近江・清滝山を歩く2020年02月03日

 2/2の朝はあまりにも天気が良いので思い付きで行ける山として清滝山に行った。朝の出発も遅く、登山口の清滝を出発したのは11時を回った。但し清滝神社から急登にあえぐまもなく尾根に着いてしまい、少し緩やかになった尾根を歩くともう山頂に着いた。
 NHKと琵琶湖放送の電波塔がたっていて少し広くなっている。とはいえ、車道は通じていない点が良い。今は枯れた芝生の丸くなった気持ちのいい頂上である。片隅には三角点、杉の木立、石仏がある。その近くに松明のために火口のように掘り下げた穴に枯れ枝が山積していた。杉の木立にあった2リットルのペットボトルの水は消火用らしい。毎年8月14日と15日に行事としてやる。この時は女人禁制、地元民以外は入山も禁止という。
 山頂からの展望は意外なほど秀逸である。南北には伊吹山、霊仙山がどかっと座る。霊仙山の前に重なるのは昨年苦労させられた阿弥陀ヶ峰である。濃尾平野の方向は中央アルプス、恵那山が見える。湖北は曾遊の七尾山、金糞岳と白倉岳が白い。肝心の伊吹山は5合目から上は雲の中だった。
 ハイカーも多数登ってきた。50分粘っても伊吹山は晴れず下山した。山の神への尾根を下ったがよく整備されている。30分もかからず登山口に近づいた。スマホで写真を撮ろうとすると無い。しまったな、山頂付近に忘れた。と空身で戻って心当たりを2時間近く探したが見つからず。3時になったので下山し出直すことにした。
 そして、今日、早朝発で同じ山に登った。言わば行方不明のスマホの捜索である。友人に時刻を定めて電話してもらうことにしたが、山頂から一段下がったところにあった。昨日はもう一段下がった所のみをさがしたからないはずだ。やれやれだった。いつもと違う持ち方をしたためにころっと忘れたのだった。それにしても30分で登れる山で良かった。今日はもう霞がかかって昨日の大展望はなかった。その代わりに伊吹山は見えた。良かったなあ、と微笑んでいるかに思えた。
 昨日は境内で節分会だったらしい。徳源院のPはバス用に閉鎖されていた。団体さんが来訪したのだろう。そして明日は立春である。私のチョンボに伊吹山も笑ったのだ。
   忘れ物見つかり伊吹山笑う  拙作

豊田市郷土資料館特別展「猿投山ー祈る山、観る山、登る山」2020年01月29日

 猿投山は私の住むマンションの窓から朝な夕なに眺める山である。右側に一段低くなる台地がありあそこがヤマトタケルの兄のオオウスノミコトの墳墓があるところであろう。まさに霊山である。
  親しい猿投山をどんな風に展示するのか興味深々で1/28に見学。一回りすると別室で動画もあり戦前のはげ山だったころの映像が視聴できる。文献の展示は学芸員の解説がないと楽しめないかも知れない。学芸員によるトークもあるので午後に尋ねるが良い。1/19から3/15の間、2時から2時30分間解説してくれる。ギャラリートークは2/15と2/29でともに午後2時から3時まで。講師は外部から招いた専門家。但し猿投山そのものではなく、石、名園に限る。
 今回は豊田市側のみに限る。どちらかと言えば猿投神社に重点が置かれた。猿投山の自然、民俗などが加味されればさらに充実する。この点は学芸員に注文をしておいた。例えば、猿投山の山名の由来である。景行天皇がいたずらする猿を投げたという伝説がもっぱら引用される。しかし、豊田市名誉市民の本多静雄氏は猿投山の「さな」は昔の製鉄に由来するという説を書いていました。こんな解説があれな尚興味は増すだろう。地名の語源辞典にもそう書いてある。
 また猿投山がはげ山だったというのは多分瀬戸市側ではないか。神社のある境内は樹齢200年はありそうな神杉が林立している。神域からちょっと離れると植林になり谷は荒れている。瀬戸物生産には大量の木炭を必要とした。約700年もの間伐採と自然生を繰り返してきたから東濃の窯元周辺の里山はほとんどはげ山になったのである。愛知県は地味の痩せた瀬戸市側の山を買い取り、植林はしたものの、育ちが悪かった。そこを日本山岳会東海支部が貸与してもらい、猿投の森づくりの会を立ち上げた。育ちの悪い植林を伐採し、林床に光を入れて雑木林の自然生を促し、ゆくゆくは市民が憩える雑木林になる。このまま放置すると元々の照葉樹林に戻るので、時々干渉して雑木林の状態を保つという。
 瀬戸市側の東大演習林側は行方不明者の捜索で許可を得て入山したことがある。さば土の尾根や谷にやっと植生が根付いたところである。今も松が残り杉桧の植林も不安定なままで崖崩れも多いので危険領域もある。活き活きした里山に回復するのはまだ数十年はかかるだろう。

