「埋甕」を見に弥富市の愛知県埋蔵文化センターへ行く2017年10月18日

 午後3時ころ、期日前投票後、愛知県埋蔵文化センターへ行く。10/15にも山の帰りに寄ったが、土日は休日という。県の博物館にしては珍しい運営である。少し時間を作って出かけた。
 http://www.pref.aichi.jp/soshiki/maizobunkazai/0000032060.html

 10月7日(土曜日)から11月4日(土曜日)に同じ施設で愛知県埋蔵文化財センタ ー主催「秋の埋蔵文化財展」も行われていると、中生涯学習センターにあったパンフで知った。
 「埋蔵文化」のボキャブラリーにはどこか心に響くものがあった。それは恵那山の山名の由来を調査していて文献的に行き詰まり、考古学の本で「埋甕」(うめがめ)という言葉に出会ったからだった。
 それは木下忠『埋甕―古代の出産習俗 (考古学選書) 』である。
 この中に、胞を底のない壺に入れて埋めるのは古代から近代の習俗という知識を得た。徳川家康の胞塚も岡崎城の一角にあるそうだ。
 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説で「えな」がヒットした。
「胞衣とも書く。後産 (あとざん。→胎盤 ) のこと。イヤ,イナなどともいう。以前はエナは土中に埋められたが,その埋め方が,生児の一生の安危にかかわるものと信じられ,また,埋め方が悪いと,生児が夜泣きするともいわれた。その埋め場所は,人に踏まれないところがよいというのと,その反対によく踏んでもらうところがよいという2通りの説がある。前者は大黒柱の下とか産室の床下,墓,便所のそば,厩 (うまや) のそばなど,後者は土間の上り台の下とか,敷居の下などが選ばれた。埋めた上を最初に通ったものを,生児が一生恐れるというので,父親が最初にまたぐという例がある。また他人に踏んでもらえば生児がまめに育つとか,産後の肥立ちがよいなどという。エナは,布やこも,油紙などに包んで埋めたが,壺や瓶に入れて埋める例もある。」
 展示品の「埋甕」は奥三河から産出された。用途は解説の通りであるが、埋文センターの解説者によればそうとは言い切れないと言われた。何分1000年以上の物質なので証拠物がないからだった。
 しかし、見学はしたもののここまでである。解説者の曰く、恵那山の話をしてみたらアマテラスは皇祖神だからあちこちの山に祀られるよ、とものの分かった人である。
 そういえば、先日の鎌ヶ岳の山頂にも「天照皇大神宮社」の小さな祠があった。果たして鎌ヶ岳は信仰の山だったのか。いや、後から勝手に鎮座したものだろう。もっと前、奥三河の須山御嶽山にも天照皇大神の石碑があった。言われる通りである。
 恵那山の恵那の地名は恵奈で10世紀以前からあるようだ。それが山頂に埋められた経緯が分からないから伝説なのである。
 元来はあの阿木村の血洗池辺りを胞山と言ったのではないか。根の上高原や保古山と向かい合う無名の山の三角点の点名には血洗とあったからだ。
 アマテラスは一地方の神だったのに皇祖神になる。時期は持統天皇の時代。その時代から伊勢神宮の20年に1回の遷宮も開始される。その度に桧の用材を大量に消費する。皇祖神に献上する(させる)ありがたみを出すためにアマテラスの胞山を今の恵那山に変えた。恵那山の北から流れる湯舟沢の国有林は桧の宝庫でかつては森林鉄道もあったほどの桧は無尽蔵であった。
 桧は木曽川に流し、筏を組んで伊勢湾を航行して伊勢に運ばれる。運搬はトラックや鉄道に変わったが、木曽桧は今も遷宮に使われる。今や誰も疑いもしない、恵那山という名称に巧みな伝説の謎を思う。一先ず、胞を家内の土中に埋める文化が確実にあったことの確認であった。

