小雨そぼ降る十明山に登る ― 2026年09月06日

 遠方へ行くつもりが途中で降雨になった。傘をさしても登れる山ということで豊田市足助町の十明山に行った。
 十明山は巴川に囲まれるように長男の焙烙山、次男だが松平家の産土神を祀る六所山に次ぐ三男のような立ち位置にある。
 十明山登山口のPに着くとこんな日でも合羽を着て出発する女性の登山者がいた。700m程度なのでいくらも登るでもない距離だった。山頂で追いついたが登山者ではなく、信者さんだった。一心に何かお祈りを捧げていた。家族の中に信仰に頼らざるを得ない事情があるのだろう。軽自動車で来られたがナンバーは豊田、三河、岡崎など地元ではなく豊橋ナンバーだった。
 遠方にもご利益が伝えられる。どんな信仰の対象なのか。
 参道を行く途中には新しい芝生を整備されて立山神霊・白之大明神・富士ノ山神霊・漢拏神霊の石柱が立っている。漢拏ははんらで韓国の山の名前だ。
 奥宮との分岐を左折するとお百度の石碑があり、自然神霊、七面蓮白神霊、蛍狐神霊という神様三か所の拝礼所がある。しかも前方が東に向かっている。すると夜明け、富士山の方角にあたる。信者が拝礼中だったので撮影はしなかったが足元の示すへんに光という漢字は不明。飛神だけならWEB辞典に「 他の地から飛来して新たにその土地でまつられる神。」或いは「天空を飛翔する神。」と解説。これが新しい宗教法人が買ったという場所だろうか。宗教法人十明山は法人登記されている。
 分岐に戻って十明山奥宮へ行く。三角点も同居する奥宮が古来からの信仰の対象で里宮の十明神社のご祭神は菊理姫命といわれる。というと白山信仰だろうか。周囲は樹林で展望はない。新興宗教と違って、教義もなくご利益もないただ祈るだけの日本神道は心が落ち着く。

六所山への登拝の古道を歩く ― 2026年05月29日

 5/6は松平往還の最後の不明な部分の踏破が目的だった。次は1377年に松平親氏が手厚く寄進を行い、高月院と命名。後に徳川家康からも寺領を寄進されるなど、手厚い保護を受けました。高月院と同年に六所神社も建立した。

 「社伝によれば、永和3年(1377)松平(徳川)氏の始祖松平太郎左衛門親氏が、吉木山(現在の六所山)の山頂に陸奥国一宮鹽竈(しおがま)六所明神を勧請し、 松平氏の氏神として、奉祀したことに創まると伝えられています。
《隠居神様》
 往古は、吉木山そのものを神体山とし、大山祇神を祀り、産土神として奉拝していましたが、客人神である鹽竈六所明神にその社地を譲り、 同じ山頂の東北にある峰に遷り、蜂ヶ峰神社となりました。里人たちが「隠居神様」と呼んでいるのは、この事情を物語っています。」

