登り小学校のある峠を越える。ここに寅の径の道標がある。
石御堂へ
緩やかな坂を下って行くと石御堂のモニュメントが建っている。ググって見ると「加茂一揆(かもいっき)は,1836年(天保7)9月,九久平村(くぎゅうだいら:現豊田市)周辺の農民たちの動きを発端として,全松平地域と下山村南西部,足助町全域を巻き込み,さらに挙母(ころも)城下に押し出し,農民1万人以上が加わった三河地方最大の農民闘争であり,江戸幕府の天保の改革(1841年)の原因にもなった一揆である。
一揆の直接の原因は,「天保の大飢饉(だいききん)」による農民生活の極度の困窮であった。人望があった松平辰蔵(まつだいら たつぞう)は,この一揆の頭取としてかつがれた。辰蔵は強訴(ごうそ)により要求を通そうとして,酒屋・役人との交渉に臨んだ。しかし,足助(あすけ)の農民が加入したころから統制が乱れ,辰蔵の家が打ちこわしに遇う。
頭取を失った一揆は,打ちこわし本位の世直し一揆へ変化する。5日間にわたる一揆は247町村,13,000人の参加者をみたが,岡崎藩・吉田藩の加勢で鎮圧された。」(豊田市教育委員会 )
4/18の大給城址から岩谷山へ登った後、松平辰蔵の墓にも参拝してきました。質素な墓でした。世直しといえば31年後の1867年に「東海地方(三河・遠江・尾張)に発した「ええじゃないか」の乱舞が各地に広がる」とある。
七売(なのうり)の小村も今回は旧道へ回った。そして神明神社への階段を登って「寅の径」の道標を見て山路を歩いた。竹藪が枯れて乱れていたが尾根に登るとなんとか歩ける。尾根伝いに歩いて行くと目印で左折、踏み跡ははっきりしないが林道に降り立つ。大橋家一軒だけの下高ノ山の地名がある山里へ出た。右へ、そして左へ山際の踏み跡を辿ると湿地帯か廃田か。車道に出ると廃屋が一軒ある。クルマも置かれたままだが。右折すると大橋家に突き当たる。
松平郷への山路(寅の径)を問う
道標など無いので大橋家の玄関のボタンを押して路を聞いた。父子が応対して下さった。3/15にも七売への路を尋ねた。寅の径は息子さんが小学校へ通う道だったよ、と言うので驚いた。その息子さんが向かって右のヤブの中の踏み跡へ案内してくれた。きっかけを知れば後は大丈夫だ。謝礼を述べて別れた。枯れた竹の倒木が絡んで膝をついてくぐって踏み跡を辿る。昔は家があったのだろうか、お茶碗など家財が散乱した所があった。すぐ鞍部だった。下ると舗装路に降りた。後は水田の苗を植える仕事で忙しい農家の人を見ながら歩く。すべて鉄のフェンスが囲っている。本来の松平往還は三差路で右折、奥の水田記号の所からR301の旧道に上がって松平郷に行けたが鉄のフェンスで遮断されて、案内書でも✖になっている。前回はここで1時間のロスタイムがあった。
今回は農道からR301に出て松平郷へ歩いた。一休み後、高月院へと重い足を引きづった。家康お手植えと言う枝垂れ桜が今は新緑の噴水みたいにになっている。親氏の墓前にもお参りして下山。時に16時、松平郷のバス停へ歩いた。
16時50分発のおいでんバスを待った。
春更けておいでんバスを待つ独り 拙作
名古屋の自宅の最寄り駅は6時3分の始発に乗車、豊田市駅は定刻通りに着く。下車してペデストリアンデッキを急ぐと新豊田駅には6時37分発の電車に余裕で乗れる。中岡崎駅7時3分に到着。名古屋からは丁度1時間の車窓の旅だった。東側に席をとり、車窓から愛知高原の山々に見入る。天気は高曇りでぱっとしないが焙烙山と六所山の兄弟が並んでいる。
岡崎城信濃門跡から甲山に道草
