豊田市郷土資料館特別展「猿投山ー祈る山、観る山、登る山」2020年01月29日

 猿投山は私の住むマンションの窓から朝な夕なに眺める山である。右側に一段低くなる台地がありあそこがヤマトタケルの兄のオオウスノミコトの墳墓があるところであろう。まさに霊山である。
  親しい猿投山をどんな風に展示するのか興味深々で1/28に見学。一回りすると別室で動画もあり戦前のはげ山だったころの映像が視聴できる。文献の展示は学芸員の解説がないと楽しめないかも知れない。学芸員によるトークもあるので午後に尋ねるが良い。1/19から3/15の間、2時から2時30分間解説してくれる。ギャラリートークは2/15と2/29でともに午後2時から3時まで。講師は外部から招いた専門家。但し猿投山そのものではなく、石、名園に限る。
 今回は豊田市側のみに限る。どちらかと言えば猿投神社に重点が置かれた。猿投山の自然、民俗などが加味されればさらに充実する。この点は学芸員に注文をしておいた。例えば、猿投山の山名の由来である。景行天皇がいたずらする猿を投げたという伝説がもっぱら引用される。しかし、豊田市名誉市民の本多静雄氏は猿投山の「さな」は昔の製鉄に由来するという説を書いていました。こんな解説があれな尚興味は増すだろう。地名の語源辞典にもそう書いてある。
 また猿投山がはげ山だったというのは多分瀬戸市側ではないか。神社のある境内は樹齢200年はありそうな神杉が林立している。神域からちょっと離れると植林になり谷は荒れている。瀬戸物生産には大量の木炭を必要とした。約700年もの間伐採と自然生を繰り返してきたから東濃の窯元周辺の里山はほとんどはげ山になったのである。愛知県は地味の痩せた瀬戸市側の山を買い取り、植林はしたものの、育ちが悪かった。そこを日本山岳会東海支部が貸与してもらい、猿投の森づくりの会を立ち上げた。育ちの悪い植林を伐採し、林床に光を入れて雑木林の自然生を促し、ゆくゆくは市民が憩える雑木林になる。このまま放置すると元々の照葉樹林に戻るので、時々干渉して雑木林の状態を保つという。
 瀬戸市側の東大演習林側は行方不明者の捜索で許可を得て入山したことがある。さば土の尾根や谷にやっと植生が根付いたところである。今も松が残り杉桧の植林も不安定なままで崖崩れも多いので危険領域もある。活き活きした里山に回復するのはまだ数十年はかかるだろう。

対馬の嶺は下雲あらなふ上の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも 万葉集2020年01月11日

 林野庁のHPから
https://www.rinya.maff.go.jp/j/kokuyu_rinya/kokumin_mori/katuyo/reku/rekumori/ariakeyama.html

   地理的・地形的特徴
 対馬南部の有明山山系の丘陵地帯に位置し、有明山を中心として小峰が連なり、山頂部を除いて比較的急峻な地形となっています。フェリーで厳原港へ向かう途中、正面に最も大きく見える山が、有明山です。山頂部は平坦で草原が広がり、昼食や休憩などのんびり過ごすことができます。眼下には清水山城跡や厳原の町が広がり、また、山頂からは、矢立山(648m)や白嶽(515m)リアス式海岸の入り組んだ地形で風光明媚な浅茅湾(あそうわん)を望むことができます。
   歴史的・文化的特徴
 万葉集14巻3,516の防人の歌に、「対馬の嶺は下雲あらなふ上の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも」があります。この歌は故郷を離れた防人(朝鮮半島との戦いである633年の「白村江の戦い」の後、北九州(対馬、壱岐、福岡)を守るために遠方から、集められた兵士)たちが、故郷に残してきた家族や恋人に想いをはせる情景を詠んだものです。歌の中の「対馬の嶺」は有明山とは限らないのですが、厳原港から最も大きく見える山であることから、これが有明山であるとも考えられます。
 当時から、対馬は「国境の島」として、戦いの最前線の島として、近隣の国と重要な関係を持ってきましたが、国交が回復すると、今度は親交の島として歩んできました。
 眼下には、豊臣秀吉が朝鮮出兵の際(1591年)に築城したと言われる「清水山城跡」があり、階段状の山城で全国的にも類を見ない城で国指定の記念物となっています。近隣には、石川県前田家墓地、山口県毛利家墓地と並び、日本三大墓地に数えられる対馬藩守護代宗家十万石の菩提寺「万松院」をはじめ、かつての対馬を偲ぶ多くの遺跡が残っています。時代の流れとともに、移り変わってきた激動の「国境の島・対馬」は歴史的、文化的に貴重な場所として注目されています。
気候等と植生・野生生物
 3月下旬から4月にかけて、日の当たる尾根筋や山頂近くで鮮やかなゲンカイツツジが、葉が展開する前に枝先に淡紅色の花を数輪つけ、冬枯れの寂しい風景のなかでひときわ美しい花を咲かせます。このころ、足元ではフデリンドウやシハイスミレなどの可憐な植物が開花し、対馬に春の訪れを告げます。梅雨時になるとヤマボウシの白い花が見頃を迎えます。
 登山道は一部ヒノキの人工林を通るところもありますが、スダジイやヤブツバキ、アカガシなどの照葉樹林も残り、林床ではアリドオシなどをよく見かけます。植林されたヒノキは、色合いや香りに独特の特徴のあるヒノキで、対州ヒノキと呼ばれており、ブランド展開されています。
・・・・以上の紹介記事を読むと今度行くなら緑の季節が良いと思う。今回のドライブと渡航で如何に遠い島かいうことはしっかり味わった。飛行機か高速船を使い、現地のレンタカーが合理的な旅のやり方であろう。乗りなれたマイカーが一番良いが不経済である。但し、有り余る時間があるなら高速を使わず、ホテルも泊まらずの車中泊が良いか。今回の旅で大方の地理勘はできたから水、食料、トイレさえ確保すればどこでも自由に旅を楽しめる。

