忘年山行2 伊勢山上と枡形山を歩く2019年12月01日

 朝6時30分起床。今朝も良く晴れている。窓からは錫杖ヶ岳が良く見える。あの山を借景にしているのだろう。布団を畳み、荷物を片付けて朝食に食堂へ行く。既に皆さんは食事を始めるところだった。朝はパン食と野菜、フルーツの洋食風になった。それも済ますとザックを1Fにおろし、出発の準備だ。ロッジの玄関前で記念写真を撮影。車を玄関に乗り込み運び入れると出発だ。11人参加。
 まずは関ICから一志嬉野ICへ。雲出川の支流の中村川に沿う地方道を源流に向かって走る。途中から飯福田川に分かれて走ると伊勢山上飯福田寺(いせさんじょういぶたじ)に着いた。

 ここは行場といって修験者の修業の場だったらしい。HPには「元々、修験者(山伏)のための霊場・修行の場でありましたが、明治時代以降一般の方にも開放され、多くの方々に入山していただいております。但し、命の危険を伴う場所も多く、入山される場合は、必ず当寺の受付にて入山心得をお聞き頂き、入山名簿にご記帳の上、入山料500円をお納め下さい。入山中の怪我・事故等につきましては、当寺は一切責任を負えませんので、ご了承いただける方のみご入山下さい。 」とあった。以前から聞いてはいたが来る機会が無かった。
 受付で500円を払ってもらい行場の説明を聞く。再びHPによると「当山は伊勢山上と称され、ご本尊は『薬師如来』。

 大宝元年(701年)、役小角(えんのおづぬ)により開創された霊場である。広大な表行場・裏行場を有し、古来より諸侯国司をはじめ、信奉の参拝者は多く、北畠家の祈願所として栄える。                 また、天正11年(1583年)には、織田信雄に寺領・百十五貫文を寄付されたが、松坂城主・蒲生氏郷により、当山の伽藍を壊し、その材を用いて松坂城を築くなど、衰退の止む無きに至る。その後、津藩主・藤堂家の信奉を得、寺運は興隆し、今多くの人々が修行と順拝に参詣している。」とあった。

 そうか、ここにも北畠氏の勢力範囲だったのか。あるHPには「大河内城跡についてーーー北畠満雅が応永22年(1415)に築いた城で、弟の顕雅を城主としました。永禄12年(1569)北畠具教はこの城に篭もって織田信長と戦いました。織田勢は力攻したが失敗、兵糧攻めに転じたため、具教はついに信長の次男信雄を養子とする条件で和睦。信雄が田丸城に入ったため廃城。
◎北畠具教(1528-76)戦国時代の武将。弓馬・兵法・和歌など文武に秀でた端将といわれています。永禄のはじめごろから織田信長の伊勢侵攻によって、多気・大河内両城を棄てて三瀬の古城に移り、1570年出家。」と案内。

 伊勢山上の説明によれば織田信長は北畠具教を攻めた際に伊賀忍者を使ったらしい。それに対抗するためにこちらも山岳僧を養成する道場だったというのだ。

 それで出発するといの一番に油こぼしの鎖場が出てきた。鎖を掴みながら登りきるとお堂のある窟屋に行く。ここもクライミング的な順路があるが、大勢なのでエスケープルートでずるした。ここを通過すると難所はなく雑木林の中の穏やかな山道になる。最高点らしいところで小休止。するとまた次の難所が出てきた。小尻返しとかいうのでロープを出して確保してもらった。岩場に慣れない新人もいるからだ。ここも突破、次はエスケープルートを回るともう難所はなくなりスタート地点に戻った。約2時間余りの岩場巡りだった。
 受付へ下山報告後、東屋で昼食とした。休憩後、次の枡形山登山口へ移動。中村川を下って平野部に出た。向山から大阿坂町に出て山際に建つ浄眼寺へ向かった。ここにも説明板はある。

 あるHPによれば「
「阿坂城跡(白米城)について
北畠満雅が築いた城。敵軍の水断ちに遭った際、白米で馬を洗い水がふんだんにあるように見せかけ、敵をあざむき退却させたという伝説から、白米城の名があると言われています。」とあった。寺のPから約40分と手ごろ。ここは子供のころから聞いていた白米城であった。昔は地形図にもそう印刷されていなかったか。

 一山やったばかりだが、また登山の準備で登りかかった。最初はセメントの狭い舗装道路を急登する。やがて地道になって緩急取り混ぜながら山頂に着いた。なるほど眺めが良い。三等三角点も萱の山上に埋まる。すぐ近くの南の山は堀坂山、西には中村川の谷を隔てて矢頭山、髯山(ひげ)、雨乞山が並ぶ。さらに向こうには尼ヶ岳(伊賀富士)が頭を出している。山頂の案内板には日川富士もある。これは観音岳の北西の508mの独立標高点を指すらしい。
 4人のパーティを組んで近鉄伊勢中川駅でタクシーを拾い、浄眼寺へ走り、枡形山から日川富士を経由、観音岳を登って下山し、またタクシーを呼んで松阪駅へ行けば手軽な縦走コースになる。

