恵那山の山名をめぐる話・・・三遠地方民俗と歴史研究会2019年01月28日

 東海地方のどこからでも悠然とした山容を見せる恵那山。別名は舟覆山とも称されて、漁師からは忌み嫌われたらしい。それがいまでは名山として押しも押されぬ地歩を得た。
 恵那山の由来を調べようと、多くのガイドブックや山の本を渉猟してはみたが、アマテラスの胞を山頂に埋めたという伝説から一歩も踏み込まれることはなかった。江戸時代の地誌『新撰美濃誌』にも伝説の引用はある。しかしそれまでである。伝説は口承であるから人々の脳裏に刻まれた物語である。文献は残されず記憶に頼るからだ。
 深田久弥『日本百名山』も伝説の紹介だけであり、立松和平『百霊峰巡礼』には山名すらない。ほとんどは回避しているかに思える。
 それで暗礁に乗り上げていた時、ふと名古屋市中区生涯センターに置かれた愛知県埋蔵文化センターのチラシが目に留まった。そこには埋甕の展示が案内されていた。実は『埋甕』という本を読んで、明治時代半ばまでは胞は普通に埋設されていた。さらに調べると、徳川家康の胞が岡崎城に埋設されていると知った。松平家康として生れたのだから偉人になってからの記念碑的扱いである。
 こうして考えを巡らすと山頂に胞を埋めること自体は特殊なことではないと思われた。眺めの良い山には伊勢神宮の遙拝所がある。それでなくても、神話上の人物が祀られている。
 例えば奥三河の大鈴山は伊勢神宮の遙拝所だった。伊勢神峠はもともとは伊勢拝みの謂いだという。猿投山にはヤマトタケルの兄の墓所がある。鎌ヶ岳にもアマテラスが祀られている。
 特に信仰の山ではないのにだ。山自体が御神体ではなく、頂上からはるかに伊勢神宮を遙拝できることが重要なのだ。
 これまでの調べでは、地名としての恵那は惠奈として平安時代の和名抄という書籍に記録されている。
 思えば日本民族には言葉はあっても文字のない時代が長かった。そんな時代でも確実に子供は生れたから「エナ」という言葉はあったであろう。唐の時代に漢字を輸入して、一字一音で日本語に当てはめた。それが万葉仮名であった。エナは惠奈と書かれ、恵那になり、やがて漢字の胞が当てられた。岐阜県の胞山県立自然公園と称するように県は胞を使う。恵那は言わば雅字であろう。
 山麓の阿木にアマテラスの胞を洗った血洗池があり、中津川を隔てた湯舟沢はアマテラスが産湯を使ったという伝説。それで恵那山と呼ばれたというのである。この伝説は何ゆえに生れたのだろうか。
 阿木の奥には木地師の活躍があった、今もロクロ天井には木地師の墓がある。1471mの点名は阿木という。焼山は木地師が焼き畑農業で山を焼いて蕎麦、稗、粟などを栽培した名残りではないか。全山が花崗岩の山なので噴火はあり得ない。
 実際には今の恵那山に命名される前に、血洗池の源流の山に埋まる三角点888.3mの点名「血洗」の一帯を恵那山と呼んでいたのではあるまいか。恵那の地名はそこから起こったと考えると自然である。
 伊勢神宮の遷宮は7世紀に始まる。皇学館大学が編纂した御杣山の記録集でも詳細に記録されるのは江戸時代に入ってからのことだった。多分、記録の手段としての和紙の供給が不足していたであろう。江戸時代になると庶民でも出版できるほどに流通した。1340年には奥三河が1回だけ御杣山になったが、設楽山とするだけでどこの山とは特定されない。私は段戸山周辺と思うが・・・。三河の山と伊勢神宮が遷宮の用材切り出しでつながっているとは面白い。
 御杣山の記録集(全文漢字)には恵那山の北の湯舟沢山1620m、井出ノ小路山1840mの名前は出てくる。あの辺には伊勢山もあり伊勢神宮との密着度が高い。しかし、恵那山は出てこないから、中津川周辺から源流は神域であったと思う。用材切り出しは湯舟沢周辺の記録はある。阿木はない。阿木は人里に近く、木地師もいたから落葉樹林でおおわれていたと見る。
 信仰としての恵那山は後世に入ってからのことと思われる。中津川を中心に川上にある恵那神社の建立が象徴する。縁起は不明となっている。前宮登山道は役の行者様の石仏もあった。前宮から奥は今でも針葉樹林の森である。
 恵那山はどこから登っても遠い山である。庶民が親しく登る山ではなく、崇められたであろう。汚されたくないためと盗伐を防止することも重要であっただろう。アマテラスの胞を埋設した伝説を持ってきて、神聖な雰囲気を演出して、安易な入山を阻止したと考えても無理はない。尾張藩が管轄していた木曽の山では、木1本首1つ、と戒めた。それだけ盗伐が多かったのだろう。
 奥三河の段戸山周辺でも、徳川幕府成立から約60年後の寛文年間に天領になった。豊川市赤坂に番所が作られて幕府の管理下に置かれて、山の民はそれまで自由に出入りしてた山に入れなくなった。おそらく、木曽でも三河でもトラブルが相次いだ。木地師は主に落葉樹なので棲み分けはできただろう。桧となると建築用材として需要は数多あり、江戸時代の経済発展とともに盗伐は増加傾向だったと思われる。
 木曽の森林は尾張藩が管轄した。徳川幕府は天皇に権威を求めた。庶民への啓蒙としてアマテラスの胞の埋設の伝説を以って、神々の森への不可侵を広めた。こんなところだろうか。