国境の島・対馬の山旅⑦龍良山2020年01月03日

 3日の龍良山はスダジイの原始林に象徴するもっとも対馬らしさを残す山であった。それも地元でガイドブックも執筆するNさんの同行を得られてディープな情報が得られたからだった。訪対するまでの情報収集では対馬を深く紹介したガイドブックは皆無だった。それで『分県登山ガイド 長崎県の山』の対馬を担当するNさんに情報収集中と連絡していた。返信があったのは元旦であった。普段は連絡しない手段だった。
 それでも見知らぬ私に同行のお誘いを受けることになった。Nさんは城山か龍良山か、評価が今一はっきりしない龍良山を希望した。Nさんは城山を勧めてくれた。古代の城戸が残り、陸軍の砲台跡も見学できるからだろう。全島照葉樹林に覆われた対馬の山でも特に保存状態が良いとされる龍良山を希望したのは直感である。
 朝8時、宿舎のホテルまでお迎えに来てくださった。同僚の若い女性Yさんも同行してくれた。Nさんの車に同乗させてもらい、厳原町内山まで行く。これまでの北から対馬の南端に近い山だ。環境省のツシマヤマネコの飼育センターの施設がある。ここで野生に戻す訓練をするという。広大なPに止めて林道を歩き出す。すぐに龍良山原始林内に分け入る。高い樹高、大径木の常緑樹が林立する木立である。日光が一切差し込まないから足元は土が出ている。下草も生えない。その上にあまり踏み跡はしっかりしないところもある。スダジイの大木というか古木まで来た。樹齢何百年か。伊勢神宮の神杉が樹齢約600年と聞く。それに単純比較はできまい。

 九州森林管理局のHPには「 豆酘龍良山スダジイ等遺伝資源希少個体群保護林は、対馬下島の南西部、龍良山の北西斜面に設置されており、全域が連続した照葉樹林となっている。植生は海抜350m付近を境に、下方をスダジイーイスノキ林、上方をアカガシ林が成立する。林内には胸高直径1m以上のスダジイを始め、イスノキ、アカガシ、イヌマキ等、天然林に近い照葉樹林は最大級の規模といわれている。
また、平成21年度には、同じ対馬の下島最南端の神崎半島に位置する豆酘内院龍良山神崎スダジイ等希少個体群保護林が、同じく下島の中でやや北部に位置する対馬白嶽アカガシ等希少個体群保護林がそれぞれ同様に類似するスダジイ、イスノキ等照葉樹林であり、これら2つの照葉樹林の保護林が隣接して設定された。
主峰・龍良山(標高558m)は、霊山として島民に崇められている。史跡名勝天然記念物、壱岐対馬国定公園に指定され、年間を通じ登山客も多く見受けられる。また、麓には厳原町が整備した「鮎もどし自然公園」があり、公園から保護林を一望できる展望台、キャンプ場等があり、多くの観光客が訪れている。」と紹介される。

 文化遺産オンラインには「史跡名勝天然記念物
龍良山原始林は対馬下島にあり標高559mで,標高120mの低地から山頂まで,良好な照葉樹林が残されている。低標高地域には,他の地域では人為により破壊されてしまった,スダジイ林が良好に残されている。標高350m以上ではアカガシ林にかわり,山頂付近では雲霧林を形成し,ラン,シダなどの着生植物が多く見られる。低地のシイ林から高地のアカガシ林までの連続した照葉樹林が良好に残されている地域は,日本でも数少なく,貴重なものである。

天然紀念物調査報告(植物之部)第五輯 一五頁 參照
天然紀念物解説 二一七頁
對馬全島中ニテ暖地性常緑樹種ノ最盛ニ發生セル原始林ニシテしひのき、あかがし、うらじろがし、をがたまのき、しきみくすのきやぶにつけい、あをがし、たぶのき、さかき、ひさかき、かくれみの、いすのき、さねかづら、むべ、むさしあぶみ、等發生ス」

 一社対馬観光物産協会のHPには「龍良山は、対馬独自の天道信仰の聖地として立ち入りが禁じられ、千古斧の入ったことのない原始の照葉樹林として、国の天然記念物に指定されています。森の平均樹齢は200年で、スダジイ・イスノキなどが他の地域では見ることのできない巨大な姿を見せています。
 低域部は雰囲気の良い照葉樹木原始林で、1時間程度の散策を楽しめます。
標高558m。登山口から山頂までのコースタイム(休憩除く)は、往路90分、復路75分。」とあり、大体200年くらいだろう。
  
 登山道は西の鞍部に向かって斜めに登り、一部は植林内を横切って鞍部に到達。鞍部から尾根を登ると岩盤の山頂である。三角点は少し先に埋まる。点名は男竜良という。往路を戻る。下山後は飲食店で蕎麦をいただく。
 その後は豆酘の尾崎山の燈台までドライブになった。対馬海流の荒波が直接ぶつかる対馬南端の海岸は絶壁に近い。5年前の薩摩半島の野間岳でも小雪混じりの悪天の中東シナ海の荒波を眼下にみた。今日は晴れているだけましだ。また厳原町まで戻ってNさん,Yさんと別れた。その後で、宗氏の菩提寺である万松院と居城であった金石城跡も訪ねた。

