古城山捜索行②2020年11月14日

 11/3の山行後に地元の集団での捜索に参加、青波の林道から比較的手前の尾根を捜索した。11/8は自主的な捜索行でやはり青波から破線路の登山道を歩いて山頂直下の登山道に着いた。その後は曲輪群のある北西の尾根を下降して捜索した。ごみはいくつか発見して、実弟に不明の兄のものか問うも違うだろうと否定。
 本日も自主的に捜索してきました。今度ははじかみ林道の登山口から登り、メインルートに到達後は南西に歩き、伝「馬場」を経て、堀切に下る。ここからは確かに松の木が多い。期待半ばで踏み跡程度の道を320mのコブを越える。しかし松の木は手前の鞍部までだった。ここルートは赤テープや道標の残骸まであったから古い登山道だったのだろう。杉坂峠はどこかは知らないが、地形的には292mの鞍部だろう。
 320mのコブからは桧の植林が優勢になる。それで青波最奥の谷へ下った。踏み跡はないので照葉樹林の灌木の藪を避けながら下る。最初は水がないが出てくると少し段差や岩場も出てきて悪くなるので右に巻いた。すると等高線が緩んで平地に見えるのは廃田だろう。登山道はないので獣道みたいな跡をたどって林道の分岐に着いた。
 林道を歩いて標高170辺りから11/8に下降した尾根の踏み跡を探して登り返す。ここから370mのメインルートまで比高200mを登った。実際には少し手前で曲輪群の中を歩いた。下の方まで段々畑のように曲輪が見えた。メインルートにもっとも近づいたところで上がる。はじかみ林道への分岐はすぐだった。
 今日も何も得られなかった。獲物を追う猟師山を見ず、というように茸採り、山菜採りも自分が戻ることを想定せずに歩き回るから道迷いは必然ともいえる。それによく出る場所は親子でも言わないからどこへ行ったやらと思うばかりである。

古城山捜索行2020年11月08日

 出発は遅くなり朝9時。古城山の北麓の青波には10時50分。11/3には捜索本部のテントがあったゲートボール場に駐車して11時丁度に歩き出す。目的は87歳のきのこ採りの老人の捜索である。とはいえ、10/25に入山、その日に下山せず、息子さんが自力で10/31まで捜索したが、11/1に県警に捜索願を出して大掛かりな捜索が行われた。
 11/2は雨で警察だけで捜索したらしい。11/3に私が古城山を下山後に青波に回り、ボランティアで参加、警察10人地元民40人で行われたが手がかりなし。そこで公的な捜索は打ち切りになった。
 人生は自助、共助、公助の順だが、山岳遭難は逆で、まず警察に捜索願いを出すことに始まる。そのためにはルートなどを書いた入山届、登山届けが必須だが、山菜採り、きのこ採りには喧しく指導されない。この人もまつたけのよく獲れる自分の知っている場所へ行ったのだろう。勝手知ったる裏山だから本人以外に居場所は分からない。
 赤の他人だからほうっておいても良い。しかし、捜索後の解散のあいさつできのこ採りの長男氏(61歳)の涙ながらの話は身につまされる。ご遺体が発見されないと死亡届も出せず、相続も始まらない。長いこと山歩きをしてきた身には何とか本人の捨てたゴミでも落ちてやしないかと来てみた次第である。
 まずは地形図にある破線路を歩いてみた。分岐までは17分、ここで熊鈴が良く鳴るように位置を変えた。先回来たところからさらに奥まで車道の廃道が伸びていた。終点からも踏み跡程度の道が続く。廃田も残る。こちらの方が歴史的には古いのだ。
 登山道の稜線が見える。風が騒ぎ、木立が揺れると、はて、熊か、野猿かとどきっとする。単独は心細い。源流部には廃墟があったが曲輪(郭)だ。正しく古城である。稜線には12時ジャスト。標高360m。ゲートボール場(100m)から比高260mだから大したことはない。
 目的は伝「馬場」から西の日当たりの良い稜線か尾根を探る予定だったが、370mのコブからの北西尾根も気になる。北の直下にはきれいな道が見えるので注意して見ていると踏み跡が下っていく。よしここだと降りてみたら連続した曲輪の平地がここまで延びていた。どんどん下ると、がさごそと音が摺るので見上げると人だった。やれやれ。この人も捜索だった。Kさんという。
 付かず離れずで交互に捜索を続けた。この尾根は松が大変多い。日当たりも良いのでまつたけが出そうだ。そして飴を包んだゴミを発見。末端までに3枚撮影。加えてバナナの皮を入れた紙袋もあった。これがきのこ採りの老人のものなら一帯を集中捜索することになる。
 結局末端まで一緒に下ったがゴミ以外はなかった。Kさんは南へ林道を行き、馬場へ戻ってはじかみ林道の駐車場へ行くというので別れた。青波に戻って、老人の自宅を尋ねてみた。丁度実の弟さんが畑仕事の最中で話を聞いてみた。
1 行方不明の兄は独居ということ。妻は施設に入居。つまり兄の自宅は今は留守。
2 11/3のあいさつされた長男は名古屋市に住んでいること。
3 入山経路は青波ではなく、はじかみ林道の登山道からということ。
4 弟さん自身もまつたけのよく出る場所は分かっているので後日行くという。
5 北西尾根のゴミは兄のものじゃないということ。
6 近年は山に入る人が居ないのでよく知った人も居ないという。
 その他立ち話であるが、長々と世間話をして別れた。87歳の老人が長男と同居ではないことがちょっとショックだった。4月以降の外出禁止、面談禁止などで6月頃の兄はおかしかったとも言われた。他人と一切話をしないとそりゃおかしくなる。
 私が4月以降道迷い事故(山菜、きのこ採りを含む)の報道を集めてきたが、高齢者が多かったことは確かである。中には山の精通者もいるから精神的に参っていたのだろう。
 古城山の捜索は今は縁のある人らの自助と何も関係はないが心ある人の共助だけになった。もう一回だけ、山やとして気になる場所を探ってみたい。それまでに発見されることを願う。