富山県・高落場山に登る2017年10月09日

 富山市内のビジネスホテルの朝食は本当に美味い。とくにご飯が美味いため、朝食に時間がかかった。7時過ぎには出る予定が8時20分になったのは昨日の長旅の疲れもあった。
 R41を南行しながらGSを探すが昨日より10円ほどアップして安いところはなくなった。富山県の山際の県道を西へ走った。南砺市でR304に出会うまで道の田舎道を走った。
 R304からは縄ヶ池に向う林道に左折。高落場山へは若杉集落跡が登山口である。かつては五箇山街道の宿場の里として栄えたというが御影石の記念碑以外は何もない。
 『村の記憶』によると、「若杉は江戸時代五箇山と城端を往来する街道の要衝に位置し、物資の中継や宿場として栄えたが、中略、昭和42年五戸の住民は旧大鋸屋小学校校舎跡地へ集団移住した」。続けて「上流の夫婦滝から流れる内尾川のせせらぎの谷間にあって、多い時は30軒の合掌」家屋があったらしい。
 「五箇山往来の利賀の中継地として、また宿場としても栄え、番所などもあって奉行所の役人や二百人に近い五箇山への流刑人もここを通ったと言われる。そして、五箇山への荷物を運搬する牛やボッカの往来が絶えなかった。」のも今はもう幻となった。
 さて、出発の準備中、地元のお巡りさんがパトロールに来た。熊に注意してくれといわれた。春に目撃されたかららしい。ここまできて帰れとでもいうのだろうか。登山者が襲われたことはないらしい。今までも襲われるのは山菜とりがほとんどだ。山菜とりは熊の好物を横取りするけしからん敵なのである。
 10時20分出発。足元は石畳の歴史ある道である。濡れて滑りやすいから注意がいる。20分ほどで唐木峠に着いた。ここから左が高落場山だ。直進は朴峠への旧道であるが、すぐ先は笹刈りも無く藪になっていた。しかも通行禁止の看板もあった。
 ここからが地形図にもある「人喰谷」への道で名前も恐ろしい。他のサイトによれば、「「横渡りの難所」の看板には以下のように書かれている。
 『横渡りとは人喰谷の五重の谷を大きく迂回するこの辺のことをいいます。山崩れやなだれのため、道が崩壊して交通の難所となっています。昔からなだれを防ぐため付近一帯は禁伐林となっています。現在も大雨などにより木が倒れてくるなど危険なところです。』」だそうな。
 唐木峠で喉をうるおすとすぐに急登の尾根に入った。最初は右に杉林を見ながら登るが、しばらくで見事な白ブナの原生林が展開する。低山にしてこのブナの大切にされ方は雪崩防止の禁伐林ゆえだった。
 時折ブナを見上げながら、木肌に熊の爪痕がないか、こずえに熊棚がないか探したがなかった。これだけ急だと熊の棲息には適さないのか。嗅覚も大いに働かせるが獣臭はしない。うん、大丈夫だ、と鼓舞する。
 ブナを堪能した後も坦々とした尾根歩きは続く。先行者らの声が樹林を通して聞こえてくる。車は数台あったから10名位は登っているだろう。分岐に来ると右へが山頂だ。一旦軽く下って登り返すと切り開かれて明るい高落場山頂に着いた。
 アキアアカネが群舞する。アサギマダラが舞う。やがて南方へ旅立つ蝶々である。ナナカマドが赤く秋の山を象徴する。遠望は若干はあるが全体図がないことと、高峰が雲がくれしているので分からない。
 軽い昼食をとったあと下山を開始。途中で男性ばかり5名のパーティに会う、草沼山からの縦走らしい。分岐では来た道を戻った。高清水山はまたの機会にする。今日は暑かった。汗びっしょりになった。ほとんど休まず登山口まで下る。
 着替えて、縄ヶ池へ行く。途中、夫婦滝が見事だ。広い駐車場に着く。ここも熊の注意喚起の看板がある。この春のGWにはここで目撃されたらしい。池は林道の向こうにあった。チエーンがあるので徒歩で数分歩くと山中の池を俯瞰できた。
 神秘的な雰囲気があるが、遊歩道へは進まず、熊への警戒心もあって眺めるだけにする。1979年(昭和 54) 年に泉鏡花の『夜叉ケ池』が映画化された時のロケ地となった。主演は坂東玉三郎、池の中から美しい女の人がヌーッと出てくるシーンだったらしい。
 以前から一度は見てみたかった。小説に出てくる夜叉ヶ池も神秘的だが、深さも浅く、小さいし、車道が通じていないため代替地として縄ヶ池になった。なるほどと思うスケールがある。
 すべての予定を終えた。R304から高落場山の真下のトンネルを通って五箇山に出た。R156を走った。白川温泉でひと風呂浴びた。御母衣ダムの畔を走って荘川村へ。高速は使わずR158へ高山市へ抜ける。給油の後は早目の夕飯をすませ、R41、R19、R302で帰名する。

