奥秩父の山岳ドライブと寺社巡り2024年07月07日

 奥秩父で車中泊。昨夜の道の駅 両神温泉薬師の湯は温泉はグッドだった。ところが標高は約300mで寝ていると暑いだけでなく、蚊もブーンと襲ってくる。

   就寝の我を襲うや蚊一つ

 これはたまらんと撤退。標高の高い道の駅 大滝温泉に移動した。ここは標高400mと大した違いはないようだが蚊が来ない。敷地も広大でその割に車は少ない。
 バックドアに棒を挟んで少しは外気を取り入れて見た。疲れもあってか、夜11時に目が覚めたが後は午前5時までぐっすりだった。
 顔を洗ってすぐ出発。目的地は三峰神社である。両神山登山は暑さと帰路の疲労を考慮して断念したので観光寺社巡りに変えた。

 奥秩父の中心地に三峰神社があった。両神山の真南、甲武信岳の真東、雲取山の真北に位置する。R140を走って左折。ダムの堰堤上の細い道をそろそろ走って広大な駐車場に着く。ここは標高1000m以上あり、親子連れが車中泊していたが寒かったという。半袖では寒いだろう。理論値は平地が35℃あると、6℃低いので29℃。夜は30℃に下がるだろうから24℃になる。
 雲取山の登山口にもなっている。三峰神社の境内は神杉に覆われた荘厳な雰囲気がある。朝6時台なので空気もひんやりと気持ち良い。本殿に参拝、大杉にも祈念。ヤマトタケルの立像も仰ぎ見る。東征と称して東国へ遠征した。
 Pへ戻る。7時を回ると続々登ってくる。R140まで戻ると甲府へのドライブである。調べがしてなかったので二瀬ダムから旧道のR140へ左折すると栃本へ行ける。荒川を堰き止めた秩父湖を見る湖岸道路である。
 栃本は昔十文字小屋に泊まった際にオーナーが栃本と言われた。今回は右折して有料トンネルがある新道を走った。
 奥秩父もみじ湖と名付けられたダム湖は中津川で荒川の支流になる。ひたすら山岳路を走るのみだった。カーブ、アップダウンなど変化に富む山岳ドライブの醍醐味がある。
 栃本への旧R140への分岐を見送ると合流する。有料(740円)の雁坂トンネルをくぐると山梨県側に出る。R140自体は秩父往還という山岳古道である。後は笛吹川に沿って下ると甲府に着く。R20を走り諏訪の諏訪大社上社本宮に参拝した。これで念願叶った。後は天竜川の主に左岸の地道を走って飯田へ。飯田からはR153で稲武、足助から帰名。
 途中で給油したが二日間の走行距離は851km÷(33㍑+51㍑)=10km/㍑。約11800円。

