西三河・岩根山561m(伊熊神社)を歩く2017年06月10日

おぶつなさんは産土神の意味とみられる
 緊急入院からほぼ1ヶ月経過、食欲の回復、ポタリングで大腿筋の鍛錬ともやってきた。まだ2時間3時間の山歩きは自信はない。
 ちょこっと、山を歩いてみようと、試歩の山として選んだのは西三河の岩根山(伊熊神社)であった。等高線を眺めてもほぼ円錐形の立派な山容が推察できる。山頂に三角点はないが、神社マークがある。

 国道153号から、堂ノ脇で左折する。旭高原元気村への案内板がある。惣田町で左折、加塩町からの道で右折する。しばらく走ると伊熊神社社叢へ案内する看板がある。頂上に至る車道で左折。軽四向きの狭い道を走る。どこかで歩き出すと思われたが直下まで行けた。しかし、未舗装になった辺りで車を止めた。歩きだしたらまた舗装になっていた。

 徒歩5分で登頂してしまった。これでは試歩にならない。
 頂上には杉の木立に囲まれた立派なお社が建っていた。これが伊熊神社である。右脇には大木があった。これも祠があり信仰の対象であろう。別社も建っている。裏手に回ると歩道になっていてぐるりと歩ける。裏手の大岩が何か曰くありげであるが何も説明はない。大きな黒御影岩に何かが彫られていた。

 おぶつな(奈の変体がな)さん凡てが凡て七十七の(以下判読不明)

 「おぶつなさん」をググるとと産土神のことであった。

「神道・日本語・日本文化を学ぶ」というHPには
「産土神(うぶすながみ)と氏神(うじがみ)は、世間一般では同じ意味で使われる場合が多いのですが、本来は異なる神として立て分けるべきです。

 産土神(うぶすながみ)とは、土(すな)を産み出す神、大地を始め万物を産み出す神です。
 産土神は、日本神道の神とのみ限定してはいけません。

 日本に限らず、地球上、大地ある限り、その土地に産土神(うぶすながみ)がいらっしゃる。神道であるとか、キリスト教であるとかに関わりなく、地球全土に産土神がいらっしゃるのです。

 この産土神が、その土地をお守りなさいます。
 つまり、その土地に生育する作物、植物、河川、その他の自然物をはじめ、その土地に住む人間の生活全般に密接に関わる働きをしておられるのが産土神です。

 氏神(うじがみ)とは、氏一族があって、その一族を守護する神のことです。
 先祖のみたま祭りをする際には、先祖のみたまたちと、その奥にいらっしゃる氏神様とを、お呼びしてみたま祭りをお仕えします。

 また、先祖のみたまが、あの世で修行を積み重ねて神格化なさると、その家の氏神の一柱となることもあります。」とあった。

 岩根山は産土神の山であったのだ。恐れ多くて三角点など埋設できなかったのだろう。
 それで社殿に近づいて参拝した。すると額がかかっていた。由緒書きである。
 社伝はこの山人らの信仰の歴史を伝えている。
 
一 村社伊熊神社ハ伊熊字笠松ノ海抜千四百尺ノ山上ニ鎮座ス勧請年月は未詳仁治三年再建寛政十年白山大権現ノ称号ノ神祇官統領神祇伯王ヨリ賜リツ安政四年四月正一位ノ位階ヲ賜ハル明治六年大権現ノ称号ヲ廃セラレ村社格トナル大正二年三月村社琴平神社ヲ本社二合祀ス大正八年八月十二日幣帛供進ノ神社ニ指定セラル

一 祭神
菊理比賣命
大物主命

一 境内反別
壱反五畝拾歩

大正九年九月二十七日
以上
 白山大権現とはウィキによれば「白山権現(はくさんごんげん)は白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、十一面観音菩薩を本地仏とする。白山大権現、白山妙理権現とも呼ばれた。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の白山権現社で祀られた。」
 明治6年の廃仏毀釈が仏教と神道を分離してしまった。伊熊神社はかつては白山信仰の拠点だったと思われる。
 「全国の白山権現社の多くは、菊理媛神を祭神とする神道の白山神社となっている。」そうだ。社伝の琴平神社とは大物主命を祭神とする。すると別社がそれだろうか。大正2年の合祀だから比較的新しい。
 こんな小さな神も長い間には結構な波乱の内に鎮座してきたのである。

 小さな山上を一回りすると下山するのみであるが、鳥居の下へ本来の参道が下っていた。地形図では北東へつづく尾根である。それをたどると数分で下の鳥居に着いた。そこには馬頭観音(昭和六年十二月十日の碑文)など3体が建っていた。さらに山に向かって右側に細道が続いていて辿ってみると林道終点に着いた。これも参道だった。
 地形図の破線路も今は林道になったばかりだ。かつては峠道であった。右下に上伊熊の家が見えたので明瞭な山道を下ると草刈り中の人がいた。住民である。猪用のわなの檻の草を刈っていた。2日に1回は来るそうだ。捕まえても食べず、埋設するだけという。伊熊神社の里宮はないらしい。登り返すとさらに反対側にも山道が下っていた。昔は山道で行き来していたのである。
 愛知県の伊熊神社社叢の看板があった。植林の多い愛知県にはこれでも貴重な神社の杜として保存されている。
 参道を登り返した。途中には大岩があり、またまむし草も多かった。地質は花崗岩と思われた。山麓近くまで水田が拓かれているのは水が豊富な証拠である。

