天下峰を廻る、松平町を撮る2017年05月21日

 ガイドブックの再取材となった。当初の構想から一歩後退し、またサブコースで復活させることとなった。
 午前6時過ぎ出発。県道58から環状道へ、R301への左折を見過ごし、とんだ大回りになった。松平郷へは少し手前の滝川沿いの道を走る。取材時は工事中だった切通しも今日は済んでいる。乗り越すと坂上町だ。宮口川にかかる宮口橋付近に松平郷の道標がある。六所山へ1.9km、天下峰へ1.3km、王滝渓谷へ1.9kmとあった。
 ここから右折すると六所山へ行き、左折すると仁王に行く。最初は仁王に下る。今まで訪れたのは秋か冬だった。枯れたイメージがあったが初夏とあって天下峰が苗田に映えて美しい。宮口橋に戻って六所山を撮影。その先の六所神社下宮一の鳥居のある六所山遙拝所からも撮影するが、手入れがされてないため、樹木が邪魔する。少し移動しながらアングルを考えて撮影。
 次は六所神社下宮(山上を上宮という)の本堂や舞台を撮影。先の地蔵堂橋にある石の道標には右松平郷、下流は天下峰、上流は原生林とあった。松平郷へは軽自動車程度がやっとの作業道が続いている。これも正規の道である。途中分岐が何か所かあるが道標があって迷うことなく沢連(そうれ)を経て松平郷へ行ける。
 六所神社入口、六所苑にはすぐの林道坂上線出合まで行って戻る。宮口橋を元の道を走り、以前は王滝渓谷から豊松小学校を経由した道の分岐がある。左折する。ここにも古い石の道標がある。本文の最後の佛以外は判読不明で、下の右も九久平に読めるが不明瞭、左松平だけははっきり判読できた。九久平はぎゅうだいらと読み、大給城跡があるところ。松平家の支配だったから当たっているかも。
 左折すると細くなるが舗装のままで羽明(はあす)に下る。左折すると東宮口の地蔵堂橋からの道に会う。直進すると沢連に行く。松平家の遠祖という在原氏の墓所の案内板を見る。看板によれば松平郷を開いたのは在原信盛氏で、2代目の信重にとき、諸国を流浪中の徳阿弥が入り婿となった。松平太郎左衛門親氏を名乗り、松平家発展の始祖になったという。306mの山は地形図では無名であるが、在原山という。
 念のため、司馬遼太郎『街道をゆく43 濃尾参州記』の「高月院」を読むと少し違う。すぐに松平に定着したのではなく、まず吉良へ行ったというのである。そこで酒井家に逗留して娘に子を産ませた。吉良には落ち着かず、松平に来るのである。酒井家の娘が亡くなり、老父が育てていたが困って連絡したところ、酒井家を家臣にしたそうだ。
 下れば松平東照宮はすぐである。高月院にも寄った。前述の本には30年前の印象で「高月院は、いいですよ」とあるが、自治体の町起こしで「天下祭」などが催され、歴史に関係のない観光施設が建てられていることに驚き嘆いている。
 Pの野菜売り場で白っぽい玉ねぎ3個とホウレン草を購入した。JAによって牛肉を買った。自宅で玉ねぎ2個を刻み、牛肉と炒めた。ペロッと平らげた。脂っこいものでも食欲が戻ったようだ。

 さて、三河三霊山の六所山、松平親氏が天下太平を祈願した天下峰をめぐる歴史と信仰の松平郷をどうまとめようか。特にあの宮口川を中心に水田のひろがる山村風景は良い。山里が清潔である。ちょうど、アオサギも生息している。六所山の山麓であり、御神体として拝まれたのだ。松平と天下峰が直結し、六所山とも直結する。このトライアングルは面白い。ただ、焙烙山が高さしか評価されないのが気になる。

以下は「神社と古事記」のサイトから転載。
・三河三霊山とは
1六所山 六所神社
上宮(豊田市坂上町六所山)・八ケ峰神社・下宮(豊田市坂上町地蔵堂)などで構成される神社の総称である。御祭神は猿田毘古神・塩椎神・岐の神・日本武尊。御朱印の有無は不明。

2猿投山 猿投神社

3本宮山 砥鹿神社

・現在でも字金姓の小台地にたたずむ一の鳥居は、六所山を遙拝するのに最も適した場所にあるという。
・一帯はかつては松平郷といい、松平氏(徳川氏)発祥の地。永和3年・天授3年(1377年)8月19日、松平宗家初代松平太郎左衛門親氏が奥州塩竃六所大明神を六所山に勧請した。