美濃でフルセット・古城山周回・捜索協力・温泉・関市で鰻を食う2020年11月03日

 朝7時20分出発。名二環・植田から一宮へ、美濃JCTから関・広見まで高速。R418から登山口まで国道、地道で順調に着く。スマホのナビを使っても分かりにくい。明智光秀のドラマの影響で脚光を浴びたにしては案内が今一である。
 9時20分新設されたPを出発。山城研究のグループがたむろ、受付したり、今日は大勢が登るらしい。正規の登山道を行くとすぐ1人になった。登山道はよく整備されて歩きやすい。
 植生は植林である。その中に暖地性のシダ類が繁茂している。照葉樹林の艶々した緑の葉が美しい。落葉樹はなく、紅葉、黄葉は見られず。登ると30分で小休止。2ヶ月ぶりだから心肺も足も相当弱っている。
 尾根に出ると風があり涼しい。今日は木綿のシャツだが少し汗をかいたからひんやりする。高い山だと寒く感じるだろう。上から登山者の声が聞こえてくる。山頂は近いのだろう。登山口で110m、山頂で407mだから正味300mしかないから60分程度である。
 傾斜が立ってきたらまた尾根に出て二股に分かれた。馬場の地名があり、馬を馴らしたというが、馬場が山に多い。猿ヶ馬場山、川上岳の点名は兎番場(馬場)、山中山の旧称はオサンババと呼んでいたが、兎番場らしい。つまり山頂が馬の背のように丸く広いイメージである。こんな急峻な山で馬を馴らすなんて歴史の捏造です。
 そうこうするうちに頂上に着いた。最後はフィックスロープの助けで急な岩場の道をよじ登ると山頂直下のミニ広場に着いた。その先にミニのお城が建っている。またこんなものを。やりすぎである。
 城を経て登頂。三角点はあるが展望は限られる。少し休んで下山。はじかみ林道経由で下った。ここもずっと急でフィックスロープが張ってある。8/22も転落事故があり、カメラマンが落ちて背骨を骨折した事故があった。
 林道の登山口には多数の車が駐車。ここから30分なので登山をしない人はここから歩くのだろう。係りの人が何やらパンフを売っていた。その人に11/2報道された87歳の老人の行方不明事件を聞くとまだ見つからず今日も捜索中という。
 マイカーのPまでは徒歩で下ってもまだ12時前。途中で行方不明の現場へ行ってみる。パン1つをかじって昼食。現地では捜索隊を編成し、本格的なテントを張って本部を置いて範囲を検討中だった。私もボランティアを申し出て地元の人らと歩き出す。12時半。
 地形図で破線路のある一帯を調べていた。昔はここから登られたらしい。今は杉の植林だが、古い田んぼの跡がある。居宅もあったらしい。87歳の老人はこの山一帯で採れるまったけの権利を買ったとかいう。いわば精通者であった。それがどうしたものか。
 まったけは松の生える尾根に出るので適当に尾根を登った。確かに少ないが松が続く。しかし87歳の老人の足にはきつい気がする。それじゃどこへいったやら。別方向から捜索してきた人らと合流して藪の少ない斜面を下って元へ戻った。2時半になっていた。2時間の捜索であった。3時ちょうど本部まで戻り解散。息子さんらしい人が涙ながらに捜索へのお礼を述べられた。
 10/25に入山したが、行方不明となった。10/26から11/1に届けるまでは自力で捜したようだ。11/1に捜索願が出て警察が動き、今日で3日目で公的な捜索は終了した。後は親族とボランティアで捜すことになる。時間の経過でもう存命の望みはないが、ご遺体がないと相続もできない。
 解散後は、武芸川温泉に入浴。祝日は800円だった。その後まだ時間があるので関市のうなぎ屋に寄った。5時過ぎから営業するが、店は1卓を除いて満席だった。人気の店みたい。上丼を注文したが御飯が多かったから鰻が少なく感じた。久々に食ったから旨い。
 今日はフルセットで遊んでしまった。まあ偶には良い。

