株式市場がトラブルで取引停止2020年10月01日

 過去にも取引中にトラブルはあったが、特に問題なく再開された記憶である。今日のは1日中市場が閉鎖されたままになった。原因を追究し、再発防止に努めていただきたい。言わなくとも分かっているだろうが。
 しかし、今日、売買の注文を出していたトレーダーには多大な影響があったはずである。成り行き買い、成り行き売りの人はどうしようもなかった。何らかの予定があったら、次々と波及してゆくだろう。
 株式市場は実態経済の半年先を読むそうだから、明日以降の状況がどうなるか。誰しもが固唾をのんで見守っている。

株式市場はすぐ復帰2020年10月02日

 すぐの復帰は困難と思われたが朝から正常に取引が行われた。前日比がゼロなので違和感があった。また10/2の朝刊の株式欄も取引はすべてゼロ。当然とはいえ、違和感があった。こんな事故はゼロにしてもらいたい。
 こんな時代でも経団連企業はこぞって中国へ進出する。10/1は中華人民共和国の建国記念日なので、アメリカとの摩擦が無ければ、日本企業は祝意を表明していたであろう。
 しかし、トランプ大統領と中国は現在確執中であるからサーバーへのサイバー攻撃で親中派企業への嫌がらせか、と妄想してみた。実際アメリカは上皇陛下の誕生日(1933.12.23)にA級戦犯7人の死刑執行日は1948.12.23にした。嫌がらせである。
 他にもあるある。事実が分かってもアメリカの手前で発表できないのだろう。ミラーコンピューターへの切り替えが自動でも行われなかったというのも不自然である。

洗濯日和2020年10月03日

 蒸しっとした日。明日は雨らしいので朝から洗濯することにした。まだ寝汗の多い時期なのでシーツ、布団カバーも洗った。この2枚は物干し場の半分を占めるので下着類が少ない時が良い。
 夕方は買い置きしてあったまつたけごはんにした。具が少なめなので鶏肉を少し追加した。炊き上がるとふわっとマツタケのにおいが広がった。コメが2年前の古米なのでちょっと味が落ちる。早く食べきって新米を買おう。
 終日貯書を読み漁った。これというテーマはないが、思いつく限りの本を読んだ。

伊藤哲夫著『五箇条の御誓文の真実』(致知出版社)を読む2020年10月04日

 伊藤哲夫著『五箇条の御誓文の真実』(致知出版社)を読む。中々頭には入らず。最後の章のみ理解進む。即ち、明治憲法制定の前に五箇条の御誓文があり、これが日本民主主義の嚆矢(始まり)とは言う。戦後、日本国憲法の詔に挿入されたいきさつがあった。
以下は転載

産経新聞の記事から
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/01252/contents/405.htm
「【教科書が教えない歴史】(218)日本国憲法(2)
 
