「埋甕」を見に弥富市の愛知県埋蔵文化センターへ行く2017年10月18日

 午後3時ころ、期日前投票後、愛知県埋蔵文化センターへ行く。10/15にも山の帰りに寄ったが、土日は休日という。県の博物館にしては珍しい運営である。少し時間を作って出かけた。
 http://www.pref.aichi.jp/soshiki/maizobunkazai/0000032060.html

 10月7日(土曜日)から11月4日(土曜日)に同じ施設で愛知県埋蔵文化財センタ ー主催「秋の埋蔵文化財展」も行われていると、中生涯学習センターにあったパンフで知った。
 「埋蔵文化」のボキャブラリーにはどこか心に響くものがあった。それは恵那山の山名の由来を調査していて文献的に行き詰まり、考古学の本で「埋甕」(うめがめ)という言葉に出会ったからだった。
 それは木下忠『埋甕―古代の出産習俗 (考古学選書) 』である。
 この中に、胞を底のない壺に入れて埋めるのは古代から近代の習俗という知識を得た。徳川家康の胞塚も岡崎城の一角にあるそうだ。
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説で「えな」がヒットした。
「胞衣とも書く。後産 (あとざん。→胎盤 ) のこと。イヤ,イナなどともいう。以前はエナは土中に埋められたが,その埋め方が,生児の一生の安危にかかわるものと信じられ,また,埋め方が悪いと,生児が夜泣きするともいわれた。その埋め場所は,人に踏まれないところがよいというのと,その反対によく踏んでもらうところがよいという2通りの説がある。前者は大黒柱の下とか産室の床下,墓,便所のそば,厩 (うまや) のそばなど,後者は土間の上り台の下とか,敷居の下などが選ばれた。埋めた上を最初に通ったものを,生児が一生恐れるというので,父親が最初にまたぐという例がある。また他人に踏んでもらえば生児がまめに育つとか,産後の肥立ちがよいなどという。エナは,布やこも,油紙などに包んで埋めたが,壺や瓶に入れて埋める例もある。」
 展示品の「埋甕」は奥三河から産出された。用途は解説の通りであるが、埋文センターの解説者によればそうとは言い切れないと言われた。何分1000年以上の物質なので証拠物がないからだった。
 しかし、見学はしたもののここまでである。解説者の曰く、恵那山の話をしてみたらアマテラスは皇祖神だからあちこちの山に祀られるよ、とものの分かった人である。
 そういえば、先日の鎌ヶ岳の山頂にも「天照皇大神宮社」の小さな祠があった。果たして鎌ヶ岳は信仰の山だったのか。いや、後から勝手に鎮座したものだろう。もっと前、奥三河の須山御嶽山にも天照皇大神の石碑があった。言われる通りである。
 恵那山の恵那の地名は恵奈で10世紀以前からあるようだ。それが山頂に埋められた経緯が分からないから伝説なのである。
 元来はあの阿木村の血洗池辺りを胞山と言ったのではないか。根の上高原や保古山と向かい合う無名の山の三角点の点名には血洗とあったからだ。
 アマテラスは一地方の神だったのに皇祖神になる。時期は持統天皇の時代。その時代から伊勢神宮の20年に1回の遷宮も開始される。その度に桧の用材を大量に消費する。皇祖神に献上する(させる)ありがたみを出すためにアマテラスの胞山を今の恵那山に変えた。恵那山の北から流れる湯舟沢の国有林は桧の宝庫でかつては森林鉄道もあったほどの桧は無尽蔵であった。
 桧は木曽川に流し、筏を組んで伊勢湾を航行して伊勢に運ばれる。運搬はトラックや鉄道に変わったが、木曽桧は今も遷宮に使われる。今や誰も疑いもしない、恵那山という名称に巧みな伝説の謎を思う。一先ず、胞を家内の土中に埋める文化が確実にあったことの確認であった。