梅雨空に千木誇らしき奥の院(日野山) 拙作2024年06月26日

 名古屋出発は上小田井駅で6時半合流。地道をナビ任せでR303に導かれて、揖斐川上流の横山ダムからR417へ。徳山ダムを経て冠山トンネルを通過すると福井県だ。足羽川沿いに下り、池田町から越前市へ。
 目指す登山口は北陸道日野山トンネルの北側の荒谷ルートの日野神社である。着いた時刻は11時30分。名古屋から5時間135kmかかった。日の長い時期なのでまあ良いか。
 11時40分出発。日野神社は無人だが、樹齢300年以上はありそうな高い杉木立の境内に立派な構えの本殿が建っている。新しい案内板があり迷うことなく境内の右寄りに流れる荒谷沿いのルートに入って行ける。木立が高いせいで日光が入らず藪はない。よく整備されている。
谷道または尾根道は樹脂製の階段があり鉄塔巡視路がそのまま登山道(登拝道)として利用されている。階段も段差が少ないので高齢で大腿筋の衰えた自分には助かる。大汗をかいたころに山清水が湧いている。魔法瓶の蓋がコップ代わりに置いてあり、ありがたく一杯飲ませてもらう。流れている水はきれいそうでも獣の糞などに汚染されている可能性があるがここは湧いているので安心して飲める。
 尚も続く急登に耐えながら約1時間で北西からの尾根に合流。涼しい風に安らぐ。ここまでが一区切りだが、地形図には表現されない岩尾根の急登が続く。山頂直下で萱谷からの尾根道に合流すると一段と尾根が立ってきてフィックスロープが張ってある。こりゃあ、下りに難儀しそうだ。喘ぐように登りきると最初の社屋が建っていた。ここで休もう、とザックを置いて尚も奥へ行き、山頂の奥の院、三角点、社務所などを経めぐりながら戻って長い滞在時間を楽しんだ。
 展望も良く、梅雨空で白山は雲に閉ざされているが、部子山(へこやま)は見えた。東には冠山と思しき三角錐の山容が目を引く。左は能郷白山と磯倉、右は金草岳だろう。冠山の下をくぐってここに来たんだ。
近くの樹木に鶯が鳴いている。鳥語は口笛で参加したが飛んで行った。嫌われたか。この時期のうぐいすは老鶯という。すでに雌雄が合体して産卵するころである。そのウグイスの巣の卵を放り出してホトトギスやカッコウが産卵する。これを托卵という。そうと知らずに孵化しても育雛する。外国からの長旅で疲れたカッコウやホトトギスはウグイスなどに子育てを託すわけである。
 越前市につながるR417は”良いな”と読める。
 越前市から鯖江市、福井市を流れる日野川の氾濫が作った沖積平野が青々とした田園風景も美しい。日野川は越美山地(三国岳など)の豪雪地帯の水を集めて今庄に流れ、東西の里山級の山地の水が流れ込む。日本海に直接流れ込むのではなく九頭竜川に合流するために北に流れている。流域の山の位置が良く分かる。
 出発が遅れた。昼時も登って一服しておにぎり1個をお茶で流し込んだ。充分な山頂滞在を楽しんだ後はまた急降下するように下山した。フィックスロープは下りにこそ有用だった。滑落を警戒しながら慎重に下ったがビブラム底と岩の食いつきはしっかりしている。遠くにホトトギスの鳴き声を聞きながら無事に日野神社に下山できた。
 帰路はまたR417を選んだ。高速かR365で木之本経由でも距離は変わらない。それでも復路にしたのは交通量の圧倒的な少なさだ。R417,R303で濃尾平野の北端の揖斐川町に来るまでは信号ストップはなし。
 結局JR瑞穂駅で降ろしてもらった。瑞穂駅から金山駅、鶴舞駅はJRで行ける。地下鉄鶴舞線には22時台に乗車できた。疲労したが高速を使わなくても福井の山を堪能できたのである。