国境の島・対馬の山旅⑤有明山と矢立山2020年01月01日

 元旦はよく晴れた。ホテルを出てすぐに向かったのは近くの八幡宮神社だった。対馬国一宮にあたり格式が高い。但し島のせいか広大な敷地ではなく、山の斜面に面して建てられている。平地は駐車場に利用されている。元旦にしては朝がはやいせいか初詣客は少ない。
 八幡宮を出ると有明山の案内板を探しながら路地を歩いた。どの細道も清水山の斜面にびっしり建っている住宅地に行くようで登山道らしさはどこにもない。一旦は万松院の通りまで出てみたが街角の地図にも見ないので困った。ガイドブックを頼りに行くと八幡宮辺りから出発するので今少し丁寧にみると何と八幡宮の近くに古ぼけた案内板が掛かっていた。住宅地の中を登ると清水山城祉の入り口に着いてやれやれだ。ここからはしっかりした道標がある。
 まずは城跡の中の少し荒れ気味の道を登った。正しく山城であった。豊臣秀吉は織田信長が明智光秀にやられるとすぐに光秀を討った。そして天下統一を果たす。しかし、この後が順調には進展しなかった。功績のあった家臣にボーナスとして領地を与えたいがすでに国内は既得権ばかりだった。秀吉の力を以てしても難しいとなれば朝鮮侵略にと考えが飛躍する。国内は臨戦態勢のまま外国へ出ることになった。しかし、侵略は失敗。撤退することになった。これが後々にまで尾を引く。やられた方はいつまでも恨みを忘れない。
 秀吉の後を担った家康は朝鮮との国交回復に尽力する。これが12回続いた朝鮮通信使であった。この地の長寿院の墓地に眠る雨森芳洲は対馬にあって朝鮮語を不自由なく話せて対馬藩の外交官としての役割を担った。否江戸幕府からも信頼をされたであろうが、史書は江戸幕府の次官級のトップだった新井白石との確執(パワハラ)に遭い、不仲になったと書く。幕府に召されるほどの出世は出来なかった。一地方の専門分野でのベテラン渉外掛かりの役人のままで終わった。その生涯は不遇であった。
 不遇な文学者、儒者、芸能人には今でも当時でも男色が居た。能の世阿弥は足利義満の寵愛を受けるしか芸道を守れなかったのだろう。芭蕉は現在の御園座の敷地にあった坪井杜国を愛した。杜国は米穀の商いで財を築いたが、幕府が嫌がり禁じていた米の空売りで所払いになったという。雨森芳洲もまた男色に耽るしかなかったのだろう。朝鮮通信使の役人からも批判されている。(志岐隆重『十二回の朝鮮通信使』(長崎文献社))
 今回の山旅は雨森芳洲の墓の見学も含まれた。隣には夫人など家族の墓もある。別に女嫌いではなかったのだ。
 清水城跡を脱すると桧の森を通り、常緑樹の中の道を登る。登山道は比較的広く歩きやすい。ずっと展望のない常緑樹の下を歩くとちょっと緩やかなところに着く。そこから明るい尾根道になってカヤトの山頂に出た。かつては対州馬の草地だったとか。
 360度の展望の一等三角点の埋まる山頂だが南にはより高い矢立山が悠然と聳える。厳原港が俯瞰できる。少し小さな池があるところまで行くと白嶽も見える。縦走路もあるらしい。
 往路を下山。城跡はパスして街中へ下った。歴史資料館の脇の車道もルートであった。但し入山の印や道標はない。
 ホテルに戻るとマイカーで矢立山に向かった。明日以降の登山に備えて下見で行ってみたが車道から林道へ入ると奥深く走る。小茂田への下りで一部不通になっていたが矢立山登山口まで行けた。比高150mしかなく、また長い林道を走るのも大変なので登ってみたら15分で登頂になった。ここも360度の大展望だ。さっきまでいた有明山も下に見下ろす。本当ならこっちに一等三角点を持ってきても良いはずだが、三角測量は必ずしも最高点からとは決まっていない。第一富士山は一等でない。常念岳は前常念、穂高でも奥穂ではなく前穂に埋まる。例外はあるのだ。1日で2座も登ってしまった。八幡様のご利益か。

対州は大山国やほととぎす 河野静雲2019年12月22日

虚子の句碑
 「(一社)対馬観光物産協会ブログ」から
 2011年 1/11 【高浜虚子の歌碑】
上見坂公園(かみざか、対馬市厳原町)にて、正岡子規の弟子、高浜虚子の俳句です。
「対州は 大山国や ほととぎす」
島なので、海が見えると思って来てみたら、山ばっかりだった・・・と(^_^;)
対州は対馬の古い呼び方です。
以上
・・・簡単明瞭な俳句です。虚子ではなく、河野静雲と思われます。高浜虚子の弟子で福岡市の俳人です。大山国はおおやまぐに、と読むんでしょう。5万図3枚でカバーする中堅的な規模の島嶼です。


『魏志倭人伝』の一節はHPからコピペすると
原文
「始度一海 千餘里 至對海國 其大官日卑狗 副日卑奴母離 所居絶㠀 方可四百餘里 土地山險多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田食海物自活 乗船南北市糴」

読下し文
「始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。その大官は卑狗と曰い、副は卑奴母離と曰う。居する所は絶島、方四百余里ばかり。土地は山険しく深林多し。道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食し自活す。船に乗り、南北に市糴す。」