鈴鹿・藤内小屋の夜2017年10月15日

 14日は朝は曇り。桑名付近からの鈴鹿山脈は稜線付近に雲がかかっていました。R23で行ったため、渋滞にはまり、登山口は10時近くになった。三つ口谷コースは止めて武平峠往復に変更。約1時間の登りでした。頂上直下の登山道は稜線の崩壊が激しく、西側の尾根のう回路に付け替えられていました。それでも急でした。幸いに登頂時は360度展望が良く見えました。下山時には近江側からガスが流れ始め不安定でした。
 下山後は希望荘で一風呂浴びました。R477のPへ止めて藤内小屋へ歩き、35分で到着。豪雨による水害で氾濫した爪痕はそのままですが、少しは落ち着いてきたかに思います。散乱する巨大な花崗岩の間を流れる沢の水が透明できれいです。道中、ノコンギクやアケボノソウが路傍にさいて秋の風情を漂わせています。有志?が登山道の整備に汗をながしていました。小屋に近くなると急登になり、希望荘で流した汗もまたちょっと汗がでてしまいました。藤内小屋は初めて泊ります。部屋をあてがわれて、早速長袖の下着に着替えたり、軽い防寒着をはおったりして秋冷に備えました。
 小屋の前で時間を潰していると金丸氏がバリルートから突然現れました。山と渓谷社の『分県登山ガイド 三重県の山』の著者の金丸氏とは昨年、迷岳に登山した際にニアミスしていました。FBで同じ山に取材登山していたと知って、上梓後に交流を希望していました。また今年の4月からNHKの「ゆる山へGO」でも三重県を担当され、私は愛知県の担当と、何かと縁ができたわけです。それで14日に藤内小屋で交流の機会を得た次第です。金丸氏はクライマー系の登山家ですが、理科系の教員をしておられたので、植物に非常に明るいのです。
 同著者の内田氏も後からワインを持って駆け付けて来られました。現役の教員ですから土曜日も何かと指導教師の仕事があるようです。また取材を共にされた女性2名も後から別々に駈けつけられて本や山の話で盛り上がりました。夕飯から食後の懇談まで尽きることなく懇親の場を持つことができて楽しかったです。
 14日夜は小屋の窓から四日市の夜景も見えていました。15日は朝から降雨でしたが、出発するころにはあがっていました。登山口に着いて皆さんと別れ散会となりました。

富山県~呉西と呉東、山と道の文化2017年10月11日

 10月8日初めて富山県の牛岳に登った。
 以前から前田普羅の
  牛岳の雲吐きやまぬ月夜哉   普羅
の俳句で名前だけは知っていたからだ。句意は八尾辺りから眺めて次々と雲が湧き起こる、そしてふっと消えて行く牛岳の自然への感興を俳句に詠んだのであろう。
 登ってみて、スキー場開発で多くのブナは失われたにちがいない。それでも鍋谷のブナ林は二次林として再生している。それが水蒸気即ち霧そして雲の発生源にもなる。登った際も霧が流れては消えていった。
 当日は高曇りで富山平野全景を見はるかす訳にはいかなかったが、 山頂から麓の田園地帯を俯瞰して、位置的にこの山から呉羽丘陵を派生していると知った。
 富山市中心地に近い呉羽山は145m程度であるが1等三角点が置かれて東西南北に眺めがいい。そればかりか昔から呉西、呉東という聞きなれない言葉の意味も分かったのである。
 呉東は神通川と常願寺川の沖積平野として富山市を中心に立山町、黒部市、滑川市でまとまり、呉西は庄川、小矢部川の沖積平野が高岡市を中心に小矢部市、射水市、砺波市、南砺市、氷見市でまとまっている。
 それぞれが山と水の融合による社会を形成している。そして高岡市の方が産業、文化的にも古い伝統の街と知った。たしかに万葉集の編纂者の大伴家持の古さは尋常ではない。また伝統工芸が脈々と続いていて中小零細企業が集積している。一方で富山市は豊富な電源開発を背景にした近代企業が多く、工業地帯となっている。
 それぞれが補完しあって富山県を一つに結んでいる。
 10月9日は高落場山に登った。登山口は福光町に近い。富山市から山際の県道をなぞりながら地形を確かめるように走ってみた。R41から神通川を渡ると呉羽丘陵を越えて庄川に至る。そこがR156が貫通する砺波市だ。砺波平野から富山平野の広がりがある。庄川からは散居村を抜けて城端の街を抜けてR304に合流する。南砺市になる。
 高落場山の登山口の若杉集落跡も実は五箇山街道の要衝であった。それが時代によりR304にとってかわり、今は袴腰山の直下にトンネルを穿って東海北陸道が五箇山へ貫通している。
 だから城端は高岡市からは行き詰まりであり、文化の吹き溜まりのような街になる。R156を白川村から砺波市まで走ると五箇山からは急にさびれた気がするのは昔から高落場山の峠道をからんで城端に抜けていたからだった。現代は車に変わってもそのルートは大筋では変わらない。