それまで「吉木山」「蜂ケ峰山」などとされていた山名が、以降六所山と呼ばれるようになる。

産土神として奉拝されていた大山祇神は北東の蜂ケ峰に遷され、以来「隠居神様」と呼ばれながら六所神社摂社の八ケ峰神社として存続する。

新たに祀られた客人神の本殿は芳樹宮と名付けられ、六所大明神と称されて、松平氏・徳川氏の氏神として歴代当主の崇拝を受ける。

富山・高岡市への雪のドライブ行~奥越の温泉入湯2017年02月22日

 2/21は富山県高岡市でシニア人材の交流会というので参加。富山までは約270kmあり道中は長い。交流会は午後からなので少し早出した。高速代を30%OFFするつもりで午前3時過ぎの出発を予定したが、1時過ぎに交通事故が発生し、東海北陸道の上下とも通行止めになった。吹雪いているらしいので結局午前7時前の出発に落ち着く。
 岐阜県に入るとさすがに降雪と言うほどではないが小雪が飛んでくる。郡上に入ると視界も悪い。白鳥からはもっと悪くなる。不思議なくらいなかった雪が出てきた。ひるがのSAで小休止。午前9時前で、荘川からR156へ出るつもりが雪崩のおそれで通行止めという。五箇山まで走りR156へ出た。高速道路でも路面は完全に除雪されているが凍結を恐れて先行車が時速60km前後でしか走らない。それなら国道でも同じというわけだ。
 ここから高速はR156と乖離して長いトンネルを抜けて一気に城端へ行く。R156は庄川の流れに沿いながらくねくね曲がり道を走る。国道は通行量がほとんどないせいか、雪道になった。1年に1回は雪道ドライブも味わいたい。今は10時前だ。13時まではまだ時間があるので開場した温泉を探した。道の駅で聞くと大崩島の新五箇山温泉 南砺市平ふれあい温泉センターを教えてもらった。(くろば温泉は火曜休み)R156から分岐する道を行くとより深い雪道になった。四輪駆動車が頼もしいと感じる。
 非常に広いPだが、先行者は2台だけだった。510円を券売機で支払う。良いお湯だった。少し温めだが芯まで温まる。30分もしないうちに汗がでてきた。効能書きを見ると膝関節症にも良さげである。そういえば車から降りた瞬間に零下5度くらいだろうか、悪い方の膝に血が通う感覚が無くなった。入湯後は血が通った気がした。長い間けい皮鎮痛薬で誤魔化してきたせいか膝の神経が再生されなくなったのか。血行を促すことは治癒を助けることと思う。ぽかぽかした後は寒い戸外でも平気だ。再び高岡市に向かった。
 庄川の左岸側には最新刊の『富山の百山』に収録された高坪山、袴腰山、高落場山、高清水山、赤祖父山などの1000m級の低山がごろごろしている。右岸側の牛岳もいつかは登らねばなるまい。林道を行けるところまで行って山頂に立つ。その後は安い宿に泊まり入湯するのも良い。
 R156の路面は完全に積雪路でガタガタと状況はよろしくないが行き違う車は殆どない。雪解け水を満々と湛えたダム湖で人家は少なく静まり返っている。庄川町を過ぎると突然、となみ野が広がった。雪は意外にもない。カラカラに乾いた冬田が広がっている。突然携帯が鳴った。中産連の担当からだった。名古屋からの参加なので心配したのだろう。高岡市内に着いて中食後、13時ちょうど、二上山の山麓に建つポリテクノセンター富山に着いた。
 そこは大門山を源流とする小矢部川の氾濫が運んだ沖積平野だった。富山湾の河口近くになると運んだ土砂の流れが停滞して蛇行を繰り返す。以前は水田だったと思われた。庄川も山間部を抜けてとなみ野を形成しながら小矢部川と隣り合う。水害の危険地帯だっただろう。それでも高岡市のような町が発展したのは標高52mの高台で水害を免れたからと思う。地名の高岡もなるほどと思う。水害を承知でこんな場所でも逃げないのは氾濫の度に土地が肥えるかららしい。
 交流会後、二上山をドライブしたかったが冬期は通行止めだった。二上山は万葉集の大伴家持ゆかりの名山である。ここには私が信奉する俳人・前田普羅の自筆の句碑が建つ。
  ”雪山に雪の降り居る夕べかな   前田普羅”
 万葉歴史記念館も今日は工事中だった。雨晴海岸からの立山連峰の眺めも冬型の気圧配置で曇り何も見えない。得るところなくそのまま帰名した。但し、白川郷まではR156を走った。

俳句と越の小さな山旅2016年10月11日

 10月9日。所属結社「辛夷」のイベントに参加するため、早朝2時に自宅を出た。今年も天気の良くない連休になった。東海北陸自動車道の長良川沿いの道になると降雨が激しくなった。しかもトンネルが連続するのでワイパーの操作が面倒なほど。白鳥ICの手前では豪雨となった。時速60kmに減速し、4WDにONしておく。路面の水量次第で4WDでもハイドロプレーニング現象が起きる。対策は低速で走るしかない。高鷲ICからやや大人しくなる。ひるがのSAで仮眠。飛騨清見から高山ICまで走りR41へ。交通量は多め。
     大山歴史民俗資料館へ
 富山市内に入り立山方面へ右折、旧大山町から常願寺川を渡ると立山町だ。常願寺川はいつも見る氾濫河原が隠れるほどの濁流である。両岸の堤防はここから始まっている。両岸一杯に広がって海まで突進するようだ。
 下流の雷鳥大橋の河川内の標高は115m、左岸(西)の富山地鉄・月岡駅付近の三角点は86、9mですでに天井川になっている。右岸(東)の立山町側は123mで少し余裕がある。つまり、富山平野の東部は常願寺川の氾濫がもたらした。夥しい土砂は五色が原の鳶山の大崩が原因らしい。旧立山温泉は立ち入り禁止になり多くの砂防堰堤が建設されている。
 いつもの道の駅兼コンビニへは7時半に到着。9時まで時間をつぶす。目的地は亀谷温泉の大山歴史民俗資料館だが、小止みになったので雄山神社に寄る。境内を歩く。隣には富山県立山博物館がある。9時過ぎたので大山歴史民俗資料館に向かった。道を少し戻る。山猿が数匹民家の屋根に上ったり道路に下りて何かやっている。常願寺川にかかる小見への橋を渡る。砂防堰堤が滝のようになって奔流する。地響きが聞こえるようだ。小見から亀谷温泉へ右折。九十九折れの道を登りきると有峰林道ゲートの手前が目指す資料館だ。
 今まで登山の帰りに温泉に入湯することは度々あってもここへ寄ることはなかった。時刻少し前だが入館を許された。いきなり伊藤孝一が有峰がダムに沈む前に買い上げた狛犬を見たいと来観の意思を告げた。奥に展示してあるが順路と言うものがある。右回りに説明を聞きながら色々質疑応答して学ばせてもらった。
 想像した以上の山や向きの資料館だった。
 第一展示室では宇治長次郎、金山穆韶(ぼくしょう)、播隆上人が大山町の三賢人として顕彰されている。
 第二展示室は常願寺川の治水と発電、
 第三展示室は有峰、大山地域の鉱山・恐竜となっている。念願だった狛犬は全部で八体展示。太めの犬くらいの大きさで木質系の荒削りな造形である。円空仏のイメージにそっくりである。すると有峰の住民の先祖は単なる農民ではなく、落ち武者だろうか。円空は木地師とされているが、流れ者の木地師に彫らせたものか。
 放射性炭素年代測定という科学的検査で古いものは大体1300年頃と判明したらしい。いずれもひびが入り朽ち始めていることは確かである。パンフレットには
サル 2体 1334年鎌倉末 ヒノキ科
シシ  2体 1452年室町前 軟松類
ヌエ  2体 1531年戦国期 軟松類
クマ  2体 1814~1879年 江戸後~明治初  モクレン科
とあった。
 これを大正9年にダムに沈む前に名古屋のお金持ちで登山家の伊藤孝一が購入したという。一旦は名古屋に持ち出され、疎開で長野県の赤沼家へ一家とともに狛犬も移転した。これを赤沼氏が買い取って松本市民俗資料館に寄贈したという話。それを松本市から富山市は返還を希望して里帰り(有峰は水没したのでJターンというべきか)を果たしたのが平成になってからのことだった。
中々に存在感のある狛犬であった。結構長々と話をした。次の目的地の富山市電気ビルに走った。
      富山市俳句会へ
 13時から年次大会に入った。結社賞などの発表、投句の選評、その後の懇親会、句会など順調に運行された。40歳で入会したころは初代主宰の前田普羅から直接指導を受けた俳人もいた。年々鬼籍に入り、来賓席にならぶ古参俳人は当時の数名から2名にまで減った。1人は2代目主宰の中島正文(俳号:杏子、日本山岳会会員で山岳史家)の直系の俳人である。3代目の福永鳴風を支えた俳人たちが基盤を守って、4代目の現主宰・中坪達哉を支える。俳誌も現在は1080号を数える。来年は主宰継承後10周年となる。
 この10年間には東京のS女を病死で失い、続いて片腕というべきY氏の急死という波乱にも見舞われた。いずれも結社を支える実力は互角の有力俳人だった。3代目の福永鳴風は昭和55年「花辛夷守らせたまへ普羅杏子」と詠んで、指導者に徹する意味でレッスンプロを自認し、継承の決意を示した。鳴風が育てた若手4名のうち2名を失った。将来の発展のための布石を打つ時期が来たと言える。句会後は散会となる。
       氷見市/七尾市・蔵王山(点名:高坂山)へ
 10月10日。本当は7日から8日は毛勝三山の猫又山に登山の予定だった。天気不良、膝の痛みを警戒して大人しくした。10日は降雨は逃れそうなので昨年と同じ能登半島の1等三角点の山・高坂山507mを予定した。
 ホテルを出たのは寝過ごして8時40分となった。R8からR415へ行き、氷見市に向かう。なるだけ富山湾沿いにドライブした。氷見市の北部の阿尾から県道306号平阿尾線に入り七尾市との境界に近い平に向かった。平は氷見市最北の山村であった。つまり富山県最北でもある。入善町や朝日町とほぼ同じ。
 平とは名ばかりで傾斜地に山家が建つ。地形図では20戸を数えるが人の姿は殆どない。こんな僻村でも人が住んでいた。富山県知事選挙の公報があるからだ。どこにも登山口を見いだせないまま石川県まで走ってしまった。林道からは富山湾を見下ろす。雪の立山連峰など素晴らしいだろう。
 平へ戻って古老に山の話を聞くと意外なことを言う。三角点か、有名らしいなあ、大阪や京都からも大勢来る、この前は80歳の老婦人も来たよ、と言うではないか。同好の士である。この山はねえ、1等三角点という希少価値があるんです、と言うとおおそれだ、と答える。歯はほとんどないがはっきりしている。道はなあ、笹を刈ったと聞いている、剣主神社に車を置いて行けや、と教えてくれた。どうやら登れるらしい。
 神社の境内に駐車。12時10分。舗装された農道を登る。舗装が切れた辺りからは棚田の風景が広がったが休耕田もある。登山口の表示を探すがない。農道から山に通じそうな刈り払いがあったがなぜか足が進まなかった。
 高坂山は目前にあり、東尾根が伸びている。農道から草深い踏み跡に分け入り、尾根の根っこまで近づいて地形図にある破線路(用水路沿いの踏み跡)を歩きながら尾根と落差が縮まったところで杉の植林の中を尾根に這い上がった。12時28分。尾根には微かな踏み跡があった。但し倒木もあり度々道を外した。ヤブっぽくなると道に戻る。すると七尾市側の良い道と合流した。広くて浅い沢のようないわば街道を歩いた。山頂が近づくと再び細道になる。13時登頂。3m四方が刈り払われているきれいな山頂である。1等三角点本点である。周囲は雑木林で眺望はほとんどない。25分滞在後、平へ30分とある道標のある良い道を下った。最初は南尾根の樹林の道から山腹を横切り、芒の生い茂る湿地帯を行くとさっきの農道へ出た。何だ、この道か。印は何もない。Pへ着いたのは14時過ぎ。2時間ほどのハイキングだった。
     石動山(せきどうさん)を散策
 まだ時間があるので石動山へも行って見た。そこは山岳信仰の拠点だったという。最高点の564mの大御前に登拝してみた。小さなお社があった。白山宮という。そこから城跡を経て下山した。樹林の隙間から富山湾が見下ろせた。結局医王山、宝達山と来て本当は石動山に置くはずだったが先に神社があって三角点設置はならず、高坂山になったのだろう。資料館のスタッフは白山宮ははくさんぐうで良いが、白山をしらやまと言った。昔は加賀能登も越の国であった。だから越の白山(こしのしらやま)と呼んだ。相当古い歴史の山のようだ。
 さて、思いは果たした。県道306号を戻ってまた富山湾沿いに走った。虻ヶ島からの立山連峰の眺めが素晴らしいと宣伝する表示があった。
http://www.info-toyama.com/image/index.cfm?action=detail&id=1124
このサイトを見ると確かに素晴らしい眺めだ。剱岳を中心に左に毛勝三山、右に立山が見える。湾に浮かぶ島が前景で立山連峰が借景になっている。こんな時期に来たいものである。今日はあいにく厚い雲の中だ。
 R160をひたすら走る。いろいろな観光施設が新しい。R160からR415を走り高岡市に着いた。R156から砺波ICで北陸道へ。今回は米原経由で帰名。
 これで『一等三角点全国ガイド 改訂版』(ナカニシヤ出版)に収録された1等は愛知県、岐阜県、奈良県、富山県、福井県は完全踏破、石川県は穴水の河内岳、輪島の下山村(三蛇山)と鉢伏山、七尾の天元寺(遍照岳)、宇出津の沖波山、小松の清水山が未踏。離島の1等3座は行かない。三重県は大平尾村4.5mのみ未踏。長野県は大物では四方原山、長倉山、八風山、が残る。