 戦国時代にこの地域を統括していた「北畠 具教(きたばたけ とものり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名・公家。伊勢国司北畠家の第8代当主。」

「永禄11年(1568年)以降、尾張国の織田信長が伊勢国に侵攻し、神戸氏・長野工藤氏など伊勢北中部の豪族を支配下に置いた。そして、永禄12年(1569年)に8月に信長自ら北畠領内への侵攻を開始した[2]。北畠軍は織田軍相手に奮戦したが、兵数に大きな差があり、具教の弟・木造具政が織田氏に寝返るなどの悪条件も重なり、次々と城を落とされた。具教は大河内城(現在の三重県松阪市)に籠城して死守するも、50余日に及ぶ抵抗の末に降伏する形で和睦した(大河内城の戦い)[2][3]。このとき、具教は降伏の条件として信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養嗣子として迎え入れることとなる」

「天正4年11月25日(1576年12月15日)、具教は信長と信雄の命を受けた旧臣(長野左京亮、加留左京進(藤方朝成の名代))の襲撃を受けて、子の徳松丸・亀松丸、および家臣の大橋長時・松田之信・上杉頼義ら(名が判明しているだけで14名の武士)共々殺害された[2][3]。享年49。同時に長野具藤はじめ北畠一門の主な者が信雄の居城・田丸城において殺害された。これにより戦国大名としての北畠氏は完全に織田氏に乗っ取られた(三瀬の変)。」

 織田信長の年表を見ると戦いに忙しかった。34歳時の1567年は本拠を岐阜城に移転。42歳時の1575年は有名な長篠の戦いがあった。1576年には安土城を築く。1582年には信長も本能寺の変で自害。
 北畠家は伊勢国司家としては滅亡したとある。江戸時代以降も継承されたが「中院通勝の子親顕が北畠家の名跡を継承したが、寛永7年(1630年)、親顕が没し、跡継ぎがなく北畠家は断絶」した。しかしその後「1871年(明治4年)7月、久我建通の子通城が分家して北畠姓に改姓し、家名を再興した。後に北畠親房、顕家らを祭る霊山神社の宮司を務めた。」とあり、北畠家から分家筋が一旦名前を変更後、北畠を名乗るようになった。
 「北畠政郷の子・田丸顕晴が度会郡田丸城に入って田丸氏を名乗ったことに始まる。」田丸氏は知人にも同姓が居る。松山市出身だが、松山藩の徳川家に仕えた田丸氏の子孫だろうか。浪岡氏は青森県の北畠につながる。
 これで今年は3月の北畠親房(1293~1354)の田丸城見学、5月の青森の北畠八穂(1903~1982)の調査、11月の近江柏原の北畠具行(1290~1332)の墓見学、12月の北畠具教(1528~1576)の縁の山に登ったことで4人を知った。八穂は近代の人。北畠家系図を見ると親房と具行は同時代なんですね。天皇の政治から貴族の政治へ、平安時代は過ぎて、鎌倉時代の武家政治に変遷する中で登場してくる。具行は安土桃山時代の人。何となく分かりかけて来た。

忘年山行1霊山を歩く2019年11月30日

 朝8時過ぎ、私、M野、K,M本、T、I島の6人が集結し、金山駅前を出発。9時過ぎ亀山PA着。ここでIさんとSさんに合流し8名になる。東名阪高速を出て名阪国道(R25)へ行く。快調に飛ばして伊賀(柘植)ICを出る。スマホのナビで地理勘もなく霊山寺へ導かれる。
 霊山寺には数台の先行車が止まっていた。手軽なハイキングの山である。私たちも支度して出発。境内の長い階段を登ると本堂の横の大銀杏が黄金色に輝くような黄葉が素晴らしい。一度も吠えず老犬が見守ってくれる。登山道は左へ少し下った林道である。
 林道の終点から杉の植林の中の登山道が始まる。というより参詣の道だろうか。200mごとに号数が増える。とにかく異口同音に寒いと訴える。中腹まで登ると温まり一枚脱ぐ。
 中途には寺院遺跡のような名残りの名前がある。山頂直下には湿地帯もあったから夏は僅かでも湧水があるのだろう。山岳霊山が成立するには水源が大きな条件になる。

 伊賀上野観光協会のHPには霊山寺は「創建は古く、霊山山頂(765.8m)には、平安時代〜江戸時代にかけての一大寺院跡(面積11,200m2)があります。奥之院には、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)(延宝3年〈1675年〉)を安置し、石造台座には永仁3年(1295年)5月10日の銘があります。
 その後、霊山寺は現在のように霊山中腹に再興され、天台宗より黄檗(おうばく)宗に改宗されました。
本尊、十一面観世音菩薩は寄木造で、像高1.8m、江戸時代初期の作です。ほかに普賢(ふけん)菩薩や、平安時代の銅鏡が保管されています。」と約700年の歴史を誇る古刹である。

