春更けて諸鳥啼くや雲の上 前田普羅2017年04月27日

 晩春の山でしょう。夜明けと同時に小鳥も一斉に啼きだします。早朝の山の尾根を登っていると雲の上から小鳥の鳴き声が聞こえてくるというのです。
 4/26には舟伏山に登った際も雑木林から小鳥の鳴き声が盛んでした。雲の上というのは実際には山の高いところを強調しているとも解釈できます。
 4月初旬からびわくぼ峠、寧比曽岳と3回目の山歩きですが、試歩を重ねてようやく翌朝のひざの痛みもかなり軽減してきました。薬効著しいものがあります。運動するから薬効成分が体をめぐるのでしょう。
     春深し試歩の山路を重ねけり     拙作
小鳥たちの激励を受けてまた山に向かいましょう。GW後半に封印していた春スキーを1回はやれそうに思う。

4月句帳4 花の舟伏山2017年04月25日

舟伏山に咲く岩桜
イハザクラただそれだけを見るために

ふみあとはイハザクラ見る分れ道

しぶとさを見習うべしやすみればな

寄りあって一人静は群れ咲きぬ

筒鳥の哀しき声の寂しさよ

百千鳥林に風の出でにけり

若草や雑木林は芽も吹かず

萌へいでし林一面ヤブレガサ

シロモジの芽吹きを見つつ下りけり

残雪のしるき能郷白山よ

春山や大白木山のこと言へり

一羽の蟻クレーターなめり穴を出る

何処へと羽蟻飛んでしまひけり

4月句帳3 初音聞く2017年04月22日

原生林段戸裏谷初音聞く

段戸にも春告鳥や森の上

アブラチャン咲きて段戸の春を告ぐ

芽吹き山段戸裏谷原生林

せせらぎの水も温むやブナの森

筒鳥に耳傾けよ森の中

カモシカのじっと見てゐる春の山

春曇りそれでも猿投山見たり

山里の庭は桃色花盛り

沓掛時次郎の歌詞の ♪浅間三筋♪とは2017年04月19日

 橋幸夫が歌う「沓掛時次郎」(昭和36(1961)年、作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正)は長谷川伸が昭和3(1928)年に股旅物の戯曲で創作された人物だった。
音曲:https://www.youtube.com/watch?v=Tul_g3_oQeo
 その中の歌詞に歌いこまれた浅間三筋ってなんだろうと調べてみた。何のことはない。活火山の浅間山から立ち昇る三筋(本)の煙のことであった。
 浅間山に関することや沓掛時次郎に関することをさかのぼると、結構いろいろ分かった。この歌は佐伯孝夫のまったくの創作ではなかった。先駆する民謡「小諸馬子歌」に
♪小諸出てみよ浅間の山に今朝も煙が三筋立つ♪
と歌う。なかなか風情がある。
音曲 https://www.youtube.com/watch?v=jru-axzBJHQ
 続けて、「沓掛小唄」というのもヒットした。
音曲:https://www.youtube.com/watch?v=g9a_jKsOmzA
歌詞:http://www.tei3roh.com/kutsukakekouta.htm
物悲しい音色が時代を語る。おそらく大ヒットしたのである。これは昭和4年とあるのでもう長谷川伸の作詞となっている。1番から5番まであるが1番と最後のみコピーする。
1 意地の筋金 度胸のよさも

 人情からめば 涙癖

渡り鳥かよ 旅人ぐらし

 あれは 沓掛時次郎

5 千両万両に 曲げない意地も

 人情からめば 弱くなる

浅間三筋の 煙の下で

 男 沓掛時次郎
以上
 島津亜矢の歌う「沓掛時次郎」の歌詞(作詞:宮沢守夫、作曲:村沢良助)は1番の意地の筋金を引く。5番の男 沓掛時次郎の結びも引いてある。
https://www.youtube.com/watch?v=ub6-DIQfAtY
 この歌はシングルでは発売されず、2014年のアルバム「亜矢の股旅・任侠演歌セレクション」に収録。さらにさかのぼると2004年のアルバム「極めつけ 島津亜矢の名作歌謡劇場」に収録。1993年の名作歌謡劇場シリーズの中で「お梶/沓掛時次郎」があった。これが最初であろう。平成5年だから亜矢ちゃんが22歳のとき歌ったのだ。
 橋幸夫の歌う「沓掛時次郎」は「浅間三筋の煙の下で」とやはり「男 沓掛時次郎」は同じだ。橋幸夫は18歳で歌っている。

 ともに長谷川伸の作詞「沓掛小唄」を踏まえたいわゆるオマージュの作品と知った。やっぱりなあ、良い歌、いい言葉はい意味でのパクリなんだと思う。昭和4年以来、昭和36年の橋幸夫、平成5年の島津亜矢と、約30年の間をおいて、歌い継がれてきたのである。名作の由縁である。