西三河・蚕霊山434.9mと茶臼山418.2mの三角点を歩く2020年05月24日

豊田市の茶臼山418.2m
 緊急事態宣言で外出自粛が続き、「巣ごもり」生活の結果、肉体的に疲れることはないためか、夜型人間になってしまった。午前3時、4時まででも起きてしまう。すると一旦眠れるが8時、9時に起きても朝食の食欲は余りないことになり、ぐずぐずと昼前まで雑務に明け暮れる。結局出かけるのは午後遅く、早くても14時になる。その結果中途半端に終わったピークハントがあった。サイクリングとハイキングを兼ねて行った5/5の蚕霊山と昨日の東萩平の茶臼山だ。
 そこで今日は午前中に出発することを第一にした。まず豊田市小原町の蚕霊山である。クルマで山頂付近まで登れてしまうのでハイキングの要素はない。かつては登ったがもう記憶の彼方になった。頂上は蚕霊神社の境内でそこの隣に宮司さんたちも住んでいるのだろう。三角点は隣の小さな神社の石碑の奥に埋まっていた。それでも来る人はいて山頂板がぶら下がっている。 

 蚕霊神社の案内板には、もともとは御嶽大明神が祀られ江戸時代から信者も多かったという。明治20年に小原村に伝染病は流行、それを契機に伊勢神宮外宮より、大気都比亮命(オオゲツヒメ)を勧請して蚕霊神社の建立となった、という。
 
 明治20年とはどんな時代だったのか。これも検索してみた。
https://say-g.com/topics/609
①1822(文政5)年8月14日 日本で初めてコレラの感染が確認

「「日本の細菌学の父」と呼ばれる北里柴三郎が、1887(明治20)年に、第6回万国衛生会議で行った口頭発表をまとめた「日本におけるコレラ」によると、
「長崎とジャワ島との間を往復する一隻のオランダ船が、この伝染病を最初にわれわれのもとへもたらした。長崎は当時の日本において異国人、すなわち清国(中国)人とオランダ人と貿易取引を行うただひとつの都市であった。コレラはまずそこで発生し、長崎を取り囲む日本の南西部に広がったが、数ヶ月後に日本の内陸部へと到達し、間もなく大流行となった」と記しています。

※オランダ人が不潔だった証拠に江戸川柳がある。

登城する紅毛にハエのついていき

紅毛というのは当時のヨーロッパ人をいうが、「1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」」の時代はオランダ人を指す。「オランダだけは「人悪し、国もまた悪し」」だったらしい。

②日本国内で2度目のコレラ大流行となった1858(安政5)年
長崎で発生したコレラは数ヵ月の後に江戸へと至り、8月下旬から数ヵ月で10万人以上の死者を出したと伝えられています。加えて江戸にとどまらず、京都・大阪にも被害が拡大。深刻な打撃を与えています。

このときの大流行はとどまるところを知らず、「1859年から1861年にかけて、この流行は時には局所的に、時には国内至るところで発生し」た。

③1878(明治11)年〜1879(明治12)年の流行

④当時の防疫知識を総動員して対応にあたってはいたものの、コレラの猛威には対抗できず、1886(明治19)年にも、10万人を超える死者が出た。

・・・小原村の伝染病はコレラだったのだ。これを封じるためにこの神様が勧請されたというわけだ。今回のコロナ禍も1回では終息せず、何度も感染するのだろう。専門家と称する人は群盲巨象をなでるごとく、薬の開発は途上だし、治療法も確立していないのだ。

 大気都比亮命は日本神話の神様。
ウィキペディアには
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%82%B2%E3%83%84%E3%83%92%E3%83%A1

「高天原を追放された須佐之男命は、空腹を覚えて大気都比売神に食物を求め、大気都比売神はおもむろに様々な食物を須佐之男命に与えた。それを不審に思った須佐之男命が食事の用意をする大気都比売神の様子を覗いてみると、大気都比売神は鼻や口、尻から食材を取り出し、それを調理していた。須佐之男命は、そんな汚い物を食べさせていたのかと怒り、大気都比売神を斬り殺してしまった。すると、大気都比売神の頭から蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた。 これを神産巣日御祖神が回収した。」

・・・頭から蚕が生れたというところがミソだな。

 次の東萩平に向かった。この山は周囲が車道に囲まれているので南回りに走った。結構な急斜面に山家が張り付くように建っている。谷もないのに水はどうしているんだろう。そういえば頂上の家も水がない。しかし地形図をよく見ると標高350m付近は水線ががあり、湧き水があると思われる。小さな谷間に水田もあった。案外水は恵まれているのだろう。大規模な谷は土木技術が無いと制御できないが家族が暮らせる程度の水は不自由しないのだ。