*自宅に戻ってから5万の地形図「明智」でチエックしたら平成元年6月18日に登った記録の書き込みがあった。下の鳥居の右側の道から登っていた。全く記憶にない。

俳句と越の小さな山旅2016年10月11日

 10月9日。所属結社「辛夷」のイベントに参加するため、早朝2時に自宅を出た。今年も天気の良くない連休になった。東海北陸自動車道の長良川沿いの道になると降雨が激しくなった。しかもトンネルが連続するのでワイパーの操作が面倒なほど。白鳥ICの手前では豪雨となった。時速60kmに減速し、4WDにONしておく。路面の水量次第で4WDでもハイドロプレーニング現象が起きる。対策は低速で走るしかない。高鷲ICからやや大人しくなる。ひるがのSAで仮眠。飛騨清見から高山ICまで走りR41へ。交通量は多め。
     大山歴史民俗資料館へ
 富山市内に入り立山方面へ右折、旧大山町から常願寺川を渡ると立山町だ。常願寺川はいつも見る氾濫河原が隠れるほどの濁流である。両岸の堤防はここから始まっている。両岸一杯に広がって海まで突進するようだ。
 下流の雷鳥大橋の河川内の標高は115m、左岸(西)の富山地鉄・月岡駅付近の三角点は86、9mですでに天井川になっている。右岸(東)の立山町側は123mで少し余裕がある。つまり、富山平野の東部は常願寺川の氾濫がもたらした。夥しい土砂は五色が原の鳶山の大崩が原因らしい。旧立山温泉は立ち入り禁止になり多くの砂防堰堤が建設されている。
 いつもの道の駅兼コンビニへは7時半に到着。9時まで時間をつぶす。目的地は亀谷温泉の大山歴史民俗資料館だが、小止みになったので雄山神社に寄る。境内を歩く。隣には富山県立山博物館がある。9時過ぎたので大山歴史民俗資料館に向かった。道を少し戻る。山猿が数匹民家の屋根に上ったり道路に下りて何かやっている。常願寺川にかかる小見への橋を渡る。砂防堰堤が滝のようになって奔流する。地響きが聞こえるようだ。小見から亀谷温泉へ右折。九十九折れの道を登りきると有峰林道ゲートの手前が目指す資料館だ。
 今まで登山の帰りに温泉に入湯することは度々あってもここへ寄ることはなかった。時刻少し前だが入館を許された。いきなり伊藤孝一が有峰がダムに沈む前に買い上げた狛犬を見たいと来観の意思を告げた。奥に展示してあるが順路と言うものがある。右回りに説明を聞きながら色々質疑応答して学ばせてもらった。
 想像した以上の山や向きの資料館だった。
 第一展示室では宇治長次郎、金山穆韶(ぼくしょう)、播隆上人が大山町の三賢人として顕彰されている。
 第二展示室は常願寺川の治水と発電、
 第三展示室は有峰、大山地域の鉱山・恐竜となっている。念願だった狛犬は全部で八体展示。太めの犬くらいの大きさで木質系の荒削りな造形である。円空仏のイメージにそっくりである。すると有峰の住民の先祖は単なる農民ではなく、落ち武者だろうか。円空は木地師とされているが、流れ者の木地師に彫らせたものか。
 放射性炭素年代測定という科学的検査で古いものは大体1300年頃と判明したらしい。いずれもひびが入り朽ち始めていることは確かである。パンフレットには
サル 2体 1334年鎌倉末 ヒノキ科
シシ  2体 1452年室町前 軟松類
ヌエ  2体 1531年戦国期 軟松類
クマ  2体 1814~1879年 江戸後~明治初  モクレン科
とあった。
 これを大正9年にダムに沈む前に名古屋のお金持ちで登山家の伊藤孝一が購入したという。一旦は名古屋に持ち出され、疎開で長野県の赤沼家へ一家とともに狛犬も移転した。これを赤沼氏が買い取って松本市民俗資料館に寄贈したという話。それを松本市から富山市は返還を希望して里帰り(有峰は水没したのでJターンというべきか)を果たしたのが平成になってからのことだった。
中々に存在感のある狛犬であった。結構長々と話をした。次の目的地の富山市電気ビルに走った。
      富山市俳句会へ
 13時から年次大会に入った。結社賞などの発表、投句の選評、その後の懇親会、句会など順調に運行された。40歳で入会したころは初代主宰の前田普羅から直接指導を受けた俳人もいた。年々鬼籍に入り、来賓席にならぶ古参俳人は当時の数名から2名にまで減った。1人は2代目主宰の中島正文(俳号:杏子、日本山岳会会員で山岳史家)の直系の俳人である。3代目の福永鳴風を支えた俳人たちが基盤を守って、4代目の現主宰・中坪達哉を支える。俳誌も現在は1080号を数える。来年は主宰継承後10周年となる。
 この10年間には東京のS女を病死で失い、続いて片腕というべきY氏の急死という波乱にも見舞われた。いずれも結社を支える実力は互角の有力俳人だった。3代目の福永鳴風は昭和55年「花辛夷守らせたまへ普羅杏子」と詠んで、指導者に徹する意味でレッスンプロを自認し、継承の決意を示した。鳴風が育てた若手4名のうち2名を失った。将来の発展のための布石を打つ時期が来たと言える。句会後は散会となる。
       氷見市/七尾市・蔵王山(点名:高坂山)へ
 10月10日。本当は7日から8日は毛勝三山の猫又山に登山の予定だった。天気不良、膝の痛みを警戒して大人しくした。10日は降雨は逃れそうなので昨年と同じ能登半島の1等三角点の山・高坂山507mを予定した。
 ホテルを出たのは寝過ごして8時40分となった。R8からR415へ行き、氷見市に向かう。なるだけ富山湾沿いにドライブした。氷見市の北部の阿尾から県道306号平阿尾線に入り七尾市との境界に近い平に向かった。平は氷見市最北の山村であった。つまり富山県最北でもある。入善町や朝日町とほぼ同じ。
 平とは名ばかりで傾斜地に山家が建つ。地形図では20戸を数えるが人の姿は殆どない。こんな僻村でも人が住んでいた。富山県知事選挙の公報があるからだ。どこにも登山口を見いだせないまま石川県まで走ってしまった。林道からは富山湾を見下ろす。雪の立山連峰など素晴らしいだろう。
 平へ戻って古老に山の話を聞くと意外なことを言う。三角点か、有名らしいなあ、大阪や京都からも大勢来る、この前は80歳の老婦人も来たよ、と言うではないか。同好の士である。この山はねえ、1等三角点という希少価値があるんです、と言うとおおそれだ、と答える。歯はほとんどないがはっきりしている。道はなあ、笹を刈ったと聞いている、剣主神社に車を置いて行けや、と教えてくれた。どうやら登れるらしい。
 神社の境内に駐車。12時10分。舗装された農道を登る。舗装が切れた辺りからは棚田の風景が広がったが休耕田もある。登山口の表示を探すがない。農道から山に通じそうな刈り払いがあったがなぜか足が進まなかった。
 高坂山は目前にあり、東尾根が伸びている。農道から草深い踏み跡に分け入り、尾根の根っこまで近づいて地形図にある破線路(用水路沿いの踏み跡)を歩きながら尾根と落差が縮まったところで杉の植林の中を尾根に這い上がった。12時28分。尾根には微かな踏み跡があった。但し倒木もあり度々道を外した。ヤブっぽくなると道に戻る。すると七尾市側の良い道と合流した。広くて浅い沢のようないわば街道を歩いた。山頂が近づくと再び細道になる。13時登頂。3m四方が刈り払われているきれいな山頂である。1等三角点本点である。周囲は雑木林で眺望はほとんどない。25分滞在後、平へ30分とある道標のある良い道を下った。最初は南尾根の樹林の道から山腹を横切り、芒の生い茂る湿地帯を行くとさっきの農道へ出た。何だ、この道か。印は何もない。Pへ着いたのは14時過ぎ。2時間ほどのハイキングだった。
     石動山(せきどうさん)を散策
 まだ時間があるので石動山へも行って見た。そこは山岳信仰の拠点だったという。最高点の564mの大御前に登拝してみた。小さなお社があった。白山宮という。そこから城跡を経て下山した。樹林の隙間から富山湾が見下ろせた。結局医王山、宝達山と来て本当は石動山に置くはずだったが先に神社があって三角点設置はならず、高坂山になったのだろう。資料館のスタッフは白山宮ははくさんぐうで良いが、白山をしらやまと言った。昔は加賀能登も越の国であった。だから越の白山(こしのしらやま)と呼んだ。相当古い歴史の山のようだ。
 さて、思いは果たした。県道306号を戻ってまた富山湾沿いに走った。虻ヶ島からの立山連峰の眺めが素晴らしいと宣伝する表示があった。
http://www.info-toyama.com/image/index.cfm?action=detail&id=1124
このサイトを見ると確かに素晴らしい眺めだ。剱岳を中心に左に毛勝三山、右に立山が見える。湾に浮かぶ島が前景で立山連峰が借景になっている。こんな時期に来たいものである。今日はあいにく厚い雲の中だ。
 R160をひたすら走る。いろいろな観光施設が新しい。R160からR415を走り高岡市に着いた。R156から砺波ICで北陸道へ。今回は米原経由で帰名。
 これで『一等三角点全国ガイド 改訂版』(ナカニシヤ出版)に収録された1等は愛知県、岐阜県、奈良県、富山県、福井県は完全踏破、石川県は穴水の河内岳、輪島の下山村(三蛇山)と鉢伏山、七尾の天元寺(遍照岳)、宇出津の沖波山、小松の清水山が未踏。離島の1等3座は行かない。三重県は大平尾村4.5mのみ未踏。長野県は大物では四方原山、長倉山、八風山、が残る。