特別寄稿「歴史と信仰の山を訪ねて」を拝読!2016年09月24日

 このほど日本山岳会の年報『山岳』NO111が届いた。早速ページをめくる。巻頭記事は徳仁親王(皇太子殿下)の「歴史と信仰の山を訪ねて」である。
 殿下は5歳の時に登った軽井沢の離山を皮切りに山歴50年という。登った山の数は170余りとある。皇室ゆえの制約を考えるとよく登っておられると思う。
 お好みの山は歴史と信仰の山だとされる。中でも歴史的に登拝の道そのものに関心を持たれている。つまり汗を流してそれ自体を楽しむスポーツ登山にとどまらず、「私にとって信仰の山への登山は、過去を偲びながら歩む生きた歴史探索なのである」と書いておられる。
1白山
2両神山
3伯耆大山
4大峰山
5甲斐駒ケ岳
6御正体山
7権現岳(八ヶ岳)
8鳥海山
9伊吹山
10大山(神奈川県)
11茶臼岳(那須)
以上
 各山を思い出とともに語られている。確かに白山は大自然と信仰の歴史の山である。立山や乗鞍岳と違って観光開発は最小限に抑えられている。山体が大きく眺めも抜群に良い。高山植物も豊富であり、山腹にはブナ、トチなどの喬木が残る。何より登山道と言わず、禅定道という歴史の道が皇太子の心に浸みこむのだろう。
 冒頭の文に戻るが「私は山を訪れることにより味わう大自然との触れ合いに大きな魅力と喜びを感じる。山に入るといかに人間が小さく大自然に対し無力なものであるかを感じるのは常である」、「私は、比較的静かで山体の大きい山を好む」と言われる。皇室の方とはいえ、日本人として共通の認識を抱いておられることに嬉しくもある。