中濃の里山歩き2024年03月10日

 3月10日 今までR156を往来する度に気になっていた美濃市の鶴形山にようやく登れた。
 車を停めた洲原神社からは見上げるような岩壁が見える。登山道は道標があり整備されていた。植生は鬱蒼とした常緑照葉樹林が占める。冬でも青々としている。
 長良川の水を引いた用水路があり、しばらくは樹林の中を岩壁を避けるようにジグザクに登る。下からはR156の騒音が聞こえてくる。
 急登もあり思いのほか難コースだった。神社跡の二ヶ所を経て、鶴形山へは道も未整備となる。少し雪の残る山頂からの展望は樹林に囲まれて皆無。足元にはヒカゲノカズラが繁茂している。周囲の植生は植林の下に照葉樹の灌木が生えて青い。
 そこから高山への縦走路に行く。今までと違い未整備な踏み跡で赤テープをチエックしながら歩く。鉄塔の周辺のみ樹林が伐採されて見通しが良い。一旦鞍部迄下がって登り返す。高山へはかなりな急登でフィックスロープもあったからまったく整備されていないこともない。ここで親子連れにあった。ちょっと家族連れには不向きな気がするが山慣れしているんだろう。
 高山は三山の中で唯一展望があった。濃尾平野に前山が立ち並び、彼方には名古屋駅前の巨大ビル群が見えた。御岳山は樹林に邪魔されるが真っ白にかがやき、白い。恵那山は良く見えた。恵那山の左側の白い山なみは南アルプスだろう。
 高山を下山し、母野洞の分岐点は明瞭ではないが、GPSで確認して左折。地形図で破線のある397mの鞍部迄一気に下る。野田洞という村への古道は明瞭に残って見える。ここからも明瞭な尾根歩きになった。この道はところどころにある高圧電線の鉄塔巡視路だろう。長い尾根の登りに耐えて母野洞三角点に登頂。しかし樹林の中で展望は皆無。
 一休みした後、急な落葉と雪にまみれた踏み跡をたどった。鉄塔巡視路へ行く踏み跡へ引き込まれそうになり、GPSで確認して引き返す。この踏み跡は明瞭だが南へ垂れ下がるように曲がる尾根に引き込まれそうになった。GPSで確認して引き返す。その後も簡単には歩かせてくれない山路でした。
 昨年の2月から登り残した中濃の山のピークハントをしていますが、里山といえども侮れない山々です。

八草駅から猿投山へ縦走2024年01月04日

白山連峰
 電車とバスで山々を跋渉したい。日照時間の短い時期なので猿投山の縦走を企てて見た。三角点「西広見」を経由して物見山に行き、猿投山へ縦走する計画である。
 リニモ終点の八草駅を8時40分ごろ下車。8時50分、身支度して駅から愛工大の南をなぞると椀貸池に着く。日本のあちこちにある椀貸伝説の池である。今は水を抜いて池さらえの最中。俳句歳時記に池普請という冬の季語がある。
 胸形神社への参道を登ると終点に本殿があった。道迷いも含めて約1時間ちょっとかかった。せっかくなので参拝させてもらった。
 右端にトイレがあり、脇から尾根に取り付く。ヤブこぎというほどの密植ではない。尾根の分岐には篤志家の付けたテープがある。あるかないかの踏み跡をたどるとやがて二等三角点「西広見」に着く。瀬戸市と豊田市の市界には破線があり微かな踏み跡が続く。
 里山の常で小さなコブには四方に枝道がありどれにもテープがある。その度にヤマップで方向を確認。しかし時には濃厚なテープにだまされてしまい、下がり過ぎて戻ること2回あった。海上の森からの道と合流するとハイカーに出会った。さすがに海上の森である。高速道路のようにアクセルを踏むだけで何の迷いもなく、快適に移動できる。最初のピークである物見山に登頂。麓や山中で迷ったのでロスタイムがあり予定より1時間遅れになった。
 先が長いので12時に出発。この先の道も昔は難路だった記憶がある。今は快適な高速道路である。猿投方面から続々ハイカーやトレランのランナーが丸腰か軽装で走ってくる。小休止しておにぎり1個とお茶を飲む。赤猿峠がエスケープルート選択の分岐点になる。延々続く稜線の道をたどってようやく赤猿峠に着いた。ここでアンパンを半分、ミルクでエネルギーを補給。時計を見ると15時前なので1時間で着けば日没の16時50分までに猿投神社に下れる。
 13時50分赤猿峠着、14時過ぎ出発。猿投山へは14時45分に着いた。単独のハイカーが一人居ただけだった。冠雪した伊吹山、能郷白山、白山、御嶽山と名峰が並ぶ。カメラに収めるとまた4人組の若者らが来た。入れ替わるように多数のハイカーが遅めの登頂を目指す。東の宮の入り口で15時40分になった。日没を考慮して車道コースを下った。16時53分に日没。猿投神社には17時ジャスト。薄暗い中、結構多くの善男全女が居る。おみくじには行列していた。私も参拝を済ませた。参道にはたこ焼きなどの多数の露店が並ぶ。そこをを通って山門を出た先にバス停がある。17時10分にバス停を見ると17時34分のバスがあった。たこ焼きを食べながら時間を過ごす。バスに乗ると西の空が赤く焼けて見える。名鉄豊田線上豊田南バス停を降りるともう真っ暗だった。道行くおばさんに駅を聴くと今から行くというのでついて行った。いわゆる駅前らしくない田舎駅だった。地下鉄の階段を下りるような感じである。18時11分の上小田井行に乗車すると植田駅までは意外に近かった。