というわけで、登拝を試みたが雨で断念した。
又、拳母街道の森下という山里から登って見たが間違いだった。古い地形図をよく見ると拳母街道は下りに歩いた道であった。二等三角点松平村へは下山村と松平村との境界にある坂峠から登った。峠名は中根洋治『忘れられた街道』に記載されていた。
『六所山と六所神社』(松平親氏公顕彰会、平成29年発行で309ページ)の大著を読むとP187の浦野一郎氏の「六所山と参拝道」の論考を読むと六所山は南から登拝されていたと知った。
 今日は南からの古い登拝の道を歩く続きである。松平郷のPに車を停めたのが9時28分。大沼行きのおいでんバス松平郷9時35分はぎりぎり間に合った。約10分で次のバス停の切二木(きふたぎ)で下車。そこから歩いて小さな峠を越えると槇ヶ田和に下る。正面に見える鳥居が六所神社の鳥居である。昭和21年版の地形図に一番近いイメージの破線路は左折して、途中から右へと山深く入っている。現在の地名ではグーグルマップで見ると鳥下という。
 最奥の民家を訪ねると畑仕事の家人から六所山の話を聞けたが名古屋から転居してきたとのことだった。この家の奥へと沢沿いに遡る。水の流れはせせらぎ程度。踏み跡もしっかりあるので藪漕ぎは避けられた。最初の林道を横断、2回目も林道終点から何となくある踏み跡を適当に登っていくと整備された林道に出て、松平郷からの登拝の道と合流した。
 ここからは何度か歩いた道なので一安心だった。伊勢神宮遥拝所に立つと昔は伊勢方面を眺めたであろう。六所神社に参拝、蜂ヶ峰神社(隠居神様)からすぐの山頂を踏んだ後、松平郷へ下る尾根を歩いた。  稜線だけに爽やかな風が吹き抜けて気持ち良い。
 昔歩いた古い記憶では伐採後で眺めは良かったが今は植林が成長したので人工林の中を歩くのみだ。展望台まで来たので登ってみた。村積山が見えた。その東には松平往還がうねうねと続いているはずだ。名駅の巨大ビル群も見えた。下って林道を横切ると東照宮、高月院のある松平郷に着く。東照宮に参拝後、Pに下った。

大給城址から岩谷山を歩く ― 2026年04月19日

 4月になった。天白川堤防沿いの桜が満開から葉桜、そして散ったというのに中々出掛ける機会がなかった。やっと豊田市郊外の里山を歩けた。
  春更けて山奥深く浸りけり

  ウグイスのしきりに鳴くや城の跡

  廃田を無心に耕す老農夫 

と詩心のおもむくままに作った。
 まず小さな峠から大給城址に登城した。松平家の初期の武家。ここから岡崎平野へと領地を広げていったのだ。城趾の一角からは豊田市街を見下ろせる。道は整備されて険しくなくぶらっと散策に良い。
 地図を見て岩谷山へミニ縦走した。山道は俄然悪くなりコース外れで行きつ戻りつを繰り返した。岩谷山の山名通り山頂付近は大岩が屹立する険路になった。御嶽教の様な山岳宗教の雰囲気がある。修行僧がいたのだろうか。危うく無理して下りかかったがおかしいと気がついて引き返すと普通の山道に戻れた。岩谷山は専用の登山口から登らないとけっこう骨が折れる。
 一旦林道に出て山里につながる車道を戻った。その後九久平の県道39号線に出てお菓子屋で柏餅を購入。
 主目的の松平辰蔵の墓に詣でた。お菓子屋の北のセメントの階段を登って行くと植林内に着く。右行くとヤブ気味で建物がある。何となく左に行けば良さそうだが階段まで戻った。直進すると薄い踏み跡があり奥に墓石が見えて来た。無秩序な感じで墓が建っている。松平辰蔵の墓は上の方にあった。
 1836年の加茂一揆の頭取だった男だ。1万人以上の農民が動員された。松平一体の農民が米価高騰に怒って立ち上がった。挙母藩、岡崎藩に抑え込まれた。1840年のアヘン戦争敗北から植民地化を恐れた幕府は開国に踏み切った。幕末は騒然とするが世直しのきっかけになった一揆だった。取り調べに対して上が腐れば下は猶も腐ると言った。松平の名をいただいた男の気概だろう。
 松平往還を歩いた際に豊田市滝脇町の小学校付近にあった岩御堂が一揆のモニュメントである。
 下山後は豊田市中央図書館に寄って加茂一揆の史料に当たって見た。辰蔵の家は焼かれた。早くに死んだ。取り調べの記録もある。藩は治安のために処分せざるを得なかった。原因はインフレだった。戦が無いと人口は増える。モノが足りない。
 幕府、藩は給与を米で払った。米価は高い方が良い。今も消費税増減税でもめる。公務員の給与は税金だから増税を維持したい。
こうして昔も今も税金を巡る争いの種は尽きない。