東三河・本宮山・・・宝川源流を登り、表参道を下る2016年05月28日

 7時30分、自宅を出る。空は曇りがちだ。東名はやや通行量が多い。豊川ICを出て旧一宮町舎の信号を左折。県道21の交差点で右折。ウォーキングセンターへは8時30分に着くがまたも駐車スペースがなく右往左往する。遅かったのだ。人気の山は遅出には厳しい。そこで宝川の方へ直接行くこととした。県道21へ戻り、宝円寺のシダレサクラの案内板で右折。2車線の道を走ると里のはずれで1車線に狭まる。やがて新東名のトンネルをくぐる。右へ曲がると林道が続くが、未舗装になった辺りでUターンして駐車。
 9時30分林道を歩き出す。延々と続く林道だがところどころには道標もあって確認できる安心感がある。勾配が急になった先で終点。右岸へ木の橋が渡してある。滑りやすい板に注意しながらわたる。ここも結構広く林道の残存かと思われる。しかし、いよいよ沢に近づくと山道になる。
 岩をからむ道を行くと前方に滝が見える。また左岸へ渡渉する。滝は左岸から巻き、右から落ちてくる沢を注意しながら渡渉する。勾配はますます急になったがちょっとした平らな休み場に着いた。480mという。駐車地点で見た二人連れが休んでいた。
 国見岩まであと0.5kmとある。炭焼き窯の跡がしっかり残っている。戦後、石油が輸入されるまでは木炭は高く売れたという。だからこんな高い山奥まで炭を焼きに来たのだろう。
 ここから右の源流の音を聞きながら登ってゆく。かなりの勾配である。木の階段でステップを踏みやすく整備されているから安心である。そして、鎖場の連続するもっとも勾配の急な斜面をよじ登る。鎖は最初は2本で終わった。落石に注意しながら登ってゆくとまた鎖が現れた。大きな岩を直登するコースと迂回するコースに分かれたので迂回する方向に振った。その先にも道標が立っている。一方は林道へ、国見岩へと分岐する。その先でも鎖場をしのぎながら行くと鎖の三叉路になった。さっきの直登コースが上がってきたところだ。上から下山してきたので譲ると直登コースを下る。聞くと下に岩戸神社があるという。それなら見逃すわけにはいかないと迂回コースを下って直登コースに上がるとなるほど岩の間に何か祀ってあり、水が出ている。ちょっと拝んでから直登の鎖をつかんで攀じ登る。左へ急斜面を登ってゆくと国見岩に着いた。短いながら手ごたえ十分のルートであった。
 ガイドによればこの岩の下部に岩戸神社があると説明されている。さっきのは岩戸神社じゃなかったのだ。
 赤い鳥居をくぐって山頂直下の広場に着く。更に奥宮順拝路へ行くと山頂へ左折して橋を渡る。すぐに山頂だった。表参道を下ると多くの登山者とすれ違った。さすがはメインルートだけはある。大杉の林立する厳かな雰囲気を味わいながらくだった。途中に水場は2箇所あり、登りでも下りでも水筒の要らない山だなと思う。そのせいか、砥鹿神社境内の自販機は100円だった。
 基本的に展望のない尾根の一本調子の登り下りになる。それに飽きさせない工夫かどうかは知らないが、山姥の足跡、蛙岩、梯子岩、馬の背岩などの仕掛けをしてあった。
 ウォーキングセンターに着いて、マイカーデポ地まで行く。素戔嗚神社を経て宝円寺を見て歩く。農婦としばし世間話する。本宮山松源院の話も聞く。更に歩くと新東名も見えてきた。やれやれだ。W・Cから約40分だった。本宮の湯で汗を流した。帰路は県道21、R1、県道57、県道56とつないで走った。それでもまだ明るい。夏至が近づいてきたなと思う。

松平郷から天下峯を歩く2015年12月12日

 過去の記録  王滝溪谷から天下峯を歩く
http://koyaban.asablo.jp/blog/2009/10/22/4647334

 以前は王滝溪谷から歩いた。今一歩きでがないので、松平郷から試みた。
 9時30分過ぎ、名古屋を出発。東の空は雲が厚い。暖かいので空気が湿っているのだろう。R153は流れもよく、豊田市をスムーズに通過できた。R301になり、矢作川を渡る橋で、流れが渋滞すると、ふっと目の前を見ると、目の前に焙烙山と六所山が並んで、屏風のように聳える。
 10年前の合併で豊田市最高峰の名誉は剥奪されたが、豊田市民には朝な夕なに眺められ、親しまれている里山である。天下峯は前景に埋没して同定はできない。
 R301は丘陵地を越えて、東海環状の豊田松平ICを左に見て下ると巴川にかかる松平橋を渡る。右折し、案内にしたがって左折する。豊田松平ICから7kmで松平郷への案内板のある三叉路に着く。左折するとPとトイレがあるが、松平東照宮や高月院はまだ奥まで走る。11時前に着いた。
      松平郷・沢連(そうれ)の山里を歩く
 今日は休日なので農産物を売る露店が開店していたので白菜と里芋を買った。車はまばらにある。すでにシーズンは過ぎて閑散としている。しかし、名残りの紅葉も素晴らしい色彩を見せる。11時過ぎ、身支度を整えて、天下峯に向かう。六所山への登山口を右に見送り、高月院への道も見送る。車道歩きである。坂道を歩くと左に在原家のミニガイドがあるが、下山後に見送る。
 登りきった三叉路を右折。セメントのよう壁の前後に枝道があり、下は高月院への近道と石碑があった。
 ぐんぐん急な坂道を登ると二股になるが道標を見て直進。暖冬のせいで道路わきのツツジが狂い咲きしている。右折の道も上部で合流する。一軒の住居と建物があるが行き止まりだ。ここからヘアピンのように左折する。車道の幅はあるが通過は困難だろう。
      六所山を遥拝する東宮口へ(ひがしみやぐち)へ
 荒れた舗装から地道になり、きり開きを越えるとまた舗装路になる。桧、杉の植林山の山腹を巻く感じだ。残された渋柿がたわわに実っている。照葉樹林の青、雑木林の彩り、針葉樹の植林と変化する。車道は一旦下って軽く乗り越す。ほとんど平坦な道になった。そのまま歩くと六所神社のある東宮口に着いた。東宮(とうぐう)とは皇太子の意味があるが、橋の名前のところに地蔵橋とあり、宮口川とあったので宮口の東の意味か。
 ここは六所山の麓であり里宮である。農村舞台もある。あるHPにはかつては宮口村といい、社領だったという。村の氏子二人が毎月二度、上宮(うえみや)清掃の当番に当たる、と書いてある。宮口音頭まであるそうだ。数分下ると、坂上町字金姓(かねしょう)の地にある下宮一の鳥居が建っていた。鳥居からは六所山が背景に見える。あの山は明神山(六所大明神)とも呼ばれたが、山全体が御神体であり、古代からの遥拝地なのであった。なぜかここだけが残されたのも神聖な場所だからだろう。
     神聖な六所山遥拝の地を育む水田
 それにしても仁王への分岐にある宮口川の橋から眺める六所山は素晴らしい山容である。三河三霊山(三河本宮山、猿投山)の一つというだけはある。緩やかな丘陵地形に挟まれた谷の風景は、鎌倉市辺りならば谷戸(やと)という地形である。多すぎない水量の宮口川は美しい水田を潤す。地形図を眺めると六所山の西麓だが、南側の山が低く、朝早くから陽光に恵まれるのだろう。そして水田を北側に集約し、宮口川を南の山陰に寄せて流す。北側に民家も寄せているが、背後からも小さな流れがある。制御しやすい湧水は農業に助かる。
 十二月の今は穭田(ひつじた)になっている。地味が豊かで今にも生育しそうだ。「刈り取った稲の株から再び生えてくるひこばえを穭(ひつじ)といい、一面に穭の生えた刈田を穭田という。乾いた田の面を吹く風に弱々しい青い葉が揺れているのは晩秋の寂しい眺めだが、中には青々と葉が茂って、小さな穂をつけるものもある。枯れ果てた四囲の景の中でその青さは目にしみるが、やがて霜が来ると白々と枯れてゆく。それまでの間、穂をついばみに」降りてくる小鳥の声がしばらく穭田ににぎわいとなる」(水原秋桜子編『俳句小歳時記』大泉書店 より)
 六所山は農の恵みを与えた山だった。
     仁王から天下峰へ登る
 宮口川に沿う細い車道を下ると仁王に着く。ここが天下峯の登山口になる。王滝への道から右折すると民家が肩を寄せ合うように建っている。奥まで歩き橋を渡る。奥の民家で行き止まりとなるので細い山道に右折する。すぐに安全寺に着く。松平親氏が天下泰平を祈願したという謂れが書いてある。山門には天下山とある。
 奥へ入るのは略してそのまま植林内の山道を登る。細い車道に出ると天下峯への小さな道標がある。車道を登って行くとほどなく天下峯への山道が分かれる。楓の冬紅葉が美しい。右はフリークライミングのゲレンデに直行し、上部で左折する。そのまま車道を行くとトイレとPがある。すぐ右手に天下峯への山道が登って行く。
 どちらでも良いがこちらの方が少しは短い。周囲は巨岩の並ぶ急峻な山腹である。その所々に石仏が安置されて心休まる。クライマー達は大きな取り付くシマのない巨岩に取り付いて攀じ登る。その横をすり抜けて階段状の道になるとすぐに巨岩の横たわる頂上である。13時少し前に着いた。
 頂上からは豊田市の市街地も眺められるが、何といって六所山の眺めが良い。左には兄貴格の焙烙山も並ぶ。少し背が高いが山格は六所山に及ばない。松平親氏はここからやがて天下を治めるぞ、と祈願した。企業経営者なら何々で日本一になるぞ、とか、願うことだろう。トヨタが日本一から数十年で世界一を実現したように願わないと実現もしない。13時30分過ぎ、下山。
     東照宮へ
 元の仁王へ戻る。361号を王滝へ歩き、橋を左折。豊松小学校のある峠道を越えて360号へ下る。少し登り返して東照宮へ2.3kmの案内のある車道を歩く。羽明という山さとを経て登ると沢連(そうれ)に着く。往きに見た在原家の墓所のある在原山に寄った。在原家は松平の遠祖という。徳川さんは先祖を大切にしたんだろう。
 車道を下ると松平郷に戻った。山頂から東照宮まで約4kmで1時間程のこと。ほぼ4時間弱の山里ウォーキングでした。東照宮には大勢のハイカーが説明を聞いていた。Pには大型のバス1台があり団体さんらしい。閑散と思っていたが意外にも午後から来訪する人が多かったようだ。