四国や諭鶴羽山の投稿を掲載した「聳嶺」届く2023年12月04日

 12月3日山から帰宅したらポストに届いていた。『聳嶺』はしょうれいと読む。投稿は25本以上、121ページとけっこうな文量がある。会員数は約200名といつの間にか増えた。コロナ明けで全国へ活動を活発化したことがうかがえる。
 私も昨年11月19日から11月22日の四国と淡路島の一等三角点の山旅の報告を投稿させてもらった。四国では小島烏水祭に参加して交流した。淡路島では最高峰の諭鶴羽山ハイキングと淡路島出身の軍人・樋口季一郎の銅像を拝見するために時間をつくった。終戦後でもソ連は日ソ中立条約を破棄して北海道をとりに攻めてきた。そこを守った軍人であり、ユダヤ人の難民を救済した人道の偉人でもあった。こんな日本人が居たのか、との思いを満たした。
 ”たまきはるユダヤの命救いたる樋口李一郎像建つ見ゆ”

忘年山行2023年12月03日

 忘年山行の企画で参加者12名で実施。継鹿尾山への12時集合の集中登山でした。天気は今一で、少雨決行の通りに少しだけ降った。山頂ではW会長が本格的な蒸し器とガスコンロを持ち上げて肉まんと餡まんを蒸して待っていた。早速熱々の肉まんをいただいた。寒い中では旨いですね。
 天白区の自宅を7時30分に出て8時5分の地下鉄で鶴舞線終点の上小田井駅へ行く。名鉄急行に乗換で犬山駅へ。運賃は510円。犬山駅東口を出て喫茶店で時間調整後出発。平地から丘陵地へ歩いた。富岡前駅からの道を見送り、次の交差点で左折すると坂道に入る。民家の庭先の南天の実が冬日に鈍く輝いて初冬の弱弱しさを見せている。喫茶店の親父が言った通り、冬紅葉、冬黄葉はしっかり色づいている。
舗装された山路は京大霊長類研究所と日本モンキーセンターをなぞるように登ってゆく。公園内の125mの四等三角点に寄った。多くのハイカーはこの公園までマイカーで来て山に登る。ここからだとほとんど登りではない。その為に駅から歩いたわけだ。
 公園を過ぎると尾張パークウェイをまたぐ橋を渡り、すぐに山路に入る。雑木林の中の明瞭な山路である。登山道はかなりな急傾斜になった。露岩が胸骨のように張り出している。これは地学の本によると中生代のチャートという。犬山の地質図によれば栗栖辺りは砂岩・頁岩で周囲はチャートが分布する。足元にはヤマエンゴサクが咲いている。本来は春の花だが暖冬のせいで狂い咲きしているのだ。
 少しばかりで外からギャーギャー鳴き声が聞こえる。これは多分日本モンキーセンターの園舎の猿の鳴き声だろう。高いところに来るとかえってよく聞こえる。
 左からの道と合うと傾斜も緩み、山頂が近い。
 山上は子供たちで大いに賑わっている。ボーイスカウト風な子供も多数いた。母子のハイカーも微笑ましい。聞けば3歳未満で登ってきた幼児がいた。体重が軽いせいか、飛ぶように動き回る。
 我々おじんおばんのグループは一つのテーブルに陣取って蒸し器で蒸された肉まん餡まんをほおばりながらダベリングする。約二時間の滞在でまたそれぞれのルートに散っていった。私は寂光院は行ったことがないので東海自然歩道を下った。この辺りも栗栖と同じ地質なのか、頁岩の露頭が目に付いた。開花期が4月から6月のツツジの花が咲いている。これも帰り花である。
 下るにつれて継鹿尾山は寂光院の山号と分かった。まだ登ってくるハイカーが多数いる。寂光院は多数の参拝客で賑わっていた。紅葉に彩られてなるほど古刹といわれるだけはあると思った。
賑わいの中をすり抜けて木曽川沿いに出て車道を犬山遊園駅まで歩いた。登りは犬山駅から1時間半、下りは1時間20分程度。軽いハイキングでした。
 西に夕暮富士という伊木山が素晴らしい。木曽川のこの辺りを日本ラインと命名し、犬山城を白帝城とたたえたのは岡崎の志賀重昂だった。15版も売った『日本風景論』を著し、日本の若者を登山ブームに導いた偉人である。灯台下暗し、低山ながら楽しい一日でした。

