中津川市阿木の旧跡・(アマテラスの)血洗池~血洗神社~恵那神社~根の上高原へドライブ2017年08月06日

 午前中は原稿の推敲を行う。いよいよ脱稿したいが、今一、補完的な写真が欲しいと午後から撮影ドライブになった。暑いとはいえ、高原だから少しは涼しいだろうとの期待を込めて。
 12時20分に出発、途中で燃料補給。県道58から県道283、R419を経て岐阜県に越境し、R363に入る。エアコンを切っても結構涼しい感じがする。R363は山間部の谷合いを貫通している。交通量は少なく快適なドライブである。最終的には中津川市川上に行くが、途中でメインの血洗池と血洗神社に寄る。岩村の田園地帯を抜けて、山間部に入ると血洗神社が見つかった。村社ゆえか地味で案内板もなく見過ごしそうだった。血洗池が近くにありそうだがない。神社の横の山道を10分ほど登ってみた。林道に出たので右折すると解体中のキャンプ場に着いた。ゲートを越えるとR363で血洗神社はすぐだ。おかしいので山道を今度は下ったが見いだせない。マイカーに戻って神社の裏に埋まった池でもないか、探したがない。
 1台の車が止まったので聞くと下に関係ありそうな場所があると言うので行ってみた。血洗池だった。是こそ探していたところだった。
 血洗池は、恵那山の山名の由来になったアマテラスの胞(えな)を洗った池だという伝説がある。そんな謂れを書いた看板も立ち、旧跡血洗池の石碑まである。胞をここで洗ってから山頂まで運んで埋設したというのだ。それで胞山と呼ばれたのだ。池は砂で埋まっていた。そして、かなり離れた落合川の上流の湯船沢で産湯をつかったというのだ。湯船はそれが由来という。現在でも岐阜県は胞山県立自然公園を名乗る。恵那は雅字だろう。看板には漢字導入以前の神代文字のほつま文字にも記録があるそうな。
 次は恵那神社へ向かった。R363は最高地点の870mの峠を過ぎると途端につづら折れの酷道になる。狭くてタイトなヘアピンカーブが連続する。しかし、こんな道こそ運転の面白さを楽しめる。3速オートマだが、セカンドギアにして、エンジンブレーキを利かせると、FRなので、ハンドルが素直に曲がる。
 中津川市川上に着いた。しばらく下流に走ると橋があり、渡って右に行く。ウェストン広場なる園地ができ、川遊びの家族連れが多かった。中津川は花崗岩の美しい川である。すぐに恵那神社へ左折。山田と山家をぬいながら走ると正ヶ根谷へ行く林道で通行止めのゲートがあった。前宮ルート入口まで1kmとある。
 恵那神社へは左折すると大きなPがあった。誰もいないので正面まで乗り入れて、参拝をした。無人であるが、大きな杉が生えて荘厳な雰囲気がある。拝殿、社殿がある。千木はないが鰹木はある。しっかりした造りである。
 辞して、ふと前を見ると鳥居越しに恵那山が見えた。あいにく曇天だが、晴れれば素晴らしい景色だろう。今日の目的は終えたのでまたR363を登り返した。根の上高原国民宿舎にも寄ってみた。山岳会の忘年山行の宴会の会場探しだ。
 ここなら少し遠いが、天狗森山、三森山がある。国民宿舎を拠点に保古山970、1mならば40分だそうな。高原内には無名ながら3等三角点936、3m(餅穴)、R363の入り口の反対側に3等三角点888、3m(血洗)がある。三角点の点名まで胞に因むのか。好事家の会員が喜びそうだ。すべての目的を終えてまた往路を戻った。

