山岳古道⑨北畠が陸奥へと赴任した東山道2021年02月22日

 『神皇正統記』の著者の北畠親房の足跡を追う。

https://1000ya.isis.ne.jp/0815.html
「 北畠親房が『神皇正統記』を書いたのは、常陸の筑波山麓にたつ小田城の板の間でのことだった。同じころ吉田兼好が『徒然草』を書いていた。二人の執筆の姿勢はまことに対極的で、親房は日の本を背負い、兼好は草の庵を背負っていた。14世紀になってしばらくのこと、内乱の時代の只中である。」

「 こうした親房が『神皇正統記』をなぜ陣中で急いで書いたのかというと、これは東国武士に南朝への参加を説得するための分厚い政治パンフレットだったのだ。かつては後村上天皇のために書いたとされていたのだが、いまでは関東の“童蒙”(かんぜない君主)、すなわち結城親朝の説得のために書いたというのが定説になっている。
 けれどもその効果は出ずに、説得工作は失敗をする。しかもその直後に後醍醐の崩御を聞いた。親房は傷心のまま吉野まで帰ってくることになる。まだ十代の後村上天皇はさすがに親房の労をねぎらい、准大臣として迎えるのだが、親房は静かに黙考して、動かない人になっていた。つまり『神皇正統記』は後醍醐存命中にこそ流布されるべきレジティマシーのための一書パンフレットだったのである。」

「浪岡氏(なみおかし)または浪岡北畠氏(なみおかきたばたけし)は、村上源氏の一族北畠家の流れを汲む陸奥の国司の一族とされる。

「後醍醐天皇の命により国司として奥州を支配した北畠顕家の時代には、2度までも足利尊氏を危機に追い込むほど強勢を誇ったものの、顕家が2度目の上洛戦で戦死し、勢力を引き継いだ弟の顕信も、傘下の武士の離反や幕府より奥州に派遣された吉良氏や斯波氏のために勢力を衰退させていったという。顕信の後半生ですら不詳であり、それ以後の歴代当主の事跡は、戦国期に登場した具永(後述)以前のものは判然としてはいない。

当初は南朝ゆかりの南部氏に保護されて、稗貫から閉伊船越にいたようであるが、やがて三戸南部氏が北朝方についたため、根城南部氏の庇護のもと、浪岡に入部した[2]ものと推測されている。[3]

現在の地に15世紀後半に浪岡城が築城されたとみる説[4]が多い。北畠氏は浪岡を拠点としたことから「浪岡御所」と呼ばれて、浪岡の位置する津軽田舎郡から外浜・西浜にかけて勢力を維持することとなった。」

 北畠氏は14世紀に日本史に登場する。三重県で一代勢力を拡大した時期もあったが、親房は長男とともに奥州統括のために多賀城へ赴任する。その時の通路は東山道であっただろう。京都から神坂峠を越えて陸奥までほぼ東日本を縦断する幹線であった。
 不思議なのは青森県の北畠氏の存在である。浪岡氏が復姓したのだろうか。どうやって調べるのか見当がつかない。
 それでも青森に北畠八穂が生まれたことは確かであり、錯綜した歴史の中で流れ流れて青森に定着したのである。

山岳古道⑧松浦武四郎が歩いた大台への道2021年02月21日

 晩年の松浦武四郎が歩いた道がある。大台ケ原と尾鷲を結ぶ古道である。この道を何度も往復している。ここ以外にも奈良県側からも入山している。古くから人が入っていたのである。

「小屋番の山日記」から
初冬の尾鷲道を歩き、マブシ嶺に登る
http://koyaban.asablo.jp/blog/2017/12/11/8746470

 身支度を整えて出発したのは7時56分。地蔵峠までは林道歩きである。軍手をはめても非常に寒い。峠からは山道に入るが、橡山に続く尾根を切通しされたために古い峠の趣はない。非常階段のような急登を強いられる。地元の篤志家らで転落防止のロープも張られている。尾根に届くと稜線歩きとなり山道も安定する。
 木立は落葉して見通しが良い。最初の道標は古和谷分岐である。ここからが古来からの尾鷲道である。下山路として今も歩けるのかどうかは不明だ。先へ進む。数分で又口辻だ。ここから山腹の水平道に入る。ふかふかの落葉の山道を歩く。北面には雪が積もっている。温暖なイメージの南紀の山にも寒波が来た。山腹の道、特に沢をまたぐ所は壊れやすく注意を要した。やがて新木組峠に着いた。ここは極端に寒かった。雪をかぶった大峰山脈が見渡せる。寒いはずである。峠の風下側に下ると若干寒さが和らぐ。少し食べたり飲んだりして休む。
 寒風に曝されながら落葉樹の冬木立の尾根を歩く。いかにも冬の山旅である。そうして木組峠に着いた。峠から破線路があるが尾鷲道は少し下る。先程ははげ山を越えたが山腹の尾鷲道は消失してしまったようだ。テープに導かれて山腹まで下ると再び道形を見出して歩いた。
 山腹を巻き終えると一本木の杭を見だした。あとは山頂までひと踏ん張りである。
 標高1216mの緩斜面に展開する雑木林は今は疎林となって平らかな別天地である。夏ならば緑濃き動物の楽園であろうか。
 山頂直下の疎林の中を歩く。北西からの寒風のせいか樹木はなべて矮小化している。余りの寒気に毛糸の手袋を出そう、雨合羽をはおろうと考えるうちに11時30分に三角点1411.0mに着いた。マブシ嶺である。
 紀勢線に名古屋から夜行列車がある頃から尾鷲道を歩いて見たかった。今回は三分の一くらいを歩いたことになった。大台ケ原山は高くはないが深い山域である。ヒマと交通の面で中々実行できなかった。伊勢道も久居ICまでしかなかった。R42を延々走ったものだ。名古屋から約230kmはあった。高速なら橋とトンネルでつないで180kmに短縮できる。
 大台の開拓を試みた松浦武四郎も奈良県側から入山し、下山は尾鷲道を下った。大杉谷を初遡行した大北聴彦と大西源一も下った歴史の道であった。