岡崎城へはR248を通過して伊賀川を渡るとすぐに着く。乙川の流れに沿って県道39号線を左折。喫茶店に飛び込んでモーニングコーヒーとトーストを食べて出発。目指すは信濃門跡だがママさんは知らないそうだ。小ぶりの記念碑はすぐに見つかった。ここをヤマップの出発地にした。
前回はピークを一つも踏まなかったので今回は岡崎市内にポツンと隆起する甲山64.7mの2等三角点に道草した。但しヤマップは山と認めていないようだ。一座は一座なんだが。
大樹寺総門へ
下山後はまた39号線に戻る。目指したのは大樹寺総門である。AIは「総門(そうもん)は、寺院や邸宅の敷地外郭に位置する「第一の正門」や「表門」を指し、格式の高さを示す場所」と回答。前回は山門はチエックしたのになぜ総門があるのか、気になった。
別の回答は「総門と山門の主な違いは、寺院内での位置と役割(格式)です。総門(そうもん): 寺院の境内の一番外側にある正門。俗世と寺域の境界を示す入り口。山門(さんもん): 総門の先、仏殿の手前にある、寺を代表する格式高い門。修行の場へ入る心の準備を示す。一般的に、総門から入って山門へと進む構成になっており、山門の方が格式が上であることが多いです。」大樹寺小学校のグランドと校舎を隔てて山門が見えている。
ビスタラインを確認
南へは岡崎城の天守閣が見えるように障害物がない。ビスタラインという。「徳川三代将軍家光が、寛永18年(1641)、家康の十七回忌を機に、徳川家の祖先である松平家の菩提寺である大樹寺の伽藍の大造営を行う際に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため、本堂から三門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城が望めるように伽藍を配置したことに由来」。「歴代の岡崎城主は、天守閣から毎日ここに向かって拝礼した」そうだ。
ちょっと詳しくなった。矢作川流域は下流が沃野なので18松平家が遍在している。幸田町の深溝松平家は今も研究されている。松平家の歴史は岡崎市を中心に西三河の文化の底荷になっているのだ。
松平往還の順路を往く
さて、総門を拝見後は前回のルートを反対に歩く。磯谷栄一『消えゆく松平往還を歩く』の案内を具にチエックしたが取りこぼしがあった。大沼街道(県道335号線)は立派な県道で交通量が多い。脇道に留意をしたがうっかり通り過ぎた箇所もある。東名高速の下は北に反れる旧道を歩けた。石仏が二ヶ所あった。滝団地の北の旧道は今回も見逃した。交差点を過ぎてすぐ左下に灯籠があったのでチエックすると石仏もあって旧道を確認。南北の新道で道路の落差2mほどが埋まっているのである。青木川の橋を渡るとすぐ朱塗りの瀧山寺三門が建つ。瀧山東照宮を経てすぐ「N'ma cafe」というお洒落な喫茶店でアイスコーヒーを飲んだ。すぐ先に三界の滝があった。県道は477号線になって米河内町に着いた。
前回は忠魂碑があるところを旧道としていた。案内書でチエックすると実は松平往還は八幡宮を経由する。一歩手前で左折するようだ。今回は何となくヤゲ川沿いに歩けたがもっと北西から大きく迂回する旧道がある。後日クルマで再度行ってみたい。
山里を離れるとヤゲ川左林道、右は松平往還になり直進。ヤゲ川は小さな沢で余り清流でもない。セメント舗装だが荒れている。標高180mの小さな峠を越える。左に射撃場のゲート、右は幸果園の果樹園が広がり新東名が見える。幸果園の入り口手前にも石仏がある。すぐ新東名をくぐる。二岐は左折、松平往還の案内板がある。鉄塔が建っているところから地道と舗装路の二岐は右の地道を下ると舗装路と出合う。安戸町への車道は左折、すぐ二岐は右へ、民家の手前に句碑があるので右の地道を辿ると小さな峠を越えて本光寺の右の小径を下る。すると県道339号線(真福寺道)に出合う。ここが駒立町だ。大堰堤が見えるので直進して見ると金属の獣害除けのフェンスが見えて断念。案内書では✖になっている。