 というわけでまた県道11に下り、笹戸へ行って矢作川左岸に移る。市平からヘアピンの山道を走る。ゴルフ場があるために道案内があり、簡単に水上に着いた。今日は茶臼山の「登山口」付近にデポした。お須原山との鞍部になる。ちょっと探すと赤いひもがぶら下がっており、蜘蛛の巣を払いながら廃道の山道を辿る。登山口のヤブ、枯れ枝、倒木の散乱状態を抜け出ると落ち着いていて、赤いテープも見える。とはいえ、418mの山である。山頂近くになると踏み跡もしっかりしてきた。赤テープが二重に巻いてあるところからすぐで山頂だった。四等三角点が埋まる近くに山つつじが咲いている。展望は樹林の中なので皆無である。

 帰路は尾根を戻るつもりだったが赤テープを二重に巻いたところは谷へ下る踏み跡が比較的明瞭だったので小さな冒険を試みてみた。源頭では倒木や枯れ枝が散乱し荒れ気味だった。大きな岩が散乱する谷の左岸に不明瞭な踏み跡が続き、辿ると車道に出た。クルマにはすぐに戻ったが時間はあるのでお須原山に登った。風が心地よい。初夏の使者かというホトトギスが近くに来て鳴きながら去って行った。もうすぐ夏だよ、という。

 緊急事態宣言はもう解除されたものの愛知県独自にはしばらくは続けるという。コロナウイルスを完全には封じ込めることは出来ない。しかし、こんな三密ではない山歩きなら健康維持になりこそすれ病気にはなるまい。
 帰名の途次、矢作川河畔の「うな武」で遅い中食を取った。健康のためにうな丼3350円を奮発。近場で高速料金も掛からず、ガソリン代も知れてる。その分食事に回す。カーエアコンを利かせながら帰名した。

愛知県の石巻山は神山(みわやま)と呼び、三輪山と同じ大己貴命を祀る2020年05月08日

ソース:https://iyakukeizai.com/beholder/article/1436

(2)『日本書紀』の第1回目の疫病大流行

『日本書紀』の崇神天皇・即位5年(3世紀前半か)に疫病が大流行し、人口の半分が亡くなった、と記されてある。原文は「五年、国内多疾疫、民有死亡者、且大半矣」である。疫病大流行の原因は、神様の意に背いたからであり、疫病対策は、神様の意に従うことであった。八百万の神々の中の「どの神様か」というと、「三輪山=大物主(大国主)=大神」である。念のため言っておきますが、天照大神ではありません。そのことは、『昔人の物語(62)・崇神天皇』をご参照ください。

 ともかくも、疫病対策とは、祈祷、神事であった。

ソース:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%89%A9%E4%B8%BB

崇神天皇が天変地異や疫病の流行に悩んでいると、夢に大物主が現れ、「こは我が心ぞ。意富多多泥古(大田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と告げた。天皇は早速、活玉依毘売の末裔とされる意富多多泥古を捜し出し、三輪山で祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという。これが現在の大神神社である。

ソース:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9B%BD%E4%B8%BB

大国主は多くの別名を持つ。(※名義は新潮社神名釈義[要説明]から) 同名の記載順は『古事記』、『日本書紀』、『風土記』、その他祝詞や神社とする。

・大物主神(おおものぬし-)
・地津主大己貴神(くにつぬしおおなむち の かみ)
・国作大己貴神(くにつくりおおなむちのかみ)

大国主神を祀る神社は非常に多く、全国の一宮を中心に無数に存在するため、ここでは主な神社を列挙する。

・南宮大社 境内 樹下神社(岐阜県不破郡)
摂末社
境内社
本殿回廊内

樹下神社
祭神:大己貴命
摂社。本殿に向かって右隣に鎮座。社殿は重要文化財。

・飛騨一宮水無神社(岐阜県高山市)
摂末社祭神
大己貴命(おおなむちのみこと)

・日吉大社 西本宮(滋賀県大津市坂本)
日吉大社は神代より比叡山にいらっしゃる神(大山咋神)として崇められ、崇神天皇7年、八王子山の麓にお迎えし創祀(東本宮)されました。その後、天智天皇が飛鳥より近江大津宮へ遷都した翌年である天智天皇7年(668)に、大和朝廷の守護神であった大和国三輪山より大己貴神(西本宮)を勧請しました。

西本宮のご祭神である大己貴神は、別名を大国主神・大物主神と呼ばれ、島根県の出雲大社や、奈良県の大神神社などで祀られる国造りの神様であり、我が国で最も貴い神様の1柱であると考えられます。

・建部大社(滋賀県大津市)
主祭神は次の通り。

本殿:日本武尊(やまとたけるのみこと)
本殿相殿神:天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
相殿神は、天照皇大神でなく天明玉命(あめのあかるたまのみこと)とする場合も見られる[1]。
権殿:大己貴命(おおなむちのみこと)
大神神社(大和国一宮)からの勧請。