 以前はコブシ嶺(*1)と覚えていたが、このほど発刊の『分県登山ガイド 三重県の山』によれば松浦武四郎の紀行にマブシ嶺とあるのでそれに従ったという。私も松浦武四郎全集の中の絵図で確認した。どちらも由来までは言及はない。
 休憩の後、最高点まで行って12時30分に下山した。往きとは違い、寒気も和らぎ、陽光を一杯浴びて少し暑さも覚える日だまり山行の雰囲気になった。往路をそのまま戻り、15時10分ゲートに着いた。
 帰路はニホンジカ3頭に出会った。昨夜はタヌキ2匹を見た。けものが多い山域である。

*1コブシ嶺=この山だけを目指す登山ガイドは前掲の本が初めてだろう。過去のガイドブックを調べた。手持ちの書籍では
 ①昭和54(1979)年刊行の仲西政一郎編『近畿の山』(山と渓谷社)の大台の山と谷の地図に掲載。北の鞍部は雷峠になっている。点名は雷峠1である。雷峠から東の川へ本谷沿いに破線路が示されている。木組峠も木組谷をからむ山腹に破線路があり廃村木組がある。
 ②平成10(1998)年の小島誠孝『台高の山と谷』には尾鷲道が独立して章建てされている。ここでもコブシ嶺と書かれている。取材当時は伐採跡だったらしい。木組峠から古和谷へは猛烈なブッシュだったという。 
 ③『台高の沢』の見ひらき地図にもコブシ嶺とあったから関西岳人はコブシ嶺を踏襲しているのだろう。
 三重県の岳人らが調査して出来た書籍には
 ④平成21年(2008)年の津・ラ・ネージュ山岳会選『三重の百山』もコブシ嶺になっている上に大台ヶ原からの往復コースになっている。この当時は写真を見ると木立に囲まれて展望はないとある。今とはえらい違いである。以南は廃道化しつつあると案内してある。
 ⑤平成25(2013)年の伊勢山の会『宮川源流53山』には、大台ケ原からの往復ルートで紹介。まぶし嶺とある。この本では「展望360度の絶景の山である」と書いてある。写真にも高い樹木はない。
 
 コブシ嶺とマブシ嶺は2008年ころから変化したらしい。ネットの検索では以下が詳細である。最近ではマブシ嶺(コブシ嶺)と書いてあったりする。南から1411mのマブシ嶺に突き上げる光谷からか光山ともされる。(但し今の道標では1184mの山に当てられる。)

山岳古道⑦菅江真澄が歩いた道2021年02月20日

 みちのく・えぞのロングトレイルの創始者かと思う。
 単に物見遊山ではなく、知的な発見を求めての旅だからオデッセイだった。成果は『菅江真澄遊覧記』にまとめられている。

 『菅江真澄遊覧記』1の書き出しは「この日本国内のすべて古い神社を拝みめぐって、幣を奉りたい、」と旅に出て行った。信州にはかつて姥捨て山にも登ったことがあり、飯田の街に住む当時の友人からのお誘いもあったらしい。
 風越の山は名のみそ治まれる御代の春とて花の静けさ
を詠んでいる。

 真澄の脳裏には何があったのか。愛知県の豊橋市に白井英二後に秀雄の名前で生まれた。白井姓はたしかに東三河には少なくない。30歳で両親に別れを告げてあるかみちのくへと旅立ったのである。名古屋では本草学、国学を学んだという。
 その中に旅のヒントがあったのだろう。弥生文化の西端だった名古屋から豊橋地域から東は山岳を越えねばならなかった。伊那街道は山越えが続くので足助に回り込んで塩の道を歩き、愛知長野県境の杣路峠を越えた。いわゆる飯田街道である。それから治部坂峠を越えるともう難所はない。昼神から飯田へ。飯田の風越山のふもとの白山神社に詣でた。そこで道々採集していた薬草を小児科医に売って路銀を作っている。
 ここはもう東日本の縄文文化圏である。そこから北上しうとう(善知鳥)峠890mを越えて塩尻の洗馬へ。塩尻ではもてなしを受けたという。
 「信毎おでかけ」によると
「 塩尻市の本洗馬歴史の里資料館で7日、江戸時代の文人で紀行家の菅江真澄(すがえますみ)(1754〜1829年)の没後190年記念展「菅江真澄旅の始まり」が始まった=写真。県内に残る菅江の直筆作品全14点を初めて展示。地域の行事など菅江の絵画作品もあり、当時の暮らしぶりが分かる。