口語訳
 「始めて一海を渡り、千余里で対海国に至る。その大官はヒコウといい、副官はヒドボリという。居する所は絶海の孤島で、およそ四百余里四方。土地は、山が険しくて深い林が多く、道路は鳥や鹿の道のようである。千余戸の家がある。良田はなく海産物を食べて自活している。船に乗って南や北(九州や韓国)へ行き、商いして米を買い入れている。」

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の舞台の山を歩く2019年12月17日

 NHK大河ドラマの「麒麟がくる」は主演女優の沢尻エリカのスキャンダルで一気に注目を浴びてしまいました。TVドラマは見ないのですが戦国時代の伏兵とも言える明智光秀には少なからず関心はあります。
 今年3月には滋賀県の明智家の菩提寺・西教寺の墓と日吉神社、坂本へバスツアーに行って来たばかりです。そこでも「麒麟がくる」の幟がはためきムードを盛り上げていました。

① さて、明智さんの出生地の岐阜県では?と調べるとあちこちでNHK大河ドラマに乗っていました。明智光秀ゆかりの地としてピックアップすると。
 HP「まいまいあけち」から
明智光秀

本能寺の変で有名な戦国武将、明智光秀(1528年〜1582年)。
諸説ありますが、ここ明智町も光秀公生誕の地と言い伝えがあります。
町の南側に位置する小高い丘、千畳敷には光秀公産湯の井戸と伝わるものが現在も残っています。
また、明知遠山家の菩提寺の龍護寺には、光秀公のお墓とされる供養塔があります。光秀公に関する碑はその悲痛な想いからことごとく割れるといった通説の通り、供養塔とされる碑にも斜めに大きくひび割れが入っています。
他にも、光秀公が幼少期に学問を学んだと伝わる天神神社、光秀公が柿本人麻呂を祀り建立したとされる人麻呂神社と光秀公手植えの楓、光秀公の母お牧の方のお墓があります。

1明知城址(白鷹城址)

市街地の東側、山の頂きに位置する明知城址(別名、白鷹城址)は、明知遠山氏代々の居城の城址です。
明知城は、標高530mの山に築かれた地形を巧みに利用した山城で、今もなお大小23箇所の土盛砦が原型のまま残っており、県の指定文化財となっています。
宝治元年(1247年・鎌倉時代)、遠山景重により築城されました(遠山景重は、源頼朝の重臣加藤景廉の孫にあたる)。
交通の要所であった為、戦国時代には何度か攻め入られ落城しましたが、関ヶ原の合戦(1600年)の際に遠山家が奪還しました。
その後、元和元年(1615年)一国一城令により廃城となり、行政は城下大手門近くの明知陣屋にて明治の大政奉還まで代官が行いました。
現在は、市民ボランティアが中心となり、草刈り作業など散策道の整備を行っています。
市街地から徒歩でも行けますが、オススメは県道33号線脇の明知城址駐車場(明智学校給食センター向かい)からの散策です。ここからですと山道を100mほど登ると本丸跡に着きます。
 
・四等三角点494.6mの点名は千畳敷公園です。

・これだけでは物足りない場合は2等三角点732.1mの大泉村があります。明智町杉野には4等三角点の大平720.1mがあります。

②明智光秀の出生地を標榜するのは明智町ばかりではなかった。何と可児市にもあった。
 HP「可児市の乱」には
 土岐明智氏の出自の地であり、明智光秀を生んだ地との伝承を持つ。『美濃国諸旧記』には、康永元年(1342)、「長山」に土岐頼兼が城を築き、弘治2年(1556)に明智光秀の叔父光安・光久が城主であった時、稲葉山城主斎藤義龍の攻撃を受けて落城したとする。

 と紹介されている。

 名鉄広見線には明智駅もあり本気度は高そうです。 岐阜県可児市瀬田1238−3の住所をチエックすると、175.2mの3等三角点羽崎があった。しかも住宅団地に隣接するので興趣はなさそう。最寄の山は御嵩町の290mの八王子山がある。

③またまた意外なゆかりの地は瑞浪市も名乗りをあげています。

 明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族が、土岐郡に土着した際に最初に居館(一日市場館:ひといちばやかた)を構えた場所と伝わる。本殿の裏には土塁と思しい遺構が確認でき、周辺では鎌倉時代を中心とする陶磁器片なども多数採集されている。
 一日市場の地名は周辺で定期市が開かれていたことに因むと考えられ、付近には大門・古屋敷・馬屋ヶ崎など、居館の存在をうかがわせる地名も残されている。
 なお、八幡神社は土岐一族の創建・勧請と伝わるが詳細は不明。現在の本殿は江戸時代の安政7年(1860)に建築されたものであるが、立川流の見事な彫刻が彫られている。
 古くは高野と呼ばれた地で、美濃源氏・土岐一族発祥の地とされ、八幡神社境内には土岐氏の一族である「明智光秀の像」がある。

 どの説明にも「明智光秀を輩出した美濃源氏・土岐一族の流れをくむ」の枕が冠せられている。直接関係はなさそうだ。

 念のため、一日市場館をチエックすると4等三角点174.0mがあり、点名もずばり、一日市場でした。行って見て無駄ではないです。他には食指をそそる山はない。

④最後は山県市の桔梗塚です。ここは2度ならぬ3度はお邪魔しました。山県市のHPはこんな紹介です。

 2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公明智光秀の前半生は謎に包まれており、岐阜県内各地にゆかりの地とされるところが数多くあります。山県市もそのひとつで、明智光秀は清和源氏土岐氏の流れをくむ美濃国守護土岐氏の支流の武将でもあり、その縁から光秀の母が身ごもった際に祈ったという「行徳岩」、明智光秀の墓と伝承される「桔梗塚」があります。