 山頂へは雑木林に変わった辺りから緩やかに登り石段を登ると萱とのの平らな山頂だった。南西の隅っこに一等三角点が埋まっていた。経塚を中心に塁が築かれている。そこに腰を下ろして休む。寒いのでやることもなく早々に下山した。
 本堂では俳句の投句箱があったので2句を即吟で投句しておいた。滋賀の大津市で4句、今日で2句と投句した。果たして結果は如何に。
 ゲストハウス関ロッジに行くにはまだ時間が早いので芭蕉公園を散策した。芭蕉は韜晦したので生まれた家、場所も定かではないらしい。そこで上野市は生家を具体的に挙げ、ここ柘植町にも生誕地を訴えます。
 観光資源になるほどの大物は違います。
 案内板には
「俳聖松尾芭蕉翁は、1644(正保1)年に伊賀国柘植郷拝野の里(現在の三重県阿山郡伊賀町大字柘植町)松尾儀左衛門の二男として生まれました。翁を偲び毎年11月12日に松尾家の菩提寺である萬寿寺などにおいて、しぐれ忌が開催されます。また、伊賀町内には句碑や像の他に、生誕地の碑・生誕宅址碑等が建てられ、翁の遺徳を讃えています。」
 園内には有名な

「古里や 臍のをに泣く としのくれ」

という、芭蕉が親不孝を詫びて詠んだ句碑が建っていました。旅の途中で訃報を聞いたにも関わらず死に目にも会えず、葬儀に来れなかった。兄からこれが母が大事に持って居たお前の臍の緒だと渡されて泣いたというのである。

その後、伊賀IC近くのレストランで蕎麦を食べて温まりました。そろそろ時間と関ロッジへ向かいました。このところ数年は常宿みたいになりました。自炊ながら風呂、布団もある立派なお宿です。
 今日は新人2名も含めて15名もの盛会になりました。かつては旧人ばかりだったこともあり10名前後で推移してきました。もう1名の新人候補もいたのですがあいにく風邪でドタキャンになりました。鋤鍋を囲んで今年の反省や来年の抱負など語らいました。例年になく充実した忘年山行になりました。その一方では70歳代後半から80歳代の3名の古参会員の退会を聞かされたので喜びも半ばですが。

北鈴鹿・阿弥陀ヶ岳撤退2019年11月17日

 関ヶ原ICを出てR21を醒ヶ井養鱒場交差点まで走って左折。上丹生の二股で左折。今年4月には工事中で入れず、急遽霊仙山に切り替えた。それはそれで良かったが登り損ないのままでは気になる。ヤマビルの多い時期を避けると今時がベストである。ただし短日なのでこの山だけに絞る。
 金山駅前を7時30分に出発、登山口には9時過ぎに到着。2台の先行車が止まっているがすぐ奥へ走って行った。われわれは左折して林道沿いを走り登山口を探すがない。最初の廃施設の左手からの踏み跡を行くしかなさそうだ。
 良い感じで登れたが廃道になり、段々に急斜面になる。しかも昨夜からの雨でぬかるんでいるので滑りやすい。踏み跡は下部だけですぐ鹿の獣道らしい跡をたどる。急斜面に落ち葉が積もり神経質な登りが続き、結局滑落の危険を感じて中途で撤退することとした。1時間ほど彷徨っただけである。
 クルマに戻ってさて、と時間はあるので柏原宿の観光にした。徳源院まで行き、近江百山の清滝山の登山口を確認後、中世のお公家か、北畠具行の墓地を訪ねた。この山道は東山道らしい。柏原宿は中山道だがそれより古い街道もこうして残されているのは歴史を大切にする滋賀県らしい。
 柏原宿の歴史資料館の休憩所で喫茶。この家屋は漆の商売で財をなした松浦姓の商人の商家だったのを米原市が買い取って観光施設に活用した。この店の水はすこぶるうまい。何杯もお代わりした。うまい水でコーヒーを淹れるから尚うまい。おそらく近江米もうまいだろう。
 まだ時間があるので湖北・高月町の歴史資料館に行き、雨森芳洲の企画展を見学した。滋賀県は明智光秀のゆかりの地の掘り起こしと雨森芳洲の顕彰にこれ務めている。歴史ファンにはたまらない。
 来週は韓国人による「韓国から見た雨森芳洲」の演題で講演会が開催される予定だ。阿弥陀ヶ岳を午前中にさっさと登り、午後は講演会へと掛け持ちで行きたい。朝7時出発なら12時までに降りてこれる。忙しいが何とかなるだろう。