JR三ヶ根駅から登る三ヶ根山2015年11月21日

 これまでは大沢から2回登ったが、お散歩程度で下山するので、マイカー登山ではいかにも物足りない。そこで電車を使って、駅から駅へとハイキングを企てた。
 標高14mの海辺に近い名鉄の西幡豆駅から登っても比高336mに過ぎない。三ヶ根駅の標高は60mくらいだから、比高250mから290mなので飛ばせば、ほぼ1時間程度の登りになる。但し、乗り換えの無い三ヶ根駅から登ることにして、西幡豆駅へ下る予定で出かけた。
          各駅停車の鈍行で西三河へ
 金山駅を7時51分の普通に乗車。840円也。快速や急行に追い越されてのんびり鈍行の列車旅を楽しむ。三ヶ根駅には定刻どおり8時59分に到着。人間ばかりの繁華街から田園の広がる田舎に着いた。人は少なく道を問う人さえ見かけない。
 ローソンで若干の食べ物と飲み物を買う。県道41号を行き、深溝苅谷門の交差点から県道322号に左折する。500mほど軽く登ると峠状の乗り越しになる。ホテルを越した先に登山口の道標を見出す。
 9時28分に登り出す。笹が刈られて幅2mくらいの細道が奥へ続いている。すぐに右からの道を合わせるがこれは車道で行き止まりになっている。3台から4台は止められる。周囲は桧の植林の幼木が密生している。山道もここから狭くなり、一旦谷の奥まった所から尾根に取り付きジグザグの急登が始まる。10分ほどで尾根に乗ると照葉樹林の植生に変わった。落葉しないので冬でも見晴らしはなく薄暗い。日光が届かないせいか、地面は笹も草藪もなく快適に歩ける。体が温まっても北風が吹き抜けるので丁度いい加減のコンディションだ。たまにある樹林越しの見晴らしから岡崎市街が見渡せる。
 標高219m辺りから上り下りを繰り返す。前方に三ヶ根山の一角も見える。ここで下ってくる男性に会った。片手に何かの道具を持っていた。多分自然薯掘りの道具だろう。先の方で穴を掘った跡があったからだ。
 10時30分。一旦軽く下って登りかえすとコンクリートの建屋に着いた。これがかつては愛知県で最初に開業された三ヶ根ロープウェイの終点駅跡だ。昭和38年に開業され、昭和51年に廃止された。年間220万人もの観光客を集めた愛知県有数の観光地も今は草深く埋もれる。ネットで見つけた名鉄のPRのユーチューブだ。
 「懐かしの名鉄グループCM」0:30秒辺りから0:55秒までが三ヶ根山観光PRになっている。
 https://www.youtube.com/watch?v=zQmeCbybWRU
 私も十代の頃、勤務先の忘年会で形原温泉に行った記憶があるが、今はどうなっているのやら。
 跡地からは蒲郡市街地や三河湾が見下ろせる。ここで10分間休憩とした。すぐ近くに形原温泉に下る山道の道標がある。やや草深い感じだ。しばらくで三角点へ行く案内板があるので左折。やや草がかぶさるが歩ける。平坦地にはなにもない。2枚目の道標で左の尾根へ下る。すると右にスカイラインと接する辺りに3等三角点が埋まっていた。何も見えない。ネットでは不明という記事を見るがここまで下る前に諦めるのだろう。往復10分で分岐まで戻る。
 すぐにスカイラインに出た。スカイラインは徒歩で歩けないので、車に注意して横断し、「ゆうとぴあ三ヶ根」に行く。観光地としては寂れたが現在も営業中である。山上では唯一の飲食店になる。ここでは慰霊碑のガイドもかねておられるようだ。そのまま三ヶ根観音まで歩く。比島観音や数々の戦争慰霊碑を経て、11時05分、展望台に着く。かつては名鉄グランドホテル・回転展望台が営業していた場所だ。(ユーチューブ参照)今は駐車場とトイレ、ベンチなど簡素な園地に変わった。
 ここからの景色は昔も今も変わらないままであろう。そのまま脇道を歩いて行くとアイシン精機の保養施設の前を通過してスカイラインに合流。アサギマダラ飛来地の案内塔が建つ。ここも通過車両に注意して横断。荒廃した観光施設の前を通り、向こう側の芝の園地に行く。「三ヶ根山」の石碑があり、あじさいや幹の分かれた珍しい桜が植えてある。その先のコンクリートのベンチがある園地で昼食とする。11時20分から40分昼食タイム。
 園地から下ると、目の前に大きな電波反射塔の建つピークが見える。左はスカイラインで、広大なPがある。右へは「殉国七士廟」への案内がある。ハイキングコースもここで西幡豆駅と東幡豆駅とに分かれる。左へは三河湾を見下ろしながら、スカイライン沿いの歩道を下り、東幡豆駅に下る。右は殉国七士廟に立ち寄って、小野ヶ谷下山道に行く。今回は右に振る。電波塔をめざす。
 分岐からすぐ車道の左からの階段の道を急登する。標高350mの最高点に達するが、東半分が開けて、三河湾方面に眺めはあるが360度の大展望というわけではない。車道を下ると元の道に戻れる。
 「殉国七士廟」へは広い車道を歩く。左の林道への分岐に小野ヶ谷下山道の案内板がある。とりあえず、殉国七士墓にお参りする。駐車場から右へ分岐する林道との辺りに四等三角点「三ヶ根」が埋まる。墓地ではボランティアの人が2名掃除中だった。思わぬ珍しい話を聞いた。私もネットで知る限りの断片的な知識で応じたが深い話に感心する。今回はお町さんの碑にも寄らせていただいた。満州の悲話である。
 小野ヶ谷の道まで戻り下る。延々とした林道歩きが続くが、スカイラインで車の排ガスを浴びながら下るよりは良い。地形図通りの曲折通りに下ると小野ヶ谷の山麓に着いた。そこで橋を渡るのが間違いで八幡へ行き、とんだ遠回りになった。素直に川沿いに行けば西幡豆駅の「はず」だった。駅に着いたのは2時28分で29分発の電車に間に合わなかった。約40分はロスしただろう。駅前の店で缶ビールを飲みながら時間を潰すと30分後に電車が来た。ワンマンカーだった。廃線寸前の様相である。山も海も寂れてしまったのか。
 ホテルはグリーンホテル三ヶ根以外はみな廃業。数多の慰霊碑だけが未だ人を呼ぶ。しかし、これとて、戦争体験者や語り部も高齢化して僅かに残るのみという。
 傍らの同行者曰く、中国や韓国から観光客を呼ばないとねえ、という。こんな慰霊碑群を見たら中国人が何と言うやら。左様、反戦をいわずして、反戦の山になったのだ。二度と戦争してはならない。