 現行の日本国憲法が公布される以前の一九四六年(昭和二十一年)一月一日、新しい日本の根本的なあり方を指し示す重大な詔書が昭和天皇によって発表されたことを知っていますか。「新日本建設に関する詔書」と呼ばれるものですが、意外に知らない人が多いようです。
 それはこの詔書が、天皇と国民との間の紐帯(ちゅうたい)が、天皇を「現御神」とするような架空の観念に基づくものではない-とするなど、天皇の神格否定のように見られることから、マスコミあげて「天皇の人間宣言」と名付けられてしまい、いつの間にか実体から程遠い虚像がつくられてきたからです。一度この詔書の全文を読んでみれば単なる「人間宣言」ではないことがわかるはずです。
 では、この詔書の一番大切な点は何だったのでしょうか。それは詔書の冒頭に「五箇条の御誓文(ごせいもん)」が掲げられたところにあるのです。一八六八年(明治元年)に、祖父明治天皇が近代日本の国づくりの根本方針として定められた御誓文を、これからの新日本建設のための拠り所として示すことによって国民の士気を鼓舞(こぶ)しようとするものだったのです。そのことは、この詔書が成立するいきさつを知れば納得することでしょう。
 昭和二十年十二月初旬、連合国軍総司令部(GHQ)に所属する民間情報教育局(CIE)が、「軍国主義」などの考え方を一掃するという名目で、天皇みずからその神格性を否定する詔(みことのり)を天下に発布できないものかと思いついたのが発端でした。
 さっそく、CIE側で原案を作成、ひそかに日本側に届けました。ところが、昭和天皇は原案をそのまま了承せず、言下に「五箇条の御誓文」を冒頭に加えるよう強く指示されたのです。これを受けて、日本側ではCIEの原案になかった部分も付加して新たに原案を作り直し、さらに幣原(しではら)喜重郎首相みずから英文に訳してGHQの承認をえることになりました。
 詔書の冒頭には「五箇条の御誓文」に続いて「叡旨(えいし)(天子=ここでは明治天皇=のお考え)公明正大、又何をか加へん。朕(ちん)(私)は茲(ここ)に誓を新にして国運を開かんと欲す」という決意が述べられていますが、御誓文の精神に立ち戻って国の再建に臨もうとした天皇のご心情がはっきりうかがわれます。
 実は以上のいきさつに関しては、昭和五十二年八月二十三日の記者会見の席上で昭和天皇ご自身が明らかにされています。
 「それ(御誓文を入れること)が実はあの時の詔勅の一番の目的なんです。神格とかそういうことは二の問題であった。・・・民主主義を採用したのは、明治天皇の思し召しである。しかも神に誓われた。そうして『五箇条の御誓文』を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあった」
 このご発言からも明らかなように、この詔書は「天皇の人間宣言」というよりも、むしろ「五箇条の御誓文」を拠り所とした「天皇の戦後復興宣言」とでも呼ばれるべきものです。
 しかも、日本の「民主化」をめざす当のマッカーサー自身が「五箇条の御誓文」に関して「こんな結構なものがあるならと賛成した」(木下道雄『側近日誌』)というのですから、国際的にも通用する国づくりの原理にほかならないことを連合国軍最高司令官みずから裏付けたも同然のことでした。
 そして、何よりこの詔書が日本国憲法公布の十カ月も前に出されたことを考えれば、新憲法制定以前にすでに新日本の礎(いしずえ)は定められていたと見ることができるのです。(福岡県立筑紫高校教諭 占部賢志=自由主義史観研究会会員)」

 つまり、日本国憲法はGHQのメンバーが作ったものと言われ、戦後になって初めて民主主義が日本に根付いたかの宣伝がなされてきたが、実は以上に引用したごとく、五箇条の御誓文を嚆矢としてあったのだから欧米から輸入したんではないよという昭和天皇の知恵だったのです。

俳句の鑑賞文を寄稿2020年10月05日

 所属結社の連載モノの執筆を終えた。季語は山の日、テーマは故里、白壁についてである。特に白壁が気になったので採ってみた。
 名古屋市東区の白壁町は余りにも有名で高級住宅街にもなっている。かつての武家屋敷の塀が白壁だから清潔感がただよう。
 検索すると岡山県倉敷市の町人屋敷の白壁も建築文化として保存される。観光にも一役買っているようである。
 さて、作者の故郷は名古屋市か倉敷市か。富山県の人だから名古屋市が濃厚である。石原裕次郎の「白い街」の2番にも白壁町が歌いこまれている。反応はいかに。

