郡上・水晶山からナカザコを経て縦走2024年04月28日

 登山計画書では
2 行程
名古屋天白自宅5時~高速~美濃IC7:00~R156~母野駅前P8:00
・・・P・・・上河和9:00・・・水晶山12:30・・・ナガザコ三角点13:00・・・尾根通し又は林道歩き約2km・・・馬越峠14:00・・・県道325号約5km~長良川鉄道・大矢駅
大矢駅15:32~長良川鉄道乗車6.3km~15:43母野駅・・・P

 実際は1時間程度早く名古屋を出たので母野駅(はんのえき)に着いたのは7時前。近くの空き地にPして出発したのが7時でした。なので三等三角点州原から山稜歩きに変化の無さに冗長さを感じた。
 水晶山登頂は11時12分はかなり早かった。何となく早足になっていたのだろう。ナガザコは13時登頂でしたが実際は12時30分とここでも30分早い。ところが馬越峠到着は13時57分。ナガザコからの下りが、尾根は岩場が大きなギャップとなっていて、道の無い谷を下った。しかも間伐材を水平に配置してボサを作ろうとしてあった。なので乗り越しに手間取り、これまでの貯金を食いつぶしてしまった。
 県道325号も長いし、暑いしでペースダウンした。大矢駅に着いたのは15時26分ですが列車の発車時刻は15時32分なので5分前となりギリギリだった。しかし、偶然に観光列車に乗れたのはラッキーだった。大矢駅はホームが別々になり、昭和の風景を思う。
 今日は気温が日本各地で30℃と予想されていたように暑かった。このために後半はピッチが鈍った。周回ではなく、縦走の形式で遊んでみた。列車を下山口と登山口で結んで完成させたわけである。前回の大野三山縦走に続く2弾目である。

池田富士と春日井三山を歩く2024年04月07日

 自宅を1時間早めに出発。地下鉄鶴舞駅でJRに乗換。高蔵寺駅で30分の余裕が生まれ高蔵寺駅構内の喫茶店で香り高いコーヒーと軽い朝食を取りました。
 内々神社行バスの始発は8時ちょうど。内々神社バス停まで約30分。内々神社まで徒歩2分。トイレで用足し後、登山を開始。境内の右側に東海自然歩道が通じている。植生は見事な杉、照葉樹林の高木でした。ジグザグで東屋のあるピークに登る。もう一つ先の四等三角点の北山を踏んで下る。犬山へ行く道と別れて右へ周回後、春日井市と多治見市の境迄歩く。そこには春日井三山の一つ弥勒山437mの登山口がある。
 今日は池田富士370mを経めぐりたいので少し戻ってラブホテルの入り口の左のピンクのテープから植林内に入る。枝が落ちていたり、倒木も未整備であるが踏み跡はなんとか歩ける。左側の金網に沿って歩く。林内は迷いやすいが赤、ピンク、黄色のテープのマーキングがあるので心配はない。金網にどこまでも沿うと無名のコブに出て北の方面の眺めが良い。少し戻って赤テープが多数巻いてある処から東へ行く。踏み跡は頼りないがテープが多数あるので迷わない。
 小さなコブを2つ乗り越すと池田富士に登頂。小さな祠が2つあり、ベンチのある処からは樹木が切り払われて多治見市街地を見下ろせる。霞んでいるが恵那山、南アルプスも見えた。休んでいると八曽山からというトレランのハイカーが登ってきた。凄い肺活量だね。赤テープに導かれて廿原へ下る。途中に鳥居や池田富士への道標も在って地元の人らに愛された里山だと知った。廿原と書いてつづはらと読ませる。
由来はhttps://www.gifu-np.co.jp/articles/-/82703
 多治見市廿原の山里に下るといちご狩りのマイカー客が一杯来ていた。ちょうど12時になったのでその中のmontanaという喫茶店でカレーを食した。
 約30分後、弥勒山へ登山を再開。桧の植林内のしっかりした登山道を弥勒山まで登った。ここでもトレラン1人が追い越していった。トレランブームかな?山頂では改埋された二等三角点が埋まっている。ベンチもある。東屋もありハイカーに人気があるのもうなづける。山頂を辞して急な階段状の登山道を下るうちに膝に痛みが走った。そろそろ下る。大谷山、道樹山と一応三山は踏破できた。
 計画では定光寺駅まで縦走だったが暑いのとひざ痛がぶり返して来たので道樹山で下山した。細野町に下って車道を歩き、15時55分、石尾台東のバス停で登山活動を終えた。本当はキャンプ場から細野のバス停に歩けば車道歩きは少なくて済んだ。石尾台のバス停で2つ目だった。待ち時間の間にストック、カメラなどを仕舞い、パッキング。16時12分のバスに乗って高蔵寺駅まで乗車。16時47分の快速に乗れた。

