奥秩父の山岳ドライブと寺社巡り2024年07月07日

 奥秩父で車中泊。昨夜の道の駅 両神温泉薬師の湯は温泉はグッドだった。ところが標高は約300mで寝ていると暑いだけでなく、蚊もブーンと襲ってくる。

   就寝の我を襲うや蚊一つ

 これはたまらんと撤退。標高の高い道の駅 大滝温泉に移動した。ここは標高400mと大した違いはないようだが蚊が来ない。敷地も広大でその割に車は少ない。
 バックドアに棒を挟んで少しは外気を取り入れて見た。疲れもあってか、夜11時に目が覚めたが後は午前5時までぐっすりだった。
 顔を洗ってすぐ出発。目的地は三峰神社である。両神山登山は暑さと帰路の疲労を考慮して断念したので観光寺社巡りに変えた。

 奥秩父の中心地に三峰神社があった。両神山の真南、甲武信岳の真東、雲取山の真北に位置する。R140を走って左折。ダムの堰堤上の細い道をそろそろ走って広大な駐車場に着く。ここは標高1000m以上あり、親子連れが車中泊していたが寒かったという。半袖では寒いだろう。理論値は平地が35℃あると、6℃低いので29℃。夜は30℃に下がるだろうから24℃になる。
 雲取山の登山口にもなっている。三峰神社の境内は神杉に覆われた荘厳な雰囲気がある。朝6時台なので空気もひんやりと気持ち良い。本殿に参拝、大杉にも祈念。ヤマトタケルの立像も仰ぎ見る。東征と称して東国へ遠征した。
 Pへ戻る。7時を回ると続々登ってくる。R140まで戻ると甲府へのドライブである。調べがしてなかったので二瀬ダムから旧道のR140へ左折すると栃本へ行ける。荒川を堰き止めた秩父湖を見る湖岸道路である。
 栃本は昔十文字小屋に泊まった際にオーナーが栃本と言われた。今回は右折して有料トンネルがある新道を走った。
 奥秩父もみじ湖と名付けられたダム湖は中津川で荒川の支流になる。ひたすら山岳路を走るのみだった。カーブ、アップダウンなど変化に富む山岳ドライブの醍醐味がある。
 栃本への旧R140への分岐を見送ると合流する。有料(740円)の雁坂トンネルをくぐると山梨県側に出る。R140自体は秩父往還という山岳古道である。後は笛吹川に沿って下ると甲府に着く。R20を走り諏訪の諏訪大社上社本宮に参拝した。これで念願叶った。後は天竜川の主に左岸の地道を走って飯田へ。飯田からはR153で稲武、足助から帰名。
 途中で給油したが二日間の走行距離は851km÷(33㍑+51㍑)=10km/㍑。約11800円。

金子兜太のふるさとへ2024年07月06日

 R19を走って塩尻を迂回するようにして塩尻峠を越える。一旦は岡谷市に下ると次は和田峠に登るR142を走る。この道は昔の中山道であり、東山道でもあった。笠取峠を越えると佐久市に入る。今度はR254を東進する。内山峠を越える。この街道も富岡街道という。途中で神津牧場への案内を見た。あの大島亮吉の『山 随想 』(中公文庫)の中の荒船と神津牧場付近という随想だ。曇りで良く見えないが凸兀とした山なみが見える。荒船山の艫岩らしい形が見えた。
 カーブが連続する典型的な山岳道路を下った。そして下仁田へ着いた。こんにゃくと下仁田ネギが有名だ。ここからは上信電鉄と交わりながら下る。富岡市、藤岡市、R254からR140へと変わった。本来ならR254は川越、富士見市へと下ってゆくので目的地へは近い。夜発のお陰で余裕があるので皆野へ迂回したわけだ。
 金子兜太の金子医院内の記念館(生家)、味噌屋、保育園、椋神社の句碑巡りをした。記念館では担当者と親しくお話を聞かせてもらった。目的は果たせた。11時にQに向かった。Qは結構時間がかかり13時10分頃に着いた。目を付けた車は想像以上にきれいだったので商談は順調に進み売買契約にこぎつけた。遠路を来てよかった。大出費だがまた稼ぐさ。
 Qを辞して高麗神社へ向かった。朝鮮から来た神様を祀る。商売繁盛のお札も購入した。心機一転であるが、神頼みである。
 そして今夜の最終目的地の道の駅 両神温泉薬師の湯に向かった。途中でスコールのような大雨が降った。すぐ先では雨は降っていないから局地的なゲリラ豪雨だろう。道の駅ではお湯に浸かってゆったりできた。

