飯田龍太生誕100年2021年01月24日

https://www.n-gaku.jp/life/course/anniversary/haiku_iida_ryuta/
 みなさんは現代俳句の父 飯田龍太をご存知ですか?
 戦後を代表する俳人で、現代俳句の新境地を切り拓き、今なお多くの俳人たちの尊敬を集めるカリスマ。

 その龍太先生が創り上げたNHK学園 俳句講座は、1981年に先生の「日常のこころを大切に」という言葉とともにスタートし、2020年10月に開講40年目に突入。

 これを機に、今年生誕100年を迎える龍太の偉業をふり返り、俳句の真髄、本当のおもしろさを再発見していただければと思います。
「龍太俳句の魅力~俳句講座創設者 飯田龍太生誕100周年~」
https://www.youtube.com/watch?v=nHOTylja61s&list=UUiUfXFlsRL37HGDAXiVqDIQ


以上
 チャンネル山梨の動画です。
https://www.youtube.com/watch?v=5urgvCNvqiA
特設展「飯田龍太展 生誕100年」PR動画
現代俳句の巨匠飯田龍太(いいだ りゅうた 1920~2007)は、山梨県笛吹市境川町(ふえふきしさかいがわちょう)に生まれ、ふるさとの自然と向き合いながら、多くの格調高い作品を発表しました。生誕100年を記念して開催する本展では、自筆資料を中心に、龍太の俳句や随筆の魅力を見つめ直していきます。また、境川の自宅・山廬(さんろ)での生活の様子や、幅広い交友など龍太の素顔を紹介します。

 
 山梨TVでも報道されました。
http://www.uty.co.jp/company/
「生誕100年 飯田龍太特別企画展 山梨県立文学館」
 生誕100年が過ぎた俳人・飯田龍太さんの特別企画展が、山梨県甲府市の県立文学館で始まりました。
飯田龍太さんは俳人・飯田蛇笏の四男として1920年、笛吹市境川町に生まれ、山梨の自然と風土を織り込んだ数々の俳句を詠んできました。
今回の企画展は、去年7月の生誕100年を記念するもので、本来去年の4月に開催が予定されていましたが、新型コロナウイルスの影響で延期されていました。
会場には「水澄みて四方に関ある甲斐の国」と詠んだ直筆の掛け軸や俳句と随筆の原稿など約80点の貴重な資料が展示されています。
また、境川の自宅・山盧での生活の様子や愛用品も紹介されています。
龍太さんの魅力を見つめ直すことができるこの企画展は、甲府市の県立文学館で3月21日まで開かれています。

山河はや冬かがやきて位につけり 龍太2021年01月23日

「俳句の教科書」からの鑑賞文
https://haiku-textbook.com/iida-ryuta/

 飯田龍太の第一句集『百戸の谿(ひゃっこのたに)』の中の代表作です。飯田龍太が暮らした、山梨の故郷の村での景色を詠んだ句です。冬を迎えた澄んだ空気に満ちた故郷の姿が詠みこまれています。
以上

・・・父の蛇笏の句にも”芋の露連山影を正しうす”がある。山梨県にも多数の川は流れているが湿潤なイメージよりも乾燥した風土の寒さのイメージが強くある。やはり日本海から遠く離れているから湿気が上がる度合いが違う。湿った空気は立山や北アルプスで落とされて八ヶ岳まで来ると湿気のとれた乾燥した空気になるのだろう。どこかに黒々とした岩場も見えており、且つ雪の斜面も明るい日差しに輝くのである。真っ黒に見えた高峰が冬になり雪を付けて輝く。川も山も位置は変わらねど一変したんだなあ、という詠嘆を味わいたい。

一月の川一月の谷の中 龍太2021年01月22日

「俳句の教科書」からの鑑賞文
https://haiku-textbook.com/iida-ryuta/

 飯田龍太の代表作にして、賛否両論を呼んだ衝撃的な話題作でもあります。飯田龍太自身、「幼時から馴染んだ川(狐川)に対して、自分の力量をこえた何かが宿し得たように直感した。」と述べています。抽象的な句であり、解釈も様々ですが、雪が積もって高く切り立った谷の中を、細い一本の川が清冽に流れている光景を詠んだものです。