特別寄稿「歴史と信仰の山を訪ねて」を拝読!2016年09月24日

 このほど日本山岳会の年報『山岳』NO111が届いた。早速ページをめくる。巻頭記事は徳仁親王(皇太子殿下)の「歴史と信仰の山を訪ねて」である。
 殿下は5歳の時に登った軽井沢の離山を皮切りに山歴50年という。登った山の数は170余りとある。皇室ゆえの制約を考えるとよく登っておられると思う。
 お好みの山は歴史と信仰の山だとされる。中でも歴史的に登拝の道そのものに関心を持たれている。つまり汗を流してそれ自体を楽しむスポーツ登山にとどまらず、「私にとって信仰の山への登山は、過去を偲びながら歩む生きた歴史探索なのである」と書いておられる。
1白山
2両神山
3伯耆大山
4大峰山
5甲斐駒ケ岳
6御正体山
7権現岳(八ヶ岳)
8鳥海山
9伊吹山
10大山(神奈川県)
11茶臼岳(那須)
以上
 各山を思い出とともに語られている。確かに白山は大自然と信仰の歴史の山である。立山や乗鞍岳と違って観光開発は最小限に抑えられている。山体が大きく眺めも抜群に良い。高山植物も豊富であり、山腹にはブナ、トチなどの喬木が残る。何より登山道と言わず、禅定道という歴史の道が皇太子の心に浸みこむのだろう。
 冒頭の文に戻るが「私は山を訪れることにより味わう大自然との触れ合いに大きな魅力と喜びを感じる。山に入るといかに人間が小さく大自然に対し無力なものであるかを感じるのは常である」、「私は、比較的静かで山体の大きい山を好む」と言われる。皇室の方とはいえ、日本人として共通の認識を抱いておられることに嬉しくもある。