道の駅木曽福島で車中泊2024年07月05日

 埼玉県の中古車販売業者のQに実車を見に行くことになった。100万円以上の大きな買い物をするのにインターネット上の写真や情報だけで判断するには心もとない。
 メールでのやり取りで7/6の午後1時に訪問の予定を告げた。片道約400kmあるので覚悟がいる。せっかくだから埼玉県皆野町も訪問したい。俳人金子兜太のふるさとである。インターネットで見ると約350kmある。皆野町から埼玉県の業者まえでは約65kmあるから合計で415kmある。逆算すると前夜発で出発する必要がある。
 午後10時半に出発。スマホのナビは瀬戸市上品野町を経由する。かつて荷馬に塩を載せて運んだ塩の道であり、中馬街道である。山岳道路をひたすら走って恵那でR19号に合流。午前2になり御岳山への入り口の手前にある道の駅で車中泊とした。ここも標高が高い割には少し暑いのでバックドアに棒を挟んで隙間を確保した。幸い蚊は居ないので仮眠は安らかだ。7/6の午前4時に再度出発。

美濃・船来山緑陰の小径を歩く2024年06月19日

 朝7時、金山駅前で合流。とはいえ参加者は1名なので2名で出発。たまたま知り合いが信州の山へ行くので集合していた。総勢18名と大勢だった。知り合いも何人かいた。
 高速を乗り継いで、もう1名と瑞穂市役所付近で合流。1台に3名が乗って目指したのは船来山である。標高は116mの超低山ながら2等三角点を置く。道の駅のPに停めて出発。梅雨入りはまだ発表されていないがすでに天候不順は続いている。そんな合間の梅雨晴れの晴天で今日は暑い。
 ヤマップをオンして舗装路から山道に入ると湿り気のあるふわっとした感触が良い。それに里山とはいえ、人工植林ではなく、相当な樹齢の喬木が多い。東海地方の山々は開墾される前はすべてこんな照葉樹林で覆われていたはずだ。以前に登った鶴形山と同様に植生でも保存されたい山である。
 まず最初に見た人工物は次の歌碑だった。

 いかなれば船木の山のもみじ葉の
   秋は 過ぐれどこがれざるらん,

右大弁通俊(後拾遺和歌集)

 何でこんなものがあるのか不思議であった。検索してみたが経緯は良く分からない。違和感があるので、できれば撤去して欲しい。この無雑作なよく言えば多様性のある森の保存に努めるべきで、古代の遺構や遺跡の保存は必要であるが後世の人工的なものは無用である。
 船来山に登頂したが森の中故に展望はない。2等三角点が埋まっている。ということは明治初期の五万図のための測量時代は高い櫓を建てて測量していただろう。
 下り始めるとウォーキングの人に会った。近くに住む人らしい。こんな山が散歩圏にある人がうらやましい。立ち話するとこの辺は私有林とのことで一部舗装路があった。昔は平地は水田で柿のような果樹園は山の斜面にあったのだ。今でも実は成るが肥料をやらないから渋柿化しているだろう。人間も捨てられると甘くは無くなる。
 どんどん下って登り返すと群部山に着いた。ここで引き返すつもりが南端まで歩いてしまった。南端にこそ船木山古墳があった。竹林の中にあったからあやうく開発を逃れたんだろう。先に会った人の話ではD土木が買い占めてゴルフ場を企画したが倒産、別の会社が買いたたいたとか。生臭い話になった。
 歩道を下ってゆくと寺院に出た。山麓の車道を歩き始めると猛暑である。炎天下の道をとぼとぼ歩いた。すると目の前の高速道路の工事現場を通った。東海環状道であろう。郡府山の下をトンネルで抜ける。なんとも無粋な風景だ。
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新穂峠のこと2024年06月02日

 6/1の新穂峠の歴史を調べて見た。『坂内村誌』民俗編のP91に
 ”新穂峠の地蔵堂は、峠を下った甲津原側にある。昔から坂内へ牛の来る道、”西牛”といって良い仔牛を江州・関西から坂内へ移入したのである。繭の道・紙の道であり、教如様お廻りもこの峠を往き来した。風流芸能や俳壇も、この道があることで江濃一体であった。諸家から峠の上りも甲津原への下りも炭窯の跡がいくつもある。
 近世初期から焼き続けてきた山であった。坂内側の炭も向こうへ出していたことは浅又山と同様である。”
・・・今よりも昔の方が峠を往来した物資の流通のお陰で人影はずっと多かった。獣の気配におびえる自分には想像もできない豊かな街道だった。その中には富を蓄積して俳句の会を催した成功者もいた。言わば俳諧を介した異業種交流会のような文化交流も盛んだった。明治15年頃の観察記では製紙で潤っている、とあった。楮三椏のような商品作物がよく売れたのだろう。それが今は廃屋の目立つ寒村になっている。
 白川沿いの水田は植えたばかりで鏡面のように美しい風景である。こんな奥山でも稲作ができるようになったことは進歩であろう。