国境の島・対馬の山旅⑥御岳と平岳、千俵蒔山2020年01月02日

 一等三角点の山歩きの締めは平岳(本点)。位置的には九州で最北になる。外国に一番近い一等三角点ともいえる。世界遺産に登録されて上陸できなくなった沖ノ島243m(本点)と有明山(本点)とはきれいな三角網を構成する。1等三角網図を見ると平岳は有明山と沖ノ島と結び、壱岐の岳ノ辻(本点)とも結ぶ。有明山は岳ノ辻と結び、岳ノ辻は沖ノ島と結んでいる。すると観音岳(補点)の役割が薄い。
 それは「一等三角測量を行うに際し,最初は本点(約45㌔間隔)測量を実施して大体の間隔を定め、ついで一等の補点(本点を含めて約25㌔間隔)の測量をして一等三角点網を完成させ、次に一等三角点を含めて約8㌔間隔に二等三角点を設定し、以下二等三角点を含めて約4㌔間隔に三等三角点を設け、更に以上を含めて約2キロ間隔に四等三角点を設けて、各基点から地形を20㍍の等高線に描写して地形図を製作した」を読むと分かる。つまり観音岳は有明山と平岳の中間を補う役目だった。

 R382を北上する。今日で5日目でこの道も慣れた。曲折が多く、トンネルも多い。これでも豊玉町までは改良されてきたのだろう。以北はところどころ道が細くなる。カーブもタイトになる。登山口のある上県町までは工事中の箇所もあるので今まさに改良の真っ最中である。山間部を走ることが多くなるのでツシマヤマネコの事故現場も表示してドライバーに注意喚起を促す。人間様より丁寧な扱いになっている。猫は飼い猫でも車の前を直進する癖があり、引き殺される。中々の自信家なので引き返すことはしないから犠牲になる。畜生の性である。
 さて、予め見当をつけていた御岳公園Pに着いた。どう坂から平岳に直登する登山口は見た目には分からないままここまで来た。車は1台もない。用足しを済ませてさらに奥へ走ると数台の先行車があった。意外に人気がある山と知る。
 鳥居のある登山口をくぐって谷沿いから急な中腹の登山道を登るとすぐに尾根道になる。先行者に追いついてしまった。聞くと地元の家族登山だった。主人と奥さんがふうふう言いながら登っている。やがて子供らのグループに追いつく。すぐに神社がある。ここではささやかながら谷水が出ていた。この先で御岳と平岳の分岐になり左折。常緑樹の深い森を急登すると山頂だった。三角点はないが蔵王権現の祠があり、他にも複数あった。海の見える山は蔵王権現と関係があるのか。愛知県田原市の蔵王山、衣笠山にも蔵王権現が祀ってあった。
 後続が続々登頂してきて賑やかになったので私は辞して、平岳に向かった。分岐から直進する。ゆるやかな稜線はすべて常緑樹の森におおわれている。ほとんど踏まれたことがないような登山道を落ち葉を踏みしめながら上り下りする。1等三角点もうっかり見過ごしてしまいそうなところだった。
 展望は無。測量時には高い櫓を建てて三角測量をしたであろう。
 国土地理院のHPには「明治15年には、この三角点の選点 100点が終了し、明治17年からは陸軍参謀本部測量局がこの測量を引き継ぎ、いよいよ全国的な三角測量が始まりました。参謀本部では、8年間のドイツ留学から帰朝した(明治15年)田坂虎之助が現在の測量作業規程に当たる「三角測量説約」を完成させ、本格的な一等三角測量に着手しました。この時点から測量は、フランス式からドイツ式に変更されました。
 一等三角測量はこうして実施に移され、大正2年にはひととおりの観測が終了し、一応の完成を見ました。その後、千島や、樺太、台湾といったいわゆる外地の測量が実施され」た。
 こうして対馬の一等三角点は全部踏破できた。往路を戻った。登山口に戻るとまだ2台はあった。結構人気のある山だ。
 さて下山後は、司馬さんの『街道をゆく13 壱岐・対馬の道』に出てくる千俵蒔山と地元の人に聞いた和多都美神社(わたづみじんじゃ)も訪ねたい。
 とりあえず、行くのは千俵蒔山である。さらに北上し佐護川の地域を左折、案内板で右折すると山頂近くまで車道が通じていた。山頂部は電波塔があり、全部はげ山だ。車を置いてカヤトの中の歩道を歩くと山頂であった。晴れた日には韓国の釜山が見えるという。今日は冬晴れの良い日だが韓国は目を凝らしても見えなかった。残念。山頂からは佐須奈湾が見える。ここも朝鮮との交渉史に関係がある。今度来るなら山頂でビバークするのも良い。夜は釜山の夜景が見えるかも知れない。
 前述の本に引用された金達寿『金達寿小説集』の中の「対馬まで」を読むと分断国家を母国とする在日朝鮮人の複雑な心境と望郷の心がよく表現されている。1973年8月と1974年10月下旬の2回にわたる対馬紀行である。著者は『日本の中の朝鮮文化』を著して日朝の古代史の識見が好評を得たようだ。山名の由来に関係するので私も全部揃えた。例えば全国にある駒ケ岳は高麗ヶ岳とする説である。山梨県以東の関東には朝鮮文化が濃厚なはずである。
 下山中には桧の植林の中に鹿が逃げ込むのを見た。山麓に降りてからはツシマヤマネコのセンターにも寄ってみた。まだ三が日で休業中とは知りつつも行ってみた。
 R382に戻ると次は豊玉町仁位まで走った。看板で左折。大きな鳥居をくぐるとすぐに神社に着いた。ここは烏帽子岳とセットで行くところだがさすがに疲れて気力はなく、参拝だけで済ませた。もう一つ気になった対馬一之宮の海神神社は今回は時間切れで割愛した。