 また市内にはほかにも、美濃国守護土岐氏の最後の居館「大桑城(おおがじょう)跡」が現存する古城山(山県市大桑)や土岐氏ゆかりの史跡が多く現存しています。ぜひ、歴史を感じるまちをめぐってみてはどうでしょうか。

うぶ湯の井戸跡と行徳岩(ぎょうとくいわ)
 明智光秀の生誕地として伝承される山県市中洞地区にある白山神社には、光秀の母がうぶ湯を汲んだとされる井戸があります。また、神社近くの武儀川には、光秀の母が懐妊したとき、「生まれる子が男の子なら、3日でよいから天下を取るような立派な男の子を授けてください」と祈ったと伝えられる「行徳岩」があります。

桔梗塚
 白山神社に隣接する林の中にある桔梗塚は明智光秀の墓とされています。光秀は、本能寺の変の後に身代わりとなった影武者「荒」木山城守行信に恩の「深」さを感じ荒深小五郎と姓名を改めたとされています。その後、関ケ原合戦で徳川家康に従軍しようと藪川(現・根尾川)を馬で越えようとしたときに洪水に巻き込まれ溺死しました。従者たちは光秀の遺品を持ち帰り、墓を建てたと伝えられており、現在も地域住民により毎年供養祭を行っています。
 なお、明智家の家紋は「桔梗紋」で、土岐氏の家紋「水色桔梗紋」から用いたのではないかとされており、この桔梗紋にちなんで「桔梗塚」と呼ばれるようになりました。また、山県市合併当初、市民により選ばれた市の花も「キキョウ」であり歴史が脈々と受け継がれていることを感じられます。

 小和田哲男氏が来市されたと

 11月14日、小和田哲男静岡大学名誉教授が来市され、美濃国守護土岐氏の最後の居館「大桑城(おおがじょう)」跡が現存する古城山(山県市大桑)と土岐氏支流の武将の一人である明智光秀の伝承地などを訪れました。実際に古城山を登山し、尾根と尾根の斜面を平らにならして造られた曲輪(くるわ)や主郭部や竪堀などの遺構、当時の様子を感じられる大桑地区を山頂から眺望いただきました。

 小和田名誉教授は、大河ドラマなどの数多くの時代考証や歴史番組での解説を担当。戦国武将などの史実に照らし合わせ、現代の世を生き抜くヒントを分かりやすい言葉で伝えるなど、戦国時代史の第一人者のひとりです。

 岐阜市と山県市の文化財担当者から説明を受けた小和田名誉教授からは、「戦国時代に権力を持っていた土岐氏の拠点である大桑城跡をようやく見ることができた。当時のまま、壊れることなく遺っているところも見られて貴重な体験ができました。」と述べられました。
以上

 4箇所ある中では4番目の古城山407.4mが一番登り甲斐もあるようです。既登ですが改めて登りたい気になります。

北鈴鹿・阿弥陀ヶ峰を歩く2019年12月14日

阿弥陀から見た霊仙山主峰三座
 11月から3度目にして登頂できました。昔1度は登ったが阿弥陀ヶ峰は道の判然としない寂峰だと改めて思いました。ルートは醒ヶ井の最奥の村・上丹生の奥を行くと配水場跡で二股になり、左の芋ヶ谷(いもがえともいう)の林道を終点まで歩き、作業道みたいな林道を登ると尾根に達し頂上まで辿るだけでした。林道の手入れは良く、落石もないので登山口のある終点まで入れる。終点の手前には林道の入り口がある。
 終点から阿弥陀ヶ峰登山道の道標にしたがって適当に踏み跡をたどると先ほど見送った林道に合流する。以後、支線が多く、迷いやすいが、おおむね高いところへ行く道を外さなければ尾根まで上がれる。支線はほぼ水平である。尾根の鞍部に達した後も山頂方向に沿う林道があるのでそこを辿り終点から少し登ると尾根になる。欅の大木がありすぎには立ち去れない。すっかり葉を落とした木立の間から雪をつけた霊仙山が見えて初冬の装いに気が引き締まります。さらによく踏まれた山道が出てきて登ると阿弥陀堂跡に着いた。ここまではかなり踏まれた登拝の道型を確認できた。木の間から伊吹山が良く見える。梓河内の山里もびっしり家が立ちこんでる。まるで隠れ里か要塞のように見える。
 阿弥陀堂跡からは道型が消え、カレンフェルトの間を縫うように登り、登頂。平頂です。ここは展望が皆無なので梓河内道を探るために少し移動するとカレンフェルトがびっしり立った展望丘に出ました。ここにして初めて霊仙山の三座が見えました。経塚山1040m、奥の最高点、右の山頂。加えて避難小屋も立っています。
 風も冷たく強くのんびりとはさせてくれません。滞在もそこそこに下山しました。7時50分に出発、10時10分に登頂。10時30分に下山。芋ヶ谷林道に着いてから地形図の峠にも立ち寄りました。そこまで林道は通じていませんので徒歩です。梓河内側の栗ヶ谷から林道が上がっています。峠から左(北)は小屋山、梓山など500m級の低山がつらなり、右(南)は585mを経由して阿弥陀ヶ峰に直登しています。踏み跡は未確認。車には12時過ぎに戻りました。
 時間があるので三島池に寄り渡り鳥にあいさつして帰名しました。朝はすっきり晴れていた伊吹山も午後には雨雲が掛かり伊吹薬草の湯を出ると時雨模様になりました。ところが関ヶ原を過ぎると晴れていた。これが雪になると本格的な冬の到来です。