富山県・高落場山に登る2017年10月09日

 富山市内のビジネスホテルの朝食は本当に美味い。とくにご飯が美味いため、朝食に時間がかかった。7時過ぎには出る予定が8時20分になったのは昨日の長旅の疲れもあった。
 R41を南行しながらGSを探すが昨日より10円ほどアップして安いところはなくなった。富山県の山際の県道を西へ走った。南砺市でR304に出会うまで道の田舎道を走った。
 R304からは縄ヶ池に向う林道に左折。高落場山へは若杉集落跡が登山口である。かつては五箇山街道の宿場の里として栄えたというが御影石の記念碑以外は何もない。
 『村の記憶』によると、「若杉は江戸時代五箇山と城端を往来する街道の要衝に位置し、物資の中継や宿場として栄えたが、中略、昭和42年五戸の住民は旧大鋸屋小学校校舎跡地へ集団移住した」。続けて「上流の夫婦滝から流れる内尾川のせせらぎの谷間にあって、多い時は30軒の合掌」家屋があったらしい。
 「五箇山往来の利賀の中継地として、また宿場としても栄え、番所などもあって奉行所の役人や二百人に近い五箇山への流刑人もここを通ったと言われる。そして、五箇山への荷物を運搬する牛やボッカの往来が絶えなかった。」のも今はもう幻となった。
 さて、出発の準備中、地元のお巡りさんがパトロールに来た。熊に注意してくれといわれた。春に目撃されたかららしい。ここまできて帰れとでもいうのだろうか。登山者が襲われたことはないらしい。今までも襲われるのは山菜とりがほとんどだ。山菜とりは熊の好物を横取りするけしからん敵なのである。
 10時20分出発。足元は石畳の歴史ある道である。濡れて滑りやすいから注意がいる。20分ほどで唐木峠に着いた。ここから左が高落場山だ。直進は朴峠への旧道であるが、すぐ先は笹刈りも無く藪になっていた。しかも通行禁止の看板もあった。
 ここからが地形図にもある「人喰谷」への道で名前も恐ろしい。他のサイトによれば、「「横渡りの難所」の看板には以下のように書かれている。
 『横渡りとは人喰谷の五重の谷を大きく迂回するこの辺のことをいいます。山崩れやなだれのため、道が崩壊して交通の難所となっています。昔からなだれを防ぐため付近一帯は禁伐林となっています。現在も大雨などにより木が倒れてくるなど危険なところです。』」だそうな。
 唐木峠で喉をうるおすとすぐに急登の尾根に入った。最初は右に杉林を見ながら登るが、しばらくで見事な白ブナの原生林が展開する。低山にしてこのブナの大切にされ方は雪崩防止の禁伐林ゆえだった。
 時折ブナを見上げながら、木肌に熊の爪痕がないか、こずえに熊棚がないか探したがなかった。これだけ急だと熊の棲息には適さないのか。嗅覚も大いに働かせるが獣臭はしない。うん、大丈夫だ、と鼓舞する。
 ブナを堪能した後も坦々とした尾根歩きは続く。先行者らの声が樹林を通して聞こえてくる。車は数台あったから10名位は登っているだろう。分岐に来ると右へが山頂だ。一旦軽く下って登り返すと切り開かれて明るい高落場山頂に着いた。
 アキアアカネが群舞する。アサギマダラが舞う。やがて南方へ旅立つ蝶々である。ナナカマドが赤く秋の山を象徴する。遠望は若干はあるが全体図がないことと、高峰が雲がくれしているので分からない。
 軽い昼食をとったあと下山を開始。途中で男性ばかり5名のパーティに会う、草沼山からの縦走らしい。分岐では来た道を戻った。高清水山はまたの機会にする。今日は暑かった。汗びっしょりになった。ほとんど休まず登山口まで下る。
 着替えて、縄ヶ池へ行く。途中、夫婦滝が見事だ。広い駐車場に着く。ここも熊の注意喚起の看板がある。この春のGWにはここで目撃されたらしい。池は林道の向こうにあった。チエーンがあるので徒歩で数分歩くと山中の池を俯瞰できた。
 神秘的な雰囲気があるが、遊歩道へは進まず、熊への警戒心もあって眺めるだけにする。1979年(昭和 54) 年に泉鏡花の『夜叉ケ池』が映画化された時のロケ地となった。主演は坂東玉三郎、池の中から美しい女の人がヌーッと出てくるシーンだったらしい。
 以前から一度は見てみたかった。小説に出てくる夜叉ヶ池も神秘的だが、深さも浅く、小さいし、車道が通じていないため代替地として縄ヶ池になった。なるほどと思うスケールがある。
 すべての予定を終えた。R304から高落場山の真下のトンネルを通って五箇山に出た。R156を走った。白川温泉でひと風呂浴びた。御母衣ダムの畔を走って荘川村へ。高速は使わずR158へ高山市へ抜ける。給油の後は早目の夕飯をすませ、R41、R19、R302で帰名する。