国境の島・対馬の山旅④洲藻白嶽2019年12月31日

 上陸後、初めて好天が期待できる日になった。早朝、ホテルを出発。R382から県道24へ左折。すぐに登山口の洲藻だ。田園の彼方にアルペン的な山容がそびえる。あちこちで遠望したが近くになると迫る感じがする。思わず降りて写真を撮る。案内板を見て左折。細い車道を走るとトイレ付のPに着いた。ここからもなお近くに迫ってくる。
 車道はいっそう狭くなり、洲藻川から離れて山間の中を走るとまた洲藻川に出て洗堰を渡りヘアピンカーブを右折。未舗装を行くと終点の登山口に着く。早速身支度して出発。しばらくは杉の茂る遊歩道のような広い道を谷沿いに歩き、少しづつ高度が上がり始める。一段と高くなると巨岩を巻いて山道も細くなった。植生も常緑樹に変わる。やがて鳥居の建つ上見坂登山道との分岐だ。ここからも道が傾斜を増しジグザグを切るようになる。地形図では南へ破線路がありその分岐の道標もあったが廃道である。先ほどの鳥居からの道に変わった。道が立ってくるとロープがぶら下がるようになる。
 雄嶽と雌嶽の手前の広場からは岩場の間をロープに頼って攀じ登る。乗り越すと向こう側に降りて左折、雄嶽に向かう。石英斑岩と呼ばれる硬い花崗岩のような岩質のグリップ力を確認しながら三転確保で攀じ登り、岩峰を南に回りながら行くと山頂に出る。トップに立つにはさらに数メートルほど滑落に注意しながら攀じ登る。360度の大展望だ。しかし狭いので立って味わうこともできず、少し下って撮影を済ます。
 風が強く寒いので山頂を早々に辞した。一旦は鞍部の広場に戻ったが、雌嶽へも踏み跡があるので行ってみた。すると縦に裂けた岩の割れ目があり、白嶽神社の鳥居があり、立入禁止になっていた。これは雌だから女陰なのだ。振り返って雄嶽を仰ぐと男根そのものに見えた。双耳峰の意味は農業信仰なのだ。愛知県にも田縣神社の男根と大縣神社の女陰ともに五穀豊穣を祈願する信仰である。
 往路を下山中、まだ時間のゆとりがあるので白岳2等三角点に行けないか、鳥居から上見坂へ入ってみた。道は植林と原始林の境になっており、植林側には有刺鉄線が張ってあった。途中、2か所の谷を渡渉して約25分歩いたが三角点に誘う踏み跡はなかったので引き返した。それでも古い破線路は藪でも歩けないかとまた登り返したが切っ掛けがない。一休みして今度は山頂直下まで登り返して三角点へのルートを探ったが見いだせなかった。往路を下山した。
 洲藻まで来ると県道24を左折。対馬の東側の港や漁村に出てみた。県道24号は漁村と漁村をつなぐ道である。美津島町今里から厳原町阿連までは整備された良い道だったが、小茂田までは羊腸の道で運転テクニックを要する大変山岳路だった。小茂田には元寇の犠牲になった記念碑があり見学した。
 小茂田からは県道44号を辿れば厳原町に行ける。途中、日見川の橋の近くに白嶽の案内板があった。古い登山道があったのだろう。上見坂公園への案内板を見るが、道はすぐに佐須坂トンネルに入り、抜けるとR382に出て右折すると厳原町市街地になった。