長久手古戦場から御旗山(富士ヶ根)へポタリング2017年09月20日

 今朝も週末の原稿のチエックと会報のチエックで午前中がつぶれる。久々に体重計に乗ると減っていない。大腿筋はついてきたが体重減に結び付くほどの運動量にはなっていないようだ。
 行く先は昨日の続きで、長久手市界隈に行く。いつもは天白川沿いに走るが、今日はいきなり山越えしてみた。植田東、梅が丘、R153を橋でまたいで、梅が丘、梅森坂へと牧野ヶ池緑地の南縁をなぞるように走った。香久山、岩崎台とつなげる。日進と長久手の市界までは登る一辺倒だ。ここまではアップダウンが多くアルバイトが大変だった。
 市界からは下り坂だが、下りきらず、卯塚墓地へ軽く登り返し、東名をまたぐ橋を渡る。杁ヶ池の交差点に来ると後は住宅地の路地裏の道を走って古戦場へ走る。
 古戦場は今日は開場していた。中に入って少しばかり地名の話を聞いた。後で地形図にもとづき、4等三角点武蔵塚71.2mを探す。少し低いところに埋まっていた。埋設は良好な環境。古戦場から御富士の交差点へ走り、御旗山へ向かった。長久手小牧の戦いの拠点である。 さて、御旗山に登った後は、日進・長久手分水界を越えて、岩崎台を下った。

 しかし、長久手古戦場といっても歴史を知らないとただの丘に過ぎない。戦国時代でぐぐると戦国時代の年表がヒットした。

 応仁の乱が始まった1467年は「人の世虚し」と覚える。1477年で終結する。さらに9年後の1486年から全国規模の戦いが勃発する。群雄割拠する武将の中で織田信長が台頭するが、1582年本能寺の変で倒れ、天下統一は志半ばで挫折した。謀反を起こした明智光秀は豊臣秀吉に討ち取られる。ここから秀吉の天下統一事業がはじまり、信長の次男の織田信雄と敵対する。
 ここではじめて、1584年の小牧・長久手の戦いの主人公の池田恒興が登場。山崎の戦いでは秀吉に仕えて貢献する。長久手の戦いでは織田信雄は徳川家康に援軍を依頼、池田は秀吉方として戦う。徳川方の岩崎城攻めで中入り(奇襲攻撃)に手間取り、徳川方に討たれる。
 長久手古戦場にはそこで死んだという池田恒興の勝入塚(45歳で入道(仏門に入ること)し、勝入斎と名乗った。)がある。49歳で討ち死にした。
 岐阜県揖斐郡池田町本郷1341-1 龍徳寺地内には池田恒興・元助父子墓がある。池田山の真西だ。ここへも行かねばなるまい。
 長久手の戦いは長期戦になり、徳川家康+織田信雄は秀吉と和睦を結ぶ。そして1600年の関ヶ原の戦いを制した徳川家康が1603年に江戸幕府を開府するまで戦乱の世は続いたのである。
 参考:年表で見る戦国時代
http://www.geocities.jp/hosinoufo3/index.html

長久手市・色金山と岩作御嶽山へポタリング2017年09月19日

 今日も天気は良い。朝、メールを開くと連休明けのせいか、多数着信している。山岳会関係の会報の添削、原稿の手直しを処理した。終わるとすでに11時を回った。夏と違って季節の変化ははっきりしている。正午前でももう暑くはない。11時20分に出発できた。
 日進市白山の交差点へは約20分で着く。さらに、日進JCTまでは岩崎川のサイクリングロードを走るので安全で早い。昨日は車道でクルマの多さに冷や冷やしたからだ。五色園入口の交差点をパス、ゆっくり上り坂になる。芸大通駅までは天白川水系と矢田川水系の分水界への登りがある。分水界を越えると香流川の支流になり、ゆっくり下る。前熊交差点の手前の路地裏道を左折。県道233号から県道215号だ。一帯は岩作(やざこ)何とかの地名が多い。交差点付近で香流川が合流する。すぐ上が色金山になる。
 岩作の中心の早稲田という交差点で右折すると色金山歴史公園の案内板があり、Pもある。山頂へは車道を右折、そのまま登ってゆくと奥のPに着く。右に細い道が登ってゆくので入ってみた。結構な急坂だが螺旋状に傾斜をゆるめてあるので、自転車でもこげないことはない。何とそのまま頂上まで登りきってしまった。展望台がある。やや曇っているがそれなりの眺めがある。三角点はなく正確な標高は不明だが91mくらい。
 山頂からはダウンヒルを味わう。ブレーキを掛けっ放しであるが気持ちの良いものである。次は色金山の南の岩作御嶽山へ向かう。
 早稲田の交差点から旧道に入り、左折。御嶽山の石碑のある香流川の橋を渡る。そのまま道なりに行くが、急坂になりついに下車して歩く。段々急になり、一旦平になったところで左に岩作御嶽山の石碑の建つ神社への急坂が見えるがパス。車道を自転車を引きながら登る。登り詰めた所は山頂に違いないが県の給水施設があり宗教的なものは見あたらない。
 神社へ通じる道すら見いだせず、自転車に乗って下山する。改めて参道から登拝した。爪先上がりの急坂を行くとさすがに息切れした。一段上がったら社務所と住み家があった。神社はまた一段上にあった。
 奥の院に参拝した。その後は別の道をたどると先程の山頂へ通じる細道があった。生活はこれで往来するのだろう。住み家の前を通る。ここはやはり湧水が得られるのだろう。社務所から急な階段を下り、自転車でダウンヒル。次は御旗山に予定していたがこれで満足したので帰ることにした。
 長久手古戦場公園の一角にも71.2mの三角点・武蔵塚があるが今日は公園自体が休みだった。ここからは北新田川へ下るように走った。広大な口論議運動公園、愛知学院大キャンパスを右に見ながら日進JCTに下れる。後は北新田川の右岸の自転車道を行く。岩藤川を合わせると岩崎川になる。車道と交差する以外はスムースに走れる。白山の交差点まで来ると天白は近い。
 但し、まだ真昼でもあり三角点の一つも踏まねば、と右手のこんもりした緑の丘を目指す。地形図では北高上(きたこうじょう)だが、点名は岩崎、75.8mの山。高圧電線の真下まで行き、道を探ると広い車道の廃道があった。そこを歩いてみると、右手の鉄塔に向う山道になった。鉄塔近くでは木の枝などで通せんぼがしてあった。
 そのまま乗り越すと何と遊歩道に整備されていた。道標まであった。少しで4等三角点へ登頂できた。親切にも4等三角点の説明板まで設置されている。意外なことに喜んだ。そのまま下ったが、別の案内板によると北高上緑地(きたこうじょうりょくち)とあった。登山口は3か所あり、市民の自然に親しむ森の道として整備されたそうだ。平成25年だからまだ最近のことである。思わぬ拾いものをしてまた天白へ帰った。