渡通津町への山越え
やむなく車道を経てマルタ園への道標がある道に入る。山側の田圃では代掻きが終わって苗を植えたばかりだった。6月ころには青田になっているだろう。マルタ園も果樹園である。観光バス用のPもあって団体客を集めている。延々硬い舗装路を歩いてきたが地形図で241ポイント辺りから右に松平往還が現れる。ここからはしばらくは土の道の上を歩ける。一旦は途切れて林道に出るが右に別れていく。車道は左に並行している。中間に細道があるので入る。すると右から来る道に出合う。松平往還は林道で削られたようだ。
しばらくは快適に歩ける。石の道標がある。下に車道が見える。そのまま山路を進んで下ると左へ曲がって車道に下る。渡津通町の山里が俯瞰できる。そのまま下って行くと十字路に着く。ここにも松平往還の説明板がある。また覚書みたいな帳面がビニールに包まれてあった。車道を北上すると廃屋、廃車が見えて寂れていく雰囲気がある。まもなくお堂があり、右の山路に誘導する道標がある。指示通り山路を登ってゆく。やや急だがすぐに平坦になる。やがて渡通津町と日影町の境の峠に着く。ここにも案内板がある。右へ行く踏み跡は鉄塔巡視路だ。301mの三角点日影に行ける。
日影町へは法面が狭い山路を慎重に行く。この先はカーブしながら下る。良い感じの自然の中にある。そして問題の県道への下り方が険しい所に来た。注意していると右に鉄塔巡視路の道標が二手に分かれている。これがポイントになる。念のために約数mも下ってみたが県道の拡幅工事で削られた斜面に出る。ここは雨で浸食されないために左下にセメントの溝が掘ってある。一段右下にもセメントの溝が見える。そこへ薄い踏み跡も続いて強引に下れないこともなさそうだ。しかし、さきほどの巡視路の道標迄戻って踏み跡を辿る。前はここを登ったから分かっている。谷まで下ると左折。右は谷間の廃田である。左は竹藪が枯れて鬱陶しい。ピンテープも二つあった。車道が近くなると先ほどのセメントの溝を跨ぐ。溝は落ち葉が詰まっている。そして県道へ下れる。日影町の山里を右に広い県道を歩くと最初の細い橋が見えたら渡る。旧道は山寄りに残っている。
豊田市瀧脇町へ
郡界川を渡ると豊田市瀧脇町になる。急な坂道を登り、専光寺の左側の道を行く。左へ反れていくと瀧脇陣屋跡の案内板がある。そのまま車道を直進すると行き止まりだが。民家との間に2m幅の山路が見えるので車道から離れる。これは地形図にも実線で表現されている。前回は降り口が分からず見逃した。県道338号線に合流。上に瀧脇小学校があるせいか、車道と歩道が分離されている。もちろん歩道を登り小学校のある峠を越える。ここに寅の径の道標がある。
石御堂へ
緩やかな坂を下って行くと石御堂のモニュメントが建っている。ググって見ると「加茂一揆(かもいっき)は,1836年(天保7)9月,九久平村(くぎゅうだいら:現豊田市)周辺の農民たちの動きを発端として,全松平地域と下山村南西部,足助町全域を巻き込み,さらに挙母(ころも)城下に押し出し,農民1万人以上が加わった三河地方最大の農民闘争であり,江戸幕府の天保の改革(1841年)の原因にもなった一揆である。
一揆の直接の原因は,「天保の大飢饉(だいききん)」による農民生活の極度の困窮であった。人望があった松平辰蔵(まつだいら たつぞう)は,この一揆の頭取としてかつがれた。辰蔵は強訴(ごうそ)により要求を通そうとして,酒屋・役人との交渉に臨んだ。しかし,足助(あすけ)の農民が加入したころから統制が乱れ,辰蔵の家が打ちこわしに遇う。