北鈴鹿・阿弥陀ヶ峰を歩く2019年12月14日

阿弥陀から見た霊仙山主峰三座
 11月から3度目にして登頂できました。昔1度は登ったが阿弥陀ヶ峰は道の判然としない寂峰だと改めて思いました。ルートは醒ヶ井の最奥の村・上丹生の奥を行くと配水場跡で二股になり、左の芋ヶ谷(いもがえともいう)の林道を終点まで歩き、作業道みたいな林道を登ると尾根に達し頂上まで辿るだけでした。林道の手入れは良く、落石もないので登山口のある終点まで入れる。終点の手前には林道の入り口がある。
 終点から阿弥陀ヶ峰登山道の道標にしたがって適当に踏み跡をたどると先ほど見送った林道に合流する。以後、支線が多く、迷いやすいが、おおむね高いところへ行く道を外さなければ尾根まで上がれる。支線はほぼ水平である。尾根の鞍部に達した後も山頂方向に沿う林道があるのでそこを辿り終点から少し登ると尾根になる。欅の大木がありすぎには立ち去れない。すっかり葉を落とした木立の間から雪をつけた霊仙山が見えて初冬の装いに気が引き締まります。さらによく踏まれた山道が出てきて登ると阿弥陀堂跡に着いた。ここまではかなり踏まれた登拝の道型を確認できた。木の間から伊吹山が良く見える。梓河内の山里もびっしり家が立ちこんでる。まるで隠れ里か要塞のように見える。
 阿弥陀堂跡からは道型が消え、カレンフェルトの間を縫うように登り、登頂。平頂です。ここは展望が皆無なので梓河内道を探るために少し移動するとカレンフェルトがびっしり立った展望丘に出ました。ここにして初めて霊仙山の三座が見えました。経塚山1040m、奥の最高点、右の山頂。加えて避難小屋も立っています。
 風も冷たく強くのんびりとはさせてくれません。滞在もそこそこに下山しました。7時50分に出発、10時10分に登頂。10時30分に下山。芋ヶ谷林道に着いてから地形図の峠にも立ち寄りました。そこまで林道は通じていませんので徒歩です。梓河内側の栗ヶ谷から林道が上がっています。峠から左(北)は小屋山、梓山など500m級の低山がつらなり、右(南)は585mを経由して阿弥陀ヶ峰に直登しています。踏み跡は未確認。車には12時過ぎに戻りました。
 時間があるので三島池に寄り渡り鳥にあいさつして帰名しました。朝はすっきり晴れていた伊吹山も午後には雨雲が掛かり伊吹薬草の湯を出ると時雨模様になりました。ところが関ヶ原を過ぎると晴れていた。これが雪になると本格的な冬の到来です。

忘年山行2 伊勢山上と枡形山を歩く2019年12月01日

 朝6時30分起床。今朝も良く晴れている。窓からは錫杖ヶ岳が良く見える。あの山を借景にしているのだろう。布団を畳み、荷物を片付けて朝食に食堂へ行く。既に皆さんは食事を始めるところだった。朝はパン食と野菜、フルーツの洋食風になった。それも済ますとザックを1Fにおろし、出発の準備だ。ロッジの玄関前で記念写真を撮影。車を玄関に乗り込み運び入れると出発だ。11人参加。
 まずは関ICから一志嬉野ICへ。雲出川の支流の中村川に沿う地方道を源流に向かって走る。途中から飯福田川に分かれて走ると伊勢山上飯福田寺(いせさんじょういぶたじ)に着いた。

 ここは行場といって修験者の修業の場だったらしい。HPには「元々、修験者(山伏)のための霊場・修行の場でありましたが、明治時代以降一般の方にも開放され、多くの方々に入山していただいております。但し、命の危険を伴う場所も多く、入山される場合は、必ず当寺の受付にて入山心得をお聞き頂き、入山名簿にご記帳の上、入山料500円をお納め下さい。入山中の怪我・事故等につきましては、当寺は一切責任を負えませんので、ご了承いただける方のみご入山下さい。 」とあった。以前から聞いてはいたが来る機会が無かった。
 受付で500円を払ってもらい行場の説明を聞く。再びHPによると「当山は伊勢山上と称され、ご本尊は『薬師如来』。

 大宝元年(701年)、役小角(えんのおづぬ)により開創された霊場である。広大な表行場・裏行場を有し、古来より諸侯国司をはじめ、信奉の参拝者は多く、北畠家の祈願所として栄える。                 また、天正11年(1583年)には、織田信雄に寺領・百十五貫文を寄付されたが、松坂城主・蒲生氏郷により、当山の伽藍を壊し、その材を用いて松坂城を築くなど、衰退の止む無きに至る。その後、津藩主・藤堂家の信奉を得、寺運は興隆し、今多くの人々が修行と順拝に参詣している。」とあった。

 そうか、ここにも北畠氏の勢力範囲だったのか。あるHPには「大河内城跡についてーーー北畠満雅が応永22年(1415)に築いた城で、弟の顕雅を城主としました。永禄12年(1569)北畠具教はこの城に篭もって織田信長と戦いました。織田勢は力攻したが失敗、兵糧攻めに転じたため、具教はついに信長の次男信雄を養子とする条件で和睦。信雄が田丸城に入ったため廃城。
◎北畠具教(1528-76)戦国時代の武将。弓馬・兵法・和歌など文武に秀でた端将といわれています。永禄のはじめごろから織田信長の伊勢侵攻によって、多気・大河内両城を棄てて三瀬の古城に移り、1570年出家。」と案内。