晩秋の蠅帽子嶺に登る2015年11月01日

            地元の本巣市で買い物
 10/31から11/1にかけて旧根尾村の奥山に遊んだ。10/31の朝10時にIKさんと金山駅前で合流し、一路、美濃路へ向かう。R157へ入るのが一苦労で、何とか本巣市に着いた。ここでもう1人のINさんとも合流した。最初の寄り道先は本巣市の大きなスーパーに入る。今夜の夕食の食材の調達である。白菜一束、鶏肉、キノコ類、副食類を買う。3人分で2800円ほどになった。後はお好みでビール、行動食などを買う。名産の柿も美味しそうだが、帰路の土産に買うことにする。
             根尾谷の奥へ
 R157を2台で旧根尾村の能郷白山の麓の大河原に向かった。現在はうすずみ温泉までは二車線の立派な国道だ。その先は車の幅一杯の酷道に豹変する。根尾能郷を過ぎると、いつもの倉見七里の険路を走る。飛び石連休のせいか温見峠から来る車もかなり多く、すれ違いに冷や冷やする。難所を通過すると廃村黒津に着いた。屋根が抜けて朽ちて行くばかりの哀れな廃屋が点在する。そして最奥の廃村大河原も閑散としていた。もう出作りの旧村民も山を下りたのか。
 その先の猫峠の道は全面通行止めだった。ハエ帽子峠の登山口の標示のある分岐に来た。今夜の寝場所探しになった。平地、水の確保、道路から隠れる、湿地でないこと、それに焚き火の枯木があることを条件に少し先まで走って見つかった。太い雑木林の木立の雰囲気が良い。早速、テントを張った。周辺から枯木や枯れ枝を集めた。枯れ枝を箒代わりにして落ち葉を掃きながらうずたかく盛り上げた。IKさんは川へ水汲みに行く。食材を並べて準備もした。少し早いが、落ち葉の山に古ダンボール紙をちぎって、着火した。湿り気はあるがすぐに着火してくれた。小枝を乗せ、火が乗り移ると、太い木や濡れた木もかぶせる。火力で湿気も蒸発する。何とか勢いがついた。
            山猿の咆哮
 近くで、山猿の、遠くには鹿の咆哮を聞いた。特に山猿は対岸の山腹がコロニーであるらしい。集団で吼えている。気味が悪い。火を使う我々を警戒中とも思う。鹿は妻恋の叫びだろう。

      ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿     芭蕉

 野生のプンプンする山奥の闇の中で、白菜、鶏肉、うどんを煮込んで食事を楽しんだ。どんな話も楽しい。
            焚き火は寂しがり屋 
 時々は焚き火の火加減を見た。焚き火は寂しがり屋なのである。枯木を追加してやり、時にはウチワで仰いで酸素を強制的に送ってやらないと元気がなくなる。焚き火は何よりも人間の話を聞くのが好きなのである。焚き火を囲んで取り留めの無い話をするとまた勢いを取り返す。どんな話でも喜んで聞いてくれる。火力の衰えは話を催促するかのようだ。
 そのうちに小型のパトカーが温見峠に向かって疾走していった。しばらくすると救急車、消防車が赤い回転灯を点けながら走ってゆく。何事か事故が起きたようだ。焚き火が終わりかけた頃、救急車が警笛を鳴らしながら町に向かって疾走していった。消防車などは回転灯は消灯して普通に還って行く。事故処理は終わったようだ。こんな人里離れた僻遠の地でどんな事故があったのか。