富山県・牛嶽に登る2017年10月08日

 秋の3連休、高速では朝から渋滞情報をつたえる。7日は北アルプス前衛の猫又山の予定だったが、雨予報で中止した。行く先を牛嶽に変更し、名古屋を出発したのは7日の午後3時。高速ではなく、R41を走った。R302から春日井市のR19へ、街中は大渋滞だった。春日井ICに入る車が多く、渋滞を抜けて、その先はガラガラになり、そして尾張パークウェイからR41へ走る。R41も美濃大田を抜けるとピッチが速まった。
 R41は流れがよく快適に走れる。名古屋では晴れていたが飛騨川流域は小雨模様だった。濡れた路面に気を使う。下呂、飛騨小坂は小雨、宮峠も雨だった。高山市内で夕飯にする。食後ももくもく走り、飛騨古川、神岡と走る。富山県境を見ると間もなく道の駅「細入」だった。今夜のビバーク地である。
 道の駅「細入」のPは60%くらいの入りだった。大型トラックは1台も無く中型トラック数台だけだった。寂しさを感じさせず、しかし、多すぎて騒音が多く眠れないほどではない。仮設トイレで用を済ませて、バンの荷物室を整理してシュラフにもぐったのは午後9時30分だった。しばらくはアイドリングの音がうるさかったが、そのうちに出て行った。
 8日は午前5時に夜明けとともに起きた。6時出発、神通川に沿うR41を下る。事前の調べて、新笹津橋の手前から県道25号に左折。後は山田温泉入り口までひたすら25号の道路をたどればよい。入り口で山田温泉やスキー場の名前を初めて確認できる。
 県道59号、県道346号でスキー場に着く。スキー場は閑散として誰もいない。地図で確認するがスキー場内の斜面の道を走るのは気が引ける。一旦戻って地元民の老婆に聞くとスキー場内を行けばよいとのことだった。山坂ばかりの里の女性はエンジン付きの1人用カートで移動する。近道も教えてくれた。
 スキー場ゲレンデのトップまで走れたが登山口なる案内はない。右往左往するとまた一筋の林道に導かれた。ふたてに分かれたが右が新牛嶽登山口で、2本杉の4等三角点を経て日本杉登山口に至る。左がダイレクトに2本杉の登山口に行ける。
 登山は登山口さえ確認できれば登ったようなものである。
 天気はよろしくないのでモチベーションは低下したままだが、登山口まで来てUターンはない。霧の山だが、40分のことだ、行ってみるか、と気を取り直す。Pは10台は止められる広さがある。人気の山なのだろう。
 熊の出没注意の看板が一際目立つ。熊除けの鈴をとりつけて出発する。杉の木立の中の登山道を歩く。まもなく、階段道が現れて急坂になった。6合目の標識が出てますます急になった。樹相は杉から雑木になり7合目を過ぎて、鍋谷のブナの林になった。太くはなく二次林と思われるが白ブナは美しく気持ちが良い。そこを霧が漂う。
 幻想的な霧のブナ林を歩くと前方が明るくなり牛嶽大明神を祀る牛嶽神社に着く。まだ石の風化も見られず、新しい。工事のためか、ここへも車道が上がってきている。せっかくなので神社に詣でる。オオナムチノミコトを祀る。「牛嶽は、大国主命が牛に乗って登られた山であることからその名が付けられた」そうだ。残念ながら富山平野は霧に隠れて見えない。わずかに山麓だけが見えているだけだった。
 2等三角点へは良い道が下っている。一旦、鞍部まで下ると小牧からの登山道に合う。そこから一登りで登頂だ。黄葉にも早く、ナナカマドのみが赤い。神社まで戻り、またブナ林を歩いて下った。ようやく2人連れや親子連れにも出会った。
 マイカーに戻るとまだ9時30分過ぎだった。今度はゲレンデの車道を下った。牛岳温泉グリーンパレスでひと風呂浴びた。さっぱりして背広に着替えて富山市内へ向かった。俳句結社辛夷社の年次大会は午後1時からだが、12時に市内Pに着いた。1年ぶりの師友と旧交を温めた。大会、懇親会後はビジネスホテルに一泊。

