東山道を考える①2022年11月28日

 11/27の松沢山の下山後は気になっていた帚木館ビジターセンターを見学してきた。ここは園原と言い、東山道の拠点である。西から神坂峠を越えて信濃へ、と言うよりは東国への第一歩を踏み入れる土地である。
 ウィキペディアには「東山道は『日本書紀』の「東ノヤマノ道」あるいは『西宮紀』の「東ノ道」にあたると考えられている[2]。

 律令時代の東山道は、畿内から陸奥国へ至る東山道諸国の国府を結ぶ駅路で[3]、現在の東北地方へ至る政治・軍事面で重要な最短距離路だった[注釈 1][注釈 2]。」の記載がある。

 年代的には8世紀初め。

  又してもウィキペディアに「中央官制、税制と地方行政組織

 大宝律令の制定によって、律令制国家ができあがった。中央官制は、二官八省と弾正台と五衛府から構成されていた。地方の行政組織は、国・郡・里で統一された。里はのちに郷とされた。さらに道制として、畿内と東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道に区分され、その内部は66国と壱岐嶋・対馬嶋の2嶋が配分された(令制国一覧参照)。軍団は各国に配置され、国司の管轄下におかれた。また田と民は国家のものとされる公地公民制を取り入れ、戸籍により班田が支給された。税は、租庸調と雑役から構成されていた。

 742年(天平14年)大宰府を廃止。翌年、筑紫に鎮西府を置いたが、745年(天平17年)には太宰府が復された。

 東北地方では多賀城、出羽柵等が設置され、蝦夷征討と開発、入植が進められた(既述)。

  農地拡大政策と律令国家

 律令国家は、高度に体系化された官僚組織を維持するため、安定した税収を必要とした。」

 東国とは
「「日本」という国号が定められる前、「ヤマト」がそのまま国全体を指す言葉として使われていた当時――7世紀中葉以前の古代日本においては、現在の東北地方北部はまだその領域に入っておらず、東北地方南部から新潟県の中越・下越地方及び九州南部は未だ完全に掌握できていない辺境であり、ヤマトの支配領域は関東地方・北陸地方から九州北部までであった。つまり、「アヅマ」とは、「ヤマト」の東側――特にその中心であった奈良盆地周辺より東にある地域を漠然と指した言葉であったと考えられている(ただし、初めから「アヅマ」を東の意味で用いていたものなのか、それとも元々は別の語源に由来する「アヅマ」と呼ばれる地名もしくは地域が存在しておりそれがヤマトの東方にあったために、後から東もしくは東方全体を指す意味が付け加えられたものなのか、については明らかではない)。

「アヅマ」や「アヅマノクニ」という語は元から漠然としたもので、確かな定義をもって用いられてきたわけではないため、時代が進むにつれてそれらを指す地理的範囲について様々な考え方が生じたのである。」
「坂東と区別して東北地方は蝦夷(えみし)あるいは陸奥(みちのく)と呼ばれる」

http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/yamatotakeru.htm
ヤマトタケルの東征

 「ヤマトタケルの東征物語は大和朝廷の東国への勢力拡大を象徴する四世紀頃の、ある程度事実を反映した物語である。
 『古事記』が和銅五年(712年)、『日本書紀』が養老四年(720年)に編纂され、ヤマトタケル伝承はそれより四百年もさかのぼる遠い昔の話であり、それも大和の側の視点で書かれた物語でありそのまま史実とはみなせないが、当時の情勢を推測することができる。
 ヤマトタケルは第12代景行天皇の子供であり天皇の命により、南九州の熊曾建くまそたけるや出雲の出雲建いずもたけるを討つ西征をした後、東国の蝦夷えみし征服の東征を行った。
 なお、ヤマトタケルは古事記では倭建命であり、日本書紀では日本武尊である。」