 菅江は1783(天明3)年から1年余、同館隣の県史跡「釜井庵(かまいあん)」を拠点に県内各地を訪ね歩いた。今回、県内で菅江の直筆作品を所蔵している個人らから借りた。

 須々岐水(すすきがわ)神社(松本市里山辺)所蔵の和歌の掛け軸「ぬさとれば」は初めて一般公開した作品で、菅江が同神社を訪れた際に詠んだ歌だ。菅江が県内滞在中に読んだ和歌133首をまとめた歌集「雄甫詠草(ゆうほえいそう)」などもあり、学芸員の中原文彦さん(67)は「これだけの直筆作品が一堂に並ぶ機会は貴重」と話す。

 菅江は短歌だけでなく、絵図も残している。拠点としていた洗馬の七夕や県内各地の風景など当時の様子も紹介している。」

 真澄は道中のスケッチや短歌を詠んだという。それらを一宿一飯のお礼に置いていったのだろう。松浦武四郎も篆刻の技があり、泊めてもらったお礼に置いていったらしい。泊める側の宿主は西日本の珍しい話をせびったのだろう、さあさ、もう一献などとやりながら情報交換したと思われる。
 宿主に残した絵は後々に研究家がまとめて『真澄遊覧記』と書籍化された。
本洗馬歴史の里資料館からのお知らせ
https://www.city.shiojiri.lg.jp/tanoshimu/hakubutukan/motosebarekisinosato/oshirase.html

菅江真澄『すわの海』から「御頭祭」 21.9.18
https://yatsu-genjin.jp/suwataisya/sinji/suwaumi.htm

菅江真澄が見た天明4年の上社本宮 21.10.18
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/zatugaku/sugae.htm

名酒 真澄の由来は
「地元諏訪の諏訪大社の宝物「真澄の鏡」から由来
創業は1662年(350年超え)でとても由緒ある酒蔵さんなのです!
どうやらもともとは武家で、戦国時代に一度地元を追われて50年ほど静岡で過ごすことになったが、ようやく戻ってこれた時に刀を捨てて酒屋になったとのこと。」

 東洋文庫『菅江真澄遊覧記』1の年表を読むと、
1782年 29歳 5月 木曽路を歩く。三河から駿河ま、また京都へ行ってくる。

1783年 30歳
1月    伊勢神宮参宮
2月末  故郷三河(岡崎市)を出発
3月    信濃下伊那郡に入る(伊那の中路)
付録の旅の軌跡を見ると風越山に登った
5月24日 東筑摩郡洗馬村に至る
8月15日 姥捨山に登る(わがこころ)
11月末  亡母の三回忌を行う(手向け草)

1784年 31歳
1月    信濃諏訪地方を往復す(諏訪の海)(庵の春秋)
6月    越後を経て奥羽へ出発(くめじの橋)
9月    出羽へ入国す
10月   雄勝郡柳田(秋田県湯沢市)に至る(秋田のかりね)
・・・5月から翌年6月まで信濃に居た事になる。

名前の変遷
1754年  白井英二 青年になってから秀雄
1783年~1800年 津軽に居るころまで白井秀雄を名乗る
1801年  8月 弘前から西津軽郡鰺ヶ沢にくる 白井真澄になる
1808年  秋田県能代にて菅(すが)水斉を名乗る
1810年  以後、菅江真澄を名乗る

以下省略

・・・私は諏訪大社を参拝してから真澄を名乗ったかと思ったがずっと後だった。さらに菅江を名乗る前に菅を名乗ったという。
 脱線するが「略。 愛媛県・山形県・秋田県などに多く、読み方は愛媛では96%以上、山形では90%以上が「かん」で、秋田では99%以上が「すが」である。 ... 「菅」姓の人数は約4万人で全国順位は500位前後であるが、愛媛県今治市では7位、秋田県湯沢市では6位、山形県最上町では最も多い名字となっている。」(ウィキペディア)
 ちなみに菅(すが)義偉は秋田県、菅(かん)直人元総理は山口県である。