忘年山行2 伊勢山上と枡形山を歩く2019年12月01日

 朝6時30分起床。今朝も良く晴れている。窓からは錫杖ヶ岳が良く見える。あの山を借景にしているのだろう。布団を畳み、荷物を片付けて朝食に食堂へ行く。既に皆さんは食事を始めるところだった。朝はパン食と野菜、フルーツの洋食風になった。それも済ますとザックを1Fにおろし、出発の準備だ。ロッジの玄関前で記念写真を撮影。車を玄関に乗り込み運び入れると出発だ。11人参加。
 まずは関ICから一志嬉野ICへ。雲出川の支流の中村川に沿う地方道を源流に向かって走る。途中から飯福田川に分かれて走ると伊勢山上飯福田寺(いせさんじょういぶたじ)に着いた。

 ここは行場といって修験者の修業の場だったらしい。HPには「元々、修験者(山伏)のための霊場・修行の場でありましたが、明治時代以降一般の方にも開放され、多くの方々に入山していただいております。但し、命の危険を伴う場所も多く、入山される場合は、必ず当寺の受付にて入山心得をお聞き頂き、入山名簿にご記帳の上、入山料500円をお納め下さい。入山中の怪我・事故等につきましては、当寺は一切責任を負えませんので、ご了承いただける方のみご入山下さい。 」とあった。以前から聞いてはいたが来る機会が無かった。
 受付で500円を払ってもらい行場の説明を聞く。再びHPによると「当山は伊勢山上と称され、ご本尊は『薬師如来』。

 大宝元年(701年)、役小角(えんのおづぬ)により開創された霊場である。広大な表行場・裏行場を有し、古来より諸侯国司をはじめ、信奉の参拝者は多く、北畠家の祈願所として栄える。                 また、天正11年(1583年)には、織田信雄に寺領・百十五貫文を寄付されたが、松坂城主・蒲生氏郷により、当山の伽藍を壊し、その材を用いて松坂城を築くなど、衰退の止む無きに至る。その後、津藩主・藤堂家の信奉を得、寺運は興隆し、今多くの人々が修行と順拝に参詣している。」とあった。

 そうか、ここにも北畠氏の勢力範囲だったのか。あるHPには「大河内城跡についてーーー北畠満雅が応永22年(1415)に築いた城で、弟の顕雅を城主としました。永禄12年(1569)北畠具教はこの城に篭もって織田信長と戦いました。織田勢は力攻したが失敗、兵糧攻めに転じたため、具教はついに信長の次男信雄を養子とする条件で和睦。信雄が田丸城に入ったため廃城。
◎北畠具教(1528-76)戦国時代の武将。弓馬・兵法・和歌など文武に秀でた端将といわれています。永禄のはじめごろから織田信長の伊勢侵攻によって、多気・大河内両城を棄てて三瀬の古城に移り、1570年出家。」と案内。

 伊勢山上の説明によれば織田信長は北畠具教を攻めた際に伊賀忍者を使ったらしい。それに対抗するためにこちらも山岳僧を養成する道場だったというのだ。

 それで出発するといの一番に油こぼしの鎖場が出てきた。鎖を掴みながら登りきるとお堂のある窟屋に行く。ここもクライミング的な順路があるが、大勢なのでエスケープルートでずるした。ここを通過すると難所はなく雑木林の中の穏やかな山道になる。最高点らしいところで小休止。するとまた次の難所が出てきた。小尻返しとかいうのでロープを出して確保してもらった。岩場に慣れない新人もいるからだ。ここも突破、次はエスケープルートを回るともう難所はなくなりスタート地点に戻った。約2時間余りの岩場巡りだった。
 受付へ下山報告後、東屋で昼食とした。休憩後、次の枡形山登山口へ移動。中村川を下って平野部に出た。向山から大阿坂町に出て山際に建つ浄眼寺へ向かった。ここにも説明板はある。

 あるHPによれば「
「阿坂城跡(白米城)について
北畠満雅が築いた城。敵軍の水断ちに遭った際、白米で馬を洗い水がふんだんにあるように見せかけ、敵をあざむき退却させたという伝説から、白米城の名があると言われています。」とあった。寺のPから約40分と手ごろ。ここは子供のころから聞いていた白米城であった。昔は地形図にもそう印刷されていなかったか。

 一山やったばかりだが、また登山の準備で登りかかった。最初はセメントの狭い舗装道路を急登する。やがて地道になって緩急取り混ぜながら山頂に着いた。なるほど眺めが良い。三等三角点も萱の山上に埋まる。すぐ近くの南の山は堀坂山、西には中村川の谷を隔てて矢頭山、髯山(ひげ)、雨乞山が並ぶ。さらに向こうには尼ヶ岳(伊賀富士)が頭を出している。山頂の案内板には日川富士もある。これは観音岳の北西の508mの独立標高点を指すらしい。
 4人のパーティを組んで近鉄伊勢中川駅でタクシーを拾い、浄眼寺へ走り、枡形山から日川富士を経由、観音岳を登って下山し、またタクシーを呼んで松阪駅へ行けば手軽な縦走コースになる。

 戦国時代にこの地域を統括していた「北畠 具教(きたばたけ とものり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名・公家。伊勢国司北畠家の第8代当主。」

「永禄11年(1568年)以降、尾張国の織田信長が伊勢国に侵攻し、神戸氏・長野工藤氏など伊勢北中部の豪族を支配下に置いた。そして、永禄12年(1569年)に8月に信長自ら北畠領内への侵攻を開始した[2]。北畠軍は織田軍相手に奮戦したが、兵数に大きな差があり、具教の弟・木造具政が織田氏に寝返るなどの悪条件も重なり、次々と城を落とされた。具教は大河内城(現在の三重県松阪市)に籠城して死守するも、50余日に及ぶ抵抗の末に降伏する形で和睦した(大河内城の戦い)[2][3]。このとき、具教は降伏の条件として信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養嗣子として迎え入れることとなる」