・砥鹿神社(愛知県豊川市)・・・・奥宮は三河・本宮山
 里宮(奥宮も)本社には、大己貴命(おおなむちのみこと)をお祀りする。大国様(だいこくさま)と慕われる御祭神は、福徳の神・国土開拓の神・縁結びの神として尊崇せられ、交通安全・家運隆昌・厄難消除等の御神徳は、三河地方はもとより各方面からの篤い崇敬を受けている。

 というわけで、、大物主神は大国主であり、大己貴命なのです。

豊田市郷土資料館特別展「猿投山ー祈る山、観る山、登る山」2020年01月29日

 猿投山は私の住むマンションの窓から朝な夕なに眺める山である。右側に一段低くなる台地がありあそこがヤマトタケルの兄のオオウスノミコトの墳墓があるところであろう。まさに霊山である。
  親しい猿投山をどんな風に展示するのか興味深々で1/28に見学。一回りすると別室で動画もあり戦前のはげ山だったころの映像が視聴できる。文献の展示は学芸員の解説がないと楽しめないかも知れない。学芸員によるトークもあるので午後に尋ねるが良い。1/19から3/15の間、2時から2時30分間解説してくれる。ギャラリートークは2/15と2/29でともに午後2時から3時まで。講師は外部から招いた専門家。但し猿投山そのものではなく、石、名園に限る。
 今回は豊田市側のみに限る。どちらかと言えば猿投神社に重点が置かれた。猿投山の自然、民俗などが加味されればさらに充実する。この点は学芸員に注文をしておいた。例えば、猿投山の山名の由来である。景行天皇がいたずらする猿を投げたという伝説がもっぱら引用される。しかし、豊田市名誉市民の本多静雄氏は猿投山の「さな」は昔の製鉄に由来するという説を書いていました。こんな解説があれな尚興味は増すだろう。地名の語源辞典にもそう書いてある。
 また猿投山がはげ山だったというのは多分瀬戸市側ではないか。神社のある境内は樹齢200年はありそうな神杉が林立している。神域からちょっと離れると植林になり谷は荒れている。瀬戸物生産には大量の木炭を必要とした。約700年もの間伐採と自然生を繰り返してきたから東濃の窯元周辺の里山はほとんどはげ山になったのである。愛知県は地味の痩せた瀬戸市側の山を買い取り、植林はしたものの、育ちが悪かった。そこを日本山岳会東海支部が貸与してもらい、猿投の森づくりの会を立ち上げた。育ちの悪い植林を伐採し、林床に光を入れて雑木林の自然生を促し、ゆくゆくは市民が憩える雑木林になる。このまま放置すると元々の照葉樹林に戻るので、時々干渉して雑木林の状態を保つという。
 瀬戸市側の東大演習林側は行方不明者の捜索で許可を得て入山したことがある。さば土の尾根や谷にやっと植生が根付いたところである。今も松が残り杉桧の植林も不安定なままで崖崩れも多いので危険領域もある。活き活きした里山に回復するのはまだ数十年はかかるだろう。

対馬の嶺は下雲あらなふ上の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも 万葉集2020年01月11日

 林野庁のHPから
https://www.rinya.maff.go.jp/j/kokuyu_rinya/kokumin_mori/katuyo/reku/rekumori/ariakeyama.html

   地理的・地形的特徴
 対馬南部の有明山山系の丘陵地帯に位置し、有明山を中心として小峰が連なり、山頂部を除いて比較的急峻な地形となっています。フェリーで厳原港へ向かう途中、正面に最も大きく見える山が、有明山です。山頂部は平坦で草原が広がり、昼食や休憩などのんびり過ごすことができます。眼下には清水山城跡や厳原の町が広がり、また、山頂からは、矢立山(648m)や白嶽(515m)リアス式海岸の入り組んだ地形で風光明媚な浅茅湾(あそうわん)を望むことができます。
   歴史的・文化的特徴
 万葉集14巻3,516の防人の歌に、「対馬の嶺は下雲あらなふ上の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも」があります。この歌は故郷を離れた防人(朝鮮半島との戦いである633年の「白村江の戦い」の後、北九州(対馬、壱岐、福岡)を守るために遠方から、集められた兵士)たちが、故郷に残してきた家族や恋人に想いをはせる情景を詠んだものです。歌の中の「対馬の嶺」は有明山とは限らないのですが、厳原港から最も大きく見える山であることから、これが有明山であるとも考えられます。
 当時から、対馬は「国境の島」として、戦いの最前線の島として、近隣の国と重要な関係を持ってきましたが、国交が回復すると、今度は親交の島として歩んできました。
 眼下には、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際(1591年)に築城したと言われる「清水山城跡」があり、階段状の山城で全国的にも類を見ない城で国指定の記念物となっています。近隣には、石川県前田家墓地、山口県毛利家墓地と並び、日本三大墓地に数えられる対馬藩守護代宗家十万石の菩提寺「万松院」をはじめ、かつての対馬を偲ぶ多くの遺跡が残っています。時代の流れとともに、移り変わってきた激動の「国境の島・対馬」は歴史的、文化的に貴重な場所として注目されています。
気候等と植生・野生生物
 3月下旬から4月にかけて、日の当たる尾根筋や山頂近くで鮮やかなゲンカイツツジが、葉が展開する前に枝先に淡紅色の花を数輪つけ、冬枯れの寂しい風景のなかでひときわ美しい花を咲かせます。このころ、足元ではフデリンドウやシハイスミレなどの可憐な植物が開花し、対馬に春の訪れを告げます。梅雨時になるとヤマボウシの白い花が見頃を迎えます。
 登山道は一部ヒノキの人工林を通るところもありますが、スダジイやヤブツバキ、アカガシなどの照葉樹林も残り、林床ではアリドオシなどをよく見かけます。植林されたヒノキは、色合いや香りに独特の特徴のあるヒノキで、対州ヒノキと呼ばれており、ブランド展開されています。
・・・・以上の紹介記事を読むと今度行くなら緑の季節が良いと思う。今回のドライブと渡航で如何に遠い島かいうことはしっかり味わった。飛行機か高速船を使い、現地のレンタカーが合理的な旅のやり方であろう。乗りなれたマイカーが一番良いが不経済である。但し、有り余る時間があるなら高速を使わず、ホテルも泊まらずの車中泊が良いか。今回の旅で大方の地理勘はできたから水、食料、トイレさえ確保すればどこでも自由に旅を楽しめる。