山岳古道⑤生活の道だった熊野古道(馬越峠と八鬼山越)2021年02月18日

東紀州の八鬼山と高峰山
http://koyaban.asablo.jp/blog/2009/01/25/4080883

林道の交差地点から急坂になり、いよいよ山に登る感じがしてきた。石畳の道は相変わらずであるが階段状になり、一歩が歩きやすく感じるのは登山のための道と違って昔の生活道路であるからだ。三角点のような「曲点」の標石が埋まるカーブも丸くて柔らかい曲がり方ができる。恐らくは紀州藩の役人の言いつけで村総出で道普請に借り出されたであろう。雨の多い地域だけに流出しないように重い石を敷き詰めたのである。その苦難たるや後の世の人間には想像もできない。
 降りてきた人は2名か3名、追い抜いていった人も1名程度で閑散としている。それはこの八鬼山越えが熊野古道で一番の難所だったからだ。坦々と単調になりがちな古道歩きである。喘いで登りつめた峠で昼食をとるために一休みした。峠の向うに湾が見下ろせた。古い時代の山旅人も同じ感懐を持ったであろう。峠は風の通り道なので風に乗って再び小雪が舞って来た。
 八鬼山へは峠を右へ更に登った。やがて荒神堂に着いた。古い建物が二棟道を挟んで建つ。そこをやり過ごすとまた広い石畳の道となって登る。平坦な稜線を歩くと三叉路に着いた。ここが八鬼山越えの頂点だった。ここも非常に寒い。小広い平地に海を見下ろす東屋が建つ。熊野灘を見下ろせた。  
 寒いせいか先を急ぎたい気分もあって山頂への道も不明なのでそのまま道を辿った。又戻って桜の森へ340mの案内にしたがって行った。平坦な道の左奥が八鬼山の山頂らしいが三角点もないのでパスして下る。だらだら歩いていくと左に椿園がある。二股に分かれるので左を行くと熊野灘に面して東屋の建つ桜の森園地であった。芝生のややラウンドした園地は広々してどこでも腰を下ろせる。東屋に立つと熊野灘が180度に展開した。素晴らしい景色に感嘆した。
 桜の森を見て周ると江戸道と称する案内があった。先ほどの左への道は江戸道だったのだ。改めてガイドブックを見ると三叉路の先は明治道であり、ここだけは道の付け替えが行われたようだ。江戸道を下ると急坂に次ぐ急坂で険しいことが分かった。明治道はそれを改良したのだろう。概ね照葉樹林の中の道はいかにも紀州の山に居る感じがする。
 十五郎茶屋跡があり、海が見下ろせた。しかし、まだ標高は400mもある。急坂を下りに下った。やや広い明治道と合流した。江戸道は登山道に近い付け方であった。どんどん下ると登山口に着いた。子犬が我々を迎えるように吠えた。猟師が一人留守番をしていた。世間話をして別れた。
 殆ど平坦になった古道はやがて人家の間を抜けて車道に合流した。ここにも世界遺産に反対する地権者の看板が立っていた。キチンとした文章で意味のよく通る意思表示であると思った。車道をJR三木里駅まで歩く。15時30分着。ようやく思いがけなく長かった古道歩きも終った。

東紀州・熊野古道から天狗倉山を歩く
http://koyaban.asablo.jp/blog/2014/06/03/7334427
前方を見るとほぼ直線に石畳の道が伸びていく。デザイン的にも洗練された美しい道である。せせらぎを2箇所渡る。タオルを濡らして涼をとる。更に行くと右前方が皆伐された斜面が見えた。そして思いがけず林道が横切っている。眺めはいいのだが古道の雰囲気は台無しである。すぐ先が馬越峠であった。茶屋のあとは植林してある。一角から尾鷲市街を見下ろせた。
 一休みの後、天狗倉山に向かった。やや急な山道をよじ登ってゆくと道は二股に分かれている。今回は右にとった。山頂の大きな岩を巻くとすぐに鉄梯子が見えた。岩に登って休止。風も無くかなり暑い。降りてもう一つの岩に移ると風に当って涼しかった。尾鷲湾がよく見える。遠望はガスがあってすっきりしない。
 下山する。高齢の地元ハイカーと行きかう。何度登っても楽にはならんと言った。そりゃそうだ。峠に戻り、尾鷲市側に下った。こちら側は傾斜がきつい。ドンドン下ってゆく。多くの散歩の人と行きかう。こんな山のふもとに住む市民は幸せである。
 尾鷲に来るたびに訪れる喫茶「山帰来」に寄った。オーナーの川端守氏は登山のために不在だったが奥様が、開店10時のところ、30分早めに開けていただいた。冷たいコーヒーを注文。2年から3年に1回は来ているので見覚えはあるようだ。山の話題でもちきりになった。特に熊野古道に関して『熊野古道 古辺路紀行』を著されたこと、熊野古道センター長に就任されたこと、世界遺産登録10周年の今年はイベントも多くご多忙の様子だった。

山岳古道④水戸の天狗党が越えた官道2021年02月17日

  蠅帽子峠までは行ける。ブナの疎林が素晴らしい尾根歩きである。但し登山道は整備されておらず、多少は藪っぽいところがある。登山口も3m程度の渡渉を強いられるから簡単ではない。
 
過去の記録「晩秋の蠅帽子嶺に登る」から

http://koyaban.asablo.jp/blog/2015/11/

 水戸天狗党の武田耕雲斎ら800名は150年前の12月初旬にこの山路を乗り越して、越前国に入り、山伝いの村落をつなぎながら、敦賀市まで苦難の旅を続けた。
 800人というから先頭から最後尾まで1人分1m超の間隔とすると、ほぼ1kmの隊列になっただろう。馬もいたし、大砲も分解して運んだという。徒労といえば徒労の旅だった。
 苦労も空しく京都の徳川慶喜には会えず、越前藩は優遇してくれたが徳川幕府方に渡ると鯡倉に押し込められてその後は斬首にされた日本刑法史上最悪の結果になった。日本の夜明け前の暗さを反映したような事件だった。

山岳古道②権兵衛峠-伊那のコメを木曽へ運んだ道2021年02月14日

 HP「みはらしファーム」から
http://www.dia.janis.or.jp/~miharasi/miharashifarm/shoukai/toge/index.html