・・・・ざっと読めば神坂峠は東国への入り口だったのだ。東国の人々は天皇の支配に抵抗しして従わない人々である。だから東征と言う言葉にもなる。
 東国とは天皇が支配する大和の国とは違う異国であった。当然租税も納めなかった。そこで多賀城を拠点にみちのく支配が強まってゆく。この中には北畠一族がいた。北畠親房は御醍醐天皇に仕えて『神皇正統記』を著した。つまり日本は天皇の国とした。
 北畠の末裔は今も青森県に生きている。浪岡姓を名乗ることもある。文化は辺境に残るのである。
 
 木曽山脈は西日本と東日本の分水界だった。同時に文化も違った。木曽山脈を境に西は沢と言い、東は谷と言う。西に沢があるのは東国の人が入った証である。黒部川は西国だが薬師沢がある。谷もあるので混じっている。
 東は縄文遺跡の歴史が長い。約15000年前という。西は清洲の弥生遺跡でも2400年前という。明らかに縄文人の方が長い。弥生人は日本列島の新参者であろう。
 但し、金属を製錬する技があり武器や農機具を生産できたから農業は発展したであろう。西から次々に弥生人が縄文人と同化してきて最後の壁が木曽山脈だった。
 諏訪、八ヶ岳山麓の縄文遺跡からは胞衣が大切に扱われた。胞衣は境界の印。恵那山は実は東日本はここからは東国という印で胞衣を埋設したのではないか。
 西の湯舟沢は伊勢神宮の遷宮の用材の産地だった。だから伊勢神宮側の神話だと思われた。実際、アマテラスの赤ちゃんを洗った血洗い池がある。血洗神社もある。湯船沢川もアマテラスの湯船の伝承がある。てっきり伊勢神宮側の話と思われた。

④四国の山旅~屋島ハイキング2022年11月20日

 ハイキングは景勝地の屋島の北嶺と南嶺を歩いた。8時30分集合だったが早かったので屋島寺を散策した。ここは84番目の巡礼のお寺だった。信者は専用の衣装を着て般若心経を唱えていた。
 ブログには「源平の合戦ゆかりの地と知られる屋島には、佐渡の三郎狸、淡路の芝衛狸とともに日本三名狸といわれる、狸太三郎が本堂横の蓑山大明神に祭られています。霧深い屋島で迷った空海を蓑笠姿の老人に変化し道案内をしたとの伝説があります。」とあった。
 集合後、最初は北嶺を経めぐる。先端からは瀬戸内海が俯瞰できて眺めは最高である。島の山歩きは良いです。小豆島も見えた。次はあの島の星ヶ城山も良い。植生は照葉樹林で覆われるが少しは紅葉する樹木がある。
 次は南嶺に回る。高松市内の全景が見渡せる。少し観光地化が進んでいる。ここは施設も多い。292mの一等三角点は案内板はなく地元のリーダーのお陰で踏めた。但し樹林に囲まれて展望は皆無。東へ横断するように道に出た。かつてはロープウェイが主役だったがドライブウェイが開通すると寂れて今は撤去されて、ホテルも廃墟になった。するとまた大きな駐車場に戻って散会となった。