東三河・本宮山・・・宝川源流を登り、表参道を下る2016年05月28日

 7時30分、自宅を出る。空は曇りがちだ。東名はやや通行量が多い。豊川ICを出て旧一宮町舎の信号を左折。県道21の交差点で右折。ウォーキングセンターへは8時30分に着くがまたも駐車スペースがなく右往左往する。遅かったのだ。人気の山は遅出には厳しい。そこで宝川の方へ直接行くこととした。県道21へ戻り、宝円寺のシダレサクラの案内板で右折。2車線の道を走ると里のはずれで1車線に狭まる。やがて新東名のトンネルをくぐる。右へ曲がると林道が続くが、未舗装になった辺りでUターンして駐車。
 9時30分林道を歩き出す。延々と続く林道だがところどころには道標もあって確認できる安心感がある。勾配が急になった先で終点。右岸へ木の橋が渡してある。滑りやすい板に注意しながらわたる。ここも結構広く林道の残存かと思われる。しかし、いよいよ沢に近づくと山道になる。
 岩をからむ道を行くと前方に滝が見える。また左岸へ渡渉する。滝は左岸から巻き、右から落ちてくる沢を注意しながら渡渉する。勾配はますます急になったがちょっとした平らな休み場に着いた。480mという。駐車地点で見た二人連れが休んでいた。
 国見岩まであと0.5kmとある。炭焼き窯の跡がしっかり残っている。戦後、石油が輸入されるまでは木炭は高く売れたという。だからこんな高い山奥まで炭を焼きに来たのだろう。
 ここから右の源流の音を聞きながら登ってゆく。かなりの勾配である。木の階段でステップを踏みやすく整備されているから安心である。そして、鎖場の連続するもっとも勾配の急な斜面をよじ登る。鎖は最初は2本で終わった。落石に注意しながら登ってゆくとまた鎖が現れた。大きな岩を直登するコースと迂回するコースに分かれたので迂回する方向に振った。その先にも道標が立っている。一方は林道へ、国見岩へと分岐する。その先でも鎖場をしのぎながら行くと鎖の三叉路になった。さっきの直登コースが上がってきたところだ。上から下山してきたので譲ると直登コースを下る。聞くと下に岩戸神社があるという。それなら見逃すわけにはいかないと迂回コースを下って直登コースに上がるとなるほど岩の間に何か祀ってあり、水が出ている。ちょっと拝んでから直登の鎖をつかんで攀じ登る。左へ急斜面を登ってゆくと国見岩に着いた。短いながら手ごたえ十分のルートであった。
 ガイドによればこの岩の下部に岩戸神社があると説明されている。さっきのは岩戸神社じゃなかったのだ。
 赤い鳥居をくぐって山頂直下の広場に着く。更に奥宮順拝路へ行くと山頂へ左折して橋を渡る。すぐに山頂だった。表参道を下ると多くの登山者とすれ違った。さすがはメインルートだけはある。大杉の林立する厳かな雰囲気を味わいながらくだった。途中に水場は2箇所あり、登りでも下りでも水筒の要らない山だなと思う。そのせいか、砥鹿神社境内の自販機は100円だった。
 基本的に展望のない尾根の一本調子の登り下りになる。それに飽きさせない工夫かどうかは知らないが、山姥の足跡、蛙岩、梯子岩、馬の背岩などの仕掛けをしてあった。
 ウォーキングセンターに着いて、マイカーデポ地まで行く。素戔嗚神社を経て宝円寺を見て歩く。農婦としばし世間話する。本宮山松源院の話も聞く。更に歩くと新東名も見えてきた。やれやれだ。W・Cから約40分だった。本宮の湯で汗を流した。帰路は県道21、R1、県道57、県道56とつないで走った。それでもまだ明るい。夏至が近づいてきたなと思う。

東三河・本宮山に立つ2016年05月15日

 今日も遅れがちの出発になった。右ひざの疼痛が気になるが晴れているので行ってみることにした。
 新東名を走った後で東名を走るとずいぶん路面が荒れていることに気が付く。新東名は滑るように走って行ける。クルマの性能がよくなったみたいだ。東名は凹凸があるわ継ぎ目の音がするしで長年の酷使に耐えてきたんだと思う。
 豊川ICで降りる。R151を走り、北へ向かうと、薄いガスがかかるが、本宮山が立派に見える。砥鹿神社近辺からは三河富士というように左右に均整のとれたいい姿になる。
 そろそろ梅雨の季節に入る頃だ。
 コンビニで買い物をする。レジのシートには合計789円とある。店員に「あれっ、今日は本宮山に来たんだけれどこの数字は標高と同じ」、と言ったら笑っていた。偶然の一致とはこのことだ。但し、登山口まで来るには来たが、Pは満車だった。平日でも登山者の多い山とは聞いていたがこれほどとは。結局、右ひざが悪いことにかこつけて休戦とした。
 そのまま帰るにはもったいないのでスカイラインを経て山頂だけでも踏んで帰ることにした。R151からR301を走ると新東名の下をくぐる。本宮山の山裾をトンネル9箇所が貫通していて、雁峰第一トンネルから観音山トンネルまで1/9から9/9とナンバーが振ってある。一番長いのが本宮山トンネルで2km余りある。信仰の山もズタズタにされた。
 R301からスカイラインに左折すると山上へ登る。こっちの道の方がもっとダメだ。駐車場からは砥鹿神社に行けるが今日はパスして、1等三角点を拝みに行く。頂上にはまだ天測点が設置されていた。奥美濃の大洞山は撤去されたというから貴重な存在である。一等三角点の標石も右書きになり新しく、改理された。標高も古いガイドブックなどは789.2mであるが、0.1mアップして789.3mになった。多くの登山者が続々登ってきた。やはり人気の山である。Pに戻り、くらがり溪谷に下った。こちらも結構な観光客を迎えていた。
 一等三角点の山は信仰の名山であること、展望がいいことから観光開発が盛んである。近年は電波塔も林立する。伊吹山、越戸大山、養老山、御在所山、大台ヶ原山、乗鞍岳、、鉢盛山など人気者ゆえに犠牲も多い。

初詣登山2016年01月01日

 新年明けましておめでとうございます!