 昔々、伊那と木曽との間にわずかに人だけが通う険しい峠道がありました。
 ある者は転倒し、鍋を欠いたことから「鍋懸峠」と呼ばれました。
 この峠を馬の通える峠に整備し、米不足の木曽へ伊那の米を運ぼうと、木曽町日義神谷の牛方、古畑権兵衛は木曽11宿にこの峠の開発を呼び掛け、自らも進んで工事を進めました。伊那側では木曽の助郷人馬役(中山道経営のための労働提供)の割り当てを恐れ、初めは開発に消極的でしたが、ついには伊那側15ヶ村の協力により元禄9年(1696)に完成したのです。
 以後、伊那からは大量の米が、木曽からは漆器などが運ばれました。以来この峠はいつしか「権兵衛峠」、峠への道は「米の道」と呼ばれるようになったのです。

小屋番の山日記「秋冷の権兵衛峠 」
http://koyaban.asablo.jp/blog/2014/10/05/7450584

山岳古道①覚明行者の開拓した登拝道ー木曽越峠から白巣峠2021年02月10日

 山岳古道についての打ち合わせ会を持った。会として五か所をアップすることになるが、その組織づくりを始める。切り口をどうするか。これが古道だと取り上げても賛意が得られるか、興味を持たれるかが疑問である。そこであらまし歴史的な人物、食い物文化、古墳、信仰などのカテゴリーを考えてみる。
1 御嶽山の黒沢口の登拝道は春日井の覚明行者という。
「御嶽山を一般の人が登拝できるようにした覚明行者の誕生地ということで、春日井では江戸末期から明治時代にかけて、誕生講を中心に大部分の市域で御嶽講が結成され、下街道は御嶽参りの人々でにぎわった。そして、多くの先達が輩出し、市内各所に霊神碑が林立するお山が分布している。
現存する講を御嶽信仰の上部団体との関係でみると、御嶽教はなく、神道大教4、木曾御嶽本教3、地元完結型3である。(註6)」

「中央線が明治33年(1900)年多治見まで、同35年中津川まで、同43年木曾福島、翌年塩尻まで全通している。鉄道が開通するごとにその終点から御嶽をめざし、下街道から御嶽詣の人たちの姿は消えていった。
中津川まで開通してからは、付知―白巣峠―王滝村から頂上をめざすルートもにぎわい、付知には宿屋が5軒ほどあったという。(註2)」

http://s-i-n-o.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-d1a749.html

「木曽越峠の名は、木曽義仲が越えたという伝承によるが、加子母から木曽越峠、信州王滝村に抜ける道は、江戸時代の寛政年間(1789-1801)に御嶽登山道として、御嶽行者の覚明によって開かれた。余談ながら、覚明は愛知県春日井市牛山町の出生で、名鉄小牧線間内駅前に覚明霊神の像があるので親しみがある。加子母村から木曽越峠を越えて渡合へ、さらに白巣峠を越えて滝越経由で、王滝へと至るルートだ。嘉永2年(1849)には、この御嶽登山道が荒れてきたため、加子母村と王滝村の人が中心になって、補修の寄付を募っている。文久2年(1863)には、加子母と付知の人が発起人になり、道に迷って命を失った人の菩提を弔い、道案内として登山者を守るため、加子母村を基点に王滝村まで33体の石仏の観音像が安置された。」

鳳来寺山と深田久弥2021年01月17日

 おかめ茶屋の店主は今年91歳という。2021年の91年前は1930年というから昭和5年。そうか私の母親と変わりない年代になる。店内に新聞のスクラップの掲示があったので尋ねると25歳から五平餅を作り始めたらしい。すると1955年になり昭和30年だ。門前町が栄えてていた時代は観光バスが来て旅館も繁盛していた。自分も手伝いに行ったという。
 観光にテコ入れするかのようにパークウェイが開通したのは1971年のことで昭和46年になる。
 参道を歩くと確かに廃業したらしいお店が多かった。わずかに名産の硯石の店は2軒残っていた。旅館の「桔梗屋」さんは休業中の札が下がっていたがこのご時世では廃業に近いだろう。もう一軒も少し奥に大きな合掌造りの建物と別館があり往時の隆盛が偲ばれる。あのお婆さんがお手伝いに行ったのはここだろうか。別のブログ「江戸時代には、代官屋敷があり、旅館60軒、芝居小屋2軒があった」らしい。それも今は昔のこと。
 『山頂の憩い』で深田さんは名古屋での講演会を終えるとともに登山用具店を営むデカさんとジャコさんを誘って鳳来寺山へ行く。当時は東名高速も岡崎ICで降りると後はR1を走る。豊橋市から豊川、新城と北上。長篠で山道に入り、一日がかりで門前町へ着く。「教えられた宿は、坂になった一筋町の一番上にあった。昔の茅葺の建物を改装したらしく、すべての作りが鷹揚で、柱も梁も戸も黒く光って重厚、近代まがいの嫌いな私には心地よかった」と書く。1969年のことである。
 「民芸と山菜」を売り物にしていると書いてあるので多分あの大きな旅館の雲竜荘に泊まったのは間違いない。
 雲竜荘のHP
 http://www.unryuso.co.jp/index.html
 1964年(昭和39年)発刊の『日本百名山』がベストセラーになると山の作家としての知名度が上がった。あれから5年後の1969年には名古屋でも講演会に呼ばれた。
 余談だが、昭和39年3月には朝日新聞カルチャーセンターの登山教室で日本山岳会東海支部の講師に交じって「山の話」を担当している。1903年生まれなので61歳になっていた。そして鳳来寺山に登山したのは66歳になっていた。亡くなったのは1971年のことだからパークウェイが開通した年だった。そうか今年は没後50年になるのだ。