 締めくくりにはっと思って前田普羅の句集「春寒浅間山」を繰ってみた。普羅の俳句にも浅間三筋が詠まれていやしまいか。さすがにそれはなかった。
  春星や女性浅間は夜も寝ねず
  春星を静かにつつむ噴煙か
  つかの間の春の霜置き浅間燃ゆ
  女性浅間春の寒さを浴びて立つ
・・・・浅間山のやわらかな山容に女性を見たという句意。普羅はごつごつした険しい山よりも女性的な山容の山が好きだった。富山県の金剛堂山にも久遠の恋の情を表すほどだった。  
しかし、
  榾を折る音ばかりして父と母
  母の顔父の顔ある榾火かな
・・・・普羅は若くして台湾に渡った両親との生き別れに寂しさを癒せなかった。15歳で山恋と書くほど山好きな少年になった。後記に「私は浅間が降り注ぐ女性に打ち勝てなくなった」とある。浅間山に母性を見たのである。生涯寂しさを漂わせた俳人であった。
 長谷川伸も幼くして母と生き別れの人生体験があった。これが作品の原点になっている。普羅も渡り鳥のように旅から旅へ、親の愛を受けられないまま、拗ねてやくざになってしまった時次郎に似ている。
 しかし、普羅は早稲田大の英文科を出たほどの教養人だったから身を持ち崩すことはなかった。意地もあっただろうが、俳句が人生の高みへの階段を登る手段となしたからだった。
4/23追記
 昭和14年の東海林太郎のヒット曲「名月赤城山」(矢島寵児作詞)にも「沓掛小唄」の歌詞中「意地の筋金」の部分が引用されていることが分かった。

渡部昇一氏死去2017年04月18日

 産経新聞から
 本紙正論メンバーで第1回正論大賞を受賞した英語学者・評論家で上智大名誉教授の渡部昇一(わたなべ・しょういち)氏が17日午後1時55分、心不全のため東京都内の自宅で死去した。86歳だった。葬儀・告別式は親族で行う。喪主は妻、迪子(みちこ)さん。後日、お別れの会を開く。ここ数日、体調を崩していた。

 昭和5年、山形県鶴岡市生まれ。上智大大学院修士課程修了後、独ミュンスター大、英オックスフォード大に留学。帰国後、上智大講師、助教授をへて教授に。専門は英語学で、「英文法史」「英語学史」などの専門書を著した。

 48年ごろから評論活動を本格的に展開し、博学と鋭い洞察でさまざまな分野に健筆をふるった。51年に「腐敗の時代」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。同年に刊行された「知的生活の方法」は、読書を中心とした知的生活を築き上げるための具体的方法を論じ、100万部超のベストセラーとなった。
 57年の高校日本史教科書の検定で、当時の文部省が「侵略」を「進出」に書き換えさせたとする新聞・テレビ各社の報道を誤報だといちはやく指摘し、ロッキード事件裁判では田中角栄元首相を擁護するなど論壇で華々しく活躍。一連の言論活動で「正確な事実関係を発掘してわが国マスコミの持つ付和雷同性に挑戦し、報道機関を含む言論活動に一大変化をもたらす契機となった」として60年、第1回正論大賞を受賞。東京裁判の影響を色濃く受けた近現代史観の見直しを主張するなど、保守論壇の重鎮だった。平成27年、瑞宝中綬章。主な著書に「日本史から見た日本人」「ドイツ参謀本部」など。フランシス・フクヤマ「歴史の終わり」など翻訳も多数手がけた。
以上
 哀悼の意を表する。
 享年86歳だった。若いころからTVなどの時事番組で知った。その後はベストセラーの『知的生活の方法』で改めてファンになった。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2016/12/14/8275366
 続々出版される本は大抵は購読してきたはずだ。驚くのは知的生活の提案者らしく蔵書が膨大で和英合わせて15万冊に及ぶらしい。
 渡部氏のやり方を知ってからは本を消耗品扱いするのをやめた。雑誌といえども何でこんなものを買ったのかと思うが後で読み直すと意味はあった。失敗と成功の積み重ねで失敗を減らしていくのだろう。的確な本の選択眼蔵書術も教わった気がする。
 蔵書専門のマンションの購入も夢見ているがそれを維持する収入がないことで実行できないでいる。夢で終わる公算大であるが、渡部氏から得たものは大きかった。
 梅棹忠夫からは行動のための読書術を教わり、渡部昇一氏からは知の計算外の蓄積の大切さを教わった。無用なものでも継続すれば無用でなくなり、体系が生まれると知った。専門家でないことが新鮮な発想を生むのである。
 渡部先生!やすらかにお眠りください。お別れ会には上京して出席したいものだ。