 早起きして、名古屋駅8時37分発の近鉄特急宇治山田行きで宇治山田駅へ行き、普通に乗りかえて朝熊駅で下車。10時50分、駅から伝統のある朝熊岳への登拝道を歩きました。途中で87歳の高齢のハイカーを抜きました。元気そのものです。いつまでも登山できる体力を維持していきたい。昔のケーブルの軌道跡を橋で渡る。尚も植林の中の道を登る。上から単独の人や家族連れが空身で降りてきた。
 朝熊峠で12時となり、とても眺めが良いので昼食。ここには昔、東風旅館という山宿もあったとか。峠から555mの山頂へ最後の登り。山上からは大展望でした。
 一旦下って金剛證寺に向かう。掃き清められた境内は淑気が漂う。ここで靴を脱いで、登壇し、参拝した。奥の院はパス。経塚の建つ経ヶ峰540mへ登り返し、朝熊ヶ岳の山腹を巻いて峠に戻った。
 峠からは狭い車道を歩く。これは昔の宇治岳道。子供の頃、小学生の同学年の母子づれで、よく鳥羽や伊勢に連れて行ってもらった。この山も多分、この道をバスに乗せてもらって登った気がする。所々には石垣が残り、茶屋の跡らしい。
 冬木立の中に1等三角点と天測点を見つけた。現在では利用されないが、地形図の測量史上、希少価値がある。少し先に御料局の標石を見た。この先はスカイラインと交差しながら、照葉樹林の木立の中の登拝道をだらだら下る。途中には小型トラックが放置してあった。下りきると、伊勢神宮を司る神宮司庁の境内に入る。道標はないので、地図で確かめて、職員等のマイカーが駐車してある建物を通り抜けると善男善女で溢れる参道に出た。遷宮時には参拝できなかったので、今日が初めてである。
 帰りにはお神酒をいただき、宇治橋を渡り、赤福餅を賞味した。おかげ横丁を横目に見て、近鉄五十鈴川駅までの徒歩は足に応える。約16kmの道のりを踏破した。17時10分の名古屋行き特急に乗車。