司馬遼太郎『北のまほろば―街道をゆく〈41〉』読了2019年06月22日

目次だけを見てもボリュームたっぷりだった。読みこなすのは大変なことだった。

古代の豊かさ
陸奥の名のさまざま
津軽衆と南部衆
津軽の作家たち
石坂の“洋サン”
弘前城
雪の本丸
半日高堂ノ話
人としての名山
満ちあふれる部屋
木造駅の怪奇
カルコの話
鰺ケ沢
十三湖
湖畔のしじみ汁
金木町見聞記
岩木山と富士山
翡翠の好み
劇的なコメ
田村麻呂の絵灯篭
二つの雪
山上の赤トンボ
志功華厳譜
棟方志功の「柵」
移ってきた会津藩
会津が来た話
祭りとえびすめ
鉄が錦になる話
恐山近辺
三人の殿輩
蟹田の蟹
義経渡海
龍飛岬
リンゴの涙
以上
・・・約400ページに圧縮され、非常に多彩なテーマを織り交ぜながら、青森県の歴史と文化を楽しませる。
 ことに興味深いのは愛知県豊橋市出身の菅江真澄の話が縦横に語られること。真澄の見聞が契機となって古代史に光が当たる。真澄の旅は物見遊山ではなく、国学で学んだこと、すなわち日本のことをもっと知りたい、日本人は何者だったのか、という学問的欲求だったと思われる。
 山のこともちょっぴりだが入っている。岩木山、八甲田山をベースにした文学の盛んなことも指摘。風土色の強い芸能も盛んである。
 青森県の歴史は津軽と南部の重層性が特殊である。津軽は南部から分かれた。津軽為信の野心が南部からの独立させた。弘前城の規模は徳川家康の許容範囲を超えたものらしい。それは関ケ原の戦いに際しての津軽為信の政治性の巧みを描く。
 その上に近代以降の会津藩の多層性もある。青森県の歴史と文化は一筋縄では解読できない複雑さがある。
 個人的な興味は三重県の北畠家が青森へ移ったことで、児童文学者・北畠八穂が生まれ、近代文学に華を添えた。
 この紀行自体は太宰治の『津軽』を下敷きにしている。太宰の視点で津軽の理解に努めた風だ。
 リンゴの涙の章の最後に小学生の詩を引いた。「リンゴの涙」と「でかせぎ」。「津軽や南部の言葉を聞いていると、そのまま詩だと思うことがある。」と。「この小さな津軽詩人の詩を借りて「北のまほろば」を終える。」と締めくくった。
 演歌歌手・吉幾三の「津軽平野」は1984年のリリース。歌詞にでかせぎ、岩木山が出てくる。美空ひばりの「津軽のふるさと」「りんご追分」など数々の名曲にはりんご、岩木山が出てくる。
 青森県自体が詩の国なのである。

 初出誌は1994年5月22日~1995年2月24日号の週刊朝日に連載された。

 この中の「湖畔のシジミ汁」には名古屋市の出身で、城郭考古学を専門とする奈良大学教授の千田 嘉博氏の学説も引用されている。名古屋城の解体、木造化で揺れている昨今、千田氏の言動に注目が集まる。上物の更新だけに傾倒した行政の前のめりの姿勢を批判し、石垣の保全に目を向けさせる。

岩木山登山2019年04月30日

 朝4時過ぎ、明るさに目が覚める。さっそく朝食に取り掛かる。あり合わせの野菜類を使った汁物で体を温める。片づけてPを出て、R101に戻る。青森まで120kmとの道路表示にかなり遠いのだと悟る。
 今日は午後から天気が悪いとの予報である。津軽半島への移動は止めて、岩木山を前倒しした。鯵ヶ沢から津軽岩木スカイラインの入り口に向けて右折。着いたらまだ7時なので8時までの時間は岩木山神社へ参拝に行った。令和を寿ぐ幟がたくさん立っていた。朝早いにもかかわらず岩木山神社は参拝客がもういた。
 また戻ってスカイラインに入った。通行料1800円のところ、JAFカード提示で200円引き。このスカイラインは69ものカーブをつけて1250mまで登る約10kmの山岳道路だ。Pには意外に多くの車が先着していた。しかも春スキーヤーの人らが多い。登山口の表示はあるがここから雪面ばかりである。比高390mあり、約1時間半の登りがある。但し踏み跡は見えない。先行者はシール登高してゆく。
 9時、ツボ足では見当が付かず、さらに登山リフト利用で登ることにした。往復900円である。リフトを降りると標高1470mくらいまで高度を上げる。硬い雪面を歩いて登山道に行く。いったんくだって岩の段々の急登をしのぐと1625mの山頂であった。
 たくさんの観光登山の登頂者であふれている。時に10時である。15分ばかりの滞在で下山する。
 登山リフトの乗り場まで来ると、もうガスが垂れ込めてきて山頂は見えなくなった。天候の悪化は山頂に寒気が来たことで分かる。
 スカイラインを下り、岩木山神社まで来る。地元のGSで給油して、良い温泉はないか、と聞くと百沢温泉を教えてくれた。350円だがJAFカード提示で50円引きになった。但し石鹸、シャンプーはない。非常に熱いお湯だった。長旅の疲れがほぐれて気持ちのいい湯加減に思えた。
 クルマの流れに任せて、弘前市内に入った。現在は桜まつりのたけなわで観光客と車でごった返していた。これはミスった。R339へ逃げて、竜飛岬を目指した。
 R339は津軽平野を貫通する。広大な田園風景が広がり、彼方に今しがた登ったばかりの岩木山が見えた。山体はほとんど雲に隠れていた。吉幾三の「津軽平野」はここが舞台か。真冬には一面雪に覆われると農作業はできないから出稼ぎに行く。そんな歌詞だった。
 途中、太宰治の出生地であることの案内(斜陽館)があり、心惹かれるがあまり時間はない。十三湖の道の駅の食堂ではしじみラーメンを食した。十三湊遺跡を見たり、港町の小泊では太宰治の文学館にも寄ったが、5時過ぎで、既に閉館していた。日本海に出て今夜は道の駅「こどまり」で車中泊になった。