網掛山2022年11月05日

 11/5は久々に紅葉を楽しんだ。山は網掛山である。
 紅葉シーズンは国道153号は足助を中心に渋滞があると思って中央道・園原ICから行くことにしました。11/4の夜、再度計画を見直した。松沢山は往復2時間程度なので、もう1山掛け持ちで登ることにした。園原のすぐ近くにある網掛山です。登り1時間30分、下り1時間くらいです。8時30分に出発できれば11時には下山できる。移動時間を考えても松沢山は12時から登れる。と再計画した。
 ところが走ってみると中央道は多治見から瑞浪付近で工事中と分かった。15分で通過できると電光掲示板にはあったが実際には30分以上の大渋滞にはまった。
 網掛山の登山口の中平には何とか着いたが、駐車場がない。仕方なく神社の駐車場に置かせてもらった。中平は干し柿の仕込みで柿を収穫中でした。渋柿をもぎ取り皮をむいて干す。白い粉を吹いて甘い市田柿になる。
 9時過ぎの出発になった。登山道は東山道という古道から網掛峠までが1時間、山頂までが30分で道標完備の素晴らしいハイキングでした。何にも増して感動させたのは山全体が紅葉していたことです。峠までは植林ですが峠付近から山頂までは写真撮りまくりでなかなか先に進めなかった。
 山頂には着いたが展望はなし。他には登山者なし。 
 下山は1100mの等高線が北東に伸びるゆるやかな尾根を下った。ここも疎林が広がり紅葉が素晴らしかった。1050m等高線まで来ると東の展望台があり南アルプス全山が見渡せた。今日は3000mの稜線は曇りであった。分かったのは奥茶臼山、双耳峰の池口岳です。ここから昼神温泉もばっちり俯瞰できた。
 展望台からは林も密になったが紅葉は続く。登山道は地形図には著されていないがジグザグの急斜面です。茸採りにあったがまだ早かったらしい。蛇も見た。この時期は穴惑いともいう。他の蛇は彼岸過ぎには穴に入り冬眠に入るがまだ外が良いわ、という蛇である。保護色のせいか茶色に見える。
 ぐんぐん下って地形図に無い林道に降り立つ。歩いてゆくと朝の神社の近くまで来た。Pまで来ると猫が迎えてくれた。
 12時が過ぎた。この山で充分秋山は楽しんだ。もう良いか、と前途を中止することも考えたが行って見た。R153を大野まで走る。ここから山里に入る地道に左折。迷路のような里道を右往左往しならがら松沢山の林道に入った。舗装はされているが両側の刈払いがないのでボディが枝でこすれてしまう。嫌な音がする。登山口の峠に着く。ここも地形図に無い林道がある。近くには駐車場もあるが登山口の案内はない。
 13時過ぎにとりあえず登山靴を履いて緩やかな尾根を登った。この登山道は南北に長いので午後1時30分というのにすでに日陰になっている。先ほどの明るさはなく薄暗い。太陽の位置を見ると今にも日没してしまいそうな気がする。飯田市の日没時間は16時49分なのでまだ十分往復は可能だが、網掛山の下りで太ももの筋肉を使ったせいで膝が上がらず、モチベーションの低下でUターンした。
 下ると14時前で明るい。もったいない気がするがまあこれで良いか。60代から80代の行方不明者も多いし事故は絶えない。当事者にはなりたくないから控えめにやろう。
 R153に戻って走ると交通量が多い。今日はたくさんの行楽のドライブが居たんだろう。ここでも工事中で2度信号待ちした。あちこちで工事だらけだ。11月は混むぞ。

八風街道の文献調査2022年10月05日

 10月2日は秋日和でした。
 中央アルプスの寂峰を予定していたがキャンセルに。八風街道の文献調査の宿題を片付けるために菰野町と東近江市の図書館をはしごするドライブに行く。
 先ずは菰野町図書館へ。午前中というのに既に暑い。司書さんに来館の目的を告げると親切に立ち合って出してくれた。菰野町史はコピーを依頼、後はスマホに撮影。
 次はいなべ市のR421から石榑トンネルをくぐり東近江市湖東町へ。道の駅はごった返していたのでパス。R307から西堀栄三郎記念館へ。湖東町に何の縁か、親が近江商人でこの地で商売していたらしい。知恩院で西堀さんの墓を見たことがあったが近江の人だったのだ。
 八風峠について書いた文だったか「峠は高い程良い。高い分高く売れる。」と近江商人の心意気を書いた文を思い出した。数ある鈴鹿の峠でも高く険しい。
 ビジネスとアルピニズムは一脈通じる。リスクとは日々の糧を得るという意味のアラビア語だが、高い程リスクもあるが満足感や儲けも大きい。
 盟友の今西さんも展示されていた。
 隣の湖東町図書館で調べたが核心的な史料はない。永源寺町図書館へ移動。やはり永源寺町史は核心を突くのでコピーを依頼した。
 R421を走ると永源寺そばを謳う蕎麦屋に吸い込まれた。昼ご飯を食べていなかったからだ。天ざる蕎麦1300円也。この蕎麦は美味しい。
 杠葉尾の山家をぬうように狭い旧街道を走ると八風街道の面影を残す「左 いせ」の道しるべを発見。伊勢参りにはこんな険しい八風峠も越えたんだ。来た甲斐があった。