ヒレア・ベロック (著), 渡部昇一 (監修), 中山理 (翻訳)『ユダヤ人 なぜ、摩擦が生まれるのか』届く2020年10月06日

 アマゾンのコピー文転載
「日本ではほとんど知られていないが、ロシア革命はユダヤ革命といってもいい革命で、少なくとも当時の西欧では、そのように受け止められていた。レーニンの母親がユダヤ人、トロッキーも、革命に参加したボルシェビキの大多数もユダヤ人で、その多くはアメリカから駆けつけた人たちだった。
 しかもロマノフ王朝の人々を殺して、その財産をオークションにかけ、大もうけしたのもユダヤ人であり、第一次世界大戦で、対立する両陣営に武器を売って大もうけしていたのもユダヤ人だった。 こうした時期に書かれた本書がユダヤ人の脅威を訴え、著者の意に反して後世「反ユダヤの書」と呼ばれているのは確かだが、著者の意図は、この放っておけば危険なユダヤ問題に適正に対処するためには、どうしたらいいかを考察することにあった。
 古来、ユダヤ人と非ユダヤ人との接触の歴史は、「移住→初めは親和→違和感→反目・憎悪→迫害・追放→移住」のサイクルを、時代と土地を変えて延々と繰り返してきた。
 著者はこれまでの摩擦の原因、その問題点と解決法を、ユダヤ人の立場と非ユダヤ人の立場で考察する。 特にイギリスでは、長年、ユダヤ人問題は存在しないという立場を取ってきたが、著者はそのような「偽善的自由主義」は早晩行き詰ると警告し、非ユダヤ人の側は、ユダヤ問題が存在するという事実を直視し、ユダヤ人をほかの黒人やシナ人と同じように扱うことの必要性を説く。
 またユダヤ人に対しては、秘密の護持、選民意識・優越感の表明をやめるよう訴える。 さもないと、ユダヤ問題は近いうちに、もっとも悲惨な結末を迎えるであろうと、20年後のホロコーストを予言するような発言もしている。 当時の西欧では、ユダヤ人の金融支配、マスコミ支配が公然の秘密となっており、反発が限界近くに達していた。
 このような状況は、実は100年近くたった今も、まったく変わっていない。100年前のベロックの問いかけと警告は、現代でもそのままそっくり通用するものである。」
 ・・・在日韓国人問題は考察すると、ユダヤ人問題のコピーかと思うほど同じ経緯をなぞっているように思っていた。「ユダヤ人の中略、マスコミ支配が公然の秘密」の部分は教えられたわけではないだろうが、そっくり同じである。大きな違いはカネがないこと。しかし暴力の手段に訴えてでも目的を達成する点では同じである。これでは世界から嫌われるだろう。ユダヤ人は発券銀行を支配して国に国債を発行させてカネを貸す仕組みを作り、利息で儲けて来た。そのためには最大の無駄遣いである戦争をそそのかすのである。マッチポンプかと思う。一方で韓国はそんな悪知恵はない。国家の中枢に入り込んで公金を吸収するくらいだろう。アイトリ、日本学術会議などにこっそり入り込んできた。ユダヤ人は人口1600万人しかいないし、韓国は5000万人、北は2555万人。合計7500万人。フランスの人口6699万人よりも多い。経済大国の資格は充分あるが、金融に弱点がある。国民をまとめる政治力が発達すると侮れない国になる。しかし未だに分裂国家だし、公の考えに乏しく、儒教の支配する国なのである。ユダヤ教も儒教も序列を重んじる。これでは付加価値を積み上げて豊かな国になった日本には及ばない。

TSS例会2020年10月07日

 例会は午後7時から始まる。その前に会報の作成があった。今夜は14名が集結したが山行が出てこない。そんな中で若いM君が来場してくれた。というわけで小秀山をやることにした。しかし、台風が来るとまたおじゃんか。以前も大雨で、県道が崩壊し計画が流れた。雨にたたられる計画である。しかし、久々に出て来た会員から来年は東北の鳥海山をやろうと話が決まった。3名いた。2泊3日。正月早々から鍛錬していかねばなるまい。目標ができると体づくりもへこたれない。