花に嵐のたとえも・・・2017年04月17日

 今日は一日中荒れた。そこで思い出したのは「花に嵐のたとえも・・・」のフレーズである。調べると西行の和歌かと思ったが以下が原典であった。

 勘酒・・・酒を勧む
勧君金屈巵・・・君に勧む金屈巵
満酌不須辞・・・満酌辞するを須いず
花發多風雨・・・花發けば風雨多く
人生足別離・・・人生は別離に足る

井伏鱒二の訳は次のようになります。

この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ

 有名なさよならだけが人生さの言葉はこれが原典だったのか。一期一会ともいう。日本で花といえば桜と思うが、漢詩ならば花は梅という。

4月句帳2 奥三河は山笑ふ2017年04月16日

  豊川市宝円寺の樹齢400年のしだれざくらは散り初め
  4/1に来た時はつぼみだったが瞬く間に盛は過ぎる
しだれざくら咲きて且つ散る宝円寺

山笑ふ表参道辺りかな

艶やかな赤や黄の色チュウリップ

  耕運機で田を耕す
蓮華田を耕す男ただ一人

  新城市設楽原歴史資料館
怒涛めく歴史雁峰山霞む

歴史など知らで芽吹きの木立かな

  塩津温泉からびわくぼ峠へ
春の日も浴びず日蔭の杉木立

春暑し風さはやかな峠かな

春山やかつて火山の岩襖

熊よけの笛に驚く春の山

草餅を食ふ空腹の身にしみる

山里は花桃多し奥三河

  稲武の喫茶店にて
シデコブシ白き花にも紅仄か

「山を撮る山を語る」のゲラ2017年04月14日

 4月22日(土)から中部経済新聞の連載を再開する。以前は単独で月2回の連載を40回続けた。数回で連載中止もあるよ、といわれたが、延長に次ぐ延長で40回にもなった。デスク周辺は資料の乱雑な山積であった。
 今回は写真は別人が撮影したもので、それに文章をつける形になる。作詞に作曲するような感じである。2月末にお誘いがあって面白いから承諾はした。とりあえず、夏ごろまでの4座4回分を書き送ってある。その1回目のゲラが出来た。
 早春の山に咲く花がテーマで、それにあった短歌1首がすぐ浮かんだ。更に俳句も2句つけたら500字はすぐ埋まった。先だって編集子から掲載にあたっては作者の承諾を得てくれというので、歌集や俳誌にあった電話で連絡したらご両人とも気持ちよく了解を得られた。面識もないのにありがたいことである。
 確かに、引用に当っては俳句短歌ほど無造作に勝手に使われるものはない。商業紙だけにその配慮はいる。ゲラを見ると美しい紙面になった。配達が楽しみである。今日は新聞の拡販に協力要請の手紙が来た。とる人はとっているだろうし、誰か居ないかな。部数削減に見舞われている新聞社も大変だ。魅力的な紙面づくりで拡販に協力したい。

読売新聞「HAIKUの世界」を読んで2017年04月13日

 読売新聞朝刊が4/11から4/13まで「HAIKUの世界」を3回にわたって連載し、本日完結した。記者は文化部の佐々木亜子氏。
4/11 上 英語が導き出す自由
4/12 中 「偶数行の鉄則」に挑戦
4/13 下 文化遺産登録を視野に
 何回も読み返したが違和感がぬぐえない。