小川路峠へ2023年11月19日

 遠山谷も昨夜は凍て雲が山にまとわりついて寒かったが朝から快晴でした。6時50分に和田の宿を出発。7時30分に清水地区にある秋葉街道登山口を出発。野生のシカの頭蓋骨が落ちていた。人工林の中の道は不明瞭でしばしばRFで渋滞気味になる。それでも石の地蔵があるのでかつての街道には違いない。一旦皆伐してしまうとイバラ、タラなどが繁茂し、いわゆるヤブ道になる。植林すると日陰になって雑草は枯れてしまう。この間に人が歩かないと廃道になる。現在は森林は密植されており、間伐を待っている。道も廃道状態に近い。一旦は林道に上がって横切る。再び人工林の中を登るがやはり不明瞭である。最終的に林道に上がった。1062.8mの三等三角点上村の尾根の先に地蔵などが設置されている。昔は建物でもあった跡である。
 ここから本格的な秋葉街道になった。15番の観音から始まる。しばらくは人工林だが疎林になっただけ、見通しが良く明るくなった。遠くに白い山も見える。観音様の番号が増えることで着実に登っていく実感がある。雪も出てきた。29番を過ぎると山抜けの沢の渡渉が待っていた。かつては桟橋もあったが朽ちている。虎ロープも切れて巻いてあった。リーダーがロープを出して女性らを確保して渡渉した。三点支持の基本技術があれば怖くない。そこから地蔵がずらっと並んだところにきてすぐ先に茶屋址と熊の檻があった。地形図では急な尾根だが九十九折れで優しく登って行ける。
 12時45分にうっすらと雪のある小川路峠に到着した。昼食後、体が冷えない内に1人で13時30分に来た道を引き返す。途中、4回足に痙攣が走った。都度68を飲んで対応した。下山後約2時間の15時25分に林道に着く。太陽は隣の山にかかってすぐに日没しそうだ。帰路は樹林帯は薄暗いので林道を歩き通した。約1時間でクルマのおいてある入口に着いた。
 小川路峠は上久堅からは5回も往復しているが遠山谷側は初見でしたので満足できた。秋葉街道は南西面に付けられているので西日が当たり午後も明るい。林道に下りた地点で3時30分位でしたが日が伊那山脈に沈んだ。山の中は飯田市の日没4時40分よりも1時間以上早い。
 残照があるので4時半までマイカーまでは明るかくヘッデンは点けずに済んだ。
 マイカーで矢筈トンネルを通過、下氏乗から中宮でR256に合流、左折して富士山之神社(スマホのナビの目標)へ向かうと5時20分ちょうど東京組と合流できた。後は飯田駅へ送って別れた。飯田から園原まで地道。20kmほど。中央道園原ICから帰名。2000円。102km。
 名古屋から周回の距離は約380km位でした。山間ドライブは正味150km位。極端なタイトなカーブが多いので山よりもドライブに疲れた。3ヶ月のブランクがあったので足腰が久々に痛んだ。
※すでに完成している矢筈トンネルと青崩トンネルが高規格の道路に生まれ変わると鳳来峡ICにつながる。観光客も増えて秘境のイメージも無くなるかも知れません。