能褒野神社、加佐登神社、長瀬神社、椿大社へドライブ2017年07月30日

加佐登神社
 午前5時30分出発。県道59号、36号、R23と走って、四日市市からR1に入り、亀山市を目指す。鈴鹿市まで来ると、どんよりした曇り空が頭上を覆い、降り出しそうだ。伊勢湾からの水蒸気を含んだ黒い雲が流れていく。あれが鈴鹿山脈にぶつかると上昇気流となって上空の冷たい空気に触れて雨になる。急激だと雷雲になる。案の定、ものすごいスコールのような雨が降り出した。
 亀山市の能褒野神社(のぼの)を目指す。一帯は水田地帯で今は緑一色である。晴れておれば鈴鹿山脈が背後に美しいだろう。その景色を眺めて、
    ”大和は 国のまほろば たたなづく 
          青垣山ごもれる 大和し 美し”
と詠まれた。大和し、のしは強調であるから死を覚悟しての望郷の御歌であろう。
 安楽橋を渡ってすぐの右折の信号をやり過ごしたので1つ先の信号から地道に入り、R306から県道637へ右折。御幣川にかかる白鳥橋を渡ると名越の交差点で右折。少し大回りしたが目的地に着いた。午前7時30分。約63km。
 日本武尊は東征の後、伊吹山の荒神を退治するために向かうが言挙げして、怒りを買い、大氷雨を降らされて痛手を負った。醒ヶ井で傷を癒すが体力を消耗させる。今でいう低体温症か。四日市市を経て、大和へ帰る途上、ここ能褒野で崩御したという。
 Pと公衆トイレが完備している。小雨の中、傘を手に薄暗い樹林の中の小道を登る。とにかく高いところへ行くと奥に神社が見えたので参拝した。御手洗い場は水道で且つアルミのひしゃくだった。社殿は地味なたたずまいだった。しかし、古墳が分からない。一旦、車道へ出て、改めて絵図で確認した。再度、小道を行き、左折する。墳墓の周囲は柵が設けられている。やや下った辺りに墳墓への階段があった。立ち入り禁止の札が宮内庁の名で表示してあった。墳墓の周囲の小道をめぐると元のPへ帰れた。
 次は加佐登神社である。県道637、県道27を行くと、駐在所の信号を左折。椎山川をせき止めた調整池が白鳥湖といい、神社へは椎山川にかかる白鳥橋を渡る。マイカーを置き、長い石段を登ると小広い境内の奥に社殿が鎮座していた。
 社殿の屋根は反りを抑え、低めに見える。鰹木や千木もなく、威圧的な建築物ではない。御手洗場は水があふれ、杉の板を曲げたひしゃくで本格派である。有人であり、車祓いをうけて収益を確保し、維持に努めているところが、能褒野神社とは違う。
 私の観察では、御手洗場のひしゃくの品質が杉の曲げ物であること、車祓いをうけていること、信仰のグッズの販売をしていることが社格の上下につながっている。少しでも収入を確保し、境内の掃除(特にトイレ)を欠かさず、参拝客を迎える努力が神社を長く維持させる。ひしゃく等はこれまでみてきたのはアルミ製、プラスチック製などは概して無人無住であった。杉の曲げ物を見ると一定の収入を確保できているんだなと思う。
 右手から車道を辿ると白鳥塚に行ける。白鳥塚の周囲をぐるりと回ってみた。能褒野よりもかなり規模が小さい。かつてはここが墳墓とされていたが比較すると能褒野に軍配を挙げざるを得ない。但し、あちらの神社は宮内庁が正式に御稜と指定してから神社が創建された経緯がある。
 神主さんが見えたのでいろいろお話を伺った。記紀神話からヤマトタケルの話等々、ついつい長話になった。来客があったところでお暇して、長瀬神社に向かった。これはここで教えてもらった。
 長瀬神社は鈴鹿ICのすぐ近くにあった。社務所には老婦人らが歓談していたが神社関係者ではない。ここもヤマトタケルが寄った伝説の地らしい。前二社に比べるとかなり規模は小さい。
 ここまで来たら椿大社に参らねば片詣りになる。
 小雨の鈴鹿路を道なりに走ると雲隠れした鈴鹿山脈の入道ヶ岳の麓に着いた。椿会館などの飲食、宿泊設備できる売店があり、駐車場もほぼ満杯であった。こんな雨模様の日でも参拝客は引きも切らない。特に車祓いの参拝客は順番待ちで10台くらいは並んでいた。みな新車である。車祓い専用の社殿には大ぜいが正座してお祓いを受けていた。マイカーにもカミが宿るのだ。
 御手洗場で杉のひしゃくですくって手を洗う。樹齢何百年もある杉木立の玉砂利の参道を歩いて本殿に向かう。伊勢神宮をコンパクトにまとめた気がする。熱田さんはすべて照葉樹林の鬱蒼とした森だったが、ここはやはり山奥なんだと思う。
 参拝後はレストランで鶏めしをいただいた。食べるとふるさとの鶏めしの味と同じであった。土産品売り場でそれのレトルトも買った。ついでに椿餅も買った。ふらりと寄っただけなのに2000円弱の散財になった。伊勢一宮ともあれば、こうしてお金を落とす仕掛けづくりがうまい。
 帰路はR306、R365からR23で帰った。R365は二階建てで高速道路の建設中だった。伊勢湾岸道から京阪神へいく車をここへ誘導して東名阪の負担を減らすためだろう。北勢は道路だらけになった。ヤマトタケルに由来する神社を訪ねるドライブは終わった。

豊明市の桶狭間古戦場伝説地へポタリング2017年07月22日

 今朝は少し寝覚めが悪い。昨夜の根つきが悪かったせいだろう。朝食後、7時35分に自転車にまたがって出発。行く先は豊明市の桶狭間古戦場伝説地である。天白から最短距離で9.7kmくらいだが、山越えを避けて、天白川のサイクリングロードに入った。今日は左岸沿いに走る。やっぱりサイクリングロードは信号なし、車との競走なしで安全で楽だ。結局鳴海処理場の近く、名鉄鉄橋で完全に逃げ道なしになり引き返して県道59号に出た。大慶橋は右岸でないと渡れない。
 中汐田の交差点に出て国道1号線を左折。国一を走る。中京競馬場前の三叉路を右折するとすぐに豊明市の桶狭間古戦場伝説地に着いた。想像以上にこじんまりとしていて小さな公園になっている。歴史資料館でもあるのかと期待したが時間をつぶす仕掛けはなく、すぐにお暇する。
 国一を桶狭間の交差点まで戻り左折。緩やかな坂道を登り、下ってゆくとカーマの店がありすぐ近くに桶狭間古戦場公園があった。ここも規模でいい勝負の小さな公園に過ぎず、がっかりする。結局、歴史に詳しいガイドの説明でもないと楽しめない気がする。
 帰路は国一から旧東海道の有松の町並みを通過して国道302号に沿いながら天白区滝の水まで登り、野並まで下った。後は勝手知ったる道を帰宅する。