頭取を失った一揆は,打ちこわし本位の世直し一揆へ変化する。5日間にわたる一揆は247町村,13,000人の参加者をみたが,岡崎藩・吉田藩の加勢で鎮圧された。」(豊田市教育委員会 )
4/18の大給城址から岩谷山へ登った後、松平辰蔵の墓にも参拝してきました。質素な墓でした。世直しといえば31年後の1867年に「東海地方(三河・遠江・尾張)に発した「ええじゃないか」の乱舞が各地に広がる」とある。
七売(なのうり)の小村も今回は旧道へ回った。そして神明神社への階段を登って「寅の径」の道標を見て山路を歩いた。竹藪が枯れて乱れていたが尾根に登るとなんとか歩ける。尾根伝いに歩いて行くと目印で左折、踏み跡ははっきりしないが林道に降り立つ。大橋家一軒だけの下高ノ山の地名がある山里へ出た。右へ、そして左へ山際の踏み跡を辿ると湿地帯か廃田か。車道に出ると廃屋が一軒ある。クルマも置かれたままだが。右折すると大橋家に突き当たる。
松平郷への山路(寅の径)を問う
道標など無いので大橋家の玄関のボタンを押して路を聞いた。父子が応対して下さった。3/15にも七売への路を尋ねた。寅の径は息子さんが小学校へ通う道だったよ、と言うので驚いた。その息子さんが向かって右のヤブの中の踏み跡へ案内してくれた。きっかけを知れば後は大丈夫だ。謝礼を述べて別れた。枯れた竹の倒木が絡んで膝をついてくぐって踏み跡を辿る。昔は家があったのだろうか、お茶碗など家財が散乱した所があった。すぐ鞍部だった。下ると舗装路に降りた。後は水田の苗を植える仕事で忙しい農家の人を見ながら歩く。すべて鉄のフェンスが囲っている。本来の松平往還は三差路で右折、奥の水田記号の所からR301の旧道に上がって松平郷に行けたが鉄のフェンスで遮断されて、案内書でも✖になっている。前回はここで1時間のロスタイムがあった。
今回は農道からR301に出て松平郷へ歩いた。一休み後、高月院へと重い足を引きづった。家康お手植えと言う枝垂れ桜が今は新緑の噴水みたいにになっている。親氏の墓前にもお参りして下山。時に16時、松平郷のバス停へ歩いた。
16時50分発のおいでんバスを待った。
春更けておいでんバスを待つ独り 拙作
管理組合理事会 ― 2026年04月28日
管理組合の理事会としては最終回になる。まずは理事長など各階から一人の理事を自動的に選任。その中から理事長を選任する必要がある。候補者には集会室へ来てもらったが出席率も悪く、高齢者が多く決められなかった。後日、管理会社と理事長で決めますからと帰っていただいた。
その後理事会の報告に入る。直接の工事会社から2名が来ていて説明にあたった。排水管の立管の腐食から漏水事故になっていた一戸の工事が完成したことの報告だった。たったあれだけのことだが大変な労力を要したものである。
続いて各部屋も同じような事情だろうと全戸の工事になる場合の見積もり書も提示された。やはり一億円を越える。これは総会に諮ることになる。
その他、計数的な報告と説明が行われた。
その後理事会の報告に入る。直接の工事会社から2名が来ていて説明にあたった。排水管の立管の腐食から漏水事故になっていた一戸の工事が完成したことの報告だった。たったあれだけのことだが大変な労力を要したものである。
続いて各部屋も同じような事情だろうと全戸の工事になる場合の見積もり書も提示された。やはり一億円を越える。これは総会に諮ることになる。
その他、計数的な報告と説明が行われた。
雑誌・会報届く ― 2026年04月27日
2つの山岳会の会報や機関誌や俳句結社からどさっと雑誌が届いた。東京に本部のある山岳会は電子化へ誘導することが多くなった。郵送費が馬鹿にならないくらいに高騰したからだろう。しかし、紙に執着があるからなあ。