稲武町の山城址2022年09月06日

1 夏焼城ヶ山 済

2 武節城址 済

3 真弓城址 済

4 押山城址

5 川手城址

6 峯山砦跡

7 武節古城跡(黒田川左岸) 済

三角点「貝戸」に登る2022年08月06日

天白を8時に出発。名古屋は晴れていた。R153経由でやまのぶから左折し足助への県道に走る。足助から先は間欠ワイパーをONする小雨で不安定な天気でした。
 水別峠から見える稲武の盆地は雲海とまでは言えないが、ガスの中に埋もれていました。少雨なので喫茶店で時間をつぶすうちに晴れてきたので出発。最初は笹平への村道を走って矢竹を探ったが案内板などはない。民家に訪ねようも人が居る気配がない。黒田川まで戻った。
 4等三角点「東乳母ヶ入」547mの近くの床屋さんで目的地の真弓山のことを聞いた。この背後の一帯が真弓山だという。地形図には720mの独立標高点しかない。ここに城跡があるらしい。乳母ヶ入りは正寿寺の跡地らしい。ここには供養塔と宝篋印塔(ほうきょういんとう)が建っているらしい。
 また目指す御所屋には歌碑が建っているらしい。とりあえずの目的地は駒山の東にある4等三角点の「貝戸」835m。
 R153を逆に走り黒田から正寿寺への案内に誘われて右折。正寿寺から先の寺洞林道も舗装されていて快適。急峻な地形でカーブはタイトである。ところどころ崖崩れがあるが除去されている。
 峠でクルマを置き、林道の廃道から破線路の道を行くと14分で三角点でした。中電の電波反射板が建っていた。山上は植林帯の疎林で平らかでうろついていたら夕立のような土砂降りの降雨が来たので急いで下山。ずぶぬれになったのでどんぐりの里の稲武温泉で汗を流して帰名。成果は三角点のみに終わった。

続 『今西錦司 初期山岳著作集 初登山』の補遺2022年07月05日

6/20の続き
  尾鷲道を調べていたら今西錦司が戦前に縦走していたことをしった。それで記録の掲載された斎藤清明編『今西錦司 初期山岳著作集 初登山』を取り寄せた。古書が届いたのでさっそくひもとくと、1922(大正11)年10月に3泊4日で登っていた。20歳の時だから京大生だった。京都を出発し柏木で一泊。入之波の大台辻から入山し、大台教会に一泊。面白いのは三日目の行程だ。なんと、牛石ヶ原からトロッコに乗せてもらっている。
トロッコの行き先は樫山958m三角点まで便乗し、不動谷と岩井谷の合流点に下山した。溪谷でもトロッコ道を歩き便ノ山に出て、馬越峠を越えて、夜10時半尾鷲港に下った。尾鷲港から船で荒波の中を鳥羽まで行き、汽車で帰京。
紀州は木材生産が盛んだがもうそんな時代からトロッコが行き交いしていたことに驚いた。8月には大台ケ原からマブシ領往復の計画なので堂倉山辺りをよく観察してみたい。トロッコ道が残っているはずだ。検索すると「堂倉山山頂を南側に下り立ったところは「シラサコ(白カケ)」と呼ばれており、小さな平地に陽光がよく通っている。この付近は、大蛇嵓の方から伸びてきたトロッコ道跡があり、時に尾鷲道と重なっている。枕木やレールの取り除かれた線路跡をイメージしてもらうとわかりやすいが、登山道としては贅沢な1~2m幅の道が緩やかな傾斜で伸びている。ただ、このトロッコ道はいつまでも尾鷲道に寄り添っているわけではなく、巨岩帯を通り抜けたあたりからやがて森林の中に埋もれ視認できなくなる。」とあった。
「「白崩(しらくえ)」と呼ばれている岩礁で、その下の谷が「白崩谷」である。三度にわたって大台ヶ原に入山した松浦武四郎は、木津(三重県)に下りているため、ほとんど尾鷲道を使っていないが、3回目の入山時には、大蛇嵓から堂倉山西側をまいてこの白崩谷を使って東ノ川まで下りている。」
 「「尾鷲道」は、尾鷲の林業家・土井 與八郎が大台教会開殿後、. 紀州の信者の参詣道として1915(大正4)年に寄進され、 大台ヶ原. への登山路として尾鷲」の人々に利用された。という。
  今西が歩いた時代は大台教会の信者も登拝に来ていただろう。
因みに大杉谷の初遡行は「遡行は明治45(1912)年5月。大西源一は櫛田川河口に近い多気町弟国の出身。大北聡彦は松阪市。桃の木小屋は昭和15年完成というから、鍋、米、味噌を携えて、焚き火を起こし炊飯する野営の旅だった。」
 松浦武四郎が入山したのは67歳(明治18年)というから如何に探検的な登山だったか。大川嵩の入山は武四郎没後に1891年62歳でした。