旧坂内村の新穂峠を歩く2024年06月01日

 先週の殿又谷の沢登りで坂内川の支流・白川の源流の殿又谷を遡行して自然の良さを満喫した。谷歩きのみならず諸家もまだ行ったことがなかったので心残りでした。坂内村の名前の通り外から入村するには峠越えが条件という厳しい環境だった。数ある峠の中の一つである新穂峠を歩いてきた。
 梅雨入り前の晴天が期待できたので6/1に新穂峠往復のみ実施できた。計画では新穂山往復でしたが高速道路の工事と事故の渋滞での遅れもあったが早朝なので割と早く抜けだせた。
 先週の疲れも抜けきらず、老体ではピッチが上がらず。新穂峠のみで下山した。
 ヤマップの報告で峠までは舗装路で落石もあまりない。純粋な山路よりもむしろ歩き易い。人工植林があるが、新緑の落葉広葉樹が多く、美しい自然が保たれている。新穂谷は上から見ると花崗岩の美しい溪谷だった。ここも沢登りの対象として楽しめそうだ。
 栃の花、藤の花、谷空木、空木など木の花が目立った。峠付近で2ヶ所路肩決壊があり危険個所があった。何のために舗装したのか想像すると風化花崗岩の特長で崩壊し易いと考えた。建設してすぐに舗装しないと路肩決壊があちこちで起きただろう。
 新穂峠へも車道建設でえぐられて段差があった。段差を登るのにスムーズには行かず、木の枝などで確保して登った。昔を偲ぶ情緒はなし。むしろ近江側の方が道形が保たれている様子です。
 結局峠往復のみにとどめて前途の計画は中止して近江側から周回の形で出直すことにした。下山時にちかごろニホンシカに追われて見なくなったカモシカを見た。体形が黒いので一瞬熊かと身構えた。路上ではとぐろを巻いているまむしを見た。枯れ葉色になっているので分からない。まむしは注意喚起の看板もあったので多いのでしょう。
ヤマッパー上級生の報告を読むと昔乍らの古道の存在があった。往きも帰りも注意しながら歩いたが糸口は見いだせず舗装路のまま下山した。
 午前中に下山できたので道の駅「さかうち」に寄り、道の駅「ふじはし」ではふじはしの湯に入湯して村を出た。平野に出たら高速道路のあちこちで交通事故や工事の渋滞が起きていた。名神は工事で13kmの大渋滞でした。当面利用できません。

沢始め・旧坂内村の沢を歩く②2024年05月26日

 26日は4時起床。バタバタと朝飯などを済ませてテント撤収。沢仕度を整えて出発。
 竹林の下に降りて殿又谷の遡行開始。最初の二股で尾根の先に上がると石垣が見える。右の滝谷本流から踏み跡が左へ行くので登って見たら草の生えた平地だった。何かの植栽地か隠し田か。はてまた木地師の小屋掛けでもあったのか。
 沢に戻る。入渓地から赤布などの目印は一切ない。流れに従いながら遡る。周囲は新緑の闊葉樹に覆われている。大きな七葉樹(栃)、欅、山毛欅が素晴らしい。その中を小さな滝の続く沢相が嬉しい。小滝を次々に突破する喜び。圧倒する大滝はないが遡行の喜びに違いはない。
 ふと夢を見た。所々にある平地でツエルトビバークしたらいいだろう。そして焚き火を囲む。肴は炙ったエイのひれでいい。持参の焼酎は沢水で割る。アマゴが釣れたら木の枝に刺して焼く。
 こんな沢旅こそ田部重治の世界だ。否、『樹林の山旅』を著した森本次男の世界である。森本は北アルプスに登れないから奥美濃に来たのではない、北アとは違う世界が良いと高評価した登山家だった。久々の野生的な登山を楽しめる自分を覚える。
 高巻きもした。リーダーは突破したがどうしても足場が滑るので左岸の尾根を小さく巻いて沢身に腹ばいで滑り降りた。巻けば安全と言うわけでもないが。
 水が絶えて源頭に到達。稜線に上がると爽やかな風が吹く。今日の最高点まで登って大休止。沢で死んでいた鹿の頭蓋骨を安置した。鹿の糞だらけの山頂である。いい供養になることだろう。
 下り気味に804mの三角点内谷に着く。埋まっているので掘り出すと三等の文字が見えた。点名の内谷は北へ流れる谷名らしい。
下降はそのまま南へ沢芯をたどる。最初は水が無いが段々水量が増えた。中流部は上から見ると足場が分からないから懸垂で下降した。滝の落差も長くなり、何度も懸垂下降を続ける。10回はやっただろう。本当は互いに撮影したかったが下降時はカメラを構える余裕もなかった。緊張感で喉がカラカラになる。
 それでも終わりはある。謎の平地が現れた。殿又谷もみおろせるがまだ高い。笹や木の枝、根っこ、蔓に捉まりながら下降をつづけ林道に戻った。スパッツを外すとヤマヒルがポトリ落ちた。血を吸って丸々太った奴だ。自宅に戻ったらTシャツの腹部にも血痕があった。2匹に献血した。