中央アルプス・麦草岳目前で撤退!2017年10月02日

幸ノ川渡渉地から眺めた穂高連峰
 9/30は午前中は仕事、午後は句会とあわただしく、出発は夜9時になった。今回は麦草岳に挑戦する目的で福島Aコースを選んだ。2時間ほど走ると木曽路の大桑村に着く。R19から木曽川右岸に渡り、大桑スポーツ公園のPで車中泊する。公園なので照明あり、トイレあり、東屋ありで便利なところだ。よく通った頃はここを中継地にしていた。
 夜11時30分のR19の気温掲示は10℃だから相当寒い。名古屋の暑さになれた体は軽装になりやすい。長袖2枚を持ってきたのでそれを着こむ。シュラフもオールシーズンにしてよかった。車内の荷物スペースを整理するとフラットになり、手足を伸ばして眠れるバンは便利である。
 10/1の朝5時尿意で目覚め。夜が明けたのだ。おにぎりをお茶で流し込んで又走る。
 R19の木曽福島の外れに駒の湯の看板で右折、後は1本道でキビオ峠登山口に行ける。標高1200mはある。ここまで走れないことはないが、夏は良いが、秋は厳しい。予想以上に寒いので、長袖シャツの着替えも着こむ。さらに雨具の上着もヤッケ代わりにはおった。
 キビオ峠は今は舗装道路だが中山道以前に開通していた木曽古道の名残である。小さな園地になっていて、御岳山や乗鞍岳が一望できる展望台があり、トイレ、東屋もある。駐車場は結構広いし、テントを張る余地もあるので夏はいいだろう。
 6時40分、登山口の「熊出没注意」の看板に気が滅入るが、久々の中ア登山に勇気を鼓舞する。鈴を鳴らしながら一歩一歩登り始めた。最初は赤松のよく伸びた林の中を行く。白樺の美しい林になったと思うとすぐに雑木林になる。突然目の前を黒い獣が駆けあがっていった。熊か!とビビったが相当上部で振りかえり、こっちを見ている。何だ、カモシカだ。
 ジグザグの登山道を登りきると気持ちの良い木曽見台の分岐に着いた。7時30分。左折すると木曽見台、右へ尾根伝いに行くと登山道だ。笹の刈り払いはここまで。木曽駒高原スキー場が閉鎖されたためか、スキー場へ40分の道標が寂しく、登山道も笹に埋もれる。一方で地形図に描かれた破線路は今は笹に埋もれた廃道になり、尾根を直登するルートになった。
 登り始めは急で足に応えるのだが、周囲は原生林であり、特に大栃の樹木があり見事な自然美が癒してくれる。尾根を登りきった辺りでまた廃道に出会う。冬道は基本的に尾根を辿るから冬道が夏道になった気がする。
 尾根筋をたどってしばらくで山腹へ巻き始めた。1793mのコブを巻いたのだろう。わりあいはやく尾根に戻った。ここらになると岳樺の林になるが黄葉には早い。徐々に高まる尾根を歩くとまた巻き始める。赤林山だ。
 以前に山岳会でこの山に登山しに来たことがあった。登山道はないので南の痩せた尾根筋をたどって登頂し、コンパスで真北へ下れば登山道に出会うのでRFの練習になった。
 巻道は以前よりも荒れた気がする。道幅は細くなりアップダウンが多くなったように思う。記憶ではもっときれいな巻道だった。別人のスマホの軌跡をみると確かに標高差50mの違いがあった。
 赤林山の北で破線路は2050mまで登って巻き始め、南で2080m付近で尾根に戻る。軌跡は1910mで巻き始め、2030mで戻る。北の登りで140m、南で50mの下りを節約するためだろうが、山腹道は荒れやすいからかえって労力は増えている。新道?は歩きにくいものだが。
 赤林山の南の鞍部ではぱっと視界が広がったので一休みした。寒い風が吹き上げてくる。ここからは尾根に忠実に歩く。樹林の道が続く。ようやくの思いで6合目に着いた。道標は直進は麦草岳、左折は福島Bコースへの巻道になっている。時計は11時18分だ。ここまで4時間30分かかっている。麦草岳は2733mなので比高328mを1時間では登るのは難しい。上松コースと合流するまではやぶであるから1時間30分を見込むと12時50分登頂になる。休まず下って4時間とすると16時50分だ。山中で日没に捉まると厄介と考えてBコースを下山する周遊に計画変更した。
 幸ノ川の源流域を横断する登山道である。この道も若干荒れているが歩行に困難はなかった。幸ノ川を遡行すると登山道との交差地点で終了した。今日はちゃんと水が得られた。交差地点からは心なしか急に踏み跡が歩きやすくなった。
 避難小屋に着いたのは12時14分。小屋周辺は紅葉、黄葉できれいだ。1人ベンチで昼寝中だった。小屋の屋根に太陽電池パネルが追加した以外は変わりない。12時30分下山開始。力水には14時14分、渡渉地点は15時少し前、スキー場跡は15時30分過ぎになった。
 後から足音がするのでびっくりして振り返るとランニング登山の単独行で名古屋の人だった。軽装備でBコースを走り、麦草岳、牙岩、前岳、木曽駒、宝剣岳、三の沢岳を往復してきたそうな。どんな心臓と足をもっているやら。こういうのを韋駄天というのだろう。
 さて、韋駄天氏と立ち話している内に15時40分になった。ここからキビオ峠までは約3kmある。車道をスキー場から別荘地を抜けて一旦R19の分岐まで下り、ここから峠へ登り返した。30分から40分と見込んでいたが登りの疲れもあり、Pに着いたのは16時50分になった。1時間強かかった。平地のような感覚では歩けない。
 目的完遂のためにはもう2時間早く出発するべきだろう。5時には出発していないと登頂できない。膝痛を克服してからの試歩と思えばまずは良しとしたい。
 帰路は駒の湯に寄って入浴。650円也。以前は透明な源泉が噴き出すとすぐに鉄の錆びた色になりタオルも汚れたが、今はろ過して透明な色になった。その分効能も減った気がするが山の湯は良いものだ。
 木曽の夜は早い。まだ6時前だが目当てのソバ屋は閉店している。農協スーパーに寄って木曽の蕎麦を購入した。
 登山道で出会ったのはカモシカ、野兎、そして避難小屋の昼寝氏、韋駄天氏だけだった。
 それと雪虫が大量に浮遊していた。明日は雪が降るかも知れない。下山中の14時前、急に冷えてきて、赤林山にもガスがかかり、麦草岳は雲に隠れた。そして白いものがちらついた。霰だろうか。朝は素晴らしい日本晴れだったのに。秋山は急速に変化するから怖い。