豊明市の二村山へポタリング2017年07月21日

二村山の3等三角点:点名は沓掛。
 今朝もすっきり5時に目覚める。5時30分に起床、朝食後、6時に自転車にまたがる。行き先は豊明市の二村山で、71.2mの3等三角点のれっきとした愛知の名山である。だれも話題にしないのは100mにも満たない標高のゆえだろう。
 天白・平針から運転免許試験場を経由すると約8km未満の距離で早く行けるが、山越えがきつい。それで荒池、神ノ倉、熊の前を経て徳重へ向かった。熊の前へポンと下れるのだが標高約60mの丘を越えるのが結構きつい。赤池で標高30m、白土で標高52mあり、白土からは下りになる。平手で標高17mと天白と同じになる。天白区と緑区は広大な丘陵地なのである。車ならなんなく越えるが、自転車はすべて自力なので必死だ。
 6時28分、徳重交差点で左折、折角楽したのに愛知用水と交差する標高60m付近まで登り返す。愛知用水の右岸の管理用道路に入り、ゆっくり下りを楽しむ。しばらくで暗渠に入ると道路も行きどまり、一旦、住宅地の道に出た。新築の住宅が立ち並ぶ。車道を走ると立派な道と交差する。県道220号である。左折してやや登ると藤田保健衛生大学の門を右に見る。さらに行くと緑のこんもりした丘がある。これが二村山だった。
 皿池なる交差点を下ってゆくと二村山への案内板と駐車場があった。まだ7時前だ。自転車をデポして散策路に入る。昔は鎌倉街道といったそうだ。天白区野並の交差点にもそんな看板があった。岐阜県神岡町山之村にも鎌倉街道が通うから一筋の道ではなく鎌倉幕府時代の古道という意味だろう。
 景勝地に囲まれている民家の前を通過して軽く登ると地蔵尊がある。ここから句碑や歌碑の類が多くなった。知らない人物ばかりだ。登りきると何と3等三角点があった。その近くに展望台もある。5分ほどで登頂であった。
 展望台に立つと尾張から三河の山野が一望できた。なるほど名勝地とはやすだけのことはある。名駅の高層ビル群、猿投山、焙烙山と六所山。晴れれば伊吹山、鈴鹿連峰まで見えるらしい。多分、中アや能郷白山、御岳山、乗鞍岳、恵那山も視野に入るだろう。
 この山なら1つにカウントしてもいいかと思う。
 下山後は県道220号を皿池まで登り返し、後は平手の交差点まで下る。右折して徳重へ、左折して、国道302号へゆったり登る。交差点で右折、標高68mの黒沢台までのきつい登りをこぎ通す。ここから原の交差点までは快適な下りになる。原駅前の喫茶店で大休止する。まじめに帰れば往復2時間だが9時半ごろの帰還になった。

天下峰を廻る、松平町を撮る2017年05月21日

 ガイドブックの再取材となった。当初の構想から一歩後退し、またサブコースで復活させることとなった。
 午前6時過ぎ出発。県道58から環状道へ、R301への左折を見過ごし、とんだ大回りになった。松平郷へは少し手前の滝川沿いの道を走る。取材時は工事中だった切通しも今日は済んでいる。乗り越すと坂上町だ。宮口川にかかる宮口橋付近に松平郷の道標がある。六所山へ1.9km、天下峰へ1.3km、王滝渓谷へ1.9kmとあった。
 ここから右折すると六所山へ行き、左折すると仁王に行く。最初は仁王に下る。今まで訪れたのは秋か冬だった。枯れたイメージがあったが初夏とあって天下峰が苗田に映えて美しい。宮口橋に戻って六所山を撮影。その先の六所神社下宮一の鳥居のある六所山遙拝所からも撮影するが、手入れがされてないため、樹木が邪魔する。少し移動しながらアングルを考えて撮影。
 次は六所神社下宮(山上を上宮という)の本堂や舞台を撮影。先の地蔵堂橋にある石の道標には右松平郷、下流は天下峰、上流は原生林とあった。松平郷へは軽自動車程度がやっとの作業道が続いている。これも正規の道である。途中分岐が何か所かあるが道標があって迷うことなく沢連(そうれ)を経て松平郷へ行ける。
 六所神社入口、六所苑にはすぐの林道坂上線出合まで行って戻る。宮口橋を元の道を走り、以前は王滝渓谷から豊松小学校を経由した道の分岐がある。左折する。ここにも古い石の道標がある。本文の最後の佛以外は判読不明で、下の右も九久平に読めるが不明瞭、左松平だけははっきり判読できた。九久平はぎゅうだいらと読み、大給城跡があるところ。松平家の支配だったから当たっているかも。
 左折すると細くなるが舗装のままで羽明(はあす)に下る。左折すると東宮口の地蔵堂橋からの道に会う。直進すると沢連に行く。松平家の遠祖という在原氏の墓所の案内板を見る。看板によれば松平郷を開いたのは在原信盛氏で、2代目の信重にとき、諸国を流浪中の徳阿弥が入り婿となった。松平太郎左衛門親氏を名乗り、松平家発展の始祖になったという。306mの山は地形図では無名であるが、在原山という。
 念のため、司馬遼太郎『街道をゆく43 濃尾参州記』の「高月院」を読むと少し違う。すぐに松平に定着したのではなく、まず吉良へ行ったというのである。そこで酒井家に逗留して娘に子を産ませた。吉良には落ち着かず、松平に来るのである。酒井家の娘が亡くなり、老父が育てていたが困って連絡したところ、酒井家を家臣にしたそうだ。
 下れば松平東照宮はすぐである。高月院にも寄った。前述の本には30年前の印象で「高月院は、いいですよ」とあるが、自治体の町起こしで「天下祭」などが催され、歴史に関係のない観光施設が建てられていることに驚き嘆いている。
 Pの野菜売り場で白っぽい玉ねぎ3個とホウレン草を購入した。JAによって牛肉を買った。自宅で玉ねぎ2個を刻み、牛肉と炒めた。ペロッと平らげた。脂っこいものでも食欲が戻ったようだ。