常寒山と三遠研総会2019年04月20日

常寒山と石の祠
 午後から三遠研の総会参加を兼ねて近隣の常寒山登山に出掛けた。朝5時30分に自宅を出発。東名三好ICから高速で新城ICへ。弁天橋を渡って吉川の里を走る。吉川峠を越えるとゆったり下り、中山間地域の田園が広がる。しばらくで左へ上ると西竹ノ輪、さらに小さな乗り越しを越えると東竹ノ輪に着く。
 地形図の破線路はここから上がっているので登山口を探る。左に古い常寒山登山口の標柱が立っている。よく見ると(高塚山)と書いてあった。左折して行けるところまで行ったがPはないので戻る。公民館の前も空いているが集会でもあればと思うとはばかられる。乗り越しまで戻ると何と登山者向けの駐車場の看板があった。日吉神社の境内の一角である。7時40分からここに止めて歩き出す。
 さきほどマイカーで詰めまで走った。その先へ行くが新しい林道や堰堤工事の道の跡もあって迷う。地形図で人里からしばらくは谷を行き、尾根に乗り換える。そんな山道はないので堰堤を越えて進んだが踏み跡は一切ない。左岸側を探りながら下ってみた。すると2m幅の先ほどの林道と合流する。
 実は登ってみて分かったのは、破線路をなぞるように林道を作ったらしい。途中で左へ尾根を巻いてゆく山道と林道は幅を狭めて右へ行く。尾根を行くと再び林道に出た。左へは下ってゆくので右へ振った。すると平坦な林道は450m付近に着いた。ここに石仏が一体あった。いわゆる稜線に着いた。林道は左へ振って行くが、稜線の道も歩きやすいので山道を選んだ。結局山道と林道は常寒山へ平行してながら登ってゆく。林道と接する箇所は2か所あるのでどちらでも良い。
 山頂直下で下ってくる人にあった。大平(おおびら)の住民で、山上に紫蘭を植栽中で面倒を見るために毎日登山しているそうだ。寒いので育ちが遅いとか。紫蘭にも野生があるのか問うと栽培種だという。人と別れて山頂の手前の鳥居に一礼して9時30分に登頂。なるほど紫蘭が20mほどの列で植栽中であった。まだつぼみで1週間後だろうか。
 山頂は平らで石仏が3体あるのみで三角点はない。展望もないので水を飲んで縦走路を行くことにした。467mまですぐだった。ここにはまた石の祠があった。吉川峠よりにあるが分かりにくい。縦走路は右へ直角に曲がってゆく。古い案内板を拾っておいた。この辺りは地形図でよくチエックしたいところだ。
 467mから南東尾根を下れば東竹ノ輪に下れる。405mからやや複雑な尾根をRFしてもPへダイレクトに下れる。吉川峠への尾根と確認すると防火帯の約3m幅の歩きやすいところを歩くことになる。踏み跡はないし、赤テープの類もない。但し、黄色の紐が切らずに伸ばしてあった。405mから南東へ振っても西竹ノ輪に下れたが、三角点312mへ真南に下った。三角点をチエック後は左へ南東にくだった。踏み跡は一切ないが下草がなく藪もないために歩きやすい。但し急斜面であった。バイク音が聞こえて県道の峠道が近いことが分かった。その音に引かれて下ると吉川峠の300m下の車道に出た。ここから峠を越え、日吉神社のPまで約30分歩いた。11時30分だった。
 その後富岡ふるさと会館に行き、三遠研総会に出席した。総会は式次第で進行。鳳来寺山東照宮の宮司さんを招いての講演になった。鳳来寺山の歴史から説き起こし、東照宮としての来歴を語られた。結構重層的な歴史を持つゆえに古刹といわれるのだ。総会後は豊橋平野をドライブ。今は石巻周辺の柿園が一斉に若葉となって広がった。豊川河川敷まで下りて本宮山と組み合わせて写真を撮影した。まだ明るいので音羽蒲郡ICまで地道を走って高速入した。1日遊んだ。