国境の島・対馬の山旅⑤有明山と矢立山2020年01月01日

 元旦はよく晴れた。ホテルを出てすぐに向かったのは近くの八幡宮神社だった。対馬国一宮にあたり格式が高い。但し島のせいか広大な敷地ではなく、山の斜面に面して建てられている。平地は駐車場に利用されている。元旦にしては朝がはやいせいか初詣客は少ない。
 八幡宮を出ると有明山の案内板を探しながら路地を歩いた。どの細道も清水山の斜面にびっしり建っている住宅地に行くようで登山道らしさはどこにもない。一旦は万松院の通りまで出てみたが街角の地図にも見ないので困った。ガイドブックを頼りに行くと八幡宮辺りから出発するので今少し丁寧にみると何と八幡宮の近くに古ぼけた案内板が掛かっていた。住宅地の中を登ると清水山城祉の入り口に着いてやれやれだ。ここからはしっかりした道標がある。
 まずは城跡の中の少し荒れ気味の道を登った。正しく山城であった。豊臣秀吉は織田信長が明智光秀にやられるとすぐに光秀を討った。そして天下統一を果たす。しかし、この後が順調には進展しなかった。功績のあった家臣にボーナスとして領地を与えたいがすでに国内は既得権ばかりだった。秀吉の力を以てしても難しいとなれば朝鮮侵略にと考えが飛躍する。国内は臨戦態勢のまま外国へ出ることになった。しかし、侵略は失敗。撤退することになった。これが後々にまで尾を引く。やられた方はいつまでも恨みを忘れない。
 秀吉の後を担った家康は朝鮮との国交回復に尽力する。これが12回続いた朝鮮通信使であった。この地の長寿院の墓地に眠る雨森芳洲は対馬にあって朝鮮語を不自由なく話せて対馬藩の外交官としての役割を担った。否江戸幕府からも信頼をされたであろうが、史書は江戸幕府の次官級のトップだった新井白石との確執(パワハラ)に遭い、不仲になったと書く。幕府に召されるほどの出世は出来なかった。一地方の専門分野でのベテラン渉外掛かりの役人のままで終わった。その生涯は不遇であった。
 不遇な文学者、儒者、芸能人には今でも当時でも男色が居た。能の世阿弥は足利義満の寵愛を受けるしか芸道を守れなかったのだろう。芭蕉は現在の御園座の敷地にあった坪井杜国を愛した。杜国は米穀の商いで財を築いたが、幕府が嫌がり禁じていた米の空売りで所払いになったという。雨森芳洲もまた男色に耽るしかなかったのだろう。朝鮮通信使の役人からも批判されている。(志岐隆重『十二回の朝鮮通信使』(長崎文献社))
 今回の山旅は雨森芳洲の墓の見学も含まれた。隣には夫人など家族の墓もある。別に女嫌いではなかったのだ。
 清水城跡を脱すると桧の森を通り、常緑樹の中の道を登る。登山道は比較的広く歩きやすい。ずっと展望のない常緑樹の下を歩くとちょっと緩やかなところに着く。そこから明るい尾根道になってカヤトの山頂に出た。かつては対州馬の草地だったとか。
 360度の展望の一等三角点の埋まる山頂だが南にはより高い矢立山が悠然と聳える。厳原港が俯瞰できる。少し小さな池があるところまで行くと白嶽も見える。縦走路もあるらしい。
 往路を下山。城跡はパスして街中へ下った。歴史資料館の脇の車道もルートであった。但し入山の印や道標はない。
 ホテルに戻るとマイカーで矢立山に向かった。明日以降の登山に備えて下見で行ってみたが車道から林道へ入ると奥深く走る。小茂田への下りで一部不通になっていたが矢立山登山口まで行けた。比高150mしかなく、また長い林道を走るのも大変なので登ってみたら15分で登頂になった。ここも360度の大展望だ。さっきまでいた有明山も下に見下ろす。本当ならこっちに一等三角点を持ってきても良いはずだが、三角測量は必ずしも最高点からとは決まっていない。第一富士山は一等でない。常念岳は前常念、穂高でも奥穂ではなく前穂に埋まる。例外はあるのだ。1日で2座も登ってしまった。八幡様のご利益か。