 さて、三河三霊山の六所山、松平親氏が天下太平を祈願した天下峰をめぐる歴史と信仰の松平郷をどうまとめようか。特にあの宮口川を中心に水田のひろがる山村風景は良い。山里が清潔である。ちょうど、アオサギも生息している。六所山の山麓であり、御神体として拝まれたのだ。松平と天下峰が直結し、六所山とも直結する。このトライアングルは面白い。ただ、焙烙山が高さしか評価されないのが気になる。

以下は「神社と古事記」のサイトから転載。
・三河三霊山とは
1六所山 六所神社
上宮(豊田市坂上町六所山)・八ケ峰神社・下宮(豊田市坂上町地蔵堂)などで構成される神社の総称である。御祭神は猿田毘古神・塩椎神・岐の神・日本武尊。御朱印の有無は不明。

2猿投山 猿投神社

3本宮山 砥鹿神社

・現在でも字金姓の小台地にたたずむ一の鳥居は、六所山を遙拝するのに最も適した場所にあるという。
・一帯はかつては松平郷といい、松平氏(徳川氏)発祥の地。永和3年・天授3年(1377年)8月19日、松平宗家初代松平太郎左衛門親氏が奥州塩竃六所大明神を六所山に勧請した。

それまで「吉木山」「蜂ケ峰山」などとされていた山名が、以降六所山と呼ばれるようになる。

産土神として奉拝されていた大山祇神は北東の蜂ケ峰に遷され、以来「隠居神様」と呼ばれながら六所神社摂社の八ケ峰神社として存続する。

新たに祀られた客人神の本殿は芳樹宮と名付けられ、六所大明神と称されて、松平氏・徳川氏の氏神として歴代当主の崇拝を受ける。

富山・高岡市への雪のドライブ行~奥越の温泉入湯2017年02月22日

 2/21は富山県高岡市でシニア人材の交流会というので参加。富山までは約270kmあり道中は長い。交流会は午後からなので少し早出した。高速代を30%OFFするつもりで午前3時過ぎの出発を予定したが、1時過ぎに交通事故が発生し、東海北陸道の上下とも通行止めになった。吹雪いているらしいので結局午前7時前の出発に落ち着く。
 岐阜県に入るとさすがに降雪と言うほどではないが小雪が飛んでくる。郡上に入ると視界も悪い。白鳥からはもっと悪くなる。不思議なくらいなかった雪が出てきた。ひるがのSAで小休止。午前9時前で、荘川からR156へ出るつもりが雪崩のおそれで通行止めという。五箇山まで走りR156へ出た。高速道路でも路面は完全に除雪されているが凍結を恐れて先行車が時速60km前後でしか走らない。それなら国道でも同じというわけだ。
 ここから高速はR156と乖離して長いトンネルを抜けて一気に城端へ行く。R156は庄川の流れに沿いながらくねくね曲がり道を走る。国道は通行量がほとんどないせいか、雪道になった。1年に1回は雪道ドライブも味わいたい。今は10時前だ。13時まではまだ時間があるので開場した温泉を探した。道の駅で聞くと大崩島の新五箇山温泉 南砺市平ふれあい温泉センターを教えてもらった。(くろば温泉は火曜休み)R156から分岐する道を行くとより深い雪道になった。四輪駆動車が頼もしいと感じる。
 非常に広いPだが、先行者は2台だけだった。510円を券売機で支払う。良いお湯だった。少し温めだが芯まで温まる。30分もしないうちに汗がでてきた。効能書きを見ると膝関節症にも良さげである。そういえば車から降りた瞬間に零下5度くらいだろうか、悪い方の膝に血が通う感覚が無くなった。入湯後は血が通った気がした。長い間けい皮鎮痛薬で誤魔化してきたせいか膝の神経が再生されなくなったのか。血行を促すことは治癒を助けることと思う。ぽかぽかした後は寒い戸外でも平気だ。再び高岡市に向かった。
 庄川の左岸側には最新刊の『富山の百山』に収録された高坪山、袴腰山、高落場山、高清水山、赤祖父山などの1000m級の低山がごろごろしている。右岸側の牛岳もいつかは登らねばなるまい。林道を行けるところまで行って山頂に立つ。その後は安い宿に泊まり入湯するのも良い。
 R156の路面は完全に積雪路でガタガタと状況はよろしくないが行き違う車は殆どない。雪解け水を満々と湛えたダム湖で人家は少なく静まり返っている。庄川町を過ぎると突然、となみ野が広がった。雪は意外にもない。カラカラに乾いた冬田が広がっている。突然携帯が鳴った。中産連の担当からだった。名古屋からの参加なので心配したのだろう。高岡市内に着いて中食後、13時ちょうど、二上山の山麓に建つポリテクノセンター富山に着いた。
 そこは大門山を源流とする小矢部川の氾濫が運んだ沖積平野だった。富山湾の河口近くになると運んだ土砂の流れが停滞して蛇行を繰り返す。以前は水田だったと思われた。庄川も山間部を抜けてとなみ野を形成しながら小矢部川と隣り合う。水害の危険地帯だっただろう。それでも高岡市のような町が発展したのは標高52mの高台で水害を免れたからと思う。地名の高岡もなるほどと思う。水害を承知でこんな場所でも逃げないのは氾濫の度に土地が肥えるかららしい。
 交流会後、二上山をドライブしたかったが冬期は通行止めだった。二上山は万葉集の大伴家持ゆかりの名山である。ここには私が信奉する俳人・前田普羅の自筆の句碑が建つ。
  ”雪山に雪の降り居る夕べかな   前田普羅”
 万葉歴史記念館も今日は工事中だった。雨晴海岸からの立山連峰の眺めも冬型の気圧配置で曇り何も見えない。得るところなくそのまま帰名した。但し、白川郷まではR156を走った。

