若狭駒ヶ岳の山旅余情2020年11月26日

 若狭駒の余情を楽しんでいる。筋肉痛が時間の経過でほぐれていくのと反対に、山旅の余韻は終わった後から後から湧いてくる。
 この山の紹介文の書誌学考察
A 昭和45(1970)年 伏木貞三『近江の山々』 (白川書院)

B 昭和47(1972)年 伏木貞三『近江の峠』(白川書院)

C 昭和59(1984)年 草川啓三『近江の山』(京都山の会出版局)

D 平成4(1992)年  山本武人『近江朽木の山』(ナカニシヤ出版)

F 平成11(1999)年 近江百山之会編著『近江百山』(ナカニシヤ出版)

G 令和2(2020)年 竹内康之「山と渓谷」誌11月号202Pのガイド記事

  駒ヶ岳の由来は

 Aは蔵書になく、検索で目次がヒットしたので見ると項目がない。

 Bには木地山から若狭へ越える峠道は3つあったと紹介し、木地山峠の項目を重点的に解説。駒ヶ岳については記載がなく、駒ヶ越と河内越の2本を簡単に紹介。下る予定だった尾根道は昔は池河内(木地山の真北)へ越えた峠道だったのだろう。河内越が2か所もあるので一方を駒ヶ越にしたのか。

 Cの本は駒の連想から駒ヶ岳由来を説く。したがって馬も通れる道だったと想像する。しかし、馬を通らせるにはS字形の道が必須であり、重量が重いから痕跡は残るだろう。奥三河の山間部の街道跡には残っている。(寺山)書きで寺山としてある。著者は若狭側から藪漕ぎで登っている。様子は今と大違いである。当時でも森林公園からの切り開きはあった。

 Dは写真のリアルさが際立つ良書。ここでは登山ルートとして上中町へ越えた河内越を紹介する。尚、若狭町は小浜市とばかり思っていたが、「2005年(平成17年)3月31日 - 三方郡三方町・遠敷郡上中町が合併し、三方上中郡の自治体として発足。」とあるので独立した自治体である。
 五万図熊川に残る破線路をトレースしているが藪漕ぎである。
麻生谷にかかる橋を渡るのは今も同じだが、杉は植えて20年くらいの若杉であり風景が違う。略図を見ると焼尾谷の対岸の道標にあった「ろくろ橋」は麻生川にかかる橋で昔はそこに登山口の道標もあったと思われる。
 ブナの疎林の落葉を踏みしめて歩いたが、写真で見ると当時は背の低い笹が茂っている。ブナも若く、日光が差し込んでいたのだろう。ここでも由来に触れているが、不明。
 寺山は若狭側の地名。ちなみに三角点の点名は寺山。木地山では河内越が正しい。駒ヶ岳山頂の写真は下は笹に覆われ、灌木が茂り、展望は皆無だろう。三角点は今は盛土の上に埋まるが当時は平地に埋まっていたと思われる。周囲の土砂が削られたのだろうか。Cでも三角点の周囲だけは同じである。

 Fでも由来に触れるが不明とする。ブナ林は千古斧鉞の森ではなく、炭焼きの際に切り残したという。つまり、ブナは良い炭にならず、意図的にブナを残して択伐していたのだ。
 確かに、ブナの文字は山毛欅、橅、椈、桕、橿と多い。2番目は国字ですが、木では無い、と有用な樹種ではなかった意味が込められている。水分が多いので曲がりやすく建築材にはならず、戦後はパルプ材になった。
 すると植林と同じ原理で間引き(間伐)することによって残ったブナは成長し易くなる。ブナは一番背が高くなるので成長とともに周囲の木や笹も発芽できず、ブナの純林になるのだろう。それを知らずに見て「ブナ林は良いなあ」と感動しているのである。
 今の登山口の近くにあるろくろ橋も昔は少し下流の分校跡から入山したらしいが、草深くなって今のところに移動した。するとあの道標は朽ちてもおらず、新しいように見えたが20年以上は経ったのか。
 結局駒ヶ岳の由来はどの本も言及されず、不明でした。それどころか、山名などなかったし、駒ヶ岳なんて初めて聞くと地元の人の話を紹介している。

 以下は駒ヶ岳異聞というか小説である。
 金達寿『日本の中の朝鮮文化』(講談社文庫)シリーズの長野県か山梨県辺りのどこかに駒ヶ岳は高麗ヶ岳という説を紹介している。いつの時代か、渡来人が大挙して日本に来たのだろう。ウィキペディアには「10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだが、1259年に高宗の時代に複数に渡る元の侵略で降伏・皇帝号喪失で元の属国になった。」とあるから乱世を逃れて日本に来たのかも知れない。
 確かに山梨県には北巨摩郡があり、甲斐駒がある。埼玉県には高麗神社がある。高麗の地名は意外に多い。但し、全国の駒ヶ岳の場所からのイメージでは一つにくくれない。北海道の駒は説明できないからだ。朝鮮人作家ならではの視点ではある。
 私の連想では、若狭には熊川宿(くまがわ)があり、韓国の釜山には熊川(ウンチョン)がある。百里ヶ岳は韓国の釜山とは500kmの距離にある。江戸時代の蕪村の俳句に「方百里」という言葉があるが、多分中国由来だろう。今の日本の換算では1里は約4kmなので400kmになる。実際は500kmもあるが誤差の範囲に入れても良い。
 昔の戦乱や乱世を嫌った職能集団は渡来人として対馬海流に任せて若狭湾にたどり着き、山越えで近江に流れ込んだ。
 他方で敦賀湾からも渡来人が流入してきた。敦賀はおつむの意味という。仏教徒や文人も来たのだろう。湖東にも朝鮮文化がある。
 演歌歌手の前田卓司の「小浜旅情」の歌詞には「御食国」の語彙があるが、皇室などへ海産物などを貢いでいた地域という。そういうルーツを持つ人々が遠い朝鮮半島の故郷を思い命名したのか。
 日本語の文字が発明され、普及するのは平安時代以降になる。和紙の普及も一般人には手に入らないから書き残すことはできず、口伝のみでは伝承できなかったのだろう。