小川路峠へ2023年11月19日

 遠山谷も昨夜は凍て雲が山にまとわりついて寒かったが朝から快晴でした。6時50分に和田の宿を出発。7時30分に清水地区にある秋葉街道登山口を出発。野生のシカの頭蓋骨が落ちていた。人工林の中の道は不明瞭でしばしばRFで渋滞気味になる。それでも石の地蔵があるのでかつての街道には違いない。一旦皆伐してしまうとイバラ、タラなどが繁茂し、いわゆるヤブ道になる。植林すると日陰になって雑草は枯れてしまう。この間に人が歩かないと廃道になる。現在は森林は密植されており、間伐を待っている。道も廃道状態に近い。一旦は林道に上がって横切る。再び人工林の中を登るがやはり不明瞭である。最終的に林道に上がった。1062.8mの三等三角点上村の尾根の先に地蔵などが設置されている。昔は建物でもあった跡である。
 ここから本格的な秋葉街道になった。15番の観音から始まる。しばらくは人工林だが疎林になっただけ、見通しが良く明るくなった。遠くに白い山も見える。観音様の番号が増えることで着実に登っていく実感がある。雪も出てきた。29番を過ぎると山抜けの沢の渡渉が待っていた。かつては桟橋もあったが朽ちている。虎ロープも切れて巻いてあった。リーダーがロープを出して女性らを確保して渡渉した。三点支持の基本技術があれば怖くない。そこから地蔵がずらっと並んだところにきてすぐ先に茶屋址と熊の檻があった。地形図では急な尾根だが九十九折れで優しく登って行ける。
 12時45分にうっすらと雪のある小川路峠に到着した。昼食後、体が冷えない内に1人で13時30分に来た道を引き返す。途中、4回足に痙攣が走った。都度68を飲んで対応した。下山後約2時間の15時25分に林道に着く。太陽は隣の山にかかってすぐに日没しそうだ。帰路は樹林帯は薄暗いので林道を歩き通した。約1時間でクルマのおいてある入口に着いた。
 小川路峠は上久堅からは5回も往復しているが遠山谷側は初見でしたので満足できた。秋葉街道は南西面に付けられているので西日が当たり午後も明るい。林道に下りた地点で3時30分位でしたが日が伊那山脈に沈んだ。山の中は飯田市の日没4時40分よりも1時間以上早い。
 残照があるので4時半までマイカーまでは明るかくヘッデンは点けずに済んだ。
 マイカーで矢筈トンネルを通過、下氏乗から中宮でR256に合流、左折して富士山之神社(スマホのナビの目標)へ向かうと5時20分ちょうど東京組と合流できた。後は飯田駅へ送って別れた。飯田から園原まで地道。20kmほど。中央道園原ICから帰名。2000円。102km。
 名古屋から周回の距離は約380km位でした。山間ドライブは正味150km位。極端なタイトなカーブが多いので山よりもドライブに疲れた。3ヶ月のブランクがあったので足腰が久々に痛んだ。
※すでに完成している矢筈トンネルと青崩トンネルが高規格の道路に生まれ変わると鳳来峡ICにつながる。観光客も増えて秘境のイメージも無くなるかも知れません。