尾鷲道研究②~古川崇とは~2022年07月01日

 多くの信仰を集める古川崇(かさむ)とはどんな宗教者だったのか。研究書は以下の通り出版されている。


①大台ヶ原開山記―古川嵩伝記 単行本 – 2001/7/1
豊かな自然を持つが故に、昔から「魔の山」「迷いの山」と恐れられた大台ケ原を開いた古川嵩。自然界と人間の融合による環境保護に警鐘を鳴らした、彼の生涯と開山の足跡をたどる。
鈴木/林
1926年三重県津市生。1943年白子海軍航空隊学徒動員。1945年陸軍通信兵現役入隊。1946年電気通信省勤務。1985年日本電信電話公社退職(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

②大台ヶ原山 知られざる謎
内容説明
奈良県吉野郡と三重県多気郡の境にある、山域「大台ヶ原山」に息づく“日本の文化の原風景”を明らかにする。

目次
1 松浦武四郎と大台ヶ原山(大台ヶ原山の神秘;大台ヶ原山の開発;霊山と怪性の住居;自然への敬意;自然観と宗教観)
2 古川嵩と大台教会(嵩の目指す宗教;大台ヶ原山での修行;大台教会と神習教)
3 大台ヶ原山の隠れた背景(大峰の修行者が立ち入らない大台ヶ原山;江戸時代から明治にかけて大台ヶ原山に入っていた人々)
4 大台ヶ原山で語り継がれる伝承(大台教会第二代故田垣内政一教長の夜話;大台ヶ原山に関わる伝承と言い伝え)

著者等紹介
大川吉崇[オオカワヨシタカ]
1941年生。高野山大学文学部仏教学科卒業。三重高等学校で日本史を4年間担当、のち大川学園に移籍。現在、学校法人大川学園理事長・社会福祉法人自由学苑福祉会理事長。三重県山岳連盟顧問・三重県レクリエーション協会会長・三重県私立幼稚園協会常任相談役。加盟学会は、日本民俗学会・日本環境教育学会・日本調理科学会(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。
http://ohkawa-a.cocolog-nifty.com/blog/cat36483120/index.html

③癒しの山 大台ヶ原 : 開山行者の生涯 Kindle版
開拓者精神!! 

現在社会で死語になっている言葉。

「俺も助かる、世間の人々も助かる」
これが人間究極の人生だ!
この本の主人公、若き行者、古川嵩が己の命をかけて魔の山「大台ヶ原」に立ち向かう姿は、やれストレスや・うつ病やなどと悩み苦しむ現代人に強烈なパンチをくらわす。人生の唯一無二の生き様を我が身をもってしめした希有のストーリーだ。

並外れた彼の精神力と不動の信念。彼を取り巻く人々の驚嘆もさることながら、大台の王と呼ばれ恐れられた日本オオカミでさえ彼の心を射止めた。
「若き行者と二頭のオオカミ」の交流も見所だ。