 対岸の山腹から、再び山猿の咆哮が聞こえた。焚き火を処理してテントに入った。うるさいから早く寝ろ、と言わんばかりに聞こえる。

            11/1は歴史の山路へ 
 寒い夜だった。テント内はびっしょり濡れている。冬用羽毛シュラフでも手を出していると寒い。もう初冬の寒さであろう。6時に起きてすぐに食事の支度に入る。昨夜の残り汁に白菜の残りなどを入れてまた煮込む。うどん汁の追加をすると味が良くなった。食べられるか心配したが殆ど残さずに平らげた。テントを撤収。ゴミともマイカーに積み込んで出発する。分岐付近の駐車地で準備中に尾張小牧ナンバーの単独登山者が着いた。早朝に出発したらしい。行先は同じだ。
 登山口まではすすきや笹が刈り払われて4WD車なら何とか走れそうな車道を下る。難なく登山口に着いた。この切り開きは昨年の2014年は水戸天狗党の事件から150周年のイベントのためだったのだろうか。
 ここから対岸まではロープが張ってある。事前に渡渉があることは伝えてあるのでそれぞれが工夫して渡渉した。名古屋市指定のゴミ袋を2重に登山靴の上から履いた人、ビニール製買い物袋を両足に掃いた人、単独の人は胸まである釣師御用達のゴム長、私は膝まであるゴム長だったが、渇水期なのでゴム長でも水は入らずに渡れた。
            武田耕雲斎らの辿った山路
 対岸で登山靴に履き替える。杉の大木の横の乳くれ地蔵を横目に長い尾根の末端に取り付く。全山自然林である。藪がややかぶさる程度の野生味のある登山道はかつての記憶そのままである。
 水戸天狗党の武田耕雲斎ら800名は150年前の12月初旬にこの山路を乗り越して、越前国に入り、山伝いの村落をつなぎながら、敦賀市まで苦難の旅を続けた。800人というから先頭から最後尾まで1人分1m超の間隔とすると、ほぼ1kmの隊列になっただろう。馬もいたし、大砲も分解して運んだという。徒労といえば徒労の旅だった。苦労も空しく京都の徳川慶喜には会えず、越前藩は優遇してくれたが徳川幕府方に渡ると鯡倉に押し込められてその後は斬首にされた日本刑法史上最悪の結果になった。日本の夜明け前の暗さを反映したような事件だった。
            シロブナの純林の道
 ジグザグの急登が終わると、地形図に表現された尾根を忠実に辿る道と山腹を巻いてゆく道に分かれる。そこに朽木が横たわるが、知らないとそのまま山腹道を辿る。我々も往きは山腹を歩いた。標高が高まるとブナの自然林になった。木肌の奇麗なシロブナという。日本海側の樹種で純林を構成する。
 気温が低いせいか、汗をかいているはずなのに爽やかな気分である。周囲は鮮やかな黄葉というわけではない。今年は雨が少なかったせいか、黄葉する前に枯れている葉も多い。十分な水分を吸いあげておればもっと美しいだろう。
 シロブナの純林を堪能しながら歩いていくと、やがて、943mの道標を見た。傾斜が緩くなって歩きやすい。純林はここからが本番だった。そして県境に近づくと尾根がやせてきて、傾斜も急になった。峠道は尾根の左へ振る。すぐに稜線へ上がる近道の目印もあった。急な傾斜の山腹を横切るように歩く。すると谷にも道標があり県境へ行けるようだ。以前はここへ下りた記憶がある。
 峠道は今までと違って、藪が繁り、歩きにくくなった。同行者らは野生味があると喜んではいたが・・・・。県境に沿うように横切って行くと地蔵が祀られている蠅帽子峠に着いた。水戸天狗党のことを書いた道標が立っていた。まだ新しい。そこで一休みした。峠に着く気分は格別である。

    峠見ゆ十一月の空しさに    細見綾子

 福井県側の山々は枯れ切っていた。IKさんが、あっ、あれは白山、と叫んだ。樹林越しに荒島岳も見えたが、冠雪した白山が見えて我々山旅人を喜ばせた。十一月の山ならでは風景である。空しいどころか、我々には嬉しい。部子山銀杏峰、姥ヶ岳、道斉山、堂ヶ辻山、屏風山も見える。越前側は完全な廃道らしい。かの天狗党は越前側に下るが、村々の家は焼かれていたという。係わり合いになるのを恐れたのか。
           蠅帽子嶺の三角点へ
 峠の越前側から尾根へ踏み跡が上がっている。これが三角点1037mに登る踏み跡だ。踏み跡はすぐに消える、又現れる、激しい藪に前途を阻まれながら3つばかりのピークを超えると三角点だった。先行の単独行者がいてあいさつした。落葉しているので見晴らしは良い。能郷白山が大きい。比高600mはあるから当然だ。
 単独行者はコンロを片付けるとさっさと下山していった。又静寂が戻った。3人だけの世界になった。するとどこからか一頭の大型の蝶が飛来してきた。アサギマダラだった。まだこんな山奥に居るのかと驚いた。先だって三河の三ヶ根山で見たばかりである。秋の蝶は弱弱しいというが何のそのという感じだ。
 我々も下山の時が来た。先ほど見つけた下山の尾根に下るポイントに戻り、激しいヤブ尾根を辿った。踏み跡程度だが結構な道のように思える。谷に直降するルートは見つからず、尾根を辿ると峠道に戻れた。地形図どおりである。漫歩気分でブナの純林の街道を下った。943mポイントをチエックした。IKさんが痙攣を起こして遅れたので休憩を取った。鞍部から右は先の方で倒木で塞がれていたから908mポイントへ軽く登った。誰もが記憶の無い道標だった。地形図の尾根を辿る旧来の道だった。広いために踏み跡が分散し、見失い勝ちになるが何とか凹んだ道形を探し、つないで下った。すると見覚えのある元の山腹道に合流できた。908mのピークを避ける道は後から付けられたのだろう。道の凹みは多くの旅人の足跡であろう。
 合流地点からはしばらくでジグザグの道を下った。長い気がした。やがて谷の音が聞こえると、長い峠道も終わる。再び各自のやり方で渡渉した。車に戻ったのが14時10分。出発は8時10分だから丁度6時間のアルバイトだった。また膝の痛みがぶり返すかなと思いつつも充実した山旅を堪能した喜びが優った。
 帰路は再び道の駅「綾部の里」に寄り、名産の柿の一袋を購入した。晩秋の美濃を後にした。

アサギマダラ舞う三ヶ根山へ2015年10月18日

 前回登ったのは3年前だった。今回も大沢登山口から登った。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/04/30/6430548
 というわけで、現代史の現場を観察に行ったのでした。