鳳来寺山を歩く2021年01月16日

 鳳来寺山の歴史は古い。ネットで断片的な情報を集めてみた。

  鳳来寺は、歴史ある「真言宗五智教団」の寺院。703年「利修仙人」が祈祷により天皇の御病気を治し、そのお礼として創建されたと伝わるお寺です。1648年には、鳳来寺を家康誕生ゆかりの地として崇める徳川家光によって、日本三大東照宮とも言われる鳳来寺山東照宮が建設されました。(ヤマハックのHPから)

・・・愛知県のうちの三河の三霊山は猿投山、六所山、三河本宮山である。「三河国三霊山とは、三河国、今の愛知県豊田市・豊川市にある三つの山の総称で、古来より御神体あるいはそれに準じる神聖な山として、信仰の対象になってきた山々。本宮山・猿投山・六所山の三つで、それぞれの山頂や山麓には砥鹿神社・猿投神社・六所神社が鎮座する。
 三河国なので当然ではあるが、松平氏、徳川氏との関わりが深く、徳川家康などが崇敬した、あるいは参拝したことでも知られる古社となっている。」以下に列挙すると。

1 猿投山
 『日本書紀』には、大碓命は景行天皇に東征を命じられたが、これを恐れて逃亡したため美濃国に封じられたとある。宝亀10年(779年)に編纂された縁起書によれば、大碓命は景行天皇52年に猿投山中で蛇毒のために42歳で死去し、山上に葬られたという。猿投山西峯にある西宮の背後に大碓命の墓がある。社伝によれば、仲哀天皇元年に勅願により現在地に創建。

2 六所山
 六所山は古来より猿投山・本宮山と共に三河国三霊山のひとつとされ、山自体が神体とされて大山積神(オオヤマツミ)など6柱の祭神が奉祀されていた。現在でも字金姓の小台地にたたずむ一の鳥居は、六所山を遙拝するのに最も適した場所にあり、古代、この地に最初期の遙拝所が建てられたものとも推察し得る。後に社殿の築造という仏教文化に由来する概念が国内に浸透し、六所山山頂にも社殿が築かれることになるのは遅くとも平安時代末期頃。

3 三河本宮山
 砥鹿神社は,文武天皇(もんむてんのう)の時代,701年(大宝元)天皇の使者としてこの地に来た草鹿砥公宣卿(くさかどきんのぶきょう)が本宮山の山中で不思議な老人に会い,その指示で創建されたものと伝わっている。本宮山頂には砥鹿神社の奥宮がまつられている。その神は大己貴命(おおなむちのみこと)でいつのころからか三河国の一宮とされ,10世紀初頭に書かれた延喜式(えんぎしき)の中にも記載されている。

・・・今回登った鳳来寺山は703年とあり、三河三霊山に入るべき歴史がある。立松和平『百霊峰巡礼』(東京新聞出版局)には本宮山と鳳来寺山は入っているが猿投山と六所山は除外された。

4 鳳来寺山
 文武天皇が病にかかられたときには、鳳凰に乗って都に行き、祈祷によって天皇のご病気を治したため、大宝3年(703年)に天皇からお礼に寺を立てられ、この寺を鳳来寺と命名し鳳来寺が誕生したとされています。 大宝3年(703年)、理趣(利修)仙人によって開かれた真言宗の古刹。
 ウィキペディアでは「寺伝では大宝2年(702年)に利修仙人が開山したと伝える。利修は霊木の杉から本尊・薬師如来、日光・月光菩薩、十二神将、四天王を彫刻したとも伝わる。文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承があり、鳳来寺という寺名及び山名の由来となっている。利修の17日間の加持祈祷が功を奏したか、天皇は快癒。この功によって伽藍が建立されたという。」
 鳳来寺山のメインコースとなる表参道の特徴は、なんと言っても1425段もの石段を越えていくところ。そのため標高は低いですが、登りごたえは十分です。山中では霊山らしい史跡や寺社をはじめ松尾芭蕉や若山牧水の句碑や歌碑も多く点在。見どころが多いので、登山客を飽きさせることのないコースになっています。
以上