彼は、うつ病に取り憑かれた。その治療のため父の主導で御嶽山修行した。過酷な修行のある日、不動明王やその他の神々に出会う。修行を終えた時には病は消滅。

「俺の人生目的は大台ヶ原開山だ」

 最愛の妻や家族と今生の別れ。金剛杖で力強く大地をはたき、単身大台へ。二頭の日本オオカミと共に完全燃焼した古川嵩行者の壮絶なる生き様。

大願成就の暁に「神武天皇銅像」を建立したことはあまりにも有名だ。時節柄、銅像撤去に来た進駐軍の上官が
「これぞフロンティアスピリッツだと感激し、後生に残し置こう」」と言い放ったことは知る人ぞ知る史実。現在も牛石ヶ原に聳え立つ神武銅像は光彩を放っている。

今は「日本百名山」という名誉を頂き、多くの登山者の訪れる関西では否世界中の登山家の「心を癒やす山」として賑わっている。

この本は、克明な史実をもとに書かれた原書、郷土史家、鈴木林著の大台ヶ原開山記【古川嵩伝記】を氏の承諾を得て、三重熊野市在住の郷土史家、杉岡昇氏がリライト、よしいふみとが編集したもので。今後二度と世に出ることの無い貴重本である。

(もくじ)
はじめに
プロローグ、梅雨の一夜
古川嵩行者の生涯
厄年の児、商人の道へ、 大台ヶ原開山への旅立ち、信頼、池峰明神参籠、大台ヶ原入山、単独行動、再会としばしの別れ、教会設立活動、越冬の修行、教会建設、気象観測、有線電話架設、神武天皇銅像建立、自然崇拝と自然破壊、旅立ち
今、発行元の山の辺書房自分史編集室では、より多くの人に膾炙するため英語版「FRONTIER SPIRITS」を制作中。
​日本語版はAmazon電子書籍本サイト。
杉岡昇
杉岡昇プロフイール

 一九六一年、和歌山県立新宮高等学校卒。日本国有鉄道OB・新宮山の会OB。 日本百名山の一つ、大台ヶ原に魅せられ登山を続けるうち、稀有の大自然を多くの人に知ってもらいたいという思いから『大台ヶ原・開山行者、古川嵩の生涯』と、続編「大台ヶ原、妖怪一本足たたら伝説」を、乏しい資料を求めて数年がかりで纏め上げ、自伝出版専門の山の辺書房自分史編集室から出版。
現在紙本第三刷となり、さらに電子書籍としてアマゾンで販売している。これは、ロングセラー作品となった。

 二〇一一年、和歌山県南部を襲った台風十二号で住み慣れた我が家を喪失。失意の避難生活の末、終の住み家を求めて奔走。苦難の末三重の山峡に移住する。自然植物研究家・ラン愛好家・登山家・執筆家・陶芸など多彩な趣味の持ち主。

 平成二十七年秋、思いもよらぬ膀胱ガン発症。三度の手術を受け快癒。現在経過観察中。度々の人生の節目に遭いながらも、著者の人生哲学的思考――災難のどん底に居ても常に生き甲斐を見つける――事を本分とし、日々著述や多くの趣味に意識を移しポジティブに力強く生を満喫している

[主な著作] 「大台ヶ原・開山行者、古川嵩の生涯」「続編大台ヶ原、妖怪一本足たたら伝説」「平成の大洪水」これは…NHKで放映され反響を呼ぶ。その後矢継ぎ早に「膀胱ガン闘病記」「熊野の里山今昔噺、第一巻、第二巻を出版(アマゾン電子書籍)。

