近江湖北・横山岳の沢-東尾根下降編2009年07月14日

 横山岳東峰は多分私には初登である。三角点のある頂上は既登であるがもう記憶はない。正確な標高は分らないが1130mにアバウトで+9mはある。立木は1本もなくとにかく眺めがいい。
 山頂からは山麓の青田がまるで畳を何枚も敷いたように美しい。日本の田園風景は庭園という人もいるらしいが当を得た表現である。
 こうして梅雨の涼しい風に当っている間にも東尾根の下降が気になる。みなさん思いは同じである。このところ1年以内に2度も山中ビバークを余儀なくされてしまったWFコンビは反省しきりである。体力、登山技術、RFに自信があるとかえってリスクを高める結果になる。好事魔多し、と下山を促した。
 午後2時過ぎ、東尾根を下る。素晴らしい道である。地元の杉野の有志によるボランティア活動で整備されている。ブナの純林に入った。原生林ではないようだ。やや細いがかえって白い幹が新鮮である。下草は少なく、藪もない。地形図を見れば広くて緩斜面の東尾根は天然のスキー場に成り得る。工事しなくとも雪さえあれば快適な林間滑走が楽しめそうだ。スキー登山の記録もあるに違いない。この快適な道もやはり三角点865mの手前のコブを前にして網谷の広域林道へと導かれている。安全第一ならそのまま下ればいい。
 私たちはとりあえず865mの三角点を踏んで下ることにした。道はないが踏み跡はあるし、赤テープも残る。好き者はトレースしているのだろう。とんでもないほど高い所の位置は残雪期のものであろう。
 後方からF君がルートを見失わないように監視役を務める。三角点を確認後下るとほどなくかなり大きな池が現れた。側を通過すると赤テープは右に反れるので左の尾根を忠実に辿る。ここにも池があるが干上がっていた。地形図では10mの等高線が盛り上がるような表現であるが実際は↓を組み合わせて凹地なのではないかという気がした。
 踏み跡と赤テープも右の722mの尾根へと反れる。ついに踏み跡も赤テープもない尾根に踏み出した。但し、杉の植林となった。実は865m辺りからは植林化している。その為の林道であり踏み跡であった。地形図と地形との比較照合をしながらの神経質な下山が続く。緩斜面がなくなり、杉の植林も途絶えたことに気づくと足元は急な斜面となった。 標高は600mを切った。木の根、枝をつかみつつ慎重に下る。ついに素手では危険な垂直の壁に近い斜面に遭遇した。標高は465mある。P地点との比高は100m程度。褪せるな。WFコンビは懸垂下降で下ることを決定した。最初はザイルを送りながら様子見する。2回目も同じ。3回目でようやく杉の植林内に下れた。
 脆弱ながら下ると杉の大木の林の向うに流れが見えた。川を渡ると林道に辿り着いた。ああ、これで安全圏だ。WFコンビと硬い握手で無事下山を祝った。Pへは10分余り。
 地形図で対岸の尾根が下ってくる辺りであり、印刷された土倉谷の倉と谷の間の付近に下りたわけだ。Pは土の字の上辺りである。実際に見た印象、下った経験では等高線はないくらいに詰まっている。もしも暗くなってつかまるとビバークは必至である。しかも確保しながらのビバークとなろう。
 車に戻ると安堵の気持ちが湧いてきた。F君は鉱山の選鉱場跡を撮影した。私はこれは正に「夏草や兵共が夢の跡」だなあ、と呟いた。明治40年に銅鉱を発見以来昭和40年代までおよそ1500人とも900人ともいう鉱夫で賑わった町=土倉村であった。廃鉱を伝える石碑が寂しく写る。
 旧R303に戻り、新道を帰る途次、F君が上から見た学校付近まで来ると横山岳を仰ぎたいというので停車した。その後もいい眺めのところで停車した。この山はやはり湖北の名山なのである。青畳に見えた青田付近からもよく見えた。日の長い時期ゆえに下山後も岳への思いが尾を引く。F君とはまた木之本ICで別れた。

岳人8月号届く2009年07月14日

 13日夕帰宅するとポストに岳人8月号が投函されていた。
 今月も前月に続いてP155の②ヤマビルを追うでヤマビルの全国的な取材調査の結果が掲載されている。
 ざあと流し読みした中で他にP188の「マカルー頂上の旗」が目に付いた。3月に病死した原真さんへの追悼の思いを込めた様な文である。同名の著書があるから原さんの死後改めて読み返すうちにこの文になったと思う。
 応募紀行の40年ぶりの鈴鹿・藤原岳も読ませてくれる。第一特集では「挑戦するこころ」が扇動的なくらいに大きい印刷である。たまには切り口を変えて冒険している、なと思える。編集者側こそ読者に迎合しない冒険が必要であろう。