青崩峠へ2023年11月18日

11/18 浜松市天竜区は快晴
 名古屋の自宅を6時30分頃出発。R153を走って東名三好ICから新東名経由で浜松北ICで出た。1820円。西鹿島駅へ8時50分頃着。102km。
 9時過ぎ東京のPT7名と合流。青崩峠を目指しR152を北上。青崩トンネルの工事が真っ最中です。
 峠直下まで車道はあるが足神神社でデポ。そこから徒歩40分で峠へ。石畳の遊歩道でした。峠では寒気のために降雪があり、初冬の気候と冬黄葉の残る自然林がマッチして美しい。東京組は峠から信州側へ下山、私は青崩れの地層が見える四阿で別れた。
 車に戻って赤石山脈の兵越えを越えてR152に下った。下った辺りから先は青崩トンネル(2023年5月に貫通)の工事の真っ最中でした。ダンプが行きかうので一般車は立入禁止でしたが恐る恐る入っていくと東京組に出合えた。そこでピックアップして宿のある和田へ向かった。途中でも番所跡を見学したりして有意義なことでした。
 宿はかぐら山荘。飲み代込みで10000円位。宿の風呂が壊れていたので平岡駅まで走って温泉に入湯できました。往復20km。

塩の道の入り口を発見!2023年10月01日

 今日は雨だった。出発も遅くなって12時30分に出た。いつものR153を快適に走る。小雨、曇天のせいかお出かけのクルマは少なくて助かった。根羽村では曇りまたは晴れていた。
 治部坂峠を越えて先ず行ったのは寒原峠を左折して恩田井水の取り入れ口である。恩田川本流では無くて、支流の長九郎沢にあった。弓ノ又谷林道を登れば三階峰に行けるが、途中の小さな建物の傍に用水路があり集水桝をあふれる水は長九郎沢に戻る。正しく井水の仕組みである。木曽山用水も同じ仕組みである。この先でサイフォンで大沢川に一旦水を落とし、改めて取り入れ口から同じ集水桝から取水する。先週に行きかけた大沢川右岸の壊れた橋の先に続く林道の終点にあるかも知れない。
 一方で村道に下ってHさん宅の前を通過すると左上に上がる道がある。R153に合流する。さらに先には細道があり石碑めくものがあったので登って見たら、手前に祠があるか判明できず、先にはH家やK家の墓だった。墓地の下には平があるがこれが尾根に開削された明治24年以前の旧道だろうか。
 今の村道は明治24(1891)年開通した塩の道でその後R153に格上げされて舗装された。昭和48年の地形図には新しいR153が印刷されているのでその時期までは利用された。
 今日の目的は村道の899m地点を探ることである。以前は入った途端に蜂が集団で飛んできてすぐに逃げた。気温が下がればもう良いか、と。少し左寄りに下ってみた。若干の藪があるのは132年前に役目を終えたので歴史の彼方に消えてしまったのである。すると人工的に建てられた棒の上に小さな屋根をかぶせてあったのであっと閃いた。これこそが歴史の彼方に埋もれ行く道の痕跡である。10m先で左折、初沢本流に下ってゆくところを確認できたので小さな尾根をよじ登って車に戻った。少し徒歩で歩いたが沢が深くて見えない。車で走りつつ探った。電灯線の保守路が3本発見できた。強引にヤブを分ければ大野へ行けるだろう。次は最初の899mから初沢に下って大沢川左岸の廃道を探る。

飯田街道の旧道踏査行②2023年09月25日

 阿智村図書館で結構時間をつぶした。長岳寺も回ったが17時を回って拝観はできず、また元の旧道ドライブになる。気になったのは曽山の集落の通過をパスしてしまった点。旧道の案内板が出ていたが村史を見るとやはりあれが旧道だったのである。あの奥に馬頭観音が建っているらしい。赤子石もこの前の通過では見落としたかも知れない。ここの旧道は完全な廃道である。今の車道はイコール旧道ではない。