 伊勢山上の説明によれば織田信長は北畠具教を攻めた際に伊賀忍者を使ったらしい。それに対抗するためにこちらも山岳僧を養成する道場だったというのだ。

 それで出発するといの一番に油こぼしの鎖場が出てきた。鎖を掴みながら登りきるとお堂のある窟屋に行く。ここもクライミング的な順路があるが、大勢なのでエスケープルートでずるした。ここを通過すると難所はなく雑木林の中の穏やかな山道になる。最高点らしいところで小休止。するとまた次の難所が出てきた。小尻返しとかいうのでロープを出して確保してもらった。岩場に慣れない新人もいるからだ。ここも突破、次はエスケープルートを回るともう難所はなくなりスタート地点に戻った。約2時間余りの岩場巡りだった。
 受付へ下山報告後、東屋で昼食とした。休憩後、次の枡形山登山口へ移動。中村川を下って平野部に出た。向山から大阿坂町に出て山際に建つ浄眼寺へ向かった。ここにも説明板はある。

 あるHPによれば「
「阿坂城跡(白米城)について
北畠満雅が築いた城。敵軍の水断ちに遭った際、白米で馬を洗い水がふんだんにあるように見せかけ、敵をあざむき退却させたという伝説から、白米城の名があると言われています。」とあった。寺のPから約40分と手ごろ。ここは子供のころから聞いていた白米城であった。昔は地形図にもそう印刷されていなかったか。

 一山やったばかりだが、また登山の準備で登りかかった。最初はセメントの狭い舗装道路を急登する。やがて地道になって緩急取り混ぜながら山頂に着いた。なるほど眺めが良い。三等三角点も萱の山上に埋まる。すぐ近くの南の山は堀坂山、西には中村川の谷を隔てて矢頭山、髯山(ひげ)、雨乞山が並ぶ。さらに向こうには尼ヶ岳(伊賀富士)が頭を出している。山頂の案内板には日川富士もある。これは観音岳の北西の508mの独立標高点を指すらしい。
 4人のパーティを組んで近鉄伊勢中川駅でタクシーを拾い、浄眼寺へ走り、枡形山から日川富士を経由、観音岳を登って下山し、またタクシーを呼んで松阪駅へ行けば手軽な縦走コースになる。

 戦国時代にこの地域を統括していた「北畠 具教(きたばたけ とものり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名・公家。伊勢国司北畠家の第8代当主。」

「永禄11年(1568年)以降、尾張国の織田信長が伊勢国に侵攻し、神戸氏・長野工藤氏など伊勢北中部の豪族を支配下に置いた。そして、永禄12年(1569年)に8月に信長自ら北畠領内への侵攻を開始した[2]。北畠軍は織田軍相手に奮戦したが、兵数に大きな差があり、具教の弟・木造具政が織田氏に寝返るなどの悪条件も重なり、次々と城を落とされた。具教は大河内城(現在の三重県松阪市)に籠城して死守するも、50余日に及ぶ抵抗の末に降伏する形で和睦した(大河内城の戦い)[2][3]。このとき、具教は降伏の条件として信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養嗣子として迎え入れることとなる」

「天正4年11月25日(1576年12月15日)、具教は信長と信雄の命を受けた旧臣(長野左京亮、加留左京進(藤方朝成の名代))の襲撃を受けて、子の徳松丸・亀松丸、および家臣の大橋長時・松田之信・上杉頼義ら(名が判明しているだけで14名の武士)共々殺害された[2][3]。享年49。同時に長野具藤はじめ北畠一門の主な者が信雄の居城・田丸城において殺害された。これにより戦国大名としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られた(三瀬の変)。」

 織田信長の年表を見ると戦いに忙しかった。34歳時の1567年は本拠を岐阜城に移転。42歳時の1575年は有名な長篠の戦いがあった。1576年には安土城を築く。1582年には信長も本能寺の変で自害。
 北畠家は伊勢国司家としては滅亡したとある。江戸時代以降も継承されたが「中院通勝の子親顕が北畠家の名跡を継承したが、寛永7年(1630年)、親顕が没し、跡継ぎがなく北畠家は断絶」した。しかしその後「1871年(明治4年)7月、久我建通の子通城が分家して北畠姓に改姓し、家名を再興した。後に北畠親房、顕家らを祭る霊山神社の宮司を務めた。」とあり、北畠家から分家筋が一旦名前を変更後、北畠を名乗るようになった。
 「北畠政郷の子・田丸顕晴が度会郡田丸城に入って田丸氏を名乗ったことに始まる。」田丸氏は知人にも同姓が居る。松山市出身だが、松山藩の徳川家に仕えた田丸氏の子孫だろうか。浪岡氏は青森県の北畠につながる。
 これで今年は3月の北畠親房(1293~1354)の田丸城見学、5月の青森の北畠八穂(1903~1982)の調査、11月の近江柏原の北畠具行(1290~1332)の墓見学、12月の北畠具教(1528~1576)の縁の山に登ったことで4人を知った。八穂は近代の人。北畠家系図を見ると親房と具行は同時代なんですね。天皇の政治から貴族の政治へ、平安時代は過ぎて、鎌倉時代の武家政治に変遷する中で登場してくる。具行は安土桃山時代の人。何となく分かりかけて来た。