「天正4年11月25日(1576年12月15日)、具教は信長と信雄の命を受けた旧臣(長野左京亮、加留左京進(藤方朝成の名代))の襲撃を受けて、子の徳松丸・亀松丸、および家臣の大橋長時・松田之信・上杉頼義ら(名が判明しているだけで14名の武士)共々殺害された[2][3]。享年49。同時に長野具藤はじめ北畠一門の主な者が信雄の居城・田丸城において殺害された。これにより戦国大名としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られた(三瀬の変)。」

 織田信長の年表を見ると戦いに忙しかった。34歳時の1567年は本拠を岐阜城に移転。42歳時の1575年は有名な長篠の戦いがあった。1576年には安土城を築く。1582年には信長も本能寺の変で自害。
 北畠家は伊勢国司家としては滅亡したとある。江戸時代以降も継承されたが「中院通勝の子親顕が北畠家の名跡を継承したが、寛永7年(1630年)、親顕が没し、跡継ぎがなく北畠家は断絶」した。しかしその後「1871年(明治4年)7月、久我建通の子通城が分家して北畠姓に改姓し、家名を再興した。後に北畠親房、顕家らを祭る霊山神社の宮司を務めた。」とあり、北畠家から分家筋が一旦名前を変更後、北畠を名乗るようになった。
 「北畠政郷の子・田丸顕晴が度会郡田丸城に入って田丸氏を名乗ったことに始まる。」田丸氏は知人にも同姓が居る。松山市出身だが、松山藩の徳川家に仕えた田丸氏の子孫だろうか。浪岡氏は青森県の北畠につながる。
 これで今年は3月の北畠親房(1293~1354)の田丸城見学、5月の青森の北畠八穂(1903~1982)の調査、11月の近江柏原の北畠具行(1290~1332)の墓見学、12月の北畠具教(1528~1576)の縁の山に登ったことで4人を知った。八穂は近代の人。北畠家系図を見ると親房と具行は同時代なんですね。天皇の政治から貴族の政治へ、平安時代は過ぎて、鎌倉時代の武家政治に変遷する中で登場してくる。具行は安土桃山時代の人。何となく分かりかけて来た。

雨森芳洲覚書2019年11月20日

 江戸時代の朝鮮外交に尽くした雨森芳洲を知ったのは9/14に滋賀県高月町の雨森芳洲庵を訪ねてからだった。説明を聞き、自分でも調べると面白い。
 司馬遼太郎『街道を行く 対馬・壱岐』の雨森芳洲について丁寧な人間観察がある。近刊の石平『朝鮮通信使の真実 江戸から現代まで続く侮日・反日の原点』を読んでも朝鮮とは「つき合い難し」が結論である。

 それなのに朝鮮外交に尽力したのはなぜか。

 辛口のジャーナリスト・高山正之氏が週刊新潮に寄せるコラムはつとに有名であり私も毎週立ち読みする。後年にまとめて『変見自在』にまとめられる。それは欠かさず購入してきた。 
 9/12付けには「たかるだけの国」と出して寄稿された。以下はブログ「文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization on September 2016」に書き込まれた記事を転載させていただく。

 学者、雨森芳洲を一言で言えば「元禄期の若宮啓文」となるか。若宮とは朝日新聞の主筆だった人。北京のホテルで変死したことと「いっそ竹島を韓国に譲って友好の島にしよう」と書いたことで人々の記憶に残っているかもしれない。とにかくあの国が好きだった。そんな狂気に嵌るきっかけは生の金日成に会ったことだった。社に戻るなり願い出てソウルに語学留学に出かけた。そのあとはもう韓国贔屓のネタばかりを書いた。1995年には、日本開催が決まっていたサッカーW杯を「韓国と共同開催にせよ」と社説に書いた。朝日に盲従する宮澤喜一がそれに頷いてまさかの共同開催になった。しかし韓国にW杯をやれる体力はなかった。決まってすぐのアジア通貨危機では国自体がデフォルトに陥ってしまった。若宮が騒ぎ、FIFAの鄭夢準も走り回り、結局は日本が財政支援した。 
 それだけじゃない。開会直前に9・11テロが起きてそれに伴う不況のさざ波で競技場を建てるカネもなくなった。やっぱり共催は無理となったところでまた若宮が騒ぎ、旧日本輸銀が2億ドル融資を強いられた。
かくて開催されたものの韓国人のラフプレーと審判買収で「最も汚いW杯」の汚名だけが残った。若宮は韓国と同じくらい女にも入れ揚げた。
その醜聞を手土産に退社後、念願の韓国の大学の先生に納まった。
変死するまではいい人生だった。 