猿投山を歩く2017年09月10日

 朝行くか行くまいか、迷ったが7時過ぎには出発した。今日は膝痛の一般登山道での試運転の日だ。沢登りでは完全に踏破できた。RFで少し待ち時間があるから割りに楽なのである。一般登山道はただただ歩くだけになる。その分膝に来る。
 新しいアクセスも考えた。県道58号は最近は渋滞するようになった。特にR155と交わる大井橋である。それでR153を豊田市に向い、県道54号に左折して、みよし市の刑務所の横を通る。一旦、R155と交わるが直進すると保見駅の交差点に出る。これもやや交通量は多いが主要道のためか流れが良いと分かった。保見で県道58号に右折、すぐに県道283号に入る。すると猿投神社が近い。
 猿投神社のPは8時でもすでに埋まっている。車道奥も良いが、手前の路側帯にとめる。大勢の登山者とともに車道を歩く。途中から尾根道に左折。サバ土の壊れやすい東海自然歩道を行く。凝木の土留の段差が疲れやすい。大腿筋の補助に2本のストックをフルに活用する。やがて休憩所に着く。ここで汗をかいたので水分補給だ。傍らで韓国人の若い女性3人のグループが何やらしゃべりながら休んでいる。
 親子連れも多かった。段差は子供の足では届かないから苦労している。そうしてP504mのコブの山腹を巻いて車道に下り、東の宮の鳥居をくぐって最後の登りに入る。山全体が御神体なので喬木に覆われている。特に杉が多いわけではなく雑木も多い。西宮へ分岐する自然観察路を左に見送るとすぐに東の宮に着いた。参拝の後、一休みする。最高点632mはさらにひと登りするが今日はパス。629mの山頂へ向かう。632mへ突き上げる谷の源流部を巻きながらなるだけギャップを弱めるように道をつけてある。629mへは若干の登り返して登頂。大勢の登山者が休んでいた。眺めは北に偏りがある。
 帰路は往路を戻る。戻りついでに小さなPに寄ると東大演習林のエリアへの立ち入り制限の札があった。ここが北尾根の出発点だ。東の宮へ行く手前にも632mへの踏み跡があった。ここもいずれはトレースしたい。
 東の宮に着いたら、見知らぬ女性から声をかけられた。私は記憶にないが先方はかつて山岳会に所属してたというWさんだった。話をするうちに、中央アルプスの摺古木山から安平路山、越百山へ縦走したメンバーだったことを思い出した。突然の雷雲を凌ぐために金属を遠ざけてツエルトをかぶったことがあった。9/9のNHKの「ゆる山へGO」も見たらしい。よもやま話をしていると時間ばかり経過していくので打ち切って分かれた。
 次は西ノ宮へ行きたかった。何度も登った猿投山であるが西ノ宮は登った記憶がなかった。
 東の宮から西ノ宮へは道標がなく、すぐの自然観察路を下ったが、急に谷へ下るのでおかしいと思い引き返した。地形図を忘れるとこんなことになる。下って行くとカメラを構えた人が何やら撮影している。ヤマジノホトトギスの群落だった。行く時は全く気がつかなかった。
 東の宮の鳥居を出て、右へ車道を下るとしばらくで西ノ宮への鳥居があった。急坂を登ると千木や鰹木のある立派な社があった。格式が高い証拠だ。その奥にはオオウスノミコトの墳墓があった。
 満足して下山は自然観察路を歩いた。途中から東海自然歩道に合流し、車道までくだった。猿投神社にも参拝した。ここも立派な神社だった。