忘年山行1霊山を歩く2019年11月30日

 朝8時過ぎ、私、M野、K,M本、T、I島の6人が集結し、金山駅前を出発。9時過ぎ亀山PA着。ここでIさんとSさんに合流し8名になる。東名阪高速を出て名阪国道(R25)へ行く。快調に飛ばして伊賀(柘植)ICを出る。スマホのナビで地理勘もなく霊山寺へ導かれる。
 霊山寺には数台の先行車が止まっていた。手軽なハイキングの山である。私たちも支度して出発。境内の長い階段を登ると本堂の横の大銀杏が黄金色に輝くような黄葉が素晴らしい。一度も吠えず老犬が見守ってくれる。登山道は左へ少し下った林道である。
 林道の終点から杉の植林の中の登山道が始まる。というより参詣の道だろうか。200mごとに号数が増える。とにかく異口同音に寒いと訴える。中腹まで登ると温まり一枚脱ぐ。
 中途には寺院遺跡のような名残りの名前がある。山頂直下には湿地帯もあったから夏は僅かでも湧水があるのだろう。山岳霊山が成立するには水源が大きな条件になる。

 伊賀上野観光協会のHPには霊山寺は「創建は古く、霊山山頂(765.8m)には、平安時代〜江戸時代にかけての一大寺院跡(面積11,200m2)があります。奥之院には、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)(延宝3年〈1675年〉)を安置し、石造台座には永仁3年(1295年)5月10日の銘があります。
 その後、霊山寺は現在のように霊山中腹に再興され、天台宗より黄檗(おうばく)宗に改宗されました。
本尊、十一面観世音菩薩は寄木造で、像高1.8m、江戸時代初期の作です。ほかに普賢(ふけん)菩薩や、平安時代の銅鏡が保管されています。」と約700年の歴史を誇る古刹である。

 山頂へは雑木林に変わった辺りから緩やかに登り石段を登ると萱とのの平らな山頂だった。南西の隅っこに一等三角点が埋まっていた。経塚を中心に塁が築かれている。そこに腰を下ろして休む。寒いのでやることもなく早々に下山した。
 本堂では俳句の投句箱があったので2句を即吟で投句しておいた。滋賀の大津市で4句、今日で2句と投句した。果たして結果は如何に。
 ゲストハウス関ロッジに行くにはまだ時間が早いので芭蕉公園を散策した。芭蕉は韜晦したので生まれた家、場所も定かではないらしい。そこで上野市は生家を具体的に挙げ、ここ柘植町にも生誕地を訴えます。
 観光資源になるほどの大物は違います。
 案内板には
「俳聖松尾芭蕉翁は、1644(正保1)年に伊賀国柘植郷拝野の里(現在の三重県阿山郡伊賀町大字柘植町)松尾儀左衛門の二男として生まれました。翁を偲び毎年11月12日に松尾家の菩提寺である萬寿寺などにおいて、しぐれ忌が開催されます。また、伊賀町内には句碑や像の他に、生誕地の碑・生誕宅址碑等が建てられ、翁の遺徳を讃えています。」
 園内には有名な

「古里や 臍のをに泣く としのくれ」

という、芭蕉が親不孝を詫びて詠んだ句碑が建っていました。旅の途中で訃報を聞いたにも関わらず死に目にも会えず、葬儀に来れなかった。兄からこれが母が大事に持って居たお前の臍の緒だと渡されて泣いたというのである。

その後、伊賀IC近くのレストランで蕎麦を食べて温まりました。そろそろ時間と関ロッジへ向かいました。このところ数年は常宿みたいになりました。自炊ながら風呂、布団もある立派なお宿です。
 今日は新人2名も含めて15名もの盛会になりました。かつては旧人ばかりだったこともあり10名前後で推移してきました。もう1名の新人候補もいたのですがあいにく風邪でドタキャンになりました。鋤鍋を囲んで今年の反省や来年の抱負など語らいました。例年になく充実した忘年山行になりました。その一方では70歳代後半から80歳代の3名の古参会員の退会を聞かされたので喜びも半ばですが。