西濃・池田山2017年09月23日

 昨日の雨も上がった。今日なら登山も可能と久々に池田山に行くことにした。先だって長久手古戦場へ行った際、池田恒興(勝入)、元助父子の塚を見学した。
 大垣城の城主。元々は織田信長と親近な関係だった。信長死後、秀吉側について、小牧城を落として城主になったが、岩崎城攻めの失敗で徳川+織田信雄側に首級を挙げられた。
 しかし、次男の輝政が家督を相続、大垣城主になる。秀吉の仲介で家康の次女をめとる。そのために秀吉死後は家康側について姫路城主となる。徳川幕藩体制は300年続いたが、池田家も代々繁栄した。徳川家との縁組のおかげである。
 めとった際に、父を討ち取った永井直勝を召しだし、父の最期を語らせたという。身上が5000石と知って家康に加増するように言上して倍増させた。大物の武士に討たれたなら父も名誉と考えたのか。武士道の考えなのか。子孫には三島由紀夫、永井荷風がいるという。
 10/28には姫路城へ1日旅行する予定。輝政が今の大規模な姫路城に修築したという。長久手、大垣+池田町、兵庫・姫路と結ぶ歴史の旅になる。みな偶然の結びつきである。
 池田家は戦国時代を生き延びたなかなかの名門と知る。2人が主要人物と知って調べたら池田町に墓地があると分かった。それなら池田山登山とかねて行ってみることにした。
 名神高速の一宮IC付近で3重衝突の事故が発生。その影響で1時間30分遅れて10時30分出発になった。登山口は2年前に開通した大津谷登山口である。登山道の取り付きは急な尾根の一歩から始まる。植林の中の疎林をジグザグを切りながらぐんぐん高度をあげる。たちまち汗がふきだす。しかし、風があるため汗がすぐ冷えて爽やかだ。
 20分したところで小休止。又歩き出すと4等三角点に着く。さらに急登が続く。やれやれの思いで林道の端に着いた。林道を登ると霞間ヶ渓からの車道と合流してこの登山道2.84kmに一区切り。ここからは傾斜もゆるみ稜線伝いになった。宮標石があった。
 車道と並行しながら山頂に向うと車道の終点に有人の売店があった。売店から山頂へもひと登りあった。20分ほどで13時前に山頂に着いた。老夫婦の先着と入れ代ると静寂な山頂になった。展望台は周囲の樹木が伸びて台無しだ。13時15分、早々に下山した。
 大津谷登山道との合流地から霞間ヶ渓へ下山。車道とからみながら下る。途中からは車道と離れて静かな道になった。登山口には15時過ぎに着いた。少ししゃべっているうちに15時30分になり、大津谷登山口に向って車道を歩き始めた。やや登り気味で3km、約30分ほどでマイカーに戻った。
 池田町内に戻って池田恒興・元助父子の墓を探すが見つからず。龍徳寺も墓の案内板も見いだせなかった。あまり力を入れていないのだろうか。池田温泉に入湯して帰名する。