飯田街道の旧道踏査行①2023年09月24日

阿智村誌
 仕事か、外出か迷ったが雨でもなさそうだと出かけた。足助、稲武とも混雑するだろうと矢作川沿いに岐阜県上矢作町まで走った、渋滞はないがカーブの連続で疲れる。ラフォーレ道の駅で一休み後R418を初走行した。気になっていた喉の滝は見過ごしてしまった。一車線分の狭い酷道だった。平谷村の交差点で左折。R153から治部坂峠へ。峠の十割蕎麦屋は人気で後回しにすると売り切れになる。少々待たされても天そばを食べた。
 肝心の寒原峠以東の調査で気になっていた一軒家で大沢川右岸の道を聴いたが知らないという。やむなく村道に下ってゆっくり走ると川の方に白いパイプが見えた。降りて探ったら壊れかかった橋だった。林道らしい廃道が上まで続くが深入りは止めた。
 もう少し下ると一軒家があり塩の道の切り口で尋ねた。右岸の道はあるにはあるが、明治27年に開削された恩田井水の橋が架かってはいた。急峻な橋を渡って取り付くと井水の水路があり、検索すると日の入り峠へ流れる水路だった。恩田から6.5kmある。大沢川の両岸を眺めたが旧道らしい道跡はない。これはこれで新たな発見である。
 その後、皇大神社に参拝。参道は長く深く結構上まで登った。また大野の一軒家と最奥の家で旧道の情報を尋ねた。
 曰く、
①熊が多いの注意。鹿の檻に2頭かかって放したばかりという。村では柿の実がなっていたからそろそろ動き出しているのだろうか。
②終点から上流は整備されていない。確かに地形図では堰堤があり、堤高の分だけは旧道も埋まる。
 絶望的になったが再び阿智村の図書館で村史を読んでみた。示された地図を見ると川すれすれに上流に向かい、初沢を渡って899.地点へたどった。一部は村道と重なる。その後も村道の真下と川の間を辿っているようだ。やはり899m地点を探ってみる価値はある。

治部坂峠踏査2023年08月18日

 性懲りもなくまた治部坂峠を調査に行った。R153を走っていたら5時半、東郷町の交差点で反対車線で大事故があった。信号の柱はこっちがわに倒れ、エンジンルームは大破、ドライバーはタンカに乗せられた。どうなったやら。
 稲武まで快調、気温は23℃。以後も快適ドライブ。今日は治部坂峠のPから馬の背に登ったが微風快晴で50分の高原ハイク。さて下りは地形とGPSを見ながら平谷村と阿智村の境を探った。結果期待した成果無し。阿智村役場の図書館で資料に当たった。浪合村史によると治部坂峠は国道工事で13メートルも深く削られた。と分かった。
 万事休す、往時への郷愁はゼロ。調査完了。
 結果、平谷村の「中の土山」は清水沢と栄太沢の間にある別荘地から南下の地蔵二体の付近と断定した。峠から1kmと平谷村村誌の説明通り。恐らく林道の整備、拡幅で地形変更があった。その工事で消失したと思われる。
 『平谷村誌』の記述にも峠から1kmの場所が「中の土山」と指摘している。縮尺して定規で計測すると峠からぴったり1kmの位置にあるから間違いない。したがって『平谷村誌』には2ヶ所のミスがあった。峠川を清水沢とルビを振っている。別の絵図では別の位置に「中ノ山土」とあった。
 また場所は栄太沢の右岸側の台地とする点も間違っていた。只、未確認のままだが、「中の土山」の地蔵に続く塩の道はおそらく直下の林道工事で消失したと想像する。林道を歩いて見ると必要以上に広くなっているし、斜面が高いところまで削られている。もう一つは地蔵からV字形の清水沢をどう迂回したのか不明のままである。

『飛騨國中案内 (大正6年の復刻版)』受領2023年08月13日

 飛騨國中案内 (大正6年の復刻版)からP115の5の3

   角川村より二ツ屋村え   一里

[角川村]高・反別共に先書に記置。角川より二ツ屋村迄之間道並、谷越所々有之、道の左右は山高く谷合故道悪敷候。
   二ツ屋村より国境迄    二里

[二ツ屋村]高四石六斗二升六合、内田高二斗五合、畑高四石四斗一升六合、此反別三町九反一畝二十四歩、内一反三畝十四歩田方、三町七反八畝十歩畑方なり、田は稗田なり、非平地山畑同様の地面なり、中田二・下一・上畑二・中一・下一・下々一・山畑一、桑三十束、此反別二畝歩、十束に一、屋敷二の位、高に一ッ三分七厘内、屋敷大、小五軒あり、寺・宮森なし、