「新設楽発見伝5」(平成30年度設楽ダム関連の発掘調査報告会)に参加2019年03月03日

ソース:https://www.facebook.com/events/2266817310199731/

 船着山を下山後、まだ時間が有り余るので、R151から東栄町の「とうえい温泉」に向った。途中、東栄インターが開通準備中でした。午後4時と書いてあった。早速ユーチューブにアップされていた。
https://www.youtube.com/watch?v=NoTQEJVcC8U
現在は断続的だが、佐久間ダム直下まで行ける。山で言えば日本ヶ塚山や南アルプスの深南部へのアクセスが改善される。
 久々のとうえい温泉である。10時からの開業に少し前に着いた。入湯を待っている車も10台くらいはあった。ファンがいるのだろう。朝風呂でさっぱりしたところでR473を走って田口へ。この道も大幅に改良された。岩古谷トンネルが開通したからだ。
 田口でもまだ時間に余裕があり、近くの喫茶店で昼食。関係者が沢山入っていた。そうか、考古学にこんなにも関心を持たれているのか。
 13時前に会場入り。ざっと100座席はあるだろうか。それがほぼ満席に近い。横の壁には発掘作業の写真を展示、後には発見されたモノを展示してあった。私は(胞の埋め甕に使われたと見られる)素焼きの壺の発見以来関心を持ってきたので一度はのぞきたかった訳である。
 考古学の話は岩石の知識も必須で、かなり消化不良を起こして終わった。何分1万年前という時代の単位に驚く。素人には無理もない。黒曜石は諏訪地方に特産し、三河にも運ばれているから想像以上に流通していたのである。縄文人は想像以上に広範囲に移動していた。一宮市に多いのは650万年前の木曽川は東海湖(現在の鷲ヶ岳山麓まで湖)という湖で移動をストップしたのであろう。6000年前でも大垣市は湖だったらしい。

 しかし、設楽の山間部に縄文遺跡が発見されたという事実は地名を考える上で重要である。
 宇連山の別称ガンゾモチフデ山は最初は振草村誌から発見。振草村の廃村宇連が東栄町と設楽町に分かれた際設楽町になったので設楽町誌を見るとガンドゥとあった。ガンドもチエックすると北アのガンドウ尾根、冠山の福井県側のガンドウ尾根、奈良県の大峰山系のガンドウ尾が見つかった。岳人3月号に掲載された蔵王連峰の雁戸山のガイド記事はガンドと読み、ギザギザの頂稜の特徴を表現していた。
 縄文遺跡は愛知と福井の東に多いので地名にもつながりはある。
 さらに胞についても『埋甕』には主に東日本のデータで偏りがあった。それは当然の結果であったが、こうして愛知県の山間部から一宮市に至るまで縄文遺跡があると知れば、あの恵那山が単なるアマテラスへの信仰だけではないと想像する。
 胞を素焼きの甕に入れて埋めるということが縄文文化であると知った。アマテラスへの信仰が持統天皇以後のことと思えば、信仰にも重層性があるのだろう。
1 神坂峠には縄文遺跡がある。山頂に胞を埋設したという伝説。
2 役(えん)の行者などの修験道の時代があった。
3 アマテラスの胞とされた。
4 恵那神社は岐阜県側にしかない。血洗池、産湯を使った湯舟沢も岐阜県側にある。

東三河・風切山を歩く2019年01月27日

 冬型の気圧配置で西は大雪、東は快晴である。午後から新城市に用事があるので、午前中に登れる山を探すと風切山が見つかった。豊川ICを出てR151を走り、豊川左岸へ橋を渡ると吉祥山が聳える。昨年登ったので今度はその北にある風切山356mの山にした。どのルートも短いので浅間峠からにした。
 ところが現地を探ると峠へ行く道が分からない。地形図では地方道の印になっているが、最奥の民家の奥で未舗装になった。林道は狭く、Uターンが不安なので、北の登山口を探った。うろうろ走ると案内板があった。新城市老人福祉センターに行くとPに1台あった。センターは静かで誰もいないようだ。ここへ駐車。準備中に桜渕公園からという2人連れが来た。立岩観音の案内表示をおしえておいた。続いて、後を追った。
 センターの建物をぐるりと回り込むように登山道があった。フェンスはなくまたPからも来れた。展望台で先行者に追いついた。新城市街を俯瞰する良い場所だ。山道には石仏が3体から4体並び、短い間隔で続いて行く。
 そうか、信仰の山だったのか。 立岩お堂と八十八か所巡り。
http://www.net-plaza.org/KANKO/shinshiro/tera/tateiwa-kannon/densetsu.html
 によれば石仏は280体あるという。
 上から空身の犬を連れた老夫婦が下って来た。先程のクルマの人だった。そこからは追いつ追われつで登頂した。Pを10時に出発して45分だった。山頂は2等三角点が埋まる。先着のマウンテンバイクの2名が居た。展望は南東は高い樹林が覆い、北西面に限る。本宮山の他、遠く豊橋平野も見える。
 下山中にはクラブツーリズムのパーティ20名余りとばったり行き違いになった。全国各地の名山だけでなく、こんな超低山の企画もあるんだ。あっという間に立岩観音に着いた。

御杣山のルーツの神路山(うちの鼓ヶ岳)を訪ねて2019年01月10日

 神路山(かみじやま)は三重県伊勢市宇治にある山域で、伊勢神宮の内宮(皇大神宮)から南へ流れる、五十鈴川上流域の流域の総称である。

 東は五十鈴川支流の島路川流域の島路山と稜線を共有する。伊勢神宮の他の森林と合わせ、神宮林と呼ぶ。

 神路山は他の神宮林と同様に、古くは神宮式年遷宮に用いるヒノキを調達する御杣山(みそまやま)であったが、これらの森林のヒノキが枯渇したため御杣山は年代により変遷し、江戸時代から木曽と美濃が御杣山となっている。神宮では大正末期から神宮林で檜の植林を行なっているが、間伐材を除けば遷宮に使えるようになるのは2125年からと予定されている。(ウィキペディア)