・・・どの山もいずれ劣らぬ古い歴史を誇る。中でも本宮山は標高も高く、山麓から見えることが信仰を集める大きな要素であろう。三河富士の秀麗な山容も大きい。猿投山も三河の山とはいえ、尾張からランドマークのようによく見える。名古屋のテレビ塔のような存在に等しい。しかしながら鳳来寺山は今でこそドライブウェイで簡単に行けるが往時は深山の趣があったであろう。4座の中では一番険路である。六所山は存在感が一番希薄である。
1本宮山789m
2鳳来寺山684m
3猿投山630m
4六所山611m
と標高でも歴史でも見劣りする。何で霊山と崇められたか、といえば徳川(松平)発祥の地ということが大きいだろう。つまり政治的なバックアップがあったのでしょう。
 この四霊山の中で門前町を構えたほどの盛り上がりがあったのは鳳来寺山だけだった。本宮山は何ら痕跡はない。猿投山もない。六所山もない。そしてドライブウェイが出来たのも鳳来寺山と本宮山だけだった。
 しかし、禍福は糾える縄のごとし、たくさんの参拝客が増えたので東照宮や鳳来寺はお賽銭が増えただろう。社屋の改築も車道で楽にできるようになった。ところが1971年(昭和46年)の鳳来寺パークウェイの開通と同時に門前町は寂れてゆくことになった。
 1969年(昭和44年)というから開通する2年前に作家の深田久弥が登っている。『山頂の憩い』という本の中に鳳来寺山の紀行がある。1425段の石段を登り切って、鳳来寺の新設の堂を見ている。
 ウィキには「大正3年(1914年)に本堂を焼失したが、昭和49年(1974年)に再建」とある。5年ほどのずれがある。パークウェイの建設と本堂の再建は同時進行していた気がする。まず物資を運ぶ道路を建設させて堂を建設にかかる。作業員も通いやすい。道路を作業のためにだけではもったいないから観光道路化しようというアイデアかも知れん。
 歴史的には徳川のバックアップで東照宮も作られた。その管理は鳳来寺の住職らが担っていた。ところが明治維新でいきなり廃仏毀釈の洗礼を浴びる。鳳来寺は廃れ、東照宮は延命する。石段の途中には数多くの僧坊跡があったが衰退の一途をたどったのである。
 門前町の入り口にあたる「三の門」の駐車場は実は田口鉄道の鳳来寺駅跡だったのである。今も名残りをとどめるのは角にある「おかめ茶屋」さんである。

小笠山ノート②2021年01月13日

小笠山の原始性のある植生
小 笠 山 の現 存 植生 の成 立史 と植 物 相 の考 察
                           杉 野 孝 雄
1.は じめに
 小笠山は遠州南部にあり,東西約14km ,南北約12km,周囲約40km,最高峰264mの丘陵である。北緯約34°40′ から34° 46′ ,東経約137° 55′ から138° 05′ に位置し,西は太 田川,東 と北は逆川 と菊川で境され、南は遠州灘 に達 している。
 地形は山頂から四方にのびる屋根の間は谷を形成 し,多数の小河川lを生ずる。西から南はゆるやかな斜面で乾燥する。東から北は切立つた崖で谷が特に深い。
  地質的には,西から南側は第四紀洪積世に堆積した小笠礫層で構成されている。地層の下位は第二紀鮮新世の掛川層 群で,砂 岩,泥岩からなり,東から北麓にその露頭がみられる。
 ここでは,小笠山の現存植生の成立史 と植物相の特徴を述べ,現存植生について,植物地理学的,生態的考察を加えたい。尚小笠山の自然保護の重要性についても言及したい。

2.現 存植生 の成 立史
 加藤 (1968),土 (1974)に よれば,小 笠 山を構成する下位の地層は,第二紀鮮新世の掛川層群に属する曽我累層,掛川累層,土方泥層である。その上部を覆い、小笠山の大部分を占める小笠礫層は,第 四紀洪積
世 と推定される上半部の河床堆積物と,下半部の河口堆積物からできでいることから,大井り||に よる堆積物が隆起してできた山地 とされている。
 古大井川の河口は,第 四紀洪積世の頃は掛川附 近にあり,遠州半島を盛 り上げた。この半島は次第に東に移動 し,西方の堆積物が隆起し,小笠山を築いた。また,こ の時期には氷河期のおとずれと共に海面が下が り,間氷期には海面が上昇 し,小笠山地域は海から遠 ざかる時期 と,海水に浸蝕 される時期の繰返しがあり,現在の山容が形成 されたとのことである。
 この地殻変動が小笠山の植生に影響を与えたことはもちろんであるが,気候の変動が植生に与える影響をみのがすことはできない。中村 (1952)及 び塚田 (1967)は ,花粉分析の結果から, 日本における年平均気温の変動 と植生の変遷 を推定 している。それによれば,ヴ ユルム氷期の最盛期 (2.5~ 1.5万年前)に は,現在より年平均気温で約 8℃低かつたとしている。このことから,こ の氷期の頃,小笠山一帯はブナのような夏緑樹林で覆われていたと考えられる。
 小笠山の現在の植生が完成 したのはそのあこの気温の変動により,小笠山の植生 は9,500~ 4,500な いし4,000年 前 頃は照葉樹林で覆われていたと思われる。その後,気 温 が寒冷化 したので4,500年 前頃には山地性,ま たは温帯の 植物が侵入 し分布したであろう。小笠山でその頃からの残存植物 と考えられるものには,モミ,アカガシ,ヒカゲツツジ,ツ クパネ,バイカツツジ,ダ イモンジソウなどの種子植物や,温帯性シダのコケシノブ,オ サシダ,ナ ライシダ,ヘビノネコザ,ハ クモウイノデなどが挙げられる。現在の小笠山の植生 を構成 している暖帯性の植物 は,気温の寒冷化 した時代を生きのびた植物や,気温が上昇 したあと侵入 し、勢力を広げた植物 と考えられる。
 小笠山附近の気温が寒冷化 し,温帯性の植物が分布していたことは,亘理 (1951)も 述べていることである。彼は,小笠山に近い菊川流域の菊川町で弥生式住居址や土器 と共に埋木 を採集 したがその中に,照葉樹のシイ,カ シ類 と共に トチノキの埋木が発見 されている。 トチノキは,「寒冷な気候を指示」するものであり,現在は静 岡県 内では北遠地方にみられるが,2,000年前頃には,こ の地域にも生育していたのである。
 気候とは別に,小笠山の植生の成立に及ぼした人為的要因もみのがすことはできない。小 笠山には昔から人が住みつき,古墳 も発見されている。また,た び重なる山火事 も知 られている。西から南に広がるァヵマツ林の成立には,地形,地質が大きな影響を与えているが,人為的要因も特に強 く介在 していることが考えられる。