対州は大山国やほととぎす 河野静雲2019年12月22日

虚子の句碑
 「(一社)対馬観光物産協会ブログ」から
 2011年 1/11 【高浜虚子の歌碑】
上見坂公園(かみざか、対馬市厳原町)にて、正岡子規の弟子、高浜虚子の俳句です。
「対州は 大山国や ほととぎす」
島なので、海が見えると思って来てみたら、山ばっかりだった・・・と(^_^;)
対州は対馬の古い呼び方です。
以上
・・・簡単明瞭な俳句です。虚子ではなく、河野静雲と思われます。高浜虚子の弟子で福岡市の俳人です。大山国はおおやまぐに、と読むんでしょう。5万図3枚でカバーする中堅的な規模の島嶼です。


『魏志倭人伝』の一節はHPからコピペすると
原文
「始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴」

読下し文
「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。その大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。居する所は絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食し自活す。船に乗り、南北に市糴す。」

口語訳
 「始めて一海を渡り、千余里で対海国に至る。その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。居する所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸の家がある。良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている。」

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の舞台の山を歩く2019年12月17日

 NHK大河ドラマの「麒麟がくる」は主演女優の沢尻エリカのスキャンダルで一気に注目を浴びてしまいました。TVドラマは見ないのですが戦国時代の伏兵とも言える明智光秀には少なからず関心はあります。
 今年3月には滋賀県の明智家の菩提寺・西教寺の墓と日吉神社、坂本へバスツアーに行って来たばかりです。そこでも「麒麟がくる」の幟がはためきムードを盛り上げていました。

① さて、明智さんの出生地の岐阜県では?と調べるとあちこちでNHK大河ドラマに乗っていました。明智光秀ゆかりの地としてピックアップすると。
 HP「まいまいあけち」から
明智光秀

本能寺の変で有名な戦国武将、明智光秀(1528年〜1582年)。
諸説ありますが、ここ明智町も光秀公生誕の地と言い伝えがあります。
町の南側に位置する小高い丘、千畳敷には光秀公産湯の井戸と伝わるものが現在も残っています。
また、明知遠山家の菩提寺の龍護寺には、光秀公のお墓とされる供養塔があります。光秀公に関する碑はその悲痛な想いからことごとく割れるといった通説の通り、供養塔とされる碑にも斜めに大きくひび割れが入っています。
他にも、光秀公が幼少期に学問を学んだと伝わる天神神社、光秀公が柿本人麻呂を祀り建立したとされる人麻呂神社と光秀公手植えの楓、光秀公の母お牧の方のお墓があります。

1明知城址(白鷹城址)

市街地の東側、山の頂きに位置する明知城址(別名、白鷹城址)は、明知遠山氏代々の居城の城址です。
明知城は、標高530mの山に築かれた地形を巧みに利用した山城で、今もなお大小23箇所の土盛砦が原型のまま残っており、県の指定文化財となっています。
宝治元年(1247年・鎌倉時代)、遠山景重により築城されました(遠山景重は、源頼朝の重臣加藤景廉の孫にあたる)。
交通の要所であった為、戦国時代には何度か攻め入られ落城しましたが、関ヶ原の合戦(1600年)の際に遠山家が奪還しました。
その後、元和元年(1615年)一国一城令により廃城となり、行政は城下大手門近くの明知陣屋にて明治の大政奉還まで代官が行いました。
現在は、市民ボランティアが中心となり、草刈り作業など散策道の整備を行っています。
市街地から徒歩でも行けますが、オススメは県道33号線脇の明知城址駐車場(明智学校給食センター向かい)からの散策です。ここからですと山道を100mほど登ると本丸跡に着きます。
 
・四等三角点494.6mの点名は千畳敷公園です。

・これだけでは物足りない場合は2等三角点732.1mの大泉村があります。明智町杉野には4等三角点の大平720.1mがあります。

②明智光秀の出生地を標榜するのは明智町ばかりではなかった。何と可児市にもあった。
 HP「可児市の乱」には
 土岐明智氏の出自の地であり、明智光秀を生んだ地との伝承を持つ。『美濃国諸旧記』には、康永元年(1342)、「長山」に土岐頼兼が城を築き、弘治2年(1556)に明智光秀の叔父光安・光久が城主であった時、稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受けて落城したとする。