北鈴鹿・阿弥陀ヶ岳撤退2019年11月17日

 関ヶ原ICを出てR21を醒ヶ井養鱒場交差点まで走って左折。上丹生の二股で左折。今年4月には工事中で入れず、急遽霊仙山に切り替えた。それはそれで良かったが登り損ないのままでは気になる。ヤマビルの多い時期を避けると今時がベストである。ただし短日なのでこの山だけに絞る。
 金山駅前を7時30分に出発、登山口には9時過ぎに到着。2台の先行車が止まっているがすぐ奥へ走って行った。われわれは左折して林道沿いを走り登山口を探すがない。最初の廃施設の左手からの踏み跡を行くしかなさそうだ。
 良い感じで登れたが廃道になり、段々に急斜面になる。しかも昨夜からの雨でぬかるんでいるので滑りやすい。踏み跡は下部だけですぐ鹿の獣道らしい跡をたどる。急斜面に落ち葉が積もり神経質な登りが続き、結局滑落の危険を感じて中途で撤退することとした。1時間ほど彷徨っただけである。
 クルマに戻ってさて、と時間はあるので柏原宿の観光にした。徳源院まで行き、近江百山の清滝山の登山口を確認後、中世のお公家か、北畠具行の墓地を訪ねた。この山道は東山道らしい。柏原宿は中山道だがそれより古い街道もこうして残されているのは歴史を大切にする滋賀県らしい。
 柏原宿の歴史資料館の休憩所で喫茶。この家屋は漆の商売で財をなした松浦姓の商人の商家だったのを米原市が買い取って観光施設に活用した。この店の水はすこぶるうまい。何杯もお代わりした。うまい水でコーヒーを淹れるから尚うまい。おそらく近江米もうまいだろう。
 まだ時間があるので湖北・高月町の歴史資料館に行き、雨森芳洲の企画展を見学した。滋賀県は明智光秀のゆかりの地の掘り起こしと雨森芳洲の顕彰にこれ務めている。歴史ファンにはたまらない。
 来週は韓国人による「韓国から見た雨森芳洲」の演題で講演会が開催される予定だ。阿弥陀ヶ岳を午前中にさっさと登り、午後は講演会へと掛け持ちで行きたい。朝7時出発なら12時までに降りてこれる。忙しいが何とかなるだろう。

司馬遼太郎『北のまほろば―街道をゆく〈41〉』読了2019年06月22日

目次だけを見てもボリュームたっぷりだった。読みこなすのは大変なことだった。

古代の豊かさ
陸奥の名のさまざま
津軽衆と南部衆
津軽の作家たち
石坂の“洋サン”
弘前城
雪の本丸
半日高堂ノ話
人としての名山
満ちあふれる部屋
木造駅の怪奇
カルコの話
鰺ケ沢
十三湖
湖畔のしじみ汁
金木町見聞記
岩木山と富士山
翡翠の好み
劇的なコメ
田村麻呂の絵灯篭
二つの雪
山上の赤トンボ
志功華厳譜
棟方志功の「柵」
移ってきた会津藩
会津が来た話
祭りとえびすめ
鉄が錦になる話
恐山近辺
三人の殿輩
蟹田の蟹
義経渡海
龍飛岬
リンゴの涙
以上
・・・約400ページに圧縮され、非常に多彩なテーマを織り交ぜながら、青森県の歴史と文化を楽しませる。
 ことに興味深いのは愛知県豊橋市出身の菅江真澄の話が縦横に語られること。真澄の見聞が契機となって古代史に光が当たる。真澄の旅は物見遊山ではなく、国学で学んだこと、すなわち日本のことをもっと知りたい、日本人は何者だったのか、という学問的欲求だったと思われる。
 山のこともちょっぴりだが入っている。岩木山、八甲田山をベースにした文学の盛んなことも指摘。風土色の強い芸能も盛んである。
 青森県の歴史は津軽と南部の重層性が特殊である。津軽は南部から分かれた。津軽為信の野心が南部からの独立させた。弘前城の規模は徳川家康の許容範囲を超えたものらしい。それは関ケ原の戦いに際しての津軽為信の政治性の巧みを描く。
 その上に近代以降の会津藩の多層性もある。青森県の歴史と文化は一筋縄では解読できない複雑さがある。
 個人的な興味は三重県の北畠家が青森へ移ったことで、児童文学者・北畠八穂が生まれ、近代文学に華を添えた。
 この紀行自体は太宰治の『津軽』を下敷きにしている。太宰の視点で津軽の理解に努めた風だ。
 リンゴの涙の章の最後に小学生の詩を引いた。「リンゴの涙」と「でかせぎ」。「津軽や南部の言葉を聞いていると、そのまま詩だと思うことがある。」と。「この小さな津軽詩人の詩を借りて「北のまほろば」を終える。」と締めくくった。
 演歌歌手・吉幾三の「津軽平野」は1984年のリリース。歌詞にでかせぎ、岩木山が出てくる。美空ひばりの「津軽のふるさと」「りんご追分」など数々の名曲にはりんご、岩木山が出てくる。
 青森県自体が詩の国なのである。

 初出誌は1994年5月22日~1995年2月24日号の週刊朝日に連載された。

 この中の「湖畔のシジミ汁」には名古屋市の出身で、城郭考古学を専門とする奈良大学教授の千田 嘉博氏の学説も引用されている。名古屋城の解体、木造化で揺れている昨今、千田氏の言動に注目が集まる。上物の更新だけに傾倒した行政の前のめりの姿勢を批判し、石垣の保全に目を向けさせる。