杣路峠を越えた人々2022年06月29日

愛知県旧稲武町の野入町のR153にある案内板
1尹良親王・・・南朝時代の後醍醐天皇の孫

2菅江真澄・・・江戸時代後期の紀行家

3武田信玄・・・戦国時代の武将

4武田勝頼・・・信玄の子

6中馬街道(塩の道)・・・三河湾で製塩して川船で岡崎へ。足助で馬に積み込んで塩尻まで運んだ。

6善光寺・秋葉・伊勢参りの参詣客・・・伊勢神峠は伊勢を遥拝(拝む)する信仰の拠点だった。伊勢までは遠くここでUターンしたものかどうか。

7食い物・・・味噌醤油は大豆と塩から作る。塩の道で信州に販路が広がり、携帯に便利なファーストフードが開発された。即ち、五平餅である。

・三河ではご飯を杉の板につぶして小判型にまとめ、炭火で焼いて味噌だれを掛けたものを食う。

・稲武を美濃へ行くとだんご形の五平餅が多い。木曽街道はだんご形だ。ところが塩尻は小判型になる。混沌としている。

・飯田にも小判型の五平餅がある。

・最北は信州の鳥居峠の茶店だった。


根羽村のHPから

       歴史について
 古代・中世の根羽・月瀬村両村は三河の国に属していました。
 現在の愛知県東加茂郡全域と豊田市・西加茂郡・北設楽郡及び長野県の旧根羽村・月瀬両村を含む広大な区域は、古代の 平安時代(794~1.185)後半に高橋新荘が成立し、中世に入り鎌倉時代(1.185~1.331)には鎌倉御家人の荘官足助氏の 支配下に入ったと伝えられています。
 根羽の地は鎌倉時代は加茂郡名倉郷にあり、南北朝時代には加茂郡足助庄に属した とされています。 享禄年間(1.528~)には阿南町新野の関氏の勢力が三河に及び、天文十年(1.541)には旧根羽村・月瀬村に及んだと されています。 天文十三年八月十三日、下條氏によって関氏は滅ぼされ、下條氏の支配下に入ったのは、弘治ニ年(1.556)新野峠が 武田軍によって改修され、下條信氏が武節谷合戦で功を上げた頃と思われます。
 信玄南下作戦の一環として元亀二年(1.571)四月、足助松山城が攻略され、根羽・月瀬両村はこの時以降武田領となり 三河国から信濃国に編入となった。
 以後、天正十年(1.582)武田氏滅亡により、織田知行所に変わり、同年、織田信長の 自刃により徳川氏の天領となった。宮崎信州代官・飯島代官所支配などを経て、慶応四年(1.868)尾州取締所預かりとなり、 同年八月の廃藩置県により伊那県に編入となった。 明治四年(1.871)筑摩県、同九月に長野県となり、。
 明治8年(1875年)1月12日、根羽村と月瀬村が合併し、現在の根羽村 となり、今日に至っています。16世紀までは、三河国加茂郡に所属していた経緯もあり、隣接する豊田市、さらに西三河の刈谷 市・安城市とも交流がある。村内を流れ三河湾に注ぐ矢作川や、豊田市と通じる国道153号の影響で、愛知県西三河地域と の結びつきが強い。
以上

 HP「古い町並み」から
 東海地方より信濃・信州への入り口に位置し、古くより「塩の道」として三州(伊那)街道に沿う村落として開けたものと推測される。古くは三河国足助郷に属し、室町時代には関氏の、その後下条氏の、続いて武田氏の支配下にあった。
 伊那街道(現国道153号線)16宿の最南端に位置し、岡崎・名古屋に通じる足助道(現国道153号線)、南方の折元峠を経て新城方面に向かう新城道、その他、岩村・明智に向かう岩村道などが交わり、中馬の往来が盛んで問屋や馬宿多数が存在した。
 そこへ江戸中期より善光寺・秋葉・伊勢参りの参詣客が加わり、根羽宿は荷問屋・旅籠・馬宿・茶屋などが並び賑わった。
 中馬頭数は宝暦10年(1760)5戸20頭が天保13年(1842)には63戸250頭になり、農間余業から漸次専業化した。明治に入ると更に増加し、明治19年には飼育頭数426頭を数えた。
 明治14年の中馬宿は14軒で、半年間に泊まった中馬数は8,400頭に及んだ。
 今、根羽村の中心地、街道の交差する辺りを歩くと、旅籠屋の形態を残した家屋が多く見られる。只、私自身中馬宿を知らないので、旅籠屋形式の建物でも中馬宿だったかもしれない。交差点あたりにゴハンギョと呼ばれる明和8年(1771)の道標石がある。この辺りが宿の中心だったようだ。
以上
・・・稲武の後山は秋葉信仰の山だった。石碑も新しいのでまだ何らかの信仰の行事は継続しているだろう。「後山」のみを検索すると1344mの岡山県の最高峰のみヒットする。国地院のHPで「後山」を検索するとたくさんヒットする。トップが稲武の後山になる。順序の意味は不明。