 式年遷宮では、多くの祭典と行事が行われる。
遷宮の最初の行事「山口祭(やまぐちさい)」用材を切り出す御杣山の山口にある神を祭る儀式。
 現在、用材は木曽山中から切り出すが、この儀式は古来のまま内宮は神路山、外宮は高倉山と、いずれも境内背後の山で行われる。
以上

 ホームページ「やまとうた」からコピペ

 関東に住んでいる私が伊勢をお参りするときは、いつも新幹線を名古屋で降りて近鉄に乗り換える。近鉄特急はたちまち木曾川を渡って三重県に入り、すぐまた揖斐川の鉄橋を越えると、もうそこは伊勢平野である。それは伊勢湾に沿って弓なりに長く長く続く平野である。
 車窓は単調な眺めが続くが、大神宮が近づくと、ようやく青い山々が視界に入る。伊勢神宮の背後を取り巻く山々である。内宮(ないくう)南方の山々は、神路山と呼ばれ、古くから神宮の社殿の用材を伐り出す山として神聖視されてきた。

 奈良や京都から伊勢をめざし、伊賀の山地を越えた古人にとっても、広漠とした伊勢の野で最初に出逢う山がこの神路山であった。山々に囲まれて暮らしていた古京の人の目に、神路山の緑はさぞ懐かしく清々しく映ったに違いない。
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 治承四年、源平争乱のさなか、高野山を出た西行法師は伊勢に移り、二見浦の山中に庵を結んだ。すでに六十を越えていた法師であったが、この地で伊勢の神官荒木田満良らと親交をむすび、その詩想はいっそうの深みと清澄さを加えたように思われる。

深く入りて神路のおくを尋ぬればまた上もなき峰の松風(千載集)

神路山岩ねのつつじ咲きにけり子らが真袖の色に触りつつ(夫木)

神路山月さやかなる誓ひありて天が下をば照らすなりけり(新古今)

 西行を称賛し追慕してやまなかった二人の歌人、後鳥羽院と藤原定家には、上にあげた最後の歌に和したかのような詠がある。

ながめばや神路の山に雲消えて夕べの空を出でむ月かげ(後鳥羽院[新古今])

照らすらん神路の山の朝日かげあまつ雲居をのどかなれとは(定家)

 神路山の上から天下をあまねく照らすさやかな月の光を詠んだ西行の歌を受けて、定家は神路山を照らす朝日を歌い、雲上界―宮廷―の悠久平穏なることを祈ったのである。神路山は一名天照山(あまてるやま)とも呼ばれた。
引用以上

 神路山は御杣山の嚆矢であった。
 別名は天照山とも呼ばれた。神宮の御用材を切り尽くすと他の地域の山から伐り出すようになった。 御杣山の条件は伐採した木材を流送する谷川が必須である。
 ある時代は奥三河の設楽山という記録がある。設楽山は多分、段戸山(現在の鷹の巣山)周辺であろう。伐り出してすぐに寒狭川に落とし、やがて豊川河口から筏を組んで神宮まで運ばれたであろう。
 またある時代は美濃からも伐り出された。その時代はどこの山なのか、記録がない。推測すると、美濃の御杣山は多分、焼山であろう。伐採し、阿木川に落とし、木曽川で筏を組んで河口まで運んだと思われる。それからさらなる奥山の木曽へと開発が進んだ。そして阿木山の御杣がモデルになって、落合川の源流の湯舟沢に移ったと思われる。
 木曽の御杣山の最初は湯舟沢山で、現在の中央道・恵那山トンネルの上の一帯である。湯舟沢も条件に適う。源流は温川(ぬるまがわ)と冷川と言う。温川は信濃と美濃の国境になっている。恵那山の山頂とは微妙に違う。阿木川よりも流程が短くて搬送が楽だったと思われる。つまり、急流である程度水量があることが合理的な条件を満たす。伐採すると落合川に落とし、筏を組んで木曽川で運び、河口から伊勢湾を筏で流し、神宮へと搬送された。

 恵那山に湧く中津川はなぜか、伝説も無い。神域であろうか。伝説は中津川を挟んでいる。即ち、阿木周辺のアマテラスの誕生の際に胞を洗った血洗池の伝説、湯舟沢はアマテラスが産湯を使った伝説だ。
 誰が伝えたのか。神宮の御師(おんし)か。御師は江戸時代はアマテラス信仰即ち、私ども日本人とは何者か、その皇祖神をお祭りしていると普及に歩いた。そしてお陰参りを広めた。或いは木地師だったか。菊の御紋とご綸旨をタテに山林の自由な伐採の権原(けんげん又はけんばら)とした。或いは山岳信仰の山伏か。恵那山への前宮登山道には役の行者(えんのぎょうじゃ)の石仏があったからその信者か。
 今となっては伝説の彼方に隠れて真実は不明である。

