令和2年度蓬左文庫講演会「名古屋城下町の町名のうつりかわり」を聞く2020年11月27日

日時:令和2年11月26日(木曜日)午後1時30分から3時

会場:徳川園ガーデンホール

講師:種田祐司氏(名古屋城調査研究センター 名古屋城調査研究員)

 この講演会で、江戸時代から明治維新までの名古屋城下町に、タイムスリップしてみる
のはいかがでしょうか!           主催:名古屋市蓬左文庫

 江戸時代初め、名古屋の城下町がつくられました。なんと、清須から町名ごと町人が引っ越してきたのです。その後、城下町は四方に拡大し、新しい町名が次々と誕生していきました。とりわけ、明治維新で町の名称や制度も大きく変わりました。今回は「名古屋城下町の町名のうつりかわり」をご案内します。あわせて、町人の暮らしにも触れていきます。

・・・というテーマで種田氏の話を拝聴しました。徳川園は27歳で名古屋に来て入園は初めて?と思う。しかし、40歳で短歌と俳句をやり始めた際、短歌会「武都紀」の創始者の浅野利郷の歌碑があるというので見に行った記憶が微かにある。見るためには入園する必要があるので40歳代に来たということになろうか。
 開演までに寸暇があったので庭園を少し散策。つわぶきの花、四季桜?も咲いていた。その後会場入り。検温、マスク着用チエック、スマホで入場証提示して着席。密にならない配慮がなされ少な目の入場者数であった。
 開演は女性の蓬左文庫長から告げられて、コロナ禍の第三波到来の恐れで一時開催を危うんだとあいさつされた。講師の種田氏は元市職員で、街づくり行政の専門家だったのだろう。清須越以来の市域、町名の変遷を説かれた。地名の保存にはこだわりはないといわれたのは意外だった。一人保存を叫んでも維持されるわけではなく、そこに住む人の愛着が必要という。ごもっともなことである。
 個人的には名古屋市は旧称は尾張国でありながら三河国との合併で愛知県と命名された。これは鮎千潟に由来するとのこと。名古屋市南部にあった干潟で万葉集に謳われた。
 しかしそれでも市名は愛知市とはならず、名古屋市になり、県名も名古屋県ともならなかった。名古屋城があるせいか、名古屋人にはとても愛着が強い。以前は弁護士会も一般的には県名を付けるが、名古屋弁護士会を名乗っていたほどである。ちょっと名古屋弁護士会でググると愛知県弁護士会がヒットする。
沿革
1893(明治26)年 - 弁護士法が制定され、名古屋弁護士会が設立される。
1977(昭和52)年 - 元会長・本山亨が最高裁判所裁判官に任命される。
2005(平成17)年 - 愛知県弁護士会に改称。
 とまだ最近のことである。事程左様に名古屋への愛着が強い土地柄である。
 日本で一番最後になった帝大の名古屋帝国大学は昭和14年の設立だが、やはり県名を名乗らず、名古屋になったのも当然のことだろう。他県では青森県の国立大学は弘前大学で、青森大学は私立だ。
 今日の話の本質は住民の地域への愛着が地名を末永く定着させることであろう。
 私も尾張藩御用達の名古屋商人の末裔という伊藤孝一(日本で初めて冬の黒部源流の山々を映画に収めた人)の評伝を書くために調べた。尾張商人では22万件余り、名古屋商人では180万件がヒット。林董一氏の名古屋商人史にも名前があり架空の人物ではないと知った次第。名古屋城への愛着が名古屋の地名を不動のものにしている。但し細目に至っては変遷著しいものがあるなと感じた話でした。