・・・こうも簡明に切り取られると納得します。川はともかく谷というからには標高の低い平野部ではあるまい。都市部から少し川上に引っ込んだ辺りの山里を思い浮かべたい。河原や砂洲に雪があればなお良いが、無くても良い。但し、氷がある風景を浮かべるとと引き締まる。枯れた草に砂糖をまぶしたような雪があり氷がある。寒々しい風景こそ1月の川である。

手が見えて父が落葉の山歩く 龍太2021年01月21日

「俳句の教科書」からの鑑賞文
https://haiku-textbook.com/iida-ryuta/
 竹林の中を歩く父親の姿、特にその手が西日に照らされて白く見えたことをきっかけに詠まれた句です。この時、飯田龍太の父、蛇笏は75歳。亡くなる2年前のことです。ここで詠まれているのは、力強くたくましい父親像ではなく、年相応の衰えを見せつつも、高い精神性を見せる人生の先達としての父の姿です。

・・・俳句雑誌に発表された当時もてはやされた句だったと記憶している。もう一度探すのも面倒だから印象だけで言うと、手が見えて、とう初句に力点が置かれたていた。おや誰なんだろう、ああ、その手はなんだ親父の手だったのか、という所見である。親父くらいしかいないのだがやっぱり親父だったという安心感。前述の鑑賞文はやや持ち上げすぎです。

大寒の一戸も隠れなき故郷 飯田龍太2021年01月20日

 今日は気持ちの良い冬晴れの朝。猿投山もすっきり見える。これだけ明るいと山眠る季節もそろそろ終わり、春隣りの感がある。但し、今は寒の内だから外はまだまだ寒い。
 今日は大寒というので表題の句を浮かべた。まさにこんな日の故郷を写実的に詠んだのであろう。
 あと三日したら飯田龍太生誕100周年のイベントがはじまる。これは是非にも行きたい。
https://www.bungakukan.pref.yamanashi.jp/exhibition/2021/01/100-4.html
 飯田龍太を知ったきっかけは前田普羅のことを書いた本を立ち読みしてからだった。普羅を知るには友人だった飯田蛇笏を知る。蛇笏の息子が龍太というわけだ。その書名は『俳句・風土・人生』(講談社学術文庫)だったと思う。今探してみたが見当たらないからどこかの本の下積みになっている。

五平餅わが食ふ手つき可笑しとて皆が打ち笑ふわらわば笑へ 依田秋圃2021年01月19日

鳳来寺山 おかめ茶屋の五平餅
 五平餅を口いっぱいにほおばるのは楽しい。

奥三河の山と人を愛した林業技術者にして歌人の依田秋圃に

  ”五平餅わが食ふ手つき可笑しとて
         皆が打ち笑ふわらわば笑へ”

(「歌集 山野」から明治44年)という歌がある。明治44年は1911年なので110年前の歌である。
 たぶん、五平餅の大きさは大人の手のひらくらいはあるから口の周りに味噌だれがついてしまう。それを笑われたのである。なるだけ付けないように持ち方を変える。そこをまた笑われるというのだろう。

誰が聟ぞ 歯朶に餅おふ うしの年 芭蕉2021年01月18日

鳳来寺山への道に見える歯朶
・・・いったい誰の婿だろうか。牛の背中に、羊歯を添えた鏡餅を乗せて、その牛を追い行くのは。まさに丑年の、正月のこの山里に。
(左大臣ドットコムから)
https://koten.kaisetsuvoice.com/Nozarashi/10Igaueno2.html

 原典は「野ざらし紀行  1684年 41歳       

 千里に旅立ちて、路粮(みつかて)をつゝまず、三更月下(さんこうげっか)無何(むか)に入ると云けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞享(ていきょう)甲子(きのえね)秋八月江上の破屋を出づる程、風の声そゞろ寒げ也。
 野ざらしを心に風のしむ身哉」
 