新年は浅間山と高社山へ登山2019年01月03日

 平成31年1月2日には高社山へ登ろうと、呼びかけたら2人が手を挙げてくれた。高社山と浅間山はともに多治見市の山である。交通の経路上、瀬戸市のKさん宅に寄り、刈谷市のYさんには愛環鉄道の瀬戸口駅に来てもらった。予定通りメンバーが揃った。
 高社山を選定するに当たっては山頂のすべてが多治見市内にある山としては最高峰であることと、山麓の町名が西山町というのも嬉しい。自分の持ち山ではないが悪い気はしない。また浅間山は可児市の最高峰、美濃富士であることだった。
 まづは浅間山を目指した。R248からR19へ、そして県道381号を走ると道なりに小名田町小滝に着く。ここで不動の滝の案内標柱があるので右折。少し奥へと行くと雑木林の中にフランス料理などのレストランがある。もちろん今日は休業中。
 ここでP。滝への道標すらない。しかし目標は不動明王の滝だから、建物群を左右に見ながら、行き詰まりで沢の流れに沿うことになる。8分も細い流れをさかのぼると滝があった。滝見台もあるが使われていない様子だ。
 山道は少し戻ると右岸側に巻く道が付いていた。余り踏まれていないが、ヤブではない。踏み跡を追いながら行くと一旦は沢に下りて、又離れる。左からの道に合した。これが地形図の破線路と思われる。少し行くと尾根に取り付く地点にテープのマーキングがあった。ここからは明るいが急な尾根道になった。日溜まりに寒さも和らぎ、汗をかかないように1枚脱いで調整した。
 何と言っても里山である。比高80mで稜線に出た。右は378mの2等三角点だが今日はカット。左折する。ちょっと歩くと岩山があり眺めが良い。山道から林道に出た。ほぼ稜線に平行する林道を歩く。ここで数人の家族連れに出会う。
 林道から左の山道に入ると木のベンチもあるがすぐに林道に下ってしまう。林道から分かれて行くと浅間山372mのミニプレートのある山頂だった。岩頭がありテーブルもあるのでランチにはいい。日溜まりの山頂からは眼下の桜ヶ丘の団地や遠くの春日井三山の山なみが見えた。
 子授け、子育ての信仰を集める浅間神社に参拝し往復した。正月と言うのに宮司の1人もいないが、何となく清められた雰囲気はある。淑気というものだろう。
 それから林道へショートカットする細道を下った。林道を歩くとかえって眺めがよくなり伊吹山も見えた。冬型なので奥美濃までは見えない。一の注連を見た。
 林道のゲート代わりの鳥居が建っている。ここが参道のクルマの終点で登山口らしい。軽四の四駆なら走れるだろう。
 下ってゆくと太陽光電のパネルがあった。左の沢を下って住宅団地へショートカットを試みたが電気柵で遮られていた。ささやかな冒険は失敗。参道を下ると住宅団地に出た。そのまま下るとマイカーに戻れないので左折。
 小滝団地内の山際を歩いた。すると新しい給水塔に着いた。団地の道路はつながっていないが、陶生苑から延長された車道が来ていた。目の前のコブの向こう側に不動滝があるので、ショートカットする山道がないか見たが見いだせなかった。更に陶生苑の近くから車道が下っていたので下って見たが堰堤で終わった。これも失敗。諦めて県道に出て迂回しPに戻った。
 まだ12時半、次の高社山へ向かう。根本町へ走った。ここも地道が錯綜して分かりにくい。とにかく山際に向って近づいた。割に良い道があるので流して見ると高社山登山口のミニ道標があった。ここか。
 道路から空き地に駐車。参道を登る。結構な急傾斜だ。2登目なので疲れもあるせいで後続も遅れがちになる。右は高社神社、左は山頂へとの分岐で左へ振る。良い道を歩いてゆくと空身の男性が下りてきた。何も言わずにすれ違う。
 俳人の山口誓子は御在所岳での所見をこう詠んだ。

   唯一人冬山を下りて来る人に会ふ 誓子
   
 ほとんど情緒の感じられない句である。即物的といわれる誓子の世界がある。冬は誰しも?寡黙になる。
 しばらくで右から来る道に合う。更に急登するとFMたじみの電波塔だ。すぐに反射板の建つ開放的な台地になる。山頂へはまだある。一旦は下って、左は山里へ下る道、山頂へは右へ登り返す。すると愛宕神社の小さな祠があった。
 地形図では高社山は台形ながら2つの山から成る。ここが山頂か、と思うが三角点はないので西進するとやっと保護石に囲まれた三角点のある山頂だった。展望はない。写真だけ撮って、反射板のある台地に戻った。
 ここからは恵那山が見えた。目を凝らすと東濃の山越しに茶臼山、段戸山等が見えた。南には春日井三山とその向こうには光る海が見えた。何より、多治見市を俯瞰できた。意外にも多くの高層ビルが立ち並ぶ。東濃の中核都市のシンボルだ。
 中央道をクルマがひっきりなしに流れている。中央線、R19号、中山道、まさに大動脈のごとく。2027年にはこのどこかの地下をリニア中央新幹線が開通する。東海道新幹線のバイパスとして建設中である。
 展望を欲しいままに楽しんで下山した。