 米国の元外交官というアビゲール・フリードマン氏のコメント:「俳句は日本人には伝統的な芸術だが、私達は伝統に縛られずに自由に作ることができる。」という。日本人が異文化に根ざす海外の俳句を勉強したら、「もっと面白い俳句を作れる可能性があるのでは。」
 佐々木亜子記者のバイアスも多少混じっているが、こんな考え方がそもそも俳句にはなじまない。HAIKUならいいと思う。今の日本の俳句は面白くないと嫌味を言われているようにとれるではないか。海外の俳句よりも、たとえばウクライナの小学校では日本人も知らない芭蕉の俳句が学ばれているそうだ。つまり、われわれ日本人こそもっと「猿蓑」などを読むべきなのである。
 俳句は縛られること、ルールを厳守するから面白いのに、自由を謳うようでは俳句の真髄は一生分からないだろう。日本の俳人はだれも窮屈だから自由がほしいとは思っていない。日本人の自由律の俳句もついに定着しなかった。
 特にキリスト教圏の白人の啓蒙主義、優位性が押し出されていやらしいと思う。自らは平気で国際法を破り、不都合になると次々変える国の人らしい考えだ。表意文字の俳句は表音文字のHAIKUから学ぶことはない。俳句の文化遺産登録には反対も賛成もない。意味があるのかどうか。
 柔道が国際化されてスポーツになり、ジュードーになった。以来、見た目にはレスリングになった。柔よく剛を制すという講道館柔道はどこへ行ったのかと思う。柔の道の道に意義があった。俳句も言葉の断片ではなく、人生の一こまを謳う。あるいは詠む人の人生を思わしめる。国際化の意義はほとんど考えにくい。ただし、外国人との友好的な交流の道具にはなりうる。
 この記事を読んだ後、口直しに長谷川三千子『からごころ 日本精神の逆説』(中公文庫)を読んだ。「国際社会」の国際化のためにという論考である。結論めいた言葉だけを引用すると「近代ヨーロッパ人は「他人に学ぶ」ことができない人達ではない。自分たちよりも力の弱い者達からも学ぶ」ことができれば欧米人達もコクサイカが可能。「この世界には無限の「ものの見方」の可能性があるのだという事実を謙虚に受け止めるところから出発する。
 要するに欧米人は力でねじ伏せてinternationalizeしてきた。欧米人が俳句に学んで欲しいのはその心です。国、領土等を二カ国以上の共同統治、保護の元に置くことがinternationalizeの定義。日本人の国際化は基準を外においてそれに順化することと考えている。このずれがあるかぎりは俳句とは似ても似つかないHAIKUのままにとどまるだろう。
 佐々木亜子記者も自分が日本人でありながら国際化(欧米化)された考えに染まっている(からごころ)ことに気がつかない。欧米に基準をおいて日本をそれに合わせようとするずれに気付いて欲しいものだ。
追記
 日本の新聞記者や外交官、国際企業のビジネスマンはダブルスタンダードで生きている。あちらはあちらの流儀、日本は日本の流儀ということで、これがあいまいな日本の原点だろう。真の国際化にはほど遠いと思う。
小屋番の山日記から 芭蕉を学ぶ国の危機
http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/03/19/8411013

哀悼!ペギー葉山さん死去2017年04月12日

NHKニュースから
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170412/k10010946071000.html?utm_int=movie-new_contents_list-items_019&movie=true
4月12日 14時59分
「ドレミの歌」や「学生時代」などのヒット曲で知られ、女性として初めて日本歌手協会の会長も務めた歌手のペギー葉山さんが12日、肺炎のため東京都内の病院で亡くなりました。83歳でした。
ペギー葉山さんは東京都出身で、昭和27年にレコードデビューしました。昭和33年には、NHK高知放送局の依頼で歌った「南国土佐を後にして」が、ふるさとを離れて働く人たちの望郷の歌として大ヒットしました。

その後も「ドレミの歌」や「ラ・ノビア」、「学生時代」など幅広いジャンルのヒット曲で人気を集め、昭和41年のNHK紅白歌合戦では紅組の司会を務めました。

また平成17年に亡くなった俳優の根上淳さんと仲のよいおしどり夫婦として知られ、根上さんの闘病生活を支えてきました。
その後も平成19年に、女性として初めて日本歌手協会の会長に就任するなど第一線で活躍し、おととし3月、放送文化賞を受賞しています。

所属するレコード会社によりますと、ペギー葉山さんは最近まで活動を続けていましたが、10日に東京都内の病院に入院し、12日昼前、肺炎のため亡くなったということです。
“バターの香り”教えてくれた大きな存在
ペギー葉山さんが亡くなったことについて、日本歌手協会の田辺靖雄会長は「戦後日本に軽音楽を通じて、洋楽・ポピュラーソングのバターの香りを教えてくれた大きな存在の歌手でした。亡くなるまで現役を通され、会長をひかれたあとも、後輩の私たちに温かく接してくださいました。お疲れさまでした。ごゆっくりお休みください」というコメントを出しました。
高知県知事「観光振興の大恩人」
ペギー葉山さんが亡くなったことについて、高知県の尾崎知事は「突然の訃報に驚いたし本当に悲しい。心から哀悼の意を表したい」と話しました。

高知県は、大ヒットした「南国土佐を後にして」が高知県への観光ブームを巻き起こしたことなどをたたえ、昭和49年、ペギー葉山さんに「名誉高知県人」の称号を贈っています。

尾崎知事は「曲がヒットしたことで高知県では『南国土佐』を1つのブランドとして長年、観光振興の取り組みを続けることができた。私たちにとっては大恩人だと思う」と功績をたたえていました。
以上
小屋番の山日記
http://koyaban.asablo.jp/blog/2007/11/25/2458224
 9年半前前に四国の山へ行った。本四架橋を渡る際にペギー葉山さんの「南国土佐を後にして」の曲をカーオーディオから流して今から四国だぞという雰囲気を出した。それくらいあの歌は四国にふさわしい。誰かがこれから行くのだから「・・・・後にして」の歌と合わん、と言ったが、シンボルだから良いのだと思った。
https://www.youtube.com/watch?v=1JcGhhPM3YQ
を聞いて偲びたい。