    伊勢の海航跡白し初御空

    山寺に踏み入れて満つ淑気かな

    朝熊より内宮駈ける初詣

    冬の日を浴びて嬉しき石仏

    登山後の体に甘きお神酒かな

    乙女げに少なくなりし春着かな

松平郷から天下峯を歩く2015年12月12日

 過去の記録  王滝溪谷から天下峯を歩く
http://koyaban.asablo.jp/blog/2009/10/22/4647334

 以前は王滝溪谷から歩いた。今一歩きでがないので、松平郷から試みた。
 9時30分過ぎ、名古屋を出発。東の空は雲が厚い。暖かいので空気が湿っているのだろう。R153は流れもよく、豊田市をスムーズに通過できた。R301になり、矢作川を渡る橋で、流れが渋滞すると、ふっと目の前を見ると、目の前に焙烙山と六所山が並んで、屏風のように聳える。
 10年前の合併で豊田市最高峰の名誉は剥奪されたが、豊田市民には朝な夕なに眺められ、親しまれている里山である。天下峯は前景に埋没して同定はできない。
 R301は丘陵地を越えて、東海環状の豊田松平ICを左に見て下ると巴川にかかる松平橋を渡る。右折し、案内にしたがって左折する。豊田松平ICから7kmで松平郷への案内板のある三叉路に着く。左折するとPとトイレがあるが、松平東照宮や高月院はまだ奥まで走る。11時前に着いた。
      松平郷・沢連(そうれ)の山里を歩く
 今日は休日なので農産物を売る露店が開店していたので白菜と里芋を買った。車はまばらにある。すでにシーズンは過ぎて閑散としている。しかし、名残りの紅葉も素晴らしい色彩を見せる。11時過ぎ、身支度を整えて、天下峯に向かう。六所山への登山口を右に見送り、高月院への道も見送る。車道歩きである。坂道を歩くと左に在原家のミニガイドがあるが、下山後に見送る。
 登りきった三叉路を右折。セメントのよう壁の前後に枝道があり、下は高月院への近道と石碑があった。
 ぐんぐん急な坂道を登ると二股になるが道標を見て直進。暖冬のせいで道路わきのツツジが狂い咲きしている。右折の道も上部で合流する。一軒の住居と建物があるが行き止まりだ。ここからヘアピンのように左折する。車道の幅はあるが通過は困難だろう。
      六所山を遥拝する東宮口へ(ひがしみやぐち)へ
 荒れた舗装から地道になり、きり開きを越えるとまた舗装路になる。桧、杉の植林山の山腹を巻く感じだ。残された渋柿がたわわに実っている。照葉樹林の青、雑木林の彩り、針葉樹の植林と変化する。車道は一旦下って軽く乗り越す。ほとんど平坦な道になった。そのまま歩くと六所神社のある東宮口に着いた。東宮(とうぐう)とは皇太子の意味があるが、橋の名前のところに地蔵橋とあり、宮口川とあったので宮口の東の意味か。
 ここは六所山の麓であり里宮である。農村舞台もある。あるHPにはかつては宮口村といい、社領だったという。村の氏子二人が毎月二度、上宮(うえみや)清掃の当番に当たる、と書いてある。宮口音頭まであるそうだ。数分下ると、坂上町字金姓(かねしょう)の地にある下宮一の鳥居が建っていた。鳥居からは六所山が背景に見える。あの山は明神山(六所大明神)とも呼ばれたが、山全体が御神体であり、古代からの遥拝地なのであった。なぜかここだけが残されたのも神聖な場所だからだろう。
     神聖な六所山遥拝の地を育む水田
 それにしても仁王への分岐にある宮口川の橋から眺める六所山は素晴らしい山容である。三河三霊山(三河本宮山、猿投山)の一つというだけはある。緩やかな丘陵地形に挟まれた谷の風景は、鎌倉市辺りならば谷戸(やと)という地形である。多すぎない水量の宮口川は美しい水田を潤す。地形図を眺めると六所山の西麓だが、南側の山が低く、朝早くから陽光に恵まれるのだろう。そして水田を北側に集約し、宮口川を南の山陰に寄せて流す。北側に民家も寄せているが、背後からも小さな流れがある。制御しやすい湧水は農業に助かる。
 十二月の今は穭田(ひつじた)になっている。地味が豊かで今にも生育しそうだ。「刈り取った稲の株から再び生えてくるひこばえを穭(ひつじ)といい、一面に穭の生えた刈田を穭田という。乾いた田の面を吹く風に弱々しい青い葉が揺れているのは晩秋の寂しい眺めだが、中には青々と葉が茂って、小さな穂をつけるものもある。枯れ果てた四囲の景の中でその青さは目にしみるが、やがて霜が来ると白々と枯れてゆく。それまでの間、穂をついばみに」降りてくる小鳥の声がしばらく穭田ににぎわいとなる」(水原秋桜子編『俳句小歳時記』大泉書店 より)
 六所山は農の恵みを与えた山だった。
     仁王から天下峰へ登る
 宮口川に沿う細い車道を下ると仁王に着く。ここが天下峯の登山口になる。王滝への道から右折すると民家が肩を寄せ合うように建っている。奥まで歩き橋を渡る。奥の民家で行き止まりとなるので細い山道に右折する。すぐに安全寺に着く。松平親氏が天下泰平を祈願したという謂れが書いてある。山門には天下山とある。
 奥へ入るのは略してそのまま植林内の山道を登る。細い車道に出ると天下峯への小さな道標がある。車道を登って行くとほどなく天下峯への山道が分かれる。楓の冬紅葉が美しい。右はフリークライミングのゲレンデに直行し、上部で左折する。そのまま車道を行くとトイレとPがある。すぐ右手に天下峯への山道が登って行く。
 どちらでも良いがこちらの方が少しは短い。周囲は巨岩の並ぶ急峻な山腹である。その所々に石仏が安置されて心休まる。クライマー達は大きな取り付くシマのない巨岩に取り付いて攀じ登る。その横をすり抜けて階段状の道になるとすぐに巨岩の横たわる頂上である。13時少し前に着いた。
 頂上からは豊田市の市街地も眺められるが、何といって六所山の眺めが良い。左には兄貴格の焙烙山も並ぶ。少し背が高いが山格は六所山に及ばない。松平親氏はここからやがて天下を治めるぞ、と祈願した。企業経営者なら何々で日本一になるぞ、とか、願うことだろう。トヨタが日本一から数十年で世界一を実現したように願わないと実現もしない。13時30分過ぎ、下山。
     東照宮へ
 元の仁王へ戻る。361号を王滝へ歩き、橋を左折。豊松小学校のある峠道を越えて360号へ下る。少し登り返して東照宮へ2.3kmの案内のある車道を歩く。羽明という山さとを経て登ると沢連(そうれ)に着く。往きに見た在原家の墓所のある在原山に寄った。在原家は松平の遠祖という。徳川さんは先祖を大切にしたんだろう。
 車道を下ると松平郷に戻った。山頂から東照宮まで約4kmで1時間程のこと。ほぼ4時間弱の山里ウォーキングでした。東照宮には大勢のハイカーが説明を聞いていた。Pには大型のバス1台があり団体さんらしい。閑散と思っていたが意外にも午後から来訪する人が多かったようだ。