俳句と越の小さな山旅2016年10月11日

 10月9日。所属結社「辛夷」のイベントに参加するため、早朝2時に自宅を出た。今年も天気の良くない連休になった。東海北陸自動車道の長良川沿いの道になると降雨が激しくなった。しかもトンネルが連続するのでワイパーの操作が面倒なほど。白鳥ICの手前では豪雨となった。時速60kmに減速し、4WDにONしておく。路面の水量次第で4WDでもハイドロプレーニング現象が起きる。対策は低速で走るしかない。高鷲ICからやや大人しくなる。ひるがのSAで仮眠。飛騨清見から高山ICまで走りR41へ。交通量は多め。
     大山歴史民俗資料館へ
 富山市内に入り立山方面へ右折、旧大山町から常願寺川を渡ると立山町だ。常願寺川はいつも見る氾濫河原が隠れるほどの濁流である。両岸の堤防はここから始まっている。両岸一杯に広がって海まで突進するようだ。
 下流の雷鳥大橋の河川内の標高は115m、左岸(西)の富山地鉄・月岡駅付近の三角点は86、9mですでに天井川になっている。右岸(東)の立山町側は123mで少し余裕がある。つまり、富山平野の東部は常願寺川の氾濫がもたらした。夥しい土砂は五色が原の鳶山の大崩が原因らしい。旧立山温泉は立ち入り禁止になり多くの砂防堰堤が建設されている。
 いつもの道の駅兼コンビニへは7時半に到着。9時まで時間をつぶす。目的地は亀谷温泉の大山歴史民俗資料館だが、小止みになったので雄山神社に寄る。境内を歩く。隣には富山県立山博物館がある。9時過ぎたので大山歴史民俗資料館に向かった。道を少し戻る。山猿が数匹民家の屋根に上ったり道路に下りて何かやっている。常願寺川にかかる小見への橋を渡る。砂防堰堤が滝のようになって奔流する。地響きが聞こえるようだ。小見から亀谷温泉へ右折。九十九折れの道を登りきると有峰林道ゲートの手前が目指す資料館だ。
 今まで登山の帰りに温泉に入湯することは度々あってもここへ寄ることはなかった。時刻少し前だが入館を許された。いきなり伊藤孝一が有峰がダムに沈む前に買い上げた狛犬を見たいと来観の意思を告げた。奥に展示してあるが順路と言うものがある。右回りに説明を聞きながら色々質疑応答して学ばせてもらった。
 想像した以上の山や向きの資料館だった。
 第一展示室では宇治長次郎、金山穆韶(ぼくしょう)、播隆上人が大山町の三賢人として顕彰されている。
 第二展示室は常願寺川の治水と発電、
 第三展示室は有峰、大山地域の鉱山・恐竜となっている。念願だった狛犬は全部で八体展示。太めの犬くらいの大きさで木質系の荒削りな造形である。円空仏のイメージにそっくりである。すると有峰の住民の先祖は単なる農民ではなく、落ち武者だろうか。円空は木地師とされているが、流れ者の木地師に彫らせたものか。
 放射性炭素年代測定という科学的検査で古いものは大体1300年頃と判明したらしい。いずれもひびが入り朽ち始めていることは確かである。パンフレットには
サル 2体 1334年鎌倉末 ヒノキ科
シシ  2体 1452年室町前 軟松類
ヌエ  2体 1531年戦国期 軟松類
クマ  2体 1814~1879年 江戸後~明治初  モクレン科
とあった。
 これを大正9年にダムに沈む前に名古屋のお金持ちで登山家の伊藤孝一が購入したという。一旦は名古屋に持ち出され、疎開で長野県の赤沼家へ一家とともに狛犬も移転した。これを赤沼氏が買い取って松本市民俗資料館に寄贈したという話。それを松本市から富山市は返還を希望して里帰り(有峰は水没したのでJターンというべきか)を果たしたのが平成になってからのことだった。
中々に存在感のある狛犬であった。結構長々と話をした。次の目的地の富山市電気ビルに走った。
      富山市俳句会へ
 13時から年次大会に入った。結社賞などの発表、投句の選評、その後の懇親会、句会など順調に運行された。40歳で入会したころは初代主宰の前田普羅から直接指導を受けた俳人もいた。年々鬼籍に入り、来賓席にならぶ古参俳人は当時の数名から2名にまで減った。1人は2代目主宰の中島正文(俳号:杏子、日本山岳会会員で山岳史家)の直系の俳人である。3代目の福永鳴風を支えた俳人たちが基盤を守って、4代目の現主宰・中坪達哉を支える。俳誌も現在は1080号を数える。来年は主宰継承後10周年となる。
 この10年間には東京のS女を病死で失い、続いて片腕というべきY氏の急死という波乱にも見舞われた。いずれも結社を支える実力は互角の有力俳人だった。3代目の福永鳴風は昭和55年「花辛夷守らせたまへ普羅杏子」と詠んで、指導者に徹する意味でレッスンプロを自認し、継承の決意を示した。鳴風が育てた若手4名のうち2名を失った。将来の発展のための布石を打つ時期が来たと言える。句会後は散会となる。
       氷見市/七尾市・蔵王山(点名:高坂山)へ
 10月10日。本当は7日から8日は毛勝三山の猫又山に登山の予定だった。天気不良、膝の痛みを警戒して大人しくした。10日は降雨は逃れそうなので昨年と同じ能登半島の1等三角点の山・高坂山507mを予定した。
 ホテルを出たのは寝過ごして8時40分となった。R8からR415へ行き、氷見市に向かう。なるだけ富山湾沿いにドライブした。氷見市の北部の阿尾から県道306号平阿尾線に入り七尾市との境界に近い平に向かった。平は氷見市最北の山村であった。つまり富山県最北でもある。入善町や朝日町とほぼ同じ。
 平とは名ばかりで傾斜地に山家が建つ。地形図では20戸を数えるが人の姿は殆どない。こんな僻村でも人が住んでいた。富山県知事選挙の公報があるからだ。どこにも登山口を見いだせないまま石川県まで走ってしまった。林道からは富山湾を見下ろす。雪の立山連峰など素晴らしいだろう。
 平へ戻って古老に山の話を聞くと意外なことを言う。三角点か、有名らしいなあ、大阪や京都からも大勢来る、この前は80歳の老婦人も来たよ、と言うではないか。同好の士である。この山はねえ、1等三角点という希少価値があるんです、と言うとおおそれだ、と答える。歯はほとんどないがはっきりしている。道はなあ、笹を刈ったと聞いている、剣主神社に車を置いて行けや、と教えてくれた。どうやら登れるらしい。
 神社の境内に駐車。12時10分。舗装された農道を登る。舗装が切れた辺りからは棚田の風景が広がったが休耕田もある。登山口の表示を探すがない。農道から山に通じそうな刈り払いがあったがなぜか足が進まなかった。
 高坂山は目前にあり、東尾根が伸びている。農道から草深い踏み跡に分け入り、尾根の根っこまで近づいて地形図にある破線路(用水路沿いの踏み跡)を歩きながら尾根と落差が縮まったところで杉の植林の中を尾根に這い上がった。12時28分。尾根には微かな踏み跡があった。但し倒木もあり度々道を外した。ヤブっぽくなると道に戻る。すると七尾市側の良い道と合流した。広くて浅い沢のようないわば街道を歩いた。山頂が近づくと再び細道になる。13時登頂。3m四方が刈り払われているきれいな山頂である。1等三角点本点である。周囲は雑木林で眺望はほとんどない。25分滞在後、平へ30分とある道標のある良い道を下った。最初は南尾根の樹林の道から山腹を横切り、芒の生い茂る湿地帯を行くとさっきの農道へ出た。何だ、この道か。印は何もない。Pへ着いたのは14時過ぎ。2時間ほどのハイキングだった。
     石動山(せきどうさん)を散策
 まだ時間があるので石動山へも行って見た。そこは山岳信仰の拠点だったという。最高点の564mの大御前に登拝してみた。小さなお社があった。白山宮という。そこから城跡を経て下山した。樹林の隙間から富山湾が見下ろせた。結局医王山、宝達山と来て本当は石動山に置くはずだったが先に神社があって三角点設置はならず、高坂山になったのだろう。資料館のスタッフは白山宮ははくさんぐうで良いが、白山をしらやまと言った。昔は加賀能登も越の国であった。だから越の白山(こしのしらやま)と呼んだ。相当古い歴史の山のようだ。
 さて、思いは果たした。県道306号を戻ってまた富山湾沿いに走った。虻ヶ島からの立山連峰の眺めが素晴らしいと宣伝する表示があった。
http://www.info-toyama.com/image/index.cfm?action=detail&id=1124
このサイトを見ると確かに素晴らしい眺めだ。剱岳を中心に左に毛勝三山、右に立山が見える。湾に浮かぶ島が前景で立山連峰が借景になっている。こんな時期に来たいものである。今日はあいにく厚い雲の中だ。
 R160をひたすら走る。いろいろな観光施設が新しい。R160からR415を走り高岡市に着いた。R156から砺波ICで北陸道へ。今回は米原経由で帰名。
 これで『一等三角点全国ガイド 改訂版』(ナカニシヤ出版)に収録された1等は愛知県、岐阜県、奈良県、富山県、福井県は完全踏破、石川県は穴水の河内岳、輪島の下山村(三蛇山)と鉢伏山、七尾の天元寺(遍照岳)、宇出津の沖波山、小松の清水山が未踏。離島の1等3座は行かない。三重県は大平尾村4.5mのみ未踏。長野県は大物では四方原山、長倉山、八風山、が残る。