干支に因んだ山名の駒山を歩く ― 2026年01月25日

 豊田市矢並町の医王寺で前泊。朝の勤行を聴いてありがたい法話を拝聴した。かつて七面山の敬慎院での冬の勤行はもっと厳しい体験だった。だが今回も寒波の中で低温下でミニ修行となった。
 医王寺を出発。R153で稲武の入り口の水別峠で左折。凍結した積雪路の坂道を登って富永調整池のPに停める。
 出発は11時過ぎになった。登山口への車道は雪を利用して急斜面の山林内をショートカット。大きなスポーツ施設の上に到達。そこから植林の中の山道に入る。雪はずっと続き途切れがない。上質の粉雪の道だ。林道と出合ったり離れたりして進む。ハイキングコースの案内板もあって雪の中でも見失うことはない。そのうち、床几の峠に着く。ここから右旋回して下ると又林道に出合う。しばらく林道上を歩くと東に展望が開けた。恵那山は見えないが多数の風力発電の山が見える。あれは上矢作町の大船山か。一方で少ない方の風力発電の山は稲武の井山だ。何となく茶臼山も特定出来た。
 林道の傍らの石仏を見て駒山への信仰の道だったことを思う。そのうち神杉が林立する境内へと登る。かつて朽ちた堂宇があったが最終的には屋根が倒壊、今は撤去された。最高点に回って山頂票を確認。帰路は雪の中で埋もれる墓石群に詣でた。この社を守っていた住職の墓だ。物知りの話では厳しい修行ゆえに40歳台で死んだと言う。手を合わせて辞した。
 屋根付きの休み所で小休止。その後1段下の崩壊の過程にある建物を見学。立派な構えだが朽ちるに任せる。
 久々の駒山を辞して林道を戻った。途中、867mの三角点峰も登った。展望はないが最高点である。以後は往路を戻った。スポーツ施設では雪の斜面で子どもらがソリ遊びに興じていた。調整池のPで散会。