牧野ヶ池緑地を一周するポタリング2017年09月22日

 昨日は3日連続のポタリングでさすがに太ももだけでなく、全身に疲れがでて休息した。疲れをとるには軽いポタリングがよかろう。
 今日は晴れていたが午後から降雨が必至の予報。少しばかりの時間だが、近場の牧野ヶ池緑地へ出かけてみた。先日のようにいきなり梅が丘へ登るときついので焼山の方へ迂回するルートを走った。
 R302号を渡り、緑地に沿いながら南へ走り、住宅地へ入る。児童園に着いた。3等三角点の高針は地形図を出して確かめるともっと北東にある。緑地に沿いながら歩道入り口を探すがない。
 それにしても山の斜面にびっしりと家が建っている。見いだせないまま市道に出て牧野ヶ池緑地多目的広場の園地に入ってみた。さびれた園地の階段を登ると下って行くと梅森坂西二の住宅地に出た。そしてすぐに竹林につづく踏み跡がある。最初は明るかったが、段々藪が密植して歩きにくくなった。
 左隣は民家がフェンス越しに見える。右となりはゴルフ場だろうか。コブから一旦下って、三角点のありそうな丘は目前であるが笹が密植している。とりつくしまがないので引き返す。
 園地に戻って一息ついた。缶ジュースを飲むとポツリ雨が来た。予報通り午後は雨だ。またR302号まで走る。帰路は平成橋を渡って植田へ下った。

長久手古戦場から御旗山(富士ヶ根)へポタリング2017年09月20日

 今朝も週末の原稿のチエックと会報のチエックで午前中がつぶれる。久々に体重計に乗ると減っていない。大腿筋はついてきたが体重減に結び付くほどの運動量にはなっていないようだ。
 行く先は昨日の続きで、長久手市界隈に行く。いつもは天白川沿いに走るが、今日はいきなり山越えしてみた。植田東、梅が丘、R153を橋でまたいで、梅が丘、梅森坂へと牧野ヶ池緑地の南縁をなぞるように走った。香久山、岩崎台とつなげる。日進と長久手の市界までは登る一辺倒だ。ここまではアップダウンが多くアルバイトが大変だった。
 市界からは下り坂だが、下りきらず、卯塚墓地へ軽く登り返し、東名をまたぐ橋を渡る。杁ヶ池の交差点に来ると後は住宅地の路地裏の道を走って古戦場へ走る。
 古戦場は今日は開場していた。中に入って少しばかり地名の話を聞いた。後で地形図にもとづき、4等三角点武蔵塚71.2mを探す。少し低いところに埋まっていた。埋設は良好な環境。古戦場から御富士の交差点へ走り、御旗山へ向かった。長久手小牧の戦いの拠点である。 さて、御旗山に登った後は、日進・長久手分水界を越えて、岩崎台を下った。

 しかし、長久手古戦場といっても歴史を知らないとただの丘に過ぎない。戦国時代でぐぐると戦国時代の年表がヒットした。

 応仁の乱が始まった1467年は「人の世虚し」と覚える。1477年で終結する。さらに9年後の1486年から全国規模の戦いが勃発する。群雄割拠する武将の中で織田信長が台頭するが、1582年本能寺の変で倒れ、天下統一は志半ばで挫折した。謀反を起こした明智光秀は豊臣秀吉に討ち取られる。ここから秀吉の天下統一事業がはじまり、信長の次男の織田信雄と敵対する。
 ここではじめて、1584年の小牧・長久手の戦いの主人公の池田恒興が登場。山崎の戦いでは秀吉に仕えて貢献する。長久手の戦いでは織田信雄は徳川家康に援軍を依頼、池田は秀吉方として戦う。徳川方の岩崎城攻めで中入り(奇襲攻撃)に手間取り、徳川方に討たれる。
 長久手古戦場にはそこで死んだという池田恒興の勝入塚(45歳で入道(仏門に入ること)し、勝入斎と名乗った。)がある。49歳で討ち死にした。
 岐阜県揖斐郡池田町本郷1341-1 龍徳寺地内には池田恒興・元助父子墓がある。池田山の真西だ。ここへも行かねばなるまい。
 長久手の戦いは長期戦になり、徳川家康+織田信雄は秀吉と和睦を結ぶ。そして1600年の関ヶ原の戦いを制した徳川家康が1603年に江戸幕府を開府するまで戦乱の世は続いたのである。
 参考:年表で見る戦国時代
http://www.geocities.jp/hosinoufo3/index.html