柳川喜郎『襲われて 産廃の闇、自治の光』(岩波書店 )を返却2020年10月08日

 午前中、久々に給油したら、軽油106円に下がっているので驚く。連休がおわったからか。午後の面談に備えて早めに出発。目指すは関市。零細企業の経理のコンサルティングである。終わると遅い昼飯にとうなぎやを物色したが午後5時から再開とのことで諦める。
 事務所に戻る前に表記の本を愛知県図書館の返却ポストに投函。今日は休館日だったか。事務所まで徒歩で行く。少し疲れたので休む。登記を依頼した司法書士さんから電話で残余財産の発掘が進んでいるとの報告があった。地方の錯綜した土地は処理が難しい。
 ネットを見ると、大村知事リコール署名活動はどうやら100万人に行く手ごたえを感じたらしい。ナウ。

杉浦明平『ノリソダ騒動記』2020年10月09日

 田原市博物館では、2001年に亡くなった郷土を愛した小説家、杉浦明平の回顧展を開催します。

本人写真:1997年「書斎にて」、1929年「書斎にて」
 杉浦明平は、1913年(大正2年)6月9日、愛知県渥美郡福江町(現田原市折立町)に生まれた。旧制豊橋中学を経て第一高等学校に入学、「アララギ」に入会し、土屋文明に師事。東京帝国大学国文学科に進み、立原道造や寺田透らと同人誌などを創刊し、交流した。
 大学卒業後、イタリア・ルネサンス研究のため、イタリア語を習得、翻訳・編集の仕事に携わった。
 第二次世界大戦中、郷里に戻り、共産党に籍を置き、渥美町議会議員を2期務めた。その間の見聞を元に、海苔養殖業者の利権争いを『ノリソダ騒動記』というルポルタージュで発表、その後も共産党員の活動記録『基地六〇五号』、映画化もされた『台風十三号始末記』『夜逃げ町長』などの新スタイルの記録文学が評判になり、注目を集めた。
 1962年(昭和37年)に新日本文学会内部の対立で共産党から離れた後は、畑仕事にいそしみながら、郷土の渡辺崋山をはじめとした江戸時代の文人を取り上げた小説や評論、食べ物エッセイ、翻訳などの多分野で活躍した。『朝日ジャーナル』に連載した『小説渡辺崋山』で1971年に毎日出版文化賞、1977年に中日文化賞、1995年に『ミケランジェロの手紙』の翻訳で日本翻訳出版文化賞の特別功労賞を受賞した。

 火力発電所増設反対問題を契機に、1981年からは、地元の友人たちと読書会をし、地元の同人誌への寄稿も行なっている。1989年には、1カ月に1万ページの読書をしたことで集まった蔵書の一部を渥美町図書館へ寄贈した。杉浦が亡くなり、9年を過ぎ、来年3月で10年を迎える今、現在残された手紙や原稿、発刊された本などを通し、文学・評論・エッセイなどで、人間社会を見極めた「みんぺーさん」を回顧する機会としたいと思います。


アマゾンの説明 
 ノリソダとは海苔の着生する粗朶のことであり、渥美地方の漁業権をめぐって、地方ボスの支配する腐敗、不正を日本共産党の地区細胞が暴露し、果敢にたたかう。その一部始終を一種の記録として作品化したものが本書で、我が国ルポルタージュ文学の先駆的作品。地方色豊かな登場人物をユーモラスに描き、日本の地方居住者のいまも変わぬ保守性、狡猾さなどの心性をも典型化し得ている。

レビュー
「読書メーター」から転載
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「愛知,渥美半島は福江湾における,海苔の種付け利権をめぐる闘争史.地元のボス連に,共産党の細胞が立ち向かう社会派ルポルタージュ小説.と一面それは真実なのだけれど,著者の奇跡的とも言える軽妙飄々たる筆致によって,何よりもまず頗る面白い読み物として成立しているところに特色がある.ボスの一人釜之助なんぞは,組合の金を使って誰彼の隔てなく飲みに連れて行くもんで,「言われてる程悪い人じゃない」と呑まれてしまう人が多かったり.共産党細胞も郷里で活動してるもんで「太平のせがれ」と呼ばわれたり.田舎のリアリティが凄くある。」