JR三ヶ根駅から登る三ヶ根山2015年11月21日

 これまでは大沢から2回登ったが、お散歩程度で下山するので、マイカー登山ではいかにも物足りない。そこで電車を使って、駅から駅へとハイキングを企てた。
 標高14mの海辺に近い名鉄の西幡豆駅から登っても比高336mに過ぎない。三ヶ根駅の標高は60mくらいだから、比高250mから290mなので飛ばせば、ほぼ1時間程度の登りになる。但し、乗り換えの無い三ヶ根駅から登ることにして、西幡豆駅へ下る予定で出かけた。
          各駅停車の鈍行で西三河へ
 金山駅を7時51分の普通に乗車。840円也。快速や急行に追い越されてのんびり鈍行の列車旅を楽しむ。三ヶ根駅には定刻どおり8時59分に到着。人間ばかりの繁華街から田園の広がる田舎に着いた。人は少なく道を問う人さえ見かけない。
 ローソンで若干の食べ物と飲み物を買う。県道41号を行き、深溝苅谷門の交差点から県道322号に左折する。500mほど軽く登ると峠状の乗り越しになる。ホテルを越した先に登山口の道標を見出す。
 9時28分に登り出す。笹が刈られて幅2mくらいの細道が奥へ続いている。すぐに右からの道を合わせるがこれは車道で行き止まりになっている。3台から4台は止められる。周囲は桧の植林の幼木が密生している。山道もここから狭くなり、一旦谷の奥まった所から尾根に取り付きジグザグの急登が始まる。10分ほどで尾根に乗ると照葉樹林の植生に変わった。落葉しないので冬でも見晴らしはなく薄暗い。日光が届かないせいか、地面は笹も草藪もなく快適に歩ける。体が温まっても北風が吹き抜けるので丁度いい加減のコンディションだ。たまにある樹林越しの見晴らしから岡崎市街が見渡せる。
 標高219m辺りから上り下りを繰り返す。前方に三ヶ根山の一角も見える。ここで下ってくる男性に会った。片手に何かの道具を持っていた。多分自然薯掘りの道具だろう。先の方で穴を掘った跡があったからだ。
 10時30分。一旦軽く下って登りかえすとコンクリートの建屋に着いた。これがかつては愛知県で最初に開業された三ヶ根ロープウェイの終点駅跡だ。昭和38年に開業され、昭和51年に廃止された。年間220万人もの観光客を集めた愛知県有数の観光地も今は草深く埋もれる。ネットで見つけた名鉄のPRのユーチューブだ。
 「懐かしの名鉄グループCM」0:30秒辺りから0:55秒までが三ヶ根山観光PRになっている。
 https://www.youtube.com/watch?v=zQmeCbybWRU
 私も十代の頃、勤務先の忘年会で形原温泉に行った記憶があるが、今はどうなっているのやら。
 跡地からは蒲郡市街地や三河湾が見下ろせる。ここで10分間休憩とした。すぐ近くに形原温泉に下る山道の道標がある。やや草深い感じだ。しばらくで三角点へ行く案内板があるので左折。やや草がかぶさるが歩ける。平坦地にはなにもない。2枚目の道標で左の尾根へ下る。すると右にスカイラインと接する辺りに3等三角点が埋まっていた。何も見えない。ネットでは不明という記事を見るがここまで下る前に諦めるのだろう。往復10分で分岐まで戻る。
 すぐにスカイラインに出た。スカイラインは徒歩で歩けないので、車に注意して横断し、「ゆうとぴあ三ヶ根」に行く。観光地としては寂れたが現在も営業中である。山上では唯一の飲食店になる。ここでは慰霊碑のガイドもかねておられるようだ。そのまま三ヶ根観音まで歩く。比島観音や数々の戦争慰霊碑を経て、11時05分、展望台に着く。かつては名鉄グランドホテル・回転展望台が営業していた場所だ。(ユーチューブ参照)今は駐車場とトイレ、ベンチなど簡素な園地に変わった。
 ここからの景色は昔も今も変わらないままであろう。そのまま脇道を歩いて行くとアイシン精機の保養施設の前を通過してスカイラインに合流。アサギマダラ飛来地の案内塔が建つ。ここも通過車両に注意して横断。荒廃した観光施設の前を通り、向こう側の芝の園地に行く。「三ヶ根山」の石碑があり、あじさいや幹の分かれた珍しい桜が植えてある。その先のコンクリートのベンチがある園地で昼食とする。11時20分から40分昼食タイム。
 園地から下ると、目の前に大きな電波反射塔の建つピークが見える。左はスカイラインで、広大なPがある。右へは「殉国七士廟」への案内がある。ハイキングコースもここで西幡豆駅と東幡豆駅とに分かれる。左へは三河湾を見下ろしながら、スカイライン沿いの歩道を下り、東幡豆駅に下る。右は殉国七士廟に立ち寄って、小野ヶ谷下山道に行く。今回は右に振る。電波塔をめざす。
 分岐からすぐ車道の左からの階段の道を急登する。標高350mの最高点に達するが、東半分が開けて、三河湾方面に眺めはあるが360度の大展望というわけではない。車道を下ると元の道に戻れる。
 「殉国七士廟」へは広い車道を歩く。左の林道への分岐に小野ヶ谷下山道の案内板がある。とりあえず、殉国七士墓にお参りする。駐車場から右へ分岐する林道との辺りに四等三角点「三ヶ根」が埋まる。墓地ではボランティアの人が2名掃除中だった。思わぬ珍しい話を聞いた。私もネットで知る限りの断片的な知識で応じたが深い話に感心する。今回はお町さんの碑にも寄らせていただいた。満州の悲話である。
 小野ヶ谷の道まで戻り下る。延々とした林道歩きが続くが、スカイラインで車の排ガスを浴びながら下るよりは良い。地形図通りの曲折通りに下ると小野ヶ谷の山麓に着いた。そこで橋を渡るのが間違いで八幡へ行き、とんだ遠回りになった。素直に川沿いに行けば西幡豆駅の「はず」だった。駅に着いたのは2時28分で29分発の電車に間に合わなかった。約40分はロスしただろう。駅前の店で缶ビールを飲みながら時間を潰すと30分後に電車が来た。ワンマンカーだった。廃線寸前の様相である。山も海も寂れてしまったのか。
 ホテルはグリーンホテル三ヶ根以外はみな廃業。数多の慰霊碑だけが未だ人を呼ぶ。しかし、これとて、戦争体験者や語り部も高齢化して僅かに残るのみという。
 傍らの同行者曰く、中国や韓国から観光客を呼ばないとねえ、という。こんな慰霊碑群を見たら中国人が何と言うやら。左様、反戦をいわずして、反戦の山になったのだ。二度と戦争してはならない。

アサギマダラ舞う三ヶ根山へ2015年10月18日

 前回登ったのは3年前だった。今回も大沢登山口から登った。
http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/04/30/6430548
 というわけで、現代史の現場を観察に行ったのでした。