 今回は膝の故障の回復具合を確かめることもあって短時間の軽い登山道で試歩とした。ストックは使わなくてもバランスを崩すような痛みの再発はなく、回復途上にあるようです。
 前回と全く同じコースを歩きましたが、展望台からの三河湾の眺めは良かったが天気が良すぎて、もやっており、写真の出来栄えは良くない。
 殉国七士之廟では、マイカーが多数停まっていて、恒例の行事の最中でした。手前の石仏の並ぶ林内にも清掃され、白菊が供えてありました。最奥は行事の参列者で埋まっていたので、写真を撮影して下山しようとすると、地元のおばさんから柿の入った一袋をいただきました。通りがかりのものにありがとうございます。
 そして、林道を下り始めた。沢沿いの湿った辺りに野花が一杯咲いているところで何やら乱舞しているのが見える。良く見るとなんとアサギマダラでした。比較的大型の蝶でした。そういえばスカイラインの一角に「アサギマダラ飛来地」の塔が建っていました。看板に偽りなし。
 アザミの花に長居して蜜を吸っているんでしょう。しっかり写真に収まりました。三ヶ根山とアサギマダラはその道の人には良く知られていました。
http://www.srs21.com/3d_insect/asagi_pages/asagi-024-sanganesan.htm

 ここに集結してから沖縄、奄美、台湾に渡った個体も確認されている。素晴らしい自然の力と不思議の世界でした。

 昭和50年に発刊された『旅とハイキング』(アルプス社)の三ヶ根山のガイドを読むと三ヶ根山ロープウェイがあったことが分かります。スカイラインはロープウェイの終点まで通じていた。今も廃墟が残っているらしい。昭和58年発行の同社の道路地図「ビジネス愛知88」には休止中になっていた。以下を読むと栄枯盛衰は人の世の習いと思うだろう。
http://hazu-net.com/index.php?%E4%B8%89%E3%83%B6%E6%A0%B9%E5%B1%B1%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%97%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4#navigator
 次回はロープウェイの終点の廃墟と三角点に寄りたい。以前には無かった名鉄駅、JR駅からの各ハイキングルートの道標も整備されている。2つの駅を結ぶハイキングも良い。三ヶ根駅から西幡豆駅とか。スカイラインがあるというのに矛盾した動きだが悪いことではない。続けて、スカイラインと交錯しない縦走路を開削して欲しい。
 尚、大沢から県道41へ出る際、「古三ヶ根山登山道 是より十九丁」と彫った道標が建っていた。昔から三ヶ根観音へ登拝の盛んな霊山だったことが分かる。信仰と英霊の眠る三ヶ根山は中々に名山だと思う。

円空と和歌2015年08月16日

 8/15はお千代保稲荷のお参りを終えてから、まだ帰名するには早いので、高賀山の麓の洞戸の円空記念館に出向いた。先週の8/8には円空の第二回歌集展が開催されてシンポもあったが山行でいけなかった。気になっていたシンポであるが文書には残されなかった。その代わり、円空和歌集という小冊子が発行された。(500円)15首ていどの和歌を見開き2ページで4首掲載し、簡単な解説を加えて、自筆原文の写真も併載された。
 閉館間際で、さっさと巡っただけであるが、私1人だけだった。原文は解読不能で、解説者が欲しいね、と言ったら、係員が気を利かして色々解説をしてくれた。とわいえ、専門家ではないので断片的な話に終始するが、それでも脳髄を刺激するヒントは得られた。来た甲斐があったというものである。

 ”立上る天の御空の神なるか高賀山の王かとそ念”

の作品の解釈は雨上がりの高賀山の風景の美しさを詠んだとされる解釈になっている。もっと踏み込んでブロッケン現象を見た感動を書きとめたのではないか、と言ったら、登山したことがある人はそういう解釈もできるね、と賛同いただいた。
ソースは草加の山の会のHP
http://www.soka-yamanokai.com/study/study09.html
から一部転載すると
(1823年8月5日に笠ヶ岳に登り、)「夕方山頂に着き、播隆上人と信者達は燈明を捧げ、焼香三拝していると太陽が西の空の雲に隠れようとした時、ブロッケン現象が現れ、これを「一心念仏の中、不思議なるかな阿弥陀仏雲中より出現したまう。」と「加多賀岳再興記」には記してある。ブロッケン現象とは大きな丸い虹の様な光の輪が雲の中に出来、その中に登山者の影が映るのだが播隆上人や信者達は阿弥陀様が雲の中に出てくれたものと大変感激し、笠ガ岳を霊山として開く為より登山道を整備することとした。」
 播隆上人は和歌は残していない。笠ヶ岳は高山だからとも思ったが、ブロッケン山(ドイツ)は標高1141mだから高賀山(1224m)よりも低い。板取川と長良川に挟まれて山霧が発生しやすい。山頂にビバークして確かめたいものである。

 来館者からは円空の和歌の解釈本が欲しいとねだられるそうだ。私も欲しいと思う。

 今まで気が付かなかったのは仏像のみならず、人麻呂像も彫っていたことだった。しかも写真には愛知県で発見されたことが分かる。これは何を意味するのだろうか。円空の和歌修業はどうやら愛知県に居て、人麻呂の和歌を解釈できる高僧ではなかっただろうかという推測は成り立つ。
 
 愛知県の荒子観音は円空研究は荒子に始まり荒子で終わるというほど豊富なんだとか。このことからも円空のスポンサーは愛知県にいたことは想像できようか。毎月第二土曜日に開陳されるので一度は拝観したい。

 円空の和歌は古今和歌集(905年成立)に学んだ気がする。古今和歌集にも人麻呂は歌聖として崇められる立場にあった。人麻呂の塑像は歌聖として自らの和歌のお手本にしたと思われた。
 その根拠は万葉仮名で書かれた万葉集は平安中期以降は読めなくなっていた。951年から訓読みの作業が始まったとされる。いつ終わったのかは不明。

円空の和歌は
 ”わが母の命に代る袈裟なれや法のみかげは万代をへん” 
 ”世に伝ふ歓喜ぶ神は我なれや口より出る玉のかつかつ(注:数々)
柿本人麻呂の和歌は
 ”山の間ゆ出雲の子等は霧なれや吉野の山の嶺にたなびく”

とあって、技巧的に取り込まれたのだろう。

 土屋文明『萬葉集入門』によると、「人麿とその模倣者」の見出しで、
・細部まで完成されて未熟、未完成というべきところはない。
・人麿は広く模倣されている。
・人麿後の萬葉集は皆人麿の模倣と見てよい。
・人麿を越える人はいなかった。
・萬葉集は人麿において頂点に達し、人麿に終わっている。
以上を読むと歌聖といわれるはずだ。円空の時代でも既にそんな評価だったのである。

 仏像の制作をもって遍く旅した円空であるが、江戸時代には珍しくなかった。

 菅江真澄は愛知県豊橋市で生まれ30歳で東北の旅に出た。旅の途上で薬草を採集しながら地もとの医者に売って路銀を得ていた。また宿泊のお礼に絵図を書き残した。

 松浦武四郎は三重県松阪市の生まれ。北海道へ旅するが宿泊先では篆刻の技術が役立った。主に篆刻を彫って置いていった。アイヌの部落では薬草の知識が役立った。

 円空の場合は大衆への祈りの心を形に残したと言える。しかし和歌に傾注したのは何だったのだろうか。仏像だけでは表現しきれない繊細な心は言葉にして残すしかなかった。韻文と言う形で高貴な階級とも交流があったのではないか。解明が待たれる。