ハチアカデミー
「ノリソダとは、海苔を付着させるための粗朶(木の枝)である。その棒と海苔の養殖を巡る、村の権力者と漁師たちの闘争の記録。社会派ルポルタージュではあるのだが、本書の魅力は何といっても人物描写。出鱈目な理屈で金をせしめる地方ボス「釜さ」を始め、敵も味方もどこかコミカル。養殖とはいえ、仕込んだ海苔が全て育つ訳ではなく、波に流されてしまう事も多い。それはどこか運任せで神頼みの生業なのだ。だからこそ彼らは思い通りに行かない不条理な日常の中でもどこかのーてんき。シリアスな状況の中の笑いこそ、本書の一番の魅力である。」

ねぎとろ
「ユーモアを交えた文体で楽しめる。私が言うまでもないが傑作ルポである。 しかし暗澹とした気持にもなる本。これは昭和20年代の話にもかかわらず、解説にもあるようにまったく今、現在の話として受け取れてしまうからだ。 自分のみの利にさとく、権力に極めて弱い地域ボス、ボスの下にうごめくお調子者たち、一時の団結で熱が冷める人民、都市部であろうと地方であろうと、我々の周りに幾らでもいる人々の原形がここにある。検察や警察もその構造自体は今と変わらない。我々の民主主義はこの60年間何をしていたのか、と思わされる。」

恵贈 山元誠句集『春星』(言叢社)2020年10月10日

 台風が反れてくれたおかげで午後から雨が止んだ。部屋に閉じこもっているばかりではいけないので買い物に出かけた。まずはホームセンターでロッカータンスのパイプの支持金具を探した。10月にもなると気温も20℃前後になり肌寒い。それで長袖の服を出そうとロッカーを開いたらパイプの支持具が壊れて衣服が落ちていた。支持具はパイプ受けまたはソケットというらしい。それがプラスチックだったので経年変化と重さでちぎれていた。
 アマゾンにもあるが実物を持って行って直径をノギスを借りて計測してから買った。もう1本ステンレスのセットを購入。これまではフックに掛けていたが多いので1m幅のパイプを付けて洋服などを架けることにした。二つともネジを巻くだけで一汗かいた。
 さて、出かける際にポストボックスに投函されていた書籍小包は近くの喫茶店「コメダ」で開封した。すると立派な句集が出て来た。著者は山元誠氏で、出身は富山市、今は前橋市在住の俳人である。辛夷社所属。これは第二句集になる。立山山麓に生まれて雪の中で育った人だから山岳俳句が多い。近年では海外詠もある。何しろ、実家では父親が前田普羅と交わっていたのである。純粋の辛夷人と言っても良い。明日から徒然に一日一句を鑑賞していきたい。

 以前に書いた「辛夷」に連載のコラム「好句考」の鑑賞文を思い出したので再掲しておこう。

   遥かなるマカルー・ローツェ初日射す    山元 誠

 特別作品「カンチェンジュンガ」の群作の一句。作者はこの年末年始をインドのダージリンに旅した。ネパールとブータンの間に位置する北インドの町である。時々飲むダージリンティーの香りがするような異国情緒を満喫させた作品群であった。
 深田久弥『ヒマラヤ登攀史』によると、カンチェンジュンガが古くから有名になったのは人間の住む所から一番近くに聳えていたからという。直線距離にして50kmほどというから呉羽山から立山間にほぼ等しい。
 インドの暑熱に倦んだ人達は保養にやってきて、未明のタイガー・ヒルに登り、空高くバラ色に輝く荘厳なカンチェンジュンガの威容に接する、という。2590mから神々の座を仰ぐように眺める。まして初日出であるから作者の感動たるや筆舌に尽くし難い体験であった。
 掲句には筆者の所属する日本山岳会東海支部に縁のある山々が詠まれている。70年にマカルー東南稜から初登攀。06年に田辺治らがローツェ南壁の冬季初登攀を果たす。田辺はヒマラヤに通う理由をただ美しいから、と答え、今はダウラギリの雪の中に眠る。山は訳もなく美しいのだ。  2016.5.3 2016年5月号「辛夷」から