 と紹介されている。

 名鉄広見線には明智駅もあり本気度は高そうです。 岐阜県可児市瀬田1238−3の住所をチエックすると、175.2mの3等三角点羽崎があった。しかも住宅団地に隣接するので興趣はなさそう。最寄の山は御嵩町の290mの八王子山がある。

③またまた意外なゆかりの地は瑞浪市も名乗りをあげています。

 明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族が、土岐郡に土着した際に最初に居館(一日市場館:ひといちばやかた)を構えた場所と伝わる。本殿の裏には土塁と思しい遺構が確認でき、周辺では鎌倉時代を中心とする陶磁器片なども多数採集されている。
 一日市場の地名は周辺で定期市が開かれていたことに因むと考えられ、付近には大門・古屋敷・馬屋ヶ崎など、居館の存在をうかがわせる地名も残されている。
 なお、八幡神社は土岐一族の創建・勧請と伝わるが詳細は不明。現在の本殿は江戸時代の安政7年(1860)に建築されたものであるが、立川流の見事な彫刻が彫られている。
 古くは高野と呼ばれた地で、美濃源氏・土岐一族発祥の地とされ、八幡神社境内には土岐氏の一族である「明智光秀の像」がある。

 どの説明にも「明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族の流れをくむ」の枕が冠せられている。直接関係はなさそうだ。

 念のため、一日市場館をチエックすると4等三角点174.0mがあり、点名もずばり、一日市場でした。行って見て無駄ではないです。他には食指をそそる山はない。

④最後は山県市の桔梗塚です。ここは2度ならぬ3度はお邪魔しました。山県市のHPはこんな紹介です。

 2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公明智光秀の前半生は謎に包まれており、岐阜県内各地にゆかりの地とされるところが数多くあります。山県市もそのひとつで、明智光秀は清和源氏土岐氏の流れをくむ美濃国守護土岐氏の支流の武将でもあり、その縁から光秀の母が身ごもった際に祈ったという「行徳岩」、明智光秀の墓と伝承される「桔梗塚」があります。

 また市内にはほかにも、美濃国守護土岐氏の最後の居館「大桑城(おおがじょう)跡」が現存する古城山(山県市大桑)や土岐氏ゆかりの史跡が多く現存しています。ぜひ、歴史を感じるまちをめぐってみてはどうでしょうか。

うぶ湯の井戸跡と行徳岩(ぎょうとくいわ)
 明智光秀の生誕地として伝承される山県市中洞地区にある白山神社には、光秀の母がうぶ湯を汲んだとされる井戸があります。また、神社近くの武儀川には、光秀の母が懐妊したとき、「生まれる子が男の子なら、3日でよいから天下を取るような立派な男の子を授けてください」と祈ったと伝えられる「行徳岩」があります。

桔梗塚
 白山神社に隣接する林の中にある桔梗塚は明智光秀の墓とされています。光秀は、本能寺の変の後に身代わりとなった影武者「荒」木山城守行信に恩の「深」さを感じ荒深小五郎と姓名を改めたとされています。その後、関ケ原合戦で徳川家康に従軍しようと藪川(現・根尾川)を馬で越えようとしたときに洪水に巻き込まれ溺死しました。従者たちは光秀の遺品を持ち帰り、墓を建てたと伝えられており、現在も地域住民により毎年供養祭を行っています。
 なお、明智家の家紋は「桔梗紋」で、土岐氏の家紋「水色桔梗紋」から用いたのではないかとされており、この桔梗紋にちなんで「桔梗塚」と呼ばれるようになりました。また、山県市合併当初、市民により選ばれた市の花も「キキョウ」であり歴史が脈々と受け継がれていることを感じられます。

 小和田哲男氏が来市されたと

 11月14日、小和田哲男静岡大学名誉教授が来市され、美濃国守護土岐氏の最後の居館「大桑城(おおがじょう)」跡が現存する古城山(山県市大桑)と土岐氏支流の武将の一人である明智光秀の伝承地などを訪れました。実際に古城山を登山し、尾根と尾根の斜面を平らにならして造られた曲輪(くるわ)や主郭部や竪堀などの遺構、当時の様子を感じられる大桑地区を山頂から眺望いただきました。

 小和田名誉教授は、大河ドラマなどの数多くの時代考証や歴史番組での解説を担当。戦国武将などの史実に照らし合わせ、現代の世を生き抜くヒントを分かりやすい言葉で伝えるなど、戦国時代史の第一人者のひとりです。

 岐阜市と山県市の文化財担当者から説明を受けた小和田名誉教授からは、「戦国時代に権力を持っていた土岐氏の拠点である大桑城跡をようやく見ることができた。当時のまま、壊れることなく遺っているところも見られて貴重な体験ができました。」と述べられました。
以上

 4箇所ある中では4番目の古城山407.4mが一番登り甲斐もあるようです。既登ですが改めて登りたい気になります。