特別寄稿「歴史と信仰の山を訪ねて」を拝読!2016年09月24日

 このほど日本山岳会の年報『山岳』NO111が届いた。早速ページをめくる。巻頭記事は徳仁親王(皇太子殿下)の「歴史と信仰の山を訪ねて」である。
 殿下は5歳の時に登った軽井沢の離山を皮切りに山歴50年という。登った山の数は170余りとある。皇室ゆえの制約を考えるとよく登っておられると思う。
 お好みの山は歴史と信仰の山だとされる。中でも歴史的に登拝の道そのものに関心を持たれている。つまり汗を流してそれ自体を楽しむスポーツ登山にとどまらず、「私にとって信仰の山への登山は、過去を偲びながら歩む生きた歴史探索なのである」と書いておられる。
1白山
2両神山
3伯耆大山
4大峰山
5甲斐駒ケ岳
6御正体山
7権現岳(八ヶ岳)
8鳥海山
9伊吹山
10大山(神奈川県)
11茶臼岳(那須)
以上
 各山を思い出とともに語られている。確かに白山は大自然と信仰の歴史の山である。立山や乗鞍岳と違って観光開発は最小限に抑えられている。山体が大きく眺めも抜群に良い。高山植物も豊富であり、山腹にはブナ、トチなどの喬木が残る。何より登山道と言わず、禅定道という歴史の道が皇太子の心に浸みこむのだろう。
 冒頭の文に戻るが「私は山を訪れることにより味わう大自然との触れ合いに大きな魅力と喜びを感じる。山に入るといかに人間が小さく大自然に対し無力なものであるかを感じるのは常である」、「私は、比較的静かで山体の大きい山を好む」と言われる。皇室の方とはいえ、日本人として共通の認識を抱いておられることに嬉しくもある。