・・・鳳来寺山の登山道は一定の高さになると歯朶類が繁茂して、登山道を覆うようになる。三河の山中には珍しくない植物である。南紀辺りの山にもたくさん繁茂している。
 子供の頃はこれを採りに行った記憶がある。今にして思えば正月を迎える準備だった。田舎暮らしには晴れとケのメリハリがあった。
 
     虚子編『新歳時記』には
 山野に自生してゐる歯朶は永く人に忘れられてゐるが、これを刈り、町にもたらし、新年の飾りとしてわれわれの前に現れた時、始めて年改まるというなつかしい感じをこの草に覚える。餅に敷き、膳に敷き、飾りに結ばれる。山草、穗長、裏白、諸向きなどの名がある。

     稲畑汀子編『新歳時記』になると少し違って
 葉はぜんまいに似て、わが国暖地の山野に多く自生している。正月に飾るのは、常緑のまま繫栄し、また歯は齢に通じ、朶は延べる、つまり長寿を祈る意味が込められているからという。以下は踏襲されている。

     榎本好宏『季語成り立ち辞典』は
 正月の飾りに使う歯朶は裏白です。葉裏の白に、夫婦の「友白髪」を見、葉が相対するところから諸向の名を与え、夫婦和合の象徴を見、葉の常緑に繁栄の思いを重ねて、正月の縁起物としています。また葉がしだれるさまを「歯垂る」に掛けて長寿の意味を持たせた、めでたさずくめの縁起物植物と言えます。

鳳来寺山と深田久弥2021年01月17日

 おかめ茶屋の店主は今年91歳という。2021年の91年前は1930年というから昭和5年。そうか私の母親と変わりない年代になる。店内に新聞のスクラップの掲示があったので尋ねると25歳から五平餅を作り始めたらしい。すると1955年になり昭和30年だ。門前町が栄えてていた時代は観光バスが来て旅館も繁盛していた。自分も手伝いに行ったという。
 観光にテコ入れするかのようにパークウェイが開通したのは1971年のことで昭和46年になる。
 参道を歩くと確かに廃業したらしいお店が多かった。わずかに名産の硯石の店は2軒残っていた。旅館の「桔梗屋」さんは休業中の札が下がっていたがこのご時世では廃業に近いだろう。もう一軒も少し奥に大きな合掌造りの建物と別館があり往時の隆盛が偲ばれる。あのお婆さんがお手伝いに行ったのはここだろうか。別のブログ「江戸時代には、代官屋敷があり、旅館60軒、芝居小屋2軒があった」らしい。それも今は昔のこと。
 『山頂の憩い』で深田さんは名古屋での講演会を終えるとともに登山用具店を営むデカさんとジャコさんを誘って鳳来寺山へ行く。当時は東名高速も岡崎ICで降りると後はR1を走る。豊橋市から豊川、新城と北上。長篠で山道に入り、一日がかりで門前町へ着く。「教えられた宿は、坂になった一筋町の一番上にあった。昔の茅葺の建物を改装したらしく、すべての作りが鷹揚で、柱も梁も戸も黒く光って重厚、近代まがいの嫌いな私には心地よかった」と書く。1969年のことである。
 「民芸と山菜」を売り物にしていると書いてあるので多分あの大きな旅館の雲竜荘に泊まったのは間違いない。
 雲竜荘のHP
 http://www.unryuso.co.jp/index.html
 1964年(昭和39年)発刊の『日本百名山』がベストセラーになると山の作家としての知名度が上がった。あれから5年後の1969年には名古屋でも講演会に呼ばれた。
 余談だが、昭和39年3月には朝日新聞カルチャーセンターの登山教室で日本山岳会東海支部の講師に交じって「山の話」を担当している。1903年生まれなので61歳になっていた。そして鳳来寺山に登山したのは66歳になっていた。亡くなったのは1971年のことだからパークウェイが開通した年だった。そうか今年は没後50年になるのだ。