中津川市阿木の旧跡・(アマテラスの)血洗池~血洗神社~恵那神社~根の上高原へドライブ2017年08月06日

 午前中は原稿の推敲を行う。いよいよ脱稿したいが、今一、補完的な写真が欲しいと午後から撮影ドライブになった。暑いとはいえ、高原だから少しは涼しいだろうとの期待を込めて。
 12時20分に出発、途中で燃料補給。県道58から県道283、R419を経て岐阜県に越境し、R363に入る。エアコンを切っても結構涼しい感じがする。R363は山間部の谷合いを貫通している。交通量は少なく快適なドライブである。最終的には中津川市川上に行くが、途中でメインの血洗池と血洗神社に寄る。岩村の田園地帯を抜けて、山間部に入ると血洗神社が見つかった。村社ゆえか地味で案内板もなく見過ごしそうだった。血洗池が近くにありそうだがない。神社の横の山道を10分ほど登ってみた。林道に出たので右折すると解体中のキャンプ場に着いた。ゲートを越えるとR363で血洗神社はすぐだ。おかしいので山道を今度は下ったが見いだせない。マイカーに戻って神社の裏に埋まった池でもないか、探したがない。
 1台の車が止まったので聞くと下に関係ありそうな場所があると言うので行ってみた。血洗池だった。是こそ探していたところだった。
 血洗池は、恵那山の山名の由来になったアマテラスの胞(えな)を洗った池だという伝説がある。そんな謂れを書いた看板も立ち、旧跡血洗池の石碑まである。胞をここで洗ってから山頂まで運んで埋設したというのだ。それで胞山と呼ばれたのだ。池は砂で埋まっていた。そして、かなり離れた落合川の上流の湯船沢で産湯をつかったというのだ。湯船はそれが由来という。現在でも岐阜県は胞山県立自然公園を名乗る。恵那は雅字だろう。看板には漢字導入以前の神代文字のほつま文字にも記録があるそうな。
 次は恵那神社へ向かった。R363は最高地点の870mの峠を過ぎると途端につづら折れの酷道になる。狭くてタイトなヘアピンカーブが連続する。しかし、こんな道こそ運転の面白さを楽しめる。3速オートマだが、セカンドギアにして、エンジンブレーキを利かせると、FRなので、ハンドルが素直に曲がる。
 中津川市川上に着いた。しばらく下流に走ると橋があり、渡って右に行く。ウェストン広場なる園地ができ、川遊びの家族連れが多かった。中津川は花崗岩の美しい川である。すぐに恵那神社へ左折。山田と山家をぬいながら走ると正ヶ根谷へ行く林道で通行止めのゲートがあった。前宮ルート入口まで1kmとある。
 恵那神社へは左折すると大きなPがあった。誰もいないので正面まで乗り入れて、参拝をした。無人であるが、大きな杉が生えて荘厳な雰囲気がある。拝殿、社殿がある。千木はないが鰹木はある。しっかりした造りである。
 辞して、ふと前を見ると鳥居越しに恵那山が見えた。あいにく曇天だが、晴れれば素晴らしい景色だろう。今日の目的は終えたのでまたR363を登り返した。根の上高原国民宿舎にも寄ってみた。山岳会の忘年山行の宴会の会場探しだ。
 ここなら少し遠いが、天狗森山、三森山がある。国民宿舎を拠点に保古山970、1mならば40分だそうな。高原内には無名ながら3等三角点936、3m(餅穴)、R363の入り口の反対側に3等三角点888、3m(血洗)がある。三角点の点名まで胞に因むのか。好事家の会員が喜びそうだ。すべての目的を終えてまた往路を戻った。