東三河・本宮山・・・宝川源流を登り、表参道を下る2016年05月28日

 7時30分、自宅を出る。空は曇りがちだ。東名はやや通行量が多い。豊川ICを出て旧一宮町舎の信号を左折。県道21の交差点で右折。ウォーキングセンターへは8時30分に着くがまたも駐車スペースがなく右往左往する。遅かったのだ。人気の山は遅出には厳しい。そこで宝川の方へ直接行くこととした。県道21へ戻り、宝円寺のシダレサクラの案内板で右折。2車線の道を走ると里のはずれで1車線に狭まる。やがて新東名のトンネルをくぐる。右へ曲がると林道が続くが、未舗装になった辺りでUターンして駐車。
 9時30分林道を歩き出す。延々と続く林道だがところどころには道標もあって確認できる安心感がある。勾配が急になった先で終点。右岸へ木の橋が渡してある。滑りやすい板に注意しながらわたる。ここも結構広く林道の残存かと思われる。しかし、いよいよ沢に近づくと山道になる。
 岩をからむ道を行くと前方に滝が見える。また左岸へ渡渉する。滝は左岸から巻き、右から落ちてくる沢を注意しながら渡渉する。勾配はますます急になったがちょっとした平らな休み場に着いた。480mという。駐車地点で見た二人連れが休んでいた。
 国見岩まであと0.5kmとある。炭焼き窯の跡がしっかり残っている。戦後、石油が輸入されるまでは木炭は高く売れたという。だからこんな高い山奥まで炭を焼きに来たのだろう。
 ここから右の源流の音を聞きながら登ってゆく。かなりの勾配である。木の階段でステップを踏みやすく整備されているから安心である。そして、鎖場の連続するもっとも勾配の急な斜面をよじ登る。鎖は最初は2本で終わった。落石に注意しながら登ってゆくとまた鎖が現れた。大きな岩を直登するコースと迂回するコースに分かれたので迂回する方向に振った。その先にも道標が立っている。一方は林道へ、国見岩へと分岐する。その先でも鎖場をしのぎながら行くと鎖の三叉路になった。さっきの直登コースが上がってきたところだ。上から下山してきたので譲ると直登コースを下る。聞くと下に岩戸神社があるという。それなら見逃すわけにはいかないと迂回コースを下って直登コースに上がるとなるほど岩の間に何か祀ってあり、水が出ている。ちょっと拝んでから直登の鎖をつかんで攀じ登る。左へ急斜面を登ってゆくと国見岩に着いた。短いながら手ごたえ十分のルートであった。
 ガイドによればこの岩の下部に岩戸神社があると説明されている。さっきのは岩戸神社じゃなかったのだ。
 赤い鳥居をくぐって山頂直下の広場に着く。更に奥宮順拝路へ行くと山頂へ左折して橋を渡る。すぐに山頂だった。表参道を下ると多くの登山者とすれ違った。さすがはメインルートだけはある。大杉の林立する厳かな雰囲気を味わいながらくだった。途中に水場は2箇所あり、登りでも下りでも水筒の要らない山だなと思う。そのせいか、砥鹿神社境内の自販機は100円だった。
 基本的に展望のない尾根の一本調子の登り下りになる。それに飽きさせない工夫かどうかは知らないが、山姥の足跡、蛙岩、梯子岩、馬の背岩などの仕掛けをしてあった。
 ウォーキングセンターに着いて、マイカーデポ地まで行く。素戔嗚神社を経て宝円寺を見て歩く。農婦としばし世間話する。本宮山松源院の話も聞く。更に歩くと新東名も見えてきた。やれやれだ。W・Cから約40分だった。本宮の湯で汗を流した。帰路は県道21、R1、県道57、県道56とつないで走った。それでもまだ明るい。夏至が近づいてきたなと思う。