裏木曽・高時山を歩く2014年09月30日

高時山頂上からの御嶽山
 9/27、御嶽山が水蒸気爆発を起こして3日目。懸命の捜索救助活動が続けられている。にもかかわらず、危険な火山ガスの発生で長時間は滞在できず、限定的なようだ。鈴鹿なら応援に行けるが特殊な高山では邪魔になるだけであろう。
 なるだけ近いところから御嶽を眺めたいと探したのが裏木曽の高時山である。検索するとランプの宿として知られる渡合温泉への林道は4月に修復し開通していることが分かった。加子母側の長い林道走行は避けたいから温泉から登ることにした。
 R257から付知峡へ入る。R257自体は昔は南北街道と言ったらしい。わざと古い町並みの街道を走ったこともある。そして、さらに驚くのがこの県道である。
 明治時代初期には御嶽信仰の登拝の道として開削された。主導者は私財を投入して完成させ、感謝されたが、家運は傾いた。中央線はまだ開通しておらず、白巣峠を越えて王滝へ行く方が近道にもなった。そんな歴史を刻んだ石碑があった。中央線の開通とともにこの道の登拝道としての役目を終えて廃れた。もっぱら林道として利用されている。
 渡合温泉への道は遠かった。県道から林道へ、そして未舗装の道へと進む。そのどん詰まりに温泉はあった。かつて1度、入湯させてもらったことはある。あの時は林道を走れるだけ走ってそこから歩いたから楽な山歩きだった。木曽越峠の歯痛地蔵だけは記憶がある。
 渡合温泉は夫婦で経営されているようだ。朝早く着くと主人がどこかへ出かけるようだったので、山道のインフォメーションをもらった。親切に紙に書いて教えてくれた。まづ滝を見学しなさい、と。というので旧道を歩くことになった。この道は初見であった。滝までは良い道があった。滝からは利用者も余りないせいで踏み跡程度になった。古い道標はそこかしこに残っているので何とか迷わずに歩けた。基本的には谷沿いに歩くが、一部崩壊箇所もあり、薮に覆われていたりする。初心者向きではない。約1時間もしただろうか、林道へ上がった。しばらく林道を歩くとまた道標で山道に導かれた。ここもススキで覆われて分かりにくいが突破すると何となく山道に開かれて行く。ヒノキの植林内を急登してトラバース気味に行くと木曽越峠だった。
 峠は加子母側の林道と付知側の林道がゲートで遮断されて行き来はできないが、開発し過ぎである。かつて慈しんだ峠の歯痛地蔵は辛うじて保存されていた。
 峠から一旦林道に下り、又登ると御嶽展望台があった。間じかに噴煙を上げる御嶽を眺めた。そこからしばらくでまた林道に下り、登り返した。この尾根はヒノキ、トチノキの大木が残る素晴らしいものだが、自然破壊がやり切れない。尾根伝いに登ってゆくと御料局の8の文字のある標石があった。付知側は国有林だからかつては御料林だったのか?
 1434mを経てさらに長い釣り尾根を登りかえすと御嶽山に開かれた山頂だった。2等三角点が埋まる。これだけ良い眺望であるが、御岳信仰の祠などはない。
 今も多くの登山者が山頂付近で心肺停止のままで救助を待っている。未発見の登山者もいるかも知れない。朝方から捜索救助のヘリコプターの音がひっきりなしに聞こえてきたが、可及的速やかな捜索救助を祈る。遭難された登山者を思い、手を合わせた。
 高時山は御嶽山の南南西の位置にある。噴煙を噴き上げる火口が良く見える。噴煙は北西の風に流されて東に流れてゆく。右に三笠山、左の継母岳も良く見える。継母岳は崩壊しそうなほど鋭角に聳えている。何事もなければ豪快な山岳風景であるが遭難者や家族を思うと心が痛む。
 25分ほど滞在して下山。峠からは山道を下ったが、旧道へは降りずに林道を下った。長い林道歩きだった。温泉に戻ると奥さんにあいさつして帰った。