秋葉街道踏査の計画2023年11月10日

 11/18~11/19の秋葉街道の踏査の計画がまとまった。東京の古道調査PTら7名と私で8名(男4名、女4名)の久々の大人数になった。浜名湖の北で落ち合い、青崩峠を越えて遠山谷で一泊。翌日は和田から小川路峠を越えて飯田市へ出る。
 小川路峠は過去に数回は行った。
①思い出深いのは飯田市と遠山谷の合同で峠まで登ってジンギスカンの焼肉を食わせてもらったこと。
②今は亡きU先生と小川温泉1泊で往復した。この時に松濤明『風雪のビバーク』の春の遠山入りに出てくる街道と知った。
③ある時は『岳人』の”本を片手に”という特集でこの本と街道を取り上げた。取材で登山した。
④また、『ひと味違う名古屋からの山旅』三十三山の1つで曽山1601mを取り上げて登った。
⑤ある時は小川路峠の南のピークである金森山1703mに登るために登山したこともある。
 途中にある木地師の墓が何とも哀れな気がしたものだった。供花一つなき小さな墓は供養する人もないまま時代の推移を見守ってきた。33観音は馬を引いて登る人、秋葉信仰の人への慰みになった。また登山者の安全を見守った。松濤明は登りに、深田久弥は下りに利用した。松濤明の頃はまだ宿があった。しかし、お客が少なくなったと嘆く宿のオーナーの言葉もあはれである。
 青崩峠は豊橋市に住んでいた頃に1回だけ行った。飯田線を利用したからフルに一日かかった。久々に地質学的に特異な地域の山へ行ける。楽しみなことである。

飯田街道へ2023年06月25日

ユキヨシ親王の遺跡
 豊田市足助町を起点に飯田街道を歩いて見たい。豊田市、根羽村、平谷村から治部坂峠までが難しく、阿智村はR153と旧道の棲み分けが比較的シンプルである。中でも稲武までが錯綜している。人が住んでいる山里では町道、県道、国道、林道、旧街道などは交じり合い錯綜している。トイレもどこでもというわけにはいかない。ルートファインディングが大変困難であろう。そこで実地に車で走ってみた。
 稲武の郷土資料館「ちゅうま」にも寄ってみた。帰路は豊田市立図書館で資料を漁ったが満足できるものは得られなかった。
 阿智村の昼神に着いたら一応終点。ここが登山でいうエスケープルートになる。疲労を感じたら高速バスで帰名する。一泊して温泉に浸かるも良し。園原周辺の民宿を調べると一泊素泊まりで3000円というのもある。温泉付きは15000円以上で上は限がない。
 余力があれば網掛峠を経由して園原から東山道で神坂峠を越え、中央道神坂バス停、馬籠を経由してJR落合川駅で終点。足助から約100kmになる。
 完踏できれば世界遺産の大峰奥駈け道が視野に入る。吉野から熊野まで山中4泊5日の100kmのロングトレイルである。