あたりネギを作る ― 2026年04月26日
5年前だった。チャイナウイルスの蔓延で行動が制限された。そこで街歩きでお茶を濁した。途中で喫茶店に入るとあの頃は体温計が入り口にあって低体温であると知った時は驚いた。以来、体内から代謝を促すために生姜、ニンニクを使う料理を自炊に取り入れた。
体温は一時35.8℃まで下がって免疫力の低下を恐れたが36.5℃の平熱に戻ってホッとした。高齢で代謝が減ったこともある。運動と栄養に知恵と工夫が大切だと思う。
ネギは嫌いで納豆に添えるものくらいしか口にしたことはない。しかし健康を考えると何とか工夫して食生活に取り入れたい。
今夜はあたりネギを作ってみた。青物の魚(いわし、さば、アジ等)の刺身に添える薬味である。東京の小笹寿司が開発して寿司屋に広がったらしい。
材料のあさつきは売っていないかったので九条ネギの青い部分を切り取って擂鉢で摺った。そこへ生姜のすりおろしを混ぜて擂るとねっとりしたペースト状の練り餌みたいな薬味が出来る。これを買って来たアジの刺身に添えて食べてみた。ネギ特有の匂いとショウガで相殺されてむっとくる嘔吐感はなかった。
薬味とは特別美味いものではない。しかし傷みやすい青魚の臭みに対抗している感じだ。腐りかかった肉にスパイスを使うのと同じだ。
体温は一時35.8℃まで下がって免疫力の低下を恐れたが36.5℃の平熱に戻ってホッとした。高齢で代謝が減ったこともある。運動と栄養に知恵と工夫が大切だと思う。
ネギは嫌いで納豆に添えるものくらいしか口にしたことはない。しかし健康を考えると何とか工夫して食生活に取り入れたい。
今夜はあたりネギを作ってみた。青物の魚(いわし、さば、アジ等)の刺身に添える薬味である。東京の小笹寿司が開発して寿司屋に広がったらしい。
材料のあさつきは売っていないかったので九条ネギの青い部分を切り取って擂鉢で摺った。そこへ生姜のすりおろしを混ぜて擂るとねっとりしたペースト状の練り餌みたいな薬味が出来る。これを買って来たアジの刺身に添えて食べてみた。ネギ特有の匂いとショウガで相殺されてむっとくる嘔吐感はなかった。
薬味とは特別美味いものではない。しかし傷みやすい青魚の臭みに対抗している感じだ。腐りかかった肉にスパイスを使うのと同じだ。
天ぷらを自製 ― 2026年04月25日
スーパーにアジやイワシの開きが売っていた。ふといわしの天ぷらを揚げて見たくなった。いわしの天ぷらはスーパーでもあまり見たことがない。ほとんどは海老、アジフライや野菜が多い。
新しいてんぷら粉といわしの開き数枚を混ぜて鍋で揚げた。他に人参、ジャガイモ、ピーマン等も揚げた。次は玉ねぎ、人参などを絡めた天ぷらにも挑戦したい。
新しいてんぷら粉といわしの開き数枚を混ぜて鍋で揚げた。他に人参、ジャガイモ、ピーマン等も揚げた。次は玉ねぎ、人参などを絡めた天ぷらにも挑戦したい。
盛本昌広『家康家臣の戦と日常』を買う ― 2026年04月24日
4/18の三遠研の講演会で知った深溝松平の話から18松平家に関心を持った。岡崎城は家康が江戸へ行ってしまうと家臣が守った。すると松平往還は廃道になるかに思った。この講演会で松平信光の子は48人もいてその子孫が三河南部へと進出して行ったのである。
三河湾に到達してもうこれ以上はないという所迄出て行った。その後は全国規模で各地の松平に散在している。多数の子孫がいたということは折に触れて歩かれたであろう。松平往還の案内書にはそんな話は載っていないが誰かが書いている気がする。