3.植 物相 の概 要 と特 徴
 小笠山の植物相を概観すると,西 から南側はアカマツ林が発達 し,林床にはコシダ,ウ ラジロの群落がみられる。東から北側は,お もにシイ,カ シ類が繁茂し,林床にはコバノカナフラビ,ホ ソバカナヮラビの群落が発達 している。スギ,ヒ ノキの植林地も多い人家に近い場所は開墾 され,茶畑、みかん畑になつている.
 山頂には,山地性のアカガシ林 と海岸性のウバメガシ林がよく発達 し,ウバメガシの林床にはヒトッバが多いタ イミンタチバナの群落もみられる。ァカマツ,ソ ヨゴ,ヤ マモモ,ヤ マツツジ,モ チツツジ,ミ ツバツツジ,ナ ツハゼ、ネジキも普通である。小笠神社を中心 とする半径 2kmの地域には,集中的にいちじるしく多様の植物が分布する。

ハ,アカガシ林とウバメガシ林
 小 笠 山の植生の特徴 として,山 地性のアカガシの 林と,海 岸性のウバメガシの 林が山頂に極相林として並存 していることがある。
 アカガシ林は山頂の西側にあり,ツ クバネガシ,オ オツクバネガシを混生する。その東側にウバメガシ林が続 く。いずれもよ く発達 した林で、アカガシは奥の院にみられる最も太いもので胸高直径140㎝もある。
ウバメガシは胸高直径80㎝以上の大木が多数みられ、純林を形成 している。
 アカガシ林は,静 岡県内では低地にも分布するが山地によ く発達するもので八高山 (832m ),粟 ヶ岳 (514m ),光 明山 (540m)の 山頂なとに大きな群 落 がみられる一方,ウバメガシ林は海岸にみられ,静岡県
内では伊豆半島の海岸に多い。南伊豆町子浦には,静 岡県の天然記念物に指定 された林もあるが,そ れに匹敵する大木の群落が,海岸から9励離れた小笠山の山頂に発達 している。両者の生育している環境を比べると,ア カガシ林のある西側の基盤は礫岩であるが,小 さな尾根に囲まれた凹地で,腐植土が堆積 し土壌 もやや深 くなつているoウバメガシ林がみられる東側は礫岩が露出する場所で南面する。
 ァカガシは陰樹で,適潤,ま たはやや乾いた肥沃な深層土を好むoウ メバガシは陽樹で乾燥に強レV性質があるので,他の植物が生育できないような海岸の急斜面の岩上でも生育することができる。この生態 の差が,両者が小笠山の山頂で東西にすみ場所 を分け合つて並存する原因になっていると思われる。
 鈴木 (1952)に よると,ウバメガシ林は植生類型 としては硬葉樹林のウバメ型で,そ の成立の限界はラングの雨 量 係数100に ほぼ一致 し,海岸線が冬の季節風に直角に位置する海岸において発達が顕著になる傾向があるという。小笠山のウバメガシの生育地の気温,雨量の記録はないが,隣接する小笠町のラングの雨量係数は132,袋 井市 のそれは98で あり,小笠山の東側より西側の係数が低いoそれにもかかわ らず東側にウバメガシ林が発達するのは、小笠礫岩の保水力が乏しく,ま た,た えず吹きつける風が乾燥 した環境を形成し,冬雨型の極相林であるウバメガシ林を土地的極相林 として夏雨型の小笠山に発達させたと考えられる。
 このことは,ウバメガシ林が南面する季節風の強い側に繁茂 していることからも裏付けられる。


5.自 然保護 の重要性 と対策
 小笠山は植物学的に各方面から興味深い丘陵である。しかも,狭 い範囲に各種の自然保護上貴重な植物がまとまつて生育 している。これらの植物には,山頂のアカガシ林,ウバ メガシ林,全国的に分布が希な植物,アカウキクサ線を分布の限界とする植物の小笠山をタイプ地 として発表された植物,及び豊富なシダ植物等がある。
 小笠山は山塊そのものが植物見本園的な存在であることか ら,全山を自然公園または森林公園 として永 く子孫に残すべ き,最適 の地域である。その際には,環境の破壊 を防 ぐ意味か ら,自 動車道 を通 す こ となく,山 に入 るには歩道のみ とし,永久に小笠山の自然が保護され ることが望まれる。
以上

・・・・小笠山直下にはアカガシの大木があった。この論考を読むと小笠山を代表する樹種なのなのだ。