鳳来寺山を歩く2021年01月16日

 鳳来寺山の歴史は古い。ネットで断片的な情報を集めてみた。

  鳳来寺は、歴史ある「真言宗五智教団」の寺院。703年「利修仙人」が祈祷により天皇の御病気を治し、そのお礼として創建されたと伝わるお寺です。1648年には、鳳来寺を家康誕生ゆかりの地として崇める徳川家光によって、日本三大東照宮とも言われる鳳来寺山東照宮が建設されました。(ヤマハックのHPから)

・・・愛知県のうちの三河の三霊山は猿投山、六所山、三河本宮山である。「三河国三霊山とは、三河国、今の愛知県豊田市・豊川市にある三つの山の総称で、古来より御神体あるいはそれに準じる神聖な山として、信仰の対象になってきた山々。本宮山・猿投山・六所山の三つで、それぞれの山頂や山麓には砥鹿神社・猿投神社・六所神社が鎮座する。
 三河国なので当然ではあるが、松平氏、徳川氏との関わりが深く、徳川家康などが崇敬した、あるいは参拝したことでも知られる古社となっている。」以下に列挙すると。

1 猿投山
 『日本書紀』には、大碓命は景行天皇に東征を命じられたが、これを恐れて逃亡したため美濃国に封じられたとある。宝亀10年(779年)に編纂された縁起書によれば、大碓命は景行天皇52年に猿投山中で蛇毒のために42歳で死去し、山上に葬られたという。猿投山西峯にある西宮の背後に大碓命の墓がある。社伝によれば、仲哀天皇元年に勅願により現在地に創建。

2 六所山
 六所山は古来より猿投山・本宮山と共に三河国三霊山のひとつとされ、山自体が神体とされて大山積神(オオヤマツミ)など6柱の祭神が奉祀されていた。現在でも字金姓の小台地にたたずむ一の鳥居は、六所山を遙拝するのに最も適した場所にあり、古代、この地に最初期の遙拝所が建てられたものとも推察し得る。後に社殿の築造という仏教文化に由来する概念が国内に浸透し、六所山山頂にも社殿が築かれることになるのは遅くとも平安時代末期頃。

3 三河本宮山
 砥鹿神社は,文武天皇(もんむてんのう)の時代,701年(大宝元)天皇の使者としてこの地に来た草鹿砥公宣卿(くさかどきんのぶきょう)が本宮山の山中で不思議な老人に会い,その指示で創建されたものと伝わっている。本宮山頂には砥鹿神社の奥宮がまつられている。その神は大己貴命(おおなむちのみこと)でいつのころからか三河国の一宮とされ,10世紀初頭に書かれた延喜式(えんぎしき)の中にも記載されている。

・・・今回登った鳳来寺山は703年とあり、三河三霊山に入るべき歴史がある。立松和平『百霊峰巡礼』(東京新聞出版局)には本宮山と鳳来寺山は入っているが猿投山と六所山は除外された。

4 鳳来寺山
 文武天皇が病にかかられたときには、鳳凰に乗って都に行き、祈祷によって天皇のご病気を治したため、大宝3年(703年)に天皇からお礼に寺を立てられ、この寺を鳳来寺と命名し鳳来寺が誕生したとされています。 大宝3年(703年)、理趣(利修)仙人によって開かれた真言宗の古刹。
 ウィキペディアでは「寺伝では大宝2年(702年)に利修仙人が開山したと伝える。利修は霊木の杉から本尊・薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、四天王を彫刻したとも伝わる。文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承があり、鳳来寺という寺名及び山名の由来となっている。利修の17日間の加持祈祷が功を奏したか、天皇は快癒。この功によって伽藍が建立されたという。」
 鳳来寺山のメインコースとなる表参道の特徴は、なんと言っても1425段もの石段を越えていくところ。そのため標高は低いですが、登りごたえは十分です。山中では霊山らしい史跡や寺社をはじめ松尾芭蕉や若山牧水の句碑や歌碑も多く点在。見どころが多いので、登山客を飽きさせることのないコースになっています。
以上