沢始め・旧坂内村の沢を歩く①2024年05月25日

 25日夕方発。奥美濃の山も久しぶりのことだ。旧坂内村の中心地の手前の坂本を左折。白川に沿う県道を走る。かつては揖斐高原スキー場へ走った道である。諸家で新穂谷に行くと新穂峠を越えて近江に行ける。言わば山岳古道であった。通りで路傍に石仏があったはずだ。
 今日はその手前の323m付近で白川をまたぐ橋を渡って殿又林道に入った。
 殿又林道で突然野生のシカが横切る。一応最終的なテンア場を探すために堰堤まで行って見たが少し戻って空き地に幕営。久々にテントで仮眠。

郡上の歴史調査行・・・岐阜県図書館へ行く②2024年05月05日

 郡上郡史は大正11年1月25日発行。昭和45年1月25日覆刻。P119から始まる
・相生村の項目のP128に

 一人娘は嫁にはやらぬ那比の宇留良や亀尾島へ

という俗謡があった。亀尾島はきびしまと読む。

那比ノ宇留良ヤ大字亀尾島ハ道路悪シク交通不便ナリ(宇留良ハ郡道ヨリ三里以上亀尾島ハ郡道ヨリ一里以上寺坂ヲ越セバ半里以上)社会生活ニ不便ナル意土地ノ悪シキヲ歌エルナリ然レ共今日ニテハソレ程ニモナシ

 那比の宇留良ものう亀尾島も住めば都じゃのやとのさ

前ノ歌ニ對シテ如何ニ土地ノ悪シキ處ニテモ自分ノ住所ト定ムレハ愉快アリ楽シミモアルヲ歌ヘリ

・崇田村(たけだむら)は「村名は、合併した三つの村の名前に由来し、山田村の「山」、高砂村の「高」、上田村の「田」をあわせた合成地名である。」
「歴史
江戸時代、この地域は郡上藩領であった。
1875年(明治8年) -
赤池村、杉原村、鬮本村(くじもとむら)、門福手村が合併し、山田村[1]となる。
高原村と粥川村が合併し、高砂村となる。
下田村、木尾村、繁在村、根村が合併し、上田村となる。
1889年(明治22年)7月1日 - 山田村、高砂村、上田村が合併し、嵩田村となる。
1954年(昭和29年)11月1日 - 下川村と合併し美並村が発足。同日嵩田村廃止。」

地勢
本村ノ西部一帯ノ高賀山脈ハ高地ニシテ瓢ヶ岳、根村ヶ岳ハ其ノ最モ高俊ナルモノナリ

とあるので瓢ヶ岳の南の1086mのコブは単に南岳とされるが根村ヶ岳と分る。ただし根村はすでに消えた地名であり、山名としても短期間だったから根付かなかったと思われる。

郡上の歴史調査行・・・岐阜県図書館へ行く①2024年05月04日

 午後1時を回ってからやはり行って置こうと走った。久々に岐阜市へ来た。気温が高いせいか遠望は霞んできかない。それでも立派な高い山は霞の中に堂々と聳えてみえる。
 遠くから高層ビルの岐阜県庁が見えた。あの一帯に図書館や美術館が集約している。Pを探すためにぐるっと回ってしまった。十分なスペースがあった。
 郷土資料コーナーで、長良川中流域の市町村の歴史書に一通り文献に目を通す。
1 郡上郡史
2 郡上八幡町史
3 美並村史
隣接の市町村も 
4 板取村史
5 武儀郡史
などを読んでみた。この中で琴線に触れる内容は美並村史だった。つまり郡上市になる前の地名である。
 スマホを忘れたのでメモのみしてきた。昔は郡上郡はなく、855年に武儀郡を割って郡上郡が置かれた。現在の美濃市と郡上市の市界が郡界でもある。
 須原から北の上河和は江戸時代から50年間は主要な街道だった。
・黒地峠から黒地へくだる道は東街道と言われた。もちろん西街道もある。
・長良川は昔は郡上川と言われた。
郡上市のHPから「八幡町から美濃市までは郡上川ともよばれています。このあたりは美濃古世層の中心地帯で、左岸から和良山脈の西部の山が張出しているため、川は峡谷状になっています。郡上峡谷といわれる、八幡町中山、美並町三戸(深戸)、白山(福野)、上田(八坂)付近は長い年月の間の侵食により、深いV字形の谷となっています。八幡町から下流の主な支流は、右岸から、大支流亀尾島川、うなぎで有名な粥川谷があり、左岸からは、千虎川、白谷川、羽佐古川があります。」