三信国境の杣路峠2022年06月28日

 山岳古道の調査のために歩いた。江戸時代は飯田街道と呼ばれた。今の国道153号である。名古屋市から豊田市足助町、稲武町、長野県飯田市へと通じる。三河湾で取れた塩を足助まで運び、荷馬に載せて塩尻市まで運んだから塩の道ともいう。今回は飯田街道のうち、昔のままに残されている峠の山道を歩いた。
 最初は伊勢神峠を上下した。ここは東海自然歩道に整備されて道標が建ち、誰でも手軽にハイキングが楽しめる。多くの峠が車道になる中でここは古い時代に一車線分の幅のトンネルが掘られて峠越えはない。更に下にトンネルが掘られている。そして新たに大型車がすれ違える幅の新トンネルが工事中である。
 伊勢神峠は斃れた荷馬を弔うための馬頭観音も建っていた。塩は重いから馬も喘ぎ喘ぎ上り下りしたであろう。歴史遺産とも言える。結構太い杉木立がいい雰囲気の峠道だった。ここは短いので早く下山したから次の目的地の杣路峠の入り口に向かった。
 国道153号を東へ向かい稲武を通過、木地山の先に入り口がある。しばらくは林道を歩くが少しで沢沿いの山路に入る。伊勢神峠道と違ってここはまったくの未整備だから、道幅は狭く、沢に架かる橋も壊れそうだ。やがて沢から離れるが、道は左折するところを直進してしまった。途端に道らしい雰囲気はなくなり、右往左往して道の痕跡を探す。沢の左岸に石仏を眺めると峠道とすっかり信じた。それでも道らしい気はしない。地形図では沢から離れ山腹の破線路に描かれる。結局、おかしいので左へ左へと徒労とも思えるトラバースをしてやっと峠道と確信できる踏み跡に到達した。そこからすぐに愛知県と長野県境の境の道標の建つ所に着いた。ab780m付近。信じられないほど緩やかな蛇行を繰り返して大きなブナの木のあるユキヨシ親王の社に着いた。ここは以前、長野県側から来たことがある。そうして新たな林道をたどると待望の杣路峠だった。とはいえ、新たな林道の工事で切通しになり、石仏ははるか上に見え、峠によくある道標はなく、通り過ぎた。メンバーの一人が何気なく見た印が杣路峠の道標だった。プラスチック製のお粗末なものである。これで目的は完遂した。
 林道が四方に分かれている。885mの3等三角点畑ヶ洞は徒歩30分程度とみて帰りがけの駄賃に触りに行くことにした。展望、山頂標もなく、頂上らしくもないが、本来の山頂はこんなもので素っ気ない。ここで初めておにぎり一つを食した。久々の山行で軽登山ではあるが腹筋が締まって空腹感はないので水分はごくごく飲んでいる。
 後はそろそろと下山。県境に戻り、峠道の発見場所からは未知の峠道になる。まことに歩きやすく、ずいぶんカーブもしている。重い塩を背負った馬がゆっくりと体に負荷を減らすように緩やかなカーブになっている。一か所は決壊場所もあったが上から巻いた。問題の道迷いの分岐には大きな栃の木があった。直進すると枝道と分かった。そこで少し戻ってみたら栃の木のあるところで左へ急カーブしていた。ここだったんだ。
 道迷いの原因も判明して車に戻った。国道153号を走り、水別峠の手前で中馬記念館?に入館し塩の道をにわか勉強した。すべて終わり意気揚々と帰名。