能褒野神社、加佐登神社、長瀬神社、椿大社へドライブ2017年07月30日

加佐登神社
 午前5時30分出発。県道59号、36号、R23と走って、四日市市からR1に入り、亀山市を目指す。鈴鹿市まで来ると、どんよりした曇り空が頭上を覆い、降り出しそうだ。伊勢湾からの水蒸気を含んだ黒い雲が流れていく。あれが鈴鹿山脈にぶつかると上昇気流となって上空の冷たい空気に触れて雨になる。急激だと雷雲になる。案の定、ものすごいスコールのような雨が降り出した。
 亀山市の能褒野神社(のぼの)を目指す。一帯は水田地帯で今は緑一色である。晴れておれば鈴鹿山脈が背後に美しいだろう。その景色を眺めて、
    ”大和は 国のまほろば たたなづく 
          青垣山ごもれる 大和し 美し”
と詠まれた。大和し、のしは強調であるから死を覚悟しての望郷の御歌であろう。
 安楽橋を渡ってすぐの右折の信号をやり過ごしたので1つ先の信号から地道に入り、R306から県道637へ右折。御幣川にかかる白鳥橋を渡ると名越の交差点で右折。少し大回りしたが目的地に着いた。午前7時30分。約63km。
 日本武尊は東征の後、伊吹山の荒神を退治するために向かうが言挙げして、怒りを買い、大氷雨を降らされて痛手を負った。醒ヶ井で傷を癒すが体力を消耗させる。今でいう低体温症か。四日市市を経て、大和へ帰る途上、ここ能褒野で崩御したという。
 Pと公衆トイレが完備している。小雨の中、傘を手に薄暗い樹林の中の小道を登る。とにかく高いところへ行くと奥に神社が見えたので参拝した。御手洗い場は水道で且つアルミのひしゃくだった。社殿は地味なたたずまいだった。しかし、古墳が分からない。一旦、車道へ出て、改めて絵図で確認した。再度、小道を行き、左折する。墳墓の周囲は柵が設けられている。やや下った辺りに墳墓への階段があった。立ち入り禁止の札が宮内庁の名で表示してあった。墳墓の周囲の小道をめぐると元のPへ帰れた。
 次は加佐登神社である。県道637、県道27を行くと、駐在所の信号を左折。椎山川をせき止めた調整池が白鳥湖といい、神社へは椎山川にかかる白鳥橋を渡る。マイカーを置き、長い石段を登ると小広い境内の奥に社殿が鎮座していた。
 社殿の屋根は反りを抑え、低めに見える。鰹木や千木もなく、威圧的な建築物ではない。御手洗場は水があふれ、杉の板を曲げたひしゃくで本格派である。有人であり、車祓いをうけて収益を確保し、維持に努めているところが、能褒野神社とは違う。
 私の観察では、御手洗場のひしゃくの品質が杉の曲げ物であること、車祓いをうけていること、信仰のグッズの販売をしていることが社格の上下につながっている。少しでも収入を確保し、境内の掃除(特にトイレ)を欠かさず、参拝客を迎える努力が神社を長く維持させる。ひしゃく等はこれまでみてきたのはアルミ製、プラスチック製などは概して無人無住であった。杉の曲げ物を見ると一定の収入を確保できているんだなと思う。
 右手から車道を辿ると白鳥塚に行ける。白鳥塚の周囲をぐるりと回ってみた。能褒野よりもかなり規模が小さい。かつてはここが墳墓とされていたが比較すると能褒野に軍配を挙げざるを得ない。但し、あちらの神社は宮内庁が正式に御稜と指定してから神社が創建された経緯がある。
 神主さんが見えたのでいろいろお話を伺った。記紀神話からヤマトタケルの話等々、ついつい長話になった。来客があったところでお暇して、長瀬神社に向かった。これはここで教えてもらった。
 長瀬神社は鈴鹿ICのすぐ近くにあった。社務所には老婦人らが歓談していたが神社関係者ではない。ここもヤマトタケルが寄った伝説の地らしい。前二社に比べるとかなり規模は小さい。
 ここまで来たら椿大社に参らねば片詣りになる。
 小雨の鈴鹿路を道なりに走ると雲隠れした鈴鹿山脈の入道ヶ岳の麓に着いた。椿会館などの飲食、宿泊設備できる売店があり、駐車場もほぼ満杯であった。こんな雨模様の日でも参拝客は引きも切らない。特に車祓いの参拝客は順番待ちで10台くらいは並んでいた。みな新車である。車祓い専用の社殿には大ぜいが正座してお祓いを受けていた。マイカーにもカミが宿るのだ。
 御手洗場で杉のひしゃくですくって手を洗う。樹齢何百年もある杉木立の玉砂利の参道を歩いて本殿に向かう。伊勢神宮をコンパクトにまとめた気がする。熱田さんはすべて照葉樹林の鬱蒼とした森だったが、ここはやはり山奥なんだと思う。
 参拝後はレストランで鶏めしをいただいた。食べるとふるさとの鶏めしの味と同じであった。土産品売り場でそれのレトルトも買った。ついでに椿餅も買った。ふらりと寄っただけなのに2000円弱の散財になった。伊勢一宮ともあれば、こうしてお金を落とす仕掛けづくりがうまい。
 帰路はR306、R365からR23で帰った。R365は二階建てで高速道路の建設中だった。伊勢湾岸道から京阪神へいく車をここへ誘導して東名阪の負担を減らすためだろう。北勢は道路だらけになった。ヤマトタケルに由来する神社を訪ねるドライブは終わった。