長久手市・色金山と岩作御嶽山へポタリング2017年09月19日

 今日も天気は良い。朝、メールを開くと連休明けのせいか、多数着信している。山岳会関係の会報の添削、原稿の手直しを処理した。終わるとすでに11時を回った。夏と違って季節の変化ははっきりしている。正午前でももう暑くはない。11時20分に出発できた。
 日進市白山の交差点へは約20分で着く。さらに、日進JCTまでは岩崎川のサイクリングロードを走るので安全で早い。昨日は車道でクルマの多さに冷や冷やしたからだ。五色園入口の交差点をパス、ゆっくり上り坂になる。芸大通駅までは天白川水系と矢田川水系の分水界への登りがある。分水界を越えると香流川の支流になり、ゆっくり下る。前熊交差点の手前の路地裏道を左折。県道233号から県道215号だ。一帯は岩作(やざこ)何とかの地名が多い。交差点付近で香流川が合流する。すぐ上が色金山になる。
 岩作の中心の早稲田という交差点で右折すると色金山歴史公園の案内板があり、Pもある。山頂へは車道を右折、そのまま登ってゆくと奥のPに着く。右に細い道が登ってゆくので入ってみた。結構な急坂だが螺旋状に傾斜をゆるめてあるので、自転車でもこげないことはない。何とそのまま頂上まで登りきってしまった。展望台がある。やや曇っているがそれなりの眺めがある。三角点はなく正確な標高は不明だが91mくらい。
 山頂からはダウンヒルを味わう。ブレーキを掛けっ放しであるが気持ちの良いものである。次は色金山の南の岩作御嶽山へ向かう。
 早稲田の交差点から旧道に入り、左折。御嶽山の石碑のある香流川の橋を渡る。そのまま道なりに行くが、急坂になりついに下車して歩く。段々急になり、一旦平になったところで左に岩作御嶽山の石碑の建つ神社への急坂が見えるがパス。車道を自転車を引きながら登る。登り詰めた所は山頂に違いないが県の給水施設があり宗教的なものは見あたらない。
 神社へ通じる道すら見いだせず、自転車に乗って下山する。改めて参道から登拝した。爪先上がりの急坂を行くとさすがに息切れした。一段上がったら社務所と住み家があった。神社はまた一段上にあった。
 奥の院に参拝した。その後は別の道をたどると先程の山頂へ通じる細道があった。生活はこれで往来するのだろう。住み家の前を通る。ここはやはり湧水が得られるのだろう。社務所から急な階段を下り、自転車でダウンヒル。次は御旗山に予定していたがこれで満足したので帰ることにした。
 長久手古戦場公園の一角にも71.2mの三角点・武蔵塚があるが今日は公園自体が休みだった。ここからは北新田川へ下るように走った。広大な口論議運動公園、愛知学院大キャンパスを右に見ながら日進JCTに下れる。後は北新田川の右岸の自転車道を行く。岩藤川を合わせると岩崎川になる。車道と交差する以外はスムースに走れる。白山の交差点まで来ると天白は近い。
 但し、まだ真昼でもあり三角点の一つも踏まねば、と右手のこんもりした緑の丘を目指す。地形図では北高上(きたこうじょう)だが、点名は岩崎、75.8mの山。高圧電線の真下まで行き、道を探ると広い車道の廃道があった。そこを歩いてみると、右手の鉄塔に向う山道になった。鉄塔近くでは木の枝などで通せんぼがしてあった。
 そのまま乗り越すと何と遊歩道に整備されていた。道標まであった。少しで4等三角点へ登頂できた。親切にも4等三角点の説明板まで設置されている。意外なことに喜んだ。そのまま下ったが、別の案内板によると北高上緑地(きたこうじょうりょくち)とあった。登山口は3か所あり、市民の自然に親しむ森の道として整備されたそうだ。平成25年だからまだ最近のことである。思わぬ拾いものをしてまた天白へ帰った。