雪虫舞う2006年11月19日

 裏木曽・小秀山は前夜発で行きました。出発が遅くなり乙女渓谷に着いたのは夜11時半過ぎでした。この時期の乙女渓谷は当然誰も来ていません。閑散としています。家型テントで仮眠。
 夜半にざーっと雨が降っていましたが大降りではなく助かりました。朝は非常に寒い。ここは標高数百はある。身支度を整えたがまだ晩秋の気分が抜けきらず装備、服装とも不十分でした。二の谷を予定したが小雨では滑りやすいので断念した。三の谷もどうか。それでも行けるところまでは行くことになった。三の谷の登山口までは林道をとぼとぼ歩きます。三の谷登山口からは小屋の前を通るいつものコースです。名残の黄葉が林内を明るくしてくれます。急な登山道をこなしていくと岳樺の生えた所に来て明るくなる。ここからは隣の拝殿山も見えた。その向うの白草山もよく見える。足元には雪が見え始めた。1400m付近から雪でした。
 段々高度を上げて二の谷の分岐に着くがここからはまだ通行禁止の看板が立っていた。もう開通したはずであるが。雪は次第に多くなり、手袋も濡れて悴む。軍手、皮手と取り替えたが濡れると冷たい。毛糸の手袋が欲しい。兜岩で装備が不十分なこともあり登頂を断念して下山した。兜岩付近は積雪5センチ、ガスで視界なしでした。晩秋と初冬が同居するこの時期の亜高山帯の登山の難しさを感じた。下山時には上部で雹、下部では雨も降っていました。大雨にならなかったことは幸いでした。営林小屋近くの山の神に祈ったからでしょうか。でも今は神様は出雲に出かけてお留守のはず。
 名残の黄葉を楽しみながら12時に下山した。車の付近で白い綿を付けた虫が舞い飛ぶ。ああ!綿虫だ。雪虫、白ばんば、雪蛍、大綿など俳句の季語にもなっている。アブラムシの仲間らしい。綿虫は風のない曇りがちの日に飛ぶ。初冬の風物詩である。綿虫が飛ぶと初雪が近いというがもう山の上では一足早く降雪を見た。かつて高賀山の山頂、奥茶臼山の林道などで見た。皆11月中であった。
 W君が次の御前山の登山口の偵察に行くという。R41に出て道を案内した。登山口付近に至る林道の周辺では意外にも黄葉が最盛期でした。暖冬で遅かったようだ。下呂温泉で冷えた体を温めて帰った。
   山の神留守の祠に何を願ふ        拙作
   舞ふ綿虫捕まえてまた飛び立ちし     拙作