雪とグルメと温泉の釜ヶ谷山 ― 2026年01月11日

 気象予報では雨が降るようで芳しくない。今回は久々に2名になったので冬の雨は嫌だな、と思いつつ出かけた。名古屋を5時には出る。すき家で朝定をかき込んで名二環に入り、名古屋高速一宮線で北上、R22に降りてR156へ、岩戸トンネルを抜けてすぐ左折、鵜飼い大橋で長良川を渡ると百々ヶ峰に突き当たる。R256に入って如来ヶ岳山麓を北上、県道79号を西へ行くと伊自良川と交差するので県道91号に右折。集合はてんこもり農産物直売所へ午前7時だがチエーンがあっては入れない。まだ薄暗いが相棒はコンビニで待っていていた。すぐ伊自良湖へ向かった。立ち寄りたいたい所があったが下山後だ。
 下山後に江戸時代の地誌『新撰美濃志』を読んでみた。伊自良郷と呼ばれていたが伊自良村はなく、長瀧村の項目があった。伊自良は十郷あってそれぞれ字があった。・・・『釜嶽』は濃陽志略に「里民呼曰釜溪ト連互數里ニ絶頂有池四時不涸、此山雑樹葱岩石岣最爲奇也」と見えたり。『長瀧山、岸見山』伊自良の高山なり。伊自良川は此の山中より出づ。常は水なく、砂川にて洪雨の時水出づ。略。『甘南美寺』は臨済宗にて白華山と號す。開基は高阿彌、名知阿彌。本尊は千手十一面観音、脇立不動毘沙門なり。當國三十三所十三番に配す。引用は以上。
 長瀧村の名残りは伊自良湖のすぐ下流の里の地名に見る。伊自良湖の湖面が見えると多数のボートが浮かんでいた。恋人同士が朝早くからデート?多分公魚釣りか、疑問のまま登山口の臨時Pに着いた。地形図で116m地点。あいにく小雨模様だ。オーバーヤッケで防寒と小雨対応の身支度を整えて出発。最初は舗装路を分け入ると杉の高木が生える森の中である。番号入りの観音の石仏が立っている。バンガローのような施設は今は冬のもの寂しい雰囲気である。しばらくは車道を歩くと二又に別れる。右は釜ヶ谷に沿う林道で赤谷の出合い迄続く。堰堤記号が三か所連続してあった。我々は釜ヶ谷本流に沿いながら直進。左へ上がって四阿などの施設で舗装路は終わった。ここからは未舗装の林道歩きだが次第に山路になった。途端に谷が立って来て傾斜が強まる。岩がごろごろした歩きにくい山路をこなしてゆくと優しい道になり、山頂からの南東尾根の端に立つ四阿に着いた。残念ながら展望はない。途中から小雨が降雪になった。一種の感動とともに不安も伴う。ここで雪に備えて雨具でザックをカバー。尾根の道からみぞれ谷の枝谷の源流を迂回すると奥の院に着いた。社殿は穴だらけだ。中をのぞくと座禅した板間があった。穴は多分風通しを良くして腐食を避けるためか、人が使わない建物は内にこもった湿気で腐る。雨の時は膨張して外からの湿気を防ぎ、乾燥した時は縮んで隙間風を入れてやる校倉造が理想ですが高額の建設費がかかる。
 さて出発だ。左に丁度33番目の石仏が建っていた。美濃三十三観音霊場の十三番目の霊場だ。ここを後に登るとすぐに神社が建っていた。ここはおそらく明治維新で「仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する」という仏教の信仰や施設を否定する運動の影響か。説明を読むと明治3年とある。祖神は皇祖神のアマテラスだった。
 地形図で等高線が密にになり、急登を強いられた。行者岩に到達、上に登ると、最近登った百々ヶ峰と金華山が見えた。ちょっと荒れ気味の登山道を登ると龍神コースへの分岐に着いた。降ったり止んだりしていたが標高640mまで来ると冷気が違う。一面真っ白になった。小さなコブを巻くと待望の山頂だった。千把小屋という避難小屋まである。扉がないので雪が吹き込んで床は白い。小屋の四隅の角は丁度腰掛に良いのがあって少し休めた。
 休憩中にもどんどん降って来る。眺めもなく止みそうにないので往路の下山を決めた。連続的に降雪路を下る。桧の林に下っても断続的に雪がある。滑落しないようにゆっくり慎重に下った。東屋まで下るとやっと落ち葉の道になり安定的に歩ける。車道に着いてほっと一安心。そこから余裕で石仏の番号を見ながら下ってPに戻った。
 帰りは甘南美寺に寄って参拝。池の鯉の大きさに見とれた。もう一ヶ所、「伊自良湖 FISHING & ADVENTURE PARK」に寄った。公魚(わかさぎ)の天ぷらはあるか、聞いたらフライはあるとの回答。13時だったがラーメンと公魚のフライ(二人で一つ)を注文。朝6時半から釣りボートを営業するから恋人のデートではなかった。疑問が解けた。待っている間にも車にどんどん積もって来た。雪とグルメの冬日和を楽しめた。
 もう一つおまけに帰りがけに約30分の所にある武芸川温泉に寄って入湯した。900円と高くなったにもかかわらず、そして大雪というのに大勢のお客が詰めかけて来た。これには驚いた。

岩津天神初詣と村積山ハイキング ― 2026年01月05日

 岩津天神は四神相応の地に勧請されたと謂れにある。
四神相応の理想的な地形
東(青龍:せいりゅう): 清らかな流れのある川や小高い山。
矢作川、巴川
西(白虎:びゃっこ): 大きな道や小高い山。
東海道、今なら東名高速道路と新東名高速道路
南(朱雀:すじゃく): 開けた平地や大きな池・湖。
岡崎平野
北(玄武:げんぶ): 高くそびえる山(背後)。
村積山
 今日は四神相応の地におはす岩津天神への初詣をした後に村積山に登った。メンバーは姪夫婦の娘のSちゃんと4人だった。Sちゃんは6歳になり入学する。岩津天神は学問の神様でもあり意義深い一日になった。
 下山後はスシローで昼食、Sちゃんはサーモンが大好きな子だった。来月始めで6歳になり、4月には小学校へ入学する記念の年になった。丸々した赤ちゃんが四肢が伸びて一緒に山を歩けるまでに成長した。