三河湾に到達してもうこれ以上はないという所迄出て行った。その後は全国規模で各地の松平に散在している。多数の子孫がいたということは折に触れて歩かれたであろう。松平往還の案内書にはそんな話は載っていないが誰かが書いている気がする。
落とし物デー ― 2026年04月23日
昨日は所用を済ませて事務所に戻った後、栄で遅めの昼食をとりにセントラルパークへ行った。
日本経済が下り坂だからというわけではないがうつむき加減に歩いていたら、食堂が並ぶ地下街で今日は財布を拾った。B2の地下駐車場からEVで昇ってきてB1の食堂街との出合いだった。
財布を開けて電話番号が分かるモノがないか見たらカネはわずかだが免許証等貴重品が入っていた。しかも県外の女姓だった。落としたことに気がついたらすぐ交番にその旨問い合わせるだろうとわざわざ中区役所前の南久屋交番まで行って届けて一安心した。お巡りさんがあなたには200円もらう権利があります。本人が取りに来るまで待機してくれ、というのだ。一応名前と電話番号は届出人として記名したが謝礼は要らないとと断って交番を出た。
昨日は事務所のエレベーター内で床に一円玉を見た。同乗の女姓が降りる寸前にポケットから何か出した際に落ちたと見てお宅のじゃないの、と言うと嬉しそうに笑って拾って降りて行った。一円を笑う者は一円に泣く。
日本経済が下り坂だからというわけではないがうつむき加減に歩いていたら、食堂が並ぶ地下街で今日は財布を拾った。B2の地下駐車場からEVで昇ってきてB1の食堂街との出合いだった。
財布を開けて電話番号が分かるモノがないか見たらカネはわずかだが免許証等貴重品が入っていた。しかも県外の女姓だった。落としたことに気がついたらすぐ交番にその旨問い合わせるだろうとわざわざ中区役所前の南久屋交番まで行って届けて一安心した。お巡りさんがあなたには200円もらう権利があります。本人が取りに来るまで待機してくれ、というのだ。一応名前と電話番号は届出人として記名したが謝礼は要らないとと断って交番を出た。
昨日は事務所のエレベーター内で床に一円玉を見た。同乗の女姓が降りる寸前にポケットから何か出した際に落ちたと見てお宅のじゃないの、と言うと嬉しそうに笑って拾って降りて行った。一円を笑う者は一円に泣く。
名古屋法務局春日井支局へ行く ― 2026年04月22日
昨年5月以来だから1年ぶりに相続の仕事が来た。取り急ぎ、すでに取得した戸籍謄本と昨日取得した自分の職印証明書等を添えて、法定相続情報一覧図作成のことで名古屋法務局春日井支局に申出の手続きで来た。受理だけで書類のチェックはなくすぐ終わった。事務所へ帰る。
天白小橋 ― 2026年04月21日
天白小橋の橋脚の強化工事は今日渡ったら工事現場は完成済。橋脚はもう水没していた。これで耐震性は増すだろう。上流からの水圧にも強くなった気がする。上流部分の現場への導入路も片付けられる最中だった。
三河国の東西の比較 ― 2026年04月20日
西三河 対 東三河
流域: 矢作川 豊川
乙川 大千勢川
巴川 (天竜川水系)
宗教: 浄土真宗 曹洞宗
道教(家康)
精神風土: 儒教
歴史的事件: 三河一向一揆 設楽原の戦い
加茂一揆 ええじゃないか
英雄: 徳川家康 無し
偉人: 岩瀬忠震
東照宮: 松平東照宮 鳳来山東照宮
滝山東照宮
名古屋東照宮
岡崎東照宮
法蔵寺山内 東照宮
三州大濱東照宮
流域: 矢作川 豊川
乙川 大千勢川
巴川 (天竜川水系)
宗教: 浄土真宗 曹洞宗
道教(家康)
精神風土: 儒教
歴史的事件: 三河一向一揆 設楽原の戦い
加茂一揆 ええじゃないか
英雄: 徳川家康 無し
偉人: 岩瀬忠震
東照宮: 松平東照宮 鳳来山東照宮
滝山東照宮
名古屋東照宮
岡崎東照宮
法蔵寺山内 東照宮
三州大濱東照宮
最近のコメント