 雨森芳洲は男色という一点を除いて若宮の祖先かと思われるほど、その人生の軌跡は似ている。彼は20代で対馬藩に抱えられ、33歳のとき釜山の倭館に派遣されて生の朝鮮を見た。若宮が金日成に会ったのと同じ歳頃で、同じようにのめり込んでいった。
 そのころの李氏朝鮮は貧困の極みにあった。だから徳川将軍の代替わりがあると総勢400人の通信使がお祝いと称して押しかけてきた。彼らは丸1年も逗留して遊興に耽り、貧しいから宿の食器から寝具、床の間の掛け軸までかっぱらっていった。老中格の新井白石はそんなたかり集団に厳しく、接待費も旅程も半減するよう命じた。ついでに徳川将軍を「日本国王」とよいしょするよう朝鮮側に求めた。幇間並みに扱った。 
 このとき通信使の接待役が芳洲だった。朝鮮人に生まれたかったと、若宮と同じ思いを語っていた芳洲は白石の処置に怒りまくった。二人の応酬はホントに激しかったが、誰が見ても白石の言う通りだった。 
最終的に幕府は朝鮮側にもう江戸まで来なくていい、対馬で接遇すると伝えた。世にいう易地聘礼だ。二代秀忠から十代家治までたかりまくった通信使は1811年の対馬での質素な供応を最後に二度と来なくなった。先日の天声人語がこの雨森芳洲を取り上げていた。 
 今の日韓のいざこざを踏まえ「威信や体面にこだわる両国の間で板挟みになった」芳洲が半白になるほど苦労したと書き出す。いや日本は体面などどうでもいい、大所帯で押し掛けて、接遇に100万両もかかるたかりをやめてくれと言っているだけだ。コラムは「日本国王」の件にも触れて「国威を高めることに執着した」と冗談も理解できない。ホワイト国外しをした安倍政権をあてこすった気になっている。 
 それに通信使側はたかっておきながら「穢れた獣のような日本人が富栄えるは嘆くべし恨むべし」(金仁謙『日東壮遊歌』)と感謝の気持ちもない。デフォルトを救ってやったときと同じだ。ここはだれもが白石の対応を褒めるだろう。
 コラムは最後に「互いに欺かず争わず真実をもって交わること」という芳洲の言葉で結ぶ。それは日本が百歩も譲って呑んでやった慰安婦合意を踏みにじり、カネだけ失敬するような国に言い聞かせる言葉だ。
日本人の読む新聞に載せるのは失礼ってものだ。
以上

 雨森芳洲には子孫が居たと分かった。
 民団新聞のWEB版に「祖先<雨森芳洲>の志大切に」と題した記事がある。全文転載させていただく。

 新時代の韓日交流へ膨らむ想い

「ぼくは草の根で」
病院学級で奉仕の心知る

 「人間同士の触れ合いや、言葉を通して日本と韓国、北朝鮮関係で何か寄与できれば」。今年2月、ソウル市の延世大学校政治外交学科を卒業した雨森秀治さん(31、奈良県宇陀市)は翻訳、通訳などの仕事で韓国と日本を行き来する。大学在学中に自分のやるべき方向を決定づけたという奉仕活動、そして江戸時代中期の儒学者で、朝鮮との善隣友好関係を深めた雨森芳洲を祖先に持つ思いなどを聞いた。

 現在、韓国にある出版社の契約社員として、韓国と日本を往復する生活が続く。取材当日、翻訳を手がけたという書籍を持参してくれた。

 韓国と関わって6年目。高校2年生のとき、祖父から初めて10代前の祖先、雨森芳洲の話しを聞き、びっくりした。そのときから芳洲や朝鮮通信使に関する資料や書物を調べ、滋賀県伊香郡高月町の芳洲の生家を何度も訪ねるなど、勉強を重ねた。芳洲の生き方や考えを知るにつけ、「韓国に行ってみたい」という思いは膨らんでいった。

 25歳のとき、それまで勤めた貿易会社を退職。「両親も同僚も反対した。でも韓国語を勉強した後、日本と韓国、北朝鮮関係で自分のできることで関わりたいと思っていた」。ソウルにある西江大学校の語学堂で1年間、韓国語を学び、04年3月、延世大学校政治外交学科に入学した。

 雨森さんは芳洲との関係を誰にも明かさずに過ごした時期がある。韓日にまたぐ有名な祖先を持つことは、時として雨森さんを苦しめた。

 高校時代、歴史教師から芳洲とのつながりを聞かれた。当時、勉強が苦手だったという雨森さん。教師は「芳洲の子孫なのにどうしてそんなにできないのか」と吐き捨てるように言った。それはトラウマとなり、以来、関係を心のなかに封印したまま10年以上を過ごしたという。

 「周りから言われるのは嫌だったし、プレッシャーがあった」

 留学当時に抱いた思いを、さらに「自分のやるべきこととして、具体的に教えてくれた」のは、延世大学校での4年間、奉仕活動で関わった延世大学校医学部付属セブランス病院の院内学級だ。 同学級は00年12月に開校された韓国政府公認の病院学校。白血病や重い病を抱えながら長期入院生活を送る5歳から19歳までの子どもたちが、英語や数学、音楽、美術などを学んでいる。教師は奉仕活動で参加した学生たち。雨森さんは毎週1回、日本語を教えた。

 当時、歴史教科書問題や、独島(竹島)問題などで韓日関係が険悪化していた。子どもたちから「独島は私たちの島」と言われ、意見を求められたこともあった。「反対側から見ること、客観的に見ることなど、いろいろなことを子どもから教わった」

 雨森さんにとって、院内学級の授業は何よりも大事な時間だった。「そこは生と死の現場。今日会って最後かもしれない。生徒が亡くなったことも多かった。辛くて止めようと思ったことも何回もあった。でも生徒たちは一生懸命、勉強をする。自分もそれに応えなければと思った」

 もちろん、嬉しいこともあった。退院した生徒が「元気になった」からと毎週のように顔を出し、「秀治のおかげで日本に対するイメージが変わった。日本語を勉強して日本に行きたい」と夢を話してくれた。大学の同級生2人も手伝いたいと名乗り出てくれた。

理解し合ってつき合う教え

 4年間の奉仕活動は雨森さんの精神を鍛えた。すべて「生徒のおかげ」だと感謝する。

 雨森さんが芳洲に惹かれるのは、隣国の言葉を学び、歴史や風俗、習慣などを理解したうえで外交にあたったことだ。「おじいちゃんは国と国との関係だったが、僕は個人と個人の付き合いを大事にしながら、お互いの歴史や文化を知らない人たちに伝えていきたい」と民間レベルの草の根交流をめざす。