御嶽スキー行2~三笠山の三角点を探す ― 2025年12月29日

 29日も宿を出て御嶽スキー場で遊ぶ。昼食を食べるレストランでまったりとくつろぐ。もう今以上にスキーをうまくなろうという意欲はない。そんな雰囲気の中でゲレンデスキーに飽きた1人が三笠山に登ろうと言いだした。山やだけにすぐ決まった。
 最終の第七リフトを降りてすぐ田の原に滑走。ここに三笠山への歩道の入り口がある。雪に埋まっているが山スキー専用靴でラッセルしながら登った。やがて山頂の神社に登拝できた。
 ヤマップのGPSを見ると三角点は別の場所に埋設されている。そこでラッセルしながら倒木を跨いだりして三角点の埋まる場所に着いた。雪に埋もれているので盛り上がりを蹴って保護石に当たった。三角点は直ぐ発見できた。思いがけない登山の喜びを味わった。
 三角点探しで約1時間も三笠山でさまよっている内にスキー場の終了時間も迫って来た。車道を滑ってゲレンデをゆっくり滑走。終点でスキーを終えた。帰り支度をしていると雪がパラついてきた。
 帰名の途についた。同行の人が木曽の銘酒を買っていきたいというので牧尾ダムの下流の土産物店に寄る。木曽の銘酒といえば七笑、中乗さん、御嶽山、杣酒など結構ある。水田はないので伊那谷から米を取り寄せて豊富にある水で酒を造るのだろう。木曽には中山道も通っている。旅人も多かったから米の需要もあった。旅人に飲ませる酒も必要だった。
 私は木曽の醤油と味噌を買った。酒とともに醸造、発酵食品である。他の客は百草丸を買っていた。薬も土産になるのだ。
 日没が早い時期は高い山に囲まれた木曽谷はすっかり暗くなった。R19へ戻っても交通量は少なく、店も開いていない。どこか飲食店はないか、大桑に目当ての店を検索したが閉店後だった。近くに台湾料理の店があったので空腹を満たせた。道の駅大桑で1名と別れた。後は中央道を走って休み休みしながら春日井ICで降りた。勝川駅南のコインパーキング(1泊で1000円)でマイカーに荷物を積み替えて友人と別れた。