[口留番所]一ヶ所あり、高八合、此反別十二歩あり、高山より二ツ屋村迄七里三十一町有、二ツ屋村より国境迄二里二町有り、此間一里、行くて大峠あり、字[楢か峠]といふ、楢ヶ峠より境谷迄の間を原といふ、且又、古人の曰く、高麗に檳榔子(びんろうじ)きれたれは飛騨の白木ヶ原に有へし、かうらいに肉桂きれたらは白木か原に有へし、高麗に人参きれたらは飛騨の角川有峯に有へし。此角川有峯とは此境谷原の事なり、此白木か原は則此所の原にて候、左手の大山は[金剛ヶ嶽]右手の大山は[白木ヶ嶽]なり、上白木・下白木二山あり、唐の川とは前に記し置候通り、小鷹利郷の内谷村より、谷川上信包村より奥にて、黒内村山内なり、此二ヶ所を尋ね度もの歟(や)、古人の言傳は予より外に此事聞傳申間敷者也、穴賢々々。右原の内道より左手の山に[金山]一ヶ所あり、九十年餘以前に金山稼いたし候事なり、国境に石塚あり、字[境谷]といふ、二ツ屋村より楢ヶ峠まて一里、此間谷越八ヶ所あり、楢ヶ峠より境谷原の小屋場迄一里半、此間谷越三十三ヶ所あり、此小屋場は先年越・飛両国の境論有之節より山番小屋あり、その砌(みぎり)より往来の[改番所]も此所にあり、口留番所は其後二ツ屋村へ引る、山番所は御料所に成り、元禄九子の年引る、金山間歩ある所は此小屋場より左手の山にあり、此際に青兀といふはげ山あり、山の犬といふ獣晝夜に此所へ来、此兀山の土を喰ふことなり、此所に小谷あり、白水谷といふ、常に此水白し、小屋場の前に白き石磨一ッ有り、是は金土をひきたる磨の由、此所より境谷石塚ある所まて十丁餘、境石より越中切詰村迄二里、此間大難所の道筋なり、切詰よりすが平此次庵谷、此次に番所あり、此次はなつまい、此次は東原、此次は荒屋、次は西ヶ原、次は田の頭、次は水無、次は内名、次は島地、次はいちごぞうれ、次は二ツ屋、此次は横平、次は大だも、次は小畑、次は三ツ松、次はにんぶ、次はしんめう、次は元坂、此次は八尾なり、切詰より八尾迄五里、二ツ屋より以上八里有之候。先年飛騨國荒城郡小豆澤村・桑ヶ谷村・三川原村・角川村・二ツ屋村と、越中國婦負郡桐谷村・布谷村・荒屋村・須郷村と國境論有之、干時延寶二寅年の事、公儀御吟味の上國境相極、其節御評定之衆中両國の村々共に御朱印之寫、我等手前に所持す、外に繪圖一枚共有之候。
[二ツ屋]越中國長谷切詰え出る、高山より境迄十里三十町あり、二ツ屋村より切詰まで四里。
二ツ屋村より大無雁村へ戻り、下山中筋を記す。

・・・・・大正6年に出版された飛騨のガイドブックでした。8/5に車で通過した楢峠とか白木峰の様子がうかがえる。楢峠を越えても続くから二ツ屋はかなり広域の村だった。水系は富山側に流れるが岐阜県の中でした。
 やはり国境論争があったのです。楢峠が国境かと思うのですが当時の力関係で万波川一帯が飛騨に組み込まれた。現在は白木峰が富山県と岐阜県の県境になっている。これはこれでそれらしい。金山があったからでしょう。

平谷村誌(上)と(下)を読む2023年06月27日

 山岳古道の塩の道乃至中馬街道の踏破を目指すとなると良いガイドが無いので錯綜した道の情報整理が必要になる。参考にしていた塩の道のパンフも結構荒い記述がある。改めて再度行って見たい個所がいくつかある。
 それ以外に平谷村と阿智村の境にまたがる治部坂峠も気になっていたので鶴舞図書館で『平谷村誌』を見た。やっぱり、現在のR153とは大きくずれてほぼ直線的に旧道があった。現在はその上に送電線が走っているので保守道が整備されている可能性がある。これも地形図で破線路すらないので行って見ないと分からない。