豊明市の桶狭間古戦場伝説地へポタリング2017年07月22日

 今朝は少し寝覚めが悪い。昨夜の根つきが悪かったせいだろう。朝食後、7時35分に自転車にまたがって出発。行く先は豊明市の桶狭間古戦場伝説地である。天白から最短距離で9.7kmくらいだが、山越えを避けて、天白川のサイクリングロードに入った。今日は左岸沿いに走る。やっぱりサイクリングロードは信号なし、車との競走なしで安全で楽だ。結局鳴海処理場の近く、名鉄鉄橋で完全に逃げ道なしになり引き返して県道59号に出た。大慶橋は右岸でないと渡れない。
 中汐田の交差点に出て国道1号線を左折。国一を走る。中京競馬場前の三叉路を右折するとすぐに豊明市の桶狭間古戦場伝説地に着いた。想像以上にこじんまりとしていて小さな公園になっている。歴史資料館でもあるのかと期待したが時間をつぶす仕掛けはなく、すぐにお暇する。
 国一を桶狭間の交差点まで戻り左折。緩やかな坂道を登り、下ってゆくとカーマの店がありすぐ近くに桶狭間古戦場公園があった。ここも規模でいい勝負の小さな公園に過ぎず、がっかりする。結局、歴史に詳しいガイドの説明でもないと楽しめない気がする。
 帰路は国一から旧東海道の有松の町並みを通過して国道302号に沿いながら天白区滝の水まで登り、野並まで下った。後は勝手知ったる道を帰宅する。

豊明市の二村山へポタリング2017年07月21日

二村山の3等三角点:点名は沓掛。
 今朝もすっきり5時に目覚める。5時30分に起床、朝食後、6時に自転車にまたがる。行き先は豊明市の二村山で、71.2mの3等三角点のれっきとした愛知の名山である。だれも話題にしないのは100mにも満たない標高のゆえだろう。
 天白・平針から運転免許試験場を経由すると約8km未満の距離で早く行けるが、山越えがきつい。それで荒池、神ノ倉、熊の前を経て徳重へ向かった。熊の前へポンと下れるのだが標高約60mの丘を越えるのが結構きつい。赤池で標高30m、白土で標高52mあり、白土からは下りになる。平手で標高17mと天白と同じになる。天白区と緑区は広大な丘陵地なのである。車ならなんなく越えるが、自転車はすべて自力なので必死だ。
 6時28分、徳重交差点で左折、折角楽したのに愛知用水と交差する標高60m付近まで登り返す。愛知用水の右岸の管理用道路に入り、ゆっくり下りを楽しむ。しばらくで暗渠に入ると道路も行きどまり、一旦、住宅地の道に出た。新築の住宅が立ち並ぶ。車道を走ると立派な道と交差する。県道220号である。左折してやや登ると藤田保健衛生大学の門を右に見る。さらに行くと緑のこんもりした丘がある。これが二村山だった。
 皿池なる交差点を下ってゆくと二村山への案内板と駐車場があった。まだ7時前だ。自転車をデポして散策路に入る。昔は鎌倉街道といったそうだ。天白区野並の交差点にもそんな看板があった。岐阜県神岡町山之村にも鎌倉街道が通うから一筋の道ではなく鎌倉幕府時代の古道という意味だろう。
 景勝地に囲まれている民家の前を通過して軽く登ると地蔵尊がある。ここから句碑や歌碑の類が多くなった。知らない人物ばかりだ。登りきると何と3等三角点があった。その近くに展望台もある。5分ほどで登頂であった。
 展望台に立つと尾張から三河の山野が一望できた。なるほど名勝地とはやすだけのことはある。名駅の高層ビル群、猿投山、焙烙山と六所山。晴れれば伊吹山、鈴鹿連峰まで見えるらしい。多分、中アや能郷白山、御岳山、乗鞍岳、恵那山も視野に入るだろう。
 この山なら1つにカウントしてもいいかと思う。
 下山後は県道220号を皿池まで登り返し、後は平手の交差点まで下る。右折して徳重へ、左折して、国道302号へゆったり登る。交差点で右折、標高68mの黒沢台までのきつい登りをこぎ通す。ここから原の交差点までは快適な下りになる。原駅前の喫茶店で大休止する。まじめに帰れば往復2時間だが9時半ごろの帰還になった。