大峰山脈・山上ヶ岳に登る。 ― 2025年10月10日

 10/9の夜は大淀町の道の駅吉野路大淀センターで仮眠。軽自動車なので窮屈だったが丸まって寝た。
 10/10の午前5時に出発、R169からR370,R309とナビ任せで泥川温泉に導かれた。ごろごろ茶屋駐車場に着いたがまだ奥があると走ると913.1mの三角点のあるPが広がっていた。店舗はあったが無人、封筒に1日1000円を入れて投函する仕組みだった。支度を整えておにぎり1個をお茶で流し込んで出発。橋を渡ると女人結界の石柱が建っている。1300年の歴史があるから前近代的とは言うなかれ。
 登山道はゆるやかに整備されている。一の世茶屋はすぐに着く。一本松茶屋までは山腹を縫う道で歩き易い。更に先の洞辻茶屋で稜線に上がる。谷間から尾根上に登って明るい。吉野方面から大峰奥駈け道が合わさる。この道は熊のへ続き世界遺産ともなった奥駈け道である。小屋で休んでいたら一人東京から来て奥駈け道を目指したが雨で引き返す途中だった。世間話に花を咲かせていると1時間の長休みになった。
 稜線になると自然も豊になる。左右二手に分かれた道は左へ。先の人が慎重に、とアドバイスしてくれたが、重装備だから慎重になったのだろう。我々は日帰りで軽いから心配はいらない。
 鐘掛岩には鎖場まで立ち寄ったが霧で引き返す。登山道は平坦になった。西ノ覗岩も霧でパス。平坦ながら岩場の通過があるので捗らない。その内宿坊の立ち並ぶ一角に着いた。大峰山寺の手前まで来たのだ。古い宿坊の軒先にザックを置いて空身で山上に登った。境内に着くと左が本堂だった。右の高まりがあるので細道を行くと背の低い笹原の中にお花畑と山頂の看板が立つ。左折して笹の小径を歩くと一等三角点のある山頂だった。その奥は聖蹟、右は湧出岩の石柱が建つ。どうやらこれがシンボルらしい。
 登山者としては一等三角点の大峰山上に関心がある。1887(明治20)年埋設。補点である。奈良県の一等三角点は8座あり、これで6座登った。大峰山系では釈迦ヶ岳、玉置山に次ぐ三座目になる。釈迦ヶ岳は東のコブシ嶺から眺めると三角錐の立派な山容だがこの山は望岳した覚えがない。それも今になった理由である。
 釈迦ヶ岳は三十代に登った。西行法師が小夜の中山で詠んだ和歌
   年たけてまたこゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山
 私もまた後期高齢者になってから登りに来れるとは。命があればこそこうして霧を突いて登山出来た。
 霧の中で長居は出来ない。霧しょんべんといってずぶぬれになりそうだ。先の宿坊へ戻ってザックからおにぎりを出して食う。冷涼な自然の中では喉の渇きもないからお茶もまだある。来た道を戻った。二手の道は板の階段道で滑りやすいので慎重に下る。洞辻茶屋で休憩。ここで稜線から谷筋の道へ入る。雰囲気が随分変わる。水飲み場にはソーメンが落ちている。これが不潔感を誘うので手を洗うにとどめた。きれいに使って欲しい。
 歩き易い道になるが先は長い。そんな倦んだ気分を変えてくれたのは鹿の啼き声だった。
    遠くよりな滑りそと啼く鹿の声    拙作
 ※な~その間に連用形、未然形の動詞を入れると軽い禁止になる。
 足もとに気を付けて滑らないように下りなさい、と山の主のような鹿が導いてくれるかに聞こえる。最後の茶屋を見て一段と歩き易い山路まで来るとPに出た。やっぱり我々の車だけあった。支度して動き始めると軽自動車のパトカーが来て我々を見るとUターンしていった。誰かが6時頃から15時30分ごろまで動かない車があうるよ、と警察に通報したんだろうか。ごろごろ茶屋には多数の観光客が居た。さらにくだると昭和レトロな洞川の商店街に出て帰りたくなくなった。結果、柿の葉寿司を購入、洞川温泉に入湯したりとミニ観光で余韻を楽しんだ。
 R309に戻ると奈良の複雑な道路網を抜けてようやく名阪道路に入れた。

継子岳敗退 ― 2025年07月20日

濁河温泉の登山口から1時間半程度登った所で体調不良で敢え無く撤退した。登る途中でも数パーティにおいぬかれた。7合目の手前で引き返したが続々登って来る登山者とすれ違った。たまたま一宮市から来た登山者が下山中に一緒になって歩いた。
減量後初めての本格的登山だったが、片道180kmの山岳路を含むドライブで疲れたこと。車中泊も深夜までクルマの放射熱で暑く、朝方は逆に10℃位まで下がってサマーシュラフでは寒くツエルトを布団代わりに掛けた。その対応で熟睡は4時過ぎから2時間ほど。絶好の登山日和を活かせなかった。
帰路は飛騨小坂経由で帰名した。途中飛騨萩原の簗で鮎料理を食いたかったが廃業して今はトラック置き場になってしまった。木曽から飛騨を横断する365kmのロングドライブに終わった。下呂市でも33℃をマーク。猛暑を一時的に忘れる効果はあった。

継子岳登山ー濁河温泉まで ― 2025年07月19日

7月19〜20日にかけて来月の北アのトレーニング山行として御嶽山の一角にそびえる継子岳の登山を計画した。日和田富士とも言う。昔はあったチャオ御嶽山スキーリゾートも今は廃業で建物は残っているが廃墟と化した。