 今回は膝の故障の回復具合を確かめることもあって短時間の軽い登山道で試歩とした。ストックは使わなくてもバランスを崩すような痛みの再発はなく、回復途上にあるようです。
 前回と全く同じコースを歩きましたが、展望台からの三河湾の眺めは良かったが天気が良すぎて、もやっており、写真の出来栄えは良くない。
 殉国七士之廟では、マイカーが多数停まっていて、恒例の行事の最中でした。手前の石仏の並ぶ林内にも清掃され、白菊が供えてありました。最奥は行事の参列者で埋まっていたので、写真を撮影して下山しようとすると、地元のおばさんから柿の入った一袋をいただきました。通りがかりのものにありがとうございます。
 そして、林道を下り始めた。沢沿いの湿った辺りに野花が一杯咲いているところで何やら乱舞しているのが見える。良く見るとなんとアサギマダラでした。比較的大型の蝶でした。そういえばスカイラインの一角に「アサギマダラ飛来地」の塔が建っていました。看板に偽りなし。
 アザミの花に長居して蜜を吸っているんでしょう。しっかり写真に収まりました。三ヶ根山とアサギマダラはその道の人には良く知られていました。
http://www.srs21.com/3d_insect/asagi_pages/asagi-024-sanganesan.htm

 ここに集結してから沖縄、奄美、台湾に渡った個体も確認されている。素晴らしい自然の力と不思議の世界でした。

 昭和50年に発刊された『旅とハイキング』(アルプス社)の三ヶ根山のガイドを読むと三ヶ根山ロープウェイがあったことが分かります。スカイラインはロープウェイの終点まで通じていた。今も廃墟が残っているらしい。昭和58年発行の同社の道路地図「ビジネス愛知88」には休止中になっていた。以下を読むと栄枯盛衰は人の世の習いと思うだろう。
http://hazu-net.com/index.php?%E4%B8%89%E3%83%B6%E6%A0%B9%E5%B1%B1%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%97%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4#navigator
 次回はロープウェイの終点の廃墟と三角点に寄りたい。以前には無かった名鉄駅、JR駅からの各ハイキングルートの道標も整備されている。2つの駅を結ぶハイキングも良い。三ヶ根駅から西幡豆駅とか。スカイラインがあるというのに矛盾した動きだが悪いことではない。続けて、スカイラインと交錯しない縦走路を開削して欲しい。
 尚、大沢から県道41へ出る際、「古三ヶ根山登山道 是より十九丁」と彫った道標が建っていた。昔から三ヶ根観音へ登拝の盛んな霊山だったことが分かる。信仰と英霊の眠る三ヶ根山は中々に名山だと思う。

恵贈!安藤忠夫著『底本 笈ヶ岳を行く』2015年09月07日

 9/6に山から帰宅すると、郵便受けに分厚い本が投函されていた。開封すると表記の本だった。
 著者の安藤氏は県立春日井工業高校の教員を長く勤められた。私家版だが、自製でもある。自分で製本を趣味としてやっている。近頃珍しい箱入りの布張りの美本に仕上げてある。日本山岳会、日本山書の会を通じても、山書の収集家は居るが製本にまで乗り出すような人は居るまい。
 笈ヶ岳は飛騨・越中・加賀の三国境に位置する1840m級の低い山に過ぎない。隣の一等三角点の大笠山の方が山容でも立派に見えるのになぜか、登山者の熱い視線を浴びてきた山だ。それは深田久弥の『日本百名』のあとがきの40座の中の1座に入ったからであろう。登っておれば日本百名山の1つに入れたほどの名山というわけだ。
 安藤氏は笈ヶ岳に1986年5月11日が初登であった。以来、2004年までの19年間にわたって研究的に各尾根ルートをトレースしてきた。その度に記録を残した。もちろん文献収集と研究は安藤氏の本来の志向である。本書はその集成である。
 山は数多あるのになぜこんなにも打込んだのか。名山なのに登山道や避難小屋もないことで、未知の探求心を満足させてくれたのである。元々、安藤氏は冬の北アルプスの単独登攀をエリアにしてきたが、何分、北アは困難であるが登山者が多い。情報も過多でもある。だから北アルプスに登る力がないから1000mも低い笈ヶ岳で代償として登山しているわけじゃないのだ。

 安藤先生との本を介した交友は長きに亘る。『名古屋からの山なみ』、『名古屋周辺山旅徹底ガイド』の正続では編集者になり、私も委員としてお手伝いした。平成7年に拙書『ひと味違う名古屋からの山旅』を共著で企画した際、安藤氏も高峰山、銚子ヶ峰、今淵ヶ岳、鑓ヶ先、横山岳、続編では、虎子山、権現山、平成山(へなりやま)などを引き受けていただいた。本書を読んだ友人等に感想を聞くと安藤先生の文が一番人気だった。登ること、書く事、製本すること。今西錦司、深田久弥、串田孫一ら先達もびっくりの山道楽を極められたのだ。
 こんなに優れた本なのに一般刊行されないのが惜しい。一山だけに絞ったいわゆる笈ヶ岳オタクにしか需要がないから商業ベースには乗らないのだろう。登ったらもう終わりで、次の山へと心変わりしてゆくのが一般的登山者というもの。
 『日本百名山』朝日文庫版の解説者として今西錦司が良い山だと知っても、秘すべきが山と私の約束だ、という登山家もいる。先輩の故・上田正さんは、知られざる良い山を本で紹介するのは手塩にかけて育てた娘を嫁にやる心境だとも表現した。山屋とはかくも複雑な心情である。すると安藤氏も箱入り娘を嫁に出す父親といったところか。大切にしたい。

http://koyaban.asablo.jp/blog/2011/09/05/6089703

http://koyaban.asablo.jp/blog/2012/10/01/6589916

http://koyaban.asablo.jp/blog/2013/10/15/7009823