松平郷から天下峯を歩く2015年12月12日

 過去の記録  王滝溪谷から天下峯を歩く
http://koyaban.asablo.jp/blog/2009/10/22/4647334

 以前は王滝溪谷から歩いた。今一歩きでがないので、松平郷から試みた。
 9時30分過ぎ、名古屋を出発。東の空は雲が厚い。暖かいので空気が湿っているのだろう。R153は流れもよく、豊田市をスムーズに通過できた。R301になり、矢作川を渡る橋で、流れが渋滞すると、ふっと目の前を見ると、目の前に焙烙山と六所山が並んで、屏風のように聳える。
 10年前の合併で豊田市最高峰の名誉は剥奪されたが、豊田市民には朝な夕なに眺められ、親しまれている里山である。天下峯は前景に埋没して同定はできない。
 R301は丘陵地を越えて、東海環状の豊田松平ICを左に見て下ると巴川にかかる松平橋を渡る。右折し、案内にしたがって左折する。豊田松平ICから7kmで松平郷への案内板のある三叉路に着く。左折するとPとトイレがあるが、松平東照宮や高月院はまだ奥まで走る。11時前に着いた。
      松平郷・沢連(そうれ)の山里を歩く
 今日は休日なので農産物を売る露店が開店していたので白菜と里芋を買った。車はまばらにある。すでにシーズンは過ぎて閑散としている。しかし、名残りの紅葉も素晴らしい色彩を見せる。11時過ぎ、身支度を整えて、天下峯に向かう。六所山への登山口を右に見送り、高月院への道も見送る。車道歩きである。坂道を歩くと左に在原家のミニガイドがあるが、下山後に見送る。
 登りきった三叉路を右折。セメントのよう壁の前後に枝道があり、下は高月院への近道と石碑があった。
 ぐんぐん急な坂道を登ると二股になるが道標を見て直進。暖冬のせいで道路わきのツツジが狂い咲きしている。右折の道も上部で合流する。一軒の住居と建物があるが行き止まりだ。ここからヘアピンのように左折する。車道の幅はあるが通過は困難だろう。
      六所山を遥拝する東宮口へ(ひがしみやぐち)へ
 荒れた舗装から地道になり、きり開きを越えるとまた舗装路になる。桧、杉の植林山の山腹を巻く感じだ。残された渋柿がたわわに実っている。照葉樹林の青、雑木林の彩り、針葉樹の植林と変化する。車道は一旦下って軽く乗り越す。ほとんど平坦な道になった。そのまま歩くと六所神社のある東宮口に着いた。東宮(とうぐう)とは皇太子の意味があるが、橋の名前のところに地蔵橋とあり、宮口川とあったので宮口の東の意味か。
 ここは六所山の麓であり里宮である。農村舞台もある。あるHPにはかつては宮口村といい、社領だったという。村の氏子二人が毎月二度、上宮(うえみや)清掃の当番に当たる、と書いてある。宮口音頭まであるそうだ。数分下ると、坂上町字金姓(かねしょう)の地にある下宮一の鳥居が建っていた。鳥居からは六所山が背景に見える。あの山は明神山(六所大明神)とも呼ばれたが、山全体が御神体であり、古代からの遥拝地なのであった。なぜかここだけが残されたのも神聖な場所だからだろう。
     神聖な六所山遥拝の地を育む水田
 それにしても仁王への分岐にある宮口川の橋から眺める六所山は素晴らしい山容である。三河三霊山(三河本宮山、猿投山)の一つというだけはある。緩やかな丘陵地形に挟まれた谷の風景は、鎌倉市辺りならば谷戸(やと)という地形である。多すぎない水量の宮口川は美しい水田を潤す。地形図を眺めると六所山の西麓だが、南側の山が低く、朝早くから陽光に恵まれるのだろう。そして水田を北側に集約し、宮口川を南の山陰に寄せて流す。北側に民家も寄せているが、背後からも小さな流れがある。制御しやすい湧水は農業に助かる。
 十二月の今は穭田(ひつじた)になっている。地味が豊かで今にも生育しそうだ。「刈り取った稲の株から再び生えてくるひこばえを穭(ひつじ)といい、一面に穭の生えた刈田を穭田という。乾いた田の面を吹く風に弱々しい青い葉が揺れているのは晩秋の寂しい眺めだが、中には青々と葉が茂って、小さな穂をつけるものもある。枯れ果てた四囲の景の中でその青さは目にしみるが、やがて霜が来ると白々と枯れてゆく。それまでの間、穂をついばみに」降りてくる小鳥の声がしばらく穭田ににぎわいとなる」(水原秋桜子編『俳句小歳時記』大泉書店 より)
 六所山は農の恵みを与えた山だった。
     仁王から天下峰へ登る
 宮口川に沿う細い車道を下ると仁王に着く。ここが天下峯の登山口になる。王滝への道から右折すると民家が肩を寄せ合うように建っている。奥まで歩き橋を渡る。奥の民家で行き止まりとなるので細い山道に右折する。すぐに安全寺に着く。松平親氏が天下泰平を祈願したという謂れが書いてある。山門には天下山とある。
 奥へ入るのは略してそのまま植林内の山道を登る。細い車道に出ると天下峯への小さな道標がある。車道を登って行くとほどなく天下峯への山道が分かれる。楓の冬紅葉が美しい。右はフリークライミングのゲレンデに直行し、上部で左折する。そのまま車道を行くとトイレとPがある。すぐ右手に天下峯への山道が登って行く。
 どちらでも良いがこちらの方が少しは短い。周囲は巨岩の並ぶ急峻な山腹である。その所々に石仏が安置されて心休まる。クライマー達は大きな取り付くシマのない巨岩に取り付いて攀じ登る。その横をすり抜けて階段状の道になるとすぐに巨岩の横たわる頂上である。13時少し前に着いた。
 頂上からは豊田市の市街地も眺められるが、何といって六所山の眺めが良い。左には兄貴格の焙烙山も並ぶ。少し背が高いが山格は六所山に及ばない。松平親氏はここからやがて天下を治めるぞ、と祈願した。企業経営者なら何々で日本一になるぞ、とか、願うことだろう。トヨタが日本一から数十年で世界一を実現したように願わないと実現もしない。13時30分過ぎ、下山。
     東照宮へ
 元の仁王へ戻る。361号を王滝へ歩き、橋を左折。豊松小学校のある峠道を越えて360号へ下る。少し登り返して東照宮へ2.3kmの案内のある車道を歩く。羽明という山さとを経て登ると沢連(そうれ)に着く。往きに見た在原家の墓所のある在原山に寄った。在原家は松平の遠祖という。徳川さんは先祖を大切にしたんだろう。
 車道を下ると松平郷に戻った。山頂から東照宮まで約4kmで1時間程のこと。ほぼ4時間弱の山里ウォーキングでした。東照宮には大勢のハイカーが説明を聞いていた。Pには大型のバス1台があり団体さんらしい。閑散と思っていたが意外にも午後から来訪する人が多かったようだ。