 昨年、奉仕活動する記事が韓国の新聞で紹介された。「売名行為」だとするメールや電話が寄せられた。だが雨森さんを支えたのは子どもたちの真摯な姿であり、「勇気をもらった」という人たちからのエールだった。

 「芳州の志を引き継いでいきたい」という。「両国の人たちがお互いを理解しあえるように、小さなことから始めたい」と、目を輝かせた。

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プロフィール

雨森芳洲(1668~1755)現・滋賀県伊香郡高月町雨森で、医師清納の子として生まれる。18歳のころ江戸に出て儒学者の木下順庵に入門。
1689年、師の推薦で対馬藩に仕官し、92年赴任。
98年、朝鮮御支配役佐役を拝命、1702年に釜山に渡る。朝鮮語入門書「交隣須知」をまとめ、05年に朝鮮語を学習。
11年、徳川家宣就任を祝う朝鮮通信使に随行して江戸に赴き、19年にも通信使を護行して江戸を往復。使節団の製述官が帰国後に著した「海游録」に活躍が紹介されている。61歳で朝鮮外交心得「交隣提醒」を著す。外交の基本は「誠信の交わり」と説いた。

(2008.4.16 民団新聞)
以上

・・・・いろいろ集めてみて分かったのは芳洲は日本の入国管理局の地方局の事務官クラスの人だったのではないか。儒学者として紹介はされるけれど新井白石ほどの幕府の高官にはなれなかった。朝鮮語も不自由なく会話できたけれど、彼らが格下の日本を見下げる態度だけは誠信を以てしても克服させることはなかった。それでも大好きな朝鮮と向き合う対馬に骨を埋めたのである。現に対馬に墓地もある。
 飛躍するが、
 本居宣長は『玉勝間』に「漢意とは、漢国のふりを好み、かの国をたふとぶのみをいふにあらず、大かた世の人の、万の事の善悪是非を論ひ、物の理(ことわり)をさだめいふたぐひ、すべてみな漢籍の趣なるをいふ也」と書いた。
 芳洲の誠信の交わりもひとえに「からごころ」に由来する。自分だけは朝鮮が分かっている。朝鮮人の心になりきって日本人に誠信の交わりを説くのである。朝鮮人はこう考えている、日本をこう見ている、だから彼らの意に沿うように努めようと。これは現代のジャーナリストとそっくり同じである。現代のジャーナリストは「漢意」に加えて「西洋思想」があるから厄介である。

北鈴鹿・阿弥陀ヶ岳撤退2019年11月17日

 関ヶ原ICを出てR21を醒ヶ井養鱒場交差点まで走って左折。上丹生の二股で左折。今年4月には工事中で入れず、急遽霊仙山に切り替えた。それはそれで良かったが登り損ないのままでは気になる。ヤマビルの多い時期を避けると今時がベストである。ただし短日なのでこの山だけに絞る。
 金山駅前を7時30分に出発、登山口には9時過ぎに到着。2台の先行車が止まっているがすぐ奥へ走って行った。われわれは左折して林道沿いを走り登山口を探すがない。最初の廃施設の左手からの踏み跡を行くしかなさそうだ。
 良い感じで登れたが廃道になり、段々に急斜面になる。しかも昨夜からの雨でぬかるんでいるので滑りやすい。踏み跡は下部だけですぐ鹿の獣道らしい跡をたどる。急斜面に落ち葉が積もり神経質な登りが続き、結局滑落の危険を感じて中途で撤退することとした。1時間ほど彷徨っただけである。
 クルマに戻ってさて、と時間はあるので柏原宿の観光にした。徳源院まで行き、近江百山の清滝山の登山口を確認後、中世のお公家か、北畠具行の墓地を訪ねた。この山道は東山道らしい。柏原宿は中山道だがそれより古い街道もこうして残されているのは歴史を大切にする滋賀県らしい。
 柏原宿の歴史資料館の休憩所で喫茶。この家屋は漆の商売で財をなした松浦姓の商人の商家だったのを米原市が買い取って観光施設に活用した。この店の水はすこぶるうまい。何杯もお代わりした。うまい水でコーヒーを淹れるから尚うまい。おそらく近江米もうまいだろう。
 まだ時間があるので湖北・高月町の歴史資料館に行き、雨森芳洲の企画展を見学した。滋賀県は明智光秀のゆかりの地の掘り起こしと雨森芳洲の顕彰にこれ務めている。歴史ファンにはたまらない。
 来週は韓国人による「韓国から見た雨森芳洲」の演題で講演会が開催される予定だ。阿弥陀ヶ岳を午前中にさっさと登り、午後は講演会へと掛け持ちで行きたい。朝7時出発なら12時までに降りてこれる。忙しいが何とかなるだろう。

白洲正子『近江山河抄』を読む2019年11月11日

 明日は歴研のバス旅の予定。日吉大社と西教寺である。はて、どこかにあったぞと書棚の本を取り出し、「日枝の山道」を読んだ。どちらも行ったことはないので予備知識を入れておこうと思う。日枝は”ひえだ”、ではなく”ひえ”と読ませる。『古事記』には日枝と書き、比枝、比叡と転じたと書く。
地形図を貼っておく。
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 地形図を眺めると
 日枝の御神体山は八王子山381mである。この山は延暦寺境内へとつなぐ尾根の末端にあたる。そして真西には比叡山延暦寺の根本中堂がある。白洲さんの文には八王子山、牛尾山、小比叡(おびえ)というと紹介される。『古事記』にも登場する歴史の古い山なのである。
 そういえば、今年の夏珍しい仕事を手掛けた。名古屋近郊にある宗教法人様の規則変更であった。しかも天台宗なのでここが大本ではないか。書類には比叡山の事務局の印鑑も押印してあった。これは余談である。
 西教寺のことも少し書いてある。行ってみてまた読んでみる。