天下峰を廻る、松平町を撮る2017年05月21日

 ガイドブックの再取材となった。当初の構想から一歩後退し、またサブコースで復活させることとなった。
 午前6時過ぎ出発。県道58から環状道へ、R301への左折を見過ごし、とんだ大回りになった。松平郷へは少し手前の滝川沿いの道を走る。取材時は工事中だった切通しも今日は済んでいる。乗り越すと坂上町だ。宮口川にかかる宮口橋付近に松平郷の道標がある。六所山へ1.9km、天下峰へ1.3km、王滝渓谷へ1.9kmとあった。
 ここから右折すると六所山へ行き、左折すると仁王に行く。最初は仁王に下る。今まで訪れたのは秋か冬だった。枯れたイメージがあったが初夏とあって天下峰が苗田に映えて美しい。宮口橋に戻って六所山を撮影。その先の六所神社下宮一の鳥居のある六所山遙拝所からも撮影するが、手入れがされてないため、樹木が邪魔する。少し移動しながらアングルを考えて撮影。
 次は六所神社下宮(山上を上宮という)の本堂や舞台を撮影。先の地蔵堂橋にある石の道標には右松平郷、下流は天下峰、上流は原生林とあった。松平郷へは軽自動車程度がやっとの作業道が続いている。これも正規の道である。途中分岐が何か所かあるが道標があって迷うことなく沢連(そうれ)を経て松平郷へ行ける。
 六所神社入口、六所苑にはすぐの林道坂上線出合まで行って戻る。宮口橋を元の道を走り、以前は王滝渓谷から豊松小学校を経由した道の分岐がある。左折する。ここにも古い石の道標がある。本文の最後の佛以外は判読不明で、下の右も九久平に読めるが不明瞭、左松平だけははっきり判読できた。九久平はぎゅうだいらと読み、大給城跡があるところ。松平家の支配だったから当たっているかも。
 左折すると細くなるが舗装のままで羽明(はあす)に下る。左折すると東宮口の地蔵堂橋からの道に会う。直進すると沢連に行く。松平家の遠祖という在原氏の墓所の案内板を見る。看板によれば松平郷を開いたのは在原信盛氏で、2代目の信重にとき、諸国を流浪中の徳阿弥が入り婿となった。松平太郎左衛門親氏を名乗り、松平家発展の始祖になったという。306mの山は地形図では無名であるが、在原山という。
 念のため、司馬遼太郎『街道をゆく43 濃尾参州記』の「高月院」を読むと少し違う。すぐに松平に定着したのではなく、まず吉良へ行ったというのである。そこで酒井家に逗留して娘に子を産ませた。吉良には落ち着かず、松平に来るのである。酒井家の娘が亡くなり、老父が育てていたが困って連絡したところ、酒井家を家臣にしたそうだ。
 下れば松平東照宮はすぐである。高月院にも寄った。前述の本には30年前の印象で「高月院は、いいですよ」とあるが、自治体の町起こしで「天下祭」などが催され、歴史に関係のない観光施設が建てられていることに驚き嘆いている。
 Pの野菜売り場で白っぽい玉ねぎ3個とホウレン草を購入した。JAによって牛肉を買った。自宅で玉ねぎ2個を刻み、牛肉と炒めた。ペロッと平らげた。脂っこいものでも食欲が戻ったようだ。

 さて、三河三霊山の六所山、松平親氏が天下太平を祈願した天下峰をめぐる歴史と信仰の松平郷をどうまとめようか。特にあの宮口川を中心に水田のひろがる山村風景は良い。山里が清潔である。ちょうど、アオサギも生息している。六所山の山麓であり、御神体として拝まれたのだ。松平と天下峰が直結し、六所山とも直結する。このトライアングルは面白い。ただ、焙烙山が高さしか評価されないのが気になる。

以下は「神社と古事記」のサイトから転載。
・三河三霊山とは
1六所山 六所神社
上宮(豊田市坂上町六所山)・八ケ峰神社・下宮(豊田市坂上町地蔵堂)などで構成される神社の総称である。御祭神は猿田毘古神・塩椎神・岐の神・日本武尊。御朱印の有無は不明。

2猿投山 猿投神社

3本宮山 砥鹿神社

・現在でも字金姓の小台地にたたずむ一の鳥居は、六所山を遙拝するのに最も適した場所にあるという。
・一帯はかつては松平郷といい、松平氏(徳川氏)発祥の地。永和3年・天授3年(1377年)8月19日、松平宗家初代松平太郎左衛門親氏が奥州塩竃六所大明神を六所山に勧請した。

それまで「吉木山」「蜂ケ峰山」などとされていた山名が、以降六所山と呼ばれるようになる。

産土神として奉拝されていた大山祇神は北東の蜂ケ峰に遷され、以来「隠居神様」と呼ばれながら六所神社摂社の八ケ峰神社として存続する。

新たに祀られた客人神の本殿は芳樹宮と名付けられ、六所大明神と称されて、松平氏・徳川氏の氏神として歴代当主の崇拝を受ける。