・・・どの山もいずれ劣らぬ古い歴史を誇る。中でも本宮山は標高も高く、山麓から見えることが信仰を集める大きな要素であろう。三河富士の秀麗な山容も大きい。猿投山も三河の山とはいえ、尾張からランドマークのようによく見える。名古屋のテレビ塔のような存在に等しい。しかしながら鳳来寺山は今でこそドライブウェイで簡単に行けるが往時は深山の趣があったであろう。4座の中では一番険路である。六所山は存在感が一番希薄である。
1本宮山789m
2鳳来寺山684m
3猿投山630m
4六所山611m
と標高でも歴史でも見劣りする。何で霊山と崇められたか、といえば徳川(松平)発祥の地ということが大きいだろう。つまり政治的なバックアップがあったのでしょう。
 この四霊山の中で門前町を構えたほどの盛り上がりがあったのは鳳来寺山だけだった。本宮山は何ら痕跡はない。猿投山もない。六所山もない。そしてドライブウェイが出来たのも鳳来寺山と本宮山だけだった。
 しかし、禍福は糾える縄のごとし、たくさんの参拝客が増えたので東照宮や鳳来寺はお賽銭が増えただろう。社屋の改築も車道で楽にできるようになった。ところが1971年(昭和46年)の鳳来寺パークウェイの開通と同時に門前町は寂れてゆくことになった。
 1969年(昭和44年)というから開通する2年前に作家の深田久弥が登っている。『山頂の憩い』という本の中に鳳来寺山の紀行がある。1425段の石段を登り切って、鳳来寺の新設の堂を見ている。
 ウィキには「大正3年(1914年)に本堂を焼失したが、昭和49年(1974年)に再建」とある。5年ほどのずれがある。パークウェイの建設と本堂の再建は同時進行していた気がする。まず物資を運ぶ道路を建設させて堂を建設にかかる。作業員も通いやすい。道路を作業のためにだけではもったいないから観光道路化しようというアイデアかも知れん。
 歴史的には徳川のバックアップで東照宮も作られた。その管理は鳳来寺の住職らが担っていた。ところが明治維新でいきなり廃仏毀釈の洗礼を浴びる。鳳来寺は廃れ、東照宮は延命する。石段の途中には数多くの僧坊跡があったが衰退の一途をたどったのである。
 門前町の入り口にあたる「三の門」の駐車場は実は田口鉄道の鳳来寺駅跡だったのである。今も名残りをとどめるのは角にある「おかめ茶屋」さんである。

作家の半藤一利さん死去2021年01月15日

https://books.bunshun.jp/articles/-/6040
「追悼 「歴史探偵」半藤一利 読み継いでいきたい昭和史に学ぶ文春文庫厳選13冊」から

 惜しまれつつも90歳で亡くなった半藤一利氏。昭和史の研究家としての硬派なノンフィクションから、洒脱なエッセイそして座談の名手としての対談集など幅広い著作を遺してくれました。作家として、そして社の偉大なる大先輩として、その功績を偲んで文春文庫から厳選13冊をご紹介します。
・・・以上の本以外にも結構買っていました。マスコミに乗りやすいというか、左翼的、反日的発言をすると朝日新聞やNHKが取り上げてくれて有名になったからでしょう。するとますます売れる。売れるから執筆依頼が舞い込む循環があった。
 歴史モノに関しては後講釈なのです。学者というより解釈が時流に受けた。特に昭和史はまだ戦争体験者が存命だった。戦後は転向した学者もいた。食えるようになると説を曲げたのです。
 この点俳句ものは罪がない。漱石の縁者だったらしい。文春退職後老後を書くことで楽しまれたのです。


『漱石俳句を愉しむ』(PHP研究所[PHP新書], 1997年)
『ノモンハンの夏』(文藝春秋, 1998年/文春文庫, 2001年)
『漱石俳句探偵帖』角川選書], 1999年/文春文庫, 2011年)『漱石先生、探偵ぞなもし』PHP文庫、2016
『昭和史 1926-1945』(平凡社, 2004年/平凡社ライブラリー, 2009年)
『昭和史 戦後編 1945-1989』(平凡社, 2006年/平凡社ライブラリー, 2009年)
『其角俳句と江戸の春』(平凡社, 2006年) 『其角と楽しむ江戸俳句』平凡社ライブラリー、2017