大台ヶ原山を歩く②・・・マブシ嶺から古和谷2023年05月02日

          新木組峠へ
 5/2 尾鷲市の夜明けは5時6分。少し前から東の空が朝焼けになった。出発予定の午前5時の1時間前に起きてガスコンロでお湯を沸かして熱いお茶をすする。朝飯の柿の葉寿司も食えるだけ食う。遠くから小鳥の鳴き声が聞こえる。風も小康状態だ。外に出てパッキングする。山頂に戻ると地面が凍結していた。昨日は泥だったのに一晩で冷気に晒されて霜柱が立っている。寒い訳である。5時過ぎにマブシ領を発つ。比高200mほど下ると平らな雑木林になる。風はほとんど吹いてこない。穏やかである。本当はここらで幕営したかった。しかし適地はすべて熊の生息地と重なる。昨夜も蚊取り線香を焚いて熊に知らせた。青嵐で熊も落ち着かなかったのだろう。熊鈴を鳴らしながら巡礼者のように素敵な自然林の中を歩く。木組峠に着く。ここからまた若干の登りになる。登りついたところから光山の分岐を後にする。1250m前後のコブを上下しながら新木組峠に着いた。ここでも水を飲み、若干は食べた。昨年5月中頃に仲間と訪れた際は木組峠の稜線道を登り帰りは尾鷲道(リスク大)を通過した。反対に帰路は1297.6mに登って又口辻に下りた。これが松浦武四郎らが通った道だった。
          古和谷分岐へ  
 今回は横断的な尾鷲道を行く。落葉が多くふわっと重なっている。ザックが重いので転滑落には要注意だ。靴先で落葉に隠れた石ころを探りながら歩いた。神明水は流水があった。3回目でやっと水の流れを見た。しかし今日は寒いし水はあるので通過。中間地点まで来たところで左足に痙攣が走った。ヤバいな、と小休止し、芍薬甘草湯を水とともに流し込む。苦くもなく少し甘めのながら薬効は即効だ。再び危険な横断道を歩く。篤志家らが張ってくれたフィックスロープが非常にありがたい。その内に又口辻、そして古和谷分岐に着いた。
         古和谷へ下る
 9:30。小休止の後、未踏の古和谷道に下る。杉や桧の植林内のよく歩かれている感じの尾根道が続く。分岐から張り出した尾根の1053mの手前の鞍部から谷へ急降下。ここでも中間地点でまた痙攣が走った。芍薬甘草湯を服用して治まるのを待つ。なるだけゆっくりと下り、ようやく古和谷の流れを眼下に見たときはほっとした。左岸の植林内に細々とした山路が続く。思った以上に歩きやすい感じだ。後ろに人気を感じて振り返ると半袖の若い登山者が追い付いてきた。しばし情報交換して先に行ってもらう。今日尾鷲辻から下ってきてもう追いつかれたのである。一体何時に出発したんだろう。ヤマッパーらしい。あっという間に視野から消えた。韋駄天とは彼みたいな男をいうのだろう。そろそろ足を労わりながら重荷を担ぐより、寝具、食料など省いて軽量にして駆け抜けるのも一案である。渡渉地点でちょうど昼時になり、ザックを下ろした。先を急ぎたい気持ちより山に浸る方に重きを置いた。河原でガスコンロをだし、お湯を沸かし、お茶を楽しみ、カップ麺を食った。その後石飛で右岸に渡る。左岸より右岸の方が悪い。森林軌道の跡らしいが、橋が落ちたところは高巻きする。目印はあるものの上下、左右に留意した。河原に近い箇所はレールの残骸がある。朽ちた桟橋をいくつか恐る恐るわたると尾鷲道の登山口は近い。13:40に車道に出た。ここからが長い長い林道歩きだ。県道に着くまで2時間はかかった。
          思いがけない親切に深謝
 計画では2時30分に尾鷲駅到着だったが、到底無理。昨年泊った民宿に電話しようとしたが圏外だった。その内、後続がまた一人とトレランが下山してきた。どうしようか、と考えていると釣り師が親切にも駅まで乗せてってあげると申出があった。渡りに船と便乗させてもらった。名古屋へ帰る旨話すと鈴鹿市在住なので自宅に近い白子駅まで乗せてもらえた。感謝感謝であった。

参考データ
大台ヶ原山 尾鷲道 その1 尾鷲辻~又口辻~古和谷林道終点
https://amaimonoko.at-ninja.jp/s-mtdata/ki/odai-owase/1.htm
・JACの古道調査です。
・GPSの信号はヤマップを通じてWさんのスマホに送信されます。
・天候:1年に400日雨が降る、とか弁当忘れても傘忘れるなという尾鷲市から大台ヶ原一帯の俚諺です。
一般的な天気予報は5/1~5/4の降雨率20%、5/5以降は70%以上にアップ)
・非常に不安定な天気です。